老眼と自己決定 (31) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 7
今回も、ナチス体制下の「エホバの証人」についての話題である。
1933年のナチスの政権掌握後、様々な形で示された「エホバの証人」信者のナチス体制への非同調的態度が、彼らにもたらした社会的苦難については既にご紹介した通りである。ナチス国家による信者への公的な「迫害」行為であったと考えるべきだろう。
1935年に至り、ドイツの再軍備に伴う一般徴兵制の復活に際し、「エホバの証人」は「徴兵拒否」で応じた。その結果、「しだいに多くのものが刑務所や強制収容所へ拘留されることになった」(シビル・ミルトン)わけである。
徴兵拒否により、「エホバの証人」は、それまでの雇用機会の剥奪や社会的福祉からの除外といったドイツ社会内からの間接的排除とでも言うべき段階から、刑務所や強制収容所への拘留という、国民社会からの直接的な排除という段階へと進んだナチス体制の対応に直面することになったわけだ。「迫害」の新たな段階と言うことが出来るだろう。
強制収容所内での「エホバの証人」の姿について、高橋三郎が、
「エホバの証人」ともよばれるこのグループは、エホバにたいする信仰から兵役を拒否して、ナチスが政権を獲得した直後から弾圧されていた。しかし、強制収容所の内部ではやや特異な地位を占めていた。彼らは信仰の放棄書に署名さえすれば、いつでも完全に自由の身になることができたのである。また、すすんで勤勉に仕事を果たしたから、SSからもある種の敬意をうけ、比較的楽な仕事やSS隊員の家事に使われた。だが他方、SSは、ドイツ人でありながらかたくなな信仰の故にナチス・ドイツに協調しようとしない「紫」に強い憎しみを抱くことがあった。
…と書いていたことは既に紹介したが、今回はシビル・ミルトンの記述により、より詳細な状況を把握しておきたい。
ミルトンによれば、
証人たちはダッハウで隔離され、特別な懲罰隊に編成され、ダッハウのほか、マウトハウゼン、ザクセンブルク、そしてザクセンハウゼンで強制労働に割り当てられた。フロッセンブルクでは火葬場で働く仕事が割り当てられた。エスターヴェーゲンでは便所清掃の仕事が割り当てられた。証人たちはしばしば日曜労働を要求された。それは彼らの宗教的な信念を侵害するものだった。モーリンゲン、リヒテンブルク、そしてラーヴェンスブリュックの女性収容所に拘留された証人たちは強制労働に服し、栄養不良、さらし刑、体罰、そして隔離の刑にさらされた。彼らの「どんな他の集団にも見られないような反対と殉教の非妥協的精神」は、1930年代に亡命社会主義者によって配布された『ドイツ報告』の報告でとりわけ注目された。1938年10月、リヒテンブルクについてのそんなひとつの報告では、エホバの証人の囚人たちが収容所全体に放送されたヒトラーの演説を聴くのを拒否したことが記録されている。「親衛隊員はエホバの証人たちにホースで水をかけ、彼らを殴打し、総統が演説している間、一時間以上、彼らをずぶ濡れで立たせていた。10月下旬で、ひどく寒かった。その後、彼らの誰も治療を受けなかった。食物は2日か3日間、与えないで放置された」。
…いうことだ。
高橋三郎の紹介した「信仰の放棄書」について、ミルトンは、
ほとんどの証人たちはそんな宣言書にサインしなかった。彼らが拒否した結果、ザクセンハウゼンでは40人以上の証人たちに死刑が執行された。
…と書いている。宣言拒否が死刑執行を意味しても、彼らは非妥協的であり続けたわけである。
「エホバの証人」は、「徴兵拒否」にとどまらず広範な「戦争関係業務拒否」も貫いた。再びミルトンによれば、強制収容所内でも、
証人たちは軍務を嫌悪した。そのため、毛皮が軍服に使われるというのでウサギの番さえ拒否することも起きた。その結果、何人かの女性囚は、ラーヴェンスブリュックとアウシュヴィッツ(オシフィエンチム)で反逆罪により死刑を執行された。
…ということになるのである。
最終的には、「軍務拒否」により、
1938年以降、250人以上のエホバの証人がドイツの軍隊に仕えることを拒否して、死刑判決を受け執行された。その罪状はドイツや併合されたオーストリアでの防衛力破壊だった。エホバの証人は「強情なイデオロギー的な犯罪者たち」と見なされた。彼らは39年8月26日の特別軍事犯罪法典に公布された規定によって死刑判決を受けた。
…という取り扱いを、「エホバの証人」は受けることになるのであった。
軍務の拒否が死刑執行を意味しようとも、彼らが態度変更することはなかったのである。
直接の死刑執行以外に、強制収容の対象となった1万人の「エホバの証人」のうち、約2500人が(虐待の結果、ということであろう)収容所内で死亡しているということだ。
今回は、「エホバの証人」の「徴兵拒否・軍務拒否」が彼らに何をもたらしたのか、そしてそれに彼らがどのように対応したのかについて、『ホロコースト大事典』中のシビル・ミルトンの記述を参考に書いてみた。
「死罪」にもひるむことなく、信仰上の要求を守り続ける彼らの姿がそこにある。
「出血多量による死」の可能性を受け入れ、「輸血拒否」という信仰上の要求を守ろうとする「エホバの証人」の姿は、かつてのナチス体制を前にしての彼らの姿と、実によく重なるように思える。
生の存続が持つ価値は、信仰上の要求に従うことより大きなものではない。
それが、ナチス体制を前にした彼らを支え、輸血拒否を宣言する彼らを支える、彼らの信仰が彼らにもたらした彼らの価値観なのである。
そのように私は考える。
「輸血拒否」の話題とは別に、私の「エホバの証人」への興味の原点であったナチス体制下での彼らの姿を確認しておくつもりで書き始めたのであったが、書き進めた結果、両者は「別の話題」ではまったくないことに気付くことが出来た。
思いもよらぬことであったが、個人的には大きな収穫であったと感じている。
(オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/21 22:20 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/119831)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)