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2019年8月23日 (金)

溶鉱炉の火は赫々と燃えているが(戦時木造船の周辺 2)

 

 前回記事では「撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺)」と題して、昭和18(1943)年当時の官製国策情報誌である『週報』及び『寫眞週報』(どちらも情報局編輯)の記事から、戦時期の都下小平地域の軍需調達(具体的には青梅街道の欅並木伐採)を扱った「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」の補足情報を紹介した。

 総力戦状況下での深刻な物資不足状況が伝わる記事であったが、今回は同年の『アサヒグラフ』を取り上げる。

 

 

 大東亜戦争(いわゆる太平洋戦争、アジア太平洋戦争、あるいは第二次世界大戦の日本政府による公式名称である)初期においては、大日本帝國は広大な占領地域を確かに手にした。しかし、本土と占領地間の物資及び人員の補給を担うべき海上の船舶不足はすぐに深刻となった。そもそも日本海軍には輸送船団護衛の余力(発想自体というべきか)はなく、護衛を欠いた輸送船団に対する攻撃(海面下の米海軍潜水艦は脅威であった)により失われた船舶を補充するには、鋼材不足は決定的であった。既に支那事変(対中戦争)段階から、重要な軍需物資である鋼材は(石油と共に)米国からの輸入に多くを依存していたのである。支那事変の拡大は、米国からの鉄材(及び石油)輸入の途絶をもたらし、その打開策として対米戦争を選択したのである。前回記事で紹介した三井昭二氏の評にある通りで、まさに、

 

 資源が無いために開戦し、資源が無いために敗戦した

 

というしかない状況であった。

 船舶需給の危機的逼迫により、まず構造の規格化・簡易化による鋼船(戦時標準船)建造計画が進められ、しかしすぐに鋼材不足の深刻化から木造船建造へと事態は進展した(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」参照)。

  木造船建造用木材の供出の一環として、小平地域では青梅街道の欅並木の伐採が起きたのである(同記事中では、『寫眞週報』第263号―木材供出のための岡山県での神社の御神木の伐採事例等が掲載されている―も画像で紹介してある)。

 さらに昭和18年10月27日の『週報』(第367号)、そして『寫眞週報』の270号(昭和18年5月5日)掲載された関連記事を紹介したのが、前回の「撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺)」ということになる。

 

 

 今回取り上げるのは、日本を代表するグラフ雑誌であろう『アサヒグラフ』の第四十巻・第十三號(昭和18年3月31日)である(表紙には「大東亞戰争第六十五報」の文字がある)。同時期の米国を代表するグラフ雑誌の『ライフ』に比較すると、判型はほぼ同サイズだが紙質・印刷は劣り、ページ数も少ない(『アサヒグラフ』は表紙・裏表紙を含め20ページであるのに対し、『ライフ』は表紙・裏表紙抜きでも100ページある)。民間グラフ雑誌を手にするだけで、両国間の国力の差は明らかである(下の画像は、わが情報局の国策広報誌『週報』、やはり情報局の国策グラフ誌『寫眞週報』、民間グラフ誌を代表する『アサヒグラフ』、そして暴戻なる米国の民間グラフ雑誌『ライフ』を並べてみたところ―『週報』と『寫眞週報』については前回記事で取り上げてある)。

 

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 昭和18年3月31日の『アサヒグラフ』の10~11ページは「木造船は征く」と題された、木造船についての記事である(漢字は新字体、カナは旧仮名遣ひによる―オリジナルの横書きのキャプションは右から左へ書かれている)。

 

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    木造船は征く
 カーン、カーン、早春の明るい陽差しを受けた河面に樫の楔を打ち込む音が澄んだ空に流れてゆく。ここは○○木造造船所。ヨイショエイコラと船大工さん達の掛声も勇ましく、戦闘帽を冠つた造船戦士は『さあやらうぜ』と張り切つた掛声に、鉋を削る音も快い。『秋田おばこが、雪の中を馬橇で運び出してくれた船材だ、なんて素晴らしい木理だらう』と感嘆する供木こそ、木材応召の愛国至情に燃えて、祖先の築いた美林や、由緒ある松並木を、英米撃滅の決戦場に雄雄しく出陣させた赤誠溢れる尊い木材なのである。
 働く大工さん達も、太平洋の怒濤を突切る気負に溢れ、一本の釘にも、精魂を傾け、立派な船を造るぞと情熱をこめた手練の妙技で、巨大な龍骨が組み立てられたと思ふ間に、白い筋骨隆々たる男性の逞しさを思はせる龍骨美は忽ち消えて、板が張られ、帆柱が立つて木造船は竣工する。やがて硝煙漂ふ太平洋の彼方へ、颯爽と日の丸の旗を飜して雄々しくも征く。
 全生命を打ち込んだ戦士達は、『しつかりやつて来い』と晴れの船出を見送り。進水した後には早くも船台が据ゑられて、戦ひに勝つため木造船はあとからあとからと建造されてゐる。
(写真キャプション)
 樹齢三百年にも余る巨木が続々造船所へ、嘗ては街道を飾つた松並木、深山の檜も、木造資材として、鋸にひかれる
 鑿の音、鉋を削る造船交響楽に巨大なマンモスの肋骨を思はせる龍骨が組み立てられその用途に別れて船材となる
 木船が続々と建造され、龍骨を組み立てた隣には、早くも進水を待つ船が内部の完成を急ぎ、戦場のやうな忙しさだ
 木の肌もくつきりと、船の生命龍骨は、強靱な骨格を見せて春陽を浴びてゐる
 板が張られて完成に近い船は美しく塗られ船尾は米英の弾丸なんか蹴飛ばせと声を振つて精魂こめて仕上げをする
 船体が出来上がると最後に船内を造る 輸送の大任を果す大事な船艙だ 造船に敢闘する人々の手は思はず弾み緊張する
 見事に木船は完成した 大東亜の洋上へ船出する日に備へ船体には美しく鮮かな日の丸が描かれて晴れの日を待つ

 

 順調な木造船建造の進捗を伝える(ための)記事であろう。ここにも、「秋田おばこが、雪の中を馬橇で運び出してくれた船材」、「樹齢三百年にも余る巨木が続々造船所へ、嘗ては街道を飾つた松並木、深山の檜も、木造資材として、鋸にひかれる」などの記述があり、木造船建造に先立つ木材供出の現場の状況が記されている。

 

 

 この記事だけを読めば、順調な木造船建造による戦局打開への期待も抱けるかもしれないが、しかし、昭和18年3月31日の『アサヒグラフ』の巻頭記事の表紙に記されたタイトルは「日本の鐵鋼、逞しく増産」なのである。それが現実のものとなっていれば、そもそも戦時標準戦建造計画において安全面を犠牲にしての増船政策を採る必要もなければ、ましてや木造船建造に頼る必要などないのである。「嘗ては街道を飾つた松並木、深山の檜も、木造資材として、鋸にひかれる」必要などないのだ。先にも示したように、中国大陸での軍事行動の拡大(支那事変)、加えて東南アジア地域への軍事的進出(南北仏印進駐)により、大日本帝國の軍事行動を支えていた鉄鋼材や石油が入手困難(どちらも米国が供給源)になり、その果ての対米英開戦なのである。その点を踏まえた上で、「日本の鐵鋼、逞しく増産」も読んでおきたい。記事本文でのタイトルは「日本の鐵鋼」である。まず表紙を開いて左ページ全面から記事は始まる(ページ数としては3と表記―表紙が1ページに相当し、2ページに相当する右ページは表紙裏の広告。キャッチコピーとして用いられている「俺は還らぬ」には唖然とさせられるしかない―熟練を要するパイロットの命を粗末に扱うことを誇るような文言に酔いしれるようでは総力戦での勝利はないだろう。パイロットの命を使い捨て扱いするのではなく、生かし続け使い回し続けることでこそ、そこに価値を置くことでこそ、勝利は得られる)。

 

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  日本の鐵鋼
 祖宗の神霊まことに上にあり、日本民族が皇国三千年の興廃を賭け、挑まれたる戦ひに断乎起ち上れる時、その時こそは凡ゆる不可能事を可能ならしめる不抜の闘志と不撓の創意と不屈の努力の油然としてわき上るを我等は堅く信じてこれを疑はぬ。
 わが製鉄の事業に於てこれを歴然と見るのである。
 想定の敵国たる獣鬼アメリカに超重要産業たる鉄鋼生産の一切を依存せる時代はまさに僅々二年余の過去に過ぎなかつた。識者をして薄氷を踏むの感を抱かしめてゐたが、果然昭和十五年十二月、暴戻なるアメリカは鉱石、銑鉄、鋼材の全面的輸出禁止をもつて我を脅かすに至つたのである。
 みどり児の幼き手を捩ぢり上げる底の思ひ上がりを以つて、われ屈服すべしと考へたアメリカの増上慢に、痛切苛烈の一矢を酬いたものは実に鉄鋼の自給□□(二字不明)の増産とである。指導者の熱意と、産業戦士諸君の挺身と国民の至情とによつて、今や完全なる皇国日本の鉄鋼たり得たのだ。
 見よ、溶鉱炉の火は赫々と燃え、灼熱する高炉は続々と明日の国防資材を充足するための鋼材を生み出しつつあるのだ。
   〇〇製鉄所にて
   鈴木・富重両特派員撮影
   (写真は陸軍省検閲済)
(写真キャプション)
 (上)岸壁に横づけされた船舶から鉄鉱石は起重機によつて続々荷揚げされる (下)溶鉱炉から出る溶銑は見事な火の瀧となり、鋳床の樋を流れて溶銑鍋へ

 

 現在では「反日」の代名詞のような扱いを受ける朝日新聞社だが、ここでは「祖宗の神霊まことに上にあり、日本民族が皇国三千年の興廃を賭け、挑まれたる戦ひに断乎起ち上れる時、その時こそは凡ゆる不可能事を可能ならしめる不抜の闘志と不撓の創意と不屈の努力の油然としてわき上るを我等は堅く信じてこれを疑はぬ」と戦時日本の精神万能主義的神がかり気分を昂揚させ、「想定の敵国たる獣鬼アメリカ」、「暴戻なるアメリカ」、そして「アメリカの増上慢」と米国罵倒に力が込められるところを深く味わっておきたい。もっとも、「反米」は今に至る伝統なのかもしれないが。

 いずれにせよ、「見よ、溶鉱炉の火は赫々と燃え、灼熱する高炉は続々と明日の国防資材を充足するための鋼材を生み出しつつあるのだ」と自慢する数ページ先では、「木材応召の愛国至情に燃えて、祖先の築いた美林や、由緒ある松並木を、英米撃滅の決戦場に雄雄しく出陣させた赤誠溢れる尊い木材」が讃えられるのである。「溶鉱炉の火は赫々と燃え、灼熱する高炉は続々と明日の国防資材を充足するための鋼材を生み出しつつある」のが現実であれば、「祖先の築いた美林や、由緒ある松並木」にまで手を出す必要はなかろう。しかも、その「尊い木材」による増船政策としての「木船建造緊急方策要綱」(1943年1月の閣議決定)にしても、吉川由美子氏によれば、「木造船はあくまで鋼船の補完的役割を期待されたが、鋼船と同様、戦時標準型が決められ大量生産がおこなわれた。しかし、急な大量生産のため浸水するものが続発し、木造船建造の目標は烏有に帰した」(「アジア・太平洋戦争中の日本の海上輸送力増強策」 2004)のであった。

 

 再び「アサヒグラフ」記事を読もう。続く4~5ページは写真とキャプションだけで構成されている。

 手元にある『ライフ』誌の一冊(1943年8月9日号)には、「WOMEN IN STEEL」と題されたマーガレット・バーク=ホワイト撮影による記事が掲載されている(今回の記事の最後に「追加参考画像」として紹介してある)。『アサヒグラフ』には女性労働者は登場しないが、『ライフ』は製鉄所の現場で活躍する女性労働者に焦点を当て、特集記事としているのである。当ブログでは既に「フォードの爆撃機、あるいはロージーのリベレーター」として米国の戦時女性動員について取り上げているが、この『ライフ』記事でも、製鉄所のハードな現場労働の第一線を担う女性達の姿が紹介されている。『アサヒグラフ』でも『ライフ』でも、製鉄所内の特徴的な光景(重厚長大産業の代表としての大規模な設備群-重量・巨大さ・広大さ・高熱といった条件)は等しく取り上げられており、『アサヒグラフ』のカメラマンの技量の確かさも誌面から伝わる(ただし、残念ながら、紙の質、印刷の質において『ライフ』に大きく見劣りする)。

 

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(写真キャプション)
 溶けた銑鉄は更に精錬の鋼鉄となるために起重機によつて平炉に漉きこまれる
 平炉から出る鋼鉄の熱湯はこれを鍋にとり 起重機に吊つて鋳型に流し込む。この鋳型で出来たものを鋼塊といふ
 溶鉱炉内に溜つた溶滓は出銑時の合間に出滓口を開いて取り出さねばならない
 鋳型から抜いた鋼塊灼熱したまま台車の上に載せて分塊工場に運搬される
 鋼塊はその用途によつてまた圧延される。これは厚板に圧延される一工程だ 厚板になつた製品は工場内に積まれ艦船用・汽罐用鋼板となつて戦ひに出る
 出来上がつた鋼鉄資材 ああこれこそ日本の鋼だ
     (4~5ページ)

 

 「厚板になつた製品は工場内に積まれ艦船用・汽罐用鋼板となつて戦ひに出る」ことへの期待は大きいものであったはずだ。しかし、造船の現場で建造されたのは、安全性を軽視した簡易構造の、いわゆる戦時標準船であった。

 

  この徹底した簡易構造の中でもその際たるものは船舶の安全の基本に関わる二重底の廃止であった。二重底とは船底を二重構造に組み上げ、船舶が座礁などしたときに船底の決定的な破損を少しでも軽減し沈没の危機から救うこと、また船体の強度を高めるための基本的な構造として採用されている、船舶の構造上必要不可欠なものである。
  二重底の組み立てはその船が起工され船台上で工事が始まった直後から開始される最重要の工程で、確かに多くの鋼材と多くの作業を要する複雑な工程である。この複雑な工程を排除することは船の建造のスピードアップには確かに極めて効果の大きなものであるが、その反面、船の安全性を根底から否定することでもあり、特に用船者側から見れば信じられない暴挙であった。
  二重底の撤廃に対しては航海の安全が保証されず、任務の遂行も保証できないとして各海運会社等からは、設計主務者である海軍艦政本部に対し厳しい批判と苦言が呈された。しかし艦政本部はこれら全ての批判や苦言を黙殺し二重底撤廃を強行したのである。つまり第二次戦時標準船は大小全ての船が二重底を装備していないという、信じられない構造の船となったのであった。つまり各船の船底は十~二十ミリの鋼板一枚だけであったのである。
  徹底した簡略設計や工作が強行され、また作業工程が簡略化されて完成した船はその後それぞれに多く問題を残すことになった。その代表的な例が水密性の欠陥であった。
  造船所で完成した船が、竣工検査で必ず実施するものに船体の水密性に対する検査があった。これは船体の吃水線以下の船体の漏水の検査で、不良工事は将来的にその船の沈没も招きかねず、事前に徹底的に検査することが決まりであった。ただこの検査は多くの時間を要することになり、不良個所の改修作業も決して容易ではなかった。第二次戦時標準船では完成時のこの検査を極めて簡単な簡易検査だけにとどめてしまったのである。
  このために信じられないことではあるが、完成直後から直ちに輸送任務に投入された各船では、しばらくの間は乗組員による漏水個所の手直し作業が行われるという、異常な状態が続くことが多かったのである。また甲板の鋼材の電気溶接個所も、工作不良により船内に水漏れが生じることは日常的で、就航後は当分の間、乗組員による様々な手直し作業が続くのは当たり前というのもこれらの船の特徴でもあったのである。粗製濫造の極みともいえる状態は確かだったのである。しかしこの混乱は設計だけに原因があるのではなく、後述するように多くの部分が造船作業員の技量の大幅な低下に由来していたのであった。
     (大
内建二 『戦時標準船入門』 光人社NF文庫 2010  80~82ページ)

 

 問題を抱えていたとはいえ、その一応は鋼船であった戦時標準船の建造は、総力戦下の船舶需要を満たすには遠く、政府は「木造船建造緊急方策要綱」を閣議決定する。

 

 大東亜戦争の長期化に伴いますます深刻化する船腹戦争の事態に対処し、海上輸送力の積極的増強をはかることは緊急焦眉の国家的課題であり、政府はこれがため夙に鋼船による計画造船と並行して鉄鋼資材関係より簡易な設備をもって、しかも急速に建造され得る木造船の増強をはかるべくかねて木造船戦時標準船型の制定、木造船別の企業合同などの措置をとってきたが時局の緊迫にかんがみ昭和十八年度において木造船の飛躍的増大を目途とする「木造船建造緊急方策要綱」が二十日閣議決定をみた
     (大阪朝日新聞 昭和18年1月21日)

 

 その「緊急方策」の具体化した姿が、先の「木造船は征く」に描かれていることになる。

 

 

 そして、「緊急方策」の下に、小平市内(当時は小平町)の青梅街道の欅並木も伐採されてしまったのである。『用水路 昔語り』(こだいら 水と緑の会 2016)にある回想を読み返しておこう。

 

  青梅街道沿いにはずっと欅の並木があったんですよ。ある時ぱっと切っちゃいましたが。当時覚えていますけど、大きな欅の並木があり下にはヒイラギの垣根があったんですよ。道も勿論舗装もしていなくて、いい雰囲気だったんです。

 

  この辺は大きい欅がいっぱいあったんです。防風林になるし、落ち葉は出るし六十年周期で製材所に売ってたんです。船材とか電柱に使ったんです。戦中、終わる頃に供出で全部切られてしまった。

 

  昔はこの青梅街道は欅のトンネルだったんだよ。竹内さんとこにはちょこっと残ってるけど、もうずーとあんな感じでトンネルだった。子供の頃から戦争中までね。

 

  船材として全部供出ですよ。大きいのから強制的に切られた。それで無くなっちゃったんだ。

 

  船材にされちゃったんだね。昔はこの青梅街道沿いにずっと欅があったんだけど、陸軍大臣の代理の人が来て、管理して切ったんだよ。

 

  そしたら持っていかないうちに終戦になっちゃってね。

 

  みんなデカイ欅でね、それ全部切っちゃったからね、それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ、まったく悲しいよね。

 

 

 

 

【追加参考画像】

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  (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」の補足記事)

 

 

 

 

 

 

 

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