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2018年10月

2018年10月14日 (日)

グローブマスター機墜落 (軍産複合地域としての昭和十年代多摩 戦後編-1) 

 

 

 これまで、「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、いわゆる戦前・戦中期の多摩・武蔵野地域の軍産複合地帯化状況について記してきた(カテゴリー「多摩武蔵野軍産複合地帯」の記事参照)。

 

 

 今回は、あえて戦後(いわゆる「先の大戦」、すなわち大東亜戦争の敗戦後)の小平地域の経験を取り上げてみたい。小平地域ではその一部が自衛隊施設となったのを除き、その広大な土地は様々に転用され、戦時期には軍事施設の集中地帯であった姿は大きく変容を遂げることとなった(註:1)。しかし、一方で、隣接する立川地区の陸軍立川飛行場は米軍に接収され、米軍の立川基地として運用が続けられ、小平地域の上空は、立川基地の米軍用機の飛行コースとされていった。

 

 その中で、朝鮮戦争下の1953年6月18日、当時の最大の軍用輸送機であったC-124グローブマスターが、立川基地離陸直後に小平町内小川地区に墜落した。129人という、当時で最大の犠牲者数をもたらす墜落事故であった(註:2)。

 

 空軍基地の隣接地域であること、すなわち米軍の軍事施設の隣接地域であることが、地域住民にとってどのような意味を持つのか? 現在の小平地域の住民の多くは、沖縄の米軍基地問題、米軍機事故問題を他人事としてしか考えていないように思われるが、地域の歴史的経験を振り返ることで、現在の沖縄が決して他人の話ではないことを再確認する機会になればと思う。

 

 

 ここでは、まず、グローブマスター機墜落事故の目撃者の証言により構成されたドキュメンタリー動画を紹介することから始めたい。

 

 中央大学の学生の取材・制作による地域紹介番組シリーズ(「多摩探検隊」)の一本である(ケーブルテレビで放映され、動画サイトにも制作者自身によりアップされている)。

 

 ちなみに、動画サイトにある内容紹介文には以下のように記されている。

 

  1953年6月18日、米軍立川基地から飛び立った米軍輸送機「C-124グローブマスター機」が小平市に墜落し129人が死亡しました。朝鮮戦争の前線から立川に戻り一時休暇を過ごした米兵を乗せて、再び朝鮮半島に向かう途中でした。
  事故直後に米軍が現場を封鎖し情報統制したため、その詳細は明らかにならないままでした。
  航空機事故としては当時史上最大の死者を出したこの米軍輸送機墜落事故について、目撃者の証言や貴重な写真資料を元に迫ります。

 

第102回 多摩探検隊 「グローブマスター機墜落事故」
 https://www.youtube.com/watch?v=_zjOkQC1yjA

 

 

 関係者の証言とナレーションを通して、事故のおおよその全体像は把握し得るものと思う。

 加えてここでは、まず、『小平市史』では墜落事故がどのように描かれているのかを読んでおきたい。

 

  一九五三(昭和二八)年六月一八日、立川基地から飛び立った米軍輸送機グローブマスターが、小川の農地に墜落した。乗員一二七名が死亡し、畑は一面の火の海と化した。麦畑やすいか畑で作業していた人びとのなかには、「全身に油を浴び火だるまになった」者もいた。修羅場と化した光景に付近の人びとは全く手の施しようがなく、ただ呆然とするのみであった。かけつけた地元小平町の消防署および消防団の放水では「効果は殆んど見られなかった」。
  急報により立川基地からの消防車や救急車、それに地元消防団、遠くは青梅、五日市、所沢からも数十台の消防車がかけつけた。必死の消火活動にもかかわらず、猛火は一時間以上もおさまらず、乗っていたはずの人影はなかった。
  乗員の生存者皆無、梅雨続きの雨の中、四散した機体が青白く光っていた。巨大な尾翼が地中に突き刺さったままである。やがて「人間かどうか」見分けがつかない「黒焦げ」の遺体が掘り出され、「なきがらを載せた数十台の米軍救援車は前後をMP(憲兵)のジープにまもられ、暗やみの青梅街道を一路立川基地に運ばれた」。
     (『小平市史』 2013  402ページ)

 

 事故の凄惨な状況が読み取れるものと思うが、その前に問題となるのは犠牲者数であろう。『小平市史』では犠牲者数を127名としているが、その数値については誤りと考えた方がよさそうである。実際問題として、『小平市史』に掲載されている当時(1953年6月19日)の朝日新聞記事画像でも「百廿九名(全乗員)が即死」との見出しが確認出来る。

 犠牲者数の問題を別とすれば、多摩探検隊の動画にある証言と共に、初動対応の状況を含めて、「何が起きたのか」を明らかにする記述である。ただし、動画の証言にあるように、「麦畑やすいか畑で作業していた人びとのなかには、「全身に油を浴び火だるまになった」者もいた」ということはなく、「軽い火傷」というのが当事者の実情であったようではある(『小平市史』の依拠した「飛行機墜落事故書類」にはそのように記されていたのではあろうが)。また、地上での犠牲者が他になかったのは、墜落地点が農地であったがための話であり、離陸直後の燃料満載状況での事故であったことからすれば、住民にとっても大惨事となる可能性もあったことには留意しておくべきであろう。現在では墜落現場の周囲は宅地化されつつあるし、墜落地点から自転車で数分の距離にある武蔵野美術大学のキャンパスに燃料満載の大型輸送機が墜落炎上することを想像してみれば、事故の重大さを再確認し得るはずである。

 

 ここまでは、事故の重大さを伝えるものであるが、続く『小平市史』の記述を読むと、当時の小平地域住民の経験はそのまま現在の沖縄の状況であり続けている事実に愕然とさせられることとなるはずである。

 

  直径約二キロの地区内は米軍のMPが厳重に交通をしゃ断し、すぐさま「ギャラップ・ゴー」の立ち入り禁止の麻縄のロープが張られ、日本側警察、消防団は現場より立ち退きを強いられ、MPが銃を突きつけ、住民を追い払った。報道陣も写真を撮ろうとするとピストルで脅され、フィルムを抜き取られる始末であった。その範囲は三街道にもおよんだ。米軍のMP、部隊、AP(空軍憲兵)、救急車、消防車、照明車、クレーン車、トラック、ジープ、ブルドーザーは、付近の公道および私道より畑中を往来し、農作物並びに橋梁、井戸、門柱などに被害をおよぼした。
  このやり方に住民からは「日本の独立は名ばかりだ、行政協定があるのに占領時代と同じではないか、日本の警察官が遠慮して消極的すぎる」などの非難の声があがった。それを受け、衆議院外務委員会で地元選出の代議士並木芳雄が抗議の声をあげた。
  米軍兵士は、米ソ対立の接触点、朝鮮半島の前線に引き返すところであった。原因はエンジンの故障、そのため米軍最大の輸送機グローブマスターの性能までが疑問視された。ガソリンや消火液で畑はギラつき、農作物の被害は小麦、陸稲、じゃがいも、さつまいも、すいか、ごぼう、茶などにもおよび、立木・庭木、医療費などを含めた損害は約一〇〇〇万円に上った。墜落の衝撃で牛の乳量が激減しただけでなく、流産するケースもあった。にもかかわらず、被害を受けた小川住民は、八月四日に遭難現場で米兵慰霊祭を手厚く営んだ。
  半年後のこと、「大火傷をしたが幸い一命をとりとめた」住民は、「飛行機が頭の上を通るとゾッとしますよ。荒らされた畑の賠償問題もまだ解決していないが、今考えると悪夢のような気がしますね」と語った。補償問題は難航した。被害関係者二〇名は、六月二三日連名をもって「米機墜落事故発生並びに今後に対する善処方要望に関する件」を町長の添書きと共に政府(防衛庁東京調達局)に提出した。被害者は農地、農作物、立木、道路などの被害額二二八万九四七四円を損害賠償額として要求したが、調達局は米軍側と折衝の末、大幅に減額し、三分の一あまりの八五万円を提示したに過ぎなかった。
     (『小平市史』 2013  403~404ページ)

 

 ここに「日本の独立は名ばかりだ、行政協定があるのに占領時代と同じではないか」とあるのは、現在の沖縄県民の話ではなく、当時の小平地区住民の叫びなのである。被害の補償もお話にならない。この状況は、小平では既に人々の記憶から失われた昔話であろうが、沖縄では現在の問題なのである。

 さらに読み進めると、

 

  小平町でも、米軍車輌の通行のための五日市街道沿いの小金井桜の伐採問題、小川新田で七歳男児が米軍乗用車にはねられた交通事故、小川で米兵乗用車によるひき逃げ疑惑事件など、米軍関連の事件が続いた。
     (『小平市史』  406ページ)

 

「米軍関連事件」の頻発問題もまた、小平では昔話ではあっても、沖縄では現在の日常である。戦時期の小平地域の軍事化はいわば国内問題であったが、戦後の「米軍関連事件」は占領下、あるいは占領下同然の事態のなかでの問題であったことには気付いておくべきであろう。当時の小平住民の「日本の独立は名ばかりだ、行政協定があるのに占領時代と同じではないか」との言葉は、あらためて噛みしめておくに値する。

 

 『小平市史』では、立川基地の存在にあらためて焦点を当てる形で、

 

   敗戦は、軍事施設の解体・転用を強いたが、すぐさま軍事施設が消え去ることはなかった。中でも立川飛行場は米軍に接収されて米軍基地に転用され、立川は軍都から基地の町へと変わる。一九五一(昭和二六)年九月には対日講和条約と日米安全保障条約が調印され、翌五十二年四月には足かけ八年の長期にわたる占領をぬけだし、日本は独立した。その一方で、朝鮮戦争では日本は米軍の重要な軍事拠点、そして、兵站基地としての役割を果たした。そのような状況のなかでの一九五三年の米軍輸送機グローブマスターの墜落事故であった。わが国は独立したとはいえ、いまだ米軍の統治が続いているかのような高圧的な米軍の事故対処であった。
  立川基地周辺では、米軍人相手に春をひさぐ「パンパン」と呼ばれた「夜の女」が集まり、最高時の一九五二年には三〇〇〇人にもおよび、府中や福生をはじめとする多摩地区全域では七〇〇〇名ともいわれた。風紀とともに治安は乱れ、事件が多発した。「基地の町はいやです」という中学生の作文が「児童福祉期間」中に展示されたのは、一九五八年五月のことであった。その叫びもとどかず、米軍の駐留は続いた。
     (『小平市史』  406ページ)

 

このように記している。「わが国は独立したとはいえ、いまだ米軍の統治が続いているかのような高圧的な米軍の事故対処であった」というのが、1953年の小平の経験であり、2018年の沖縄の現実なのである。

 

 

 『小平市史』を読み進めると、

 

  この米軍機墜落事故にいち早く反応したのは、津田塾大学の学生であった。津田塾大学学生自治会は、「全三多摩の学生諸兄姉に訴える」とアピールを発表している。

 

   私たちの住む小川に米軍将兵をのせた大型輸送機が離陸直後に墜落し〔中略〕百雷が一時に落ちた様な轟音、それと同時に窓ガラスのビリビリという音、すぐ近くの森の向こうからは黒煙がもくもくと立ち、消防サイレンの気味悪い響きをたてた怪自動車が続いてゆきます。寮生の一人が「原爆を積んだ飛行機でなくてよかつたね」と洩らしました。〔中略〕
   今迄何度となく聞かされた平和の危機と朝鮮戦争の残酷さ、そしてその朝鮮戦争とこの三多摩が直結していることが、この事件によって正に自分達のものとして身近に痛い程感じられたのです。日夜夜毎爆音に悩まされ、あのような惨事の恐怖に晒されている私達三多摩の学生として今こそ手をとり合って平和を守る運動に立上がろうではありませんか。

 

  津田塾大学の学生たちは、今回の事件によって、朝鮮戦争と三多摩が「直結」していることを知り、「平和を守る運動」に立ち上がることを呼びかけている。この呼びかけに対して、一橋大学小平分校の学生たち(小平自治会)は、「津田塾大学のアッピールに応えよう」と全学生に訴え、クラス・サークル・ゼミなどでの討論を喚起した。
     (『小平市史』 405ページ)

 

このような、津田塾の学生による「平和を守る運動」があったことが記されている。事故はまさに「朝鮮戦争とこの三多摩が直結していること」により、小平地域の経験となったのである。「百雷が一時に落ちた様な轟音、それと同時に窓ガラスのビリビリという音、すぐ近くの森の向こうからは黒煙がもくもくと立ち、消防サイレンの気味悪い響きをたてた怪自動車が続いてゆき」とはまさに当事者による証言記録としても読むべき一節であろう。

 ここで指摘しておきたいのは、当時の二十歳前後の津田塾生は戦時期を小学生として経験した人々であるという点である。戦争が昔話ではなく、自身の経験の一部であった世代による「アピール」なのである。同時に、輸送機事故で犠牲となった米軍兵士の多くもまた、その津田塾生と同世代の若者であったことである。学生たちには、どこまで若い米軍兵士の置かれた境遇が「正に自分達のものとして身近に痛い程感じられ」るものとなっていたであろうか?

 

 

 ここまで、1953年6月18日のグローブマスター機墜落事故について、『小平市史』の記述と、「第102回 多摩探検隊」として中央大学の学生により制作された「グローブマスター機墜落事故」の動画の紹介を通して記してきた。

 ここからは、「第169回 多摩探検隊」として制作された、「第102回 多摩探検隊」の後日談となる、「グローブマスター機墜落事故~米国・遺族の証言~」 と題された動画をまず取り上げる。より広い視野で米軍輸送機墜落について考えることを目指したい。

 

 動画サイトにある内容紹介文には、

 

  朝鮮戦争休戦間近の1953年6月18日、立川基地から飛び立った米軍大型輸送機グローブマスターが、現在の小平市に墜落。当時航空機事故史上最大の死者を出しました。多摩探検隊(第102回)で、同事故について取り上げ、番組サイトで配信を開始したところ、いくつかのコメントが寄せられました。コメントを辿っていくと、最終的に、アメリカに住む遺族の方々にたどり着きました。今回は、アメリカでの取材を踏まえ、米軍立川基地グローブマスター機墜落事故を、遺族の視点から見つめ直します。

 

このように記されているが、「グローブマスター機墜落事故」について、前回が日本国民としての小平町小川地区住民の経験(幸いにも命を失うものはなかった)の証言であったのに対し、こちらは実際に犠牲者となった(命を失った)米軍将兵の家族(遺族)による証言である。

 

第169回多摩探検隊「グローブマスター機墜落事故~米国・遺族の証言~」
 https://www.youtube.com/watch?v=F9htXcmDrDs

 

 

 「わが国は独立したとはいえ、いまだ米軍の統治が続いているかのような高圧的な米軍の事故対処であった」ことは事実である。しかし、そこで命を失ったのは「高圧的な米軍」ではなく、その一員であるかもしれないが、しかしそれぞれに家族に愛され、家族を愛する一人の人間―誰かの息子であり誰かの父親であり誰かの兄であり誰かの弟―でもあった。

 

 「第102回 多摩探検隊」で示された日本人の経験からだけでは見えてこない世界がそこにある。129名という犠牲者数が、当時最大の事故であったことを示す数字としてだけではなく、犠牲者129名の一人一人が、それぞれにかけがえのない存在であったことが、遺族の証言を通して伝わってくる。

 ここであらためて、「第102回 多摩探検隊」に登場する、現在でも犠牲者の慰霊のために線香をあげ続ける地元住民の姿―犠牲者の死を他人事と思わない心のあり方―も思い起こされる。

 

 

 ここからは、米国人にとって、あるいは米軍にとって、グローブマスター機墜落事故がどのように経験されたのかについて、少しだけ記してみたい。

 

 ネットで検索すると、2013年6月の『エア・フォース・マガジン(AIR FORCE MAGAZINE)』に掲載されたウォルター・J・ボイン(Walter J. Boyne)氏による「C-124と立川の悲劇(C-124 and Tragedy at Tachikawa)」と題された記事に辿り着く(ちなみに、米国側の資料に依拠して書かれたはずの同記事においても犠牲者数は129人となっている―『小平市史』の犠牲者数には問題があるだろう)。同記事中に記されたいくつかのエピソードにより、事故の全体像をより立体的に描くことができればと思う。

 

 「第102回 多摩探検隊」の方でディレクターを務めた曽田健太郎さんは、そこでグローブマスター機墜落事故を取り上げたきっかけについて、

 

  私がこの事故を知ったのは、二〇一一年六月一九日付の読売新聞地方版の記事がきっかけだった。墜落したグローブマスターを操縦していた米国空軍パイロットの親族と、事故を目撃した男性が面会したという内容だった。こんなにも大きな事故が、多摩で起きていた歴史的事実を私は全く知らなかった。

 

このように記している。

 

 ボイン氏の記事には、グローブマスター機(シリアルナンバーは51-137)のパイロットたちのプロフィールも紹介されている。機長を務めていたのはハーバート・G・ヴォラズ・ジュニア少佐で、当時37歳。飛行時間6000時間を超えるベテランである。年齢からすれば、日米開戦時に25歳、「終戦」の時点で29歳となる。つまり、戦場がどこであったかはわからないが、「先の大戦」(第二次世界大戦)での従軍経験のある人物だということになる。信頼に足る技量が期待される。他に、やはり十分に経験を積んだロバート・D・マコークル少佐、そしてポール・E・ケネディー少佐がパイロットとして搭乗していた。

 

 読売の記事にある「グローブマスターを操縦していた米国空軍パイロット」がその中の誰であったのかは、現時点ではわからないが、記事後半の記述を読むと、離陸時に機体を操縦し、最後に管制官とのやり取りをしていたのもヴォラズ少佐であったことがわかる。

 

 墜落の原因がエンジントラブルとされているが、離陸前のチェック段階で整備員は問題を感じていたようである。天候も、雲が低く、好条件ではなかった(「第102回 多摩探検隊」動画に登場する証言者も、「6月なんだけど小雨が降っていて比較的寒い感じ」であったとしている)。

 

 7人のクルー以外は、5日間の休暇(つかの間、命の保障のない戦場を離れてパンパンガールと過ごす時間―思い切りハメを外したであろう彼らの姿の裏には戦場での死の可能性がある―でもあったはずだ)の後、再び朝鮮半島の戦場へと戻される122名の将兵であった。筆者は、それを「いやいやながらの帰還(reluctantly returning)」と表現しているが、実際、約一ヶ月後の7月には休戦協定となる状況下での話であった。そんな戦場へ送り返される途中での墜落事故死であることを考えると、遺族の無念さも、より大きなものとなったであろう。そんな姿を見送った地上要員の証言も残されている。

 

 午後4時31分の離陸後1分で第一エンジンがトラブルに見舞われ、機長のヴォラズはエンジンを切ると同時に立川基地の管制官に着陸誘導管制(GCA)を求めている。航空機関士に対し「もっとパワーをくれ」と叫ぶ中、管制官は高度の維持を求め、それに対し「ラジャー」と返答したのを最後に通信は途絶えた。

 

 レーダー上の航跡は東北東3・25マイルで消えている。

 

 ほぼ地表面に垂直に墜落したために、乗員のほとんどは即死であったと考えられている。

 

 ボイン氏は、墜落地のすいか畑について、交通量の多い東京へのハイウェイの近接地と表現している。確かに、青梅街道沿いの土地ではあった(ウィキペディア先生の「立川基地グローブマスター機墜落事故」の記事には「米軍、警察、消防、報道関係等の車両が大量に押し寄せたため、当時は道幅が狭く、所によっては舗装されていなかった青梅街道は大渋滞を起こした」との記述がある)。

 

 墜落を目撃した軍人もいた。妻とともに東京からのドライブ中であったロバート・D・ヴェス軍曹は、すぐに救援活動に向かった。

 

 ジョン・H・ジョルダン・ジュニア上等兵―その時点では生きていた―を救出したが、数分で死亡してしまう。燃料タンクに火が移るまでの30分ほど、ヴェス軍曹は救助活動を続けた。その間、右翼のエンジンは稼働し続けていたともいう。

 

 4時50分には立川の管制は、ジョンソン空軍基地(入間)にも救援要請をし、5時13分には現地にヘリコプターを到着させている。

 

 『小平市史』にある、

 

  修羅場と化した光景に付近の人びとは全く手の施しようがなく、ただ呆然とするのみであった。かけつけた地元小平町の消防署および消防団の放水では「効果は殆んど見られなかった」。
  急報により立川基地からの消防車や救急車、それに地元消防団、遠くは青梅、五日市、所沢からも数十台の消防車がかけつけた。必死の消火活動にもかかわらず、猛火は一時間以上もおさまらず、乗っていたはずの人影はなかった。

 

この局面での話ということになる。

 

 さらに従軍牧師や身元確認チーム(遺体の身元確認である)も到着し、臨時の死体安置所も設けられ、『小平市史』にある、

 

  直径約二キロの地区内は米軍のMPが厳重に交通をしゃ断し、すぐさま「ギャラップ・ゴー」の立ち入り禁止の麻縄のロープが張られ、日本側警察、消防団は現場より立ち退きを強いられ、MPが住を突きつけ、住民を追い払った。報道陣も写真を撮ろうとするとピストルで脅され、フィルムを抜き取られる始末であった。その範囲は三街道にもおよんだ。米軍のMP、部隊、AP(空軍憲兵)、救急車、消防車、照明車、クレーン車、トラック、ジープ、ブルドーザーは、付近の公道および私道より畑中を往来し、農作物並びに橋梁、井戸、門柱などに被害をおよぼした。

 

このような状況となっていく。照明車の存在は、夜を徹しての活動であったことの証である。

 

 墜落は、エンジントラブルに加えて、飛行速度とフラップ操作の連携エラーに起因するものであったとの指摘もされていたことも語られている。

 

 日本側住民に対する態度(「いまだ米軍の統治が続いているかのような高圧的な米軍の事故対処」)の問題とは別に、犠牲者家族のその後の年月―遺族に深く刻まれた悲しみ―について知り、そして米軍内部での墜落事故対応のスピード感と徹底性(そこでは現地住民の利害は無視される)を知ることで、グローブマスター機墜落事故の全体像の理解も深まったように感じられないだろうか?

 

 いずれにせよ、この記事が、沖縄の現状を他人事にしてしまわないためのきっかけになればと願う。

 

 

 最後に、立川基地が反基地闘争の現場であったことも、多摩探検隊の動画を通して再確認しておきたい。現在の沖縄が決して他人事ではないことに想像力を及ぼすことが出来るだろうか?

 

第100回 多摩探検隊 「砂川の記憶─57年目の証言─」
 https://www.youtube.com/watch?v=PbyeWRKRFkg 

 

 

 

 

【註:1】
 
  戦時中に小平町に設けられた軍の施設は終戦後、民間の施設や住宅地に転用されていった。では具体的にどのように変わったのか、市制施行後の昭和三七年(一九六二)までの変化を記述してみよう(付図は略)。
  東部国民勤労訓練所は東京都多摩公共職業補導所や東京都身体障害者公共職業補導所(ともに後の訓練所)、緑成会付属病院などとなった。
  陸軍兵器補給廠小平分廠は旧地主(農家)や開拓農地として営農の希望者(同廠勤務関係者が多い)へ払下げられ、その後、畑は都営住宅、小平三中、六小、日本タンパク工業株式会社、ブリジストンタイヤ株式会社東京工場、松見病院、緑風荘療養所、一般住宅などに変わった。
  傷痍軍人武蔵療養所は国立武蔵療養所と称されるようになった。
  さらに陸軍経理学校の校舎敷地は建設省建設研修所、陸上自衛隊業務学校、同調査学校、関東管区警察学校に使用され、そして回田道の東側にあった同校練兵場は、終戦後いち早く開墾に従事した人たち(大部分が旧地主)に払下げられ、後にこれらの農地に三栄レコーダー製造、シルバー編機製造、あけぼのパン、ピルマン製造株式会社などが進出した。練兵場の南にあった官舎部分は恵泉女子学園短期大学(園芸科)が使用したり、自衛隊官舎になったりした。陸軍技術研究所と文部省電波物理研究所跡は一部は民間のものとなり、東京サレジオ学園に払下げられたり、旧地主や営農希望者に払下げられた後、文化服装学院グラウンドや沖電気工業株式会社総合グラウンドとなったりした。さらに国の施設としては郵政省電波研究所や東京学芸大学小金井分校などになった。小金井街道沿いの特殊無線通信所跡は住宅となった。
     (『小平市三〇年史』 1994  268~269ページ)

 

【註:2】
 正確には、「グローブマスター」の名称は戦中に開発着手されたダグラス社のC-74に与えられたもので、戦後に開発・量産されたC-124の愛称は「グローブマスター Ⅱ」であった。
 しかし、1953年に墜落したC-124について「グローブマスター機墜落事故」と呼ぶことが、今回引用した『小平市史』においても「多摩探検隊」においても行われており(ウィキペディア先生も同様)、当記事内でも「グローブマスター」で統一することとした。

 

 

 

 

 

 

 

《記事一覧》

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  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-511f.html
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 「溶鉱炉の火は赫々と燃えているが(戦時木造船の周辺 2)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-15f4ee.html
  昭和18年の『アサヒグラフ』記事により、木材供出の全国的展開の様相を読む
  (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」の補足記事)

 

 

 

 

 

 

 

 

 (オリジナルは、
 投稿日時 : 2018/10/14 18:29 →
 https://www.freeml.com/bl/316274/321865/
 
投稿日時 : 2018/10/14 18:33 → https://www.freeml.com/bl/316274/321866/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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