« 軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10) | トップページ | グローブマスター機墜落 (軍産複合地域としての昭和十年代多摩 戦後編-1)  »

2018年9月23日 (日)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合地帯化状況について記してきた(カテゴリー「多摩武蔵野軍産複合地帯」記事参照)。

 特に「武蔵野」の名を冠する武蔵野美術大学所在地である小平地域に焦点を当てることで、総力戦下でこその軍施設の様相、軍施設設置がもたらす軍施設関係者のための集団住宅建設の必要性、軍施設及び集団住宅への水源確保に際して機能した「大きな力」としての軍の姿も再確認することが出来た。前回は食糧増産を求められる農家と集団住宅住民の育児支援のための託児所の設置にも触れたが、これもまた総力戦状況が生み出したものであった。

 

 今回は、戦時期の小平地域の景観の変化について記してみたい。もちろん、軍施設の進出、それに伴う集団住宅建設自体、それまでの農地と山林で構成された地域景観を大きく変えるものであった。

 すなわち戦時開発そのものが地域景観に変化をもたらすものであったが、ここでは、「こだいら 水と緑の会」による『用水路 昔語り』と題された聞き書き集(2016)から、特に戦時期における青梅街道の景観の変化―木材供出による欅(ケヤキ)並木の伐採―について確かめることから着手し、その背景を探ることを試みようと思う。小平地域の木材供出の歴史を通して、大日本帝國の総力戦状況(その限界)も明らかになるはずである。

 

 

 まず、関連した証言を(気付いた限りではあるが)抜き書きしてみることから始める(太字化による強調は引用者によるもの)。

 

馬場:草はどうですか、昔はこんなのが生えていたとか。
荒井:大体同じだけど洋物が増えたね。日本タンポポは無くなった。藪、昔は竹藪が沢山あった。真竹が随分あったけど今は殆ど無いね。
馬場:伐採ですか?
荒井:いや、自然に枯れた。「竹は百年に一度花が咲いたら終わり」と言うが、本当に花咲いてそれで終わりだったね。植物が無くなったから環境も悪くなったって言えるよ。だって昔はこの青梅街道は欅のトンネルだったんだよ。竹内さんとこにはちょこっと残ってるけど、もうずーとあんな感じでトンネルだった。子供の頃から戦争中までね。
馬場:燃料として切られたんですか?
荒井:いや船材として全部供出ですよ。大きいのから強制的に切られた。それで無くなっちゃったんだ。それだけだってえらく環境が違っちゃったのよ。子供の頃はクーラーもないから夏は木陰で涼んだもんだが。
馬場:交通量なんかはどうですか?
荒井:昔はめったに車が通らなかった。道路にしゃがんで話していて、車が来たらどくかって感じね。戦後の変り様は凄いね。
馬場:青梅街道の道幅は変わりないですか?
荒井:それは全く変わらない。昔っからこの幅。幹線道路だったけど、舗装されてたのは本の真ん中だけ。周りは砂利で草も生えてた。特に六番、七番の所は広いんです。あそこは馬の継ぎ場だったから。
馬場:馬の中継ぎ場というと何か特別なものがあったんですか?
荒井:青梅から馬で石灰を運んできて、そこで馬を替えるわけですよ。だから道幅が広くて、馬に水飲ませるために真ん中に川が流れていたって聞いてます。多分全て幕府が管理してたんだろうね。
     (『用水路 昔語り』 8~9ページ)
     話し手:荒井利喜夫(昭五生 小川町)  
     聞き手:馬場淑子

 

馬場:青梅街道も随分と変わりましたでしょう。昔は欅のトンネルだったとか。
関根:そうです。欅もだけど、裏にはずーっと竹林があった、真竹のね。一斉に花咲いて全滅ね。「竹は百年に一度花をつけて枯れる。」って言うけど本当ね。林は防風のためでもあった。冬は土埃で空が真っ赤になるくらいだったからね。子供の頃、舗装されたばかりだったかな。
馬場:この辺りは道幅が狭いですよね。
関根:そうね、この少し先の辺りから細いね。
馬場:子供の頃の交通機関は何を?
関根:人は徒歩か、自転車が少し。多摩湖線と西武新宿線はあったよ。でも一時間に一本くらいかな。
     (『用水路 昔語り』 10ページ)
     話し手:関根初男(昭十三生 仲町)

 

馬場:子供の頃は青梅街道沿いに欅もたくさんありましたか?
小柳:欅のトンネルでした。春になると完全にトンネルになってました。保存樹林がその面影をとどめてるけどね。ここから八番まで、踏切のこっちまではそうでした。戦争中に船材として切られたという話は聞いたことがあります。
馬場:竹藪はどうでした?
小柳:竹藪もずっとありましたね。屋敷の裏が竹藪でね。竹藪と畑の間に細い道があるんですよ。そこを通って第一中に通ってました。花咲かせ竹が枯れたという話は聞いた。
 中学の時青梅街道は砂利でね。土埃が凄かった。車が来るともうもうとして辛かったね。逆に雪が降ると膝の所まで積もってね、弟達を学校に行かせるのに雪掻きしたね,三十cmくらいあったかね。
     (『用水路 昔語り』 13ページ)
     話し手:小柳忠男 (昭十二生 小川東)

 

馬場:かなり大きな家ですものね。
田中:大正七年に、屋敷森の欅を切って建てたんですよ。材料は周りの木を切って、大黒柱は欅でね。
馬場:昔の青梅街道は欅のトンネルだったと聞いています。
田中:そうです、欅のトンネルでした。夜はフクロウが鳴いてたし、子供の頃は兎がいたからね。だって大正十四年に一反歩を九百円で売買し油ようとしたら、不景気で五百五十円になったって聞いてます。そういう時代でしたからね。
     (『用水路 昔語り』 21ページ)
     話し手:田中次男(大五生 小川町)

 

馬場:子供の頃この辺りはどんなでした?
浅見:畑ばっか、家は無かったね。道も砂利で真ん中だけアスファルト舗装してあって、側溝が付いてたね。欅はこんもりと繁って緑のトンネルよ。屋敷森があって家があって、畑が玉川上水のとこまであるの。その頃の川は防火用水としての意味合いが強かったね。井戸あったし、幅も今より広くて七十cm位ありましたよ。よく盥を浮かべて舟ごっこして遊んだもの。広かったし水も多かった。
     (『用水路 昔語り』 39ページ)
     話し手:浅見清子(昭六生 小川町)

 

馬場:戦争と言えば、昔は青梅街道は緑のトンネルだったそうですね?
岩淵:そう、もう両脇に欅が聳えていてね、本当にずっと緑のトンネルだった。その下がヒイラギの垣根ね。夜なんか真っ暗。
馬場:その欅が戦時中供出で切られてしまったと聞いてます。
岩淵:枝下のある欅は皆切られたね。それからどこの家にも「伝次丸」って柿の木があったね。何代も前からあったようで、今は家のも無いけどね、新田だった三百年続いてるわけだから、きっとずっと昔に植えたもんだったんだろうね。
 家は皆藁屋根、東向き。うちは昭和三十三年に茅の丸葺きにしたんですが、他の所は藁の上にトタン被せちゃったりしてね、そのうちにはポチポチ建て替えになってね。
     (『用水路 昔語り』 48ページ)
     話し手:岩淵ヨシ子(昭四生 天神町)

   【枝下】 樹木の最も下の枝から地表までの長さ(『広辞苑』)

 

金豊:うちは高台で隣と三尺も違うから、そういうの利用して水車も回したんだろうね。ここは昔から「坂」って呼ばれてました。「坂」って位だから一番高かったんでしょうね。親戚も「坂のうち」ってね。三里四方、四里四方行ったって家の欅見えたから、昔だから高層住宅なんて無かったからね。
馬場:その欅も目立ったでしょうね。
金桃:いっぱいあったんですよ。戦争中全部供出させられて、これ一本きり残ったんです。
金豊:船材にされちゃったんだね。昔はこの青梅街道沿いにずっと欅があったんだけど、陸軍大臣の代理の人が来て、管理して切ったんだよ。
金桃:そしたら持っていかないうちに終戦になっちゃってね。
金豊:みんなデカイ欅でね、それ全部切っちゃったからね、それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ、まったく悲しいよね。
     (『用水路 昔語り』 80ページ)
     話し手:金子豊(大六生 小川町)
          金子桃代(大十生 小川町)

 

馬場:昔は青梅街道は緑のトンネルだったそうですね。
金子:夜は真っ暗になりましてね、街灯ついてなかったし、本当に真っ暗。道の真ん中にアスファルトがあって、あとは砂利でね、掘があって、のどかでしたね。秋になると農家の人が道の所で色々干すんですよ、筵で。大根の切り干しとか、昔は車もそんなに通らないしね、幅は昔からこのままですから。
     (『用水路 昔語り』 98ページ)
     話し手:金子光子(昭十一生 小川町)

 

馬場:青梅街道には昔雨水を流すための側溝がありました?
清水:道路のはじと家の前に少し溝があって、ほんの小さい橋が掛かってましたね。多分細い、何の囲いもないから、そこが崩れていたり、ちょっと澱んでいたりしてましたね。
馬場:その青梅街道は緑のトンネルだったとか?
清水:昔、私が子供の時分には道路の両側から大きな樹が植わってますから、樹が生い茂って、夜なんか本当に真っ暗で、鼻つままれても分からない位でしたよ。特に私の実家はお寺さんが側だから、夜なんて一人で歩くと、駆けると誰か後ろから追っかけて来るような気がして怖かったですよ。ここに来てからも、家の周りにカシの木あったり、隣りにも大きな木あって、庭は真っ暗と言ってもいい位ですね。
馬場:青梅街道には街灯はなかったのですか?
清水:うーん、子供の頃実家からここに用事で行かされた時も、真っ暗な中をとことこ歩いたような記憶しかないですね。昔は今と違うから。自転車の乗り方なんかも青梅街道でやりましたからね。車もめったに来ないから。
     (『用水路 昔語り』 103ページ)
     話し手:清水恵美子(大十五生 小川町)

 

角:欅は大きくなるのが早いですか?
小川:早いですよ。この辺は大きい欅がいっぱいあったんです。防風林になるし、落ち葉は出るし六十年周期で製材所に売ってたんです。船材とか電柱に使ったんです。戦中、終わる頃に供出で全部切られてしまった。
     (『用水路 昔語り』 139ページ)
     話し手:小川善一(大十生 学園東町)
     聞き手:角早桐

 

馬淑:小平の方でも巨木とか雑木林とかありますが・・・。
村野:青梅街道沿いにはずっと欅の並木があったんですよ。ある時ぱっと切っちゃいましたが。当時覚えていますけど、大きな欅の並木があり下にはヒイラギの垣根があったんですよ。道も勿論舗装もしていなくて、いい雰囲気だったんです。
馬淑:ヒイラギを植えるというのは何か意味があった?
村野:別にないけど、まぁ、刺があって垣根代わりになったんじゃないでしょうか。
須賀:結構密集してますよね。
村野:結構丈夫な木なんですよ。
馬政:小平の竹内家の大欅はご存じですか?市の天然記念物ですが。
村野:小平の欅ってのは全国的に有名なんですよ。地に合っていてね、「曲がっている苗木が、ここでは伸びると真っ直ぐになる。」って話あるんです。
馬政:緑のトンネルと言われてますよね、昔の青梅街道はどんな具合でしたか?
村野:家の前に欅伸びてるでしょ、あれが両側にあると思って下さい。
須賀:竹内家の大欅は目印だったって聞いてます。それを見ると、この辺りは小平だって。
村野:そうでしょうね。東村山に行くと万年欅って言うのがありますね。あと有名なのは府中の大国魂神社の欅。八万太郎義家が植えたというやつです。
     (『用水路 昔語り』 159~160ページ)
     話し手:村野啓一郎(昭六生 久留米市柳窪)
     聞き手:馬場淑子
          須賀美佐子
          馬場政孝

 

 

 

 

 かつての、「めったに車が通らなかった。道路にしゃがんで話していて、車が来たらどくかって感じ」であった青梅街道の姿。

 あらためて以下の言葉を読むことで、「木材供出による欅並木の伐採」についての全体像もつかめるだろう。

 

 

  青梅街道沿いにはずっと欅の並木があったんですよ。ある時ぱっと切っちゃいましたが。当時覚えていますけど、大きな欅の並木があり下にはヒイラギの垣根があったんですよ。道も勿論舗装もしていなくて、いい雰囲気だったんです。

  この辺は大きい欅がいっぱいあったんです。防風林になるし、落ち葉は出るし六十年周期で製材所に売ってたんです。船材とか電柱に使ったんです。戦中、終わる頃に供出で全部切られてしまった。

  昔はこの青梅街道は欅のトンネルだったんだよ。竹内さんとこにはちょこっと残ってるけど、もうずーとあんな感じでトンネルだった。子供の頃から戦争中までね。

  船材として全部供出ですよ。大きいのから強制的に切られた。それで無くなっちゃったんだ。

  船材にされちゃったんだね。昔はこの青梅街道沿いにずっと欅があったんだけど、陸軍大臣の代理の人が来て、管理して切ったんだよ。

  そしたら持っていかないうちに終戦になっちゃってね。

  みんなデカイ欅でね、それ全部切っちゃったからね、それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ、まったく悲しいよね。

 

 

 「昔はこの青梅街道は欅のトンネルだった」ものが、「戦中、終わる頃に供出で全部切られてしまった」、そしてそれは「船材として全部供出・船材にされちゃった」もので、しかも「それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ」という「まったく悲しい」顛末として、古くからの住民には記憶されていたのである。

 

 

 この聞き書きには「戦中、終わる頃」とあるだけで、年代の詳細はわからない。探せば、当時の関連公文書類も見つかるものと期待するが、今回はそこまでは踏み込まない。

 しかし、「船材として全部供出・船材にされちゃった」とあることから、戦時期の船舶建造政策との対応関係を確認することで、年代の推定も可能ではないかと思う。

 

 

 

 神戸大学附属図書館が電子データ化した「神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 造船業」の中に、「木造船急速増強 きょう建造緊急方策発表」と題された大阪朝日新聞記事がある(1943(昭和18)年1月21日付)。

 

 

 木造船急速増強
 きょう建造緊急方策発表

大東亜戦争の長期化に伴いますます深刻化する船腹戦争の事態に対処し、海上輸送力の積極的増強をはかることは緊急焦眉の国家的課題であり、政府はこれがため夙に鋼船による計画造船と並行して鉄鋼資材関係より簡易な設備をもって、しかも急速に建造され得る木造船の増強をはかるべくかねて木造船戦時標準船型の制定、木造船別の企業合同などの措置をとってきたが時局の緊迫にかんがみ昭和十八年度において木造船の飛躍的増大を目途とする「木造船建造緊急方策要綱」が二十日閣議決定をみた、右要綱中とくに注目すべきは

(一)造船統制会傘下の軍管理以外の主要造船、造機工場および新設工場を逓信省において管理
(二)木船建造促進に関する主要事項の審議機関として木船建造促進委員会(仮称)を逓信省に新設
(三)木材確保のために政府の国有林供出とともに翼賛会等による全国的な木造船用木材供出の国民運動を展開しその運搬についても地元の勤労奉仕を期待する
(四)豊富な木材資源を擁する大東亜地域の木造船工場を全面的に活用する

など時局の新段階を反映した英断的措置を決定した諸点であるが、右のほかすでに実施されつつある措置には

(一)木造貨物船型の五種より三種への整理とともに大型木船の建造促進のため三百トンおよび五百トンの木鉄交造船の試作
(二)造船造機施設の拡充のためには既存施設の統合整備および主として産業設備営団による新設整備のほか現存の不急または遊休産業施設の転換利用のためには例えば自動車工場のごときが造機工場に転換することも可能となる
(三)資材、労務の確保についても物動その他において割当を確保し優先的入手のために各般の措置を講ずる

などであり、本要綱の目標達成のためには政府のみならず関係業者はじめ一般国民の絶大なる理解と協力が要請されねばならぬ

木造船建造緊急方策要綱(情報局発表)

一、建造目標 昭和十八年度における木造船建造目標(外地、満洲、支那および南方諸地域を除く)は昭和十七年度に比し画期的増大を期す
二、船型 (イ)木造貨物船の船型は極力これを整理するとともに大型木船の建造を可能ならしむるごとく措置す
(ロ)戦時標準船型をさらに簡易化するため各般の措置を講ず
三、造船および造機施設の拡充
(イ)既設の造船および造機施設を統合整備するとともに資材、労務などの立地条件を考慮し、所要数の造船および造機工場を新設し所要生産量を確保す
(ロ)造船および造機施設の拡充にあたりては関係各官庁協力のもとに現存施設の転換、利用などの措置を講ず
(ハ)造船、造機施設の整備ならびに新設は必要に応じ産業設備営団をしてこれに当らしむるとともに右施設は営団よりこれを政府の指定するものに譲渡し、貸附または出資せしむるごとく措置す
四、造船および造機施設の管理 主要既設工場(造船統制会に属するもの)にして軍の管理に属せざるものおよび新設工場は逓信省においてこれを管理す
五、資材の確保 木船建造用ならびに施設拡充用の資材、動力、機械、器具類などの割当は物資動員計画および電力動員計画において極力これを確保するとともに、これが優先的入手については関係各庁協力のもとに各般の措置を講ず
六、労務の確保 右計画遂行に必要なる労務者は造船および造機施設の拡充に伴い逐次これが充足を行うものとす
七、大東亜地域における木造船工場の活用 大東亜地域における木材資源豊富なる地の造船工場に機関、□装品などを供給し、かつ技術上の援助を供与し、計画造船の一環としてこれを全面的に活用するため関係各庁協議のうえ速かに具体策を決定し、即時実行に着手す
八、木船建造促進委員会(仮称)の設置 木船建造促進に関する重要事項を審議するため逓信省に木船建造促進委員会(仮称)を設く
九、木船建造促進に対する挙国的協力措置 木船建造の促進に関しては関係各官庁は緊密なる連繋協力のもとにそれぞれその所管事務の迅速処理をはかるとともに政府はとくに国有林材を供出し、かつ大政翼賛会などをして全国的に木船建造用木材供出国民運動を展開せしむるとともに木材その他の資材の搬出、工場の新設などについては青、壮年団、在郷軍人会などをして奉公的協力をなさしむるごとく措置す

 

 

この記事中にある、「(三)木材確保のために政府の国有林供出とともに翼賛会等による全国的な木造船用木材供出の国民運動を展開しその運搬についても地元の勤労奉仕を期待する」、そして「政府はとくに国有林材を供出し、かつ大政翼賛会などをして全国的に木船建造用木材供出国民運動を展開せしむるとともに木材その他の資材の搬出、工場の新設などについては青、壮年団、在郷軍人会などをして奉公的協力をなさしむるごとく措置す」との「木造船建造緊急方策要綱」の方針こそが、戦時期小平地域での青梅街道の欅並木の運命の背景であろう。

 

 

 実際、これは、小平地域だけの問題ではなかった。

 

 

 情報局編輯になる『寫眞週報』(写真週報)の第263号(昭和18年3月17日)には以下の記事がある(「撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺) 」では、加えて同じ昭和18年の『週報』(367号)及び『寫眞週報』(270号)の記事を取り上げ、当時の国策プロパガンダの中での、戦時木造船建造と木材供出についての言説を紹介することを試みている―岡山県津山市の名勝として知られた松並木の伐採事例等。また、「溶鉱炉の火は赫々と燃えているが(戦時木造船の周辺 2)」では、同じ昭和18年の『アサヒグラフ』記事により、民間グラフ誌の中で木材供出の全国的展開の様相がどのように取り扱われているのかを紹介している)。

 

Photo_20191204100901

 寫眞週報 263号 2~3ページ

 

 時の立札
皇土に根ざし
風雪に耐へて二百年三百年を
今日の日のために
生きぬいてきた巨木だ
その命を捧げる日の壮絶さを想へ
我等その心をくみ、その心に應へ
木もて船を造らう
皇國の幸をはこぶ船を
     (表紙裏に位置する2ページ)

 

巨木擧ってお召しに應じよう
     岡山縣
     撮影 入江泰吉
(以下、キャプションは新字体で表記)
岡山県県社木山神社の神木は、国難打開のため軍需資材として応召する。この大樹は同神社の祭神須佐之男大神のおひげが自生したものといはれてゐたものである
     (3ページ)

 

Photo_20191204101201

 寫眞週報 263号 4~5ページ

 

巨木擧ってお召しに應じよう
 『神木が供出された』『五代にわたつたあそこの欅林も供出された』かうした氏子や篤志家及び団体などによる木材の供出は、いま、広く全国的に行はれてゐます。いふまでもなく、供出された木材は戦局の進展に伴つてますます必要となつてきた兵器や艦船、車両等の資材として、勝つための有力な力となつてお役に立つわけです
 しかし、この供木といふことは、もうわが国には軍需品の資材となる木がないといふわけではなく、それらの用途に向けられる木材の伐採が到底需要に足りないのです。欅や樫などの特殊材は山奥には相当あるのですが、それを刈つて運び出すのには相当の時日が要る上に人手も多くかかり、ソレッといふ間に合ひません
 そこで供木運動も運搬が比較的楽にできる屋敷林や公園、神社仏閣の境内林とか、街道の並木、平地林等を伐採することが対象となつてゐます
 これらは、或ひは父祖伝来のものであつたり、或ひは史跡名勝天然記念物として由緒ある並木であつたり、平時であれば決して伐れないものばかりでありませうが、一人息子さへお国に捧げるときです。戦力を増すためにこの際、進んで供木に応じませう
 勝つためだ、村民の決意は固く岡山県県社木山神社の神木が村民歓呼の声に送られて『応召』しました
(写真キャプション)
 参道の老杉は地響きを打つて倒れた
 参道並木の伐採は境内の森厳をそこなはぬために十分な調査が行はれた
 樹齢三百五十年の樅も村民の斧によつて応召する
 刈り倒された樹齢約三百五十年の老杉この杉の伐積は―直径一メートル八十センチ、高さ四十メートル、重量七千貫である
 神木は悠々と応召する

 

Photo_20191204101301

 寫眞週報 263号 6~7ページ

 

應召の木材は続々木船に
     ―大阪―
 畏くも天皇陛下には、戦時下における木船の重要性を思召され、木船材を御下賜あらせられました。聖慮の程、まことに畏き極みであります
 このありがたき聖慮に感激、感泣した政府は、勿論木船建造のため各地の国有林をどしどし伐り出してゐますが、さらに全国的に木船用木材供出が国民の盛り上がる力として行はれてゐることはご存じの通りです
 かうして供出された木材は、直ちに造船材に使用され、去る一月に戦時標準型貨物船の第一船が大阪で進水してから、続々と標準船が全国の造船所で造られ、各方面の海域に就航してゐます
 ここ大阪の造船所では木材供出者の意気に感じて、一日でも二日でも早く標準船をつくり上げようと、夜に日をついで造船の斧を振つてゐます。次々と進水する木造船は敵殲滅戦に、或ひは大東亞の建設戦に、堂々日の丸の旗を押し立てて大洋に乗り出してゆきます
(写真キャプション)
 肋骨は次々と組み立てられてゆく
 肋骨に外板をくつつける作業は、寒中もいとはず進められてゐる
 外板のつぎ目から水がはいらないやうに充填物をつめてゐる
 予定より三日も早かつたぞ! 標準型木船は進水した
 天を衝くやうに木船の意気は高く肋骨の組立も終り、一日も早く海洋に出る日を待つてゐる

 

 

 まさに、「木造船建造緊急方策要綱」にある「政府はとくに国有林材を供出し、かつ大政翼賛会などをして全国的に木船建造用木材供出国民運動を展開せしむるとともに木材その他の資材の搬出、工場の新設などについては青、壮年団、在郷軍人会などをして奉公的協力をなさしむるごとく措置す」との方針が全国的に展開され、「祭神須佐之男大神のおひげ」までが、「木船建造用木材供出国民運動」の標的となっていた(『寫眞週報』は、すなわち情報局は、このエピソードを「まったく悲しい」こととしてではなく、木材供出の先進的事例として取り扱っている)。

 昭和18年の時点で、全国的には、木造船建造のために神社の御神木までが伐採される(「風雪に耐へて二百年三百年を今日の日のために生きぬいてきた巨木」が戦時期の国策の都合により伐採される)ようなところにまで追い詰められていたのである。小平地域では青梅街道の並木で済んだという意味では、まだ軽かったのかも知れない。

 

 せっかくの機会なので、「木造船建造緊急方策要綱」に至る、戦時期日本の造船関連の政策の推移について、吉川由美子氏による「アジア・太平洋戦争中の日本の海上輸送力増強策」(2004)と題された博士学位申請論文からの要約(「博士学位申請論文審査報告」2~3ページ)を用いて、確認しておきたい。

 

  1939年11月、造船業を対象とした統制策である「造船事業法」が成立、41年8月には造船の発注統制を強化した「戦時海運管理要綱」が成立し、翌42年1月には造船統制会が設立された。こうして、海運も造船も強力な国家統制下に置かれることになった。
  1942年3月、戦時標準船(以下、戦標船と略す)の建造と計画造船の実施が決定された。しかし、同年12月のガダルカナル島攻防戦による船舶の損失も加わって、43年度は船舶増産の強化が急務となった。そのため43年に入ると、上記船標船とは異なり、急速な増産に重点を置いた第二次戦標船が設計された。その中でも特に重視されたのは、船舶の簡易化と大量生産に適した改E船(第一次戦標船のE型の改良型)であった。改E船の構造は、既造船所以外の新規で簡易に新設された工場、即ち東京造船所・播磨松ノ浦、三菱若松、川南深堀の4造船所で集中的に建造された。これらの造船所は大量生産方式、流れ作業、ブロック建造法、電気溶接(三菱若松)などの新しい生産技術体系を導入したため、簡易工場にもかかわらず、かえって時代の先端を行く工場となった。しかし、これらの工場の労働力の主力は囚人であった。
  1944年に入ると、造船用鋼材の不足が深刻になった。この鋼材不足の対応策として考案されたのが、藤原銀次郎による「雪達磨造船」である。即ち、船舶で鉄鉱石を輸送し、その鋼材で船舶を建造し、その船で鉄鉱石と石炭を再び運ぶという循環構造によって造船量の拡大を図るというものであった。しかしこの「雪達磨造船」は、戦況悪化による国力崩壊を食い止める突破口とはならなかった。
  造船用鋼材不足が対応策としてもう一つ考案されたのは、「雪達磨造船」より前のことになるが、木造船の建設であった。1943年1月の閣議決定「木船建造緊急方策要綱」がそれである。木造船はあくまで鋼船の補完的役割を期待されたが、鋼船と同様、戦時標準型が決められ大量生産がおこなわれた。しかし、急な大量生産のため浸水するものが続発し、木造船建造の目標は烏有に帰した。
  戦争末期には鋼材の入手が激減して新造より修理が優先される一方、鋼材節約のためにベニヤ板を材料とした合板船や、コンクリート船が検討され試作がなされたが、実用化されるには至らなかった。

 

 

 先の『寫眞週報』記事(御神木の伐り倒し)を読んだ後で、そして「みんなデカイ欅でね、それ全部切っちゃったからね、それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ、まったく悲しいよね」との小平のお年寄りの嘆息を共有した後で、「しかし、急な大量生産のため浸水するものが続発し、木造船建造の目標は烏有に帰した」との顛末に眼を通すとき、実際、「まったく悲しい」気持ちを抱くしかない(『函館市史デジタル版』の「造船所の対応と戦時標準船、木造軍艦の建造」の項では、「政府はあらゆる施策を講じて木造貨物船の増産をはかった。しかし、19年の頃は応召による熟練工の不足、船用金物の入手難などで目標の達成は極めて困難であった」と、当時の実情を記している)。

 

 

 

 再び吉川由美子論文の要約に戻ると、

 

  1942年3月、戦時標準船(以下、戦標船と略す)の建造と計画造船の実施が決定された。しかし、同年12月のガダルカナル島攻防戦による船舶の損失も加わって、43年度は船舶増産の強化が急務となった。そのため43年に入ると、上記船標船とは異なり、急速な増産に重点を置いた第二次戦標船が設計された。その中でも特に重視されたのは、船舶の簡易化と大量生産に適した改E船(第一次戦標船のE型の改良型)であった。改E船の構造は、既造船所以外の新規で簡易に新設された工場、即ち東京造船所・播磨松ノ浦、三菱若松、川南深堀の4造船所で集中的に建造された。これらの造船所は大量生産方式、流れ作業、ブロック建造法、電気溶接(三菱若松)などの新しい生産技術体系を導入したため、簡易工場にもかかわらず、かえって時代の先端を行く工場となった。

 

このように、戦時標準船の先端的側面が示されている。その点について、後藤伸氏の論考にも触れておきたい。後藤氏は戦時標準船について、

 

   統制が始まる以前、平時の商戦の注文はおおむね一隻ごとの個別注文であり、造船所は契約成立ごとに詳細な設計図面を作成し、資材と部品を調達し、それを船台で組み立てていくという、典型的な受注生産を行っていた。このような造船業に対して、昭和14年(1939)9月以降、臨時船舶管理法によって、新造船に際しては事前に逓信省の承認を受けることが規定されたが、これが新造船に関する統制の始まりといえる。この事前承認性は、翌15年2月の海運統制令により逓信大臣の許可制となり、統制が強められた。このように事前の承認や許可が必要とはいえ、建造される船舶についてはなお船主の希望なり裁量の余地が働き、また造船所もそれに対して従来の個別注文的な方法で対処しえた。もっとも、この時期まで、強制ではなかったが、建造される船舶の一定割合は、すでに船型、構造、主要性能などを標準化した船舶によって占められていた。この平時における標準船型は、船舶改善協会が中心となって昭和14年4月に選定したものであるが、後述するとおり、これら船型は戦時標準船(第1次)の原型となった。
     (後藤伸「戦時期日本造船業の生産技術に関する一考察―戦時標準船の建造をめぐって―」1992 『国際経営論集(神奈川大学経営学部)』 3  85~86ページ)

 

  組立産業における大量生産の歴史を顧みると、量産システムの確立のためには、生産種類を限定するとともに、部品を規格化して製品の標準化をはかり、また設計をできる限り簡素化することが必要であった。戦時造船における多量生産は、標準型船の設計とその簡易化という形をとった。ここでいう標準船とは、船体、機関、艤装品などの形状や構造を規格化し、同一資材や部品を使用するよう設計された船舶であり、工期の短縮、工費の低廉をもたらすという意図から発想されたものである。
     (後藤伸 前掲論文  97~98ページ)

 

  このことは、船型の簡易化が使用鋼材料の節約をとおして工数短縮=建造期間の減少をもたらすとともに、それと同等あるいはそれ以上に、建造工程における簡易化(=改善)をとおして工数の減少をもたらしていたことを示唆する。
     (後藤伸 前掲論文  105ページ)

 

  第一に、戦前と戦後の造船技術の連続性について。戦後の造船業の技術革新が溶接ブロック建造法に求められるとすれば、この建造法は戦後日本の造船業にまったく新規の工法であったということはできない。既にみたように、大手の造船所では1920年代初頭から溶接技術の導入、開発を手掛け、戦標船の建造では溶接による接合が船体のかなり広い範囲にわたって用いられた。また、ブロック建造についても、自然発生的におこなわれていた部材の小組立程度の段階から、さらには先行艤装方式さえもが意識的に試みられ、そしてそれは大量生産という点ではかなりの成果をおさめることができたのである。
 第二に、戦前と戦後の造船技術の格差について。戦時に試みられたこれら建造方法は、まさに戦時という特殊事情のもとで採用されたものであり、平時での建造方法としてそのままで通用するわけではなかった。たとえば、電気溶接一つ採り上げてみても、これが戦時に急ピッチで採用されたのは、鋼材の節約もさることながら、鋲打ちのための熟練工が不足し、まったくの素人でも扱える接合技術として導入されたという事情は無視できない。しかも、手動ないしせいぜい半自動の溶接機によって接合された船舶は、戦標船という船体構造が極度に簡易化された小型船舶が主であり、戦後展開されるような大型商船の溶接ブロック建造を可能とするには、船舶設計、溶接技術、使用鋼材、運搬設備、工程管理など多方面にわたるいくつもの困難な技術的ハードルを超える必要があった。
     (後藤伸 前掲論文  119~120ページ)

 

このように、戦前期には「契約成立ごとに詳細な設計図面を作成」することから開始される個別の受注生産品であった船舶が、規格化されることによって大量生産を容易にし、戦時の船舶需要の急増への対応が試みられたこと。そして、戦時標準船製造の経験には、戦後の造船業の生産技術への連続的側面があることが主張されている。

 確かに、生産技術の観点からは、そのような評価も可能なのであろう。

 しかし、「船舶の簡易化」すなわち船体構造の極度な簡易化は船体の強度を犠牲にしたものであり、それは洋上で船舶を運航する乗組員を犠牲とするものであった(船員の人命の軽視、ということなのである)。

 

 

 第二次戦時標準船について、大内健二氏は以下のように指摘する。

 

  艦政本部は第二次戦時標準船の設計に際し、徹底した工期短縮を行なうために建造予定の各形式の船について、抜本的な対策としてかなり強引な設計の簡略化、それに伴う強引なまでの工作の簡略化を実施したのである。この抜本的な対策とは次のようになっていた。
  (イ)、早期完成のために量産化に適した構造の船であること。
  (ロ)、材料と工数の徹底した節約と節減。
  (ハ)、(ロ)項の要求から完成した個々の船舶の寿命は短期であっても可とする(戦争期間だけ持てば良い)。
  (ニ)、運用効率の上から一隻当たりの載貨重量は極力大きくする。
  (ホ)、個船には高性能は求めない。従って機関の低馬力と低速力は容認する(量産の利く低価格、低性能の機関の搭載が前提条件)。
  第二次戦時標準船に貫かれた建造方針は、一にも二にも徹底した簡易・簡略構造による建造機関の短縮であった。そして結果的にはこの第二次戦時標準船こそ、後に粗製濫造の見本として周知された、いわゆる「戦標船」なのである。
  第二次戦時標準船に採用された主な簡易・簡略化は次のとおりであった。
  (イ)、全船種からの二重底の廃止。
  (ロ)、船体のシーアやキャンバーの廃止。一部を除き曲面加工の廃止。
  (ハ)、ブロック建造方式の大幅採用。
  (ニ)、電気溶接工法の大幅採用。
  (ホ)、付属装置や機器の簡素化。
     (大内建二 『戦時標準船入門』 光人社NF文庫 2010  75~76ページ)

 

  この徹底した簡易構造の中でもその際たるものは船舶の安全の基本に関わる二重底の廃止であった。二重底とは船底を二重構造に組み上げ、船舶が座礁などしたときに船底の決定的な破損を少しでも軽減し沈没の危機から救うこと、また船体の強度を高めるための基本的な構造として採用されている、船舶の構造上必要不可欠なものである。
  二重底の組み立てはその船が起工され船台上で工事が始まった直後から開始される最重要の工程で、確かに多くの鋼材と多くの作業を要する複雑な工程である。この複雑な工程を排除することは船の建造のスピードアップには確かに極めて効果の大きなものであるが、その反面、船の安全性を根底から否定することでもあり、特に用船者側から見れば信じられない暴挙であった。
  二重底の撤廃に対しては航海の安全が保証されず、任務の遂行も保証できないとして各海運会社等からは、設計主務者である海軍艦政本部に対し厳しい批判と苦言が呈された。しかし艦政本部はこれら全ての批判や苦言を黙殺し二重底撤廃を強行したのである。つまり第二次戦時標準船は大小全ての船が二重底を装備していないという、信じられない構造の船となったのであった。つまり各船の船底は十~二十ミリの鋼板一枚だけであったのである。
  徹底した簡略設計や工作が強行され、また作業工程が簡略化されて完成した船はその後それぞれに多く問題を残すことになった。その代表的な例が水密性の欠陥であった。
  造船所で完成した船が、竣工検査で必ず実施するものに船体の水密性に対する検査があった。これは船体の吃水線以下の船体の漏水の検査で、不良工事は将来的にその船の沈没も招きかねず、事前に徹底的に検査することが決まりであった。ただこの検査は多くの時間を要することになり、不良個所の改修作業も決して容易ではなかった。第二次戦時標準船では完成時のこの検査を極めて簡単な簡易検査だけにとどめてしまったのである。
  このために信じられないことではあるが、完成直後から直ちに輸送任務に投入された各船では、しばらくの間は乗組員による漏水個所の手直し作業が行われるという、異常な状態が続くことが多かったのである。また甲板の鋼材の電気溶接個所も、工作不良により船内に水漏れが生じることは日常的で、就航後は当分の間、乗組員による様々な手直し作業が続くのは当たり前というのもこれらの船の特徴でもあったのである。粗製濫造の極みともいえる状態は確かだったのである。しかしこの混乱は設計だけに原因があるのではなく、後述するように多くの部分が造船作業員の技量の大幅な低下に由来していたのであった。
     (同書 80~82ページ)

 

 ここに、戦時標準船の姿から明らかになる大日本帝國の総力戦状況がある。戦時標準船は、それが鋼船であっても、船員の犠牲を前提にして成り立っていたのである(大日本帝國の戦争における徹底的な人命軽視については「統帥の無責任としての特攻精神 6 (海に沈んだ「陸軍」将兵)」及び「統帥の無責任としての特攻精神 8 (ボンバールと靖國の英霊)」でも、大内氏の論考により論じたことがある)。

 その戦時日本において、鋼船建造能力の限界が生み出したのが「木造船建造緊急方策要綱」による木造船建造であった(「しかし、急な大量生産のため浸水するものが続発し、木造船建造の目標は烏有に帰した」)。

 それこそが、かつては「緑のトンネル」であった欅並木が「大きいのから強制的に切られた。それで無くなっちゃったんだ」という戦時期の小平の経験の背景ということになる。

 

 

 

《記事一覧》

 カテゴリー
 「多摩武蔵野軍産複合地帯
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/cat71885235/index.html

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-c5f0.html
  昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(星野朗氏の論考紹介)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-00e7.html
  (1)に続き、多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(特に軍の展開状況)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-0537.html
  用語としての多摩と武蔵野(歴史的視点と自然史的視点)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-4460.html
  武蔵野台地における水資源確保の困難について矢嶋仁吉氏の論考紹介

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-cb9a.html
  小平地域の軍事関連施設の総力戦期的特質

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-8e6b.html
  軍産施設の進出に伴う集団住宅建設問題(住宅営団と東京瓦斯電気のジードルング)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-22a7.html
  武蔵野台地上での水源確保の困難を営団住宅の給水問題を通して再確認

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (8)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-242c.html
  『国分寺市の今昔』(2015)巻末の一覧を用いて軍産施設設置状況を再確認

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-b433.html
  箱根土地の小平学園開発と販売戦略としての小平簡易水道設置とナチス礼賛広告

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-6ff4.html
  「津田こどもの家」を中心に、総力戦下の女性動員と託児所の役割

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-152e.html
  木材供出で姿を消した青梅街道の欅並木と「木造船建造緊急方策要綱」

 

 「グローブマスター機墜落 (軍産複合地域としての昭和十年代多摩 戦後編-1)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-511f.html
  1953年の小平町のグローブマスター機墜落事故と沖縄の現在

 

 「撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-511f.html
  昭和18年の『週報』、『寫眞週報』記事により、木材供出の全国的展開の様相を読む
  (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」の補足記事)

 

 「溶鉱炉の火は赫々と燃えているが(戦時木造船の周辺 2)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-15f4ee.html
  昭和18年の『アサヒグラフ』記事により、木材供出の全国的展開の様相を読む
  (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」の補足記事)

 

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2018/09/23 15:27 → https://www.freeml.com/bl/316274/321487/
 投稿日時 : 2018/09/23 16:35 → https://www.freeml.com/bl/316274/321488/
 投稿日時 : 2018/09/23 18:50 → https://www.freeml.com/bl/316274/321489/

 

 

 

|

« 軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10) | トップページ | グローブマスター機墜落 (軍産複合地域としての昭和十年代多摩 戦後編-1)  »

20世紀、そして21世紀」カテゴリの記事

多摩武蔵野軍産複合地帯」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11):

« 軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10) | トップページ | グローブマスター機墜落 (軍産複合地域としての昭和十年代多摩 戦後編-1)  »