2020年1月 5日 (日)

戦時下のミッキー

 

(ミッキーとガスマスク、そして陸軍九〇式大空中聽音機)

 

 

 年賀状をデザインするに際し、必ずしも干支にちなむというわけではないが、昨年末(つまり年賀状デザインについて思いを巡らす時点)には、ネズミネタ路線に向かっていた。

 

 で…

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我ながらびっくり(私はディズニーファンではない)のミッキーマウス・モチーフである。枢軸国―もちろん我が大日本帝國も含まれる―による毒ガス攻撃から子供たちを守るためのガスマスクに施されたミッキーマウス・デザインなのである(後述)。しかし、あまりに不吉なイメージではある。親しい友人たちには確実にウケると予想されるが、私との付き合いが深くない方々には刺激が強過ぎるとも思われた。

 

 そこで…

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対米英開戦に先立つ時期、日本人の誰も著作権なぞ気にしない時代の日本産ミッキーの年賀カード(右から左に「アケマシテオメデタウ」とある)である。ミッキーマウスにしか見えないキャラは、日本軍のために活躍しているのである(ミッキーたちが操作しているのは日本陸軍の九〇式大聴音機―詳細は後述)。

 

 

 

 まず取り上げるのは不気味感全開のミッキーマウス・ガスマスクについてだが、1941年12月の真珠湾攻撃の衝撃の渦中の米国でデザイン(ウォルト・ディズニー)され、実際に製造(サン・ラバー社)されたものだという。ミッキーマウスをモデルとしたデザインは、ガスマスク装着時の恐怖感を和らげるはずであった(ゲーム感覚で装着訓練を重ねられることが期待された)。

 日本軍による米国本土への毒ガス攻撃が、現実的脅威として迫っているように感じられていたのである(太平洋には日本軍、加えて大西洋側の海面下にはドイツのUボートが潜行し攻撃の機会を窺っているものと考えられた)。

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 (During WW2 Walt Disney designed a Mickey Mouse gas mask for children, in the hope that they would not be frightened if they had to wear it. /41strange / twitter.com)

 

 実は、米国製ミッキーマウス・ガスマスクには先立つ存在があった。既に1939年以来ヨーロッパは戦場となっており、大陸諸国はドイツの占領下となり、残された英国も侵略されようとしていた。第一次大戦での毒ガス攻撃による悲惨は人々の記憶にあり、ドイツによる爆撃が現実となった英国でも、毒ガス攻撃からの市民防護が課題となっていた。市民にもガスマスクが配布される中で、子供用のガスマスクも用意されたのである。英国政府の用意したガスマスクはミッキーマウスにはまったく似ていなかったが、ミッキーマウスの名で呼ばれることになる。幼児の喜びそうな仕掛け(鼻が伸びる)も組み込まれた楽しげな色使いのマスクであった。要するに、幼児にも抵抗なく装着されることが目論まれてのデザインということである。

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  British Government issued child’s gas mask.Circa. 1940 / cartoonresearch.com)

 

 もっとも、1943年生まれのエリック・アイドル(あのモンティ・パイソンのメンバー)の記憶によれば、ガスマスクの装着は、おぞましい体験であったようだ。ゴムの臭いは耐え難いものであり、以来、エリック・アイドルにとってミッキー・マウスとスキューバダイビングは苦手なものとなったという(『エンパイアマガジン』の2019年1月号の記事にあるらしい)。ガスマスクの装着は容易でも快適でもなく、フィルターを通しての呼吸はそれだけでも息苦しいのに、強烈なゴムの臭いの中に閉じ込められるのである。

 

 英国政府が支給した子供用ガスマスクはミッキーマウスには似ていなかったが、そのネーミングはロンドンのディズニー・オフィスに受け入れられた。この幼児向けガスマスクをめぐる英国でのエピソードは、のちに米国製ミッキーマウス・ガスマスク製造会社となるサン・ラバー社の社主であるT.W.スミスにより米国にも伝えられた。1942年1月には、ウォルト・ディズニー自ら掲げるデザイン画と共に軍の市民防衛部門と科学戦部門、産業部門の責任者が並んでの記念撮影がされている。

 デザイナーのディートリッヒ・レンペルとバーナード・マクダーモットにより、ディズニーによるデザインは立体造形化され、実際にサン・ラバー社で製造されることになった。ミッキーマウスに加え、プルートや三匹の子豚タイプのガスマスクもデザインされたという。サン・ラバー社は、様々なゴム製品(玩具から文具、医療器具、そして軍需製品まで)の製造に従事しており、子供用の玩具もその一つであったが米国の参戦と共に玩具製造を中止していた中でのエピソードである。

 

 真珠湾攻撃の衝撃は大きく、やがてあるかも知れない枢軸国による米国本土への毒ガス攻撃への対処も米国の政治家の課題となった。当初、ニューヨーク市長のラガーディアは、市民の安全のためには5000万個のガスマスクが必要だと主張した。そんな中での子供用ミッキーマウス・ガスマスクなのである。

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 (45th Infantry Division Museum Oklahoma City Oklahoma / tripadvisor.jp)

 しかし、ミッキーマウス・ガスマスクの生産は戦争の全期を通して1000個前後で終わることとなった。実際に広く供給されたのは子供用のM1-1非戦闘員用ガスマスクであった(ただし幼児用としてのデザイン的な配慮はない)。時間と共に戦況は米国に有利となり、毒ガス攻撃の可能性も減少していく。非戦闘員用ガスマスクは最終的に30万個が供給されたとされるが、それが子供用だけの数字なのか大人用も含む数字なのかは(私の目を通した範囲では)判然としない。

 戦後もディズニーとサン・ラバー社の関係は続き、ライセンス契約の下でのサン・ラバー社のゴム製ディズニーキャラ・フィギアが製造されたという。

 米国本土においても英国においても、対戦国による毒ガスを用いた攻撃を経験することはなく戦争は終結を迎えた。ガスマスクが実際に用いられることはなく、装着したガスマスクが市民の生命を救う場面もなかった。が、英国ではガスマスクのフィルター部に用いられたアスベストによる健康被害が報告されているという。製造工程に従事した労働者が、アスベストの犠牲となったというのである(エリック・アイドルの幼児体験の中のガスマスクにもアスベストは用いられていたはずである)。

 約1000個という製造数のミッキーマウス・ガスマスクは、現在のコレクターにとっては入手困難なレアなアイテムとなっているらしい。限られた生産数であったことに加え、ゴムという劣化のしやすい材質の製造品であることが、コレクターにとっての入手難易度を高めているようである。入手難のミッキーマウスの本家(?)の米国製ガスマスク現存品に比して、ミッキーマウス・ガスマスクの元祖的存在である英国政府供給の現存数はそれなりに多いらしく、オークションサイト等に出品されている現存品を画像検索で確認出来る。

 

 

 

 そもそもは戦時期のミッキーマウスを用いたプロパガンダへの関心、特に戦前のわが大日本帝國でのミッキーの活躍への関心から、そして年賀状作成という課題から、「mickey mouse ww2 japan」なんて検索語でネット上の画像チェックをしたところから始まった話である。わが大日本帝國の戦前期におけるミッキーの活躍ぶり(要するに著作権なんか関係なし)に感心していたら、件の米英のガスマスク画像も発見。迷うことなく年賀状デザインに採用したわけだが、やはりあまりに不吉感が大き過ぎる。で、あらためていろいろ画像検索を進めるうちに、ミッキー(にしか見えない)キャラの活躍する、しかも軍事色あふれる年賀カードを発見したのであった。近頃は年賀状が流行らなくなりつつあるが、戦前のアメリカン・アニメキャラ・カード類には年賀モードのものも多くみられる。ベティーとミッキーが一緒になって「アケマシテオメデタウ」、なんて展開である。

 そんな中から、オークションサイトで$150の値で売りに出されていたのが、仮に「防空ミッキー」と呼ぶことにしたカードである。

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 (1930 Disney Mickey Mouse War & Postwar Vintage Japanese Postcard Very Rare Sold Price: $150 / antiquesnavigator.com)

 

 手前にあるミッキーに囲まれている巨大金管楽器のような装置が、侵入する敵機の爆音を捉えて位置を探るための聴音機。遠くの地平線上には日章旗が翻り、空には低翼単葉引込脚に見える日本軍戦闘機らしき姿。さて、ミッキーはどちらの側にいるのであろうか?

 

 で、あらためて聴音機に注目すると…わが陸軍の九〇式大聴音機であることが判明(写真画像からすると、防空ミッキーカードはかなりリアルな描写となっていることがわかる)。

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 (九〇式大聴音機/Wikipedia)

 

 画像をいただいたウィキペデイア先生によれば「九〇式大空中聴音機(きゅうまるしきだいくうちゅうちょうおんき)は1932年(昭和7年)に日本軍が採用した音響探知装置である」という、日本陸軍の防空用音響探知兵器である。ミッキーマウス部隊が運用しているのはわが帝國陸軍自慢(?)の防空システムに組み込まれた音響探知装置なのであり、となるとミッキー部隊は日本陸軍に所属していることにならないか?

 

 手元にある陸軍航空本部第二班編纂の『最新 世界航空大観』(厚生閣 昭和6年)の第四章は「國土防空」となっており、その「三 防空法(一)―積極的防空施設」に「F 聽音機」の項がある。

  さて聽音機は敵機上より發する爆音を聽取してその方向を判定するものであるから、その配置が適當でない場合には友軍戰闘機の妨害を受けて、遂に敵機の標定不可能となり、或ひは誤つて友軍戰闘機を標定することになる。それ故に照明地帯の前方に出来れば特に警戒地帯を設け、その中に聽音機を配置して敵機の航路を第一戰の照空燈に知らしめ、戰闘地帯の照明實施を成るべく早く行はせ、待機地帯内には聽音機を絶對に配置しない方を有利とする。而してこれらの聽音機を如何なる距離間隔をおいて、いかなる位置に配置すべきかは聽音機そのものの聽音圏等の性能に左右されることが多く、これらには總べて聽音機専門家の研究に俟つこととしよう。
     (175ページ)

このように説明されているが、再びウィキペディア先生を参照すると、

  聴音機とは飛行する航空機の音を捉え、その位置や移動方向を割り出すものであるが、より探知精度の高いレーダーの実用化で姿を消した。しかし、電波探知機(レーダー)による捜索技術で欧米等から後れを取っていた日本では、太平洋戦争終戦間際まで使用され続けた。好条件下では、約10km先の目標を探知可能であった。 

とされている。ウィキペディア先生の「聴音機」の項には、

  空中聴音機は方向と高低を特定するためにラッパや反射鏡のような集音装置を備え、音を導音して受音器で聞き取った。音源の方向と高低の特定は、音を聞き取る操作員が、音響が正面から来ていると感じ取ることで行われた。しかし、音響は気象条件、湿度、温度、風向等の条件によって大きく変化した。また雨天の際には集音部のラッパに水がたまるため、点検して除去する必要があった。
  聴音によって特定できる航空機の位置は常にずれている。数キロメートル離れた場所からの音波は、聴音するまでに数秒がかかり、その間に航空機は聴音によって特定された位置から離れている。照空、射撃に用いるには、この誤差を修正する必要があった。

とある(『ウィキペディア』の信頼性という問題は常にあるが、『ウィキペディア』に全面的に依拠するのではなく、記述を批判的に読んだ上で利用可能と判断した記述は利用するのが私の姿勢である)。

 昭和10年代後半には時速500キロを超える高速の軍用機が主流となっていく中で、「好条件下」でやっと10キロ先の目標が探知可能(ただし「数キロメートル離れた場所からの音波は、聴音するまでに数秒がかかり、その間に航空機は聴音によって特定された位置から離れている 」のである)という「積極的防空施設」なのであった。

 ところで、『最新 世界航空大観』には、「聽音機」の画像も掲載されている(176ページ)。

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 上が「喇叭形聽音器」で下が「蜂巣形聽音器」となっているが、この「喇叭形聽音器」は、形状からして九〇式大聴音機のように見える(掲載写真の「喇叭形聽音機」の向きは、ミッキー部隊が操作しているものにも重なる―左右に並ぶ向かって右側の「喇叭」と左側中段の「喇叭」による「聴音」で進入する敵機の左右水平方向での位置を判定し、左側の上下段の「喇叭」を用いた「聴音」により上下垂直方向での進入機の角度を測る)。車輪は外されているが、全体のサイズ、「喇叭」の形状、喇叭を支える支柱の形状を見ると、ほぼ九〇式聴音機そのものではないか。軍による採用は昭和7(1932)年とされているが、昭和6(1931)年の時点で、陸軍航空本部第二班編纂の『最新 世界航空大観』には写真が掲載されていたものと考えられる。「九〇式」とは「皇紀2590年式」を意味し、すなわち昭和5(1930)年であるから、「年式」の年号と「採用」の年号、そして掲載写真の書籍発行年号の異同という細かいところにも、つい眼が向いてしまう(本文は「聽音機」で写真キャプションでは「聽音器」であるところにも)が、要するに1930年代の日本軍の「積極的防空施設」を操作しているのがミッキーマウスという話なのである。

 後方上空の低翼単葉引込脚の戦闘機らしき軍用機(両翼に記された国籍マークからして軍用機であろう)からすると、実際に日本陸海軍が低翼単葉引込脚の戦闘機を配備するのは1940年以降となるので、イラスト作者がリアルな描写を心掛けているとすれば、この防空ミッキー年賀カードも1940(昭和15)年以降に販売されたもの(雑誌の附録であった可能性もある)であるかも知れない(翌昭和16年12月には真珠湾攻撃による対米開戦となるので、このミッキーマウス・デザインでは昭和17年の年賀状には使えなくなってしまっていただろう)。

 

 

 

 以上、今年の年賀状をめぐるあれこれである。

 

 

 

 

【主な参照先】

 終末感漂う、戦時中の子供向けガスマスクとそれを付けた子供たちの古写真 / カラパイア
  http://karapaia.com/archives/52229440.html

 The Mickey Mouse Mask By Major Robert D. Walk
  http://www.gasmasklexikon.com/Page/USA-Mil-Mikey.htm

 Did you know Walt Disney designed the world’s weirdest gas mask? By John Kelly
  https://www.washingtonpost.com/local/did-you-know-walt-disney-designed-the-worlds-weirdest-gas-mask/2015/09/12/885be808-57d8-11e5-8bb1-b488d231bba2_story.html

 The Mickey Mouse Gas Mask— Used in Name and Design During WWII By Dave Bossert
  https://cartoonresearch.com/index.php/the-mickey-mouse-gas-mask-used-in-name-and-design-during-wwii/

 Gas Masks in the Second World War killed more people than they saved By John Simkin
  https://spartacus-educational.com/spartacus-blogURL124.htm

 “"Mickey Mouse" Gas Mask For Children WWII”
  https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g51560-d117287-i181179932-45th_Infantry_Division_Museum-Oklahoma_City_Oklahoma.html

 九〇式大聴音機 / ウィキペディア
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E3%80%87%E5%BC%8F%E5%A4%A7%E8%81%B4%E9%9F%B3%E6%A9%9F

 <骨董品シリーズ その62>空中聴音器 / 小林理研ニュースNo.96_3
  http://www.kobayasi-riken.or.jp/news/No96/96_3.htm

 日本の空中聴音機(Japanese Sound Locator)
  http://www17.big.or.jp/~father/aab/kikirui/soundlocator.html

 かつて戦時中に使用されていた、音波で対象物の位置を捕捉する「空中聴音機」の歴史 / カラパイア
  http://karapaia.com/archives/52068069.html

 

 

 

 



 

 

 

 

 

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2019年12月29日 (日)

東ドイツ建国70年目の「ドイツ民主共和国40周年記念勲章」

 

 2019年も残り数日となってしまったが、数日前に遡る話である。

 2019年は東ドイツ(ドイツ民主共和国)の建国70周年に当たる(「2019 70JAHRE DDR (幻の東ドイツ建国70年)」参照)。しかし、建国70周年の国家的祝賀行事を主催するべきドイツ民主共和国は、ご存じの通り、既に存在しない。1990年の建国41周年を迎えることなく、統一ドイツの名の下に、ドイツ民主共和国(東ドイツ)は消滅したのであった。それから30年が過ぎようとしている。

 そんな2019年の年末、たまたま、ネット検索で調べものをしていた際に、ネットショップで「ドイツ民主共和国40周年記念勲章」が販売されているのを発見したのである。

 で、迷わず購入してしまった。1989年、10月7日の建国40周年記念式典から1か月もたたないうちに、式典の主宰者であったホーネッカーは失脚し、ホーネッカーが築いたベルリンの壁も崩壊してしまう。その間際というか、短い時間の中で制定(1988年10月14日)され授与(1989年10月7日)された「ドイツ民主共和国40周年記念勲章」なのである。

 

 白いプラスティックのケース入りだが、フタとケースが別になっているスタイルではなく、フタとケースは蝶番により一体化されている(これまで入手した東ドイツの勲章・記賞類は、フタとケースが別のスタイル―弁当箱のような―であった)。しかもフタ側とケース側の両方が赤いフェルト敷きとなっている。特にコレクターというわけではないし、手元にある勲章・記章類の数も限られているので、どちらもどこまで一般的なスタイルなのかはわからない。

 1989年から30年が過ぎるわけで、その年月を反映してか、台のフェルトには小さな穴(虫食い?)があるし、メダルの表面にも黒く変色した部分がある。その一方で、いわゆる「使用感」はなく、「新品」の印象である(授与された建国40周年記念勲章は瞬く間に亡国記念章と化してしまい、佩用する場もなかったということでもあろうが)。裏面には「FÜR VERDIENSTE UM DIE DEUTSCHE DEMOKRATISCHE REPUBLIK」との銘があるので、授与されたのは国家に対する貢献が認められた人物ということになる。制定者はホーネッカーだというが、その制定者が失脚するような状況(1989年10月17日の政治局会議で解任動議)の中で、どのような規模で叙勲されたのであろうか?

 授与された者が手放したものなのか、授与の機会を失いデッドストック状態で倉庫にしまい込まれていたものなのか? いろいろと気になるが、とりあえずは入手の記録として2019年の最後の記事をアップしておこうと思う。

 

 

 

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2019年12月18日 (水)

國號尊重ニ關スル件(「日本・ニホン・ニッポン」資料編)

 

 前回の記事(「日本・ニホン・ニッポン」)では、我が国としての「日本」は、「ニホン」なのか「ニッポン」なのかについて取り上げた。その際に、「戦前、国体明徴論が盛んなころの国名呼称をめぐる議論」に言及したが、今回は「資料編」として、当時の議論の実際を紹介しておきたい。

 用いるのは、「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B02031473200、本邦国号及元首称呼関係一件 第一巻(外務省外交史料館)」である。タイトルには「附録 帝國議會ニ於ケル請願建議及議事録抜粋」とあり、

 (一) 我カ國國號ノ統一顕正稱呼使用ニ關スル建議(第五十二議會衆議院)
 (二) 我帝國國名ノ稱呼使用ニ關スル建議案(第五十九議會衆議院)
 (三) 我カ帝國國名ノ稱呼使用ニ關スル質問主意書(第六十三議會衆議院)
 (四) 國號尊重ニ關スル件(第六十五議會貴族院)
 (五) 我カ帝國國名ノ稱呼使用ニ關スル建議案(第六十七議會衆議院)

という構成となっている。昭和2(1927)年から昭和10(1935)年に及ぶ期間の、国名呼称に関する議会での論議を概観するために外務省内で作成された文書であろう。中でも「(四) 國號尊重ニ關スル件(第六十五議會貴族院)」(昭和9年2月19日)は、貴族院における実際の議論を伝えるものとなっており、今回はその全文を紹介しようと思う。原文の雰囲気を伝えるために漢字はなるべく旧字体(舊字體)を用い、歴史的仮名遣いによるカタカナ表記(假名遣ヒ)によるものとする。濁音の表記が、たとえばそのまま「ガ」となっている部分と、濁音であるにもかかわらず「カ」と表記されている部分、促音の表記が「ッ」である部分と「ツ」である部分等が混在しているが、当時の文書作成者(複数の可能性がある)による正書法理解の問題あるいは和文タイプ操作の技量の違いによるものという可能性も考え、その努力の程を伝えるためにも、原文表記を可能な限り(タイプミスと考えられるものも含め)尊重しておくこととした。その分、読みにくさも増していると思うが、そんな文面を通して、コピペ処理の存在しない時代の和文タイプ文書作成者の負担の大きさを読み取ってほしい。

 「國號尊重ニ關スル件(第六十五議會貴族院)」をネット検索しても、ヒットするのはアジア歴史資料センターの(読みづらい)画像資料のみである現状(注:1)があり、この貴族院におけるやり取りを味わうのは難しい。そこで、あえて文字起こし作業にトライした次第である。

 また、貴族院でのやり取りの中で「政府委員」として活躍している金森徳次郎は、この後に岡田内閣の内閣法制局長官(1934年7月10日-1936年1月11日)となるが、国体明徴論全盛の中、「天皇機関説論者」として排撃されることとなった。戦後、現憲法制定時の国会において「当時の金森国務大臣は「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは、通念として認められている」として、国名呼称の統一を退けている」(奥野昌宏 中江桂子 「メディアと「ニッポン」―国名呼称をめぐるメディア論」 2011)金森徳次郎が、国体明徴論全盛期の貴族院における政府委員として問題をどのように切り抜けようとしていたのか? 深く味わう機会を提供したい。便宜のために、その主張の核心部分を引用しておく。

  サウ致シマスルト、色々ナ考ヘ方モ出来ルノ(ママ)思フノデアリマスルガ、一番國家ノ根本法トシテ示サレテ居リマス所ノ憲法ハ大日本帝國憲法ト示サレテ居リマスルガ故ニ、「ダイニッポンテイコク」ナル呼稱ガ國家トシテ最モ立派ナ言葉デアルヤウニ考ヘマス、併ナガラ憲法自身ノ中ニ於キマシテ既ニ「大」ノ字ヲ取リ、帝國ノ「帝」ノ字ヲ取ツテ「日本臣民権利義務」或ハ「日本臣民ハ」ト云フ言葉ガアリマスルガ故ニ、憲法自ラモ其國號ヲ絶對ニ何方カニ據ラナケレバナラナイトサレテ居ル趣旨デハナカラウト思ヒマス、サウ云フ様ナ次第デアリマスルガ故ニ、現在ノ國名ノ言ヒ現ハシ方ハ傳統的ニ存在シテ居リマスル範囲内ニ於キマシテ、適當ナル場合ニ適當ナル字句ヲ選ンデ用フルト云フコトガ、、、、、、其當否ハ別ト致シマシテ現在普通ノ此絛約等ニ於テ言葉ヲ用ヒマスル時ノ心持デアル譯デアリマス。ソレカラ讀ミ方ニ付キマシテハ之ヲ「ニッポン」ト讀ムカ「ニホン」ト讀ムカ、是亦傳統的ニ發達シタル言葉ニ據ルコトガ正當デアルト思ヒマシテ、今色々ノ御説明ガアリマシタガ、固ヨリソレハ将来研究ヲ致シマスルケレドモ、現在ノ考ヘ方デハ之ヲ「ニッポン」ノミニ限定スルコトモ困難デアリ、「ニホン」ノミニ限定スルコトモ固ヨリ不當デアラウト思ツテ居リマス。詰リ發達シ来ツタモノデアツテ、人為的ニ發達シ来ツタモノデハアリマセヌガ故ニ、大體ニ其自然ノ發達ニ基イテ居ル、此美シキ言葉ヲ適當ニ又自然ノ推移ヲ伴ヒツツ、宜イ方ニ誘導シテ行クト云フコトガ正常ト考ヘテ居リマスガ故ニ、今仰セニナリマシタヤウニ「ニホン」ト云フ言葉モ、「ニッポン」ト云フ言葉モ各々淵源ガアリマシテ、サウシテ現ニ地名ニ置キマシテモ「ニホンカイ」ト云フ言葉モアレバ「ニッポンバシ」ト云フ言葉モアル譯デアリマシテ、之ヲ俄ニ何レニ確定スルト云フダケノ十分ナル研究ハ實ハ熟シテ居リマセヌ

 

 

 以下、「(四) 國號尊重ニ關スル件(第六十五議會貴族院)」の全文である。

 

 

 

(四)國號尊重ニ關スル件(第六十五議會貴族院)
   第六十五囘帝國議會貴族院請願委員第三分科會(内閣、司法省、逓信省、拓務省)
   議事速記第二號
       昭和九年二月十九日(月曜日)
○主査(男爵徳川喜翰君) 外ニ御質問ハゴザイマセヌカ、、、、御質問ハナイト認メマス。次ハ第百二十四號、國號尊重ニ關スル件、竝ニ第百三十二號ノ國號ノ稱呼確定ニ關スル件、之ヲ一括シテ問題ニ供シマス、島津公爵
〇公爵島津忠承君 第百二十四號、四(ママ)號尊重ニ關スル件、請願ノ趣旨ノ大要ヲ申上ゲマス「ダイニッポン」帝國ノ通稱ハ言フ迄モナク「ニッポン」デアリマス、然ルニ欧米人ハ之ヲ「ヤポン」「ジャパン」ナドト稱シテ居リマス、外國人ガ斯ノ如ク稱スルコトハ彼等ノ随意デアリマスケレドモ日本人自ラモ欧米人ニ對スル外交文書、國際用語、日常ノ会話等ニ於テ彼等ト同ジク是等ノ稱呼ヲ使用シテ居リマス、是ハ通商、交際ノ便宜ニ依ルコトデアリマセウケレドモ、畢竟多年ノ追従思想ニ基クモノデアリマシテ、甚ダ遺憾デアリマス、我國ハ現在國際聯盟ヲ脱退シマシテ迄モ本邦獨自ノ正常ナル國是ヲ世界ニ認識セシメントスル時ニ於テ我等國民ハ祖先ヨリ傳来セル「ニッポン」固有ノ精神ヲ作興シナケレバナラナイノデアリマス、此時機ニ於テ彼等外國人ノ使用スルガ儘ニ本邦人モ多年使用シテ居リマシタ「ジャパン」「ヤポン」等ノ言葉モ言語及文書ヨリ公私共ニ一掃シテ、海外ニ對シ、「ニッポン」ト云フ正當ノ稱呼ニ復帰セシムルコトハ國民思想上、文教上影響スルコトガ少クナイモノト信ジマス、ソレ故ニ政府自ラ「ジャパン」「ジャポン」等ノ呼稱ヲ廢止シテ「ニッポン」又ハ「ダイニッポン」ト正サレタイト云フ請願デアリマス、次ニ第百三十二號ノ國號呼稱確定ニ關スル請願ノ要旨ヲ申上ゲマス、従来我國ハ我國ヲ稱スルニ或ハ「ダイニッポン」帝國ト言ヒ、或ハ「ニホン」國ト稱シ、通俗ニハ「ニッポン」「ニホン」ト呼ンデ居リマス、而シテ外國人ニ於テハ或ハ「ジャパン」「ジャポン」ト稱シテ居リマスガ是ハ畢竟スルニ、我國名稱ノ確定シナイ結果ニ起因スルモノト云フベキデ甚ダ遺憾デアリマスカラ、國内ハ勿論外國ニモ我國ノ名稱ヲ正確ニ呼稱セシムルヤウ、決定サレタイト思ヒマス
〇主査(男爵徳川喜翰君) 此際チョット御諮リ致シタイト思ヒマス、第百三十二號、國號ノ稱呼確定ニ關スル件ノ紹介議員デアル一絛公爵ヨリ一應請願提出ノ理由ヲ説明イタシタイト云フ御申出デゴザイマス、之ヲ許可スルコトニ御異議ゴザイマセヌカ
   (「異議ナシ」ト呼フ者アリ)
〇主査(男爵徳川喜翰君) 御異議ナイト認メマス、一條公爵
〇委員外議員(公爵一條實孝君) 御許シヲ得マシテ第百三十二號ノ請願ノ件ニ關シマシテ紹介議員トシテ一通リノ御説明ヲ申上ケタイト思ヒマス、只今御擔當ノ島津公爵カラ御話ガアリマシタ様ナ請願ノ御趣旨デゴザイマスルガ、更ニ附加ヘテ申上ゲマスト、日本ト書キマシテ、之ヲ通俗ニ我々ノ間ニ或場合ニハ「ニッポン」ト呼ビ、更ニ「大」ノ字ヲ附ケマシテ「ダイニホン」トカ、「ダイニッポン」、又國ガ附キマスト「ダイニッポン」帝國トカ、或ハ「ダイニホン」國トカ、或ハ色々ニ呼バレルノデアリマス、私ガチョット調ベマシタダケデモ外交文書ニ例ヘバ稱シ奉ルノニ、「ラムプルール○デュ○ジャポン」ト書イテアル、「ニホン」國皇帝陛下、「サ○マゼステイ○ラムプルール○デュ○ジャポン」、「ニホン」國皇帝陛下ト書イテアルノモ拝見イタシマス、或ハ海軍ノ兵隊ノ帽子ノ「ペンデント」ハ「ダイニッポン」軍艦、是ハ「ダイニホン」ト常用ニ讀ミ得ルノデアリマセウガ、サウ云フヤウナ「ペンデント」ニナツテ居リマス、ソレ等ノ例ハ數ヘ擧ゲレバ澤山ニゴザイマセウト思ヒマスガ、要スルニ今日ノ日本ニナツテ、國ノ稱號ガ色々ニ亘ツテ居ル、之ヲドウゾ御確定相成ツテ、外國ニモ日本ノ正常ナル固有名詞ヲ呼バセルヤウニシテ戴キタイ、斯様ナ請願ノ趣旨デゴザイマス、何卒御審議ヲ御願ヒ致シマス、請願ノ趣旨ノ貫徹イタシマスヤウニ御願ヒ致シマス
〇主査(男爵徳川喜翰君) 尚ホ御諮リ致シ度ウゴザイマスガ、只今問題ニナツテ居リマス國號稱呼ニ關シテ、議員三上博士ハ夙ニ識見ヲ有セラレテ居リマスノデ、此際委員外議員ノ發言トシテ同博士ノ説明ヲ伺ヒタイト思ヒマス、御異議ゴザイマセヌカ
   (「異議ナシ」ト呼フ者アリ)
〇主査(男爵徳川喜翰君) 御異議ナイト認メマス
〇委員外議員(三上参次君) 此際一言イタスコトヲ許サレマシタノハ甚ダ光栄ト存ズル次第デゴザイマス、先刻島津公爵竝ニ一條公爵カラ御説明ノアリマシタノデ、今日日本國號ヲ一定シテ普ク外人ヲシテ之ヲ用ヒセシメルト云フコトノ必要ハ最早多言ヲ要シナイコトト思フノデアリマスルガ、私ハ年来此外國人或ハ「ジャパン」ト言ヒ「ジャポン」ト言フコトハ彼等ノ随意デアリマスガ、日本政府ガ外國ノ文章デ文字ヲ書キマス時ニ、同ジク外人ニ追随シテ「ダイニホン」トカ「ニッポン」トカヲ用ヒズシテ、「ジャパン」とか「ジャパニーズ○クラブ」ダトカ云フコトヲ言ツテ居ルノハ誠ニ不見識極マル話デ、實ハ日本ノマダ極メテ幼稚ナル時代、外交ニ於テ殆ド總テノコトニ於テ諸外國ニ追随外交ヲ致シテ居ツタ時ノ餘弊ガ今日マダ除カレテ居ナイ、或場合ハ(ママ)於テハ日本ガ世界ヲ「リード」シナケレバナラヌト云フ今日ノ有様ニナツテ居リマスルノニ、大事ナ自分ノ國號ガマダ一定セラレテ居ラヌト云フコトハ非常ナ不面目デアリマス、ノミナラス一歩ヲ進メテ言ヒマスレバ、我ガ國家ノ恥辱ト申シテモ宜シカラウト思フノデアリマス、此請願書ノ説明ヲ見マスルト云フト「ジャパン」ト云ヒ「ジャポン」ト云フ言葉ハ、元ノ時代ニ伊太利人ノ「マルコポーロ」ガ支那政府ヘ傭聘セラレテ居リマシタ男デアリマスルガ、ソレガ紀行文ヲ書キマス時ニ「ジパング」ト云フ言葉ヲ用ヒタノガ抑々始メデ、ソレガ段々變化シテ「ジャパン」トナリ「ジャポン」トナツタモノト見エルノデアリマスルガ、其「ジパング」ト云フノハ、當時ノ日本國ト云フ文字ヲ其時ノ元ノ時代ノ發音デサウ言ハレタノデ、ソレガマダ多少訛ツテ居ルモノト思フノデアリマス、原因ハソンナコトデアリマセウガ、兎ニ角一個人ト雖モ、或ハ地方ノ小サイ町、村若クハ部落ナドニハ漢字ヲ用ヒル結果トシテ、人ニ依ツテ讀ミ方ガ二通リニモ三通リニモナルコトガアリマス、一個人ニシテモ、甲ト呼バレテモ返辭ヲシナクチャナラヌ、乙ト呼バレテモ辺辭ヲシナクチャナラヌト云フ場合ガアルノハ大變困ルト云フコトハ、ドナタモ御承知ノコトデアルト思ヒマス
況ンヤソレガ一國トシテ一定シナイト云フヤウナコトハ甚ダ困ツタ話デアル、ソコデ一定ヲスベキデアルト云フコトニ付テハ殆ドモウ誰モ異論ノ無イコトト思フノデアリマスルガ、ソレガ若シ餘リ考慮ヲ拂ハレズシテ政府ニ於テ一定セラルト云フコトニナリマスト云フト、又今日問題トナツテ居リマス所ノ「メートル」法と、尺貫法問題ノ如キコトガナイトモ限ラヌノデアリマシテ、私ハ之ヲ機会ニ少シク愚見ヲ申述ベテ見タイト思フノデアリマス、ソレデ外國カラ云フコトニ従フノハドウデモ宜イヂャナイカ、其通リニシテ宜イヂャナイカト云フコトニナレバ、是ハ別問題デアリマスガ、實ハ日本ト云フ言葉モ支那ト交際ノアリマシタ時ニ多分支那人ノ呼ンダ言葉ヲ日本ガ其儘用ヒタノデアラウト思ヒマス日本ノ古イ言葉ハ固ヨリ申スニ及バズ大八州ノ國デアルトカ大和ノ國トカ云フノデアリマシテ外交上即チ支那ニ對シテ日出處デアルトカ、或ハ日本ノ國デアルトカ、日ノ本ノ國デアルトカ云フノハ即チ日本ト云フコトノ用ヒラレタ元デアリマシテ、國内ニ對スル稱呼デハ元々ナイノデアリマス、従テ古イ書物ニ假名ガ附イテ居リマストカ、若クハ歌ノ書物ノ如キ和名デ書キマシタ場合ニハ、日本ト書イテ居リナガラソレニ「ヒノモト」トカ「ヤマト」トカ云フ和名ヲ附ケテ居ルノデアリマス、然ル所其日本ト云フ二字デス、或ハ「ニホン」ト呼バレ、「ニッポン」ト力ヲ入レテ言ツテ居リマス、是ニ依ツテ我々共實ニ過去ノコトヲ考ヘテ見マシテモ、今日ノ實際ヲ顧ミマシテモ、ドツチニ従ツテ宜イノデアルカト云フコトハ大變ニ困ルノデアリマス、此請願ヲサレタ人モ其中デ何ニ決メテ呉レト云フコトニナレバ御困ニナルコトデアラウト思フ、政府モ定メテ困ルコトデアラウト思フ、「大」ト云フ字ヲ附ケル附ケナイト云フコトハ是ハ自分デ自ラ尊厳ヲ加ヘルトカ、外國ニ向ツテ地歩ヲ占メルトカ云フ意味デ、附ケル附ケヌハ誰デモ分ルコトデアリマスガ、日本政府自ラ「ニホン」ト言ヒ、「ニッポン」ト云フコトニナルト非常ニ困ル、現ニ日常ノ言葉ニシマシテモ、従ツテ色々ノ字引ニ見マシテモ、日本の二字ヲ冠シテ居ル言葉デ「ニホン」ト發音シ、「ニッポン」ト發音シ或ハ両様トモ發音シテ居ルト云フコトガ實ニ多イノデアリマス、即チ電話ノ帳面ヲ見マシテモ日本ト書イテ置イテ、果シテ「ニホン」銀行ト言フカ、「ニッポン」銀行ト言フカ、日本銀行の發行シテ居リマス所ノ兌換等券ヲ見マスト云フト、羅馬字デ「ニッポン」銀行ト書イテアリマス、ケレドモ之ヲ呼ブ人ハ或ハ銀行ニ奉職シテ居ル人自身デサヘモ、「ニホン」銀行トモ言ツテル人ガアル郵船會社モ同様デアル、郵船會社ノ旗ノ立テアルノヲ見マスト云フト、「ニッポン」郵船會社トアリマスケレドモ、會社ニ勤メテ居ル人デモ、「ニホン」郵船會社ト言ツテ居ル、何ガ何ダカ分ラナイノデアリマス、サウ云フ風ニ非常ニ両様ニ錯雑シテ居リマス、ソレハ甚ダ講釈メイテ如何デアリマスガ、理由ノアルコトデアリマシテ、日本ト書イテ多分元ノ時代ニ漢音ノ儘ニ「ジツポン」ト言ツテ居ツタノデアリマス、日月ノ日ノ字デアリマス、併ナガラ日本ニハ早ク呉音ガ入リマシテ、佛教其他ニ依ツテ日ト云フ字ニハ「ニチ」ト云フ發音ガ多イノデアリマシテ、「ジツ」ト云フコトハ餘リ多クナイ、例ヘハ日月ト云フ様ナ時ニハ「ジツ」「ゲツ」ト言イマスガ、日ト云フ言葉ヲ他ノ言葉ニ附ケテ日進月歩トカ云フヤウナ時ニハ「ニチ」トナツテシマウ、大抵ノ場合ニ日ト云フ字ハ「ニチ」ト發音スルノデアリマス、故ニ正シイ呉音ノ發音ニ依ルト云フト「ニチホン」、「ニチホン」ガ詰レバ即チ「ニツポン」トナルノデスカラ、「ニツポン」ガ正シイト思ヒマスケレドモ日本ノ國語ノ習慣トシテ詰メル音トカ、或ハウント撥ネル音ノ時ニハ必ズ前後ノ發音ヲ充分ニ日本語ノヤウニ變ヘテ發音スルコトガ多イノデアリマス、殊ニ此國語ノ發達ノ上カラ見マスト云フト、支那カラ来タ言葉ヲ日本ノ在来ノ言葉ノ如クニ用ヒル場合ガ多イノデアリマス、例ヘバ孔子、孟子ノ孔子ノコトヲ「クジ」ト云フ風ナコトヲ言ヒマス、又近頃ハ物質的文明ニ依ツテ色々新シイモノガ出マス、ソレヲ歌ニ詠む時ニ汽車ナント言ハズ「キサ」ト云フコトヲ言ヒマス、サウ云フヤウナコトハ昔カラ大變多イノデアリマス、ソレデ日ト云フ字モ毎日付ケル所ノ日記ナドモ「ニツキ」ト言ヒマスト支那言葉臭イモノデスカラ、之ヲ「ニキ」ナドトフ、國語ノ書物ニハ「ニキ」ト書イテアル、ソレト同ジ様ナ意味デ「ニツポン」モ「ニホン」ト云フヤウニナツタノデアルコトハ確カデアラウト思ヒマス、併ナガラ今日ト雖モ少シク強メテ言ヒマスル時ニハ「ニツポン」一ダトカ、「ニツポン」晴レトカ、「ニツポン」男子トカ云フヤウニ詰メテ「ニツポン」ト言ヒマスケレドモ、其他ノ場合ニ於テハ「ニホン」ト云フ言葉ガ可ナリ多イノデアリマス、ソレハ國語ノ性質カラ来マシタ、又地方ニ依リマシテ「ニホン」ト云フ所ト「ニツポン」ト云フトコロガアル、例ヘバ東京ノ眞中ヲ「ニホン」橋ト言ヒマスケレドモ、大阪ノ日本橋ハ「ニホン」橋ト言ハズニ「ニツポン」橋ト言ツテ居リマス、地方ニ依ツテ違ヒマス、故ニ之ヲ格別考慮セズシテ一定シマスト云フト、大變ニ又面倒ニナリマスカラシテ十分ナ御考慮ノ上デ御一定ヲ願ヒタイ、御一定ヲ願フト云フ點ニ付テハ私非常ニ熱心ニ希望スルノデアリマスケレドモ、其定メ方ニ付テハ當局者ニ於テ十分ナル御考慮ヲ御拂ヒ下サルコトヲ願ヒタイノデアリマス、ソレガ定マリマスレバソレヲ羅馬字デ書クト云フコトハ、モウ一擧手一投足ノ勞デアリマスカラシテ、サウシマスレバ外務省ノ方ノ公文書ニモ其通リヤルト思ヒマス、今日ノ國威ノ盛ンナル日本ニ於テ猶豫ナク政府ニ於テ御裁定アルベキ問題ト思フノデアリマス
〇政府委員(金森徳次郎君) 此二ツノ問題ハ非常ニ重要ナコトデアリマシテ、且ツ多年ノ沿革モ存スル所デアリマシテ、今日遽ニ私共意見ヲ申上ゲテ御耳ニ達スルコトハ實ニ困難デアリマス、タダ、今迄ドウ云フヤウニナツテ居ルカ、現在迄ノ研究ハドウ云フ気持デ進行シテ居ルカト云フコトダケヲ申上ゲテ、問題全體ハ尚ホ将来ノ研究ニ篤ト残シタイト實ハ思ツテ居リマス、是ニ付キマシテ従来明瞭ニ國家的ニ特別ニ之ヲ意識シテ決定サレタコトハナイト心得テ居リマス、第一ニ此請願ノ中ニ含マレテ居ル問題ガ凡ソ三通リノ内容ガ含マレテ居ルト思フノデアリマス、第一ノ問題ハ我國ヲ言ヒ表ハス時ニ漢字ヲ用ヒル場合ニ如何ナル漢字ガ適切ニ之ニ當嵌マルノデアルカ、即チ「ダイニホン」ト言フカ、「ダイニホンテイコク」ト言フカ、「ニホンコク」ト言フカ、斯ウ云フ問題デアラウト思ヒマス、第二ノ點ト致シマシテハ斯ク書キ現サレタル漢字ガ言葉ニ依ツテ讀マレル時ニ「ニツポン」ト言フカ「ニホン」ト言フカ、其何レヲ以テ正シトスルカト云フ問題デアラウト思ヒマス、第三ノ問題ハ外國ノ言葉ノ中ニ於テ、又ハ外國人ノ立場ニ於テ我國ヲ呼稱スル時ニ如何ナル言葉ヲ用フルコトヲ是認スヘキカ、従テ又是ト對應シテ外國人ニ言ツテ聴カセル時ノ我國ノ呼稱ヲモ如何ニスベキカ、斯ウ云フ三點ニ分ルルヤウニ思ヒマス、デ我國ヲ如何ナル漢字ヲ以テ現ハスノカハ固ヨリ、無限ノ過去ヨリシテ傳ツテ居リマス所ノ我國ノ歴史發達ノ段階ニ於テ、成熟シテ居ル字ニ據ルヘキコトハ是ハ一點ノ疑ヒハナイノデアリマス、従テ之ヲ人為的ニ特ニドウ云フ字ニスルカト云フコトハ、非常ナ特別ナ理由ガアレバ格別デアリマスケレドモ、殊更ニ之ヲ動カス必要ハ無イト思フノデアリマス、繰返シテ申シマスレバ、日本ノ起源ト相伴ツテ日本ノ國名モ亦起ツテ居ル譯デアリマスカラ今日人為的ニ之ヲ何カニ確定スルト云フコトハ即チ人為的ニ變更スルト云フ意義ヲ含ンデ居ルヤウニ思ハレルノデアリマス、ソコデ今マデ次第々々ノ發達ヲ以テ、今日ノ現状ニ於テ認メラレテ居リマス文字ニ據ルコトガ正常ト思フノデアリマス、サウ致シマスルト、色々ナ考ヘ方モ出来ルノ(ママ)思フノデアリマスルガ、一番國家ノ根本法トシテ示サレテ居リマス所ノ憲法ハ大日本帝國憲法ト示サレテ居リマスルガ故ニ、「ダイニッポンテイコク」ナル呼稱ガ國家トシテ最モ立派ナ言葉デアルヤウニ考ヘマス、併ナガラ憲法自身ノ中ニ於キマシテ既ニ「大」ノ字ヲ取リ、帝國ノ「帝」ノ字ヲ取ツテ「日本臣民権利義務」或ハ「日本臣民ハ」ト云フ言葉ガアリマスルガ故ニ、憲法自ラモ其國號ヲ絶對ニ何方カニ據ラナケレバナラナイトサレテ居ル趣旨デハナカラウト思ヒマス、サウ云フ様ナ次第デアリマスルガ故ニ、現在ノ國名ノ言ヒ現ハシ方ハ傳統的ニ存在シテ居リマスル範囲内ニ於キマシテ、適當ナル場合ニ適當ナル字句ヲ選ンデ用フルト云フコトガ、、、、、、其當否ハ別ト致シマシテ現在普通ノ此絛約等ニ於テ言葉ヲ用ヒマスル時ノ心持デアル譯デアリマス。ソレカラ讀ミ方ニ付キマシテハ之ヲ「ニッポン」ト讀ムカ「ニホン」ト讀ムカ、是亦傳統的ニ發達シタル言葉ニ據ルコトガ正當デアルト思ヒマシテ、今色々ノ御説明ガアリマシタガ、固ヨリソレハ将来研究ヲ致シマスルケレドモ、現在ノ考ヘ方デハ之ヲ「ニッポン」ノミニ限定スルコトモ困難デアリ、「ニホン」ノミニ限定スルコトモ固ヨリ不當デアラウト思ツテ居リマス。詰リ發達シ来ツタモノデアツテ、人為的ニ發達シ来ツタモノデハアリマセヌガ故ニ、大體ニ其自然ノ發達ニ基イテ居ル、此美シキ言葉ヲ適當ニ又自然ノ推移ヲ伴ヒツツ、宜イ方ニ誘導シテ行クト云フコトガ正常ト考ヘテ居リマスガ故ニ、今仰セニナリマシタヤウニ「ニホン」ト云フ言葉モ、「ニッポン」ト云フ言葉モ各々淵源ガアリマシテ、サウシテ現ニ地名ニ置キマシテモ「ニホンカイ」ト云フ言葉モアレバ「ニッポンバシ」ト云フ言葉モアル譯デアリマシテ、之ヲ俄ニ何レニ確定スルト云フダケノ十分ナル研究ハ實ハ熟シテ居リマセヌ、現在ノ普通ノ概念ト致シマシテ一般ニ言ヘバ「ニッポン」ト云フ、併ナガラ歌等ノ場合ニ鋭キ言葉ヲ避クルヤウナ場合ニハ「ニホン」ト言フヤウナ慣例モ一部ニハ行ハレテ居リマスルガ、政府トシテハ固ヨリ確タル結論ニ到達シテ居ル譯デハアリマセヌ、ソレカラ日本ヲ外國人ガ呼稱スル場合ニ如何ナル呼稱ヲ用ヒセシムベキカト云フコトハ、是ハ一番困難ナル問題デアリマシテ、従来ノ沿革ヲ見マスルノニ、可ナリ其間ニ、、、、、、大キナ變動ハアリマセヌケレドモ、少シヅツノ變動ハ行ハレテ居ルヤウニ思ハレマス、デ今日ノ國際事情ニ於キマシテ言葉ガ皆違ツテ居リマスル為ニ、外國ノ名ヲ其國自體ノ呼ビ方ニ依ツテ呼バセルコトハ相當困難デアリマス、縦令羅馬字ニ日本ノ發音ヲ寫シ出シテモ、其國ニ於キマシテ必シモ其發音ヲスルト云フコトハ期待出来ナイ譯デス、ソコデ今日マデノ實情トシテハ、國家ノ名誉ニ影響ノ無イ限リ、諸國ハ各々其用ヒル言葉ノ中ニ普通ニ認メラレテ居ル呼ビ方デ國ヲ呼ンデ居ル例ノヤウニ考ヘマス、従テ獨逸國ヲ日本デ呼ビマスル時ニハ決シテ「ドイツチェスライヒ」トハ申シマセヌ、矢張リ獨逸國ト呼ンデ居リマス、英國、米國皆同ジデアリマシテ、決シテ其本國ノヤウニハ呼ンデ居リマセヌ、又獨逸人ガ英語デ絛約ヲ書キマスル時ニハ矢張リ「ジャマニイ」ト云フ言葉ヲ用ヒテ居ルサウデアリマス、大體國際間ニ於キマシテハ自カラ其基本トナツテ居ル言葉ノ慣例ニ従ツテ國ヲ呼ブコトガ、先ヅ動キナキ慣例ノヤウニ聞イテ居リマス、従ツテ日本ガ自國ヲ「ニツポン」ト云フ名前ヲ以テ外國ニ完全ニ呼バシメヤウト致シマスルコトハ、一般ノ考ヘ方カラ行キマスルト可ナリ不自然ナ點ヲ含ンデ居ル、是ハ私ノ研究ト申シマスルヨリモ寧ロサウ云フ絛約ヲ取扱ヒマスル主務局ノ意見デアリマスガ、サウ云フヤウニ聞イテ居リマス、斯ウ云フ考ヘ方ガ絶對ニ正シイカドウカハ研究ノ餘地ガアリマスルガ、一應ハソレダケノ理由ノ成立スルモノト了解シテ居リマス、更ニ進ミマシテ、日本人ガ外國ニ向ツテ外國文ノ中ニ於キマシテ國ヲ呼ブ時ニ「ジャパン」ト呼ブカ「ニホン」ト呼ブカト云フ問題ガアリマスルガ、是ガ一番問題トナツテ来ル點デアラウト思ヒマス、現在ノ所各々國ト國トノ間ニ於キマシテ、今申シマシタヤウニ相手ト言ヒマスカ、現ニ使ツテ居ル言葉ノ一般ノ呼ビ習ハシニ従ツテ呼ンデ居ル為ニ、矢張リ英語ノ場合ニハ英語風ノ呼ビ方ヲシテ居ル譯デス、斯ノ如キ言葉ヲ以テ日本國ヲ日本人ガ特殊ノ場合ニ言ヒ現シマスルコトハ、ソレ自身絶對ニ避ケナケレバナラナイト云フ程ノモノデハナイノデハナカラウカ、世界ノ諸國ガ各々自分ノ國ヲ其通リノ言葉ヲ以テ人ニ呼バセルコトヲ強制ハシテ居リマセヌ。日本ノ言葉ヲ見ルト直グ分リマスルガ、今述ベマシタヤウニ獨逸國ト云フヤウナ言葉ヲ日本デハ使ツテ「ドイッチュランド」ヲ稱シテ居ルノデアリマス、或ハ又「スペイン」ト云フ言葉ヲ使ツテ居リマスルガ、本國人ハ恐ラク「スペイン」ト呼ンデ居リマセヌ、又「オランダ」ト言ツテ居リマスルケレドモ、本國人ハ矢張リ別ナ言葉ヲ使ツテ居ルヤウニ思ハレマス、サウ云フ風ニ交互的ニ相互ノ間ニ於キマシテ此外國ノ關係ニ於キマシテ幾分違ツタ言葉ガ行ハレマシテモソレガ特別ニ其文字ニ含マレテ居ル悪イ點ガ無イ限リハ是認スベキモノデアラウト云フノガマア主務局ノ意見デアリマシテ、甚タ卑怯デハアリマスガ、之ニ對シテ批評ヲ加ヘナイデ茲ニ申上ゲタ次第デアリマス
〇委員外議員(三上参次君) 私ハ一向其儀禮ニ馴レナイノデアリマスガ、チョット質問ヲ致スコトハ出来マセヌデセウカ、今ノ問題ニ付テ、、、、、、
〇主査(男爵徳川喜翰君) 御諮リ致シマス、只今三上博士カラ本件ニ關シテ質問ヲシタイト云フ申出ガゴザイマスガ、許スコトニ御異議ゴザイマセヌカ
   (「異議ナシ」ト呼ブ者アリ)
〇主査(男爵徳川喜翰君) 御異議ナイモノト認メマス
〇委員外議員(三上参次君) 今ノ政府委員ニチョット御伺ヒシタイノデアリマスガ、御答辯ノ全體ヲ通ジテ至極穏健ナコトデ、御意見ニ敬服致シマスデスガ唯日本政府ノ態度トシテ少シ私ニ意ニ満タヌコトガアリマス、例ヘバ支那デ革命後中華民國ト云フ言葉ヲ用ヒルコトニナリマシテ、日本政府モ御承知ノ通リニ中華民國ト云フ言葉ヲ使ツテ居ル、此中華ト云フコトハ支那人自身例ノ自ラ尊大ニスルト云フ風デアリマスカラ、中華ノ中ハ即チ中國ノ中デアル、華ト云フコトハ即チ華夷ト對スル昔カラノ熟語デアリマシテ、自分ノ國ハ中華、中國ト言ヒ、他國ハ即チ東夷、西戎、南蛮、北狄デアル、夷狄デアル、ト云フ熟シタ言葉デ離ルベカザル熟語デアル、故ニ自ラ中華、中國ト云フノハ、民國ト云フノハ彼ノ自由デアリマスケレドモ、他國ヲシテ必ズ其國號ヲ用ヒシメナケレバナラヌト云フコトハ、他國ヲ非常ニ無視シタ言葉デアル、而モ其無視サレタ國ト云フモノハ、世界列國ノ内ニ於テ漢字ヲ用ヒル我ガ日本ダケデアリマス、英吉利デモ、仏蘭西デモ、獨逸デモ、伊太利デモ決シテ中華民國トハ言ヒヤシナイ、矢張リ支那トカ「シノア」トカ何トカ云フコトヲ言ツテ居ル、唯日本ダケガ此屈辱ヲ強ヒラレテ、其儘甘ンジテ居ルト云フ形ニナル、外務省デハ決シテサウ云フ、政府ヂャサウ云フ意味デハアリマセヌガ形ニ於テサウナル、是ハ漢學全盛時代ニ於テモ、サウ云フ不面目ナコトハ日本ハシテ居ラナイ、物徂徠流ノ人ニ於テハ無論支那ヲ中國ト言ツテ居リマスケレドモ、例ヘバ新井白石ノ如キハ自分ノ友人ガ支那ニ行ツテ支那語ヲ學ンデ来タト云フコトヲ報知ヲシマシタ時ニ、其手紙ノ中ニ華音ヲ學ンダ、華ノ音ヲ學ンダ、華音ハ中華ノ華デ支那語ヲ學ンダト云フコトヲ報知シマシタ手紙ニ、結構ナコトデアル、華音ト云フ字ハ何事デアル、即チ華夷内外ト云フ言葉デ、中華、中國、他國ヲ夷狄視シタ、彼ヲ呼ンデ華ト云フナラバ、自分ハ夷デ甘ンジナクチャナラヌコトニナル、自分自身ガ夷デ甘ンズルト云フコトハ、ソレデ宜シイケレドモ、自分ガ夷狄デアルナラバ我ガ一天萬乗ノ天子ヲ夷狄ノ酋長ト見ルカ、以後サウ云フコトハ御慎ミナサイト云フヤウナ厳格ナル注意ヲ與ヘテ居ル手紙ガアリマス、其外ノ漢學者ガ支那ニ心酔シテ居ル時代ト雖モ、尚且ツサウ云フ内外ノ區別ハ知ツテ居ル、然ルニ我國ノ政府ガ支那ノ言フ儘ニ従来ノ支那ト言フ言葉ヲ用ヒズシテ、中華民國ト云フ言葉ヲ用ヒテ居ルノハ、私ハ國家ノ非常ニ不面目デ、平常□ラズ思ツテ居ルノデアリマス、殊ニ聞ク所ニ依リマスト云フト是ハ私ガ間違ヒカモ知レマセヌ、事實デナイカモ知レマセヌガ、初メアノ言葉ヲ用ヒル時ニ、若シ中華民國ト漢字デ用ヒナイ、漢字ヲ用ヒル國ニシテ、漢字ヲ中華民國ト書カヌ郵便ハ或ハ配達ヲシナイコトガアルト云フ風ナ強イ言葉ヲ日本ニ向ケタト云フヤウナコトヲ聞イテ居リマスガ、是ハドウモ能ク分リマセヌガ、サウ云フコトデ甚ダ□ラヌト云フコトヲ思ツテ居リマス、今ノ「ジャパン」「ジャッポン」ニ付テモサウデアリマス、他國ノ政府若クハ他國ノ人間ガソレヲ用ヒル用ヒナイト云フコトハ、日本政府ノ世界ニ於ケル地位ノ如何ト云フコトニ依ルノデアリマシテ、日本政府ガ常ニ日本、大日本ト云フコトニ御用ヒニナリマスレバ彼等ガ長イ結果、、、、、短イ時間ノ中ニ用ヒルト云フコトハ御安心ナツテモ宜カラウト私ハ思フノデアリマス、唯是ダケヲチョット申上ゲテ置キタイト思ヒマス
〇政府委員(金森徳次郎君) 中華民國ノ點ニ付テ、是ハ私自身餘リ其事情ヲ委シクハ存ジテ居リマセヌガ、一部分了知シテ居ル點ヲ御答ヘ致シマスガ、當初中華民國ニ該當スル支那國ガ成立イタシマシタ時ニ、之ヲ如何ニ呼ブベキカト云フ點ハ、相當ニ論議セラレタノデアリマス、其議論ノ結果ト致シマシテ、矢張リ之ヲ支那國ト呼ブ、中華民國ト呼バナイト云フ方針ヲ以テ進行シテ居ツタ譯デアリマス、所ガ數年前ニ稍々方針ガ變リマシテ、別ニ中華民國ト云フ彼ノ國號ヲ其儘文字ニ現シ用ヒテモ、唯サウ云フ固有名詞トダケ輕ク考ヘテ置ケバ別ニ差支ヘモナイコトデアリ、又國際儀禮上其方が良イ場合ニハ、ソレヲ用ヒルモ、亦妨ゲナイノデアラウト云フ考ヘカラシテ、幾分カ中華民國ト云フ言葉ヲ用ヒルコトガ行ナハレルヤウニナツテ来タ譯デアリマス、併シ日本ノ主タル法令ノ中ニ於キマシテハ矢張リ支那國ト書イテ、中華民國ト云フ言葉ヲ使ツテ居リマスモノハ、勅令以上ニハ現在確カ無イト考ヘテ居リマス、絛約ノ關係ニ於キマシテハ、中華民國ト書クコトハ當否ハ別ト致シマシテ、現在存シテ居ルコトデアリマシテ、ソレガ幾分御議論ノ客體トナリ得ルト思ヒマスガ、移リ行ク色々ナ考ガ錯綜シテ居ル譯デアリマスカラシテ、其善悪ニ付テ私自身今ノ所意見ヲ述ベルダケノ自由ハ有ツテ居リマセヌ、唯一言附加ヘマスガ、外國語ト申シマスカ、羅馬字デ言現ハシマス場合ニハ、大シタ問題ハ起リマセヌガ、同ジ漢字ヲ以ツテ日本ノ國ト他ノ國トカ絛約ヲ結ヒマスヤウナ場合ニハ例ヘハ大ノ字一ツ用ヒルトカ用ヒナイトカ云フ外ニモ、相當ニ見識問題カ起ツテ来テ、其點ハ今マテモ注意シテ用ヒラレテ居ルノテアリマス時アツテ大ノ字ヲ彼用フレハ我モ亦用フルト云フコトハ、固ヨリ大□ノ方針トシテハ採用シ来ツタ所テアリマス、尚ホチョット是ハ本題ト離レマスカ、□ニ皇帝ト云フコトカ少シ出マシテ、ソレニ付キマシテノ、是モ只今マテノ沿革ヲ延へマシテ、ドウ云フ趣旨ヲ以テ此言葉ヲ使ツテ居ルノカト云フ點タケヲ釋明スルト申シマスカ、ソレタケノ趣旨テコサイマスカ、此日本カ外國トノ間ニ於テ締結スル所ノ外交文書ニ於キマシテ、日本國皇帝ト云フ言葉カ用ヒラレテ居ルノデアリマシテ、是ハ成立ノ當時、其言葉ヲ用ヒマス當時ニハ、相當ニ研究ヲ經テ用ヒラレタサウテコサイマシテ、トウモ正確ニ自分カ關興シタコトテアリマセヌカラ申上ケ兼ネマスカ、此憲法カ制定セラレマシタ當時ニ、關係部局ノ間ニ於キマシテ、如何ナル言葉ヲ使ツタナラハ宜イカト云フ疑惑カ起リマシタ、ソレノ解決ヲ 文武天皇ノ時ノ大寶令ニ求メマシテ、國内ノ詔勅ニ對シテハ天皇ト云フ文字ヲ御用ヒニナルケレトモ、外國ニ對スル關係ニ於テハ皇帝ト云フ文字ヲ用ヒルト云フコトカ確カ大寶令ノ儀制令ノ中ニ書イテアツタノテアリマシテ、其趣旨ニ依ツテ當時斯ノ如ク關係者ニ於テ決定ヲ致シマシテ、爾来其用例ニ依ツテ居ルサウテアリマス、
〇主査(男爵徳川喜翰君) 御質問ハ御座イマセヌカ、、、、、、御質問ナイト認メマス、政府委員ヨリ説明ヲ聴取致シマスルコトハ、今日ハ此程度ニ止メタイト思ヒマス、御異議アリマセヌカ
   (「異議ナシ」ト呼フ者アリ)
〇主査(男爵徳川喜翰君) 御異議ナイト認メマス、ソレテハ是ヨリ審査決定ニ移リマス、速記ハ是テ中止シマス、
      午後三時三十二分速記中止

 


JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B02031473200、本邦国号及元首称呼関係一件 第一巻(外務省外交史料館)

 

 

 

【注:1】
 その後、検索語を「國號尊重ニ關スル件(第六十五議會貴族院)昭和9年2月19日」とすることで、「第六十五囘帝國議會貴族院 請願委員第三分科會」の議事速記録(貴族院事務局)にアクセスすることができた。PDF化された議事録印刷文書(内閣印刷局)ではあるが、外交史料館のものに比べればこちらの方が読みやすい。時系列としては、この議事速記録に基づき、外交史料館所蔵の和文タイプ文書が作成されたことになるはずだ(濁点の使用の有無、促音の表記法等、両者には若干の異同がある―和文タイプを用いての文書作成担当者の苦労が偲ばれる)。

 

 

 

 

 

 

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2019年11月21日 (木)

日本・ニホン・ニッポン

 

 

  さて、結局そのまま戦後を迎え、1946年の憲法改正の国会審議の中で「日本国憲法」の読み方が問題となったが、当時の金森国務大臣は「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは、通念として認められている」として、国名呼称の統一を退けている。さらに時代をくだれば、現天皇の即位の儀式で、天皇は「ニホンコク憲法」と読み上げたのにたいして、竹下首相は「ニッポンコク憲法」と式辞を読み、国名呼称の揺れを象徴するできごととして記録にとどめられている。
     奥野昌宏 中江桂子 「メディアと「ニッポン」―国名呼称をめぐるメディア論」 2011  文学部紀要第46号 成蹊大学  111ページ

 

  三宅のこの引用文の最後にある、「軍人勅諭の読法」というのは、以下のことを示している。すなわち大日本帝国軍人はだれでもその基本精神として軍人勅諭を詠じるのであり、だからこそ軍人勅諭は軍人手帳の必須項目としてあり、それを軍人は常に携帯していた。なお、軍人勅諭は誰でもが唱和することができるように、漢字のすべてにふりがながふってあるが、そのなかの「日本國」には「にほんこく」と書いてあり、それは徹底されていた、という事情を示している。
  宮本によれば、戦時下における文部省の『ウタノホン』『尋常小学唱歌』『新訂尋常小学唱歌』『初等科音楽』で、読み方を確認すると、「日本」がでてくる30曲のうち、「ニホン」が16曲「ニッポン」が14曲であったという。
     同論文 115ページ

 

 

 ちなみに金森徳次郎は、戦前、国体明徴論が盛んなころの国名呼称をめぐる議論(「日本國」じゃなくて「大日本帝國」! ジャパンもジャポンもニホンもダメ! 「ニッポン」と統一しろ!)の際にも、絶妙な答弁で切り抜けていたはずだ(大阪にあるのはニッポンバシで東京にあるのはニホンバシ…とかなんとか→「國號尊重ニ關スル件(「日本・ニホン・ニッポン」資料編)」参照)。

 いずれにせよ、忠良なる帝國軍人にとって、「日本國」は「にほんこく」であったとのエピソードは興味深い。そして忠良なるであろう自民党政権の首相にとっては「ニッポン国」なのであった。

 「平成」の御代の日本国首相にとって「日本国憲法」は「ニッポンコク憲法」であったのに対し、即位の儀式に臨む天皇にとって「日本国憲法」が「ニホンコク憲法」であったエピソードも面白い。「日本国首相」はその当人にとっては「ニッポンコク首相」であり、多分、天皇からすれば「ニホンコク首相」であったのであろうか。

 

 ところで、前記引用論文中の小学唱歌上の話だが、一例を示せば、

 

『尋常小学唱歌 第一学年用』(1911年)
日の丸の旗

1.白地に赤く
 日の丸染めて、
 ああ美しや、
 日本の旗は。

2.朝日の昇る
 勢ひ見せて、
 ああ勇ましや、
 日本の旗は。


『ウタノホン 上』(1941年)
ヒノマル

1.アヲゾラ タカク
 ヒノマル アゲテ、
 アア、ウツクシイ、
 ニホンノ ハタハ。

2.アサヒノ ノボル
 イキホヒ ミセテ、
 アア、イサマシイ、
 ニホンノ ハタハ。

(「ヒノマル」は「ニホンノハタ」らしい)

昭和16(1941)年、日米開戦の年の小学唱歌のひとつでも、「日本の旗」は「ニホンの旗」なのであった。

 

 

 

 平成21(2009)年度の国会においても、この問題が論じられていた。

 

日本国号に関する質問主意書
 提出者  岩國哲人

日本国号に関する質問主意書

  昭和九年に文部省臨時国語調査会において、「日本」の読み方は「にっぽん」に統一され、例外的に東京の日本橋と「日本書紀」だけは「にほん」と読むことになった。その際、外交文書における国号の英文表記が「Japan」から「Nippon」に変更された。これについては、外交用語であるフランス語をはじめとするラテン諸語はHの音が発音されないことも考慮されたとする見解や、満洲事変の勃発とともに、「保守回帰」が起こり、穏やかな語感の「にほん」よりも音韻的に力強い「にっぽん」を選んだという経緯があったとする見解もある。
  この文部省臨時国語調査会の決定を受け、帝国議会でも審議された。
  戦争中の昭和十六年には、帝国議会で、当時の国号「大日本帝国」の発音を「だいにっぽんていこく」と定める検討がなされたが、保留のまま法律制定には至らなかった。
  戦後、昭和二十一年、帝国憲法改正特別委員会において、「日本国」と「日本国憲法」の正式な読み方について質疑がなされ、金森徳治郎憲法担当大臣(当時)は、「決まっていない」と答弁した。
  その後、昭和四十五年七月、佐藤栄作内閣は、「日本」の読み方について、「『にほん』でも間違いではないが、政府は『にっぽん』を使う」と、「にっぽん」で統一する旨の閣議決定を行ったが、法制化にまでは至らなかった。
  これに関連して、以下質問する。

一 右の閣議決定は現在でも維持されているか。
二 他国で、国号の現地発音が複数使用されている国の存在を認識しているか。
三 今後、「日本」の読み方を統一する意向はあるか。

  右質問する。

 

 平成二十一年六月三十日受領
 答弁第五七〇号

   内閣衆質一七一第五七〇号
   平成二十一年六月三十日
 内閣総理大臣 麻生太郎
        衆議院議長 河野洋平 殿
 衆議院議員岩國哲人君提出日本国号に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。

衆議院議員岩國哲人君提出日本国号に関する質問に対する答弁書(ここでは岩國議員の質問を補足して引用)


一 右の閣議決定(昭和四十五年七月、佐藤栄作内閣は、「日本」の読み方について、「『にほん』でも間違いではないが、政府は『にっぽん』を使う」と、「にっぽん」で統一する旨の閣議決定を行ったが)は現在でも維持されているか。
  一について→ 「日本」の読み方については、御指摘のような閣議決定は行っていない。

二 他国で、国号の現地発音が複数使用されている国の存在を認識しているか。
 二について→ お尋ねについては、承知していない。

三 今後、「日本」の読み方を統一する意向はあるか。
 三について→ 「にっぽん」又は「にほん」という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はないと考えている。
 (答弁:内閣総理大臣 麻生太郎  平成二十一年六月三十日)

 

 

 現状として、われわれ「日本国民」はその国民として「ニホン」に住んでいるのか「ニッポン」に住んでいるのか、「ニホン国民」であるのか「ニッポン国民」であるのかを明言することはできない、ということのようである。

 

 

〈オマケ:オリジナル記事コメント欄のやりとり〉

○さて、ムズカシイのはニホンゴなのかニッポンゴなのか?

●国語でしょ?(爆)

○で、どこの国の「国語」なのかというと…

●「わが国」

○で、何という名の国なのかというと…

●豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)
 (出典:古事記)

 

 

 

 

 

(オリジナルは 2015/02/15 21:07 & 2015/02/26 18:28 、内容的には「日本国の象徴と、國體の本義 18(大日本帝國の「大」)」の関連記事)

 

 

 

 

 

 

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2019年10月28日 (月)

2019 70JAHRE DDR (幻の東ドイツ建国70年)

 

 2019年の10月の終わり、30年前を思い出してみると、ヨーロッパの東側には社会主義国家群があった。経済的にはコメコン、軍事的にはワルシャワ条約機構により、ソ連に従属的な地位を強いられていた国家群である。30年前の10月の時点では、まだ、いわゆる東西冷戦状況が継続していたのである。

 1989年の10月初頭には、東欧各国(そしてアジア・アフリカの強権的国家の)首脳列席の下、東ドイツ(ドイツ民主共和国=DDR)では建国40周年の式典が執り行われていた。その中心にいたのは、国家評議会議長のホーネッカーであった(ホーネッカーは、かつてベルリンの壁を築いた人物でもある)。しかし10月の終わりには、既にホーネッカーは解任されていた。民主化(つまるところ東独権力システムへの根底的批判を意味する)への市民の期待は高く、市民によるデモも公然と行われるようになっていた。そして11月9日、かつてホーネッカーの築いたベルリンの壁は崩壊する。東側から西側への通行の自由が認められたのである。そして1年後の10月には、国家としてのドイツ民主共和国は消滅する。ベルリンの壁と共に、ユートピアであるはずの世界(DDR)が崩壊したのである。

 

 今年の年賀状を作成していた時、あらためて2019年が東ドイツ建国70周年に当たると同時に、ベルリンの壁崩壊30周年の年でもあることに気付いたのであった。で、年賀状作成に加えて、東ドイツ建国70年祝賀カードを作ってみたのであった。

 

20192-2

 

 年賀状の主人公は(自ら" I'm a Very Stable Genius ! ”と言ってしまえる米国の偉大な兄弟としての)トランプ閣下、建国70周年カードの方は、建国40周年の際の東独デザインにちょっと手を加えただけの安直なモノではあるが、それでもこの30年間の感慨が込められたものでもある。とにかく2019年の年頭、私としては、かつて存在した東独という国家、そしてその国民として生きた人々に思いを馳せることをしておきたかった。あの、まるで市民の移動の自由が国家を崩壊させたような歴史的瞬間にも。

 

Img_20191028_0002

 

 2019年の10月の終わり、あらためて、そんな年頭の感慨を思い出し、若干のセンチメンタルな気分に浸りながら、このような一文を書く気になったのであった。

 1989年の11月の9日、ベルリンの壁の崩壊を迎えることになったわけだが、1989年の10月の終わり、まだ誰もそんな時がやって来ようとは考えていなかったはずだ。もちろん、多くの人々の期待の中に、いつか来るはずの出来事としてベルリンの壁の崩壊は待ち望まれていたであろうが、2週間もしないうちにその日を迎えようとは思われていなかった。そんな10月の終わりであった。

 

 

 

〈オマケ〉

 映画『グッバイ、レーニン!』の予告動画。日本語字幕版のDVDのキャッチコピーは「ベルリンの壁は崩壊した。だけど僕は母を守る壁を作ろうとした。」であった。まさに1989年の10月からの一年間を舞台とした映画である。

 Good Bye Lenin! - Trailer
     https://www.youtube.com/watch?v=lv5FO9PtAvY



 建国40周年の祝賀軍事パレードの動画(延々と45分続くが、列席の各国首脳の顔ぶれには、その後、独裁者として悲惨な最期を遂げた人物も含まれ、これまた感慨深い)。

 40 Jahre DDR East Germany Military Parade 1989
     https://www.youtube.com/watch?v=6vBGYe19Ibk

 

 

〈関連記事〉

  「トラバント

  「幻のドイツ民主共和国建国60周年

  壁を築くことの意味

  「1961年8月13日(ベルリンにおける公衆衛生学的処置としての「壁」)

 

 

 

 

 

 

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2019年9月18日 (水)

神の手、人の手、猫の手、そして義肢

 

 「手のかたち・手のちから」、武蔵野美術大学の神野善治教授の手になる展示企画のタイトルである。訪れた者は、民俗学と博物館学を担当する神野教授の退任前の力業を味わうこととなる。民俗学者としての果てなき好奇心と、博物館学の教授としての見せる技(地味な素材から、訪れた者の好奇心を引き出す技)である。

 

 展示空間は三つに分かれ、美術館入り口左側の展示室1では、暗い空間に「ねぶた」の「手」が、内部に仕込まれた照明により浮かび上がる。いきなり迫力ある手の造形に出会うこととなる(神野先生は祭りの現地まで出かけ、本来なら解体破棄される「ねぶた」の一部をもらい受けてきたらしい)。民俗学者としての蒐集への情熱と、博物館学者の見せる技(明るい空間に「ねぶた」の手を展示しても、このような迫力ある造形の魅力は伝わらない)の合体空間ということになろうか。

 

 吹き抜けの大きな空間であるアトリウム中央には、福井県三方石観世音の奉納品である手足形が文字通り山積みされ、左壁面には三階くらいの高さまで手足形が並べられ展示されている。近代医療導入以前(いや現在に至るまでというべきかも知れないが)の日本では、手足の病気やけが・障害に際し、その治癒を神仏への祈願により実現しようとする伝統があった。奉納物を納めて治癒を祈願し、あるいは治癒すれば奉納物を納める。三方石観世音の場合、その両方向により、現在に至る奉納物の集積が形作られている。納められた手形・足形を持ち帰り、日常的に身近に置いて、手形(あるいは足形)の自身の患部に相当する部分をなでさすり治癒を祈念する。治癒すれば、新たに自ら制作した手形(あるいは足形)を添えて、持ち帰った手形(あるいは足形)をお返しする。その集積が、何度かの水害を超えて、現在まで保たれているのである。そこにあるのは、その地をその時代を生きた人々の障害治癒への期待の集積である。そして、その手形・足形の造形的魅力。見る者は、その両者に出会い、圧倒される。そこに積み上げられた手形・足形は、「人の手」、「人の足」を「形」としたものである。しかし、同時に、人々は、その手形・足形を「なでさすり」ながら、そこに「神の手」を感じていたようにも見える。神の手でもあるかも知れない手形・足形を、心を込めて「なでさする」ことで御利益としての治癒がもたらされる。人々の心情としては、そのような構図として理解し得るようにも感じられる。

 

 そしてアトリウム左側の展示室2にあるのは、武蔵野美術大学が所蔵する民俗資料コレクション(今回は様々な道具)を中心にした展示である(その前段階で、手形・足形造形の海外の事例、文楽人形と阿波の木偶箱まわし人形の手の機構を示した展示、様々な手袋にちなむ展示等があり、展示の最後には21世紀のオートメイルならぬ筋電義手がある)。この展示室で神野先生が展開するのは、収蔵されている様々な道具を、手の働きとの関連で分類する試みである。手とは何であるのかを、哺乳類の骨格標本から考察し、彫刻科の学生に制作させたペンフィールドのホムンクルス像から手と脳の関係を理解し、その上で、手の機能として、つかむ、たたく、すくう、かく・つる、はく・はらう、する・こする、すく・ふるう、あおる・ひる、たもつ、しめす、さぐるといった分類項目にまとめ、道具と関連付ける(「しめす」の展示中には、「招く」動作をする「招き猫」があったりする―まさに「猫の手」の展示である)。

 

 

 ・・・と、とりあえず展示を概観・紹介したが、今回の記事では、更に先へ進んでみようと思う。

 

 展示関連で、阿波の木偶箱まわし人形の公演があり、ゲストとの対談企画が二つあった。対談企画の一つにインスパイアされての更なる前進である。

 

 9月14日に開催されたのが、木下直之氏との対談企画であった。時間枠を気にしながら話を進める木下氏と、時間枠を(あまり)気にしようとしない神野先生という、どっちがゲストなのかわからいような対談の進行は、ライブならではの面白さであったが、ここでまず取り上げるのは木下氏の紹介した事例である。

 

 スライド画像で木下氏が紹介したのが、明治期に刊行された義肢を装着した傷痍軍人写真集と、第二次大戦期にイームズがデザインしたレッグ・スプリントであった。

 前者は、大日本帝國の戦争に際し招集され、手や足を失った帝國軍人・兵士と、彼らに下賜された義肢の写真集である。写真は、傷痍軍人一人に三種撮影され、それぞれ、義肢装着前の手足が失われた状態(浴衣スタイルの白衣着用)、そこに義肢を装着した状態(浴衣スタイルの白衣着用)、そして義肢を装着し軍服を着用した状態となっている。明治期の義肢が皇室による下賜品として存在し、下賜された軍人が再び義肢を装着し軍服を着用する姿が撮影される。現在のところ、この写真集の配布範囲はわからないが、日本の近代の中での戦争と皇室と傷痍軍人の関係を考える上で、この写真集の構成は興味深い。

 

 

 イームズ・デザインのレッグ・スプリントであるが、そもそもそれは何なのか? あらためて帰宅後に検索してみると、「レッグ・スプリント」は1942年にデザインされ、実際に成形合板製品として製造されたことがわかった。イームズによる成形合板の椅子は有名だが、それに先立つプロダクトとして、この「レッグ・スプリント」が存在しているのであった(私が知らなかっただけで、デザインを志す者にとっては、教科書的知識の範疇なのかも知れない)。

 「leg splint eams」で検索をすればイームズのサイトにつながり、イームズ・デザインの歴史的文脈が語られる中に、レッグ・スプリントが登場する。また、別のストア・サイトでは、大戦当時のレッグ・スプリントの実物を購入することも可能である(10万円超えるくらいの売値であった→ https://gee-life.stores.jp/items/5a2a239dc8f22c27bd002b56)。ストア・サイトの説明からの抜き書きを示す。

 

  チャールズ&レイ・イームズの最初のプロダクト品レッグスプリントです。アメリカ海軍の依頼で作製されたこちらは負傷した兵士の足の添え木として使われていました。しかしその造形美から今では芸術品として高く評価されています。

 

 要するに、成形合板による「負傷した兵士の足の添え木」なのである。イームズのサイトによれば(https://www.eamesoffice.com/blog/eames-molded-splints/)、イームズの友人であったエンデル・スコット医師からの相談が発端だったらしい。1942年当時は、「負傷した兵士の足の添木」としては金属製品が用いられていたのだが、金属製品は負傷兵搬送時に振動を増幅し、患部固定のための「添木」としては不向きなものであった。素材として成形合板は、患部を固定すると同時に搬送時の振動を吸収することに有効であり、結果としてイームズのレッグ・スプリントは、大戦中に15万個も製造されることとなったという。

 「添木(副木とも)」は、義肢とは異なるものではあるが、戦場における負傷した兵士のケアの最初の段階に必須の医療用具であることも確かだ。イームズがそのデザイン・製造に関わっていたとのエピソードである。戦時期の米国では、成形合板の製造技術が(レッグ・スプリント製造を通して、ということか?)確立され、工業製品として大量生産され、それが最前線での負傷兵のケアに役立っていた。そこを押さえておきたい。

 

 

 さて、再び大日本帝國の傷痍軍人である。

 「先の大戦」をめぐる戦後の言説の中で、傷痍軍人は周辺的話題として扱われてきたように思われる。しかし、戦争を遂行する大日本帝國にとって、帝國の戦争が生み出す傷痍軍人は、見て見ぬふりをして済まされるような存在ではなく、帝國が十分にケアをするべき存在であり、帝國による十二分なケアが保証されていることを社会に周知させるべき存在であった。戦争をすれば、戦病・戦傷・戦死する軍人兵士は必ず発生する。特に近代の戦争では、兵器の破壊力は増大し、負傷の程度も深刻なものとなる。手元にある『The Face of Mercy』と題された、戦場における医療の歴史を扱った写真集を見ると、ローマ時代から近代に至るまで、戦傷とは基本的には切り傷と刺し傷と打ち傷であったことがわかる。もちろん、それだけでも避けらるべきものではあるが、戦場で用いられる兵器の火薬・爆薬が、爆発力の小さな黒色火薬であった世界から、19世紀後半に至り爆発力の大きなダイナマイト・TNT等が主力となる世界へと変化することにより、戦傷の悲惨さも増大した。

 手足を吹き飛ばされ、顔貌も変形した兵士達。それが日常的な存在となる。彼らに対する十分なケアの提供をアピールすることは、更なる戦争を遂行し、更なる動員を続ける上で不可欠な国家的課題となるのである。

 

 「傷痍軍人 写真週報」で検索すると、アジア歴史資料センターのサイトがヒットする。当時の国策情報誌であった『寫眞週報(写真週報)』のページには、傷痍軍人を取り扱った記事が少ないものではないことがわかるはずだ(→ https://www.jacar.go.jp/shuhou/shiryo/shiryo02.html → https://www.jacar.go.jp/shuhou/shiryo/shiryo05.html )

 

 ここでは昭和14(1939)年と昭和17(1942)年の『寫眞週報』記事タイトルから、傷痍軍人を取り扱ったものを太字で示してみよう(関連した内容を含む)。昭和14年は、支那事変の2年目であるが対米英戦争に至る前の段階であり、昭和17年は、前年12月8日の真珠湾攻撃以来の対米英戦争での戦勝気分が続いていた時期ということになる。

 

 

  第53号 ( 昭和14年(1939年)2月22日 )
 三河の新天地 白系露人の集団部落
 仮包帯も弾の中 野戦病院
 戦場に散った花

 国策料理 鯨 鰯 兎
 海外通信 アルプスの雪中演習 ドイツ陸軍
 読者のカメラ


  第54号 ( 昭和14年(1939年)3月1日 )
 満州国建国七周年
 姑娘は風を切って
 春は太倉にも
 わが鉄腕鉄脚部隊
 白衣と桃のお節句
 海外通信
 読者のカメラ


  第84号 ( 昭和14年(1939年)9月27日 )
 いで湯に癒す 傷痍軍人白濱温泉療養所
 鉄腕に振るふハンマー 傷痍軍人大阪職業補導所

 坊や、お母さんは先生よ 未亡人のための特設教員養成所訪問記
 おぢさん ありがたう
 勇士よ銃後は大丈夫 農村の妻女より
 遥かなる祈り 芹沢光治良
 読者のカメラ


  第232号 ( 昭和17年(1942年)8月5日 )
 噫々軍神 加藤建夫少将
 双葉より神鷲の面影 軍神の遺品
 使命果した廣田特派大使
 セレター軍港今や全し 昭南島
 囚人部落も日の丸に協力 フィリピン・パラワン島
 配給の煙草に歓呼わく ボルネオ・サマリンダの町
 片足で踏み登る一万二千尺 東京府下傷痍軍人の国威宣揚富士登山
 防空待避所の作り方
 壮丁に金槌あるべからず 埼玉県秩父町在郷軍人分会の壮丁者水泳講習会
 ザリガニ殲滅戦 東京市葛飾区
 白衣勇士を慰める祇園囃子
 銃後のカメラ


  第235号 ( 昭和17年(1942年)8月26日 )
 米州からの交換船昭南島に安着
 俘虜も御奉仕昭南神社の御造営
 帝国海軍ここにも作戦を展開 支那方面艦隊の温州封鎖
 わが潜水艦見事 敵輸送船を撃沈
 タイ国の幼稚園
 働きながら療養できる 傷痍軍人奉公財団山梨作業所
 九月の常会
 大学生のお医者さん 山村僻地を往診 埼玉県秩父
 樺太オタスのよいこども
 銃後のカメラ


  第240号 ( 昭和17年(1942年)9月30日 )
 新中国へ 答訪使節 晴れの首途
 軍人援護強化運動 十月三日-八日 再起を夢みて傷も忘れた昨日今日 千葉県傷痍軍人下総療養所
 夫の遺志をつぎ 明日への希望を胸に秘めて 軍人遺族東京職業補導所
 兵隊さん有難う 愛知県八幡町第一国民学校
 新生ジャワは我らの手で
 満州国皇帝陛下建国忠霊廟に御親拝
 満州国建国十周年式典 新京
 町から里へ 救援案山子隊
 銃後のカメラ


  第243号 ( 昭和17年(1942年)10月21日 )
 シドニー湾強襲の特別攻撃隊英霊祖国に還る
 ソロモン群島を鼻の先に ラバウルの我が基地悠々
 ジャワを南の楽園に
 兵隊さんと二人三脚 傷痍軍人練成大運動会 東京
 まづ白衣勇士の食膳に 外堀でとれた鯉一千尾 東京

 二十分間に六十九メートル 縄なひ競技大会
 さんま網大増産 茨城県
 独仏俘虜交換協定 フランス
 薬用けしの増産

 

 

 傷痍軍人が世間から「隠された存在」(あるいは隠されるべき存在)などではなく、国家により手厚く保護され賞賛されるべき存在として取り扱われていた事実が伝わるはずだ。国策広報誌(昭和14年段階では内閣情報部編輯、昭和17年では情報局編輯)に、傷痍軍人は繰り返し登場していたのである。

 これらの記事の中でも、「わが鉄腕鉄脚部隊」、「鉄腕に振るふハンマー 傷痍軍人大阪職業補導所」、「片足で踏み登る一万二千尺 東京府下傷痍軍人の国威宣揚富士登山」、「働きながら療養できる 傷痍軍人奉公財団山梨作業所」、「軍人援護強化運動 十月三日-八日 再起を夢みて傷も忘れた昨日今日 千葉県傷痍軍人下総療養所」といったタイトルが示しているのは、義肢を装着することで能力を回復し、前線への復帰は叶わぬにしても生産の現場で再び国家に奉公することが期待される、生産性のある傷痍軍人の位置付けである。

 

 ここで国家による義肢の支給について、その歴史的経緯を、まず「しょうけいかん(戦傷病者史料館)」(木下氏も、しょうけいかんの展示を紹介していた)による企画展示解説資料(平成26年度 夏企画展)によって確認してみたい。

  
  戦傷病者に対して、恩賞制度の一環として各種の義肢が支給され、審美的な装飾義肢から実用的な作業用義肢へと変化していきました。
  明治10(1877)年の西南戦争で、大阪陸軍臨時病院がオランダ製の義肢を手渡したのが義肢支給の始まりです。明治27(1984)年の日清戦争以降は、昭憲皇后の御沙汰により恩賜の義肢が下賜されました。明治37(1904)年の日露戦争時には、廃兵院の設置や失明軍人の盲学校開設など、社会復帰のための施策が拡充されます。大正末期から昭和初期には審美的な装飾義肢の他に、社会復帰を前提とした実用性重視の作業用義肢が支給されました。日常生活から各種の職業、用途別に様々な作業用義肢が製作され、各人の適性と、義肢の特性を踏まえて職業を選択しました。辛いリハビリテーションと、慣れない義肢での職業訓練に耐え、社会復帰を目指したのです。

 
  (日清戦争時の)戦傷者のほとんどは銃創、砲創、刀傷、火傷などですが、特に凍傷患者の多くは、手足の切断を余儀なくされたのです。
  昭憲皇后は深くお心を痛められ「軍事に関して手足を切断したる者は、軍人と否とを問わず、彼我の別なく、人工手足を」との御沙汰があり、皇后陛下の御手元金から義手、義足、義眼が製作され、敵味方の区別無く下賜される運びとなったのです。
  陸軍においては、義手31名、義足90名、義眼10名の合計131名(うち捕虜9名を含む)海軍でも義手7名、義足5名、義眼4名がその恩恵に浴しました。

 
  日露戦争(1904)時には、それまでの小銃での撃ち合いを主とする戦闘から、大砲による長距離からの砲撃戦へと、兵器やその運用は大きく変貌しています。
  兵器の発達によって、受傷の様子も変化することとなります。
  医学面でも広島予備病院へのX線装置の導入など確実に進歩を遂げており、戦傷病者に対する様々な治療法と共に、戦傷病者の本格的な社会復帰のための施策が始まります。

 

 この日露戦争時に廃兵院の設置、失明軍人対象の盲学校の開設といった施策がとられる。注目しておきたいのは、

 

  陸軍大将乃木希典の自らの開発による、世界で初めてとなる画期的な作業用能動義手である「乃木式義手」もこの時期に完成しています。

 

という、作業用義手の登場と、それが「世界で初めて」と位置付けられ、しかも乃木大将がそこに関与していたとのエピソードであろうか。

 

  大正末期から昭和初期になりますと、それまでの「なるべく生まれた時の姿に近いように」外観を重視した審美的な恩賜の義肢に象徴される「装飾用義手」の他に「社会復帰を前提とした」実用性重視の「作業用義肢」が支給されてゆきます。
  昭和17(1942)年には、戦争の激化に伴って増加する戦傷病者に対応するため、義肢の研究費が大きく増額されます。
  材料本廠全体の研究費200,000円(現在の約20億円に相当する)に対して、義肢の研究費は、その1割に当たる20,000円(約2億円相当)が計上されていました。
  昭和15(1940)年度の研究では、装飾用義手に作業用義手の機能をも持たせると言う現在の義手製作の基本にも通じる命題がありました。装飾用の手掌を外すと作業用義手が現れるという仕掛けで完成し、実際に支給されております。

 

 この作業用義手の持つ意味については、上田早記子氏の「傷痍軍人福岡職業補導所における職業再教育」(2014)がわかりやすい。

 

   傷痍軍人は明治の頃は、「廃兵」と呼ばれた。当時は「廃」という言葉からもわかるように「廃れた」、「使えない」兵士として扱われた。しかし、国のために戦争に出兵し傷病を負った戦傷病者に対して国が何の対応もしないことは、戦傷病者の家族などからの不満を生み、新たに兵士になる者の不安を仰ぎ、国を不安定にすることになりかねなかった。そのため、傷病または死亡した場合など一部を対象に、本人またはその遺族に安定した生活を保障するために恩給制度が始まった。他にも廃兵院と呼ばれる入所施設も建てられた。1937年に日中戦争が起き、その後第二次世界大戦に突入する中で、「国家総動員法」が成立した。そして、戦争による労働力不足を補うため強制的に国民を徴用し生産に従事させる「国民徴用令」が発布された。このような時代背景の中、傷痍軍人であっても年金により生活を安定させるのではなく、再度立ち上がる、いわゆる再起奉公として生産に従事できるようになることが求められた。求めたばかりではなく、職業訓練や職業斡旋など職業保護が政府によって打ち出され、急速に発展していった。

 

 近代総力戦状況の中で、「傷痍軍人であっても年金により生活を安定させるのではなく、再度立ち上がる、いわゆる再起奉公として生産に従事できるようになることが求められた」のである。国家の施策として作業用義手の開発研究費も増額され、作業用義手を装着しての職業訓練施設も用意され、職業斡旋にも積極的な姿勢が示されたというのである。傷痍軍人達にも、実際に生産労働に従事することが求められたのである。

 先に紹介した『寫眞週報』の記事もまた、そのような時代背景の中で、作業用義肢を装着し、生産労働に意欲を示す傷痍軍人の姿を強調しようとするものであった。
 
 いずれにせよ、ここでは傷痍軍人は生産労働の第一線を担うべき存在として位置付けられ、政府広報誌に取り上げられているのである。戦時日本の風景の中に、傷痍軍人は可視化され、少なくとも建前としては敬意を以て取り扱われるべき存在であった。障害者であっても、生産労働に積極的に従事しようとする存在として、国家に顕彰されるのが傷痍軍人なのである。その一方で、障害と共に生まれた人々は、生産と無縁な存在として差別の対象であり続けたのである。傷痍軍人は国家により積極的に包摂され、同じ国家が、生産労働を担えない障害者を社会から排除する。

 

 「生産」という語には、平成の末期の用語法からのアプローチも重要であろう。「LGBTには生産性がない」という「保守」政治家の、あの用語法である。世代の再生産という問題である。傷痍軍人達にとっては、それは自身の「結婚」の問題であった。高安桃子氏の「戦時下における傷痍軍人結婚保護問題―傷痍軍人とその妻に求められていたもの」(2009)はその「問題」を論じたものだ。

 

  福祉施策の未整備から、多くの障害者は困窮した生活を強いられていたことに加え、戦時体制のもとでは「出征して国に貢献することができない存在」という烙印を捺され、肩身の狭い思いをさせられていた。その上さらに1941年の「国民優生法」施行により、「障害者は生まれてはいけない存在」という、現に生きている障害者の生存の否定につながるような時代の空気にさらされることとなったのである。

 

 これが「障害者一般」が戦時期に直面させられた状況であったが、

 

  このような差別の対象である一般障害者と、国のために戦い、尊敬の対象とされるべき傷痍軍人とが、障害を持っているという点で世間から同一視されることを、国家は阻止しなければならなかった。

 

 戦時期において「障害者一般」は、「出征して国に貢献することができない存在」であることが強調され、傷痍軍人との差別化が進行した。傷痍軍人は既に「出征して国に貢献した存在」であり、更に作業用義手を装着して生産労働に従事する存在として、より差別化は進行する。それに加えて、「障害者一般」とは差別化されるべき傷痍軍人の結婚が問題となる。

 

  傷痍軍人と一般障害者とを、異なった存在であると説明する方略としては、傷痍軍人の障害は戦争に起因するものであり、遺伝しない障害であるという説明の仕方がとられた。

 

 世代の再生産という文脈(平成末期の保守言説の文脈でもある)から、「遺伝」を理由に一般障害者が排除されると同時に、傷痍軍人の障害が「遺伝しない障害」であることが強調されたのである。

 男性として社会的認知を受けるためには、生産労働を担うだけでは不十分であり、「妻を娶る」ことのできる存在として社会から見做される必要があった。見做される(それは建前に過ぎない)だけではなく、現実に自身が結婚していることが、当事者としての傷痍軍人達にも望ましいこととして考えられていたであろう(当時の社会通念の中では、男は結婚して一人前、なのである)。しかし、実際にはハードルは高い。「生産労働を担う」といっても、障害者としての傷痍軍人の労働は結婚生活を支えるだけの収入に結びつくとは限らない。職業生活にとどまらず、家庭での日常生活もまた、現実的には障害者としての様々な不便の中での生活であり、それを支えることも妻には求められる。

 当時の結婚斡旋をめぐる言説を読むと、妻にも職業生活が期待されていたことがわかる。すなわち、現実の問題として、傷痍軍人=障害者としての夫の収入に依存することの困難があり、妻にも収入源を持つこと=収入に結びつく職業を持つことが期待されていた。

 

  また、結婚により傷痍軍人を絶望から救い上げることは、出征できない女性にとっての国家貢献であるとされた。傷痍軍人の花嫁を養成する機関では、生計を担うための職業的能力を養成することが目指された。これは夫婦の中で妻が生計を担うという、当時のジェンダー規範が逆転した現象であり、傷痍軍人の妻に求められていた特有の役割であるといえる。妻は介護力としても期待され、夫の「再起奉公」を助けるという傷痍軍人の妻ゆえの役割が求められた。その結婚生活は苦労が前提とされ、その生活に踏み込むためには、女性にとって大きな覚悟が必要であった。

 

 傷痍軍人の妻には、生計を担うための職業生活が期待され、同時に障害者としての傷痍軍人の介助・介護者としての役割もが求められたのである。

 傷痍軍人の花嫁となるべき若い女性への国家からの期待がある一方で、世間の目は醒めたものであった。高安氏は、昭和18(1943)年の大政翼賛会による「健民運動資料 第三輯 七、軍事援護二関スル調査報告書」から、当時の実際の世間の反応を例示している。傷痍軍人結構相談所開設の理由について、

 

  コノ相談所ノ開設セラレタル県ニシテ、コレニ関心ヲ持ツ者極メテ少ク、係ノ異ル役向ノ人ハ全クコレニ関与セズ。一般民衆モ殆ンド無関心ナリ。甚シキ場合トシテハ傷痍軍人二嫁ガントスル娘ヲ軽蔑スル風潮サヘアリテ、本事業ノ進行ヲ妨グルコト少カラズ。

 

このように記されているという。これが昭和18年(既に対米英戦2年目である)の、世間の目の現実であった。国家による可視化の一方で、世間(一般民衆)は見て見ぬふり(しかも、ただ「無関心」なだけでなく「軽蔑スル風潮サヘアリ」)だったのである。

 

 軍人であることの期待に応えるという意味において、傷痍軍人は、その役割を十分に果たした人々である。男性として、名誉の負傷は讃えられるべき勲功である。しかし、傷痍軍人として生きることは、障害を負って生き続けねばならぬことを意味する。

 戦時期の日本では、それでも傷痍軍人の存在は可視化され、国家の保護施策の対象であった。戦後は、人々にとって、可能であれば目にすることを避けたい存在として取り扱われてきたように見える。であるからこそ、戦時期の国策広報誌の中に可視化された存在として現れる傷痍軍人の姿を見ることが、意外性を伴う経験となるのであろう。

 今回の出発点となったのは、「手のかたち・手のちから」の展示会場であった(そこには、少なくとも当面は傷痍軍人を生み出すことがないであろうことが期待される現代日本の技術を結集した、筋電義手の展示もあった)。三方石観世音では、観世音の持つ治癒力が人々を引きつけた。手や足、あるいは視力を失った傷痍軍人には、「治癒」あるいは「快復」という時が訪れることはない。戦時期の(そして戦後の)日本において、それが傷痍軍人として生きることとなった人々の経験であった。その事実の持つ意味を深く見つめる機会としておきたいと思う。
 

 

 

【蛇の足】
 神野先生による武蔵野美術大学美術館での展示企画については、以前にも取り上げたことがある。

  「近現代史の中の蚊(あるいはモスキート) 」(2011年)参照

 そこでも、展示企画そのものについてというよりは、展示にインスパイアされての私の脳内反応を記すものとなっていた。神野先生の果てなき好奇心を(思うがままに、と言いたいところだが、とりあえず予算の許す限り、であろう)展開したような展示空間が、私の脳内にもたらした作用の記録である。今回も、あの展示会場での経験が、傷痍軍人の義肢へと展開するのには我ながら驚かされた。これもまた、ある種の「神の手」のもたらす経験かも知れない。
 そういえば、木下氏との対談の場では、神野先生は杖をついていらした。足を傷めたらしい。展示期間の最後に、自ら三方石観世音の御利益を経験しようというのであろうか? 民俗学者とは、そこまで突き進んでしまうような存在なのであろうか?

 

 

 

 

 

 

 

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2019年8月23日 (金)

溶鉱炉の火は赫々と燃えているが(戦時木造船の周辺 2)

 

 前回記事では「撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺)」と題して、昭和18(1943)年当時の官製国策情報誌である『週報』及び『寫眞週報』(どちらも情報局編輯)の記事から、戦時期の都下小平地域の軍需調達(具体的には青梅街道の欅並木伐採)を扱った「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」の補足情報を紹介した。

 総力戦状況下での深刻な物資不足状況が伝わる記事であったが、今回は同年の『アサヒグラフ』を取り上げる。

 

 

 大東亜戦争(いわゆる太平洋戦争、アジア太平洋戦争、あるいは第二次世界大戦の日本政府による公式名称である)初期においては、大日本帝國は広大な占領地域を確かに手にした。しかし、本土と占領地間の物資及び人員の補給を担うべき海上の船舶不足はすぐに深刻となった。そもそも日本海軍には輸送船団護衛の余力(発想自体というべきか)はなく、護衛を欠いた輸送船団に対する攻撃(海面下の米海軍潜水艦は脅威であった)により失われた船舶を補充するには、鋼材不足は決定的であった。既に支那事変(対中戦争)段階から、重要な軍需物資である鋼材は(石油と共に)米国からの輸入に多くを依存していたのである。支那事変の拡大は、米国からの鉄材(及び石油)輸入の途絶をもたらし、その打開策として対米戦争を選択したのである。前回記事で紹介した三井昭二氏の評にある通りで、まさに、

 

 資源が無いために開戦し、資源が無いために敗戦した

 

というしかない状況であった。

 船舶需給の危機的逼迫により、まず構造の規格化・簡易化による鋼船(戦時標準船)建造計画が進められ、しかしすぐに鋼材不足の深刻化から木造船建造へと事態は進展した(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」参照)。

  木造船建造用木材の供出の一環として、小平地域では青梅街道の欅並木の伐採が起きたのである(同記事中では、『寫眞週報』第263号―木材供出のための岡山県での神社の御神木の伐採事例等が掲載されている―も画像で紹介してある)。

 さらに昭和18年10月27日の『週報』(第367号)、そして『寫眞週報』の270号(昭和18年5月5日)掲載された関連記事を紹介したのが、前回の「撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺)」ということになる。

 

 

 今回取り上げるのは、日本を代表するグラフ雑誌であろう『アサヒグラフ』の第四十巻・第十三號(昭和18年3月31日)である(表紙には「大東亞戰争第六十五報」の文字がある)。同時期の米国を代表するグラフ雑誌の『ライフ』に比較すると、判型はほぼ同サイズだが紙質・印刷は劣り、ページ数も少ない(『アサヒグラフ』は表紙・裏表紙を含め20ページであるのに対し、『ライフ』は表紙・裏表紙抜きでも100ページある)。民間グラフ雑誌を手にするだけで、両国間の国力の差は明らかである(下の画像は、わが情報局の国策広報誌『週報』、やはり情報局の国策グラフ誌『寫眞週報』、民間グラフ誌を代表する『アサヒグラフ』、そして暴戻なる米国の民間グラフ雑誌『ライフ』を並べてみたところ―『週報』と『寫眞週報』については前回記事で取り上げてある)。

 

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 昭和18年3月31日の『アサヒグラフ』の10~11ページは「木造船は征く」と題された、木造船についての記事である(漢字は新字体、カナは旧仮名遣ひによる―オリジナルの横書きのキャプションは右から左へ書かれている)。

 

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    木造船は征く
 カーン、カーン、早春の明るい陽差しを受けた河面に樫の楔を打ち込む音が澄んだ空に流れてゆく。ここは○○木造造船所。ヨイショエイコラと船大工さん達の掛声も勇ましく、戦闘帽を冠つた造船戦士は『さあやらうぜ』と張り切つた掛声に、鉋を削る音も快い。『秋田おばこが、雪の中を馬橇で運び出してくれた船材だ、なんて素晴らしい木理だらう』と感嘆する供木こそ、木材応召の愛国至情に燃えて、祖先の築いた美林や、由緒ある松並木を、英米撃滅の決戦場に雄雄しく出陣させた赤誠溢れる尊い木材なのである。
 働く大工さん達も、太平洋の怒濤を突切る気負に溢れ、一本の釘にも、精魂を傾け、立派な船を造るぞと情熱をこめた手練の妙技で、巨大な龍骨が組み立てられたと思ふ間に、白い筋骨隆々たる男性の逞しさを思はせる龍骨美は忽ち消えて、板が張られ、帆柱が立つて木造船は竣工する。やがて硝煙漂ふ太平洋の彼方へ、颯爽と日の丸の旗を飜して雄々しくも征く。
 全生命を打ち込んだ戦士達は、『しつかりやつて来い』と晴れの船出を見送り。進水した後には早くも船台が据ゑられて、戦ひに勝つため木造船はあとからあとからと建造されてゐる。
(写真キャプション)
 樹齢三百年にも余る巨木が続々造船所へ、嘗ては街道を飾つた松並木、深山の檜も、木造資材として、鋸にひかれる
 鑿の音、鉋を削る造船交響楽に巨大なマンモスの肋骨を思はせる龍骨が組み立てられその用途に別れて船材となる
 木船が続々と建造され、龍骨を組み立てた隣には、早くも進水を待つ船が内部の完成を急ぎ、戦場のやうな忙しさだ
 木の肌もくつきりと、船の生命龍骨は、強靱な骨格を見せて春陽を浴びてゐる
 板が張られて完成に近い船は美しく塗られ船尾は米英の弾丸なんか蹴飛ばせと声を振つて精魂こめて仕上げをする
 船体が出来上がると最後に船内を造る 輸送の大任を果す大事な船艙だ 造船に敢闘する人々の手は思はず弾み緊張する
 見事に木船は完成した 大東亜の洋上へ船出する日に備へ船体には美しく鮮かな日の丸が描かれて晴れの日を待つ

 

 順調な木造船建造の進捗を伝える(ための)記事であろう。ここにも、「秋田おばこが、雪の中を馬橇で運び出してくれた船材」、「樹齢三百年にも余る巨木が続々造船所へ、嘗ては街道を飾つた松並木、深山の檜も、木造資材として、鋸にひかれる」などの記述があり、木造船建造に先立つ木材供出の現場の状況が記されている。

 

 

 この記事だけを読めば、順調な木造船建造による戦局打開への期待も抱けるかもしれないが、しかし、昭和18年3月31日の『アサヒグラフ』の巻頭記事の表紙に記されたタイトルは「日本の鐵鋼、逞しく増産」なのである。それが現実のものとなっていれば、そもそも戦時標準戦建造計画において安全面を犠牲にしての増船政策を採る必要もなければ、ましてや木造船建造に頼る必要などないのである。「嘗ては街道を飾つた松並木、深山の檜も、木造資材として、鋸にひかれる」必要などないのだ。先にも示したように、中国大陸での軍事行動の拡大(支那事変)、加えて東南アジア地域への軍事的進出(南北仏印進駐)により、大日本帝國の軍事行動を支えていた鉄鋼材や石油が入手困難(どちらも米国が供給源)になり、その果ての対米英開戦なのである。その点を踏まえた上で、「日本の鐵鋼、逞しく増産」も読んでおきたい。記事本文でのタイトルは「日本の鐵鋼」である。まず表紙を開いて左ページ全面から記事は始まる(ページ数としては3と表記―表紙が1ページに相当し、2ページに相当する右ページは表紙裏の広告。キャッチコピーとして用いられている「俺は還らぬ」には唖然とさせられるしかない―熟練を要するパイロットの命を粗末に扱うことを誇るような文言に酔いしれるようでは総力戦での勝利はないだろう。パイロットの命を使い捨て扱いするのではなく、生かし続け使い回し続けることでこそ、そこに価値を置くことでこそ、勝利は得られる)。

 

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  日本の鐵鋼
 祖宗の神霊まことに上にあり、日本民族が皇国三千年の興廃を賭け、挑まれたる戦ひに断乎起ち上れる時、その時こそは凡ゆる不可能事を可能ならしめる不抜の闘志と不撓の創意と不屈の努力の油然としてわき上るを我等は堅く信じてこれを疑はぬ。
 わが製鉄の事業に於てこれを歴然と見るのである。
 想定の敵国たる獣鬼アメリカに超重要産業たる鉄鋼生産の一切を依存せる時代はまさに僅々二年余の過去に過ぎなかつた。識者をして薄氷を踏むの感を抱かしめてゐたが、果然昭和十五年十二月、暴戻なるアメリカは鉱石、銑鉄、鋼材の全面的輸出禁止をもつて我を脅かすに至つたのである。
 みどり児の幼き手を捩ぢり上げる底の思ひ上がりを以つて、われ屈服すべしと考へたアメリカの増上慢に、痛切苛烈の一矢を酬いたものは実に鉄鋼の自給□□(二字不明)の増産とである。指導者の熱意と、産業戦士諸君の挺身と国民の至情とによつて、今や完全なる皇国日本の鉄鋼たり得たのだ。
 見よ、溶鉱炉の火は赫々と燃え、灼熱する高炉は続々と明日の国防資材を充足するための鋼材を生み出しつつあるのだ。
   〇〇製鉄所にて
   鈴木・富重両特派員撮影
   (写真は陸軍省検閲済)
(写真キャプション)
 (上)岸壁に横づけされた船舶から鉄鉱石は起重機によつて続々荷揚げされる (下)溶鉱炉から出る溶銑は見事な火の瀧となり、鋳床の樋を流れて溶銑鍋へ

 

 現在では「反日」の代名詞のような扱いを受ける朝日新聞社だが、ここでは「祖宗の神霊まことに上にあり、日本民族が皇国三千年の興廃を賭け、挑まれたる戦ひに断乎起ち上れる時、その時こそは凡ゆる不可能事を可能ならしめる不抜の闘志と不撓の創意と不屈の努力の油然としてわき上るを我等は堅く信じてこれを疑はぬ」と戦時日本の精神万能主義的神がかり気分を昂揚させ、「想定の敵国たる獣鬼アメリカ」、「暴戻なるアメリカ」、そして「アメリカの増上慢」と米国罵倒に力が込められるところを深く味わっておきたい。もっとも、「反米」は今に至る伝統なのかもしれないが。

 いずれにせよ、「見よ、溶鉱炉の火は赫々と燃え、灼熱する高炉は続々と明日の国防資材を充足するための鋼材を生み出しつつあるのだ」と自慢する数ページ先では、「木材応召の愛国至情に燃えて、祖先の築いた美林や、由緒ある松並木を、英米撃滅の決戦場に雄雄しく出陣させた赤誠溢れる尊い木材」が讃えられるのである。「溶鉱炉の火は赫々と燃え、灼熱する高炉は続々と明日の国防資材を充足するための鋼材を生み出しつつある」のが現実であれば、「祖先の築いた美林や、由緒ある松並木」にまで手を出す必要はなかろう。しかも、その「尊い木材」による増船政策としての「木船建造緊急方策要綱」(1943年1月の閣議決定)にしても、吉川由美子氏によれば、「木造船はあくまで鋼船の補完的役割を期待されたが、鋼船と同様、戦時標準型が決められ大量生産がおこなわれた。しかし、急な大量生産のため浸水するものが続発し、木造船建造の目標は烏有に帰した」(「アジア・太平洋戦争中の日本の海上輸送力増強策」 2004)のであった。

 

 再び「アサヒグラフ」記事を読もう。続く4~5ページは写真とキャプションだけで構成されている。

 手元にある『ライフ』誌の一冊(1943年8月9日号)には、「WOMEN IN STEEL」と題されたマーガレット・バーク=ホワイト撮影による記事が掲載されている(今回の記事の最後に「追加参考画像」として紹介してある)。『アサヒグラフ』には女性労働者は登場しないが、『ライフ』は製鉄所の現場で活躍する女性労働者に焦点を当て、特集記事としているのである。当ブログでは既に「フォードの爆撃機、あるいはロージーのリベレーター」として米国の戦時女性動員について取り上げているが、この『ライフ』記事でも、製鉄所のハードな現場労働の第一線を担う女性達の姿が紹介されている。『アサヒグラフ』でも『ライフ』でも、製鉄所内の特徴的な光景(重厚長大産業の代表としての大規模な設備群-重量・巨大さ・広大さ・高熱といった条件)は等しく取り上げられており、『アサヒグラフ』のカメラマンの技量の確かさも誌面から伝わる(ただし、残念ながら、紙の質、印刷の質において『ライフ』に大きく見劣りする)。

 

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(写真キャプション)
 溶けた銑鉄は更に精錬の鋼鉄となるために起重機によつて平炉に漉きこまれる
 平炉から出る鋼鉄の熱湯はこれを鍋にとり 起重機に吊つて鋳型に流し込む。この鋳型で出来たものを鋼塊といふ
 溶鉱炉内に溜つた溶滓は出銑時の合間に出滓口を開いて取り出さねばならない
 鋳型から抜いた鋼塊灼熱したまま台車の上に載せて分塊工場に運搬される
 鋼塊はその用途によつてまた圧延される。これは厚板に圧延される一工程だ 厚板になつた製品は工場内に積まれ艦船用・汽罐用鋼板となつて戦ひに出る
 出来上がつた鋼鉄資材 ああこれこそ日本の鋼だ
     (4~5ページ)

 

 「厚板になつた製品は工場内に積まれ艦船用・汽罐用鋼板となつて戦ひに出る」ことへの期待は大きいものであったはずだ。しかし、造船の現場で建造されたのは、安全性を軽視した簡易構造の、いわゆる戦時標準船であった。

 

  この徹底した簡易構造の中でもその際たるものは船舶の安全の基本に関わる二重底の廃止であった。二重底とは船底を二重構造に組み上げ、船舶が座礁などしたときに船底の決定的な破損を少しでも軽減し沈没の危機から救うこと、また船体の強度を高めるための基本的な構造として採用されている、船舶の構造上必要不可欠なものである。
  二重底の組み立てはその船が起工され船台上で工事が始まった直後から開始される最重要の工程で、確かに多くの鋼材と多くの作業を要する複雑な工程である。この複雑な工程を排除することは船の建造のスピードアップには確かに極めて効果の大きなものであるが、その反面、船の安全性を根底から否定することでもあり、特に用船者側から見れば信じられない暴挙であった。
  二重底の撤廃に対しては航海の安全が保証されず、任務の遂行も保証できないとして各海運会社等からは、設計主務者である海軍艦政本部に対し厳しい批判と苦言が呈された。しかし艦政本部はこれら全ての批判や苦言を黙殺し二重底撤廃を強行したのである。つまり第二次戦時標準船は大小全ての船が二重底を装備していないという、信じられない構造の船となったのであった。つまり各船の船底は十~二十ミリの鋼板一枚だけであったのである。
  徹底した簡略設計や工作が強行され、また作業工程が簡略化されて完成した船はその後それぞれに多く問題を残すことになった。その代表的な例が水密性の欠陥であった。
  造船所で完成した船が、竣工検査で必ず実施するものに船体の水密性に対する検査があった。これは船体の吃水線以下の船体の漏水の検査で、不良工事は将来的にその船の沈没も招きかねず、事前に徹底的に検査することが決まりであった。ただこの検査は多くの時間を要することになり、不良個所の改修作業も決して容易ではなかった。第二次戦時標準船では完成時のこの検査を極めて簡単な簡易検査だけにとどめてしまったのである。
  このために信じられないことではあるが、完成直後から直ちに輸送任務に投入された各船では、しばらくの間は乗組員による漏水個所の手直し作業が行われるという、異常な状態が続くことが多かったのである。また甲板の鋼材の電気溶接個所も、工作不良により船内に水漏れが生じることは日常的で、就航後は当分の間、乗組員による様々な手直し作業が続くのは当たり前というのもこれらの船の特徴でもあったのである。粗製濫造の極みともいえる状態は確かだったのである。しかしこの混乱は設計だけに原因があるのではなく、後述するように多くの部分が造船作業員の技量の大幅な低下に由来していたのであった。
     (大
内建二 『戦時標準船入門』 光人社NF文庫 2010  80~82ページ)

 

 問題を抱えていたとはいえ、その一応は鋼船であった戦時標準船の建造は、総力戦下の船舶需要を満たすには遠く、政府は「木造船建造緊急方策要綱」を閣議決定する。

 

 大東亜戦争の長期化に伴いますます深刻化する船腹戦争の事態に対処し、海上輸送力の積極的増強をはかることは緊急焦眉の国家的課題であり、政府はこれがため夙に鋼船による計画造船と並行して鉄鋼資材関係より簡易な設備をもって、しかも急速に建造され得る木造船の増強をはかるべくかねて木造船戦時標準船型の制定、木造船別の企業合同などの措置をとってきたが時局の緊迫にかんがみ昭和十八年度において木造船の飛躍的増大を目途とする「木造船建造緊急方策要綱」が二十日閣議決定をみた
     (大阪朝日新聞 昭和18年1月21日)

 

 その「緊急方策」の具体化した姿が、先の「木造船は征く」に描かれていることになる。

 

 

 そして、「緊急方策」の下に、小平市内(当時は小平町)の青梅街道の欅並木も伐採されてしまったのである。『用水路 昔語り』(こだいら 水と緑の会 2016)にある回想を読み返しておこう。

 

  青梅街道沿いにはずっと欅の並木があったんですよ。ある時ぱっと切っちゃいましたが。当時覚えていますけど、大きな欅の並木があり下にはヒイラギの垣根があったんですよ。道も勿論舗装もしていなくて、いい雰囲気だったんです。

 

  この辺は大きい欅がいっぱいあったんです。防風林になるし、落ち葉は出るし六十年周期で製材所に売ってたんです。船材とか電柱に使ったんです。戦中、終わる頃に供出で全部切られてしまった。

 

  昔はこの青梅街道は欅のトンネルだったんだよ。竹内さんとこにはちょこっと残ってるけど、もうずーとあんな感じでトンネルだった。子供の頃から戦争中までね。

 

  船材として全部供出ですよ。大きいのから強制的に切られた。それで無くなっちゃったんだ。

 

  船材にされちゃったんだね。昔はこの青梅街道沿いにずっと欅があったんだけど、陸軍大臣の代理の人が来て、管理して切ったんだよ。

 

  そしたら持っていかないうちに終戦になっちゃってね。

 

  みんなデカイ欅でね、それ全部切っちゃったからね、それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ、まったく悲しいよね。

 

 

 

 

【追加参考画像】

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 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)
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 「グローブマスター機墜落 (軍産複合地域としての昭和十年代多摩 戦後編-1)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-511f.html
  1953年の小平町のグローブマスター機墜落事故と沖縄の現在

 

 「撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-511f.html
  昭和18年の『週報』、『寫眞週報』記事により、木材供出の全国的展開の様相を読む
  (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」の補足記事)

 

 「溶鉱炉の火は赫々と燃えているが(戦時木造船の周辺 2)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-15f4ee.html
  昭和18年の『アサヒグラフ』記事により、木材供出の全国的展開の様相を読む
  (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」の補足記事)

 

 

 

 

 

 

 

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2019年7月30日 (火)

撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」では、木材供出で姿を消したという青梅街道(小平市内)の欅並木をめぐる証言と、その背景としての戦時木造船建造政策(「木造船建造緊急方策要綱」昭和18年1月20日閣議決定)について記した(『寫眞週報』第263号の記事―木材供出のための岡山県での神社の御神木の伐採事例等―も画像で紹介してある)。

 大日本帝國における国家総力戦体制の内実をよく伝えるエピソードだと思うが、先の記事に加えて、情報局編輯による政府広報誌である『週報』、そして『寫眞週報』(写真週報)にある関連記事を紹介しておきたい(漢字表記は新字体、カナについては原文通り)。

 

  R0061607

  R0061611

 

 

 

 まず、昭和18年10月27日の『週報』(第367号)の表紙裏の「週言」と題されたコーナーでの主張である。

 

 R0061608

 

  従来、生活といへば、とかく個人的なもの、消費的なもののやうに考へられて来た。自分で稼いだお金はどう使はうと勝手だ、無駄使ひをしたり、無くて済むものまで買ひ揃へることが、生活の潤ひであり、より高き生活であるとさへ思はれて来た。
  しかし、決戦下の今日、我々の生活をかくあらしめてはならない。生活は決戦へ、百八十度の転回をせなばならない。生活は個人のためのものから国家のためのものに、消費から生産へと切り替へられねばならない。
  一億国民が衣料切符の一割に当たる絹を節約すれば、落下傘八十九万台が出来る。紙二割を節約すれば木材二百六十万石が浮き、百トンの木造船が二千六百隻も造れることになるのである。
  生活は戦力の源泉である。我々の生活の中から、戦争に勝つための、物や、お金や、人手をもつともつと浮き出させて、戦力の増強、国力の充実をはかることが、決戦下にあるべき生活の姿である。
  生活は消費にあらずして、生産である。

 

 

 青梅街道の欅並木伐採に至る切迫した状況が、

 

  紙二割を節約すれば木材二百六十万石が浮き、百トンの木造船が二千六百隻も造れることになるのである。

 

この言葉からも伝わるであろう。

 

 『週報』のこの号の17ページには、貯金局による「紙も兵器だ!  貯金通帳の無駄を一掃しよう」と題された記事も掲載されている。

 

R0061610-2

 

  最近、貯蓄が増えたため、どこの家庭でも通帳が多くなつて、保管や整理に困るといふ声があるやうですが、通帳を幾冊にも分けて預入するのは、それだけ多くの人手と物資を使うことになりますから、かうした決戦下の尊い努力と物資の節約を図り、挙げて戦力の増強に振向けるやうに、通帳の無駄を一掃したいものです。
  最近の調査によりますと、郵便貯金通帳の所持数は、
 1、調査世帯数               八、二九八世帯
 2、同上人員(通帳を所持する者のみ)    三、九九九二人
  一世帯当り人員             四.八人
 3、通帳所持冊数              八七、〇九四冊
  一世帯当り通帳所持冊数         一〇.五冊
  一人当り通帳所持冊数          二.二冊
 4、一世帯当り通帳所持冊数内訳
  …(以下数値略)…
となつていて、随分無駄があるやうです。
  試みに最近一ヶ年間の通帳の増加振りをみますと、約二千四百万口の増加で、支那事変以来、六年間に八千七百万口といふ激増振りです。かうして年々二千万の通帳が増えると共に受払の口数は六億口といふ厖大な取扱数になりますから、これの処理に要する人手と物資も、また莫大なものです。
  しかし、その割合に一冊当りの預け高は少く、現在、国民の持つてゐる通帳は約一億四千万冊ですから、最近の現在高百六十億円で計算すれば、一冊当り平均百円少しとなりますが、統計によると、その七割九分は現在高五十円以下の通帳で、郵便貯金は一人五千円まで出来るのですから、もつと通帳の能力を最高度に活用しなければなりません。
  要は通帳の数を出来るだけ少なくして、預け高をどんどん増やしてゆくことが、敵米英を撃砕する貯蓄報国の近道であつて、これからはなるべく人手や物資を無駄に使はずに、貯金を殖やすやうにすべきです。
  今日では、一冊の通帳も非常に大切な資材ですから、新しく預入申込をするときは、古い通帳がないかよく調べてからにすること――何か新しい出来事を記念して貯金するとか、新しい団体でも出来て貯金するとかいふと、先づ通帳も新しいのでといふ気持になり易いのですが、そんな場合にも、出来るだけ前から持つている通帳を利用してゆくやうにしたいものです。
  また少額の貯金は、貯金箱を利用して月一回位に纏めて預入すること――かうして手数を省き、通帳の使用期限を永くするのも無駄を排除する一方法です。
  現在、手元に同じ種類の通帳が二冊も三冊もある場合はなるべく一冊に纏めること――据置貯金など二冊以上で預けてゐるのは、期間の永い方へ合併して一冊で預ける――といふやうに、通帳の無駄を一掃して、貯蓄陣もなるだけ簡素強力化し、長期戦に堪へるやうに、お互に協力し合ふやうにしませう。
  戦線では、我が勇敢な将兵一人一人が、それぞれ十人もの敵を相手に勝つてをられるのですから、私どもも一冊の通帳で十冊の通帳に匹敵する御奉公をするやうに心掛けたいものです。

 

この「要は通帳の数を出来るだけ少なくして、預け高をどんどん増やしてゆくことが、敵米英を撃砕する貯蓄報国の近道」という主張を、先の「紙二割を節約すれば木材二百六十万石が浮き、百トンの木造船が二千六百隻も造れることになる」という「週言」の言葉と重ね合わせることで、青梅街道の欅並木伐採に至る、当時の切迫した総力戦状況が理解し得るはずである。

 

    大東亜戦争の長期化に伴いますます深刻化する船腹戦争の事態に対処し、海上輸送力の積極的増強をはかることは緊急焦眉の国家的課題であり、政府はこれがため夙に鋼船による計画造船と並行して鉄鋼資材関係より簡易な設備をもって、しかも急速に建造され得る木造船の増強をはかるべくかねて木造船戦時標準船型の制定、木造船別の企業合同などの措置をとってきたが時局の緊迫にかんがみ昭和十八年度において木造船の飛躍的増大を目途とする「木造船建造緊急方策要綱」が二十日閣議決定をみた
     (大阪朝日新聞 1943年1月21日)

 

 木造船建造が国策として推進されるに至る背景には、金属資源の枯渇という問題があった。本来であれば、木造船ではなく鋼船建造こそが敵米英撃砕の近道なのである。金属資源の確保への涙ぐましい努力を伝える記事も読んでおこう。

 

R0061609-3

 

     補助貨の全面引換へ
  昨年十二月から始めたアルミ貨以外の補助貨の引換運動は、関係各方面の非常な協力と一億国民の熱誠によつて好成績を挙げ、去る七月末日までに総額実に一億四千万円、約十六億枚の補助貨を引換へることが出来ました。しかし決戦の様相はますます熾烈化し、今や、飛行機、軍艦を、一機一艦でも多く前線へ送ることが、私ども銃後国民の急務であります。
  周知のやうに飛行機、軍艦、戦車その他優秀な兵器には多量の銅、ニッケル、銀が使はれてゐます。かのマレー沖海戦で撃沈したプリンス・オブ・ウェールス級三万五千トンの軍艦を造るには、実に九百トン余の銅と訳三百五十トンのニッケルが使はれてゐるといはれます。
  即ち二億五千万枚の銅貨と約一億枚のニッケル貨があれば、このやうな軍艦を造ることが出来るわけで、つまり、各家庭から平均十七枚の銅貨と七枚のニッケル貨を国家へ引換へのため提供すれば、三万五千トン級の軍艦一隻を前線へ送り得るわけであります。
  またドイツのユンカースW三三型飛行機用の発動機一つには、ニッケル一キロ半が使はれてゐるとのことでありますから、各家庭でニッケル貨を一枚ずつ国家に差出し、紙幣等と引換へたとすると、これだけでも実に三万五千台の発動機が出来ることになります。そのほか飛行機の車軸や主動軸等にもニッケル合金が使はれてゐます。弾丸を通さない戦車や索引車や火砲、弾丸等に使はれるニッケルの数量は相当多いのであります。
  さらに銀は、銅よりも相当よい電導体であつて、最近優秀な近代兵器に使はれる量は頗る多くなり、航空決戦や海上決戦上の緊急な兵器の製造には、重要欠くことのできないものとなつています。
  このやうな重要兵器の原材料である銅、ニッケル、銀の補助貨はまだまだ沢山残つてゐるので、政府では最近の決戦の熾烈化に鑑み、この十月から明年三月までを期し、銅貨、ニッケル貨、銀貨の最終的全面引換へを行ふことにし、特に来る十一月二十日から三十日までを、補助貨全面引換期間と定め、全国一斉にアルミ貨以外の補助貨の全面的引換運動を実施することになりました。
一、引換を行ふ補助貨の種類
  (一) ニッケル貨、白銅貨 (十銭、五銭)
  (二) 銅貨、青銅貨、黄銅貨、アルミ青銅貨 (十銭、五銭、二銭、一銭、半銭、五厘、一厘)
  (三) 銀貨 (一円、五十銭、二十銭、十銭、五銭)
  (四) 天保銭、寛永通宝、文久銭、丁銀、豆板銀、五匁銀、一分銀、二朱銀、一朱銀投、銀または銅の古貨幣
  (五) 旧韓国補助貨、支那葉銭その他の外国貨幣で銅貨、ニッケル貨または銀貨のもの
二、引換機関
   全国銀行、信託会社、市街地信用組合や信用組合及び中央物資活用協会のほか本年度は新たに無尽会社でも引換へます。
三、引換手数料
   引換機関では、引換者に対してその種類に拘はらず、五十箇毎に五銭(但し五十箇未満は切捨)の引換手数料を支払ひます。
     ×     ×
  戦局はいよいよ緊迫し、いまや飛行機、軍艦その他の兵器を前線へ送ることは一刻の猶予をゆるしません。銅、ニッケル、銀を決戦力増強のために国家へ提供するのも、一国の猶予をゆるさないのであります。
  本年度の最終的補助貨全面引換の実施に際しては、この期間中に、町内会、部落会、隣組で、各家庭から補助貨を取纏め、これを引換機関で引換へることになつてゐます。また大日本婦人会でも同様、補助貨全面引換に協力され、さらに今般は特別に全国の国民学校児童の協力をも得ることになつてゐます。私ども銃後国民、今こそ一枚のこらず貯金箱にあるものも、記念としてゐるものも、すべての銅貨、ニッケル貨、銀貨をアルミ貨や紙幣などに引換へて軍国の急務に応じなければなりません。
     (『週報』 367号 14~16ページ)

 

金属貨幣は「紙幣」へと「引換へ」されることになるわけだが、紙幣もまた本来なら「節約」されるべき紙製であり、木造船となるべき木材資源なのである(「紙も兵器だ!」)。

 

 

 続いて『寫眞週報』の270号(昭和18年5月5日)の表紙裏にある「時の立札」と題されたコーナー。

 

 

R0061612-3

 

わが蓄めしいささかの金
  けふも鋼鉄(くろがね)の艦(ふね)となり
  南海の敵を撃つ
わが積みしそこばくの金
  けふも銀翼となり
  大東亞の空に飛び立つ
撃ちてしやまむ
  この暮しなほゆとりあり
  否 この暮しゆとりなくとも

 

「手元に同じ種類の通帳が二冊も三冊もある場合はなるべく一冊に纏める」だけではなく(紙の節約だけではなく)、「わが蓄めしいささかの金」は貯蓄報国の資源であり、「この暮しゆとりなくとも」自身の利便のために貯蓄・消費するのではなく、「生活は個人のためのものから国家のためのものに、消費から生産へと切り替へられねばならない」というのである。

 この『寫眞週報』(270号)の表紙には、「二百七十億へ さァ突撃だ」の言葉が記され、4ページから9ページにわたって貯蓄推進記事が組まれている(簡易保険加入の呼びかけ、節約の奨励、贅沢・遊興・浪費への批判と共に)。

 

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R0061614-4

 

貯め抜く道はいくらもある
   二百七十億へ さァ突撃だ!
  佐藤陸軍軍務局長の談にあるやうに、今度の戦争は生はんかな妥協に終わる戦争ではない。文字通り民族の興亡を賭した戦争であり、国家の運命はわれわれ一人々々の運命である。貯蓄の心構えもかかる自覚から奮起しなければならない
  われわれが鬼畜のやうな米英人を相手に果合ひをするとして、一ふりの日本刀もないと知りながら、なほかつ武装を忘れて酒食に、贅沢な衣装に金を費やす者があるだらうか。食べものをつめても、まづ日本刀を求め、なほ更に近代兵器の購入にあたるだらう貯蓄は国民の一人々々がその命を託す兵器をまかなふ費用なのだ。
  今年の国民所得五百億円のうち、三百七十億円が国家目的、即ち戦争完遂のために集中される。この三百七十億のうち、百億円は租税及びこれと同性質の国民負担となるが、残りの二百七十億はどうしても国民貯蓄でまかなふのだ。今年の貯蓄目標であるこの二百七十億はどうしても貯め抜かう
  鈍刀(なまくら)を帯びて戦場に臨むは武士の恥、わが国民性が断じて許さない筈だ
     (『寫眞週報』 270号 5ページ)

 

 「貯蓄は国民の一人々々がその命を託す兵器をまかなふ費用」とされるのである。

 

 

 そして、何より課題となるのは造船用木材の確保である。

 

 記事のタイトルは「密林から生まれ出る日の丸船 ―北ボルネオ―」。

 

R0061616-3

 

  世界で三番目の大きい島ボルネオ、その広い広い大陸のやうな全土が、見渡す限りの大密林に蔽はれてゐるボルネオは、実に木材の無限の宝庫だ。殊に英領時代から木材の輸出を以て知られた北ボルネオは、内地の造船増強運動に呼応して、いま軍政部の首脳が陣頭に立つて木造船の建造に大童である。千古の密林から伐り出される勿体ないやうなボルネオ産チークや、ラワン等の造船用木材の大木が、原住民の木遣り音頭を密林に谺させながら搬出され、林間鉄道で河に送られる。そして筏に組んでボルネオの誇りとする大製材所へ。そして日本人の指導の下に原住民の船大工達の必死の努力で、着々と立派な木造船が造られてゆく。日本人達も烈日の下、汗を流して勤労奉仕のお手伝ひである。
  かくて、その第一船は日本側軍官民と原住民たちの感激のうちに、去る紀元の佳節に進水、『第五十一ボルネオ丸』と命名され、続いて第二、第三と続いて完成、進水し、日を逐うて加速的に能率をあげてゐる。軍政部首脳以下『木造船ならボルネオだ』と大した張りきり方である。
   記事 坪内陸軍報道班員
   撮影 藤波陸軍報道班員
     (『寫眞週報』 270号 14~15ページ)

 

写真に付されたキャプションは以下の通り。

 

北ボルネオの大密林には木船用最適材が無限にある。天を衝いて聳える巨木にいま丁!と斧が入れられた
現地軍官民歓呼のうちにボルネオ生まれの第一船は進水した
昼なお暗い密林の中を林間鉄道はディーゼルエンジンの音も景気よく巨材を運んでゆく
現地人の船大工も一生懸命だ。もうぢき勝利を運ぶわれわれの船ができ上るぞ

 

 先の「木造船建造緊急方策要綱」においても、「(四)豊富な木材資源を擁する大東亜地域の木造船工場を全面的に活用する」とされていた通りである。

 

 そして、岡山県津山市での松並木伐採の記事もある(ちなみに『寫眞週報』第263号(昭和18年3月17日)の記事で紹介されていた御神木伐採も岡山県の事例であった) 。タイトルは「應召する三百歳の松並木 岡山縣津山市」、撮影は小石清。

 

R0061617-3

 

 

  岡山県津山市の名勝地二宮松原の並木が、翼賛会の主唱する木材供出の先陣を承つて米英撃滅の船材として晴れの応召をした。
  『君を松原 夕日が暮れて 鐘が鳴りますお城のお山…』とまで津山小唄に唄はれ、地元民に親しまれてゐたこの松並木は、延宝三年(今から二百六十九年前)、時の城主によつて植ゑられたもので、城下の外郭として、また非常時の防塞として、春秋二百七十年を経て今日に至つた。
  二百七十年の樹齢に歴史の来し方を眺めてきた由緒あるこの松並木は、四月十九日の斧入れを莞爾と受け、引続いて県木材会社の手によつて三百三十余本の伐採が続けられてゐる。またこの運搬には連日、地元翼賛壮年団、在郷軍人会、大日本婦人会の勤労奉仕隊が当つてゐるが、これらの人々の汗の結晶は、松材にして約三万五千石となる。
     (『寫眞週報』 270号 16~17ページ)

 

ここには「翼賛会の主唱する木材供出の先陣を承つて米英撃滅の船材として晴れの応召をした」、そして「またこの運搬には連日、地元翼賛壮年団、在郷軍人会、大日本婦人会の勤労奉仕隊が当つてゐる」とあるが、「木造船建造緊急方策要綱」においても、「(三)木材確保のために政府の国有林供出とともに翼賛会等による全国的な木造船用木材供出の国民運動を展開しその運搬についても地元の勤労奉仕を期待する」とされており、実際にそのような過程で事態が進行したことが窺われる。

こちらのキャプションは、

 

二百七十年の樹齢を保つた二宮松原の名勝地
必勝の念願こめた平松津山市長の斧始め
津山市の翼賛壮年団員は総出で大八車に供木を積み、運搬の奉仕をする
枝とはいへ、二、三十年を経た位の太さのものが降りてくる
大日本婦人会員も枝払いの済んだ枝木の運搬に当る
枝払いが済むと丸太ン棒を幹に結へてクレーンにし、いよいよ大木の輪切りがはじまる

 

 

 

 三井昭二氏の論考、「木材統制法の成立過程に関する一考察」の結語部分には以下のようにある。

 

  やや性急な規定が許されるとすれば、資源を持たない後進帝国主義・日本にとって、資源が無いために開戦し、資源が無いために敗戦した、といえよう。そして数少ない国内賦存資源としての森林資源は、金属・石油資源に代替することまで要請され、いわば森林資源の総動員体制を形成することが促迫された。なかでも木材は、軍需の激増・産業の軍事化が進むにつれ、量的・質的確保が緊要な課題となった。
  いっぽう輸入の遮断・需要の急増によって、内地材の増産が急務となりながら、その生産・流通構造は、産地が分散し供給パイプが細いため、軍需増大に対応できなかった。しかも統制経済下の基本原則であった低物価政策・生産費主義に対し、立木価格が公定化できない現実は、すでに醸成されていた木材資源所有と木材生産との矛盾を拡大せざるをえなかった。
  そのような状況に対して、陸軍の介入をともないながら、生産・配給機構に対する強力な国家統制と「経営の所有に対する優越」による矛盾の回避が企図された。(なお海軍は国家統制による木材調達のほか、「指定業者」として個人営業を温存した。
     (三井昭二 「木材統制法の成立過程に関する一考察--山林局官僚のプランと陸軍の介入を中心として」 1982 『林業経済研究 No102』 39~40ページ)

 

 三井氏は、

 

 資源が無いために開戦し、資源が無いために敗戦した

 

と、ミモフタモナイ言い方をしているが、まさにその通りであった。そして、

 

 数少ない国内賦存資源としての森林資源は、金属・石油資源に代替することまで要請され

 

とある通りで、船舶鋼材に代替しての木造船建造であり、金属貨幣の代替としての紙幣への「引換」であり、(今回は取り上げなかったが)石油資源の代替としての松根油の採集であった。

 

 

 

 これが戦時日本の国家総力戦状況の現実であった。

 

 

 

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2019年6月25日 (火)

清水多嘉示資料展(第Ⅲ期) ホセ・ラウエルとマッカーサー

 

 武蔵野美術大学美術館において、かつて武蔵野美術大学の彫刻科教授であった清水多嘉示にまつわる「清水多嘉示資料展」、その第Ⅲ期・戦後編として「清水多嘉示資料展 石膏原型の全てと戦後資料」が開催されていた(6月16日で終了)。最終日になっての駆け足での展観となってしまったが、特に印象に残った資料について記しておきたい。

 前回の資料展開催が2011年で、「清水多嘉示の道程:敗戦まで」と題された通り、戦時期の清水多嘉示の姿を知る機会となった。その際の感想めいたことをまとめたのが「清水多嘉示資料展 「千人針記念碑」との出会い」である。「従軍彫塑家」として、支那事変(日中の軍事衝突)下の中国大陸で従軍した中でのスケッチの数々。昭和13(1938)には源田実をモデルとしたブロンズ像「海の荒鷲」、翌14年には主翼を破損した九六式艦上戦闘機で奇跡的生還を果たした樫村飛曹のエピソードがモチーフとなっているレリーフ「南昌制覇」のような、事変の渦中の日本の海軍軍人の姿を彫像化したもの。また、翌15年制作の「千人針記念碑の一部」(サブタイトルは「出征兵士ヲ送ル」) といった戦時期の銃後に焦点を当てた作品に抱いた個人的関心について記した。

 その結びの部分で以下のように書いた。

  

  展示は、ブロンズ彫像作家の前から金属が失われた時代を経て、敗戦に至る。清水が漢口でスケッチしたのは、空襲の準備をする日本海軍の陸上攻撃機の雄姿であったが、米軍のB-29に空襲される側となった日々、どのような想いの中で過ごしていたのだろうか?

  敗戦直後の清水は、「特攻寺」の創設を提案した文章を残している。「あの戦争」の「あの作戦」で命を落とした特攻隊員を弔う場としての「特攻寺」なのである。どことなく高揚感の漂う文章に、戦後の清水の出発点を見る思いがした。

 

 今回の「戦後資料」のトップに展示されていたのが、昭和20(1945)年に記された「特攻寺」をめぐる原稿であった。あらためて、特攻による死を求められ、それに応えざるを得なかった特攻隊員への、敗戦の現実の中で高揚する清水の心情を再確認させられるものであった。「特攻による死」を求める側にいた(ことになってしまう)清水にとって、「特攻寺」の創設提案は、特攻による戦死者への清水なりの責任感の表現なのではあろう。

 ただし、展示されているのは二種の原稿のみであって、印刷されて公的に発表されたものではない(原稿執筆のみで終わってたものなのか、実際にどこかに公表されていたのかは、現時点では不明である)。

 

 続く展示資料には驚かされた。特攻寺をめぐる原稿の隣にあったのは、1946年のものとされている、モニュメント彫刻のプラン(スケッチ)である。バックにはゲート風の枠組み(彫像の身長より高い)があり、一歩前にいる男性とその背後で男性に従い歓呼する民衆(男女の二名、だったと思う)という構図。

 一歩前にいる指導者然とした男性が日本占領軍司令官であるマッカーサーにしか見えない。マッカーサーに導かれる民衆の像、なのである(そのモデルが実際にマッカーサーであったとしての話だが)。戦時期に、大陸で行使される大日本帝國の軍事力を肯定的なものと捉え、銃後での戦時協力を「千人針記念碑」として造形化した彫刻家の、戦後の第一作の構想として登場するダグラス・マッカーサー、なのである。

 それだけでも、十二分に強烈な印象だが、そのマッカーサー・モニュメント・プランの上方に展示されていた別のモニュメント・プランは更に強烈であった。そこにあったのも、ゲート風の枠組みの前で、一歩前にいる男性とその背後で男性に導かれ歓呼する民衆の構図によるモニュメントであった。ただし、先頭にいるのはマッカーサーではなく、ホセ・ラウエルなのである。異なるのは、指導者然とした位置を占めるのがラウエルかマッカーサーかの違いのみであり、全体の構図には違いがない。

 ホセ・ラウエルは、対米英開戦後に日本軍占領下となったフィリピンが、(大日本帝國の政策により)「独立」する際にフィリピン大統領に就任した人物である。昭和18(1943)年の話だ。展示では明示的に年代が示されていなかったが、ラウエル・モニュメントの構想は、フィリピンに独立が与えられ、ラウエルが大統領に就任した1943年当時のものである可能性が高い。1943年には、東條首相により、アジアの日本軍占領域各地の政治指導者を集めての大東亜会議も開催されており、その時期でのラウエル・モニュメント制作は、国策に寄り添う彫刻家の構想として理解可能なものである。ただし、資源統制下の大日本帝國において、ブロンズによる作品の実現には見込みはなく、ラウエル・モニュメントは戦時期の清水多嘉示の構想段階で終わったものと思われる。

 その戦時期のモニュメント構想が、基本構図をそのままに、敗戦後の日本で復活する。主役をラウエルからマッカーサーへと換えられて(マッカーサーもフィリピンと縁のある軍人ではある)。

 資料展示では、展示物についての詳細なキャプションを欠いている(研究の現状では、残された資料を網羅的に展示するしかないということなのであろう)ので、私の解釈が正しいものかどうかは不明確だが、とりあえず仮説的に提示しておこうと思う。

 

 同構図で主役だけ交換されたモニュメント・プランという理解が正しいとして、その意味をどのように捉えるかという問題は残される。

 戦時期の清水には、確かに国策に親和的なところが窺われる(いわゆる「戦争協力」への積極性ということだ)。

 今回の展示のもう一つの目玉である「石膏原型の全て」によって、戦時期の清水の石膏原型の中に、記憶に残っているところでも二作品、軍事と航空の結びつきを表現するものがあることがわかった(展示最終日の駆け足での展観のため、曖昧さが残るのは残念である)。前回の資料展で出会った「海の荒鷲」も「南昌制覇」も、海軍航空隊の活躍を期待し、讃えた作品であった。従軍彫塑家としてのスケッチにも、海軍の陸上攻撃機が登場する。その意味で、国策と清水の親和性は確かのものと言えるだろう。反軍的な芸術家の姿ではない。

 しかし、ラウエル・モニュメント・プランとマッカーサー・モニュメント・プランの構図の同一性。マッカーサー・モニュメント・プランはラウエル・モニュメント・プランの完全な流用というしかない事実から見出せるのは、芸術家の時局便乗的態度ではなく、芸術家のニヒリズムなのではないか? そのように思えなくもない。

 発注者に応えるのが彫刻家の役割だとするならば、彫刻家は発注者の側である政治体制の求めに応えるのみ。彫刻家にとって、芸術家にとって、表現こそが(表現のスタイルこそが)目指すものだとするならば、清水には戦時期と敗戦後の断絶は存在しない。ラウエルをマッカーサーに差し替える。構図は、表現のスタイルは微動だにしない。

 

 ここで思い出すのは、戦時期の丹下健三と敗戦後の丹下健三である(以下、井上章一 『戦時下日本の建築家』 朝日選書 1995 による)。

 昭和17(1942)年、建築学会は「大東亜共栄圏確立ノ雄渾ナル意図ヲ表象スルニ足ル記念造営計画案」の図面を募集する。実際には、戦時下の資材不足の中で、実現の可能性のまったくない「記念造営計画案」なのだが、建築学会は競技設計として図面の募集を行った。ここで丹下健三の「忠霊神域計画」が一等の情報局賞を獲得する(二等以下を大きく引き離して)。この平面プランと、戦後の広島の、やはり丹下健三による広島平和記念公園(竣工は1954年)の平面プランの同型性が指摘されている。また、広島平和記念公園の慰霊碑も、忠霊神域計画の本殿建屋との同型性が、ハニワ・モチーフということで指摘されている。忠霊神域計画は富士山の裾野を想定し計画された雄大なものだが、比較すれば、広島の平和記念公園はスケール的には小さなものである。しかし、平面計画においても、メインの施設造型においても、その同型性は否定できない。

 戦時期の「大東亜共栄圏確立ノ雄渾ナル意図ヲ表象スル」建築計画と、戦後(大東亜共栄圏崩壊後)の平和記念公園の間に、その表現のスタイル(平面計画とメイン施設の造型モチーフ)において断絶はない。

 

 単なる芸術家の無節操と切り捨てることも可能だろうが、しかし、そこに政治体制(あるいは政治的思想・信条)に対するニヒリズムを見出すことも可能であろう(それを良しとするかどうかは別としての話ではあるが)。

 もっとも、特攻寺創設を主張する清水多嘉示の姿からは、戦時期の自らに対する否定的心情の片鱗が読み取れるようにも思われる。軍事における航空力の優位の重要性を理解していたように見える作品群からすれば、特攻作戦に依存せざるを得ないところまで追い込まれた祖国がどのように評価されていたのか? 敗戦後になって、あらためて特攻隊員の犠牲に対峙したとき、清水の心情は、特攻寺創設案として表現されたことになる(それが特攻による戦死者にとっての救いとなるかどうかはともかく)。

 

 

 再び、前回の展示をめぐる話題に戻る。

  展示は、ブロンズ彫像作家の前から金属が失われた時代を経て、敗戦に至る。清水が漢口でスケッチしたのは、空襲の準備をする日本海軍の陸上攻撃機の雄姿であったが、米軍のB-29に空襲される側となった日々、どのような想いの中で過ごしていたのだろうか?

 

 戦時期の清水多嘉示の作品には、海軍(航空隊)との深い縁を示すものが多く、海軍館での展示作品ともなっている。その海軍館は、B-29による東京への空襲の初期の段階で投弾対象とされ、被害に遭っている。昭和19(1944)年11月27日の第二回目の出撃、目標は武蔵野市の中島飛行機工場であったが、気象不良のため、都内に投弾したものである。特に海軍館を標的にしたものではなかったが、原宿駅周辺が投弾対象となり、市街地、海軍館、東郷神社などが被害に遭っている。

 前回の資料展の翌年、東京大空襲・戦災資料センターでの「東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃」展(2012年)の際に、海軍館の空襲被害状況を示す写真の存在を知ることとなった(「プロパガンダと記録(東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃)」も参照)。

 現在は、NHKスペシャル取材班/山辺昌彦『東京大空襲 未公開写真は語る』(新潮社 2012)に掲載されている写真で確認可能である。

 以下、海軍館についての記述を引用しておく(最初のもの以外は、掲載写真のキャプション)。

 

  原宿にあった海軍設立の戦争博物館「海軍館」には、2発の爆弾が投下され、建物のみならず野外に展示されていた戦車も損傷した。警視庁の記録によれば、「爆弾一個は建物に命中、三階を貫通して二階にて爆発、建物一部破壊、一個は植込内に落達し、死者一名、傷者一名を生ず。尚数日間は観覧不能にて休館せり」とある。

  海軍の戦争博物館「海軍館」。大理石を使った堅牢な洋館だったが、大きな損傷を受けた。

  「制空」の碑の周辺にも瓦礫が積もる。

  海軍館の庭に展示されていた戦車の周辺には、瓦礫が飛散している。

  海軍館の内部。爆弾は3階を貫通して2階で爆発。崩れた建物の中に、展示された彫像が倒れている。

 

 

 被害の程度が伝わるだろう。「制空の碑」は台座だけで、「碑」の本体はない(東京大空襲・戦災資料センターでの報告書作成関係者の話では、空襲による被害なのか、金属供出により既に失われていたのかは詳らかではないという―台座にダメージが見られない点からすれば、後者の可能性が高いのではないかという話)。崩れた建物内で倒れているのは、幼い兄弟の姿の彫像である(作者についての記述はない)。

 制空権が奪われ、B-29による空襲も激化していく。清水多嘉示は、どのような心情の下に、その日々を送っていたのであろうか?

 

 

 

 

 

 

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2019年5月17日 (金)

モバイル・タイニー・バウハウス

 

 

 2019年はバウハウス100周年に当る。1919年、第一次世界大戦敗戦後のドイツ、ヴァイマールの地に設立された教育施設。いわゆるモダン・デザインの先導者であった。

 1925年にデッサウへ移転し、理念を具現化した校舎を建設する。

 

 なんと、そのデッサウの校舎がモバイル化されているのであった!

 

 

Tiny Bauhaus: smallest 2-room apartment & school on wheels
  
https://www.youtube.com/watch?v=x7UIx-iTyR4

 

 

 ミニマムサイズの様々な住居の試みを中心に動画取材しているキルステン・ディルクセン(Kirsten Dirksen)氏によって、この「Tiny Bauhaus」も紹介されていたのである(数日前の話)。

 ラオス出身のヴァン・ボー・ル=メンツェル(Van Bo Le-Mentzel)氏の作品であり、動画中にもタイニー・バウハウスの内部を案内し、インタビューに応える本人の姿も記録されている。

 

 

 私個人の好みとして、このタイニー・バウハウスは実に愛おしく魅力的である。

 動画のコメント欄には、丸見えのバスルームはどうなのよ的意見も散見されるが、そして私自身もそのような見解を共有することも確かではあるにしても、実用性を上回るデザインの魅力を認めざるを得ない。

 

 

 そのタイニー・バウハウスの設置場所もまた、動画の見どころであろう。ドイツの「古都」そのものといったリューネブルクの街の佇まい。そのリューネブルクのロイファナ大学構内にタイニー・バウハウスが停車している(建物の下には車輪が見える)のである。

 映し出されるロイファナ大学のキャンパスで目を引くのが、ダニエル・リベスキンド設計の校舎である。いわゆる脱構築主義建築の代表者である。

 古風な町並みの中の自己主張炸裂型脱構築主義建築に対峙する形で、モダン・デザイン建築の見本のようなデッサウのバウハウス校舎(もはや古典である)のミニチュアが静かに停車しているのである。

 

 

 

 だからどうした、と言われても困るが、個人的には実に楽しい光景なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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