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2019年8月23日 (金)

溶鉱炉の火は赫々と燃えているが(戦時木造船の周辺 2)

 

 前回記事では「撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺)」と題して、昭和18(1943)年当時の官製国策情報誌である『週報』及び『寫眞週報』(どちらも情報局編輯)の記事から、戦時期の都下小平地域の軍需調達(具体的には青梅街道の欅並木伐採)を扱った「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」の補足情報を紹介した。

 総力戦状況下での深刻な物資不足状況が伝わる記事であったが、今回は同年の『アサヒグラフ』を取り上げる。

 

 

 大東亜戦争(いわゆる太平洋戦争、アジア太平洋戦争、あるいは第二次世界大戦の日本政府による公式名称である)初期においては、大日本帝國は広大な占領地域を確かに手にした。しかし、本土と占領地間の物資及び人員の補給を担うべき海上の船舶不足はすぐに深刻となった。そもそも日本海軍には輸送船団護衛の余力(発想自体というべきか)はなく、護衛を欠いた輸送船団に対する攻撃(海面下の米海軍潜水艦は脅威であった)により失われた船舶を補充するには、鋼材不足は決定的であった。既に支那事変(対中戦争)段階から、重要な軍需物資である鋼材は(石油と共に)米国からの輸入に多くを依存していたのである。支那事変の拡大は、米国からの鉄材(及び石油)輸入の途絶をもたらし、その打開策として対米戦争を選択したのである。前回記事で紹介した三井昭二氏の評にある通りで、まさに、

 

 資源が無いために開戦し、資源が無いために敗戦した

 

というしかない状況であった。

 船舶需給の危機的逼迫により、まず構造の規格化・簡易化による鋼船(戦時標準船)建造計画が進められ、しかしすぐに鋼材不足の深刻化から木造船建造へと事態は進展した(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」参照)。

  木造船建造用木材の供出の一環として、小平地域では青梅街道の欅並木の伐採が起きたのである(同記事中では、『寫眞週報』第263号―木材供出のための岡山県での神社の御神木の伐採事例等が掲載されている―も画像で紹介してある)。

 さらに昭和18年10月27日の『週報』(第367号)、そして『寫眞週報』の270号(昭和18年5月5日)掲載された関連記事を紹介したのが、前回の「撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺)」ということになる。

 

 

 今回取り上げるのは、日本を代表するグラフ雑誌であろう『アサヒグラフ』の第四十巻・第十三號(昭和18年3月31日)である(表紙には「大東亞戰争第六十五報」の文字がある)。同時期の米国を代表するグラフ雑誌の『ライフ』に比較すると、判型はほぼ同サイズだが紙質・印刷は劣り、ページ数も少ない(『アサヒグラフ』は表紙・裏表紙を含め20ページであるのに対し、『ライフ』は表紙・裏表紙抜きでも100ページある)。民間グラフ雑誌を手にするだけで、両国間の国力の差は明らかである(下の画像は、わが情報局の国策広報誌『週報』、やはり情報局の国策グラフ誌『寫眞週報』、民間グラフ誌を代表する『アサヒグラフ』、そして暴戻なる米国の民間グラフ雑誌『ライフ』を並べてみたところ―『週報』と『寫眞週報』については前回記事で取り上げてある)。

 

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 昭和18年3月31日の『アサヒグラフ』の10~11ページは「木造船は征く」と題された、木造船についての記事である(漢字は新字体、カナは旧仮名遣ひによる―オリジナルの横書きのキャプションは右から左へ書かれている)。

 

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    木造船は征く
 カーン、カーン、早春の明るい陽差しを受けた河面に樫の楔を打ち込む音が澄んだ空に流れてゆく。ここは○○木造造船所。ヨイショエイコラと船大工さん達の掛声も勇ましく、戦闘帽を冠つた造船戦士は『さあやらうぜ』と張り切つた掛声に、鉋を削る音も快い。『秋田おばこが、雪の中を馬橇で運び出してくれた船材だ、なんて素晴らしい木理だらう』と感嘆する供木こそ、木材応召の愛国至情に燃えて、祖先の築いた美林や、由緒ある松並木を、英米撃滅の決戦場に雄雄しく出陣させた赤誠溢れる尊い木材なのである。
 働く大工さん達も、太平洋の怒濤を突切る気負に溢れ、一本の釘にも、精魂を傾け、立派な船を造るぞと情熱をこめた手練の妙技で、巨大な龍骨が組み立てられたと思ふ間に、白い筋骨隆々たる男性の逞しさを思はせる龍骨美は忽ち消えて、板が張られ、帆柱が立つて木造船は竣工する。やがて硝煙漂ふ太平洋の彼方へ、颯爽と日の丸の旗を飜して雄々しくも征く。
 全生命を打ち込んだ戦士達は、『しつかりやつて来い』と晴れの船出を見送り。進水した後には早くも船台が据ゑられて、戦ひに勝つため木造船はあとからあとからと建造されてゐる。
(写真キャプション)
 樹齢三百年にも余る巨木が続々造船所へ、嘗ては街道を飾つた松並木、深山の檜も、木造資材として、鋸にひかれる
 鑿の音、鉋を削る造船交響楽に巨大なマンモスの肋骨を思はせる龍骨が組み立てられその用途に別れて船材となる
 木船が続々と建造され、龍骨を組み立てた隣には、早くも進水を待つ船が内部の完成を急ぎ、戦場のやうな忙しさだ
 木の肌もくつきりと、船の生命龍骨は、強靱な骨格を見せて春陽を浴びてゐる
 板が張られて完成に近い船は美しく塗られ船尾は米英の弾丸なんか蹴飛ばせと声を振つて精魂こめて仕上げをする
 船体が出来上がると最後に船内を造る 輸送の大任を果す大事な船艙だ 造船に敢闘する人々の手は思はず弾み緊張する
 見事に木船は完成した 大東亜の洋上へ船出する日に備へ船体には美しく鮮かな日の丸が描かれて晴れの日を待つ

 

 順調な木造船建造の進捗を伝える(ための)記事であろう。ここにも、「秋田おばこが、雪の中を馬橇で運び出してくれた船材」、「樹齢三百年にも余る巨木が続々造船所へ、嘗ては街道を飾つた松並木、深山の檜も、木造資材として、鋸にひかれる」などの記述があり、木造船建造に先立つ木材供出の現場の状況が記されている。

 

 

 この記事だけを読めば、順調な木造船建造による戦局打開への期待も抱けるかもしれないが、しかし、昭和18年3月31日の『アサヒグラフ』の巻頭記事の表紙に記されたタイトルは「日本の鐵鋼、逞しく増産」なのである。それが現実のものとなっていれば、そもそも戦時標準戦建造計画において安全面を犠牲にしての増船政策を採る必要もなければ、ましてや木造船建造に頼る必要などないのである。「嘗ては街道を飾つた松並木、深山の檜も、木造資材として、鋸にひかれる」必要などないのだ。先にも示したように、中国大陸での軍事行動の拡大(支那事変)、加えて東南アジア地域への軍事的進出(南北仏印進駐)により、大日本帝國の軍事行動を支えていた鉄鋼材や石油が入手困難(どちらも米国が供給源)になり、その果ての対米英開戦なのである。その点を踏まえた上で、「日本の鐵鋼、逞しく増産」も読んでおきたい。記事本文でのタイトルは「日本の鐵鋼」である。まず表紙を開いて左ページ全面から記事は始まる(ページ数としては3と表記―表紙が1ページに相当し、2ページに相当する右ページは表紙裏の広告。キャッチコピーとして用いられている「俺は還らぬ」には唖然とさせられるしかない―熟練を要するパイロットの命を粗末に扱うことを誇るような文言に酔いしれるようでは総力戦での勝利はないだろう。パイロットの命を使い捨て扱いするのではなく、生かし続け使い回し続けることでこそ、そこに価値を置くことでこそ、勝利は得られる)。

 

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  日本の鐵鋼
 祖宗の神霊まことに上にあり、日本民族が皇国三千年の興廃を賭け、挑まれたる戦ひに断乎起ち上れる時、その時こそは凡ゆる不可能事を可能ならしめる不抜の闘志と不撓の創意と不屈の努力の油然としてわき上るを我等は堅く信じてこれを疑はぬ。
 わが製鉄の事業に於てこれを歴然と見るのである。
 想定の敵国たる獣鬼アメリカに超重要産業たる鉄鋼生産の一切を依存せる時代はまさに僅々二年余の過去に過ぎなかつた。識者をして薄氷を踏むの感を抱かしめてゐたが、果然昭和十五年十二月、暴戻なるアメリカは鉱石、銑鉄、鋼材の全面的輸出禁止をもつて我を脅かすに至つたのである。
 みどり児の幼き手を捩ぢり上げる底の思ひ上がりを以つて、われ屈服すべしと考へたアメリカの増上慢に、痛切苛烈の一矢を酬いたものは実に鉄鋼の自給□□(二字不明)の増産とである。指導者の熱意と、産業戦士諸君の挺身と国民の至情とによつて、今や完全なる皇国日本の鉄鋼たり得たのだ。
 見よ、溶鉱炉の火は赫々と燃え、灼熱する高炉は続々と明日の国防資材を充足するための鋼材を生み出しつつあるのだ。
   〇〇製鉄所にて
   鈴木・富重両特派員撮影
   (写真は陸軍省検閲済)
(写真キャプション)
 (上)岸壁に横づけされた船舶から鉄鉱石は起重機によつて続々荷揚げされる (下)溶鉱炉から出る溶銑は見事な火の瀧となり、鋳床の樋を流れて溶銑鍋へ

 

 現在では「反日」の代名詞のような扱いを受ける朝日新聞社だが、ここでは「祖宗の神霊まことに上にあり、日本民族が皇国三千年の興廃を賭け、挑まれたる戦ひに断乎起ち上れる時、その時こそは凡ゆる不可能事を可能ならしめる不抜の闘志と不撓の創意と不屈の努力の油然としてわき上るを我等は堅く信じてこれを疑はぬ」と戦時日本の精神万能主義的神がかり気分を昂揚させ、「想定の敵国たる獣鬼アメリカ」、「暴戻なるアメリカ」、そして「アメリカの増上慢」と米国罵倒に力が込められるところを深く味わっておきたい。もっとも、「反米」は今に至る伝統なのかもしれないが。

 いずれにせよ、「見よ、溶鉱炉の火は赫々と燃え、灼熱する高炉は続々と明日の国防資材を充足するための鋼材を生み出しつつあるのだ」と自慢する数ページ先では、「木材応召の愛国至情に燃えて、祖先の築いた美林や、由緒ある松並木を、英米撃滅の決戦場に雄雄しく出陣させた赤誠溢れる尊い木材」が讃えられるのである。「溶鉱炉の火は赫々と燃え、灼熱する高炉は続々と明日の国防資材を充足するための鋼材を生み出しつつある」のが現実であれば、「祖先の築いた美林や、由緒ある松並木」にまで手を出す必要はなかろう。しかも、その「尊い木材」による増船政策としての「木船建造緊急方策要綱」(1943年1月の閣議決定)にしても、吉川由美子氏によれば、「木造船はあくまで鋼船の補完的役割を期待されたが、鋼船と同様、戦時標準型が決められ大量生産がおこなわれた。しかし、急な大量生産のため浸水するものが続発し、木造船建造の目標は烏有に帰した」(「アジア・太平洋戦争中の日本の海上輸送力増強策」 2004)のであった。

 

 再び「アサヒグラフ」記事を読もう。続く4~5ページは写真とキャプションだけで構成されている。

 手元にある『ライフ』誌の一冊(1943年8月9日号)には、「WOMEN IN STEEL」と題されたマーガレット・バーク=ホワイト撮影による記事が掲載されている(今回の記事の最後に「追加参考画像」として紹介してある)。『アサヒグラフ』には女性労働者は登場しないが、『ライフ』は製鉄所の現場で活躍する女性労働者に焦点を当て、特集記事としているのである。当ブログでは既に「フォードの爆撃機、あるいはロージーのリベレーター」として米国の戦時女性動員について取り上げているが、この『ライフ』記事でも、製鉄所のハードな現場労働の第一線を担う女性達の姿が紹介されている。『アサヒグラフ』でも『ライフ』でも、製鉄所内の特徴的な光景(重厚長大産業の代表としての大規模な設備群-重量・巨大さ・広大さ・高熱といった条件)は等しく取り上げられており、『アサヒグラフ』のカメラマンの技量の確かさも誌面から伝わる(ただし、残念ながら、紙の質、印刷の質において『ライフ』に大きく見劣りする)。

 

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(写真キャプション)
 溶けた銑鉄は更に精錬の鋼鉄となるために起重機によつて平炉に漉きこまれる
 平炉から出る鋼鉄の熱湯はこれを鍋にとり 起重機に吊つて鋳型に流し込む。この鋳型で出来たものを鋼塊といふ
 溶鉱炉内に溜つた溶滓は出銑時の合間に出滓口を開いて取り出さねばならない
 鋳型から抜いた鋼塊灼熱したまま台車の上に載せて分塊工場に運搬される
 鋼塊はその用途によつてまた圧延される。これは厚板に圧延される一工程だ 厚板になつた製品は工場内に積まれ艦船用・汽罐用鋼板となつて戦ひに出る
 出来上がつた鋼鉄資材 ああこれこそ日本の鋼だ
     (4~5ページ)

 

 「厚板になつた製品は工場内に積まれ艦船用・汽罐用鋼板となつて戦ひに出る」ことへの期待は大きいものであったはずだ。しかし、造船の現場で建造されたのは、安全性を軽視した簡易構造の、いわゆる戦時標準船であった。

 

  この徹底した簡易構造の中でもその際たるものは船舶の安全の基本に関わる二重底の廃止であった。二重底とは船底を二重構造に組み上げ、船舶が座礁などしたときに船底の決定的な破損を少しでも軽減し沈没の危機から救うこと、また船体の強度を高めるための基本的な構造として採用されている、船舶の構造上必要不可欠なものである。
  二重底の組み立てはその船が起工され船台上で工事が始まった直後から開始される最重要の工程で、確かに多くの鋼材と多くの作業を要する複雑な工程である。この複雑な工程を排除することは船の建造のスピードアップには確かに極めて効果の大きなものであるが、その反面、船の安全性を根底から否定することでもあり、特に用船者側から見れば信じられない暴挙であった。
  二重底の撤廃に対しては航海の安全が保証されず、任務の遂行も保証できないとして各海運会社等からは、設計主務者である海軍艦政本部に対し厳しい批判と苦言が呈された。しかし艦政本部はこれら全ての批判や苦言を黙殺し二重底撤廃を強行したのである。つまり第二次戦時標準船は大小全ての船が二重底を装備していないという、信じられない構造の船となったのであった。つまり各船の船底は十~二十ミリの鋼板一枚だけであったのである。
  徹底した簡略設計や工作が強行され、また作業工程が簡略化されて完成した船はその後それぞれに多く問題を残すことになった。その代表的な例が水密性の欠陥であった。
  造船所で完成した船が、竣工検査で必ず実施するものに船体の水密性に対する検査があった。これは船体の吃水線以下の船体の漏水の検査で、不良工事は将来的にその船の沈没も招きかねず、事前に徹底的に検査することが決まりであった。ただこの検査は多くの時間を要することになり、不良個所の改修作業も決して容易ではなかった。第二次戦時標準船では完成時のこの検査を極めて簡単な簡易検査だけにとどめてしまったのである。
  このために信じられないことではあるが、完成直後から直ちに輸送任務に投入された各船では、しばらくの間は乗組員による漏水個所の手直し作業が行われるという、異常な状態が続くことが多かったのである。また甲板の鋼材の電気溶接個所も、工作不良により船内に水漏れが生じることは日常的で、就航後は当分の間、乗組員による様々な手直し作業が続くのは当たり前というのもこれらの船の特徴でもあったのである。粗製濫造の極みともいえる状態は確かだったのである。しかしこの混乱は設計だけに原因があるのではなく、後述するように多くの部分が造船作業員の技量の大幅な低下に由来していたのであった。
     (大
内建二 『戦時標準船入門』 光人社NF文庫 2010  80~82ページ)

 

 問題を抱えていたとはいえ、その一応は鋼船であった戦時標準船の建造は、総力戦下の船舶需要を満たすには遠く、政府は「木造船建造緊急方策要綱」を閣議決定する。

 

 大東亜戦争の長期化に伴いますます深刻化する船腹戦争の事態に対処し、海上輸送力の積極的増強をはかることは緊急焦眉の国家的課題であり、政府はこれがため夙に鋼船による計画造船と並行して鉄鋼資材関係より簡易な設備をもって、しかも急速に建造され得る木造船の増強をはかるべくかねて木造船戦時標準船型の制定、木造船別の企業合同などの措置をとってきたが時局の緊迫にかんがみ昭和十八年度において木造船の飛躍的増大を目途とする「木造船建造緊急方策要綱」が二十日閣議決定をみた
     (大阪朝日新聞 昭和18年1月21日)

 

 その「緊急方策」の具体化した姿が、先の「木造船は征く」に描かれていることになる。

 

 

 そして、「緊急方策」の下に、小平市内(当時は小平町)の青梅街道の欅並木も伐採されてしまったのである。『用水路 昔語り』(こだいら 水と緑の会 2016)にある回想を読み返しておこう。

 

  青梅街道沿いにはずっと欅の並木があったんですよ。ある時ぱっと切っちゃいましたが。当時覚えていますけど、大きな欅の並木があり下にはヒイラギの垣根があったんですよ。道も勿論舗装もしていなくて、いい雰囲気だったんです。

 

  この辺は大きい欅がいっぱいあったんです。防風林になるし、落ち葉は出るし六十年周期で製材所に売ってたんです。船材とか電柱に使ったんです。戦中、終わる頃に供出で全部切られてしまった。

 

  昔はこの青梅街道は欅のトンネルだったんだよ。竹内さんとこにはちょこっと残ってるけど、もうずーとあんな感じでトンネルだった。子供の頃から戦争中までね。

 

  船材として全部供出ですよ。大きいのから強制的に切られた。それで無くなっちゃったんだ。

 

  船材にされちゃったんだね。昔はこの青梅街道沿いにずっと欅があったんだけど、陸軍大臣の代理の人が来て、管理して切ったんだよ。

 

  そしたら持っていかないうちに終戦になっちゃってね。

 

  みんなデカイ欅でね、それ全部切っちゃったからね、それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ、まったく悲しいよね。

 

 

 

 

【追加参考画像】

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《記事一覧》

 カテゴリー
 「多摩武蔵野軍産複合地帯
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 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)
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  昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(星野朗氏の論考紹介)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)
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 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)
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  1953年の小平町のグローブマスター機墜落事故と沖縄の現在

 

 「撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-511f.html
  昭和18年の『週報』、『寫眞週報』記事により、木材供出の全国的展開の様相を読む
  (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」の補足記事)

 

 「溶鉱炉の火は赫々と燃えているが(戦時木造船の周辺 2)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-15f4ee.html
  昭和18年の『アサヒグラフ』記事により、木材供出の全国的展開の様相を読む
  (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」の補足記事)

 

 

 

 

 

 

 

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2019年7月30日 (火)

撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」では、木材供出で姿を消したという青梅街道(小平市内)の欅並木をめぐる証言と、その背景としての戦時木造船建造政策(「木造船建造緊急方策要綱」昭和18年1月20日閣議決定)について記した(『寫眞週報』第263号の記事―木材供出のための岡山県での神社の御神木の伐採事例等―も画像で紹介してある)。

 大日本帝國における国家総力戦体制の内実をよく伝えるエピソードだと思うが、先の記事に加えて、情報局編輯による政府広報誌である『週報』、そして『寫眞週報』(写真週報)にある関連記事を紹介しておきたい(漢字表記は新字体、カナについては原文通り)。

 

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 まず、昭和18年10月27日の『週報』(第367号)の表紙裏の「週言」と題されたコーナーでの主張である。

 

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  従来、生活といへば、とかく個人的なもの、消費的なもののやうに考へられて来た。自分で稼いだお金はどう使はうと勝手だ、無駄使ひをしたり、無くて済むものまで買ひ揃へることが、生活の潤ひであり、より高き生活であるとさへ思はれて来た。
  しかし、決戦下の今日、我々の生活をかくあらしめてはならない。生活は決戦へ、百八十度の転回をせなばならない。生活は個人のためのものから国家のためのものに、消費から生産へと切り替へられねばならない。
  一億国民が衣料切符の一割に当たる絹を節約すれば、落下傘八十九万台が出来る。紙二割を節約すれば木材二百六十万石が浮き、百トンの木造船が二千六百隻も造れることになるのである。
  生活は戦力の源泉である。我々の生活の中から、戦争に勝つための、物や、お金や、人手をもつともつと浮き出させて、戦力の増強、国力の充実をはかることが、決戦下にあるべき生活の姿である。
  生活は消費にあらずして、生産である。

 

 

 青梅街道の欅並木伐採に至る切迫した状況が、

 

  紙二割を節約すれば木材二百六十万石が浮き、百トンの木造船が二千六百隻も造れることになるのである。

 

この言葉からも伝わるであろう。

 

 『週報』のこの号の17ページには、貯金局による「紙も兵器だ!  貯金通帳の無駄を一掃しよう」と題された記事も掲載されている。

 

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  最近、貯蓄が増えたため、どこの家庭でも通帳が多くなつて、保管や整理に困るといふ声があるやうですが、通帳を幾冊にも分けて預入するのは、それだけ多くの人手と物資を使うことになりますから、かうした決戦下の尊い努力と物資の節約を図り、挙げて戦力の増強に振向けるやうに、通帳の無駄を一掃したいものです。
  最近の調査によりますと、郵便貯金通帳の所持数は、
 1、調査世帯数               八、二九八世帯
 2、同上人員(通帳を所持する者のみ)    三、九九九二人
  一世帯当り人員             四.八人
 3、通帳所持冊数              八七、〇九四冊
  一世帯当り通帳所持冊数         一〇.五冊
  一人当り通帳所持冊数          二.二冊
 4、一世帯当り通帳所持冊数内訳
  …(以下数値略)…
となつていて、随分無駄があるやうです。
  試みに最近一ヶ年間の通帳の増加振りをみますと、約二千四百万口の増加で、支那事変以来、六年間に八千七百万口といふ激増振りです。かうして年々二千万の通帳が増えると共に受払の口数は六億口といふ厖大な取扱数になりますから、これの処理に要する人手と物資も、また莫大なものです。
  しかし、その割合に一冊当りの預け高は少く、現在、国民の持つてゐる通帳は約一億四千万冊ですから、最近の現在高百六十億円で計算すれば、一冊当り平均百円少しとなりますが、統計によると、その七割九分は現在高五十円以下の通帳で、郵便貯金は一人五千円まで出来るのですから、もつと通帳の能力を最高度に活用しなければなりません。
  要は通帳の数を出来るだけ少なくして、預け高をどんどん増やしてゆくことが、敵米英を撃砕する貯蓄報国の近道であつて、これからはなるべく人手や物資を無駄に使はずに、貯金を殖やすやうにすべきです。
  今日では、一冊の通帳も非常に大切な資材ですから、新しく預入申込をするときは、古い通帳がないかよく調べてからにすること――何か新しい出来事を記念して貯金するとか、新しい団体でも出来て貯金するとかいふと、先づ通帳も新しいのでといふ気持になり易いのですが、そんな場合にも、出来るだけ前から持つている通帳を利用してゆくやうにしたいものです。
  また少額の貯金は、貯金箱を利用して月一回位に纏めて預入すること――かうして手数を省き、通帳の使用期限を永くするのも無駄を排除する一方法です。
  現在、手元に同じ種類の通帳が二冊も三冊もある場合はなるべく一冊に纏めること――据置貯金など二冊以上で預けてゐるのは、期間の永い方へ合併して一冊で預ける――といふやうに、通帳の無駄を一掃して、貯蓄陣もなるだけ簡素強力化し、長期戦に堪へるやうに、お互に協力し合ふやうにしませう。
  戦線では、我が勇敢な将兵一人一人が、それぞれ十人もの敵を相手に勝つてをられるのですから、私どもも一冊の通帳で十冊の通帳に匹敵する御奉公をするやうに心掛けたいものです。

 

この「要は通帳の数を出来るだけ少なくして、預け高をどんどん増やしてゆくことが、敵米英を撃砕する貯蓄報国の近道」という主張を、先の「紙二割を節約すれば木材二百六十万石が浮き、百トンの木造船が二千六百隻も造れることになる」という「週言」の言葉と重ね合わせることで、青梅街道の欅並木伐採に至る、当時の切迫した総力戦状況が理解し得るはずである。

 

    大東亜戦争の長期化に伴いますます深刻化する船腹戦争の事態に対処し、海上輸送力の積極的増強をはかることは緊急焦眉の国家的課題であり、政府はこれがため夙に鋼船による計画造船と並行して鉄鋼資材関係より簡易な設備をもって、しかも急速に建造され得る木造船の増強をはかるべくかねて木造船戦時標準船型の制定、木造船別の企業合同などの措置をとってきたが時局の緊迫にかんがみ昭和十八年度において木造船の飛躍的増大を目途とする「木造船建造緊急方策要綱」が二十日閣議決定をみた
     (大阪朝日新聞 1943年1月21日)

 

 木造船建造が国策として推進されるに至る背景には、金属資源の枯渇という問題があった。本来であれば、木造船ではなく鋼船建造こそが敵米英撃砕の近道なのである。金属資源の確保への涙ぐましい努力を伝える記事も読んでおこう。

 

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     補助貨の全面引換へ
  昨年十二月から始めたアルミ貨以外の補助貨の引換運動は、関係各方面の非常な協力と一億国民の熱誠によつて好成績を挙げ、去る七月末日までに総額実に一億四千万円、約十六億枚の補助貨を引換へることが出来ました。しかし決戦の様相はますます熾烈化し、今や、飛行機、軍艦を、一機一艦でも多く前線へ送ることが、私ども銃後国民の急務であります。
  周知のやうに飛行機、軍艦、戦車その他優秀な兵器には多量の銅、ニッケル、銀が使はれてゐます。かのマレー沖海戦で撃沈したプリンス・オブ・ウェールス級三万五千トンの軍艦を造るには、実に九百トン余の銅と訳三百五十トンのニッケルが使はれてゐるといはれます。
  即ち二億五千万枚の銅貨と約一億枚のニッケル貨があれば、このやうな軍艦を造ることが出来るわけで、つまり、各家庭から平均十七枚の銅貨と七枚のニッケル貨を国家へ引換へのため提供すれば、三万五千トン級の軍艦一隻を前線へ送り得るわけであります。
  またドイツのユンカースW三三型飛行機用の発動機一つには、ニッケル一キロ半が使はれてゐるとのことでありますから、各家庭でニッケル貨を一枚ずつ国家に差出し、紙幣等と引換へたとすると、これだけでも実に三万五千台の発動機が出来ることになります。そのほか飛行機の車軸や主動軸等にもニッケル合金が使はれてゐます。弾丸を通さない戦車や索引車や火砲、弾丸等に使はれるニッケルの数量は相当多いのであります。
  さらに銀は、銅よりも相当よい電導体であつて、最近優秀な近代兵器に使はれる量は頗る多くなり、航空決戦や海上決戦上の緊急な兵器の製造には、重要欠くことのできないものとなつています。
  このやうな重要兵器の原材料である銅、ニッケル、銀の補助貨はまだまだ沢山残つてゐるので、政府では最近の決戦の熾烈化に鑑み、この十月から明年三月までを期し、銅貨、ニッケル貨、銀貨の最終的全面引換へを行ふことにし、特に来る十一月二十日から三十日までを、補助貨全面引換期間と定め、全国一斉にアルミ貨以外の補助貨の全面的引換運動を実施することになりました。
一、引換を行ふ補助貨の種類
  (一) ニッケル貨、白銅貨 (十銭、五銭)
  (二) 銅貨、青銅貨、黄銅貨、アルミ青銅貨 (十銭、五銭、二銭、一銭、半銭、五厘、一厘)
  (三) 銀貨 (一円、五十銭、二十銭、十銭、五銭)
  (四) 天保銭、寛永通宝、文久銭、丁銀、豆板銀、五匁銀、一分銀、二朱銀、一朱銀投、銀または銅の古貨幣
  (五) 旧韓国補助貨、支那葉銭その他の外国貨幣で銅貨、ニッケル貨または銀貨のもの
二、引換機関
   全国銀行、信託会社、市街地信用組合や信用組合及び中央物資活用協会のほか本年度は新たに無尽会社でも引換へます。
三、引換手数料
   引換機関では、引換者に対してその種類に拘はらず、五十箇毎に五銭(但し五十箇未満は切捨)の引換手数料を支払ひます。
     ×     ×
  戦局はいよいよ緊迫し、いまや飛行機、軍艦その他の兵器を前線へ送ることは一刻の猶予をゆるしません。銅、ニッケル、銀を決戦力増強のために国家へ提供するのも、一国の猶予をゆるさないのであります。
  本年度の最終的補助貨全面引換の実施に際しては、この期間中に、町内会、部落会、隣組で、各家庭から補助貨を取纏め、これを引換機関で引換へることになつてゐます。また大日本婦人会でも同様、補助貨全面引換に協力され、さらに今般は特別に全国の国民学校児童の協力をも得ることになつてゐます。私ども銃後国民、今こそ一枚のこらず貯金箱にあるものも、記念としてゐるものも、すべての銅貨、ニッケル貨、銀貨をアルミ貨や紙幣などに引換へて軍国の急務に応じなければなりません。
     (『週報』 367号 14~16ページ)

 

金属貨幣は「紙幣」へと「引換へ」されることになるわけだが、紙幣もまた本来なら「節約」されるべき紙製であり、木造船となるべき木材資源なのである(「紙も兵器だ!」)。

 

 

 続いて『寫眞週報』の270号(昭和18年5月5日)の表紙裏にある「時の立札」と題されたコーナー。

 

 

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わが蓄めしいささかの金
  けふも鋼鉄(くろがね)の艦(ふね)となり
  南海の敵を撃つ
わが積みしそこばくの金
  けふも銀翼となり
  大東亞の空に飛び立つ
撃ちてしやまむ
  この暮しなほゆとりあり
  否 この暮しゆとりなくとも

 

「手元に同じ種類の通帳が二冊も三冊もある場合はなるべく一冊に纏める」だけではなく(紙の節約だけではなく)、「わが蓄めしいささかの金」は貯蓄報国の資源であり、「この暮しゆとりなくとも」自身の利便のために貯蓄・消費するのではなく、「生活は個人のためのものから国家のためのものに、消費から生産へと切り替へられねばならない」というのである。

 この『寫眞週報』(270号)の表紙には、「二百七十億へ さァ突撃だ」の言葉が記され、4ページから9ページにわたって貯蓄推進記事が組まれている(簡易保険加入の呼びかけ、節約の奨励、贅沢・遊興・浪費への批判と共に)。

 

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貯め抜く道はいくらもある
   二百七十億へ さァ突撃だ!
  佐藤陸軍軍務局長の談にあるやうに、今度の戦争は生はんかな妥協に終わる戦争ではない。文字通り民族の興亡を賭した戦争であり、国家の運命はわれわれ一人々々の運命である。貯蓄の心構えもかかる自覚から奮起しなければならない
  われわれが鬼畜のやうな米英人を相手に果合ひをするとして、一ふりの日本刀もないと知りながら、なほかつ武装を忘れて酒食に、贅沢な衣装に金を費やす者があるだらうか。食べものをつめても、まづ日本刀を求め、なほ更に近代兵器の購入にあたるだらう貯蓄は国民の一人々々がその命を託す兵器をまかなふ費用なのだ。
  今年の国民所得五百億円のうち、三百七十億円が国家目的、即ち戦争完遂のために集中される。この三百七十億のうち、百億円は租税及びこれと同性質の国民負担となるが、残りの二百七十億はどうしても国民貯蓄でまかなふのだ。今年の貯蓄目標であるこの二百七十億はどうしても貯め抜かう
  鈍刀(なまくら)を帯びて戦場に臨むは武士の恥、わが国民性が断じて許さない筈だ
     (『寫眞週報』 270号 5ページ)

 

 「貯蓄は国民の一人々々がその命を託す兵器をまかなふ費用」とされるのである。

 

 

 そして、何より課題となるのは造船用木材の確保である。

 

 記事のタイトルは「密林から生まれ出る日の丸船 ―北ボルネオ―」。

 

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  世界で三番目の大きい島ボルネオ、その広い広い大陸のやうな全土が、見渡す限りの大密林に蔽はれてゐるボルネオは、実に木材の無限の宝庫だ。殊に英領時代から木材の輸出を以て知られた北ボルネオは、内地の造船増強運動に呼応して、いま軍政部の首脳が陣頭に立つて木造船の建造に大童である。千古の密林から伐り出される勿体ないやうなボルネオ産チークや、ラワン等の造船用木材の大木が、原住民の木遣り音頭を密林に谺させながら搬出され、林間鉄道で河に送られる。そして筏に組んでボルネオの誇りとする大製材所へ。そして日本人の指導の下に原住民の船大工達の必死の努力で、着々と立派な木造船が造られてゆく。日本人達も烈日の下、汗を流して勤労奉仕のお手伝ひである。
  かくて、その第一船は日本側軍官民と原住民たちの感激のうちに、去る紀元の佳節に進水、『第五十一ボルネオ丸』と命名され、続いて第二、第三と続いて完成、進水し、日を逐うて加速的に能率をあげてゐる。軍政部首脳以下『木造船ならボルネオだ』と大した張りきり方である。
   記事 坪内陸軍報道班員
   撮影 藤波陸軍報道班員
     (『寫眞週報』 270号 14~15ページ)

 

写真に付されたキャプションは以下の通り。

 

北ボルネオの大密林には木船用最適材が無限にある。天を衝いて聳える巨木にいま丁!と斧が入れられた
現地軍官民歓呼のうちにボルネオ生まれの第一船は進水した
昼なお暗い密林の中を林間鉄道はディーゼルエンジンの音も景気よく巨材を運んでゆく
現地人の船大工も一生懸命だ。もうぢき勝利を運ぶわれわれの船ができ上るぞ

 

 先の「木造船建造緊急方策要綱」においても、「(四)豊富な木材資源を擁する大東亜地域の木造船工場を全面的に活用する」とされていた通りである。

 

 そして、岡山県津山市での松並木伐採の記事もある(ちなみに『寫眞週報』第263号(昭和18年3月17日)の記事で紹介されていた御神木伐採も岡山県の事例であった) 。タイトルは「應召する三百歳の松並木 岡山縣津山市」、撮影は小石清。

 

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  岡山県津山市の名勝地二宮松原の並木が、翼賛会の主唱する木材供出の先陣を承つて米英撃滅の船材として晴れの応召をした。
  『君を松原 夕日が暮れて 鐘が鳴りますお城のお山…』とまで津山小唄に唄はれ、地元民に親しまれてゐたこの松並木は、延宝三年(今から二百六十九年前)、時の城主によつて植ゑられたもので、城下の外郭として、また非常時の防塞として、春秋二百七十年を経て今日に至つた。
  二百七十年の樹齢に歴史の来し方を眺めてきた由緒あるこの松並木は、四月十九日の斧入れを莞爾と受け、引続いて県木材会社の手によつて三百三十余本の伐採が続けられてゐる。またこの運搬には連日、地元翼賛壮年団、在郷軍人会、大日本婦人会の勤労奉仕隊が当つてゐるが、これらの人々の汗の結晶は、松材にして約三万五千石となる。
     (『寫眞週報』 270号 16~17ページ)

 

ここには「翼賛会の主唱する木材供出の先陣を承つて米英撃滅の船材として晴れの応召をした」、そして「またこの運搬には連日、地元翼賛壮年団、在郷軍人会、大日本婦人会の勤労奉仕隊が当つてゐる」とあるが、「木造船建造緊急方策要綱」においても、「(三)木材確保のために政府の国有林供出とともに翼賛会等による全国的な木造船用木材供出の国民運動を展開しその運搬についても地元の勤労奉仕を期待する」とされており、実際にそのような過程で事態が進行したことが窺われる。

こちらのキャプションは、

 

二百七十年の樹齢を保つた二宮松原の名勝地
必勝の念願こめた平松津山市長の斧始め
津山市の翼賛壮年団員は総出で大八車に供木を積み、運搬の奉仕をする
枝とはいへ、二、三十年を経た位の太さのものが降りてくる
大日本婦人会員も枝払いの済んだ枝木の運搬に当る
枝払いが済むと丸太ン棒を幹に結へてクレーンにし、いよいよ大木の輪切りがはじまる

 

 

 

 三井昭二氏の論考、「木材統制法の成立過程に関する一考察」の結語部分には以下のようにある。

 

  やや性急な規定が許されるとすれば、資源を持たない後進帝国主義・日本にとって、資源が無いために開戦し、資源が無いために敗戦した、といえよう。そして数少ない国内賦存資源としての森林資源は、金属・石油資源に代替することまで要請され、いわば森林資源の総動員体制を形成することが促迫された。なかでも木材は、軍需の激増・産業の軍事化が進むにつれ、量的・質的確保が緊要な課題となった。
  いっぽう輸入の遮断・需要の急増によって、内地材の増産が急務となりながら、その生産・流通構造は、産地が分散し供給パイプが細いため、軍需増大に対応できなかった。しかも統制経済下の基本原則であった低物価政策・生産費主義に対し、立木価格が公定化できない現実は、すでに醸成されていた木材資源所有と木材生産との矛盾を拡大せざるをえなかった。
  そのような状況に対して、陸軍の介入をともないながら、生産・配給機構に対する強力な国家統制と「経営の所有に対する優越」による矛盾の回避が企図された。(なお海軍は国家統制による木材調達のほか、「指定業者」として個人営業を温存した。
     (三井昭二 「木材統制法の成立過程に関する一考察--山林局官僚のプランと陸軍の介入を中心として」 1982 『林業経済研究 No102』 39~40ページ)

 

 三井氏は、

 

 資源が無いために開戦し、資源が無いために敗戦した

 

と、ミモフタモナイ言い方をしているが、まさにその通りであった。そして、

 

 数少ない国内賦存資源としての森林資源は、金属・石油資源に代替することまで要請され

 

とある通りで、船舶鋼材に代替しての木造船建造であり、金属貨幣の代替としての紙幣への「引換」であり、(今回は取り上げなかったが)石油資源の代替としての松根油の採集であった。

 

 

 

 これが戦時日本の国家総力戦状況の現実であった。

 

 

 

《記事一覧》

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 「撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-511f.html
  昭和18年の『週報』、『寫眞週報』記事により、木材供出の全国的展開の様相を読む
  (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」の補足記事)

 

 「溶鉱炉の火は赫々と燃えているが(戦時木造船の周辺 2)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-15f4ee.html
  昭和18年の『アサヒグラフ』記事により、木材供出の全国的展開の様相を読む
  (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」の補足記事)

 

 

 

 

 

 

 

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2019年4月 1日 (月)

総力戦下の猫

 

 

 戦争は人間の都合によるものだが、その悲惨に巻き込まれるのは人間だけではない。

 

 

 

 アジア太平洋戦争下の昭和19年(1944)秋、軍需毛皮の兎が不足したことから、軍需省・厚生省が飼い犬の毛皮供出献納を都道府県知事あてに通牒し運動が全国に展開した。ところが、北海道では早くも18年に犬毛皮の供出が始まり、19年には海軍の要請により飼い猫が加わった。運動と実施の主体は北海道庁と札幌市及び大政翼賛会北海道支部と札幌支部であり、実際の業務は国策会社の北海道興農公社が全道にまたがり行うという、官民一体となった運動であった。背景には国民を戦争協力体制へ導く教化運動があり、日中戦争(1937年)を契機に開始した国民精神総動員運動が翌年1938年の国家総動員運動へ、さらに1940年の国民統合組織の大政翼賛会運動へ発展・継続した。物資不足の代替に供出対象が飼い犬飼い猫という身近な愛玩動物へエスカレートした。社会全体を上意下達の全体主義が覆い、行政の末端の町内会までに草の根の軍国主義が及んだ一つの現象であった。
     (西田秀子 「アジア太平洋戦争下 犬、猫の毛皮供出、献納運動の経緯と実態―史実と科学鑑定」 2016 札幌市公文書館 事業年報第3号別冊 論考3冒頭の「要旨」より)

 

 

 今回は、戦時下の猫の受難について、西田氏のすぐれた論考を通して紹介してみようと思う。

 

 「戦時下の猫」と書いて思い出すのは、米国陸軍省による「Why We Fight」と題されたシリーズの一本、フランク・キャプラによる『Why We Fight: The Battle of Britain 』に登場する、ロンドン空襲下で市民と共にあるネコの姿である(29分5秒と37分25秒)。とても短いシーンの中に、空襲の惨禍の中で、ネコの存在が人々にもたらす安らぎが記録されている(https://www.youtube.com/watch?v=cSZnFo7JORo)。

 

 悲惨なのは、普仏戦争の際にプロシア軍に包囲され食糧補給の途絶えたパリから記事を送っていたヘンリー・ラブシェアの伝えるエピソードである。

 

 ラブシェアは、従軍記者に期待されていた強がりを軽蔑した。「私は、遠くから戦闘の匂いを嗅ぎつけて、その真っ只中に急行するという抗し難い欲望は持ち合わせていない。自分の好奇心を満たすためだけに頭部に砲弾を受けるなどは、私には愚の骨頂としか思えない……」。そこでラブシェアは一〇人から一二人が殺される毎日の砲撃のことは無視し、食糧補給が途絶えたために動物園の獣を食べ、やがてこれまでは食物と思われなかった物まで料理し始めたパリ市民の生き残りの決意を克明に書くことに専念した。
 ラブシェアが最近食べた献立の記事に読者はぞっとしながらも、『デーリー・ニューズ』の発行部数は着実に伸びていった。彼によると、猫は「ネズミとリスの中間の味ながら、独特の風味がある。美味である。子猫は、玉ネギで蒸し煮にするか、シチューにすると最高である」。ロバはマトンに似ているし、「ドブネズミのサラミ」はカエルとウサギの中間の味がした。イギリス人の彼には、犬を喰うのはとても無理だった。「私は、人間の友である犬を食べるときは、罪悪感をおぼえる。こないだはスパニエルを一切れ食べた。決して悪い味ではなく、子羊のようだったが、人食い人種の気分だった」
     (フィリップ・ナイトリー 『戦争報道の内幕 隠された真実』 中公文庫 2004)

 

 厳しい飢餓の中、追い詰められた人々に、ネコも食料とされてしまうのである。

 

 

 さて、西田氏の論考である。

 戦時下の日本で、飼い猫が毛皮の供給源とされてしまった事実を、史料に基づいて示したものだ。

 皮革・毛皮は重要な軍需物資であった。昭和12年以降の支那事変の拡大は、軍需物資としての皮革・毛皮の確保を切実な問題とさせた。

 

 昭和13年3月、戦時(事変)に際して人的および物的資源を統制、動員、運用するための国家総動員法が公布され5月に施行された。
 皮革は軍需品として国の統制下に入った。政府は生産力拡充の目的で(2)、昭和13年7月1日付けで皮革について次の商工省令を公布した。①「使用制限規則」、②「製品販売価格取締規則」、 ③「配給統制規則」これにより、皮革原皮の集荷・販売・配給が一元化された。全国の原皮を集荷統制し、各製革工場に販売、配給する権限を国から付与されたのは、東京原皮商業組合、大阪原皮商業組合、北海道では酪連であった。
 酪連は道内の原皮統制機関として13年8月から営業を開始した。皮革統制により商売不能となった道内の原皮仲買人は、酪連が道内28カ所の現地処理主任として採用した。道内各地の屠場で処理された原皮を札幌苗穂(14年に新設)の酪連皮革工場に集荷し、軍が買い上げた後に同工場で製革し、残りを民需用として販売した(3)。これらの毎月の取り扱い数量は所管の商工省に報告の義務があった。酪連は札幌市から委譲された屠場で処理した材料で軍用缶詰を製造し、第七師団に納入する一方、原皮の集荷・鞣革(牛・馬・豚)と兎毛皮生産についても軍需・民需両面の生産、販売を一手に担い急成長していく。
     (西田論文 
2-1-2ー論文にはページ数の表記がないので、以下、各節の番号で引用箇所を示す)

 

 肉は軍用缶詰に、皮革は様々な装具に用いられ、毛皮は防寒具として重要であった。

 兎の毛皮については、ナチスドイツでのエホバの証人をめぐるエピソードを思い出す(強制収容所で兎を飼育し、軍用毛皮の供給源としていた中での出来事)。

 

 証人たちは軍務を嫌悪した。そのため、毛皮が軍服に使われるというのでウサギの番さえ拒否することも起きた。その結果、何人かの女性囚は、ラーヴェンスブリュックとアウシュヴィッツ(オシフィエンチム)で反逆罪により死刑を執行された。
     (シビル・ミルトン 「エホバの証人」 ウォルター・ラカー編『ホロコースト大辞典』)

 

ナチスにより強制収容所に収容されたエホバの証人は、徴兵拒否にとどまらず広範な戦争関係業務拒否も貫き、(労働としては軽度であるはずの)「ウサギの番さえ拒否することも起きた」というのである。それが死刑に相当する「反逆罪」と位置付けられた背景として、軍用毛皮の確保の国家的重要性も考えておくべきであろう。

 

 さて、日本である。西田氏は特に北海道に焦点を合せているのだが、北海道空知郡農会により昭和12年(1937)9月、傘下の農家の実行組合長と組合員に宛てた「急告兎毛皮奉国」というチラシが紹介されている。西田氏による抜き書きを引用しておこう(チラシ原文にある振り仮名は略、アンダーラインは原文通り)。

 

〇膺懲の皇軍の、矢継早の勝利に伴ふて、兎毛皮の軍事品としての要求が彌々緊切必須の度を高めました。
〇零下三四十度の、寒冽なる戦場に於ける我等勇士に、暖かき兎毛皮付きの外套等を供することは、身も心も一層勇壮にし明朗にして以て三軍の士気を振はしむることとなるのであります。(略)
〇然るに、僅かの値ちがいに眩惑して(本年度は値ちがいのない計画ではあるが)商人の奪取に一任するが如きは、忠誠なる日本人魂の上から、不可解ばかりでなしに、見様によりては、非国民呼はりをも、さけ得ないことではないでせうか
〇陸海軍では、如何にしても予定の兎毛皮の納入を得なければならぬといふ、軍事上の最大急要の事情があるので、確聞するところによれば、全国農家飼育頭数の全部(来年に備ふべき種等は別として)買上げの計画であり、亦近く、国法では、兎毛皮海外輸出を禁ずることになるとのことであります。兎毛皮奉国の理由は之だけでも明かでせう。
実行組合会長各位、なにとぞ其の組合員の分を取りまとめて下さい。組合員各位、何卒衷心より、赤誠を以て、納入を敢行してください。
 学校の生徒諸君は、自分の飼育の分は、勿論ご両親が飼育している分でも、もし、ご両親が、気づかずにいるなれば、諸君が早速申し出て、兎毛皮奉国の実を挙げて下さい。

〇兎毛皮奉国! !!兎毛皮奉国! !!本年は是非少なくとも配当の枚数だけは、萬障を排して、町村農会を経て納入して、他府県、外支庁管内に比し断然優勝の成績を挙くるやふ、お互に努力奮闘したいと思ひます。
〇納入手続、価格、其他詳細のことは、町村農会よりお知らせ致しますが、各位からも御照会を願います。
     (2-3-2)

 

 北海道という土地柄からすれば、「零下三四十度の、寒冽なる戦場に於ける我等勇士に、暖かき兎毛皮付きの外套等を供することは、身も心も一層勇壮にし明朗にして以て三軍の士気を振はしむることとなるのであります」、すなわち「暖かき兎毛皮付きの外套等を供すること」の切実さは実感として理解・共有されるものであったろう。その上で「陸海軍では、如何にしても予定の兎毛皮の納入を得なければならぬといふ、軍事上の最大急要の事情がある」とし、「軍事上の最大急要の事情」を強調しているのである。それへの非協力に対し、「見様によりては、非国民呼はりをも、さけ得ないことではないでせうか」と脅迫的言辞も付け加えられての「急告兎毛皮奉国」なのである。上意下達の国家的行政的指示命令システムによるもの以前に、北海道空知郡農会は「兎毛皮奉国」を率先して展開しようとしていたのである。下からの「兎毛皮奉国」運動の盛り上がりなのだ。事変が始まって、まだ2か月の段階での話だ。

 

 その3年後、「事変発生以来暖かい防寒毛皮となり肉となって聖戦に尽くした幾多の軍用兎の霊を慰める」との趣旨で開催された、帝国農会による「軍兎祭」は全国的なものであったという(「兎毛皮奉国」の全国化を示す慰霊祭祀形式の軍需協力プロパガンダ)。

 

 昭和15年ころに兎関連の新聞記事が急増する。15年9月16日、中秋の名月の日を選び帝国農会は「軍兎祭」を日本全国各地で行った。「事変発生以来暖かい防寒毛皮となり肉となって聖戦に尽くした幾多の軍用兎の霊を慰める」とある。「修祓(しゅうふつ)、献選、招魂祭の儀についで農林次官(代理)、道農会会長、陸軍被服支廠札幌出張所長森中佐、札幌地方海軍人事部斎藤中尉ほかの奉奠(ほうてん)があり慰霊祭を終り、被服本廠長より道農会へ感謝状、郡農会より道内市町村、小学校養兎家、軍兎の功労者256人へ表彰状授与。北光小学校児童の「兎のダンス」の余興が披露された」。国益に叶うなら兎の霊も慰める「軍兎祭」のように、国家に捧げた命の犠牲を儀式化することで、一般国民に報国を知らしめる戦争プロパガンダ(宣伝)が増えていく。
 「少女ら兎を献納札幌市北光小学校では『学童養兎報国団』をつくり四年生以上の二百五十名が学校から子兎一頭ずつをもらい受け、自宅で空箱を利用して」6か月間育てたあと、学校で酪連の技師による審査を受け、肥育の良い200羽が「酪連を通じて戦地の兵隊さんの外套の襟として献納」された。この兎飼育運動は来年も続けるとあり、昭和19年には学校単位の競争に発展する(『北海タイムス』昭和15年10月17日、『北海道新聞』昭和19年2月19日)。2016年の現在、校庭の隅の兎小屋で兎を飼育する小学校が見受けられるが、もとは戦時下の兎飼育奨励の毛皮献納運動に始まっている。
     (2-3-4)

 

 「軍用兎の霊を慰める」一方で、「学童養兎報国団」をつくる小学校もあり、「昭和19年には学校単位の競争」にまで発展する。西田氏による「2016年の現在、校庭の隅の兎小屋で兎を飼育する小学校が見受けられるが、もとは戦時下の兎飼育奨励の毛皮献納運動に始まっている」との指摘は興味深い(起源は忘れ去られている)。

 

 しかし、「兎と兎皮の集荷数は昭和14年26万8000羽をピークに下降し、昭和20年はピーク時の1割に届かないまでに減少した。北海道庁が12年にたてた5カ年計画は農家12万戸に24羽ずつの割当飼育で年間288万羽の兎毛皮を見込んだ。最盛期14年の48万羽でさえも2割にも満たない大きな計算違いであった(2-3-6)」と西田氏は実情を明らかにしている。

 

 17年度は大政翼賛会が主体となって陸軍・海軍・農林・文部各省と帝国農会の協力により全国的な家兎大増産運動を展開し農家はもちろん学校・家庭にも飼育を奨励したが収入の少ない養兎はなおざりにされて家庭労働力も減少し「頼みの学童飼育でさえ労力を緊急方面に動員された」ため全国的に運動の成果が上がらなかった。17年度の兎毛皮は14万8600枚で3000枚の増産にとどまった。18年度は道庁・農業会・興農公社の3者が一体となって飼育と供出を勧奨したところ、家兎の公定価格が3割引き上げられ、さらに北海道の特殊事情により公定価格よりも百匁につき2銭の歩合を付けたが自家用屠殺が増えて集荷数は13万9700枚と前年よりも8900枚の減少となった。配給制に頼る食糧難が続くと、自宅で飼っている兎は良質のたんぱく源として、家族の胃袋を満たしてくれる存在となった結果である。19年の全道生産が20万羽あっても、興農公社が兎肉を集荷できなかったということを現している。航空服用の毛皮に兎が入手できなくなった北海道庁と興農公社、大政翼賛会の運動が非常時対策として次に着目したのが、飼い犬飼い猫の毛皮供出献納運動であった。
     (2-3-6 )

 

 総力戦下での戦時動員は多方面に及び、労働力不足はどの産業でも深刻化した(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)」も参照)。農家にとっても学校でも養兎どころではなくなりつつあったのである。さらに食糧難は兎を「良質のたんぱく源」として自家消費させるところに追い込む。戦時日本の限界の典型的事例であろう。

 そこで着目されたのが飼い犬であった。

 

 西田氏は昭和18年4月2日の『北海道新聞、「毛皮報国ワン公も滅私奉公」と題する記事を紹介している(3-2-3)。

 
 街頭を横行する野犬を大東亜戦を勝ち抜くための毛皮報国のために御役にたてる妙案が札幌市翼賛会支部で実施されることになった。
 畜犬毛皮の献納運動は翼壮、青年団員の勤労奉仕によることとして準備中であったが、野犬の捕獲は、狂犬病を有するものがあって、相当危険なので警察当局と打合わせの結果、畜犬に限り連合公区長及公区長を煩はして、飼い主から献納申し込み徴収し、四月六日まで市役所公区係に提出させることになった。その方法は、次の通りで、札幌支部では野犬報国運動の徹底を期してゐる。
一、各公区で献納が十頭以上あるときは申込書と同時にその公区の一定の場所に集め、引渡し月日を市公区係に通知すること。(ただし四月十日までを献納期間とす)十頭未満の場合は、献納主より直接豊平毛皮工場に引付けのこと。
二、興農公社の買収代金は、大政翼賛会札幌支部(公区係)を経て国防献金として同時に支部に報告すること。

 

 昭和19年2月1日の北海道庁経済部長、警察部長名による「野畜犬毛皮献納運動実施ニ関スル件」の「野畜犬毛皮献納運動要綱」では、

 

 一、趣旨兎毛皮ハ酷寒地第一線ノ将兵並ニ航空将兵ノ衣料トシテ眞ニ欠クベカラザル重要ナル軍需資材ナリ然ルニ輓近軍用兎ノ増殖ヲ図ルモ野畜犬ノ被害ニ依リ飼育頭数激減スルノ状勢ニアリ。決戦下寔ニ寒心耐ヘザルモノアルニ鑑ミ本運動ヲ実施シ軍用兎ノ増産ヲ計ルト共ニ野畜犬毛皮ヲ献納シ軍兎毛皮ノ不足ヲ補フヲ目途トス

 

との理由付けがされている(3-2-4)。北海道庁の発行する『北海道庁公報』第3306号(昭和19年2月2日)の表紙には「野畜犬進んで奉公さあ! 今だ!」の標語とイラストが掲載されている(3-2-5)。

 「進んで奉公」の実際は、殺されて毛皮となることである。その決断・協力を飼い主に求めたのである。

 既に人間には「玉砕」の名による戦死が慫慂され、やがて特攻という名の自殺攻撃が求められるようになる時代の話なのである。大日本帝國の戦争、総力戦は、果てに「一億総玉砕」なるスローガンまで編み出すに至る。言葉通りに理解すれば、日本人全員が戦死するという話だ。飼い犬だって「進んで奉公」するのが当然なのである。ただし、それは飼い犬自身の意思の問題ではなく人間の都合の問題なのであった。

 

 

 西田氏によれば、飼い犬飼い猫を毛皮の供給源とする発想については、先行事例があった。

 

 北昤吉衆議院議員が第七十五回帝国議会衆議院予算委員会の質問で、第一次世界大戦時に独逸が行った例を挙げ、「軍用犬以外の犬猫は全部殺してしまふ、さうすれば皮は出る、飼料はうんと助かります。」と犬猫不要論を唱えた。それに対して畑俊六陸軍大臣が、「犬を全部殺して愛犬家の楽しみを奪ったが善いか悪いかと云ふことに尽きましては、尚ほ折角研究を致したい」と答を回避した。北議員は「犬は豚や鶏と違い、唯物を食って大して益する所がない。皮が不足しているので犬猫を撲殺することに陸軍が努力してはどうか、非常時であるから統制を強化しなければならぬ。軍用犬以外の犬猫は全部殺してしまへば皮は出る、飼料はうんと助かります。農林大臣には犬猫の数及び一年の飼育に要する分量等御聴きしたい。独逸では現にあった」という持論を展開した。
     (3-2-2)

 

 既に昭和15(1940)年2月13日、衆議院予算委員会の場で、北昤吉は「皮が不足しているので犬猫を撲殺することに陸軍が努力してはどうか、非常時であるから統制を強化しなければならぬ。軍用犬以外の犬猫は全部殺してしまへば皮は出る、飼料はうんと助かります」と主張していたのである。

 北海道での取り組みとの関連はわからないが、昭和18年の「毛皮報国ワン公も滅私奉公」に先立つ議論が対米戦争開戦の前に(支那事変段階において)行われていたのである。

 しかし「犬は豚や鶏と違い、唯物を食って大して益する所がない」との前提、そして「皮が不足しているので犬猫を撲殺することに陸軍が努力してはどうか、非常時であるから統制を強化しなければならぬ。軍用犬以外の犬猫は全部殺してしまへば皮は出る、飼料はうんと助かります」と展開される主張には言葉を失う(平成日本の用語法に従えば「犬猫には生産性がない」であろうか?)。が、やがて大日本帝國において北の主張は現実化するのである。

 西田氏は、昭和20年5月11日の鳥取県の鳥取県告示第百八十四号に、「軍需省厚生省通牒犬原皮増産確保竝狂犬病根絶対策要綱ニ基キ、畜犬ノ献納受入及供出犬買上竝野犬ノ掃蕩ヲ左記日時場所ニ於テ之ヲ施行ス」とあり、それが軍需省化学局長・厚生省衛生局長の連名による「犬原皮増産確保竝狂犬病根絶対策」およびその「要綱」の通牒(西田氏によれば昭和19年11月15日付)に基くものであることを確認している。北海道内での献納運動から全国展開に至ったのである。「毛皮報国ワン公も滅私奉公」がついに国策になったのである。

 こうして飼い犬の受難は全国展開される。

 

 飼い猫の方は、北海道限定だったようである。

 西田氏は昭和19年5月27日付の『北海道新聞』記事を引いている。

 

 犬猫の皮も軍用に買上げ犬は十円、猫は五円の公定価
 二十六日道会議事堂で開かれた北海道地方行政協議会に、在室蘭海軍主席監督官から『犬猫毛皮買ひ上げの件』が提案されたが、犬の毛とともに猫の毛も航空要員の防寒服にしようと、この協議会に華々しくとりあげられたもので、その集荷の方法や製皮関係も考へて犬猫皮回収策を決定した。
 集荷方法としては、市町村長が管内の畜犬、畜猫の率先供出を求めるほか、野良犬や、野良猫までもかり集めて、剥皮し、それを興農公社の各皮革工場でなめして立派な製皮として軍に納入することになってゐるが、興農公社では剥皮のままの猫の皮一匹約五円、犬の皮はその皮質や大小に応じて十円前後で買ひ上げる。剥皮されたものは、なめし料とか生皮のときに使ふ防腐用の薬代などを含んだ値段が軍納価格となってゐるが、これによって犬猫の皮にも公定価格が付されたわけだ。それはともかく、この犬猫毛皮の軍用実材化は、軍用兎毛の不足を補う海軍当局の非常手段である。
 犬猫もただならぬといわれた不仲も、戦争必勝には見事に解消し、空の武具として仲良く出陣することになったもの。
 なほ、堵殺の時期は冬が一番であって、すでに時期遅れの感があるが、全道的に約二万頭の犬猫が動員される予定であり、今冬のいはゆる堵殺時期には道樺民の協力で、相当数の供出が期待されているが、当局は、犬猫の献納運動も進める方針である。
     (3-2-6)

 

 「在室蘭海軍主席監督官から『犬猫毛皮買ひ上げの件』が提案されたが、犬の毛とともに猫の毛も航空要員の防寒服にしようと、この協議会に華々しくとりあげられたもの」とあるように、「猫毛皮の軍用実材化 」を提唱したのは海軍関係者であったらしい。

 昭和19年11月10日付の『北海道新聞』記事では、

 

 兵隊さんの温い防寒服へ犬や猫を全道から供出しょう
 北の前線に戦ふ兵隊さんの防寒服用として道庁では昨年初めて献犬運動を起こし、翼賛会や興農公社の協力を得て全道から百三十頭の野良犬の毛皮を集め供出したが今年は陸海軍の要望もあり大々的な献犬献猫運動を展開、温かい防寒被服を沢山送らうと意気込んでゐる、道庁北方農業課の皮算用では道内の野畜犬は十五万頭、そのうち二割が軍用犬、番犬、運搬犬で、他はすべて主なき野良犬または飼主は居ても食餌を与へぬ野良犬同様のものばかりといふ、しかも犬による家畜被害は昭和十七年の調査によれば一年間に兎三万五千頭、鶏三万一千羽、緬羊六百四十頭で、兎は総飼育数の十五%に達してをり、兎の飼育者から「兎の毛皮を増産するなら犬を退治してほしい」との悲鳴さへあがってゐる本道第一の軍用兎飼育地である上湧別村が野犬の徹底的撲滅はもちろん畜犬の全廃によって犬害の恐れなく、全村一体の養兎報国に邁進してゐる例のみならず戦争にはつきものといはれる狂犬病を未然に防ぐ上からも野犬狩り、畜犬の取締りを一段と強化しなければならぬわけだ
 猫は家鼠の駆逐にも必要とあってその一部を供出させる方針でこれら供出犬猫の処置は一切興農公社が引受けるが供出は犬猫とも毛の密生した十一月から春三月までがよく、割当ては近く市町村から通牒されるはず。
     (3-2-7)

 

このように「献犬献猫運動」の成果が語られている。当時の全体状況としては、

 

 集荷・処理事業を実施した興農公社は「18年度は兎毛皮だけでは需要を満たすことができず、リス・いたち・きつね・オットセイ、犬、ネズミまで集めて毛皮増産に拍車をかけた。19年度は海軍の発注により犬・猫その他の毛皮を集荷したが、とくに犬、猫については道庁と公社が中核となり、市町村当局ならびに諸団体、公社地方工場の協力を得て、全国的に有名となった献犬、献猫運動を起こした。ネズミは樺太で前年野ネズミが発生し60万枚の毛皮があるという調査から、海軍の買収命令を受け、公社職員が樺太庁と大泊の海軍要港部の援助を求め各地を回ったが大半は既に処分され、ようやく5万枚を獲得することができた」という。
     (4―1)

 

このように(小さな)野ネズミの毛皮まで対象とされるまでに追い詰められていた。その中での北海道の飼い猫の受難なのである。

 

 もちろん、飼い主にとっては可愛い飼い犬であり可愛い飼い猫である。昭和20年6月13日付の『日本海新聞』の「親子三代犬納物語」と題された記事では、

 

 戦ふ日本の軍需皮革としてお役に立てて下さいと、県下千八百匹の畜犬、野犬は今献納、供出運動に応召してゐるが、現在までに応召した畜犬は六百五拾六匹で約三分の一、以下は県衛生課の話。
 愛玩、番犬中には「この犬を取られたら生きてゐる気がしない」と哀願する人、「時局は認識してゐるが、犬だけはゆるしてほしい、永年家族同様に飼ってきたものだから」と歎願する人また逆に食ってかゝるものもあるといった具合でこの傾向は概して有力者とみられる層に多い、然し鳥取市吉方の元市議常田幸治氏などは、分娩して間もない親仔犬を伴れてきて、「仔持ちで可哀そうだがこれも勝つためだ、親仔ともに供出します、もし仔犬の皮が役立たぬならすてゝ頂けばいい、それからこれはこの親犬の親の毛皮でなめしたものですが、これも一緒にお役に立てて下さい」と親、子、孫三代の犬を一とときに献納してゐる。
     (4-2-1)

 

このように、「仔持ちで可哀そうだがこれも勝つためだ、親仔ともに供出します、もし仔犬の皮が役立たぬならすてゝ頂けばいい、それからこれはこの親犬の親の毛皮でなめしたものですが、これも一緒にお役に立てて下さい」と自身の飼い犬を率先して献納する模範的(とされたであろう)人物の姿の一方で、愛犬家らしく「「この犬を取られたら生きてゐる気がしない」と哀願する人、「時局は認識してゐるが、犬だけはゆるしてほしい、永年家族同様に飼ってきたものだから」と歎願する人また逆に食ってかゝるもの」のあることも記されている。

 

 献納された飼い猫の受領證が残されている。

 

 受領證

 畜猫壱匹

  右軍需用毛皮供出トシテ正ニ受領候也
   昭和二十年二月二十二日

           札幌市長三澤寛一市長押印
 納者

    牧スミ殿

 

 牧スミさんにとって人生のかけがえのない伴侶であったかも知れない大事な飼い猫は、一枚の受領證と引きかえに「軍需用毛皮」として「供出」された。すなわちスミさんの愛猫は、大日本帝國の軍需(という人間の都合)のために命を奪われたのである。

 

 さらに西田氏は、殺処分の現場に立ち会った人物の証言を記録している。

 

【証言a】昭和20年2月頃興農公社の殺処分のアルバイトをした
 証言者:国民学校高等科を卒業後のこと。当時15歳の少年。
 興農公社の知人から処分作業のアルバイトに誘われた。昭和20年の2月か3月頃の冬に4,5人の処理班とともに岩見沢、滝川、江部乙、新十津川、雨竜町のオシラリカ(尾白利加)川を覚えている。主に農村地帯を馬橇で廻り、5日間程度の日程を旅館で宿泊しながら11、12カ所で作業をした。
 岩見沢では朝、旅館から出かけて行った。幅1メートルくらいの小さな川の側で、兎や猫を連れてきた人が一列に並んだ。農協の受付係の人が「兎、犬、猫」と書いて、1匹50銭か1円の時もあった。連れてきた人の眼の前で、金槌で殺すんだ。怖がっていたよ。自分も怖かった。なるべく苦しまないように眉間を狙うんだ。
 滝川では農協の職員が小さな机を置いて、猫や犬を連れてきた人に一匹当たり1円を支払い、帳面につけていた。女性の事務員も一人いた。皮を剥ぐとカマスに入れて塩をぶっかけて、塩漬けにして興農公社に送っていた。友人の一人は作業が怖くなり、途中で止めて自宅に帰った。
 今でも忘れられない。時々夢を見る。孫娘から「おじいちゃんは戦争中にそんな悪い事をしていたの」と言われるのが一番怖くて、家族には一言も話していない。「兵隊さんも戦場で戦っているのに、犬もお国のためにならなければ」と言われていた。戦争の時は惨いことをしたもんだ。(場所:札幌市文化資料室。2007年6月西田秀子聞き取り)

【証言b】学校の帰り道犬猫の処分を見ていた
 当時前田村(現・共和町)の集会所証言者加藤光則さん(当時10歳)
 当時は国民学校の5年生、学校でも白米弁当は姿を消しました。季節風に小雪の舞う寒い日でした。学校の帰り、部落の集会所の空き地に雪穴が掘られて周囲を雪壁でかこってました。その中から男の人の声が聞こえてきて、何だろうと友達と近寄って穴を覗き込みました。で、
息を飲んだんですよ。雪穴の中は一面が血の色に染まっていて、雪壁の縁には犬猫の毛皮と裸にされた犬猫が山積みになっていました。
 「子どもは来るな」と怒鳴られました。男の人が口の閉じたカマスを金槌みたいな斧みたいなもので数回叩きつけてました。カマスの口を空けた途端に、猫が飛び出して雪壁を駆けあがり、ポプラの木に駆け上った。怖くて身震いしていました。急いで家に帰り、父親に話すと、「犬猫の供出だ。戦地の兵隊さんに送るんだ」と。「農家はネズミ捕るやつ一匹だけ残していいんだ」。それ以来、供出は忘れられません。(2007年6月西田秀子聞き取り)
 動物の命奪っておいて人間だけが幸せになるなんてできやしませんよ。弾が飛んでくるとこだけが戦場だと理解したら、とんでもないです。(2015年談話)
     (4-3)

 

 実に生々しく、痛ましい。

 

 

 

 西田氏は「北海道内の実施状況」として以下の数字を示している。

 

 初年度の18年度は犬皮のみ2,627枚、19年度は北海道庁が道内各市町村長宛てに割当頭数を通達したことから犬皮1万5000枚、猫も4万5000枚で合計6万枚が供出された。これを種類別にみると、猫が4万5000匹で、犬3万157頭と猫の供出が犬よりも1万5000匹多い。割当頭数と比較してみると、4年間の合計犬3万頭は、昭和19年度の1年分の割当2万9664頭と同数。猫は19年度だけで4万5000匹供出されており、割当1年分の約7万7000匹の6割が供出されている。換言すれば、18年の戦時中から4年間で(引用者註:付表の年度が昭和18年から昭和21年となっている)北海道内の飼い犬が3万頭、猫は4万5000匹が供出されて殺処分となり毛皮にされたということである。
     (4―1)

 

 3万頭の飼い犬、4万5000匹の飼い猫の受難(すなわち「供出されて殺処分となり毛皮にされたということ」)である。戦時下、国家の求めに従わざるを得なかった愛犬家・愛猫家の心情はどのようであっただろうか。もっとも、人間にも国家のための戦死が慫慂されてた時代の話である。

 

 

 

 このように、西田氏による丹念な史料探索と見出した体験者による証言は、戦時期のイヌネコの運命を明らかにした。

 西田論文はそれだけで終わらない。続く第5章でのアプローチに、私は敬意を抱く。西田氏の問題意識は、以下のように展開していくのである(引用部は「戦争遺品の毛皮同定(鑑定)検査の目的」と題されている)。

 

 本章では、戦時中の犬や猫の毛皮供出献納運動によって集荷された毛皮類が、献納運動の趣旨の通り実際に将兵の防寒着に使用されていたのだろうかという疑問について検討・考察する機会としたい。しかしこの件に関する明確な記録や関係者による証言が残されていないことから、次の方法を取ることにした。
  ①日中戦争・太平洋戦争期の防寒着や防寒靴には、どのような動物の毛皮が使われていたのか。
  ②その結果を当時の陸軍被服廠の「製造仕様書」と照合し、一致と不一致を確認する。
 すなわち当時の史料である防寒着などの「製造仕様書」と、実際の戦争遺品の防寒着・防寒靴から毛を採取し、同定検査(鑑定)した結果とを照合・検証し、事実を確認することが目的である。
 検証作業に当たっては、次の道内の三博物館・資料館に所蔵されている戦争遺品から、博物館職員により所蔵保管に影響のない範囲内で動物の毛皮の毛を採取し、試料を提供していただいた。また、同定(鑑定)検査については、次の専門家三人に依頼し、結果の回答を顕微鏡写真とともに所見をいただいた。
     (5-1)

 

 そこから得られた知見も実に興味深いものである。

 

 今回の同定(鑑定)検査によって判明した動物の種類と、当時の陸軍被服廠による防寒外套の仕様書とを照合する。
 まず、3005-90(半袖)昭和17年製の左小袖腋回りにはネコ、右袖にはウサギの毛が使われていた。製作年から該当する仕様書を調べてみると、「陸軍被服品仕様聚下巻/第1編成品被服/第3款特殊地方用被服」(6)という昭和14年の仕様書を綴った史料が見つかった。その「一五四頁」の「其の二防寒外套真綿裏(人口毛皮製)昭和一四年一二月一四日被臨仕第一一一号改正」のなかに、「皮革兎毛皮小袖裏」とある。
 また「一五七頁」には、「防寒外套真綿裏(人口毛皮製)臨時材料調書昭和一四年五月二九日被臨仕第三六号制定」があり、そのなかに「皮革兎毛皮色相ヲ限定セズ猫、小羊等使用シ得」とある。つまり基本は兎だが、臨時に「色相は限定しないで猫、小羊など使用しても良い」となっている。
 ネコもウサギも、この昭和14年制定の仕様書と一致した。仕様書通りに製作されていた。つまり、犬、猫毛皮供出献納運動(昭和18年以降)よりも以前から、遅くとも昭和14年以降は、防寒外套に猫毛皮の使用を陸軍省管理の被服廠が公的に指示していた、という事実が確認された。
     (5-3-2)

 

 西田氏が依頼した科学的鑑定から明らかになったのは、「3005-90(半袖)昭和17年製の左小袖腋回りにはネコ、右袖にはウサギの毛が使われていた」事実であった。さらに史料探索による「昭和14年の仕様書」の内容確認を通して、「つまり、犬、猫毛皮供出献納運動(昭和18年以降)よりも以前から、遅くとも昭和14年以降は、防寒外套に猫毛皮の使用を陸軍省管理の被服廠が公的に指示していた、という事実」が、科学的鑑定からも公文書からも明らかになったのである。

 「献犬献猫運動」として推進される以前に、既に現場では「猫毛皮の使用」は行われていたのである。「皮革兎毛皮色相ヲ限定セズ猫、小羊等使用シ得」との規定が示すのは、当時の毛皮流通事情の中で、猫、小羊等の毛皮が入手可能であった事実であろう。入手可能であり、用途に適った毛皮として、猫と小羊が指定されているということではないか。しかし、その流通量は軍需を満たすには少なく、ついに(入手の容易な)飼い猫の犠牲を飼い主に強いるようになったのが、「献犬献猫運動」以降の展開であった、ということか。

 もう一度、その数を確認しておこう。

 18年の戦時中から4年間で北海道内の飼い犬が3万頭、猫は4万5000匹が供出されて殺処分となり毛皮にされた
     (4―1)

 いずれにせよ、戦争という人間の都合の犠牲にされた猫の姿を、深く心に刻んでおきたい。ネコの生命を粗末にする国ではやがて人間の生命も粗末に扱われる、という話ではなく、構図は逆転しており、人間に自身の生命を粗末にすることを強いる国家においてネコの生命も粗末に取り扱われることになったという、戦時期日本を象徴するエピソードであった。

 

 

 

 

 今回は、西田秀子氏の論文に依拠した、論文からの引用の多い記事となってしまったが、言うまでもなく、私の関心に基づく抜粋に終始している。この論考の魅力は、紹介し尽くせてはいない(註:1)。ぜひ、論文そのものを味読することをお勧めする。以下にリンク先を示す(4つのPDFファイルに分割されている)。

 

西田秀子 「アジア太平洋戦争下、犬猫の毛皮供出、献納運動の経緯と実態-史実と科学鑑定」 2016

事業年報第3号別冊<研究論考編> 札幌市公文書館

論考3-1(PDF:4,245KB)2(PDF:2,726KB)3(PDF:4,142KB)4正誤表(PDF:277KB)

 

 

 

【註:1】
 記事中で言及した「急告兎毛皮奉国」というチラシや「献納された飼い猫の受領證」は画像で掲載されているので、ぜひ確認して欲しい。
 また、それ以外にも様々な画像資料(史料画像だけでなく鑑定画像も含む)も採録されており、実見しておく価値があるものと思う。
 個人的には、数多く掲載された『北海道廰公報』の表紙が興味深いものであった。特に昭和19年2月16日の第3317号の表紙を飾る、「決戦生産・決戦増産/設置だ!保育所/乳幼児は保育所へ/一家揃って増産へ」の文字には、戦時期小平の託児所であった「津田こどもの家」の姿(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)」参照)と重なるものがあり、総力戦下の女子動員事情も窺われ、感慨深いものであったことを記しておきたい。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2019/04/01 09:49 → https://www.freeml.com/bl/316274/324357/
 投稿日時 : 2019/04/01 09:52 → https://www.freeml.com/bl/316274/324358/)

 

 

 

 

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2019年3月24日 (日)

カチンの拳銃弾 4

 
 

 

 一九四三年(昭和十八年)二月の最終の週間に、ソ連領土の奥深く、スモレンスク(ソ連西部の古都、ドニエプル川上流に臨み、中世期以来、通商、交通の中心、当時人口十五万)の西方数マイルの地点に駐屯中の独軍第五三七通信連隊のテレタイプ(印字電信機)は、独軍の野戦警察が、同連隊の露営地区内でポーランド軍将校の多数の死体を発見した、と報告した。彼らはどれくらい多数であるかを正確には知らなかったが、数千名の死体であることは確実であった。
 その死体は皮製のたけの高い長靴をはいて、胸には皮製の弾帯をめぐらし、その多くは功績と武勲を示す勲章をつけていた。各人はその頭部を撃ち抜かれていた。彼らはソ連の土地で、いくつもの集団墓場の中で発見されたが、彼らを射殺した弾丸はドイツ製のものであった。
     (J.K.ザヴォトニー 『カティンの森の夜と霧』 読売新聞社 1963  25ページ)
 
 
 これが、いわゆる「カチンの虐殺」の事実が明らかになる発端であった。
 問題は、集団墓場の中に死体となって発見された数千名のポーランド軍将校は、何時そして誰によって殺害されたのか?である。

 1939年9月1日、対ポーランド戦を開始し、ポーランド国内に西から進撃したのはドイツ軍であった。次いで9月17日にはポーランド国境の東からソ連軍がポーランド攻撃に加わった。当時のドイツとソ連は「独ソ不可侵条約」によって同盟関係にあり、条約の秘密議定書には両国によるポーランド侵攻と領土の分割が、明記されていたのである。ポーランドは9月27日に降伏し、以後、ポーランド領土の西側はドイツの占領下となり、東半分はソ連に占領され、ポーランド軍将兵は、それぞれドイツとソ連の収容所に送られた。
 1941年6月22日、今度はドイツがソ連に侵攻し、ドイツとソ連の同盟関係は終わる。ソ連は連合国の一員となり、最終的に勝利者となった。
 ポーランドの降伏後、ポーランド人は亡命政府をロンドンに設立し、連合国側で故国の占領者であるドイツとソ連との闘いを続けていたが、1941年6月の独ソ戦開始以降は、連合国の一員となったソ連との同盟関係の選択を余儀なくさせられた。
 ソ連国内の収容所に収容されていたポーランド軍将兵も解放され、連合国のソ連と共に対独戦争に参加することとなったが、集合地にはポーランド人将校の姿は、ほとんど現われなかった。消えたポーランド将校団の行方は、ポーランド亡命政府にとっても、もちろん占領下のポーランド人にとっても、追求すべき問題であったわけである。亡命政府当事者は、ソ連国内での捜索努力を続けたが、何も得られぬままに1943年の2月を迎えていたのであった。
 
 
 ドイツ宣伝相ヨージェフ・ゲッベルスの個人的日記の中には、一九四三年(昭和十八年)四月九日の日付の下で、次のような記述が発見されるであろう。
 「ポーランド人の墓の大群がスモレンスク付近で発掘されている。ボルシェヴィキ党員(共産主義者、ソ連軍をさす)が約一万名のポーランド軍捕虜をあっさり射殺してから、穴を掘って墓の中に埋め込んだのだ……」
 おそらく、この身の毛もよだつようなものすごい発見を、ゲッベルス宣伝相の注意を喚起するようにしたのはドイツの従軍記者であろう。一九四三年(昭和十八年)四月十三日午前九時十五分(ニューヨーク時間)に、ドイツのラジオ放送は連合国の団結を打ち砕くことをねらった宣伝をいっせいに電波にのせた。それは全世界に向けて、ポーランド軍将校が大量にソ連軍の手で殺害されたことを発表した。このドイツ側の声明にもとづくと、連合国側の一国の政府が、その同盟国の将校団の約半分を殺してしまったように思われた。
 その翌日、ソ連側の激しい反応は、マスコミのあらゆる可能な手段によってばらまかれた。ソ連政府の情報局は一九四三年(昭和十八年)四月十五日に声明を発表し、「一九四一年(昭和十六年)に、スモレンスク西方で建設工事に従事していたポーランド軍捕虜は、ドイツ・ファシストの死刑執行人の手中に陥った……」ので、その後に処刑されたのであると闡明した。…
     (前掲書 25~26ページ)
 
 
 独ソはそれぞれに、ポーランド将校団殺害の犯行を、相手の行為として断じたのである。
 ところで、問題のカチンの森とはどのような場所であったのか?
 
 
 カティンの森は、スモレンスク市西方約十マイルのところにあった。…(中略)…一九一七年のロシア革命後に、この地区はソ連政治警察の管轄下に置かれていた。
 ドイツとポーランド両国筋によると、一九二九年(昭和四年)ごろに、この森の周辺には「GPU特別地区、許可されない人の立ち入りを禁止す」という標識が立っていた。一九三一年(昭和六年)に、この森の一地区は鉄条網で取り囲まれた。その付近に居住しているソ連市民たちによると「さらに、立ち入り禁止の警告の張り紙が下げられた」といわれる。そして大きな家が、墓の大群の発見された地点より半マイルばかり離れたところに建てられたが、それは政治警察の係り官のための休息所として使用された。一九四〇年(昭和十五年)からソ連軍が撤退するまでの間、この全地域は、警察犬の護衛を伴った政治警察の保安隊員(NKVD)が巡察していた。
     (前掲書 26~27ページ)
 
 
 つまり、独ソ戦開始後にドイツに占領されるまでは、カチンの森はNKVDの管理下にあった土地なのである。ソ連内務人民委員部(あるいは中野五郎訳では政治警察)の管理する土地であったのだ。

 1943年にドイツ軍がポーランド軍将校の多数の死体を発見したのは、そんな性格の土地なのであった。
 
 
 

 

 一般の世論は、ドイツ軍に対し非難の指をさし向けた。発見された死体がドイツ製の弾丸で射殺されていた事実から、ドイツ政府は現地調査を行なうために、独立した国際調査委員会と、ポーランド赤十字委員会、ドイツ特別法医学委員会などを招待することに踏み切った。
     (前掲書  27ページ)
 
 この国際調査委員会とポーランド赤十字委員会のほかに、ドイツ特別法医学委員会も、また調査活動をしていた。この三つの調査委員会の各委員は、その調査期間中に、まったく独立して行動していた。そして独自の立場より結論に達したが、それは三つの個別の最終報告の中に述べられていた。これらの報告書は、そのもっとも重要な詳細な点で一致しているから、カティンの森の調査結果に関する次の記述は、これらのすべての報告と、さらに他の筋より収集した適切な補足にもとづいたものである。
 さてカティンの森では、八つの集団的な墓が発見された。それは深さ六フィートないし十一フィートの中に、死体がいっぱい充満していた。一般に、これらの死体の埋葬には特殊の方式がとられていた。彼らは顔を下にして両手をわきに置くか、または両手を身体の背後でしばられ、両足をまっすぐに伸ばして横たわっていた。しかも死体は一つずつ互いに重なり合って、十段か十二段になって積まれていた。
 その死体は全部、例外なく後頭部を撃ち抜かれていた。たいていの場合、これらの人々は、ただ一回で射殺されていた。しかし二回撃たれていたものもいくらかあったし、ある場合には頭蓋骨を三発の弾丸で粉砕されていた。概して弾丸を撃ち込まれたところは首筋の上であり、その発射方向は上向きで、弾丸は頭蓋骨を貫通して、鼻と頭髪のはえぎわの中間で顔の側面に抜けていた。
 二つの個別の墓が見つかった。その墓の中には、二名の、完全に軍服を着用した将軍の死体が発見されたが、いずれも一発で射殺されていた。赤外線の助けを借りて、その軍服を顕微鏡で分析した結果、この二名の将軍は、その冬外套のエリを立てたところを拳銃で撃たれたか、あるいは直接その頭部を撃たれたかして、処刑されたことが実証された。
 死体の大群の中の多数、とくに士官候補生と青年将校の死体は、その両手をしばられていた。これらの死体の発掘を目撃したある証人は、次の通り報告していた。
 「この第五号の墓より発掘された死体の典型的な特色は、その死体の全部の両手が背中で、白いナワで二重の結びめをつくってしばられていた事実であった。彼らの冬外套を頭部のまわりにかぶせて、しばりつけられていた。この冬外套は、同じ種類のナワで首の高さをしばられていて、時には二番目の結びめが犠牲者の頭上につくられていた。首筋にはただ一つの結びめがあり、そのナワの残部は背中を下方へ通って、しばられた両手のまわりにグルグルと巻きつけられた上、さらに首筋で、もう一度しばりつけてあった」
 「こんな風にして、犠牲者の両手は肩胛骨の高さまで引きつり上げられていた。犠牲者はこのような方法でしばり上げられていたので、いかなる抵抗もすることができなかった。なぜなら両手を動かすたびに、首筋のまわりのナワのくくり結びが堅く締まり、そのために、ノドを絞めつけるからであった。それのみならず、彼らは頭の上から冬外套をおおいかぶされていたために、どんな音を立てることもできなかった。処刑前に犠牲者を、このような風にしばり上げていたことは、死ぬ前に特別にくふうした拷問を加えていたものであった」
 このナワの結びめをつくる技術は、すべての実例で同一であった。そのナワは全部、同じ長さのものであったから、それが計画的に、事前に用意されたことは明白であった。現場でドイツ人の科学者が行なった、そのナワの顕微鏡検査によると、それはソ連製のものであることが判明した。また同じ種類の結びめが、ソ連製の衣服の残りぎれを身に着けていた数名の男女の死体についても発見された。これらの死体もまた、カティンの森の別個の墓穴の中で発見されたものであった。これらの死体を仔細に検視した結果、この人々は五年ないし十年前に同じ方法で殺害されたものであり、それは独軍が、この地方に侵入したときよりも数年以前の出来事であった。
     (前掲書  30~32ページ)
 
 
 この「ソ連製の衣服の残りぎれを身に着けていた数名の男女の死体」こそが、大粛清時に犠牲となったソ連国民の姿なのである。
 これが、カチンの森がNKVD(ソ連内務人民委員部)の管理下にあった土地であることの意味するところなのだ。
 カチンの森の奥でのNKVDの犠牲者は、まずは自国民だったのである。
 
 第二次世界大戦以前に大量の自国民を処刑・殺害してきたのと同じ手法(註:1)が、大戦に際してのポーランド軍将校の殺害においても用いられていたことが、これらの調査報告(ポーランド赤十字委員会には、抵抗運動メンバーも委員として参加しており、報告の信頼性は高い)から判明するわけである。 平時に、自国民の大量処刑・殺害を日常業務として効率的に実行してきた国家機関が、戦時には、他国民の効率的な大量処刑・殺害にその洗練された能力を発揮したのである。
 
 
 

 

【註:1】
 
  その死体は全部、例外なく後頭部を撃ち抜かれていた。たいていの場合、これらの人々は、ただ一回で射殺されていた。しかし二回撃たれていたものもいくらかあったし、ある場合には頭蓋骨を三発の弾丸で粉砕されていた。概して弾丸を撃ち込まれたところは首筋の上であり、その発射方向は上向きで、弾丸は頭蓋骨を貫通して、鼻と頭髪のはえぎわの中間で顔の側面に抜けていた。
     (J.K.ザヴォトニー 『カティンの夜と霧』 読売新聞社 1963  31ページ)
 
  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。
     (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)
 
   ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。
     (ザスラフスキー 『カチンの森』 173ページ 「訳者あとがき」より
 
 (ブローヒンについては「カチンの拳銃弾 3」を参照)
 
 
 
 
 
(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/09/07 21:36 → https://www.freeml.com/bl/316274/170641/
 投稿日時 : 2011/09/12 21:32 → https://www.freeml.com/bl/316274/170949/)
 
 
 

 

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2019年2月 2日 (土)

カチンの拳銃弾 3

 

 

 「カチンの虐殺」として知られる、ソ連という国家によるポーランド人捕虜の大量殺害。その現場には効率的大量殺害に公務として従事した処刑人の姿があった。効率的な処刑には専門性が必要であり、彼らは洗練された大量殺害技術の保持者であった。その専門性と技術は、ポーランドとの戦争に先立つ時期に、ソ連国内でソ連国民を処刑する中で磨かれたものであった。そんなソ連の処刑人を代表する人物と考えられているのが、ポーランド人捕虜殺害の際も活躍したヴァシリー・ブローヒンである(「ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった」)。

 前回、「ブローヒンが従事したのは効率的な処刑=殺人であり、それが彼とその部下にとっての日常業務(「メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまで」)なのであった」と要約したが、あらためて、効率的な処刑=殺人の詳細について確かめておきたい。

 

  カリーニン虐殺はモスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮した。ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参、三人は駅の引込み線に止められた、電話交換機を入れた食堂車に寝泊りした。

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。

  拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた。反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない。大量処刑のカチン事件では、ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた。

  看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。

  監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。

 

ブローヒンの役割・手法について、前回までにこのように紹介した(「カチンの拳銃弾 1」及び「カチンの拳銃弾 2」参照)。さらにザスラフスキーの著作を読み続けてみたい。

 

 すべての解剖報告書は、処刑が執行の専門家によって行われたと証言している。ほとんどの犠牲者は後頭部の正確な個所を狙って一発の弾丸で殺されていた。二発目が発射されたのはきわめてまれである。報告書には、多くの場合に将校たちが抵抗したと記録されている。多くの将校には銃剣創が見られた。またある者は両腕が背中で特別な結び方で縛られたうえで首のまわりに繋がれていた。これだと手を動かせば首が閉って窒息する。射殺はNKDVの特別部隊が実行した。NKDVには数万の「処刑専門家」がいて、殺害と死体隠しの訓練を受けていた。ナチ親衛隊の銃殺執行隊とちがって、NKDVの銃殺執行隊は犠牲者から金歯を抜いたり貴重品を取り去る命令を受けていなかった。だから死体発掘にさいして結婚指輪と金歯がポーランド将校の遺体に残っていたと記録されている。
 検屍記録はあきらかに矛盾する技術的細部を正確に書きとめていた。なかでも拳銃と銃弾はドイツ製でありながら、創傷はソ連軍が使っていた四刃の銃剣による刺殺を示していた。それに、犠牲者を縛っていた縄はソ連製だった。ブルデンコ委員会は銃剣と縄を無視しながら、ドイツ製弾丸が射殺に使われた事実を最大限利用して世論の大きな反響を勝ちえたのだ。以前に国際医学調査委員会が説明したところでは、拳銃はカールスルーエ近くのグスタフ・ゲンショウ社がヴェルサイユ条約後にドイツの兵器需要が激減したため、ソ連、ポーランド、バルト諸国に大量輸出するために製造されたものだったが、この事実は意図的に無視された。今やソ連公文書館の文書によると、NKDV銃殺執行隊がドイツ製拳銃と口径七・六五ミリの弾丸「ゲコ」で装備されていたことが確認されている。
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 126~127ページ)

 

 カチンでの屋外での処刑(「カチンで処刑を統率したのはモスクワから来た処刑人ではなく、スモレンスクNKVD監獄長グリポフ保安中尉、次長グヴォズドフスキー、ステルマハとみられる。これにスモレンスクNKVD監獄の看守、運転手、それにミンスクNKVD本部から派遣された処刑専門家がくわわったという説が有力」)と、カリーニンでの屋内での処刑(「モスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮」)では状況が異なることに留意しておく必要がある。ここに記されているのは、集団として自身の運命が明らかな中で次々に殺害されたカチンでの検証記録(解剖報告書)である。カリーニンでの個室での殺害では、被害者は抵抗を考える以前に、すなわち抵抗し銃剣で傷付けられることなく殺害されていたと考えられる。

 いずれにせよ、「すべての解剖報告書は、処刑が執行の専門家によって行われたと証言している。ほとんどの犠牲者は後頭部の正確な個所を狙って一発の弾丸で殺されていた。二発目が発射されたのはきわめてまれである」とカチンの「解剖報告書」にも記されており、「執行の専門家」の熟練度が窺われる。

 

 根岸隆夫氏による「訳者あとがき」には、カリーニンでNKDV責任者であったトカリェフ(トカリェフは国境警備隊からNKDVに移動したときは大佐だったが、カリーニン虐殺でベリヤに認められ、1954年に少将に昇進した)による1991年3月20日の証言(軍事検察官ヤブロコフ中佐との質疑応答)の紹介がある。

 

 トカリェフ  ブローヒン、シネグボフ、クリヴェンコがモスクワ本部から処刑人として到着したときに拳銃を詰めこんだスーツケースを持ってきました。
 ヤブロコフ  どんな拳銃ですか。
 トカリェフ  ヴァルターですよ。
 ヤブロコフ  弾薬はなんですか。
 トカリェフ  ヴァルター用ですよ。有名な拳銃です。口径は知らないけれどドイツ製です……
 ヤブロコフ  監獄を描写してください。
 トカリェフ  ここが地下室。ここに囚人監房があります。ここが「赤い隅」で、そこから処刑室まで廊下があります。「赤い隅」で本人確認がおこなわれ、そこから廊下を通って処刑室に連れていき銃殺です。小さい部屋です。扉があって中庭に向かって開きます。そこから死体を出して、待ち受けているトラックに載せます。
 ヤブロコフ  監獄から「赤い隅」まで捕虜は一人ずつ連れてこられるのですか。
 トカリェフ  そうです、一人ずつです。「赤い隅」には政治ポスターが何枚か貼ってあります。政治教育に使われていました。だからレーニンの部屋と呼ばれました。
 ヤブロコフ  処刑室にはなにもないのですか。
 トカリェフ  荷台がひとつありました。
 ヤブロコフ  いつもウォッカがあったということでしたが。
 トカリェフ  箱で買いこんでいました。銃殺と埋葬にかかわっただれもが飲めるようにです。モスクワから来たブローヒンたち処刑人はパジャマ姿ですわって飲んでいましたね。かならず銃殺が終わってからで、その前や最中には飲みませんでした。ポーランド人の銃殺が終わると宿にしている引き込み線の食堂車で大宴会でした……
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 172~173ページ 訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

「捕虜は一人ずつ連れてこられる」のであり、処刑室は防音されており(「看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる」)、処刑されることへの予期は持ちにくい(多くの場合、抵抗を考える前に殺害されているはずである)。

 

 

 実際にNKDV(内務人民委員部)で処刑の任務に携わった人物による証言(「カチンの虐殺」への関与は語られていないが、多くのソ連国民を処刑した経験が語られている)が記録されているので読んでおきたい。

 

 「……わしは内務人民委員部の仕事に採用されたとき、ほんとに鼻高々だった。はじめての給料で上等のスーツを買ったんだよ。
 ……あのような仕事は……なんにたとえればいいのだろう。たとえるとしたら、戦争だ。しかし、わしは戦場ではらくだった。ドイツ人を銃殺刑にする、やつはドイツ語でさけぶ。ところが、こいつらときたら……こいつらはロシア語でさけぶんだ。なにやら仲間みたいだ……。リトアニア人やポーランド人を撃つのはもっとらくだった。ところが、こいつらときたらロシア語なんだよ。「でくの坊! 能なし野郎め! さっさと殺れよ!」畜生! わしは全身血まみれ……手のひらを自分の頭髪でぬぐっていた……。たまに皮製の前掛けが支給されることがあった。そういう仕事だった。勤務だ。きみは若いよ……ペレストロイカ! ペレストロイカ! しゃべくり野郎どもの話を真にうけておる。さけばせておくがいい、自由、自由と。広場をちょっと走らせておくがいい……。斧が置かれているんだ……斧はご主人さまがいなくなっても生きつづけるんだよ。覚えておけ。畜生! わしは兵士だ。命令されたから、やった。撃った。命令されたら、やるもんだよ。や・る・ん・だ・よ! わしが殺していたのは敵だ。破壊分子どもだ。正式な書類があった。「極刑に処す……」。国家の判決だ。あんな仕事は、願いさげだ! まだ息のあったやつは、たおれて、豚みたいにキーキーいって……血を吐いておった。けらけらわらってる男を撃つのは、とくに胸くそが悪かった。そいつは気が狂っているか、こっちをさげすんでいるか、どっちかなんだ。あっちからもこっちからも、号泣と汚いことば。あのような仕事の前には食事などできん……。わしは食えなかった……。いつものどがからからだった。水をくれ! 水だ! 酒を飲みすぎたあとのように……。畜生! 勤務時間の終わりにバケツがふたつ持ってこられた。ウォッカのバケツとオーデコロンのバケツ。ウォッカは仕事のあとで持ってきてくれた、仕事の前じゃなかった。どっかで読んだことがあるだと? それそれ、そこなんだよ……。いまではあらん限りのことが書かれている……多くはでっちあげだ……。わしらはオーデコロンで上半身を洗っていた。血は、鼻にツンとくる、一種独特のにおいがして……ちょっと精液のにおいに似ている……。わしの家にはシェパードがいたが、仕事のあとでは、わしによりつこうとしなかった。畜生! なんでだまってんだ。青二才め……未熟者めが……よく聞け! まれに殺すのが好きだという兵士がいたもんだ……そういうやつは銃殺班からよそにとばされた。やつらはあまり好かれていなかった。わしのような農村の出身者がたくさんいた、田舎もんは都会もんよりタフだ。ハラがすわっておる。死というものに慣れている。ある者は家で豚をつぶしたことがあったし、ある者は子牛を殺したことがあったし、ニワトリはだれでもしめたことがあった。死に……慣れさせなくてはいかん……。最初の数日間は連れていって見せる……。兵士たちは死刑に立ち会っていただけ、あるいは既決囚を護送していただけだ。すぐに発狂というケースもあった。耐えられなかったのだ。デリケートな問題だ……。うさぎをひねる、それだって慣れが必要で、だれにでもやれるもんじゃない。畜生! ひざまずかせて、ナガン連発式ピストルの銃口部を左後頭部につきつけて撃つ……左耳あたりに……。勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった。ほかのあらゆる場所のように、わしらにも割当量があった。工場の生産割当量のように。最初のころは、割当量をこなすことができなかった。物理的に遂行できなかったのだ。すると、医師が呼び集められ、立会診察がおこなわれた。その結果、週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった。右手と人差し指のマッサージ。人差し指のマッサージはどうしても必要だ、撃つときにいちばん大きな負荷がかかるんだ。わしに残ったのは、右耳の聞こえが悪くなったことだけだ。右手で撃っていたからだよ。
 ……わしらは「党と政府の特殊任務遂行に対して」表彰状をもらって、そこには「レーニン・スターリンの党の事業に献身的である」と書かれていた。上質紙のこれらの表彰状を、わしは戸棚いっぱい持っておる。年に一度、家族と一緒にりっぱなサナトリウムに行かせてもらった。最高の食事……肉がたっぷり……療養……。妻はわしの仕事のことはなにも知っちゃいなかった。責任重大な極秘の仕事、それだけだ。わしは恋愛結婚だった。
 ……戦時中は弾が節約されていた。もし海が近ければ……。平底船にぎゅうぎゅうに詰めこんだもんだ。船倉からはさけび声ではなく、けものの咆哮「誇り高きわがヴァリャーグ号は敵に屈せず/赦免はだれも望まない……」。一人ひとりの両手は針金で縛られていて、足には石が……。もし天気がおだやかなら……水面はなめらかで……やつらが底に沈んでいくのが長いあいだ見えていた……。なんだ、その目は。乳臭いやつめ! その目はなんだ! 畜生! 酒をつげ! そういう仕事……勤務だ……。きみが理解するために、話してやってるんだ。ソヴィエト政権はわしらにとって高くついた。それを大事にしなくてはならん。守らなくてはならんのだ。夕方、わしらが帰ってみると、平底船はからっぽ。死の静けさ。みんなの頭にあるのはひとつ。わしらが岸辺に出ていけば、わしらもそこで……。畜生! わしは、すぐ持ちだせるように、何年間もベッドの下に木のトランクを置いていた。替えの下着、歯ブラシ、カミソリ。枕の下にはピストル……。自分の額を撃ちぬく覚悟でいた。当時、みんながそんなふうに生きていたんだ。兵士も、元帥も。そこんとこは平等だった。
 ……戦争がはじまった……。わしはすぐ前線に志願した。戦闘で死ぬのはそれほどこわくない。祖国のための死だとわかっているからだ。すべてが簡単明瞭。ポーランドを解放していた、チェコを……。畜生! ベルリンの近くで自分の戦歴を終えた。二個の勲章と記章をもっておる。勝利だ! だが……その後に待っていたのは……。勝利のあと、わしは逮捕された。特務部のやつらがリストを用意していたのだ……。チェキスト〔国家保安機関の勤務員〕には、ふたつの道しかなかった。敵の手にかかって死ぬか、内務人民委員部の手にかかって死ぬか、どちらかだ。七年の刑をくらった。わしは、七年の刑期をまっとうした。いまでも……なあ、きみ……収容所時間で目が覚めるのだ、朝六時に。なんの罪で入っていたのか。なんの罪か、それはおしえてくれなかった。いったいなんの罪があるというのだ。畜生! 」
     (スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ 『セカンドハンドの時代』 岩波書店 2016  357~359ページ)

 

 かつてNKDVに処刑要員として(処刑の専門家として)勤務した人物の証言である。「NKDVには数万の「処刑専門家」がいて、殺害と死体隠しの訓練を受けていた」という中の一人だ。キャリアのスタートは戦前、大粛清の時代である。語られているのはその技術的詳細、処刑現場の状景の生々しさ、処刑要員としての心情。

 

  わしは全身血まみれ……手のひらを自分の頭髪でぬぐっていた……。たまに皮製の前掛けが支給されることがあった。そういう仕事だった。勤務だ。

  わしは兵士だ。命令されたから、やった。撃った。命令されたら、やるもんだよ。や・る・ん・だ・よ! わしが殺していたのは敵だ。破壊分子どもだ。正式な書類があった。「極刑に処す……」。国家の判決だ。

  あっちからもこっちからも、号泣と汚いことば。あのような仕事の前には食事などできん……。わしは食えなかった……。いつものどがからからだった。

  勤務時間の終わりにバケツがふたつ持ってこられた。ウォッカのバケツとオーデコロンのバケツ。ウォッカは仕事のあとで持ってきてくれた、仕事の前じゃなかった。

  わしらはオーデコロンで上半身を洗っていた。血は、鼻にツンとくる、一種独特のにおいがして……ちょっと精液のにおいに似ている……。わしの家にはシェパードがいたが、仕事のあとでは、わしによりつこうとしなかった。

 うさぎをひねる、それだって慣れが必要で、だれにでもやれるもんじゃない。畜生! ひざまずかせて、ナガン連発式ピストルの銃口部を左後頭部につきつけて撃つ……左耳あたりに……。

  勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった。

 ほかのあらゆる場所のように、わしらにも割当量があった。工場の生産割当量のように。最初のころは、割当量をこなすことができなかった。物理的に遂行できなかったのだ。

  すると、医師が呼び集められ、立会診察がおこなわれた。その結果、週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった。右手と人差し指のマッサージ。人差し指のマッサージはどうしても必要だ、撃つときにいちばん大きな負荷がかかるんだ。

 

 確かに「あんな仕事は、願いさげだ!」という言葉もある。自身への呪いの言葉と満足感が同居している。

 ここではドイツ製のワルサーではなく、ソ連製の「ナガン連発式ピストル」を使用していたこと、引き金が引かれたのは「左後頭部」に向けてであったことが語られている。ブローヒンの流儀を過剰に一般化するべきではないということなのだろう。しかし、「ナガン連発式ピストル」使用により「勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった」ために「割当量」を果たすことが困難となり、「週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった」エピソードからは、あらためてブローヒンのワルサーが、「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」との理由で選択されていたことが思い出される。

 

 「あんな仕事は、願いさげだ!」との言葉も吐いたこのチェキストは、しかし「名誉退役軍人」として特権を享受していた。「特別配給食料」としてサラミソーセージ、ブルガリア製のキュウリとトマトのピクルスの瓶詰、外国製の魚の缶詰、ハンガリー製の缶入りハム、グリーンピース、タラのレバーといった「当時、一般の人には手に入らなかったもの」を手にし、「官給の四〇〇平米の土地ではなく、どのくらいの広さだったか、もう正確には覚えていないが、そこには森林の一部も入っていた。古いマツ林だった。高い地位の人には、あのようなダーチャが与えられていたんです。特別な功績に対して。アカデミー会員や作家に」と対話者に語られるような特権的な生活を享受していたのである。公務としての効率的な殺人により得た特権である。

 そのような特権者が存在した国家。それがソ連であり、そのような特権者こそがソ連の国家権力を支えていた。処刑人の凄惨な現場の上に、日々の業務としての処刑の上に、「割当量」を果たそうと格闘する現場の上に、ソ連という国家は築かれていたのである。

 

 

 

 さて、あらためてブローヒンである。

 日本語の『ウィキペディア』をチェックしてみた(「百科事典」としての利用とは別に、ネット空間の中での対象への関心の程度を知る効果もある)が、現状(2011年9月6日、そして2019年2月2日に再確認)では「ブローヒン」の項目はなかった。しかし、「ニコライ・エジョフ」の項に、

 

 1940年2月4日、ニコライ・エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された。

 

という形で、ブローヒンの名が登場する(以下、2011年9月6日時点での記載内容である)。

 「カチンの虐殺」は1940年の4月から5月の話で、その直前の時期に、ブローヒンは、エジョフの処刑の実行者となっていたわけである。ただし、『カチンの森』によれば、その時点でのブローヒンの地位は「保安少佐(モスクワNKVD監獄長)」なのであり、『ウィキペディア』の記述は正確ではないように思われる(2019年2月2日現在でも「1940年2月4日、エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された」との記述のままであった)。

 

 さて、では、ニコライ・エジョフとは何者か? 再び『ウィキペディア』の「エジョフ」の項を参照すると、

 

 ニコライ・イヴァーノヴィチ・エジョフ(ロシア語;Николай Иванович Ежовニカラーイ・イヴァーナヴィチュ・イジョーフ、ラテン文字表記の例:Nikolai Ivanovich Yezhov、1895年5月1日 - 1940年2月4日頃)は、ソビエト連邦の政治家。1936年から1938年まで政治警察・秘密警察であるNKVDの長を務めた。国家保安総委員。ヨシフ・スターリンによる大粛清(大テロル)を実行し、天文学的な数の国民を虐殺したが、のちに自らも粛清対象にされて処刑された。

 エジョフの政治体制は、後世、「エジョフシチナ」(Ежовщинаイジョーフシナ;エジョーフシチナ、エジョフ時代、エジョフ体制の意)としばしば呼称される。

 

として要約される人物である。

  ヨシフ・スターリンによる大粛清(大テロル)を実行し、天文学的な数の国民を虐殺したが、のちに自らも粛清対象にされて処刑された。

とあるように、つまり、あの大粛清のシステムの中心人物であり、やがて当人も粛清の対象とされ、最後にブローヒンの手により処刑されたわけである。

 

 『ウィキペディア』は、エジョフの絶頂期の姿を、

 

 エジョフは、スターリンに対する忠実な支持者であったとことで知られる。1935年、エジョフは政治的反対勢力が暴力とテロリズムと結合して反国家・反革命に結合するに違いないと主張する内容の論文を発表している。これは粛清におけるイデオロギー上の基礎の一部となった。1936年ゲンリフ・ヤゴーダの後任として、9月26日に内務人民委員(内務大臣)、中央執行委員に就任し、翌1937年10月には党中央委員会政治局員候補となった。

 エジョフは粛清の第一段として、まず前任のヤゴーダ派の一掃に着手した。ヤゴーダ派の粛清で生き残った部下を自身の配下に組み入れることで、権力の基盤を磐石にしたのである。1937年3月、将校クラブに招集したNKVDメンバーの前の演説でエジョフは、前任者のヤゴーダが「ファシストのスパイ」として逮捕されたことを述べた上で、「無実の人間を10人犠牲にしてもいいからスパイ1人を逃してはならない。木を切り倒すときは木端が散るものだ」と主張した。また、自身の身長の低さに言及し、「私の身の丈は小さいが、両手は頑丈だ。-スターリンの意思を実行する両手だからだ」と述べた。

 エジョフは、スターリンの大テロルにおける忠実な執行者として君臨した。NKVDとGPUに徹底的な粛清を指揮し、前任者のヤゴーダ、ヴャチェスラフ・メンジンスキーが任命した多くの人員が解任、銃殺されたが、その中にはエジョフ自ら任命した者も含まれていた。エジョフはスターリンから粛清の命令を受けた際には、その一字一句をメモに書き残していたとされる。さらにはNKVDの部署内にさえも、二重・三重の監視網が敷かれた。

 エジョフはかつてレフ・トロツキーを支持していた重工業人民委員部次官ゲオルギー・ピャタコフらを公開裁判(第二次モスクワ裁判)にかけ、銃殺刑を言い渡した。これを皮切りにエジョフ体制下での粛清は猛威を振るい、ソビエト共産党指導者・官僚・軍人の半数、ほかにも数百万人の市民が政府への反抗・政府の転覆活動・反革命の容疑を受けて粛清の対象として逮捕され、容赦ない拷問の結果、処刑・追放・収容所送りに至った。

 1937年12月20日、党はボリショイ劇場において、NKVDの創設20周年を祝う大祝典を催した。会場には、スターリンの巨大な肖像と隣り合ってエジョフの肖像が架けられた。花でうずまるステージにおいて、ダークのコーカサス風のチュニックコートとベルトを締めたアナスタス・ミコヤンが、エジョフの仕事を賞賛し、「同志エジョフから、同志スターリンの方法を学びましょう!ちょうど、同志エジョフ自身が、同志スターリンから学び、これからも学び続けるであろうように!」と述べた。会場にいたある人物は、エジョフの様子を「彼はうつむき加減で、恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。まるで、こんな手放しの賞賛に自分は相応しくないという風だった」と伝えている。スターリンが、このときの様子をプライベートボックスから眺めていた。

 

と記している。

 しかし、その絶頂の翌年、

 

 1938年4月8日、ほかの役職はそのままに、水上交通人民委員を兼任したが、エジョフの役割は徐々に小さくなっていった。これはエジョフの権勢が衰微し、没落する予兆であった。党内で上位にある者を定期的に粛清するスターリンのやり方は、主にそのやり方を組織化する役割を果たしたエジョフも知っていた。同年8月22日、ラヴレンチー・ベリヤが内務人民委員代理に就任する。ベリヤは政治将校の政務のためにエジョフの権力を奪い始め、NKVDの実質的な責任者になった。

 連日のように粛清を繰り返したエジョフは、晩年には疑心暗鬼によって、自身の妻までも粛清している。すでに飲んだくれとなっていたエジョフはアルコール依存症に陥り、絶望的になった。最後の業務の月のエジョフは、陰鬱で、だらしなく、起きている時間はほとんど酒を飲んでおり、勤務のために現れたことは滅多になかったという。

 同年11月11日、スターリンとヴャチェスラフ・モロトフは、エジョフ体制下のNKVDを激しく批判した。エジョフは内務人民委員の解任を自発的に求め、11月25日にはベリヤが内務人民委員に就任した。

 

このように、手にした権力を失っていく。そして、

 

 1939年3月3日、エジョフはソ連共産党中央委員会における全官職を解任された。

 

という形で、スターリン体制における地位のすべてを喪失し、エジョフの立場は完全に逆転することになる。

 

 1939年4月10日、エジョフは逮捕され、スハーノフカ刑務所(en:Sukhanovka)に収容された。拷問に耐えることができなかったエジョフは、奇しくも、自らが多くの人間を処刑したのと同じ理由、すなわち「自分は公式に無能であること、ドイツの諜報機関と結託してスパイ活動を行い、クーデターを計画していた」と自白した。さらにエジョフは、「自分は性的に逸脱しており、男色家で異性愛者である」とも自白した。これはのちに証言によって部分的に補強され、のちの取り調べによってほぼ真実と考えられている。

 1940年2月3日、ソビエトの裁判官ヴァシリー・ウルリヒは、ベリヤの事務室において彼を審理した。エジョフの言い分は支離滅裂であり、前任のヤゴーダのように終始悲嘆に暮れ、スターリンへの敬愛を述べ続けた。エジョフは、ベリヤからスターリン暗殺計画の自白を勧められたが、これを拒否して「どうせこの地上から消え去るなら、高潔な人間として消え去ったほうがましだ」と述べた。エジョフは自身の弁明のためにベリヤの前に跪いて許しを請うが、再三無視された。そしてついに、「スターリンの名を呼んで死ぬ」と誓った。エジョフのスターリン暗殺計画の自白の拒絶は、自身の宣伝目的に役立つことはなかった。

 死刑判決が読まれたとき、エジョフは泣き崩れ、部屋から体ごと運ばれなければならないほどに生気を失った。目撃者によると、ベリヤはエジョフに服を脱ぐよう命令し、エジョフを叩くよう警備員に命令したという。エジョフは体ごと処刑室に運ばれ、しゃっくりし、泣きじゃくった。1940年2月4日、ニコライ・エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された。遺灰は、モスクワのドンスコイ修道院の集団墓地(en:Mass graves in the Soviet Union)に捨てられた。

 

というのが、大粛清システムの中心人物の最後のあさましい姿であった。

 

 しかし、このベリヤもまた、『ウィキペディア』の「ラヴレンチー・ベリヤ」の項によれば、

 

 同年(1953年)12月、ベリヤ、メルクーロフ、コブロフ、セルゲイ・ゴルギーゼ、デカノゾフ、メシク、ヴロジミルスキーの7人は、「英国の諜報機関と結託し、秘密警察を党と国家の上に置いてソヴィエトの権力を掌握しようとしたスパイである」と報道された。ベリヤは特別法廷において、弁護人なし、弁明権なしで、裁判にかけられた。裁判の結果、ベリヤは死刑判決を受けた。モスカレンコによると、死刑判決が下ったとき、ベリヤは膝を突いて泣きながら慈悲を乞い、助命嘆願をしたという。しかし、ベリヤはルビヤンカの地階に連行され、彼と彼の部下は、1953年12月23日にパーヴェル・バチツキーによって銃殺刑に処された。ベリヤの遺体はモスクワの森の周辺で火葬されたのち、埋葬された。

 

という最期を遂げることになるのであった。

 そのような政治体制の中で、「カチンの虐殺」は起きたのである。

 

 

 ちなみに、英語版の『ウィキペディア』には、ブローヒンの項目はあり、その最期についても記述がある。

 

 Blokhin was forcibly retired in 1953 following Stalin's death that March. However, his "irreproachable service" was publicly noted by Beria at the time of his departure.After Beria's fall from power in June of the same year, Blokhin's rank was stripped from him in the de-Stalinization campaigns of Nikita Khrushchev. He reportedly sank into alcoholism and serious mental illness, and died on 3 February 1955, with the official cause of death listed as "suicide".
     (Vasily Blokhin → 
https://en.wikipedia.org/wiki/Vasily_Blokhin

 

 ブローヒンはスターリン批判の中で栄誉を剥奪される。アルコールに溺れる日々を送り、公式には自殺として記録される最期であったらしい。

 そこに大量殺害者としての悔悟があったのであろうか?

 (私には、ブローヒンの悔悟など想像し難いが)

 

 

 

           (「カチンの拳銃弾 4」に続く

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/09/06 21:50 → https://www.freeml.com/bl/316274/170569/
 投稿日時 : 2019/02/01 21:04 → https://www.freeml.com/bl/316274/323553/

 

 

 

 

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2019年1月31日 (木)

カチンの拳銃弾 2

 

 

 ガス室のある収容所は数が限られていたことは、今でも知る人が少ない。もっとも有名なアウシュヴィッツ、トレブリンカ、マイダネクとシュトゥットホーフのほかにはヘウムノ、ソビブル、ベウジェツ、それにシュトゥットホートだけである。
 これに反して、ブッヘンヴァルト、ベルゲン・ベルゼン、シルメック、ノイエンガメ、マウトハウゼン、ラーフェンスブリュック、ザクセン・ハウゼン、フロッセンブルクにガス室はなかった。そこでは、収容者は緩慢な死を迎えるか、拳銃で項を撃たれるか、つるはしで殴り殺されるか、働いている採石場の高い所から突き落とされるか、であった。
     (アルベール・シャンボン 『仏レジスタンスの真実』 河出書房新社 1997 171ページ)

 

これもまた、昨日のルドルフ・へスの証言に加えて、

  後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する

というソ連の手法が、ナチスの強制収容所での収容者殺害においても採用されていた事実への言及(「拳銃で項を撃たれる」)である。

 小銃を構えた銃殺隊による銃殺刑という軍隊的スタイルや、機銃の乱射による大量殺害とは別に、「拳銃で項を撃たれる」殺害法もナチス体制の下で広く行なわれていたのだが、その手法の起源がソ連にあったのではないかというのが今回のテーマのひとつ、ということになろうか。

 

 

 前回記事(「カチンの拳銃弾 1」)で示した通り、「後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する」処刑法は、そもそもは、

 

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。
    (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

とあるように、ソ連秘密警察において愛好され洗練された手法であった。

 あらためて、その詳細について読み進めると、

 

 トカリェフの証言をまとめると、カリーニン虐殺(オスタシュコフ収容所の5291人のポーランド人捕虜は、カリーニンのNKVD本部の地下監房に移送され、別室で殺害された-引用者)はモスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮した。ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参、三人は駅の引込み線に止められた、電話交換機を入れた食堂車に寝泊りした。ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。処刑と埋葬にはNKVDの地方、中央をふくめてあらゆる階級の職員三〇名がたずさわった。看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。ブローヒンでなければカリーニンNKVDの総務部長ルバノフだった。監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。死体から手錠を外すと、中庭で待っている五、六台の無蓋トラックに積みこむ。いっぱいになると覆いをかぶせる。モスクワ=レニングラード街道(当時)にそって三〇キロばかり走ると、トヴェル川にのぞむメドノエ村がある。ブローヒンは村外れの塀のない埋葬地を選んであった。トカリェフの別荘から五〇〇メートル離れた森のはずれだ。一晩でトラックは二往復した。モスクワからブルドーザー二台と運転手が来て墓穴を掘り、死体を埋めた。植樹して隠そうとはしなかった。カチン、ハリコフとちがってカリーニンのドイツ軍占領は短かったので、発見されなかった。
 カリーニンでは合計六三一四人(オスタシュコフ収容所からの移送者以外の犠牲者も含まれる数字?-引用者)が銃殺されたが、一九九〇年に二三の墓穴が掘り返されたときには、死体の司法解剖は不可能だった。遺体は五十年経ち、土に戻っていた。
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 173~174ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

このように記されている。カリーニン虐殺における、ブローヒンの役割と手法の詳細に注目しておきたい。

 

  看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。

  監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。

 

 ブローヒンが従事したのは効率的な処刑=殺人であり、それが彼とその部下にとっての日常業務(「メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまで」)なのであった。

 

 

 ブローヒンの使用していたヴァルター二型拳銃(「ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参」とある)については、ワルサー社の「モデル2」を示すものであるのかどうか、検討の余地が残る。前回記事に引用した「拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた」との記述に示される口径から判断すると、口径6.35ミリの「モデル2」(1909年開発)には該当しない。口径7.65ミリのワルサー社の拳銃ということであれば、いずれも1910年代に開発された「モデル3」あるいは「モデル4」が存在する(註:1)。

 用いられた「後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する」処刑法からすれば、6.35ミリの小口径拳銃でも十分に役に立ちそうである。いずれにせよ、使用されたのはワルサー社の生産した拳銃であり、「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」というのが選択基準であった。「疲れが少ない」拳銃を用いて、効率的な処刑が遂行されたのである。そして、「死体から手錠を外すと、中庭で待っている五、六台の無蓋トラックに積みこむ。いっぱいになると覆いをかぶせる。モスクワ=レニングラード街道(当時)にそって三〇キロばかり走ると、トヴェル川にのぞむメドノエ村がある。ブローヒンは村外れの塀のない埋葬地を選んであった。トカリェフの別荘から五〇〇メートル離れた森のはずれだ。一晩でトラックは二往復した。モスクワからブルドーザー二台と運転手が来て墓穴を掘り、死体を埋めた」とあるように、死体処理も効率よく遂行された。

 日常的処刑業務を効率的に遂行するに際して「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」ことにおいて優位なドイツ製拳銃が、すなわち「ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた」のである。

 

 一方、ナチス・ドイツで愛用されたのは同じワルサー社のワルサーPP、あるいはPPKではないかと思われる。(内容的に妥当と思われるので、入力の手間を省き)『ウィキペディア』記事から引用すると、

 

 ワルサーPP(Walther PP)は、ドイツのカール・ワルサー社が1929年に開発したダブルアクション式セミオートマチック拳銃である。.22口径(5.6mm)、.32ACP口径(7.65mm)、.380ACP口径(9mm)の3種類がある。PPとはPolizeipistole(警察用拳銃)を意味する。

 1929年に開発される。ドイツ警察や再軍備宣言がなされたドイツ軍の将校用標準ピストルとして採用されており、国家社会主義ドイツ労働者党の制式拳銃でもあった。
     (2011/09/05 閲覧時の記述)

 

ということになる。その発展型にワルサーPPKがあるが、

 

 ワルサーPPKは、ドイツのカール・ワルサー社が開発した小型セミオートマチック拳銃である。警察用拳銃として開発されたワルサーPP(Polizeipistole)を私服刑事向けに小型化したもの。名称のKはもともと「刑事 (用)」を意味するクリミナールkriminalの頭文字だが、一般には「短い」を意味するクルツkurzの頭文字だと解釈されることも多い。

 1931年に発売開始。ヒトラーも、愛銃として使用しており、ドイツ警察(ゲシュタポ)や軍隊、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)で制式拳銃とされる。

 

とある通り、どちらもがナチス体制とも縁の深い拳銃である。

 

 

 処刑の効率について、

  屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。

とあったが、ナチス関係のものを読んでも同様の効率性は伝わってくる。しかし、ナチスは、ガス殺というより効率的な手法を開発した点において、ソ連の共産主義者を超えたわけである。

 

 

 いずれにしても、

  ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。

とされるブローヒンの人物像には、ソ連の共産主義の歴史の一面が深く刻印されており、いろいろと興味を引くところがある。

 

 

 

          (「カチンの拳銃弾 3」に続く)

 

 

 

【註:1】

 ワルサー モデル1は、ドイツのワルサー社が1908年に開発した、同社初のポケットピストルである。
 作動方式はシンプルブローバック、トリガーはシングルアクションで発射する。スライドはオープントップデザイン。フレーム左側後部にクロスボルト式のマニュアルセイフティ(シアを固定)を備えている。フロントサイトはあるが、リアサイトはスライド上面の溝を利用するスナッグフリーデザイン。銃身にはテイクダウン用のバレルシュラウドが被せてあり、これを取り外すことで分解するという独特な構造をしている。形状や細かな仕様の違いで、5つのバリエーションが存在する。
 元々は「Selbstlade Pistole Cal.6.35」という名称だったが、後続モデルが登場した際に「モデル1」に改名された。
 1909年には改良モデルの「モデル2」が登場。スライドをフルカバーデザインに変更し、全体的なバランスの見直しを図っている。他にも、内蔵式ハンマーに変更、グリップ底部のマガジンリリースレバーの大型化、マニュアルセイフティをレバー式に変更、などの改良が施されている。初期型には、チャンバーインジケーターを兼ねる可動式リアサイトとマガジンセイフティが備わっていたが、後期型では製造工程とコストを省くため、両機能とも廃止されている。モデル1ではロングタイプだったテイクダウン用のバレルシュラウドは、銃口先端を覆うショートタイプのものに変更された。
 「モデル4~モデル8(モデル5を除く)」になるとサイズが大型化するが、1921年には再び小型モデルの「モデル9」が登場。オープントップスライドでストライカー式という特徴はモデル1と変わらないが、よりオーソドックスなデザインになっている。ただし、マニュアルセイフティの位置はフレーム左側後部ではなく、トリガーガード左側後部に変更された。

モデル
 全長 銃身長 重量 口径 装弾数

モデル1
 112mm 50mm 360g .25 ACP 6+1
モデル2
 113mm 50mm 277g
モデル3
 127mm 67mm 472g .32 ACP 8+1
モデル4
 151mm 88mm 521g
モデル5
 113mm 50mm 269g .25 ACP 6+1
モデル6
 210mm 121mm ?g 9mm×19 8+1
モデル7
 135mm 76mm 360g .25 ACP 8+1
モデル8
 130mm 73mm 364g
モデル9
 99mm 51mm 260g .25 ACP 6+1
     (MEDIAGUN DATABASE→ 
http://mgdb.himitsukichi.com/pukiwiki/index.php?%BC%AB%C6%B0%B7%FD%BD%C6/%A5%EF%A5%EB%A5%B5%A1%BC%20M1

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/09/05 21:18 → https://www.freeml.com/bl/316274/170528/

 

 

 

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2019年1月30日 (水)

カチンの拳銃弾 1

 

 

 これからしばらく、80年前のポーランド人捕虜の運命(1939年の9月1日、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻、同年9月17日にはソ連がポーランドの東側国境から侵攻し、ポーランドは両国により占領された)を振り返るところから始めて、20世紀の全体主義的ユートピアを支えた人間像―特に処刑人とその犠牲者の姿に焦点を当てることになるだろう―について考える機会としたい。

 

 

 コゼルスクから最初の捕虜の一隊を乗せた列車は、四月三日(1940年の話-引用者)の午後に出発した。捕虜は汽車で四時間くらいかけて、スモレンスクを通過して郊外二〇キロばかりの小さな駅に着く。そばをドニエプル川が悠々と流れている。この年の春は遅く、残雪があった。着剣し小銃をもったNKVD(ソ連内務人民委員部)警護・護送部隊が厳重に警戒するなかを、黒塗りの囚人輸送車に押しこまれて、二メートルの金網を周囲にめぐらしたNKVD管理下のカチンの森に入り、三キロ離れた山羊が丘(斜め丘との解釈もある)のある広々とした空き地に連れていかれる。そこには三月はじめに、スモレンスク監獄の囚人を使って八つの矩形の墓穴が掘られていた。深さは二メートルから三メートル。二人の兵隊が捕虜を一人ずつ両脇で腕を抑え、矩形に深く掘られた墓穴の縁で跪かせるか立たせる。後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する。犠牲者は墓穴に倒れこむ。死体は顔を下にして九層から一二層積み重ねられた。
 拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。モスクワNKVD本部は手練れの処刑人一二五人を、ブローヒン少佐を長としてポーランド将校銃殺のために派遣した。しかし、カチンで処刑を統率したのはモスクワから来た処刑人ではなく、スモレンスク
NKVD監獄長グリポフ保安中尉、次長グヴォズドフスキー、ステルマハとみられる。これにスモレンスクNKVD監獄の看守、運転手、それにミンスクNKVD本部から派遣された処刑専門家がくわわったという説が有力だ。しかし資料は十分ではない。ゲシュタポがNKVDに殺人手段で勝るのはガス殺だけだといわれる。拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた。反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない。大量処刑のカチン事件では、ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた。弾丸には、ドイツの弾薬メーカー、ゲンショウを意味するGECOと刻まれていた。ソ連はカチン事件をドイツ軍になすりつける口実にこの弾丸を使ったが、すぐに底が割れてしまう。というのも、第一次大戦後に軍縮で不況をかこったゲンショウ社が、この弾丸をさかんに、ソ連、バルト三国、ポーランドなどに輸出していたのだ。
 いっぱいになった墓穴には土がかけられ、松の苗木が植えられた。その樹齢で埋葬時期が科学的に推定され、ドイツ軍占領以前の一九四〇年春ころが特定され、NKVDの犯行を裏付けた。処刑されることを知って、捕虜が最後の抵抗をしたことは、遺体の状態から想像に難くない。後ろ手を縄で縛られ、それが首にまわされ、暴れると首が絞まるようになっていた。また将校用長外套をまくりあげて頭上で縛ってある遺体も、抵抗したからと推測される。口におが屑やぼろ切れが詰められた遺体もあった。使われた縄はあらかじめ一定の長さに切り揃えてあってソ連製だった。
     (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169~170ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

 

 ここで、私は、軍事裁判と人質処刑のことにふれねばならない。ただし、ここではポーランド人の場合にかぎる。人質は、大方はもう長いこと収容所に入れられていた。彼らが人質だったことは、彼ら自身にも収容所指導部にもわかっていなかった。
 やがて、突然、保安防諜部だか国家保安本部だかからの命令を伝える電報が一通きた。それには、以下の抑留者を人質として、銃殺もしくは絞首刑にせよ、とあった。数時間のうちには、その完了を報告しなければならなかった。該当者は、その作業場から連れもどされ、また点呼によってえらび出され、処刑場に連れて行かれた。
 すでに長らく抑留されていた者たちの多くは、そのときすでにその決定を知り、少なくとも何が彼らを待ちうけているかを予感していた。処刑場で処刑命令が下された。
 初めの時期、一九四〇~四一年ごろには、彼らは部隊の処刑司令部によって、銃殺に処せられた。後になると、絞首刑にされたり、一人ひとり小銃で頭を撃ちぬかれたり、また、病院で寝たきりの病人なら注射で殺されたりした。
     (ルドルフ・へス 『アウシュヴィッツ収容所』 サイマル出版会 1972 108ページ)

 

 

 1939年9月、まずドイツがポーランドに侵攻し、続いてソ連がポーランドの東半分を占領した。独ソ不可侵条約の秘密議定書の取り決めに従い、両国はポーランドを侵略し分割したのであった。

 ドイツによる占領においても、ソ連による占領においても、ポーランド人への取り扱いは過酷を極め、ソ連による「カチンの虐殺」もその一端に過ぎない(註:1)。

 カチンでソ連が用いたのは、

 

  後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する

 

という手法であったが、これは親衛隊あるいはゲシュタポも採用したナチスにとっても重要な殺害手段のひとつであった。

 「ここで、私は、軍事裁判と人質処刑のことにふれねばならない。ただし、ここではポーランド人の場合にかぎる」との限定が付されたアウシュヴィッツ収容所長ヘスの証言にも、「一人ひとり小銃で頭を撃ちぬかれたり」との記述がある通りである(ここで「小銃」と訳されている語は、「拳銃」を意味していたのではないだろうか)。

 また、その手法は、そもそもはソ連における粛清の歴史の中で、国内向けに用いられ洗練されて来たものなのである。再確認すれば、

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。モスクワNKVD本部は手練れの処刑人一二五人を、ブローヒン少佐を長としてポーランド将校銃殺のために派遣した。

との構図(「拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった」)である。引用中に登場するブローヒン少佐は、「一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった」(同書「訳者あとがき」)ような人物であり、ソ連の国民を処刑することにおいて既に豊富な経験を持っていた(そのブローヒンが「手練れの処刑人一二五人」を指揮していたことは、NKVDは既にそれだけ―実際にはそれ以上であろう―の人数の「拳銃による処刑」の専門家を擁していたことを示す)。つまり、ポーランド人は、最初の犠牲者ではない。

 

 

 あらためてソ連の捕虜となったポーランド人の運命について確認しておくと、

 

 三収容所の約一万五五〇〇人の捕虜は、カチンをふくめて後述するように銃殺される。くわえてウクライナ、ベロルシアで七〇〇〇人の将校捕虜が銃殺された。その他に三九年秋にドイツ軍に引き渡されたり、移送途中や、強制労働収容所で死んだ捕虜は一三万三〇〇〇人と推定される。これを合わせると一五万五〇〇〇人のポーランド人捕虜がソ連で犠牲になったと推定されている。
     (『カチンの森』 160ページ)

 この三収容所の収容者は一万四八五六人、そのうち三九五人はなんらかの理由で他の収容所へ移され、その多くが九死に一生を得た。残りの一万四四六一人(一九五九年三月にNKVDの後身KGB議長シェレーピンはフルシチョフに、一万四五五二人とする覚書を送っている。いずれにしても、カチン関連の数字は末尾一桁まで出ているのがいくつもあるが、どれが真実かわからない。ただ真実に近い)とウクライナ、ベロルシアのNKVD監獄に収監されていた約七〇〇〇人の将校たち、合わせて約二万二〇〇〇人が、一九四〇年四月から五月にかけてNKVDによって銃殺された。
     (『カチンの森』 161ページ)

 

つまり、カチン関連でのポーランド人犠牲者数は約2万2000人。全体では15万5000人ということになる。

 

 ザスラフスキーによれば、

 

  一九三九年終わりまでに、ソ連占領地域のポーランド将校は根こそぎ逮捕された。特別命令で、下士官とオサドニツィは将校と同等とみなされ、収容所に拘禁された。逮捕された将校の一部だけが職業軍人で、大多数は予備役だった。かれらはポーランド軍に動員されたばかりでソ連の手に落ちた新聞記者、大学教授、医師、弁護士、技師、芸術家たちである。
     (前掲書 24ページ)

 

とある通り、ポーランドの予備役将校を構成するのは、そのままポーランドの知識人階級であり、カチンでのポーランド将校殺害は、ポーランド知識人の殺害を意味してもいるのである。

 ここでは知識人が、反ソ抵抗運動の中核となることが予期され、その防止策としての殺害が実行されたのである。ザスラフスキーの『カチンの森』の日本語版サブタイトルは「ポーランド指導者階級の抹殺」であり、イタリア語で書かれた原著のタイトルは『階級浄化―カチンの虐殺』である。「虐殺」のターゲットとなったのが特定の階層のポーランド人であった事実を反映した表題である。

 

 その発想はナチスにも共有され、ポーランド知識人はドイツに占領された地域では、アインザッツグルッペン(「特別行動部隊」などと訳される占領地での「敵性分子」の殺害に特化した部隊)による殺害対象の中核とされたのであった。

 ここで(いささかの手抜きではあるが、内容的に妥当と思われるので)『ウィキペデイア』の「アインザッツグルッペン」の項から引用すると、

 

 対ポーランド戦争に際してもポーランド占領をしやすくするためにアインザッツグルッペンが再度組織された。ハイドリヒは1939年9月21日にアインザッツグルッペンの指揮官たちを前に「ポーランドの指導者層・知識人層は絶滅されるべきである」などと訓示している。
 ポーランドのアインザッツグルッペンは、1隊・2隊・3隊・4隊・5隊・6隊・「フォン・ヴォイルシュ」隊の7隊により構成され、それぞれの隊の下にアインザッツコマンドが複数ずつ置かれた。ポーランド戦の際のアインザッツグルッペンの総員は2700名であった。それぞれ陸軍14軍、陸軍10軍、陸軍8軍、陸軍4軍、陸軍3軍、南部軍集団の進撃を後ろから付いて行って銃殺活動を行った。「フォン・ヴォイルシュ」は軍に付随せず、ドイツとポーランドの国境付近において銃殺活動を行った。
 ポーランド戦の際にアインザッツグルッペンの銃殺活動の対象にされたのは主に教員、聖職者、貴族、叙勲者、退役軍人などのポーランド指導者層、またユダヤ人、ロマなどであった。1939年9月1日から10月25日にかけてドイツ占領下のポーランドでは民間人16,000人以上が殺害されたが、そのうち四割がアインザッツグルッペンによるものとされる。
     (2011/09/04 閲覧時の記述)

 

と記されている通りである。ラインハルト・ハイドリヒは「ポーランドの指導者層・知識人層は絶滅されるべきである」と訓示し、部隊はポーランドの指導者層・知識人層の絶滅を実行した。

 

 

 ナチス・ドイツとソ連の両全体主義体制の発想と手法の共通性、そしてその犯罪性を考える際に、この「カチンの虐殺」は一つの象徴的事件と言えるだろう。

 

 米英は、カチンにおけるソ連の行為を知りながら、対枢軸戦争での勝利を優先し、連合国の一員となったソ連(1941年6月、ヒトラーのドイツがソ連との不可侵条約を破棄し対ソ戦争を開始したことにより、ソ連はヒトラーの側から連合国の側へと転換していた)に迎合し、ソ連によるポーランド人将校虐殺を不問にしたのであった。

 ポーランド人は、米英の政治的リアリズムによってもカチンの墓穴深く葬り去られ、忘れ去られようとしたわけである。

 

 

 

          (「カチンの拳銃弾 2」に続く)

 

【註:1】

 ポーランドの戦争補償局の報告(一九四七年)によれば、戦争中の死者は、実に戦前の人口の約五人に一人、六〇二万八〇〇〇人にのぼった。そのうち戦闘行為による戦死者は軍人・民間人を合せて六四万四〇〇〇人で、残りの五三八万四〇〇〇人が根絶政策に従って意図的に虐殺された。
 この中には二七〇万のユダヤ系ポーランド人が含まれている。戦前のユダヤ人人口は三三〇万人であったのだから、死を免れたユダヤ人はわずかに六〇万人ということになる。ユダヤ系ポーランド人を含めてポーランド国民はまさに絶滅の淵に立たされていた。
 一方、赤軍の占領下にあったポーランド人も、決して安全であったわけではない。ヒトラーが「占領者の権利」に基いてポーランドの領土を処置したのに対し、スターリンは、民族自決という一見民主的な手段を講じてほぼカーゾン線から東にあたるこの地域をソ連邦に併合した。つまりソ連政府は、独ソ秘密協定に従って、ヴィルノ地方をリトアニアに割譲したあと、残余の地域に二つの国民会議を創設させ、これにソ連邦への編入を宣言させたのである。ここでもロシア中央部に強制的に移されたポーランド人は一五〇万人にのぼったという。
     (山本俊朗・井内敏夫 『ポーランド民族の歴史』 三省堂選書 1980  187~189ページ)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/09/04 19:11 → https://www.freeml.com/bl/316274/170440/

 

 

 

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2018年12月27日 (木)

明治の悪童と修身 (『實驗 日本修身書巻八 高等小學 生徒用』)

 

 

 

 

 古本の価値というのは様々だと思うが、かつての持ち主の書き込みを読むという楽しみもある。もっとも、最近の出版物(出版後10数年程度)であれば、新本でないがゆえの安価な入手法としての古書店利用もあり、その場合は当然ながら書き込みのないものを選ぶ。

 

 しかし、戦後復興期以前の出版物となると、書き込みの内容から、当時の読者の関心のあり方を読み取るという楽しみ方もあり、あえて書き込みのある古書に手を出すこともある。

 

 

 

 今回は、古書市で手に入れた、落書き炸裂の明治期の修身教科書の紹介である。

 

 

 

 

 

 

 

 三宅米吉 中根淑 校閲 渡邊政吉 編纂 『實驗 日本修身書巻八 高等小學 生徒用』 (明治廿七年一月十六日 文部省檢定済) 東京 金港堂書籍會社 明治廿六年(1893)  定價 金七銭

 

 

 

 2015年に、改装前の立川フロム中武の古書市で購入。価は500円であった。

 

 

 

Photo_20191207172001

(表紙)

 

 

 

 表紙を一瞥して、特徴ある筆法(いわゆる「ひげ題目」系)から、日蓮宗関係の書かと思いきや、そうではなかった。修身の教科書!

 

 

 

Photo_20191207172401

(見返し)

 

 

 

 こちらも、タイトル部分は日蓮宗的筆法が加えられている(持ち主の生家が日蓮宗、という生育環境の反映か?)。

 

 肖像が誰のものかは、教養が足りず、不分明。筆描きの肖像の上方には、鉛筆描きによる富士山がある。題目風にあらためられたタイトルの下方には、「大日帝國萬歳萬歳萬歳」の文字もある。

 

 

 

 これだけでも、なんとも豪快な修身教科書への落書きだが、本文については至って真面目で、鉛筆による漢字表記への振り仮名が付されている程度である。

 

 

 

 

 

 そして…

 

 

 

Photo_20191207172601

(奥付、裏表紙の見返し)

 

 

 

 裏表紙側の見返しに描かれているのは、さらに豪快で怪異な西郷従道の肖像であった。やたら長い足に、股間からは謎の生物(?)の姿。

 

 ちなみに、従道は、

 

 

 

  さいごうつぐみち【西郷従道】
  1843‐1902(天保14‐明治35)
  明治時代の軍人,政治家,元老。本名は隆興,通称信吾。薩摩国鹿児島城下に生まれる。西郷隆盛の実弟。1869年(明治2)山県有朋とともに兵制研究のため渡欧(プロイセン,フランス,ロシア)し,帰国後兵部権大丞陸軍少将,兵部少輔,陸軍少輔,同大輔に進む。74年陸軍中将兼台湾蕃地事務都督に任ぜられ,政府の中止命令をおして台湾へ出兵した。76年征台の功により最初の勲一等に叙せられる。78年参議兼文部卿次いで陸軍卿に就任し,81年農商務卿,84年伯爵,そして85年内閣制の成立を機に海軍大臣となった。
     (平凡社/世界大百科事典 第2版)

 

 

 

このような人物である。経歴を反映して、落書上でも当初記された「陸」の字が消され(そのままでは「陸」軍大将)、従道の肩書は「海軍大将」に換えられている(背景には軍艦)。

 

 怪異な肖像が描かれた当時(従道は第二次伊藤内閣で海軍大臣に任じられていた)、すなわち明治27(1894)年は日清戦争の年でもある。先の「大日帝國萬歳萬歳萬歳」の文字も、そのような時代の空気を反映したものであろうか。

 

 

 

Photo_20191207172901

(見返しの裏)

 

 

 

 先の西郷従道の肖像は、見返しの上に描かれていたものだが、見返し紙は貼られた裏表紙の裏からはがされ、裏表紙の裏には鉛筆画が描かれている。「徳川時代風俗」、ということらしい。

 

 まだ明治20年代の話なので、「徳川時代」は持ち主の父母の生まれた時代である(たかだか20数年前まで「徳川時代」が続いていたのである―もっとも、描かれているのは徳川時代初期をイメージさせる戦闘モードの武将の姿であるが)。

 

 

 

Photo_20191207173001

(裏表紙)

 

 

 

 持ち主の名が記されている。この奔放豪快な落書きの作者は、当人の署名により、小川八郎君と判明。生年は明治10年代、1885年前後であろうか(19世紀の話なのだ)。

 

 裏表紙には、日清戦争らしき戦場が描かれている(まさに日清戦争最中の小川八郎君の高揚感が伝わる)。しかし、なぜか、戦場の手前を走るのは、軍服姿の帝國軍人ではなく、烏帽子姿の人物である(八郎君の想像力上の必然から生まれた表現であろうが、21世紀の私の想像力は、その「必然」に届かない)。

 

 

 

 

 

 「大日帝國」は日清戦争で勝利し、日露戦争で勝利し、第一次世界大戦でも勝者の側にあったが、支那事変以来の大東亞戦争では敗者となる。昭和20年には還暦前後となっていた小川八郎氏は、どのような老人(かつての日本では60歳は既に立派な老人である)となっていたであろうか? 「大日帝國」の近代をどのように経験したのであろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 『日本修身書巻八』の第十七課では、以下のように説かれている。

 

 

 

 

 

  人の質性は、生まれながらにして、完備せるはなし。されば、人皆自ら其の身の長ずる所と、短なる所とを知り、其の長ずる所を助けて、ますます長ぜしめ、其の短なる所を養ひて、漸く長ぜしめんことを務めざるべからず。斯くの如くするを、自ら其の身を修むといふ。自ら其の身を修むるは、何人にも極めて大切なり。人としては、多少父母教師の教へを受けざるものもなかるべければ、自修の心なくとも、無下に愚かなるものともならざるべし。されども、自修の心なきときは、父母教師の教へも、深く其の心に入らざるべければ、其の人に取りて、大いなる損なり。
     (第十七課 「修養」から抜き書き)

 

 

 

 

 

 この豪快に落書き(むしろ「落描き」と呼ぶべきか?)された修身教科書から、小川八郎少年は何を学び取ったのであろうか? この奔放豪快さを八郎少年の「身の長ずる所」として理解し、「其の長ずる所を助けて、ますます長ぜしめ」ようとした高等小學校教師との出会いはあったであろうか?

 

 

 

 

 

 

 

(小川八郎少年は、学校での修身の授業の度に、教室でこの教科書を開いていたのであろうか? とすれば相当な悪童である。 それとも進級して用済みになってから、教科書を落書帳へと転用したのであろうか? 本文ページが無事なところからすると、落書帳転用説も弱い。 やはり悪童説が妥当なのであろうか?)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

((オリジナルは、投稿日時 : 2018/12/27 13:02 → https://www.freeml.com/bl/316274/323029/

 

 

 

 

 

 

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2018年11月24日 (土)

無事なりし吾家の火鉢囲みけり (徳川夢声と昭和19年11月24日の空襲)

 

 

 昭和19(1944)年11月24日から、東京はB-29による空襲のターゲットとなった。同年7月にサイパンが陥落し米軍の占領地域となったことで、ついに東京はB-29の航続距離圏内に入り、米軍による航空基地の整備、部隊の訓練等を経て、11月24日の空襲に至ったのである。

 山田風太郎は、当日の経験を日記に記している(「プロパガンダと記録(東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃)」から再録)。

 

  ついウトウトと眠ってしまった。ふと眼を醒ますと、拡声器が、
「空襲警報発令! 空襲警報発令!」
と叫び出したので愕然となる。横浜駅であった。プラットフォームも車内もいっせいに騒然となり出した。
「なつかしの東京に、とんでもないことが待っていたなあ」
と、だれもが笑う。みな生き生きと嬉しげな顔になる。
  ただちに武装し、車窓の青幕を引いてそのまま発車する。
  川崎駅に入るや、全員退避の命令が下った。自分達も一般乗客も、デッキから構内へばらばらと飛び下りて、駅前の広場へ逃げ走る。プラットフォームではないので、一メートル余りの高さを飛び下りる女の中には、足を挫いて倒れる者もある。
     (山田風太郎 『戦中派虫けら日記』 ちくま文庫 1998  535ページ)

 

 これが当時、東京医学専門学校の学生であった山田風太郎の昭和19年11月24日の日記である。

 11月21日から富士山の裾野での軍事演習に参加した医学生達が東京へ到着しようとする時に、空襲警報の発令にあい、川崎駅で下車して駅近くの防空壕で警報解除までの時間を過ごす。そして…

 

  一時間半もたって、ようやく入口から這い出すことを許された。空は灰色の雲に覆われ、もう砲声も爆音も聞えない。
  満員電車に乗ってやっと品川に着き、山ノ手線で新宿に帰る。空襲警報は解除になったが、乗客はむろん何となく殺気立っている。がやがやと話し声は聞えるが、べつに今の空襲について話しているわけではないらしい。無意味なる騒音、沈痛なる動揺――といった態である。
  すると、五反田から乗り込んできた二十二、三歳の工員風の男が二人、突然溜息を吐いて、
「おい、凄かったなあ、おれ、飯が食えねえや!」
と、叫んだ。みなふりむいた。一人の紳士が、おずおずと、
「――何か――見て来たんですか?」
と、たずねた。工員は待っていたように、カン高い声でしゃべり出した。
  二人は荏原を通って来たのだそうで、そこの防空壕に入っていると、突然しゅうっという実にいやな音が聞え、つづいて、ゴーっという凄まじい地響きがした。しばらくたって這い出してみると、二、三百メートル向こうに黒煙が見えた。いってみると三十メートルくらいの大穴が地にひらいて――「五十メートルはあったよ」と一人が訂正する――家は吹き飛ばされ、なぎ倒され、崩れおち、近傍の屋根瓦や戸障子やガラスなどが恐ろしい惨状をえがき出して――人はむろん死んでいた。防空壕の中で十数人全員即死したものもあり、身体の表面に傷は見えないのに真っ白になって死んでいるのもあり、幼児など石垣に叩きつけられてペシャンコになり、――
「病院へもいってみましたが、実に何ともむごたらしいかぎりでさあ。おら、腰がぬけちまった。顔の半分なくなったのが、口をあけてうなってるんですからね。たいてい女です。子供はわあわあ泣いている。――工場に主人の出た留守、一家全滅したのもあるそうです……おれ、今夜飯が食えねえや、……」
 一人がはっと気づいて眼で知らせながら、
「おい、あんまりしゃべらねえ方がいいぜ」
と注意した。
  二人は急に沈黙したが、また昂奮を抑えきれないらしく、蒼いカン走った声で「おら、飯が食えねえや」を繰り返しはじめる。――
  ○五時前に帰校。ただちに解散。
  下宿に帰ると、部屋のガラス窓はみななずされ、まるで暴風の一過したあとのようだ。しかし、こちらは全然何事もなかったということであった。やがて警戒警報解除となる。
  夜のラジオによれば、本日帝都周辺に来襲した敵機は、マリアナよりの七十機。主として荏原附近に投弾したらしい。
          (539~541ページ)

 

 

 日記には「夜のラジオによれば、本日帝都周辺に来襲した敵機は、マリアナよりの七十機。主として荏原附近に投弾したらしい」とあるが、市街地である「荏原附近」が本来の攻撃目標であったわけではない。

 本来の攻撃目標は、市街地ではなく、軍事的価値をもつ武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所(カテゴリー「多摩武蔵野軍産複合地帯」収録記事も参照)であった。米軍は当初から都市無差別爆撃を志向していたわけではなく、高高度からの軍事目標への精密爆撃を戦術の基本としてはいたのである。ただし、それが達せられなかった場合の市街地爆撃も作戦計画には組み込まれていたのであり、市街地への爆撃が軍の指示から逸脱したものであったわけではない。その後も軍事目標への爆撃の価値が失われることはなかったが、翌年3月10日以降、市街地への無差別爆撃への躊躇は失われることになる。

 

 

 当時の日記類にも、空襲の経験は様々に記されているが、今回は徳川無声の日記を読んでみたい。11月24日の(そしてそれに続く)東京への空襲が、徳川夢声にはどのような経験であったのか。

 実は、夢声は11月24日には東京にいなかった。その時期は、苦楽座の一員として産業戦士慰問の地方巡業公演中であったのである。24日は、福井の小松日本館での公演をこなしていた(ただし「昼夜トモ不入リ」であったが「閉場後、館主ノ宅ニ招待サレ、鶏すき、酒ナド大御馳走。大損ヲサセタ上、甚ダ気ノ毒ナリ」と記されている)。

 空襲については翌25日の日記に、

 

  小松駅の売店で新聞を買う。出ている!
  ――B29八十機帝都空襲!
  やっぱり来やがったな、と思う。大した感動もない。なんだか「〆たッ」という気持ちもする。うれしいという感じとよく似た心境である。
  杉並区の吾家は如何? 妻は如何? 子供は如何? などチラチラ考えてみるが、あまりピンと来ない。坊やの姿だけが一番ハッキリ浮かぶ。
  ――なァに、私の家は大丈夫さ。
  心の底にはこの観念が納まっている。
  だが万一の事吾家にあった時、私という男が、如何に狼狽てるか、また狼狽てないか、まるで予測がつかない。遅かれ早かれ、東京が半分くらいになるのであろうが、それはまたその時のこと。
     (徳川夢声 『夢声戦争日記(五) 昭和十九年(下)』 中公文庫 1977  231ページ)

 

このように登場するが、自宅近辺の状況は(それだけでなく東京の状況も)、報道からはわからないのである。東京への空襲も、情報のない中、遠く離れた巡業先の夢声には切実な問題とはなっていない。夢声にとって切実であった(11月30日付日記)のは靴の盗難被害(これで三回目)であった(戦時下生活での靴の盗難被害は珍しいものではなかった)。

 

 

 12月1日の日記に、岐阜へ向かう車中で出会った東京からの避難者が登場する。

 

  二十九日夜(一昨夜ナリ)の東京爆撃に出っくわしたという女たちが、途中駅から乗り込んできた。東京を出発するまで、生きた気はしなかったと言う。
  ――日本橋、小石川、神田など酷くやられたらしい。
  ――夜通し火の手が上がっていたそうだ。
  だんだん話を聞いているうちに、これは大変だと思い出した。一刻も早く東京へ帰らねばならんと思う。女たちはそれぞれ子供をつれていて、これから大阪へ行くのだが、その大阪も今度はイカれるだろうと話していた。
  丸山ガンさんにその話をしたら、
「なアに、女のハナシには誇張がありますからね」
  と至極落ちついている。ガンさんは既に、郊外にある三好十郎の家に疎開し、夫婦二人きりで子供もない。なるほど、立場が違うと、Aにとっての一大事も、Bにとっては一向平気なわけだ。
  杉並の家で、水のある防空壕を、坊やが出たり入ったりする幻がチラついてならないのである。
     (244~245ページ)

 

 

 空襲が切実なものに感じられるようになった夢声は、「一日も早く東京へ帰って、家族と苦を共にすべきである」との思いを抱くようになる。しかし、

 

  宿へ帰ってから、同人の顔の揃ったところで、
「どうも東京空襲は容易ならんものらしい。私は九州行を御免こうむりたい」
  と申し出た。一大決意をもって申し出たつもりだった。すると高山君が、馬鹿に静かな声で、
「あなたが行かないという事は、この旅を中止するということになりますなあ」
  と言った。
「なにも中止するには当たらないでしょう。私一人だけぬけるんですから……」
「しかし、兵器廠との契約に、あなたの名が含まれていますから……」
  私が行かないと、契約を破ることになると言う。
「どうぞこの通りです。苦楽座同人に対する愛情を、何とか持ってもらえませんか? ねえ、お願いします」
  と丸山定夫君が、畳に両手をついて、華々しく頭を下げた。そして、結局私は、九州まで行くことにされてしまった。
  だらしがない! まったく吾ながらダラシがない! こんなことなら初めから帰京するなんて、言い出さない方が好かった。
     (246ページ 12月2日の条)

 

 

 この後の数日は、日記に帰京の話は記されていないが、もちろん、心の底では東京の家族のことを気にかけ続けていたはずである。

 

  美濃の山河を車窓から見つつ、人間は常に死と直面せることを思う。なにも空襲時に限ったことではない。いつ心臓の故障で斃れるか、いつ屋根瓦が落ちて昏倒するか、分かったものではない。空襲があるからと言って、急に狼狽てるのは、甚だ愚である。常時と同じ気もちで、私は旅を続ければ好い訳だ。死はいつも眼前にあり、同時に生も遥かに彼方のものである。
     (248ページ 12月4日の条)

 

 12月4日には、自らに言い聞かせるように、日記にこのように書きつける。しかし、いつか自身に訪れる死への覚悟を記すことで、離れた東京で空襲下にある家族の身の上への心配が霧消するわけでもないだろう。

 

  武蔵野工場(中島飛行機)が爆撃され、学徒が沢山死んだという事は本当らしい。浅野院長、副院長、看護婦たちはどうしたろうかしら。これが荻窪工場だったら、私もじっとしていられない訳だ。何しろ早く東京へ帰りたい。
  松沢病院に爆弾が落ちたという、昨日車中で聴いた情報は、まだ疑わしい。
     (252ページ 12月6日の条)

 

いろいろな噂が耳に入り、あらためて「何しろ早く東京へ帰りたい」と思う。

 

 そして12月7日、倉敷で妻からの速達を受け取る。千秋座前にの事務所で受け取った手紙を、夢声は座員と共に訪れた美術館の中で読む(「ゴーガン、モネ、ゴッホを前に、ミレー、シャバヌ、モローを背に、大ソファの上で、改めて静枝の手紙を読む」)。

 

  毎日毎日手紙を書こうと思いながら、先月の空襲以来、午前十一時になると敵機の来る時間なので、早めにご飯やら色々の支度。午後三時頃になると少しはおちつき、又夜は十一時頃より心配が始まり、まったくおちつきません。
  何しろ敵機が来る度に杉並、それも荻窪近くときて、中島(註 中島飛行機荻窪工場、田無工場、小金井工場トアリ)はそのたんび。田無は一番ひどく、大分の死人です。荻窪も宮田さん(註は略)の近所に先日は五個ぐらい落ち若杉小学校(註 愚息ノ通学シタ校)はいつもねらわれて、三日の時は家のそばのフミキリの家に落ち、親子二人生き埋めになり大変でした。それから八幡様のそばにも落ち、四、五人生き埋めで死んだ人もあります。
  折角でき上った陸橋の真中にもバクダンが落ち、線路にも落ち、中央線二日間不通、歩いて通う人、田舎に逃げる人で、大晦日の銀座通りの様でした。
  今日はやっと静かになりましたが、何しろこれだけバクダンが落ちる間の気持ち、ゴー(壕)の屋根の不完全さに、地ひびきや色々の音で、中に居た者は皆、生きた気持ちもありません。今度は家に落ちたかと、あと見廻るのも大変です。でも裕彦さん(長女俊子ノ夫)も質屋さんもみまわってくれますし、ことに質屋さん(註は略)はよく来てくれるので、其時はほっとします。
  一雄の学校も休みになり、時々は様子により出かけます。でも今まで皆が無事なのはほんとに結構と思います。
  一日中何もできず、そわそわと暮らします。杉並も荻窪もこんなに危険とはいがいでした。
  子供たちもビクビク閉口しています。夜の時も雨は降るし、洩るし、心細いこと此上もありませんでした。私だけはゴーにも入らず外にいましたが、質屋連のおかげで少しは心丈夫でした。
  空は真赤になるし、新宿あたりかと思いましたが、神田と日本橋でした。神田は千戸くらい、死人は大変だそうです。日本橋は白木の裏、阿野さんの事務所はやっと一廓のこったそうです。それで家でも急に、茶間の前に、裕彦さんと質屋さんに、丈夫なゴーを掘ってもらってます。石田さん(私のマネージャー)は三日の夜、荻窪がなくなったと言われビックリして見舞にきてくれました。今日(五日)は小島、丸山、吉井アン氏など三人きてくれ、丸山さんは旅から帰ったばかり。吉井さんは今晩と明日はゴーの手つだいをしてくれる事になっています。
  頭山(註 妻の妹の嫁ぎ先)でも心配して近所にいる富岡氏と尾形氏を見舞によこしてくれました。是非、田舎に家をかりるよう言ってます。私も、一坊、俊子、明子くらいは田舎にやる様にしなければいけないと思っています。
  何しろ地ひびきがダンダン近くなり、ガンガンいう音を聞くと、手足まといはまったく気になります。
  一日も早く帰られる事を一同まっています。
  飯田の母上は其上かるい中風になり、寝ているので閉口でしたが、空襲でびっくりして起きられたそうです。原宿駅前東郷神社にも落ちたそうです。
  そろそろお時間になりますから、これで。
     (254~256ページ 〔妻の書簡〕)

 

 千秋座前の事務所での開封直後にも、「自宅の近く踏切番親子が生埋めになったとあっては、もう少しで私の家の者が生埋めになるところだった事を意味する」と夢声は事態を理解した(註:1)が、

 

  さて、この手紙を改めて、大原美術館の名画に囲まれて、静かに読んでみた。大変だ大変だという気もちがだんだん真物になり、何か斯う血の気の下がる思いである。

 

美術館のソファの上での思いの深まりを記している。しかし、

 

  劇場昼の部、漫談が終わって「無法松」を開幕しようとするや地震あり。水平動であるが永い地震である。停電となる。客席から催促の喝采に私の心は甚だ落ちつかない。斯うなると、東京の空襲よりも何よりも、さしあたり早く電気がくれば好いと、そればかりが気になる。
  人間の感覚というもの、眼をつむれば富士山も見えないように出来ているから仕方がない。他人の首が切られるより、自分が針で刺される方が痛いのである。東京のことをケロリ忘れている時間を、自分ながら妙なものと思う。
     (256ページ)

 

夢声は劇場で昭和東南海地震(マグニチュード7.9、最大震度6)に遭遇するのである。「東京のことをケロリ忘れている時間」を味わうことになった。

 

 しかし、もちろん、「何しろ早く東京へ帰りたい」という思いが失われることはない、のだが…

 

  家が爆撃されたのならとにかく、近所に爆弾が落ちたでは、工場の慰問を捨てて、東京に帰る理由にはならん、と徳衛門氏は言う。だから帰るというなら私が病気をしたという事にしよう、そんなら言いわけは立つ、と彼は言う。爆弾が落ちてからではなんにもならん、落ちそうだから帰るのである。然し、慰問する相手が軍需工場の戦士たちである。この方は公事であり、吾家の方は私事である。入場料をとる興業ならまた話は別であるが、どうもこいつは私だけ一座からぬけるという訳に行きにくい。
  一方中坪の方では、委細構わず私の切符も買って了い、うやむやのうちに私を小倉に送り込む手配をしている。
  えーい、仕方がない、と諦めた。
     (257ページ 12月8日の条)

 

との次第で「えーい、仕方がない、と諦め」るのである。

 「諦め」ながらも、

 

  寒い寒い、足首の所が殊に冷える。ねむいので眼をつむると、寒さが肩の辺から水のように浸みこんでくる。吾家のことを想う。坊やを疎開させねばと思う。この正月は定めし厭な正月だろうと想う。俊子が赤ン坊を産んでも、空襲つづきでは母乳が止りはしないかと思う。東京の半分が無くなった時、私たちの家にも他人が強請的に割り込んで来るだろう。家庭生活なんて目茶目茶だと想う。インフレまたインフレで、いくら稼いでも始まらない事になりそうだと想う。
  この数日来めっきり悪くなった歯で、ポロポロの握り飯をムニャつきつつ、しみじみ味気なくなる。あれを想いこれを想いしているうち、――戦争はイヤだなア、と心の中で言う。馬鹿! 貴様は日本人か! と自分を叱る。
  敗戦は無論イヤである。然し、戦争も別にヨクはない。
     (258ページ 12月9日の条)

 

このような「想い」を書き連ねる(「反戦」というよりは「厭戦」の気分であろう)。同じ日、

 

  人間の思想斯の如し、平静なる時、興奮せる時、悄然たる時、同じ人間が同じ日の中に、幾度か変転する。一椀の飯、一杯の酒、寒暖五度の差よく思想を左右する。
  平静なる時の思想を当人の思想とすべきか、あらゆる場合の最大公約数を当人の思想とすべきか?
     (259ページ 12月9日の条)

 

このように自らを突き放してもみる。夢声の想いは、日々「変転」を続ける。

 

  小倉の街、何所を歩いても雑然たる感じ。イヤな街である。取片づけてない疎開の跡、空爆の跡、凸凹の道、加うるに寒気凛冽とくる。
  然し、あれほど目茶目茶に空爆された噂のある小倉が、この程度で、市民は平気で住んでいるという点が、私の心もちを楽にしてくれた。なアに東京だって斯の通り、少々の爆撃では平気で暮らせるに違いないと思う。
  工廠と産報の仕事とあっては、私も諦めて約束の十七日までは仕方があるまいと決心する。
  それに、私の家の近所が酷くやられたという事は、次の空爆には安全だという気がする。そう一つところがやられる筈はないという気がする。一度やられた町は、即ち敵の狙ったところというなら話はまた別になるが、盲爆であるなら、一度落ちた近所にはもう落ちないと見て宜しかろう。
     (259~260ページ 12月10日の条)

 

 既に空襲下となっていた小倉(翌日の夜には夢声も離れた場所での空襲を経験する)の街の姿を前に、「なアに東京だって斯の通り、少々の爆撃では平気で暮らせるに違いない」という気持になり(そのように自身に言い聞かせ)、「工廠と産報の仕事」であることと併せ、「私も諦めて約束の十七日までは仕方があるまいと決心する」のであった。

 

 

 こうして、座員への昼食の用意もないようなトラブル(一方で、終演後に館主・主催者等による「御馳走」を堪能する機会も多かったが)も起きる中、風船爆弾工場への動員学徒の慰問も経験しながら、12月20日過ぎまで九州での巡業を続けることになる。

 

  これで三日昼飯でもめている。今日は皆が混ぜ御飯の握り飯にありついたのが後二時頃である。元来今日は三方から昼飯が出る事になっていた。昨夜のうち中坪が交渉しておいた劇場での炊出し一ツ、平林老の自腹によるもの一つ(三十人前と称す)、工廠の方から支給されるもの一つ、これだけある話であった。それが平林老提供と称するものが、劇場の米一升五合を用いたものであり、工廠の分は十二時迄に取りに行かなかったから分けてしまったという返事である。工廠の役人から取りに行けと言われたのが十二時四十分過ぎであったから、十二時前に行ける訳がない。
  要するに、金儲け主義のインチキ興行師や、ブローカーや、二重にも三重にも絡んでいるところへ、工廠が絡んだり、警察が絡んだり(産報関係)で、結局一本筋の責任者がいないせいであろう。
  私と釜さんは今日も工廠で昼飯を喰ったから好いようなものの、他の座員はこれで三日続いて昼飯で苦しんでいる訳である。自分の腹は一杯でも、斯ういうゴタゴタを聴かされると、こちらも苦労になる、実に馬鹿馬鹿しい話。
     (262ページ 12月12日の条)

 

  今日もまた昼飯問題でヤッサモッサ、今は既に午後三時、まだ昼飯が来ない。飯々々で大騒ぎを、ベニヤ板一枚の隣室に聴かれて了う。そこには田舎廻りの劇団がトヤをしているらしく先刻も本読みが聴こえていた。田舎廻りの劇団は定めし、東京の最紳士劇団の文句を聴いて呆れているに違いない。
  やっと運搬された工廠よりの昼飯、飯の分量は充分だが副食物が菜葉の煮つけ、この食事のためあの大騒ぎと思えば苦笑ものである。あとで聴くと、私たちは早すぎたので、豆腐の煮たのと、沢庵の山盛りにありつけなかったのだそうだ。
     (264~265ページ 12月13日の条)

 

「昼飯問題」に翻弄されながらの産業戦士慰問巡業であった。「金儲け主義のインチキ興行師や、ブローカーや、二重にも三重にも絡んでいる」のは劇団の地方巡業の常でもあったろうが、戦時日本であればこそ、そこに「工廠が絡んだり、警察が絡んだり(産報関係)」と事態はより複雑化することになる。しかもそこに「結局一本筋の責任者がいない」という戦時統制の典型的症状が見出される。

 

 巡業も終盤を迎える中で、帰京の算段をするが鉄道は不通、郵便も電信も不通である。あらためて家族への募る想いが湧き上る。

 

  東海道線豊橋静岡間が未だに不通であるという。十八日には私が東海道線で帰京する訳だが、徒歩連絡などありとすると、あの重いスーツは困る。中央線でも迂回して帰るか、どうするか。現在は郵便も電信も不通だという。事によると東京から何か急の報せがありながら、こちらに届いていないのかとも疑われる。東京へ帰ってみると、吾家に大惨害があったら、など想像する。

  釜サント語ル――荻窪ノ家爆撃サレテ、私一人生キ残ッタ場合如何ニスルカ? 自殺スルカモ知レント私ハ言ッタ。
     (265~266ページ 12月14日の条)

 

  尾形重蔵に扮する時肥衣を二枚つけるが、これは妻が私の注文に従って、素人らしく造ってくれたものだ。下に着けるのはシャツを加工したもので、やや型を成しているが、上に着けるのは、チャンチャンコのような、暖簾のような至極不細工なものである。然し、私はこの不細工なところに一種の涙ぐましさを感ずる。こんな亭主を持った為に、彼女もこんな不細工な作品を縫わなければならなかったのである。私はこれを着ける度毎に、いつも妻を懐かしくあわれに思い出す。

  遠く離れていて坊やを考える。何故日頃もっと坊やに優しくしなかったと悔いる。さて顔を見るとすぐ小言が言いたくなる。自分と坊やとあまりに性質が似ているせいなのであろう。自分に対しては腹の立つことが多いのであるか?
     (271~272ページ 12月17日の条)

 

 

 産業戦士慰問も最終日を迎えたはずが、

 

  ヤレヤレ今日一日勤めれば、明日は東京へ発てると、ほがらかになっていると、平林老楽屋に現れて、二十日迄是非とも頼むと言う。全くうんざりして了った。平林老は私が途中からぬける事を契約の際知らずにいたのである――言わば一杯喰わされた型なのである。間に入った興行師連が悪いのであって、私には責任が無い訳であるが、老の立場として見れば気の毒でもある。頼まれてみると、イヤどうあっても帰るとは、私として言えなくなる。私の家の近くに爆弾が落ちたところで、老にとってはなんでもない事である。思えばお互様で、老の妻君が先日、天ぷらを揚げていて顔に火傷をしたという話を聴いても、私としては何等感動しなかった。こっちの爆弾は先方の火傷である、即ち他人の歯痛は私の歯痛でない。
  これは結局、二十日迄勤めさせられる事になりそうだ。放送局の事などで嘘をつけば、老も強いてとは言えなくなるだろうが、ウソはつきたくない。してみれば、工廠の兵器戦士慰問という公事の前に、吾家の心配という私事は、犠牲にせねばならない。
  二日早く帰宅したところで、実は別にどうという事もない訳だ。東海道線は今だに不通、帰るとすれば、今のところ、信州を廻って、松沢の家へ行き疎開先を物色したりして、東京に帰るという段取になりそうだから、明日出発として二十一日か二十二日にならないと荻窪へは着かない。二十日迄いれば、或は東海道全通となるかもしれない、それなら二十二日には帰宅出来る。
  まア仕方がない。二日余計勤めたために、吾家が全滅となるという事もあるまい。一日も早く帰りたい事も事実だが、二日延びればそれだけイヤな天沼の防空壕から遠ざかる事でもある。
     (272~274ページ 12月18日の条)

 

「私事」より「公事」の優先を自身に言い聞かせるしかない。

 

 しかし、苦楽座のメンバーの「私事」にも戦時の苛烈さが滲み出る。

 

  丸サンの兄さんが死んだという電報が来た。これは正に丸サンにとっての一大事である。今年になって四人兄弟のうち二人の兄さんが死んでいる。今度死んだ兄さんには、未亡人の他に二人の幼児が遺された。この遺族の面倒を見なければならないらしい。然し、私はさのみ心痛はしない、いや全然心痛しないと言ってよろしい。気の毒だなアと意識の表面で軽く考えるだけだ。私の不幸も丸サンにとって同じことである。
     (276ページ 12月19日の条)

 

  昨日ハ丸山君ノ兄ノ死。今日ハ河原君ノ兄ノ死。輸送船ノ機関長ナリシト。
     (277ページ 12月20日の条)

 

 

 ようやく慰問巡業を終えての東京への列車は、乗客が窓から出入りするような超満員状態であった。

 

  いやはや何とも物凄い列車である。やりきれなくなって吾等三人は広島で下車した。八時間立ったままであった。時々便所に行く人があるが、皆泣きっ面になって、人と人をこじあけて通る。諦めて途中から引き返す老紳士もある。私は房総線で一度大失敗をしているので気が気ではない。もし尿意をもよおして来たら、人を掻き分けて行く途上で落城して了うであろう。万已むを得なければ、ズボンの中へ流し込みと覚悟をする。幸いにして車中がムンムンと熱いので辛うじて広島までもったが、出口を飛び出すと、前の防空広場で用をたした。
  血気盛んの水兵が悲鳴をあげるくらいだから、以ってその混みようが分ろう。中程の客は窓から出て行く。女が三人ほど窓から飛び込んで来た。
  立ち続けは宜しいとして、私の靴は借り物であるためギシギシである。それが血が下がって足が腫れてくるにつれ両足のつま先がシンシンと痛んで来る。尿の心配とこの痛みでは到底このあと名古屋まで行って、中央線に乗り換えて(都合二晩車中で過ごすことになる)などは思いもよらない。
  私は広島で一応降りる決心をする。釜さんは直ちに賛成する。釜さんは悲鳴をあげ通しである。
  愈々広島駅に着いて、洗面所に頑張っている高山君に、二人は此処で降りる由を言うと、たちどころに彼も降りると言う。それまでに打合せしていると好かったんだが、突然、沢山の荷物を持って降りることになったから、さア大変である。乗る客が黒山のように押しよせている。文字通り高山君は獅子奮迅、二つのリュックサックと、毛布の巻いたのと鞄とパンの箱と、何やかや両手に持って、滅多矢鱈に飛び出して来た。奇跡のような働きであった。釜さんの白いズック小鞄と、高山君のラクダの襟巻とが、紛失して了ったが、とにかくあの人間の密集激流を突破してよく出られたものだ。
  私にはとても斯んな勇敢な行動はとれない。三人のうちこの意味における弱虫は一番私であろう。
  この騒ぎで、前記の如く二人が品物を失った時、私は心の一部で快哉を叫んだ。こいつは誠にはや情けない性分であるが、何しろ私は、蟇口を盗られ、剃刀を失い(これは返るかもしれない)、靴を盗まれという始末の旅であったから、他人が何か失うことに、やれ俺だけではなかったぞよ、という慰めを感ずるのである。
     (280~282ページ 12月22日の条)

 

  立ッタリ、床ニ胡坐シタリ、九時間アマリ難行苦行。イヨイヨ旅ハ考エモノデアル。朝ニナリ一時間半ホド、若キ海軍士官ノオ蔭デ席ニツキ少シ眠ル。
  名古屋駅デ、窓ヨリ人間ガ降リタゴタクサニ、私ノボストンバックガ歩廊ニ出テソノママ発車トナル。中ニハシャボン、飴、豆、他人ノゲートルナド入ッテイタリ。
     (283ページ 12月24日の条)

 

 12月22日には「この騒ぎで、前記の如く二人が品物を失った時、私は心の一部で快哉を叫んだ」という夢声も、12月24日には「窓ヨリ人間ガ降リタゴタクサニ、私ノボストンバックガ歩廊ニ出テソノママ発車トナル」という羽目に陥る。

 

 

 「いやはや何とも物凄い列車」の乗客として数日を過ごしてやっと12月24日の夕刻、

 

  十七時頃帰宅。静枝ジンマシンで寝テイル。他ハ一同無事ナ姿ヲ見テ安心スル。目出度シ目出度シ。
     (284ページ)

 

このように帰宅を果たし、「今回の旅行に於ける得失」についての考察を記した上で、

  俊子が十五日に出産したそうだ。空襲の影響であろう、一カ月ほど早産であった。女の児で、母子共に健全だという。これで私も愈々祖父となった訳、人間としての、生物としての二歩前進をした訳である。
     (245ページ)

 

と、その日の日記を結んでいる。11月24日の空襲から1ヶ月が過ぎてのことであった。

 

 無事なりし吾家の火鉢囲みけり

 

 吾家の無事を確かめての一句である。

 

 

 

【註:1】
  B29八〇機編隊が午後〇時一五分、北多摩郡武蔵野町の中島飛行機武蔵製作所、およびその付近に高高度より集中爆撃を行い、その後、六ないし八機の小編隊に分かれて荏原、品川、杉並の各区および東京港をそれぞれ攻撃する。
     (鈴木芳行 『首都防空網と〈空都〉多摩』 吉川弘文館 歴史文化ライブラリー358 2012  156ページ)

 夢声の家族が経験したのが、この中の杉並への爆撃であった。

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2018/11/24 09:40 → https://www.freeml.com/bl/316274/322532/
 投稿日時 : 2018/11/24 09:44 → https://www.freeml.com/bl/316274/322533/

 

 

 

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2018年5月17日 (木)

十四娘を賣つた金 四十圓の家と化す (昭和期日本の貧困 その4)

 

 

 古書市で入手した昭和9年と10年の新聞切抜き帳(スクラップブック)に貼られた記事を用いて、近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実がどのようなものであったのかについて読み進めてきた。

 

 

 

 昭和9年、冷害に襲われた東北地方(冷害による飢餓の実態は「草木に露命をつなぐ (昭和期日本の貧困 その2)」参照)の人々は、「口べらし」のために娘を身売りするまでに追い込まれた(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」参照)。

 

 

 

 「娘の身売り」に頼る貧困層の姿(「廓模様新紅毛情史 (昭和期日本の貧困 その3)」参照)。それが、昭和戦前期の日本の現実、近代日本の現実の姿であった。

 

 

 

 今回も、当時の紙面から切り抜かれ、スクラップブックに残された新聞記事から、「娘の身売り」の実状に迫ってみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9121

スクラップブック(昭和9年~10年) 
     十四娘を賣つた金四十圓の家と化す (9.12.1 朝日)

 

 

 

 

 

 

 

 今回取り上げるのは、昭和9年12月1日付の朝日新聞記事である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 十四娘を賣つた金
  四十圓の家と化す
    冬籠りの窮農を訪ふ
          東北凶作地にて
          荒垣特派員

 

 

 

 村の夜道は真つ暗だつた、村には外灯がなかつた、それは昭和六年の凶作から廃止になつたのだ、凶作は色んな意味で村から『明るさ』を奪つて行く、今度はまた娘を、凶作は村から奪い去らうとしてゐる、もう幾人も奪つて行つてしまつた、私はその標本を青森の新城村に求めた
     ▽   △
 『これがその、娘が化けた四十円の家ですよ』と教へられた窓から洩れる鈍い電灯の光で畑の菜つ葉が真白な霜に萎れてゐるのが見えた、この村としては割合に小綺麗な家だが、これが一人の津軽娘が娼妓に売られた身代金で買はれた家かと思ふと異様な汚感に襲われざるを得なかつた
  入つてみると、七十を越したお婆さんと、身売娘の両親と五つ位の女の児とが、煙に燻ぶる囲炉裏を囲んでゐた、女の子は風邪をひいてギャーギャー泣いてゐた
 姉娘が売られて居なくなつてからこの児も泣虫になつたさうだ、『どうして娘つ子売れしたば?』ときくと、婆さんは泥炭の煙に傷められたトラホームの眼をしばたいて『スミエあ売られて難儀してす、吾あ死んでもいいはで孫達あ楽にさせてやりてい』と赤く瀾れた眼から涙をボロボロこぼした、この佐藤一家は、家を借金のカタに取られて近所の家に同居してゐたが、スミエといふ十四の娘を名古屋市賑町の娼妓屋に売つた金で、此家を買つたのだ、身代金は五ヶ年の契約で四百五十円だつたが、そのうち百円は一本になつたら渡すとの事で、娘の着物代にといつて五十円、周旋料だといつてブローカーに廿二円五十銭、親爺と周旋屋とで娘を名古屋まで送つて行つた汽車賃、宿料、自動車代その他雑費だといつて百廿七円五十銭をとられ、結局手に渡つたのは僅百五十円だつた、そのうちから七十円の借金を支払ひ、四十円で家を買ふと残る四十円も何といふことなしに消えてしまつた
     ▽   △
 父親はいつた
  吾あ娘売る気あ夢にもなくてあつたども、周旋屋が家のわらし(娘)ど借金の□なみに眼つけで売れ売れつて四十日の間も付き纏ひした、其うちね飯米あなくなるし女房あ妊娠脚気ねなるし借金取りにや責め立てられるし、おまけね、借金の保証が女房の妹だはで、吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて、とうとう売る腹ねなりした
 と溜息をついた、母親はまた母親で
  家のわらし(娘)あ、吾あ妊娠脚気で留守の間ね死んだりへば困るはで行きたくねいといつてをれした、取り返せねいもんですべか?
 と今になつて返らぬ愚痴をいつてゐる
     ▽   △
 そして娘からはもうこんな手紙が来るやうになつた
  …私達はシヨウギさんがゐる家にゐるものですから、ほんとうに嫌ひです、主人は、お正月になるとお客さんをとらせるといつてをします、私はシヨウギなんかやるんぢやない、ほんとうにつまらない、しつかりしたことはお正月にでなければ分かりませんが、ほんとうにお客さんをとらせると直ぐ手紙を出します……
 まだ半信半疑でおびえてゐる十四歳の津軽娘の姿!手紙を出すことより外に策を知らぬ可憐さ!
     ▽   △
 いつのまにか出た冷たい冬の月を浴びて、私は次の『娘を売つた家』に行つた、そこには逆睫毛に悩む母親と、小倉の夏服に綿を入れた洋服を着た少年とがゐた、この綿入れの夏服はやはり姉さんが売られた余剰価値だつた、この村には洋服を着てゐる子供は一人もゐないので、松雄少年はこれが得意だつた、そして『姉さまのお蔭で……とお礼状を出した、すると身売娘からはこんな返事がきた
  松雄は私のお蔭で立派な服をきたと書いてをりますが、私のお蔭ではありません、父上様や母上様のお蔭です……
 いはば自分を売つた非道の親、それを微塵も怨まぬ心はいぢらしい限りだ
     ▽   △
 この娘の母は娘の身代金で逆睫毛の目を手術する事になつてゐた、ところが結局そんな金は余らずいまだに逆睫毛で悩んでゐるとの知らせに娘はビツクリしてゐる、そして自分が家にゐる時は、いつも母の逆睫毛を抜いてやつたのだが、今はどうしてをられるだらうかと『逆睫毛は今誰にとつてもらつてをりますか、知らせて下さい』と涙の筆を綴つてゐる
  私は夜外に出て家の方を見て、家の者が達者にゐますやうにとお月様に祈つてゐます

 

 

 

 

 

 

 

 記事は「娘の身売り」による解決を望ましいものとして取り扱っているわけではないが、それ以外に手段を持たぬ東北農民の現実を伝えるものとなっている。描かれているのは、冷害に付け込んで実直な東北農民を「娘の身売り」にまで追い込む周旋屋の姿であり、周旋屋を前にしてなす術のない農民の姿である。

 

 記事の見出しには、

 

  十四娘を賣つた金 四十圓の家と化す

 

とあるが、父親は家欲しさに娘を売ったわけではない。

 

  吾あ娘売る気あ夢にもなくてあつたども、周旋屋が家のわらし(娘)ど借金の□なみに眼つけで売れ売れつて四十日の間も付き纏ひした、其うちね飯米あなくなるし女房あ妊娠脚気ねなるし借金取りにや責め立てられるし、おまけね、借金の保証が女房の妹だはで、吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて、とうとう売る腹ねなりした

 

この言葉を疑う必要を(私は)感じない。

 

 貧困の果てに、

 

  吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて
  とうとう売る腹ねなりした

 

ここにまで追い込まれたのである。

 

 解決の手段が「娘の身売り」以外にない状況。

 

 記者は取材に先立って、

 

  これが一人の津軽娘が娼妓に売られた身代金で買はれた家かと思ふと異様な汚感に襲われざるを得なかつた

 

このように心情を吐露し、母親の言葉に対しては、

 

  今になつて返らぬ愚痴をいつてゐる

 

と非難めいた感想を漏らすものの、

 

 貧困→娘の身売り

 

これ以外に手段を持たぬ現実に、傍観者であるしかなかった。

 

 

 

 記事にあるのは決して例外的状況などではなく、冷害による凶作下での一般的状況なのである。以下に示すのは、昭和6年の事例である。

 

 

 

  昭和六年、農業恐慌にあえぐ東北、北海道の農村を冷害による凶作が襲った。同年一〇月三一日付の『東京朝日新聞』は「未曾有の凶作で、北海道、青森に飢饉来 雪近く不安つのる」と、その惨状を報じた。
  この年の東北地方は、四月から七月にかけて異常低温に見舞われ、特に七月の平均気温は盛岡で一八・四度という低さだった。加えて六月の多雨日照不足で、稲の苗代での発育不良、移植期の遅れ、田植え後の活着障害、生育の障害という状態におちいった。
  被害のもっともひどい青森県では、米価下落で「豊作貧乏」といわれた五年の一三〇万石に対し、六年の収穫は半分以下の六〇万八〇〇〇石、北海道も稲作は平年の三六㌫強、畑作六一㌫という大減収だった。作家の下村千秋は、岩手県北部から青森県へと「飢餓地帯」を歩き、「餓死線上」の農民は「岩手県下に三万人、青森県下に十五万人、秋田県下に一万五千人、そうして北海道全道には二十五万人」(『中央公論』昭和七年二月号)と書き、青森県の寒村では「どうせ飢え死ぬなら、せめて一度でも、米のめしがげんなりするほど喰つて見てえ」(『前出』)と老人が語るのを聞いた。
  農民は米不足のため、粟、ひえなどの雑穀、だいこん雑炊、それに木の芽や草の葉を混ぜた薄いかゆなどを食べた。学校へ弁当を持って行けないいわゆる欠食児童は、北海道一万八九八人、青森県六一〇七人、秋田県九九六人、岩手県三五三九人、全国では二〇万人を超すと推定された(昭和七年七月文部省調べ)。
  北海道庁の調査では、七年上半期に六〇六件の人身売買があり、平均一〇六円で多くは都市に売られた。また、内務省社会局の調べでは、青森、山形、秋田、福島、新潟の各県でも、六年一月から七年六月までの間に計一万六〇四人の若い女性が、家族を支えるために「身売り」をした。
  廃娼連盟は六年一一月、他県への「娼妓移出地」といわれる山形県最上郡西小国村の実状を調査し、報告書『農村疲弊と子女売買問題』(松宮一也、橋本成行共著)をまとめた。それによると同村の出稼ぎ娼妓は五七人で、その数は村の一五歳~二五歳の女子四一七人の約一四㌫にあたった。現金収入がなく、負債を返却するには、定期的に村を回る紹介業者に娘を売るしか方途がなかった。
  この惨状が報道されると、東京では学生や無産党系、キリスト教系の諸団体が救援活動を始め、報道も詳細になった。東北・北海道の冷害は、農村不況を克服しようという世論形成の契機になったのである。
     (『昭和 二万日の全記録 第2巻』 講談社 1989  307ページ)

 

 

 

 

 

 ここに紹介された「廃娼連盟」による報告書にある山形県最上郡西小国村は、まさに「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」の記事の舞台となった地域でもある。廃娼連盟による昭和6年の調査で明らかになったのは、

 

  同村の出稼ぎ娼妓は五七人で、その数は村の一五歳~二五歳の女子四一七人の約一四㌫にあたった。現金収入がなく、負債を返却するには、定期的に村を回る紹介業者に娘を売るしか方途がなかった。

 

という悲惨な現実であった。

 

 

 

 朝日新聞記事には「まだ半信半疑でおびえてゐる十四歳の津軽娘の姿」とあったが、当時の公娼制度下でも年齢制限はあり、本来なら「十四歳の津軽娘」が人身売買の対象となることはないはずなのだが、しかし、そこには抜け道があった。元森論文には以下のようにある。

 

 
  公娼のみを調べた場合,18歳未満は登録できないというタテマエが守られているためそれ以下の者はいないが,私娼には18歳未満もしばしば含まれていることが報告されている。たとえば,上村行彰『売られゆく女』(大正7年,集成2:209)では,娼妓が「異性に触れた当時の職業」として,「家事手伝い」,「女工」に次いで「芸妓酌婦稼業中」が2割1分と多いと述べ,16歳以下の3分の1は芸妓酌婦稼業中に性行為を行っていたことを明らかにしている。「東北凶作を契機とせる女子の貞操問題」として東北の芸娼妓を調べた調査では,12歳7人,9歳1人を含む14歳未満の女子が60人いたことが報告され,「多分口減らしと,之に依つて幾等かの生計費を得て家族の食餌に資せんとしたものであらう」と述べられている(三浦精翁『売られ行く娘の問題』昭和10年,集成5:308-309)。
  帝国議会でも,芸妓の「約半分位は十三で客に接することを強いられて居ると云う記事が(引用者注:前日の新聞に)出ております」(土屋清三郎,第56回帝国議会衆議院未成年者飲酒禁止法中改正法律案外一件委員会第6回速記録,昭和4年,p.24)と問題視されたり,「私娼窟」における低年齢層の売春問題が報告されている。
     (元森,絵里子「自由意志なき性的な身体―戦前期日本の公娼制問題における「子ども」論の欠如―」 『明治学院大学社会学・社会福祉学研究(139)』 2013)

 

 

 

 当時から「低年齢層の売春問題」は深刻なものとして注目を集めてはいたのである。「まだ半信半疑でおびえてゐる十四歳の津軽娘の姿」は、決して特異な事例ではなかった。

 

 元森論文には以下の事例(どちらも昭和4年の事例である)も紹介されている。

 

 

 

  現在公娼に於きましては,十八歳以上の女でなければ営業に従事することが出来ないのでありまするが,寺島,亀戸のやうな,いわゆる淫売窟に居りまする所の女と云ふものは,十五歳,十六歳,甚しきは十三歳,十四歳と云ふ風な,殆ど吾々言ふに忍びないやうな少女が,何れも売淫行為を行って居るのであります,是等の年少な少女と云ふよりも,寧ろ幼女に近い婦人と云ふものは,何れも自分の意思に反して ,或いは親の犠牲となり ,若しくは暴行脅迫 ,中には傷害迄受けて ,斯る魔窟に拉し去られて醜業に従事して居るのであります(川島正次郎,第56回帝国議会衆議院請願委員会議録(速記)第9回,昭和4年,pp.2-3) 

 

 

 

  最近二万八千二百三十四人の娼妓に就いて取調べた処によれば,内尋常小学の中途退学者が二万〇〇五十八人(即ち七割一分強),まったく尋常小学にさへ登らなかつた者が四千四百六十五人(即ち一割五分強)で,つまり全数の計八割六分以上は,尋常小学に入らないか入つても卒業しないで退学した者共であります。彼等は全く無教育無知である。之に義務教育完了の機会さへ与へず ,之を娼妓などにならせて置くと云ふは ,誰の責任であるか。此の点に於て,日本の国家はその臣民に対する当然の務めを行うて居ないものと言はれても,致方はありますまい。(山室軍平『公娼制度の批判』昭和4年,集成3:125)

 

 

 

 川島正次郎の言葉には、「十五歳、十六歳、甚しきは十三歳、十四歳と云ふ風な、殆ど吾々言ふに忍びないやうな少女」が、「何れも自分の意思に反して 、或いは親の犠牲となり 、若しくは暴行脅迫 、中には傷害迄受けて 、斯る魔窟に拉し去られて醜業に従事して居」たことが示されている。

 

 

 

 

 

 悪質な周旋屋の実態については、安中論文に当時の新聞記事を用いた事例紹介がある(安中 進「娘の身売り」の要因と鉄道敷設 現代政治経済研究所(Waseda INstitute of Political EConomy) 早稲田大学 WINPEC Working Paper Series No. J1702 October 2017)。こちらは昭和6年と8年の事例だ。

 

 

 

  打続く農村不況に加へて大凶作に見舞はれた青森縣下の農民は ,既に売る物は皆尽して食料に代へ現金は全く農村から姿を消すに至つたが ,暮れを控へて農民の逼迫につけ込む悪徳周旋業者が最近横行し ,純ぼくな農村の娘さん達を「給金高い東京お屋敷へ世話をする」などと言葉巧みに欺き ,東京方面の魔くつに賣飛ばしてゐる,もつとも被害の甚しいのは上北 ,下北 ,三戸地方の収穫皆無地で ,青森発上野行列車などには手付金二 ,三圓といふ安い直段で取引された純な農村の乙女一團が周旋人に連れられて二組か三組は必ず乗込んでゐる有様で,警察方面でも人買ひの取締りに躍起となってゐる。
     「凶作につけ込む娘買ひの悪周旋屋  青森地方では二三圓の手付けで」『東京朝日新聞』 1931 年 12 月 26 日

 

 

 

  「寺島署では向島区寺島町七ノ六〇前科二犯無職諸岡ひで(三二)同町七ノ七前科一犯松井幸太郎(三六)同町六の一三四無職小林武(三三)足立区竹塚五十嵐丑蔵八もぐり 六)(足立区竹塚五十嵐丑蔵八もぐり 六)同町の一三四無職小林武(三三)足立区竹塚町四一四五十嵐丑蔵(三八)のもぐり周旋屋一味を留置取調べてゐるが同人らは諸岡ひで総指揮官とし玉の井根城玉の井根城秋田 ,山形 ,北海道等凶作地の婦女を甘言もつて連れだし八十圓から三百五位で玉北海道等凶作地の婦女を甘言もつて連れだし八十圓から三百五位で玉井,亀戸等の魔窟に賣り飛ばし手数料を身代金半分以 上取つてゐたもので被害者は秋田縣生れ影澤あき( 二一)外十八名の多数に上り係官もそ悪辣な手段驚いてゐる」
     「モグリ周旋団 凶作地の子女へ魔手 」,『読売新聞』 , 1933 年 1月 31 日)

 

 

 

 

 

 先に紹介した朝日新聞記事には、記者に「いはば自分を売つた非道の親、それを微塵も怨まぬ心はいぢらしい限りだ」との感懐を抱かしめた「身売り娘」のエピソードが載せられているが、このような事例が決して珍しいものではなかったらしいことも、安中論文の紹介する新聞記事から読み取れる。

 

 

 

  十六日朝 ,岩手県警察部からの至急配で危うく身賣 りの一歩手前で救はれた東北娘がある。岩手県稗貫郡石鳥谷町大字北寺林の貧農似内櫻香長女くりさん(二七)永年の間,婚期も忘れて女中奉公に出た仕送りで老父と三人弟妹の一家を養つて来たが ,父子五人が木の實も食へぬ赤貧から青春を汗のために失つた女には身賣り四年間がタツタ三百圓にしか値なかつた ,しかし大金を握らされた一家にとつては桂庵の姿が神にさへ見えたといふ ,この くりさんがいよ洲崎遊郭の春賣樓に売られて娼妓登録の許可申請から縣警察部への照會となり「身賣娘を護れ」スローガン下に奔命してゐる同縣からのS・O・Sで危なく救ひ出された。さてここに喜ばないのは當のくりさん「私を救つて下すつた事は有りがたい事です,けれどもどうして私がこのまま國許へ帰れませうまとまつた金が無ければ父子五人が野垂死をしなければなりません,私一人が死んだ気になれば父や弟妹達が救はれますどうぞ私を娼妓にして下さい」といふ ,警視廳でも「身賣り救済運動」の将来に投げかけられた切實な問題として,早速くりさんを愛國婦人會の手を借りてどこか前借出来る女中奉公口を探してやることになつた
    「『私が犠牲になれば』 救われて浮かぬ娘 凶作地の『血の記録』」 ,『東京朝日新聞』 ,1934 年 11 月 17 日

 

 

 

 「私を救つて下すつた事は有りがたい事です、けれどもどうして私がこのまま國許へ帰れませうまとまつた金が無ければ父子五人が野垂死をしなければなりません、私一人が死んだ気になれば父や弟妹達が救はれますどうぞ私を娼妓にして下さい」という「身賣娘」の言葉。この、くりさんの「自分の意思」を「美談」として位置付けることを是認することは正しいのか? 確かに近代日本には、そのような「自分の意思」を示した「身賣娘」の姿に「美談」を感じ取る土壌があった。だからこそ、記者は「いはば自分を売つた非道の親、それを微塵も怨まぬ心はいぢらしい限りだ」との心情を吐露したのであるし、くりさんは「どうぞ私を娼妓にして下さい」との言葉を発したのである。

 

 その近代日本の現実の中で「身賣り救済運動」に奔走した人々も確かに存在した。しかし、その救済策は「どこか前借出来る女中奉公口を探してやること」でしかなかった。

 

 

 

 これが、昭和戦前期の貧困層が置かれた現実であった。そして、昭和12年には大日本帝國は「支那事変」という名称の下での中国との実質的戦争状態に陥る。昭和も戦時期(戦中)となるのである。

 

 戦時期昭和には、貧困層の娘たちは、いわゆる従軍慰安婦の供給源となる。かつての公娼制度の枠組みの上に、慰安婦の供給システムが構築される。貧困と「娘の身売り」の構図が、軍の存在によって維持される時代となっていくのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 :  2018/05/16 21:07 → https://www.freeml.com/bl/316274/319007/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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