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2019年9月18日 (水)

神の手、人の手、猫の手、そして義肢

 

 「手のかたち・手のちから」、武蔵野美術大学の神野善治教授の手になる展示企画のタイトルである。訪れた者は、民俗学と博物館学を担当する神野教授の退任前の力業を味わうこととなる。民俗学者としての果てなき好奇心と、博物館学の教授としての見せる技(地味な素材から、訪れた者の好奇心を引き出す技)である。

 

 展示空間は三つに分かれ、美術館入り口左側の展示室1では、暗い空間に「ねぶた」の「手」が、内部に仕込まれた照明により浮かび上がる。いきなり迫力ある手の造形に出会うこととなる(神野先生は祭りの現地まで出かけ、本来なら解体破棄される「ねぶた」の一部をもらい受けてきたらしい)。民俗学者としての蒐集への情熱と、博物館学者の見せる技(明るい空間に「ねぶた」の手を展示しても、このような迫力ある造形の魅力は伝わらない)の合体空間ということになろうか。

 

 吹き抜けの大きな空間であるアトリウム中央には、福井県三方石観世音の奉納品である手足形が文字通り山積みされ、左壁面には三階くらいの高さまで手足形が並べられ展示されている。近代医療導入以前(いや現在に至るまでというべきかも知れないが)の日本では、手足の病気やけが・障害に際し、その治癒を神仏への祈願により実現しようとする伝統があった。奉納物を納めて治癒を祈願し、あるいは治癒すれば奉納物を納める。三方石観世音の場合、その両方向により、現在に至る奉納物の集積が形作られている。納められた手形・足形を持ち帰り、日常的に身近に置いて、手形(あるいは足形)の自身の患部に相当する部分をなでさすり治癒を祈念する。治癒すれば、新たに自ら制作した手形(あるいは足形)を添えて、持ち帰った手形(あるいは足形)をお返しする。その集積が、何度かの水害を超えて、現在まで保たれているのである。そこにあるのは、その地をその時代を生きた人々の障害治癒への期待の集積である。そして、その手形・足形の造形的魅力。見る者は、その両者に出会い、圧倒される。そこに積み上げられた手形・足形は、「人の手」、「人の足」を「形」としたものである。しかし、同時に、人々は、その手形・足形を「なでさすり」ながら、そこに「神の手」を感じていたようにも見える。神の手でもあるかも知れない手形・足形を、心を込めて「なでさする」ことで御利益としての治癒がもたらされる。人々の心情としては、そのような構図として理解し得るようにも感じられる。

 

 そしてアトリウム左側の展示室2にあるのは、武蔵野美術大学が所蔵する民俗資料コレクション(今回は様々な道具)を中心にした展示である(その前段階で、手形・足形造形の海外の事例、文楽人形と阿波の木偶箱まわし人形の手の機構を示した展示、様々な手袋にちなむ展示等があり、展示の最後には21世紀のオートメイルならぬ筋電義手がある)。この展示室で神野先生が展開するのは、収蔵されている様々な道具を、手の働きとの関連で分類する試みである。手とは何であるのかを、哺乳類の骨格標本から考察し、彫刻科の学生に制作させたペンフィールドのホムンクルス像から手と脳の関係を理解し、その上で、手の機能として、つかむ、たたく、すくう、かく・つる、はく・はらう、する・こする、すく・ふるう、あおる・ひる、たもつ、しめす、さぐるといった分類項目にまとめ、道具と関連付ける(「しめす」の展示中には、「招く」動作をする「招き猫」があったりする―まさに「猫の手」の展示である)。

 

 

 ・・・と、とりあえず展示を概観・紹介したが、今回の記事では、更に先へ進んでみようと思う。

 

 展示関連で、阿波の木偶箱まわし人形の公演があり、ゲストとの対談企画が二つあった。対談企画の一つにインスパイアされての更なる前進である。

 

 9月14日に開催されたのが、木下直之氏との対談企画であった。時間枠を気にしながら話を進める木下氏と、時間枠を(あまり)気にしようとしない神野先生という、どっちがゲストなのかわからいような対談の進行は、ライブならではの面白さであったが、ここでまず取り上げるのは木下氏の紹介した事例である。

 

 スライド画像で木下氏が紹介したのが、明治期に刊行された義肢を装着した傷痍軍人写真集と、第二次大戦期にイームズがデザインしたレッグ・スプリントであった。

 前者は、大日本帝國の戦争に際し招集され、手や足を失った帝國軍人・兵士と、彼らに下賜された義肢の写真集である。写真は、傷痍軍人一人に三種撮影され、それぞれ、義肢装着前の手足が失われた状態(浴衣スタイルの白衣着用)、そこに義肢を装着した状態(浴衣スタイルの白衣着用)、そして義肢を装着し軍服を着用した状態となっている。明治期の義肢が皇室による下賜品として存在し、下賜された軍人が再び義肢を装着し軍服を着用する姿が撮影される。現在のところ、この写真集の配布範囲はわからないが、日本の近代の中での戦争と皇室と傷痍軍人の関係を考える上で、この写真集の構成は興味深い。

 

 

 イームズ・デザインのレッグ・スプリントであるが、そもそもそれは何なのか? あらためて帰宅後に検索してみると、「レッグ・スプリント」は1942年にデザインされ、実際に成形合板製品として製造されたことがわかった。イームズによる成形合板の椅子は有名だが、それに先立つプロダクトとして、この「レッグ・スプリント」が存在しているのであった(私が知らなかっただけで、デザインを志す者にとっては、教科書的知識の範疇なのかも知れない)。

 「leg splint eams」で検索をすればイームズのサイトにつながり、イームズ・デザインの歴史的文脈が語られる中に、レッグ・スプリントが登場する。また、別のストア・サイトでは、大戦当時のレッグ・スプリントの実物を購入することも可能である(10万円超えるくらいの売値であった→ https://gee-life.stores.jp/items/5a2a239dc8f22c27bd002b56)。ストア・サイトの説明からの抜き書きを示す。

 

  チャールズ&レイ・イームズの最初のプロダクト品レッグスプリントです。アメリカ海軍の依頼で作製されたこちらは負傷した兵士の足の添え木として使われていました。しかしその造形美から今では芸術品として高く評価されています。

 

 要するに、成形合板による「負傷した兵士の足の添え木」なのである。イームズのサイトによれば(https://www.eamesoffice.com/blog/eames-molded-splints/)、イームズの友人であったエンデル・スコット医師からの相談が発端だったらしい。1942年当時は、「負傷した兵士の足の添木」としては金属製品が用いられていたのだが、金属製品は負傷兵搬送時に振動を増幅し、患部固定のための「添木」としては不向きなものであった。素材として成形合板は、患部を固定すると同時に搬送時の振動を吸収することに有効であり、結果としてイームズのレッグ・スプリントは、大戦中に15万個も製造されることとなったという。

 「添木(副木とも)」は、義肢とは異なるものではあるが、戦場における負傷した兵士のケアの最初の段階に必須の医療用具であることも確かだ。イームズがそのデザイン・製造に関わっていたとのエピソードである。戦時期の米国では、成形合板の製造技術が(レッグ・スプリント製造を通して、ということか?)確立され、工業製品として大量生産され、それが最前線での負傷兵のケアに役立っていた。そこを押さえておきたい。

 

 

 さて、再び大日本帝國の傷痍軍人である。

 「先の大戦」をめぐる戦後の言説の中で、傷痍軍人は周辺的話題として扱われてきたように思われる。しかし、戦争を遂行する大日本帝國にとって、帝國の戦争が生み出す傷痍軍人は、見て見ぬふりをして済まされるような存在ではなく、帝國が十分にケアをするべき存在であり、帝國による十二分なケアが保証されていることを社会に周知させるべき存在であった。戦争をすれば、戦病・戦傷・戦死する軍人兵士は必ず発生する。特に近代の戦争では、兵器の破壊力は増大し、負傷の程度も深刻なものとなる。手元にある『The Face of Mercy』と題された、戦場における医療の歴史を扱った写真集を見ると、ローマ時代から近代に至るまで、戦傷とは基本的には切り傷と刺し傷と打ち傷であったことがわかる。もちろん、それだけでも避けらるべきものではあるが、戦場で用いられる兵器の火薬・爆薬が、爆発力の小さな黒色火薬であった世界から、19世紀後半に至り爆発力の大きなダイナマイト・TNT等が主力となる世界へと変化することにより、戦傷の悲惨さも増大した。

 手足を吹き飛ばされ、顔貌も変形した兵士達。それが日常的な存在となる。彼らに対する十分なケアの提供をアピールすることは、更なる戦争を遂行し、更なる動員を続ける上で不可欠な国家的課題となるのである。

 

 「傷痍軍人 写真週報」で検索すると、アジア歴史資料センターのサイトがヒットする。当時の国策情報誌であった『寫眞週報(写真週報)』のページには、傷痍軍人を取り扱った記事が少ないものではないことがわかるはずだ(→ https://www.jacar.go.jp/shuhou/shiryo/shiryo02.html → https://www.jacar.go.jp/shuhou/shiryo/shiryo05.html )

 

 ここでは昭和14(1939)年と昭和17(1942)年の『寫眞週報』記事タイトルから、傷痍軍人を取り扱ったものを太字で示してみよう(関連した内容を含む)。昭和14年は、支那事変の2年目であるが対米英戦争に至る前の段階であり、昭和17年は、前年12月8日の真珠湾攻撃以来の対米英戦争での戦勝気分が続いていた時期ということになる。

 

 

  第53号 ( 昭和14年(1939年)2月22日 )
 三河の新天地 白系露人の集団部落
 仮包帯も弾の中 野戦病院
 戦場に散った花

 国策料理 鯨 鰯 兎
 海外通信 アルプスの雪中演習 ドイツ陸軍
 読者のカメラ


  第54号 ( 昭和14年(1939年)3月1日 )
 満州国建国七周年
 姑娘は風を切って
 春は太倉にも
 わが鉄腕鉄脚部隊
 白衣と桃のお節句
 海外通信
 読者のカメラ


  第84号 ( 昭和14年(1939年)9月27日 )
 いで湯に癒す 傷痍軍人白濱温泉療養所
 鉄腕に振るふハンマー 傷痍軍人大阪職業補導所

 坊や、お母さんは先生よ 未亡人のための特設教員養成所訪問記
 おぢさん ありがたう
 勇士よ銃後は大丈夫 農村の妻女より
 遥かなる祈り 芹沢光治良
 読者のカメラ


  第232号 ( 昭和17年(1942年)8月5日 )
 噫々軍神 加藤建夫少将
 双葉より神鷲の面影 軍神の遺品
 使命果した廣田特派大使
 セレター軍港今や全し 昭南島
 囚人部落も日の丸に協力 フィリピン・パラワン島
 配給の煙草に歓呼わく ボルネオ・サマリンダの町
 片足で踏み登る一万二千尺 東京府下傷痍軍人の国威宣揚富士登山
 防空待避所の作り方
 壮丁に金槌あるべからず 埼玉県秩父町在郷軍人分会の壮丁者水泳講習会
 ザリガニ殲滅戦 東京市葛飾区
 白衣勇士を慰める祇園囃子
 銃後のカメラ


  第235号 ( 昭和17年(1942年)8月26日 )
 米州からの交換船昭南島に安着
 俘虜も御奉仕昭南神社の御造営
 帝国海軍ここにも作戦を展開 支那方面艦隊の温州封鎖
 わが潜水艦見事 敵輸送船を撃沈
 タイ国の幼稚園
 働きながら療養できる 傷痍軍人奉公財団山梨作業所
 九月の常会
 大学生のお医者さん 山村僻地を往診 埼玉県秩父
 樺太オタスのよいこども
 銃後のカメラ


  第240号 ( 昭和17年(1942年)9月30日 )
 新中国へ 答訪使節 晴れの首途
 軍人援護強化運動 十月三日-八日 再起を夢みて傷も忘れた昨日今日 千葉県傷痍軍人下総療養所
 夫の遺志をつぎ 明日への希望を胸に秘めて 軍人遺族東京職業補導所
 兵隊さん有難う 愛知県八幡町第一国民学校
 新生ジャワは我らの手で
 満州国皇帝陛下建国忠霊廟に御親拝
 満州国建国十周年式典 新京
 町から里へ 救援案山子隊
 銃後のカメラ


  第243号 ( 昭和17年(1942年)10月21日 )
 シドニー湾強襲の特別攻撃隊英霊祖国に還る
 ソロモン群島を鼻の先に ラバウルの我が基地悠々
 ジャワを南の楽園に
 兵隊さんと二人三脚 傷痍軍人練成大運動会 東京
 まづ白衣勇士の食膳に 外堀でとれた鯉一千尾 東京

 二十分間に六十九メートル 縄なひ競技大会
 さんま網大増産 茨城県
 独仏俘虜交換協定 フランス
 薬用けしの増産

 

 

 傷痍軍人が世間から「隠された存在」(あるいは隠されるべき存在)などではなく、国家により手厚く保護され賞賛されるべき存在として取り扱われていた事実が伝わるはずだ。国策広報誌(昭和14年段階では内閣情報部編輯、昭和17年では情報局編輯)に、傷痍軍人は繰り返し登場していたのである。

 これらの記事の中でも、「わが鉄腕鉄脚部隊」、「鉄腕に振るふハンマー 傷痍軍人大阪職業補導所」、「片足で踏み登る一万二千尺 東京府下傷痍軍人の国威宣揚富士登山」、「働きながら療養できる 傷痍軍人奉公財団山梨作業所」、「軍人援護強化運動 十月三日-八日 再起を夢みて傷も忘れた昨日今日 千葉県傷痍軍人下総療養所」といったタイトルが示しているのは、義肢を装着することで能力を回復し、前線への復帰は叶わぬにしても生産の現場で再び国家に奉公することが期待される、生産性のある傷痍軍人の位置付けである。

 

 ここで国家による義肢の支給について、その歴史的経緯を、まず「しょうけいかん(戦傷病者史料館)」(木下氏も、しょうけいかんの展示を紹介していた)による企画展示解説資料(平成26年度 夏企画展)によって確認してみたい。

  
  戦傷病者に対して、恩賞制度の一環として各種の義肢が支給され、審美的な装飾義肢から実用的な作業用義肢へと変化していきました。
  明治10(1877)年の西南戦争で、大阪陸軍臨時病院がオランダ製の義肢を手渡したのが義肢支給の始まりです。明治27(1984)年の日清戦争以降は、昭憲皇后の御沙汰により恩賜の義肢が下賜されました。明治37(1904)年の日露戦争時には、廃兵院の設置や失明軍人の盲学校開設など、社会復帰のための施策が拡充されます。大正末期から昭和初期には審美的な装飾義肢の他に、社会復帰を前提とした実用性重視の作業用義肢が支給されました。日常生活から各種の職業、用途別に様々な作業用義肢が製作され、各人の適性と、義肢の特性を踏まえて職業を選択しました。辛いリハビリテーションと、慣れない義肢での職業訓練に耐え、社会復帰を目指したのです。

 
  (日清戦争時の)戦傷者のほとんどは銃創、砲創、刀傷、火傷などですが、特に凍傷患者の多くは、手足の切断を余儀なくされたのです。
  昭憲皇后は深くお心を痛められ「軍事に関して手足を切断したる者は、軍人と否とを問わず、彼我の別なく、人工手足を」との御沙汰があり、皇后陛下の御手元金から義手、義足、義眼が製作され、敵味方の区別無く下賜される運びとなったのです。
  陸軍においては、義手31名、義足90名、義眼10名の合計131名(うち捕虜9名を含む)海軍でも義手7名、義足5名、義眼4名がその恩恵に浴しました。

 
  日露戦争(1904)時には、それまでの小銃での撃ち合いを主とする戦闘から、大砲による長距離からの砲撃戦へと、兵器やその運用は大きく変貌しています。
  兵器の発達によって、受傷の様子も変化することとなります。
  医学面でも広島予備病院へのX線装置の導入など確実に進歩を遂げており、戦傷病者に対する様々な治療法と共に、戦傷病者の本格的な社会復帰のための施策が始まります。

 

 この日露戦争時に廃兵院の設置、失明軍人対象の盲学校の開設といった施策がとられる。注目しておきたいのは、

 

  陸軍大将乃木希典の自らの開発による、世界で初めてとなる画期的な作業用能動義手である「乃木式義手」もこの時期に完成しています。

 

という、作業用義手の登場と、それが「世界で初めて」と位置付けられ、しかも乃木大将がそこに関与していたとのエピソードであろうか。

 

  大正末期から昭和初期になりますと、それまでの「なるべく生まれた時の姿に近いように」外観を重視した審美的な恩賜の義肢に象徴される「装飾用義手」の他に「社会復帰を前提とした」実用性重視の「作業用義肢」が支給されてゆきます。
  昭和17(1942)年には、戦争の激化に伴って増加する戦傷病者に対応するため、義肢の研究費が大きく増額されます。
  材料本廠全体の研究費200,000円(現在の約20億円に相当する)に対して、義肢の研究費は、その1割に当たる20,000円(約2億円相当)が計上されていました。
  昭和15(1940)年度の研究では、装飾用義手に作業用義手の機能をも持たせると言う現在の義手製作の基本にも通じる命題がありました。装飾用の手掌を外すと作業用義手が現れるという仕掛けで完成し、実際に支給されております。

 

 この作業用義手の持つ意味については、上田早記子氏の「傷痍軍人福岡職業補導所における職業再教育」(2014)がわかりやすい。

 

   傷痍軍人は明治の頃は、「廃兵」と呼ばれた。当時は「廃」という言葉からもわかるように「廃れた」、「使えない」兵士として扱われた。しかし、国のために戦争に出兵し傷病を負った戦傷病者に対して国が何の対応もしないことは、戦傷病者の家族などからの不満を生み、新たに兵士になる者の不安を仰ぎ、国を不安定にすることになりかねなかった。そのため、傷病または死亡した場合など一部を対象に、本人またはその遺族に安定した生活を保障するために恩給制度が始まった。他にも廃兵院と呼ばれる入所施設も建てられた。1937年に日中戦争が起き、その後第二次世界大戦に突入する中で、「国家総動員法」が成立した。そして、戦争による労働力不足を補うため強制的に国民を徴用し生産に従事させる「国民徴用令」が発布された。このような時代背景の中、傷痍軍人であっても年金により生活を安定させるのではなく、再度立ち上がる、いわゆる再起奉公として生産に従事できるようになることが求められた。求めたばかりではなく、職業訓練や職業斡旋など職業保護が政府によって打ち出され、急速に発展していった。

 

 近代総力戦状況の中で、「傷痍軍人であっても年金により生活を安定させるのではなく、再度立ち上がる、いわゆる再起奉公として生産に従事できるようになることが求められた」のである。国家の施策として作業用義手の開発研究費も増額され、作業用義手を装着しての職業訓練施設も用意され、職業斡旋にも積極的な姿勢が示されたというのである。傷痍軍人達にも、実際に生産労働に従事することが求められたのである。

 先に紹介した『寫眞週報』の記事もまた、そのような時代背景の中で、作業用義肢を装着し、生産労働に意欲を示す傷痍軍人の姿を強調しようとするものであった。
 
 いずれにせよ、ここでは傷痍軍人は生産労働の第一線を担うべき存在として位置付けられ、政府広報誌に取り上げられているのである。戦時日本の風景の中に、傷痍軍人は可視化され、少なくとも建前としては敬意を以て取り扱われるべき存在であった。障害者であっても、生産労働に積極的に従事しようとする存在として、国家に顕彰されるのが傷痍軍人なのである。その一方で、障害と共に生まれた人々は、生産と無縁な存在として差別の対象であり続けたのである。傷痍軍人は国家により積極的に包摂され、同じ国家が、生産労働を担えない障害者を社会から排除する。

 

 「生産」という語には、平成の末期の用語法からのアプローチも重要であろう。「LGBTには生産性がない」という「保守」政治家の、あの用語法である。世代の再生産という問題である。傷痍軍人達にとっては、それは自身の「結婚」の問題であった。高安桃子氏の「戦時下における傷痍軍人結婚保護問題―傷痍軍人とその妻に求められていたもの」(2009)はその「問題」を論じたものだ。

 

  福祉施策の未整備から、多くの障害者は困窮した生活を強いられていたことに加え、戦時体制のもとでは「出征して国に貢献することができない存在」という烙印を捺され、肩身の狭い思いをさせられていた。その上さらに1941年の「国民優生法」施行により、「障害者は生まれてはいけない存在」という、現に生きている障害者の生存の否定につながるような時代の空気にさらされることとなったのである。

 

 これが「障害者一般」が戦時期に直面させられた状況であったが、

 

  このような差別の対象である一般障害者と、国のために戦い、尊敬の対象とされるべき傷痍軍人とが、障害を持っているという点で世間から同一視されることを、国家は阻止しなければならなかった。

 

 戦時期において「障害者一般」は、「出征して国に貢献することができない存在」であることが強調され、傷痍軍人との差別化が進行した。傷痍軍人は既に「出征して国に貢献した存在」であり、更に作業用義手を装着して生産労働に従事する存在として、より差別化は進行する。それに加えて、「障害者一般」とは差別化されるべき傷痍軍人の結婚が問題となる。

 

  傷痍軍人と一般障害者とを、異なった存在であると説明する方略としては、傷痍軍人の障害は戦争に起因するものであり、遺伝しない障害であるという説明の仕方がとられた。

 

 世代の再生産という文脈(平成末期の保守言説の文脈でもある)から、「遺伝」を理由に一般障害者が排除されると同時に、傷痍軍人の障害が「遺伝しない障害」であることが強調されたのである。

 男性として社会的認知を受けるためには、生産労働を担うだけでは不十分であり、「妻を娶る」ことのできる存在として社会から見做される必要があった。見做される(それは建前に過ぎない)だけではなく、現実に自身が結婚していることが、当事者としての傷痍軍人達にも望ましいこととして考えられていたであろう(当時の社会通念の中では、男は結婚して一人前、なのである)。しかし、実際にはハードルは高い。「生産労働を担う」といっても、障害者としての傷痍軍人の労働は結婚生活を支えるだけの収入に結びつくとは限らない。職業生活にとどまらず、家庭での日常生活もまた、現実的には障害者としての様々な不便の中での生活であり、それを支えることも妻には求められる。

 当時の結婚斡旋をめぐる言説を読むと、妻にも職業生活が期待されていたことがわかる。すなわち、現実の問題として、傷痍軍人=障害者としての夫の収入に依存することの困難があり、妻にも収入源を持つこと=収入に結びつく職業を持つことが期待されていた。

 

  また、結婚により傷痍軍人を絶望から救い上げることは、出征できない女性にとっての国家貢献であるとされた。傷痍軍人の花嫁を養成する機関では、生計を担うための職業的能力を養成することが目指された。これは夫婦の中で妻が生計を担うという、当時のジェンダー規範が逆転した現象であり、傷痍軍人の妻に求められていた特有の役割であるといえる。妻は介護力としても期待され、夫の「再起奉公」を助けるという傷痍軍人の妻ゆえの役割が求められた。その結婚生活は苦労が前提とされ、その生活に踏み込むためには、女性にとって大きな覚悟が必要であった。

 

 傷痍軍人の妻には、生計を担うための職業生活が期待され、同時に障害者としての傷痍軍人の介助・介護者としての役割もが求められたのである。

 傷痍軍人の花嫁となるべき若い女性への国家からの期待がある一方で、世間の目は醒めたものであった。高安氏は、昭和18(1943)年の大政翼賛会による「健民運動資料 第三輯 七、軍事援護二関スル調査報告書」から、当時の実際の世間の反応を例示している。傷痍軍人結構相談所開設の理由について、

 

  コノ相談所ノ開設セラレタル県ニシテ、コレニ関心ヲ持ツ者極メテ少ク、係ノ異ル役向ノ人ハ全クコレニ関与セズ。一般民衆モ殆ンド無関心ナリ。甚シキ場合トシテハ傷痍軍人二嫁ガントスル娘ヲ軽蔑スル風潮サヘアリテ、本事業ノ進行ヲ妨グルコト少カラズ。

 

このように記されているという。これが昭和18年(既に対米英戦2年目である)の、世間の目の現実であった。国家による可視化の一方で、世間(一般民衆)は見て見ぬふり(しかも、ただ「無関心」なだけでなく「軽蔑スル風潮サヘアリ」)だったのである。

 

 軍人であることの期待に応えるという意味において、傷痍軍人は、その役割を十分に果たした人々である。男性として、名誉の負傷は讃えられるべき勲功である。しかし、傷痍軍人として生きることは、障害を負って生き続けねばならぬことを意味する。

 戦時期の日本では、それでも傷痍軍人の存在は可視化され、国家の保護施策の対象であった。戦後は、人々にとって、可能であれば目にすることを避けたい存在として取り扱われてきたように見える。であるからこそ、戦時期の国策広報誌の中に可視化された存在として現れる傷痍軍人の姿を見ることが、意外性を伴う経験となるのであろう。

 今回の出発点となったのは、「手のかたち・手のちから」の展示会場であった(そこには、少なくとも当面は傷痍軍人を生み出すことがないであろうことが期待される現代日本の技術を結集した、筋電義手の展示もあった)。三方石観世音では、観世音の持つ治癒力が人々を引きつけた。手や足、あるいは視力を失った傷痍軍人には、「治癒」あるいは「快復」という時が訪れることはない。戦時期の(そして戦後の)日本において、それが傷痍軍人として生きることとなった人々の経験であった。その事実の持つ意味を深く見つめる機会としておきたいと思う。
 

 

 

【蛇の足】
 神野先生による武蔵野美術大学美術館での展示企画については、以前にも取り上げたことがある。

  「近現代史の中の蚊(あるいはモスキート) 」(2011年)参照

 そこでも、展示企画そのものについてというよりは、展示にインスパイアされての私の脳内反応を記すものとなっていた。神野先生の果てなき好奇心を(思うがままに、と言いたいところだが、とりあえず予算の許す限り、であろう)展開したような展示空間が、私の脳内にもたらした作用の記録である。今回も、あの展示会場での経験が、傷痍軍人の義肢へと展開するのには我ながら驚かされた。これもまた、ある種の「神の手」のもたらす経験かも知れない。
 そういえば、木下氏との対談の場では、神野先生は杖をついていらした。足を傷めたらしい。展示期間の最後に、自ら三方石観世音の御利益を経験しようというのであろうか? 民俗学者とは、そこまで突き進んでしまうような存在なのであろうか?

 

 

 

 

 

 

 

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