2020年4月 1日 (水)

日本を取り戻す

 

 

 「日本を取り戻す」とは、2012年に安倍晋三氏率いる自民党が掲げ、当時の民主党からの政権奪還を果たした際のスローガンであった。

 この一ヶ月ほど、世界に新型コロナウイルス感染の拡大する中、あらためて、その言葉の現実化していく様を見せつけられ続けた思いを抱く。

 

 新型コロナウイルスの感染拡大という非常時の中で、かつてのこの国の非常時の姿が甦るようであった。要するに戦時日本の経験である。

 

 日毎に明らかとなる新型コロナウイルスの脅威を前にして、東京でのオリンピック開催の可否をめぐり、首相と元首相、都知事(そしてIOC会長)が右往左往する姿(最終的にIОC会長の「外圧」が大きな役割を果たしていたように見えてしまうが)。

 ポツダム宣言受諾の可否をめぐる帝國の姿を思い出さざるを得なかった。「国体護持」にこだわる余り、原爆投下とソ連対日参戦に至るまで、宣言受諾の決断は先延ばしにされ、多くの兵士が戦死に追い込まれ、銃後国民の戦災被害も大きなものとなってしまった。悲願の国策としての「五輪開催」が、かつての「国体護持」のような役割を果たし、決断を下す立場の者の責任回避が続く中、感染は拡大していったのである。

 もうひとつ、思い起こさざるを得ないのがインパール作戦の顛末であった。ここは手を抜いてウィキペディア先生に登場いただくと、

 

  6月5日、牟田口をビルマ方面軍司令官河辺正三中将がインタギーに訪ねて会談。二人は4月の攻勢失敗の時点で作戦の帰趨を悟っており、作戦中止は不可避であると考えていた。しかし、それを言い出した方が責任を負わなければならなくなるのではないかと恐れ、互いに作戦中止を言い出せずに会談は終了した。この時の状況を牟田口は、「河辺中将の真の腹は作戦継続の能否に関する私の考えを打診するにありと推察した。私は 最早インパール作戦は断念すべき時機であると咽喉まで出かかったが、どうしても言葉に出すことができなかった。私はただ私の顔色によって察してもらいたかったのである」と防衛庁防衛研修所戦史室に対して述べている。これに対して河辺は、「牟田口軍司令官の面上には、なほ言はんと欲して言ひ得ざる何物かの存する印象ありしも予亦露骨に之を窮めんとはせずして別る」と、翌日の日記に記している。こうして作戦中止を逡巡している間にも、弾薬や食糧の尽きた前線では飢餓や病による死者が急増した。
     (ウィキペディア 「インパール作戦」記事中の「日本陸軍の作戦中止及び退却」の項より)

 

 まさに夏のオリンピック開催の可否を前にしての、現首相と元首相と都知事の振る舞いに重なるエピソードである。お互いに顔を見合わせながら、先へ進めないのである。

 このインパール作戦エピソードは、その後の「非常事態宣言」をめぐる首相と都知事の間でも繰り返されていた(現在も継続中)。心中を忖度することが期待され、必要だと考える対応が先延ばしにされる状況が続く。

 

 

 首相会見にしても都知事会見にしても、具体策の欠けた、しかし力強い言葉が氾濫する。3月28日の首相会見を伝える記事(毎日新聞 2020/03/28 18:20)への「ヤフコメ」が秀逸であった。

 

  安倍さんの「これまでにない」「前例にない」「甚大な」「思い切った」「政府をあげて」「きめ細やかな」「一気に」「大胆な」「力強い」「強大な」「かつてない規模の」は、もう聞き飽きた。

 

 われらが戦時宰相、東條首相の演説を彷彿とさせる。力強い掛声はあるが、休業者への補償、感染者用病床の確保、防護衣の手配等の実施の細目については考えないことにする。どんなに力強い作戦計画であろうが、兵站の確保を抜きにしては前線の兵士は戦えないのである。

 いきなりの「休校要請」の際には、東條首相の一代前の近衛文麿首相が支那事変拡大の中で発した「爾後國民政府ヲ對手トセズ」の声明を思い出させられた。確かに自身の「決断」をアピールすることには役立っただろうが、熟慮の末の判断には見えない。近衛は外交交渉の相手の存在自体を否定してしまうという過ちを犯し、事変の解決への道を自ら閉ざしてしまった。安倍氏の「休校要請」も、専門家の意見に従ったものではなかったし(思いつき)、事前のシミュレーションを欠いた結果、休校措置に伴う児童生徒の保護者の休業補償の問題等、混乱を招いてしまった。

 「自粛」にせよ「休校措置」にせよ、重要なのは感染拡大の時間稼ぎなのであり、得られた時間を次に必要とされる対処に用いなければならない。「自粛」や「休校」により(あるいは検査数を抑える対応により)感染のピークを先送りし、そこで得られた時間を次に必要となる措置のために使う。(業種を超えた)マスクの生産拡大、防護衣の生産拡大、人工呼吸器の生産拡大、そして感染症病床数の確保、軽症者向け滞在施設の確保等、既に中国、韓国、ヨーロッパ諸国、米国の経験からすれば感染症拡大への必須の対応であったはずだ。

 前回記事(「非常時の国家と産業(20世紀の戦争と21世紀の感染症) 」)では、まさに戦時に例えられる非常時の中で、業種を超えて人工呼吸器生産を試みる民間会社の奮闘ぶりを取り上げた。記事のその後、ダイソンは限られた時間の中で実際に新たに人工呼吸器を設計し、生産開始まで達成しているのである。

 

   英家電メーカーDysonが、新型コロナウイルス感染症の治療に必須だが不足している人工呼吸器の開発を英政府から依頼され、1万台を製造中だと、米Fast Companyが3月25日(現地時間)、入手した同社創業者のサー・ジェームズ・ダイソン氏による社内メールに基づいて報じた。
  ダイソン氏はメールで「10日前にボリス・ジョンソン首相から電話で依頼があり、The Technology Partnershipと協力してまったく新しい人工呼吸器「CoVent」を設計した。これは新型コロナウイルス感染患者に対応するよう設計されており、大量生産が可能だ」と語った。人工呼吸器は医療機器として規制されているため、政府などと協力して製品の承認を急ぐ。
  政府から受注した1万台に加え、寄贈用に5000台を生産し、4000台は英国以外に提供する計画。
  英BBCによると、この人工呼吸器は数百人のエンジニアが24時間体制で10日かけてゼロから設計したという。
     (2020/03/27 18:08 ITmediaNEWS)

 

 このスピード感ある非常時対応に対比されるのは、わが日本政府の対応である。

 

  政府は30日、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、人工呼吸器の増産をメーカーに要請する方針を固めた。協力に応じる企業には補助金も含めた支援策を講じる方向だ。重症患者の急増に備えて治療態勢の増強を急ぐ。
     (2020/03/30 18:18 時事通信)

 

 やっと3月30日になっての話なのだ。記事には「関係者によると、政府は日本光電をはじめとする主要メーカーへの打診を始めているもようだ」とあり、非常時に強いはずの安倍氏の政権にとってはすべてが「これから」の話なのである。「自粛」や「休校」により確保されたはずの時間は空費されていたということだ。

 

 

 近衛、東條という二代にわたる戦時宰相(もっとも、近衛は「戦争」ではない事変下の首相であったが、大日本帝國の非常時モード拡大の主役であった)のエピソード、そしてインパール作戦の顛末。あらためて現在の日本で再現されているようにしか感じられない。

 

 安倍氏は確かにかつての非常時日本の姿を「取り戻」したのである。公約に偽りはなかった。

 

 

 (せっかくのエイプリルフールだというのに、マジネタとなってしまった―今回の記事にウソ偽りはございません→追記あり)

 

〈追記〉

  新型コロナウイルスの感染拡大でマスクの品薄状態が続いていることから、安倍総理大臣は政府の対策本部で、全国のすべての世帯を対象に1つの住所当たり2枚ずつ、布マスクを配布する方針を明らかにしました。
     (2020/04/01 20:23 NHK)

 エイプリルフールネタではない。「そのうえで、全国すべての世帯を対象に日本郵政のシステムを活用し、1つの住所当たり2枚ずつ、布マスクを配布する方針を明らかにしました」と具体的な手順も示されているのである。アパートで一人暮らしの独身者にも、5人家族にも平等に(?)2枚ずつのマスクが配布されるというのが、4月1日付の日本政府の方針なのである。これが日本を取り戻した政権下の「これまでにない」「前例にない」「甚大な」「思い切った」「政府をあげて」「きめ細やかな」「一気に」「大胆な」「力強い」「強大な」「かつてない規模の」非常時の国策である。

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2020年3月26日 (木)

非常時の国家と産業(20世紀の戦争と21世紀の感染症)

 

 

  新型コロナウイルスの世界的流行(パンデミック)により医療設備が不足している中、各国政府が戦時状況に準ずる民間総動員体制を整えている。
  19日、CNNによると、英国は準戦時動員方式によって不足しているベンチレータ(人工呼吸器)の生産に入った。対象企業には、航空機エンジンなどを生産する有名自動車メーカーのロールス・ロイスと掃除機の代名詞となったダイソンが含まれた。
     (2020/03/19 21:20   News1 wowkorea.jp)

 

 今回の新型コロナウィルスへの対応を報じる中で、第二次世界大戦時の戦時動員の記憶が参照されている記事(タイトルは「ダイソンもロールス・ロイスも人工呼吸器生産…戦時動員体制=英国」)として、強く印象に残った(CNNに遡るべきかも知れないが、この件で最初に目にした記事として記録に残しておきたい)。ロールスロイスとダイソンという組み合わせも味わい深い(ロールスロイスは20世紀からの英国の伝統を示し、ダイソンは21世紀の英国を代表する)。記事の最後は、

 

  新型コロナウイルスの発源地である中国は、軍の医療スタッフを投入するなど、戦時総動員体制を整えて、iPhoneの組み立てをしていたフォックスコンなどがマスク製造に乗り出し、韓国政府もマスク不足事態に広く民間にも協力を求めた。フランスでは、世界最大のブランド企業LVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)グループが、「国家災難級の危機」に傘下クリスチャン・ディオールなどの香水製造ラインを洗浄剤のラインに変更して稼働させている。

 

と結ばれている。ここでも「戦時総動員体制」という語を用いて、中国での対応が記されている。

 続いて米国での「戦時状況に準ずる民間総動員体制」の現状を伝える記事を記録しておきたい。

 

  世界中でコロナウイルスの感染拡大が止まらない。アメリカでは、3月に入って感染者が急増。政府発表によると、22日の時点で感染者が3万人を超えたという。
  米自動車メーカーの”ビッグ3”であるゼネラルモーターズ(GM)、フォード、クライスラーはいずれも、自動車の生産を停止している。そんな中、GMはベンテック・ライフ・システムズによる人工呼吸器の増産をサポートするようだ。
  同じくコロナの感染が広がっているイギリスでは、国内に拠点を置くF1チームが同様に人工呼吸器製造をサポートしている。
     (2020/03/23 15:01 MotorsportJP)

 

 こちらのタイトルは「ゼネラルモーターズは、コロナウイルスのパンデミックに対し、人工呼吸器の増産をサポートしている」で、David Malsher 氏による署名記事となっている。

 

 ゼネラルモーターズの対応については、3月21日の時点で、既に土方細秩子氏が取り上げている(「自動車メーカーが人工呼吸器製造か?米の現状」)。

 

  そこで、全米の工場閉鎖を発表したばかりの自動車メーカー側が政府と交渉し、「人工呼吸器などの医療機器の生産という形で協力したい」と申し出たのだという。GMのメアリー・バラ会長はトランプ大統領に対し、人工呼吸器などの医療デバイスを工場で生産する可能性について社内でリサーチを行っている、と報告した。
     (2020/03/21 WEDGE Infinity)

 

 生産の転換が、国家主導というよりは、自動車メーカーの主体的対応に読める記事である(注:1)。更に、

 

  テスラのイーロン・マスク氏は宇宙航空産業のスペースXに関して「ただちに人工呼吸器の製造を始める用意がある」ともツイートしている。またジャガー・ランドローバーも英政府に対し同様に人工呼吸器の製造により政府を支えることができる、としている。

 

と、米英での企業による対応への言及が続く。現在ではゼネラルモーターズの後に、

 

  米自動車大手フォード・モーター(F.N)は24日、新型コロナウイルスの感染者が重症化した場合に必要になる人工呼吸器などの製造を開始すると発表した。
     (2020/03/25 00:59 ロイター)

 

と、フォードも人工呼吸器製造への参入を発表していることが伝えられている(記事には「フォードは米ゼネラル・エレクトリック(GE)(GE.N)のヘルスケア部門と米複合企業スリーエム(3M)(MMM.N)と提携し対応する」ともあるが、この二社も戦時期の軍需生産を担った経験を持つ)。

 

 土方氏は、先の記事中で、

 

  車と人工呼吸器といえば随分異なるように思えるが、自動車メーカーとしては生産する場所は確保できるし、プラスチック、金属、電子製品についての知識もある。今がウィルスとの戦時中、という認識で全社を挙げて政府に協力する体制を整える、というのだ。
  例えば第二次世界大戦中に米国の自動車メーカーはジープなどの軍用車、戦車、B24戦闘機などを生産していた。つまり車を作る技術は他の軍事用品、今回の場合は医療機器に応用することは可能なのだ。

 

と、第二次世界大戦中の自動車メーカーの経験について解説している。当ブログでも、戦車を生産するクライスラー(「クライスラーの戦車」参照 )と四発重爆撃機(土方氏は「B24戦闘機」と記述してしまっているが、フォードが生産した「B24」は「戦闘機」ではなく大型の爆撃機である)を生産したフォード(「フォードの爆撃機、あるいはロージーのリベレーター」参照)を取り上げている。

 

 何か感慨を覚えざるを得ないのが、米英=かつての連合国だということである。枢軸(われらが日独伊)を物量で打ち負かした連合国の戦時生産体制の経験が、今回の新型ウィルスの対応にも確かに反映されているように見えてしまう。安易に図式化しようなどとは思わないが、かつての連合国=米英での生産転換のスピード感、そこでの企業の主体性のあり方の背後に、やはり私は「先の大戦」の経験を見てしまうのである。

 国家主導により国家の指示命令に従うというよりは(ロイター記事中には「国内自動車メーカーに対し、他の産業と提携し新型ウイルスの感染拡大への対応で必要な機器などを製造するよう」とのトランプ大統領による「呼びかけ」も記されているし、実際に大統領は「国防生産法」の発動を発表してもいるが―注:2)、企業が主体的に動く姿(米国の「お上」としてのトランプには見えない)。上位の存在として指示命令する「お上」としての「お国」があり、その命令(国策発動)を待って民間が滅私奉公で国家統制に従うのとは異なる社会の在り方。何か人々の血肉となっているからこその人工呼吸器製造への、スピード感ある生産転換の試みに見えてしまうのである(イタリアは新たな人工呼吸器生産どころではない悲惨な状況であり、「指導者原理」による全体主義の故国ドイツの自動車メーカーによる人工呼吸器生産への転換の報道はないし、滅私奉公の皇道精神自賛の果てに敗戦を迎えた日本も同様である―報道で伝わる限りの話ではあるが、メーカーも生産転換に名乗りを上げず、国家も指示していないのが枢軸の現状である)。

 

 

 連合国称賛だけに終わらせずに、わが帝國の末裔の現在についても記録しておきたい。

 

  シャープは24日、マスクの生産を開始したと発表した。価格は未定で、販売先は政府と調整中。新型コロナウイルスの影響で品薄が続くマスクの安定的な供給に貢献したい考え。
     (2020/03/24 14:42 時事ドットコムニュース)

 

 日本の家電メーカーだって頑張っているのである。確かに人工呼吸器生産への転換に比べ、技術的ハードルの高さは低いかもしれない。しかし、日本国民の多くが必要だと考えているのは人工呼吸器ではなくマスクなのも確かなのである。

 マスクで新型コロナ感染が十分に防げるものであるならば、技術的ハードルが高くそれだけ時間も要するであろう人工呼吸器生産を目指すよりはマスクの生産を優先することは合理的判断ではあり、国家の戦略としては間違ってはいない。しかし、国家レベルでそのような比較考慮がされていたのかどうか? 現在のところ、私の読んだ限りの報道からは判断のしようがない。

 

 

 

【注:1】
 土方氏は、

  自動車メーカーにとって、このような形で工場を再開できれば15万人を超える国内の自動車関連労働者に職を与え、生活を支えることができる、という点も大きい。もちろん労働者側からは職場での感染の危険性など疑問点も呈されるだろうが、シフトを減らす、各労働者の物理的距離を保つ、など企業側が提供できる予防策も当然講じられることになる。

とも記し、現実に進行しつつある人工呼吸器不足による死者の増加の可能性を前にしての、閉鎖された自社工場による人工呼吸器生産が、新型コロナウィルス感染による工場閉鎖によって企業とその労働者にもたらされた不利益の解消にも役立つとのメーカーサイドの認識を示している(滅私奉公を志願しているわけではない)。
 感染者の救命に役立つと同時に企業の利益にもつながる、ということなのである。

 

【注:2】

米大統領、「国防生産法」発動 医療物資の確保優先―新型コロナ

  トランプ米大統領は20日、新型コロナウイルス感染拡大に伴う医療物資の不足に対応するため、民間企業に調達や増産を促すことができる「国防生産法」を発動したと正式発表した。国家の危機対応を「最高レベル」まで引き上げたと強調。非常事態に認められた特別な権限を行使し、肺炎治療に欠かせない人工呼吸器やマスクの確保を急ぐ。
     (2020/03/21 06:39 時事ドットコムニュース)

 同記事には、「国防生産法は朝鮮戦争開戦の1950年に成立。物資の調達や増産、賃金、物価統制に至る幅広い権限を大統領に認めて」いるとの記載もある。

 ちなみに、朝鮮戦争と人工呼吸器の普及には関係がある。

  第2次世界戦争(1940~1945)において成層圏を征服するために、各国において高々度用の呼吸マスクを考案し、これが朝鮮戦争(1950~1953)中に、医療として用いられるようになり、”人工呼吸器”(respirator)として完成し、麻酔学の発展に大きく寄与することとなった。
     (高木健太郎 「現代における生と死」 1984 日本内科学会特別講演)

 ここには「”人工呼吸器”(respirator)」とあり、冒頭で引用した記事では「ベンチレータ(人工呼吸器) 」とあるが、医療関係の用語辞典には「レスピレーター:人工呼吸器のことをいう。最近は、ベンチレーターと呼ぶことが多い」などと書かれているので、どちらも同じと考えて問題はなさそうである。「脳死」状態が人類の歴史に登場するのも、朝鮮戦争時の人工呼吸器の普及の思わぬ果実であったことも申し添えておこう。

 皮肉な話だが、現在では、朝鮮戦争の戦線の向こう側で米国と戦っていた中国が人工呼吸器生産でも大きな地位を占めるようになっているようである。

  中国の医療機器メーカー、北京誼安医療系統は1月20日以来、24時間体制が続く。
  同社の工場ラインは2週間前に国内のニーズを満たした後、外国からの人工呼吸器の注文に全力で取り組んでいる。3交代制で、研究開発部門のスタッフまでも生産ラインで働く中、同社の機械は休みなく稼働している。
     (2020/03/24 15:16 Bloomberg)

 この Jinshan Hong 氏と Dong Lyu 氏による記事には、

  人工呼吸器を製造するために時間と闘っている中国企業は同社だけではない。
  中国の医療機器企業間取引(B2B)プラットフォーム、貝登医療のサプライチェーン担当ディレクター、ウー氏は「中国の全ての人工呼吸器工場は最大生産能力に達し、外国からの需要で完全に手一杯になっている」と述べた。工場のフル稼働は5月まで続くと同氏は予想している。
  人工呼吸器の需要があまりにも多いため、トランプ米大統領は自動車メーカーの人工呼吸器生産に向けた工場改築を容認した。
  トランプ氏は22日のツイートで、フォード・モーターやゼネラル・モーターズ(GM)、テスラに人工呼吸器を製造する許可を与えたと明らかにした。
  ただ、企業が迅速に生産を増やせるフェースマスクや体温計とは異なり、人工呼吸器は参入障壁がより高く、急速な生産拡大はもっと困難だとウー氏は指摘。「生産ラインの拡張は非常に時間がかかり、資源を要する。人材育成も必要で、あまりにも手間がかかる」と説明した。

とも記されている。今後、米国の自動車メーカーは人工呼吸器生産への技術的ハードルをクリア出来るのであろうか?

 米国だけでなく中国もまた、連合国の一員であったことを思い出してみれば新たな感慨を呼ぶ。感染症に翻弄される世界の中に、現代史が凝縮されている様を見ているようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2020年2月29日 (土)

三国同盟危うし!

 

 ここで「三国同盟」と呼ぶのは、昭和15(1940)年に締結された「日独伊三国同盟」のことである。

 たまたま、戦前(大正期)から戦中に発行されたグラフ誌『歴史寫眞』(注:1)の第350號(昭和17(1942)年7月號)を手にしていた際の発見について記す。

 

19427

 

 これが表紙だが、保存状態は悪く、前の所有者によってビニール紐を用いて綴じられている(サイズは横型のA4)。

 昭和17(1942)年の7月号とあって、対米英開戦後のまだ皇軍が有利に戦線を拡大しつつあった時期の(浮かれた)気分が伝わる表紙であろう(現実にはまさにミッドウェー海戦による主力空母喪失と重なる時点ではあるが)。

 「皇風萬里和氣藹々」の文字からは、日本軍による占領下の東南アジア地域の人々が、白人国家による植民地支配から「解放」された喜びの中にいるのだとの認識が伝わる。実際、表紙裏の「本號概要」を見ると、表紙写真については「朗らかに踊つて皇軍勇士を犒ふジャバの娘達」とあり、他のページにも「早くも南海の島に開かれた果物市場」、「明朗ビルマの近況」、「皇風萬里、和気藹々のビルマ」といったタイトルの写真が並ぶ(実際にページを繰ると「皇風一過和氣藹々のビルマ(住民欣然、我に協力す)」といった写真記事もあるし、「しやはせな中國人」なるタイトルのページもある)。「大東亜共栄圏」の実現が現実化したと思われていた時期の「しやはせな」日本国内向け・日本人向けの記事ということになろうか。

 

19427_20200229114801

 

 あくまでも「概要」であり、詳細な目次とはなっていない(詳細な目次は存在しない)。

 裏表紙裏は「大東亞戰暦」と題されたページとなっており、「自五月十六日至六月十五日」の各戦線での日本軍の「戰暦」が示されている。

 

1942

 

 6月4日から7日にかけては、ミッドウェー海戦で日本海軍は空母4隻と艦載機290機の喪失という打撃を受けているのだが、「戰暦」にはまったく反映されていない。

 一方で、「概要」では「口絵」と分類されたページに「相次ぐ我海軍の捷報」と題された写真と絵画で構成された記事がある。

 

1942_20200229173801

 

 「ミツドウエイとマダガスカル」とのサブタイトルが付され、「更に又、六月五日には太平洋の中心に於けるアメリカ唯一の海軍根拠地ミツドウエイを強襲し、同方面に増援中の米國艦隊を捕捉して猛攻を加へ、忽ちにして空母“エンタープライス”型一隻、同“ホーネツト”型一隻及び甲巡“サンフランシスコ”型一隻を撃沈、その他敵機百五十機を撃墜した。寫眞の①は海洋画畫家松添健畫伯の筆に成るミツドウエイ海戦の圖で、右は“エンタープライス”左に黒煙を上ぐるは“ホーネツト”上空は彼我の壮烈な空中戦である」との説明が付されている。しかし残念ながら、水増しされた戦果であった(米海軍の実際の損害は空母ヨークタウンと駆逐艦ハムマンの喪失。米国側の戦死者307名に対し、日本側の戦死者は3057名)。

 「概要」では示されていないが、「獨逸は斯く戰ふ」と題されたページがある。

 

1942_20200229121201

 

 アフリカ戦線の上空を飛行する戦闘機の「カモフラージュ」の紹介と、東部戦線での「スターリングラードの攻防戦」の行方について記されている。後者については「スターリングラードの攻防戰は既に半歳に及んでゐるが、未だ完全占領とまでは行かず、獨逸軍は冬将軍到来前に、斷呼是を攻略すべく全力を傾注してゐる。寫眞は即ちス市に突入したる獨軍歩兵部隊が、猛火を潜つて敵陣に殺到する光景である」とのキャプションが付されているが、冬将軍到来前の攻略は叶わず、翌43年2月にスターリングラード攻略に当たったドイツ軍は降伏するに至った。同じ1943年の5月には、アフリカ戦線の枢軸軍も降伏する(そして7月には連合軍はイタリアに上陸してしまう)。しかし1942年の7月の時点ではまだ先の話であり、希望的観測も成立し得たのである。

 

 さて、日独伊三国同盟であるが、私は『歴史寫眞』の裏表紙(注:2)に注目することになった。

 

19427_20200229123201

 

 「世界日誌」のタイトルの下、「大東亜戰暦」と同期間内の国際情勢が記されている(ただし冒頭は金子堅太郎の死去を伝える記事である)。「大東亞戰暦」のバックは、海軍の水上機と艦上に翻る旭日旗。一方、「世界日誌」のバックは、日章旗とイタリア国旗とハーケンクロイツ…と思ったら卍(マンジ)である(「獨逸は斯く戰ふ」ページの右下の垂直尾翼写真のマーキングが正しい向きを示す)。何より重要な同盟国であるはずのナチス・ドイツのシンボルたるハーケンクロイツ(スワスチカ)が裏返しになっているのであった。

 あぁ、三国同盟危うし!!!

 

 

 

 【注:1】
 研谷紀夫氏は「Digital Cultural Heritage を用いた大正期のグラフ雑誌「歴史写真」の分析とその課題」と題された論考(2014?)の中で、

 雑誌「歴史写真」は実業家秋吉善太郎(1866-1924)によって、今から百年前の大正2(1913)年に創刊され、戦中まで発行されていた定期刊行物である。同誌は20~30ページ程度の誌面で構成され、1ページに1枚の割合で、およそ2週間~2ケ月前におきた出来事の写真を掲載している。写真の被写体は多岐に渡り、国内外の事件や災害、戦争に至るまで様々な話題を対象としていた。
 本雑誌が発行された大正の初期は、写真帖が多数発行された明治時代と、「アサヒグラフ」や「写真週報」などのグラフ雑誌が発行される大正後期以降の中間の時期にあたり、同誌は両者の橋渡しをする役割を担う位置づけにある。

と整理している。
 実際、表紙を含めカラーページも多いが、写真が貼り込みによる掲載(誌面への直接の印刷ではなく)となっているページも多く、写真帖からの流れを感じさせられる。見開き両ページを使ってのレイアウトはなく、フォトモンタージュによるダイナミックな紙面構成も見られず、『フロント』に至る写真グラフ雑誌とは一線を画している印象を持つ。

【注:2】
 裏表紙には、もともとの購入者であろう、大阪市に住所がある「国際情報支社」の印が押されている。

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2020年1月 5日 (日)

戦時下のミッキー

 

(ミッキーとガスマスク、そして陸軍九〇式大空中聽音機)

 

 

 年賀状をデザインするに際し、必ずしも干支にちなむというわけではないが、昨年末(つまり年賀状デザインについて思いを巡らす時点)には、ネズミネタ路線に向かっていた。

 

 で…

 Photo_20200105172501

 

我ながらびっくり(私はディズニーファンではない)のミッキーマウス・モチーフである。枢軸国―もちろん我が大日本帝國も含まれる―による毒ガス攻撃から子供たちを守るためのガスマスクに施されたミッキーマウス・デザインなのである(後述)。しかし、あまりに不吉なイメージではある。親しい友人たちには確実にウケると予想されるが、私との付き合いが深くない方々には刺激が強過ぎるとも思われた。

 

 そこで…

Photo_20200105172601

 

対米英開戦に先立つ時期、日本人の誰も著作権なぞ気にしない時代の日本産ミッキーの年賀カード(右から左に「アケマシテオメデタウ」とある)である。ミッキーマウスにしか見えないキャラは、日本軍のために活躍しているのである(ミッキーたちが操作しているのは日本陸軍の九〇式大聴音機―詳細は後述)。

 

 

 

 まず取り上げるのは不気味感全開のミッキーマウス・ガスマスクについてだが、1941年12月の真珠湾攻撃の衝撃の渦中の米国でデザイン(ウォルト・ディズニー)され、実際に製造(サン・ラバー社)されたものだという。ミッキーマウスをモデルとしたデザインは、ガスマスク装着時の恐怖感を和らげるはずであった(ゲーム感覚で装着訓練を重ねられることが期待された)。

 日本軍による米国本土への毒ガス攻撃が、現実的脅威として迫っているように感じられていたのである(太平洋には日本軍、加えて大西洋側の海面下にはドイツのUボートが潜行し攻撃の機会を窺っているものと考えられた)。

Children-were-given-mickey-mouse-gas-mas

 (During WW2 Walt Disney designed a Mickey Mouse gas mask for children, in the hope that they would not be frightened if they had to wear it. /41strange / twitter.com)

 

 実は、米国製ミッキーマウス・ガスマスクには先立つ存在があった。既に1939年以来ヨーロッパは戦場となっており、大陸諸国はドイツの占領下となり、残された英国も侵略されようとしていた。第一次大戦での毒ガス攻撃による悲惨は人々の記憶にあり、ドイツによる爆撃が現実となった英国でも、毒ガス攻撃からの市民防護が課題となっていた。市民にもガスマスクが配布される中で、子供用のガスマスクも用意されたのである。英国政府の用意したガスマスクはミッキーマウスにはまったく似ていなかったが、ミッキーマウスの名で呼ばれることになる。幼児の喜びそうな仕掛け(鼻が伸びる)も組み込まれた楽しげな色使いのマスクであった。要するに、幼児にも抵抗なく装着されることが目論まれてのデザインということである。

British-government-issued-childs-gas-mas

  British Government issued child’s gas mask.Circa. 1940 / cartoonresearch.com)

 

 もっとも、1943年生まれのエリック・アイドル(あのモンティ・パイソンのメンバー)の記憶によれば、ガスマスクの装着は、おぞましい体験であったようだ。ゴムの臭いは耐え難いものであり、以来、エリック・アイドルにとってミッキー・マウスとスキューバダイビングは苦手なものとなったという(『エンパイアマガジン』の2019年1月号の記事にあるらしい)。ガスマスクの装着は容易でも快適でもなく、フィルターを通しての呼吸はそれだけでも息苦しいのに、強烈なゴムの臭いの中に閉じ込められるのである。

 

 英国政府が支給した子供用ガスマスクはミッキーマウスには似ていなかったが、そのネーミングはロンドンのディズニー・オフィスに受け入れられた。この幼児向けガスマスクをめぐる英国でのエピソードは、のちに米国製ミッキーマウス・ガスマスク製造会社となるサン・ラバー社の社主であるT.W.スミスにより米国にも伝えられた。1942年1月には、ウォルト・ディズニー自ら掲げるデザイン画と共に軍の市民防衛部門と科学戦部門、産業部門の責任者が並んでの記念撮影がされている。

 デザイナーのディートリッヒ・レンペルとバーナード・マクダーモットにより、ディズニーによるデザインは立体造形化され、実際にサン・ラバー社で製造されることになった。ミッキーマウスに加え、プルートや三匹の子豚タイプのガスマスクもデザインされたという。サン・ラバー社は、様々なゴム製品(玩具から文具、医療器具、そして軍需製品まで)の製造に従事しており、子供用の玩具もその一つであったが米国の参戦と共に玩具製造を中止していた中でのエピソードである。

 

 真珠湾攻撃の衝撃は大きく、やがてあるかも知れない枢軸国による米国本土への毒ガス攻撃への対処も米国の政治家の課題となった。当初、ニューヨーク市長のラガーディアは、市民の安全のためには5000万個のガスマスクが必要だと主張した。そんな中での子供用ミッキーマウス・ガスマスクなのである。

Mickey-mouse-gas-mask-for-children-wwii4

 (45th Infantry Division Museum Oklahoma City Oklahoma / tripadvisor.jp)

 しかし、ミッキーマウス・ガスマスクの生産は戦争の全期を通して1000個前後で終わることとなった。実際に広く供給されたのは子供用のM1-1非戦闘員用ガスマスクであった(ただし幼児用としてのデザイン的な配慮はない)。時間と共に戦況は米国に有利となり、毒ガス攻撃の可能性も減少していく。非戦闘員用ガスマスクは最終的に30万個が供給されたとされるが、それが子供用だけの数字なのか大人用も含む数字なのかは(私の目を通した範囲では)判然としない。

 戦後もディズニーとサン・ラバー社の関係は続き、ライセンス契約の下でのサン・ラバー社のゴム製ディズニーキャラ・フィギアが製造されたという。

 米国本土においても英国においても、対戦国による毒ガスを用いた攻撃を経験することはなく戦争は終結を迎えた。ガスマスクが実際に用いられることはなく、装着したガスマスクが市民の生命を救う場面もなかった。が、英国ではガスマスクのフィルター部に用いられたアスベストによる健康被害が報告されているという。製造工程に従事した労働者が、アスベストの犠牲となったというのである(エリック・アイドルの幼児体験の中のガスマスクにもアスベストは用いられていたはずである)。

 約1000個という製造数のミッキーマウス・ガスマスクは、現在のコレクターにとっては入手困難なレアなアイテムとなっているらしい。限られた生産数であったことに加え、ゴムという劣化のしやすい材質の製造品であることが、コレクターにとっての入手難易度を高めているようである。入手難のミッキーマウスの本家(?)の米国製ガスマスク現存品に比して、ミッキーマウス・ガスマスクの元祖的存在である英国政府供給の現存数はそれなりに多いらしく、オークションサイト等に出品されている現存品を画像検索で確認出来る。

 

 

 

 そもそもは戦時期のミッキーマウスを用いたプロパガンダへの関心、特に戦前のわが大日本帝國でのミッキーの活躍への関心から、そして年賀状作成という課題から、「mickey mouse ww2 japan」なんて検索語でネット上の画像チェックをしたところから始まった話である。わが大日本帝國の戦前期におけるミッキーの活躍ぶり(要するに著作権なんか関係なし)に感心していたら、件の米英のガスマスク画像も発見。迷うことなく年賀状デザインに採用したわけだが、やはりあまりに不吉感が大き過ぎる。で、あらためていろいろ画像検索を進めるうちに、ミッキー(にしか見えない)キャラの活躍する、しかも軍事色あふれる年賀カードを発見したのであった。近頃は年賀状が流行らなくなりつつあるが、戦前のアメリカン・アニメキャラ・カード類には年賀モードのものも多くみられる。ベティーとミッキーが一緒になって「アケマシテオメデタウ」、なんて展開である。

 そんな中から、オークションサイトで$150の値で売りに出されていたのが、仮に「防空ミッキー」と呼ぶことにしたカードである。

1930-disney-mickey-mouse-war-postwar-vin

 (1930 Disney Mickey Mouse War & Postwar Vintage Japanese Postcard Very Rare Sold Price: $150 / antiquesnavigator.com)

 

 手前にあるミッキーに囲まれている巨大金管楽器のような装置が、侵入する敵機の爆音を捉えて位置を探るための聴音機。遠くの地平線上には日章旗が翻り、空には低翼単葉引込脚に見える日本軍戦闘機らしき姿。さて、ミッキーはどちらの側にいるのであろうか?

 

 で、あらためて聴音機に注目すると…わが陸軍の九〇式大聴音機であることが判明(写真画像からすると、防空ミッキーカードはかなりリアルな描写となっていることがわかる)。

Photo_20200105213901

 (九〇式大聴音機/Wikipedia)

 

 画像をいただいたウィキペデイア先生によれば「九〇式大空中聴音機(きゅうまるしきだいくうちゅうちょうおんき)は1932年(昭和7年)に日本軍が採用した音響探知装置である」という、日本陸軍の防空用音響探知兵器である。ミッキーマウス部隊が運用しているのはわが帝國陸軍自慢(?)の防空システムに組み込まれた音響探知装置なのであり、となるとミッキー部隊は日本陸軍に所属していることにならないか?

 

 手元にある陸軍航空本部第二班編纂の『最新 世界航空大観』(厚生閣 昭和6年)の第四章は「國土防空」となっており、その「三 防空法(一)―積極的防空施設」に「F 聽音機」の項がある。

  さて聽音機は敵機上より發する爆音を聽取してその方向を判定するものであるから、その配置が適當でない場合には友軍戰闘機の妨害を受けて、遂に敵機の標定不可能となり、或ひは誤つて友軍戰闘機を標定することになる。それ故に照明地帯の前方に出来れば特に警戒地帯を設け、その中に聽音機を配置して敵機の航路を第一戰の照空燈に知らしめ、戰闘地帯の照明實施を成るべく早く行はせ、待機地帯内には聽音機を絶對に配置しない方を有利とする。而してこれらの聽音機を如何なる距離間隔をおいて、いかなる位置に配置すべきかは聽音機そのものの聽音圏等の性能に左右されることが多く、これらには總べて聽音機専門家の研究に俟つこととしよう。
     (175ページ)

このように説明されているが、再びウィキペディア先生を参照すると、

  聴音機とは飛行する航空機の音を捉え、その位置や移動方向を割り出すものであるが、より探知精度の高いレーダーの実用化で姿を消した。しかし、電波探知機(レーダー)による捜索技術で欧米等から後れを取っていた日本では、太平洋戦争終戦間際まで使用され続けた。好条件下では、約10km先の目標を探知可能であった。 

とされている。ウィキペディア先生の「聴音機」の項には、

  空中聴音機は方向と高低を特定するためにラッパや反射鏡のような集音装置を備え、音を導音して受音器で聞き取った。音源の方向と高低の特定は、音を聞き取る操作員が、音響が正面から来ていると感じ取ることで行われた。しかし、音響は気象条件、湿度、温度、風向等の条件によって大きく変化した。また雨天の際には集音部のラッパに水がたまるため、点検して除去する必要があった。
  聴音によって特定できる航空機の位置は常にずれている。数キロメートル離れた場所からの音波は、聴音するまでに数秒がかかり、その間に航空機は聴音によって特定された位置から離れている。照空、射撃に用いるには、この誤差を修正する必要があった。

とある(『ウィキペディア』の信頼性という問題は常にあるが、『ウィキペディア』に全面的に依拠するのではなく、記述を批判的に読んだ上で利用可能と判断した記述は利用するのが私の姿勢である)。

 昭和10年代後半には時速500キロを超える高速の軍用機が主流となっていく中で、「好条件下」でやっと10キロ先の目標が探知可能(ただし「数キロメートル離れた場所からの音波は、聴音するまでに数秒がかかり、その間に航空機は聴音によって特定された位置から離れている 」のである)という「積極的防空施設」なのであった。

 ところで、『最新 世界航空大観』には、「聽音機」の画像も掲載されている(176ページ)。

Photo_20200105221701

 上が「喇叭形聽音器」で下が「蜂巣形聽音器」となっているが、この「喇叭形聽音器」は、形状からして九〇式大聴音機のように見える(掲載写真の「喇叭形聽音機」の向きは、ミッキー部隊が操作しているものにも重なる―左右に並ぶ向かって右側の「喇叭」と左側中段の「喇叭」による「聴音」で進入する敵機の左右水平方向での位置を判定し、左側の上下段の「喇叭」を用いた「聴音」により上下垂直方向での進入機の角度を測る)。車輪は外されているが、全体のサイズ、「喇叭」の形状、喇叭を支える支柱の形状を見ると、ほぼ九〇式聴音機そのものではないか。軍による採用は昭和7(1932)年とされているが、昭和6(1931)年の時点で、陸軍航空本部第二班編纂の『最新 世界航空大観』には写真が掲載されていたものと考えられる。「九〇式」とは「皇紀2590年式」を意味し、すなわち昭和5(1930)年であるから、「年式」の年号と「採用」の年号、そして掲載写真の書籍発行年号の異同という細かいところにも、つい眼が向いてしまう(本文は「聽音機」で写真キャプションでは「聽音器」であるところにも)が、要するに1930年代の日本軍の「積極的防空施設」を操作しているのがミッキーマウスという話なのである。

 後方上空の低翼単葉引込脚の戦闘機らしき軍用機(両翼に記された国籍マークからして軍用機であろう)からすると、実際に日本陸海軍が低翼単葉引込脚の戦闘機を配備するのは1940年以降となるので、イラスト作者がリアルな描写を心掛けているとすれば、この防空ミッキー年賀カードも1940(昭和15)年以降に販売されたもの(雑誌の附録であった可能性もある)であるかも知れない(翌昭和16年12月には真珠湾攻撃による対米開戦となるので、このミッキーマウス・デザインでは昭和17年の年賀状には使えなくなってしまっていただろう)。

 

 

 

 以上、今年の年賀状をめぐるあれこれである。

 

 

 

 

【主な参照先】

 終末感漂う、戦時中の子供向けガスマスクとそれを付けた子供たちの古写真 / カラパイア
  http://karapaia.com/archives/52229440.html

 The Mickey Mouse Mask By Major Robert D. Walk
  http://www.gasmasklexikon.com/Page/USA-Mil-Mikey.htm

 Did you know Walt Disney designed the world’s weirdest gas mask? By John Kelly
  https://www.washingtonpost.com/local/did-you-know-walt-disney-designed-the-worlds-weirdest-gas-mask/2015/09/12/885be808-57d8-11e5-8bb1-b488d231bba2_story.html

 The Mickey Mouse Gas Mask— Used in Name and Design During WWII By Dave Bossert
  https://cartoonresearch.com/index.php/the-mickey-mouse-gas-mask-used-in-name-and-design-during-wwii/

 Gas Masks in the Second World War killed more people than they saved By John Simkin
  https://spartacus-educational.com/spartacus-blogURL124.htm

 “"Mickey Mouse" Gas Mask For Children WWII”
  https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g51560-d117287-i181179932-45th_Infantry_Division_Museum-Oklahoma_City_Oklahoma.html

 九〇式大聴音機 / ウィキペディア
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E3%80%87%E5%BC%8F%E5%A4%A7%E8%81%B4%E9%9F%B3%E6%A9%9F

 <骨董品シリーズ その62>空中聴音器 / 小林理研ニュースNo.96_3
  http://www.kobayasi-riken.or.jp/news/No96/96_3.htm

 日本の空中聴音機(Japanese Sound Locator)
  http://www17.big.or.jp/~father/aab/kikirui/soundlocator.html

 かつて戦時中に使用されていた、音波で対象物の位置を捕捉する「空中聴音機」の歴史 / カラパイア
  http://karapaia.com/archives/52068069.html

 

 

 

 



 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2019年12月29日 (日)

東ドイツ建国70年目の「ドイツ民主共和国40周年記念勲章」

 

 2019年も残り数日となってしまったが、数日前に遡る話である。

 2019年は東ドイツ(ドイツ民主共和国)の建国70周年に当たる(「2019 70JAHRE DDR (幻の東ドイツ建国70年)」参照)。しかし、建国70周年の国家的祝賀行事を主催するべきドイツ民主共和国は、ご存じの通り、既に存在しない。1990年の建国41周年を迎えることなく、統一ドイツの名の下に、ドイツ民主共和国(東ドイツ)は消滅したのであった。それから30年が過ぎようとしている。

 そんな2019年の年末、たまたま、ネット検索で調べものをしていた際に、ネットショップで「ドイツ民主共和国40周年記念勲章」が販売されているのを発見したのである。

 で、迷わず購入してしまった。1989年、10月7日の建国40周年記念式典から1か月もたたないうちに、式典の主宰者であったホーネッカーは失脚し、ホーネッカーが築いたベルリンの壁も崩壊してしまう。その間際というか、短い時間の中で制定(1988年10月14日)され授与(1989年10月7日)された「ドイツ民主共和国40周年記念勲章」なのである。

 

 白いプラスティックのケース入りだが、フタとケースが別になっているスタイルではなく、フタとケースは蝶番により一体化されている(これまで入手した東ドイツの勲章・記賞類は、フタとケースが別のスタイル―弁当箱のような―であった)。しかもフタ側とケース側の両方が赤いフェルト敷きとなっている。特にコレクターというわけではないし、手元にある勲章・記章類の数も限られているので、どちらもどこまで一般的なスタイルなのかはわからない。

 1989年から30年が過ぎるわけで、その年月を反映してか、台のフェルトには小さな穴(虫食い?)があるし、メダルの表面にも黒く変色した部分がある。その一方で、いわゆる「使用感」はなく、「新品」の印象である(授与された建国40周年記念勲章は瞬く間に亡国記念章と化してしまい、佩用する場もなかったということでもあろうが)。裏面には「FÜR VERDIENSTE UM DIE DEUTSCHE DEMOKRATISCHE REPUBLIK」との銘があるので、授与されたのは国家に対する貢献が認められた人物ということになる。制定者はホーネッカーだというが、その制定者が失脚するような状況(1989年10月17日の政治局会議で解任動議)の中で、どのような規模で叙勲されたのであろうか?

 授与された者が手放したものなのか、授与の機会を失いデッドストック状態で倉庫にしまい込まれていたものなのか? いろいろと気になるが、とりあえずは入手の記録として2019年の最後の記事をアップしておこうと思う。

 

 

 

Img_6265

Img_6333-4

Img_6260

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2019年12月18日 (水)

國號尊重ニ關スル件(「日本・ニホン・ニッポン」資料編)

 

 前回の記事(「日本・ニホン・ニッポン」)では、我が国としての「日本」は、「ニホン」なのか「ニッポン」なのかについて取り上げた。その際に、「戦前、国体明徴論が盛んなころの国名呼称をめぐる議論」に言及したが、今回は「資料編」として、当時の議論の実際を紹介しておきたい。

 用いるのは、「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B02031473200、本邦国号及元首称呼関係一件 第一巻(外務省外交史料館)」である。タイトルには「附録 帝國議會ニ於ケル請願建議及議事録抜粋」とあり、

 (一) 我カ國國號ノ統一顕正稱呼使用ニ關スル建議(第五十二議會衆議院)
 (二) 我帝國國名ノ稱呼使用ニ關スル建議案(第五十九議會衆議院)
 (三) 我カ帝國國名ノ稱呼使用ニ關スル質問主意書(第六十三議會衆議院)
 (四) 國號尊重ニ關スル件(第六十五議會貴族院)
 (五) 我カ帝國國名ノ稱呼使用ニ關スル建議案(第六十七議會衆議院)

という構成となっている。昭和2(1927)年から昭和10(1935)年に及ぶ期間の、国名呼称に関する議会での論議を概観するために外務省内で作成された文書であろう。中でも「(四) 國號尊重ニ關スル件(第六十五議會貴族院)」(昭和9年2月19日)は、貴族院における実際の議論を伝えるものとなっており、今回はその全文を紹介しようと思う。原文の雰囲気を伝えるために漢字はなるべく旧字体(舊字體)を用い、歴史的仮名遣いによるカタカナ表記(假名遣ヒ)によるものとする。濁音の表記が、たとえばそのまま「ガ」となっている部分と、濁音であるにもかかわらず「カ」と表記されている部分、促音の表記が「ッ」である部分と「ツ」である部分等が混在しているが、当時の文書作成者(複数の可能性がある)による正書法理解の問題あるいは和文タイプ操作の技量の違いによるものという可能性も考え、その努力の程を伝えるためにも、原文表記を可能な限り(タイプミスと考えられるものも含め)尊重しておくこととした。その分、読みにくさも増していると思うが、そんな文面を通して、コピペ処理の存在しない時代の和文タイプ文書作成者の負担の大きさを読み取ってほしい。

 「國號尊重ニ關スル件(第六十五議會貴族院)」をネット検索しても、ヒットするのはアジア歴史資料センターの(読みづらい)画像資料のみである現状(注:1)があり、この貴族院におけるやり取りを味わうのは難しい。そこで、あえて文字起こし作業にトライした次第である。

 また、貴族院でのやり取りの中で「政府委員」として活躍している金森徳次郎は、この後に岡田内閣の内閣法制局長官(1934年7月10日-1936年1月11日)となるが、国体明徴論全盛の中、「天皇機関説論者」として排撃されることとなった。戦後、現憲法制定時の国会において「当時の金森国務大臣は「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは、通念として認められている」として、国名呼称の統一を退けている」(奥野昌宏 中江桂子 「メディアと「ニッポン」―国名呼称をめぐるメディア論」 2011)金森徳次郎が、国体明徴論全盛期の貴族院における政府委員として問題をどのように切り抜けようとしていたのか? 深く味わう機会を提供したい。便宜のために、その主張の核心部分を引用しておく。

  サウ致シマスルト、色々ナ考ヘ方モ出来ルノ(ママ)思フノデアリマスルガ、一番國家ノ根本法トシテ示サレテ居リマス所ノ憲法ハ大日本帝國憲法ト示サレテ居リマスルガ故ニ、「ダイニッポンテイコク」ナル呼稱ガ國家トシテ最モ立派ナ言葉デアルヤウニ考ヘマス、併ナガラ憲法自身ノ中ニ於キマシテ既ニ「大」ノ字ヲ取リ、帝國ノ「帝」ノ字ヲ取ツテ「日本臣民権利義務」或ハ「日本臣民ハ」ト云フ言葉ガアリマスルガ故ニ、憲法自ラモ其國號ヲ絶對ニ何方カニ據ラナケレバナラナイトサレテ居ル趣旨デハナカラウト思ヒマス、サウ云フ様ナ次第デアリマスルガ故ニ、現在ノ國名ノ言ヒ現ハシ方ハ傳統的ニ存在シテ居リマスル範囲内ニ於キマシテ、適當ナル場合ニ適當ナル字句ヲ選ンデ用フルト云フコトガ、、、、、、其當否ハ別ト致シマシテ現在普通ノ此絛約等ニ於テ言葉ヲ用ヒマスル時ノ心持デアル譯デアリマス。ソレカラ讀ミ方ニ付キマシテハ之ヲ「ニッポン」ト讀ムカ「ニホン」ト讀ムカ、是亦傳統的ニ發達シタル言葉ニ據ルコトガ正當デアルト思ヒマシテ、今色々ノ御説明ガアリマシタガ、固ヨリソレハ将来研究ヲ致シマスルケレドモ、現在ノ考ヘ方デハ之ヲ「ニッポン」ノミニ限定スルコトモ困難デアリ、「ニホン」ノミニ限定スルコトモ固ヨリ不當デアラウト思ツテ居リマス。詰リ發達シ来ツタモノデアツテ、人為的ニ發達シ来ツタモノデハアリマセヌガ故ニ、大體ニ其自然ノ發達ニ基イテ居ル、此美シキ言葉ヲ適當ニ又自然ノ推移ヲ伴ヒツツ、宜イ方ニ誘導シテ行クト云フコトガ正常ト考ヘテ居リマスガ故ニ、今仰セニナリマシタヤウニ「ニホン」ト云フ言葉モ、「ニッポン」ト云フ言葉モ各々淵源ガアリマシテ、サウシテ現ニ地名ニ置キマシテモ「ニホンカイ」ト云フ言葉モアレバ「ニッポンバシ」ト云フ言葉モアル譯デアリマシテ、之ヲ俄ニ何レニ確定スルト云フダケノ十分ナル研究ハ實ハ熟シテ居リマセヌ

 

 

 以下、「(四) 國號尊重ニ關スル件(第六十五議會貴族院)」の全文である。

 

 

 

(四)國號尊重ニ關スル件(第六十五議會貴族院)
   第六十五囘帝國議會貴族院請願委員第三分科會(内閣、司法省、逓信省、拓務省)
   議事速記第二號
       昭和九年二月十九日(月曜日)
○主査(男爵徳川喜翰君) 外ニ御質問ハゴザイマセヌカ、、、、御質問ハナイト認メマス。次ハ第百二十四號、國號尊重ニ關スル件、竝ニ第百三十二號ノ國號ノ稱呼確定ニ關スル件、之ヲ一括シテ問題ニ供シマス、島津公爵
〇公爵島津忠承君 第百二十四號、四(ママ)號尊重ニ關スル件、請願ノ趣旨ノ大要ヲ申上ゲマス「ダイニッポン」帝國ノ通稱ハ言フ迄モナク「ニッポン」デアリマス、然ルニ欧米人ハ之ヲ「ヤポン」「ジャパン」ナドト稱シテ居リマス、外國人ガ斯ノ如ク稱スルコトハ彼等ノ随意デアリマスケレドモ日本人自ラモ欧米人ニ對スル外交文書、國際用語、日常ノ会話等ニ於テ彼等ト同ジク是等ノ稱呼ヲ使用シテ居リマス、是ハ通商、交際ノ便宜ニ依ルコトデアリマセウケレドモ、畢竟多年ノ追従思想ニ基クモノデアリマシテ、甚ダ遺憾デアリマス、我國ハ現在國際聯盟ヲ脱退シマシテ迄モ本邦獨自ノ正常ナル國是ヲ世界ニ認識セシメントスル時ニ於テ我等國民ハ祖先ヨリ傳来セル「ニッポン」固有ノ精神ヲ作興シナケレバナラナイノデアリマス、此時機ニ於テ彼等外國人ノ使用スルガ儘ニ本邦人モ多年使用シテ居リマシタ「ジャパン」「ヤポン」等ノ言葉モ言語及文書ヨリ公私共ニ一掃シテ、海外ニ對シ、「ニッポン」ト云フ正當ノ稱呼ニ復帰セシムルコトハ國民思想上、文教上影響スルコトガ少クナイモノト信ジマス、ソレ故ニ政府自ラ「ジャパン」「ジャポン」等ノ呼稱ヲ廢止シテ「ニッポン」又ハ「ダイニッポン」ト正サレタイト云フ請願デアリマス、次ニ第百三十二號ノ國號呼稱確定ニ關スル請願ノ要旨ヲ申上ゲマス、従来我國ハ我國ヲ稱スルニ或ハ「ダイニッポン」帝國ト言ヒ、或ハ「ニホン」國ト稱シ、通俗ニハ「ニッポン」「ニホン」ト呼ンデ居リマス、而シテ外國人ニ於テハ或ハ「ジャパン」「ジャポン」ト稱シテ居リマスガ是ハ畢竟スルニ、我國名稱ノ確定シナイ結果ニ起因スルモノト云フベキデ甚ダ遺憾デアリマスカラ、國内ハ勿論外國ニモ我國ノ名稱ヲ正確ニ呼稱セシムルヤウ、決定サレタイト思ヒマス
〇主査(男爵徳川喜翰君) 此際チョット御諮リ致シタイト思ヒマス、第百三十二號、國號ノ稱呼確定ニ關スル件ノ紹介議員デアル一絛公爵ヨリ一應請願提出ノ理由ヲ説明イタシタイト云フ御申出デゴザイマス、之ヲ許可スルコトニ御異議ゴザイマセヌカ
   (「異議ナシ」ト呼フ者アリ)
〇主査(男爵徳川喜翰君) 御異議ナイト認メマス、一條公爵
〇委員外議員(公爵一條實孝君) 御許シヲ得マシテ第百三十二號ノ請願ノ件ニ關シマシテ紹介議員トシテ一通リノ御説明ヲ申上ケタイト思ヒマス、只今御擔當ノ島津公爵カラ御話ガアリマシタ様ナ請願ノ御趣旨デゴザイマスルガ、更ニ附加ヘテ申上ゲマスト、日本ト書キマシテ、之ヲ通俗ニ我々ノ間ニ或場合ニハ「ニッポン」ト呼ビ、更ニ「大」ノ字ヲ附ケマシテ「ダイニホン」トカ、「ダイニッポン」、又國ガ附キマスト「ダイニッポン」帝國トカ、或ハ「ダイニホン」國トカ、或ハ色々ニ呼バレルノデアリマス、私ガチョット調ベマシタダケデモ外交文書ニ例ヘバ稱シ奉ルノニ、「ラムプルール○デュ○ジャポン」ト書イテアル、「ニホン」國皇帝陛下、「サ○マゼステイ○ラムプルール○デュ○ジャポン」、「ニホン」國皇帝陛下ト書イテアルノモ拝見イタシマス、或ハ海軍ノ兵隊ノ帽子ノ「ペンデント」ハ「ダイニッポン」軍艦、是ハ「ダイニホン」ト常用ニ讀ミ得ルノデアリマセウガ、サウ云フヤウナ「ペンデント」ニナツテ居リマス、ソレ等ノ例ハ數ヘ擧ゲレバ澤山ニゴザイマセウト思ヒマスガ、要スルニ今日ノ日本ニナツテ、國ノ稱號ガ色々ニ亘ツテ居ル、之ヲドウゾ御確定相成ツテ、外國ニモ日本ノ正常ナル固有名詞ヲ呼バセルヤウニシテ戴キタイ、斯様ナ請願ノ趣旨デゴザイマス、何卒御審議ヲ御願ヒ致シマス、請願ノ趣旨ノ貫徹イタシマスヤウニ御願ヒ致シマス
〇主査(男爵徳川喜翰君) 尚ホ御諮リ致シ度ウゴザイマスガ、只今問題ニナツテ居リマス國號稱呼ニ關シテ、議員三上博士ハ夙ニ識見ヲ有セラレテ居リマスノデ、此際委員外議員ノ發言トシテ同博士ノ説明ヲ伺ヒタイト思ヒマス、御異議ゴザイマセヌカ
   (「異議ナシ」ト呼フ者アリ)
〇主査(男爵徳川喜翰君) 御異議ナイト認メマス
〇委員外議員(三上参次君) 此際一言イタスコトヲ許サレマシタノハ甚ダ光栄ト存ズル次第デゴザイマス、先刻島津公爵竝ニ一條公爵カラ御説明ノアリマシタノデ、今日日本國號ヲ一定シテ普ク外人ヲシテ之ヲ用ヒセシメルト云フコトノ必要ハ最早多言ヲ要シナイコトト思フノデアリマスルガ、私ハ年来此外國人或ハ「ジャパン」ト言ヒ「ジャポン」ト言フコトハ彼等ノ随意デアリマスガ、日本政府ガ外國ノ文章デ文字ヲ書キマス時ニ、同ジク外人ニ追随シテ「ダイニホン」トカ「ニッポン」トカヲ用ヒズシテ、「ジャパン」とか「ジャパニーズ○クラブ」ダトカ云フコトヲ言ツテ居ルノハ誠ニ不見識極マル話デ、實ハ日本ノマダ極メテ幼稚ナル時代、外交ニ於テ殆ド總テノコトニ於テ諸外國ニ追随外交ヲ致シテ居ツタ時ノ餘弊ガ今日マダ除カレテ居ナイ、或場合ハ(ママ)於テハ日本ガ世界ヲ「リード」シナケレバナラヌト云フ今日ノ有様ニナツテ居リマスルノニ、大事ナ自分ノ國號ガマダ一定セラレテ居ラヌト云フコトハ非常ナ不面目デアリマス、ノミナラス一歩ヲ進メテ言ヒマスレバ、我ガ國家ノ恥辱ト申シテモ宜シカラウト思フノデアリマス、此請願書ノ説明ヲ見マスルト云フト「ジャパン」ト云ヒ「ジャポン」ト云フ言葉ハ、元ノ時代ニ伊太利人ノ「マルコポーロ」ガ支那政府ヘ傭聘セラレテ居リマシタ男デアリマスルガ、ソレガ紀行文ヲ書キマス時ニ「ジパング」ト云フ言葉ヲ用ヒタノガ抑々始メデ、ソレガ段々變化シテ「ジャパン」トナリ「ジャポン」トナツタモノト見エルノデアリマスルガ、其「ジパング」ト云フノハ、當時ノ日本國ト云フ文字ヲ其時ノ元ノ時代ノ發音デサウ言ハレタノデ、ソレガマダ多少訛ツテ居ルモノト思フノデアリマス、原因ハソンナコトデアリマセウガ、兎ニ角一個人ト雖モ、或ハ地方ノ小サイ町、村若クハ部落ナドニハ漢字ヲ用ヒル結果トシテ、人ニ依ツテ讀ミ方ガ二通リニモ三通リニモナルコトガアリマス、一個人ニシテモ、甲ト呼バレテモ返辭ヲシナクチャナラヌ、乙ト呼バレテモ辺辭ヲシナクチャナラヌト云フ場合ガアルノハ大變困ルト云フコトハ、ドナタモ御承知ノコトデアルト思ヒマス
況ンヤソレガ一國トシテ一定シナイト云フヤウナコトハ甚ダ困ツタ話デアル、ソコデ一定ヲスベキデアルト云フコトニ付テハ殆ドモウ誰モ異論ノ無イコトト思フノデアリマスルガ、ソレガ若シ餘リ考慮ヲ拂ハレズシテ政府ニ於テ一定セラルト云フコトニナリマスト云フト、又今日問題トナツテ居リマス所ノ「メートル」法と、尺貫法問題ノ如キコトガナイトモ限ラヌノデアリマシテ、私ハ之ヲ機会ニ少シク愚見ヲ申述ベテ見タイト思フノデアリマス、ソレデ外國カラ云フコトニ従フノハドウデモ宜イヂャナイカ、其通リニシテ宜イヂャナイカト云フコトニナレバ、是ハ別問題デアリマスガ、實ハ日本ト云フ言葉モ支那ト交際ノアリマシタ時ニ多分支那人ノ呼ンダ言葉ヲ日本ガ其儘用ヒタノデアラウト思ヒマス日本ノ古イ言葉ハ固ヨリ申スニ及バズ大八州ノ國デアルトカ大和ノ國トカ云フノデアリマシテ外交上即チ支那ニ對シテ日出處デアルトカ、或ハ日本ノ國デアルトカ、日ノ本ノ國デアルトカ云フノハ即チ日本ト云フコトノ用ヒラレタ元デアリマシテ、國内ニ對スル稱呼デハ元々ナイノデアリマス、従テ古イ書物ニ假名ガ附イテ居リマストカ、若クハ歌ノ書物ノ如キ和名デ書キマシタ場合ニハ、日本ト書イテ居リナガラソレニ「ヒノモト」トカ「ヤマト」トカ云フ和名ヲ附ケテ居ルノデアリマス、然ル所其日本ト云フ二字デス、或ハ「ニホン」ト呼バレ、「ニッポン」ト力ヲ入レテ言ツテ居リマス、是ニ依ツテ我々共實ニ過去ノコトヲ考ヘテ見マシテモ、今日ノ實際ヲ顧ミマシテモ、ドツチニ従ツテ宜イノデアルカト云フコトハ大變ニ困ルノデアリマス、此請願ヲサレタ人モ其中デ何ニ決メテ呉レト云フコトニナレバ御困ニナルコトデアラウト思フ、政府モ定メテ困ルコトデアラウト思フ、「大」ト云フ字ヲ附ケル附ケナイト云フコトハ是ハ自分デ自ラ尊厳ヲ加ヘルトカ、外國ニ向ツテ地歩ヲ占メルトカ云フ意味デ、附ケル附ケヌハ誰デモ分ルコトデアリマスガ、日本政府自ラ「ニホン」ト言ヒ、「ニッポン」ト云フコトニナルト非常ニ困ル、現ニ日常ノ言葉ニシマシテモ、従ツテ色々ノ字引ニ見マシテモ、日本の二字ヲ冠シテ居ル言葉デ「ニホン」ト發音シ、「ニッポン」ト發音シ或ハ両様トモ發音シテ居ルト云フコトガ實ニ多イノデアリマス、即チ電話ノ帳面ヲ見マシテモ日本ト書イテ置イテ、果シテ「ニホン」銀行ト言フカ、「ニッポン」銀行ト言フカ、日本銀行の發行シテ居リマス所ノ兌換等券ヲ見マスト云フト、羅馬字デ「ニッポン」銀行ト書イテアリマス、ケレドモ之ヲ呼ブ人ハ或ハ銀行ニ奉職シテ居ル人自身デサヘモ、「ニホン」銀行トモ言ツテル人ガアル郵船會社モ同様デアル、郵船會社ノ旗ノ立テアルノヲ見マスト云フト、「ニッポン」郵船會社トアリマスケレドモ、會社ニ勤メテ居ル人デモ、「ニホン」郵船會社ト言ツテ居ル、何ガ何ダカ分ラナイノデアリマス、サウ云フ風ニ非常ニ両様ニ錯雑シテ居リマス、ソレハ甚ダ講釈メイテ如何デアリマスガ、理由ノアルコトデアリマシテ、日本ト書イテ多分元ノ時代ニ漢音ノ儘ニ「ジツポン」ト言ツテ居ツタノデアリマス、日月ノ日ノ字デアリマス、併ナガラ日本ニハ早ク呉音ガ入リマシテ、佛教其他ニ依ツテ日ト云フ字ニハ「ニチ」ト云フ發音ガ多イノデアリマシテ、「ジツ」ト云フコトハ餘リ多クナイ、例ヘハ日月ト云フ様ナ時ニハ「ジツ」「ゲツ」ト言イマスガ、日ト云フ言葉ヲ他ノ言葉ニ附ケテ日進月歩トカ云フヤウナ時ニハ「ニチ」トナツテシマウ、大抵ノ場合ニ日ト云フ字ハ「ニチ」ト發音スルノデアリマス、故ニ正シイ呉音ノ發音ニ依ルト云フト「ニチホン」、「ニチホン」ガ詰レバ即チ「ニツポン」トナルノデスカラ、「ニツポン」ガ正シイト思ヒマスケレドモ日本ノ國語ノ習慣トシテ詰メル音トカ、或ハウント撥ネル音ノ時ニハ必ズ前後ノ發音ヲ充分ニ日本語ノヤウニ變ヘテ發音スルコトガ多イノデアリマス、殊ニ此國語ノ發達ノ上カラ見マスト云フト、支那カラ来タ言葉ヲ日本ノ在来ノ言葉ノ如クニ用ヒル場合ガ多イノデアリマス、例ヘバ孔子、孟子ノ孔子ノコトヲ「クジ」ト云フ風ナコトヲ言ヒマス、又近頃ハ物質的文明ニ依ツテ色々新シイモノガ出マス、ソレヲ歌ニ詠む時ニ汽車ナント言ハズ「キサ」ト云フコトヲ言ヒマス、サウ云フヤウナコトハ昔カラ大變多イノデアリマス、ソレデ日ト云フ字モ毎日付ケル所ノ日記ナドモ「ニツキ」ト言ヒマスト支那言葉臭イモノデスカラ、之ヲ「ニキ」ナドトフ、國語ノ書物ニハ「ニキ」ト書イテアル、ソレト同ジ様ナ意味デ「ニツポン」モ「ニホン」ト云フヤウニナツタノデアルコトハ確カデアラウト思ヒマス、併ナガラ今日ト雖モ少シク強メテ言ヒマスル時ニハ「ニツポン」一ダトカ、「ニツポン」晴レトカ、「ニツポン」男子トカ云フヤウニ詰メテ「ニツポン」ト言ヒマスケレドモ、其他ノ場合ニ於テハ「ニホン」ト云フ言葉ガ可ナリ多イノデアリマス、ソレハ國語ノ性質カラ来マシタ、又地方ニ依リマシテ「ニホン」ト云フ所ト「ニツポン」ト云フトコロガアル、例ヘバ東京ノ眞中ヲ「ニホン」橋ト言ヒマスケレドモ、大阪ノ日本橋ハ「ニホン」橋ト言ハズニ「ニツポン」橋ト言ツテ居リマス、地方ニ依ツテ違ヒマス、故ニ之ヲ格別考慮セズシテ一定シマスト云フト、大變ニ又面倒ニナリマスカラシテ十分ナ御考慮ノ上デ御一定ヲ願ヒタイ、御一定ヲ願フト云フ點ニ付テハ私非常ニ熱心ニ希望スルノデアリマスケレドモ、其定メ方ニ付テハ當局者ニ於テ十分ナル御考慮ヲ御拂ヒ下サルコトヲ願ヒタイノデアリマス、ソレガ定マリマスレバソレヲ羅馬字デ書クト云フコトハ、モウ一擧手一投足ノ勞デアリマスカラシテ、サウシマスレバ外務省ノ方ノ公文書ニモ其通リヤルト思ヒマス、今日ノ國威ノ盛ンナル日本ニ於テ猶豫ナク政府ニ於テ御裁定アルベキ問題ト思フノデアリマス
〇政府委員(金森徳次郎君) 此二ツノ問題ハ非常ニ重要ナコトデアリマシテ、且ツ多年ノ沿革モ存スル所デアリマシテ、今日遽ニ私共意見ヲ申上ゲテ御耳ニ達スルコトハ實ニ困難デアリマス、タダ、今迄ドウ云フヤウニナツテ居ルカ、現在迄ノ研究ハドウ云フ気持デ進行シテ居ルカト云フコトダケヲ申上ゲテ、問題全體ハ尚ホ将来ノ研究ニ篤ト残シタイト實ハ思ツテ居リマス、是ニ付キマシテ従来明瞭ニ國家的ニ特別ニ之ヲ意識シテ決定サレタコトハナイト心得テ居リマス、第一ニ此請願ノ中ニ含マレテ居ル問題ガ凡ソ三通リノ内容ガ含マレテ居ルト思フノデアリマス、第一ノ問題ハ我國ヲ言ヒ表ハス時ニ漢字ヲ用ヒル場合ニ如何ナル漢字ガ適切ニ之ニ當嵌マルノデアルカ、即チ「ダイニホン」ト言フカ、「ダイニホンテイコク」ト言フカ、「ニホンコク」ト言フカ、斯ウ云フ問題デアラウト思ヒマス、第二ノ點ト致シマシテハ斯ク書キ現サレタル漢字ガ言葉ニ依ツテ讀マレル時ニ「ニツポン」ト言フカ「ニホン」ト言フカ、其何レヲ以テ正シトスルカト云フ問題デアラウト思ヒマス、第三ノ問題ハ外國ノ言葉ノ中ニ於テ、又ハ外國人ノ立場ニ於テ我國ヲ呼稱スル時ニ如何ナル言葉ヲ用フルコトヲ是認スヘキカ、従テ又是ト對應シテ外國人ニ言ツテ聴カセル時ノ我國ノ呼稱ヲモ如何ニスベキカ、斯ウ云フ三點ニ分ルルヤウニ思ヒマス、デ我國ヲ如何ナル漢字ヲ以テ現ハスノカハ固ヨリ、無限ノ過去ヨリシテ傳ツテ居リマス所ノ我國ノ歴史發達ノ段階ニ於テ、成熟シテ居ル字ニ據ルヘキコトハ是ハ一點ノ疑ヒハナイノデアリマス、従テ之ヲ人為的ニ特ニドウ云フ字ニスルカト云フコトハ、非常ナ特別ナ理由ガアレバ格別デアリマスケレドモ、殊更ニ之ヲ動カス必要ハ無イト思フノデアリマス、繰返シテ申シマスレバ、日本ノ起源ト相伴ツテ日本ノ國名モ亦起ツテ居ル譯デアリマスカラ今日人為的ニ之ヲ何カニ確定スルト云フコトハ即チ人為的ニ變更スルト云フ意義ヲ含ンデ居ルヤウニ思ハレルノデアリマス、ソコデ今マデ次第々々ノ發達ヲ以テ、今日ノ現状ニ於テ認メラレテ居リマス文字ニ據ルコトガ正常ト思フノデアリマス、サウ致シマスルト、色々ナ考ヘ方モ出来ルノ(ママ)思フノデアリマスルガ、一番國家ノ根本法トシテ示サレテ居リマス所ノ憲法ハ大日本帝國憲法ト示サレテ居リマスルガ故ニ、「ダイニッポンテイコク」ナル呼稱ガ國家トシテ最モ立派ナ言葉デアルヤウニ考ヘマス、併ナガラ憲法自身ノ中ニ於キマシテ既ニ「大」ノ字ヲ取リ、帝國ノ「帝」ノ字ヲ取ツテ「日本臣民権利義務」或ハ「日本臣民ハ」ト云フ言葉ガアリマスルガ故ニ、憲法自ラモ其國號ヲ絶對ニ何方カニ據ラナケレバナラナイトサレテ居ル趣旨デハナカラウト思ヒマス、サウ云フ様ナ次第デアリマスルガ故ニ、現在ノ國名ノ言ヒ現ハシ方ハ傳統的ニ存在シテ居リマスル範囲内ニ於キマシテ、適當ナル場合ニ適當ナル字句ヲ選ンデ用フルト云フコトガ、、、、、、其當否ハ別ト致シマシテ現在普通ノ此絛約等ニ於テ言葉ヲ用ヒマスル時ノ心持デアル譯デアリマス。ソレカラ讀ミ方ニ付キマシテハ之ヲ「ニッポン」ト讀ムカ「ニホン」ト讀ムカ、是亦傳統的ニ發達シタル言葉ニ據ルコトガ正當デアルト思ヒマシテ、今色々ノ御説明ガアリマシタガ、固ヨリソレハ将来研究ヲ致シマスルケレドモ、現在ノ考ヘ方デハ之ヲ「ニッポン」ノミニ限定スルコトモ困難デアリ、「ニホン」ノミニ限定スルコトモ固ヨリ不當デアラウト思ツテ居リマス。詰リ發達シ来ツタモノデアツテ、人為的ニ發達シ来ツタモノデハアリマセヌガ故ニ、大體ニ其自然ノ發達ニ基イテ居ル、此美シキ言葉ヲ適當ニ又自然ノ推移ヲ伴ヒツツ、宜イ方ニ誘導シテ行クト云フコトガ正常ト考ヘテ居リマスガ故ニ、今仰セニナリマシタヤウニ「ニホン」ト云フ言葉モ、「ニッポン」ト云フ言葉モ各々淵源ガアリマシテ、サウシテ現ニ地名ニ置キマシテモ「ニホンカイ」ト云フ言葉モアレバ「ニッポンバシ」ト云フ言葉モアル譯デアリマシテ、之ヲ俄ニ何レニ確定スルト云フダケノ十分ナル研究ハ實ハ熟シテ居リマセヌ、現在ノ普通ノ概念ト致シマシテ一般ニ言ヘバ「ニッポン」ト云フ、併ナガラ歌等ノ場合ニ鋭キ言葉ヲ避クルヤウナ場合ニハ「ニホン」ト言フヤウナ慣例モ一部ニハ行ハレテ居リマスルガ、政府トシテハ固ヨリ確タル結論ニ到達シテ居ル譯デハアリマセヌ、ソレカラ日本ヲ外國人ガ呼稱スル場合ニ如何ナル呼稱ヲ用ヒセシムベキカト云フコトハ、是ハ一番困難ナル問題デアリマシテ、従来ノ沿革ヲ見マスルノニ、可ナリ其間ニ、、、、、、大キナ變動ハアリマセヌケレドモ、少シヅツノ變動ハ行ハレテ居ルヤウニ思ハレマス、デ今日ノ國際事情ニ於キマシテ言葉ガ皆違ツテ居リマスル為ニ、外國ノ名ヲ其國自體ノ呼ビ方ニ依ツテ呼バセルコトハ相當困難デアリマス、縦令羅馬字ニ日本ノ發音ヲ寫シ出シテモ、其國ニ於キマシテ必シモ其發音ヲスルト云フコトハ期待出来ナイ譯デス、ソコデ今日マデノ實情トシテハ、國家ノ名誉ニ影響ノ無イ限リ、諸國ハ各々其用ヒル言葉ノ中ニ普通ニ認メラレテ居ル呼ビ方デ國ヲ呼ンデ居ル例ノヤウニ考ヘマス、従テ獨逸國ヲ日本デ呼ビマスル時ニハ決シテ「ドイツチェスライヒ」トハ申シマセヌ、矢張リ獨逸國ト呼ンデ居リマス、英國、米國皆同ジデアリマシテ、決シテ其本國ノヤウニハ呼ンデ居リマセヌ、又獨逸人ガ英語デ絛約ヲ書キマスル時ニハ矢張リ「ジャマニイ」ト云フ言葉ヲ用ヒテ居ルサウデアリマス、大體國際間ニ於キマシテハ自カラ其基本トナツテ居ル言葉ノ慣例ニ従ツテ國ヲ呼ブコトガ、先ヅ動キナキ慣例ノヤウニ聞イテ居リマス、従ツテ日本ガ自國ヲ「ニツポン」ト云フ名前ヲ以テ外國ニ完全ニ呼バシメヤウト致シマスルコトハ、一般ノ考ヘ方カラ行キマスルト可ナリ不自然ナ點ヲ含ンデ居ル、是ハ私ノ研究ト申シマスルヨリモ寧ロサウ云フ絛約ヲ取扱ヒマスル主務局ノ意見デアリマスガ、サウ云フヤウニ聞イテ居リマス、斯ウ云フ考ヘ方ガ絶對ニ正シイカドウカハ研究ノ餘地ガアリマスルガ、一應ハソレダケノ理由ノ成立スルモノト了解シテ居リマス、更ニ進ミマシテ、日本人ガ外國ニ向ツテ外國文ノ中ニ於キマシテ國ヲ呼ブ時ニ「ジャパン」ト呼ブカ「ニホン」ト呼ブカト云フ問題ガアリマスルガ、是ガ一番問題トナツテ来ル點デアラウト思ヒマス、現在ノ所各々國ト國トノ間ニ於キマシテ、今申シマシタヤウニ相手ト言ヒマスカ、現ニ使ツテ居ル言葉ノ一般ノ呼ビ習ハシニ従ツテ呼ンデ居ル為ニ、矢張リ英語ノ場合ニハ英語風ノ呼ビ方ヲシテ居ル譯デス、斯ノ如キ言葉ヲ以テ日本國ヲ日本人ガ特殊ノ場合ニ言ヒ現シマスルコトハ、ソレ自身絶對ニ避ケナケレバナラナイト云フ程ノモノデハナイノデハナカラウカ、世界ノ諸國ガ各々自分ノ國ヲ其通リノ言葉ヲ以テ人ニ呼バセルコトヲ強制ハシテ居リマセヌ。日本ノ言葉ヲ見ルト直グ分リマスルガ、今述ベマシタヤウニ獨逸國ト云フヤウナ言葉ヲ日本デハ使ツテ「ドイッチュランド」ヲ稱シテ居ルノデアリマス、或ハ又「スペイン」ト云フ言葉ヲ使ツテ居リマスルガ、本國人ハ恐ラク「スペイン」ト呼ンデ居リマセヌ、又「オランダ」ト言ツテ居リマスルケレドモ、本國人ハ矢張リ別ナ言葉ヲ使ツテ居ルヤウニ思ハレマス、サウ云フ風ニ交互的ニ相互ノ間ニ於キマシテ此外國ノ關係ニ於キマシテ幾分違ツタ言葉ガ行ハレマシテモソレガ特別ニ其文字ニ含マレテ居ル悪イ點ガ無イ限リハ是認スベキモノデアラウト云フノガマア主務局ノ意見デアリマシテ、甚タ卑怯デハアリマスガ、之ニ對シテ批評ヲ加ヘナイデ茲ニ申上ゲタ次第デアリマス
〇委員外議員(三上参次君) 私ハ一向其儀禮ニ馴レナイノデアリマスガ、チョット質問ヲ致スコトハ出来マセヌデセウカ、今ノ問題ニ付テ、、、、、、
〇主査(男爵徳川喜翰君) 御諮リ致シマス、只今三上博士カラ本件ニ關シテ質問ヲシタイト云フ申出ガゴザイマスガ、許スコトニ御異議ゴザイマセヌカ
   (「異議ナシ」ト呼ブ者アリ)
〇主査(男爵徳川喜翰君) 御異議ナイモノト認メマス
〇委員外議員(三上参次君) 今ノ政府委員ニチョット御伺ヒシタイノデアリマスガ、御答辯ノ全體ヲ通ジテ至極穏健ナコトデ、御意見ニ敬服致シマスデスガ唯日本政府ノ態度トシテ少シ私ニ意ニ満タヌコトガアリマス、例ヘバ支那デ革命後中華民國ト云フ言葉ヲ用ヒルコトニナリマシテ、日本政府モ御承知ノ通リニ中華民國ト云フ言葉ヲ使ツテ居ル、此中華ト云フコトハ支那人自身例ノ自ラ尊大ニスルト云フ風デアリマスカラ、中華ノ中ハ即チ中國ノ中デアル、華ト云フコトハ即チ華夷ト對スル昔カラノ熟語デアリマシテ、自分ノ國ハ中華、中國ト言ヒ、他國ハ即チ東夷、西戎、南蛮、北狄デアル、夷狄デアル、ト云フ熟シタ言葉デ離ルベカザル熟語デアル、故ニ自ラ中華、中國ト云フノハ、民國ト云フノハ彼ノ自由デアリマスケレドモ、他國ヲシテ必ズ其國號ヲ用ヒシメナケレバナラヌト云フコトハ、他國ヲ非常ニ無視シタ言葉デアル、而モ其無視サレタ國ト云フモノハ、世界列國ノ内ニ於テ漢字ヲ用ヒル我ガ日本ダケデアリマス、英吉利デモ、仏蘭西デモ、獨逸デモ、伊太利デモ決シテ中華民國トハ言ヒヤシナイ、矢張リ支那トカ「シノア」トカ何トカ云フコトヲ言ツテ居ル、唯日本ダケガ此屈辱ヲ強ヒラレテ、其儘甘ンジテ居ルト云フ形ニナル、外務省デハ決シテサウ云フ、政府ヂャサウ云フ意味デハアリマセヌガ形ニ於テサウナル、是ハ漢學全盛時代ニ於テモ、サウ云フ不面目ナコトハ日本ハシテ居ラナイ、物徂徠流ノ人ニ於テハ無論支那ヲ中國ト言ツテ居リマスケレドモ、例ヘバ新井白石ノ如キハ自分ノ友人ガ支那ニ行ツテ支那語ヲ學ンデ来タト云フコトヲ報知ヲシマシタ時ニ、其手紙ノ中ニ華音ヲ學ンダ、華ノ音ヲ學ンダ、華音ハ中華ノ華デ支那語ヲ學ンダト云フコトヲ報知シマシタ手紙ニ、結構ナコトデアル、華音ト云フ字ハ何事デアル、即チ華夷内外ト云フ言葉デ、中華、中國、他國ヲ夷狄視シタ、彼ヲ呼ンデ華ト云フナラバ、自分ハ夷デ甘ンジナクチャナラヌコトニナル、自分自身ガ夷デ甘ンズルト云フコトハ、ソレデ宜シイケレドモ、自分ガ夷狄デアルナラバ我ガ一天萬乗ノ天子ヲ夷狄ノ酋長ト見ルカ、以後サウ云フコトハ御慎ミナサイト云フヤウナ厳格ナル注意ヲ與ヘテ居ル手紙ガアリマス、其外ノ漢學者ガ支那ニ心酔シテ居ル時代ト雖モ、尚且ツサウ云フ内外ノ區別ハ知ツテ居ル、然ルニ我國ノ政府ガ支那ノ言フ儘ニ従来ノ支那ト言フ言葉ヲ用ヒズシテ、中華民國ト云フ言葉ヲ用ヒテ居ルノハ、私ハ國家ノ非常ニ不面目デ、平常□ラズ思ツテ居ルノデアリマス、殊ニ聞ク所ニ依リマスト云フト是ハ私ガ間違ヒカモ知レマセヌ、事實デナイカモ知レマセヌガ、初メアノ言葉ヲ用ヒル時ニ、若シ中華民國ト漢字デ用ヒナイ、漢字ヲ用ヒル國ニシテ、漢字ヲ中華民國ト書カヌ郵便ハ或ハ配達ヲシナイコトガアルト云フ風ナ強イ言葉ヲ日本ニ向ケタト云フヤウナコトヲ聞イテ居リマスガ、是ハドウモ能ク分リマセヌガ、サウ云フコトデ甚ダ□ラヌト云フコトヲ思ツテ居リマス、今ノ「ジャパン」「ジャッポン」ニ付テモサウデアリマス、他國ノ政府若クハ他國ノ人間ガソレヲ用ヒル用ヒナイト云フコトハ、日本政府ノ世界ニ於ケル地位ノ如何ト云フコトニ依ルノデアリマシテ、日本政府ガ常ニ日本、大日本ト云フコトニ御用ヒニナリマスレバ彼等ガ長イ結果、、、、、短イ時間ノ中ニ用ヒルト云フコトハ御安心ナツテモ宜カラウト私ハ思フノデアリマス、唯是ダケヲチョット申上ゲテ置キタイト思ヒマス
〇政府委員(金森徳次郎君) 中華民國ノ點ニ付テ、是ハ私自身餘リ其事情ヲ委シクハ存ジテ居リマセヌガ、一部分了知シテ居ル點ヲ御答ヘ致シマスガ、當初中華民國ニ該當スル支那國ガ成立イタシマシタ時ニ、之ヲ如何ニ呼ブベキカト云フ點ハ、相當ニ論議セラレタノデアリマス、其議論ノ結果ト致シマシテ、矢張リ之ヲ支那國ト呼ブ、中華民國ト呼バナイト云フ方針ヲ以テ進行シテ居ツタ譯デアリマス、所ガ數年前ニ稍々方針ガ變リマシテ、別ニ中華民國ト云フ彼ノ國號ヲ其儘文字ニ現シ用ヒテモ、唯サウ云フ固有名詞トダケ輕ク考ヘテ置ケバ別ニ差支ヘモナイコトデアリ、又國際儀禮上其方が良イ場合ニハ、ソレヲ用ヒルモ、亦妨ゲナイノデアラウト云フ考ヘカラシテ、幾分カ中華民國ト云フ言葉ヲ用ヒルコトガ行ナハレルヤウニナツテ来タ譯デアリマス、併シ日本ノ主タル法令ノ中ニ於キマシテハ矢張リ支那國ト書イテ、中華民國ト云フ言葉ヲ使ツテ居リマスモノハ、勅令以上ニハ現在確カ無イト考ヘテ居リマス、絛約ノ關係ニ於キマシテハ、中華民國ト書クコトハ當否ハ別ト致シマシテ、現在存シテ居ルコトデアリマシテ、ソレガ幾分御議論ノ客體トナリ得ルト思ヒマスガ、移リ行ク色々ナ考ガ錯綜シテ居ル譯デアリマスカラシテ、其善悪ニ付テ私自身今ノ所意見ヲ述ベルダケノ自由ハ有ツテ居リマセヌ、唯一言附加ヘマスガ、外國語ト申シマスカ、羅馬字デ言現ハシマス場合ニハ、大シタ問題ハ起リマセヌガ、同ジ漢字ヲ以ツテ日本ノ國ト他ノ國トカ絛約ヲ結ヒマスヤウナ場合ニハ例ヘハ大ノ字一ツ用ヒルトカ用ヒナイトカ云フ外ニモ、相當ニ見識問題カ起ツテ来テ、其點ハ今マテモ注意シテ用ヒラレテ居ルノテアリマス時アツテ大ノ字ヲ彼用フレハ我モ亦用フルト云フコトハ、固ヨリ大□ノ方針トシテハ採用シ来ツタ所テアリマス、尚ホチョット是ハ本題ト離レマスカ、□ニ皇帝ト云フコトカ少シ出マシテ、ソレニ付キマシテノ、是モ只今マテノ沿革ヲ延へマシテ、ドウ云フ趣旨ヲ以テ此言葉ヲ使ツテ居ルノカト云フ點タケヲ釋明スルト申シマスカ、ソレタケノ趣旨テコサイマスカ、此日本カ外國トノ間ニ於テ締結スル所ノ外交文書ニ於キマシテ、日本國皇帝ト云フ言葉カ用ヒラレテ居ルノデアリマシテ、是ハ成立ノ當時、其言葉ヲ用ヒマス當時ニハ、相當ニ研究ヲ經テ用ヒラレタサウテコサイマシテ、トウモ正確ニ自分カ關興シタコトテアリマセヌカラ申上ケ兼ネマスカ、此憲法カ制定セラレマシタ當時ニ、關係部局ノ間ニ於キマシテ、如何ナル言葉ヲ使ツタナラハ宜イカト云フ疑惑カ起リマシタ、ソレノ解決ヲ 文武天皇ノ時ノ大寶令ニ求メマシテ、國内ノ詔勅ニ對シテハ天皇ト云フ文字ヲ御用ヒニナルケレトモ、外國ニ對スル關係ニ於テハ皇帝ト云フ文字ヲ用ヒルト云フコトカ確カ大寶令ノ儀制令ノ中ニ書イテアツタノテアリマシテ、其趣旨ニ依ツテ當時斯ノ如ク關係者ニ於テ決定ヲ致シマシテ、爾来其用例ニ依ツテ居ルサウテアリマス、
〇主査(男爵徳川喜翰君) 御質問ハ御座イマセヌカ、、、、、、御質問ナイト認メマス、政府委員ヨリ説明ヲ聴取致シマスルコトハ、今日ハ此程度ニ止メタイト思ヒマス、御異議アリマセヌカ
   (「異議ナシ」ト呼フ者アリ)
〇主査(男爵徳川喜翰君) 御異議ナイト認メマス、ソレテハ是ヨリ審査決定ニ移リマス、速記ハ是テ中止シマス、
      午後三時三十二分速記中止

 


JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B02031473200、本邦国号及元首称呼関係一件 第一巻(外務省外交史料館)

 

 

 

【注:1】
 その後、検索語を「國號尊重ニ關スル件(第六十五議會貴族院)昭和9年2月19日」とすることで、「第六十五囘帝國議會貴族院 請願委員第三分科會」の議事速記録(貴族院事務局)にアクセスすることができた。PDF化された議事録印刷文書(内閣印刷局)ではあるが、外交史料館のものに比べればこちらの方が読みやすい。時系列としては、この議事速記録に基づき、外交史料館所蔵の和文タイプ文書が作成されたことになるはずだ(濁点の使用の有無、促音の表記法等、両者には若干の異同がある―和文タイプを用いての文書作成担当者の苦労が偲ばれる)。

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2019年11月21日 (木)

日本・ニホン・ニッポン

 

 

  さて、結局そのまま戦後を迎え、1946年の憲法改正の国会審議の中で「日本国憲法」の読み方が問題となったが、当時の金森国務大臣は「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは、通念として認められている」として、国名呼称の統一を退けている。さらに時代をくだれば、現天皇の即位の儀式で、天皇は「ニホンコク憲法」と読み上げたのにたいして、竹下首相は「ニッポンコク憲法」と式辞を読み、国名呼称の揺れを象徴するできごととして記録にとどめられている。
     奥野昌宏 中江桂子 「メディアと「ニッポン」―国名呼称をめぐるメディア論」 2011  文学部紀要第46号 成蹊大学  111ページ

 

  三宅のこの引用文の最後にある、「軍人勅諭の読法」というのは、以下のことを示している。すなわち大日本帝国軍人はだれでもその基本精神として軍人勅諭を詠じるのであり、だからこそ軍人勅諭は軍人手帳の必須項目としてあり、それを軍人は常に携帯していた。なお、軍人勅諭は誰でもが唱和することができるように、漢字のすべてにふりがながふってあるが、そのなかの「日本國」には「にほんこく」と書いてあり、それは徹底されていた、という事情を示している。
  宮本によれば、戦時下における文部省の『ウタノホン』『尋常小学唱歌』『新訂尋常小学唱歌』『初等科音楽』で、読み方を確認すると、「日本」がでてくる30曲のうち、「ニホン」が16曲「ニッポン」が14曲であったという。
     同論文 115ページ

 

 

 ちなみに金森徳次郎は、戦前、国体明徴論が盛んなころの国名呼称をめぐる議論(「日本國」じゃなくて「大日本帝國」! ジャパンもジャポンもニホンもダメ! 「ニッポン」と統一しろ!)の際にも、絶妙な答弁で切り抜けていたはずだ(大阪にあるのはニッポンバシで東京にあるのはニホンバシ…とかなんとか→「國號尊重ニ關スル件(「日本・ニホン・ニッポン」資料編)」参照)。

 いずれにせよ、忠良なる帝國軍人にとって、「日本國」は「にほんこく」であったとのエピソードは興味深い。そして忠良なるであろう自民党政権の首相にとっては「ニッポン国」なのであった。

 「平成」の御代の日本国首相にとって「日本国憲法」は「ニッポンコク憲法」であったのに対し、即位の儀式に臨む天皇にとって「日本国憲法」が「ニホンコク憲法」であったエピソードも面白い。「日本国首相」はその当人にとっては「ニッポンコク首相」であり、多分、天皇からすれば「ニホンコク首相」であったのであろうか。

 

 ところで、前記引用論文中の小学唱歌上の話だが、一例を示せば、

 

『尋常小学唱歌 第一学年用』(1911年)
日の丸の旗

1.白地に赤く
 日の丸染めて、
 ああ美しや、
 日本の旗は。

2.朝日の昇る
 勢ひ見せて、
 ああ勇ましや、
 日本の旗は。


『ウタノホン 上』(1941年)
ヒノマル

1.アヲゾラ タカク
 ヒノマル アゲテ、
 アア、ウツクシイ、
 ニホンノ ハタハ。

2.アサヒノ ノボル
 イキホヒ ミセテ、
 アア、イサマシイ、
 ニホンノ ハタハ。

(「ヒノマル」は「ニホンノハタ」らしい)

昭和16(1941)年、日米開戦の年の小学唱歌のひとつでも、「日本の旗」は「ニホンの旗」なのであった。

 

 

 

 平成21(2009)年度の国会においても、この問題が論じられていた。

 

日本国号に関する質問主意書
 提出者  岩國哲人

日本国号に関する質問主意書

  昭和九年に文部省臨時国語調査会において、「日本」の読み方は「にっぽん」に統一され、例外的に東京の日本橋と「日本書紀」だけは「にほん」と読むことになった。その際、外交文書における国号の英文表記が「Japan」から「Nippon」に変更された。これについては、外交用語であるフランス語をはじめとするラテン諸語はHの音が発音されないことも考慮されたとする見解や、満洲事変の勃発とともに、「保守回帰」が起こり、穏やかな語感の「にほん」よりも音韻的に力強い「にっぽん」を選んだという経緯があったとする見解もある。
  この文部省臨時国語調査会の決定を受け、帝国議会でも審議された。
  戦争中の昭和十六年には、帝国議会で、当時の国号「大日本帝国」の発音を「だいにっぽんていこく」と定める検討がなされたが、保留のまま法律制定には至らなかった。
  戦後、昭和二十一年、帝国憲法改正特別委員会において、「日本国」と「日本国憲法」の正式な読み方について質疑がなされ、金森徳治郎憲法担当大臣(当時)は、「決まっていない」と答弁した。
  その後、昭和四十五年七月、佐藤栄作内閣は、「日本」の読み方について、「『にほん』でも間違いではないが、政府は『にっぽん』を使う」と、「にっぽん」で統一する旨の閣議決定を行ったが、法制化にまでは至らなかった。
  これに関連して、以下質問する。

一 右の閣議決定は現在でも維持されているか。
二 他国で、国号の現地発音が複数使用されている国の存在を認識しているか。
三 今後、「日本」の読み方を統一する意向はあるか。

  右質問する。

 

 平成二十一年六月三十日受領
 答弁第五七〇号

   内閣衆質一七一第五七〇号
   平成二十一年六月三十日
 内閣総理大臣 麻生太郎
        衆議院議長 河野洋平 殿
 衆議院議員岩國哲人君提出日本国号に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。

衆議院議員岩國哲人君提出日本国号に関する質問に対する答弁書(ここでは岩國議員の質問を補足して引用)


一 右の閣議決定(昭和四十五年七月、佐藤栄作内閣は、「日本」の読み方について、「『にほん』でも間違いではないが、政府は『にっぽん』を使う」と、「にっぽん」で統一する旨の閣議決定を行ったが)は現在でも維持されているか。
  一について→ 「日本」の読み方については、御指摘のような閣議決定は行っていない。

二 他国で、国号の現地発音が複数使用されている国の存在を認識しているか。
 二について→ お尋ねについては、承知していない。

三 今後、「日本」の読み方を統一する意向はあるか。
 三について→ 「にっぽん」又は「にほん」という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はないと考えている。
 (答弁:内閣総理大臣 麻生太郎  平成二十一年六月三十日)

 

 

 現状として、われわれ「日本国民」はその国民として「ニホン」に住んでいるのか「ニッポン」に住んでいるのか、「ニホン国民」であるのか「ニッポン国民」であるのかを明言することはできない、ということのようである。

 

 

〈オマケ:オリジナル記事コメント欄のやりとり〉

○さて、ムズカシイのはニホンゴなのかニッポンゴなのか?

●国語でしょ?(爆)

○で、どこの国の「国語」なのかというと…

●「わが国」

○で、何という名の国なのかというと…

●豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)
 (出典:古事記)

 

 

 

 

 

(オリジナルは 2015/02/15 21:07 & 2015/02/26 18:28 、内容的には「日本国の象徴と、國體の本義 18(大日本帝國の「大」)」の関連記事)

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2019年10月28日 (月)

2019 70JAHRE DDR (幻の東ドイツ建国70年)

 

 2019年の10月の終わり、30年前を思い出してみると、ヨーロッパの東側には社会主義国家群があった。経済的にはコメコン、軍事的にはワルシャワ条約機構により、ソ連に従属的な地位を強いられていた国家群である。30年前の10月の時点では、まだ、いわゆる東西冷戦状況が継続していたのである。

 1989年の10月初頭には、東欧各国(そしてアジア・アフリカの強権的国家の)首脳列席の下、東ドイツ(ドイツ民主共和国=DDR)では建国40周年の式典が執り行われていた。その中心にいたのは、国家評議会議長のホーネッカーであった(ホーネッカーは、かつてベルリンの壁を築いた人物でもある)。しかし10月の終わりには、既にホーネッカーは解任されていた。民主化(つまるところ東独権力システムへの根底的批判を意味する)への市民の期待は高く、市民によるデモも公然と行われるようになっていた。そして11月9日、かつてホーネッカーの築いたベルリンの壁は崩壊する。東側から西側への通行の自由が認められたのである。そして1年後の10月には、国家としてのドイツ民主共和国は消滅する。ベルリンの壁と共に、ユートピアであるはずの世界(DDR)が崩壊したのである。

 

 今年の年賀状を作成していた時、あらためて2019年が東ドイツ建国70周年に当たると同時に、ベルリンの壁崩壊30周年の年でもあることに気付いたのであった。で、年賀状作成に加えて、東ドイツ建国70年祝賀カードを作ってみたのであった。

 

20192-2

 

 年賀状の主人公は(自ら" I'm a Very Stable Genius ! ”と言ってしまえる米国の偉大な兄弟としての)トランプ閣下、建国70周年カードの方は、建国40周年の際の東独デザインにちょっと手を加えただけの安直なモノではあるが、それでもこの30年間の感慨が込められたものでもある。とにかく2019年の年頭、私としては、かつて存在した東独という国家、そしてその国民として生きた人々に思いを馳せることをしておきたかった。あの、まるで市民の移動の自由が国家を崩壊させたような歴史的瞬間にも。

 

Img_20191028_0002

 

 2019年の10月の終わり、あらためて、そんな年頭の感慨を思い出し、若干のセンチメンタルな気分に浸りながら、このような一文を書く気になったのであった。

 1989年の11月の9日、ベルリンの壁の崩壊を迎えることになったわけだが、1989年の10月の終わり、まだ誰もそんな時がやって来ようとは考えていなかったはずだ。もちろん、多くの人々の期待の中に、いつか来るはずの出来事としてベルリンの壁の崩壊は待ち望まれていたであろうが、2週間もしないうちにその日を迎えようとは思われていなかった。そんな10月の終わりであった。

 

 

 

〈オマケ〉

 映画『グッバイ、レーニン!』の予告動画。日本語字幕版のDVDのキャッチコピーは「ベルリンの壁は崩壊した。だけど僕は母を守る壁を作ろうとした。」であった。まさに1989年の10月からの一年間を舞台とした映画である。

 Good Bye Lenin! - Trailer
     https://www.youtube.com/watch?v=lv5FO9PtAvY



 建国40周年の祝賀軍事パレードの動画(延々と45分続くが、列席の各国首脳の顔ぶれには、その後、独裁者として悲惨な最期を遂げた人物も含まれ、これまた感慨深い)。

 40 Jahre DDR East Germany Military Parade 1989
     https://www.youtube.com/watch?v=6vBGYe19Ibk

 

 

〈関連記事〉

  「トラバント

  「幻のドイツ民主共和国建国60周年

  壁を築くことの意味

  「1961年8月13日(ベルリンにおける公衆衛生学的処置としての「壁」)

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2019年9月18日 (水)

神の手、人の手、猫の手、そして義肢

 

 「手のかたち・手のちから」、武蔵野美術大学の神野善治教授の手になる展示企画のタイトルである。訪れた者は、民俗学と博物館学を担当する神野教授の退任前の力業を味わうこととなる。民俗学者としての果てなき好奇心と、博物館学の教授としての見せる技(地味な素材から、訪れた者の好奇心を引き出す技)である。

 

 展示空間は三つに分かれ、美術館入り口左側の展示室1では、暗い空間に「ねぶた」の「手」が、内部に仕込まれた照明により浮かび上がる。いきなり迫力ある手の造形に出会うこととなる(神野先生は祭りの現地まで出かけ、本来なら解体破棄される「ねぶた」の一部をもらい受けてきたらしい)。民俗学者としての蒐集への情熱と、博物館学者の見せる技(明るい空間に「ねぶた」の手を展示しても、このような迫力ある造形の魅力は伝わらない)の合体空間ということになろうか。

 

 吹き抜けの大きな空間であるアトリウム中央には、福井県三方石観世音の奉納品である手足形が文字通り山積みされ、左壁面には三階くらいの高さまで手足形が並べられ展示されている。近代医療導入以前(いや現在に至るまでというべきかも知れないが)の日本では、手足の病気やけが・障害に際し、その治癒を神仏への祈願により実現しようとする伝統があった。奉納物を納めて治癒を祈願し、あるいは治癒すれば奉納物を納める。三方石観世音の場合、その両方向により、現在に至る奉納物の集積が形作られている。納められた手形・足形を持ち帰り、日常的に身近に置いて、手形(あるいは足形)の自身の患部に相当する部分をなでさすり治癒を祈念する。治癒すれば、新たに自ら制作した手形(あるいは足形)を添えて、持ち帰った手形(あるいは足形)をお返しする。その集積が、何度かの水害を超えて、現在まで保たれているのである。そこにあるのは、その地をその時代を生きた人々の障害治癒への期待の集積である。そして、その手形・足形の造形的魅力。見る者は、その両者に出会い、圧倒される。そこに積み上げられた手形・足形は、「人の手」、「人の足」を「形」としたものである。しかし、同時に、人々は、その手形・足形を「なでさすり」ながら、そこに「神の手」を感じていたようにも見える。神の手でもあるかも知れない手形・足形を、心を込めて「なでさする」ことで御利益としての治癒がもたらされる。人々の心情としては、そのような構図として理解し得るようにも感じられる。

 

 そしてアトリウム左側の展示室2にあるのは、武蔵野美術大学が所蔵する民俗資料コレクション(今回は様々な道具)を中心にした展示である(その前段階で、手形・足形造形の海外の事例、文楽人形と阿波の木偶箱まわし人形の手の機構を示した展示、様々な手袋にちなむ展示等があり、展示の最後には21世紀のオートメイルならぬ筋電義手がある)。この展示室で神野先生が展開するのは、収蔵されている様々な道具を、手の働きとの関連で分類する試みである。手とは何であるのかを、哺乳類の骨格標本から考察し、彫刻科の学生に制作させたペンフィールドのホムンクルス像から手と脳の関係を理解し、その上で、手の機能として、つかむ、たたく、すくう、かく・つる、はく・はらう、する・こする、すく・ふるう、あおる・ひる、たもつ、しめす、さぐるといった分類項目にまとめ、道具と関連付ける(「しめす」の展示中には、「招く」動作をする「招き猫」があったりする―まさに「猫の手」の展示である)。

 

 

 ・・・と、とりあえず展示を概観・紹介したが、今回の記事では、更に先へ進んでみようと思う。

 

 展示関連で、阿波の木偶箱まわし人形の公演があり、ゲストとの対談企画が二つあった。対談企画の一つにインスパイアされての更なる前進である。

 

 9月14日に開催されたのが、木下直之氏との対談企画であった。時間枠を気にしながら話を進める木下氏と、時間枠を(あまり)気にしようとしない神野先生という、どっちがゲストなのかわからいような対談の進行は、ライブならではの面白さであったが、ここでまず取り上げるのは木下氏の紹介した事例である。

 

 スライド画像で木下氏が紹介したのが、明治期に刊行された義肢を装着した傷痍軍人写真集と、第二次大戦期にイームズがデザインしたレッグ・スプリントであった。

 前者は、大日本帝國の戦争に際し招集され、手や足を失った帝國軍人・兵士と、彼らに下賜された義肢の写真集である。写真は、傷痍軍人一人に三種撮影され、それぞれ、義肢装着前の手足が失われた状態(浴衣スタイルの白衣着用)、そこに義肢を装着した状態(浴衣スタイルの白衣着用)、そして義肢を装着し軍服を着用した状態となっている。明治期の義肢が皇室による下賜品として存在し、下賜された軍人が再び義肢を装着し軍服を着用する姿が撮影される。現在のところ、この写真集の配布範囲はわからないが、日本の近代の中での戦争と皇室と傷痍軍人の関係を考える上で、この写真集の構成は興味深い。

 

 

 イームズ・デザインのレッグ・スプリントであるが、そもそもそれは何なのか? あらためて帰宅後に検索してみると、「レッグ・スプリント」は1942年にデザインされ、実際に成形合板製品として製造されたことがわかった。イームズによる成形合板の椅子は有名だが、それに先立つプロダクトとして、この「レッグ・スプリント」が存在しているのであった(私が知らなかっただけで、デザインを志す者にとっては、教科書的知識の範疇なのかも知れない)。

 「leg splint eams」で検索をすればイームズのサイトにつながり、イームズ・デザインの歴史的文脈が語られる中に、レッグ・スプリントが登場する。また、別のストア・サイトでは、大戦当時のレッグ・スプリントの実物を購入することも可能である(10万円超えるくらいの売値であった→ https://gee-life.stores.jp/items/5a2a239dc8f22c27bd002b56)。ストア・サイトの説明からの抜き書きを示す。

 

  チャールズ&レイ・イームズの最初のプロダクト品レッグスプリントです。アメリカ海軍の依頼で作製されたこちらは負傷した兵士の足の添え木として使われていました。しかしその造形美から今では芸術品として高く評価されています。

 

 要するに、成形合板による「負傷した兵士の足の添え木」なのである。イームズのサイトによれば(https://www.eamesoffice.com/blog/eames-molded-splints/)、イームズの友人であったエンデル・スコット医師からの相談が発端だったらしい。1942年当時は、「負傷した兵士の足の添木」としては金属製品が用いられていたのだが、金属製品は負傷兵搬送時に振動を増幅し、患部固定のための「添木」としては不向きなものであった。素材として成形合板は、患部を固定すると同時に搬送時の振動を吸収することに有効であり、結果としてイームズのレッグ・スプリントは、大戦中に15万個も製造されることとなったという。

 「添木(副木とも)」は、義肢とは異なるものではあるが、戦場における負傷した兵士のケアの最初の段階に必須の医療用具であることも確かだ。イームズがそのデザイン・製造に関わっていたとのエピソードである。戦時期の米国では、成形合板の製造技術が(レッグ・スプリント製造を通して、ということか?)確立され、工業製品として大量生産され、それが最前線での負傷兵のケアに役立っていた。そこを押さえておきたい。

 

 

 さて、再び大日本帝國の傷痍軍人である。

 「先の大戦」をめぐる戦後の言説の中で、傷痍軍人は周辺的話題として扱われてきたように思われる。しかし、戦争を遂行する大日本帝國にとって、帝國の戦争が生み出す傷痍軍人は、見て見ぬふりをして済まされるような存在ではなく、帝國が十分にケアをするべき存在であり、帝國による十二分なケアが保証されていることを社会に周知させるべき存在であった。戦争をすれば、戦病・戦傷・戦死する軍人兵士は必ず発生する。特に近代の戦争では、兵器の破壊力は増大し、負傷の程度も深刻なものとなる。手元にある『The Face of Mercy』と題された、戦場における医療の歴史を扱った写真集を見ると、ローマ時代から近代に至るまで、戦傷とは基本的には切り傷と刺し傷と打ち傷であったことがわかる。もちろん、それだけでも避けらるべきものではあるが、戦場で用いられる兵器の火薬・爆薬が、爆発力の小さな黒色火薬であった世界から、19世紀後半に至り爆発力の大きなダイナマイト・TNT等が主力となる世界へと変化することにより、戦傷の悲惨さも増大した。

 手足を吹き飛ばされ、顔貌も変形した兵士達。それが日常的な存在となる。彼らに対する十分なケアの提供をアピールすることは、更なる戦争を遂行し、更なる動員を続ける上で不可欠な国家的課題となるのである。

 

 「傷痍軍人 写真週報」で検索すると、アジア歴史資料センターのサイトがヒットする。当時の国策情報誌であった『寫眞週報(写真週報)』のページには、傷痍軍人を取り扱った記事が少ないものではないことがわかるはずだ(→ https://www.jacar.go.jp/shuhou/shiryo/shiryo02.html → https://www.jacar.go.jp/shuhou/shiryo/shiryo05.html )

 

 ここでは昭和14(1939)年と昭和17(1942)年の『寫眞週報』記事タイトルから、傷痍軍人を取り扱ったものを太字で示してみよう(関連した内容を含む)。昭和14年は、支那事変の2年目であるが対米英戦争に至る前の段階であり、昭和17年は、前年12月8日の真珠湾攻撃以来の対米英戦争での戦勝気分が続いていた時期ということになる。

 

 

  第53号 ( 昭和14年(1939年)2月22日 )
 三河の新天地 白系露人の集団部落
 仮包帯も弾の中 野戦病院
 戦場に散った花

 国策料理 鯨 鰯 兎
 海外通信 アルプスの雪中演習 ドイツ陸軍
 読者のカメラ


  第54号 ( 昭和14年(1939年)3月1日 )
 満州国建国七周年
 姑娘は風を切って
 春は太倉にも
 わが鉄腕鉄脚部隊
 白衣と桃のお節句
 海外通信
 読者のカメラ


  第84号 ( 昭和14年(1939年)9月27日 )
 いで湯に癒す 傷痍軍人白濱温泉療養所
 鉄腕に振るふハンマー 傷痍軍人大阪職業補導所

 坊や、お母さんは先生よ 未亡人のための特設教員養成所訪問記
 おぢさん ありがたう
 勇士よ銃後は大丈夫 農村の妻女より
 遥かなる祈り 芹沢光治良
 読者のカメラ


  第232号 ( 昭和17年(1942年)8月5日 )
 噫々軍神 加藤建夫少将
 双葉より神鷲の面影 軍神の遺品
 使命果した廣田特派大使
 セレター軍港今や全し 昭南島
 囚人部落も日の丸に協力 フィリピン・パラワン島
 配給の煙草に歓呼わく ボルネオ・サマリンダの町
 片足で踏み登る一万二千尺 東京府下傷痍軍人の国威宣揚富士登山
 防空待避所の作り方
 壮丁に金槌あるべからず 埼玉県秩父町在郷軍人分会の壮丁者水泳講習会
 ザリガニ殲滅戦 東京市葛飾区
 白衣勇士を慰める祇園囃子
 銃後のカメラ


  第235号 ( 昭和17年(1942年)8月26日 )
 米州からの交換船昭南島に安着
 俘虜も御奉仕昭南神社の御造営
 帝国海軍ここにも作戦を展開 支那方面艦隊の温州封鎖
 わが潜水艦見事 敵輸送船を撃沈
 タイ国の幼稚園
 働きながら療養できる 傷痍軍人奉公財団山梨作業所
 九月の常会
 大学生のお医者さん 山村僻地を往診 埼玉県秩父
 樺太オタスのよいこども
 銃後のカメラ


  第240号 ( 昭和17年(1942年)9月30日 )
 新中国へ 答訪使節 晴れの首途
 軍人援護強化運動 十月三日-八日 再起を夢みて傷も忘れた昨日今日 千葉県傷痍軍人下総療養所
 夫の遺志をつぎ 明日への希望を胸に秘めて 軍人遺族東京職業補導所
 兵隊さん有難う 愛知県八幡町第一国民学校
 新生ジャワは我らの手で
 満州国皇帝陛下建国忠霊廟に御親拝
 満州国建国十周年式典 新京
 町から里へ 救援案山子隊
 銃後のカメラ


  第243号 ( 昭和17年(1942年)10月21日 )
 シドニー湾強襲の特別攻撃隊英霊祖国に還る
 ソロモン群島を鼻の先に ラバウルの我が基地悠々
 ジャワを南の楽園に
 兵隊さんと二人三脚 傷痍軍人練成大運動会 東京
 まづ白衣勇士の食膳に 外堀でとれた鯉一千尾 東京

 二十分間に六十九メートル 縄なひ競技大会
 さんま網大増産 茨城県
 独仏俘虜交換協定 フランス
 薬用けしの増産

 

 

 傷痍軍人が世間から「隠された存在」(あるいは隠されるべき存在)などではなく、国家により手厚く保護され賞賛されるべき存在として取り扱われていた事実が伝わるはずだ。国策広報誌(昭和14年段階では内閣情報部編輯、昭和17年では情報局編輯)に、傷痍軍人は繰り返し登場していたのである。

 これらの記事の中でも、「わが鉄腕鉄脚部隊」、「鉄腕に振るふハンマー 傷痍軍人大阪職業補導所」、「片足で踏み登る一万二千尺 東京府下傷痍軍人の国威宣揚富士登山」、「働きながら療養できる 傷痍軍人奉公財団山梨作業所」、「軍人援護強化運動 十月三日-八日 再起を夢みて傷も忘れた昨日今日 千葉県傷痍軍人下総療養所」といったタイトルが示しているのは、義肢を装着することで能力を回復し、前線への復帰は叶わぬにしても生産の現場で再び国家に奉公することが期待される、生産性のある傷痍軍人の位置付けである。

 

 ここで国家による義肢の支給について、その歴史的経緯を、まず「しょうけいかん(戦傷病者史料館)」(木下氏も、しょうけいかんの展示を紹介していた)による企画展示解説資料(平成26年度 夏企画展)によって確認してみたい。

  
  戦傷病者に対して、恩賞制度の一環として各種の義肢が支給され、審美的な装飾義肢から実用的な作業用義肢へと変化していきました。
  明治10(1877)年の西南戦争で、大阪陸軍臨時病院がオランダ製の義肢を手渡したのが義肢支給の始まりです。明治27(1984)年の日清戦争以降は、昭憲皇后の御沙汰により恩賜の義肢が下賜されました。明治37(1904)年の日露戦争時には、廃兵院の設置や失明軍人の盲学校開設など、社会復帰のための施策が拡充されます。大正末期から昭和初期には審美的な装飾義肢の他に、社会復帰を前提とした実用性重視の作業用義肢が支給されました。日常生活から各種の職業、用途別に様々な作業用義肢が製作され、各人の適性と、義肢の特性を踏まえて職業を選択しました。辛いリハビリテーションと、慣れない義肢での職業訓練に耐え、社会復帰を目指したのです。

 
  (日清戦争時の)戦傷者のほとんどは銃創、砲創、刀傷、火傷などですが、特に凍傷患者の多くは、手足の切断を余儀なくされたのです。
  昭憲皇后は深くお心を痛められ「軍事に関して手足を切断したる者は、軍人と否とを問わず、彼我の別なく、人工手足を」との御沙汰があり、皇后陛下の御手元金から義手、義足、義眼が製作され、敵味方の区別無く下賜される運びとなったのです。
  陸軍においては、義手31名、義足90名、義眼10名の合計131名(うち捕虜9名を含む)海軍でも義手7名、義足5名、義眼4名がその恩恵に浴しました。

 
  日露戦争(1904)時には、それまでの小銃での撃ち合いを主とする戦闘から、大砲による長距離からの砲撃戦へと、兵器やその運用は大きく変貌しています。
  兵器の発達によって、受傷の様子も変化することとなります。
  医学面でも広島予備病院へのX線装置の導入など確実に進歩を遂げており、戦傷病者に対する様々な治療法と共に、戦傷病者の本格的な社会復帰のための施策が始まります。

 

 この日露戦争時に廃兵院の設置、失明軍人対象の盲学校の開設といった施策がとられる。注目しておきたいのは、

 

  陸軍大将乃木希典の自らの開発による、世界で初めてとなる画期的な作業用能動義手である「乃木式義手」もこの時期に完成しています。

 

という、作業用義手の登場と、それが「世界で初めて」と位置付けられ、しかも乃木大将がそこに関与していたとのエピソードであろうか。

 

  大正末期から昭和初期になりますと、それまでの「なるべく生まれた時の姿に近いように」外観を重視した審美的な恩賜の義肢に象徴される「装飾用義手」の他に「社会復帰を前提とした」実用性重視の「作業用義肢」が支給されてゆきます。
  昭和17(1942)年には、戦争の激化に伴って増加する戦傷病者に対応するため、義肢の研究費が大きく増額されます。
  材料本廠全体の研究費200,000円(現在の約20億円に相当する)に対して、義肢の研究費は、その1割に当たる20,000円(約2億円相当)が計上されていました。
  昭和15(1940)年度の研究では、装飾用義手に作業用義手の機能をも持たせると言う現在の義手製作の基本にも通じる命題がありました。装飾用の手掌を外すと作業用義手が現れるという仕掛けで完成し、実際に支給されております。

 

 この作業用義手の持つ意味については、上田早記子氏の「傷痍軍人福岡職業補導所における職業再教育」(2014)がわかりやすい。

 

   傷痍軍人は明治の頃は、「廃兵」と呼ばれた。当時は「廃」という言葉からもわかるように「廃れた」、「使えない」兵士として扱われた。しかし、国のために戦争に出兵し傷病を負った戦傷病者に対して国が何の対応もしないことは、戦傷病者の家族などからの不満を生み、新たに兵士になる者の不安を仰ぎ、国を不安定にすることになりかねなかった。そのため、傷病または死亡した場合など一部を対象に、本人またはその遺族に安定した生活を保障するために恩給制度が始まった。他にも廃兵院と呼ばれる入所施設も建てられた。1937年に日中戦争が起き、その後第二次世界大戦に突入する中で、「国家総動員法」が成立した。そして、戦争による労働力不足を補うため強制的に国民を徴用し生産に従事させる「国民徴用令」が発布された。このような時代背景の中、傷痍軍人であっても年金により生活を安定させるのではなく、再度立ち上がる、いわゆる再起奉公として生産に従事できるようになることが求められた。求めたばかりではなく、職業訓練や職業斡旋など職業保護が政府によって打ち出され、急速に発展していった。

 

 近代総力戦状況の中で、「傷痍軍人であっても年金により生活を安定させるのではなく、再度立ち上がる、いわゆる再起奉公として生産に従事できるようになることが求められた」のである。国家の施策として作業用義手の開発研究費も増額され、作業用義手を装着しての職業訓練施設も用意され、職業斡旋にも積極的な姿勢が示されたというのである。傷痍軍人達にも、実際に生産労働に従事することが求められたのである。

 先に紹介した『寫眞週報』の記事もまた、そのような時代背景の中で、作業用義肢を装着し、生産労働に意欲を示す傷痍軍人の姿を強調しようとするものであった。
 
 いずれにせよ、ここでは傷痍軍人は生産労働の第一線を担うべき存在として位置付けられ、政府広報誌に取り上げられているのである。戦時日本の風景の中に、傷痍軍人は可視化され、少なくとも建前としては敬意を以て取り扱われるべき存在であった。障害者であっても、生産労働に積極的に従事しようとする存在として、国家に顕彰されるのが傷痍軍人なのである。その一方で、障害と共に生まれた人々は、生産と無縁な存在として差別の対象であり続けたのである。傷痍軍人は国家により積極的に包摂され、同じ国家が、生産労働を担えない障害者を社会から排除する。

 

 「生産」という語には、平成の末期の用語法からのアプローチも重要であろう。「LGBTには生産性がない」という「保守」政治家の、あの用語法である。世代の再生産という問題である。傷痍軍人達にとっては、それは自身の「結婚」の問題であった。高安桃子氏の「戦時下における傷痍軍人結婚保護問題―傷痍軍人とその妻に求められていたもの」(2009)はその「問題」を論じたものだ。

 

  福祉施策の未整備から、多くの障害者は困窮した生活を強いられていたことに加え、戦時体制のもとでは「出征して国に貢献することができない存在」という烙印を捺され、肩身の狭い思いをさせられていた。その上さらに1941年の「国民優生法」施行により、「障害者は生まれてはいけない存在」という、現に生きている障害者の生存の否定につながるような時代の空気にさらされることとなったのである。

 

 これが「障害者一般」が戦時期に直面させられた状況であったが、

 

  このような差別の対象である一般障害者と、国のために戦い、尊敬の対象とされるべき傷痍軍人とが、障害を持っているという点で世間から同一視されることを、国家は阻止しなければならなかった。

 

 戦時期において「障害者一般」は、「出征して国に貢献することができない存在」であることが強調され、傷痍軍人との差別化が進行した。傷痍軍人は既に「出征して国に貢献した存在」であり、更に作業用義手を装着して生産労働に従事する存在として、より差別化は進行する。それに加えて、「障害者一般」とは差別化されるべき傷痍軍人の結婚が問題となる。

 

  傷痍軍人と一般障害者とを、異なった存在であると説明する方略としては、傷痍軍人の障害は戦争に起因するものであり、遺伝しない障害であるという説明の仕方がとられた。

 

 世代の再生産という文脈(平成末期の保守言説の文脈でもある)から、「遺伝」を理由に一般障害者が排除されると同時に、傷痍軍人の障害が「遺伝しない障害」であることが強調されたのである。

 男性として社会的認知を受けるためには、生産労働を担うだけでは不十分であり、「妻を娶る」ことのできる存在として社会から見做される必要があった。見做される(それは建前に過ぎない)だけではなく、現実に自身が結婚していることが、当事者としての傷痍軍人達にも望ましいこととして考えられていたであろう(当時の社会通念の中では、男は結婚して一人前、なのである)。しかし、実際にはハードルは高い。「生産労働を担う」といっても、障害者としての傷痍軍人の労働は結婚生活を支えるだけの収入に結びつくとは限らない。職業生活にとどまらず、家庭での日常生活もまた、現実的には障害者としての様々な不便の中での生活であり、それを支えることも妻には求められる。

 当時の結婚斡旋をめぐる言説を読むと、妻にも職業生活が期待されていたことがわかる。すなわち、現実の問題として、傷痍軍人=障害者としての夫の収入に依存することの困難があり、妻にも収入源を持つこと=収入に結びつく職業を持つことが期待されていた。

 

  また、結婚により傷痍軍人を絶望から救い上げることは、出征できない女性にとっての国家貢献であるとされた。傷痍軍人の花嫁を養成する機関では、生計を担うための職業的能力を養成することが目指された。これは夫婦の中で妻が生計を担うという、当時のジェンダー規範が逆転した現象であり、傷痍軍人の妻に求められていた特有の役割であるといえる。妻は介護力としても期待され、夫の「再起奉公」を助けるという傷痍軍人の妻ゆえの役割が求められた。その結婚生活は苦労が前提とされ、その生活に踏み込むためには、女性にとって大きな覚悟が必要であった。

 

 傷痍軍人の妻には、生計を担うための職業生活が期待され、同時に障害者としての傷痍軍人の介助・介護者としての役割もが求められたのである。

 傷痍軍人の花嫁となるべき若い女性への国家からの期待がある一方で、世間の目は醒めたものであった。高安氏は、昭和18(1943)年の大政翼賛会による「健民運動資料 第三輯 七、軍事援護二関スル調査報告書」から、当時の実際の世間の反応を例示している。傷痍軍人結構相談所開設の理由について、

 

  コノ相談所ノ開設セラレタル県ニシテ、コレニ関心ヲ持ツ者極メテ少ク、係ノ異ル役向ノ人ハ全クコレニ関与セズ。一般民衆モ殆ンド無関心ナリ。甚シキ場合トシテハ傷痍軍人二嫁ガントスル娘ヲ軽蔑スル風潮サヘアリテ、本事業ノ進行ヲ妨グルコト少カラズ。

 

このように記されているという。これが昭和18年(既に対米英戦2年目である)の、世間の目の現実であった。国家による可視化の一方で、世間(一般民衆)は見て見ぬふり(しかも、ただ「無関心」なだけでなく「軽蔑スル風潮サヘアリ」)だったのである。

 

 軍人であることの期待に応えるという意味において、傷痍軍人は、その役割を十分に果たした人々である。男性として、名誉の負傷は讃えられるべき勲功である。しかし、傷痍軍人として生きることは、障害を負って生き続けねばならぬことを意味する。

 戦時期の日本では、それでも傷痍軍人の存在は可視化され、国家の保護施策の対象であった。戦後は、人々にとって、可能であれば目にすることを避けたい存在として取り扱われてきたように見える。であるからこそ、戦時期の国策広報誌の中に可視化された存在として現れる傷痍軍人の姿を見ることが、意外性を伴う経験となるのであろう。

 今回の出発点となったのは、「手のかたち・手のちから」の展示会場であった(そこには、少なくとも当面は傷痍軍人を生み出すことがないであろうことが期待される現代日本の技術を結集した、筋電義手の展示もあった)。三方石観世音では、観世音の持つ治癒力が人々を引きつけた。手や足、あるいは視力を失った傷痍軍人には、「治癒」あるいは「快復」という時が訪れることはない。戦時期の(そして戦後の)日本において、それが傷痍軍人として生きることとなった人々の経験であった。その事実の持つ意味を深く見つめる機会としておきたいと思う。
 

 

 

【蛇の足】
 神野先生による武蔵野美術大学美術館での展示企画については、以前にも取り上げたことがある。

  「近現代史の中の蚊(あるいはモスキート) 」(2011年)参照

 そこでも、展示企画そのものについてというよりは、展示にインスパイアされての私の脳内反応を記すものとなっていた。神野先生の果てなき好奇心を(思うがままに、と言いたいところだが、とりあえず予算の許す限り、であろう)展開したような展示空間が、私の脳内にもたらした作用の記録である。今回も、あの展示会場での経験が、傷痍軍人の義肢へと展開するのには我ながら驚かされた。これもまた、ある種の「神の手」のもたらす経験かも知れない。
 そういえば、木下氏との対談の場では、神野先生は杖をついていらした。足を傷めたらしい。展示期間の最後に、自ら三方石観世音の御利益を経験しようというのであろうか? 民俗学者とは、そこまで突き進んでしまうような存在なのであろうか?

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2019年8月23日 (金)

溶鉱炉の火は赫々と燃えているが(戦時木造船の周辺 2)

 

 前回記事では「撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺)」と題して、昭和18(1943)年当時の官製国策情報誌である『週報』及び『寫眞週報』(どちらも情報局編輯)の記事から、戦時期の都下小平地域の軍需調達(具体的には青梅街道の欅並木伐採)を扱った「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」の補足情報を紹介した。

 総力戦状況下での深刻な物資不足状況が伝わる記事であったが、今回は同年の『アサヒグラフ』を取り上げる。

 

 

 大東亜戦争(いわゆる太平洋戦争、アジア太平洋戦争、あるいは第二次世界大戦の日本政府による公式名称である)初期においては、大日本帝國は広大な占領地域を確かに手にした。しかし、本土と占領地間の物資及び人員の補給を担うべき海上の船舶不足はすぐに深刻となった。そもそも日本海軍には輸送船団護衛の余力(発想自体というべきか)はなく、護衛を欠いた輸送船団に対する攻撃(海面下の米海軍潜水艦は脅威であった)により失われた船舶を補充するには、鋼材不足は決定的であった。既に支那事変(対中戦争)段階から、重要な軍需物資である鋼材は(石油と共に)米国からの輸入に多くを依存していたのである。支那事変の拡大は、米国からの鉄材(及び石油)輸入の途絶をもたらし、その打開策として対米戦争を選択したのである。前回記事で紹介した三井昭二氏の評にある通りで、まさに、

 

 資源が無いために開戦し、資源が無いために敗戦した

 

というしかない状況であった。

 船舶需給の危機的逼迫により、まず構造の規格化・簡易化による鋼船(戦時標準船)建造計画が進められ、しかしすぐに鋼材不足の深刻化から木造船建造へと事態は進展した(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」参照)。

  木造船建造用木材の供出の一環として、小平地域では青梅街道の欅並木の伐採が起きたのである(同記事中では、『寫眞週報』第263号―木材供出のための岡山県での神社の御神木の伐採事例等が掲載されている―も画像で紹介してある)。

 さらに昭和18年10月27日の『週報』(第367号)、そして『寫眞週報』の270号(昭和18年5月5日)掲載された関連記事を紹介したのが、前回の「撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺)」ということになる。

 

 

 今回取り上げるのは、日本を代表するグラフ雑誌であろう『アサヒグラフ』の第四十巻・第十三號(昭和18年3月31日)である(表紙には「大東亞戰争第六十五報」の文字がある)。同時期の米国を代表するグラフ雑誌の『ライフ』に比較すると、判型はほぼ同サイズだが紙質・印刷は劣り、ページ数も少ない(『アサヒグラフ』は表紙・裏表紙を含め20ページであるのに対し、『ライフ』は表紙・裏表紙抜きでも100ページある)。民間グラフ雑誌を手にするだけで、両国間の国力の差は明らかである(下の画像は、わが情報局の国策広報誌『週報』、やはり情報局の国策グラフ誌『寫眞週報』、民間グラフ誌を代表する『アサヒグラフ』、そして暴戻なる米国の民間グラフ雑誌『ライフ』を並べてみたところ―『週報』と『寫眞週報』については前回記事で取り上げてある)。

 

R0061618

 

 

 昭和18年3月31日の『アサヒグラフ』の10~11ページは「木造船は征く」と題された、木造船についての記事である(漢字は新字体、カナは旧仮名遣ひによる―オリジナルの横書きのキャプションは右から左へ書かれている)。

 

R0061601-3

  

    木造船は征く
 カーン、カーン、早春の明るい陽差しを受けた河面に樫の楔を打ち込む音が澄んだ空に流れてゆく。ここは○○木造造船所。ヨイショエイコラと船大工さん達の掛声も勇ましく、戦闘帽を冠つた造船戦士は『さあやらうぜ』と張り切つた掛声に、鉋を削る音も快い。『秋田おばこが、雪の中を馬橇で運び出してくれた船材だ、なんて素晴らしい木理だらう』と感嘆する供木こそ、木材応召の愛国至情に燃えて、祖先の築いた美林や、由緒ある松並木を、英米撃滅の決戦場に雄雄しく出陣させた赤誠溢れる尊い木材なのである。
 働く大工さん達も、太平洋の怒濤を突切る気負に溢れ、一本の釘にも、精魂を傾け、立派な船を造るぞと情熱をこめた手練の妙技で、巨大な龍骨が組み立てられたと思ふ間に、白い筋骨隆々たる男性の逞しさを思はせる龍骨美は忽ち消えて、板が張られ、帆柱が立つて木造船は竣工する。やがて硝煙漂ふ太平洋の彼方へ、颯爽と日の丸の旗を飜して雄々しくも征く。
 全生命を打ち込んだ戦士達は、『しつかりやつて来い』と晴れの船出を見送り。進水した後には早くも船台が据ゑられて、戦ひに勝つため木造船はあとからあとからと建造されてゐる。
(写真キャプション)
 樹齢三百年にも余る巨木が続々造船所へ、嘗ては街道を飾つた松並木、深山の檜も、木造資材として、鋸にひかれる
 鑿の音、鉋を削る造船交響楽に巨大なマンモスの肋骨を思はせる龍骨が組み立てられその用途に別れて船材となる
 木船が続々と建造され、龍骨を組み立てた隣には、早くも進水を待つ船が内部の完成を急ぎ、戦場のやうな忙しさだ
 木の肌もくつきりと、船の生命龍骨は、強靱な骨格を見せて春陽を浴びてゐる
 板が張られて完成に近い船は美しく塗られ船尾は米英の弾丸なんか蹴飛ばせと声を振つて精魂こめて仕上げをする
 船体が出来上がると最後に船内を造る 輸送の大任を果す大事な船艙だ 造船に敢闘する人々の手は思はず弾み緊張する
 見事に木船は完成した 大東亜の洋上へ船出する日に備へ船体には美しく鮮かな日の丸が描かれて晴れの日を待つ

 

 順調な木造船建造の進捗を伝える(ための)記事であろう。ここにも、「秋田おばこが、雪の中を馬橇で運び出してくれた船材」、「樹齢三百年にも余る巨木が続々造船所へ、嘗ては街道を飾つた松並木、深山の檜も、木造資材として、鋸にひかれる」などの記述があり、木造船建造に先立つ木材供出の現場の状況が記されている。

 

 

 この記事だけを読めば、順調な木造船建造による戦局打開への期待も抱けるかもしれないが、しかし、昭和18年3月31日の『アサヒグラフ』の巻頭記事の表紙に記されたタイトルは「日本の鐵鋼、逞しく増産」なのである。それが現実のものとなっていれば、そもそも戦時標準戦建造計画において安全面を犠牲にしての増船政策を採る必要もなければ、ましてや木造船建造に頼る必要などないのである。「嘗ては街道を飾つた松並木、深山の檜も、木造資材として、鋸にひかれる」必要などないのだ。先にも示したように、中国大陸での軍事行動の拡大(支那事変)、加えて東南アジア地域への軍事的進出(南北仏印進駐)により、大日本帝國の軍事行動を支えていた鉄鋼材や石油が入手困難(どちらも米国が供給源)になり、その果ての対米英開戦なのである。その点を踏まえた上で、「日本の鐵鋼、逞しく増産」も読んでおきたい。記事本文でのタイトルは「日本の鐵鋼」である。まず表紙を開いて左ページ全面から記事は始まる(ページ数としては3と表記―表紙が1ページに相当し、2ページに相当する右ページは表紙裏の広告。キャッチコピーとして用いられている「俺は還らぬ」には唖然とさせられるしかない―熟練を要するパイロットの命を粗末に扱うことを誇るような文言に酔いしれるようでは総力戦での勝利はないだろう。パイロットの命を使い捨て扱いするのではなく、生かし続け使い回し続けることでこそ、そこに価値を置くことでこそ、勝利は得られる)。

 

R0061598-3

 

  日本の鐵鋼
 祖宗の神霊まことに上にあり、日本民族が皇国三千年の興廃を賭け、挑まれたる戦ひに断乎起ち上れる時、その時こそは凡ゆる不可能事を可能ならしめる不抜の闘志と不撓の創意と不屈の努力の油然としてわき上るを我等は堅く信じてこれを疑はぬ。
 わが製鉄の事業に於てこれを歴然と見るのである。
 想定の敵国たる獣鬼アメリカに超重要産業たる鉄鋼生産の一切を依存せる時代はまさに僅々二年余の過去に過ぎなかつた。識者をして薄氷を踏むの感を抱かしめてゐたが、果然昭和十五年十二月、暴戻なるアメリカは鉱石、銑鉄、鋼材の全面的輸出禁止をもつて我を脅かすに至つたのである。
 みどり児の幼き手を捩ぢり上げる底の思ひ上がりを以つて、われ屈服すべしと考へたアメリカの増上慢に、痛切苛烈の一矢を酬いたものは実に鉄鋼の自給□□(二字不明)の増産とである。指導者の熱意と、産業戦士諸君の挺身と国民の至情とによつて、今や完全なる皇国日本の鉄鋼たり得たのだ。
 見よ、溶鉱炉の火は赫々と燃え、灼熱する高炉は続々と明日の国防資材を充足するための鋼材を生み出しつつあるのだ。
   〇〇製鉄所にて
   鈴木・富重両特派員撮影
   (写真は陸軍省検閲済)
(写真キャプション)
 (上)岸壁に横づけされた船舶から鉄鉱石は起重機によつて続々荷揚げされる (下)溶鉱炉から出る溶銑は見事な火の瀧となり、鋳床の樋を流れて溶銑鍋へ

 

 現在では「反日」の代名詞のような扱いを受ける朝日新聞社だが、ここでは「祖宗の神霊まことに上にあり、日本民族が皇国三千年の興廃を賭け、挑まれたる戦ひに断乎起ち上れる時、その時こそは凡ゆる不可能事を可能ならしめる不抜の闘志と不撓の創意と不屈の努力の油然としてわき上るを我等は堅く信じてこれを疑はぬ」と戦時日本の精神万能主義的神がかり気分を昂揚させ、「想定の敵国たる獣鬼アメリカ」、「暴戻なるアメリカ」、そして「アメリカの増上慢」と米国罵倒に力が込められるところを深く味わっておきたい。もっとも、「反米」は今に至る伝統なのかもしれないが。

 いずれにせよ、「見よ、溶鉱炉の火は赫々と燃え、灼熱する高炉は続々と明日の国防資材を充足するための鋼材を生み出しつつあるのだ」と自慢する数ページ先では、「木材応召の愛国至情に燃えて、祖先の築いた美林や、由緒ある松並木を、英米撃滅の決戦場に雄雄しく出陣させた赤誠溢れる尊い木材」が讃えられるのである。「溶鉱炉の火は赫々と燃え、灼熱する高炉は続々と明日の国防資材を充足するための鋼材を生み出しつつある」のが現実であれば、「祖先の築いた美林や、由緒ある松並木」にまで手を出す必要はなかろう。しかも、その「尊い木材」による増船政策としての「木船建造緊急方策要綱」(1943年1月の閣議決定)にしても、吉川由美子氏によれば、「木造船はあくまで鋼船の補完的役割を期待されたが、鋼船と同様、戦時標準型が決められ大量生産がおこなわれた。しかし、急な大量生産のため浸水するものが続発し、木造船建造の目標は烏有に帰した」(「アジア・太平洋戦争中の日本の海上輸送力増強策」 2004)のであった。

 

 再び「アサヒグラフ」記事を読もう。続く4~5ページは写真とキャプションだけで構成されている。

 手元にある『ライフ』誌の一冊(1943年8月9日号)には、「WOMEN IN STEEL」と題されたマーガレット・バーク=ホワイト撮影による記事が掲載されている(今回の記事の最後に「追加参考画像」として紹介してある)。『アサヒグラフ』には女性労働者は登場しないが、『ライフ』は製鉄所の現場で活躍する女性労働者に焦点を当て、特集記事としているのである。当ブログでは既に「フォードの爆撃機、あるいはロージーのリベレーター」として米国の戦時女性動員について取り上げているが、この『ライフ』記事でも、製鉄所のハードな現場労働の第一線を担う女性達の姿が紹介されている。『アサヒグラフ』でも『ライフ』でも、製鉄所内の特徴的な光景(重厚長大産業の代表としての大規模な設備群-重量・巨大さ・広大さ・高熱といった条件)は等しく取り上げられており、『アサヒグラフ』のカメラマンの技量の確かさも誌面から伝わる(ただし、残念ながら、紙の質、印刷の質において『ライフ』に大きく見劣りする)。

 

R0061600-3

 

(写真キャプション)
 溶けた銑鉄は更に精錬の鋼鉄となるために起重機によつて平炉に漉きこまれる
 平炉から出る鋼鉄の熱湯はこれを鍋にとり 起重機に吊つて鋳型に流し込む。この鋳型で出来たものを鋼塊といふ
 溶鉱炉内に溜つた溶滓は出銑時の合間に出滓口を開いて取り出さねばならない
 鋳型から抜いた鋼塊灼熱したまま台車の上に載せて分塊工場に運搬される
 鋼塊はその用途によつてまた圧延される。これは厚板に圧延される一工程だ 厚板になつた製品は工場内に積まれ艦船用・汽罐用鋼板となつて戦ひに出る
 出来上がつた鋼鉄資材 ああこれこそ日本の鋼だ
     (4~5ページ)

 

 「厚板になつた製品は工場内に積まれ艦船用・汽罐用鋼板となつて戦ひに出る」ことへの期待は大きいものであったはずだ。しかし、造船の現場で建造されたのは、安全性を軽視した簡易構造の、いわゆる戦時標準船であった。

 

  この徹底した簡易構造の中でもその際たるものは船舶の安全の基本に関わる二重底の廃止であった。二重底とは船底を二重構造に組み上げ、船舶が座礁などしたときに船底の決定的な破損を少しでも軽減し沈没の危機から救うこと、また船体の強度を高めるための基本的な構造として採用されている、船舶の構造上必要不可欠なものである。
  二重底の組み立てはその船が起工され船台上で工事が始まった直後から開始される最重要の工程で、確かに多くの鋼材と多くの作業を要する複雑な工程である。この複雑な工程を排除することは船の建造のスピードアップには確かに極めて効果の大きなものであるが、その反面、船の安全性を根底から否定することでもあり、特に用船者側から見れば信じられない暴挙であった。
  二重底の撤廃に対しては航海の安全が保証されず、任務の遂行も保証できないとして各海運会社等からは、設計主務者である海軍艦政本部に対し厳しい批判と苦言が呈された。しかし艦政本部はこれら全ての批判や苦言を黙殺し二重底撤廃を強行したのである。つまり第二次戦時標準船は大小全ての船が二重底を装備していないという、信じられない構造の船となったのであった。つまり各船の船底は十~二十ミリの鋼板一枚だけであったのである。
  徹底した簡略設計や工作が強行され、また作業工程が簡略化されて完成した船はその後それぞれに多く問題を残すことになった。その代表的な例が水密性の欠陥であった。
  造船所で完成した船が、竣工検査で必ず実施するものに船体の水密性に対する検査があった。これは船体の吃水線以下の船体の漏水の検査で、不良工事は将来的にその船の沈没も招きかねず、事前に徹底的に検査することが決まりであった。ただこの検査は多くの時間を要することになり、不良個所の改修作業も決して容易ではなかった。第二次戦時標準船では完成時のこの検査を極めて簡単な簡易検査だけにとどめてしまったのである。
  このために信じられないことではあるが、完成直後から直ちに輸送任務に投入された各船では、しばらくの間は乗組員による漏水個所の手直し作業が行われるという、異常な状態が続くことが多かったのである。また甲板の鋼材の電気溶接個所も、工作不良により船内に水漏れが生じることは日常的で、就航後は当分の間、乗組員による様々な手直し作業が続くのは当たり前というのもこれらの船の特徴でもあったのである。粗製濫造の極みともいえる状態は確かだったのである。しかしこの混乱は設計だけに原因があるのではなく、後述するように多くの部分が造船作業員の技量の大幅な低下に由来していたのであった。
     (大
内建二 『戦時標準船入門』 光人社NF文庫 2010  80~82ページ)

 

 問題を抱えていたとはいえ、その一応は鋼船であった戦時標準船の建造は、総力戦下の船舶需要を満たすには遠く、政府は「木造船建造緊急方策要綱」を閣議決定する。

 

 大東亜戦争の長期化に伴いますます深刻化する船腹戦争の事態に対処し、海上輸送力の積極的増強をはかることは緊急焦眉の国家的課題であり、政府はこれがため夙に鋼船による計画造船と並行して鉄鋼資材関係より簡易な設備をもって、しかも急速に建造され得る木造船の増強をはかるべくかねて木造船戦時標準船型の制定、木造船別の企業合同などの措置をとってきたが時局の緊迫にかんがみ昭和十八年度において木造船の飛躍的増大を目途とする「木造船建造緊急方策要綱」が二十日閣議決定をみた
     (大阪朝日新聞 昭和18年1月21日)

 

 その「緊急方策」の具体化した姿が、先の「木造船は征く」に描かれていることになる。

 

 

 そして、「緊急方策」の下に、小平市内(当時は小平町)の青梅街道の欅並木も伐採されてしまったのである。『用水路 昔語り』(こだいら 水と緑の会 2016)にある回想を読み返しておこう。

 

  青梅街道沿いにはずっと欅の並木があったんですよ。ある時ぱっと切っちゃいましたが。当時覚えていますけど、大きな欅の並木があり下にはヒイラギの垣根があったんですよ。道も勿論舗装もしていなくて、いい雰囲気だったんです。

 

  この辺は大きい欅がいっぱいあったんです。防風林になるし、落ち葉は出るし六十年周期で製材所に売ってたんです。船材とか電柱に使ったんです。戦中、終わる頃に供出で全部切られてしまった。

 

  昔はこの青梅街道は欅のトンネルだったんだよ。竹内さんとこにはちょこっと残ってるけど、もうずーとあんな感じでトンネルだった。子供の頃から戦争中までね。

 

  船材として全部供出ですよ。大きいのから強制的に切られた。それで無くなっちゃったんだ。

 

  船材にされちゃったんだね。昔はこの青梅街道沿いにずっと欅があったんだけど、陸軍大臣の代理の人が来て、管理して切ったんだよ。

 

  そしたら持っていかないうちに終戦になっちゃってね。

 

  みんなデカイ欅でね、それ全部切っちゃったからね、それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ、まったく悲しいよね。

 

 

 

 

【追加参考画像】

R0061631-3

R0061632-3

R0061633-3

R0061634-3

 

 

 

 

 

《記事一覧》

 カテゴリー
 「多摩武蔵野軍産複合地帯
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/cat71885235/index.html

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-c5f0.html
  昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(星野朗氏の論考紹介)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-00e7.html
  (1)に続き、多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(特に軍の展開状況)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-0537.html
  用語としての多摩と武蔵野(歴史的視点と自然史的視点)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-4460.html
  武蔵野台地における水資源確保の困難について矢嶋仁吉氏の論考紹介

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-cb9a.html
  小平地域の軍事関連施設の総力戦期的特質

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-8e6b.html
  軍産施設の進出に伴う集団住宅建設問題(住宅営団と東京瓦斯電気のジードルング)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-22a7.html
  武蔵野台地上での水源確保の困難を営団住宅の給水問題を通して再確認

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (8)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-242c.html
  『国分寺市の今昔』(2015)巻末の一覧を用いて軍産施設設置状況を再確認

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-b433.html
  箱根土地の小平学園開発と販売戦略としての小平簡易水道設置とナチス礼賛広告

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-6ff4.html
  「津田こどもの家」を中心に、総力戦下の女性動員と託児所の役割

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-152e.html
  木材供出で姿を消した青梅街道の欅並木と「木造船建造緊急方策要綱」

 

 「グローブマスター機墜落 (軍産複合地域としての昭和十年代多摩 戦後編-1)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-511f.html
  1953年の小平町のグローブマスター機墜落事故と沖縄の現在

 

 「撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-511f.html
  昭和18年の『週報』、『寫眞週報』記事により、木材供出の全国的展開の様相を読む
  (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」の補足記事)

 

 「溶鉱炉の火は赫々と燃えているが(戦時木造船の周辺 2)
  https://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-15f4ee.html
  昭和18年の『アサヒグラフ』記事により、木材供出の全国的展開の様相を読む
  (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」の補足記事)

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

«撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺)