カテゴリー「20世紀、そして21世紀」の記事

2020年3月26日 (木)

非常時の国家と産業(20世紀の戦争と21世紀の感染症)

 

 

  新型コロナウイルスの世界的流行(パンデミック)により医療設備が不足している中、各国政府が戦時状況に準ずる民間総動員体制を整えている。
  19日、CNNによると、英国は準戦時動員方式によって不足しているベンチレータ(人工呼吸器)の生産に入った。対象企業には、航空機エンジンなどを生産する有名自動車メーカーのロールス・ロイスと掃除機の代名詞となったダイソンが含まれた。
     (2020/03/19 21:20   News1 wowkorea.jp)

 

 今回の新型コロナウィルスへの対応を報じる中で、第二次世界大戦時の戦時動員の記憶が参照されている記事(タイトルは「ダイソンもロールス・ロイスも人工呼吸器生産…戦時動員体制=英国」)として、強く印象に残った(CNNに遡るべきかも知れないが、この件で最初に目にした記事として記録に残しておきたい)。ロールスロイスとダイソンという組み合わせも味わい深い(ロールスロイスは20世紀からの英国の伝統を示し、ダイソンは21世紀の英国を代表する)。記事の最後は、

 

  新型コロナウイルスの発源地である中国は、軍の医療スタッフを投入するなど、戦時総動員体制を整えて、iPhoneの組み立てをしていたフォックスコンなどがマスク製造に乗り出し、韓国政府もマスク不足事態に広く民間にも協力を求めた。フランスでは、世界最大のブランド企業LVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)グループが、「国家災難級の危機」に傘下クリスチャン・ディオールなどの香水製造ラインを洗浄剤のラインに変更して稼働させている。

 

と結ばれている。ここでも「戦時総動員体制」という語を用いて、中国での対応が記されている。

 続いて米国での「戦時状況に準ずる民間総動員体制」の現状を伝える記事を記録しておきたい。

 

  世界中でコロナウイルスの感染拡大が止まらない。アメリカでは、3月に入って感染者が急増。政府発表によると、22日の時点で感染者が3万人を超えたという。
  米自動車メーカーの”ビッグ3”であるゼネラルモーターズ(GM)、フォード、クライスラーはいずれも、自動車の生産を停止している。そんな中、GMはベンテック・ライフ・システムズによる人工呼吸器の増産をサポートするようだ。
  同じくコロナの感染が広がっているイギリスでは、国内に拠点を置くF1チームが同様に人工呼吸器製造をサポートしている。
     (2020/03/23 15:01 MotorsportJP)

 

 こちらのタイトルは「ゼネラルモーターズは、コロナウイルスのパンデミックに対し、人工呼吸器の増産をサポートしている」で、David Malsher 氏による署名記事となっている。

 

 ゼネラルモーターズの対応については、3月21日の時点で、既に土方細秩子氏が取り上げている(「自動車メーカーが人工呼吸器製造か?米の現状」)。

 

  そこで、全米の工場閉鎖を発表したばかりの自動車メーカー側が政府と交渉し、「人工呼吸器などの医療機器の生産という形で協力したい」と申し出たのだという。GMのメアリー・バラ会長はトランプ大統領に対し、人工呼吸器などの医療デバイスを工場で生産する可能性について社内でリサーチを行っている、と報告した。
     (2020/03/21 WEDGE Infinity)

 

 生産の転換が、国家主導というよりは、自動車メーカーの主体的対応に読める記事である(注:1)。更に、

 

  テスラのイーロン・マスク氏は宇宙航空産業のスペースXに関して「ただちに人工呼吸器の製造を始める用意がある」ともツイートしている。またジャガー・ランドローバーも英政府に対し同様に人工呼吸器の製造により政府を支えることができる、としている。

 

と、米英での企業による対応への言及が続く。現在ではゼネラルモーターズの後に、

 

  米自動車大手フォード・モーター(F.N)は24日、新型コロナウイルスの感染者が重症化した場合に必要になる人工呼吸器などの製造を開始すると発表した。
     (2020/03/25 00:59 ロイター)

 

と、フォードも人工呼吸器製造への参入を発表していることが伝えられている(記事には「フォードは米ゼネラル・エレクトリック(GE)(GE.N)のヘルスケア部門と米複合企業スリーエム(3M)(MMM.N)と提携し対応する」ともあるが、この二社も戦時期の軍需生産を担った経験を持つ)。

 

 土方氏は、先の記事中で、

 

  車と人工呼吸器といえば随分異なるように思えるが、自動車メーカーとしては生産する場所は確保できるし、プラスチック、金属、電子製品についての知識もある。今がウィルスとの戦時中、という認識で全社を挙げて政府に協力する体制を整える、というのだ。
  例えば第二次世界大戦中に米国の自動車メーカーはジープなどの軍用車、戦車、B24戦闘機などを生産していた。つまり車を作る技術は他の軍事用品、今回の場合は医療機器に応用することは可能なのだ。

 

と、第二次世界大戦中の自動車メーカーの経験について解説している。当ブログでも、戦車を生産するクライスラー(「クライスラーの戦車」参照 )と四発重爆撃機(土方氏は「B24戦闘機」と記述してしまっているが、フォードが生産した「B24」は「戦闘機」ではなく大型の爆撃機である)を生産したフォード(「フォードの爆撃機、あるいはロージーのリベレーター」参照)を取り上げている。

 

 何か感慨を覚えざるを得ないのが、米英=かつての連合国だということである。枢軸(われらが日独伊)を物量で打ち負かした連合国の戦時生産体制の経験が、今回の新型ウィルスの対応にも確かに反映されているように見えてしまう。安易に図式化しようなどとは思わないが、かつての連合国=米英での生産転換のスピード感、そこでの企業の主体性のあり方の背後に、やはり私は「先の大戦」の経験を見てしまうのである。

 国家主導により国家の指示命令に従うというよりは(ロイター記事中には「国内自動車メーカーに対し、他の産業と提携し新型ウイルスの感染拡大への対応で必要な機器などを製造するよう」とのトランプ大統領による「呼びかけ」も記されているし、実際に大統領は「国防生産法」の発動を発表してもいるが―注:2)、企業が主体的に動く姿(米国の「お上」としてのトランプには見えない)。上位の存在として指示命令する「お上」としての「お国」があり、その命令(国策発動)を待って民間が滅私奉公で国家統制に従うのとは異なる社会の在り方。何か人々の血肉となっているからこその人工呼吸器製造への、スピード感ある生産転換の試みに見えてしまうのである(イタリアは新たな人工呼吸器生産どころではない悲惨な状況であり、「指導者原理」による全体主義の故国ドイツの自動車メーカーによる人工呼吸器生産への転換の報道はないし、滅私奉公の皇道精神自賛の果てに敗戦を迎えた日本も同様である―報道で伝わる限りの話ではあるが、メーカーも生産転換に名乗りを上げず、国家も指示していないのが枢軸の現状である)。

 

 

 連合国称賛だけに終わらせずに、わが帝國の末裔の現在についても記録しておきたい。

 

  シャープは24日、マスクの生産を開始したと発表した。価格は未定で、販売先は政府と調整中。新型コロナウイルスの影響で品薄が続くマスクの安定的な供給に貢献したい考え。
     (2020/03/24 14:42 時事ドットコムニュース)

 

 日本の家電メーカーだって頑張っているのである。確かに人工呼吸器生産への転換に比べ、技術的ハードルの高さは低いかもしれない。しかし、日本国民の多くが必要だと考えているのは人工呼吸器ではなくマスクなのも確かなのである。

 マスクで新型コロナ感染が十分に防げるものであるならば、技術的ハードルが高くそれだけ時間も要するであろう人工呼吸器生産を目指すよりはマスクの生産を優先することは合理的判断ではあり、国家の戦略としては間違ってはいない。しかし、国家レベルでそのような比較考慮がされていたのかどうか? 現在のところ、私の読んだ限りの報道からは判断のしようがない。

 

 

 

【注:1】
 土方氏は、

  自動車メーカーにとって、このような形で工場を再開できれば15万人を超える国内の自動車関連労働者に職を与え、生活を支えることができる、という点も大きい。もちろん労働者側からは職場での感染の危険性など疑問点も呈されるだろうが、シフトを減らす、各労働者の物理的距離を保つ、など企業側が提供できる予防策も当然講じられることになる。

とも記し、現実に進行しつつある人工呼吸器不足による死者の増加の可能性を前にしての、閉鎖された自社工場による人工呼吸器生産が、新型コロナウィルス感染による工場閉鎖によって企業とその労働者にもたらされた不利益の解消にも役立つとのメーカーサイドの認識を示している(滅私奉公を志願しているわけではない)。
 感染者の救命に役立つと同時に企業の利益にもつながる、ということなのである。

 

【注:2】

米大統領、「国防生産法」発動 医療物資の確保優先―新型コロナ

  トランプ米大統領は20日、新型コロナウイルス感染拡大に伴う医療物資の不足に対応するため、民間企業に調達や増産を促すことができる「国防生産法」を発動したと正式発表した。国家の危機対応を「最高レベル」まで引き上げたと強調。非常事態に認められた特別な権限を行使し、肺炎治療に欠かせない人工呼吸器やマスクの確保を急ぐ。
     (2020/03/21 06:39 時事ドットコムニュース)

 同記事には、「国防生産法は朝鮮戦争開戦の1950年に成立。物資の調達や増産、賃金、物価統制に至る幅広い権限を大統領に認めて」いるとの記載もある。

 ちなみに、朝鮮戦争と人工呼吸器の普及には関係がある。

  第2次世界戦争(1940~1945)において成層圏を征服するために、各国において高々度用の呼吸マスクを考案し、これが朝鮮戦争(1950~1953)中に、医療として用いられるようになり、”人工呼吸器”(respirator)として完成し、麻酔学の発展に大きく寄与することとなった。
     (高木健太郎 「現代における生と死」 1984 日本内科学会特別講演)

 ここには「”人工呼吸器”(respirator)」とあり、冒頭で引用した記事では「ベンチレータ(人工呼吸器) 」とあるが、医療関係の用語辞典には「レスピレーター:人工呼吸器のことをいう。最近は、ベンチレーターと呼ぶことが多い」などと書かれているので、どちらも同じと考えて問題はなさそうである。「脳死」状態が人類の歴史に登場するのも、朝鮮戦争時の人工呼吸器の普及の思わぬ果実であったことも申し添えておこう。

 皮肉な話だが、現在では、朝鮮戦争の戦線の向こう側で米国と戦っていた中国が人工呼吸器生産でも大きな地位を占めるようになっているようである。

  中国の医療機器メーカー、北京誼安医療系統は1月20日以来、24時間体制が続く。
  同社の工場ラインは2週間前に国内のニーズを満たした後、外国からの人工呼吸器の注文に全力で取り組んでいる。3交代制で、研究開発部門のスタッフまでも生産ラインで働く中、同社の機械は休みなく稼働している。
     (2020/03/24 15:16 Bloomberg)

 この Jinshan Hong 氏と Dong Lyu 氏による記事には、

  人工呼吸器を製造するために時間と闘っている中国企業は同社だけではない。
  中国の医療機器企業間取引(B2B)プラットフォーム、貝登医療のサプライチェーン担当ディレクター、ウー氏は「中国の全ての人工呼吸器工場は最大生産能力に達し、外国からの需要で完全に手一杯になっている」と述べた。工場のフル稼働は5月まで続くと同氏は予想している。
  人工呼吸器の需要があまりにも多いため、トランプ米大統領は自動車メーカーの人工呼吸器生産に向けた工場改築を容認した。
  トランプ氏は22日のツイートで、フォード・モーターやゼネラル・モーターズ(GM)、テスラに人工呼吸器を製造する許可を与えたと明らかにした。
  ただ、企業が迅速に生産を増やせるフェースマスクや体温計とは異なり、人工呼吸器は参入障壁がより高く、急速な生産拡大はもっと困難だとウー氏は指摘。「生産ラインの拡張は非常に時間がかかり、資源を要する。人材育成も必要で、あまりにも手間がかかる」と説明した。

とも記されている。今後、米国の自動車メーカーは人工呼吸器生産への技術的ハードルをクリア出来るのであろうか?

 米国だけでなく中国もまた、連合国の一員であったことを思い出してみれば新たな感慨を呼ぶ。感染症に翻弄される世界の中に、現代史が凝縮されている様を見ているようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2020年1月 5日 (日)

戦時下のミッキー

 

(ミッキーとガスマスク、そして陸軍九〇式大空中聽音機)

 

 

 年賀状をデザインするに際し、必ずしも干支にちなむというわけではないが、昨年末(つまり年賀状デザインについて思いを巡らす時点)には、ネズミネタ路線に向かっていた。

 

 で…

 Photo_20200105172501

 

我ながらびっくり(私はディズニーファンではない)のミッキーマウス・モチーフである。枢軸国―もちろん我が大日本帝國も含まれる―による毒ガス攻撃から子供たちを守るためのガスマスクに施されたミッキーマウス・デザインなのである(後述)。しかし、あまりに不吉なイメージではある。親しい友人たちには確実にウケると予想されるが、私との付き合いが深くない方々には刺激が強過ぎるとも思われた。

 

 そこで…

Photo_20200105172601

 

対米英開戦に先立つ時期、日本人の誰も著作権なぞ気にしない時代の日本産ミッキーの年賀カード(右から左に「アケマシテオメデタウ」とある)である。ミッキーマウスにしか見えないキャラは、日本軍のために活躍しているのである(ミッキーたちが操作しているのは日本陸軍の九〇式大聴音機―詳細は後述)。

 

 

 

 まず取り上げるのは不気味感全開のミッキーマウス・ガスマスクについてだが、1941年12月の真珠湾攻撃の衝撃の渦中の米国でデザイン(ウォルト・ディズニー)され、実際に製造(サン・ラバー社)されたものだという。ミッキーマウスをモデルとしたデザインは、ガスマスク装着時の恐怖感を和らげるはずであった(ゲーム感覚で装着訓練を重ねられることが期待された)。

 日本軍による米国本土への毒ガス攻撃が、現実的脅威として迫っているように感じられていたのである(太平洋には日本軍、加えて大西洋側の海面下にはドイツのUボートが潜行し攻撃の機会を窺っているものと考えられた)。

Children-were-given-mickey-mouse-gas-mas

 (During WW2 Walt Disney designed a Mickey Mouse gas mask for children, in the hope that they would not be frightened if they had to wear it. /41strange / twitter.com)

 

 実は、米国製ミッキーマウス・ガスマスクには先立つ存在があった。既に1939年以来ヨーロッパは戦場となっており、大陸諸国はドイツの占領下となり、残された英国も侵略されようとしていた。第一次大戦での毒ガス攻撃による悲惨は人々の記憶にあり、ドイツによる爆撃が現実となった英国でも、毒ガス攻撃からの市民防護が課題となっていた。市民にもガスマスクが配布される中で、子供用のガスマスクも用意されたのである。英国政府の用意したガスマスクはミッキーマウスにはまったく似ていなかったが、ミッキーマウスの名で呼ばれることになる。幼児の喜びそうな仕掛け(鼻が伸びる)も組み込まれた楽しげな色使いのマスクであった。要するに、幼児にも抵抗なく装着されることが目論まれてのデザインということである。

British-government-issued-childs-gas-mas

  British Government issued child’s gas mask.Circa. 1940 / cartoonresearch.com)

 

 もっとも、1943年生まれのエリック・アイドル(あのモンティ・パイソンのメンバー)の記憶によれば、ガスマスクの装着は、おぞましい体験であったようだ。ゴムの臭いは耐え難いものであり、以来、エリック・アイドルにとってミッキー・マウスとスキューバダイビングは苦手なものとなったという(『エンパイアマガジン』の2019年1月号の記事にあるらしい)。ガスマスクの装着は容易でも快適でもなく、フィルターを通しての呼吸はそれだけでも息苦しいのに、強烈なゴムの臭いの中に閉じ込められるのである。

 

 英国政府が支給した子供用ガスマスクはミッキーマウスには似ていなかったが、そのネーミングはロンドンのディズニー・オフィスに受け入れられた。この幼児向けガスマスクをめぐる英国でのエピソードは、のちに米国製ミッキーマウス・ガスマスク製造会社となるサン・ラバー社の社主であるT.W.スミスにより米国にも伝えられた。1942年1月には、ウォルト・ディズニー自ら掲げるデザイン画と共に軍の市民防衛部門と科学戦部門、産業部門の責任者が並んでの記念撮影がされている。

 デザイナーのディートリッヒ・レンペルとバーナード・マクダーモットにより、ディズニーによるデザインは立体造形化され、実際にサン・ラバー社で製造されることになった。ミッキーマウスに加え、プルートや三匹の子豚タイプのガスマスクもデザインされたという。サン・ラバー社は、様々なゴム製品(玩具から文具、医療器具、そして軍需製品まで)の製造に従事しており、子供用の玩具もその一つであったが米国の参戦と共に玩具製造を中止していた中でのエピソードである。

 

 真珠湾攻撃の衝撃は大きく、やがてあるかも知れない枢軸国による米国本土への毒ガス攻撃への対処も米国の政治家の課題となった。当初、ニューヨーク市長のラガーディアは、市民の安全のためには5000万個のガスマスクが必要だと主張した。そんな中での子供用ミッキーマウス・ガスマスクなのである。

Mickey-mouse-gas-mask-for-children-wwii4

 (45th Infantry Division Museum Oklahoma City Oklahoma / tripadvisor.jp)

 しかし、ミッキーマウス・ガスマスクの生産は戦争の全期を通して1000個前後で終わることとなった。実際に広く供給されたのは子供用のM1-1非戦闘員用ガスマスクであった(ただし幼児用としてのデザイン的な配慮はない)。時間と共に戦況は米国に有利となり、毒ガス攻撃の可能性も減少していく。非戦闘員用ガスマスクは最終的に30万個が供給されたとされるが、それが子供用だけの数字なのか大人用も含む数字なのかは(私の目を通した範囲では)判然としない。

 戦後もディズニーとサン・ラバー社の関係は続き、ライセンス契約の下でのサン・ラバー社のゴム製ディズニーキャラ・フィギアが製造されたという。

 米国本土においても英国においても、対戦国による毒ガスを用いた攻撃を経験することはなく戦争は終結を迎えた。ガスマスクが実際に用いられることはなく、装着したガスマスクが市民の生命を救う場面もなかった。が、英国ではガスマスクのフィルター部に用いられたアスベストによる健康被害が報告されているという。製造工程に従事した労働者が、アスベストの犠牲となったというのである(エリック・アイドルの幼児体験の中のガスマスクにもアスベストは用いられていたはずである)。

 約1000個という製造数のミッキーマウス・ガスマスクは、現在のコレクターにとっては入手困難なレアなアイテムとなっているらしい。限られた生産数であったことに加え、ゴムという劣化のしやすい材質の製造品であることが、コレクターにとっての入手難易度を高めているようである。入手難のミッキーマウスの本家(?)の米国製ガスマスク現存品に比して、ミッキーマウス・ガスマスクの元祖的存在である英国政府供給の現存数はそれなりに多いらしく、オークションサイト等に出品されている現存品を画像検索で確認出来る。

 

 

 

 そもそもは戦時期のミッキーマウスを用いたプロパガンダへの関心、特に戦前のわが大日本帝國でのミッキーの活躍への関心から、そして年賀状作成という課題から、「mickey mouse ww2 japan」なんて検索語でネット上の画像チェックをしたところから始まった話である。わが大日本帝國の戦前期におけるミッキーの活躍ぶり(要するに著作権なんか関係なし)に感心していたら、件の米英のガスマスク画像も発見。迷うことなく年賀状デザインに採用したわけだが、やはりあまりに不吉感が大き過ぎる。で、あらためていろいろ画像検索を進めるうちに、ミッキー(にしか見えない)キャラの活躍する、しかも軍事色あふれる年賀カードを発見したのであった。近頃は年賀状が流行らなくなりつつあるが、戦前のアメリカン・アニメキャラ・カード類には年賀モードのものも多くみられる。ベティーとミッキーが一緒になって「アケマシテオメデタウ」、なんて展開である。

 そんな中から、オークションサイトで$150の値で売りに出されていたのが、仮に「防空ミッキー」と呼ぶことにしたカードである。

1930-disney-mickey-mouse-war-postwar-vin

 (1930 Disney Mickey Mouse War & Postwar Vintage Japanese Postcard Very Rare Sold Price: $150 / antiquesnavigator.com)

 

 手前にあるミッキーに囲まれている巨大金管楽器のような装置が、侵入する敵機の爆音を捉えて位置を探るための聴音機。遠くの地平線上には日章旗が翻り、空には低翼単葉引込脚に見える日本軍戦闘機らしき姿。さて、ミッキーはどちらの側にいるのであろうか?

 

 で、あらためて聴音機に注目すると…わが陸軍の九〇式大聴音機であることが判明(写真画像からすると、防空ミッキーカードはかなりリアルな描写となっていることがわかる)。

Photo_20200105213901

 (九〇式大聴音機/Wikipedia)

 

 画像をいただいたウィキペデイア先生によれば「九〇式大空中聴音機(きゅうまるしきだいくうちゅうちょうおんき)は1932年(昭和7年)に日本軍が採用した音響探知装置である」という、日本陸軍の防空用音響探知兵器である。ミッキーマウス部隊が運用しているのはわが帝國陸軍自慢(?)の防空システムに組み込まれた音響探知装置なのであり、となるとミッキー部隊は日本陸軍に所属していることにならないか?

 

 手元にある陸軍航空本部第二班編纂の『最新 世界航空大観』(厚生閣 昭和6年)の第四章は「國土防空」となっており、その「三 防空法(一)―積極的防空施設」に「F 聽音機」の項がある。

  さて聽音機は敵機上より發する爆音を聽取してその方向を判定するものであるから、その配置が適當でない場合には友軍戰闘機の妨害を受けて、遂に敵機の標定不可能となり、或ひは誤つて友軍戰闘機を標定することになる。それ故に照明地帯の前方に出来れば特に警戒地帯を設け、その中に聽音機を配置して敵機の航路を第一戰の照空燈に知らしめ、戰闘地帯の照明實施を成るべく早く行はせ、待機地帯内には聽音機を絶對に配置しない方を有利とする。而してこれらの聽音機を如何なる距離間隔をおいて、いかなる位置に配置すべきかは聽音機そのものの聽音圏等の性能に左右されることが多く、これらには總べて聽音機専門家の研究に俟つこととしよう。
     (175ページ)

このように説明されているが、再びウィキペディア先生を参照すると、

  聴音機とは飛行する航空機の音を捉え、その位置や移動方向を割り出すものであるが、より探知精度の高いレーダーの実用化で姿を消した。しかし、電波探知機(レーダー)による捜索技術で欧米等から後れを取っていた日本では、太平洋戦争終戦間際まで使用され続けた。好条件下では、約10km先の目標を探知可能であった。 

とされている。ウィキペディア先生の「聴音機」の項には、

  空中聴音機は方向と高低を特定するためにラッパや反射鏡のような集音装置を備え、音を導音して受音器で聞き取った。音源の方向と高低の特定は、音を聞き取る操作員が、音響が正面から来ていると感じ取ることで行われた。しかし、音響は気象条件、湿度、温度、風向等の条件によって大きく変化した。また雨天の際には集音部のラッパに水がたまるため、点検して除去する必要があった。
  聴音によって特定できる航空機の位置は常にずれている。数キロメートル離れた場所からの音波は、聴音するまでに数秒がかかり、その間に航空機は聴音によって特定された位置から離れている。照空、射撃に用いるには、この誤差を修正する必要があった。

とある(『ウィキペディア』の信頼性という問題は常にあるが、『ウィキペディア』に全面的に依拠するのではなく、記述を批判的に読んだ上で利用可能と判断した記述は利用するのが私の姿勢である)。

 昭和10年代後半には時速500キロを超える高速の軍用機が主流となっていく中で、「好条件下」でやっと10キロ先の目標が探知可能(ただし「数キロメートル離れた場所からの音波は、聴音するまでに数秒がかかり、その間に航空機は聴音によって特定された位置から離れている 」のである)という「積極的防空施設」なのであった。

 ところで、『最新 世界航空大観』には、「聽音機」の画像も掲載されている(176ページ)。

Photo_20200105221701

 上が「喇叭形聽音器」で下が「蜂巣形聽音器」となっているが、この「喇叭形聽音器」は、形状からして九〇式大聴音機のように見える(掲載写真の「喇叭形聽音機」の向きは、ミッキー部隊が操作しているものにも重なる―左右に並ぶ向かって右側の「喇叭」と左側中段の「喇叭」による「聴音」で進入する敵機の左右水平方向での位置を判定し、左側の上下段の「喇叭」を用いた「聴音」により上下垂直方向での進入機の角度を測る)。車輪は外されているが、全体のサイズ、「喇叭」の形状、喇叭を支える支柱の形状を見ると、ほぼ九〇式聴音機そのものではないか。軍による採用は昭和7(1932)年とされているが、昭和6(1931)年の時点で、陸軍航空本部第二班編纂の『最新 世界航空大観』には写真が掲載されていたものと考えられる。「九〇式」とは「皇紀2590年式」を意味し、すなわち昭和5(1930)年であるから、「年式」の年号と「採用」の年号、そして掲載写真の書籍発行年号の異同という細かいところにも、つい眼が向いてしまう(本文は「聽音機」で写真キャプションでは「聽音器」であるところにも)が、要するに1930年代の日本軍の「積極的防空施設」を操作しているのがミッキーマウスという話なのである。

 後方上空の低翼単葉引込脚の戦闘機らしき軍用機(両翼に記された国籍マークからして軍用機であろう)からすると、実際に日本陸海軍が低翼単葉引込脚の戦闘機を配備するのは1940年以降となるので、イラスト作者がリアルな描写を心掛けているとすれば、この防空ミッキー年賀カードも1940(昭和15)年以降に販売されたもの(雑誌の附録であった可能性もある)であるかも知れない(翌昭和16年12月には真珠湾攻撃による対米開戦となるので、このミッキーマウス・デザインでは昭和17年の年賀状には使えなくなってしまっていただろう)。

 

 

 

 以上、今年の年賀状をめぐるあれこれである。

 

 

 

 

【主な参照先】

 終末感漂う、戦時中の子供向けガスマスクとそれを付けた子供たちの古写真 / カラパイア
  http://karapaia.com/archives/52229440.html

 The Mickey Mouse Mask By Major Robert D. Walk
  http://www.gasmasklexikon.com/Page/USA-Mil-Mikey.htm

 Did you know Walt Disney designed the world’s weirdest gas mask? By John Kelly
  https://www.washingtonpost.com/local/did-you-know-walt-disney-designed-the-worlds-weirdest-gas-mask/2015/09/12/885be808-57d8-11e5-8bb1-b488d231bba2_story.html

 The Mickey Mouse Gas Mask— Used in Name and Design During WWII By Dave Bossert
  https://cartoonresearch.com/index.php/the-mickey-mouse-gas-mask-used-in-name-and-design-during-wwii/

 Gas Masks in the Second World War killed more people than they saved By John Simkin
  https://spartacus-educational.com/spartacus-blogURL124.htm

 “"Mickey Mouse" Gas Mask For Children WWII”
  https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g51560-d117287-i181179932-45th_Infantry_Division_Museum-Oklahoma_City_Oklahoma.html

 九〇式大聴音機 / ウィキペディア
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E3%80%87%E5%BC%8F%E5%A4%A7%E8%81%B4%E9%9F%B3%E6%A9%9F

 <骨董品シリーズ その62>空中聴音器 / 小林理研ニュースNo.96_3
  http://www.kobayasi-riken.or.jp/news/No96/96_3.htm

 日本の空中聴音機(Japanese Sound Locator)
  http://www17.big.or.jp/~father/aab/kikirui/soundlocator.html

 かつて戦時中に使用されていた、音波で対象物の位置を捕捉する「空中聴音機」の歴史 / カラパイア
  http://karapaia.com/archives/52068069.html

 

 

 

 



 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2019年12月29日 (日)

東ドイツ建国70年目の「ドイツ民主共和国40周年記念勲章」

 

 2019年も残り数日となってしまったが、数日前に遡る話である。

 2019年は東ドイツ(ドイツ民主共和国)の建国70周年に当たる(「2019 70JAHRE DDR (幻の東ドイツ建国70年)」参照)。しかし、建国70周年の国家的祝賀行事を主催するべきドイツ民主共和国は、ご存じの通り、既に存在しない。1990年の建国41周年を迎えることなく、統一ドイツの名の下に、ドイツ民主共和国(東ドイツ)は消滅したのであった。それから30年が過ぎようとしている。

 そんな2019年の年末、たまたま、ネット検索で調べものをしていた際に、ネットショップで「ドイツ民主共和国40周年記念勲章」が販売されているのを発見したのである。

 で、迷わず購入してしまった。1989年、10月7日の建国40周年記念式典から1か月もたたないうちに、式典の主宰者であったホーネッカーは失脚し、ホーネッカーが築いたベルリンの壁も崩壊してしまう。その間際というか、短い時間の中で制定(1988年10月14日)され授与(1989年10月7日)された「ドイツ民主共和国40周年記念勲章」なのである。

 

 白いプラスティックのケース入りだが、フタとケースが別になっているスタイルではなく、フタとケースは蝶番により一体化されている(これまで入手した東ドイツの勲章・記賞類は、フタとケースが別のスタイル―弁当箱のような―であった)。しかもフタ側とケース側の両方が赤いフェルト敷きとなっている。特にコレクターというわけではないし、手元にある勲章・記章類の数も限られているので、どちらもどこまで一般的なスタイルなのかはわからない。

 1989年から30年が過ぎるわけで、その年月を反映してか、台のフェルトには小さな穴(虫食い?)があるし、メダルの表面にも黒く変色した部分がある。その一方で、いわゆる「使用感」はなく、「新品」の印象である(授与された建国40周年記念勲章は瞬く間に亡国記念章と化してしまい、佩用する場もなかったということでもあろうが)。裏面には「FÜR VERDIENSTE UM DIE DEUTSCHE DEMOKRATISCHE REPUBLIK」との銘があるので、授与されたのは国家に対する貢献が認められた人物ということになる。制定者はホーネッカーだというが、その制定者が失脚するような状況(1989年10月17日の政治局会議で解任動議)の中で、どのような規模で叙勲されたのであろうか?

 授与された者が手放したものなのか、授与の機会を失いデッドストック状態で倉庫にしまい込まれていたものなのか? いろいろと気になるが、とりあえずは入手の記録として2019年の最後の記事をアップしておこうと思う。

 

 

 

Img_6265

Img_6333-4

Img_6260

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2019年12月18日 (水)

國號尊重ニ關スル件(「日本・ニホン・ニッポン」資料編)

 

 前回の記事(「日本・ニホン・ニッポン」)では、我が国としての「日本」は、「ニホン」なのか「ニッポン」なのかについて取り上げた。その際に、「戦前、国体明徴論が盛んなころの国名呼称をめぐる議論」に言及したが、今回は「資料編」として、当時の議論の実際を紹介しておきたい。

 用いるのは、「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B02031473200、本邦国号及元首称呼関係一件 第一巻(外務省外交史料館)」である。タイトルには「附録 帝國議會ニ於ケル請願建議及議事録抜粋」とあり、

 (一) 我カ國國號ノ統一顕正稱呼使用ニ關スル建議(第五十二議會衆議院)
 (二) 我帝國國名ノ稱呼使用ニ關スル建議案(第五十九議會衆議院)
 (三) 我カ帝國國名ノ稱呼使用ニ關スル質問主意書(第六十三議會衆議院)
 (四) 國號尊重ニ關スル件(第六十五議會貴族院)
 (五) 我カ帝國國名ノ稱呼使用ニ關スル建議案(第六十七議會衆議院)

という構成となっている。昭和2(1927)年から昭和10(1935)年に及ぶ期間の、国名呼称に関する議会での論議を概観するために外務省内で作成された文書であろう。中でも「(四) 國號尊重ニ關スル件(第六十五議會貴族院)」(昭和9年2月19日)は、貴族院における実際の議論を伝えるものとなっており、今回はその全文を紹介しようと思う。原文の雰囲気を伝えるために漢字はなるべく旧字体(舊字體)を用い、歴史的仮名遣いによるカタカナ表記(假名遣ヒ)によるものとする。濁音の表記が、たとえばそのまま「ガ」となっている部分と、濁音であるにもかかわらず「カ」と表記されている部分、促音の表記が「ッ」である部分と「ツ」である部分等が混在しているが、当時の文書作成者(複数の可能性がある)による正書法理解の問題あるいは和文タイプ操作の技量の違いによるものという可能性も考え、その努力の程を伝えるためにも、原文表記を可能な限り(タイプミスと考えられるものも含め)尊重しておくこととした。その分、読みにくさも増していると思うが、そんな文面を通して、コピペ処理の存在しない時代の和文タイプ文書作成者の負担の大きさを読み取ってほしい。

 「國號尊重ニ關スル件(第六十五議會貴族院)」をネット検索しても、ヒットするのはアジア歴史資料センターの(読みづらい)画像資料のみである現状(注:1)があり、この貴族院におけるやり取りを味わうのは難しい。そこで、あえて文字起こし作業にトライした次第である。

 また、貴族院でのやり取りの中で「政府委員」として活躍している金森徳次郎は、この後に岡田内閣の内閣法制局長官(1934年7月10日-1936年1月11日)となるが、国体明徴論全盛の中、「天皇機関説論者」として排撃されることとなった。戦後、現憲法制定時の国会において「当時の金森国務大臣は「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは、通念として認められている」として、国名呼称の統一を退けている」(奥野昌宏 中江桂子 「メディアと「ニッポン」―国名呼称をめぐるメディア論」 2011)金森徳次郎が、国体明徴論全盛期の貴族院における政府委員として問題をどのように切り抜けようとしていたのか? 深く味わう機会を提供したい。便宜のために、その主張の核心部分を引用しておく。

  サウ致シマスルト、色々ナ考ヘ方モ出来ルノ(ママ)思フノデアリマスルガ、一番國家ノ根本法トシテ示サレテ居リマス所ノ憲法ハ大日本帝國憲法ト示サレテ居リマスルガ故ニ、「ダイニッポンテイコク」ナル呼稱ガ國家トシテ最モ立派ナ言葉デアルヤウニ考ヘマス、併ナガラ憲法自身ノ中ニ於キマシテ既ニ「大」ノ字ヲ取リ、帝國ノ「帝」ノ字ヲ取ツテ「日本臣民権利義務」或ハ「日本臣民ハ」ト云フ言葉ガアリマスルガ故ニ、憲法自ラモ其國號ヲ絶對ニ何方カニ據ラナケレバナラナイトサレテ居ル趣旨デハナカラウト思ヒマス、サウ云フ様ナ次第デアリマスルガ故ニ、現在ノ國名ノ言ヒ現ハシ方ハ傳統的ニ存在シテ居リマスル範囲内ニ於キマシテ、適當ナル場合ニ適當ナル字句ヲ選ンデ用フルト云フコトガ、、、、、、其當否ハ別ト致シマシテ現在普通ノ此絛約等ニ於テ言葉ヲ用ヒマスル時ノ心持デアル譯デアリマス。ソレカラ讀ミ方ニ付キマシテハ之ヲ「ニッポン」ト讀ムカ「ニホン」ト讀ムカ、是亦傳統的ニ發達シタル言葉ニ據ルコトガ正當デアルト思ヒマシテ、今色々ノ御説明ガアリマシタガ、固ヨリソレハ将来研究ヲ致シマスルケレドモ、現在ノ考ヘ方デハ之ヲ「ニッポン」ノミニ限定スルコトモ困難デアリ、「ニホン」ノミニ限定スルコトモ固ヨリ不當デアラウト思ツテ居リマス。詰リ發達シ来ツタモノデアツテ、人為的ニ發達シ来ツタモノデハアリマセヌガ故ニ、大體ニ其自然ノ發達ニ基イテ居ル、此美シキ言葉ヲ適當ニ又自然ノ推移ヲ伴ヒツツ、宜イ方ニ誘導シテ行クト云フコトガ正常ト考ヘテ居リマスガ故ニ、今仰セニナリマシタヤウニ「ニホン」ト云フ言葉モ、「ニッポン」ト云フ言葉モ各々淵源ガアリマシテ、サウシテ現ニ地名ニ置キマシテモ「ニホンカイ」ト云フ言葉モアレバ「ニッポンバシ」ト云フ言葉モアル譯デアリマシテ、之ヲ俄ニ何レニ確定スルト云フダケノ十分ナル研究ハ實ハ熟シテ居リマセヌ

 

 

 以下、「(四) 國號尊重ニ關スル件(第六十五議會貴族院)」の全文である。

 

 

 

(四)國號尊重ニ關スル件(第六十五議會貴族院)
   第六十五囘帝國議會貴族院請願委員第三分科會(内閣、司法省、逓信省、拓務省)
   議事速記第二號
       昭和九年二月十九日(月曜日)
○主査(男爵徳川喜翰君) 外ニ御質問ハゴザイマセヌカ、、、、御質問ハナイト認メマス。次ハ第百二十四號、國號尊重ニ關スル件、竝ニ第百三十二號ノ國號ノ稱呼確定ニ關スル件、之ヲ一括シテ問題ニ供シマス、島津公爵
〇公爵島津忠承君 第百二十四號、四(ママ)號尊重ニ關スル件、請願ノ趣旨ノ大要ヲ申上ゲマス「ダイニッポン」帝國ノ通稱ハ言フ迄モナク「ニッポン」デアリマス、然ルニ欧米人ハ之ヲ「ヤポン」「ジャパン」ナドト稱シテ居リマス、外國人ガ斯ノ如ク稱スルコトハ彼等ノ随意デアリマスケレドモ日本人自ラモ欧米人ニ對スル外交文書、國際用語、日常ノ会話等ニ於テ彼等ト同ジク是等ノ稱呼ヲ使用シテ居リマス、是ハ通商、交際ノ便宜ニ依ルコトデアリマセウケレドモ、畢竟多年ノ追従思想ニ基クモノデアリマシテ、甚ダ遺憾デアリマス、我國ハ現在國際聯盟ヲ脱退シマシテ迄モ本邦獨自ノ正常ナル國是ヲ世界ニ認識セシメントスル時ニ於テ我等國民ハ祖先ヨリ傳来セル「ニッポン」固有ノ精神ヲ作興シナケレバナラナイノデアリマス、此時機ニ於テ彼等外國人ノ使用スルガ儘ニ本邦人モ多年使用シテ居リマシタ「ジャパン」「ヤポン」等ノ言葉モ言語及文書ヨリ公私共ニ一掃シテ、海外ニ對シ、「ニッポン」ト云フ正當ノ稱呼ニ復帰セシムルコトハ國民思想上、文教上影響スルコトガ少クナイモノト信ジマス、ソレ故ニ政府自ラ「ジャパン」「ジャポン」等ノ呼稱ヲ廢止シテ「ニッポン」又ハ「ダイニッポン」ト正サレタイト云フ請願デアリマス、次ニ第百三十二號ノ國號呼稱確定ニ關スル請願ノ要旨ヲ申上ゲマス、従来我國ハ我國ヲ稱スルニ或ハ「ダイニッポン」帝國ト言ヒ、或ハ「ニホン」國ト稱シ、通俗ニハ「ニッポン」「ニホン」ト呼ンデ居リマス、而シテ外國人ニ於テハ或ハ「ジャパン」「ジャポン」ト稱シテ居リマスガ是ハ畢竟スルニ、我國名稱ノ確定シナイ結果ニ起因スルモノト云フベキデ甚ダ遺憾デアリマスカラ、國内ハ勿論外國ニモ我國ノ名稱ヲ正確ニ呼稱セシムルヤウ、決定サレタイト思ヒマス
〇主査(男爵徳川喜翰君) 此際チョット御諮リ致シタイト思ヒマス、第百三十二號、國號ノ稱呼確定ニ關スル件ノ紹介議員デアル一絛公爵ヨリ一應請願提出ノ理由ヲ説明イタシタイト云フ御申出デゴザイマス、之ヲ許可スルコトニ御異議ゴザイマセヌカ
   (「異議ナシ」ト呼フ者アリ)
〇主査(男爵徳川喜翰君) 御異議ナイト認メマス、一條公爵
〇委員外議員(公爵一條實孝君) 御許シヲ得マシテ第百三十二號ノ請願ノ件ニ關シマシテ紹介議員トシテ一通リノ御説明ヲ申上ケタイト思ヒマス、只今御擔當ノ島津公爵カラ御話ガアリマシタ様ナ請願ノ御趣旨デゴザイマスルガ、更ニ附加ヘテ申上ゲマスト、日本ト書キマシテ、之ヲ通俗ニ我々ノ間ニ或場合ニハ「ニッポン」ト呼ビ、更ニ「大」ノ字ヲ附ケマシテ「ダイニホン」トカ、「ダイニッポン」、又國ガ附キマスト「ダイニッポン」帝國トカ、或ハ「ダイニホン」國トカ、或ハ色々ニ呼バレルノデアリマス、私ガチョット調ベマシタダケデモ外交文書ニ例ヘバ稱シ奉ルノニ、「ラムプルール○デュ○ジャポン」ト書イテアル、「ニホン」國皇帝陛下、「サ○マゼステイ○ラムプルール○デュ○ジャポン」、「ニホン」國皇帝陛下ト書イテアルノモ拝見イタシマス、或ハ海軍ノ兵隊ノ帽子ノ「ペンデント」ハ「ダイニッポン」軍艦、是ハ「ダイニホン」ト常用ニ讀ミ得ルノデアリマセウガ、サウ云フヤウナ「ペンデント」ニナツテ居リマス、ソレ等ノ例ハ數ヘ擧ゲレバ澤山ニゴザイマセウト思ヒマスガ、要スルニ今日ノ日本ニナツテ、國ノ稱號ガ色々ニ亘ツテ居ル、之ヲドウゾ御確定相成ツテ、外國ニモ日本ノ正常ナル固有名詞ヲ呼バセルヤウニシテ戴キタイ、斯様ナ請願ノ趣旨デゴザイマス、何卒御審議ヲ御願ヒ致シマス、請願ノ趣旨ノ貫徹イタシマスヤウニ御願ヒ致シマス
〇主査(男爵徳川喜翰君) 尚ホ御諮リ致シ度ウゴザイマスガ、只今問題ニナツテ居リマス國號稱呼ニ關シテ、議員三上博士ハ夙ニ識見ヲ有セラレテ居リマスノデ、此際委員外議員ノ發言トシテ同博士ノ説明ヲ伺ヒタイト思ヒマス、御異議ゴザイマセヌカ
   (「異議ナシ」ト呼フ者アリ)
〇主査(男爵徳川喜翰君) 御異議ナイト認メマス
〇委員外議員(三上参次君) 此際一言イタスコトヲ許サレマシタノハ甚ダ光栄ト存ズル次第デゴザイマス、先刻島津公爵竝ニ一條公爵カラ御説明ノアリマシタノデ、今日日本國號ヲ一定シテ普ク外人ヲシテ之ヲ用ヒセシメルト云フコトノ必要ハ最早多言ヲ要シナイコトト思フノデアリマスルガ、私ハ年来此外國人或ハ「ジャパン」ト言ヒ「ジャポン」ト言フコトハ彼等ノ随意デアリマスガ、日本政府ガ外國ノ文章デ文字ヲ書キマス時ニ、同ジク外人ニ追随シテ「ダイニホン」トカ「ニッポン」トカヲ用ヒズシテ、「ジャパン」とか「ジャパニーズ○クラブ」ダトカ云フコトヲ言ツテ居ルノハ誠ニ不見識極マル話デ、實ハ日本ノマダ極メテ幼稚ナル時代、外交ニ於テ殆ド總テノコトニ於テ諸外國ニ追随外交ヲ致シテ居ツタ時ノ餘弊ガ今日マダ除カレテ居ナイ、或場合ハ(ママ)於テハ日本ガ世界ヲ「リード」シナケレバナラヌト云フ今日ノ有様ニナツテ居リマスルノニ、大事ナ自分ノ國號ガマダ一定セラレテ居ラヌト云フコトハ非常ナ不面目デアリマス、ノミナラス一歩ヲ進メテ言ヒマスレバ、我ガ國家ノ恥辱ト申シテモ宜シカラウト思フノデアリマス、此請願書ノ説明ヲ見マスルト云フト「ジャパン」ト云ヒ「ジャポン」ト云フ言葉ハ、元ノ時代ニ伊太利人ノ「マルコポーロ」ガ支那政府ヘ傭聘セラレテ居リマシタ男デアリマスルガ、ソレガ紀行文ヲ書キマス時ニ「ジパング」ト云フ言葉ヲ用ヒタノガ抑々始メデ、ソレガ段々變化シテ「ジャパン」トナリ「ジャポン」トナツタモノト見エルノデアリマスルガ、其「ジパング」ト云フノハ、當時ノ日本國ト云フ文字ヲ其時ノ元ノ時代ノ發音デサウ言ハレタノデ、ソレガマダ多少訛ツテ居ルモノト思フノデアリマス、原因ハソンナコトデアリマセウガ、兎ニ角一個人ト雖モ、或ハ地方ノ小サイ町、村若クハ部落ナドニハ漢字ヲ用ヒル結果トシテ、人ニ依ツテ讀ミ方ガ二通リニモ三通リニモナルコトガアリマス、一個人ニシテモ、甲ト呼バレテモ返辭ヲシナクチャナラヌ、乙ト呼バレテモ辺辭ヲシナクチャナラヌト云フ場合ガアルノハ大變困ルト云フコトハ、ドナタモ御承知ノコトデアルト思ヒマス
況ンヤソレガ一國トシテ一定シナイト云フヤウナコトハ甚ダ困ツタ話デアル、ソコデ一定ヲスベキデアルト云フコトニ付テハ殆ドモウ誰モ異論ノ無イコトト思フノデアリマスルガ、ソレガ若シ餘リ考慮ヲ拂ハレズシテ政府ニ於テ一定セラルト云フコトニナリマスト云フト、又今日問題トナツテ居リマス所ノ「メートル」法と、尺貫法問題ノ如キコトガナイトモ限ラヌノデアリマシテ、私ハ之ヲ機会ニ少シク愚見ヲ申述ベテ見タイト思フノデアリマス、ソレデ外國カラ云フコトニ従フノハドウデモ宜イヂャナイカ、其通リニシテ宜イヂャナイカト云フコトニナレバ、是ハ別問題デアリマスガ、實ハ日本ト云フ言葉モ支那ト交際ノアリマシタ時ニ多分支那人ノ呼ンダ言葉ヲ日本ガ其儘用ヒタノデアラウト思ヒマス日本ノ古イ言葉ハ固ヨリ申スニ及バズ大八州ノ國デアルトカ大和ノ國トカ云フノデアリマシテ外交上即チ支那ニ對シテ日出處デアルトカ、或ハ日本ノ國デアルトカ、日ノ本ノ國デアルトカ云フノハ即チ日本ト云フコトノ用ヒラレタ元デアリマシテ、國内ニ對スル稱呼デハ元々ナイノデアリマス、従テ古イ書物ニ假名ガ附イテ居リマストカ、若クハ歌ノ書物ノ如キ和名デ書キマシタ場合ニハ、日本ト書イテ居リナガラソレニ「ヒノモト」トカ「ヤマト」トカ云フ和名ヲ附ケテ居ルノデアリマス、然ル所其日本ト云フ二字デス、或ハ「ニホン」ト呼バレ、「ニッポン」ト力ヲ入レテ言ツテ居リマス、是ニ依ツテ我々共實ニ過去ノコトヲ考ヘテ見マシテモ、今日ノ實際ヲ顧ミマシテモ、ドツチニ従ツテ宜イノデアルカト云フコトハ大變ニ困ルノデアリマス、此請願ヲサレタ人モ其中デ何ニ決メテ呉レト云フコトニナレバ御困ニナルコトデアラウト思フ、政府モ定メテ困ルコトデアラウト思フ、「大」ト云フ字ヲ附ケル附ケナイト云フコトハ是ハ自分デ自ラ尊厳ヲ加ヘルトカ、外國ニ向ツテ地歩ヲ占メルトカ云フ意味デ、附ケル附ケヌハ誰デモ分ルコトデアリマスガ、日本政府自ラ「ニホン」ト言ヒ、「ニッポン」ト云フコトニナルト非常ニ困ル、現ニ日常ノ言葉ニシマシテモ、従ツテ色々ノ字引ニ見マシテモ、日本の二字ヲ冠シテ居ル言葉デ「ニホン」ト發音シ、「ニッポン」ト發音シ或ハ両様トモ發音シテ居ルト云フコトガ實ニ多イノデアリマス、即チ電話ノ帳面ヲ見マシテモ日本ト書イテ置イテ、果シテ「ニホン」銀行ト言フカ、「ニッポン」銀行ト言フカ、日本銀行の發行シテ居リマス所ノ兌換等券ヲ見マスト云フト、羅馬字デ「ニッポン」銀行ト書イテアリマス、ケレドモ之ヲ呼ブ人ハ或ハ銀行ニ奉職シテ居ル人自身デサヘモ、「ニホン」銀行トモ言ツテル人ガアル郵船會社モ同様デアル、郵船會社ノ旗ノ立テアルノヲ見マスト云フト、「ニッポン」郵船會社トアリマスケレドモ、會社ニ勤メテ居ル人デモ、「ニホン」郵船會社ト言ツテ居ル、何ガ何ダカ分ラナイノデアリマス、サウ云フ風ニ非常ニ両様ニ錯雑シテ居リマス、ソレハ甚ダ講釈メイテ如何デアリマスガ、理由ノアルコトデアリマシテ、日本ト書イテ多分元ノ時代ニ漢音ノ儘ニ「ジツポン」ト言ツテ居ツタノデアリマス、日月ノ日ノ字デアリマス、併ナガラ日本ニハ早ク呉音ガ入リマシテ、佛教其他ニ依ツテ日ト云フ字ニハ「ニチ」ト云フ發音ガ多イノデアリマシテ、「ジツ」ト云フコトハ餘リ多クナイ、例ヘハ日月ト云フ様ナ時ニハ「ジツ」「ゲツ」ト言イマスガ、日ト云フ言葉ヲ他ノ言葉ニ附ケテ日進月歩トカ云フヤウナ時ニハ「ニチ」トナツテシマウ、大抵ノ場合ニ日ト云フ字ハ「ニチ」ト發音スルノデアリマス、故ニ正シイ呉音ノ發音ニ依ルト云フト「ニチホン」、「ニチホン」ガ詰レバ即チ「ニツポン」トナルノデスカラ、「ニツポン」ガ正シイト思ヒマスケレドモ日本ノ國語ノ習慣トシテ詰メル音トカ、或ハウント撥ネル音ノ時ニハ必ズ前後ノ發音ヲ充分ニ日本語ノヤウニ變ヘテ發音スルコトガ多イノデアリマス、殊ニ此國語ノ發達ノ上カラ見マスト云フト、支那カラ来タ言葉ヲ日本ノ在来ノ言葉ノ如クニ用ヒル場合ガ多イノデアリマス、例ヘバ孔子、孟子ノ孔子ノコトヲ「クジ」ト云フ風ナコトヲ言ヒマス、又近頃ハ物質的文明ニ依ツテ色々新シイモノガ出マス、ソレヲ歌ニ詠む時ニ汽車ナント言ハズ「キサ」ト云フコトヲ言ヒマス、サウ云フヤウナコトハ昔カラ大變多イノデアリマス、ソレデ日ト云フ字モ毎日付ケル所ノ日記ナドモ「ニツキ」ト言ヒマスト支那言葉臭イモノデスカラ、之ヲ「ニキ」ナドトフ、國語ノ書物ニハ「ニキ」ト書イテアル、ソレト同ジ様ナ意味デ「ニツポン」モ「ニホン」ト云フヤウニナツタノデアルコトハ確カデアラウト思ヒマス、併ナガラ今日ト雖モ少シク強メテ言ヒマスル時ニハ「ニツポン」一ダトカ、「ニツポン」晴レトカ、「ニツポン」男子トカ云フヤウニ詰メテ「ニツポン」ト言ヒマスケレドモ、其他ノ場合ニ於テハ「ニホン」ト云フ言葉ガ可ナリ多イノデアリマス、ソレハ國語ノ性質カラ来マシタ、又地方ニ依リマシテ「ニホン」ト云フ所ト「ニツポン」ト云フトコロガアル、例ヘバ東京ノ眞中ヲ「ニホン」橋ト言ヒマスケレドモ、大阪ノ日本橋ハ「ニホン」橋ト言ハズニ「ニツポン」橋ト言ツテ居リマス、地方ニ依ツテ違ヒマス、故ニ之ヲ格別考慮セズシテ一定シマスト云フト、大變ニ又面倒ニナリマスカラシテ十分ナ御考慮ノ上デ御一定ヲ願ヒタイ、御一定ヲ願フト云フ點ニ付テハ私非常ニ熱心ニ希望スルノデアリマスケレドモ、其定メ方ニ付テハ當局者ニ於テ十分ナル御考慮ヲ御拂ヒ下サルコトヲ願ヒタイノデアリマス、ソレガ定マリマスレバソレヲ羅馬字デ書クト云フコトハ、モウ一擧手一投足ノ勞デアリマスカラシテ、サウシマスレバ外務省ノ方ノ公文書ニモ其通リヤルト思ヒマス、今日ノ國威ノ盛ンナル日本ニ於テ猶豫ナク政府ニ於テ御裁定アルベキ問題ト思フノデアリマス
〇政府委員(金森徳次郎君) 此二ツノ問題ハ非常ニ重要ナコトデアリマシテ、且ツ多年ノ沿革モ存スル所デアリマシテ、今日遽ニ私共意見ヲ申上ゲテ御耳ニ達スルコトハ實ニ困難デアリマス、タダ、今迄ドウ云フヤウニナツテ居ルカ、現在迄ノ研究ハドウ云フ気持デ進行シテ居ルカト云フコトダケヲ申上ゲテ、問題全體ハ尚ホ将来ノ研究ニ篤ト残シタイト實ハ思ツテ居リマス、是ニ付キマシテ従来明瞭ニ國家的ニ特別ニ之ヲ意識シテ決定サレタコトハナイト心得テ居リマス、第一ニ此請願ノ中ニ含マレテ居ル問題ガ凡ソ三通リノ内容ガ含マレテ居ルト思フノデアリマス、第一ノ問題ハ我國ヲ言ヒ表ハス時ニ漢字ヲ用ヒル場合ニ如何ナル漢字ガ適切ニ之ニ當嵌マルノデアルカ、即チ「ダイニホン」ト言フカ、「ダイニホンテイコク」ト言フカ、「ニホンコク」ト言フカ、斯ウ云フ問題デアラウト思ヒマス、第二ノ點ト致シマシテハ斯ク書キ現サレタル漢字ガ言葉ニ依ツテ讀マレル時ニ「ニツポン」ト言フカ「ニホン」ト言フカ、其何レヲ以テ正シトスルカト云フ問題デアラウト思ヒマス、第三ノ問題ハ外國ノ言葉ノ中ニ於テ、又ハ外國人ノ立場ニ於テ我國ヲ呼稱スル時ニ如何ナル言葉ヲ用フルコトヲ是認スヘキカ、従テ又是ト對應シテ外國人ニ言ツテ聴カセル時ノ我國ノ呼稱ヲモ如何ニスベキカ、斯ウ云フ三點ニ分ルルヤウニ思ヒマス、デ我國ヲ如何ナル漢字ヲ以テ現ハスノカハ固ヨリ、無限ノ過去ヨリシテ傳ツテ居リマス所ノ我國ノ歴史發達ノ段階ニ於テ、成熟シテ居ル字ニ據ルヘキコトハ是ハ一點ノ疑ヒハナイノデアリマス、従テ之ヲ人為的ニ特ニドウ云フ字ニスルカト云フコトハ、非常ナ特別ナ理由ガアレバ格別デアリマスケレドモ、殊更ニ之ヲ動カス必要ハ無イト思フノデアリマス、繰返シテ申シマスレバ、日本ノ起源ト相伴ツテ日本ノ國名モ亦起ツテ居ル譯デアリマスカラ今日人為的ニ之ヲ何カニ確定スルト云フコトハ即チ人為的ニ變更スルト云フ意義ヲ含ンデ居ルヤウニ思ハレルノデアリマス、ソコデ今マデ次第々々ノ發達ヲ以テ、今日ノ現状ニ於テ認メラレテ居リマス文字ニ據ルコトガ正常ト思フノデアリマス、サウ致シマスルト、色々ナ考ヘ方モ出来ルノ(ママ)思フノデアリマスルガ、一番國家ノ根本法トシテ示サレテ居リマス所ノ憲法ハ大日本帝國憲法ト示サレテ居リマスルガ故ニ、「ダイニッポンテイコク」ナル呼稱ガ國家トシテ最モ立派ナ言葉デアルヤウニ考ヘマス、併ナガラ憲法自身ノ中ニ於キマシテ既ニ「大」ノ字ヲ取リ、帝國ノ「帝」ノ字ヲ取ツテ「日本臣民権利義務」或ハ「日本臣民ハ」ト云フ言葉ガアリマスルガ故ニ、憲法自ラモ其國號ヲ絶對ニ何方カニ據ラナケレバナラナイトサレテ居ル趣旨デハナカラウト思ヒマス、サウ云フ様ナ次第デアリマスルガ故ニ、現在ノ國名ノ言ヒ現ハシ方ハ傳統的ニ存在シテ居リマスル範囲内ニ於キマシテ、適當ナル場合ニ適當ナル字句ヲ選ンデ用フルト云フコトガ、、、、、、其當否ハ別ト致シマシテ現在普通ノ此絛約等ニ於テ言葉ヲ用ヒマスル時ノ心持デアル譯デアリマス。ソレカラ讀ミ方ニ付キマシテハ之ヲ「ニッポン」ト讀ムカ「ニホン」ト讀ムカ、是亦傳統的ニ發達シタル言葉ニ據ルコトガ正當デアルト思ヒマシテ、今色々ノ御説明ガアリマシタガ、固ヨリソレハ将来研究ヲ致シマスルケレドモ、現在ノ考ヘ方デハ之ヲ「ニッポン」ノミニ限定スルコトモ困難デアリ、「ニホン」ノミニ限定スルコトモ固ヨリ不當デアラウト思ツテ居リマス。詰リ發達シ来ツタモノデアツテ、人為的ニ發達シ来ツタモノデハアリマセヌガ故ニ、大體ニ其自然ノ發達ニ基イテ居ル、此美シキ言葉ヲ適當ニ又自然ノ推移ヲ伴ヒツツ、宜イ方ニ誘導シテ行クト云フコトガ正常ト考ヘテ居リマスガ故ニ、今仰セニナリマシタヤウニ「ニホン」ト云フ言葉モ、「ニッポン」ト云フ言葉モ各々淵源ガアリマシテ、サウシテ現ニ地名ニ置キマシテモ「ニホンカイ」ト云フ言葉モアレバ「ニッポンバシ」ト云フ言葉モアル譯デアリマシテ、之ヲ俄ニ何レニ確定スルト云フダケノ十分ナル研究ハ實ハ熟シテ居リマセヌ、現在ノ普通ノ概念ト致シマシテ一般ニ言ヘバ「ニッポン」ト云フ、併ナガラ歌等ノ場合ニ鋭キ言葉ヲ避クルヤウナ場合ニハ「ニホン」ト言フヤウナ慣例モ一部ニハ行ハレテ居リマスルガ、政府トシテハ固ヨリ確タル結論ニ到達シテ居ル譯デハアリマセヌ、ソレカラ日本ヲ外國人ガ呼稱スル場合ニ如何ナル呼稱ヲ用ヒセシムベキカト云フコトハ、是ハ一番困難ナル問題デアリマシテ、従来ノ沿革ヲ見マスルノニ、可ナリ其間ニ、、、、、、大キナ變動ハアリマセヌケレドモ、少シヅツノ變動ハ行ハレテ居ルヤウニ思ハレマス、デ今日ノ國際事情ニ於キマシテ言葉ガ皆違ツテ居リマスル為ニ、外國ノ名ヲ其國自體ノ呼ビ方ニ依ツテ呼バセルコトハ相當困難デアリマス、縦令羅馬字ニ日本ノ發音ヲ寫シ出シテモ、其國ニ於キマシテ必シモ其發音ヲスルト云フコトハ期待出来ナイ譯デス、ソコデ今日マデノ實情トシテハ、國家ノ名誉ニ影響ノ無イ限リ、諸國ハ各々其用ヒル言葉ノ中ニ普通ニ認メラレテ居ル呼ビ方デ國ヲ呼ンデ居ル例ノヤウニ考ヘマス、従テ獨逸國ヲ日本デ呼ビマスル時ニハ決シテ「ドイツチェスライヒ」トハ申シマセヌ、矢張リ獨逸國ト呼ンデ居リマス、英國、米國皆同ジデアリマシテ、決シテ其本國ノヤウニハ呼ンデ居リマセヌ、又獨逸人ガ英語デ絛約ヲ書キマスル時ニハ矢張リ「ジャマニイ」ト云フ言葉ヲ用ヒテ居ルサウデアリマス、大體國際間ニ於キマシテハ自カラ其基本トナツテ居ル言葉ノ慣例ニ従ツテ國ヲ呼ブコトガ、先ヅ動キナキ慣例ノヤウニ聞イテ居リマス、従ツテ日本ガ自國ヲ「ニツポン」ト云フ名前ヲ以テ外國ニ完全ニ呼バシメヤウト致シマスルコトハ、一般ノ考ヘ方カラ行キマスルト可ナリ不自然ナ點ヲ含ンデ居ル、是ハ私ノ研究ト申シマスルヨリモ寧ロサウ云フ絛約ヲ取扱ヒマスル主務局ノ意見デアリマスガ、サウ云フヤウニ聞イテ居リマス、斯ウ云フ考ヘ方ガ絶對ニ正シイカドウカハ研究ノ餘地ガアリマスルガ、一應ハソレダケノ理由ノ成立スルモノト了解シテ居リマス、更ニ進ミマシテ、日本人ガ外國ニ向ツテ外國文ノ中ニ於キマシテ國ヲ呼ブ時ニ「ジャパン」ト呼ブカ「ニホン」ト呼ブカト云フ問題ガアリマスルガ、是ガ一番問題トナツテ来ル點デアラウト思ヒマス、現在ノ所各々國ト國トノ間ニ於キマシテ、今申シマシタヤウニ相手ト言ヒマスカ、現ニ使ツテ居ル言葉ノ一般ノ呼ビ習ハシニ従ツテ呼ンデ居ル為ニ、矢張リ英語ノ場合ニハ英語風ノ呼ビ方ヲシテ居ル譯デス、斯ノ如キ言葉ヲ以テ日本國ヲ日本人ガ特殊ノ場合ニ言ヒ現シマスルコトハ、ソレ自身絶對ニ避ケナケレバナラナイト云フ程ノモノデハナイノデハナカラウカ、世界ノ諸國ガ各々自分ノ國ヲ其通リノ言葉ヲ以テ人ニ呼バセルコトヲ強制ハシテ居リマセヌ。日本ノ言葉ヲ見ルト直グ分リマスルガ、今述ベマシタヤウニ獨逸國ト云フヤウナ言葉ヲ日本デハ使ツテ「ドイッチュランド」ヲ稱シテ居ルノデアリマス、或ハ又「スペイン」ト云フ言葉ヲ使ツテ居リマスルガ、本國人ハ恐ラク「スペイン」ト呼ンデ居リマセヌ、又「オランダ」ト言ツテ居リマスルケレドモ、本國人ハ矢張リ別ナ言葉ヲ使ツテ居ルヤウニ思ハレマス、サウ云フ風ニ交互的ニ相互ノ間ニ於キマシテ此外國ノ關係ニ於キマシテ幾分違ツタ言葉ガ行ハレマシテモソレガ特別ニ其文字ニ含マレテ居ル悪イ點ガ無イ限リハ是認スベキモノデアラウト云フノガマア主務局ノ意見デアリマシテ、甚タ卑怯デハアリマスガ、之ニ對シテ批評ヲ加ヘナイデ茲ニ申上ゲタ次第デアリマス
〇委員外議員(三上参次君) 私ハ一向其儀禮ニ馴レナイノデアリマスガ、チョット質問ヲ致スコトハ出来マセヌデセウカ、今ノ問題ニ付テ、、、、、、
〇主査(男爵徳川喜翰君) 御諮リ致シマス、只今三上博士カラ本件ニ關シテ質問ヲシタイト云フ申出ガゴザイマスガ、許スコトニ御異議ゴザイマセヌカ
   (「異議ナシ」ト呼ブ者アリ)
〇主査(男爵徳川喜翰君) 御異議ナイモノト認メマス
〇委員外議員(三上参次君) 今ノ政府委員ニチョット御伺ヒシタイノデアリマスガ、御答辯ノ全體ヲ通ジテ至極穏健ナコトデ、御意見ニ敬服致シマスデスガ唯日本政府ノ態度トシテ少シ私ニ意ニ満タヌコトガアリマス、例ヘバ支那デ革命後中華民國ト云フ言葉ヲ用ヒルコトニナリマシテ、日本政府モ御承知ノ通リニ中華民國ト云フ言葉ヲ使ツテ居ル、此中華ト云フコトハ支那人自身例ノ自ラ尊大ニスルト云フ風デアリマスカラ、中華ノ中ハ即チ中國ノ中デアル、華ト云フコトハ即チ華夷ト對スル昔カラノ熟語デアリマシテ、自分ノ國ハ中華、中國ト言ヒ、他國ハ即チ東夷、西戎、南蛮、北狄デアル、夷狄デアル、ト云フ熟シタ言葉デ離ルベカザル熟語デアル、故ニ自ラ中華、中國ト云フノハ、民國ト云フノハ彼ノ自由デアリマスケレドモ、他國ヲシテ必ズ其國號ヲ用ヒシメナケレバナラヌト云フコトハ、他國ヲ非常ニ無視シタ言葉デアル、而モ其無視サレタ國ト云フモノハ、世界列國ノ内ニ於テ漢字ヲ用ヒル我ガ日本ダケデアリマス、英吉利デモ、仏蘭西デモ、獨逸デモ、伊太利デモ決シテ中華民國トハ言ヒヤシナイ、矢張リ支那トカ「シノア」トカ何トカ云フコトヲ言ツテ居ル、唯日本ダケガ此屈辱ヲ強ヒラレテ、其儘甘ンジテ居ルト云フ形ニナル、外務省デハ決シテサウ云フ、政府ヂャサウ云フ意味デハアリマセヌガ形ニ於テサウナル、是ハ漢學全盛時代ニ於テモ、サウ云フ不面目ナコトハ日本ハシテ居ラナイ、物徂徠流ノ人ニ於テハ無論支那ヲ中國ト言ツテ居リマスケレドモ、例ヘバ新井白石ノ如キハ自分ノ友人ガ支那ニ行ツテ支那語ヲ學ンデ来タト云フコトヲ報知ヲシマシタ時ニ、其手紙ノ中ニ華音ヲ學ンダ、華ノ音ヲ學ンダ、華音ハ中華ノ華デ支那語ヲ學ンダト云フコトヲ報知シマシタ手紙ニ、結構ナコトデアル、華音ト云フ字ハ何事デアル、即チ華夷内外ト云フ言葉デ、中華、中國、他國ヲ夷狄視シタ、彼ヲ呼ンデ華ト云フナラバ、自分ハ夷デ甘ンジナクチャナラヌコトニナル、自分自身ガ夷デ甘ンズルト云フコトハ、ソレデ宜シイケレドモ、自分ガ夷狄デアルナラバ我ガ一天萬乗ノ天子ヲ夷狄ノ酋長ト見ルカ、以後サウ云フコトハ御慎ミナサイト云フヤウナ厳格ナル注意ヲ與ヘテ居ル手紙ガアリマス、其外ノ漢學者ガ支那ニ心酔シテ居ル時代ト雖モ、尚且ツサウ云フ内外ノ區別ハ知ツテ居ル、然ルニ我國ノ政府ガ支那ノ言フ儘ニ従来ノ支那ト言フ言葉ヲ用ヒズシテ、中華民國ト云フ言葉ヲ用ヒテ居ルノハ、私ハ國家ノ非常ニ不面目デ、平常□ラズ思ツテ居ルノデアリマス、殊ニ聞ク所ニ依リマスト云フト是ハ私ガ間違ヒカモ知レマセヌ、事實デナイカモ知レマセヌガ、初メアノ言葉ヲ用ヒル時ニ、若シ中華民國ト漢字デ用ヒナイ、漢字ヲ用ヒル國ニシテ、漢字ヲ中華民國ト書カヌ郵便ハ或ハ配達ヲシナイコトガアルト云フ風ナ強イ言葉ヲ日本ニ向ケタト云フヤウナコトヲ聞イテ居リマスガ、是ハドウモ能ク分リマセヌガ、サウ云フコトデ甚ダ□ラヌト云フコトヲ思ツテ居リマス、今ノ「ジャパン」「ジャッポン」ニ付テモサウデアリマス、他國ノ政府若クハ他國ノ人間ガソレヲ用ヒル用ヒナイト云フコトハ、日本政府ノ世界ニ於ケル地位ノ如何ト云フコトニ依ルノデアリマシテ、日本政府ガ常ニ日本、大日本ト云フコトニ御用ヒニナリマスレバ彼等ガ長イ結果、、、、、短イ時間ノ中ニ用ヒルト云フコトハ御安心ナツテモ宜カラウト私ハ思フノデアリマス、唯是ダケヲチョット申上ゲテ置キタイト思ヒマス
〇政府委員(金森徳次郎君) 中華民國ノ點ニ付テ、是ハ私自身餘リ其事情ヲ委シクハ存ジテ居リマセヌガ、一部分了知シテ居ル點ヲ御答ヘ致シマスガ、當初中華民國ニ該當スル支那國ガ成立イタシマシタ時ニ、之ヲ如何ニ呼ブベキカト云フ點ハ、相當ニ論議セラレタノデアリマス、其議論ノ結果ト致シマシテ、矢張リ之ヲ支那國ト呼ブ、中華民國ト呼バナイト云フ方針ヲ以テ進行シテ居ツタ譯デアリマス、所ガ數年前ニ稍々方針ガ變リマシテ、別ニ中華民國ト云フ彼ノ國號ヲ其儘文字ニ現シ用ヒテモ、唯サウ云フ固有名詞トダケ輕ク考ヘテ置ケバ別ニ差支ヘモナイコトデアリ、又國際儀禮上其方が良イ場合ニハ、ソレヲ用ヒルモ、亦妨ゲナイノデアラウト云フ考ヘカラシテ、幾分カ中華民國ト云フ言葉ヲ用ヒルコトガ行ナハレルヤウニナツテ来タ譯デアリマス、併シ日本ノ主タル法令ノ中ニ於キマシテハ矢張リ支那國ト書イテ、中華民國ト云フ言葉ヲ使ツテ居リマスモノハ、勅令以上ニハ現在確カ無イト考ヘテ居リマス、絛約ノ關係ニ於キマシテハ、中華民國ト書クコトハ當否ハ別ト致シマシテ、現在存シテ居ルコトデアリマシテ、ソレガ幾分御議論ノ客體トナリ得ルト思ヒマスガ、移リ行ク色々ナ考ガ錯綜シテ居ル譯デアリマスカラシテ、其善悪ニ付テ私自身今ノ所意見ヲ述ベルダケノ自由ハ有ツテ居リマセヌ、唯一言附加ヘマスガ、外國語ト申シマスカ、羅馬字デ言現ハシマス場合ニハ、大シタ問題ハ起リマセヌガ、同ジ漢字ヲ以ツテ日本ノ國ト他ノ國トカ絛約ヲ結ヒマスヤウナ場合ニハ例ヘハ大ノ字一ツ用ヒルトカ用ヒナイトカ云フ外ニモ、相當ニ見識問題カ起ツテ来テ、其點ハ今マテモ注意シテ用ヒラレテ居ルノテアリマス時アツテ大ノ字ヲ彼用フレハ我モ亦用フルト云フコトハ、固ヨリ大□ノ方針トシテハ採用シ来ツタ所テアリマス、尚ホチョット是ハ本題ト離レマスカ、□ニ皇帝ト云フコトカ少シ出マシテ、ソレニ付キマシテノ、是モ只今マテノ沿革ヲ延へマシテ、ドウ云フ趣旨ヲ以テ此言葉ヲ使ツテ居ルノカト云フ點タケヲ釋明スルト申シマスカ、ソレタケノ趣旨テコサイマスカ、此日本カ外國トノ間ニ於テ締結スル所ノ外交文書ニ於キマシテ、日本國皇帝ト云フ言葉カ用ヒラレテ居ルノデアリマシテ、是ハ成立ノ當時、其言葉ヲ用ヒマス當時ニハ、相當ニ研究ヲ經テ用ヒラレタサウテコサイマシテ、トウモ正確ニ自分カ關興シタコトテアリマセヌカラ申上ケ兼ネマスカ、此憲法カ制定セラレマシタ當時ニ、關係部局ノ間ニ於キマシテ、如何ナル言葉ヲ使ツタナラハ宜イカト云フ疑惑カ起リマシタ、ソレノ解決ヲ 文武天皇ノ時ノ大寶令ニ求メマシテ、國内ノ詔勅ニ對シテハ天皇ト云フ文字ヲ御用ヒニナルケレトモ、外國ニ對スル關係ニ於テハ皇帝ト云フ文字ヲ用ヒルト云フコトカ確カ大寶令ノ儀制令ノ中ニ書イテアツタノテアリマシテ、其趣旨ニ依ツテ當時斯ノ如ク關係者ニ於テ決定ヲ致シマシテ、爾来其用例ニ依ツテ居ルサウテアリマス、
〇主査(男爵徳川喜翰君) 御質問ハ御座イマセヌカ、、、、、、御質問ナイト認メマス、政府委員ヨリ説明ヲ聴取致シマスルコトハ、今日ハ此程度ニ止メタイト思ヒマス、御異議アリマセヌカ
   (「異議ナシ」ト呼フ者アリ)
〇主査(男爵徳川喜翰君) 御異議ナイト認メマス、ソレテハ是ヨリ審査決定ニ移リマス、速記ハ是テ中止シマス、
      午後三時三十二分速記中止

 


JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B02031473200、本邦国号及元首称呼関係一件 第一巻(外務省外交史料館)

 

 

 

【注:1】
 その後、検索語を「國號尊重ニ關スル件(第六十五議會貴族院)昭和9年2月19日」とすることで、「第六十五囘帝國議會貴族院 請願委員第三分科會」の議事速記録(貴族院事務局)にアクセスすることができた。PDF化された議事録印刷文書(内閣印刷局)ではあるが、外交史料館のものに比べればこちらの方が読みやすい。時系列としては、この議事速記録に基づき、外交史料館所蔵の和文タイプ文書が作成されたことになるはずだ(濁点の使用の有無、促音の表記法等、両者には若干の異同がある―和文タイプを用いての文書作成担当者の苦労が偲ばれる)。

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2019年11月21日 (木)

日本・ニホン・ニッポン

 

 

  さて、結局そのまま戦後を迎え、1946年の憲法改正の国会審議の中で「日本国憲法」の読み方が問題となったが、当時の金森国務大臣は「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは、通念として認められている」として、国名呼称の統一を退けている。さらに時代をくだれば、現天皇の即位の儀式で、天皇は「ニホンコク憲法」と読み上げたのにたいして、竹下首相は「ニッポンコク憲法」と式辞を読み、国名呼称の揺れを象徴するできごととして記録にとどめられている。
     奥野昌宏 中江桂子 「メディアと「ニッポン」―国名呼称をめぐるメディア論」 2011  文学部紀要第46号 成蹊大学  111ページ

 

  三宅のこの引用文の最後にある、「軍人勅諭の読法」というのは、以下のことを示している。すなわち大日本帝国軍人はだれでもその基本精神として軍人勅諭を詠じるのであり、だからこそ軍人勅諭は軍人手帳の必須項目としてあり、それを軍人は常に携帯していた。なお、軍人勅諭は誰でもが唱和することができるように、漢字のすべてにふりがながふってあるが、そのなかの「日本國」には「にほんこく」と書いてあり、それは徹底されていた、という事情を示している。
  宮本によれば、戦時下における文部省の『ウタノホン』『尋常小学唱歌』『新訂尋常小学唱歌』『初等科音楽』で、読み方を確認すると、「日本」がでてくる30曲のうち、「ニホン」が16曲「ニッポン」が14曲であったという。
     同論文 115ページ

 

 

 ちなみに金森徳次郎は、戦前、国体明徴論が盛んなころの国名呼称をめぐる議論(「日本國」じゃなくて「大日本帝國」! ジャパンもジャポンもニホンもダメ! 「ニッポン」と統一しろ!)の際にも、絶妙な答弁で切り抜けていたはずだ(大阪にあるのはニッポンバシで東京にあるのはニホンバシ…とかなんとか→「國號尊重ニ關スル件(「日本・ニホン・ニッポン」資料編)」参照)。

 いずれにせよ、忠良なる帝國軍人にとって、「日本國」は「にほんこく」であったとのエピソードは興味深い。そして忠良なるであろう自民党政権の首相にとっては「ニッポン国」なのであった。

 「平成」の御代の日本国首相にとって「日本国憲法」は「ニッポンコク憲法」であったのに対し、即位の儀式に臨む天皇にとって「日本国憲法」が「ニホンコク憲法」であったエピソードも面白い。「日本国首相」はその当人にとっては「ニッポンコク首相」であり、多分、天皇からすれば「ニホンコク首相」であったのであろうか。

 

 ところで、前記引用論文中の小学唱歌上の話だが、一例を示せば、

 

『尋常小学唱歌 第一学年用』(1911年)
日の丸の旗

1.白地に赤く
 日の丸染めて、
 ああ美しや、
 日本の旗は。

2.朝日の昇る
 勢ひ見せて、
 ああ勇ましや、
 日本の旗は。


『ウタノホン 上』(1941年)
ヒノマル

1.アヲゾラ タカク
 ヒノマル アゲテ、
 アア、ウツクシイ、
 ニホンノ ハタハ。

2.アサヒノ ノボル
 イキホヒ ミセテ、
 アア、イサマシイ、
 ニホンノ ハタハ。

(「ヒノマル」は「ニホンノハタ」らしい)

昭和16(1941)年、日米開戦の年の小学唱歌のひとつでも、「日本の旗」は「ニホンの旗」なのであった。

 

 

 

 平成21(2009)年度の国会においても、この問題が論じられていた。

 

日本国号に関する質問主意書
 提出者  岩國哲人

日本国号に関する質問主意書

  昭和九年に文部省臨時国語調査会において、「日本」の読み方は「にっぽん」に統一され、例外的に東京の日本橋と「日本書紀」だけは「にほん」と読むことになった。その際、外交文書における国号の英文表記が「Japan」から「Nippon」に変更された。これについては、外交用語であるフランス語をはじめとするラテン諸語はHの音が発音されないことも考慮されたとする見解や、満洲事変の勃発とともに、「保守回帰」が起こり、穏やかな語感の「にほん」よりも音韻的に力強い「にっぽん」を選んだという経緯があったとする見解もある。
  この文部省臨時国語調査会の決定を受け、帝国議会でも審議された。
  戦争中の昭和十六年には、帝国議会で、当時の国号「大日本帝国」の発音を「だいにっぽんていこく」と定める検討がなされたが、保留のまま法律制定には至らなかった。
  戦後、昭和二十一年、帝国憲法改正特別委員会において、「日本国」と「日本国憲法」の正式な読み方について質疑がなされ、金森徳治郎憲法担当大臣(当時)は、「決まっていない」と答弁した。
  その後、昭和四十五年七月、佐藤栄作内閣は、「日本」の読み方について、「『にほん』でも間違いではないが、政府は『にっぽん』を使う」と、「にっぽん」で統一する旨の閣議決定を行ったが、法制化にまでは至らなかった。
  これに関連して、以下質問する。

一 右の閣議決定は現在でも維持されているか。
二 他国で、国号の現地発音が複数使用されている国の存在を認識しているか。
三 今後、「日本」の読み方を統一する意向はあるか。

  右質問する。

 

 平成二十一年六月三十日受領
 答弁第五七〇号

   内閣衆質一七一第五七〇号
   平成二十一年六月三十日
 内閣総理大臣 麻生太郎
        衆議院議長 河野洋平 殿
 衆議院議員岩國哲人君提出日本国号に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。

衆議院議員岩國哲人君提出日本国号に関する質問に対する答弁書(ここでは岩國議員の質問を補足して引用)


一 右の閣議決定(昭和四十五年七月、佐藤栄作内閣は、「日本」の読み方について、「『にほん』でも間違いではないが、政府は『にっぽん』を使う」と、「にっぽん」で統一する旨の閣議決定を行ったが)は現在でも維持されているか。
  一について→ 「日本」の読み方については、御指摘のような閣議決定は行っていない。

二 他国で、国号の現地発音が複数使用されている国の存在を認識しているか。
 二について→ お尋ねについては、承知していない。

三 今後、「日本」の読み方を統一する意向はあるか。
 三について→ 「にっぽん」又は「にほん」という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はないと考えている。
 (答弁:内閣総理大臣 麻生太郎  平成二十一年六月三十日)

 

 

 現状として、われわれ「日本国民」はその国民として「ニホン」に住んでいるのか「ニッポン」に住んでいるのか、「ニホン国民」であるのか「ニッポン国民」であるのかを明言することはできない、ということのようである。

 

 

〈オマケ:オリジナル記事コメント欄のやりとり〉

○さて、ムズカシイのはニホンゴなのかニッポンゴなのか?

●国語でしょ?(爆)

○で、どこの国の「国語」なのかというと…

●「わが国」

○で、何という名の国なのかというと…

●豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)
 (出典:古事記)

 

 

 

 

 

(オリジナルは 2015/02/15 21:07 & 2015/02/26 18:28 、内容的には「日本国の象徴と、國體の本義 18(大日本帝國の「大」)」の関連記事)

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2019年5月17日 (金)

モバイル・タイニー・バウハウス

 

 

 2019年はバウハウス100周年に当る。1919年、第一次世界大戦敗戦後のドイツ、ヴァイマールの地に設立された教育施設。いわゆるモダン・デザインの先導者であった。

 1925年にデッサウへ移転し、理念を具現化した校舎を建設する。

 

 なんと、そのデッサウの校舎がモバイル化されているのであった!

 

 

Tiny Bauhaus: smallest 2-room apartment & school on wheels
  
https://www.youtube.com/watch?v=x7UIx-iTyR4

 

 

 ミニマムサイズの様々な住居の試みを中心に動画取材しているキルステン・ディルクセン(Kirsten Dirksen)氏によって、この「Tiny Bauhaus」も紹介されていたのである(数日前の話)。

 ラオス出身のヴァン・ボー・ル=メンツェル(Van Bo Le-Mentzel)氏の作品であり、動画中にもタイニー・バウハウスの内部を案内し、インタビューに応える本人の姿も記録されている。

 

 

 私個人の好みとして、このタイニー・バウハウスは実に愛おしく魅力的である。

 動画のコメント欄には、丸見えのバスルームはどうなのよ的意見も散見されるが、そして私自身もそのような見解を共有することも確かではあるにしても、実用性を上回るデザインの魅力を認めざるを得ない。

 

 

 そのタイニー・バウハウスの設置場所もまた、動画の見どころであろう。ドイツの「古都」そのものといったリューネブルクの街の佇まい。そのリューネブルクのロイファナ大学構内にタイニー・バウハウスが停車している(建物の下には車輪が見える)のである。

 映し出されるロイファナ大学のキャンパスで目を引くのが、ダニエル・リベスキンド設計の校舎である。いわゆる脱構築主義建築の代表者である。

 古風な町並みの中の自己主張炸裂型脱構築主義建築に対峙する形で、モダン・デザイン建築の見本のようなデッサウのバウハウス校舎(もはや古典である)のミニチュアが静かに停車しているのである。

 

 

 

 だからどうした、と言われても困るが、個人的には実に楽しい光景なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2019年3月24日 (日)

カチンの拳銃弾 4

 
 

 

 一九四三年(昭和十八年)二月の最終の週間に、ソ連領土の奥深く、スモレンスク(ソ連西部の古都、ドニエプル川上流に臨み、中世期以来、通商、交通の中心、当時人口十五万)の西方数マイルの地点に駐屯中の独軍第五三七通信連隊のテレタイプ(印字電信機)は、独軍の野戦警察が、同連隊の露営地区内でポーランド軍将校の多数の死体を発見した、と報告した。彼らはどれくらい多数であるかを正確には知らなかったが、数千名の死体であることは確実であった。
 その死体は皮製のたけの高い長靴をはいて、胸には皮製の弾帯をめぐらし、その多くは功績と武勲を示す勲章をつけていた。各人はその頭部を撃ち抜かれていた。彼らはソ連の土地で、いくつもの集団墓場の中で発見されたが、彼らを射殺した弾丸はドイツ製のものであった。
     (J.K.ザヴォトニー 『カティンの森の夜と霧』 読売新聞社 1963  25ページ)
 
 
 これが、いわゆる「カチンの虐殺」の事実が明らかになる発端であった。
 問題は、集団墓場の中に死体となって発見された数千名のポーランド軍将校は、何時そして誰によって殺害されたのか?である。

 1939年9月1日、対ポーランド戦を開始し、ポーランド国内に西から進撃したのはドイツ軍であった。次いで9月17日にはポーランド国境の東からソ連軍がポーランド攻撃に加わった。当時のドイツとソ連は「独ソ不可侵条約」によって同盟関係にあり、条約の秘密議定書には両国によるポーランド侵攻と領土の分割が、明記されていたのである。ポーランドは9月27日に降伏し、以後、ポーランド領土の西側はドイツの占領下となり、東半分はソ連に占領され、ポーランド軍将兵は、それぞれドイツとソ連の収容所に送られた。
 1941年6月22日、今度はドイツがソ連に侵攻し、ドイツとソ連の同盟関係は終わる。ソ連は連合国の一員となり、最終的に勝利者となった。
 ポーランドの降伏後、ポーランド人は亡命政府をロンドンに設立し、連合国側で故国の占領者であるドイツとソ連との闘いを続けていたが、1941年6月の独ソ戦開始以降は、連合国の一員となったソ連との同盟関係の選択を余儀なくさせられた。
 ソ連国内の収容所に収容されていたポーランド軍将兵も解放され、連合国のソ連と共に対独戦争に参加することとなったが、集合地にはポーランド人将校の姿は、ほとんど現われなかった。消えたポーランド将校団の行方は、ポーランド亡命政府にとっても、もちろん占領下のポーランド人にとっても、追求すべき問題であったわけである。亡命政府当事者は、ソ連国内での捜索努力を続けたが、何も得られぬままに1943年の2月を迎えていたのであった。
 
 
 ドイツ宣伝相ヨージェフ・ゲッベルスの個人的日記の中には、一九四三年(昭和十八年)四月九日の日付の下で、次のような記述が発見されるであろう。
 「ポーランド人の墓の大群がスモレンスク付近で発掘されている。ボルシェヴィキ党員(共産主義者、ソ連軍をさす)が約一万名のポーランド軍捕虜をあっさり射殺してから、穴を掘って墓の中に埋め込んだのだ……」
 おそらく、この身の毛もよだつようなものすごい発見を、ゲッベルス宣伝相の注意を喚起するようにしたのはドイツの従軍記者であろう。一九四三年(昭和十八年)四月十三日午前九時十五分(ニューヨーク時間)に、ドイツのラジオ放送は連合国の団結を打ち砕くことをねらった宣伝をいっせいに電波にのせた。それは全世界に向けて、ポーランド軍将校が大量にソ連軍の手で殺害されたことを発表した。このドイツ側の声明にもとづくと、連合国側の一国の政府が、その同盟国の将校団の約半分を殺してしまったように思われた。
 その翌日、ソ連側の激しい反応は、マスコミのあらゆる可能な手段によってばらまかれた。ソ連政府の情報局は一九四三年(昭和十八年)四月十五日に声明を発表し、「一九四一年(昭和十六年)に、スモレンスク西方で建設工事に従事していたポーランド軍捕虜は、ドイツ・ファシストの死刑執行人の手中に陥った……」ので、その後に処刑されたのであると闡明した。…
     (前掲書 25~26ページ)
 
 
 独ソはそれぞれに、ポーランド将校団殺害の犯行を、相手の行為として断じたのである。
 ところで、問題のカチンの森とはどのような場所であったのか?
 
 
 カティンの森は、スモレンスク市西方約十マイルのところにあった。…(中略)…一九一七年のロシア革命後に、この地区はソ連政治警察の管轄下に置かれていた。
 ドイツとポーランド両国筋によると、一九二九年(昭和四年)ごろに、この森の周辺には「GPU特別地区、許可されない人の立ち入りを禁止す」という標識が立っていた。一九三一年(昭和六年)に、この森の一地区は鉄条網で取り囲まれた。その付近に居住しているソ連市民たちによると「さらに、立ち入り禁止の警告の張り紙が下げられた」といわれる。そして大きな家が、墓の大群の発見された地点より半マイルばかり離れたところに建てられたが、それは政治警察の係り官のための休息所として使用された。一九四〇年(昭和十五年)からソ連軍が撤退するまでの間、この全地域は、警察犬の護衛を伴った政治警察の保安隊員(NKVD)が巡察していた。
     (前掲書 26~27ページ)
 
 
 つまり、独ソ戦開始後にドイツに占領されるまでは、カチンの森はNKVDの管理下にあった土地なのである。ソ連内務人民委員部(あるいは中野五郎訳では政治警察)の管理する土地であったのだ。

 1943年にドイツ軍がポーランド軍将校の多数の死体を発見したのは、そんな性格の土地なのであった。
 
 
 

 

 一般の世論は、ドイツ軍に対し非難の指をさし向けた。発見された死体がドイツ製の弾丸で射殺されていた事実から、ドイツ政府は現地調査を行なうために、独立した国際調査委員会と、ポーランド赤十字委員会、ドイツ特別法医学委員会などを招待することに踏み切った。
     (前掲書  27ページ)
 
 この国際調査委員会とポーランド赤十字委員会のほかに、ドイツ特別法医学委員会も、また調査活動をしていた。この三つの調査委員会の各委員は、その調査期間中に、まったく独立して行動していた。そして独自の立場より結論に達したが、それは三つの個別の最終報告の中に述べられていた。これらの報告書は、そのもっとも重要な詳細な点で一致しているから、カティンの森の調査結果に関する次の記述は、これらのすべての報告と、さらに他の筋より収集した適切な補足にもとづいたものである。
 さてカティンの森では、八つの集団的な墓が発見された。それは深さ六フィートないし十一フィートの中に、死体がいっぱい充満していた。一般に、これらの死体の埋葬には特殊の方式がとられていた。彼らは顔を下にして両手をわきに置くか、または両手を身体の背後でしばられ、両足をまっすぐに伸ばして横たわっていた。しかも死体は一つずつ互いに重なり合って、十段か十二段になって積まれていた。
 その死体は全部、例外なく後頭部を撃ち抜かれていた。たいていの場合、これらの人々は、ただ一回で射殺されていた。しかし二回撃たれていたものもいくらかあったし、ある場合には頭蓋骨を三発の弾丸で粉砕されていた。概して弾丸を撃ち込まれたところは首筋の上であり、その発射方向は上向きで、弾丸は頭蓋骨を貫通して、鼻と頭髪のはえぎわの中間で顔の側面に抜けていた。
 二つの個別の墓が見つかった。その墓の中には、二名の、完全に軍服を着用した将軍の死体が発見されたが、いずれも一発で射殺されていた。赤外線の助けを借りて、その軍服を顕微鏡で分析した結果、この二名の将軍は、その冬外套のエリを立てたところを拳銃で撃たれたか、あるいは直接その頭部を撃たれたかして、処刑されたことが実証された。
 死体の大群の中の多数、とくに士官候補生と青年将校の死体は、その両手をしばられていた。これらの死体の発掘を目撃したある証人は、次の通り報告していた。
 「この第五号の墓より発掘された死体の典型的な特色は、その死体の全部の両手が背中で、白いナワで二重の結びめをつくってしばられていた事実であった。彼らの冬外套を頭部のまわりにかぶせて、しばりつけられていた。この冬外套は、同じ種類のナワで首の高さをしばられていて、時には二番目の結びめが犠牲者の頭上につくられていた。首筋にはただ一つの結びめがあり、そのナワの残部は背中を下方へ通って、しばられた両手のまわりにグルグルと巻きつけられた上、さらに首筋で、もう一度しばりつけてあった」
 「こんな風にして、犠牲者の両手は肩胛骨の高さまで引きつり上げられていた。犠牲者はこのような方法でしばり上げられていたので、いかなる抵抗もすることができなかった。なぜなら両手を動かすたびに、首筋のまわりのナワのくくり結びが堅く締まり、そのために、ノドを絞めつけるからであった。それのみならず、彼らは頭の上から冬外套をおおいかぶされていたために、どんな音を立てることもできなかった。処刑前に犠牲者を、このような風にしばり上げていたことは、死ぬ前に特別にくふうした拷問を加えていたものであった」
 このナワの結びめをつくる技術は、すべての実例で同一であった。そのナワは全部、同じ長さのものであったから、それが計画的に、事前に用意されたことは明白であった。現場でドイツ人の科学者が行なった、そのナワの顕微鏡検査によると、それはソ連製のものであることが判明した。また同じ種類の結びめが、ソ連製の衣服の残りぎれを身に着けていた数名の男女の死体についても発見された。これらの死体もまた、カティンの森の別個の墓穴の中で発見されたものであった。これらの死体を仔細に検視した結果、この人々は五年ないし十年前に同じ方法で殺害されたものであり、それは独軍が、この地方に侵入したときよりも数年以前の出来事であった。
     (前掲書  30~32ページ)
 
 
 この「ソ連製の衣服の残りぎれを身に着けていた数名の男女の死体」こそが、大粛清時に犠牲となったソ連国民の姿なのである。
 これが、カチンの森がNKVD(ソ連内務人民委員部)の管理下にあった土地であることの意味するところなのだ。
 カチンの森の奥でのNKVDの犠牲者は、まずは自国民だったのである。
 
 第二次世界大戦以前に大量の自国民を処刑・殺害してきたのと同じ手法(註:1)が、大戦に際してのポーランド軍将校の殺害においても用いられていたことが、これらの調査報告(ポーランド赤十字委員会には、抵抗運動メンバーも委員として参加しており、報告の信頼性は高い)から判明するわけである。 平時に、自国民の大量処刑・殺害を日常業務として効率的に実行してきた国家機関が、戦時には、他国民の効率的な大量処刑・殺害にその洗練された能力を発揮したのである。
 
 
 

 

【註:1】
 
  その死体は全部、例外なく後頭部を撃ち抜かれていた。たいていの場合、これらの人々は、ただ一回で射殺されていた。しかし二回撃たれていたものもいくらかあったし、ある場合には頭蓋骨を三発の弾丸で粉砕されていた。概して弾丸を撃ち込まれたところは首筋の上であり、その発射方向は上向きで、弾丸は頭蓋骨を貫通して、鼻と頭髪のはえぎわの中間で顔の側面に抜けていた。
     (J.K.ザヴォトニー 『カティンの夜と霧』 読売新聞社 1963  31ページ)
 
  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。
     (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)
 
   ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。
     (ザスラフスキー 『カチンの森』 173ページ 「訳者あとがき」より
 
 (ブローヒンについては「カチンの拳銃弾 3」を参照)
 
 
 
 
 
(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/09/07 21:36 → https://www.freeml.com/bl/316274/170641/
 投稿日時 : 2011/09/12 21:32 → https://www.freeml.com/bl/316274/170949/)
 
 
 

 

| | コメント (0)

2019年2月 2日 (土)

カチンの拳銃弾 3

 

 

 「カチンの虐殺」として知られる、ソ連という国家によるポーランド人捕虜の大量殺害。その現場には効率的大量殺害に公務として従事した処刑人の姿があった。効率的な処刑には専門性が必要であり、彼らは洗練された大量殺害技術の保持者であった。その専門性と技術は、ポーランドとの戦争に先立つ時期に、ソ連国内でソ連国民を処刑する中で磨かれたものであった。そんなソ連の処刑人を代表する人物と考えられているのが、ポーランド人捕虜殺害の際も活躍したヴァシリー・ブローヒンである(「ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった」)。

 前回、「ブローヒンが従事したのは効率的な処刑=殺人であり、それが彼とその部下にとっての日常業務(「メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまで」)なのであった」と要約したが、あらためて、効率的な処刑=殺人の詳細について確かめておきたい。

 

  カリーニン虐殺はモスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮した。ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参、三人は駅の引込み線に止められた、電話交換機を入れた食堂車に寝泊りした。

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。

  拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた。反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない。大量処刑のカチン事件では、ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた。

  看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。

  監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。

 

ブローヒンの役割・手法について、前回までにこのように紹介した(「カチンの拳銃弾 1」及び「カチンの拳銃弾 2」参照)。さらにザスラフスキーの著作を読み続けてみたい。

 

 すべての解剖報告書は、処刑が執行の専門家によって行われたと証言している。ほとんどの犠牲者は後頭部の正確な個所を狙って一発の弾丸で殺されていた。二発目が発射されたのはきわめてまれである。報告書には、多くの場合に将校たちが抵抗したと記録されている。多くの将校には銃剣創が見られた。またある者は両腕が背中で特別な結び方で縛られたうえで首のまわりに繋がれていた。これだと手を動かせば首が閉って窒息する。射殺はNKDVの特別部隊が実行した。NKDVには数万の「処刑専門家」がいて、殺害と死体隠しの訓練を受けていた。ナチ親衛隊の銃殺執行隊とちがって、NKDVの銃殺執行隊は犠牲者から金歯を抜いたり貴重品を取り去る命令を受けていなかった。だから死体発掘にさいして結婚指輪と金歯がポーランド将校の遺体に残っていたと記録されている。
 検屍記録はあきらかに矛盾する技術的細部を正確に書きとめていた。なかでも拳銃と銃弾はドイツ製でありながら、創傷はソ連軍が使っていた四刃の銃剣による刺殺を示していた。それに、犠牲者を縛っていた縄はソ連製だった。ブルデンコ委員会は銃剣と縄を無視しながら、ドイツ製弾丸が射殺に使われた事実を最大限利用して世論の大きな反響を勝ちえたのだ。以前に国際医学調査委員会が説明したところでは、拳銃はカールスルーエ近くのグスタフ・ゲンショウ社がヴェルサイユ条約後にドイツの兵器需要が激減したため、ソ連、ポーランド、バルト諸国に大量輸出するために製造されたものだったが、この事実は意図的に無視された。今やソ連公文書館の文書によると、NKDV銃殺執行隊がドイツ製拳銃と口径七・六五ミリの弾丸「ゲコ」で装備されていたことが確認されている。
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 126~127ページ)

 

 カチンでの屋外での処刑(「カチンで処刑を統率したのはモスクワから来た処刑人ではなく、スモレンスクNKVD監獄長グリポフ保安中尉、次長グヴォズドフスキー、ステルマハとみられる。これにスモレンスクNKVD監獄の看守、運転手、それにミンスクNKVD本部から派遣された処刑専門家がくわわったという説が有力」)と、カリーニンでの屋内での処刑(「モスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮」)では状況が異なることに留意しておく必要がある。ここに記されているのは、集団として自身の運命が明らかな中で次々に殺害されたカチンでの検証記録(解剖報告書)である。カリーニンでの個室での殺害では、被害者は抵抗を考える以前に、すなわち抵抗し銃剣で傷付けられることなく殺害されていたと考えられる。

 いずれにせよ、「すべての解剖報告書は、処刑が執行の専門家によって行われたと証言している。ほとんどの犠牲者は後頭部の正確な個所を狙って一発の弾丸で殺されていた。二発目が発射されたのはきわめてまれである」とカチンの「解剖報告書」にも記されており、「執行の専門家」の熟練度が窺われる。

 

 根岸隆夫氏による「訳者あとがき」には、カリーニンでNKDV責任者であったトカリェフ(トカリェフは国境警備隊からNKDVに移動したときは大佐だったが、カリーニン虐殺でベリヤに認められ、1954年に少将に昇進した)による1991年3月20日の証言(軍事検察官ヤブロコフ中佐との質疑応答)の紹介がある。

 

 トカリェフ  ブローヒン、シネグボフ、クリヴェンコがモスクワ本部から処刑人として到着したときに拳銃を詰めこんだスーツケースを持ってきました。
 ヤブロコフ  どんな拳銃ですか。
 トカリェフ  ヴァルターですよ。
 ヤブロコフ  弾薬はなんですか。
 トカリェフ  ヴァルター用ですよ。有名な拳銃です。口径は知らないけれどドイツ製です……
 ヤブロコフ  監獄を描写してください。
 トカリェフ  ここが地下室。ここに囚人監房があります。ここが「赤い隅」で、そこから処刑室まで廊下があります。「赤い隅」で本人確認がおこなわれ、そこから廊下を通って処刑室に連れていき銃殺です。小さい部屋です。扉があって中庭に向かって開きます。そこから死体を出して、待ち受けているトラックに載せます。
 ヤブロコフ  監獄から「赤い隅」まで捕虜は一人ずつ連れてこられるのですか。
 トカリェフ  そうです、一人ずつです。「赤い隅」には政治ポスターが何枚か貼ってあります。政治教育に使われていました。だからレーニンの部屋と呼ばれました。
 ヤブロコフ  処刑室にはなにもないのですか。
 トカリェフ  荷台がひとつありました。
 ヤブロコフ  いつもウォッカがあったということでしたが。
 トカリェフ  箱で買いこんでいました。銃殺と埋葬にかかわっただれもが飲めるようにです。モスクワから来たブローヒンたち処刑人はパジャマ姿ですわって飲んでいましたね。かならず銃殺が終わってからで、その前や最中には飲みませんでした。ポーランド人の銃殺が終わると宿にしている引き込み線の食堂車で大宴会でした……
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 172~173ページ 訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

「捕虜は一人ずつ連れてこられる」のであり、処刑室は防音されており(「看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる」)、処刑されることへの予期は持ちにくい(多くの場合、抵抗を考える前に殺害されているはずである)。

 

 

 実際にNKDV(内務人民委員部)で処刑の任務に携わった人物による証言(「カチンの虐殺」への関与は語られていないが、多くのソ連国民を処刑した経験が語られている)が記録されているので読んでおきたい。

 

 「……わしは内務人民委員部の仕事に採用されたとき、ほんとに鼻高々だった。はじめての給料で上等のスーツを買ったんだよ。
 ……あのような仕事は……なんにたとえればいいのだろう。たとえるとしたら、戦争だ。しかし、わしは戦場ではらくだった。ドイツ人を銃殺刑にする、やつはドイツ語でさけぶ。ところが、こいつらときたら……こいつらはロシア語でさけぶんだ。なにやら仲間みたいだ……。リトアニア人やポーランド人を撃つのはもっとらくだった。ところが、こいつらときたらロシア語なんだよ。「でくの坊! 能なし野郎め! さっさと殺れよ!」畜生! わしは全身血まみれ……手のひらを自分の頭髪でぬぐっていた……。たまに皮製の前掛けが支給されることがあった。そういう仕事だった。勤務だ。きみは若いよ……ペレストロイカ! ペレストロイカ! しゃべくり野郎どもの話を真にうけておる。さけばせておくがいい、自由、自由と。広場をちょっと走らせておくがいい……。斧が置かれているんだ……斧はご主人さまがいなくなっても生きつづけるんだよ。覚えておけ。畜生! わしは兵士だ。命令されたから、やった。撃った。命令されたら、やるもんだよ。や・る・ん・だ・よ! わしが殺していたのは敵だ。破壊分子どもだ。正式な書類があった。「極刑に処す……」。国家の判決だ。あんな仕事は、願いさげだ! まだ息のあったやつは、たおれて、豚みたいにキーキーいって……血を吐いておった。けらけらわらってる男を撃つのは、とくに胸くそが悪かった。そいつは気が狂っているか、こっちをさげすんでいるか、どっちかなんだ。あっちからもこっちからも、号泣と汚いことば。あのような仕事の前には食事などできん……。わしは食えなかった……。いつものどがからからだった。水をくれ! 水だ! 酒を飲みすぎたあとのように……。畜生! 勤務時間の終わりにバケツがふたつ持ってこられた。ウォッカのバケツとオーデコロンのバケツ。ウォッカは仕事のあとで持ってきてくれた、仕事の前じゃなかった。どっかで読んだことがあるだと? それそれ、そこなんだよ……。いまではあらん限りのことが書かれている……多くはでっちあげだ……。わしらはオーデコロンで上半身を洗っていた。血は、鼻にツンとくる、一種独特のにおいがして……ちょっと精液のにおいに似ている……。わしの家にはシェパードがいたが、仕事のあとでは、わしによりつこうとしなかった。畜生! なんでだまってんだ。青二才め……未熟者めが……よく聞け! まれに殺すのが好きだという兵士がいたもんだ……そういうやつは銃殺班からよそにとばされた。やつらはあまり好かれていなかった。わしのような農村の出身者がたくさんいた、田舎もんは都会もんよりタフだ。ハラがすわっておる。死というものに慣れている。ある者は家で豚をつぶしたことがあったし、ある者は子牛を殺したことがあったし、ニワトリはだれでもしめたことがあった。死に……慣れさせなくてはいかん……。最初の数日間は連れていって見せる……。兵士たちは死刑に立ち会っていただけ、あるいは既決囚を護送していただけだ。すぐに発狂というケースもあった。耐えられなかったのだ。デリケートな問題だ……。うさぎをひねる、それだって慣れが必要で、だれにでもやれるもんじゃない。畜生! ひざまずかせて、ナガン連発式ピストルの銃口部を左後頭部につきつけて撃つ……左耳あたりに……。勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった。ほかのあらゆる場所のように、わしらにも割当量があった。工場の生産割当量のように。最初のころは、割当量をこなすことができなかった。物理的に遂行できなかったのだ。すると、医師が呼び集められ、立会診察がおこなわれた。その結果、週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった。右手と人差し指のマッサージ。人差し指のマッサージはどうしても必要だ、撃つときにいちばん大きな負荷がかかるんだ。わしに残ったのは、右耳の聞こえが悪くなったことだけだ。右手で撃っていたからだよ。
 ……わしらは「党と政府の特殊任務遂行に対して」表彰状をもらって、そこには「レーニン・スターリンの党の事業に献身的である」と書かれていた。上質紙のこれらの表彰状を、わしは戸棚いっぱい持っておる。年に一度、家族と一緒にりっぱなサナトリウムに行かせてもらった。最高の食事……肉がたっぷり……療養……。妻はわしの仕事のことはなにも知っちゃいなかった。責任重大な極秘の仕事、それだけだ。わしは恋愛結婚だった。
 ……戦時中は弾が節約されていた。もし海が近ければ……。平底船にぎゅうぎゅうに詰めこんだもんだ。船倉からはさけび声ではなく、けものの咆哮「誇り高きわがヴァリャーグ号は敵に屈せず/赦免はだれも望まない……」。一人ひとりの両手は針金で縛られていて、足には石が……。もし天気がおだやかなら……水面はなめらかで……やつらが底に沈んでいくのが長いあいだ見えていた……。なんだ、その目は。乳臭いやつめ! その目はなんだ! 畜生! 酒をつげ! そういう仕事……勤務だ……。きみが理解するために、話してやってるんだ。ソヴィエト政権はわしらにとって高くついた。それを大事にしなくてはならん。守らなくてはならんのだ。夕方、わしらが帰ってみると、平底船はからっぽ。死の静けさ。みんなの頭にあるのはひとつ。わしらが岸辺に出ていけば、わしらもそこで……。畜生! わしは、すぐ持ちだせるように、何年間もベッドの下に木のトランクを置いていた。替えの下着、歯ブラシ、カミソリ。枕の下にはピストル……。自分の額を撃ちぬく覚悟でいた。当時、みんながそんなふうに生きていたんだ。兵士も、元帥も。そこんとこは平等だった。
 ……戦争がはじまった……。わしはすぐ前線に志願した。戦闘で死ぬのはそれほどこわくない。祖国のための死だとわかっているからだ。すべてが簡単明瞭。ポーランドを解放していた、チェコを……。畜生! ベルリンの近くで自分の戦歴を終えた。二個の勲章と記章をもっておる。勝利だ! だが……その後に待っていたのは……。勝利のあと、わしは逮捕された。特務部のやつらがリストを用意していたのだ……。チェキスト〔国家保安機関の勤務員〕には、ふたつの道しかなかった。敵の手にかかって死ぬか、内務人民委員部の手にかかって死ぬか、どちらかだ。七年の刑をくらった。わしは、七年の刑期をまっとうした。いまでも……なあ、きみ……収容所時間で目が覚めるのだ、朝六時に。なんの罪で入っていたのか。なんの罪か、それはおしえてくれなかった。いったいなんの罪があるというのだ。畜生! 」
     (スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ 『セカンドハンドの時代』 岩波書店 2016  357~359ページ)

 

 かつてNKDVに処刑要員として(処刑の専門家として)勤務した人物の証言である。「NKDVには数万の「処刑専門家」がいて、殺害と死体隠しの訓練を受けていた」という中の一人だ。キャリアのスタートは戦前、大粛清の時代である。語られているのはその技術的詳細、処刑現場の状景の生々しさ、処刑要員としての心情。

 

  わしは全身血まみれ……手のひらを自分の頭髪でぬぐっていた……。たまに皮製の前掛けが支給されることがあった。そういう仕事だった。勤務だ。

  わしは兵士だ。命令されたから、やった。撃った。命令されたら、やるもんだよ。や・る・ん・だ・よ! わしが殺していたのは敵だ。破壊分子どもだ。正式な書類があった。「極刑に処す……」。国家の判決だ。

  あっちからもこっちからも、号泣と汚いことば。あのような仕事の前には食事などできん……。わしは食えなかった……。いつものどがからからだった。

  勤務時間の終わりにバケツがふたつ持ってこられた。ウォッカのバケツとオーデコロンのバケツ。ウォッカは仕事のあとで持ってきてくれた、仕事の前じゃなかった。

  わしらはオーデコロンで上半身を洗っていた。血は、鼻にツンとくる、一種独特のにおいがして……ちょっと精液のにおいに似ている……。わしの家にはシェパードがいたが、仕事のあとでは、わしによりつこうとしなかった。

 うさぎをひねる、それだって慣れが必要で、だれにでもやれるもんじゃない。畜生! ひざまずかせて、ナガン連発式ピストルの銃口部を左後頭部につきつけて撃つ……左耳あたりに……。

  勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった。

 ほかのあらゆる場所のように、わしらにも割当量があった。工場の生産割当量のように。最初のころは、割当量をこなすことができなかった。物理的に遂行できなかったのだ。

  すると、医師が呼び集められ、立会診察がおこなわれた。その結果、週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった。右手と人差し指のマッサージ。人差し指のマッサージはどうしても必要だ、撃つときにいちばん大きな負荷がかかるんだ。

 

 確かに「あんな仕事は、願いさげだ!」という言葉もある。自身への呪いの言葉と満足感が同居している。

 ここではドイツ製のワルサーではなく、ソ連製の「ナガン連発式ピストル」を使用していたこと、引き金が引かれたのは「左後頭部」に向けてであったことが語られている。ブローヒンの流儀を過剰に一般化するべきではないということなのだろう。しかし、「ナガン連発式ピストル」使用により「勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった」ために「割当量」を果たすことが困難となり、「週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった」エピソードからは、あらためてブローヒンのワルサーが、「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」との理由で選択されていたことが思い出される。

 

 「あんな仕事は、願いさげだ!」との言葉も吐いたこのチェキストは、しかし「名誉退役軍人」として特権を享受していた。「特別配給食料」としてサラミソーセージ、ブルガリア製のキュウリとトマトのピクルスの瓶詰、外国製の魚の缶詰、ハンガリー製の缶入りハム、グリーンピース、タラのレバーといった「当時、一般の人には手に入らなかったもの」を手にし、「官給の四〇〇平米の土地ではなく、どのくらいの広さだったか、もう正確には覚えていないが、そこには森林の一部も入っていた。古いマツ林だった。高い地位の人には、あのようなダーチャが与えられていたんです。特別な功績に対して。アカデミー会員や作家に」と対話者に語られるような特権的な生活を享受していたのである。公務としての効率的な殺人により得た特権である。

 そのような特権者が存在した国家。それがソ連であり、そのような特権者こそがソ連の国家権力を支えていた。処刑人の凄惨な現場の上に、日々の業務としての処刑の上に、「割当量」を果たそうと格闘する現場の上に、ソ連という国家は築かれていたのである。

 

 

 

 さて、あらためてブローヒンである。

 日本語の『ウィキペディア』をチェックしてみた(「百科事典」としての利用とは別に、ネット空間の中での対象への関心の程度を知る効果もある)が、現状(2011年9月6日、そして2019年2月2日に再確認)では「ブローヒン」の項目はなかった。しかし、「ニコライ・エジョフ」の項に、

 

 1940年2月4日、ニコライ・エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された。

 

という形で、ブローヒンの名が登場する(以下、2011年9月6日時点での記載内容である)。

 「カチンの虐殺」は1940年の4月から5月の話で、その直前の時期に、ブローヒンは、エジョフの処刑の実行者となっていたわけである。ただし、『カチンの森』によれば、その時点でのブローヒンの地位は「保安少佐(モスクワNKVD監獄長)」なのであり、『ウィキペディア』の記述は正確ではないように思われる(2019年2月2日現在でも「1940年2月4日、エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された」との記述のままであった)。

 

 さて、では、ニコライ・エジョフとは何者か? 再び『ウィキペディア』の「エジョフ」の項を参照すると、

 

 ニコライ・イヴァーノヴィチ・エジョフ(ロシア語;Николай Иванович Ежовニカラーイ・イヴァーナヴィチュ・イジョーフ、ラテン文字表記の例:Nikolai Ivanovich Yezhov、1895年5月1日 - 1940年2月4日頃)は、ソビエト連邦の政治家。1936年から1938年まで政治警察・秘密警察であるNKVDの長を務めた。国家保安総委員。ヨシフ・スターリンによる大粛清(大テロル)を実行し、天文学的な数の国民を虐殺したが、のちに自らも粛清対象にされて処刑された。

 エジョフの政治体制は、後世、「エジョフシチナ」(Ежовщинаイジョーフシナ;エジョーフシチナ、エジョフ時代、エジョフ体制の意)としばしば呼称される。

 

として要約される人物である。

  ヨシフ・スターリンによる大粛清(大テロル)を実行し、天文学的な数の国民を虐殺したが、のちに自らも粛清対象にされて処刑された。

とあるように、つまり、あの大粛清のシステムの中心人物であり、やがて当人も粛清の対象とされ、最後にブローヒンの手により処刑されたわけである。

 

 『ウィキペディア』は、エジョフの絶頂期の姿を、

 

 エジョフは、スターリンに対する忠実な支持者であったとことで知られる。1935年、エジョフは政治的反対勢力が暴力とテロリズムと結合して反国家・反革命に結合するに違いないと主張する内容の論文を発表している。これは粛清におけるイデオロギー上の基礎の一部となった。1936年ゲンリフ・ヤゴーダの後任として、9月26日に内務人民委員(内務大臣)、中央執行委員に就任し、翌1937年10月には党中央委員会政治局員候補となった。

 エジョフは粛清の第一段として、まず前任のヤゴーダ派の一掃に着手した。ヤゴーダ派の粛清で生き残った部下を自身の配下に組み入れることで、権力の基盤を磐石にしたのである。1937年3月、将校クラブに招集したNKVDメンバーの前の演説でエジョフは、前任者のヤゴーダが「ファシストのスパイ」として逮捕されたことを述べた上で、「無実の人間を10人犠牲にしてもいいからスパイ1人を逃してはならない。木を切り倒すときは木端が散るものだ」と主張した。また、自身の身長の低さに言及し、「私の身の丈は小さいが、両手は頑丈だ。-スターリンの意思を実行する両手だからだ」と述べた。

 エジョフは、スターリンの大テロルにおける忠実な執行者として君臨した。NKVDとGPUに徹底的な粛清を指揮し、前任者のヤゴーダ、ヴャチェスラフ・メンジンスキーが任命した多くの人員が解任、銃殺されたが、その中にはエジョフ自ら任命した者も含まれていた。エジョフはスターリンから粛清の命令を受けた際には、その一字一句をメモに書き残していたとされる。さらにはNKVDの部署内にさえも、二重・三重の監視網が敷かれた。

 エジョフはかつてレフ・トロツキーを支持していた重工業人民委員部次官ゲオルギー・ピャタコフらを公開裁判(第二次モスクワ裁判)にかけ、銃殺刑を言い渡した。これを皮切りにエジョフ体制下での粛清は猛威を振るい、ソビエト共産党指導者・官僚・軍人の半数、ほかにも数百万人の市民が政府への反抗・政府の転覆活動・反革命の容疑を受けて粛清の対象として逮捕され、容赦ない拷問の結果、処刑・追放・収容所送りに至った。

 1937年12月20日、党はボリショイ劇場において、NKVDの創設20周年を祝う大祝典を催した。会場には、スターリンの巨大な肖像と隣り合ってエジョフの肖像が架けられた。花でうずまるステージにおいて、ダークのコーカサス風のチュニックコートとベルトを締めたアナスタス・ミコヤンが、エジョフの仕事を賞賛し、「同志エジョフから、同志スターリンの方法を学びましょう!ちょうど、同志エジョフ自身が、同志スターリンから学び、これからも学び続けるであろうように!」と述べた。会場にいたある人物は、エジョフの様子を「彼はうつむき加減で、恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。まるで、こんな手放しの賞賛に自分は相応しくないという風だった」と伝えている。スターリンが、このときの様子をプライベートボックスから眺めていた。

 

と記している。

 しかし、その絶頂の翌年、

 

 1938年4月8日、ほかの役職はそのままに、水上交通人民委員を兼任したが、エジョフの役割は徐々に小さくなっていった。これはエジョフの権勢が衰微し、没落する予兆であった。党内で上位にある者を定期的に粛清するスターリンのやり方は、主にそのやり方を組織化する役割を果たしたエジョフも知っていた。同年8月22日、ラヴレンチー・ベリヤが内務人民委員代理に就任する。ベリヤは政治将校の政務のためにエジョフの権力を奪い始め、NKVDの実質的な責任者になった。

 連日のように粛清を繰り返したエジョフは、晩年には疑心暗鬼によって、自身の妻までも粛清している。すでに飲んだくれとなっていたエジョフはアルコール依存症に陥り、絶望的になった。最後の業務の月のエジョフは、陰鬱で、だらしなく、起きている時間はほとんど酒を飲んでおり、勤務のために現れたことは滅多になかったという。

 同年11月11日、スターリンとヴャチェスラフ・モロトフは、エジョフ体制下のNKVDを激しく批判した。エジョフは内務人民委員の解任を自発的に求め、11月25日にはベリヤが内務人民委員に就任した。

 

このように、手にした権力を失っていく。そして、

 

 1939年3月3日、エジョフはソ連共産党中央委員会における全官職を解任された。

 

という形で、スターリン体制における地位のすべてを喪失し、エジョフの立場は完全に逆転することになる。

 

 1939年4月10日、エジョフは逮捕され、スハーノフカ刑務所(en:Sukhanovka)に収容された。拷問に耐えることができなかったエジョフは、奇しくも、自らが多くの人間を処刑したのと同じ理由、すなわち「自分は公式に無能であること、ドイツの諜報機関と結託してスパイ活動を行い、クーデターを計画していた」と自白した。さらにエジョフは、「自分は性的に逸脱しており、男色家で異性愛者である」とも自白した。これはのちに証言によって部分的に補強され、のちの取り調べによってほぼ真実と考えられている。

 1940年2月3日、ソビエトの裁判官ヴァシリー・ウルリヒは、ベリヤの事務室において彼を審理した。エジョフの言い分は支離滅裂であり、前任のヤゴーダのように終始悲嘆に暮れ、スターリンへの敬愛を述べ続けた。エジョフは、ベリヤからスターリン暗殺計画の自白を勧められたが、これを拒否して「どうせこの地上から消え去るなら、高潔な人間として消え去ったほうがましだ」と述べた。エジョフは自身の弁明のためにベリヤの前に跪いて許しを請うが、再三無視された。そしてついに、「スターリンの名を呼んで死ぬ」と誓った。エジョフのスターリン暗殺計画の自白の拒絶は、自身の宣伝目的に役立つことはなかった。

 死刑判決が読まれたとき、エジョフは泣き崩れ、部屋から体ごと運ばれなければならないほどに生気を失った。目撃者によると、ベリヤはエジョフに服を脱ぐよう命令し、エジョフを叩くよう警備員に命令したという。エジョフは体ごと処刑室に運ばれ、しゃっくりし、泣きじゃくった。1940年2月4日、ニコライ・エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された。遺灰は、モスクワのドンスコイ修道院の集団墓地(en:Mass graves in the Soviet Union)に捨てられた。

 

というのが、大粛清システムの中心人物の最後のあさましい姿であった。

 

 しかし、このベリヤもまた、『ウィキペディア』の「ラヴレンチー・ベリヤ」の項によれば、

 

 同年(1953年)12月、ベリヤ、メルクーロフ、コブロフ、セルゲイ・ゴルギーゼ、デカノゾフ、メシク、ヴロジミルスキーの7人は、「英国の諜報機関と結託し、秘密警察を党と国家の上に置いてソヴィエトの権力を掌握しようとしたスパイである」と報道された。ベリヤは特別法廷において、弁護人なし、弁明権なしで、裁判にかけられた。裁判の結果、ベリヤは死刑判決を受けた。モスカレンコによると、死刑判決が下ったとき、ベリヤは膝を突いて泣きながら慈悲を乞い、助命嘆願をしたという。しかし、ベリヤはルビヤンカの地階に連行され、彼と彼の部下は、1953年12月23日にパーヴェル・バチツキーによって銃殺刑に処された。ベリヤの遺体はモスクワの森の周辺で火葬されたのち、埋葬された。

 

という最期を遂げることになるのであった。

 そのような政治体制の中で、「カチンの虐殺」は起きたのである。

 

 

 ちなみに、英語版の『ウィキペディア』には、ブローヒンの項目はあり、その最期についても記述がある。

 

 Blokhin was forcibly retired in 1953 following Stalin's death that March. However, his "irreproachable service" was publicly noted by Beria at the time of his departure.After Beria's fall from power in June of the same year, Blokhin's rank was stripped from him in the de-Stalinization campaigns of Nikita Khrushchev. He reportedly sank into alcoholism and serious mental illness, and died on 3 February 1955, with the official cause of death listed as "suicide".
     (Vasily Blokhin → 
https://en.wikipedia.org/wiki/Vasily_Blokhin

 

 ブローヒンはスターリン批判の中で栄誉を剥奪される。アルコールに溺れる日々を送り、公式には自殺として記録される最期であったらしい。

 そこに大量殺害者としての悔悟があったのであろうか?

 (私には、ブローヒンの悔悟など想像し難いが)

 

 

 

           (「カチンの拳銃弾 4」に続く

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/09/06 21:50 → https://www.freeml.com/bl/316274/170569/
 投稿日時 : 2019/02/01 21:04 → https://www.freeml.com/bl/316274/323553/

 

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年1月31日 (木)

カチンの拳銃弾 2

 

 

 ガス室のある収容所は数が限られていたことは、今でも知る人が少ない。もっとも有名なアウシュヴィッツ、トレブリンカ、マイダネクとシュトゥットホーフのほかにはヘウムノ、ソビブル、ベウジェツ、それにシュトゥットホートだけである。
 これに反して、ブッヘンヴァルト、ベルゲン・ベルゼン、シルメック、ノイエンガメ、マウトハウゼン、ラーフェンスブリュック、ザクセン・ハウゼン、フロッセンブルクにガス室はなかった。そこでは、収容者は緩慢な死を迎えるか、拳銃で項を撃たれるか、つるはしで殴り殺されるか、働いている採石場の高い所から突き落とされるか、であった。
     (アルベール・シャンボン 『仏レジスタンスの真実』 河出書房新社 1997 171ページ)

 

これもまた、昨日のルドルフ・へスの証言に加えて、

  後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する

というソ連の手法が、ナチスの強制収容所での収容者殺害においても採用されていた事実への言及(「拳銃で項を撃たれる」)である。

 小銃を構えた銃殺隊による銃殺刑という軍隊的スタイルや、機銃の乱射による大量殺害とは別に、「拳銃で項を撃たれる」殺害法もナチス体制の下で広く行なわれていたのだが、その手法の起源がソ連にあったのではないかというのが今回のテーマのひとつ、ということになろうか。

 

 

 前回記事(「カチンの拳銃弾 1」)で示した通り、「後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する」処刑法は、そもそもは、

 

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。
    (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

とあるように、ソ連秘密警察において愛好され洗練された手法であった。

 あらためて、その詳細について読み進めると、

 

 トカリェフの証言をまとめると、カリーニン虐殺(オスタシュコフ収容所の5291人のポーランド人捕虜は、カリーニンのNKVD本部の地下監房に移送され、別室で殺害された-引用者)はモスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮した。ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参、三人は駅の引込み線に止められた、電話交換機を入れた食堂車に寝泊りした。ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。処刑と埋葬にはNKVDの地方、中央をふくめてあらゆる階級の職員三〇名がたずさわった。看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。ブローヒンでなければカリーニンNKVDの総務部長ルバノフだった。監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。死体から手錠を外すと、中庭で待っている五、六台の無蓋トラックに積みこむ。いっぱいになると覆いをかぶせる。モスクワ=レニングラード街道(当時)にそって三〇キロばかり走ると、トヴェル川にのぞむメドノエ村がある。ブローヒンは村外れの塀のない埋葬地を選んであった。トカリェフの別荘から五〇〇メートル離れた森のはずれだ。一晩でトラックは二往復した。モスクワからブルドーザー二台と運転手が来て墓穴を掘り、死体を埋めた。植樹して隠そうとはしなかった。カチン、ハリコフとちがってカリーニンのドイツ軍占領は短かったので、発見されなかった。
 カリーニンでは合計六三一四人(オスタシュコフ収容所からの移送者以外の犠牲者も含まれる数字?-引用者)が銃殺されたが、一九九〇年に二三の墓穴が掘り返されたときには、死体の司法解剖は不可能だった。遺体は五十年経ち、土に戻っていた。
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 173~174ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

このように記されている。カリーニン虐殺における、ブローヒンの役割と手法の詳細に注目しておきたい。

 

  看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。

  監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。

 

 ブローヒンが従事したのは効率的な処刑=殺人であり、それが彼とその部下にとっての日常業務(「メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまで」)なのであった。

 

 

 ブローヒンの使用していたヴァルター二型拳銃(「ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参」とある)については、ワルサー社の「モデル2」を示すものであるのかどうか、検討の余地が残る。前回記事に引用した「拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた」との記述に示される口径から判断すると、口径6.35ミリの「モデル2」(1909年開発)には該当しない。口径7.65ミリのワルサー社の拳銃ということであれば、いずれも1910年代に開発された「モデル3」あるいは「モデル4」が存在する(註:1)。

 用いられた「後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する」処刑法からすれば、6.35ミリの小口径拳銃でも十分に役に立ちそうである。いずれにせよ、使用されたのはワルサー社の生産した拳銃であり、「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」というのが選択基準であった。「疲れが少ない」拳銃を用いて、効率的な処刑が遂行されたのである。そして、「死体から手錠を外すと、中庭で待っている五、六台の無蓋トラックに積みこむ。いっぱいになると覆いをかぶせる。モスクワ=レニングラード街道(当時)にそって三〇キロばかり走ると、トヴェル川にのぞむメドノエ村がある。ブローヒンは村外れの塀のない埋葬地を選んであった。トカリェフの別荘から五〇〇メートル離れた森のはずれだ。一晩でトラックは二往復した。モスクワからブルドーザー二台と運転手が来て墓穴を掘り、死体を埋めた」とあるように、死体処理も効率よく遂行された。

 日常的処刑業務を効率的に遂行するに際して「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」ことにおいて優位なドイツ製拳銃が、すなわち「ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた」のである。

 

 一方、ナチス・ドイツで愛用されたのは同じワルサー社のワルサーPP、あるいはPPKではないかと思われる。(内容的に妥当と思われるので、入力の手間を省き)『ウィキペディア』記事から引用すると、

 

 ワルサーPP(Walther PP)は、ドイツのカール・ワルサー社が1929年に開発したダブルアクション式セミオートマチック拳銃である。.22口径(5.6mm)、.32ACP口径(7.65mm)、.380ACP口径(9mm)の3種類がある。PPとはPolizeipistole(警察用拳銃)を意味する。

 1929年に開発される。ドイツ警察や再軍備宣言がなされたドイツ軍の将校用標準ピストルとして採用されており、国家社会主義ドイツ労働者党の制式拳銃でもあった。
     (2011/09/05 閲覧時の記述)

 

ということになる。その発展型にワルサーPPKがあるが、

 

 ワルサーPPKは、ドイツのカール・ワルサー社が開発した小型セミオートマチック拳銃である。警察用拳銃として開発されたワルサーPP(Polizeipistole)を私服刑事向けに小型化したもの。名称のKはもともと「刑事 (用)」を意味するクリミナールkriminalの頭文字だが、一般には「短い」を意味するクルツkurzの頭文字だと解釈されることも多い。

 1931年に発売開始。ヒトラーも、愛銃として使用しており、ドイツ警察(ゲシュタポ)や軍隊、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)で制式拳銃とされる。

 

とある通り、どちらもがナチス体制とも縁の深い拳銃である。

 

 

 処刑の効率について、

  屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。

とあったが、ナチス関係のものを読んでも同様の効率性は伝わってくる。しかし、ナチスは、ガス殺というより効率的な手法を開発した点において、ソ連の共産主義者を超えたわけである。

 

 

 いずれにしても、

  ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。

とされるブローヒンの人物像には、ソ連の共産主義の歴史の一面が深く刻印されており、いろいろと興味を引くところがある。

 

 

 

          (「カチンの拳銃弾 3」に続く)

 

 

 

【註:1】

 ワルサー モデル1は、ドイツのワルサー社が1908年に開発した、同社初のポケットピストルである。
 作動方式はシンプルブローバック、トリガーはシングルアクションで発射する。スライドはオープントップデザイン。フレーム左側後部にクロスボルト式のマニュアルセイフティ(シアを固定)を備えている。フロントサイトはあるが、リアサイトはスライド上面の溝を利用するスナッグフリーデザイン。銃身にはテイクダウン用のバレルシュラウドが被せてあり、これを取り外すことで分解するという独特な構造をしている。形状や細かな仕様の違いで、5つのバリエーションが存在する。
 元々は「Selbstlade Pistole Cal.6.35」という名称だったが、後続モデルが登場した際に「モデル1」に改名された。
 1909年には改良モデルの「モデル2」が登場。スライドをフルカバーデザインに変更し、全体的なバランスの見直しを図っている。他にも、内蔵式ハンマーに変更、グリップ底部のマガジンリリースレバーの大型化、マニュアルセイフティをレバー式に変更、などの改良が施されている。初期型には、チャンバーインジケーターを兼ねる可動式リアサイトとマガジンセイフティが備わっていたが、後期型では製造工程とコストを省くため、両機能とも廃止されている。モデル1ではロングタイプだったテイクダウン用のバレルシュラウドは、銃口先端を覆うショートタイプのものに変更された。
 「モデル4~モデル8(モデル5を除く)」になるとサイズが大型化するが、1921年には再び小型モデルの「モデル9」が登場。オープントップスライドでストライカー式という特徴はモデル1と変わらないが、よりオーソドックスなデザインになっている。ただし、マニュアルセイフティの位置はフレーム左側後部ではなく、トリガーガード左側後部に変更された。

モデル
 全長 銃身長 重量 口径 装弾数

モデル1
 112mm 50mm 360g .25 ACP 6+1
モデル2
 113mm 50mm 277g
モデル3
 127mm 67mm 472g .32 ACP 8+1
モデル4
 151mm 88mm 521g
モデル5
 113mm 50mm 269g .25 ACP 6+1
モデル6
 210mm 121mm ?g 9mm×19 8+1
モデル7
 135mm 76mm 360g .25 ACP 8+1
モデル8
 130mm 73mm 364g
モデル9
 99mm 51mm 260g .25 ACP 6+1
     (MEDIAGUN DATABASE→ 
http://mgdb.himitsukichi.com/pukiwiki/index.php?%BC%AB%C6%B0%B7%FD%BD%C6/%A5%EF%A5%EB%A5%B5%A1%BC%20M1

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/09/05 21:18 → https://www.freeml.com/bl/316274/170528/

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年1月30日 (水)

カチンの拳銃弾 1

 

 

 これからしばらく、80年前のポーランド人捕虜の運命(1939年の9月1日、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻、同年9月17日にはソ連がポーランドの東側国境から侵攻し、ポーランドは両国により占領された)を振り返るところから始めて、20世紀の全体主義的ユートピアを支えた人間像―特に処刑人とその犠牲者の姿に焦点を当てることになるだろう―について考える機会としたい。

 

 

 コゼルスクから最初の捕虜の一隊を乗せた列車は、四月三日(1940年の話-引用者)の午後に出発した。捕虜は汽車で四時間くらいかけて、スモレンスクを通過して郊外二〇キロばかりの小さな駅に着く。そばをドニエプル川が悠々と流れている。この年の春は遅く、残雪があった。着剣し小銃をもったNKVD(ソ連内務人民委員部)警護・護送部隊が厳重に警戒するなかを、黒塗りの囚人輸送車に押しこまれて、二メートルの金網を周囲にめぐらしたNKVD管理下のカチンの森に入り、三キロ離れた山羊が丘(斜め丘との解釈もある)のある広々とした空き地に連れていかれる。そこには三月はじめに、スモレンスク監獄の囚人を使って八つの矩形の墓穴が掘られていた。深さは二メートルから三メートル。二人の兵隊が捕虜を一人ずつ両脇で腕を抑え、矩形に深く掘られた墓穴の縁で跪かせるか立たせる。後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する。犠牲者は墓穴に倒れこむ。死体は顔を下にして九層から一二層積み重ねられた。
 拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。モスクワNKVD本部は手練れの処刑人一二五人を、ブローヒン少佐を長としてポーランド将校銃殺のために派遣した。しかし、カチンで処刑を統率したのはモスクワから来た処刑人ではなく、スモレンスク
NKVD監獄長グリポフ保安中尉、次長グヴォズドフスキー、ステルマハとみられる。これにスモレンスクNKVD監獄の看守、運転手、それにミンスクNKVD本部から派遣された処刑専門家がくわわったという説が有力だ。しかし資料は十分ではない。ゲシュタポがNKVDに殺人手段で勝るのはガス殺だけだといわれる。拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた。反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない。大量処刑のカチン事件では、ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた。弾丸には、ドイツの弾薬メーカー、ゲンショウを意味するGECOと刻まれていた。ソ連はカチン事件をドイツ軍になすりつける口実にこの弾丸を使ったが、すぐに底が割れてしまう。というのも、第一次大戦後に軍縮で不況をかこったゲンショウ社が、この弾丸をさかんに、ソ連、バルト三国、ポーランドなどに輸出していたのだ。
 いっぱいになった墓穴には土がかけられ、松の苗木が植えられた。その樹齢で埋葬時期が科学的に推定され、ドイツ軍占領以前の一九四〇年春ころが特定され、NKVDの犯行を裏付けた。処刑されることを知って、捕虜が最後の抵抗をしたことは、遺体の状態から想像に難くない。後ろ手を縄で縛られ、それが首にまわされ、暴れると首が絞まるようになっていた。また将校用長外套をまくりあげて頭上で縛ってある遺体も、抵抗したからと推測される。口におが屑やぼろ切れが詰められた遺体もあった。使われた縄はあらかじめ一定の長さに切り揃えてあってソ連製だった。
     (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169~170ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

 

 ここで、私は、軍事裁判と人質処刑のことにふれねばならない。ただし、ここではポーランド人の場合にかぎる。人質は、大方はもう長いこと収容所に入れられていた。彼らが人質だったことは、彼ら自身にも収容所指導部にもわかっていなかった。
 やがて、突然、保安防諜部だか国家保安本部だかからの命令を伝える電報が一通きた。それには、以下の抑留者を人質として、銃殺もしくは絞首刑にせよ、とあった。数時間のうちには、その完了を報告しなければならなかった。該当者は、その作業場から連れもどされ、また点呼によってえらび出され、処刑場に連れて行かれた。
 すでに長らく抑留されていた者たちの多くは、そのときすでにその決定を知り、少なくとも何が彼らを待ちうけているかを予感していた。処刑場で処刑命令が下された。
 初めの時期、一九四〇~四一年ごろには、彼らは部隊の処刑司令部によって、銃殺に処せられた。後になると、絞首刑にされたり、一人ひとり小銃で頭を撃ちぬかれたり、また、病院で寝たきりの病人なら注射で殺されたりした。
     (ルドルフ・へス 『アウシュヴィッツ収容所』 サイマル出版会 1972 108ページ)

 

 

 1939年9月、まずドイツがポーランドに侵攻し、続いてソ連がポーランドの東半分を占領した。独ソ不可侵条約の秘密議定書の取り決めに従い、両国はポーランドを侵略し分割したのであった。

 ドイツによる占領においても、ソ連による占領においても、ポーランド人への取り扱いは過酷を極め、ソ連による「カチンの虐殺」もその一端に過ぎない(註:1)。

 カチンでソ連が用いたのは、

 

  後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する

 

という手法であったが、これは親衛隊あるいはゲシュタポも採用したナチスにとっても重要な殺害手段のひとつであった。

 「ここで、私は、軍事裁判と人質処刑のことにふれねばならない。ただし、ここではポーランド人の場合にかぎる」との限定が付されたアウシュヴィッツ収容所長ヘスの証言にも、「一人ひとり小銃で頭を撃ちぬかれたり」との記述がある通りである(ここで「小銃」と訳されている語は、「拳銃」を意味していたのではないだろうか)。

 また、その手法は、そもそもはソ連における粛清の歴史の中で、国内向けに用いられ洗練されて来たものなのである。再確認すれば、

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。モスクワNKVD本部は手練れの処刑人一二五人を、ブローヒン少佐を長としてポーランド将校銃殺のために派遣した。

との構図(「拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった」)である。引用中に登場するブローヒン少佐は、「一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった」(同書「訳者あとがき」)ような人物であり、ソ連の国民を処刑することにおいて既に豊富な経験を持っていた(そのブローヒンが「手練れの処刑人一二五人」を指揮していたことは、NKVDは既にそれだけ―実際にはそれ以上であろう―の人数の「拳銃による処刑」の専門家を擁していたことを示す)。つまり、ポーランド人は、最初の犠牲者ではない。

 

 

 あらためてソ連の捕虜となったポーランド人の運命について確認しておくと、

 

 三収容所の約一万五五〇〇人の捕虜は、カチンをふくめて後述するように銃殺される。くわえてウクライナ、ベロルシアで七〇〇〇人の将校捕虜が銃殺された。その他に三九年秋にドイツ軍に引き渡されたり、移送途中や、強制労働収容所で死んだ捕虜は一三万三〇〇〇人と推定される。これを合わせると一五万五〇〇〇人のポーランド人捕虜がソ連で犠牲になったと推定されている。
     (『カチンの森』 160ページ)

 この三収容所の収容者は一万四八五六人、そのうち三九五人はなんらかの理由で他の収容所へ移され、その多くが九死に一生を得た。残りの一万四四六一人(一九五九年三月にNKVDの後身KGB議長シェレーピンはフルシチョフに、一万四五五二人とする覚書を送っている。いずれにしても、カチン関連の数字は末尾一桁まで出ているのがいくつもあるが、どれが真実かわからない。ただ真実に近い)とウクライナ、ベロルシアのNKVD監獄に収監されていた約七〇〇〇人の将校たち、合わせて約二万二〇〇〇人が、一九四〇年四月から五月にかけてNKVDによって銃殺された。
     (『カチンの森』 161ページ)

 

つまり、カチン関連でのポーランド人犠牲者数は約2万2000人。全体では15万5000人ということになる。

 

 ザスラフスキーによれば、

 

  一九三九年終わりまでに、ソ連占領地域のポーランド将校は根こそぎ逮捕された。特別命令で、下士官とオサドニツィは将校と同等とみなされ、収容所に拘禁された。逮捕された将校の一部だけが職業軍人で、大多数は予備役だった。かれらはポーランド軍に動員されたばかりでソ連の手に落ちた新聞記者、大学教授、医師、弁護士、技師、芸術家たちである。
     (前掲書 24ページ)

 

とある通り、ポーランドの予備役将校を構成するのは、そのままポーランドの知識人階級であり、カチンでのポーランド将校殺害は、ポーランド知識人の殺害を意味してもいるのである。

 ここでは知識人が、反ソ抵抗運動の中核となることが予期され、その防止策としての殺害が実行されたのである。ザスラフスキーの『カチンの森』の日本語版サブタイトルは「ポーランド指導者階級の抹殺」であり、イタリア語で書かれた原著のタイトルは『階級浄化―カチンの虐殺』である。「虐殺」のターゲットとなったのが特定の階層のポーランド人であった事実を反映した表題である。

 

 その発想はナチスにも共有され、ポーランド知識人はドイツに占領された地域では、アインザッツグルッペン(「特別行動部隊」などと訳される占領地での「敵性分子」の殺害に特化した部隊)による殺害対象の中核とされたのであった。

 ここで(いささかの手抜きではあるが、内容的に妥当と思われるので)『ウィキペデイア』の「アインザッツグルッペン」の項から引用すると、

 

 対ポーランド戦争に際してもポーランド占領をしやすくするためにアインザッツグルッペンが再度組織された。ハイドリヒは1939年9月21日にアインザッツグルッペンの指揮官たちを前に「ポーランドの指導者層・知識人層は絶滅されるべきである」などと訓示している。
 ポーランドのアインザッツグルッペンは、1隊・2隊・3隊・4隊・5隊・6隊・「フォン・ヴォイルシュ」隊の7隊により構成され、それぞれの隊の下にアインザッツコマンドが複数ずつ置かれた。ポーランド戦の際のアインザッツグルッペンの総員は2700名であった。それぞれ陸軍14軍、陸軍10軍、陸軍8軍、陸軍4軍、陸軍3軍、南部軍集団の進撃を後ろから付いて行って銃殺活動を行った。「フォン・ヴォイルシュ」は軍に付随せず、ドイツとポーランドの国境付近において銃殺活動を行った。
 ポーランド戦の際にアインザッツグルッペンの銃殺活動の対象にされたのは主に教員、聖職者、貴族、叙勲者、退役軍人などのポーランド指導者層、またユダヤ人、ロマなどであった。1939年9月1日から10月25日にかけてドイツ占領下のポーランドでは民間人16,000人以上が殺害されたが、そのうち四割がアインザッツグルッペンによるものとされる。
     (2011/09/04 閲覧時の記述)

 

と記されている通りである。ラインハルト・ハイドリヒは「ポーランドの指導者層・知識人層は絶滅されるべきである」と訓示し、部隊はポーランドの指導者層・知識人層の絶滅を実行した。

 

 

 ナチス・ドイツとソ連の両全体主義体制の発想と手法の共通性、そしてその犯罪性を考える際に、この「カチンの虐殺」は一つの象徴的事件と言えるだろう。

 

 米英は、カチンにおけるソ連の行為を知りながら、対枢軸戦争での勝利を優先し、連合国の一員となったソ連(1941年6月、ヒトラーのドイツがソ連との不可侵条約を破棄し対ソ戦争を開始したことにより、ソ連はヒトラーの側から連合国の側へと転換していた)に迎合し、ソ連によるポーランド人将校虐殺を不問にしたのであった。

 ポーランド人は、米英の政治的リアリズムによってもカチンの墓穴深く葬り去られ、忘れ去られようとしたわけである。

 

 

 

          (「カチンの拳銃弾 2」に続く)

 

【註:1】

 ポーランドの戦争補償局の報告(一九四七年)によれば、戦争中の死者は、実に戦前の人口の約五人に一人、六〇二万八〇〇〇人にのぼった。そのうち戦闘行為による戦死者は軍人・民間人を合せて六四万四〇〇〇人で、残りの五三八万四〇〇〇人が根絶政策に従って意図的に虐殺された。
 この中には二七〇万のユダヤ系ポーランド人が含まれている。戦前のユダヤ人人口は三三〇万人であったのだから、死を免れたユダヤ人はわずかに六〇万人ということになる。ユダヤ系ポーランド人を含めてポーランド国民はまさに絶滅の淵に立たされていた。
 一方、赤軍の占領下にあったポーランド人も、決して安全であったわけではない。ヒトラーが「占領者の権利」に基いてポーランドの領土を処置したのに対し、スターリンは、民族自決という一見民主的な手段を講じてほぼカーゾン線から東にあたるこの地域をソ連邦に併合した。つまりソ連政府は、独ソ秘密協定に従って、ヴィルノ地方をリトアニアに割譲したあと、残余の地域に二つの国民会議を創設させ、これにソ連邦への編入を宣言させたのである。ここでもロシア中央部に強制的に移されたポーランド人は一五〇万人にのぼったという。
     (山本俊朗・井内敏夫 『ポーランド民族の歴史』 三省堂選書 1980  187~189ページ)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/09/04 19:11 → https://www.freeml.com/bl/316274/170440/

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧