2019年10月28日 (月)

2019 70JAHRE DDR (幻の東ドイツ建国70年)

 

 2019年の10月の終わり、30年前を思い出してみると、ヨーロッパの東側には社会主義国家群があった。経済的にはコメコン、軍事的にはワルシャワ条約機構により、ソ連に従属的な地位を強いられていた国家群である。30年前の10月の時点では、まだ、いわゆる東西冷戦状況が継続していたのである。

 1989年の10月初頭には、東欧各国(そしてアジア・アフリカの強権的国家の)首脳列席の下、東ドイツ(ドイツ民主共和国=DDR)では建国40周年の式典が執り行われていた。その中心にいたのは、国家評議会議長のホーネッカーであった(ホーネッカーは、かつてベルリンの壁を築いた人物でもある)。しかし10月の終わりには、既にホーネッカーは解任されていた。民主化(つまるところ東独権力システムへの根底的批判を意味する)への市民の期待は高く、市民によるデモも公然と行われるようになっていた。そして11月9日、かつてホーネッカーの築いたベルリンの壁は崩壊する。東側から西側への通行の自由が認められたのである。そして1年後の10月には、国家としてのドイツ民主共和国は消滅する。ベルリンの壁と共に、ユートピアであるはずの世界(DDR)が崩壊したのである。

 

 今年の年賀状を作成していた時、あらためて2019年が東ドイツ建国70周年に当たると同時に、ベルリンの壁崩壊30周年の年でもあることに気付いたのであった。で、年賀状作成に加えて、東ドイツ建国70年祝賀カードを作ってみたのであった。

 

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 年賀状の主人公は(自ら" I'm a Very Stable Genius ! ”と言ってしまえる米国の偉大な兄弟としての)トランプ閣下、建国70周年カードの方は、建国40周年の際の東独デザインにちょっと手を加えただけの安直なモノではあるが、それでもこの30年間の感慨が込められたものでもある。とにかく2019年の年頭、私としては、かつて存在した東独という国家、そしてその国民として生きた人々に思いを馳せることをしておきたかった。あの、まるで市民の移動の自由が国家を崩壊させたような歴史的瞬間にも。

 

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 2019年の10月の終わり、あらためて、そんな年頭の感慨を思い出し、若干のセンチメンタルな気分に浸りながら、このような一文を書く気になったのであった。

 1989年の11月の9日、ベルリンの壁の崩壊を迎えることになったわけだが、1989年の10月の終わり、まだ誰もそんな時がやって来ようとは考えていなかったはずだ。もちろん、多くの人々の期待の中に、いつか来るはずの出来事としてベルリンの壁の崩壊は待ち望まれていたであろうが、2週間もしないうちにその日を迎えようとは思われていなかった。そんな10月の終わりであった。

 

 

 

〈オマケ〉

 映画『グッバイ、レーニン!』の予告動画。日本語字幕版のDVDのキャッチコピーは「ベルリンの壁は崩壊した。だけど僕は母を守る壁を作ろうとした。」であった。まさに1989年の10月からの一年間を舞台とした映画である。

 Good Bye Lenin! - Trailer
     https://www.youtube.com/watch?v=lv5FO9PtAvY



 建国40周年の祝賀軍事パレードの動画(延々と45分続くが、列席の各国首脳の顔ぶれには、その後、独裁者として悲惨な最期を遂げた人物も含まれ、これまた感慨深い)。

 40 Jahre DDR East Germany Military Parade 1989
     https://www.youtube.com/watch?v=6vBGYe19Ibk

 

 

〈関連記事〉

  「トラバント

  「幻のドイツ民主共和国建国60周年

  壁を築くことの意味

  「1961年8月13日(ベルリンにおける公衆衛生学的処置としての「壁」)

 

 

 

 

 

 

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2019年9月18日 (水)

神の手、人の手、猫の手、そして義肢

 

 「手のかたち・手のちから」、武蔵野美術大学の神野善治教授の手になる展示企画のタイトルである。訪れた者は、民俗学と博物館学を担当する神野教授の退任前の力業を味わうこととなる。民俗学者としての果てなき好奇心と、博物館学の教授としての見せる技(地味な素材から、訪れた者の好奇心を引き出す技)である。

 

 展示空間は三つに分かれ、美術館入り口左側の展示室1では、暗い空間に「ねぶた」の「手」が、内部に仕込まれた照明により浮かび上がる。いきなり迫力ある手の造形に出会うこととなる(神野先生は祭りの現地まで出かけ、本来なら解体破棄される「ねぶた」の一部をもらい受けてきたらしい)。民俗学者としての蒐集への情熱と、博物館学者の見せる技(明るい空間に「ねぶた」の手を展示しても、このような迫力ある造形の魅力は伝わらない)の合体空間ということになろうか。

 

 吹き抜けの大きな空間であるアトリウム中央には、福井県三方石観世音の奉納品である手足形が文字通り山積みされ、左壁面には三階くらいの高さまで手足形が並べられ展示されている。近代医療導入以前(いや現在に至るまでというべきかも知れないが)の日本では、手足の病気やけが・障害に際し、その治癒を神仏への祈願により実現しようとする伝統があった。奉納物を納めて治癒を祈願し、あるいは治癒すれば奉納物を納める。三方石観世音の場合、その両方向により、現在に至る奉納物の集積が形作られている。納められた手形・足形を持ち帰り、日常的に身近に置いて、手形(あるいは足形)の自身の患部に相当する部分をなでさすり治癒を祈念する。治癒すれば、新たに自ら制作した手形(あるいは足形)を添えて、持ち帰った手形(あるいは足形)をお返しする。その集積が、何度かの水害を超えて、現在まで保たれているのである。そこにあるのは、その地をその時代を生きた人々の障害治癒への期待の集積である。そして、その手形・足形の造形的魅力。見る者は、その両者に出会い、圧倒される。そこに積み上げられた手形・足形は、「人の手」、「人の足」を「形」としたものである。しかし、同時に、人々は、その手形・足形を「なでさすり」ながら、そこに「神の手」を感じていたようにも見える。神の手でもあるかも知れない手形・足形を、心を込めて「なでさする」ことで御利益としての治癒がもたらされる。人々の心情としては、そのような構図として理解し得るようにも感じられる。

 

 そしてアトリウム左側の展示室2にあるのは、武蔵野美術大学が所蔵する民俗資料コレクション(今回は様々な道具)を中心にした展示である(その前段階で、手形・足形造形の海外の事例、文楽人形と阿波の木偶箱まわし人形の手の機構を示した展示、様々な手袋にちなむ展示等があり、展示の最後には21世紀のオートメイルならぬ筋電義手がある)。この展示室で神野先生が展開するのは、収蔵されている様々な道具を、手の働きとの関連で分類する試みである。手とは何であるのかを、哺乳類の骨格標本から考察し、彫刻科の学生に制作させたペンフィールドのホムンクルス像から手と脳の関係を理解し、その上で、手の機能として、つかむ、たたく、すくう、かく・つる、はく・はらう、する・こする、すく・ふるう、あおる・ひる、たもつ、しめす、さぐるといった分類項目にまとめ、道具と関連付ける(「しめす」の展示中には、「招く」動作をする「招き猫」があったりする―まさに「猫の手」の展示である)。

 

 

 ・・・と、とりあえず展示を概観・紹介したが、今回の記事では、更に先へ進んでみようと思う。

 

 展示関連で、阿波の木偶箱まわし人形の公演があり、ゲストとの対談企画が二つあった。対談企画の一つにインスパイアされての更なる前進である。

 

 9月14日に開催されたのが、木下直之氏との対談企画であった。時間枠を気にしながら話を進める木下氏と、時間枠を(あまり)気にしようとしない神野先生という、どっちがゲストなのかわからいような対談の進行は、ライブならではの面白さであったが、ここでまず取り上げるのは木下氏の紹介した事例である。

 

 スライド画像で木下氏が紹介したのが、明治期に刊行された義肢を装着した傷痍軍人写真集と、第二次大戦期にイームズがデザインしたレッグ・スプリントであった。

 前者は、大日本帝國の戦争に際し招集され、手や足を失った帝國軍人・兵士と、彼らに下賜された義肢の写真集である。写真は、傷痍軍人一人に三種撮影され、それぞれ、義肢装着前の手足が失われた状態(浴衣スタイルの白衣着用)、そこに義肢を装着した状態(浴衣スタイルの白衣着用)、そして義肢を装着し軍服を着用した状態となっている。明治期の義肢が皇室による下賜品として存在し、下賜された軍人が再び義肢を装着し軍服を着用する姿が撮影される。現在のところ、この写真集の配布範囲はわからないが、日本の近代の中での戦争と皇室と傷痍軍人の関係を考える上で、この写真集の構成は興味深い。

 

 

 イームズ・デザインのレッグ・スプリントであるが、そもそもそれは何なのか? あらためて帰宅後に検索してみると、「レッグ・スプリント」は1942年にデザインされ、実際に成形合板製品として製造されたことがわかった。イームズによる成形合板の椅子は有名だが、それに先立つプロダクトとして、この「レッグ・スプリント」が存在しているのであった(私が知らなかっただけで、デザインを志す者にとっては、教科書的知識の範疇なのかも知れない)。

 「leg splint eams」で検索をすればイームズのサイトにつながり、イームズ・デザインの歴史的文脈が語られる中に、レッグ・スプリントが登場する。また、別のストア・サイトでは、大戦当時のレッグ・スプリントの実物を購入することも可能である(10万円超えるくらいの売値であった→ https://gee-life.stores.jp/items/5a2a239dc8f22c27bd002b56)。ストア・サイトの説明からの抜き書きを示す。

 

  チャールズ&レイ・イームズの最初のプロダクト品レッグスプリントです。アメリカ海軍の依頼で作製されたこちらは負傷した兵士の足の添え木として使われていました。しかしその造形美から今では芸術品として高く評価されています。

 

 要するに、成形合板による「負傷した兵士の足の添え木」なのである。イームズのサイトによれば(https://www.eamesoffice.com/blog/eames-molded-splints/)、イームズの友人であったエンデル・スコット医師からの相談が発端だったらしい。1942年当時は、「負傷した兵士の足の添木」としては金属製品が用いられていたのだが、金属製品は負傷兵搬送時に振動を増幅し、患部固定のための「添木」としては不向きなものであった。素材として成形合板は、患部を固定すると同時に搬送時の振動を吸収することに有効であり、結果としてイームズのレッグ・スプリントは、大戦中に15万個も製造されることとなったという。

 「添木(副木とも)」は、義肢とは異なるものではあるが、戦場における負傷した兵士のケアの最初の段階に必須の医療用具であることも確かだ。イームズがそのデザイン・製造に関わっていたとのエピソードである。戦時期の米国では、成形合板の製造技術が(レッグ・スプリント製造を通して、ということか?)確立され、工業製品として大量生産され、それが最前線での負傷兵のケアに役立っていた。そこを押さえておきたい。

 

 

 さて、再び大日本帝國の傷痍軍人である。

 「先の大戦」をめぐる戦後の言説の中で、傷痍軍人は周辺的話題として扱われてきたように思われる。しかし、戦争を遂行する大日本帝國にとって、帝國の戦争が生み出す傷痍軍人は、見て見ぬふりをして済まされるような存在ではなく、帝國が十分にケアをするべき存在であり、帝國による十二分なケアが保証されていることを社会に周知させるべき存在であった。戦争をすれば、戦病・戦傷・戦死する軍人兵士は必ず発生する。特に近代の戦争では、兵器の破壊力は増大し、負傷の程度も深刻なものとなる。手元にある『The Face of Mercy』と題された、戦場における医療の歴史を扱った写真集を見ると、ローマ時代から近代に至るまで、戦傷とは基本的には切り傷と刺し傷と打ち傷であったことがわかる。もちろん、それだけでも避けらるべきものではあるが、戦場で用いられる兵器の火薬・爆薬が、爆発力の小さな黒色火薬であった世界から、19世紀後半に至り爆発力の大きなダイナマイト・TNT等が主力となる世界へと変化することにより、戦傷の悲惨さも増大した。

 手足を吹き飛ばされ、顔貌も変形した兵士達。それが日常的な存在となる。彼らに対する十分なケアの提供をアピールすることは、更なる戦争を遂行し、更なる動員を続ける上で不可欠な国家的課題となるのである。

 

 「傷痍軍人 写真週報」で検索すると、アジア歴史資料センターのサイトがヒットする。当時の国策情報誌であった『寫眞週報(写真週報)』のページには、傷痍軍人を取り扱った記事が少ないものではないことがわかるはずだ(→ https://www.jacar.go.jp/shuhou/shiryo/shiryo02.html → https://www.jacar.go.jp/shuhou/shiryo/shiryo05.html )

 

 ここでは昭和14(1939)年と昭和17(1942)年の『寫眞週報』記事タイトルから、傷痍軍人を取り扱ったものを太字で示してみよう(関連した内容を含む)。昭和14年は、支那事変の2年目であるが対米英戦争に至る前の段階であり、昭和17年は、前年12月8日の真珠湾攻撃以来の対米英戦争での戦勝気分が続いていた時期ということになる。

 

 

  第53号 ( 昭和14年(1939年)2月22日 )
 三河の新天地 白系露人の集団部落
 仮包帯も弾の中 野戦病院
 戦場に散った花

 国策料理 鯨 鰯 兎
 海外通信 アルプスの雪中演習 ドイツ陸軍
 読者のカメラ


  第54号 ( 昭和14年(1939年)3月1日 )
 満州国建国七周年
 姑娘は風を切って
 春は太倉にも
 わが鉄腕鉄脚部隊
 白衣と桃のお節句
 海外通信
 読者のカメラ


  第84号 ( 昭和14年(1939年)9月27日 )
 いで湯に癒す 傷痍軍人白濱温泉療養所
 鉄腕に振るふハンマー 傷痍軍人大阪職業補導所

 坊や、お母さんは先生よ 未亡人のための特設教員養成所訪問記
 おぢさん ありがたう
 勇士よ銃後は大丈夫 農村の妻女より
 遥かなる祈り 芹沢光治良
 読者のカメラ


  第232号 ( 昭和17年(1942年)8月5日 )
 噫々軍神 加藤建夫少将
 双葉より神鷲の面影 軍神の遺品
 使命果した廣田特派大使
 セレター軍港今や全し 昭南島
 囚人部落も日の丸に協力 フィリピン・パラワン島
 配給の煙草に歓呼わく ボルネオ・サマリンダの町
 片足で踏み登る一万二千尺 東京府下傷痍軍人の国威宣揚富士登山
 防空待避所の作り方
 壮丁に金槌あるべからず 埼玉県秩父町在郷軍人分会の壮丁者水泳講習会
 ザリガニ殲滅戦 東京市葛飾区
 白衣勇士を慰める祇園囃子
 銃後のカメラ


  第235号 ( 昭和17年(1942年)8月26日 )
 米州からの交換船昭南島に安着
 俘虜も御奉仕昭南神社の御造営
 帝国海軍ここにも作戦を展開 支那方面艦隊の温州封鎖
 わが潜水艦見事 敵輸送船を撃沈
 タイ国の幼稚園
 働きながら療養できる 傷痍軍人奉公財団山梨作業所
 九月の常会
 大学生のお医者さん 山村僻地を往診 埼玉県秩父
 樺太オタスのよいこども
 銃後のカメラ


  第240号 ( 昭和17年(1942年)9月30日 )
 新中国へ 答訪使節 晴れの首途
 軍人援護強化運動 十月三日-八日 再起を夢みて傷も忘れた昨日今日 千葉県傷痍軍人下総療養所
 夫の遺志をつぎ 明日への希望を胸に秘めて 軍人遺族東京職業補導所
 兵隊さん有難う 愛知県八幡町第一国民学校
 新生ジャワは我らの手で
 満州国皇帝陛下建国忠霊廟に御親拝
 満州国建国十周年式典 新京
 町から里へ 救援案山子隊
 銃後のカメラ


  第243号 ( 昭和17年(1942年)10月21日 )
 シドニー湾強襲の特別攻撃隊英霊祖国に還る
 ソロモン群島を鼻の先に ラバウルの我が基地悠々
 ジャワを南の楽園に
 兵隊さんと二人三脚 傷痍軍人練成大運動会 東京
 まづ白衣勇士の食膳に 外堀でとれた鯉一千尾 東京

 二十分間に六十九メートル 縄なひ競技大会
 さんま網大増産 茨城県
 独仏俘虜交換協定 フランス
 薬用けしの増産

 

 

 傷痍軍人が世間から「隠された存在」(あるいは隠されるべき存在)などではなく、国家により手厚く保護され賞賛されるべき存在として取り扱われていた事実が伝わるはずだ。国策広報誌(昭和14年段階では内閣情報部編輯、昭和17年では情報局編輯)に、傷痍軍人は繰り返し登場していたのである。

 これらの記事の中でも、「わが鉄腕鉄脚部隊」、「鉄腕に振るふハンマー 傷痍軍人大阪職業補導所」、「片足で踏み登る一万二千尺 東京府下傷痍軍人の国威宣揚富士登山」、「働きながら療養できる 傷痍軍人奉公財団山梨作業所」、「軍人援護強化運動 十月三日-八日 再起を夢みて傷も忘れた昨日今日 千葉県傷痍軍人下総療養所」といったタイトルが示しているのは、義肢を装着することで能力を回復し、前線への復帰は叶わぬにしても生産の現場で再び国家に奉公することが期待される、生産性のある傷痍軍人の位置付けである。

 

 ここで国家による義肢の支給について、その歴史的経緯を、まず「しょうけいかん(戦傷病者史料館)」(木下氏も、しょうけいかんの展示を紹介していた)による企画展示解説資料(平成26年度 夏企画展)によって確認してみたい。

  
  戦傷病者に対して、恩賞制度の一環として各種の義肢が支給され、審美的な装飾義肢から実用的な作業用義肢へと変化していきました。
  明治10(1877)年の西南戦争で、大阪陸軍臨時病院がオランダ製の義肢を手渡したのが義肢支給の始まりです。明治27(1984)年の日清戦争以降は、昭憲皇后の御沙汰により恩賜の義肢が下賜されました。明治37(1904)年の日露戦争時には、廃兵院の設置や失明軍人の盲学校開設など、社会復帰のための施策が拡充されます。大正末期から昭和初期には審美的な装飾義肢の他に、社会復帰を前提とした実用性重視の作業用義肢が支給されました。日常生活から各種の職業、用途別に様々な作業用義肢が製作され、各人の適性と、義肢の特性を踏まえて職業を選択しました。辛いリハビリテーションと、慣れない義肢での職業訓練に耐え、社会復帰を目指したのです。

 
  (日清戦争時の)戦傷者のほとんどは銃創、砲創、刀傷、火傷などですが、特に凍傷患者の多くは、手足の切断を余儀なくされたのです。
  昭憲皇后は深くお心を痛められ「軍事に関して手足を切断したる者は、軍人と否とを問わず、彼我の別なく、人工手足を」との御沙汰があり、皇后陛下の御手元金から義手、義足、義眼が製作され、敵味方の区別無く下賜される運びとなったのです。
  陸軍においては、義手31名、義足90名、義眼10名の合計131名(うち捕虜9名を含む)海軍でも義手7名、義足5名、義眼4名がその恩恵に浴しました。

 
  日露戦争(1904)時には、それまでの小銃での撃ち合いを主とする戦闘から、大砲による長距離からの砲撃戦へと、兵器やその運用は大きく変貌しています。
  兵器の発達によって、受傷の様子も変化することとなります。
  医学面でも広島予備病院へのX線装置の導入など確実に進歩を遂げており、戦傷病者に対する様々な治療法と共に、戦傷病者の本格的な社会復帰のための施策が始まります。

 

 この日露戦争時に廃兵院の設置、失明軍人対象の盲学校の開設といった施策がとられる。注目しておきたいのは、

 

  陸軍大将乃木希典の自らの開発による、世界で初めてとなる画期的な作業用能動義手である「乃木式義手」もこの時期に完成しています。

 

という、作業用義手の登場と、それが「世界で初めて」と位置付けられ、しかも乃木大将がそこに関与していたとのエピソードであろうか。

 

  大正末期から昭和初期になりますと、それまでの「なるべく生まれた時の姿に近いように」外観を重視した審美的な恩賜の義肢に象徴される「装飾用義手」の他に「社会復帰を前提とした」実用性重視の「作業用義肢」が支給されてゆきます。
  昭和17(1942)年には、戦争の激化に伴って増加する戦傷病者に対応するため、義肢の研究費が大きく増額されます。
  材料本廠全体の研究費200,000円(現在の約20億円に相当する)に対して、義肢の研究費は、その1割に当たる20,000円(約2億円相当)が計上されていました。
  昭和15(1940)年度の研究では、装飾用義手に作業用義手の機能をも持たせると言う現在の義手製作の基本にも通じる命題がありました。装飾用の手掌を外すと作業用義手が現れるという仕掛けで完成し、実際に支給されております。

 

 この作業用義手の持つ意味については、上田早記子氏の「傷痍軍人福岡職業補導所における職業再教育」(2014)がわかりやすい。

 

   傷痍軍人は明治の頃は、「廃兵」と呼ばれた。当時は「廃」という言葉からもわかるように「廃れた」、「使えない」兵士として扱われた。しかし、国のために戦争に出兵し傷病を負った戦傷病者に対して国が何の対応もしないことは、戦傷病者の家族などからの不満を生み、新たに兵士になる者の不安を仰ぎ、国を不安定にすることになりかねなかった。そのため、傷病または死亡した場合など一部を対象に、本人またはその遺族に安定した生活を保障するために恩給制度が始まった。他にも廃兵院と呼ばれる入所施設も建てられた。1937年に日中戦争が起き、その後第二次世界大戦に突入する中で、「国家総動員法」が成立した。そして、戦争による労働力不足を補うため強制的に国民を徴用し生産に従事させる「国民徴用令」が発布された。このような時代背景の中、傷痍軍人であっても年金により生活を安定させるのではなく、再度立ち上がる、いわゆる再起奉公として生産に従事できるようになることが求められた。求めたばかりではなく、職業訓練や職業斡旋など職業保護が政府によって打ち出され、急速に発展していった。

 

 近代総力戦状況の中で、「傷痍軍人であっても年金により生活を安定させるのではなく、再度立ち上がる、いわゆる再起奉公として生産に従事できるようになることが求められた」のである。国家の施策として作業用義手の開発研究費も増額され、作業用義手を装着しての職業訓練施設も用意され、職業斡旋にも積極的な姿勢が示されたというのである。傷痍軍人達にも、実際に生産労働に従事することが求められたのである。

 先に紹介した『寫眞週報』の記事もまた、そのような時代背景の中で、作業用義肢を装着し、生産労働に意欲を示す傷痍軍人の姿を強調しようとするものであった。
 
 いずれにせよ、ここでは傷痍軍人は生産労働の第一線を担うべき存在として位置付けられ、政府広報誌に取り上げられているのである。戦時日本の風景の中に、傷痍軍人は可視化され、少なくとも建前としては敬意を以て取り扱われるべき存在であった。障害者であっても、生産労働に積極的に従事しようとする存在として、国家に顕彰されるのが傷痍軍人なのである。その一方で、障害と共に生まれた人々は、生産と無縁な存在として差別の対象であり続けたのである。傷痍軍人は国家により積極的に包摂され、同じ国家が、生産労働を担えない障害者を社会から排除する。

 

 「生産」という語には、平成の末期の用語法からのアプローチも重要であろう。「LGBTには生産性がない」という「保守」政治家の、あの用語法である。世代の再生産という問題である。傷痍軍人達にとっては、それは自身の「結婚」の問題であった。高安桃子氏の「戦時下における傷痍軍人結婚保護問題―傷痍軍人とその妻に求められていたもの」(2009)はその「問題」を論じたものだ。

 

  福祉施策の未整備から、多くの障害者は困窮した生活を強いられていたことに加え、戦時体制のもとでは「出征して国に貢献することができない存在」という烙印を捺され、肩身の狭い思いをさせられていた。その上さらに1941年の「国民優生法」施行により、「障害者は生まれてはいけない存在」という、現に生きている障害者の生存の否定につながるような時代の空気にさらされることとなったのである。

 

 これが「障害者一般」が戦時期に直面させられた状況であったが、

 

  このような差別の対象である一般障害者と、国のために戦い、尊敬の対象とされるべき傷痍軍人とが、障害を持っているという点で世間から同一視されることを、国家は阻止しなければならなかった。

 

 戦時期において「障害者一般」は、「出征して国に貢献することができない存在」であることが強調され、傷痍軍人との差別化が進行した。傷痍軍人は既に「出征して国に貢献した存在」であり、更に作業用義手を装着して生産労働に従事する存在として、より差別化は進行する。それに加えて、「障害者一般」とは差別化されるべき傷痍軍人の結婚が問題となる。

 

  傷痍軍人と一般障害者とを、異なった存在であると説明する方略としては、傷痍軍人の障害は戦争に起因するものであり、遺伝しない障害であるという説明の仕方がとられた。

 

 世代の再生産という文脈(平成末期の保守言説の文脈でもある)から、「遺伝」を理由に一般障害者が排除されると同時に、傷痍軍人の障害が「遺伝しない障害」であることが強調されたのである。

 男性として社会的認知を受けるためには、生産労働を担うだけでは不十分であり、「妻を娶る」ことのできる存在として社会から見做される必要があった。見做される(それは建前に過ぎない)だけではなく、現実に自身が結婚していることが、当事者としての傷痍軍人達にも望ましいこととして考えられていたであろう(当時の社会通念の中では、男は結婚して一人前、なのである)。しかし、実際にはハードルは高い。「生産労働を担う」といっても、障害者としての傷痍軍人の労働は結婚生活を支えるだけの収入に結びつくとは限らない。職業生活にとどまらず、家庭での日常生活もまた、現実的には障害者としての様々な不便の中での生活であり、それを支えることも妻には求められる。

 当時の結婚斡旋をめぐる言説を読むと、妻にも職業生活が期待されていたことがわかる。すなわち、現実の問題として、傷痍軍人=障害者としての夫の収入に依存することの困難があり、妻にも収入源を持つこと=収入に結びつく職業を持つことが期待されていた。

 

  また、結婚により傷痍軍人を絶望から救い上げることは、出征できない女性にとっての国家貢献であるとされた。傷痍軍人の花嫁を養成する機関では、生計を担うための職業的能力を養成することが目指された。これは夫婦の中で妻が生計を担うという、当時のジェンダー規範が逆転した現象であり、傷痍軍人の妻に求められていた特有の役割であるといえる。妻は介護力としても期待され、夫の「再起奉公」を助けるという傷痍軍人の妻ゆえの役割が求められた。その結婚生活は苦労が前提とされ、その生活に踏み込むためには、女性にとって大きな覚悟が必要であった。

 

 傷痍軍人の妻には、生計を担うための職業生活が期待され、同時に障害者としての傷痍軍人の介助・介護者としての役割もが求められたのである。

 傷痍軍人の花嫁となるべき若い女性への国家からの期待がある一方で、世間の目は醒めたものであった。高安氏は、昭和18(1943)年の大政翼賛会による「健民運動資料 第三輯 七、軍事援護二関スル調査報告書」から、当時の実際の世間の反応を例示している。傷痍軍人結構相談所開設の理由について、

 

  コノ相談所ノ開設セラレタル県ニシテ、コレニ関心ヲ持ツ者極メテ少ク、係ノ異ル役向ノ人ハ全クコレニ関与セズ。一般民衆モ殆ンド無関心ナリ。甚シキ場合トシテハ傷痍軍人二嫁ガントスル娘ヲ軽蔑スル風潮サヘアリテ、本事業ノ進行ヲ妨グルコト少カラズ。

 

このように記されているという。これが昭和18年(既に対米英戦2年目である)の、世間の目の現実であった。国家による可視化の一方で、世間(一般民衆)は見て見ぬふり(しかも、ただ「無関心」なだけでなく「軽蔑スル風潮サヘアリ」)だったのである。

 

 軍人であることの期待に応えるという意味において、傷痍軍人は、その役割を十分に果たした人々である。男性として、名誉の負傷は讃えられるべき勲功である。しかし、傷痍軍人として生きることは、障害を負って生き続けねばならぬことを意味する。

 戦時期の日本では、それでも傷痍軍人の存在は可視化され、国家の保護施策の対象であった。戦後は、人々にとって、可能であれば目にすることを避けたい存在として取り扱われてきたように見える。であるからこそ、戦時期の国策広報誌の中に可視化された存在として現れる傷痍軍人の姿を見ることが、意外性を伴う経験となるのであろう。

 今回の出発点となったのは、「手のかたち・手のちから」の展示会場であった(そこには、少なくとも当面は傷痍軍人を生み出すことがないであろうことが期待される現代日本の技術を結集した、筋電義手の展示もあった)。三方石観世音では、観世音の持つ治癒力が人々を引きつけた。手や足、あるいは視力を失った傷痍軍人には、「治癒」あるいは「快復」という時が訪れることはない。戦時期の(そして戦後の)日本において、それが傷痍軍人として生きることとなった人々の経験であった。その事実の持つ意味を深く見つめる機会としておきたいと思う。
 

 

 

【蛇の足】
 神野先生による武蔵野美術大学美術館での展示企画については、以前にも取り上げたことがある。

  「近現代史の中の蚊(あるいはモスキート) 」(2011年)参照

 そこでも、展示企画そのものについてというよりは、展示にインスパイアされての私の脳内反応を記すものとなっていた。神野先生の果てなき好奇心を(思うがままに、と言いたいところだが、とりあえず予算の許す限り、であろう)展開したような展示空間が、私の脳内にもたらした作用の記録である。今回も、あの展示会場での経験が、傷痍軍人の義肢へと展開するのには我ながら驚かされた。これもまた、ある種の「神の手」のもたらす経験かも知れない。
 そういえば、木下氏との対談の場では、神野先生は杖をついていらした。足を傷めたらしい。展示期間の最後に、自ら三方石観世音の御利益を経験しようというのであろうか? 民俗学者とは、そこまで突き進んでしまうような存在なのであろうか?

 

 

 

 

 

 

 

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2019年8月23日 (金)

溶鉱炉の火は赫々と燃えているが(戦時木造船の周辺 2)

 

 前回記事では「撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺)」と題して、昭和18(1943)年当時の官製国策情報誌である『週報』及び『寫眞週報』(どちらも情報局編輯)の記事から、戦時期の都下小平地域の軍需調達(具体的には青梅街道の欅並木伐採)を扱った「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」の補足情報を紹介した。

 総力戦状況下での深刻な物資不足状況が伝わる記事であったが、今回は同年の『アサヒグラフ』を取り上げる。

 

 

 大東亜戦争(いわゆる太平洋戦争、アジア太平洋戦争、あるいは第二次世界大戦の日本政府による公式名称である)初期においては、大日本帝國は広大な占領地域を確かに手にした。しかし、本土と占領地間の物資及び人員の補給を担うべき海上の船舶不足はすぐに深刻となった。そもそも日本海軍には輸送船団護衛の余力(発想自体というべきか)はなく、護衛を欠いた輸送船団に対する攻撃(海面下の米海軍潜水艦は脅威であった)により失われた船舶を補充するには、鋼材不足は決定的であった。既に支那事変(対中戦争)段階から、重要な軍需物資である鋼材は(石油と共に)米国からの輸入に多くを依存していたのである。支那事変の拡大は、米国からの鉄材(及び石油)輸入の途絶をもたらし、その打開策として対米戦争を選択したのである。前回記事で紹介した三井昭二氏の評にある通りで、まさに、

 

 資源が無いために開戦し、資源が無いために敗戦した

 

というしかない状況であった。

 船舶需給の危機的逼迫により、まず構造の規格化・簡易化による鋼船(戦時標準船)建造計画が進められ、しかしすぐに鋼材不足の深刻化から木造船建造へと事態は進展した(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」参照)。

  木造船建造用木材の供出の一環として、小平地域では青梅街道の欅並木の伐採が起きたのである(同記事中では、『寫眞週報』第263号―木材供出のための岡山県での神社の御神木の伐採事例等が掲載されている―も画像で紹介してある)。

 さらに昭和18年10月27日の『週報』(第367号)、そして『寫眞週報』の270号(昭和18年5月5日)掲載された関連記事を紹介したのが、前回の「撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺)」ということになる。

 

 

 今回取り上げるのは、日本を代表するグラフ雑誌であろう『アサヒグラフ』の第四十巻・第十三號(昭和18年3月31日)である(表紙には「大東亞戰争第六十五報」の文字がある)。同時期の米国を代表するグラフ雑誌の『ライフ』に比較すると、判型はほぼ同サイズだが紙質・印刷は劣り、ページ数も少ない(『アサヒグラフ』は表紙・裏表紙を含め20ページであるのに対し、『ライフ』は表紙・裏表紙抜きでも100ページある)。民間グラフ雑誌を手にするだけで、両国間の国力の差は明らかである(下の画像は、わが情報局の国策広報誌『週報』、やはり情報局の国策グラフ誌『寫眞週報』、民間グラフ誌を代表する『アサヒグラフ』、そして暴戻なる米国の民間グラフ雑誌『ライフ』を並べてみたところ―『週報』と『寫眞週報』については前回記事で取り上げてある)。

 

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 昭和18年3月31日の『アサヒグラフ』の10~11ページは「木造船は征く」と題された、木造船についての記事である(漢字は新字体、カナは旧仮名遣ひによる―オリジナルの横書きのキャプションは右から左へ書かれている)。

 

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    木造船は征く
 カーン、カーン、早春の明るい陽差しを受けた河面に樫の楔を打ち込む音が澄んだ空に流れてゆく。ここは○○木造造船所。ヨイショエイコラと船大工さん達の掛声も勇ましく、戦闘帽を冠つた造船戦士は『さあやらうぜ』と張り切つた掛声に、鉋を削る音も快い。『秋田おばこが、雪の中を馬橇で運び出してくれた船材だ、なんて素晴らしい木理だらう』と感嘆する供木こそ、木材応召の愛国至情に燃えて、祖先の築いた美林や、由緒ある松並木を、英米撃滅の決戦場に雄雄しく出陣させた赤誠溢れる尊い木材なのである。
 働く大工さん達も、太平洋の怒濤を突切る気負に溢れ、一本の釘にも、精魂を傾け、立派な船を造るぞと情熱をこめた手練の妙技で、巨大な龍骨が組み立てられたと思ふ間に、白い筋骨隆々たる男性の逞しさを思はせる龍骨美は忽ち消えて、板が張られ、帆柱が立つて木造船は竣工する。やがて硝煙漂ふ太平洋の彼方へ、颯爽と日の丸の旗を飜して雄々しくも征く。
 全生命を打ち込んだ戦士達は、『しつかりやつて来い』と晴れの船出を見送り。進水した後には早くも船台が据ゑられて、戦ひに勝つため木造船はあとからあとからと建造されてゐる。
(写真キャプション)
 樹齢三百年にも余る巨木が続々造船所へ、嘗ては街道を飾つた松並木、深山の檜も、木造資材として、鋸にひかれる
 鑿の音、鉋を削る造船交響楽に巨大なマンモスの肋骨を思はせる龍骨が組み立てられその用途に別れて船材となる
 木船が続々と建造され、龍骨を組み立てた隣には、早くも進水を待つ船が内部の完成を急ぎ、戦場のやうな忙しさだ
 木の肌もくつきりと、船の生命龍骨は、強靱な骨格を見せて春陽を浴びてゐる
 板が張られて完成に近い船は美しく塗られ船尾は米英の弾丸なんか蹴飛ばせと声を振つて精魂こめて仕上げをする
 船体が出来上がると最後に船内を造る 輸送の大任を果す大事な船艙だ 造船に敢闘する人々の手は思はず弾み緊張する
 見事に木船は完成した 大東亜の洋上へ船出する日に備へ船体には美しく鮮かな日の丸が描かれて晴れの日を待つ

 

 順調な木造船建造の進捗を伝える(ための)記事であろう。ここにも、「秋田おばこが、雪の中を馬橇で運び出してくれた船材」、「樹齢三百年にも余る巨木が続々造船所へ、嘗ては街道を飾つた松並木、深山の檜も、木造資材として、鋸にひかれる」などの記述があり、木造船建造に先立つ木材供出の現場の状況が記されている。

 

 

 この記事だけを読めば、順調な木造船建造による戦局打開への期待も抱けるかもしれないが、しかし、昭和18年3月31日の『アサヒグラフ』の巻頭記事の表紙に記されたタイトルは「日本の鐵鋼、逞しく増産」なのである。それが現実のものとなっていれば、そもそも戦時標準戦建造計画において安全面を犠牲にしての増船政策を採る必要もなければ、ましてや木造船建造に頼る必要などないのである。「嘗ては街道を飾つた松並木、深山の檜も、木造資材として、鋸にひかれる」必要などないのだ。先にも示したように、中国大陸での軍事行動の拡大(支那事変)、加えて東南アジア地域への軍事的進出(南北仏印進駐)により、大日本帝國の軍事行動を支えていた鉄鋼材や石油が入手困難(どちらも米国が供給源)になり、その果ての対米英開戦なのである。その点を踏まえた上で、「日本の鐵鋼、逞しく増産」も読んでおきたい。記事本文でのタイトルは「日本の鐵鋼」である。まず表紙を開いて左ページ全面から記事は始まる(ページ数としては3と表記―表紙が1ページに相当し、2ページに相当する右ページは表紙裏の広告。キャッチコピーとして用いられている「俺は還らぬ」には唖然とさせられるしかない―熟練を要するパイロットの命を粗末に扱うことを誇るような文言に酔いしれるようでは総力戦での勝利はないだろう。パイロットの命を使い捨て扱いするのではなく、生かし続け使い回し続けることでこそ、そこに価値を置くことでこそ、勝利は得られる)。

 

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  日本の鐵鋼
 祖宗の神霊まことに上にあり、日本民族が皇国三千年の興廃を賭け、挑まれたる戦ひに断乎起ち上れる時、その時こそは凡ゆる不可能事を可能ならしめる不抜の闘志と不撓の創意と不屈の努力の油然としてわき上るを我等は堅く信じてこれを疑はぬ。
 わが製鉄の事業に於てこれを歴然と見るのである。
 想定の敵国たる獣鬼アメリカに超重要産業たる鉄鋼生産の一切を依存せる時代はまさに僅々二年余の過去に過ぎなかつた。識者をして薄氷を踏むの感を抱かしめてゐたが、果然昭和十五年十二月、暴戻なるアメリカは鉱石、銑鉄、鋼材の全面的輸出禁止をもつて我を脅かすに至つたのである。
 みどり児の幼き手を捩ぢり上げる底の思ひ上がりを以つて、われ屈服すべしと考へたアメリカの増上慢に、痛切苛烈の一矢を酬いたものは実に鉄鋼の自給□□(二字不明)の増産とである。指導者の熱意と、産業戦士諸君の挺身と国民の至情とによつて、今や完全なる皇国日本の鉄鋼たり得たのだ。
 見よ、溶鉱炉の火は赫々と燃え、灼熱する高炉は続々と明日の国防資材を充足するための鋼材を生み出しつつあるのだ。
   〇〇製鉄所にて
   鈴木・富重両特派員撮影
   (写真は陸軍省検閲済)
(写真キャプション)
 (上)岸壁に横づけされた船舶から鉄鉱石は起重機によつて続々荷揚げされる (下)溶鉱炉から出る溶銑は見事な火の瀧となり、鋳床の樋を流れて溶銑鍋へ

 

 現在では「反日」の代名詞のような扱いを受ける朝日新聞社だが、ここでは「祖宗の神霊まことに上にあり、日本民族が皇国三千年の興廃を賭け、挑まれたる戦ひに断乎起ち上れる時、その時こそは凡ゆる不可能事を可能ならしめる不抜の闘志と不撓の創意と不屈の努力の油然としてわき上るを我等は堅く信じてこれを疑はぬ」と戦時日本の精神万能主義的神がかり気分を昂揚させ、「想定の敵国たる獣鬼アメリカ」、「暴戻なるアメリカ」、そして「アメリカの増上慢」と米国罵倒に力が込められるところを深く味わっておきたい。もっとも、「反米」は今に至る伝統なのかもしれないが。

 いずれにせよ、「見よ、溶鉱炉の火は赫々と燃え、灼熱する高炉は続々と明日の国防資材を充足するための鋼材を生み出しつつあるのだ」と自慢する数ページ先では、「木材応召の愛国至情に燃えて、祖先の築いた美林や、由緒ある松並木を、英米撃滅の決戦場に雄雄しく出陣させた赤誠溢れる尊い木材」が讃えられるのである。「溶鉱炉の火は赫々と燃え、灼熱する高炉は続々と明日の国防資材を充足するための鋼材を生み出しつつある」のが現実であれば、「祖先の築いた美林や、由緒ある松並木」にまで手を出す必要はなかろう。しかも、その「尊い木材」による増船政策としての「木船建造緊急方策要綱」(1943年1月の閣議決定)にしても、吉川由美子氏によれば、「木造船はあくまで鋼船の補完的役割を期待されたが、鋼船と同様、戦時標準型が決められ大量生産がおこなわれた。しかし、急な大量生産のため浸水するものが続発し、木造船建造の目標は烏有に帰した」(「アジア・太平洋戦争中の日本の海上輸送力増強策」 2004)のであった。

 

 再び「アサヒグラフ」記事を読もう。続く4~5ページは写真とキャプションだけで構成されている。

 手元にある『ライフ』誌の一冊(1943年8月9日号)には、「WOMEN IN STEEL」と題されたマーガレット・バーク=ホワイト撮影による記事が掲載されている(今回の記事の最後に「追加参考画像」として紹介してある)。『アサヒグラフ』には女性労働者は登場しないが、『ライフ』は製鉄所の現場で活躍する女性労働者に焦点を当て、特集記事としているのである。当ブログでは既に「フォードの爆撃機、あるいはロージーのリベレーター」として米国の戦時女性動員について取り上げているが、この『ライフ』記事でも、製鉄所のハードな現場労働の第一線を担う女性達の姿が紹介されている。『アサヒグラフ』でも『ライフ』でも、製鉄所内の特徴的な光景(重厚長大産業の代表としての大規模な設備群-重量・巨大さ・広大さ・高熱といった条件)は等しく取り上げられており、『アサヒグラフ』のカメラマンの技量の確かさも誌面から伝わる(ただし、残念ながら、紙の質、印刷の質において『ライフ』に大きく見劣りする)。

 

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(写真キャプション)
 溶けた銑鉄は更に精錬の鋼鉄となるために起重機によつて平炉に漉きこまれる
 平炉から出る鋼鉄の熱湯はこれを鍋にとり 起重機に吊つて鋳型に流し込む。この鋳型で出来たものを鋼塊といふ
 溶鉱炉内に溜つた溶滓は出銑時の合間に出滓口を開いて取り出さねばならない
 鋳型から抜いた鋼塊灼熱したまま台車の上に載せて分塊工場に運搬される
 鋼塊はその用途によつてまた圧延される。これは厚板に圧延される一工程だ 厚板になつた製品は工場内に積まれ艦船用・汽罐用鋼板となつて戦ひに出る
 出来上がつた鋼鉄資材 ああこれこそ日本の鋼だ
     (4~5ページ)

 

 「厚板になつた製品は工場内に積まれ艦船用・汽罐用鋼板となつて戦ひに出る」ことへの期待は大きいものであったはずだ。しかし、造船の現場で建造されたのは、安全性を軽視した簡易構造の、いわゆる戦時標準船であった。

 

  この徹底した簡易構造の中でもその際たるものは船舶の安全の基本に関わる二重底の廃止であった。二重底とは船底を二重構造に組み上げ、船舶が座礁などしたときに船底の決定的な破損を少しでも軽減し沈没の危機から救うこと、また船体の強度を高めるための基本的な構造として採用されている、船舶の構造上必要不可欠なものである。
  二重底の組み立てはその船が起工され船台上で工事が始まった直後から開始される最重要の工程で、確かに多くの鋼材と多くの作業を要する複雑な工程である。この複雑な工程を排除することは船の建造のスピードアップには確かに極めて効果の大きなものであるが、その反面、船の安全性を根底から否定することでもあり、特に用船者側から見れば信じられない暴挙であった。
  二重底の撤廃に対しては航海の安全が保証されず、任務の遂行も保証できないとして各海運会社等からは、設計主務者である海軍艦政本部に対し厳しい批判と苦言が呈された。しかし艦政本部はこれら全ての批判や苦言を黙殺し二重底撤廃を強行したのである。つまり第二次戦時標準船は大小全ての船が二重底を装備していないという、信じられない構造の船となったのであった。つまり各船の船底は十~二十ミリの鋼板一枚だけであったのである。
  徹底した簡略設計や工作が強行され、また作業工程が簡略化されて完成した船はその後それぞれに多く問題を残すことになった。その代表的な例が水密性の欠陥であった。
  造船所で完成した船が、竣工検査で必ず実施するものに船体の水密性に対する検査があった。これは船体の吃水線以下の船体の漏水の検査で、不良工事は将来的にその船の沈没も招きかねず、事前に徹底的に検査することが決まりであった。ただこの検査は多くの時間を要することになり、不良個所の改修作業も決して容易ではなかった。第二次戦時標準船では完成時のこの検査を極めて簡単な簡易検査だけにとどめてしまったのである。
  このために信じられないことではあるが、完成直後から直ちに輸送任務に投入された各船では、しばらくの間は乗組員による漏水個所の手直し作業が行われるという、異常な状態が続くことが多かったのである。また甲板の鋼材の電気溶接個所も、工作不良により船内に水漏れが生じることは日常的で、就航後は当分の間、乗組員による様々な手直し作業が続くのは当たり前というのもこれらの船の特徴でもあったのである。粗製濫造の極みともいえる状態は確かだったのである。しかしこの混乱は設計だけに原因があるのではなく、後述するように多くの部分が造船作業員の技量の大幅な低下に由来していたのであった。
     (大
内建二 『戦時標準船入門』 光人社NF文庫 2010  80~82ページ)

 

 問題を抱えていたとはいえ、その一応は鋼船であった戦時標準船の建造は、総力戦下の船舶需要を満たすには遠く、政府は「木造船建造緊急方策要綱」を閣議決定する。

 

 大東亜戦争の長期化に伴いますます深刻化する船腹戦争の事態に対処し、海上輸送力の積極的増強をはかることは緊急焦眉の国家的課題であり、政府はこれがため夙に鋼船による計画造船と並行して鉄鋼資材関係より簡易な設備をもって、しかも急速に建造され得る木造船の増強をはかるべくかねて木造船戦時標準船型の制定、木造船別の企業合同などの措置をとってきたが時局の緊迫にかんがみ昭和十八年度において木造船の飛躍的増大を目途とする「木造船建造緊急方策要綱」が二十日閣議決定をみた
     (大阪朝日新聞 昭和18年1月21日)

 

 その「緊急方策」の具体化した姿が、先の「木造船は征く」に描かれていることになる。

 

 

 そして、「緊急方策」の下に、小平市内(当時は小平町)の青梅街道の欅並木も伐採されてしまったのである。『用水路 昔語り』(こだいら 水と緑の会 2016)にある回想を読み返しておこう。

 

  青梅街道沿いにはずっと欅の並木があったんですよ。ある時ぱっと切っちゃいましたが。当時覚えていますけど、大きな欅の並木があり下にはヒイラギの垣根があったんですよ。道も勿論舗装もしていなくて、いい雰囲気だったんです。

 

  この辺は大きい欅がいっぱいあったんです。防風林になるし、落ち葉は出るし六十年周期で製材所に売ってたんです。船材とか電柱に使ったんです。戦中、終わる頃に供出で全部切られてしまった。

 

  昔はこの青梅街道は欅のトンネルだったんだよ。竹内さんとこにはちょこっと残ってるけど、もうずーとあんな感じでトンネルだった。子供の頃から戦争中までね。

 

  船材として全部供出ですよ。大きいのから強制的に切られた。それで無くなっちゃったんだ。

 

  船材にされちゃったんだね。昔はこの青梅街道沿いにずっと欅があったんだけど、陸軍大臣の代理の人が来て、管理して切ったんだよ。

 

  そしたら持っていかないうちに終戦になっちゃってね。

 

  みんなデカイ欅でね、それ全部切っちゃったからね、それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ、まったく悲しいよね。

 

 

 

 

【追加参考画像】

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《記事一覧》

 カテゴリー
 「多摩武蔵野軍産複合地帯
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/cat71885235/index.html

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-c5f0.html
  昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(星野朗氏の論考紹介)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-00e7.html
  (1)に続き、多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(特に軍の展開状況)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)
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 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-4460.html
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 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-cb9a.html
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 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)
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  軍産施設の進出に伴う集団住宅建設問題(住宅営団と東京瓦斯電気のジードルング)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)
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 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (8)
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  『国分寺市の今昔』(2015)巻末の一覧を用いて軍産施設設置状況を再確認

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)
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 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)
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 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)
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 「グローブマスター機墜落 (軍産複合地域としての昭和十年代多摩 戦後編-1)
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  1953年の小平町のグローブマスター機墜落事故と沖縄の現在

 

 「撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-511f.html
  昭和18年の『週報』、『寫眞週報』記事により、木材供出の全国的展開の様相を読む
  (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」の補足記事)

 

 「溶鉱炉の火は赫々と燃えているが(戦時木造船の周辺 2)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-15f4ee.html
  昭和18年の『アサヒグラフ』記事により、木材供出の全国的展開の様相を読む
  (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」の補足記事)

 

 

 

 

 

 

 

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2019年7月30日 (火)

撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」では、木材供出で姿を消したという青梅街道(小平市内)の欅並木をめぐる証言と、その背景としての戦時木造船建造政策(「木造船建造緊急方策要綱」昭和18年1月20日閣議決定)について記した(『寫眞週報』第263号の記事―木材供出のための岡山県での神社の御神木の伐採事例等―も画像で紹介してある)。

 大日本帝國における国家総力戦体制の内実をよく伝えるエピソードだと思うが、先の記事に加えて、情報局編輯による政府広報誌である『週報』、そして『寫眞週報』(写真週報)にある関連記事を紹介しておきたい(漢字表記は新字体、カナについては原文通り)。

 

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 まず、昭和18年10月27日の『週報』(第367号)の表紙裏の「週言」と題されたコーナーでの主張である。

 

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  従来、生活といへば、とかく個人的なもの、消費的なもののやうに考へられて来た。自分で稼いだお金はどう使はうと勝手だ、無駄使ひをしたり、無くて済むものまで買ひ揃へることが、生活の潤ひであり、より高き生活であるとさへ思はれて来た。
  しかし、決戦下の今日、我々の生活をかくあらしめてはならない。生活は決戦へ、百八十度の転回をせなばならない。生活は個人のためのものから国家のためのものに、消費から生産へと切り替へられねばならない。
  一億国民が衣料切符の一割に当たる絹を節約すれば、落下傘八十九万台が出来る。紙二割を節約すれば木材二百六十万石が浮き、百トンの木造船が二千六百隻も造れることになるのである。
  生活は戦力の源泉である。我々の生活の中から、戦争に勝つための、物や、お金や、人手をもつともつと浮き出させて、戦力の増強、国力の充実をはかることが、決戦下にあるべき生活の姿である。
  生活は消費にあらずして、生産である。

 

 

 青梅街道の欅並木伐採に至る切迫した状況が、

 

  紙二割を節約すれば木材二百六十万石が浮き、百トンの木造船が二千六百隻も造れることになるのである。

 

この言葉からも伝わるであろう。

 

 『週報』のこの号の17ページには、貯金局による「紙も兵器だ!  貯金通帳の無駄を一掃しよう」と題された記事も掲載されている。

 

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  最近、貯蓄が増えたため、どこの家庭でも通帳が多くなつて、保管や整理に困るといふ声があるやうですが、通帳を幾冊にも分けて預入するのは、それだけ多くの人手と物資を使うことになりますから、かうした決戦下の尊い努力と物資の節約を図り、挙げて戦力の増強に振向けるやうに、通帳の無駄を一掃したいものです。
  最近の調査によりますと、郵便貯金通帳の所持数は、
 1、調査世帯数               八、二九八世帯
 2、同上人員(通帳を所持する者のみ)    三、九九九二人
  一世帯当り人員             四.八人
 3、通帳所持冊数              八七、〇九四冊
  一世帯当り通帳所持冊数         一〇.五冊
  一人当り通帳所持冊数          二.二冊
 4、一世帯当り通帳所持冊数内訳
  …(以下数値略)…
となつていて、随分無駄があるやうです。
  試みに最近一ヶ年間の通帳の増加振りをみますと、約二千四百万口の増加で、支那事変以来、六年間に八千七百万口といふ激増振りです。かうして年々二千万の通帳が増えると共に受払の口数は六億口といふ厖大な取扱数になりますから、これの処理に要する人手と物資も、また莫大なものです。
  しかし、その割合に一冊当りの預け高は少く、現在、国民の持つてゐる通帳は約一億四千万冊ですから、最近の現在高百六十億円で計算すれば、一冊当り平均百円少しとなりますが、統計によると、その七割九分は現在高五十円以下の通帳で、郵便貯金は一人五千円まで出来るのですから、もつと通帳の能力を最高度に活用しなければなりません。
  要は通帳の数を出来るだけ少なくして、預け高をどんどん増やしてゆくことが、敵米英を撃砕する貯蓄報国の近道であつて、これからはなるべく人手や物資を無駄に使はずに、貯金を殖やすやうにすべきです。
  今日では、一冊の通帳も非常に大切な資材ですから、新しく預入申込をするときは、古い通帳がないかよく調べてからにすること――何か新しい出来事を記念して貯金するとか、新しい団体でも出来て貯金するとかいふと、先づ通帳も新しいのでといふ気持になり易いのですが、そんな場合にも、出来るだけ前から持つている通帳を利用してゆくやうにしたいものです。
  また少額の貯金は、貯金箱を利用して月一回位に纏めて預入すること――かうして手数を省き、通帳の使用期限を永くするのも無駄を排除する一方法です。
  現在、手元に同じ種類の通帳が二冊も三冊もある場合はなるべく一冊に纏めること――据置貯金など二冊以上で預けてゐるのは、期間の永い方へ合併して一冊で預ける――といふやうに、通帳の無駄を一掃して、貯蓄陣もなるだけ簡素強力化し、長期戦に堪へるやうに、お互に協力し合ふやうにしませう。
  戦線では、我が勇敢な将兵一人一人が、それぞれ十人もの敵を相手に勝つてをられるのですから、私どもも一冊の通帳で十冊の通帳に匹敵する御奉公をするやうに心掛けたいものです。

 

この「要は通帳の数を出来るだけ少なくして、預け高をどんどん増やしてゆくことが、敵米英を撃砕する貯蓄報国の近道」という主張を、先の「紙二割を節約すれば木材二百六十万石が浮き、百トンの木造船が二千六百隻も造れることになる」という「週言」の言葉と重ね合わせることで、青梅街道の欅並木伐採に至る、当時の切迫した総力戦状況が理解し得るはずである。

 

    大東亜戦争の長期化に伴いますます深刻化する船腹戦争の事態に対処し、海上輸送力の積極的増強をはかることは緊急焦眉の国家的課題であり、政府はこれがため夙に鋼船による計画造船と並行して鉄鋼資材関係より簡易な設備をもって、しかも急速に建造され得る木造船の増強をはかるべくかねて木造船戦時標準船型の制定、木造船別の企業合同などの措置をとってきたが時局の緊迫にかんがみ昭和十八年度において木造船の飛躍的増大を目途とする「木造船建造緊急方策要綱」が二十日閣議決定をみた
     (大阪朝日新聞 1943年1月21日)

 

 木造船建造が国策として推進されるに至る背景には、金属資源の枯渇という問題があった。本来であれば、木造船ではなく鋼船建造こそが敵米英撃砕の近道なのである。金属資源の確保への涙ぐましい努力を伝える記事も読んでおこう。

 

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     補助貨の全面引換へ
  昨年十二月から始めたアルミ貨以外の補助貨の引換運動は、関係各方面の非常な協力と一億国民の熱誠によつて好成績を挙げ、去る七月末日までに総額実に一億四千万円、約十六億枚の補助貨を引換へることが出来ました。しかし決戦の様相はますます熾烈化し、今や、飛行機、軍艦を、一機一艦でも多く前線へ送ることが、私ども銃後国民の急務であります。
  周知のやうに飛行機、軍艦、戦車その他優秀な兵器には多量の銅、ニッケル、銀が使はれてゐます。かのマレー沖海戦で撃沈したプリンス・オブ・ウェールス級三万五千トンの軍艦を造るには、実に九百トン余の銅と訳三百五十トンのニッケルが使はれてゐるといはれます。
  即ち二億五千万枚の銅貨と約一億枚のニッケル貨があれば、このやうな軍艦を造ることが出来るわけで、つまり、各家庭から平均十七枚の銅貨と七枚のニッケル貨を国家へ引換へのため提供すれば、三万五千トン級の軍艦一隻を前線へ送り得るわけであります。
  またドイツのユンカースW三三型飛行機用の発動機一つには、ニッケル一キロ半が使はれてゐるとのことでありますから、各家庭でニッケル貨を一枚ずつ国家に差出し、紙幣等と引換へたとすると、これだけでも実に三万五千台の発動機が出来ることになります。そのほか飛行機の車軸や主動軸等にもニッケル合金が使はれてゐます。弾丸を通さない戦車や索引車や火砲、弾丸等に使はれるニッケルの数量は相当多いのであります。
  さらに銀は、銅よりも相当よい電導体であつて、最近優秀な近代兵器に使はれる量は頗る多くなり、航空決戦や海上決戦上の緊急な兵器の製造には、重要欠くことのできないものとなつています。
  このやうな重要兵器の原材料である銅、ニッケル、銀の補助貨はまだまだ沢山残つてゐるので、政府では最近の決戦の熾烈化に鑑み、この十月から明年三月までを期し、銅貨、ニッケル貨、銀貨の最終的全面引換へを行ふことにし、特に来る十一月二十日から三十日までを、補助貨全面引換期間と定め、全国一斉にアルミ貨以外の補助貨の全面的引換運動を実施することになりました。
一、引換を行ふ補助貨の種類
  (一) ニッケル貨、白銅貨 (十銭、五銭)
  (二) 銅貨、青銅貨、黄銅貨、アルミ青銅貨 (十銭、五銭、二銭、一銭、半銭、五厘、一厘)
  (三) 銀貨 (一円、五十銭、二十銭、十銭、五銭)
  (四) 天保銭、寛永通宝、文久銭、丁銀、豆板銀、五匁銀、一分銀、二朱銀、一朱銀投、銀または銅の古貨幣
  (五) 旧韓国補助貨、支那葉銭その他の外国貨幣で銅貨、ニッケル貨または銀貨のもの
二、引換機関
   全国銀行、信託会社、市街地信用組合や信用組合及び中央物資活用協会のほか本年度は新たに無尽会社でも引換へます。
三、引換手数料
   引換機関では、引換者に対してその種類に拘はらず、五十箇毎に五銭(但し五十箇未満は切捨)の引換手数料を支払ひます。
     ×     ×
  戦局はいよいよ緊迫し、いまや飛行機、軍艦その他の兵器を前線へ送ることは一刻の猶予をゆるしません。銅、ニッケル、銀を決戦力増強のために国家へ提供するのも、一国の猶予をゆるさないのであります。
  本年度の最終的補助貨全面引換の実施に際しては、この期間中に、町内会、部落会、隣組で、各家庭から補助貨を取纏め、これを引換機関で引換へることになつてゐます。また大日本婦人会でも同様、補助貨全面引換に協力され、さらに今般は特別に全国の国民学校児童の協力をも得ることになつてゐます。私ども銃後国民、今こそ一枚のこらず貯金箱にあるものも、記念としてゐるものも、すべての銅貨、ニッケル貨、銀貨をアルミ貨や紙幣などに引換へて軍国の急務に応じなければなりません。
     (『週報』 367号 14~16ページ)

 

金属貨幣は「紙幣」へと「引換へ」されることになるわけだが、紙幣もまた本来なら「節約」されるべき紙製であり、木造船となるべき木材資源なのである(「紙も兵器だ!」)。

 

 

 続いて『寫眞週報』の270号(昭和18年5月5日)の表紙裏にある「時の立札」と題されたコーナー。

 

 

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わが蓄めしいささかの金
  けふも鋼鉄(くろがね)の艦(ふね)となり
  南海の敵を撃つ
わが積みしそこばくの金
  けふも銀翼となり
  大東亞の空に飛び立つ
撃ちてしやまむ
  この暮しなほゆとりあり
  否 この暮しゆとりなくとも

 

「手元に同じ種類の通帳が二冊も三冊もある場合はなるべく一冊に纏める」だけではなく(紙の節約だけではなく)、「わが蓄めしいささかの金」は貯蓄報国の資源であり、「この暮しゆとりなくとも」自身の利便のために貯蓄・消費するのではなく、「生活は個人のためのものから国家のためのものに、消費から生産へと切り替へられねばならない」というのである。

 この『寫眞週報』(270号)の表紙には、「二百七十億へ さァ突撃だ」の言葉が記され、4ページから9ページにわたって貯蓄推進記事が組まれている(簡易保険加入の呼びかけ、節約の奨励、贅沢・遊興・浪費への批判と共に)。

 

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貯め抜く道はいくらもある
   二百七十億へ さァ突撃だ!
  佐藤陸軍軍務局長の談にあるやうに、今度の戦争は生はんかな妥協に終わる戦争ではない。文字通り民族の興亡を賭した戦争であり、国家の運命はわれわれ一人々々の運命である。貯蓄の心構えもかかる自覚から奮起しなければならない
  われわれが鬼畜のやうな米英人を相手に果合ひをするとして、一ふりの日本刀もないと知りながら、なほかつ武装を忘れて酒食に、贅沢な衣装に金を費やす者があるだらうか。食べものをつめても、まづ日本刀を求め、なほ更に近代兵器の購入にあたるだらう貯蓄は国民の一人々々がその命を託す兵器をまかなふ費用なのだ。
  今年の国民所得五百億円のうち、三百七十億円が国家目的、即ち戦争完遂のために集中される。この三百七十億のうち、百億円は租税及びこれと同性質の国民負担となるが、残りの二百七十億はどうしても国民貯蓄でまかなふのだ。今年の貯蓄目標であるこの二百七十億はどうしても貯め抜かう
  鈍刀(なまくら)を帯びて戦場に臨むは武士の恥、わが国民性が断じて許さない筈だ
     (『寫眞週報』 270号 5ページ)

 

 「貯蓄は国民の一人々々がその命を託す兵器をまかなふ費用」とされるのである。

 

 

 そして、何より課題となるのは造船用木材の確保である。

 

 記事のタイトルは「密林から生まれ出る日の丸船 ―北ボルネオ―」。

 

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  世界で三番目の大きい島ボルネオ、その広い広い大陸のやうな全土が、見渡す限りの大密林に蔽はれてゐるボルネオは、実に木材の無限の宝庫だ。殊に英領時代から木材の輸出を以て知られた北ボルネオは、内地の造船増強運動に呼応して、いま軍政部の首脳が陣頭に立つて木造船の建造に大童である。千古の密林から伐り出される勿体ないやうなボルネオ産チークや、ラワン等の造船用木材の大木が、原住民の木遣り音頭を密林に谺させながら搬出され、林間鉄道で河に送られる。そして筏に組んでボルネオの誇りとする大製材所へ。そして日本人の指導の下に原住民の船大工達の必死の努力で、着々と立派な木造船が造られてゆく。日本人達も烈日の下、汗を流して勤労奉仕のお手伝ひである。
  かくて、その第一船は日本側軍官民と原住民たちの感激のうちに、去る紀元の佳節に進水、『第五十一ボルネオ丸』と命名され、続いて第二、第三と続いて完成、進水し、日を逐うて加速的に能率をあげてゐる。軍政部首脳以下『木造船ならボルネオだ』と大した張りきり方である。
   記事 坪内陸軍報道班員
   撮影 藤波陸軍報道班員
     (『寫眞週報』 270号 14~15ページ)

 

写真に付されたキャプションは以下の通り。

 

北ボルネオの大密林には木船用最適材が無限にある。天を衝いて聳える巨木にいま丁!と斧が入れられた
現地軍官民歓呼のうちにボルネオ生まれの第一船は進水した
昼なお暗い密林の中を林間鉄道はディーゼルエンジンの音も景気よく巨材を運んでゆく
現地人の船大工も一生懸命だ。もうぢき勝利を運ぶわれわれの船ができ上るぞ

 

 先の「木造船建造緊急方策要綱」においても、「(四)豊富な木材資源を擁する大東亜地域の木造船工場を全面的に活用する」とされていた通りである。

 

 そして、岡山県津山市での松並木伐採の記事もある(ちなみに『寫眞週報』第263号(昭和18年3月17日)の記事で紹介されていた御神木伐採も岡山県の事例であった) 。タイトルは「應召する三百歳の松並木 岡山縣津山市」、撮影は小石清。

 

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  岡山県津山市の名勝地二宮松原の並木が、翼賛会の主唱する木材供出の先陣を承つて米英撃滅の船材として晴れの応召をした。
  『君を松原 夕日が暮れて 鐘が鳴りますお城のお山…』とまで津山小唄に唄はれ、地元民に親しまれてゐたこの松並木は、延宝三年(今から二百六十九年前)、時の城主によつて植ゑられたもので、城下の外郭として、また非常時の防塞として、春秋二百七十年を経て今日に至つた。
  二百七十年の樹齢に歴史の来し方を眺めてきた由緒あるこの松並木は、四月十九日の斧入れを莞爾と受け、引続いて県木材会社の手によつて三百三十余本の伐採が続けられてゐる。またこの運搬には連日、地元翼賛壮年団、在郷軍人会、大日本婦人会の勤労奉仕隊が当つてゐるが、これらの人々の汗の結晶は、松材にして約三万五千石となる。
     (『寫眞週報』 270号 16~17ページ)

 

ここには「翼賛会の主唱する木材供出の先陣を承つて米英撃滅の船材として晴れの応召をした」、そして「またこの運搬には連日、地元翼賛壮年団、在郷軍人会、大日本婦人会の勤労奉仕隊が当つてゐる」とあるが、「木造船建造緊急方策要綱」においても、「(三)木材確保のために政府の国有林供出とともに翼賛会等による全国的な木造船用木材供出の国民運動を展開しその運搬についても地元の勤労奉仕を期待する」とされており、実際にそのような過程で事態が進行したことが窺われる。

こちらのキャプションは、

 

二百七十年の樹齢を保つた二宮松原の名勝地
必勝の念願こめた平松津山市長の斧始め
津山市の翼賛壮年団員は総出で大八車に供木を積み、運搬の奉仕をする
枝とはいへ、二、三十年を経た位の太さのものが降りてくる
大日本婦人会員も枝払いの済んだ枝木の運搬に当る
枝払いが済むと丸太ン棒を幹に結へてクレーンにし、いよいよ大木の輪切りがはじまる

 

 

 

 三井昭二氏の論考、「木材統制法の成立過程に関する一考察」の結語部分には以下のようにある。

 

  やや性急な規定が許されるとすれば、資源を持たない後進帝国主義・日本にとって、資源が無いために開戦し、資源が無いために敗戦した、といえよう。そして数少ない国内賦存資源としての森林資源は、金属・石油資源に代替することまで要請され、いわば森林資源の総動員体制を形成することが促迫された。なかでも木材は、軍需の激増・産業の軍事化が進むにつれ、量的・質的確保が緊要な課題となった。
  いっぽう輸入の遮断・需要の急増によって、内地材の増産が急務となりながら、その生産・流通構造は、産地が分散し供給パイプが細いため、軍需増大に対応できなかった。しかも統制経済下の基本原則であった低物価政策・生産費主義に対し、立木価格が公定化できない現実は、すでに醸成されていた木材資源所有と木材生産との矛盾を拡大せざるをえなかった。
  そのような状況に対して、陸軍の介入をともないながら、生産・配給機構に対する強力な国家統制と「経営の所有に対する優越」による矛盾の回避が企図された。(なお海軍は国家統制による木材調達のほか、「指定業者」として個人営業を温存した。
     (三井昭二 「木材統制法の成立過程に関する一考察--山林局官僚のプランと陸軍の介入を中心として」 1982 『林業経済研究 No102』 39~40ページ)

 

 三井氏は、

 

 資源が無いために開戦し、資源が無いために敗戦した

 

と、ミモフタモナイ言い方をしているが、まさにその通りであった。そして、

 

 数少ない国内賦存資源としての森林資源は、金属・石油資源に代替することまで要請され

 

とある通りで、船舶鋼材に代替しての木造船建造であり、金属貨幣の代替としての紙幣への「引換」であり、(今回は取り上げなかったが)石油資源の代替としての松根油の採集であった。

 

 

 

 これが戦時日本の国家総力戦状況の現実であった。

 

 

 

《記事一覧》

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  (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」の補足記事)

 

 「溶鉱炉の火は赫々と燃えているが(戦時木造船の周辺 2)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-15f4ee.html
  昭和18年の『アサヒグラフ』記事により、木材供出の全国的展開の様相を読む
  (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」の補足記事)

 

 

 

 

 

 

 

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2019年6月25日 (火)

清水多嘉示資料展(第Ⅲ期) ホセ・ラウエルとマッカーサー

 

 武蔵野美術大学美術館において、かつて武蔵野美術大学の彫刻科教授であった清水多嘉示にまつわる「清水多嘉示資料展」、その第Ⅲ期・戦後編として「清水多嘉示資料展 石膏原型の全てと戦後資料」が開催されていた(6月16日で終了)。最終日になっての駆け足での展観となってしまったが、特に印象に残った資料について記しておきたい。

 前回の資料展開催が2011年で、「清水多嘉示の道程:敗戦まで」と題された通り、戦時期の清水多嘉示の姿を知る機会となった。その際の感想めいたことをまとめたのが「清水多嘉示資料展 「千人針記念碑」との出会い」である。「従軍彫塑家」として、支那事変(日中の軍事衝突)下の中国大陸で従軍した中でのスケッチの数々。昭和13(1938)には源田実をモデルとしたブロンズ像「海の荒鷲」、翌14年には主翼を破損した九六式艦上戦闘機で奇跡的生還を果たした樫村飛曹のエピソードがモチーフとなっているレリーフ「南昌制覇」のような、事変の渦中の日本の海軍軍人の姿を彫像化したもの。また、翌15年制作の「千人針記念碑の一部」(サブタイトルは「出征兵士ヲ送ル」) といった戦時期の銃後に焦点を当てた作品に抱いた個人的関心について記した。

 その結びの部分で以下のように書いた。

  

  展示は、ブロンズ彫像作家の前から金属が失われた時代を経て、敗戦に至る。清水が漢口でスケッチしたのは、空襲の準備をする日本海軍の陸上攻撃機の雄姿であったが、米軍のB-29に空襲される側となった日々、どのような想いの中で過ごしていたのだろうか?

  敗戦直後の清水は、「特攻寺」の創設を提案した文章を残している。「あの戦争」の「あの作戦」で命を落とした特攻隊員を弔う場としての「特攻寺」なのである。どことなく高揚感の漂う文章に、戦後の清水の出発点を見る思いがした。

 

 今回の「戦後資料」のトップに展示されていたのが、昭和20(1945)年に記された「特攻寺」をめぐる原稿であった。あらためて、特攻による死を求められ、それに応えざるを得なかった特攻隊員への、敗戦の現実の中で高揚する清水の心情を再確認させられるものであった。「特攻による死」を求める側にいた(ことになってしまう)清水にとって、「特攻寺」の創設提案は、特攻による戦死者への清水なりの責任感の表現なのではあろう。

 ただし、展示されているのは二種の原稿のみであって、印刷されて公的に発表されたものではない(原稿執筆のみで終わってたものなのか、実際にどこかに公表されていたのかは、現時点では不明である)。

 

 続く展示資料には驚かされた。特攻寺をめぐる原稿の隣にあったのは、1946年のものとされている、モニュメント彫刻のプラン(スケッチ)である。バックにはゲート風の枠組み(彫像の身長より高い)があり、一歩前にいる男性とその背後で男性に従い歓呼する民衆(男女の二名、だったと思う)という構図。

 一歩前にいる指導者然とした男性が日本占領軍司令官であるマッカーサーにしか見えない。マッカーサーに導かれる民衆の像、なのである(そのモデルが実際にマッカーサーであったとしての話だが)。戦時期に、大陸で行使される大日本帝國の軍事力を肯定的なものと捉え、銃後での戦時協力を「千人針記念碑」として造形化した彫刻家の、戦後の第一作の構想として登場するダグラス・マッカーサー、なのである。

 それだけでも、十二分に強烈な印象だが、そのマッカーサー・モニュメント・プランの上方に展示されていた別のモニュメント・プランは更に強烈であった。そこにあったのも、ゲート風の枠組みの前で、一歩前にいる男性とその背後で男性に導かれ歓呼する民衆の構図によるモニュメントであった。ただし、先頭にいるのはマッカーサーではなく、ホセ・ラウエルなのである。異なるのは、指導者然とした位置を占めるのがラウエルかマッカーサーかの違いのみであり、全体の構図には違いがない。

 ホセ・ラウエルは、対米英開戦後に日本軍占領下となったフィリピンが、(大日本帝國の政策により)「独立」する際にフィリピン大統領に就任した人物である。昭和18(1943)年の話だ。展示では明示的に年代が示されていなかったが、ラウエル・モニュメントの構想は、フィリピンに独立が与えられ、ラウエルが大統領に就任した1943年当時のものである可能性が高い。1943年には、東條首相により、アジアの日本軍占領域各地の政治指導者を集めての大東亜会議も開催されており、その時期でのラウエル・モニュメント制作は、国策に寄り添う彫刻家の構想として理解可能なものである。ただし、資源統制下の大日本帝國において、ブロンズによる作品の実現には見込みはなく、ラウエル・モニュメントは戦時期の清水多嘉示の構想段階で終わったものと思われる。

 その戦時期のモニュメント構想が、基本構図をそのままに、敗戦後の日本で復活する。主役をラウエルからマッカーサーへと換えられて(マッカーサーもフィリピンと縁のある軍人ではある)。

 資料展示では、展示物についての詳細なキャプションを欠いている(研究の現状では、残された資料を網羅的に展示するしかないということなのであろう)ので、私の解釈が正しいものかどうかは不明確だが、とりあえず仮説的に提示しておこうと思う。

 

 同構図で主役だけ交換されたモニュメント・プランという理解が正しいとして、その意味をどのように捉えるかという問題は残される。

 戦時期の清水には、確かに国策に親和的なところが窺われる(いわゆる「戦争協力」への積極性ということだ)。

 今回の展示のもう一つの目玉である「石膏原型の全て」によって、戦時期の清水の石膏原型の中に、記憶に残っているところでも二作品、軍事と航空の結びつきを表現するものがあることがわかった(展示最終日の駆け足での展観のため、曖昧さが残るのは残念である)。前回の資料展で出会った「海の荒鷲」も「南昌制覇」も、海軍航空隊の活躍を期待し、讃えた作品であった。従軍彫塑家としてのスケッチにも、海軍の陸上攻撃機が登場する。その意味で、国策と清水の親和性は確かのものと言えるだろう。反軍的な芸術家の姿ではない。

 しかし、ラウエル・モニュメント・プランとマッカーサー・モニュメント・プランの構図の同一性。マッカーサー・モニュメント・プランはラウエル・モニュメント・プランの完全な流用というしかない事実から見出せるのは、芸術家の時局便乗的態度ではなく、芸術家のニヒリズムなのではないか? そのように思えなくもない。

 発注者に応えるのが彫刻家の役割だとするならば、彫刻家は発注者の側である政治体制の求めに応えるのみ。彫刻家にとって、芸術家にとって、表現こそが(表現のスタイルこそが)目指すものだとするならば、清水には戦時期と敗戦後の断絶は存在しない。ラウエルをマッカーサーに差し替える。構図は、表現のスタイルは微動だにしない。

 

 ここで思い出すのは、戦時期の丹下健三と敗戦後の丹下健三である(以下、井上章一 『戦時下日本の建築家』 朝日選書 1995 による)。

 昭和17(1942)年、建築学会は「大東亜共栄圏確立ノ雄渾ナル意図ヲ表象スルニ足ル記念造営計画案」の図面を募集する。実際には、戦時下の資材不足の中で、実現の可能性のまったくない「記念造営計画案」なのだが、建築学会は競技設計として図面の募集を行った。ここで丹下健三の「忠霊神域計画」が一等の情報局賞を獲得する(二等以下を大きく引き離して)。この平面プランと、戦後の広島の、やはり丹下健三による広島平和記念公園(竣工は1954年)の平面プランの同型性が指摘されている。また、広島平和記念公園の慰霊碑も、忠霊神域計画の本殿建屋との同型性が、ハニワ・モチーフということで指摘されている。忠霊神域計画は富士山の裾野を想定し計画された雄大なものだが、比較すれば、広島の平和記念公園はスケール的には小さなものである。しかし、平面計画においても、メインの施設造型においても、その同型性は否定できない。

 戦時期の「大東亜共栄圏確立ノ雄渾ナル意図ヲ表象スル」建築計画と、戦後(大東亜共栄圏崩壊後)の平和記念公園の間に、その表現のスタイル(平面計画とメイン施設の造型モチーフ)において断絶はない。

 

 単なる芸術家の無節操と切り捨てることも可能だろうが、しかし、そこに政治体制(あるいは政治的思想・信条)に対するニヒリズムを見出すことも可能であろう(それを良しとするかどうかは別としての話ではあるが)。

 もっとも、特攻寺創設を主張する清水多嘉示の姿からは、戦時期の自らに対する否定的心情の片鱗が読み取れるようにも思われる。軍事における航空力の優位の重要性を理解していたように見える作品群からすれば、特攻作戦に依存せざるを得ないところまで追い込まれた祖国がどのように評価されていたのか? 敗戦後になって、あらためて特攻隊員の犠牲に対峙したとき、清水の心情は、特攻寺創設案として表現されたことになる(それが特攻による戦死者にとっての救いとなるかどうかはともかく)。

 

 

 再び、前回の展示をめぐる話題に戻る。

  展示は、ブロンズ彫像作家の前から金属が失われた時代を経て、敗戦に至る。清水が漢口でスケッチしたのは、空襲の準備をする日本海軍の陸上攻撃機の雄姿であったが、米軍のB-29に空襲される側となった日々、どのような想いの中で過ごしていたのだろうか?

 

 戦時期の清水多嘉示の作品には、海軍(航空隊)との深い縁を示すものが多く、海軍館での展示作品ともなっている。その海軍館は、B-29による東京への空襲の初期の段階で投弾対象とされ、被害に遭っている。昭和19(1944)年11月27日の第二回目の出撃、目標は武蔵野市の中島飛行機工場であったが、気象不良のため、都内に投弾したものである。特に海軍館を標的にしたものではなかったが、原宿駅周辺が投弾対象となり、市街地、海軍館、東郷神社などが被害に遭っている。

 前回の資料展の翌年、東京大空襲・戦災資料センターでの「東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃」展(2012年)の際に、海軍館の空襲被害状況を示す写真の存在を知ることとなった(「プロパガンダと記録(東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃)」も参照)。

 現在は、NHKスペシャル取材班/山辺昌彦『東京大空襲 未公開写真は語る』(新潮社 2012)に掲載されている写真で確認可能である。

 以下、海軍館についての記述を引用しておく(最初のもの以外は、掲載写真のキャプション)。

 

  原宿にあった海軍設立の戦争博物館「海軍館」には、2発の爆弾が投下され、建物のみならず野外に展示されていた戦車も損傷した。警視庁の記録によれば、「爆弾一個は建物に命中、三階を貫通して二階にて爆発、建物一部破壊、一個は植込内に落達し、死者一名、傷者一名を生ず。尚数日間は観覧不能にて休館せり」とある。

  海軍の戦争博物館「海軍館」。大理石を使った堅牢な洋館だったが、大きな損傷を受けた。

  「制空」の碑の周辺にも瓦礫が積もる。

  海軍館の庭に展示されていた戦車の周辺には、瓦礫が飛散している。

  海軍館の内部。爆弾は3階を貫通して2階で爆発。崩れた建物の中に、展示された彫像が倒れている。

 

 

 被害の程度が伝わるだろう。「制空の碑」は台座だけで、「碑」の本体はない(東京大空襲・戦災資料センターでの報告書作成関係者の話では、空襲による被害なのか、金属供出により既に失われていたのかは詳らかではないという―台座にダメージが見られない点からすれば、後者の可能性が高いのではないかという話)。崩れた建物内で倒れているのは、幼い兄弟の姿の彫像である(作者についての記述はない)。

 制空権が奪われ、B-29による空襲も激化していく。清水多嘉示は、どのような心情の下に、その日々を送っていたのであろうか?

 

 

 

 

 

 

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2019年5月17日 (金)

モバイル・タイニー・バウハウス

 

 

 2019年はバウハウス100周年に当る。1919年、第一次世界大戦敗戦後のドイツ、ヴァイマールの地に設立された教育施設。いわゆるモダン・デザインの先導者であった。

 1925年にデッサウへ移転し、理念を具現化した校舎を建設する。

 

 なんと、そのデッサウの校舎がモバイル化されているのであった!

 

 

Tiny Bauhaus: smallest 2-room apartment & school on wheels
  
https://www.youtube.com/watch?v=x7UIx-iTyR4

 

 

 ミニマムサイズの様々な住居の試みを中心に動画取材しているキルステン・ディルクセン(Kirsten Dirksen)氏によって、この「Tiny Bauhaus」も紹介されていたのである(数日前の話)。

 ラオス出身のヴァン・ボー・ル=メンツェル(Van Bo Le-Mentzel)氏の作品であり、動画中にもタイニー・バウハウスの内部を案内し、インタビューに応える本人の姿も記録されている。

 

 

 私個人の好みとして、このタイニー・バウハウスは実に愛おしく魅力的である。

 動画のコメント欄には、丸見えのバスルームはどうなのよ的意見も散見されるが、そして私自身もそのような見解を共有することも確かではあるにしても、実用性を上回るデザインの魅力を認めざるを得ない。

 

 

 そのタイニー・バウハウスの設置場所もまた、動画の見どころであろう。ドイツの「古都」そのものといったリューネブルクの街の佇まい。そのリューネブルクのロイファナ大学構内にタイニー・バウハウスが停車している(建物の下には車輪が見える)のである。

 映し出されるロイファナ大学のキャンパスで目を引くのが、ダニエル・リベスキンド設計の校舎である。いわゆる脱構築主義建築の代表者である。

 古風な町並みの中の自己主張炸裂型脱構築主義建築に対峙する形で、モダン・デザイン建築の見本のようなデッサウのバウハウス校舎(もはや古典である)のミニチュアが静かに停車しているのである。

 

 

 

 だからどうした、と言われても困るが、個人的には実に楽しい光景なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年4月11日 (木)

古本ジャングルと70代の道案内

 

 

  よくお世話になっている(カモにされている)立川フロム中武の古書市の案内状、「恒例フロム古書市ご案内」が届いている。

  案内状に記された天心堂御主人の「呟き」にウケたので、ここに記録保存。

 

 

 

 

     l_ccc5acbb812454b7cb3b485f1dab36ecc438be6d.jpg

 

 

   中央線沿線から集まった古本屋五軒。
    そのほとんどは70歳以上、現役。
    世に珍しい高齢者立上げの即売会は
     (どこかのんびりしています)
     目の前に広がる古本ジャングル群
   (お客様が開拓者ならば、私どもは道案内)
     本との出合いは束の間のトキメキ、
       ご来場をお待ちしております。
              参加店主の呟き  天心堂
                   2019年 4月吉日

 

 

 

  今回は、日程的に「開拓者」として出かける時間がとれるかどうか状態なのが残念。

  レジで雑談にふける道案内の大先輩方の気配を感じながら、古本ジャングル探索を楽しんじゃうひととき。

  財布の中身を減らし、狭い部屋をより狭くする。そこに問題があるのだが、「本との出合いは束の間のトキメキ」なのである。

 

 

 

 

 実際、どうなるかというと…こんなものが手に入ってしまったりする
     (以下追記:2019/04/13)

 

 《昨年の夏のある日の収穫》

 

Img_0809_2

 

明治期の小學理科教科書からバタイユまで、この13冊で8150円の買い物

(上段左から右へ)
學海指針社編輯 『小學理科新書 甲種 巻之一』 明治26(1893)年 集英堂  金十二銭→700円 
深谷甫 『米國海軍艦型圖輯』 昭和18(1943)年 海と空社  2圓00銭→900円
宇都宮謙編輯 『義は君臣情は父子』 昭和13(1938)年 日本歴史研究會  金壹圓五拾銭→1200円
ジョルジュ・バタイユ ハンス・ベルメール画 『眼球譚◎マダム・エドワルダ』 1988 白水社  2400円→400円
谷喬夫 『ナチ・イデオロギーの系譜』 2012 新評論 900円
小学校平和教育教材編集委員会・広島県原爆被爆教師の会編 『ひろしま―これはわたしたちのさけびです(試案)』 1970(ただし1981年の3訂版第7刷 広島平和教育研究所出版部  頒価180円→100円
(下段左から右へ)
日本民族學協會編輯 『民俗學研究 第十二巻 第二號』 1947 彰考書院  三十五圓→250円
多木浩二 『「もの」の詩学』 1984 岩波現代選書  1800円→500円
藤原彰 『中国戦線従軍記』 2002 大月書店  2000円→800円 
デイヴィッド・フィンケル 『帰還兵はなぜ自殺するのか』 2015 亜紀書房  2300円→800円
武藤貞一 『日支事變と次に来るもの』 昭和12(1937)年 新潮社  ¥1.00→800円
ポソニー 『今日の戰爭―その計畫・遂行・經費』 昭和15(1940)年 岩波新書  五十銭→200円
「青島戦ドイツ俘虜収容所」研究会 『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究 第六号』 2008 「青島戦俘虜収容所」研究会  600円

 

 この中から一冊を選ぶとすれば…

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 深谷甫 『米國海軍艦型圖輯』 1943(昭和18年) 海と空社

  

Img_0816_1

 かつての持ち主である吉澤大尉の署名

 

Img_0817_1

 ページには附箋が付され、書き込みも多い(吉澤大尉の努力研究の跡である)
 附箋と書き込み、そして署名に魅せられての購入であった(多分、美品であれば購入はしていない)

 

 

Img_0818_1

 奥付を見ると、再版で2000部という発行部数であったことが記録されている
 才谷屋書店の出品で900円であった(昭和18年の定価2圓00銭)

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2019/04/11 08:51 → https://www.freeml.com/bl/316274/324508/)

 

 

 

 

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2019年4月 1日 (月)

総力戦下の猫

 

 

 戦争は人間の都合によるものだが、その悲惨に巻き込まれるのは人間だけではない。

 

 

 

 アジア太平洋戦争下の昭和19年(1944)秋、軍需毛皮の兎が不足したことから、軍需省・厚生省が飼い犬の毛皮供出献納を都道府県知事あてに通牒し運動が全国に展開した。ところが、北海道では早くも18年に犬毛皮の供出が始まり、19年には海軍の要請により飼い猫が加わった。運動と実施の主体は北海道庁と札幌市及び大政翼賛会北海道支部と札幌支部であり、実際の業務は国策会社の北海道興農公社が全道にまたがり行うという、官民一体となった運動であった。背景には国民を戦争協力体制へ導く教化運動があり、日中戦争(1937年)を契機に開始した国民精神総動員運動が翌年1938年の国家総動員運動へ、さらに1940年の国民統合組織の大政翼賛会運動へ発展・継続した。物資不足の代替に供出対象が飼い犬飼い猫という身近な愛玩動物へエスカレートした。社会全体を上意下達の全体主義が覆い、行政の末端の町内会までに草の根の軍国主義が及んだ一つの現象であった。
     (西田秀子 「アジア太平洋戦争下 犬、猫の毛皮供出、献納運動の経緯と実態―史実と科学鑑定」 2016 札幌市公文書館 事業年報第3号別冊 論考3冒頭の「要旨」より)

 

 

 今回は、戦時下の猫の受難について、西田氏のすぐれた論考を通して紹介してみようと思う。

 

 「戦時下の猫」と書いて思い出すのは、米国陸軍省による「Why We Fight」と題されたシリーズの一本、フランク・キャプラによる『Why We Fight: The Battle of Britain 』に登場する、ロンドン空襲下で市民と共にあるネコの姿である(29分5秒と37分25秒)。とても短いシーンの中に、空襲の惨禍の中で、ネコの存在が人々にもたらす安らぎが記録されている(https://www.youtube.com/watch?v=cSZnFo7JORo)。

 

 悲惨なのは、普仏戦争の際にプロシア軍に包囲され食糧補給の途絶えたパリから記事を送っていたヘンリー・ラブシェアの伝えるエピソードである。

 

 ラブシェアは、従軍記者に期待されていた強がりを軽蔑した。「私は、遠くから戦闘の匂いを嗅ぎつけて、その真っ只中に急行するという抗し難い欲望は持ち合わせていない。自分の好奇心を満たすためだけに頭部に砲弾を受けるなどは、私には愚の骨頂としか思えない……」。そこでラブシェアは一〇人から一二人が殺される毎日の砲撃のことは無視し、食糧補給が途絶えたために動物園の獣を食べ、やがてこれまでは食物と思われなかった物まで料理し始めたパリ市民の生き残りの決意を克明に書くことに専念した。
 ラブシェアが最近食べた献立の記事に読者はぞっとしながらも、『デーリー・ニューズ』の発行部数は着実に伸びていった。彼によると、猫は「ネズミとリスの中間の味ながら、独特の風味がある。美味である。子猫は、玉ネギで蒸し煮にするか、シチューにすると最高である」。ロバはマトンに似ているし、「ドブネズミのサラミ」はカエルとウサギの中間の味がした。イギリス人の彼には、犬を喰うのはとても無理だった。「私は、人間の友である犬を食べるときは、罪悪感をおぼえる。こないだはスパニエルを一切れ食べた。決して悪い味ではなく、子羊のようだったが、人食い人種の気分だった」
     (フィリップ・ナイトリー 『戦争報道の内幕 隠された真実』 中公文庫 2004)

 

 厳しい飢餓の中、追い詰められた人々に、ネコも食料とされてしまうのである。

 

 

 さて、西田氏の論考である。

 戦時下の日本で、飼い猫が毛皮の供給源とされてしまった事実を、史料に基づいて示したものだ。

 皮革・毛皮は重要な軍需物資であった。昭和12年以降の支那事変の拡大は、軍需物資としての皮革・毛皮の確保を切実な問題とさせた。

 

 昭和13年3月、戦時(事変)に際して人的および物的資源を統制、動員、運用するための国家総動員法が公布され5月に施行された。
 皮革は軍需品として国の統制下に入った。政府は生産力拡充の目的で(2)、昭和13年7月1日付けで皮革について次の商工省令を公布した。①「使用制限規則」、②「製品販売価格取締規則」、 ③「配給統制規則」これにより、皮革原皮の集荷・販売・配給が一元化された。全国の原皮を集荷統制し、各製革工場に販売、配給する権限を国から付与されたのは、東京原皮商業組合、大阪原皮商業組合、北海道では酪連であった。
 酪連は道内の原皮統制機関として13年8月から営業を開始した。皮革統制により商売不能となった道内の原皮仲買人は、酪連が道内28カ所の現地処理主任として採用した。道内各地の屠場で処理された原皮を札幌苗穂(14年に新設)の酪連皮革工場に集荷し、軍が買い上げた後に同工場で製革し、残りを民需用として販売した(3)。これらの毎月の取り扱い数量は所管の商工省に報告の義務があった。酪連は札幌市から委譲された屠場で処理した材料で軍用缶詰を製造し、第七師団に納入する一方、原皮の集荷・鞣革(牛・馬・豚)と兎毛皮生産についても軍需・民需両面の生産、販売を一手に担い急成長していく。
     (西田論文 
2-1-2ー論文にはページ数の表記がないので、以下、各節の番号で引用箇所を示す)

 

 肉は軍用缶詰に、皮革は様々な装具に用いられ、毛皮は防寒具として重要であった。

 兎の毛皮については、ナチスドイツでのエホバの証人をめぐるエピソードを思い出す(強制収容所で兎を飼育し、軍用毛皮の供給源としていた中での出来事)。

 

 証人たちは軍務を嫌悪した。そのため、毛皮が軍服に使われるというのでウサギの番さえ拒否することも起きた。その結果、何人かの女性囚は、ラーヴェンスブリュックとアウシュヴィッツ(オシフィエンチム)で反逆罪により死刑を執行された。
     (シビル・ミルトン 「エホバの証人」 ウォルター・ラカー編『ホロコースト大辞典』)

 

ナチスにより強制収容所に収容されたエホバの証人は、徴兵拒否にとどまらず広範な戦争関係業務拒否も貫き、(労働としては軽度であるはずの)「ウサギの番さえ拒否することも起きた」というのである。それが死刑に相当する「反逆罪」と位置付けられた背景として、軍用毛皮の確保の国家的重要性も考えておくべきであろう。

 

 さて、日本である。西田氏は特に北海道に焦点を合せているのだが、北海道空知郡農会により昭和12年(1937)9月、傘下の農家の実行組合長と組合員に宛てた「急告兎毛皮奉国」というチラシが紹介されている。西田氏による抜き書きを引用しておこう(チラシ原文にある振り仮名は略、アンダーラインは原文通り)。

 

〇膺懲の皇軍の、矢継早の勝利に伴ふて、兎毛皮の軍事品としての要求が彌々緊切必須の度を高めました。
〇零下三四十度の、寒冽なる戦場に於ける我等勇士に、暖かき兎毛皮付きの外套等を供することは、身も心も一層勇壮にし明朗にして以て三軍の士気を振はしむることとなるのであります。(略)
〇然るに、僅かの値ちがいに眩惑して(本年度は値ちがいのない計画ではあるが)商人の奪取に一任するが如きは、忠誠なる日本人魂の上から、不可解ばかりでなしに、見様によりては、非国民呼はりをも、さけ得ないことではないでせうか
〇陸海軍では、如何にしても予定の兎毛皮の納入を得なければならぬといふ、軍事上の最大急要の事情があるので、確聞するところによれば、全国農家飼育頭数の全部(来年に備ふべき種等は別として)買上げの計画であり、亦近く、国法では、兎毛皮海外輸出を禁ずることになるとのことであります。兎毛皮奉国の理由は之だけでも明かでせう。
実行組合会長各位、なにとぞ其の組合員の分を取りまとめて下さい。組合員各位、何卒衷心より、赤誠を以て、納入を敢行してください。
 学校の生徒諸君は、自分の飼育の分は、勿論ご両親が飼育している分でも、もし、ご両親が、気づかずにいるなれば、諸君が早速申し出て、兎毛皮奉国の実を挙げて下さい。

〇兎毛皮奉国! !!兎毛皮奉国! !!本年は是非少なくとも配当の枚数だけは、萬障を排して、町村農会を経て納入して、他府県、外支庁管内に比し断然優勝の成績を挙くるやふ、お互に努力奮闘したいと思ひます。
〇納入手続、価格、其他詳細のことは、町村農会よりお知らせ致しますが、各位からも御照会を願います。
     (2-3-2)

 

 北海道という土地柄からすれば、「零下三四十度の、寒冽なる戦場に於ける我等勇士に、暖かき兎毛皮付きの外套等を供することは、身も心も一層勇壮にし明朗にして以て三軍の士気を振はしむることとなるのであります」、すなわち「暖かき兎毛皮付きの外套等を供すること」の切実さは実感として理解・共有されるものであったろう。その上で「陸海軍では、如何にしても予定の兎毛皮の納入を得なければならぬといふ、軍事上の最大急要の事情がある」とし、「軍事上の最大急要の事情」を強調しているのである。それへの非協力に対し、「見様によりては、非国民呼はりをも、さけ得ないことではないでせうか」と脅迫的言辞も付け加えられての「急告兎毛皮奉国」なのである。上意下達の国家的行政的指示命令システムによるもの以前に、北海道空知郡農会は「兎毛皮奉国」を率先して展開しようとしていたのである。下からの「兎毛皮奉国」運動の盛り上がりなのだ。事変が始まって、まだ2か月の段階での話だ。

 

 その3年後、「事変発生以来暖かい防寒毛皮となり肉となって聖戦に尽くした幾多の軍用兎の霊を慰める」との趣旨で開催された、帝国農会による「軍兎祭」は全国的なものであったという(「兎毛皮奉国」の全国化を示す慰霊祭祀形式の軍需協力プロパガンダ)。

 

 昭和15年ころに兎関連の新聞記事が急増する。15年9月16日、中秋の名月の日を選び帝国農会は「軍兎祭」を日本全国各地で行った。「事変発生以来暖かい防寒毛皮となり肉となって聖戦に尽くした幾多の軍用兎の霊を慰める」とある。「修祓(しゅうふつ)、献選、招魂祭の儀についで農林次官(代理)、道農会会長、陸軍被服支廠札幌出張所長森中佐、札幌地方海軍人事部斎藤中尉ほかの奉奠(ほうてん)があり慰霊祭を終り、被服本廠長より道農会へ感謝状、郡農会より道内市町村、小学校養兎家、軍兎の功労者256人へ表彰状授与。北光小学校児童の「兎のダンス」の余興が披露された」。国益に叶うなら兎の霊も慰める「軍兎祭」のように、国家に捧げた命の犠牲を儀式化することで、一般国民に報国を知らしめる戦争プロパガンダ(宣伝)が増えていく。
 「少女ら兎を献納札幌市北光小学校では『学童養兎報国団』をつくり四年生以上の二百五十名が学校から子兎一頭ずつをもらい受け、自宅で空箱を利用して」6か月間育てたあと、学校で酪連の技師による審査を受け、肥育の良い200羽が「酪連を通じて戦地の兵隊さんの外套の襟として献納」された。この兎飼育運動は来年も続けるとあり、昭和19年には学校単位の競争に発展する(『北海タイムス』昭和15年10月17日、『北海道新聞』昭和19年2月19日)。2016年の現在、校庭の隅の兎小屋で兎を飼育する小学校が見受けられるが、もとは戦時下の兎飼育奨励の毛皮献納運動に始まっている。
     (2-3-4)

 

 「軍用兎の霊を慰める」一方で、「学童養兎報国団」をつくる小学校もあり、「昭和19年には学校単位の競争」にまで発展する。西田氏による「2016年の現在、校庭の隅の兎小屋で兎を飼育する小学校が見受けられるが、もとは戦時下の兎飼育奨励の毛皮献納運動に始まっている」との指摘は興味深い(起源は忘れ去られている)。

 

 しかし、「兎と兎皮の集荷数は昭和14年26万8000羽をピークに下降し、昭和20年はピーク時の1割に届かないまでに減少した。北海道庁が12年にたてた5カ年計画は農家12万戸に24羽ずつの割当飼育で年間288万羽の兎毛皮を見込んだ。最盛期14年の48万羽でさえも2割にも満たない大きな計算違いであった(2-3-6)」と西田氏は実情を明らかにしている。

 

 17年度は大政翼賛会が主体となって陸軍・海軍・農林・文部各省と帝国農会の協力により全国的な家兎大増産運動を展開し農家はもちろん学校・家庭にも飼育を奨励したが収入の少ない養兎はなおざりにされて家庭労働力も減少し「頼みの学童飼育でさえ労力を緊急方面に動員された」ため全国的に運動の成果が上がらなかった。17年度の兎毛皮は14万8600枚で3000枚の増産にとどまった。18年度は道庁・農業会・興農公社の3者が一体となって飼育と供出を勧奨したところ、家兎の公定価格が3割引き上げられ、さらに北海道の特殊事情により公定価格よりも百匁につき2銭の歩合を付けたが自家用屠殺が増えて集荷数は13万9700枚と前年よりも8900枚の減少となった。配給制に頼る食糧難が続くと、自宅で飼っている兎は良質のたんぱく源として、家族の胃袋を満たしてくれる存在となった結果である。19年の全道生産が20万羽あっても、興農公社が兎肉を集荷できなかったということを現している。航空服用の毛皮に兎が入手できなくなった北海道庁と興農公社、大政翼賛会の運動が非常時対策として次に着目したのが、飼い犬飼い猫の毛皮供出献納運動であった。
     (2-3-6 )

 

 総力戦下での戦時動員は多方面に及び、労働力不足はどの産業でも深刻化した(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)」も参照)。農家にとっても学校でも養兎どころではなくなりつつあったのである。さらに食糧難は兎を「良質のたんぱく源」として自家消費させるところに追い込む。戦時日本の限界の典型的事例であろう。

 そこで着目されたのが飼い犬であった。

 

 西田氏は昭和18年4月2日の『北海道新聞、「毛皮報国ワン公も滅私奉公」と題する記事を紹介している(3-2-3)。

 
 街頭を横行する野犬を大東亜戦を勝ち抜くための毛皮報国のために御役にたてる妙案が札幌市翼賛会支部で実施されることになった。
 畜犬毛皮の献納運動は翼壮、青年団員の勤労奉仕によることとして準備中であったが、野犬の捕獲は、狂犬病を有するものがあって、相当危険なので警察当局と打合わせの結果、畜犬に限り連合公区長及公区長を煩はして、飼い主から献納申し込み徴収し、四月六日まで市役所公区係に提出させることになった。その方法は、次の通りで、札幌支部では野犬報国運動の徹底を期してゐる。
一、各公区で献納が十頭以上あるときは申込書と同時にその公区の一定の場所に集め、引渡し月日を市公区係に通知すること。(ただし四月十日までを献納期間とす)十頭未満の場合は、献納主より直接豊平毛皮工場に引付けのこと。
二、興農公社の買収代金は、大政翼賛会札幌支部(公区係)を経て国防献金として同時に支部に報告すること。

 

 昭和19年2月1日の北海道庁経済部長、警察部長名による「野畜犬毛皮献納運動実施ニ関スル件」の「野畜犬毛皮献納運動要綱」では、

 

 一、趣旨兎毛皮ハ酷寒地第一線ノ将兵並ニ航空将兵ノ衣料トシテ眞ニ欠クベカラザル重要ナル軍需資材ナリ然ルニ輓近軍用兎ノ増殖ヲ図ルモ野畜犬ノ被害ニ依リ飼育頭数激減スルノ状勢ニアリ。決戦下寔ニ寒心耐ヘザルモノアルニ鑑ミ本運動ヲ実施シ軍用兎ノ増産ヲ計ルト共ニ野畜犬毛皮ヲ献納シ軍兎毛皮ノ不足ヲ補フヲ目途トス

 

との理由付けがされている(3-2-4)。北海道庁の発行する『北海道庁公報』第3306号(昭和19年2月2日)の表紙には「野畜犬進んで奉公さあ! 今だ!」の標語とイラストが掲載されている(3-2-5)。

 「進んで奉公」の実際は、殺されて毛皮となることである。その決断・協力を飼い主に求めたのである。

 既に人間には「玉砕」の名による戦死が慫慂され、やがて特攻という名の自殺攻撃が求められるようになる時代の話なのである。大日本帝國の戦争、総力戦は、果てに「一億総玉砕」なるスローガンまで編み出すに至る。言葉通りに理解すれば、日本人全員が戦死するという話だ。飼い犬だって「進んで奉公」するのが当然なのである。ただし、それは飼い犬自身の意思の問題ではなく人間の都合の問題なのであった。

 

 

 西田氏によれば、飼い犬飼い猫を毛皮の供給源とする発想については、先行事例があった。

 

 北昤吉衆議院議員が第七十五回帝国議会衆議院予算委員会の質問で、第一次世界大戦時に独逸が行った例を挙げ、「軍用犬以外の犬猫は全部殺してしまふ、さうすれば皮は出る、飼料はうんと助かります。」と犬猫不要論を唱えた。それに対して畑俊六陸軍大臣が、「犬を全部殺して愛犬家の楽しみを奪ったが善いか悪いかと云ふことに尽きましては、尚ほ折角研究を致したい」と答を回避した。北議員は「犬は豚や鶏と違い、唯物を食って大して益する所がない。皮が不足しているので犬猫を撲殺することに陸軍が努力してはどうか、非常時であるから統制を強化しなければならぬ。軍用犬以外の犬猫は全部殺してしまへば皮は出る、飼料はうんと助かります。農林大臣には犬猫の数及び一年の飼育に要する分量等御聴きしたい。独逸では現にあった」という持論を展開した。
     (3-2-2)

 

 既に昭和15(1940)年2月13日、衆議院予算委員会の場で、北昤吉は「皮が不足しているので犬猫を撲殺することに陸軍が努力してはどうか、非常時であるから統制を強化しなければならぬ。軍用犬以外の犬猫は全部殺してしまへば皮は出る、飼料はうんと助かります」と主張していたのである。

 北海道での取り組みとの関連はわからないが、昭和18年の「毛皮報国ワン公も滅私奉公」に先立つ議論が対米戦争開戦の前に(支那事変段階において)行われていたのである。

 しかし「犬は豚や鶏と違い、唯物を食って大して益する所がない」との前提、そして「皮が不足しているので犬猫を撲殺することに陸軍が努力してはどうか、非常時であるから統制を強化しなければならぬ。軍用犬以外の犬猫は全部殺してしまへば皮は出る、飼料はうんと助かります」と展開される主張には言葉を失う(平成日本の用語法に従えば「犬猫には生産性がない」であろうか?)。が、やがて大日本帝國において北の主張は現実化するのである。

 西田氏は、昭和20年5月11日の鳥取県の鳥取県告示第百八十四号に、「軍需省厚生省通牒犬原皮増産確保竝狂犬病根絶対策要綱ニ基キ、畜犬ノ献納受入及供出犬買上竝野犬ノ掃蕩ヲ左記日時場所ニ於テ之ヲ施行ス」とあり、それが軍需省化学局長・厚生省衛生局長の連名による「犬原皮増産確保竝狂犬病根絶対策」およびその「要綱」の通牒(西田氏によれば昭和19年11月15日付)に基くものであることを確認している。北海道内での献納運動から全国展開に至ったのである。「毛皮報国ワン公も滅私奉公」がついに国策になったのである。

 こうして飼い犬の受難は全国展開される。

 

 飼い猫の方は、北海道限定だったようである。

 西田氏は昭和19年5月27日付の『北海道新聞』記事を引いている。

 

 犬猫の皮も軍用に買上げ犬は十円、猫は五円の公定価
 二十六日道会議事堂で開かれた北海道地方行政協議会に、在室蘭海軍主席監督官から『犬猫毛皮買ひ上げの件』が提案されたが、犬の毛とともに猫の毛も航空要員の防寒服にしようと、この協議会に華々しくとりあげられたもので、その集荷の方法や製皮関係も考へて犬猫皮回収策を決定した。
 集荷方法としては、市町村長が管内の畜犬、畜猫の率先供出を求めるほか、野良犬や、野良猫までもかり集めて、剥皮し、それを興農公社の各皮革工場でなめして立派な製皮として軍に納入することになってゐるが、興農公社では剥皮のままの猫の皮一匹約五円、犬の皮はその皮質や大小に応じて十円前後で買ひ上げる。剥皮されたものは、なめし料とか生皮のときに使ふ防腐用の薬代などを含んだ値段が軍納価格となってゐるが、これによって犬猫の皮にも公定価格が付されたわけだ。それはともかく、この犬猫毛皮の軍用実材化は、軍用兎毛の不足を補う海軍当局の非常手段である。
 犬猫もただならぬといわれた不仲も、戦争必勝には見事に解消し、空の武具として仲良く出陣することになったもの。
 なほ、堵殺の時期は冬が一番であって、すでに時期遅れの感があるが、全道的に約二万頭の犬猫が動員される予定であり、今冬のいはゆる堵殺時期には道樺民の協力で、相当数の供出が期待されているが、当局は、犬猫の献納運動も進める方針である。
     (3-2-6)

 

 「在室蘭海軍主席監督官から『犬猫毛皮買ひ上げの件』が提案されたが、犬の毛とともに猫の毛も航空要員の防寒服にしようと、この協議会に華々しくとりあげられたもの」とあるように、「猫毛皮の軍用実材化 」を提唱したのは海軍関係者であったらしい。

 昭和19年11月10日付の『北海道新聞』記事では、

 

 兵隊さんの温い防寒服へ犬や猫を全道から供出しょう
 北の前線に戦ふ兵隊さんの防寒服用として道庁では昨年初めて献犬運動を起こし、翼賛会や興農公社の協力を得て全道から百三十頭の野良犬の毛皮を集め供出したが今年は陸海軍の要望もあり大々的な献犬献猫運動を展開、温かい防寒被服を沢山送らうと意気込んでゐる、道庁北方農業課の皮算用では道内の野畜犬は十五万頭、そのうち二割が軍用犬、番犬、運搬犬で、他はすべて主なき野良犬または飼主は居ても食餌を与へぬ野良犬同様のものばかりといふ、しかも犬による家畜被害は昭和十七年の調査によれば一年間に兎三万五千頭、鶏三万一千羽、緬羊六百四十頭で、兎は総飼育数の十五%に達してをり、兎の飼育者から「兎の毛皮を増産するなら犬を退治してほしい」との悲鳴さへあがってゐる本道第一の軍用兎飼育地である上湧別村が野犬の徹底的撲滅はもちろん畜犬の全廃によって犬害の恐れなく、全村一体の養兎報国に邁進してゐる例のみならず戦争にはつきものといはれる狂犬病を未然に防ぐ上からも野犬狩り、畜犬の取締りを一段と強化しなければならぬわけだ
 猫は家鼠の駆逐にも必要とあってその一部を供出させる方針でこれら供出犬猫の処置は一切興農公社が引受けるが供出は犬猫とも毛の密生した十一月から春三月までがよく、割当ては近く市町村から通牒されるはず。
     (3-2-7)

 

このように「献犬献猫運動」の成果が語られている。当時の全体状況としては、

 

 集荷・処理事業を実施した興農公社は「18年度は兎毛皮だけでは需要を満たすことができず、リス・いたち・きつね・オットセイ、犬、ネズミまで集めて毛皮増産に拍車をかけた。19年度は海軍の発注により犬・猫その他の毛皮を集荷したが、とくに犬、猫については道庁と公社が中核となり、市町村当局ならびに諸団体、公社地方工場の協力を得て、全国的に有名となった献犬、献猫運動を起こした。ネズミは樺太で前年野ネズミが発生し60万枚の毛皮があるという調査から、海軍の買収命令を受け、公社職員が樺太庁と大泊の海軍要港部の援助を求め各地を回ったが大半は既に処分され、ようやく5万枚を獲得することができた」という。
     (4―1)

 

このように(小さな)野ネズミの毛皮まで対象とされるまでに追い詰められていた。その中での北海道の飼い猫の受難なのである。

 

 もちろん、飼い主にとっては可愛い飼い犬であり可愛い飼い猫である。昭和20年6月13日付の『日本海新聞』の「親子三代犬納物語」と題された記事では、

 

 戦ふ日本の軍需皮革としてお役に立てて下さいと、県下千八百匹の畜犬、野犬は今献納、供出運動に応召してゐるが、現在までに応召した畜犬は六百五拾六匹で約三分の一、以下は県衛生課の話。
 愛玩、番犬中には「この犬を取られたら生きてゐる気がしない」と哀願する人、「時局は認識してゐるが、犬だけはゆるしてほしい、永年家族同様に飼ってきたものだから」と歎願する人また逆に食ってかゝるものもあるといった具合でこの傾向は概して有力者とみられる層に多い、然し鳥取市吉方の元市議常田幸治氏などは、分娩して間もない親仔犬を伴れてきて、「仔持ちで可哀そうだがこれも勝つためだ、親仔ともに供出します、もし仔犬の皮が役立たぬならすてゝ頂けばいい、それからこれはこの親犬の親の毛皮でなめしたものですが、これも一緒にお役に立てて下さい」と親、子、孫三代の犬を一とときに献納してゐる。
     (4-2-1)

 

このように、「仔持ちで可哀そうだがこれも勝つためだ、親仔ともに供出します、もし仔犬の皮が役立たぬならすてゝ頂けばいい、それからこれはこの親犬の親の毛皮でなめしたものですが、これも一緒にお役に立てて下さい」と自身の飼い犬を率先して献納する模範的(とされたであろう)人物の姿の一方で、愛犬家らしく「「この犬を取られたら生きてゐる気がしない」と哀願する人、「時局は認識してゐるが、犬だけはゆるしてほしい、永年家族同様に飼ってきたものだから」と歎願する人また逆に食ってかゝるもの」のあることも記されている。

 

 献納された飼い猫の受領證が残されている。

 

 受領證

 畜猫壱匹

  右軍需用毛皮供出トシテ正ニ受領候也
   昭和二十年二月二十二日

           札幌市長三澤寛一市長押印
 納者

    牧スミ殿

 

 牧スミさんにとって人生のかけがえのない伴侶であったかも知れない大事な飼い猫は、一枚の受領證と引きかえに「軍需用毛皮」として「供出」された。すなわちスミさんの愛猫は、大日本帝國の軍需(という人間の都合)のために命を奪われたのである。

 

 さらに西田氏は、殺処分の現場に立ち会った人物の証言を記録している。

 

【証言a】昭和20年2月頃興農公社の殺処分のアルバイトをした
 証言者:国民学校高等科を卒業後のこと。当時15歳の少年。
 興農公社の知人から処分作業のアルバイトに誘われた。昭和20年の2月か3月頃の冬に4,5人の処理班とともに岩見沢、滝川、江部乙、新十津川、雨竜町のオシラリカ(尾白利加)川を覚えている。主に農村地帯を馬橇で廻り、5日間程度の日程を旅館で宿泊しながら11、12カ所で作業をした。
 岩見沢では朝、旅館から出かけて行った。幅1メートルくらいの小さな川の側で、兎や猫を連れてきた人が一列に並んだ。農協の受付係の人が「兎、犬、猫」と書いて、1匹50銭か1円の時もあった。連れてきた人の眼の前で、金槌で殺すんだ。怖がっていたよ。自分も怖かった。なるべく苦しまないように眉間を狙うんだ。
 滝川では農協の職員が小さな机を置いて、猫や犬を連れてきた人に一匹当たり1円を支払い、帳面につけていた。女性の事務員も一人いた。皮を剥ぐとカマスに入れて塩をぶっかけて、塩漬けにして興農公社に送っていた。友人の一人は作業が怖くなり、途中で止めて自宅に帰った。
 今でも忘れられない。時々夢を見る。孫娘から「おじいちゃんは戦争中にそんな悪い事をしていたの」と言われるのが一番怖くて、家族には一言も話していない。「兵隊さんも戦場で戦っているのに、犬もお国のためにならなければ」と言われていた。戦争の時は惨いことをしたもんだ。(場所:札幌市文化資料室。2007年6月西田秀子聞き取り)

【証言b】学校の帰り道犬猫の処分を見ていた
 当時前田村(現・共和町)の集会所証言者加藤光則さん(当時10歳)
 当時は国民学校の5年生、学校でも白米弁当は姿を消しました。季節風に小雪の舞う寒い日でした。学校の帰り、部落の集会所の空き地に雪穴が掘られて周囲を雪壁でかこってました。その中から男の人の声が聞こえてきて、何だろうと友達と近寄って穴を覗き込みました。で、
息を飲んだんですよ。雪穴の中は一面が血の色に染まっていて、雪壁の縁には犬猫の毛皮と裸にされた犬猫が山積みになっていました。
 「子どもは来るな」と怒鳴られました。男の人が口の閉じたカマスを金槌みたいな斧みたいなもので数回叩きつけてました。カマスの口を空けた途端に、猫が飛び出して雪壁を駆けあがり、ポプラの木に駆け上った。怖くて身震いしていました。急いで家に帰り、父親に話すと、「犬猫の供出だ。戦地の兵隊さんに送るんだ」と。「農家はネズミ捕るやつ一匹だけ残していいんだ」。それ以来、供出は忘れられません。(2007年6月西田秀子聞き取り)
 動物の命奪っておいて人間だけが幸せになるなんてできやしませんよ。弾が飛んでくるとこだけが戦場だと理解したら、とんでもないです。(2015年談話)
     (4-3)

 

 実に生々しく、痛ましい。

 

 

 

 西田氏は「北海道内の実施状況」として以下の数字を示している。

 

 初年度の18年度は犬皮のみ2,627枚、19年度は北海道庁が道内各市町村長宛てに割当頭数を通達したことから犬皮1万5000枚、猫も4万5000枚で合計6万枚が供出された。これを種類別にみると、猫が4万5000匹で、犬3万157頭と猫の供出が犬よりも1万5000匹多い。割当頭数と比較してみると、4年間の合計犬3万頭は、昭和19年度の1年分の割当2万9664頭と同数。猫は19年度だけで4万5000匹供出されており、割当1年分の約7万7000匹の6割が供出されている。換言すれば、18年の戦時中から4年間で(引用者註:付表の年度が昭和18年から昭和21年となっている)北海道内の飼い犬が3万頭、猫は4万5000匹が供出されて殺処分となり毛皮にされたということである。
     (4―1)

 

 3万頭の飼い犬、4万5000匹の飼い猫の受難(すなわち「供出されて殺処分となり毛皮にされたということ」)である。戦時下、国家の求めに従わざるを得なかった愛犬家・愛猫家の心情はどのようであっただろうか。もっとも、人間にも国家のための戦死が慫慂されてた時代の話である。

 

 

 

 このように、西田氏による丹念な史料探索と見出した体験者による証言は、戦時期のイヌネコの運命を明らかにした。

 西田論文はそれだけで終わらない。続く第5章でのアプローチに、私は敬意を抱く。西田氏の問題意識は、以下のように展開していくのである(引用部は「戦争遺品の毛皮同定(鑑定)検査の目的」と題されている)。

 

 本章では、戦時中の犬や猫の毛皮供出献納運動によって集荷された毛皮類が、献納運動の趣旨の通り実際に将兵の防寒着に使用されていたのだろうかという疑問について検討・考察する機会としたい。しかしこの件に関する明確な記録や関係者による証言が残されていないことから、次の方法を取ることにした。
  ①日中戦争・太平洋戦争期の防寒着や防寒靴には、どのような動物の毛皮が使われていたのか。
  ②その結果を当時の陸軍被服廠の「製造仕様書」と照合し、一致と不一致を確認する。
 すなわち当時の史料である防寒着などの「製造仕様書」と、実際の戦争遺品の防寒着・防寒靴から毛を採取し、同定検査(鑑定)した結果とを照合・検証し、事実を確認することが目的である。
 検証作業に当たっては、次の道内の三博物館・資料館に所蔵されている戦争遺品から、博物館職員により所蔵保管に影響のない範囲内で動物の毛皮の毛を採取し、試料を提供していただいた。また、同定(鑑定)検査については、次の専門家三人に依頼し、結果の回答を顕微鏡写真とともに所見をいただいた。
     (5-1)

 

 そこから得られた知見も実に興味深いものである。

 

 今回の同定(鑑定)検査によって判明した動物の種類と、当時の陸軍被服廠による防寒外套の仕様書とを照合する。
 まず、3005-90(半袖)昭和17年製の左小袖腋回りにはネコ、右袖にはウサギの毛が使われていた。製作年から該当する仕様書を調べてみると、「陸軍被服品仕様聚下巻/第1編成品被服/第3款特殊地方用被服」(6)という昭和14年の仕様書を綴った史料が見つかった。その「一五四頁」の「其の二防寒外套真綿裏(人口毛皮製)昭和一四年一二月一四日被臨仕第一一一号改正」のなかに、「皮革兎毛皮小袖裏」とある。
 また「一五七頁」には、「防寒外套真綿裏(人口毛皮製)臨時材料調書昭和一四年五月二九日被臨仕第三六号制定」があり、そのなかに「皮革兎毛皮色相ヲ限定セズ猫、小羊等使用シ得」とある。つまり基本は兎だが、臨時に「色相は限定しないで猫、小羊など使用しても良い」となっている。
 ネコもウサギも、この昭和14年制定の仕様書と一致した。仕様書通りに製作されていた。つまり、犬、猫毛皮供出献納運動(昭和18年以降)よりも以前から、遅くとも昭和14年以降は、防寒外套に猫毛皮の使用を陸軍省管理の被服廠が公的に指示していた、という事実が確認された。
     (5-3-2)

 

 西田氏が依頼した科学的鑑定から明らかになったのは、「3005-90(半袖)昭和17年製の左小袖腋回りにはネコ、右袖にはウサギの毛が使われていた」事実であった。さらに史料探索による「昭和14年の仕様書」の内容確認を通して、「つまり、犬、猫毛皮供出献納運動(昭和18年以降)よりも以前から、遅くとも昭和14年以降は、防寒外套に猫毛皮の使用を陸軍省管理の被服廠が公的に指示していた、という事実」が、科学的鑑定からも公文書からも明らかになったのである。

 「献犬献猫運動」として推進される以前に、既に現場では「猫毛皮の使用」は行われていたのである。「皮革兎毛皮色相ヲ限定セズ猫、小羊等使用シ得」との規定が示すのは、当時の毛皮流通事情の中で、猫、小羊等の毛皮が入手可能であった事実であろう。入手可能であり、用途に適った毛皮として、猫と小羊が指定されているということではないか。しかし、その流通量は軍需を満たすには少なく、ついに(入手の容易な)飼い猫の犠牲を飼い主に強いるようになったのが、「献犬献猫運動」以降の展開であった、ということか。

 もう一度、その数を確認しておこう。

 18年の戦時中から4年間で北海道内の飼い犬が3万頭、猫は4万5000匹が供出されて殺処分となり毛皮にされた
     (4―1)

 いずれにせよ、戦争という人間の都合の犠牲にされた猫の姿を、深く心に刻んでおきたい。ネコの生命を粗末にする国ではやがて人間の生命も粗末に扱われる、という話ではなく、構図は逆転しており、人間に自身の生命を粗末にすることを強いる国家においてネコの生命も粗末に取り扱われることになったという、戦時期日本を象徴するエピソードであった。

 

 

 

 

 今回は、西田秀子氏の論文に依拠した、論文からの引用の多い記事となってしまったが、言うまでもなく、私の関心に基づく抜粋に終始している。この論考の魅力は、紹介し尽くせてはいない(註:1)。ぜひ、論文そのものを味読することをお勧めする。以下にリンク先を示す(4つのPDFファイルに分割されている)。

 

西田秀子 「アジア太平洋戦争下、犬猫の毛皮供出、献納運動の経緯と実態-史実と科学鑑定」 2016

事業年報第3号別冊<研究論考編> 札幌市公文書館

論考3-1(PDF:4,245KB)2(PDF:2,726KB)3(PDF:4,142KB)4正誤表(PDF:277KB)

 

 

 

【註:1】
 記事中で言及した「急告兎毛皮奉国」というチラシや「献納された飼い猫の受領證」は画像で掲載されているので、ぜひ確認して欲しい。
 また、それ以外にも様々な画像資料(史料画像だけでなく鑑定画像も含む)も採録されており、実見しておく価値があるものと思う。
 個人的には、数多く掲載された『北海道廰公報』の表紙が興味深いものであった。特に昭和19年2月16日の第3317号の表紙を飾る、「決戦生産・決戦増産/設置だ!保育所/乳幼児は保育所へ/一家揃って増産へ」の文字には、戦時期小平の託児所であった「津田こどもの家」の姿(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)」参照)と重なるものがあり、総力戦下の女子動員事情も窺われ、感慨深いものであったことを記しておきたい。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2019/04/01 09:49 → https://www.freeml.com/bl/316274/324357/
 投稿日時 : 2019/04/01 09:52 → https://www.freeml.com/bl/316274/324358/)

 

 

 

 

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2019年3月24日 (日)

カチンの拳銃弾 4

 
 

 

 一九四三年(昭和十八年)二月の最終の週間に、ソ連領土の奥深く、スモレンスク(ソ連西部の古都、ドニエプル川上流に臨み、中世期以来、通商、交通の中心、当時人口十五万)の西方数マイルの地点に駐屯中の独軍第五三七通信連隊のテレタイプ(印字電信機)は、独軍の野戦警察が、同連隊の露営地区内でポーランド軍将校の多数の死体を発見した、と報告した。彼らはどれくらい多数であるかを正確には知らなかったが、数千名の死体であることは確実であった。
 その死体は皮製のたけの高い長靴をはいて、胸には皮製の弾帯をめぐらし、その多くは功績と武勲を示す勲章をつけていた。各人はその頭部を撃ち抜かれていた。彼らはソ連の土地で、いくつもの集団墓場の中で発見されたが、彼らを射殺した弾丸はドイツ製のものであった。
     (J.K.ザヴォトニー 『カティンの森の夜と霧』 読売新聞社 1963  25ページ)
 
 
 これが、いわゆる「カチンの虐殺」の事実が明らかになる発端であった。
 問題は、集団墓場の中に死体となって発見された数千名のポーランド軍将校は、何時そして誰によって殺害されたのか?である。

 1939年9月1日、対ポーランド戦を開始し、ポーランド国内に西から進撃したのはドイツ軍であった。次いで9月17日にはポーランド国境の東からソ連軍がポーランド攻撃に加わった。当時のドイツとソ連は「独ソ不可侵条約」によって同盟関係にあり、条約の秘密議定書には両国によるポーランド侵攻と領土の分割が、明記されていたのである。ポーランドは9月27日に降伏し、以後、ポーランド領土の西側はドイツの占領下となり、東半分はソ連に占領され、ポーランド軍将兵は、それぞれドイツとソ連の収容所に送られた。
 1941年6月22日、今度はドイツがソ連に侵攻し、ドイツとソ連の同盟関係は終わる。ソ連は連合国の一員となり、最終的に勝利者となった。
 ポーランドの降伏後、ポーランド人は亡命政府をロンドンに設立し、連合国側で故国の占領者であるドイツとソ連との闘いを続けていたが、1941年6月の独ソ戦開始以降は、連合国の一員となったソ連との同盟関係の選択を余儀なくさせられた。
 ソ連国内の収容所に収容されていたポーランド軍将兵も解放され、連合国のソ連と共に対独戦争に参加することとなったが、集合地にはポーランド人将校の姿は、ほとんど現われなかった。消えたポーランド将校団の行方は、ポーランド亡命政府にとっても、もちろん占領下のポーランド人にとっても、追求すべき問題であったわけである。亡命政府当事者は、ソ連国内での捜索努力を続けたが、何も得られぬままに1943年の2月を迎えていたのであった。
 
 
 ドイツ宣伝相ヨージェフ・ゲッベルスの個人的日記の中には、一九四三年(昭和十八年)四月九日の日付の下で、次のような記述が発見されるであろう。
 「ポーランド人の墓の大群がスモレンスク付近で発掘されている。ボルシェヴィキ党員(共産主義者、ソ連軍をさす)が約一万名のポーランド軍捕虜をあっさり射殺してから、穴を掘って墓の中に埋め込んだのだ……」
 おそらく、この身の毛もよだつようなものすごい発見を、ゲッベルス宣伝相の注意を喚起するようにしたのはドイツの従軍記者であろう。一九四三年(昭和十八年)四月十三日午前九時十五分(ニューヨーク時間)に、ドイツのラジオ放送は連合国の団結を打ち砕くことをねらった宣伝をいっせいに電波にのせた。それは全世界に向けて、ポーランド軍将校が大量にソ連軍の手で殺害されたことを発表した。このドイツ側の声明にもとづくと、連合国側の一国の政府が、その同盟国の将校団の約半分を殺してしまったように思われた。
 その翌日、ソ連側の激しい反応は、マスコミのあらゆる可能な手段によってばらまかれた。ソ連政府の情報局は一九四三年(昭和十八年)四月十五日に声明を発表し、「一九四一年(昭和十六年)に、スモレンスク西方で建設工事に従事していたポーランド軍捕虜は、ドイツ・ファシストの死刑執行人の手中に陥った……」ので、その後に処刑されたのであると闡明した。…
     (前掲書 25~26ページ)
 
 
 独ソはそれぞれに、ポーランド将校団殺害の犯行を、相手の行為として断じたのである。
 ところで、問題のカチンの森とはどのような場所であったのか?
 
 
 カティンの森は、スモレンスク市西方約十マイルのところにあった。…(中略)…一九一七年のロシア革命後に、この地区はソ連政治警察の管轄下に置かれていた。
 ドイツとポーランド両国筋によると、一九二九年(昭和四年)ごろに、この森の周辺には「GPU特別地区、許可されない人の立ち入りを禁止す」という標識が立っていた。一九三一年(昭和六年)に、この森の一地区は鉄条網で取り囲まれた。その付近に居住しているソ連市民たちによると「さらに、立ち入り禁止の警告の張り紙が下げられた」といわれる。そして大きな家が、墓の大群の発見された地点より半マイルばかり離れたところに建てられたが、それは政治警察の係り官のための休息所として使用された。一九四〇年(昭和十五年)からソ連軍が撤退するまでの間、この全地域は、警察犬の護衛を伴った政治警察の保安隊員(NKVD)が巡察していた。
     (前掲書 26~27ページ)
 
 
 つまり、独ソ戦開始後にドイツに占領されるまでは、カチンの森はNKVDの管理下にあった土地なのである。ソ連内務人民委員部(あるいは中野五郎訳では政治警察)の管理する土地であったのだ。

 1943年にドイツ軍がポーランド軍将校の多数の死体を発見したのは、そんな性格の土地なのであった。
 
 
 

 

 一般の世論は、ドイツ軍に対し非難の指をさし向けた。発見された死体がドイツ製の弾丸で射殺されていた事実から、ドイツ政府は現地調査を行なうために、独立した国際調査委員会と、ポーランド赤十字委員会、ドイツ特別法医学委員会などを招待することに踏み切った。
     (前掲書  27ページ)
 
 この国際調査委員会とポーランド赤十字委員会のほかに、ドイツ特別法医学委員会も、また調査活動をしていた。この三つの調査委員会の各委員は、その調査期間中に、まったく独立して行動していた。そして独自の立場より結論に達したが、それは三つの個別の最終報告の中に述べられていた。これらの報告書は、そのもっとも重要な詳細な点で一致しているから、カティンの森の調査結果に関する次の記述は、これらのすべての報告と、さらに他の筋より収集した適切な補足にもとづいたものである。
 さてカティンの森では、八つの集団的な墓が発見された。それは深さ六フィートないし十一フィートの中に、死体がいっぱい充満していた。一般に、これらの死体の埋葬には特殊の方式がとられていた。彼らは顔を下にして両手をわきに置くか、または両手を身体の背後でしばられ、両足をまっすぐに伸ばして横たわっていた。しかも死体は一つずつ互いに重なり合って、十段か十二段になって積まれていた。
 その死体は全部、例外なく後頭部を撃ち抜かれていた。たいていの場合、これらの人々は、ただ一回で射殺されていた。しかし二回撃たれていたものもいくらかあったし、ある場合には頭蓋骨を三発の弾丸で粉砕されていた。概して弾丸を撃ち込まれたところは首筋の上であり、その発射方向は上向きで、弾丸は頭蓋骨を貫通して、鼻と頭髪のはえぎわの中間で顔の側面に抜けていた。
 二つの個別の墓が見つかった。その墓の中には、二名の、完全に軍服を着用した将軍の死体が発見されたが、いずれも一発で射殺されていた。赤外線の助けを借りて、その軍服を顕微鏡で分析した結果、この二名の将軍は、その冬外套のエリを立てたところを拳銃で撃たれたか、あるいは直接その頭部を撃たれたかして、処刑されたことが実証された。
 死体の大群の中の多数、とくに士官候補生と青年将校の死体は、その両手をしばられていた。これらの死体の発掘を目撃したある証人は、次の通り報告していた。
 「この第五号の墓より発掘された死体の典型的な特色は、その死体の全部の両手が背中で、白いナワで二重の結びめをつくってしばられていた事実であった。彼らの冬外套を頭部のまわりにかぶせて、しばりつけられていた。この冬外套は、同じ種類のナワで首の高さをしばられていて、時には二番目の結びめが犠牲者の頭上につくられていた。首筋にはただ一つの結びめがあり、そのナワの残部は背中を下方へ通って、しばられた両手のまわりにグルグルと巻きつけられた上、さらに首筋で、もう一度しばりつけてあった」
 「こんな風にして、犠牲者の両手は肩胛骨の高さまで引きつり上げられていた。犠牲者はこのような方法でしばり上げられていたので、いかなる抵抗もすることができなかった。なぜなら両手を動かすたびに、首筋のまわりのナワのくくり結びが堅く締まり、そのために、ノドを絞めつけるからであった。それのみならず、彼らは頭の上から冬外套をおおいかぶされていたために、どんな音を立てることもできなかった。処刑前に犠牲者を、このような風にしばり上げていたことは、死ぬ前に特別にくふうした拷問を加えていたものであった」
 このナワの結びめをつくる技術は、すべての実例で同一であった。そのナワは全部、同じ長さのものであったから、それが計画的に、事前に用意されたことは明白であった。現場でドイツ人の科学者が行なった、そのナワの顕微鏡検査によると、それはソ連製のものであることが判明した。また同じ種類の結びめが、ソ連製の衣服の残りぎれを身に着けていた数名の男女の死体についても発見された。これらの死体もまた、カティンの森の別個の墓穴の中で発見されたものであった。これらの死体を仔細に検視した結果、この人々は五年ないし十年前に同じ方法で殺害されたものであり、それは独軍が、この地方に侵入したときよりも数年以前の出来事であった。
     (前掲書  30~32ページ)
 
 
 この「ソ連製の衣服の残りぎれを身に着けていた数名の男女の死体」こそが、大粛清時に犠牲となったソ連国民の姿なのである。
 これが、カチンの森がNKVD(ソ連内務人民委員部)の管理下にあった土地であることの意味するところなのだ。
 カチンの森の奥でのNKVDの犠牲者は、まずは自国民だったのである。
 
 第二次世界大戦以前に大量の自国民を処刑・殺害してきたのと同じ手法(註:1)が、大戦に際してのポーランド軍将校の殺害においても用いられていたことが、これらの調査報告(ポーランド赤十字委員会には、抵抗運動メンバーも委員として参加しており、報告の信頼性は高い)から判明するわけである。 平時に、自国民の大量処刑・殺害を日常業務として効率的に実行してきた国家機関が、戦時には、他国民の効率的な大量処刑・殺害にその洗練された能力を発揮したのである。
 
 
 

 

【註:1】
 
  その死体は全部、例外なく後頭部を撃ち抜かれていた。たいていの場合、これらの人々は、ただ一回で射殺されていた。しかし二回撃たれていたものもいくらかあったし、ある場合には頭蓋骨を三発の弾丸で粉砕されていた。概して弾丸を撃ち込まれたところは首筋の上であり、その発射方向は上向きで、弾丸は頭蓋骨を貫通して、鼻と頭髪のはえぎわの中間で顔の側面に抜けていた。
     (J.K.ザヴォトニー 『カティンの夜と霧』 読売新聞社 1963  31ページ)
 
  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。
     (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)
 
   ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。
     (ザスラフスキー 『カチンの森』 173ページ 「訳者あとがき」より
 
 (ブローヒンについては「カチンの拳銃弾 3」を参照)
 
 
 
 
 
(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/09/07 21:36 → https://www.freeml.com/bl/316274/170641/
 投稿日時 : 2011/09/12 21:32 → https://www.freeml.com/bl/316274/170949/)
 
 
 

 

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2019年2月 2日 (土)

カチンの拳銃弾 3

 

 

 「カチンの虐殺」として知られる、ソ連という国家によるポーランド人捕虜の大量殺害。その現場には効率的大量殺害に公務として従事した処刑人の姿があった。効率的な処刑には専門性が必要であり、彼らは洗練された大量殺害技術の保持者であった。その専門性と技術は、ポーランドとの戦争に先立つ時期に、ソ連国内でソ連国民を処刑する中で磨かれたものであった。そんなソ連の処刑人を代表する人物と考えられているのが、ポーランド人捕虜殺害の際も活躍したヴァシリー・ブローヒンである(「ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった」)。

 前回、「ブローヒンが従事したのは効率的な処刑=殺人であり、それが彼とその部下にとっての日常業務(「メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまで」)なのであった」と要約したが、あらためて、効率的な処刑=殺人の詳細について確かめておきたい。

 

  カリーニン虐殺はモスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮した。ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参、三人は駅の引込み線に止められた、電話交換機を入れた食堂車に寝泊りした。

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。

  拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた。反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない。大量処刑のカチン事件では、ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた。

  看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。

  監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。

 

ブローヒンの役割・手法について、前回までにこのように紹介した(「カチンの拳銃弾 1」及び「カチンの拳銃弾 2」参照)。さらにザスラフスキーの著作を読み続けてみたい。

 

 すべての解剖報告書は、処刑が執行の専門家によって行われたと証言している。ほとんどの犠牲者は後頭部の正確な個所を狙って一発の弾丸で殺されていた。二発目が発射されたのはきわめてまれである。報告書には、多くの場合に将校たちが抵抗したと記録されている。多くの将校には銃剣創が見られた。またある者は両腕が背中で特別な結び方で縛られたうえで首のまわりに繋がれていた。これだと手を動かせば首が閉って窒息する。射殺はNKDVの特別部隊が実行した。NKDVには数万の「処刑専門家」がいて、殺害と死体隠しの訓練を受けていた。ナチ親衛隊の銃殺執行隊とちがって、NKDVの銃殺執行隊は犠牲者から金歯を抜いたり貴重品を取り去る命令を受けていなかった。だから死体発掘にさいして結婚指輪と金歯がポーランド将校の遺体に残っていたと記録されている。
 検屍記録はあきらかに矛盾する技術的細部を正確に書きとめていた。なかでも拳銃と銃弾はドイツ製でありながら、創傷はソ連軍が使っていた四刃の銃剣による刺殺を示していた。それに、犠牲者を縛っていた縄はソ連製だった。ブルデンコ委員会は銃剣と縄を無視しながら、ドイツ製弾丸が射殺に使われた事実を最大限利用して世論の大きな反響を勝ちえたのだ。以前に国際医学調査委員会が説明したところでは、拳銃はカールスルーエ近くのグスタフ・ゲンショウ社がヴェルサイユ条約後にドイツの兵器需要が激減したため、ソ連、ポーランド、バルト諸国に大量輸出するために製造されたものだったが、この事実は意図的に無視された。今やソ連公文書館の文書によると、NKDV銃殺執行隊がドイツ製拳銃と口径七・六五ミリの弾丸「ゲコ」で装備されていたことが確認されている。
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 126~127ページ)

 

 カチンでの屋外での処刑(「カチンで処刑を統率したのはモスクワから来た処刑人ではなく、スモレンスクNKVD監獄長グリポフ保安中尉、次長グヴォズドフスキー、ステルマハとみられる。これにスモレンスクNKVD監獄の看守、運転手、それにミンスクNKVD本部から派遣された処刑専門家がくわわったという説が有力」)と、カリーニンでの屋内での処刑(「モスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮」)では状況が異なることに留意しておく必要がある。ここに記されているのは、集団として自身の運命が明らかな中で次々に殺害されたカチンでの検証記録(解剖報告書)である。カリーニンでの個室での殺害では、被害者は抵抗を考える以前に、すなわち抵抗し銃剣で傷付けられることなく殺害されていたと考えられる。

 いずれにせよ、「すべての解剖報告書は、処刑が執行の専門家によって行われたと証言している。ほとんどの犠牲者は後頭部の正確な個所を狙って一発の弾丸で殺されていた。二発目が発射されたのはきわめてまれである」とカチンの「解剖報告書」にも記されており、「執行の専門家」の熟練度が窺われる。

 

 根岸隆夫氏による「訳者あとがき」には、カリーニンでNKDV責任者であったトカリェフ(トカリェフは国境警備隊からNKDVに移動したときは大佐だったが、カリーニン虐殺でベリヤに認められ、1954年に少将に昇進した)による1991年3月20日の証言(軍事検察官ヤブロコフ中佐との質疑応答)の紹介がある。

 

 トカリェフ  ブローヒン、シネグボフ、クリヴェンコがモスクワ本部から処刑人として到着したときに拳銃を詰めこんだスーツケースを持ってきました。
 ヤブロコフ  どんな拳銃ですか。
 トカリェフ  ヴァルターですよ。
 ヤブロコフ  弾薬はなんですか。
 トカリェフ  ヴァルター用ですよ。有名な拳銃です。口径は知らないけれどドイツ製です……
 ヤブロコフ  監獄を描写してください。
 トカリェフ  ここが地下室。ここに囚人監房があります。ここが「赤い隅」で、そこから処刑室まで廊下があります。「赤い隅」で本人確認がおこなわれ、そこから廊下を通って処刑室に連れていき銃殺です。小さい部屋です。扉があって中庭に向かって開きます。そこから死体を出して、待ち受けているトラックに載せます。
 ヤブロコフ  監獄から「赤い隅」まで捕虜は一人ずつ連れてこられるのですか。
 トカリェフ  そうです、一人ずつです。「赤い隅」には政治ポスターが何枚か貼ってあります。政治教育に使われていました。だからレーニンの部屋と呼ばれました。
 ヤブロコフ  処刑室にはなにもないのですか。
 トカリェフ  荷台がひとつありました。
 ヤブロコフ  いつもウォッカがあったということでしたが。
 トカリェフ  箱で買いこんでいました。銃殺と埋葬にかかわっただれもが飲めるようにです。モスクワから来たブローヒンたち処刑人はパジャマ姿ですわって飲んでいましたね。かならず銃殺が終わってからで、その前や最中には飲みませんでした。ポーランド人の銃殺が終わると宿にしている引き込み線の食堂車で大宴会でした……
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 172~173ページ 訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

「捕虜は一人ずつ連れてこられる」のであり、処刑室は防音されており(「看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる」)、処刑されることへの予期は持ちにくい(多くの場合、抵抗を考える前に殺害されているはずである)。

 

 

 実際にNKDV(内務人民委員部)で処刑の任務に携わった人物による証言(「カチンの虐殺」への関与は語られていないが、多くのソ連国民を処刑した経験が語られている)が記録されているので読んでおきたい。

 

 「……わしは内務人民委員部の仕事に採用されたとき、ほんとに鼻高々だった。はじめての給料で上等のスーツを買ったんだよ。
 ……あのような仕事は……なんにたとえればいいのだろう。たとえるとしたら、戦争だ。しかし、わしは戦場ではらくだった。ドイツ人を銃殺刑にする、やつはドイツ語でさけぶ。ところが、こいつらときたら……こいつらはロシア語でさけぶんだ。なにやら仲間みたいだ……。リトアニア人やポーランド人を撃つのはもっとらくだった。ところが、こいつらときたらロシア語なんだよ。「でくの坊! 能なし野郎め! さっさと殺れよ!」畜生! わしは全身血まみれ……手のひらを自分の頭髪でぬぐっていた……。たまに皮製の前掛けが支給されることがあった。そういう仕事だった。勤務だ。きみは若いよ……ペレストロイカ! ペレストロイカ! しゃべくり野郎どもの話を真にうけておる。さけばせておくがいい、自由、自由と。広場をちょっと走らせておくがいい……。斧が置かれているんだ……斧はご主人さまがいなくなっても生きつづけるんだよ。覚えておけ。畜生! わしは兵士だ。命令されたから、やった。撃った。命令されたら、やるもんだよ。や・る・ん・だ・よ! わしが殺していたのは敵だ。破壊分子どもだ。正式な書類があった。「極刑に処す……」。国家の判決だ。あんな仕事は、願いさげだ! まだ息のあったやつは、たおれて、豚みたいにキーキーいって……血を吐いておった。けらけらわらってる男を撃つのは、とくに胸くそが悪かった。そいつは気が狂っているか、こっちをさげすんでいるか、どっちかなんだ。あっちからもこっちからも、号泣と汚いことば。あのような仕事の前には食事などできん……。わしは食えなかった……。いつものどがからからだった。水をくれ! 水だ! 酒を飲みすぎたあとのように……。畜生! 勤務時間の終わりにバケツがふたつ持ってこられた。ウォッカのバケツとオーデコロンのバケツ。ウォッカは仕事のあとで持ってきてくれた、仕事の前じゃなかった。どっかで読んだことがあるだと? それそれ、そこなんだよ……。いまではあらん限りのことが書かれている……多くはでっちあげだ……。わしらはオーデコロンで上半身を洗っていた。血は、鼻にツンとくる、一種独特のにおいがして……ちょっと精液のにおいに似ている……。わしの家にはシェパードがいたが、仕事のあとでは、わしによりつこうとしなかった。畜生! なんでだまってんだ。青二才め……未熟者めが……よく聞け! まれに殺すのが好きだという兵士がいたもんだ……そういうやつは銃殺班からよそにとばされた。やつらはあまり好かれていなかった。わしのような農村の出身者がたくさんいた、田舎もんは都会もんよりタフだ。ハラがすわっておる。死というものに慣れている。ある者は家で豚をつぶしたことがあったし、ある者は子牛を殺したことがあったし、ニワトリはだれでもしめたことがあった。死に……慣れさせなくてはいかん……。最初の数日間は連れていって見せる……。兵士たちは死刑に立ち会っていただけ、あるいは既決囚を護送していただけだ。すぐに発狂というケースもあった。耐えられなかったのだ。デリケートな問題だ……。うさぎをひねる、それだって慣れが必要で、だれにでもやれるもんじゃない。畜生! ひざまずかせて、ナガン連発式ピストルの銃口部を左後頭部につきつけて撃つ……左耳あたりに……。勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった。ほかのあらゆる場所のように、わしらにも割当量があった。工場の生産割当量のように。最初のころは、割当量をこなすことができなかった。物理的に遂行できなかったのだ。すると、医師が呼び集められ、立会診察がおこなわれた。その結果、週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった。右手と人差し指のマッサージ。人差し指のマッサージはどうしても必要だ、撃つときにいちばん大きな負荷がかかるんだ。わしに残ったのは、右耳の聞こえが悪くなったことだけだ。右手で撃っていたからだよ。
 ……わしらは「党と政府の特殊任務遂行に対して」表彰状をもらって、そこには「レーニン・スターリンの党の事業に献身的である」と書かれていた。上質紙のこれらの表彰状を、わしは戸棚いっぱい持っておる。年に一度、家族と一緒にりっぱなサナトリウムに行かせてもらった。最高の食事……肉がたっぷり……療養……。妻はわしの仕事のことはなにも知っちゃいなかった。責任重大な極秘の仕事、それだけだ。わしは恋愛結婚だった。
 ……戦時中は弾が節約されていた。もし海が近ければ……。平底船にぎゅうぎゅうに詰めこんだもんだ。船倉からはさけび声ではなく、けものの咆哮「誇り高きわがヴァリャーグ号は敵に屈せず/赦免はだれも望まない……」。一人ひとりの両手は針金で縛られていて、足には石が……。もし天気がおだやかなら……水面はなめらかで……やつらが底に沈んでいくのが長いあいだ見えていた……。なんだ、その目は。乳臭いやつめ! その目はなんだ! 畜生! 酒をつげ! そういう仕事……勤務だ……。きみが理解するために、話してやってるんだ。ソヴィエト政権はわしらにとって高くついた。それを大事にしなくてはならん。守らなくてはならんのだ。夕方、わしらが帰ってみると、平底船はからっぽ。死の静けさ。みんなの頭にあるのはひとつ。わしらが岸辺に出ていけば、わしらもそこで……。畜生! わしは、すぐ持ちだせるように、何年間もベッドの下に木のトランクを置いていた。替えの下着、歯ブラシ、カミソリ。枕の下にはピストル……。自分の額を撃ちぬく覚悟でいた。当時、みんながそんなふうに生きていたんだ。兵士も、元帥も。そこんとこは平等だった。
 ……戦争がはじまった……。わしはすぐ前線に志願した。戦闘で死ぬのはそれほどこわくない。祖国のための死だとわかっているからだ。すべてが簡単明瞭。ポーランドを解放していた、チェコを……。畜生! ベルリンの近くで自分の戦歴を終えた。二個の勲章と記章をもっておる。勝利だ! だが……その後に待っていたのは……。勝利のあと、わしは逮捕された。特務部のやつらがリストを用意していたのだ……。チェキスト〔国家保安機関の勤務員〕には、ふたつの道しかなかった。敵の手にかかって死ぬか、内務人民委員部の手にかかって死ぬか、どちらかだ。七年の刑をくらった。わしは、七年の刑期をまっとうした。いまでも……なあ、きみ……収容所時間で目が覚めるのだ、朝六時に。なんの罪で入っていたのか。なんの罪か、それはおしえてくれなかった。いったいなんの罪があるというのだ。畜生! 」
     (スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ 『セカンドハンドの時代』 岩波書店 2016  357~359ページ)

 

 かつてNKDVに処刑要員として(処刑の専門家として)勤務した人物の証言である。「NKDVには数万の「処刑専門家」がいて、殺害と死体隠しの訓練を受けていた」という中の一人だ。キャリアのスタートは戦前、大粛清の時代である。語られているのはその技術的詳細、処刑現場の状景の生々しさ、処刑要員としての心情。

 

  わしは全身血まみれ……手のひらを自分の頭髪でぬぐっていた……。たまに皮製の前掛けが支給されることがあった。そういう仕事だった。勤務だ。

  わしは兵士だ。命令されたから、やった。撃った。命令されたら、やるもんだよ。や・る・ん・だ・よ! わしが殺していたのは敵だ。破壊分子どもだ。正式な書類があった。「極刑に処す……」。国家の判決だ。

  あっちからもこっちからも、号泣と汚いことば。あのような仕事の前には食事などできん……。わしは食えなかった……。いつものどがからからだった。

  勤務時間の終わりにバケツがふたつ持ってこられた。ウォッカのバケツとオーデコロンのバケツ。ウォッカは仕事のあとで持ってきてくれた、仕事の前じゃなかった。

  わしらはオーデコロンで上半身を洗っていた。血は、鼻にツンとくる、一種独特のにおいがして……ちょっと精液のにおいに似ている……。わしの家にはシェパードがいたが、仕事のあとでは、わしによりつこうとしなかった。

 うさぎをひねる、それだって慣れが必要で、だれにでもやれるもんじゃない。畜生! ひざまずかせて、ナガン連発式ピストルの銃口部を左後頭部につきつけて撃つ……左耳あたりに……。

  勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった。

 ほかのあらゆる場所のように、わしらにも割当量があった。工場の生産割当量のように。最初のころは、割当量をこなすことができなかった。物理的に遂行できなかったのだ。

  すると、医師が呼び集められ、立会診察がおこなわれた。その結果、週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった。右手と人差し指のマッサージ。人差し指のマッサージはどうしても必要だ、撃つときにいちばん大きな負荷がかかるんだ。

 

 確かに「あんな仕事は、願いさげだ!」という言葉もある。自身への呪いの言葉と満足感が同居している。

 ここではドイツ製のワルサーではなく、ソ連製の「ナガン連発式ピストル」を使用していたこと、引き金が引かれたのは「左後頭部」に向けてであったことが語られている。ブローヒンの流儀を過剰に一般化するべきではないということなのだろう。しかし、「ナガン連発式ピストル」使用により「勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった」ために「割当量」を果たすことが困難となり、「週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった」エピソードからは、あらためてブローヒンのワルサーが、「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」との理由で選択されていたことが思い出される。

 

 「あんな仕事は、願いさげだ!」との言葉も吐いたこのチェキストは、しかし「名誉退役軍人」として特権を享受していた。「特別配給食料」としてサラミソーセージ、ブルガリア製のキュウリとトマトのピクルスの瓶詰、外国製の魚の缶詰、ハンガリー製の缶入りハム、グリーンピース、タラのレバーといった「当時、一般の人には手に入らなかったもの」を手にし、「官給の四〇〇平米の土地ではなく、どのくらいの広さだったか、もう正確には覚えていないが、そこには森林の一部も入っていた。古いマツ林だった。高い地位の人には、あのようなダーチャが与えられていたんです。特別な功績に対して。アカデミー会員や作家に」と対話者に語られるような特権的な生活を享受していたのである。公務としての効率的な殺人により得た特権である。

 そのような特権者が存在した国家。それがソ連であり、そのような特権者こそがソ連の国家権力を支えていた。処刑人の凄惨な現場の上に、日々の業務としての処刑の上に、「割当量」を果たそうと格闘する現場の上に、ソ連という国家は築かれていたのである。

 

 

 

 さて、あらためてブローヒンである。

 日本語の『ウィキペディア』をチェックしてみた(「百科事典」としての利用とは別に、ネット空間の中での対象への関心の程度を知る効果もある)が、現状(2011年9月6日、そして2019年2月2日に再確認)では「ブローヒン」の項目はなかった。しかし、「ニコライ・エジョフ」の項に、

 

 1940年2月4日、ニコライ・エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された。

 

という形で、ブローヒンの名が登場する(以下、2011年9月6日時点での記載内容である)。

 「カチンの虐殺」は1940年の4月から5月の話で、その直前の時期に、ブローヒンは、エジョフの処刑の実行者となっていたわけである。ただし、『カチンの森』によれば、その時点でのブローヒンの地位は「保安少佐(モスクワNKVD監獄長)」なのであり、『ウィキペディア』の記述は正確ではないように思われる(2019年2月2日現在でも「1940年2月4日、エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された」との記述のままであった)。

 

 さて、では、ニコライ・エジョフとは何者か? 再び『ウィキペディア』の「エジョフ」の項を参照すると、

 

 ニコライ・イヴァーノヴィチ・エジョフ(ロシア語;Николай Иванович Ежовニカラーイ・イヴァーナヴィチュ・イジョーフ、ラテン文字表記の例:Nikolai Ivanovich Yezhov、1895年5月1日 - 1940年2月4日頃)は、ソビエト連邦の政治家。1936年から1938年まで政治警察・秘密警察であるNKVDの長を務めた。国家保安総委員。ヨシフ・スターリンによる大粛清(大テロル)を実行し、天文学的な数の国民を虐殺したが、のちに自らも粛清対象にされて処刑された。

 エジョフの政治体制は、後世、「エジョフシチナ」(Ежовщинаイジョーフシナ;エジョーフシチナ、エジョフ時代、エジョフ体制の意)としばしば呼称される。

 

として要約される人物である。

  ヨシフ・スターリンによる大粛清(大テロル)を実行し、天文学的な数の国民を虐殺したが、のちに自らも粛清対象にされて処刑された。

とあるように、つまり、あの大粛清のシステムの中心人物であり、やがて当人も粛清の対象とされ、最後にブローヒンの手により処刑されたわけである。

 

 『ウィキペディア』は、エジョフの絶頂期の姿を、

 

 エジョフは、スターリンに対する忠実な支持者であったとことで知られる。1935年、エジョフは政治的反対勢力が暴力とテロリズムと結合して反国家・反革命に結合するに違いないと主張する内容の論文を発表している。これは粛清におけるイデオロギー上の基礎の一部となった。1936年ゲンリフ・ヤゴーダの後任として、9月26日に内務人民委員(内務大臣)、中央執行委員に就任し、翌1937年10月には党中央委員会政治局員候補となった。

 エジョフは粛清の第一段として、まず前任のヤゴーダ派の一掃に着手した。ヤゴーダ派の粛清で生き残った部下を自身の配下に組み入れることで、権力の基盤を磐石にしたのである。1937年3月、将校クラブに招集したNKVDメンバーの前の演説でエジョフは、前任者のヤゴーダが「ファシストのスパイ」として逮捕されたことを述べた上で、「無実の人間を10人犠牲にしてもいいからスパイ1人を逃してはならない。木を切り倒すときは木端が散るものだ」と主張した。また、自身の身長の低さに言及し、「私の身の丈は小さいが、両手は頑丈だ。-スターリンの意思を実行する両手だからだ」と述べた。

 エジョフは、スターリンの大テロルにおける忠実な執行者として君臨した。NKVDとGPUに徹底的な粛清を指揮し、前任者のヤゴーダ、ヴャチェスラフ・メンジンスキーが任命した多くの人員が解任、銃殺されたが、その中にはエジョフ自ら任命した者も含まれていた。エジョフはスターリンから粛清の命令を受けた際には、その一字一句をメモに書き残していたとされる。さらにはNKVDの部署内にさえも、二重・三重の監視網が敷かれた。

 エジョフはかつてレフ・トロツキーを支持していた重工業人民委員部次官ゲオルギー・ピャタコフらを公開裁判(第二次モスクワ裁判)にかけ、銃殺刑を言い渡した。これを皮切りにエジョフ体制下での粛清は猛威を振るい、ソビエト共産党指導者・官僚・軍人の半数、ほかにも数百万人の市民が政府への反抗・政府の転覆活動・反革命の容疑を受けて粛清の対象として逮捕され、容赦ない拷問の結果、処刑・追放・収容所送りに至った。

 1937年12月20日、党はボリショイ劇場において、NKVDの創設20周年を祝う大祝典を催した。会場には、スターリンの巨大な肖像と隣り合ってエジョフの肖像が架けられた。花でうずまるステージにおいて、ダークのコーカサス風のチュニックコートとベルトを締めたアナスタス・ミコヤンが、エジョフの仕事を賞賛し、「同志エジョフから、同志スターリンの方法を学びましょう!ちょうど、同志エジョフ自身が、同志スターリンから学び、これからも学び続けるであろうように!」と述べた。会場にいたある人物は、エジョフの様子を「彼はうつむき加減で、恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。まるで、こんな手放しの賞賛に自分は相応しくないという風だった」と伝えている。スターリンが、このときの様子をプライベートボックスから眺めていた。

 

と記している。

 しかし、その絶頂の翌年、

 

 1938年4月8日、ほかの役職はそのままに、水上交通人民委員を兼任したが、エジョフの役割は徐々に小さくなっていった。これはエジョフの権勢が衰微し、没落する予兆であった。党内で上位にある者を定期的に粛清するスターリンのやり方は、主にそのやり方を組織化する役割を果たしたエジョフも知っていた。同年8月22日、ラヴレンチー・ベリヤが内務人民委員代理に就任する。ベリヤは政治将校の政務のためにエジョフの権力を奪い始め、NKVDの実質的な責任者になった。

 連日のように粛清を繰り返したエジョフは、晩年には疑心暗鬼によって、自身の妻までも粛清している。すでに飲んだくれとなっていたエジョフはアルコール依存症に陥り、絶望的になった。最後の業務の月のエジョフは、陰鬱で、だらしなく、起きている時間はほとんど酒を飲んでおり、勤務のために現れたことは滅多になかったという。

 同年11月11日、スターリンとヴャチェスラフ・モロトフは、エジョフ体制下のNKVDを激しく批判した。エジョフは内務人民委員の解任を自発的に求め、11月25日にはベリヤが内務人民委員に就任した。

 

このように、手にした権力を失っていく。そして、

 

 1939年3月3日、エジョフはソ連共産党中央委員会における全官職を解任された。

 

という形で、スターリン体制における地位のすべてを喪失し、エジョフの立場は完全に逆転することになる。

 

 1939年4月10日、エジョフは逮捕され、スハーノフカ刑務所(en:Sukhanovka)に収容された。拷問に耐えることができなかったエジョフは、奇しくも、自らが多くの人間を処刑したのと同じ理由、すなわち「自分は公式に無能であること、ドイツの諜報機関と結託してスパイ活動を行い、クーデターを計画していた」と自白した。さらにエジョフは、「自分は性的に逸脱しており、男色家で異性愛者である」とも自白した。これはのちに証言によって部分的に補強され、のちの取り調べによってほぼ真実と考えられている。

 1940年2月3日、ソビエトの裁判官ヴァシリー・ウルリヒは、ベリヤの事務室において彼を審理した。エジョフの言い分は支離滅裂であり、前任のヤゴーダのように終始悲嘆に暮れ、スターリンへの敬愛を述べ続けた。エジョフは、ベリヤからスターリン暗殺計画の自白を勧められたが、これを拒否して「どうせこの地上から消え去るなら、高潔な人間として消え去ったほうがましだ」と述べた。エジョフは自身の弁明のためにベリヤの前に跪いて許しを請うが、再三無視された。そしてついに、「スターリンの名を呼んで死ぬ」と誓った。エジョフのスターリン暗殺計画の自白の拒絶は、自身の宣伝目的に役立つことはなかった。

 死刑判決が読まれたとき、エジョフは泣き崩れ、部屋から体ごと運ばれなければならないほどに生気を失った。目撃者によると、ベリヤはエジョフに服を脱ぐよう命令し、エジョフを叩くよう警備員に命令したという。エジョフは体ごと処刑室に運ばれ、しゃっくりし、泣きじゃくった。1940年2月4日、ニコライ・エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された。遺灰は、モスクワのドンスコイ修道院の集団墓地(en:Mass graves in the Soviet Union)に捨てられた。

 

というのが、大粛清システムの中心人物の最後のあさましい姿であった。

 

 しかし、このベリヤもまた、『ウィキペディア』の「ラヴレンチー・ベリヤ」の項によれば、

 

 同年(1953年)12月、ベリヤ、メルクーロフ、コブロフ、セルゲイ・ゴルギーゼ、デカノゾフ、メシク、ヴロジミルスキーの7人は、「英国の諜報機関と結託し、秘密警察を党と国家の上に置いてソヴィエトの権力を掌握しようとしたスパイである」と報道された。ベリヤは特別法廷において、弁護人なし、弁明権なしで、裁判にかけられた。裁判の結果、ベリヤは死刑判決を受けた。モスカレンコによると、死刑判決が下ったとき、ベリヤは膝を突いて泣きながら慈悲を乞い、助命嘆願をしたという。しかし、ベリヤはルビヤンカの地階に連行され、彼と彼の部下は、1953年12月23日にパーヴェル・バチツキーによって銃殺刑に処された。ベリヤの遺体はモスクワの森の周辺で火葬されたのち、埋葬された。

 

という最期を遂げることになるのであった。

 そのような政治体制の中で、「カチンの虐殺」は起きたのである。

 

 

 ちなみに、英語版の『ウィキペディア』には、ブローヒンの項目はあり、その最期についても記述がある。

 

 Blokhin was forcibly retired in 1953 following Stalin's death that March. However, his "irreproachable service" was publicly noted by Beria at the time of his departure.After Beria's fall from power in June of the same year, Blokhin's rank was stripped from him in the de-Stalinization campaigns of Nikita Khrushchev. He reportedly sank into alcoholism and serious mental illness, and died on 3 February 1955, with the official cause of death listed as "suicide".
     (Vasily Blokhin → 
https://en.wikipedia.org/wiki/Vasily_Blokhin

 

 ブローヒンはスターリン批判の中で栄誉を剥奪される。アルコールに溺れる日々を送り、公式には自殺として記録される最期であったらしい。

 そこに大量殺害者としての悔悟があったのであろうか?

 (私には、ブローヒンの悔悟など想像し難いが)

 

 

 

           (「カチンの拳銃弾 4」に続く

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/09/06 21:50 → https://www.freeml.com/bl/316274/170569/
 投稿日時 : 2019/02/01 21:04 → https://www.freeml.com/bl/316274/323553/

 

 

 

 

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