カテゴリー「多摩武蔵野軍産複合地帯」の記事

2018年10月14日 (日)

グローブマスター機墜落 (軍産複合地域としての昭和十年代多摩 戦後編-1) 

 

 これまで、「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、いわゆる戦前・戦中期の多摩・武蔵野地域の軍産複合地帯化状況について記してきた(カテゴリー「多摩武蔵野軍産複合地帯」の記事参照)。

 

 今回は、あえて戦後(いわゆる「先の大戦」、すなわち大東亜戦争の敗戦後)の小平地域の経験を取り上げてみたい。小平地域ではその一部が自衛隊施設となったのを除き、その広大な土地は様々に転用され、戦時期には軍事施設の集中地帯であった姿は大きく変容を遂げることとなった(註:1)。しかし、一方で、隣接する立川地区の陸軍立川飛行場は米軍に接収され、米軍の立川基地として運用が続けられ、小平地域の上空は、立川基地の米軍用機の飛行コースとされていった。

 

 その中で、朝鮮戦争下の1953年6月18日、当時の最大の軍用輸送機であったC-124グローブマスターが、立川基地離陸直後に小平町内小川地区に墜落した。129人という、当時で最大の犠牲者数をもたらす墜落事故であった(註:2)。

 空軍基地の隣接地域であること、すなわち米軍の軍事施設の隣接地域であることが、地域住民にとってどのような意味を持つのか? 現在の小平地域の住民の多くは、沖縄の米軍基地問題、米軍機事故問題を他人事としてしか考えていないように思われるが、地域の歴史的経験を振り返ることで、現在の沖縄が決して他人の話ではないことを再確認する機会になればと思う。

 

 

 ここでは、まず、グローブマスター機墜落事故の目撃者の証言により構成されたドキュメンタリー動画を紹介することから始めたい。

 中央大学の学生の取材・制作による地域紹介番組シリーズ(「多摩探検隊」)の一本である(ケーブルテレビで放映され、動画サイトにも制作者自身によりアップされている)。

 ちなみに、動画サイトにある内容紹介文には以下のように記されている。

 

  1953年6月18日、米軍立川基地から飛び立った米軍輸送機「C-124グローブマスター機」が小平市に墜落し129人が死亡しました。朝鮮戦争の前線から立川に戻り一時休暇を過ごした米兵を乗せて、再び朝鮮半島に向かう途中でした。
  事故直後に米軍が現場を封鎖し情報統制したため、その詳細は明らかにならないままでした。
  航空機事故としては当時史上最大の死者を出したこの米軍輸送機墜落事故について、目撃者の証言や貴重な写真資料を元に迫ります。

 

 

第102回 多摩探検隊 「グローブマスター機墜落事故」
 https://www.youtube.com/watch?v=_zjOkQC1yjA

 

 

 関係者の証言とナレーションを通して、事故のおおよその全体像は把握し得るものと思う。

 加えてここでは、まず、『小平市史』では墜落事故がどのように描かれているのかを読んでおきたい。

 

 

  一九五三(昭和二八)年六月一八日、立川基地から飛び立った米軍輸送機グローブマスターが、小川の農地に墜落した。乗員一二七名が死亡し、畑は一面の火の海と化した。麦畑やすいか畑で作業していた人びとのなかには、「全身に油を浴び火だるまになった」者もいた。修羅場と化した光景に付近の人びとは全く手の施しようがなく、ただ呆然とするのみであった。かけつけた地元小平町の消防署および消防団の放水では「効果は殆んど見られなかった」。
  急報により立川基地からの消防車や救急車、それに地元消防団、遠くは青梅、五日市、所沢からも数十台の消防車がかけつけた。必死の消火活動にもかかわらず、猛火は一時間以上もおさまらず、乗っていたはずの人影はなかった。
  乗員の生存者皆無、梅雨続きの雨の中、四散した機体が青白く光っていた。巨大な尾翼が地中に突き刺さったままである。やがて「人間かどうか」見分けがつかない「黒焦げ」の遺体が掘り出され、「なきがらを載せた数十台の米軍救援車は前後をMP(憲兵)のジープにまもられ、暗やみの青梅街道を一路立川基地に運ばれた」。
     (『小平市史』 2013  402ページ)

 

 

 事故の凄惨な状況が読み取れるものと思うが、その前に問題となるのは犠牲者数であろう。『小平市史』では犠牲者数を127名としているが、その数値については誤りと考えた方がよさそうである。実際問題として、『小平市史』に掲載されている当時(1953年6月19日)の朝日新聞記事画像でも「百廿九名(全乗員)が即死」との見出しが確認出来る。

 犠牲者数の問題を別とすれば、多摩探検隊の動画にある証言と共に、初動対応の状況を含めて、「何が起きたのか」を明らかにする記述である。ただし、動画の証言にあるように、「麦畑やすいか畑で作業していた人びとのなかには、「全身に油を浴び火だるまになった」者もいた」ということはなく、「軽い火傷」というのが当事者の実情であったようではある(『小平市史』の依拠した「飛行機墜落事故書類」にはそのように記されていたのではあろうが)。また、地上での犠牲者が他になかったのは、墜落地点が農地であったがための話であり、離陸直後の燃料満載状況での事故であったことからすれば、住民にとっても大惨事となる可能性もあったことには留意しておくべきであろう。現在では墜落現場の周囲は宅地化されつつあるし、墜落地点から自転車で数分の距離にある武蔵野美術大学のキャンパスに燃料満載の大型輸送機が墜落炎上することを想像してみれば、事故の重大さを再確認し得るはずである。

 

 ここまでは、事故の重大さを伝えるものであるが、続く『小平市史』の記述を読むと、当時の小平地域住民の経験はそのまま現在の沖縄の状況であり続けている事実に愕然とさせられることとなるはずである。

 

 

  直径約二キロの地区内は米軍のMPが厳重に交通をしゃ断し、すぐさま「ギャラップ・ゴー」の立ち入り禁止の麻縄のロープが張られ、日本側警察、消防団は現場より立ち退きを強いられ、MPが住を突きつけ、住民を追い払った。報道陣も写真を撮ろうとするとピストルで脅され、フィルムを抜き取られる始末であった。その範囲は三街道にもおよんだ。米軍のMP、部隊、AP(空軍憲兵)、救急車、消防車、照明車、クレーン車、トラック、ジープ、ブルドーザーは、付近の公道および私道より畑中を往来し、農作物並びに橋梁、井戸、門柱などに被害をおよぼした。
  このやり方に住民からは「日本の独立は名ばかりだ、行政協定があるのに占領時代と同じではないか、日本の警察官が遠慮して消極的すぎる」などの非難の声があがった。それを受け、衆議院外務委員会で地元選出の代議士並木芳雄が抗議の声をあげた。
  米軍兵士は、米ソ対立の接触点、朝鮮半島の前線に引き返すところであった。原因はエンジンの故障、そのため米軍最大の輸送機グローブマスターの性能までが疑問視された。ガソリンや消火液で畑はギラつき、農作物の被害は小麦、陸稲、じゃがいも、さつまいも、すいか、ごぼう、茶などにもおよび、立木・庭木、医療費などを含めた損害は約一〇〇〇万円に上った。墜落の衝撃で牛の乳量が激減しただけでなく、流産するケースもあった。にもかかわらず、被害を受けた小川住民は、八月四日に遭難現場で米兵慰霊祭を手厚く営んだ。
  半年後のこと、「大火傷をしたが幸い一命をとりとめた」住民は、「飛行機が頭の上を通るとゾッとしますよ。荒らされた畑の賠償問題もまだ解決していないが、今考えると悪夢のような気がしますね」と語った。補償問題は難航した。被害関係者二〇名は、六月二三日連名をもって「米機墜落事故発生並びに今後に対する善処方要望に関する件」を町長の添書きと共に政府(防衛庁東京調達局)に提出した。被害者は農地、農作物、立木、道路などの被害額二二八万九四七四円を損害賠償額として要求したが、調達局は米軍側と折衝の末、大幅に減額し、三分の一あまりの八五万円を提示したに過ぎなかった。
     (『小平市史』 2013  403~404ページ)

 

 

 ここに「日本の独立は名ばかりだ、行政協定があるのに占領時代と同じではないか」とあるのは、現在の沖縄県民の話ではなく、当時の小平地区住民の叫びなのである。被害の補償もお話にならない。この状況は、小平では既に人々の記憶から失われた昔話であろうが、沖縄では現在の問題なのである。

 さらに読み進めると、

 

 

  小平町でも、米軍車輌の通行のための五日市街道沿いの小金井桜の伐採問題、小川新田で七歳男児が米軍乗用車にはねられた交通事故、小川で米兵乗用車によるひき逃げ疑惑事件など、米軍関連の事件が続いた。
     (『小平市史』  406ページ)

 

 

「米軍関連事件」の頻発問題もまた、小平では昔話ではあっても、沖縄では現在の日常である。戦時期の小平地域の軍事化はいわば国内問題であったが、戦後の「米軍関連事件」は占領下、あるいは占領下同然の事態のなかでの問題であったことには気付いておくべきであろう。当時の小平住民の「日本の独立は名ばかりだ、行政協定があるのに占領時代と同じではないか」との言葉は、あらためて噛みしめておくに値する。

 『小平市史』では、立川基地の存在にあらためて焦点を当てる形で、

 

   敗戦は、軍事施設の解体・転用を強いたが、すぐさま軍事施設が消え去ることはなかった。中でも立川飛行場は米軍に接収されて米軍基地に転用され、立川は軍都から基地の町へと変わる。一九五一(昭和二六)年九月には対日講和条約と日米安全保障条約が調印され、翌五十二年四月には足かけ八年の長期にわたる占領をぬけだし、日本は独立した。その一方で、朝鮮戦争では日本は米軍の重要な軍事拠点、そして、兵站基地としての役割を果たした。そのような状況のなかでの一九五三年の米軍輸送機グローブマスターの墜落事故であった。わが国は独立したとはいえ、いまだ米軍の統治が続いているかのような高圧的な米軍の事故対処であった。
  立川基地周辺では、米軍人相手に春をひさぐ「パンパン」と呼ばれた「夜の女」が集まり、最高時の一九五二年には三〇〇〇人にもおよび、府中や福生をはじめとする多摩地区全域では七〇〇〇名ともいわれた。風紀とともに治安は乱れ、事件が多発した。「基地の町はいやです」という中学生の作文が「児童福祉期間」中に展示されたのは、一九五八年五月のことであった。その叫びもとどかず、米軍の駐留は続いた。
     (『小平市史』  406ページ)

 

このように記している。「わが国は独立したとはいえ、いまだ米軍の統治が続いているかのような高圧的な米軍の事故対処であった」というのが、1953年の小平の経験であり、2018年の沖縄の現実なのである。

 

 『小平市史』を読み進めると、

 

  この米軍機墜落事故にいち早く反応したのは、津田塾大学の学生であった。津田塾大学学生自治会は、「全三多摩の学生諸兄姉に訴える」とアピールを発表している。

   私たちの住む小川に米軍将兵をのせた大型輸送機が離陸直後に墜落し〔中略〕百雷が一時に落ちた様な轟音、それと同時に窓ガラスのビリビリという音、すぐ近くの森の向こうからは黒煙がもくもくと立ち、消防サイレンの気味悪い響きをたてた怪自動車が続いてゆきます。寮生の一人が「原爆を積んだ飛行機でなくてよかつたね」と洩らしました。〔中略〕
   今迄何度となく聞かされた平和の危機と朝鮮戦争の残酷さ、そしてその朝鮮戦争とこの三多摩が直結していることが、この事件によって正に自分達のものとして身近に痛い程感じられたのです。日夜夜毎爆音に悩まされ、あのような惨事の恐怖に晒されている私達三多摩の学生として今こそ手をとり合って平和を守る運動に立上がろうではありませんか。

  津田塾大学の学生たちは、今回の事件によって、朝鮮戦争と三多摩が「直結」していることを知り、「平和を守る運動」に立ち上がることを呼びかけている。この呼びかけに対して、一橋大学小平分校の学生たち(小平自治会)は、「津田塾大学のアッピールに応えよう」と全学生に訴え、クラス・サークル・ゼミなどでの討論を喚起した。
     (『小平市史』 405ページ)

 

このような、津田塾の学生による「平和を守る運動」があったことが記されている。事故はまさに「朝鮮戦争とこの三多摩が直結していること」により、小平地域の経験となったのである。「百雷が一時に落ちた様な轟音、それと同時に窓ガラスのビリビリという音、すぐ近くの森の向こうからは黒煙がもくもくと立ち、消防サイレンの気味悪い響きをたてた怪自動車が続いてゆき」とはまさに当事者による証言記録としても読むべき一節であろう。

 ここで指摘しておきたいのは、当時の二十歳前後の津田塾生は戦時期を小学生として経験した人々であるという点である。戦争が昔話ではなく、自身の経験の一部であった世代による「アピール」なのである。同時に、輸送機事故で犠牲となった米軍兵士の多くもまた、その津田塾生と同世代の若者であったことである。学生たちには、どこまで若い米軍兵士の置かれた境遇が「正に自分達のものとして身近に痛い程感じられ」るものとなっていたであろうか?

 

 

 ここまで、1953年6月18日のグローブマスター機墜落事故について、『小平市史』の記述と、「第102回 多摩探検隊」として中央大学の学生により制作された「グローブマスター機墜落事故」の動画の紹介を通して記してきた。

 ここからは、「第169回 多摩探検隊」として制作された、「第102回 多摩探検隊」の後日談となる、「グローブマスター機墜落事故~米国・遺族の証言~」 と題された動画をまず取り上げる。より広い視野で米軍輸送機墜落について考えることを目指したい。

 

 動画サイトにある内容紹介文には、

 

  朝鮮戦争休戦間近の1953年6月18日、立川基地から飛び立った米軍大型輸送機グローブマスターが、現在の小平市に墜落。当時航空機事故史上最大の死者を出しました。多摩探検隊(第102回)で、同事故について取り上げ、番組サイトで配信を開始したところ、いくつかのコメントが寄せられました。コメントを辿っていくと、最終的に、アメリカに住む遺族の方々にたどり着きました。今回は、アメリカでの取材を踏まえ、米軍立川基地グローブマスター機墜落事故を、遺族の視点から見つめ直します。

 

このように記されているが、「グローブマスター機墜落事故」について、前回が日本国民としての小平町小川地区住民の経験(幸いにも命を失うものはなかった)の証言であったのに対し、こちらは実際に犠牲者となった(命を失った)米軍将兵の家族(遺族)による証言である。

 

 

第169回多摩探検隊「グローブマスター機墜落事故~米国・遺族の証言~」
 https://www.youtube.com/watch?v=F9htXcmDrDs

 

 

 「わが国は独立したとはいえ、いまだ米軍の統治が続いているかのような高圧的な米軍の事故対処であった」ことは事実である。しかし、そこで命を失ったのは「高圧的な米軍」ではなく、その一員であるかもしれないが、しかしそれぞれに家族に愛され、家族を愛する一人の人間―誰かの息子であり誰かの父親であり誰かの兄であり誰かの弟―でもあった。

 「第102回 多摩探検隊」で示された日本人の経験からだけでは見えてこない世界がそこにある。129名という犠牲者数が、当時最大の事故であったことを示す数字としてだけではなく、犠牲者129名の一人一人が、それぞれにかけがえのない存在であったことが、遺族の証言を通して伝わってくる。

 ここであらためて、「第102回 多摩探検隊」に登場する、現在でも犠牲者の慰霊のために線香をあげ続ける地元住民の姿―犠牲者の死を他人事と思わない心のあり方―も思い起こされる。

 

 

 ここからは、米国人にとって、あるいは米軍にとって、グローブマスター機墜落事故がどのように経験されたのかについて、少しだけ記してみたい。

 

 ネットで検索すると、2013年6月の『エア・フォース・マガジン(AIR FORCE MAGAZINE)』に掲載されたウォルター・J・ボイン(Walter J. Boyne)氏による「C-124と立川の悲劇(C-124 and Tragedy at Tachikawa)」と題された記事に辿り着く(ちなみに、米国側の資料に依拠して書かれたはずの同記事においても犠牲者数は129人となっている―『小平市史』の犠牲者数には問題があるだろう)。同記事中に記されたいくつかのエピソードにより、事故の全体像をより立体的に描くことができればと思う。

 

 

 「第102回 多摩探検隊」の方でディレクターを務めた曽田健太郎さんは、そこでグローブマスター機墜落事故を取り上げたきっかけについて、

 

  私がこの事故を知ったのは、二〇一一年六月一九日付の読売新聞地方版の記事がきっかけだった。墜落したグローブマスターを操縦していた米国空軍パイロットの親族と、事故を目撃した男性が面会したという内容だった。こんなにも大きな事故が、多摩で起きていた歴史的事実を私は全く知らなかった。

 

このように記している。

 ボイン氏の記事には、グローブマスター機(シリアルナンバーは51-137)のパイロットたちのプロフィールも紹介されている。機長を務めていたのはハーバート・G・ヴォラズ・ジュニア少佐で、当時37歳。飛行時間6000時間を超えるベテランである。年齢からすれば、日米開戦時に25歳、「終戦」の時点で29歳となる。つまり、戦場がどこであったかはわからないが、「先の大戦」(第二次世界大戦)での従軍経験のある人物だということになる。信頼に足る技量が期待される。他に、やはり十分に経験を積んだロバート・D・マコークル少佐、そしてポール・E・ケネディー少佐がパイロットとして搭乗していた。

 読売の記事にある「グローブマスターを操縦していた米国空軍パイロット」がその中の誰であったのかは、現時点ではわからないが、記事後半の記述を読むと、離陸時に機体を操縦し、最後に管制官とのやり取りをしていたのもヴォラズ少佐であったことがわかる。

 

 墜落の原因がエンジントラブルとされているが、離陸前のチェック段階で整備員は問題を感じていたようである。天候も、雲が低く、好条件ではなかった(「第102回 多摩探検隊」動画に登場する証言者も、「6月なんだけど小雨が降っていて比較的寒い感じ」であったとしている)。

 7人のクルー以外は、5日間の休暇(つかの間、命の保障のない戦場を離れてパンパンガールと過ごす時間―思い切りハメを外したであろう彼らの姿の裏には戦場での死の可能性がある―でもあったはずだ)の後、再び朝鮮半島の戦場へと戻される122名の将兵であった。筆者は、それを「いやいやながらの帰還(reluctantly returning)」と表現しているが、実際、約一ヶ月後の7月には休戦協定となる状況下での話であった。そんな戦場へ送り返される途中での墜落事故死であることを考えると、遺族の無念さも、より大きなものとなったであろう。そんな姿を見送った地上要員の証言も残されている。

 

 午後4時31分の離陸後1分で第一エンジンがトラブルに見舞われ、機長のヴォラズはエンジンを切ると同時に立川基地の管制官に着陸誘導管制(GCA)を求めている。航空機関士に対し「もっとパワーをくれ」と叫ぶ中、管制官は高度の維持を求め、それに対し「ラジャー」と返答したのを最後に通信は途絶えた。

 レーダー上の航跡は東北東3・25マイルで消えている。

 ほぼ地表面に垂直に墜落したために、乗員のほとんどは即死であったと考えられている。

 

 ボイン氏は、墜落地のすいか畑について、交通量の多い東京へのハイウェイの近接地と表現している。確かに、青梅街道沿いの土地ではあった(ウィキペディア先生の「立川基地グローブマスター機墜落事故」の記事には「米軍、警察、消防、報道関係等の車両が大量に押し寄せたため、当時は道幅が狭く、所によっては舗装されていなかった青梅街道は大渋滞を起こした」との記述がある)。

 墜落を目撃した軍人もいた。妻とともに東京からのドライブ中であったロバート・D・ヴェス軍曹は、すぐに救援活動に向かった。

 ジョン・H・ジョルダン・ジュニア上等兵―その時点では生きていた―を救出したが、数分で死亡してしまう。燃料タンクに火が移るまでの30分ほど、ヴェス軍曹は救助活動を続けた。その間、右翼のエンジンは稼働し続けていたともいう。

 4時50分には立川の管制は、ジョンソン空軍基地(入間)にも救援要請をし、5時13分には現地にヘリコプターを到着させている。

 『小平市史』にある、

 

  修羅場と化した光景に付近の人びとは全く手の施しようがなく、ただ呆然とするのみであった。かけつけた地元小平町の消防署および消防団の放水では「効果は殆んど見られなかった」。
  急報により立川基地からの消防車や救急車、それに地元消防団、遠くは青梅、五日市、所沢からも数十台の消防車がかけつけた。必死の消火活動にもかかわらず、猛火は一時間以上もおさまらず、乗っていたはずの人影はなかった。

 

この局面での話ということになる。

 さらに従軍牧師や身元確認チーム(遺体の身元確認である)も到着し、臨時の死体安置所も設けられ、『小平市史』にある、

 

  直径約二キロの地区内は米軍のMPが厳重に交通をしゃ断し、すぐさま「ギャラップ・ゴー」の立ち入り禁止の麻縄のロープが張られ、日本側警察、消防団は現場より立ち退きを強いられ、MPが住を突きつけ、住民を追い払った。報道陣も写真を撮ろうとするとピストルで脅され、フィルムを抜き取られる始末であった。その範囲は三街道にもおよんだ。米軍のMP、部隊、AP(空軍憲兵)、救急車、消防車、照明車、クレーン車、トラック、ジープ、ブルドーザーは、付近の公道および私道より畑中を往来し、農作物並びに橋梁、井戸、門柱などに被害をおよぼした。

 

このような状況となっていく。照明車の存在は、夜を徹しての活動であったことの証である。

 墜落は、エンジントラブルに加えて、飛行速度とフラップ操作の連携エラーに起因するものであったとの指摘もされていたことも語られている。

 

 日本側住民に対する態度(「いまだ米軍の統治が続いているかのような高圧的な米軍の事故対処」)の問題とは別に、犠牲者家族のその後の年月―遺族に深く刻まれた悲しみ―について知り、そして米軍内部での墜落事故対応のスピード感と徹底性(そこでは現地住民の利害は無視される)を知ることで、グローブマスター機墜落事故の全体像の理解も深まったように感じられないだろうか?

 

 いずれにせよ、この記事が、沖縄の現状を他人事にしてしまわないためのきっかけになればと願う。

 

 最後に、立川基地が反基地闘争の現場であったことも、多摩探検隊の動画を通して再確認しておきたい。現在の沖縄が決して他人事ではないことに想像力を及ぼすことが出来るだろうか?

 

 

第100回 多摩探検隊 「砂川の記憶─57年目の証言─」
 https://www.youtube.com/watch?v=PbyeWRKRFkg 

 

 

 

【註:1】
 
  戦時中に小平町に設けられた軍の施設は終戦後、民間の施設や住宅地に転用されていった。では具体的にどのように変わったのか、市制施行後の昭和三七年(一九六二)までの変化を記述してみよう(付図は略)。
  東部国民勤労訓練所は東京都多摩公共職業補導所や東京都身体障害者公共職業補導所(ともに後の訓練所)、緑成会付属病院などとなった。
  陸軍兵器補給廠小平分廠は旧地主(農家)や開拓農地として営農の希望者(同廠勤務関係者が多い)へ払下げられ、その後、畑は都営住宅、小平三中、六小、日本タンパク工業株式会社、ブリジストンタイヤ株式会社東京工場、松見病院、緑風荘療養所、一般住宅などに変わった。
  傷痍軍人武蔵療養所は国立武蔵療養所と称されるようになった。
  さらに陸軍経理学校の校舎敷地は建設省建設研修所、陸上自衛隊業務学校、同調査学校、関東管区警察学校に使用され、そして回田道の東側にあった同校練兵場は、終戦後いち早く開墾に従事した人たち(大部分が旧地主)に払下げられ、後にこれらの農地に三栄レコーダー製造、シルバー編機製造、あけぼのパン、ピルマン製造株式会社などが進出した。練兵場の南にあった官舎部分は恵泉女子学園短期大学(園芸科)が使用したり、自衛隊官舎になったりした。陸軍技術研究所と文部省電波物理研究所跡は一部は民間のものとなり、東京サレジオ学園に払下げられたり、旧地主や営農希望者に払下げられた後、文化服装学院グラウンドや沖電気工業株式会社総合グラウンドとなったりした。さらに国の施設としては郵政省電波研究所や東京学芸大学小金井分校などになった。小金井街道沿いの特殊無線通信所跡は住宅となった。
     (『小平市三〇年史』 1994  268~269ページ)

【註:2】
 正確には、「グローブマスター」の名称は戦中に開発着手されたダグラス社のC-74に与えられたもので、戦後に開発・量産されたC-124の愛称は「グローブマスター Ⅱ」であった。
 しかし、1953年に墜落したC-124について「グローブマスター機墜落事故」と呼ぶことが、今回引用した『小平市史』においても「多摩探検隊」においても行われており(ウィキペディア先生も同様)、当記事内でも「グローブマスター」で統一することとした。

 

 

 

《記事一覧》

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  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-511f.html
  1953年の小平町のグローブマスター機墜落事故と沖縄の現在

 

 

 (オリジナルは、
 投稿日時 : 2018/10/14 18:29 →
 https://www.freeml.com/bl/316274/321865/
 
投稿日時 : 2018/10/14 18:33 → https://www.freeml.com/bl/316274/321866/

 

 

 

 

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2018年9月23日 (日)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合地帯化状況について記してきた(カテゴリー「多摩武蔵野軍産複合地帯」記事参照)。

 特に「武蔵野」の名を冠する武蔵野美術大学所在地である小平地域に焦点を当てることで、総力戦下でこその軍施設の様相、軍施設設置がもたらす軍施設関係者のための集団住宅建設の必要性、軍施設及び集団住宅への水源確保に際して機能した「大きな力」としての軍の姿も再確認することが出来た。前回は食糧増産を求められる農家と集団住宅住民の育児支援のための託児所の設置にも触れたが、これもまた総力戦状況が生み出したものであった。

 

 今回は、戦時期の小平地域の景観の変化について記してみたい。もちろん、軍施設の進出、それに伴う集団住宅建設自体、それまでの農地と山林で構成された地域景観を大きく変えるものであった。

 すなわち戦時開発そのものが地域景観に変化をもたらすものであったが、ここでは、「こだいら 水と緑の会」による『用水路 昔語り』と題された聞き書き集(2016)から、特に戦時期における青梅街道の景観の変化―木材供出による欅(ケヤキ)並木の伐採―について確かめることから着手し、その背景を探ることを試みようと思う。小平地域の木材供出の歴史を通して、大日本帝國の総力戦状況(その限界)も明らかになるはずである。

 

 

 まず、関連した証言を(気付いた限りではあるが)抜き書きしてみることから始める(太字化による強調は引用者によるもの)。

 

馬場:草はどうですか、昔はこんなのが生えていたとか。
荒井:大体同じだけど洋物が増えたね。日本タンポポは無くなった。藪、昔は竹藪が沢山あった。真竹が随分あったけど今は殆ど無いね。
馬場:伐採ですか?
荒井:いや、自然に枯れた。「竹は百年に一度花が咲いたら終わり」と言うが、本当に花咲いてそれで終わりだったね。植物が無くなったから環境も悪くなったって言えるよ。だって昔はこの青梅街道は欅のトンネルだったんだよ。竹内さんとこにはちょこっと残ってるけど、もうずーとあんな感じでトンネルだった。子供の頃から戦争中までね。
馬場:燃料として切られたんですか?
荒井:いや船材として全部供出ですよ。大きいのから強制的に切られた。それで無くなっちゃったんだ。それだけだってえらく環境が違っちゃったのよ。子供の頃はクーラーもないから夏は木陰で涼んだもんだが。
馬場:交通量なんかはどうですか?
荒井:昔はめったに車が通らなかった。道路にしゃがんで話していて、車が来たらどくかって感じね。戦後の変り様は凄いね。
馬場:青梅街道の道幅は変わりないですか?
荒井:それは全く変わらない。昔っからこの幅。幹線道路だったけど、舗装されてたのは本の真ん中だけ。周りは砂利で草も生えてた。特に六番、七番の所は広いんです。あそこは馬の継ぎ場だったから。
馬場:馬の中継ぎ場というと何か特別なものがあったんですか?
荒井:青梅から馬で石灰を運んできて、そこで馬を替えるわけですよ。だから道幅が広くて、馬に水飲ませるために真ん中に川が流れていたって聞いてます。多分全て幕府が管理してたんだろうね。
     (『用水路 昔語り』 8~9ページ)
     話し手:荒井利喜夫(昭五生 小川町)  
     聞き手:馬場淑子

 

馬場:青梅街道も随分と変わりましたでしょう。昔は欅のトンネルだったとか。
関根:そうです。欅もだけど、裏にはずーっと竹林があった、真竹のね。一斉に花咲いて全滅ね。「竹は百年に一度花をつけて枯れる。」って言うけど本当ね。林は防風のためでもあった。冬は土埃で空が真っ赤になるくらいだったからね。子供の頃、舗装されたばかりだったかな。
馬場:この辺りは道幅が狭いですよね。
関根:そうね、この少し先の辺りから細いね。
馬場:子供の頃の交通機関は何を?
関根:人は徒歩か、自転車が少し。多摩湖線と西武新宿線はあったよ。でも一時間に一本くらいかな。
     (『用水路 昔語り』 10ページ)
     話し手:関根初男(昭十三生 仲町)

 

馬場:子供の頃は青梅街道沿いに欅もたくさんありましたか?
小柳:欅のトンネルでした。春になると完全にトンネルになってました。保存樹林がその面影をとどめてるけどね。ここから八番まで、踏切のこっちまではそうでした。戦争中に船材として切られたという話は聞いたことがあります。
馬場:竹藪はどうでした?
小柳:竹藪もずっとありましたね。屋敷の裏が竹藪でね。竹藪と畑の間に細い道があるんですよ。そこを通って第一中に通ってました。花咲かせ竹が枯れたという話は聞いた。
 中学の時青梅街道は砂利でね。土埃が凄かった。車が来るともうもうとして辛かったね。逆に雪が降ると膝の所まで積もってね、弟達を学校に行かせるのに雪掻きしたね,三十cmくらいあったかね。
     (『用水路 昔語り』 13ページ)
     話し手:小柳忠男 (昭十二生 小川東)

 

馬場:かなり大きな家ですものね。
田中:大正七年に、屋敷森の欅を切って建てたんですよ。材料は周りの木を切って、大黒柱は欅でね。
馬場:昔の青梅街道は欅のトンネルだったと聞いています。
田中:そうです、欅のトンネルでした。夜はフクロウが鳴いてたし、子供の頃は兎がいたからね。だって大正十四年に一反歩を九百円で売買し油ようとしたら、不景気で五百五十円になったって聞いてます。そういう時代でしたからね。
     (『用水路 昔語り』 21ページ)
     話し手:田中次男(大五生 小川町)

 

馬場:子供の頃この辺りはどんなでした?
浅見:畑ばっか、家は無かったね。道も砂利で真ん中だけアスファルト舗装してあって、側溝が付いてたね。欅はこんもりと繁って緑のトンネルよ。屋敷森があって家があって、畑が玉川上水のとこまであるの。その頃の川は防火用水としての意味合いが強かったね。井戸あったし、幅も今より広くて七十cm位ありましたよ。よく盥を浮かべて舟ごっこして遊んだもの。広かったし水も多かった。
     (『用水路 昔語り』 39ページ)
     話し手:浅見清子(昭六生 小川町)

 

馬場:戦争と言えば、昔は青梅街道は緑のトンネルだったそうですね?
岩淵:そう、もう両脇に欅が聳えていてね、本当にずっと緑のトンネルだった。その下がヒイラギの垣根ね。夜なんか真っ暗。
馬場:その欅が戦時中供出で切られてしまったと聞いてます。
岩淵:枝下のある欅は皆切られたね。それからどこの家にも「伝次丸」って柿の木があったね。何代も前からあったようで、今は家のも無いけどね、新田だった三百年続いてるわけだから、きっとずっと昔に植えたもんだったんだろうね。
 家は皆藁屋根、東向き。うちは昭和三十三年に茅の丸葺きにしたんですが、他の所は藁の上にトタン被せちゃったりしてね、そのうちにはポチポチ建て替えになってね。
     (『用水路 昔語り』 48ページ)
     話し手:岩淵ヨシ子(昭四生 天神町)

   【枝下】 樹木の最も下の枝から地表までの長さ(『広辞苑』)

 

金豊:うちは高台で隣と三尺も違うから、そういうの利用して水車も回したんだろうね。ここは昔から「坂」って呼ばれてました。「坂」って位だから一番高かったんでしょうね。親戚も「坂のうち」ってね。三里四方、四里四方行ったって家の欅見えたから、昔だから高層住宅なんて無かったからね。
馬場:その欅も目立ったでしょうね。
金桃:いっぱいあったんですよ。戦争中全部供出させられて、これ一本きり残ったんです。
金豊:船材にされちゃったんだね。昔はこの青梅街道沿いにずっと欅があったんだけど、陸軍大臣の代理の人が来て、管理して切ったんだよ。
金桃:そしたら持っていかないうちに終戦になっちゃってね。
金豊:みんなデカイ欅でね、それ全部切っちゃったからね、それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ、まったく悲しいよね。
     (『用水路 昔語り』 80ページ)
     話し手:金子豊(大六生 小川町)
          金子桃代(大十生 小川町)

 

馬場:昔は青梅街道は緑のトンネルだったそうですね。
金子:夜は真っ暗になりましてね、街灯ついてなかったし、本当に真っ暗。道の真ん中にアスファルトがあって、あとは砂利でね、掘があって、のどかでしたね。秋になると農家の人が道の所で色々干すんですよ、筵で。大根の切り干しとか、昔は車もそんなに通らないしね、幅は昔からこのままですから。
     (『用水路 昔語り』 98ページ)
     話し手:金子光子(昭十一生 小川町)

 

馬場:青梅街道には昔雨水を流すための側溝がありました?
清水:道路のはじと家の前に少し溝があって、ほんの小さい橋が掛かってましたね。多分細い、何の囲いもないから、そこが崩れていたり、ちょっと澱んでいたりしてましたね。
馬場:その青梅街道は緑のトンネルだったとか?
清水:昔、私が子供の時分には道路の両側から大きな樹が植わってますから、樹が生い茂って、夜なんか本当に真っ暗で、鼻つままれても分からない位でしたよ。特に私の実家はお寺さんが側だから、夜なんて一人で歩くと、駆けると誰か後ろから追っかけて来るような気がして怖かったですよ。ここに来てからも、家の周りにカシの木あったり、隣りにも大きな木あって、庭は真っ暗と言ってもいい位ですね。
馬場:青梅街道には街灯はなかったのですか?
清水:うーん、子供の頃実家からここに用事で行かされた時も、真っ暗な中をとことこ歩いたような記憶しかないですね。昔は今と違うから。自転車の乗り方なんかも青梅街道でやりましたからね。車もめったに来ないから。
     (『用水路 昔語り』 103ページ)
     話し手:清水恵美子(大十五生 小川町)

 

角:欅は大きくなるのが早いですか?
小川:早いですよ。この辺は大きい欅がいっぱいあったんです。防風林になるし、落ち葉は出るし六十年周期で製材所に売ってたんです。船材とか電柱に使ったんです。戦中、終わる頃に供出で全部切られてしまった。
     (『用水路 昔語り』 139ページ)
     話し手:小川善一(大十生 学園東町)
     聞き手:角早桐

 

馬淑:小平の方でも巨木とか雑木林とかありますが・・・。
村野:青梅街道沿いにはずっと欅の並木があったんですよ。ある時ぱっと切っちゃいましたが。当時覚えていますけど、大きな欅の並木があり下にはヒイラギの垣根があったんですよ。道も勿論舗装もしていなくて、いい雰囲気だったんです。
馬淑:ヒイラギを植えるというのは何か意味があった?
村野:別にないけど、まぁ、刺があって垣根代わりになったんじゃないでしょうか。
須賀:結構密集してますよね。
村野:結構丈夫な木なんですよ。
馬政:小平の竹内家の大欅はご存じですか?市の天然記念物ですが。
村野:小平の欅ってのは全国的に有名なんですよ。地に合っていてね、「曲がっている苗木が、ここでは伸びると真っ直ぐになる。」って話あるんです。
馬政:緑のトンネルと言われてますよね、昔の青梅街道はどんな具合でしたか?
村野:家の前に欅伸びてるでしょ、あれが両側にあると思って下さい。
須賀:竹内家の大欅は目印だったって聞いてます。それを見ると、この辺りは小平だって。
村野:そうでしょうね。東村山に行くと万年欅って言うのがありますね。あと有名なのは府中の大国魂神社の欅。八万太郎義家が植えたというやつです。
     (『用水路 昔語り』 159~160ページ)
     話し手:村野啓一郎(昭六生 久留米市柳窪)
     聞き手:馬場淑子
          須賀美佐子
          馬場政孝

 

 

 かつての、「めったに車が通らなかった。道路にしゃがんで話していて、車が来たらどくかって感じ」であった青梅街道の姿。

 あらためて以下の言葉を読むことで、「木材供出による欅並木の伐採」についての全体像もつかめるだろう。

 

 

  青梅街道沿いにはずっと欅の並木があったんですよ。ある時ぱっと切っちゃいましたが。当時覚えていますけど、大きな欅の並木があり下にはヒイラギの垣根があったんですよ。道も勿論舗装もしていなくて、いい雰囲気だったんです。

  この辺は大きい欅がいっぱいあったんです。防風林になるし、落ち葉は出るし六十年周期で製材所に売ってたんです。船材とか電柱に使ったんです。戦中、終わる頃に供出で全部切られてしまった。

  昔はこの青梅街道は欅のトンネルだったんだよ。竹内さんとこにはちょこっと残ってるけど、もうずーとあんな感じでトンネルだった。子供の頃から戦争中までね。

  船材として全部供出ですよ。大きいのから強制的に切られた。それで無くなっちゃったんだ。

  船材にされちゃったんだね。昔はこの青梅街道沿いにずっと欅があったんだけど、陸軍大臣の代理の人が来て、管理して切ったんだよ。

  そしたら持っていかないうちに終戦になっちゃってね。

  みんなデカイ欅でね、それ全部切っちゃったからね、それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ、まったく悲しいよね。

 

 

 「昔はこの青梅街道は欅のトンネルだった」ものが、「戦中、終わる頃に供出で全部切られてしまった」、そしてそれは「船材として全部供出・船材にされちゃった」もので、しかも「それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ」という「まったく悲しい」顛末として、古くからの住民には記憶されていたのである。

 

 

 この聞き書きには「戦中、終わる頃」とあるだけで、年代の詳細はわからない。探せば、当時の関連公文書類も見つかるものと期待するが、今回はそこまでは踏み込まない。

 しかし、「船材として全部供出・船材にされちゃった」とあることから、戦時期の船舶建造政策との対応関係を確認することで、年代の推定も可能ではないかと思う。

 

 

 

 神戸大学附属図書館が電子データ化した「神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 造船業」の中に、「木造船急速増強 きょう建造緊急方策発表」と題された大阪朝日新聞記事がある(1943(昭和18)年1月21日付)。

 

 

 木造船急速増強
 きょう建造緊急方策発表

大東亜戦争の長期化に伴いますます深刻化する船腹戦争の事態に対処し、海上輸送力の積極的増強をはかることは緊急焦眉の国家的課題であり、政府はこれがため夙に鋼船による計画造船と並行して鉄鋼資材関係より簡易な設備をもって、しかも急速に建造され得る木造船の増強をはかるべくかねて木造船戦時標準船型の制定、木造船別の企業合同などの措置をとってきたが時局の緊迫にかんがみ昭和十八年度において木造船の飛躍的増大を目途とする「木造船建造緊急方策要綱」が二十日閣議決定をみた、右要綱中とくに注目すべきは

(一)造船統制会傘下の軍管理以外の主要造船、造機工場および新設工場を逓信省において管理
(二)木船建造促進に関する主要事項の審議機関として木船建造促進委員会(仮称)を逓信省に新設
(三)木材確保のために政府の国有林供出とともに翼賛会等による全国的な木造船用木材供出の国民運動を展開しその運搬についても地元の勤労奉仕を期待する
(四)豊富な木材資源を擁する大東亜地域の木造船工場を全面的に活用する

など時局の新段階を反映した英断的措置を決定した諸点であるが、右のほかすでに実施されつつある措置には

(一)木造貨物船型の五種より三種への整理とともに大型木船の建造促進のため三百トンおよび五百トンの木鉄交造船の試作
(二)造船造機施設の拡充のためには既存施設の統合整備および主として産業設備営団による新設整備のほか現存の不急または遊休産業施設の転換利用のためには例えば自動車工場のごときが造機工場に転換することも可能となる
(三)資材、労務の確保についても物動その他において割当を確保し優先的入手のために各般の措置を講ずる

などであり、本要綱の目標達成のためには政府のみならず関係業者はじめ一般国民の絶大なる理解と協力が要請されねばならぬ

木造船建造緊急方策要綱(情報局発表)

一、建造目標 昭和十八年度における木造船建造目標(外地、満洲、支那および南方諸地域を除く)は昭和十七年度に比し画期的増大を期す
二、船型 (イ)木造貨物船の船型は極力これを整理するとともに大型木船の建造を可能ならしむるごとく措置す
(ロ)戦時標準船型をさらに簡易化するため各般の措置を講ず
三、造船および造機施設の拡充
(イ)既設の造船および造機施設を統合整備するとともに資材、労務などの立地条件を考慮し、所要数の造船および造機工場を新設し所要生産量を確保す
(ロ)造船および造機施設の拡充にあたりては関係各官庁協力のもとに現存施設の転換、利用などの措置を講ず
(ハ)造船、造機施設の整備ならびに新設は必要に応じ産業設備営団をしてこれに当らしむるとともに右施設は営団よりこれを政府の指定するものに譲渡し、貸附または出資せしむるごとく措置す
四、造船および造機施設の管理 主要既設工場(造船統制会に属するもの)にして軍の管理に属せざるものおよび新設工場は逓信省においてこれを管理す
五、資材の確保 木船建造用ならびに施設拡充用の資材、動力、機械、器具類などの割当は物資動員計画および電力動員計画において極力これを確保するとともに、これが優先的入手については関係各庁協力のもとに各般の措置を講ず
六、労務の確保 右計画遂行に必要なる労務者は造船および造機施設の拡充に伴い逐次これが充足を行うものとす
七、大東亜地域における木造船工場の活用 大東亜地域における木材資源豊富なる地の造船工場に機関、□装品などを供給し、かつ技術上の援助を供与し、計画造船の一環としてこれを全面的に活用するため関係各庁協議のうえ速かに具体策を決定し、即時実行に着手す
八、木船建造促進委員会(仮称)の設置 木船建造促進に関する重要事項を審議するため逓信省に木船建造促進委員会(仮称)を設く
九、木船建造促進に対する挙国的協力措置 木船建造の促進に関しては関係各官庁は緊密なる連繋協力のもとにそれぞれその所管事務の迅速処理をはかるとともに政府はとくに国有林材を供出し、かつ大政翼賛会などをして全国的に木船建造用木材供出国民運動を展開せしむるとともに木材その他の資材の搬出、工場の新設などについては青、壮年団、在郷軍人会などをして奉公的協力をなさしむるごとく措置す

 

 

この記事中にある、「(三)木材確保のために政府の国有林供出とともに翼賛会等による全国的な木造船用木材供出の国民運動を展開しその運搬についても地元の勤労奉仕を期待する」、そして「政府はとくに国有林材を供出し、かつ大政翼賛会などをして全国的に木船建造用木材供出国民運動を展開せしむるとともに木材その他の資材の搬出、工場の新設などについては青、壮年団、在郷軍人会などをして奉公的協力をなさしむるごとく措置す」との「木造船建造緊急方策要綱」の方針こそが、戦時期小平地域での青梅街道の欅並木の運命の背景であろう。

 

 

 実際、これは、小平地域だけの問題ではなかった。

 

 

 情報局編輯になる『寫眞週報』(写真週報)の第263号(昭和18年3月17日)には以下の記事がある。

 

 

 寫眞週報 263号 2~3ページ

 

 時の立札
皇土に根ざし
風雪に耐へて二百年三百年を
今日の日のために
生きぬいてきた巨木だ
その命を捧げる日の壮絶さを想へ
我等その心をくみ、その心に應へ
木もて船を造らう
皇國の幸をはこぶ船を
     (表紙裏に位置する2ページ)

 

巨木擧ってお召しに應じよう
     岡山縣
     撮影 入江泰吉
(以下、キャプションは新字体で表記)
岡山県県社木山神社の神木は、国難打開のため軍需資材として応召する。この大樹は同神社の祭神須佐之男大神のおひげが自生したものといはれてゐたものである
     (3ページ)

 

 

 寫眞週報 263号 4~5ページ

 

巨木擧ってお召しに應じよう
 『神木が供出された』『五代にわたつたあそこの欅林も供出された』かうした氏子や篤志家及び団体などによる木材の供出は、いま、広く全国的に行はれてゐます。いふまでもなく、供出された木材は戦局の進展に伴つてますます必要となつてきた兵器や艦船、車両等の資材として、勝つための有力な力となつてお役に立つわけです
 しかし、この供木といふことは、もうわが国には軍需品の資材となる木がないといふわけではなく、それらの用途に向けられる木材の伐採が到底需要に足りないのです。欅や樫などの特殊材は山奥には相当あるのですが、それを刈つて運び出すのには相当の時日が要る上に人手も多くかかり、ソレッといふ間に合ひません
 そこで供木運動も運搬が比較的楽にできる屋敷林や公園、神社仏閣の境内林とか、街道の並木、平地林等を伐採することが対象となつてゐます
 これらは、或ひは父祖伝来のものであつたり、或ひは史跡名勝天然記念物として由緒ある並木であつたり、平時であれば決して伐れないものばかりでありませうが、一人息子さへお国に捧げるときです。戦力を増すためにこの際、進んで供木に応じませう
 勝つためだ、村民の決意は固く岡山県県社木山神社の神木が村民歓呼の声に送られて『応召』しました
(写真キャプション)
 参道の老杉は地響きを打つて倒れた
 参道並木の伐採は境内の森厳をそこなはぬために十分な調査が行はれた
 樹齢三百五十年の樅も村民の斧によつて応召する
 刈り倒された樹齢約三百五十年の老杉この杉の伐積は―直径一メートル八十センチ、高さ四十メートル、重量七千貫である
 神木は悠々と応召する

 

 

 寫眞週報 263号 6~7ページ

 

應召の木材は続々木船に
     ―大阪―
 畏くも天皇陛下には、戦時下における木船の重要性を思召され、木船材を御下賜あらせられました。聖慮の程、まことに畏き極みであります
 このありがたき聖慮に感激、感泣した政府は、勿論木船建造のため各地の国有林をどしどし伐り出してゐますが、さらに全国的に木船用木材供出が国民の盛り上がる力として行はれてゐることはご存じの通りです
 かうして供出された木材は、直ちに造船材に使用され、去る一月に戦時標準型貨物船の第一船が大阪で進水してから、続々と標準船が全国の造船所で造られ、各方面の海域に就航してゐます
 ここ大阪の造船所では木材供出者の意気に感じて、一日でも二日でも早く標準船をつくり上げようと、夜に日をついで造船の斧を振つてゐます。次々と進水する木造船は敵殲滅戦に、或ひは大東亞の建設戦に、堂々日の丸の旗を押し立てて大洋に乗り出してゆきます
(写真キャプション)
 肋骨は次々と組み立てられてゆく
 肋骨に外板をくつつける作業は、寒中もいとはず進められてゐる
 外板のつぎ目から水がはいらないやうに充填物をつめてゐる
 予定より三日も早かつたぞ! 標準型木船は進水した
 天を衝くやうに木船の意気は高く肋骨の組立も終り、一日も早く海洋に出る日を待つてゐる

 

 

 まさに、「木造船建造緊急方策要綱」にある「政府はとくに国有林材を供出し、かつ大政翼賛会などをして全国的に木船建造用木材供出国民運動を展開せしむるとともに木材その他の資材の搬出、工場の新設などについては青、壮年団、在郷軍人会などをして奉公的協力をなさしむるごとく措置す」との方針が全国的に展開され、「祭神須佐之男大神のおひげ」までが、「木船建造用木材供出国民運動」の標的となっていた(『寫眞週報』は、すなわち情報局は、このエピソードを「まったく悲しい」こととしてではなく、木材供出の先進的事例として取り扱っている)。

 昭和18年の時点で、全国的には、木造船建造のために神社の御神木までが伐採される(「風雪に耐へて二百年三百年を今日の日のために生きぬいてきた巨木」が戦時期の国策の都合により伐採される)ようなところにまで追い詰められていたのである。小平地域では青梅街道の並木で済んだという意味では、まだ軽かったのかも知れない。

 

 せっかくの機会なので、「木造船建造緊急方策要綱」に至る、戦時期日本の造船関連の政策の推移について、吉川由美子氏による「アジア・太平洋戦争中の日本の海上輸送力増強策」(2004)と題された博士学位申請論文からの要約(「博士学位申請論文審査報告」2~3ページ)を用いて、確認しておきたい。

 

  1939年11月、造船業を対象とした統制策である「造船事業法」が成立、41年8月には造船の発注統制を強化した「戦時海運管理要綱」が成立し、翌42年1月には造船統制会が設立された。こうして、海運も造船も強力な国家統制下に置かれることになった。
  1942年3月、戦時標準船(以下、戦標船と略す)の建造と計画造船の実施が決定された。しかし、同年12月のガダルカナル島攻防戦による船舶の損失も加わって、43年度は船舶増産の強化が急務となった。そのため43年に入ると、上記船標船とは異なり、急速な増産に重点を置いた第二次戦標船が設計された。その中でも特に重視されたのは、船舶の簡易化と大量生産に適した改E船(第一次戦標船のE型の改良型)であった。改E船の構造は、既造船所以外の新規で簡易に新設された工場、即ち東京造船所・播磨松ノ浦、三菱若松、川南深堀の4造船所で集中的に建造された。これらの造船所は大量生産方式、流れ作業、ブロック建造法、電気溶接(三菱若松)などの新しい生産技術体系を導入したため、簡易工場にもかかわらず、かえって時代の先端を行く工場となった。しかし、これらの工場の労働力の主力は囚人であった。
  1944年に入ると、造船用鋼材の不足が深刻になった。この鋼材不足の対応策として考案されたのが、藤原銀次郎による「雪達磨造船」である。即ち、船舶で鉄鉱石を輸送し、その鋼材で船舶を建造し、その船で鉄鉱石と石炭を再び運ぶという循環構造によって造船量の拡大を図るというものであった。しかしこの「雪達磨造船」は、戦況悪化による国力崩壊を食い止める突破口とはならなかった。
  造船用鋼材不足が対応策としてもう一つ考案されたのは、「雪達磨造船」より前のことになるが、木造船の建設であった。1943年1月の閣議決定「木船建造緊急方策要綱」がそれである。木造船はあくまで鋼船の補完的役割を期待されたが、鋼船と同様、戦時標準型が決められ大量生産がおこなわれた。しかし、急な大量生産のため浸水するものが続発し、木造船建造の目標は烏有に帰した。
  戦争末期には鋼材の入手が激減して新造より修理が優先される一方、鋼材節約のためにベニヤ板を材料とした合板船や、コンクリート船が検討され試作がなされたが、実用化されるには至らなかった。

 

 

 先の『寫眞週報』記事(御神木の伐り倒し)を読んだ後で、そして「みんなデカイ欅でね、それ全部切っちゃったからね、それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ、まったく悲しいよね」との小平のお年寄りの嘆息を共有した後で、「しかし、急な大量生産のため浸水するものが続発し、木造船建造の目標は烏有に帰した」との顛末に眼を通すとき、実際、「まったく悲しい」気持ちを抱くしかない(『函館市史デジタル版』の「造船所の対応と戦時標準船、木造軍艦の建造」の項では、「政府はあらゆる施策を講じて木造貨物船の増産をはかった。しかし、19年の頃は応召による熟練工の不足、戦用金物の入手難などで目標の達成は極めて困難であった」と、当時の実情を記している)。

 

 

 

 再び吉川由美子論文の要約に戻ると、

 

  1942年3月、戦時標準船(以下、戦標船と略す)の建造と計画造船の実施が決定された。しかし、同年12月のガダルカナル島攻防戦による船舶の損失も加わって、43年度は船舶増産の強化が急務となった。そのため43年に入ると、上記船標船とは異なり、急速な増産に重点を置いた第二次戦標船が設計された。その中でも特に重視されたのは、船舶の簡易化と大量生産に適した改E船(第一次戦標船のE型の改良型)であった。改E船の構造は、既造船所以外の新規で簡易に新設された工場、即ち東京造船所・播磨松ノ浦、三菱若松、川南深堀の4造船所で集中的に建造された。これらの造船所は大量生産方式、流れ作業、ブロック建造法、電気溶接(三菱若松)などの新しい生産技術体系を導入したため、簡易工場にもかかわらず、かえって時代の先端を行く工場となった。

 

このように、戦時標準船の先端的側面が示されている。その点について、後藤伸氏の論考にも触れておきたい。後藤氏は戦時標準船について、

 

   統制が始まる以前、平時の商戦の注文はおおむね一隻ごとの個別注文であり、造船所は契約成立ごとに詳細な設計図面を作成し、資材と部品を調達し、それを船台で組み立てていくという、典型的な受注生産を行っていた。このような造船業に対して、昭和14年(1939)9月以降、臨時船舶管理法によって、新造船に際しては事前に逓信省の承認を受けることが規定されたが、これが新造船に関する統制の始まりといえる。この事前承認性は、翌15年2月の海運統制令により逓信大臣の許可制となり、統制が強められた。このように事前の承認や許可が必要とはいえ、建造される船舶についてはなお船主の希望なり裁量の余地が働き、また造船所もそれに対して従来の個別注文的な方法で対処しえた。もっとも、この時期まで、強制ではなかったが、建造される船舶の一定割合は、すでに船型、構造、主要性能などを標準化した船舶によって占められていた。この平時における標準船型は、船舶改善協会が中心となって昭和14年4月に選定したものであるが、後述するとおり、これら船型は戦時標準船(第1次)の原型となった。
     (後藤伸「戦時期日本造船業の生産技術に関する一考察―戦時標準船の建造をめぐって―」1992 『国際経営論集(神奈川大学経営学部)』 3  85~86ページ)

 

  組立産業における大量生産の歴史を顧みると、量産システムの確立のためには、生産種類を限定するとともに、部品を規格化して製品の標準化をはかり、また設計をできる限り簡素化することが必要であった。戦時造船における多量生産は、標準型船の設計とその簡易化という形をとった。ここでいう標準船とは、船体、機関、艤装品などの形状や構造を規格化し、同一資材や部品を使用するよう設計された船舶であり、工期の短縮、工費の低廉をもたらすという意図から発想されたものである。
     (後藤伸 前掲論文  97~98ページ)

 

  このことは、船型の簡易化が使用鋼材料の節約をとおして工数短縮=建造期間の減少をもたらすとともに、それと同等あるいはそれ以上に、建造工程における簡易化(=改善)をとおして工数の減少をもたらしていたことを示唆する。
     (後藤伸 前掲論文  105ページ)

 

  第一に、戦前と戦後の造船技術の連続性について。戦後の造船業の技術革新が溶接ブロック建造法に求められるとすれば、この建造法は戦後日本の造船業にまったく新規の工法であったということはできない。既にみたように、王手の象zsん除では1920年代初頭から溶接技術の導入、開発を手掛け、戦標船の建造では溶接による接合が船体のかなり広い範囲にわたって用いられた。また、ブロック建造についても、自然発生的におこなわれていた部材の小組立程度の段階から、さらには先行艤装方式さえもが意識的に試みられ、そしてそれは大量生産という点ではかなりの成果をおさめることができたのである。
 第二に、戦前と戦後の造船技術の格差について。戦時に試みられたこれら建造方法は、まさに戦時という特殊事情のもとで採用されたものであり、平時での建造方法としてそのままで通用するわけではなかった。たとえば、電気溶接一つ採り上げてみても、これが戦時に急ピッチで採用されたのは、鋼材の節約もさることながら、鋲打ちのための熟練工が不足し、まったくの素人でも扱える接合技術として導入されたという事情は無視できない。しかも、手動ないしせいぜい半自動の溶接機によって接合された船舶は、戦標船という船体構造が極度に簡易化された小型船舶が主であり、戦後展開されるような大型商船の溶接ブロック建造を可能とするには、船舶設計、溶接技術、使用鋼材、運搬設備、工程管理など多方面にわたるいくつもの困難な技術的ハードルを超える必要があった。
     (後藤伸 前掲論文  119~120ページ)

 

このように、戦前期には「契約成立ごとに詳細な設計図面を作成」することから開始される個別の受注生産品であった船舶が、規格化されることによって大量生産を容易にし、戦時の船舶需要の急増への対応が試みられたこと。そして、戦時標準船製造の経験には、戦後の造船業の生産技術への連続的側面があることが主張されている。

 確かに、生産技術の観点からは、そのような評価も可能なのであろう。

 しかし、「船舶の簡易化」すなわち船体構造の極度な簡易化は船体の強度を犠牲にしたものであり、それは洋上で船舶を運航する乗組員を犠牲とするものであった(船員の人命の軽視、ということなのである)。

 

 

 第二次戦時標準船について、大内健二氏は以下のように指摘する。

 

  艦政本部は第二次戦時標準船の設計に際し、徹底した工期短縮を行なうために建造予定の各形式の船について、抜本的な対策としてかなり強引な設計の簡略化、それに伴う強引なまでの工作の簡略化を実施したのである。この抜本的な対策とは次のようになっていた。
  (イ)、早期完成のために量産化に適した構造の船であること。
  (ロ)、材料と工数の徹底した節約と節減。
  (ハ)、(ロ)項の要求から完成した個々の船舶の寿命は短期であっても可とする(戦争期間だけ持てば良い)。
  (ニ)、運用効率の上から一隻当たりの載貨重量は極力大きくする。
  (ホ)、個船には高性能は求めない。従って機関の低馬力と低速力は容認する(量産の利く低価格、低性能の機関の搭載が前提条件)。
  第二次戦時標準船に貫かれた建造方針は、一にも二にも徹底した簡易・簡略構造による建造機関の短縮であった。そして結果的にはこの第二次戦時標準船こそ、後に粗製濫造の見本として周知された、いわゆる「戦標船」なのである。
  第二次戦時標準船に採用された主な簡易・簡略化は次のとおりであった。
  (イ)、全船種からの二重底の廃止。
  (ロ)、船体のシーアやキャンバーの廃止。一部を除き曲面加工の廃止。
  (ハ)、ブロック建造方式の大幅採用。
  (ニ)、電気溶接工法の大幅採用。
  (ホ)、付属装置や機器の簡素化。
     (大内建二 『戦時標準船入門』 光人社NF文庫 2010  75~76ページ)

 

  この徹底した簡易構造の中でもその際たるものは船舶の安全の基本に関わる二重底の廃止であった。二重底とは船底を二重構造に組み上げ、船舶が座礁などしたときに船底の決定的な破損を少しでも軽減し沈没の危機から救うこと、また船体の強度を高めるための基本的な構造として採用されている、船舶の構造上必要不可欠なものである。
  二重底の組み立てはその船が起工され船台上で工事が始まった直後から開始される最重要の工程で、確かに多くの鋼材と多くの作業を要する複雑な工程である。この複雑な工程を排除することは船の建造のスピードアップには確かに極めて効果の大きなものであるが、その反面、船の安全性を根底から否定することでもあり、特に用船者側から見れば信じられない暴挙であった。
  二重底の撤廃に対しては航海の安全が保証されず、任務の遂行も保証できないとして各海運会社等からは、設計主務者である海軍艦政本部に対し厳しい批判と苦言が呈された。しかし艦政本部はこれら全ての批判や苦言を黙殺し二重底撤廃を強行したのである。つまり第二次戦時標準船は大小全ての船が二重底を装備していないという、信じられない構造の船となったのであった。つまり各船の船底は十~二十ミリの鋼板一枚だけであったのである。
  徹底した簡略設計や工作が強行され、また作業工程が簡略化されて完成した船はその後それぞれに多く問題を残すことになった。その代表的な例が水密性の欠陥であった。
  造船所で完成した船が、竣工検査で必ず実施するものに船体の水密性に対する検査があった。これは船体の吃水線以下の船体の漏水の検査で、不良工事は将来的にその船の沈没も招きかねず、事前に徹底的に検査することが決まりであった。ただこの検査は多くの時間を要することになり、不良個所の改修作業も決して容易ではなかった。第二次戦時標準船では完成時のこの検査を極めて簡単な簡易検査だけにとどめてしまったのである。
  このために信じられないことではあるが、完成直後から直ちに輸送任務に投入された各船では、しばらくの間は乗組員による漏水個所の手直し作業が行われるという、異常な状態が続くことが多かったのである。また甲板の鋼材の電気溶接個所も、工作不良により船内に水漏れが生じることは日常的で、就航後は当分の間、乗組員による様々な手直し作業が続くのは当たり前というのもこれらの船の特徴でもあったのである。粗製濫造の極みともいえる状態は確かだったのである。しかしこの混乱は設計だけに原因があるのではなく、後述するように多くの部分が造船作業員の技量の大幅な低下に由来していたのであった。
     (同書 80~82ページ)

 

 ここに、戦時標準船の姿から明らかになる大日本帝國の総力戦状況がある。戦時標準船は、それが鋼船であっても、船員の犠牲を前提にして成り立っていたのである(大日本帝國の戦争における徹底的な人命軽視については「統帥の無責任としての特攻精神 6 (海に沈んだ「陸軍」将兵)」及び「統帥の無責任としての特攻精神 8 (ボンバールと靖國の英霊)」でも、大内氏の論考により論じたことがある)。

 その戦時日本において、鋼船建造能力の限界が生み出したのが「木造船建造緊急方策要綱」による木造船建造であった(「しかし、急な大量生産のため浸水するものが続発し、木造船建造の目標は烏有に帰した」)。

 それこそが、かつては「緑のトンネル」であった欅並木が「大きいのから強制的に切られた。それで無くなっちゃったんだ」という戦時期の小平の経験の背景ということになる。

 

 

 

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  昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(星野朗氏の論考紹介)

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2018年8月31日 (金)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)

 

 

 これまで、「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、昭和10年代(1930年代後半から1940年代前半)の多摩武蔵野地域の軍産複合的状況について記してきた(カテゴリー「多摩武蔵野軍産複合地帯」記事参照)。

 特に、(武蔵野の名を冠した)武蔵野美術大学所在地である小平地域について、総力戦状況下を象徴するような軍施設の集中地区として整理し(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」参照)、加えて住宅営団による軍施設関係者用の集団住宅開発を取り上げ (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」参照)、さらに「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)」及び「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)」では、小平地域の給水問題(地勢的条件による飲料水確保の困難)を通して、「大きな力」としての軍の姿を再確認した。

 

 今回は、総力戦下での女性(と子供)の位置を、津田英学塾(現・津田塾大学)の開設した「津田こどもの家」を通して確かめてみたい。

 まず、『小平市史』と『小平市三〇年史』では、どのように「津田こどもの家」が描かれているのかを読むことから始める。

 

 

   女子英学塾(一九三三年から津田英学塾)は移転してきて以来、小平の地域社会との関係づくりに気を配っており、学生たちによる子どもを対象とした日曜学校や津田英学塾青年会の伝道活動、小平村出征兵士への慰問品送付の活動などに取り組んできた。しかし、モダンな校舎のミッションスクールと農村社会の文化的ギャップは大きく、教職員たちは「なんとなく村人と調和のとれぬ思い」を抱え、「英文学を専攻する学生たちが、象牙の塔に住みなれて、社会、殊にその地域社会から浮き上がつてしまうこと」を恐れていた。
  そうした中塾長の星野あいは、重労働に疲れ果てる農家の女性とその子供たちのために、農村託児所の開設を思い立った。これに賛同した教職員、学生、卒業生たちは、映画会を開いて資金を稼いだり、卒業生から寄付を集めるなど奔走して資金や資材を調達し、校舎と道を隔てた三〇〇坪の校地に、総工費四千六百円、建坪七〇坪の園舎を完成させた。オルガン、テーブル、ラジオから医務室の器具に至るまで、備品はすべて卒業生からの不要品の寄付に依った。また建設作業には全校三百数十名の学生も参加しておこなわれ、そのようすは「テニスンやワーズワースの詩集代わりにスキやクワを握ってその一振り一つきに尊い汗の奉仕を続けてゐる」などと報道された(『朝日新聞』 一九三九年七月二七日)。
  一九三九(昭和一四)年一〇月一日、同窓会と学友会の経営による「津田こどもの家」が無事開所式を迎えた。学齢前の六~七〇名の幼児に対する保育には、専門の教育を受けた保母二名に加え、「お手伝い」の津田塾生が交替であたり、朝七時半から一六時までの保育時間は「お遊戯、お話、手工等を始めとして、お食事、おひるね、おやつ等の嬉しい事もあり、その後は花壇、畠に水をやる」(津田英学塾同窓会『会報』第四九号)といった次第であった。二〇銭の月謝支払日、母親たちは口々に深く感謝の言葉を述べたという。また農閑期に母親を対象に栄養料理講習会が開催されると、これも好評を博した。
  このように津田こどもの家は地域社会に歓迎され、開設まもなくにして「過去八年間どうしても越える事が出来なかつた村の人等と私達の間のギャップが一度にふつとんでしまつた」のであった(津田塾同窓会『会報』第四八号)。津田英学塾と地域社会との信頼関係がこうして確立したのだった。
  当初、幼児の父兄は近隣の農家がほとんどであったが、一九四二年頃になると「だんだん他所から入つて来た人も増え」、今年はじめて朝鮮人の「子供も入つて参りました。そして家庭の職業は農でも父は職工などといふのが可也ある様で、此にも時局の反映が見られる様でございます」と報告された(津田英学塾同窓会『会報』第五三号)。戦時開発にともなう地域社会の変化は、「地付の人」のための農村託児所というもともとの性格を変えていったのである。
  同時に津田こどもの家に対する幼児教育機関としての期待も高まっていった。こどもの家の出身児童は国民学校で模範生であると評判になり、農家の母親のあいだで「良いお坊ちゃんね、大きくなったら商大に入れるのです」「エエ津田子供の家に入れるのですよ、早くそうなってくれれば良いのですが」といった会話が交わされ、「此の辺の御母さん達は託児所に入れることが御自慢であり理想」になったという。農家の母親たちも将来につながるものとしての幼児教育に関心をもちはじめたのである。
  こうして地域社会に定着し、農家の女性の負担軽減と農村生活の改善に貢献した津田こどもの家であったが、頻発する空襲警報にともなう幼児の退避で保育が成立しなくなり、給食の材料も入手困難になったので一九四五年三月に閉鎖することになった。なお一九四四年五月に東京都は戦時託児所を一七〇か所開設することを決め、一九四五年三月、小川一番に都立小平戦時託児所が開設されたが、空襲の激化から戦時託児所制度自体の廃止とともに、同年六月に閉鎖された。小平戦時託児所は戦後、都立小平保育園となった(『私が見てきた保育の歴史』)。
     (『小平市史』 2013  332~335ページ)

 

 

  津田英学塾は昭和一四年(一九三九)一〇月「津田こどもの家」という託児所を開設した。同学は小平移転以来なんとかして小平の地域社会と融合したいという考えを抱いていた。戦争のため働き盛りの若者の多くが応召し、女性の労力を必要とするとき、育児の労を軽くし、これを通して村の人と親密になれたらという願いからであった。
  校内の雑木林三〇〇余坪の林の間に新築された木造平屋五四坪の建物だった。当初の申込者は九〇人を超えた。『津田英学塾四十年史』の中に卒業生の回顧として次のようにある。
  或る子供のおじいさんが子供と託児所にやってきて、お弁当の前に手を洗うのを見て「ははあ、水いたずらをしてしょうがないと思ったら、ここで習ったのか」という。そこで保母さんが、水いたずらではなくて、食事の前には手をきれいにして食事をするのだと説明すると、おじいさんは「そういうものかね」と感心したように聞いていたそうだ。託児所の第一回卒業生は小学校でも非常に評判がよいと星野先生が嬉しそうに話された。
  そして昭和二〇年四月三〇日限り休業のやむなきに至るのである。時局の悪化、空襲の頻発、食料の窮迫に伴い、これ以上危険・困難を冒して児童を預かることができなかったのである。
     (『小平市三〇年史』 1994  202ページ)

 

 

 設立の経緯・背景については、別のニュアンスを伝える証言もある。

 

 

   藤田たきは『社会事業』1941年5月号に於いて、東京市の中心にあった津田英学塾が北多摩郡小平村に移転の後、「津田子どもの家」を建設して女学生の勤労奉仕として保育事業を行ったことを述べている。1938年の文部省通牒により、女学生も長期休業の際、3-5日間勤労奉仕することが義務付けられていた。津田英学塾の女学生も勤労奉仕のため陸軍被服廠に、また宮城外苑整備事業に出かけていた。だが、小平村から東京までの交通費が一人当たり1円はかかったので、寄宿舎の女学生180人が異動すると180円を要することになる。そのように大きな金額では東京まで出かけられない。代りに、そのお金で一つの幼稚園も託児所もない小平村に託児所を建てることにする。
     (金慶玉 「総力戦体制期における「戦時保育」と保育施設の変容」 2015 『アジア地域文化研究』 11  32ページ)

 

 

 『小平市史』や『小平市三〇年史』に示されている「なんとかして小平の地域社会と融合したいという考え」を疑う必要はないだろうし、藤田たきの伝える事情もまた、当時の現実の議論の流れであったろう。

 

 

 まず、当時の託児所(保育施設)をめぐる一般的状況について確認しておきたい。

 

 

   「農繁期託児所」とは、田植えや稲刈りなどの農繁期に子どもの世話をできない農家の事情を鑑み、放置されがちになる乳幼児の保護を目的とした事業である。古木弘造『幼児保育史』(厳松堂書店、1949年)によれば、わが国に於ける農繁期託児所は、「鳥取県気高郡美穂村下味野に於て、筧雄平氏によって明治二十三年に開設されたものが最初のものとされている」という。しかし、その後の発達は遅々たるもので、1920年代初頭から全国に少しずつ設けられはじめていったのが実態である。
   ところが、農繁期託児所は、1930年代後半から1940年代前半における時期に、開設数を飛躍的に増大させていく。これは、1937(昭和12)年7月の日中戦争開始以後、戦時体制がとられ、農村における労働力不足への対応や食料増産を企図して、国及び各道府県が積極的な形で設置を奨励・助成したことによるものである。
     (浅野俊和 「戦時下保育運動における農繁期託児所研究―「保育問題研究会」を中心に」 2007 『中部学院大学短期大学部研究紀要』 8  55ページ)

 

   成人男子出征による「銃後」の労働力不足を補うための女子勤労動員は1939(昭和14)年の国民徴用令の施行に始まる。当初は未婚女子への就職奨励という程度であったが、労働力不足の深刻化に伴い、1943(昭和18)年以降、未婚・既婚を問わず女子の大量動員がかけられる。明治末期から昭和初期にかけて開設された託児所は、主に都市部の貧困層のための救貧対策として設けられていたが、戦時体制下の女子の大量動員はそれまでの貧困家庭のみならず、一般家庭の子どもの託児の必要をも生じさせることになり、名古屋市、福岡県、大阪市、東京市など全国各地に戦時託児所など臨時の簡易保育施設が数多く設置された。さらに1943年以降、福岡県を皮切りに、東京都、愛知県、名古屋市などで、幼稚園を保育施設へ転換する動きが出てくる。
     (矢治夕起 「昭和戦中期の戦時託児所について : 幼稚園から戦時託児所への転換事例 1」 2014 『淑徳短期大学研究紀要』 53  85~86ページ)

 

 

 「津田こどもの家」についていえば、農業が基本であった小平地域において、当初は農繁期託児所的性格の下に開始された事業が、戦時開発による地域社会の変化の中で、戦時託児所的意味も持つようになっていったことがわかるだろう。その点について、『小平市史』は、

 

  当初、幼児の父兄は近隣の農家がほとんどであったが、一九四二年頃になると「だんだん他所から入つて来た人も増え」、今年はじめて朝鮮人の「子供も入つて参りました。そして家庭の職業は農でも父は職工などといふのが可也ある様で、此にも時局の反映が見られる様でございます」と報告された(津田英学塾同窓会『会報』第五三号)。戦時開発にともなう地域社会の変化は、「地付の人」のための農村託児所というもともとの性格を変えていったのである。

 

このように記している。

 津田英学塾の託児所開設時の昭和14(1939)年は、既に支那事変(いわゆる日中戦争)が二年経過し、9月にはナチスドイツのポーランド侵攻によりヨーロッパでの戦争も現実となった時点である。既に支那事変段階で、「成人男子出征による「銃後」の労働力不足」が生じており、昭和16(1941)年の対米英開戦は「労働力不足」問題を深刻化させた。「戦時体制下の女子の大量動員」は、より徹底されることになる。事変の「当初は未婚女子への就職奨励という程度であった」ものが、米国をも相手とした総力戦状況の中で、「未婚・既婚を問わず女子の大量動員がかけられる」状況にまで追い込まれる。子供の保育への公的保障は、既婚者をも対象とする「女子の大量動員」の必須の要件となる。

 

 

 ここで明らかなのは、国家総力戦として展開した「大東亜戦争(政府による定義上、対米英戦だけではなく支那事変段階を含む)」において、大日本帝國は人的資源の資源量、すなわち人口に当初から問題を抱えていたという事実である。「未婚・既婚を問わず女子の大量動員がかけられる」しかなかったのは、人的資源にまったく余裕がなかったことを示す歴史的経過である。

 

 もちろん、戦時体制の構築に際し、政府が人的資源上の問題を認識していなかったわけではない。有効な人口政策の樹立は帝國政府・軍の課題であった。

 

 

   人口問題全国協議会の政府諮問答申案(国立公文書館所蔵文書―本文中に文書作成日付がないものの、論文筆者の増山道康氏は内容から1935~1938年作成のものと位置付けている―文中に「日中戦争の深刻化」とあることからすれば1937年以降となりそうだが:引用者)では、前文冒頭で「人口は国力の根帯にして其の数量並びに資質の如何は直に国運の消長民族の盛衰に関す。」と述べ、人口を資源として明記している。その理由として戦争を根本原因として挙げ、日中戦争の深刻化が人口問題に直結しているとしている。ここに、戦争計画で、人口政策が必要とされる理由がある。戦争遂行には、兵力及び補給力の増強が最も基本的な課題となる。それには一定の人口を確保する必要があるが、満州事変、さらに日中戦争開始以降には、総力戦を戦うには人的資源が不足しているとの認識が政府部内では強くなっていった。
     (増山道康 「戦争計画による社会保障制度形成」 2004 『岐阜経済大学論集』 37-2  32ページ)

 

 

 実際問題として、昭和10年代前半(1930年代後半)の日本では出生率が低下しており、軍の危機意識は強いものであった。1920年の出生率が36.2、1925年が34.9、1930年が32.4、1935年が31.6、1936年が30.0、1937年が30.9、1938年が27.2、1939年が26.6となっており、出生率の低下は明らかであった(一方で死亡率の低下もみられてはいたが)。「総力戦を戦うには人的資源が不足しているとの認識が政府部内では強くなっていった」中で、軍、企画院、厚生省等による人口政策の策定が試みられ、昭和16(1941)年の1月には、「人口政策確立要綱」が閣議決定される(以下の引用に際しては、漢字は現代表記にあらためてある)。

 

 

      人口政策確立要綱 (昭和一六、一、二二 閣議決定)
   第一 趣旨
    東亞共栄圏を建設してその悠久にして健全なる発展を図るは皇国の使命なり、之が達成の為には人口政策を確立して我国人口の急激にして且つ永続的なる発展増殖とその資質の飛躍的なる向上とを図ると共に東亞に於ける指導力を確保する為その配置を適正にすること特に喫緊の要務なり
   第二 目標
    右の趣旨に基き我国の人口政策は内地人口に就きては左の目標を達成することを旨とし差当り昭和三十五年総人口一億を目標とす、外地人人口に就きては別途之を定む
    一、人口の永遠の発展性を確保すること
    二、増殖力及資質に於て他国を凌駕するものとすること
    三、高度国防国家に於ける兵力及労力の必要を確保するjこと
    四、東亞諸民族に対する指導力を確保する為其の適正なる配置をなすこと
   第三 (略)
   第四 人口増加の方策
    人口の増加は永遠の発展を確保する為出生の増加を基調とするものとし併せて死亡の減少を図るものとす
    一、出生増加の方策
    出生の増加は今後の十年間に婚姻年齢を現在に比し概ね三年早むると共に一夫婦の出生数平均五児に達することを目標として計画す
    之が為採るべき方策概ね左の如し
     (イ) 人口増殖の基本的前提として不健全なる思想の排除に努むると共に健全なる家族制度の維持強化を図ること
     (ロ) 団体又は公営の機関等をして積極的に結婚の紹介、斡旋、指導をなさしむること
     (ハ) 結婚費用の徹底的軽減を図ると共に、婚資貸付制度を創設すること
     (ニ) 現行学校制度の改革に就きては特に人口政策との関係を考慮すること
     (ホ) 高等女学校及び女子青年学校等に於ては母性の国家的使命を認識せしめ保育及保健の知識、技術に関する教育を強化徹底して健全なる母性の育成に努むることを旨とすること
     (へ) 女子の被傭者としての就業に就きては二十歳を超ゆる者の就業を可也抑制する方針を採ると共に婚姻を阻害するが如き雇傭及就業条件を緩和又は改善せしむる如く措置すること
     (ト) 扶養家族多き者の負担を軽減すると共に独身者の負担を加重する等租税政策に就き人口政策との関係を考慮すること
     (チ) 家族の医療費、教育費等其の他の扶養費の負担軽減を目的とする家族手当制度を確立すること
         之が為家族負担調整金庫制度(仮称)の創設等を考慮すること
     (リ) 多子家族に対し物資の優先配給、表彰、其の他各種の適切なる優遇の方法を講ずること
     (ヌ) 妊産婦乳児等の保護に関する制度を樹立し産院及乳児院の拡充、出産衛生資材の配給確保、其の他之に必要なる諸方策を講ずること
     (ル) 避妊、堕胎等の人為的産児制限を禁止防遏すると共に、花柳病の絶滅を期すること
    ニ、死亡減少の方策
   (以下略―要綱は第七まで続いている)

 

 

 「出生増加の方策」の根幹として示されているのは、「出生の増加は今後の十年間に婚姻年齢を現在に比し概ね三年早むると共に一夫婦の出生数平均五児に達することを目標として計画す」ということであり、その具体的方策として、今回の託児所問題と関連するものとして、「女子の被傭者としての就業に就きては二十歳を超ゆる者の就業を可也抑制する方針を採ると共に婚姻を阻害するが如き雇傭及就業条件を緩和又は改善せしむる如く措置すること」とあるのが興味深い。「人口政策確立要綱」の精神からすれば、「未婚・既婚を問わず女子の大量動員がかけられる」などあり得ぬ話なのである。「女子の被傭者としての就業に就きては二十歳を超ゆる者の就業を可也抑制」することで婚姻年齢を早め、出産育児に専念させるのが、「人口政策確立要綱」の描いた構図であった。

 言い換えれば、「人口政策確立要綱」が求めたのは、「家庭内の良妻賢母」としての女性の姿であった。「高等女学校及び女子青年学校等」の女子生徒に求められているのは「母性の国家的使命を認識」すること「健全なる母性の育成に努むること」であって、目指されているのは「被傭者」として家庭の外で労働する母となることではないだろう(「出生増加の方策」の中に託児所設置は含まれていない)。しかし、現実の展開の早さが、「人口政策確立要綱」での目論見を根底から突き崩してしまう。「人口政策確立要綱」が閣議決定された昭和16年の末には、同じ政府は対米英開戦を決断してしまう。「人口政策確立要綱」に描かれた「出生増加の方策」は、米国までを相手にした総力戦の現実の展開の中で意味を失っていくのである。

 

 そのような歴史的展開の中での戦時託児所であり、津田英学塾による「津田こどもの家」の存在なのである。

 

 

 

 多くの男性が兵士として前線へと送られる状況の中では女性の積極的雇用にしか選択の余地はない。それが「近代総力戦」の現実であった。

 米国でもその状況にかわりはなく、そして、実際に多くの既婚女性が、保育所に支えられながら、それまで「男の仕事」とされていた職務を男性に遜色なくこなしたのであった。

 ここでは、大戦時の米国の軍需産業の中の女性労働者の姿を取り上げた記事(「フォードの爆撃機、あるいはロージーのリベレーター」)中でも参考にした松本園子氏の論文から、既婚女性の戦時動員と保育の問題にどのように取り組まれたのかについて、同時代の米国の状況を見ておきたい。

 

 

   1941年、ランハム法(Lanham Act)として知られるコミュニティー施設法が成立した。これは軍需生産のために新しく出来た工場地帯において、学校、上下水道、病院、リクリエーションセンターなど公共施設の設置に国費を補助するものであった。
    ランハム法を保育施設設置に適用することは、翌1942年の法修正によって可能となった。この業務を管轄したのは連邦職業庁(FWA、ニューディール政策により設置された職業促進局WPAの後進)であり、FWAはこの法により保育施設設置を促進することを主張した。しかし、社会保障庁、児童局はランハム法のプログラムにより質の低い保育を提供することに反対し、設置に消極的であった。
     (松本園子 「第二次世界大戦期アメリカ合衆国における保育問題」 2005 『淑徳短期大学研究紀要』 44  68ページ)

 

   1941年6月、児童局の後援で「働く母親の子どものための保育に関する会議」が開催された。ここでは、家庭で育児をしている母親こそが本質的な愛国的責務を実行している、という考えのもとに、母親と子供の福祉を考慮する政策を提示することが要求された。
   この会議で承認された総合的なスタンダード集が1942年1月に公刊された。ここには、グループデイケア、フォスターファミリーデイケア、ホームメーカーサービスについてそれぞれの基準が示されたことに加え、次の原則が明らかにされた。
   1、就学前児童の母親に働くことを奨励すべきではない
   2、母親が働きに出る場合は、コミュニティーは子どものケアの計画について親を援助する義務をもつ
   3、乳児は集団保育すべきではない
   4、もし必要ならば、2歳以下の子どもは、自宅でホームメーカーサービスを提供されるか、あるいはフォスターファミリーホームで世話されるべきである
   5、州と地方自治体は、保育の充分な基準を監督し維持する責任がある
     (松本園子 2005  70ページ)

 

   児童局の保育観は、以上のように基本的に母親の労働および、それを奨励する保育所を否定するものであった。そのため、できるだけ働くことを思いとどまらせるよう母親へのカウンセリングが勧められた。また集団保育が否定され、やむを得ず保育する場合は家庭保育に近いフォスターファミリーデイケア(少人数の子供が日中、女性によって彼女自身の家庭でケアされ、ソーシャルワーカーが監督するというシステム)、あるいはホームメーカーサービス(=ホームヘルパー、子供の家庭に出向いて保育する)をすすめた。また特に、2歳以下の子供の母親が働くことを否定し、集団保育を否定した。
   児童局は理想を掲げ戦争の波から子供を護るべく闘ったのであるが、これらは、戦時の社会的要請に合致しなかったのみならず、次章でみるように、働く母親の実態と気持ちにもそぐわぬものであった。ローズは児童局のスタッフは「児童保護の高い基準と、多様なサービスを主張し、保育は長期の問題であることを理解していたのであるが、母親の労働を必要悪とする見解が、彼らが保育の向上に取り組むことを阻んだ。働く母親の子どもが容易く入れる集団保育施設の創設に抵抗することによって、児童局における児童福祉擁護者は状況を現に悪化させることとなった。……保育はかくして、増加する戦争産業の慈悲にゆだねられた」と問題を指摘している。
     (松本園子 2005  71ページ)

 

   戦時労働力委員会は公式には児童局の立場を採用し、幼い子供を持つ母親の雇用に否定的であった。しかし、それは軍需産業側、軍需生産を厳しく求める他の政府機関、そして次章に述べるように、戦時雇用を自分たちの生活とよりよい子育てのチャンスととらえた母親たちのニーズにも衝突した。
   世論も変化した。1936年の調査では、既婚女性の労働に対しては不賛成が82%であったが、1942年のナショナルオピニオンリサーチセンターの調査では、既婚女性も軍需工場で働くべきだという回答が60%であった。
   こうした中で、軍需生産を行う私企業自身が、女性労働者の募集と保持のために保育所を運営する場合もあった。例えば1942年秋、サンタモニカのダグラス飛行機工場は工場の4マイル以内で、しかし「敵の目的の範囲外」に保育所を開く計画を発表した。女性労働者をバッファローの飛行機工場に募集するために、カーチスライト会社は工場ナースリースクールの大きさを二倍にすると発表した。オレゴン州ポートランドのカイザー造船所も保育センターを開いた。
     (松本園子 2005  72ページ)

 

 

 興味深いのは、児童局の一貫した態度であろう(そこに「良妻賢母」イメージを見出し共感あるいは反発するのか、幼児の権利の擁護として位置付けられるものと考えるのかは別として)。いずれにせよ、様々な思惑の交錯する中で、実現した保育システムに支えられながら、既婚女性も労働者として戦時生産に参画していくことになる。松本氏は、エリザベス・ローズの著書に依拠しながら、特に公的な保育の実現事例としてフィラデルフィアの経験に焦点を当てて論じているが、ここでは、女性労働力を必要とした当事者としての私企業の取組事例を引用紹介しておきたい。

 

 

   オレゴン州に大規模な戦時市民住宅団地バンポート・シティーが建築されたが、そこに住み、造船所で働く25,000人の女性労働者のために、カイザーは、二つの大きな保育センターを建てた。所長には、コロンビア大学児童発達研究所前所長ルイス・ミーク・ストールズが就任した。
   建物は「コミュニティーの外ではなく、しかも造船所の入口の前に配置し、仕事の行きかえりの母親の便宜をはかった。1,125人の幼い子ども一人一人に、あるいは一日三交代の375人それぞれに適応するような広さがあり、斬新な舵輪のデザインは、広い芝生の遊び場と、四つの子供用プールと、一五の保育室を囲んでいた。広い保育室の窓から、子供達は母親が働く船を見ることができた。
   各センターには、訓練されたナースのいる診療所、ソーシャルワーカー、充分なスタッフのいる調理室が備えられた。
   子どもたちの食事に加えて、勤務を終わった母親の家族のための持ち帰り食もここで用意された。「ホームサービスフード」と呼ばれたこのプログラムはエレノア・ルーズベルトによって示唆されたものであった。食事は、栄養バランスがとれ、きっちり包装され、「再加熱してサラダと野菜を加えることによって完全なディナーになります」、という注意書が入っていた。一人前50セントで、一食で大人ひとり子どもひとりを満足させた。
   カイザー保育センターにおける入所数は最高時1944年9月に1,005人となった。当初の目標には到達しなかったが、カイザーセンターは、私企業がなしうることの見本とされた。とはいえ、これは純粋に私企業が行なった取り組みではなく、連邦政府が間接的に資金補助を行い、合衆国海運委員会が建設費を負担した。
     (松本園子 2005  72ページ)

 

 

 用意された保育施設のレベルの高さには驚かされるしかない。

 このような国との全面戦争を選択したのが、わが大日本帝國なのである。

 

 

 その日本での戦時託児所開設を支えたのは、以下のような論理であった。

 

 

   戦時保育の第一の特徴は教育と保護の機能が一体化した点である。当時、東京市健民局母子課長を務めてた苅宿俊風(1998-?)は、東京市が推進した戦時託児所という名称につき、「保育所といふことにすると、外来の思想の臭気がするし、託児所といふと、従来の貧困階級のことを思はれて、この度の設置方針が諒解せられないのではないかと憂ひましたが、戦時と託児所と離れてゐるのではなく、一気に一つの概念として戦時託児所」としたと、苦心の跡を述べている。その対象を見ても、

     ここには入つてくる子供は、従来東京市がやつてゐたやうに、生活に余裕のない家庭を対象にしてゐるのでもないし、又従来の幼稚園といふののやり方、それはやはり生活に余裕のある家庭の子弟を見るといふことにあつたやうに思ふが、これでもないのである。(後略)
    (前略)全体を対象として一人の有閑者をも無からしむる施設にして行かうといふ新しい性格を持つているのである。

と所信を披歴している。
     (金慶玉 2015  26~27ページ)

 

   東京市はまず、1943年に既存の方面館などの公立保育施設46ヶ所の名を戦時託児所と替え、一ヶ所につき予算年額8千円を設定して166ヶ所の設置を目標にし、その性格も時局に対応したものとした。戦時託児所の設置方針は次の通りである。

    一、時局の要請に副ふべく、みんな働けるやうに。戰時生産に役立つやうに。
    二、働くと言つても工場だけでなく、種々の職場に於て働く。都市に於ては、知識階級の方面の婦人も大いに働いてゐるから、かういふ方面にも役に立たせるやうに。
    三、大東京の外周には農業を営んでゐる所がかなりあるので、食糧増産といふ方面にも役に立つやうに、季節託児所といふことも都市では考へる。

戦時期「銃後の努め」の完遂を求め、都市と農村を含んだすべての職場において、戦時生産に全力をあげるように、これが設置方針であった。さらに食糧増産のため設けられた季節託児所も戦時託児所と同じ方針の下に、都市に於いても設置が進められていた。
     (金慶玉 2015  30~31ページ)

 

 

 戦時動員として目指されているのが、「時局の要請に副ふべく、みんな働けるやうに」という状況であり、それは「全体を対象として一人の有閑者をも無からしむる」ところまで徹底されなければならない。 

 「人口政策確立要綱」では、「人口増加の方策」として、「女子の被傭者としての就業に就きては二十歳を超ゆる者の就業を可也抑制する方針を採る」ことが明言されていたが、「時局の要請」は、「一人の有閑者をも無からしむる」方針へと転換され、「女子の被傭者としての就業」こそが国策となったのである。そのための戦時託児所なのであった。

 

 

 小平地域について言えば、今回の主役である「津田こどもの家」に加え、『小平市史』には1945年3月に開設された「小平戦時託児所」の存在が記されている。

 

   一九四五年三月、小川一番に都立小平戦時託児所が開設されたが、空襲の激化から戦時託児所制度自体の廃止とともに、同年六月に閉鎖された。小平戦時託児所は戦後、都立小平保育園となった。

 

 この二ヶ所とは別に、小平青年学校が関与した農繁期託児所の存在が、青年学校教諭であった伊藤為次氏の日記に登場する。

 

   五月四日 (木) 農繁期託児所を青年学校で開設するため、女子職員、校長が青梅に行き見学。
   六月十四日 (水) 託児所開設、幼児四十五名が集まる。
     (伊藤為次 『小平戦中日記』 昭和19(1944)年の条 『そのとき小平では Ⅵ』 2008  24~25ページ)

 

内容からすると、例年のものではなく、昭和19年に新規設置されたものに見える。『そのとき小平では Ⅵ』に掲載分では、翌昭和20年の日記には農繁期託児所についての言及がない。しかし、そもそもが抄録なので、現状では昭和20年の託児所設置の有無については結論めいたことは言えない。19年に幼児45名の利用があることからすれば、地域として必要な施設であったようにも見える(状況の悪化により、津田こどもの家が20年3月―『小平市三〇年史』では「昭和二〇年四月三〇日限り」とされているが―に、小平戦時託児所も6月に閉鎖となっていることからすれば、20年6月という時点での農繁期託児所の開設は困難であったのかも知れない)。一方で、開設に先立ち「青梅に行き見学」とあるところからすれば、小平地域には参考となる農繁期託児所の先行事例がなかったことを推測させる。

 いずれにせよ、津田こどもの家、都立の小平戦時託児所、そして小平青年学校の農繁期託児所の存在も確認されたことからすれば、小平地域での託児所には社会的ニーズがあった、とは言えそうである。

 

 

 

 再び、津田こどもの家に戻ろう。

 

 

 「校舎と道を隔てた三〇〇坪の校地に、総工費四千六百円、建坪七〇坪の園舎」(『小平市史』)、「校内の雑木林三〇〇余坪の林の間に新築された木造平屋五四坪の建物(『小平市三〇年史』)」と建物の坪数に異同はあるが、いずれにせよ、昭和14(1939)年に津田こどもの家は完成し、託児所として開設される(ちなみに、『小平市史』『小平市三〇年史』共に「津田こどもの家」表記だが、金慶玉論文では基本的に「津田子供の家」表記が用いられている)。

 金慶玉論文には、

 

   託児所を開所してから一ヶ月が経った1939年10月1日、託児所委員会は、戦時物価高による建築費の高騰を背景とする1939年10月から1949年3月までの「経営費の不足は四、五百円見当と目される」と述べている。
     (金慶玉 
「戦時期における農村託児所の研究―「津田子供の家」を中心にして―」 2017 『アジア地域文化研究』 13  31~32ページ)

 

とあるが、「建築費の高騰」は、事変拡大がもたらしたものであり、戦時動員の帰結でもあった。

 

  日中戦争期における生産力拡充の根本的な制約要因は、外貨不足であった。国際収支改善の観点から輸入制限と配給統制の必要性が生じたが、木造住宅の主要な建築資材の1つである木材については、1938年7月、米松販売取締規則の施行により使用制限が開始された。1940年の「外材ノ輸入ハ前年[1939]ニ比シ著減シ、殊ニ米材ハ外貨節約ノタメソノ輸入ハ昨年ノ約六割ニ減少」した。1940年度の木材需給は「内外地ヲ通ジテ生産ハ需要ヲ賄フ事ヲ得ズ、相当量ノ手持ヲ喰ヒ込ンデ辛ジテ需給ノ均衡ヲ保ツ」状況であり、翌41年度の見通しとしては、「木材ノ需給ハ今年[1940年]以上ニ逼迫ヲ告ゲルニ至ル」ことが想定された。したがって、木材の「配給機構ヲ整備シ不急ノ需要ヲ抑圧スル」ことが求められた。この「不急ノ需要ヲ抑圧スル」手段の1つとしてすでに実施されていた政策が、建築統制であった。
   1939年11月、木造建物建築統制規則が施行された。同規則により、延床面積が30.25坪を超える住宅[共同住宅を除く]を新築する際には、原則として、地方長官の許可が必要となった。この背景にある問題は資材不足、とりわけ主要な建築資材である木材不足の深刻化であった。
     (小野浩 「戦時総動員体制下の住宅供給」 2017 『産業経営研究』36  6ページ)

 

  住宅建設の建築技能者(大工、左官、現場監督者等)は、兵士にとられたり、また賃金の高い軍需産業及び生産力拡充産業に転職する傾向にあり、またそれが容易であったため技能者が減少した。建築技能者の徒弟制度は崩壊しつつあり、技能者が養成されなかった。そのため絶対数の減少は、必然的に建築技能者の賃金の上昇をまねいた。
     大本圭野 「戦時住宅政策の展開過程(2)―日本的住宅政策の原型」 (『季刊・社会保障研究 Vol.19 No.4』 1984  439ページ)

 

 建築資材不足も建築技能者の絶対数の減少も、「事変完遂」の国策が招いたものであった。このような条件下での「津田こどもの家」の建設であり開所であった。金慶玉論文によれば、

 

   ところが、特に目立ったのは東京府からの助成金である。…(金額の詳細は略)…。当時「津田子供の家」の託児所委員であった三上加那於は、「学校の附属といふので特別に奨励便宜」が与えられたと述べている。社会事業法の下で運営された託児所の拠り所として、東京府からの支援が機能していたことがうかがえる。
     (金慶玉 2017  31~32ページ)

 

公的助成金による資金面での支援は重要であった。さらに、

 

   食糧や物資が不十分であった戦時期にも拘らず、「津田子供の家」の子どもの健康が良好で、しかも全国の子どもと比べても優っているのはどういうことであったのか。そこには、配給における便宜が与えられていた点を見逃してはならない。「副食物給与に関しては不自由のない様、村で醤油味噌砂糖特配の便宜をはかつて」くれたと、当時の「津田子供の家」委員長の三上加那於は述べている。さらに、農村という特性もあって、「農家からは野菜、魚屋さんからは魚といふ風に新鮮なものがに入るし、役場の特別臨時配給として醤油味噌砂糖等入要だけ頂けるので今でもちつとも不自由なしでやつて居」り、「おやつは府の社会事業協会から配給されるぱん菓子飴の他甘藷、じやがいも、おにぎりの加工したもの、蒸パン、焼パン、ホツトケーキなど工夫してやつて居」たと保育主任の横澤は説明している。このように食糧配給においても特配という名目で便宜がはかられていたのは、「津田子供の家」が東京府社会課と社会事業協会から持続的に支援されるほどの関係にあったためである。1939年10月の開所式で朝原が述べたように、戦時厚生事業として食糧増産に役立つ託児所の設置が打ち出されていた状況下、一つの託児所もない小平で、全ての施設と人材を備えた女学校が国策に沿って運営されるということは、「表面的には目立たぬ事業であるが、国花桜花の裏をなす梅花の」ようなものだと期待されていた。
     (金慶玉 2017  35~36ページ)

 

様々なルートでの便宜供与による支援があった。地元小平にとっても、支援すべき施設と認識されていたことがわかる。

 

 津田側も、ただ外部からの支援に頼るだけではなかった。

 

   1939年7月10日の学業終了後、生徒は通学生も教師もみな班別に分けられ、寮舎に泊まりながら、夏季集団勤労を実施することになる。

    各生徒は必ず五日間寄宿舎に止宿し、二名乃至四名づつの指導教師監督の下に班長、副班長及び各係を定め、十一より厳粛に勤労生活を始め

ている。生徒たちは、

    朝五時半の起床より夜九時の就床まで、規律正しきプログラムにテニスコートの草取り、託児所の基礎工事(石運び、タコツキ)、硝子洗ひ(五番町で使い古した硝子障子がこんど託児所の戸になります)さては薯掘、食事の用意、舎内外の掃除

などをやっていた。全校三百数十名が参加した当時の状況を『朝日新聞』は、「テニスンやワーズワースの詩集代わりにスキやクワを握ってその一振り一つきに尊い汗の奉仕を続けてゐる」と述べている。
     (金慶玉 2017  36~37ページ)

 

基礎工事の段階から、生徒が積極的に参加していたというのである。

 

 

   津田英学塾は英語専門の女学校だったので、学校のカリキュラムには保姆養成や保育と関連する科目はなかった。文部省は1932年、高等女学校の既設科目から、専門的な知識だけを授け実際生活に適切ではないという理由で「法制」と「経済」を削除し、代わりに公民科を設立した。また1936年からは体錬と教練、家事、裁縫が重視され、1943年には外国語が任意の科目となり、代わりに家政科に主力を注いでいた。こういう時局を背景にして、藤田は1941年の『社会事業』で、津田英学塾が「新学期より児童心理学を新たに教科内容に加へこの託児所を生徒の実験室とする計画をとつてゐる」と述べている。
   実際に1941年の春から学科の変更があり、国語は週一時間、東洋史は週二時間増加し、新たに二年生を対象に児童心理学が週一時間、三年生を対象に科学の時間が設けられ、優生学と遺伝学を教えていた。それは戦時という時局において、銃後部隊としての役割が期待された女学生への教育であった。同時に作業の時間も設けられ、校舎、寮舎内外の掃除と、約千五百坪の畑への種蒔きと除草が女学生に課せられた。1941年3月18日に結成された津田英学塾報国会は、前述のように銃後奉仕部を設けて映画会などを開催し、託児所援助や傷病兵慰問、出征軍人遺家族慰問なども行った。「津田子供の家」は1942年の時点で二人の保姆と一人のお手伝い、そして塾の女学生が交替で手伝っていた。女学生は託児所の建設当初から建設の後まで、勤労奉仕という名目の下、労働力を提供し保育を援助する役割を果たした。また保育報国が唱えられていた時代を反映して、学校の側でも児童心理学の科目が開設され、女学生には託児所がその実験室として提供されていた。
     (金慶玉 2017  37~38ページ)

 

 科目としての児童心理学の追加は、託児所を、学校との関係においても、より実質的なものとしていこうとする方向性を示すものだろう。また、新たに設けられた「科学の時間」の内容が「優生学と遺伝学」であった。先に紹介した「人口政策確立要綱」の「第五 資質増強の方策」の項には、「資質の増強は国防及び勤務に必要なる精神的及肉体的の素質の増強を目標として計画す」とあり、「(ト) 優生思想の普及を図り、国民優生法の強化を期すること」と記されている。まさにそのような国策の下での「科学の時間」であった。

 

 

 戦争の進展の中で(より直截に表現すれば、戦局の逼迫の中で)、津田英学塾も戦時日本の軍産複合状況の中に、より大きく組み込まれることとなる。

 

 

   津田塾の女子学生たちも学徒勤労動員で、軍需生産に携わった。一九四四(昭和一九)年三月から校舎は日本航空機立川工場の分工場となった。ある教員は「厚い板金からのゲーヂ作り、複雑な電纜組立作業、精密を要する諸検査、写図、扨は物理科一年生による合金鋳造部の御仕事。これ程に充実した内容をもつ学校工場は他に存在しないであらう」と「津田塾工場」の充実ぶりを誇っていたが、工場は生産だけでなく管理運営事務もすべて学生たちが担当しており、「マコトに純真な学徒が責任を与えられてする仕事ぶりの素晴らしさには頭が下がる」と語っていた。またある学生は「男子学徒がペンを棄てて敢然壮途に立つを見送って以来、私共も又女性学徒として何か直接お国の役に立つ仕事をしたいとの願ひを長い間抱いてゐた。その日頃からの望みが容れられて学校工場の誕生をみた時私共はどんなに嬉しく張り切った事だらう」と述べている。しかし学業への思いも捨てがたく、学生たちは昼夜三交代制で働きながらも、特に希望をして、一日一、二時間の授業を受けたという(『津田塾六十年史』)。
   以上のように、「女性も労働力に」との国家からの働きかけに応える中で、女性たちは職場で働くことの誇りや喜びを味わい、男女対等の意識を芽生えさせていったが、同時にそのことが戦争を支えることにもつながっていった。
     (『小平市史』  329~331ページ)

 

 

 「工場は生産だけでなく管理運営事務もすべて学生たちが担当して」いたという点は重要であろう。動員による戦時協力は、一方的に強いられただけのものではなく、女子が主体的に社会参加する経験をもたらすものでもあった。

 

 

   小平では戦時開発によって生まれた総力戦関連施設に、女学校や高等小学校を卒業したての女性の就職が増えたほか、小平農業会では最初の女性課長が誕生して新聞の話題となった。戦時の労働力不足が、結果として女性の就業機会を拡げていったのである。
   隣接する田無町で、ある女性が男の仕事とされていた郵便集配人に志願し、立派にその役目を果たしているとして新聞に紹介された。彼女は「男に出来るのに女に出来ないといふことは無いと思ひましてやらしてもらつてゐます。〔中略〕女でも兵隊さんになったつもりで頑張る気ならなんでもないことで、米英相手の長期戦には当然女の仕事の範囲に入るものと信じて毎日を愉快に働いてゐます」と語った。ここからは、男性と同等に働けるという喜びや誇りをもち、あるいは男性同様に国家に貢献しているのだという思いをもって、働いていたことがわかる。
     (『小平市史』  329~331ページ)

 

 

 田無町の女性の、「男に出来るのに女に出来ないといふことは無いと思ひましてやらしてもらつてゐます。〔中略〕女でも兵隊さんになったつもりで頑張る気ならなんでもないことで、米英相手の長期戦には当然女の仕事の範囲に入るものと信じて毎日を愉快に働いてゐます」に込められた自負には注目しておくべきだろう。

 戦時動員は、為政者の思惑を超えて、動員された女性達に、男性と女性である自分が同等であること(それは「男に出来るのに女に出来ないといふことは無い」という言葉に集約される)を経験させてしまったのである。

 

 

 

 戦後フェミニズムの起源は、GHQの占領政策の陰謀的性格にあるのではなく、それ以前の大日本帝國における戦時体験にあるというべきであろうか(註:1)。

 

 

 

   こうした社会状況の中で、津田塾では昭和一九年(一九四四)の三月以降、体育館と生徒控室を工場に充て軍需品生産に当たっていたが、昭和二〇年(一九四五)四月、寮生はすべて東寮に移り、校舎本館の大部分と西寮と運動場の一部を東部第九二部隊に貸与することが決まった。移転を急いだ東部第九二部隊は、契約書も正式に作らないうちに五月六日到着、部隊は津田塾の門標をはずして、部隊の門標を塾の正門両側に麗々しく掲げた。いわゆる門標紛失事件が起きたのはこの夜のことで、塾生四人が軍の門標をはずして玉川上水に流したのである。軍はこの行為を重くとがめて、軍法会議にかけるといきまいた。塾長の星野あいは生徒の不始末の責任者として軍に謝るとともに、軍の門標を片側だけにしてほしい、事件の起こったそもそもの原因は軍が塾の標札を取外したことにあるのだから、と条理を尽くして話した。その結果、軍の上司は塾長の願いを受入れ、四人の処分を学校に委ね、四人は塾長に始末書を書くだけで済んだのである。空襲は相ついだが、幸い塾は無事であった。
     (『小平市三〇年史』  258~259ページ)

 

 

 「反戦的武勇伝」として取り扱うことも出来るだろうが、「男子学徒がペンを棄てて敢然壮途に立つを見送って以来、私共も又女性学徒として何か直接お国の役に立つ仕事をしたいとの願ひを長い間抱いてゐた。その日頃からの望みが容れられて学校工場の誕生をみた時私共はどんなに嬉しく張り切った事だらう」という、国策と共に生きる塾生の姿を見ないふりする必要もないだろう。

 日々、主体的に「何か直接お国の役に立つ仕事」をしている自負があればこそ、「津田塾の門標をはずして、部隊の門標を塾の正門両側に麗々しく掲げた」軍の行為に見ぬふりをするわけには行かなかった。そのようにも見える。

 

 戦時期の津田英学塾(現・津田塾大学)は、託児所(津田こどもの家)の設立、そして軍需工場(日本航空機立川工場の分工場)及び軍部隊(東部第九二部隊)の受け入れと、国策としての戦争に組み込まれていくことで、多摩武蔵野地域の軍産複合状況を経験していたのである。東部第九二部隊は「軍」そのものであり、日本航空機立川工場分工場は軍需産業としての「産」そのものであり、まさに軍産による英学塾への侵入であった。託児所については、根底に地域社会との親密な関係構築への希求があったと同時に、戦時期の食料増産要求を満たすものでもあった。そのような意味で、津田英学塾は、総力戦下の多摩武蔵野地域の軍産複合状況を集約した場でもあった。「総力戦」は当事者の意思など呑み込んでしまう(総力戦に対応すべきはずの「人口政策確立要綱」の構想は、まさに総力戦状況の中で崩壊した)。

 いずれにせよ、当時の軍を相手にして譲ることなく塾生の側に立ち続けた、塾長の星野あいの姿には感銘を受ける。

 

 

 

【註:1】
 松本園子氏の論文の問題意識は、戦後日本の児童福祉法(1948)の先進的な内容、そこに示された公的保育制度の理念への占領軍の影響の有無を明らかにすることであった。

 戦時期の米国に先進的な保育制度が確立されていて、それが占領期に移入された

そのように考えることが正しいのか否か?
 その問題意識に基づき、米国の戦後については、

    戦後のアメリカ合衆国の保育の動向については、同国の研究者が「非制度 (non system)」と表現しているように、保育の公的保障は、貧困層に限定され、一般には営利的保育サービスを利用する以外に無い、という状況にあるという。
     (松本園子 「アメリカ合衆国における保育問題の歴史」 2004 『淑徳短期大学研究紀要』 43  98ページ)

このような状況にあることが確認され、

   まず、保育政策動向については、戦時労働力政策として、連邦の補助金が保育施設して支出され、公立保育施設が各地に誕生し、数十万人の子供が保育を受けた。しかし、この施策は恒久的な制度となることはなく、戦争終結とともに終了した。一部の私企業によってかなり水準の高い保育施設も設置されたが、これはあくまでも戦時の女性労働力吸引策であった。教育行政サイドでも、労働力対策として学校施設を利用した学童保育サービスが行なわれたが戦後への継続はなかった。
   一方、連邦児童局は、家庭と母性重視が児童福祉の根幹であるという強い信念のもとに、戦前から一貫して母親の労働と保育に反対であり、戦時、母親の労働が強く要求されたときも基本的にこの立場を変えなかった。やむを得ぬ場合は保育所の集団保育ではなく、家庭的保育で対応するという方針に終始し、現に必要とされた保育所の改善と充実の努力はしなかった。
   このように、米国における為政者側のどの陣営にも、戦中・戦後期、保育所を通常時に一般的な制度として実施することを支持する考え方は存在しなかった。このような状況では、日本の新しい保育所制度誕生について占領軍の積極的な関与はありえない、といってよいであろう。
   戦時の米国において、保育所利用者側には、伝統的性別役割を乗り越えた「共働き」という言葉に象徴される新しい女性労働観、保育所観の芽生えがあった。CIO女性助力者の保育プログラム案は、そのような新しい保育所観の成果である。しかし、これらは大きなうねりとなって全体の状況を変える力とはならなかった。戦後の継続的運動は、日本の戦後期の盛んな保育運動を思わせる展開があったが、一部の例外的なものにとどまった。これらも、日本の保育所制度誕生に影響があったとは思えない。
   したがって、戦後児童福祉法による保育所制度は、戦後期までの日本の保育の進展と、戦後改革期の時代のエネルギーから生まれた成果であるといえよう。
   なお、戦後日本の保育についてみると、先進的な保育所規定とは裏腹に、消極的で限定的な保育行政が続けられてきた。ここには、米国の児童福祉の色濃い影響が読み取れる。
     (松本園子 2005  81~82ページ)

との認識が示される。あらためて抜き書きすれば、

  米国における為政者側のどの陣営にも、戦中・戦後期、保育所を通常時に一般的な制度として実施することを支持する考え方は存在しなかった。このような状況では、日本の新しい保育所制度誕生について占領軍の積極的な関与はありえない、といってよいであろう

これが松本氏の結論である。
 現在の日本の保育所制度は、GHQの占領政策がもたらしたものと考えるのではなく、戦時日本の遺産として取り扱うのが妥当なようである。

 

 

 

《記事一覧》

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 「多摩武蔵野軍産複合地帯
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  昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(星野朗氏の論考紹介)

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  (1)に続き、多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(特に軍の展開状況)

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  小平地域の軍事関連施設の総力戦期的特質

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  軍産施設の進出に伴う集団住宅建設問題(住宅営団と東京瓦斯電気のジードルング)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)
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  武蔵野台地上での水源確保の困難を営団住宅の給水問題を通して再確認

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  『国分寺市の今昔』(2015)巻末の一覧を用いて軍産施設設置状況を再確認

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  箱根土地の小平学園開発と販売戦略としての小平簡易水道設置とナチス礼賛広告

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  1953年の小平町のグローブマスター機墜落事故と沖縄の現在

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2018/08/31 15:39 → https://www.freeml.com/bl/316274/321011/
 投稿日時 : 2018/08/31 15:43 → https://www.freeml.com/bl/316274/321012/
 投稿日時 : 2018/08/31 15:50 → https://www.freeml.com/bl/316274/321013/

 

 

 

 

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2018年7月30日 (月)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、昭和10年代の多摩(武蔵野)地域が軍産複合地帯化していたことについて、「多摩(武蔵野)地域」の全体を視野に入れつつ、特に(「武蔵野」の名を冠した)武蔵野美術大学の所在地でもある現・小平市に焦点を合わせながら、既に8本のブログ記事としてアップしてきた(記事カテゴリーとしては「多摩武蔵野軍産複合地帯」)。

 小平に設置された軍事施設の特質(「近代総力戦状況」の中でのそれらの施設群の持つ意味)を明らかにする(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」参照)と共に、軍事施設の立地と地勢的条件の関係を、より具体的なものとして理解することに努めてもきた。

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)」では、矢嶋仁吉氏の1939(昭和14)年の論文を読むことで、40年代に本格化する小平地域の軍事化の直前の小平の状況を、地理学者の眼を通して理解・把握することを試みた。

 小平地域の「地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10-15mの深さの地域に属している」のであり、「大地の中央に近くて帯水層の深い本地域附近に於ては、一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する」のであって、居住者にとっての「飲料水問題」の切実さ(飲料水確保の困難)を矢嶋氏は繰り返し指摘していた。

 そのような地勢的条件を前に、「小平地域の軍事施設化の中心となった陸軍(ここでは陸軍が「開発事業主」と位置付けられる)は、それぞれの施設に自前で給水塔を設置」する形で対処したことを示しておいた。

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)」では、再び小平地域での地下水源の確保と給水能力の問題について、住宅営団による戦時期集団住宅として建設が開始された小川地区の中宿住宅の事例を切り口に、より詳しく取り上げてみた。矢嶋論文の指摘するように「10-15m」の地下水面(ただし不圧地下水面である)への到達さえ困難であったのが、近代以前の小平地域での各戸を事業主体とした井戸掘削の状況であった。しかし、昭和10年代の小平に設立された軍事施設では、「深井戸」の掘削による(100メートルを超える深度からの)被圧地下水の確保・供給を実現したのである。

 

 

 

 今回は、あらためて小平地域における「水の確保の困難」の問題を取り上げたい。自ら深井戸を掘削し給水システムを整備した「大きな力」としての戦時期の軍に加え、大正末から宅地開発に関わり簡易水道を整備した民間土地開発事業者の姿について記しておこうと思う。まず取り上げるのは『小平市三〇年史』(1994)の記述である。

 

 

  開拓当初の小平では玉川上水から水を得たが、時がたつにつれて飲用水は個々の井戸から得るようになった。まだ小平が純農村のころの話である。
  大正一四年(一九二五)ごろから分譲が始まった小平学園地区には、分譲元の箱根土地株式会社(昭和一九年国土計画興業株式会社と商号変更)が造った水道があった。水源は深井戸である。終戦後急激に居住者が増え、施設を拡充する必要に迫られ、給水申込には権利金が必要とされるようになった。
  昭和一七年(一九四二)に開所された東部国民勤労訓練所を始めとする公共施設(陸軍経理学校、陸軍兵器補給廠小平分廠など)は大きな力で、それに必要で十分な深井戸による自家水道を設けた。その関係者で地元に住んだ人は、普通農家に間借りしたり、その宅地内に住んだりしたので、とくに水に対する新たな配慮は要らなかった。
  続いて終戦前後相次いで建設された集団住宅はどうであったのか。日本住宅営団による集団住宅は桜上水(二一六戸)、旭ヶ丘(七七戸)および中宿(二一四戸)に建設され、それぞれ昭和一八年(一九四三)、二一年及び二二年に合計五〇七戸が入居した。
  桜上水と旭ヶ丘では四軒に一井の割で井戸が掘られた。桜上水の井戸は水脈に当ったせいか、水の出はまことに良かった。最初は手押しポンプであったが、昭和二四(一九四九)ころからモーターによるポンプと台所までの給水管が設けられ便利となった。一方、旭ヶ丘の井戸は水の出が悪かった。水の不足を訴える家はかなりの数にのぼり、夜間水の出の良い井戸のある家に水をもらいに行ったり、洗濯には近くの玉川上水や新堀用水の水を使ったりしてしのいだ。深い玉川上水に綱のついたバケツを下げてくみ上げるときの苦労を語る女性もいた。小平の地下水は深いところにしかないのを知らない人が掘ったのではないかともいわれた。
  中宿では浅井戸三二井が掘られたが、これも地下水が深くてほとんど使いものにならなかった。いち早く自治会が結成され、対策が練られた結果、隣接する厚生省職業訓練所(前東部国民勤労訓練所・現東京職業能力開発短期大学校)の深井戸から水を運ぶことになった。人手による根気のいる作業だった。その後関係者の好意で中宿住宅の中央部まで一本の給水管が延長されて共同水栓が設置された。しかし、その後も居住者は増える一方で、この共同水栓だけでは賄い切れなくなった。そこで、自治会より広い組織の中宿居住者組合で水対策を検討、坂北の旧兵器補給廠小平分廠の給水施設を利用したらどうかということになった。早速坂北、本町、旭町地区の代表者の賛同を取りつけ、小川中宿居住者組合と坂北生活協同組合の名で大蔵省東京財務局に使用許可の申請がされる。昭和二四年(一九四九)八月に許可が下り、それを受けて各地区の代表者によって給水事業計画が練られた。このとき「小川給水組合」として発足できるよう努力を重ねたが、施設費用などの負担問題で組合の結成には至らず「小川給水組合」の名目で実質経営は各地区代表者(発起人)が当たることとなった。そして昭和二八(一九五三)に関係自治会長を中心に協議した結果、「小川給水組合」を発展的に解消し、新たに「小川水利協会」を結成、翌年一月から新しい機構で運営することになった。(付図は略)
  給水人口は一九九〇人、一日最大給水量五〇〇立方メートルであった。
  しかし水道事業の重要性を考えると、任意団体の運営では住民の福祉向上を図るには困難な点が多い。役員会議でも水道施設を町に移管し、町営水道として経営するのがよいとの意見の一致をみて、その体制の整備を念頭におきながらの経営となった。また小平町のほうでも大蔵省から、水源施設を民間の任意団体に貸与するのは好ましくないので、早く町営にするようにと指摘されていた。
     (大日本印刷株式会社CDC事業部年史センター編 『小平市三〇年史』 1994  329~331ページ)
 

 

 

 「昭和一七年(一九四二)に開所された東部国民勤労訓練所を始めとする公共施設(陸軍経理学校、陸軍兵器補給廠小平分廠など)は大きな力で、それに必要で十分な深井戸による自家水道を設けた」とある。

 「大きな力」を背景として「必要で十分な深井戸による自家水道を設け」ることをなし得た「公共施設」として、東部国民勤労訓練所と陸軍経理学校、陸軍兵器補給廠小平分廠が示されていることになるが、その背後にあった「大きな力」とは厚生省であり帝國陸軍である。そもそも厚生省は陸軍の要求により設置されたものであることを考えれば、ここでの「大きな力」を「軍」として理解することも出来るだろう。

 『小平市三〇年史』には、「大正一四年(一九二五)ごろから分譲が始まった小平学園地区には、分譲元の箱根土地株式会社(昭和一九年国土計画興業株式会社と商号変更)が造った水道があった。水源は深井戸である」との記述があることも見落とさないでおきたい。民間の開発事業者の「力」もまた、「深井戸」を「水源」とした「水道」を実現していた(「小平簡易水道」と呼ばれていた)のである。

 昭和10年代の小平地域には、公的インフラとしての(すなわち村営あるいは町営の)「水道」は存在しなかったが、軍と民間の土地開発業者は、それぞれの「力」で自前の給水システムを構築していたのである(村や町にはそのような「力」はなかった)。

 

 

  市では予想を超える人口増加に伴い、市制施行直後の昭和三七年(一九六二)一一月に全市水道構想を見直し、水道事業変更認可申請を厚生大臣に提出した。すなわち昭和三八年度から実施する給水区域を拡大、市域のうち小平簡易水道区域を除く区域とするもので、昭和四四年度の給水目標人口を六万人と設定、一日最大給水量を一万九二〇〇立方メートルとし、深井戸一三井と浄水場を一か所建設するという計画であった。
  一方、これまで学園西町と学園東町を給水区域として経営してきた小平簡易水道(国土計画株式会社)は、昭和四〇年(一九六五)一月三一日までという期限付で東京都知事の許可を受けて行われたため、当然、期限が来ると市への移管となるべきもので、水道法により公営事業の経営主体は地方公共団体がなすべき事柄であった。
  その上、簡易水道の給水区域の学園西町、学園東町は人口の急増地域でもあり、その施設の老朽化に伴い、住民側から市営統合を望む声が次第に大きくなり、昭和四〇年二月一日市営水道への移管が実現、ここに全市域が市営となった。同年度末の行政人口は一〇万八九四九人、給水人口は三万八五〇四人で、普及率をみると三五・三%であり、今日の一〇〇%と比較すると隔世の感がある。この三八年度から開始された水道拡張事業は、後に第一次拡張事業と名付けられた。
     (『小平市三〇年史』  575ページ)
 

 

 

 小川水利協会の運用した給水施設(そもそもは軍の「大きな力」による施設である)は町営水道に統合され、国土計画株式会社の小平簡易水道(民間土地開発事業者の大きな力による施設である)が市営水道に統合されたのは昭和40年になってのことだったが、その時点での市内の水道普及率は35・5%にとどまっていた。もちろん、そこには戦後の小平地域での人口の急増という背景があることも確かではある。しかしいずれにせよ、昭和10年代の軍関連施設の給水設備が戦後小平の町営水道のルーツとなり、それに先立つものとして箱根土地株式会社による小平学園開発の際の小平簡易水道があった。

 

 

 ところで、矢嶋仁吉氏の論文では、小平学園地区の開発について以下のように記されていた。

 

 

  尚、本地域の南部の一部に、碁盤目状の地割を施した所がある。この地域は同村の一部に過ぎぬもので、前述の如く、商大予科の校舎設定後、土地会社の手によって、区画された地域である。その計画では、商科大学予科の校舎を中心とし、その周囲に住宅地、焦点地域を区画し、国分寺駅より主要道路を設け碁盤型の3間道路を縦横に通じて、田園都市化せんとしたところである。そのため、新田開発当初よりの短冊形の地割は一部崩壊し、従来の畑地に若干文化住宅の建設もあるが、未だ著しい発達を見ない。東京の都心地域より約1時間を以てして到達し得るところでありながら、その発達の見るべきもののない最大の制約は前述の飲料水採取の不便という事実である。かかる例は省線国立駅の南方、商科大学の校舎附近に於ても見るところであって、井然と区画された道路住宅予定地もほとんど省みられぬ有様である。本地域に居住地域を発展せしめんには、先ず第一にかかる不便の除去が必須条件であって、例えば、埼玉県の所沢駅附近に於ける如く、動力による簡易水道の如き施設をなすか、その他の方法によって上水施設の完成を図ることが必要であろう。
     (
矢嶋仁吉 「武藏野小平村に於ける新田聚落の研究」 『地理学評論 11』 1939  24ページ)

 

 

 矢嶋氏は論文執筆当時の小平学園地区について、「従来の畑地に若干文化住宅の建設もあるが、未だ著しい発達を見ない。東京の都心地域より約1時間を以てして到達し得るところでありながら、その発達の見るべきもののない」とその開発状況を記し、その理由として「最大の制約は前述の飲料水採取の不便という事実」だと主張している。同じ箱根土地株式会社による国立の学園都市計画についても「井然と区画された道路住宅予定地もほとんど省みられぬ有様」との評価を示しながら、「本地域に居住地域を発展せしめんには、先ず第一にかかる不便の除去が必須条件であって、例えば、埼玉県の所沢駅附近に於ける如く、動力による簡易水道の如き施設をなすか、その他の方法によって上水施設の完成を図ることが必要」との判断を加えている。

 しかし、実際には小平学園都市計画の下で、「土地会社」は深井戸を水源とする小平簡易水道を用意していたし、国立学園都市においても、その計画の当初から、インフラとしての給水システムの整備は織り込まれていたのである。

 

 小平簡易水道については、「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)」をまとめていた時点で、『水道事業概要 昭和58年』(小平市水道業務課・工務課 1983)中に言及があるのには気付いていた(註:1)。そこで早速、「小平簡易水道」をネット検索したのだが、一件もヒットしない状況であった(言うまでもない話だが、「一件もヒットしない」ことは、ある事実が存在しないことを意味するのではなく、まだ誰もその事実についてネット上にアップしていないことを意味する可能性も考えておかねばならない)。小平市水道業務課・工務課による『水道事業概要』にある以上、その存在を疑う必要は感じなかったが、『水道事業概要』の記述からだけでは、小平簡易水道の設置年代が判然とせず、矢嶋論文執筆時点での給水システムの実状はわからなかった。今回、あらためて『小平市三〇年史』の記述を通して、矢嶋氏の認識に不正確なところがあったことが判明した次第である。

 

 

 箱根土地株式会社(堤康次郎)による学園都市開発については、渡辺彰子 編・執筆による『国立に誕生した大学町―箱根土地(株) 中島 陟 資料集―』(株式会社サトウ 2015)に様々な資料が掲載されている。

 

 ここではまず、「堤康次郎(談)」として掲載された「分譲地の賣價算定に付て」と題された、昭和15年10月19日の文書からの関連事項の抜き書きを示す(ここでは影印に付された現代語表記による書き起こしを用いる)。

 

 
   箱根土地会社は世間の一般的土地売買業者もしくは信託会社など、その性質内容が根本的に異なっておって箱根土地会社においては単なる仲介により法外なる手数料を取るが如き事をなさず、土地の加工施設に重点を置き即ち原料たる土地を仕入れてこれを製品化するというような、いわゆる国土計画に則した住宅地の造成を行っているのである。例えば国立の土地についていうならばそこは太古玉川の流れのあとで、わずかな表土の下は十数尺の砂礫層で農耕地にはもちろん林業を行うにもまったく不適当な土地である。
   …(中略)…
   この意味において会社は国立に停車場を新設し道路、水道、下水等あらゆる文化的施設を加え、そしてこれを住宅地に改造したのである。それでその土地の価格はどうかというに今まで山林として顧みられなかったものが、その加えられた文化的施設によって住宅地としての価値を生じた訳である。
   しからばその山林を買収してからこれに手をかけ、すべて分譲に至るまでの経費は一体どの位かかるか、どの位の割合を要するものかというと国立は地上物は別であるが土地は一反千円で大体全体の七割を買収したが百万坪の土地を権力を用いずしてひとまとめに纏めたのであるから、その困難は到底想像以上で筆舌の尽し得るものではなく中には先祖伝来の土地坪百円でも売らぬと頑張られてついに大連まで出かけて行って坪当たり六十円でようやく買収した数千坪の土地もあったが、平均の買収価格は坪当たり地上物を含んで七円五十銭に当っている。それを道路に一割五分を潰し、道路の工事費に地価の約一割を費し、水道、下水、電燈等の工事費に又一割五分を要し、停車場の工事費、その他測量、設計、監督、舗装、公課に対してかれこれ一割を要している。なおこれに又金利、営業費等を加えると、原価は土地買収価格の約倍額に当るようになる。
     分譲地の売価算定に付て (『国立に誕生した大学町―箱根土地(株) 中島 陟 資料集―』  240~241ページ)

 

 その先では、実際の予算書内容も示されている。

 

  大正十二年国立建設着手当時の計画書による建設費予算書
  一、金一千四百万円也 建設費予算総額
   一、金八十万円也 水道工事費
     但し幹線導水本管埋設 延長二万九千五百六十円 平均間当り金十五円也及び水源工事費、配水槽工事費ならびこれに伴う諸機械および器具費共三十五万六千六百円也を含む
     (同書 242ページ)

 

当初予算の段階で、幹線導水本管埋設 水源工事費、配水槽工事費ならびこれに伴う諸機械および器具費を含む形で「水道工事費」が計上されているのが確かめられる。

 「写真から見る国立大学町誕生の頃」と題された第一章には、「水道源池」の写真が掲載されており、以下の解説が付されている。

 

  水道源池とは、水道を供給するために地下水を汲み上げる施設の場所です。箱根土地の大正14年12月1日から大正15年5月までの国立大学町「起工・庶務概要」に「水源第1号鑿泉(さくせん)を完成せり」とあります。又、大正15年9月発行の分譲区分図に、水道源池の場所がはじめて示され、その説明によると地下水は地下四百尺を掘り抜いて湧いたとされています。場所は中央線北側、国立駅舎より約二五〇m東の高台で、ここより水道管を埋設し線路下の土手をくぐらせて南側の国立大学町へ水道水を供給しました。

 

 「場所は中央線北側、国立駅舎より約二五〇m東の高台」とあるが、この「高台」に連なるのが武蔵野台地の武蔵野段丘(武蔵野面)と呼ばれる段丘面で、小平市もその段丘面上に位置する。「地下水は地下四百尺を掘り抜いて湧いた」とあるが、その深度(400尺=120メートル強)は、まさに小平地域の「深井戸」(被圧地下水)の深度である。国立学園都市が計画されたのは、「高台」の下に位置する、中央線の南側の立川段丘(立川面)上であり、国分寺崖線と呼ばれる段丘崖によって隔てられている。国分寺崖線下の立川面では、不圧地下水までの深度は浅いと考えられ、その利用は困難ではないのではないか(国分寺崖線下には湧水源も多い)。文字通りの「浅井戸」による不圧地下水の汲み上げが可能な地域だと思われる(「井戸の掘削は山麓又は河川の沿岸地域の如く帯水層の比較的浅い所では、左程困難ではない」 矢嶋論文 18ページ)。

 ここであらためて、わざわざ宅地開発域から離れた「高台」としての武蔵野段丘上に深井戸を掘削し(それだけ多くの予算が必要となる)、学園都市への給水システムとして整備した箱根土地の構想力(そして実行力、それらを支えた資本力)には注目しておきたい。「飲料水の確保」を各戸(各個人)による井戸の掘削に期待するのではなく、開発事業者がインフラとして「水道」を用意するというのである(註:2)。

 高い位置(高台上)に水源を確保し、重力を利用して低い位置にある水栓に給水する。国立の学園都市の給水システムの発想は、原理的には小平地域の軍事施設の給水塔設置と重なるものでもある。

 

 

 

 箱根土地(堤康次郎)による学園都市開発についての矢嶋氏の認識―上水道の未整備との指摘―には明らかに誤りがあったが、しかし、「従来の畑地に若干文化住宅の建設もあるが、未だ著しい発達を見ない。東京の都心地域より約1時間を以てして到達し得るところでありながら、その発達の見るべきもののない」、「井然と区画された道路住宅予定地もほとんど省みられぬ有様」は開発後の現実でもあった。実際、売れなかったのである。

 

 

 当初は「国分寺大学都市」として分譲開始されているものだが、

 

  箱根土地は、大泉学園都市とほぼ並行して明治大学を中心とする学園都市の開発を計画した。震災直後の一九二三(大正一二)年一〇月より小平村の土地の買収を開始し
     (『小平市史』 2013  221ページ)

 

  一九二五年一月三日に地鎮祭がおこなわれ、宣伝のために大学都市内の風景を題材とした懸賞写真の募集がおこなわれた。本格的な分譲は三月から開始され、
     (『小平市史』  222ページ)

 

  …、国分寺大学都市―小平学園と変遷してきた箱根土地による住宅地分譲だったが、その売れ行きは昭和恐慌などの影響で芳しいものではなかった。しかし恐慌からの脱出を受けて、一九三五(昭和一〇)年頃から徐々に売れ行きが回復してくるとともに、日中戦争のさなかである一九三八年から四一年にかけて、それまで更地が多かった小平学園の西地区に、ようやく住宅が建ちだしたと言われている(『小平町誌』)。東京の郊外化の更なる進展、および小平を含む多摩の戦時開発の影響が、学園地区にもあらわれてきたのである。
     (『小平市史』  291ページ)

 

  学園の住宅は、その生成時期は東区において最も早く大正一二年ごろで、ついて西地区の昭和の初めであるが、東区の遅々たる建設に対し、西地区は昭和一三~一六年ごろ急速に建設がすすめられ、第二次大戦後は両地区とも建設は速度を増し、特に昭和二七年以降はその傾向がいちじるしい。
     (『小平町誌』 1959  447ページ)

 

 

 つまり、販売開始から10年ほどは、住宅地としての販売は低迷し続けたのである。矢嶋氏にとっての小平学園地区のイメージは、現地調査に通っていたであろうまさにこの時期に刻み付けられたものということになる。しかし、矢嶋氏の論文執筆時(発表が1939年)には、そこに変化の兆しが見出されてもいたのである。

 

 

  一九三八年頃、小平学園の開発地六〇万坪のうち、多摩湖線の線路西側に沿った地区六万坪で「国分寺厚生の家」という建物付きの分譲がおこなわれた。このころ分譲地全体は「国分寺厚生村」とも呼ばれており、小平学園駅と青梅街道駅のあいだに新設された駅は厚生村駅と名付けられた(三九年開設、四五年使用休止、五三年廃止)。なお、一九四〇年の史料には「国分寺学園分譲地」という名称もみられる。
  国分寺厚生の家は、残されている販売用パンフレットによれば、土地百坪と小さなバンガロー風の家屋とをあわせて八〇〇円で販売された物件である。一九二六年に国分寺大学都市として分譲を開始した頃、分譲地の坪単価は九円八〇銭~一二円八〇銭だったのだから、坪単価八円はかなりの特売価格であった。
     (『小平市史』  291~292ページ)

 

 

 先に紹介した『国立に誕生した大学町』に収録されている「販売用パンフレット」の裏面画像には、

 

  設備 道路(幹線五間巾、支線三間巾)、電燈、水道、下水

  此処に今回新たに意匠登録を受けた瀟洒な農園小舎を建て家の周囲に果樹や蔬菜を栽培し一家團欒、土と緑に親しむのであります。戰時體制下の厚生國策に沿ふ、御一家の心身鍛錬場として晴耕雨讀の家庭道場として御所有になることを切にお奨め致します。彼の「農園住宅」や「歓喜力行」の本場とも云ふべきドイツから来たヒツトラー・ユーゲントの見るからに健やかな身體や、溌剌たる風丯に接するときまことに躍進ドイツそのものを見るの感があります。土と緑に育まるる彼等ドイツ青少年□□の幸福を思ひ我等もまた大いに示唆を受けるものがあると存じます。

 

このように記されている(「設備」には「水道」が含まれている点にも留意―矢嶋論文執筆時期の販売広告上では開発地域内の「水道」の存在がアピールされていた事実)。

 『小平市史』は、「つまり、厚生の家とは、定住用の住宅ではなく、週末に農作業を楽しむための家庭農園付きの小屋のことだったのである」と要約している(293ページ)。さらに『小平市史』は次のように論じる。

 

 

  では、厚生の家ないし厚生村という「厚生」を冠した宅地分譲とは、どういう意味だったのだろうか。一九三八年一月、総力戦体制構築を推進する軍部のあと押しをうけながら、国民の健康や体力増進政策、衛生や医療政策、人口政策、労働政策といった戦時社会政策を担当する官庁として、厚生省が発足した。そして同じ年、イタリア・ファシズムのドーポラボーロ(労働の後)運動やナチス・ドイツの歓喜力行団の活動に影響を受けて、日本でも余暇活動の充実と健全娯楽の推進をはかることで国民を統合し、生産力を向上させようとする厚生運動がはじまった。つまりこの時期の「厚生」とは、戦争の遂行に役立つような国民体力の向上や健全な余暇活動を意味していた。したがって厚生の家での「心身鍛錬」「晴耕雨読」とは、まさにそのような意味での「国策」に沿った「厚生」にほかならない。一方で、厚生の家は「一家団欒」「家庭和樂」の場であることが強調され、「子女」の成長にとっても有益であることが謳われているが、それは「家庭」「団欒」の私生活空間と時間を大切にし、「子女」の教育を重視する意識が強かったサラリーマン層の家族に訴求しようとしたからであろう。ただし、「厚生」が冠されているのだから、そこでの私生活は「国策」に役立つ限りでの私生活ということになる。
  厚生の家・厚生村という名付けには、戦時における国策と商業主義の狭間で、郊外の位置づけやそこでの生活の意味付けが微妙に変化を遂げていることを見てとれる。それは戦時開発とはいえないが、平時の郊外住宅地開発としての学園開発が、総力戦体制に順応するなかで変形を遂げたものだといえよう。
     (『小平市史』  293~294ページ)

 

 

 多摩・武蔵野地域の軍事地域化と民間土地開発会社の商業主義が重なった姿を、戦時期の小平学園地区=厚生村に見出すことが出来るだろう。

 また、この「厚生の家・厚生村という名付け」による販売戦略を通して、当時の日本で、ナチス・ドイツの政策が模範的(お手本的)に機能していた状況も見えてこないだろうか。既に、現・東大和市の南街地区の開発モデルとして機能したのが、ナチス・ドイツのジードルング政策であったことに触れておいた(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」参照)が、小平学園地域での「厚生の家・厚生村という名付け」からも、同時代(どちらも1938年)の日本での「躍進ドイツ」への憧憬・傾倒的雰囲気が見える(註:3)。

 ちなみに、この昭和13(1938)年には、ヒトラー・ユーゲントが日本を訪問し、大きな話題となっていた。「販売用パンフレット」は、「昭和13年10月版」とあるので、まさにヒトラー・ユーゲント日本訪問の最中のものということになる。「ヒツトラー・ユーゲントの見るからに健やかな身體や、溌剌たる風丯」を目の当たりにした人々こそが、「販売用パンフレット」のターゲットであった。箱根土地は、「躍進ドイツ」―「農園住宅」や「歓喜力行」の本場―モデルにビジネス・チャンスを見出したのである。

 

 しかし、素敵な厚生村の素敵な厚生の家(実のところ、ホワイトカラー向けのセカンド・ハウスなのである)を手に入れることなど、当時の軍需工場労務者には考えられぬのが大日本帝國の現実であった。

 「日本でも余暇活動の充実と健全娯楽の推進をはかることで国民を統合し、生産力を向上させようとする厚生運動」のまさに同時期の厚生省生活課技師による報告には以下のように記されている。

 

  昭和13年当時の厚生省生活課技師の報告によると、「先般各地軍需工場地帯に於ける労務者の居住状況を視る機会を得て、痛感した事は、労務者殊に農村から見習工として集まって来た人々に住居の欠乏していることである。例えば、4畳半に4人、6畳に6人と云ふ過密状況が各所に見られ、或は15坪以上もある広い部屋を急設して、採光通風等考慮せず、唯寝る場所を与へて押入れもない室内に寝具、荷物を散乱させ、20~30名の新人工が合宿している。所謂万年床は随所にあり、殊に夜勤者が昼間強い日光を浴び乍ら寝苦しさうな様を見て、斯かる状態は長期戦のもとに何時迄も黙過出来ぬことと痛感した。徒に生理的欲求を斥けることなく、疲労恢復に適する最小限の住居と、体力を維持増進するに足る栄養の供給とは、殊に銃後の第一線を守る軍需工場労務者には、確固たる方針を以つて之が万全を期すべきである。
     大本圭野 「戦時住宅政策の展開過程(2)―日本的住宅政策の原型」 (『季刊・社会保障研究』 Vol.19 No.4 1984  433ページ)

 

 

 

【註:1】
  当時(昭和37(1962)年の「第1次拡張事業」をめぐる記述からの引用である)市内の水道施設は、西武国分寺線小川駅周辺を中心とする市営水道と学園地区に給水する民間経営の小平簡易水道があるだけで、その給水能力は併せて16,000人分しかなく、人口的にも、地域的にも一部に過ぎませんでした。
  小平市は、いわゆる「武蔵野台地」にあり、都区内水準よりも約80mの高台にあり、地下水量は豊富と見られていましたが、その水位は予想外に低く、加えて昭和30年代には、宅地化の進行に伴い、家庭用井戸は乱掘の様相をみせ、そのため家庭用井戸の水位は全般的に低下し、とくに渇水期においては水不足が直接市民生活を脅かすに至りました。とりわけ、市の東部に位置する花小金井地区の家庭用井戸は、渇水期において枯渇したものが多く、市はこれに対する緊急給水に追われているという実情でした。
     (『水道事業概要 昭和58年』 小平市水道業務課・工務課 1983  3ページ)
 
  小平簡易水道の給水区域を市営水道の給水区域とするため、第2回計画変更を昭和40年月13日付、厚生大臣に申請しました。
  当時、市内には市営水道のほかに民間会社の経営する小平簡易水道があり、これは当該地区(現在の学園西町、学園東町)開発のために計画されたもので、その施設は古く、区域内の人口増加の状況に照らしてもその能力は、極めて不充分であり、また、一般に水道事業の経営主体は、地方公共団体であることが望ましいという観点から、小平簡易水道は、昭和40年1月31日までの期限付で都知事の許可を受けていました。
  したがって、当該地域の住民も市営水道に統合されることを強く要望しており、市においても市の給水区域として需要に適合した施設の拡充を計る必要を認め、事業変更を行うことになりました。
     (『水道事業概要 昭和58年』  4ページ)

 

【註:2】
 箱根土地による大泉学園都市の分譲販売チラシでは以下のように主張されている。

  表
  ◇大泉公園はその昔武蔵野の少納言久保と云はれた處で翠緑滴るが如き赤松林の大樹が土佐繪のような風趣を添え楢や欅の雑木林が繁つて居ります。ことに鑿井より湧き出ずる水は清冽手を切るようで内務省衛生局の検査によれば完全な地下水として水道以上純良なることを證明されました。
  裏
  ◇郊外の住宅地は大泉學園のように組織的大規模に建設せられて始めて實用價値を生じ實用的價値の存在を前提として始めて投資的價値が存するのであります。
  ◇電燈も道路もない林や畑を工事もせず只土地の價額の少ないことのみをもつて、地價が廉いと云ふことによつて土地をお買いになるのは最も注意すべきことであります。
  ◇分譲地を買入れた方自身がめいめいに道路やその他の工事をせねばならぬとすればそれは如何に煩雑で不経済なことでありませう。結局豫期せざる高價な土地を買入れたと同一になつて仕舞ひます。即ち大泉學園都市の如き工事の完成した大地積の經營に於て始めて徹底的の建設が實現せらるるのであります。
  ◇大泉學園都市は電車停車場、公園、公園道路、乗合自動車、日用品マーケツト、娯楽場等を新設し、一坪十圓内外でお譲り致します。
     (『国立に誕生した大学町―箱根土地(株) 中島 陟 資料集―』  220ページ)

 

【註:3】
   ドイツナチスによるジードルングのユートピア運動というのがある。労働者に職を与えて安定した生活をつくり上げる。労働者は一日の労働に疲れて家に帰り、新鮮な空気を吸い、和やかな家庭的慰楽の生活にひたり、新しい明日への活力を回復するという考えに基いた都市構想、これが「ジードルング」で当時ドイツの企業経営に多く採用されていた。
   ジードルングというのは、つまり、都市郊外に一団として建設される企業を中心とした、集合住宅という意味である。ドイツで昭和七年、住宅法が制定され、特にその政策を工業を主体とする企業が採り入れていた。
          (元日立航空機専務 内山 直 手記)
     (『東大和市史』 2000 337ページ)

 

  「汝の體は國家のものである。」
  「汝は國家に對し健康であるべき義務を持つ。」
  さういふ崇高な標語のもとにヒトラー・ユーゲントは先づ健全な體を養ふことを第一義とする。ここに我々は、個人の健康といふことに於いても個人主義的な考え方が克服されてゐるのを見るのである。その施設のゆきとどいてゐることもさることながら、保健や體育に對する根本的な考え方に學ぶべきところが少なくない。
     (ヤーコプ・ザール 高橋健二 『ヒトラー・ユーゲント』 新潮社 1941  32ページ)

 身体的にも政治的にも「健康」なアーリア人にとってのみ、ナチス・ドイツはユートピアであった(それがユートピアであり得たのは、あくまでも「戦前」の話であるが)。その健康なユートピアが昭和10年代の帝國日本のお手本でもあった姿を、南街の集団住宅計画や小平学園の「厚生の家・厚生村という名付け」を通して確かめることが出来る。

 

 

 

    (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)」に続く)

 

 

 

《記事一覧》

 カテゴリー
 「多摩武蔵野軍産複合地帯
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 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)
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  昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(星野朗氏の論考紹介)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)
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  (1)に続き、多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(特に軍の展開状況)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)
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  用語としての多摩と武蔵野(歴史的視点と自然史的視点)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)
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  武蔵野台地における水資源確保の困難について矢嶋仁吉氏の論考紹介

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)
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  小平地域の軍事関連施設の総力戦期的特質

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)
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  軍産施設の進出に伴う集団住宅建設問題(住宅営団と東京瓦斯電気のジードルング)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)
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  武蔵野台地上での水源確保の困難を営団住宅の給水問題を通して再確認

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (8)
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  『国分寺市の今昔』(2015)巻末の一覧を用いて軍産施設設置状況を再確認

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)
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  箱根土地の小平学園開発と販売戦略としての小平簡易水道設置とナチス礼賛広告

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)
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  「津田こどもの家」を中心に、総力戦下の女性動員と託児所の役割

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)
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  木材供出で姿を消した青梅街道の欅並木と「木造船建造緊急方策要綱」

 「グローブマスター機墜落 (軍産複合地域としての昭和十年代多摩 戦後編-1)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-511f.html
  1953年の小平町のグローブマスター機墜落事故と沖縄の現在

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2018/07/30 21:35 → https://www.freeml.com/bl/316274/320440/
 投稿日時 : 2018/07/30 21:37 → https://www.freeml.com/bl/316274/320441/

 

 

 

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2018年2月20日 (火)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (8)

 

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して(記事カテゴリーとしては「多摩武蔵野軍産複合地帯」)、昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合地帯化状況を追って来た。

 その際にまず参考としたのは、星野朗氏の論考「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学』 第105号 1998)であり(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)」及び「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)」参照)、小平地域の軍事施設設置状況の詳細については主に『小平市史』(2013)を用いた(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」参照)。

 

 ここであらためて、昭和10年代の(北多摩を中心とした)多摩武蔵野地域の軍産複合地帯化状況の全体像を、国分寺市・国分寺市教育委員会『市制施行50周年記念 国分寺市の今昔』(2015)巻末の資料編にある「北多摩地域を中心とする軍事関係工場」と題された施設一覧(地図も付属)を用いて確認しておきたい。

 

 「北多摩地域を中心とする軍事関係工場」には、「北多摩地域と軍事関係工場の位置図」と題された地図上の番号(1~40)に対応する40施設が一覧表形式で示されている(ただし「位置図」上には番号の附されていない―従って一覧表に掲載されていない―施設も複数存在する)。また一覧表にも地図にも「軍事関係工場」とあるが、実際には「工場」(軍需生産施設―「産」の施設)だけではなく陸軍飛行場や経理学校、補給廠等の様々な軍事施設(「軍」の施設)も多く含まれており、その意味でも「北多摩地域を中心とする」当時の「軍産複合地帯化状況」をあらためて概観する上で都合がよい資料である。

 また、一覧表は番号と共に「施設名」、「沿革」(施設の設置年度)、「内容」(何に用いられた施設であったか)、「所在地」(現在の行政区分名)、「現在跡地に所在する主な施設」(施設跡地の現在の利用状況)が掲載されており、「現在跡地に所在する主な施設」を確認することで、ある程度の(現在の)土地勘を持ってさえいれば、かつての施設の立地区域の把握も容易である(各施設の「跡地に所在する主な施設」は星野論文執筆時から大きく変化しており―工場用地としての利用から大規模集合住宅、あるいは大規模商業施設への転換等、土地利用状況は変化している―『国分寺市の今昔』には2015年作成のまだ新しい「資料」であることの強み―最新状況の反映―がある)。

  一覧にある「現在跡地に所在する主な施設」(現在の跡地利用状況)の項からも、それぞれの敷地の本来の広大さ(すなわち当時の多摩武蔵野地域で「軍」と「産」の施設の占めた地位)が明らかになるだろう。

 「軍」の施設である「陸軍経理学校・練兵場」で言えば、その「現在跡地に所在する主な施設」として「陸上自衛隊小平駐屯地・国土交通大学校・関東管区警察学校・小平団地・防衛省官舎・小平第九小学校・グランスクエア一橋学園・むさしが丘学園・あけぼのパン工場」が挙げられている。現在の個々の施設もそれぞれに十分に広い敷地を必要とするもの(自衛隊駐屯地、各種の学校、大規模集合住宅、工場)であることからも、かつての「陸軍経理学校・練兵場」の敷地の広大さは明らかとなるであろう。

 「産」の施設を中島飛行機関連で見れば、「中島航空金属」の「現在跡地に所在する主な施設」は「ひばりが丘運動場・せせらぎ公園・谷戸第二小学校・市立中原小学校・市立南中学校・公団ひばりが丘団地・住友重工田無製造所・ジャパンエナジー中央研修所」であり、「中島飛行機武蔵製作所」の「現在跡地に所在する主な施設」は「武蔵野中央公園・武蔵野市役所・武蔵野東小学校・NTT開発センター」であり、「中島飛行機三鷹研究所」の「現在跡地に所在する主な施設」が「都立野川公園・国際基督教大学・東京神学大学・ルーテル学院大学・アメリカンスクール・富士重工」となっている。それぞれの敷地の広大さは明らかであろう。

 

 以下、『国分寺市の今昔』にある一覧からの引用である(「」を用いた註釈は引用者によるものである)。

 

 

 

1 中島航空金属

  沿革-1938(昭和13)年中島飛行機武蔵製作所の分工場の田無鋳造工場設置→1939(昭和14)中島航空金属
  内容-武蔵製作所作成エンジンのテスト
  所在地-西東京市・武蔵野市
  現在跡地に所在する主な施設-ひばりが丘運動場・せせらぎ公園・谷戸第二小学校・市立中原小学校・市立南中学校・公団ひばりが丘団地・住友重工田無製造所・ジャパンエナジー中央研修所

 

2 中島飛行機武蔵製作所

  沿革-1938(昭和13)年武蔵製作所設置・1941(昭和16)年多摩製作所設置〔西半分〕→1943年合併武蔵製作所
  内容-武蔵製作所:陸軍機エンジン、多摩製作所:海軍機エンジン
  所在地-西東京市・武蔵野市
  現在跡地に所在する主な施設-武蔵野中央公園・武蔵野市役所・武蔵野東小学校・NTT開発センター

 

3 横河電機製作所吉祥寺工場

  沿革-1930(昭和5)年設置
  内容-航空計器・航空機用磁石発電機の製造
  所在地-武蔵野市
  現在跡地に所在する主な施設-横河電機工場
 

4 日本無線電信電話

  沿革-1937(昭和12)年設置
  内容-航空機用無線・レーダーの製造
  所在地-三鷹市
  現在跡地に所在する主な施設-日本無線

 

5 三鷹航空工業

  沿革-1933(昭和8)年設置
  内容-航空機エンジンの製造
  所在地-三鷹市
  現在跡地に所在する主な施設-井の頭公園西園(旧日産厚生園・下連雀1丁目付近)

 

6 正田飛行機製作所

  沿革-1933(昭和8)年渋谷から移転
  内容-航空機エンジンの製造
  所在地-三鷹市
  現在跡地に所在する主な施設-日産自動車三鷹工場(下連雀5丁目付近)

 

7 中島飛行機三鷹研究所

  沿革-1943(昭和18)年設置
  内容-航空機の設計
  所在地-三鷹市
  現在跡地に所在する主な施設-都立野川公園・国際基督教大学・東京神学大学・ルーテル学院大学・アメリカンスクール・富士重工

 

8 中央航空研究所

  沿革-1939(昭和14)年設置
  内容-航空機の開発
  所在地-調布市・三鷹市
  現在跡地に所在する主な施設-宇宙航空研究開発機構航空宇宙センター・交通安全環境研究所・電子航法研究所海上技術安全研究所・杏林大学・消防研究所・消防大学校

 

9 調布陸軍飛行場

  沿革-1941(昭和16)年設置
  内容-陸軍機の訓練・防空基地
  所在地-調布市・三鷹市・府中市
  現在跡地に所在する主な施設-調布飛行場・武蔵野の森公園・東京外国語大学・警察大学校・大沢総合グラウンド

 

10 傷痍軍人東京療養所

  沿革-1939(昭和14)年設置
  内容-軍人療養施設
  所在地-清瀬市
  現在跡地に所在する主な施設-日本社会事業大学・国立病院機構東京病院

   *: 結核罹患軍人の療養施設

 

11 傷痍軍人武蔵療養所

  沿革-1940(昭和15)年設置
  内容-軍人療養施設
  所在地-小平市
  現在跡地に所在する主な施設-国立精神・神経医療センター・萩山グラウンド

   *: 1931年の満州事変から足掛け15年にわたる戦争でこれまでにない規模の人々が戦地へと動員される中で、心理的な原因で精神疾患になったと考えられた人々は当時「戦争神経症」「戦時神経症」と呼ばれ、軍部や国家の関心事となった。その中で、1938年、国府台陸軍病院が精神神経疾患となった軍人の専門治療機関となり、1940年に精神障がいを対象にした傷痍軍人武蔵療養所が設立された。
     中村江里 「往還する〈戦時〉と〈現在〉:日本帝國陸軍における「戦争神経症」」 (博士論文要約 2015)

 

12 陸軍兵器補給廠小平分廠

  沿革-1940(昭和15)年設置
  内容-兵器・燃料の保管・補給
  所在地-小平市
  現在跡地に所在する主な施設-ブリジストン東京工場・小平第六小学校・小平第二中学校・松見病院

   *: 2015年時点の記述であり、2018年現在では工場施設は小平市から撤退し、研究施設のみとなっている(ブリジストン関係者の話による)

 

13 陸軍経理学校・練兵場

  沿革-1890(明治23)年設置**
  内容-将校の経理養成***
  所在地-小金井市****
  現在跡地に所在する主な施設-陸上自衛隊小平駐屯地・国土交通大学校・関東管区警察学校・小平団地・防衛省官舎・小平第九小学校・グランスクエア一橋学園・むさしが丘学園・あけぼのパン工場

   *: 陸軍経理学校とは、軍隊組織の財政管理・会計実務、軍施設の建設や維持、軍服や糧食などの調達、軍需工場の監督といった軍隊組織の管理運営全般と物資の補給実務を担当する学校で、創立は一八九〇(明治二三)年であった(麹町富士見町)。東京牛込区若松町の校舎(通称若松台)で長く教育にあたっていたが、満州事変の頃から校舎移転の議論が起こり、一九四〇年頃になって「教育の拡充」の必要性から小平村への移転が決定されたのであった。つまりこの移転は、総力戦の時代になって、軍隊組織の管理を担当する将校が質・量ともにそれまで以上に求められるようになったことを示す。
     (『小平市史』 227ページ)

   **: 上記『小平市史』にある通りで、1890(明治23)年は麹町富士見町での創立年。小平への移転・開校は昭和17(1942)年

   ***: 「将校の経理養成」というよりは「経理将校の養成」であろう

   ****: 『小平市史』にある通りで、所在地は現・小金井市ではなく、現・小平市内である

 

14 多摩陸軍技術研究所

  沿革-1942(昭和17)年設置
  内容-銃器・火砲の研究施設
  所在地-小金井市**
  現在跡地に所在する主な施設-東京学芸大学・東京学芸大学附属中学校・東京学芸大学附属小学校・サレジオ中学校・サレジオ小学校・市西部浄水所・つつじ

   *: 陸軍技術研究所 昭和17(1942)年移転
       第二技術研究所(観測・測量・指揮連絡用兵器など)と第五技術研究所(通信機材・整備機材・電波兵器)の敷地が小平
       第一(鉄砲・弾薬・馬具)、第三(爆破用火薬・工兵器材など)、第八技術研究所(兵器材料・化学工芸など)の敷地は小金井
        第1研究所/銃器、火砲、馬具、弾薬等に関係する部署
        第2研究所/測量器、照準器、眼鏡などに関係する部署
        第3研究所/渡河、鉄道、架橋、道路、爆破器材および一般工兵器材などに関わる部署
        第5研究所/電波、通信機材関係の部署
        第7研究所/物理的兵器関係の部署
        第8研究所/兵器の基礎研究に関する部署
      陸軍多摩技術研究所 昭和18(1943)年新設
       第五、第七、第九技術研究所の電波兵器関連研究開発機能を統合
     (『小平市史』及び板倉真也「市内の戦跡保存の取り組みに向けて」(2002/11/24)による)

   **: 上記の通りで、施設所在地は現・小金井市内と現・小平市内にまたがるものであった(施設名称をはじめ、沿革、内容の項にも他資料との異同がある)

 

15 中央工業南部工場

  沿革-1936(昭和11)年設置
  内容-銃器・火砲の製造
  所在地-国分寺市
  現在跡地に所在する主な施設-早稲田実業・東京経済大学

 

16 小林理学研究所

  沿革-1940(昭和15)年設置
  内容-陸海軍水測音波兵器の開発製造
  所在地-国分寺市
  現在跡地に所在する主な施設-リオン

 

17  日立中央研究所

  沿革-1942(昭和17)年設置
  内容-航空機用消化装置・スプリングなどの製造
  所在地-国分寺市
  現在跡地に所在する主な施設-日立中央研究所

   *: 『国分寺の今昔』の表記が「航空機用“消化”装置」となっている

 

18 東洋酸素

  沿革-1943(昭和18)年設置
  内容-高圧酸素・窒素・プロパンガスの製造
  所在地-国分寺市
  現在跡地に所在する主な施設-ドンキホーテホームセンター恋ヶ窪店・サミットストア恋ヶ窪店・東恋ヶ窪くぬぎ公園

 

19 東京碍子

  沿革-1944(昭和19)年設置
  内容-送電・電柱の付属機器製造
  所在地-国分寺市
  現在跡地に所在する主な施設-(東恋ヶ窪4丁目)

 

20 陸軍燃料廠

  沿革-1938(昭和13)年設置
  内容-陸軍用石油代替燃料の研究開発
  所在地-府中市
  現在跡地に所在する主な施設-府中の森公園・府中の森芸術劇場・府中市美術館・航空自衛隊航空総隊司令部・市立浅間中学校

 

21 東京芝浦電機府中工場

  沿革-1939(昭和14)年設置
  内容-軍用機用電波系機器の生産
  所在地-府中市
  現在跡地に所在する主な施設-東芝府中工場

   *: 小平図書館作成の「小平周辺戦争当時軍事施設・軍需工場マップ」(註:1)には以下のようにある(施設名が異なり、製造品も異なっているように見える)。

     日本製鋼所武蔵製作所
     はじめのころ戦車を、のち高射砲をつくっていた。
     東芝車輌製作所
     (今の日本製鋼所、東芝府中工場があるところ)

 

22 日本製鋼所武蔵製作所

  沿革-1938(昭和13)年設置
  内容-海軍用鋳鍛鋼品の製造
  所在地-府中市
  現在跡地に所在する主な施設-すずかけ公園・日銀府中分館・インテリジェントパーク(日鋼町)

   *: 小平図書館作成の「小平周辺戦争当時軍事施設・軍需工場マップ」(註:1)には以下のようにある(製造品が異なっている)。

     日本製鋼所武蔵製作所
     はじめのころ戦車を、のち高射砲をつくっていた。
     東芝車輌製作所
     (今の日本製鋼所、東芝府中工場があるところ)

 

23 村山陸軍病院

  沿革-1941(昭和16)年設置
  内容-陸軍の病院、地域病院としても機能
  所在地-武蔵村山市
  現在跡地に所在する主な施設-東京経済大学武蔵村山キャンパス(グラウンド・野球場・テニスコート)
 

24 所沢陸軍整備学校立川教育隊

  沿革-1943(昭和18)年設置
  内容-陸軍航空技術学校修了者を教育
  所在地-武蔵村山市
  現在跡地に所在する主な施設-村山医療センター・東京小児療育病院・村山特別支援学校・国立感染症研究所・雷塚公園・雷塚小学校・市民総合センター

 

25 東京陸軍航空学校(東京陸軍少年飛行兵学校)

  沿革-1938(昭和13)年熊谷から移転
  内容-陸軍少年飛行兵の基礎教育
  所在地-武蔵村山市
  現在跡地に所在する主な施設-大南公園・菖蒲園・湖南衛生組合・第七小学校・第四中学校

 

26 日立航空機立川工場

  沿革-1938(昭和13)年東京瓦斯電気工業立川工場→1939(昭和14)年日立航空機工場
  内容-陸軍航空機エンジン製作
  所在地-東大和市
  現在跡地に所在する主な施設-東大和南公園・東大和南高校・都立東大和療育センター・北多摩看護専門学校・東大和市民体育館・市民プール

 

27 陸軍獣医資材廠

  沿革-1938(昭和13)年世田谷から移転
  内容-軍馬の管理
  所在地-立川市・国立市
  現在跡地に所在する主な施設-陸上自衛隊東立川駐屯地・立川第二中学校・北多摩高校
 

28 陸軍立川飛行場

  沿革-1922(大正11)年設置、陸軍航空第5大隊を岐阜県各務ヶ原から立川に移転→1924(大正13)年陸軍飛行第5連隊→1929(昭和4)年民間航空機航路導入→1933(昭和8)年陸軍機専用になる
  内容-陸軍機の飛行場
  所在地-立川市・昭島市
  現在跡地に所在する主な施設-陸上自衛隊立川駐屯地・警視庁多摩総合庁舎・自治大学校・立川警察署・立川防災合同庁舎・立川消防署・立川市役所・多摩モノレール基地・国文学研究資料館・南極北極科学館・国立国語研究所

 

29 立川飛行機立川工場

  沿革-1930(昭和5)年石川島飛行機製作所
  内容-陸軍機の製造
  所在地-立川市
  現在跡地に所在する主な施設-新立川航空機

 

30 立川飛行機砂川工場

  沿革-1930(昭和15)年石川島飛行機製作所
  内容-陸軍機の製造
  所在地-立川市
  現在跡地に所在する主な施設-立飛企業立川製造所・砂川高校・立川第六中学校・タチヒゴルフ練習所・新立川航空機・横河エンジニアリングサービス
 

31 東京第二陸軍共済病院

  沿革-1944(昭和19)年設置
  内容-陸軍の病院、地域病院としても機能
  所在地-立川市
  現在跡地に所在する主な施設-立川病院

 

32 陸軍航空技術学校

  沿革-1935(昭和10)年設置
  内容-少年航空兵・少年飛行兵の教育、総合教育
  所在地-立川市
  現在跡地に所在する主な施設-緑町公園・立川市中央図書館・パークアベニュー・高島屋立川店・シネマツー
 

33 立川陸軍病院

  沿革-1922(大正11)年陸軍航空部隊付属医療機関創設→1923(大正12)年立川陸軍病院
  内容-陸軍の病院、地域病院として機能
  所在地-立川市
  現在跡地に所在する主な施設-災害医療センター

 

34 陸軍航空技術研究所

  沿革-1928(昭和3)年所沢より移転
  内容-陸軍機の研究開発
  所在地-立川市・昭島市
  現在跡地に所在する主な施設-国営昭和記念公園(北側)

 

35 陸軍航空廠立川支廠

  沿革-1935(昭和10)年設置
  内容-燃料・弾薬の補給、整備・修理
  所在地-立川市・昭島市
  現在跡地に所在する主な施設-国営昭和記念公園(南側)
 

36 陸軍航空工廠

  沿革-1940(昭和15)年設置
  内容-飛行機の設計・製造する工場
  所在地-昭島市
  現在跡地に所在する主な施設-関東財務局所有地(築地町・福島町)

 

37 昭和飛行機東京製作所

  沿革-1937(昭和12)年設置
  内容-零式輸送機(DC-3)・艦上爆撃機を生産
  所在地-昭島市
  現在跡地に所在する主な施設-昭和飛行機工場・東京システム運輸物流センター・昭和の森ゴルフコース・昭和の森スポーツセンター・上水公園・拝島第二小学校・三井造船工場・三井造船研究所・つつじが丘北小学校・瑞雲中学校・つつじが丘公園・つつじが丘南小学校・昭島市民会館・市民会館公園

 

38 陸軍航空整備学校

  沿革-1943(昭和18)年設置
  内容-将校への整備教育
  所在地-福生市
  現在跡地に所在する主な施設-横田基地

 

39 陸軍多摩飛行場

  沿革-1940(昭和15)年設置
  内容-陸軍立川飛行場の付属飛行場
  所在地-福生市
  現在跡地に所在する主な施設-横田基地

 

40 陸軍航空審査部

  沿革-1940(昭和15)年設置
  内容-航空機関係機器のテスト
  所在地-福生市
  現在跡地に所在する主な施設-横田基地

 

 

 

 これまで参照した資料に、「北多摩地域を中心とする軍事関係工場」の記述内容を加えることで、昭和10年代における多摩武蔵野地域への軍事・軍需関連施設(「軍」と「産」の施設である)の集中の実態の理解が、より深まったたものと思う。一方で、資料間の記述には異同があることも確かであり、解明すべき課題が残されている。

 ちなみに『国分寺市の今昔』の裏表紙見返しには、昭和22(1947)年撮影の「国分寺町周辺航空写真」(国土地理院提供)と、それに鉄道路線名、道路名、施設名等の注記を加えたものが並べて掲載されており(現在の国分寺市、国立市、小金井市、府中市、小平市南部を含む)、当時の土地利用状況を「目の当り」にすることが出来る。優れた試みだと思う。

 

     (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)」に続く)

 

 

 

【註:1】
 参照→ http://library.kodaira.ed.jp/local/tkk/tkk10/tkk10_09.html
 児童向けの解説ではあるが、小平市周辺(にとどまらず西多摩地域・南多摩地域の一部も含む)軍事施設・軍需工場が地図上に示されているので参考になる(ただし、跡地利用状況はマップ作成当時とは変化しているので注意が必要である―たとえば、陸軍経理学校の跡地利用施設の中に「シルバー精工」が示されているが、現在では売却後の跡地に大規模集合住宅としての「グランスクエア一橋学園」の建物群が立ち並んでいる)。

 

 

 

《記事一覧》

 カテゴリー
 「多摩武蔵野軍産複合地帯
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 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)
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  昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(星野朗氏の論考紹介)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)
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  (1)に続き、多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(特に軍の展開状況)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)
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  用語としての多摩と武蔵野(歴史的視点と自然史的視点)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)
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  武蔵野台地における水資源確保の困難について矢嶋仁吉氏の論考紹介

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)
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  小平地域の軍事関連施設の総力戦期的特質

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)
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  軍産施設の進出に伴う集団住宅建設問題(住宅営団と東京瓦斯電気のジードルング)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)
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  武蔵野台地上での水源確保の困難を営団住宅の給水問題を通して再確認

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (8)
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  『国分寺市の今昔』(2015)巻末の一覧を用いて軍産施設設置状況を再確認

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)
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  箱根土地の小平学園開発と販売戦略としての小平簡易水道設置とナチス礼賛広告

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)
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  「津田こどもの家」を中心に、総力戦下の女性動員と託児所の役割

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  1953年の小平町のグローブマスター機墜落事故と沖縄の現在

 

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(オリジナルは、投稿日時 : 2018/02/20 15:18 → https://www.freeml.com/bl/316274/317153/

 

 

 

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2017年9月20日 (水)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)

 

 前回記事(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」)では、昭和10年代後半の小平地域の軍事関連施設地帯化(戦時開発)と人口増(『小平市史』では「戦時の人口急増」という小見出しが用いられている)、そして住宅営団による軍事関連施設の関係者(従業員等)への住宅供給について触れた。大規模施設の移転・開設に際しては、施設関係者用の住宅供給という課題解決の必要性も生じ、最終的に「戦時の人口急増」として、地域社会のあり方へも影響を与えることとなる。再び『小平市史』から「住宅営団」について引いておこう。

 

  こうした戦時開発に伴う住宅難は社会問題となっており、これに対応して、一九三九年、前年に発足したばかりの厚生省のなかに住宅課が設けられ、深刻化する住宅問題への対応の検討が始まり、一九四一年、政府の全額出資のもとで住宅営団が設立され、住宅団地を造成して賃貸住宅あるいは分譲住宅を供給することになった。
     (『小平市史』 2013 286ページ)

 

 

 今回は、その中の仲宿住宅に焦点を当てるところから始める。

 

  さて小平村には一九四三年、住宅営団住宅として喜平橋の南側に桜上水住宅が、さらにその西側に桜堤住宅がつくられた。これらは陸軍経理学校や陸軍技術研究所などの軍関係施設に勤務する人たちのための住宅であった。また同じ時期小川駅付近には仲宿住宅が建設をはじめていたが、完成は敗戦後になった。ここは兵器補給廠小平分廠の職員向け住宅であった。
     (『小平市史』 2013 286~287ページ)

 

 陸軍兵器補給廠小平分廠の職員向け住宅として計画された営団住宅である(「住宅営団」の計画・建設した戦時集団住宅は、基本的に職住近接の立地を特徴とし、その意味で小平地域の営団住宅も例外ではない)。取り上げるのは、「完成は敗戦後になった」仲宿住宅の「戦後」のエピソードである。

 

 

  太平洋戦争により荒廃した国土、東京の復興に、また戦災者の救済に国民がこぞって立ち上がり、昭和22年に当市においても、小川仲宿地区に旧住宅営団が248戸の建設に着工しました。
  生活用水は、浅井戸32井を施設しましたが、当該地区は地下水が深くほとんど使用に耐えず、やむなく居住者は隣接の厚生省職業補導所(現在東京都身体障害者職業訓練所)の深井戸から個々に「水運び」をせざるを得ませんでした。その後、関係者の好意により仲宿住宅街の中央部まで1本の給水管が延長され、共同水栓が設置されました。しかし、居住者の増加によりこれのみに頼り得ず、仲宿居住者組合で対策を検討した結果、坂北、旧兵器廠小平分廠の給水施設の利用を考え、坂北、本町、旭町地区の代表者賛同の下に、大蔵省東京財務局に使用許可を申請した結果、昭和24年8月に使用許可書が交付されました。
  各地区代表者によって給水事業計画を作成して、「小川給水組合」として発足すべく努力を重ねましたが、施設費用等の負担問題で組合結成がならず、対外的には「小川給水組合」として各地区代表者(発起人)が経営にあたることになりました。
  昭和28年12月、関係部落自治会長を中心に協議した結果、「小川給水組合」を発展的に解消し「小川水利協会」を結成して昭和29年1月より新機構によって運営されることになりました。
  当時、役員は水道事業の重要性にかんがみ、任意団体の運営では住民の福祉向上に資するためには非常に困難な点が多いので、水道施設を町に移管し、町営水道として経営すべきであるとの意見の一致をみたので、その体制整備に進みつつありました。
  昭和33年「小川水利協会」から、給水人口の急増と施設の拡張、地域住民の福祉の増進を考慮して、町営として水道事業経営が望ましいとの陳情をうけて、町理事者並びに町議会で調査検討を行い、昭和34年3月の定例議会で小平町営水道事業として経営することに決定しました。
     (『水道事業概要 昭和58年』 小平市水道業務課・工務課 1983 2ページ)

 

 本題に入る前に、「昭和22年に当市においても、小川仲宿地区に旧住宅営団が248戸の建設に着工しました」との記述の正確さの程度について問題を指摘しておきたい。

 

  もちろんこうした住宅の絶対的な不足の状況のなかで、政府の住宅対策がなかったわけではない。一九四五年九月、罹災都市応急簡易住宅建設要綱が閣議決定された。罹災者の越冬対策として、国庫補助により「最モ簡素ニシテ且大量生産ニ適スル」簡易住宅三〇万戸を建設するとしたが、年内に建設されたのは四万三〇〇〇戸にすぎず「恐るべき不良住宅の集団建設事業」とさえいわれた。この政策の一環として建設が促進されたのが住宅営団の仲宿住宅であった。この営団住宅は、もともと兵器補給廠小平分廠の従業者向け住宅として、一九四三年ごろから建設が進められていたが、何らかの事情で中断し、さきの住宅難対策のもとで四五年一二月から建設が再開された。その結果、六畳・三畳二間の八軒長屋四棟と、六畳・三畳・三畳の三間(九坪)の一戸建て二一六戸からなる団地が完成し、新築部分には四六年四月から入居が開始された。また同じ頃、営団旭が丘住宅も完成している。なお住宅営団は一九四六年末に解散したため、それらの住宅は四八年七月から分譲された。
     (『小平市史』 377~378ページ)

 

こちらでは、「新築部分には四六年四月から入居が開始された」とされており、1946(昭和21)年の時点で「入居が開始され」ているのだとすれば「昭和22年に当市においても、小川仲宿地区に旧住宅営団が248戸の建設に着工しました」ということにはならないだろう。総戸数については、『水道事業概要』の248戸と、『小平市史』の「六畳・三畳二間の八軒長屋四棟と、六畳・三畳・三畳の三間(九坪)の一戸建て二一六戸」(八軒長屋が4棟で32戸、それに一戸建て216戸で総計は248戸)は、戸数として同じであり、どちらも確かに住宅営団による「仲宿住宅」についての記述と判断し得る。

 いずれにせよ、

 

  生活用水は、浅井戸32井を施設しましたが、当該地区は地下水が深くほとんど使用に耐えずやむなく居住者は隣接の厚生省職業補導所(現在東京都身体障害者職業訓練所)の深井戸から個々に「水運び」をせざるを得ませんでした。その後、関係者の好意により仲宿住宅街の中央部まで1本の給水管が延長され、共同水栓が設置されました。しかし、居住者の増加によりこれのみに頼り得ず、仲宿居住者組合で対策を検討した結果、坂北、旧兵器廠小平分廠の給水施設の利用を考え、坂北、本町、旭町地区の代表者賛同の下に、大蔵省東京財務局に使用許可を申請した結果、昭和24年8月に使用許可書が交付されました。

 

この太字化した部分からは、戦後に完成した営団住宅には満足な給水施設がなかったこと、そして問題解決のために、当時には「厚生省職業補導所」となっていた旧・東部国民勤労訓練所の「深井戸」からの水に加え、「旧兵器廠小平分廠の給水施設」に頼ることとなった事実が読み取れる。

 旧・東部国民勤労訓練所及び旧・陸軍兵器廠小平分廠は共に、『小平市史』では地域の「軍需工業化」の関連施設として位置付けられていたものである(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」参照)。その施設内に存在した給水施設は、小平村あるいは小平町(すなわち地域行政)の用意したインフラとしての上水道・給水施設ではない。戦後に仲町住宅の住民が頼りとした軍需工業化関連施設内の給水施設は、「開発事業主」としての厚生省、そして陸軍が自ら自身のために用意したものなのである。

 

 「使用に耐え」なかった営団住宅内の「浅井戸32井」、そして旧・東部国民勤労訓練所内の「深井戸」と、旧・陸軍兵器補給廠小平分廠内の「給水施設」については、今のところ、その詳細について記述した文献を探し当ているところまでは進んでいない。しかし、周辺地域の給水施設について知られているところから、ある程度の推測は可能である。

 

 

 まずここでは、「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)」で紹介した矢嶋仁吉氏の論考に立ち戻りたい。

 

  本地域は、武蔵野台地の南半部の狭山丘陵と多摩川とのほぼ中間地域で海抜高度は90-70mで西部より東部に至るに従って緩傾斜を示している。地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10-15mの深さの地域に属している。即ち、該台地南半の中間地域たる小平村を中心として、その西部の砂川村、霞村新町及び多摩村五ノ神附近がこれと同じ階級に属し、東部に於ては小金井村梶野新田、関野新田及び小金井新田に至る地域であって、小平村はほぼその中間に位している。
  尚、地下水の水深(この場合の「水深」は地下水面深度と井底面深度の差を示す:引用者)は、大部分2.5-5mであり、特に本地域より東方、田無町附近に至る地域は地下水同水位曲線の緩慢なことは著しい現象である。
  かかる地域であるから、集落立地の根本要因たる飲料水の採取に困難を感じたことは、既報(矢嶋先行論文:引用者)の諸新田の場合と同様である。それ故、井戸掘削の技術の進んだ今日に於ても、同村一帯に井戸の数の少ない事は注目すべき事実である。
  井戸の掘削は山麓又は河川の沿岸地域の如く帯水層の比較的浅い所では、左程困難ではないが、大地の中央に近くて帯水層の深い本地域附近に於ては、一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する。
  又、井戸掘削の難易はただに帯水層の深度関係するのみならず、その場所の地質の関係する所が大である。例えば武蔵野台地の東部の如く、ローム層の比較的厚い地域では、その井戸の内壁も掘ったままで良いが、該台地の西部、又は秋留台地に於ける如くローム層が比較的薄く直ちに厚い礫層に及んでいる地域では、井戸内壁の崩壊を防ぐ為、玉石を以て畳むか、又は材木を以て組み上げなければならない。
  それ故その費用も極めて莫大である。かかる関係から帯水層の深い所では、特にその困難は著しいのである。それ故台地内部に於ては、何処でも戸別毎に井戸を所有するという訳には行かず、共同井戸を使用する所が多い。
     矢嶋仁吉 「武藏野小平村に於ける新田聚落の研究」 (『地理学評論 11』 1939 17~19ページ)

 

 矢嶋氏は、このように小平地域における井戸掘削の困難について語っていたのであった。小平地域は「地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10-15mの深さの地域に属している」のであり、しかも「ローム層が比較的薄く直ちに厚い礫層に及んでいる地域では、井戸内壁の崩壊を防ぐ為、玉石を以て畳むか、又は材木を以て組み上げなければならない」という二重の「困難」である。15mとは、ほぼ5階建てのマンションの高さに相当する「深度」である。「手掘り」による「掘削」であることを考えれば、それだけで十分に「深い」と思われるだろう(その深度での掘削では、加えて酸欠の危険も問題となる)。

 しかし、戦後の仲宿住宅住民が頼りとした「隣接の厚生省職業補導所(現在東京都身体障害者職業訓練所)の深井戸」の「深さ」は150m前後であったはずだ。

 地下水には浅層のものと深層のものがあり、その性質を異にするのである。より詳しく言えば、

 

  地下水の種類(地層の状況による分類)
  ○砂や礫砂利などの「比較的地下水が流れやすい地層、言い方を換えると「地下水を通しやすい層」のことを帯水層(たいすいそう)とよびます。
   一般に、地下には、浅い帯水層や深い帯水層など、複数の帯水層があり、帯水層と帯水層の間は、粘土層などの水を通しにくい「難透水層」と呼ばれる地層により分け隔てられています。
  ○降水や河川水、貯水池等の水が地表面から浸透してそのまま地下水となるような、地表面付近の「浅い」帯水層などを不圧帯水層、また、ここを流れる地下水を不圧地下水とよびます。
  ○地表面付近の帯水層と難透水層で分け隔てられている「深い」帯水層などで、帯水層が地下水で満たされており、上部の難透水層との境界面に上向きに水圧がかかっているような圧力状態の帯水層を被圧帯水層、また、そこを流れる地下水を被圧地下水とよびます。
   一般には、被圧地下水は標高の高い山地などにつながっており、山地などで地表から浸透してきた水が地下水となり、被圧帯水層の中を平野部まで流動しています。このため、被圧地下水には、水源域の高い標高に相当する高い水圧がかかっています。
   下流の平野部で被圧帯水層まで井戸を掘削すると、高い水圧のため、地下水位が地表面より高く、水が湧き出たり噴出する場合があり、このような井戸を「自噴井(じふんせい)」とよびます。
  ○「深い」帯水層の場合でも、その帯水層の上部に難透水層がなく帯水層が地表までつながっている場合、あるいは、帯水層が満杯ではなく地下水面がある場合には、被圧されていないため不圧帯水層であり、ここを流れる地下水は不圧地下水となります。
     「地下水の基礎的事項」(『地下水マネジメント導入のススメ 技術資料編』 内閣官房水循環政策本部事務局 2017 57ページ)

 

このような構図となり、「深井戸」から汲み上げられる(湧き出す)のは「被圧帯水層」の地下水なのであり、小平地域の深さ15mの井戸は「降水や河川水、貯水池等の水が地表面から浸透してそのまま地下水となるような、地表面付近の「浅い」帯水層」の地下水を汲み上げて利用するものなのである。

 

  武蔵野台地の地質構造の基本的な形態を概観すると、地表から5m~10m前後の厚さでローム層が覆い、その下位に10m前後の厚さで砂礫層が連らなり、さらにその下に砂、シルト、粘土の互層よりなる海成の東京層上部が広がっている。この東京層上部が難透水層を形成し、その上の砂礫層およびローム層に不圧地下水が存在する。
          水谷淳 「武蔵野台地黒目川流域における不圧地下水の水質に及ぼす都市化の影響について」(『環境問題シンポジウム講演論文集 Vol.10』 土木学会 1982 28ページ)

 

この「砂礫層」まででも、小平地域附近では15mの井戸の掘削が必要となったのである。しかし、そこに問題も生じる。

 

  一方これらの集落の家々では、家庭下水を排出する先がなく、そのため、いわゆる”逆さ井戸”(吸い込み槽)と称するものを設けて、ローム層中へ浸透処理する方法が一般に用いられてきた。
     水谷淳 (同論文 27ページ)

 

インフラとしての下水道が未整備な段階では、不圧地下水は家庭下水による汚染と隣り合わせだったのである。

 

 

 先の「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」では、現在では「南街(なんがい)」と呼ばれる東大和市内の、かつての東京瓦斯電気工業(後に日立航空機)が建設した従業員用集団住宅地について触れたが、その工場と住宅街への給水問題がどのように解決されたのかについて見ることにしよう。

 

  一九三八(昭和一三)年一月には、土地買収交渉が始まった。第一回八万坪の敷地買収にかかった。
  しかし、水の件が最後に残った。最重要条件である。貯水池からや玉川上水からの給水は絶対だめと分かった。水がないために人が住まなかった土地である。どこを探しても水気さえも見つからない。困り抜いたはてに、当てなしに試掘することにした。
  第一回目に現在の給水塔のある位置で試掘を始めた。水気を含んだ土が上がってきた。少し水らしいものが出てだんだん増してきた。当った、当ったと立会人はほっと安心。試掘一五〇㍍まで掘ったところで、水が湧き出るようになった。テストには一日二〇〇石(約三十六立方㍍)の湧水が出て、関係者全員大喜び。これでいよいよ本格的建設も可能となった。
     (『東大和市史資料編 1 軍需工場と基地と人びと』 1995 27ページ)

 

「試掘一五〇㍍まで掘ったところで、水が湧き出るようになった」という記述に注目して欲しい。150mという「深さ」であり、「水が湧き出るようになった」という記述に反映されている「自噴」の状況である(不圧地下水を利用する井戸では、たとえ15mの深さからのものでも「自噴」することはなく「汲み上げ」が必要である)。そこに給水塔を用意し、工場と住宅街に水を供給したのである。

 

 次は戦後の小平の畑作灌漑試験計画についての記事である。

 

  一九五二(昭和二七)年、東京都農業試験場は、これからの東京都の農業を支える畑作地域の経営改善と輪作体系の合理化をおこなうために、小平町で畑作灌漑試験計画(五か年)をたてる。都下では初の試みで、東京都、小平町、小平町農業協同組合は畑地灌漑連絡協議会を組織して、試験地を小川六番地区に選定する。小川六番地区は、冬作として麦、夏作として陸稲のほか、すいかなど蔬菜類を生産する町内で代表的な農業地域である。そこで灌漑施設を整備して、陸稲を主体とした蔬菜類の輪作経営の改善が目指された。灌漑栽培の研究のため、直径一二インチ(約三〇cm)、深さ四〇四尺(約一二四㍍)の電動ポンプ付きの深井戸とコンクリート製の貯水槽などの施設が設置された。
     (『小平市史』 397~398ページ)

 

注目して欲しいのは「深さ四〇四尺(約一二四㍍)の電動ポンプ付きの深井戸とコンクリート製の貯水槽」との記述である。124mという深さは、それが被圧地下水であることを意味する。それが「コンクリート製の貯水槽など」と組み合わせられている。当時の写真を見ると、施設には二階建て相当の高さをもつ貯水タンクが含まれていることがわかる。その「高さ」には、南街に飲料水を供給した「給水塔」が持つのと同じ意味がある。

 陸軍技術研究所の給水塔について、以下のように説明されている。

 

  サレジオ学園(小平市)西南角の「サレジオ通り」沿いに、異様な様相でそびえ立つコンクリートの塔。第5技術研究所敷地に建設。受水槽(126トン)を塔の上につくり、その圧力で送水した。現在は、大蔵省財務局が管理している。給水塔はもう1塔あった。新小金井街道沿いの学芸大学東門北側の、現「小金井市役所貫井北町分室」敷地内(190トン余)。
     板倉真也「市内の戦跡保存の取り組みに向けて」(2002/11/24)

 

「塔の上」という高い位置に受水槽を設けることによって、低い位置にある広大な敷地内の多数の水栓への給水を可能にするのである。

 

 上水道インフラ整備の整わない戦後の小平のエピソードを加えておこう。

 

  鷹の台団地は昭和38(1963)年発足。発足当初から三角公園西側の共有地(国分寺市北町1-17-3)には井戸があった。敷地内には大きなヤグラがあり、その上に巨大な貯水タンクが設置されていた。毎日大出力のモーターポンプでそのタンクに水をくみ上げ、そこから団地内の約200世帯に飲料水を供給していた。とてもおいしい水で、よその地域からの来訪者にも「おいしいね」といわれたそうだ。
  それが昭和44年から50年にかけて、この地域一帯の配水が少しずつ都の上水道に切り替わっていった。はじめて水道水を飲んだときに「まずい」と感じたそうだ。(もちろん今では浄水技術の革新により、東京都の水道水もおいしくなっている)
  この井戸は今も共有地内に存在している。
  敷地内にあるコンクリート基台の上に、地下150メートルの水脈に届く錆びた鉄管があり、その上部が90度曲げられている。近年、この井戸を整備して、災害時水源として使えるようにしようとの声が出ている。
     「鷹の台団地今昔物語(その1)―井戸から上下水道へ・私道から市道へ―」(『鷹の台団地40年』 2014 4ページ)

 

着目点は、「敷地内には大きなヤグラがあり、その上に巨大な貯水タンクが設置されていた。毎日大出力のモーターポンプでそのタンクに水をくみ上げ、そこから団地内の約200世帯に飲料水を供給していた」という記述。たとえ「自噴」する被圧地下水であっても、貯水タンクへの汲み上げには「大出力のモーターポンプ」を必要とするのである。

 

 

 

 被圧地下水層にまで達する井戸を掘削し、給水塔を建設する。(村であれ町であれ)戦時期の小平の行政にはその力はなかった(戦後になってもその状況が続いた)が、開発事業主としての軍には、資金面でも技術面でも可能であった、ということなのである。

 

 

 

     (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (8)」に続く)

 

 

 

《記事一覧》

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 「多摩武蔵野軍産複合地帯
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 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)
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  昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(星野朗氏の論考紹介)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)
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  (1)に続き、多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(特に軍の展開状況)

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  用語としての多摩と武蔵野(歴史的視点と自然史的視点)

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  武蔵野台地における水資源確保の困難について矢嶋仁吉氏の論考紹介

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  小平地域の軍事関連施設の総力戦期的特質

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)
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  軍産施設の進出に伴う集団住宅建設問題(住宅営団と東京瓦斯電気のジードルング)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-22a7.html
  武蔵野台地上での水源確保の困難を営団住宅の給水問題を通して再確認

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (8)
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  『国分寺市の今昔』(2015)巻末の一覧を用いて軍産施設設置状況を再確認

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-b433.html
  箱根土地の小平学園開発と販売戦略としての小平簡易水道設置とナチス礼賛広告

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-6ff4.html
  「津田こどもの家」を中心に、総力戦下の女性動員と託児所の役割

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-152e.html
  木材供出で姿を消した青梅街道の欅並木と「木造船建造緊急方策要綱」

 「グローブマスター機墜落 (軍産複合地域としての昭和十年代多摩 戦後編-1)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-511f.html
  1953年の小平町のグローブマスター機墜落事故と沖縄の現在

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
  投稿日時 :2017/09/20 19:42 → http://www.freeml.com/bl/316274/311858/
  投稿日時 :2017/09/20 19:44 → http://www.freeml.com/bl/316274/311860/

 

 

 

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2017年9月17日 (日)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)

 

 前回の「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」では、昭和10年代後半を中心に現在の小平市に設置された「軍事関連施設」及び「軍需工業化」に関わる施設群を再確認すると共に、「近代総力戦状況」の中でのそれらの施設群の持つ意味を明らかにすることに努めた。

 

 あらためて示せば、

 

  参謀本部北多摩通信所 昭和8(1933)年完成
  傷痍軍人武蔵療養所 昭和15(1940)年開所
  陸軍経理学校 昭和17(1942)年開校
  陸軍技術研究所 昭和17(1942)年移転
  陸軍兵器補給廠小平分廠 昭和17(1942)年開設
  東部国民勤労訓練所 昭和17(1942)年開設
  陸軍多摩技術研究所 昭和18(1943)年新設
  多摩陸軍技術研究所電波兵器練習部(通称東部第九二部隊) 昭和19(1944)年編成

 

このような施設群である。

 多数の人員を擁する施設群の開設に伴い、関係者の居住環境の整備も課題となる。

 

 ここではまず、小平地域の人口の推移を確認してみよう。

 

  小平村
 大正9(1920)年
           6068
 大正14(1925)年
           6054
 昭和5(1930)年
           6558
 昭和10(1935)年
           7041
 昭和15(1940)年
           8674

小平町(昭和19年町制施行)
 昭和20(1945)年
          13568
 昭和25(1950)年
          21659
 昭和30(1955)年
          29175
 昭和35(1960)年
          52923

小平市(昭和37年市制施行)
 昭和40(1965)年
         105353
 昭和45(1970)年
         137373
 昭和50(1975)年
         156181
 昭和55(1980)年
         154610
 昭和60(1985)年
         158673
 平成2(1990)年
         164013
 平成7(1995)年
         172946
 平成12(2000)年
         178623
 平成17(2005)年
         183796
 平成22(2010)年
         187035
 平成27(2015)年
         190005

 

 数値は「人口統計データベース」によるもので、国勢調査のデータに基づくものとされているが、昭和20(1945)年の国勢調査は中止となっているので、昭和20年の人口の数値がどこまで正確なものであるのかはわからない。しかし、『小平市史』には、昭和19(1944)年の人口が掲載されており(351ページ)、そこには「15595」と明記されている(ちなみに同ページには、1946年の人口を「13557」とするデータも紹介されており、先のデータベースの昭和20年の人口を「13568」とする記載とは整合的に感じられる)。いずれにせよ、小平への軍関連施設移転設置前の昭和10年の人口7041からすれば、9年間で倍増していることになる。

 小平市の企画政策部 政策課作成の「小平の歴史・文化 市の誕生」(2011)には、

 

  大正10年ごろから、土地会社による大学を中心とした学園都市を造る計画が進められ、関東大震災後に小平学園60万坪(198ヘクタール)の買収が始められ、住宅地域へ変わっていくきっかけとなりました。その後、女子英学塾(現・津田塾大学)、東京商科大学予科(現・一橋大学小平国際キャンパス)、農林省獣疫調査所小平分室(現・独立行政法人動物衛生研究所)などの公共施設が設けられました。
  昭和15年以降になると傷痍軍人武蔵療養所、東部国民勤労訓練所、陸軍経理学校、陸軍技術研究所、陸軍兵器補給廠小平分廠などの軍用施設が設置され、勤める人の住宅も建てられました。

  終戦も間近い昭和19年2月11日に「小平町」となりました。当時の人口は、15,595人(昭和19年1月1日)でした。昭和20年8月15日、太平洋戦争が終結した後、小平は農村から脱皮し、大きく変わりました。東京区部の住宅難に伴う人口の流入と、都営住宅の建設や一般住宅の増加が著しく、また工場の誘致によって、小平もだんだんと都市化しました。昭和30年の国勢調査では、人口の産業構成の都市的業態が、すでに60%以上になっていました。

 

このようにあるように、大正10年代に開始された学園都市開発、その後の女子英学塾(現・津田塾大学)や東京商科大学予科(現・一橋大学小平国際キャンパス)などの移転・開校にもかかわらず、人口の増加率が低かった事実が人口推移データから明らかとなる。大正9(1920)年から昭和10(1935)年の15年間での人口増加が1000人以下であるのに対し、昭和15(1940)年から昭和19(1944)年の4年間という短い間に7000人弱の人口増をみているのである。

 小平地域への軍事関連施設の移転・開設が人口増に与えた影響の大きさは明らかであろう(実際、『小平市史』では「戦時の人口急増」という小見出しを採用している)。

 

 小平地域の戦時住宅開発を担ったのは住宅営団であった。住宅営団については「芦原義信のテニスコート」でも触れたが、ここでは『小平市史』から引いておく。

 

  こうした戦時開発に伴う住宅難は社会問題となっており、これに対応して、一九三九年、前年に発足したばかりの厚生省のなかに住宅課が設けられ、深刻化する住宅問題への対応の検討が始まり、一九四一年、政府の全額出資のもとで住宅営団が設立され、住宅団地を造成して賃貸住宅あるいは分譲住宅を供給することになった。
  住宅営団の母体となったのは、財団法人同潤会である。これは一九二四(大正一三)年、関東大震災復興事業の義援金の一部を用いて設立された内務省管轄の財団法人で、当初罹災者のための仮住宅を建設したが、その後青山や代官山、清砂通りなど一六か所に、近代的な住宅設備や居住者のための共同施設を充実させた鉄筋コンクリートのアパートや、近郊に「勤人向け」の一戸建て分譲住宅を建設したことで知られる。同潤会は都市新中間層の新しい生活の場のモデル事業を展開したのである。
  一方、住宅営団は「住宅営団ハ労務者ノ他庶民住宅ノ供給ヲ図ルコトヲ目的トス」(住宅営団法〈一九四一年三月公布〉第一条)とあるように、軍需工場に勤務する労働者のための住宅を供給することに重点が置かれていた。なお営団には土地収用法にもとづく土地収用の権限や(第一七条)、各種税が免除されるなどの特権が与えられた。五年間に三〇万戸の住宅建設が目標として掲げられたが、一九四六年一二月に住宅営団が閉鎖されるまでに一六万五千戸が供給されたに過ぎなかった。
  さて小平村には一九四三年、住宅営団住宅として喜平橋の南側に桜上水住宅が、さらにその西側に桜堤住宅がつくられた。これらは陸軍経理学校や陸軍技術研究所などの軍関係施設に勤務する人たちのための住宅であった。また同じ時期小川駅付近には仲宿住宅が建設をはじめていたが、完成は敗戦後になった。ここは兵器補給廠小平分廠の職員向け住宅であった。
     (『小平市史』 2013 286~287ページ)

 

 昭和10年代後半の小平の軍事地域化に伴う人口増加を住居面で支えたのは住宅営団だったのである。

 

 

 『小平市史』にあるように、住宅営団の業務としては「軍需工場に勤務する労働者のための住宅を供給することに重点が置かれていた」が、小平地域で建設されたのは「軍需工場」の「労働者」ではなく「軍関係施設に勤務する人たちのための住宅」であったところに特色がある。

 ちなみに、小平の南の国分寺には軍需工場として銃砲生産の中央工業南部銃製作所があり、西の東大和には発動機生産の日立航空機株式会社があったが、それぞれに「軍需工場に勤務する労働者のための住宅」を自社で用意している。

 

  この地域で軍の主導で設置された軍需工場に国分寺の中央工業南部銃製作所がある。1917(大正6)年に東京砲兵工廠の技術者70人で中野区に創設されたが、1929(昭和4)年に国分寺に移転し、小銃の生産を行った。板橋の陸軍造兵廠の指導を受けていた。中央線の北側の台地端に工場、中央線南側に工員宿舎・食堂・浴場・青年学校校舎などが並んだ。1936(昭和11)年大倉財閥系となり、規模拡大、拳銃・軽機関銃・航空機搭載用機関砲などを生産した。
     星野朗 「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学 第105号』 1998 126ページ)

 

  国分寺町内最大の軍需工場は中央工業南部工場でした。工場は現在の早稲田実業学校の場所にあり、中央線の南側、現在の東京経済大学のある場所には工場で働く人達の宿舎や食堂がありました。最大で6,000人以上の人が働いていたとも言われています。戦争末期になると、労働力の不足を補うために町内の国民学校の生徒も動員されています。
     (『武蔵国分寺跡資料館だより 第22号』 2015 2ページ)

 

  立川飛行機の北約2kmの大和村南部の玉川上水にそった赤松の平林地のなかに、1938(昭和13)年、東京瓦斯電気株式会社の立川工場が建設され、従業員1,000人が大森から移動してきた。東京瓦斯電気(略称ガス電)は、1910(明治43)年荏原郡大森町大森海岸に創設の総合機械メーカーである。その航空機部門の発動機製造工場の整備拡張のため立川に新設され、陸軍航空廠と立川飛行機へエンジンを納入するべく、大和村の赤松林が選ばれた。当時大和村には零細な食品や絣織の工場があるのみの純農村地帯であった。ガス電進出地域は武蔵野台地の中央部で地下水面は深く集落はなかった。僅かな桑畑のほか赤松林や雑木林がひろがる土地であった。ガス電はここに工場用地50万坪に社宅・診療所・郵便局・幼稚園・公民館・浴場・映画館・迎賓館・グランド等諸施設のための50万坪計100万坪を計画した。実際は工場は翌1938(昭和13)年に完成するが、後に南街と称せられる住宅団地は未完で終わった。それでも戸数は600戸を越えた。工場の制服を着用した従業員が住宅と工場を毎日往復する生活を送った。大和村字芋窪の地名にある工場であるが立川へ納入する製品をつくり、立川工場の呼称があり、人々は立川をむいていた。工場は陸軍の方針で日立製作所の系列に置かれることになり、社名を日立航空機株式会社と改称した。工場は拡大され、軍管理工場となり最盛期徴用工・動員学徒も含め13,000人に達した。1944(昭和19)年、西武鉄道小川駅から工場へ引込み線を設け蒸気機関車で材料と製品を搬入し、国鉄の川越線と中央線に連絡した。この路線は戦後西武鉄道が上水線として復活した。工場は1945(昭和20)年2月17日と4月24日の空襲で壊滅した。
     星野朗 「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学 第105号』 1998 130ページ)

 

   ドイツナチスによるジードルングのユートピア運動というのがある。労働者に職を与えて安定した生活をつくり上げる。労働者は一日の労働に疲れて家に帰り、新鮮な空気を吸い、和やかな家庭的慰楽の生活にひたり、新しい明日への活力を回復するという考えに基いた都市構想、これが「ジードルング」で当時ドイツの企業経営に多く採用されていた。
   ジードルングというのは、つまり、都市郊外に一団として建設される企業を中心とした、集合住宅という意味である。ドイツで昭和七年、住宅法が制定され、特にその政策を工業を主体とする企業が採り入れていた。
          (元日立航空機専務 内山 直 手記)
  ジードルング構想に瓦斯電の重役が着目し、航空機部門を拡大するに当って、郊外に広大な土地を取得して、そこに立派な工業都市を創設したい。生産を主体として、そこで働く人びとの福祉も考えた工業都市。ジードルングよりもさらに一歩進んだ内容をもった夢を描いていた。
     (『東大和市史』 2000 337ページ)

 

  ジードルング主唱者の内山直専務の下で作成された地域社会計画は、工場を中心として、
   ・総坪数  十万坪
   ・工場   五万坪
   ・福祉地区 五万坪
     ○社宅・寮 ○物品販売所 ○郵便局 ○診療所 ○映画館 ○幼稚園 ○公民館 ○共同浴場 ○スポーツ施設
   ・給水 給水塔から工場・社宅などへ給水設備による給水完備による近代都市化。
   ・社宅 社員は一戸建て 浴室付
       工員は二戸建て (日立になって四軒長屋に変更)
  住宅施設は昭和十三年十二月から建て始め、第一住宅、第二住宅、第三住宅と工場から遠い順に名称が付けられ、計画的に区画された住宅街が建設されていった。
   ・住宅総数 五五四戸 ・独身寮=親和寮(職員) 純和寮(女子) 明和寮(準職員) 温交寮(製造) 青年学校寮
     (同書 338~339ページ)
 

 

 現在の東京経済大学の地に、かつて存在した「工員宿舎」がどのような建築物であったのか? 独身者向けの寮形式の建物が中心であったのか? 家族持ち向けの住宅も用意されていたのかどうか? いささか気になるところではある(今後の課題の一つとしたい)。

 

 東京瓦斯電気工業の壮大なジードルング構想には誰しも驚かされるであろう。

 星野論文と『東大和市史』では敷地の規模が異なるという問題は残るが、星野論文が参照している『東大和市史資料編 1』(1995)にも「住宅地などを含めた総面積は、一九〇万八四七平方㍍(約五七万五〇〇〇坪)というぼう大な土地で、工場用地は、公称七万二六〇〇平方㍍(約二四万坪)」とあり、『東大和市史』の示す敷地規模には説得力があるように感じる(もっとも私には、このような規模の面積の感覚がないという問題がある)。

 一般的には、「ジードルング」という語で思い浮かべられるのは、ナチスではなくワイマール期の近代主義的集合住宅建築の方であろう。バウハウス関係者をはじめとした、後にナチスにより排除されることになるモダニズム建築家たちにより設計された賃貸の多層階集合住宅群である。

 ナチスのジードルングは、ワイマール期の近代主義的集合住宅建築とは一線を画した、持ち家としての戸建て住宅建設計画であったようである(註:1)。そのような意味でも、瓦斯電の構想した戸建て住宅群は、ワイマール期の近代主義建築とは異なり、ナチスの「ジードルング」に近い(戸建て中心という点で言えば、住宅営団の戦時集団住宅群も同様であった―その背景としては、多層階の集合住宅建設に比べ低層の戸建てであれば技術的にも資材的にもハードルが低いという側面もあるだろうし、そもそも戦時期に払底したのは資材だけではなく建築技能者も招集の対象となっており、小規模な戸建て住宅の建設すらままならない状況に陥っていた(註:2)というのが現実でもあった)。

 

 同潤会も住宅営団も海外の住宅政策の研究をしており、その中ではナチスのジードルング政策についても紹介されている。まさに同潤会も住宅営団も、ナチスと同時代の住宅政策の試みであった。ワイマール期のジードルング構想も試行錯誤の続く段階でナチスの時代を迎え、ナチスのジードルング政策も敗戦により未完のままで終わっている(註:1)。

 

 

 瓦斯電の構想も未完に終わってしまったが、それでも現在の東大和市の「南街」と呼ばれる地区には当時の地割が残されており、かつてのジードルング構想の一端を偲ぶことは可能である(註:3)。

 「ジードルング主唱者の内山直専務の下で作成された地域社会計画」を描いた当時のイラスト(そこには「昭和25年度完成予定」と記されている!)の中の「スポーツ施設」に「テニスコート」が含まれている点に個人的な感慨を覚えたことを、今回記事の最後に記しておきたい(「芦原義信のテニスコート」参照)。

 

 

 

【註:1】

  23年末から29年秋に至る期間は、数々の建築プロジェクトが開始され、新しい住宅建築への動きが目立つようになる。都市の中心は依然として昔日の威容を誇る建物が支配していたが、ようやく都市周辺に新しいジードルンクが発生し始める。建築を思潮面でリードしていたアヴァンギャルドは、理論の段階から実際面でも地歩を占めつつあったのである。しかしドイツでは、建築は33年以降、再び新古典様式に回帰することになる。住宅デザインにおいても、33年以降ヒトラーが力を入れたのは、各人に独立の家屋を持たせる政策であった。集合住宅の建設と平行して個人の持ち家政策が推奨されたのである。牧歌的な庭で世間から離れて、アヒル、鶏、幼子、乳母車に囲まれ休息する、というのが当時の一般国民の理想であったが、これを奨励し、再び戦争の危機が高まりつつある中でも、1万マルクから2万4千マルク、すなわち、比較的若いサラリーマンの1-3年間の収入で割安に建てられる設計プランが建築雑誌上で喧伝されている。
     坂口眞佐子「モダンデザインの背景を探る 1920年代アヴァンギャルド住宅誕生における諸事情その3 ヴァイセンホーフ・ジードルンク」(『大阪樟蔭女子大学論集第 47号』 2010 122ページ)

 

【註:2】
 昭和10年代前半の段階(すなわち対米戦争以前)で既に建築技能者不足が問題化していた。

  住宅建設の建築技能者(大工、左官、現場監督者等)は、兵士にとられたり、また賃金の高い軍需産業及び生産力拡充産業に転職する傾向にあり、またそれが容易であったため技能者が減少した。建築技能者の徒弟制度は崩壊しつつあり、技能者が養成されなかった。そのため絶対数の減少は、必然的に建築技能者の賃金の上昇をまねいた。
     大本圭野 「戦時住宅政策の展開過程(2)―日本的住宅政策の原型」 (『季刊・社会保障研究 Vol.19 No.4』 1984  439ページ)

 

【註:3】
 現時点(2017/09/17)での『ウィキペディア』の「住宅営団」の項には、

  住宅営団が戦中・終戦直後の時期に建設した住宅地では、東京都区内では同潤会から引き継ぐ千住緑町、新宿区百人町住宅(後の通称越冬住宅)、東京都現市域では旧北多摩郡武蔵野町(現武蔵野市)の関前字千川堀附住宅(現八幡町住宅地)吉祥寺野田町南・吉祥寺駅北方住宅(現緑町)武蔵境上水北小金井公園東側住宅、旧大和村南街住宅、など、飛行機製造業工場の従業員用の住宅を多く供給した。

このように記されている。「旧大和村南街住宅」が住宅営団の事業として記されているが、「南街」はまさに東京瓦斯電気工業(及び継承した日立航空機)によるジードルング構想に基いて建設された集団住宅地であり、『ウィキペディア』の「住宅営団」の項の現状は誤りを含むものと言えそうである。

 

 

 

    (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)」に続く)

 

 

 

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  1953年の小平町のグローブマスター機墜落事故と沖縄の現在

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/09/17 15:09 → http://www.freeml.com/bl/316274/311741/

 

 

 

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2017年8月30日 (水)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、昭和10年代の多摩(武蔵野)地域が軍産複合地帯化していたことについて、既に4回にわたって記してきた。「多摩(武蔵野)地域」の全体を視野に入れつつ、特に(「武蔵野」の名を冠した)武蔵野美術大学の所在地でもある現・小平市に焦点を合わせることで、軍事施設の立地と地勢的条件の関係を、より具体的なものとして理解することに努めてもきた。

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)」では、星野朗氏の論考を下敷きにして、

  そこには中心となる武蔵野台地の平坦な地形(広大な工場用地、軍事施設への転用に有利)があり、鉄道輸送網として東西方向を結ぶ中央線と、それに並行する(現在の名称で言えば)京王、小田急、西武の各線があり、南北方向にも複数の路線があることに加え、旧来の街道が存在することで地域外及び地域内相互間の陸上輸送の便もよく、しかも「陸海軍の中枢管理機能の集中する東京霞ヶ関等」とのアクセスもよかった。

このような構図として問題を整理してみたが、小平地域について言えば、当時の小平村・小平町の南方(国分寺・小金井地域)を中央線が走り、地域内を南北方向(ここでは中央線にもアクセスしている)にも東西方向にも現・西武鉄道の各路線が結び、「旧来の街道」としては東西方向には青梅街道と五日市街道、南北方向は府中街道等が連絡することで地域間の相互交通・陸上輸送を可能にし、それらにより「陸海軍の中枢管理機能の集中する東京霞ヶ関等」とのアクセスも確保していたことになる。

 

 続く「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)」では、多摩武蔵野の「軍産複合」状況の中で、他地域との比較において、小平地域の特徴としての各種の軍事施設の集中を確認した(「産」ではなく「軍」の施設の集中的立地地域なのである)。

 

 そして「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)」ではあらためて、(多摩武蔵野地域全体という視野に小平地域の特性という視点を加え)地形を中心とした自然的条件と軍産施設の立地の関係を確認しておいた。

 小平地域の問題としては、「そのほぼ平坦な地形上(武蔵野台地の自然景観上)に、傷痍軍人武蔵療養所、陸軍技術研究所、陸軍経理学校・練兵場、陸軍兵器補給廠小平分廠といった軍事施設が次々に設立・配置されていった」事実が再確認されたことになる。

 

 前回に当る「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)」では、矢嶋仁吉氏の1939(昭和14)年の論文を読むことで、40年代に本格化する小平地域の軍事化の直前の小平の状況を、地理学者の眼を通して理解・把握することを試みた。

 小平地域の「地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10-15mの深さの地域に属している」のであり、「大地の中央に近くて帯水層の深い本地域附近に於ては、一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する」のであって、居住者にとって「飲料水問題」が切実であることを矢嶋氏は繰り返し指摘していた。

 前回記事の最後では、そのような地勢的条件を前に、「小平地域の軍事施設化の中心となった陸軍(ここでは陸軍が「開発事業主」と位置付けられる)は、それぞれの施設に自前で給水塔を設置」する形で対処したことを示しておいた。

 

 

 

 「一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する」小平の土地に自ら給水塔を用意し、地域の軍事化を可能にしたのは、「多大な費用」の支出を可能にする軍事予算の規模と、軍の保有する高度な「技術」的基盤であった。当時の地域行政を担った小平村にも小平町(小平での町制施行は昭和19年である)にも、そのどちらの備えもなかった(小平町が町営の水道事業を開始したのは「戦後」の昭和34年―1959年―になっての話である)。

 地域の基礎インフラとしての給水施設・上水道整備問題については後であらためて取り上げることとして、今回は小平地域の軍事施設の特質について整理しておきたい。

 

 

 

 昭和10年代を通じて、どのような軍事施設が小平地域内に設置されていったのかについて、今回は『小平市史』(2013)の記述により再確認することから始めてみたい(『小平市史』の参照は、星野氏の論考を補うことにもなるはずだ)。

 『小平市史』では、その第四章を「戦時開発と町制施行」とし、「第一節 戦時開発と変わる小平」の中の「1 軍事関連施設の進出」には、

 

  参謀本部北多摩通信所 昭和8(1933)年完成

  傷痍軍人武蔵療養所 昭和15(1940)年開所

  陸軍経理学校 昭和17(1942)年開校

  陸軍技術研究所 昭和17(1942)年移転

    第二技術研究所(観測・測量・指揮連絡用兵器など)と第五技術研究所(通信機材・整備機材・電波兵器)の敷地が小平

    第一(鉄砲・弾薬・馬具)、第三(爆破用火薬・工兵器材など)、第八技術研究所(兵器材料・化学工芸など)の敷地は小金井

《追記:2017/08/31》
    第1研究所/銃器、火砲、馬具、弾薬等に関係する部署
    第2研究所/測量器、照準器、眼鏡などに関係する部署
    第3研究所/渡河、鉄道、架橋、道路、爆破器材および一般工兵器材などに関わる部署
    第5研究所/電波、通信機材関係の部署
    第7研究所/物理的兵器関係の部署
    第8研究所/兵器の基礎研究に関する部署
     (板倉真也「市内の戦跡保存の取り組みに向けて」(2002/11/24)からの抜粋)

  陸軍多摩技術研究所 昭和18(1943)年新設

    第五、第七、第九技術研究所の電波兵器関連研究開発機能を統合

  多摩陸軍技術研究所電波兵器練習部(通称東部第九二部隊) 昭和19(1944)年編成

    東京産業大学(現・一橋大学)予科校舎に本部を設置、国立本校校舎も接収

    津田塾の校舎及び女子寮を接収し下士官の宿舎とする(1945年4月―5月には幹部候補生も産業大学予科校舎の兵舎の空襲火災による焼失により移転)

 

この6施設が記され、「2 軍需工業化と小平」では、

 

  陸軍兵器補給廠小平分廠 昭和17(1942)年開設

    板橋区十条にあった東京陸軍兵器補給廠の「分廠」

  東部国民勤労訓練所 昭和17(1942)年開設

    厚生省所管の軍需動員労務者訓練施設

 

この2施設が取り上げられている(『小平市史』では、「軍事関連施設」と「軍需工業化」に関わる施設に区別を設けて記載していることになる)。

 東部国民勤労訓練所は軍に所属する施設ではなく厚生省所管施設だが、総力戦体制の下では、確かに「軍需工業化」の関連施設として位置付けられ得るものではある。

 陸軍兵器補給廠小平分廠についても、「軍事関連施設」そのものであることも確かであるが、『小平市史』では「小平分廠は車両の修理工場を有しており、そこに多数の工員を要する軍需工場という側面をもっていた」点に着目し、「軍需工業化と小平」の文脈に位置付けて記載しているようである。

 

 

 「軍」は戦争の際に公務として武力を行使する組織である。戦争の際にクローズアップされるのは「前線」での相互の軍事力行使、すなわち「戦闘」であろう。「戦闘」を担うのは各地に配備された「師団」に属する将兵である。しかし小平地域に設置された軍事関連施設は「師団」に属するものではない。その意味で、前線とはワンクッション隔てられている施設群と言うことも出来る。

 とは言っても、戦争となり前線での戦闘が始まった際には、小平地域に設置された軍事関連施設の中では、「参謀本部北多摩通信所」が情報収集施設(陸軍の対外情報収集活動に用いられる「傍受用無線受信所」であった)として、戦闘行動に直接の関係を持つものとなり得る(もっとも、情報の軽視は、「先の大戦」を通しての日本陸軍の問題点であり続けた)。

 また、「陸軍兵器補給廠小平分廠」は、「小平分廠は全国の軍需工場でつくられた戦車や装甲車、軍用トラック、サイドカーなどの大型兵器を運び込んで保管し、ここから必要とする舞台に供給する施設である」と『小平市史』の中で位置付けられている通り、前線部隊の戦闘行動と切り離すことは出来ない、戦闘行動に直接の関係を持つ、軍の補給を担う施設である(補給―兵站―の軽視もまた、「先の大戦」を通しての日本陸軍の問題点であり続けたのであるが)。

 

 

 「陸軍経理学校」について『小平市史』は、

 

  陸軍経理学校とは、軍隊組織の財政管理・会計実務、軍施設の建設や維持、軍服や糧食などの調達、軍需工場の監督といった軍隊組織の管理運営全般と物資の補給実務を担当する学校で、創立は一八九〇(明治二三)年であった(麹町富士見町)。東京牛込区若松町の校舎(通称若松台)で長く教育にあたっていたが、満州事変の頃から校舎移転の議論が起こり、一九四〇年頃になって「教育の拡充」の必要性から小平村への移転が決定されたのであった。つまりこの移転は、総力戦の時代になって、軍隊組織の管理を担当する将校が質・量ともにそれまで以上に求められるようになったことを示す。
     (『小平市史』 227ページ)

 

このように解説している。戦争での戦闘行動を考える際に、前線の兵士と戦闘部隊指揮官の能力、司令部での参謀将校の作戦立案能力も確かに戦闘の帰趨を決定するものではあるが、国家による総力戦となった近代戦争において欠かすことの出来ないのが、有能な経理部将校の存在(申し添えておけば、皇軍の重要施設であった「慰安所」の設置もまた経理部将校の職務であった)なのである。戦争の勝利には、マネジメント能力が必須の時代となっていたのである。「教育の拡充」を目的とした小平への陸軍経理学校の移転は、その点について陸軍が無理解ではなかったことを示している(が、しかし、合理的で時には冷徹でもあるマネジメントではなく非合理的精神主義の熱狂と大言壮語が陸軍を支配し続けたのも事実である)。

 

 

 「先の大戦」(公式名称は「大東亜戦争」である)はまさに近代の戦争、「国家総力戦」の時代の戦争であった。前線と銃後の別が完全に消え去るというものでもないが、「銃後」(にいるはず)の国民も動員され、軍需生産を支えることになる。

 前線の兵士の勇猛さだけではなく、銃後の軍需生産能力が戦争の帰趨を左右する。「銃後」もやがては都市無差別爆撃の標的にされてしまう。それが総力戦の時代である。

 

  戦争の拡大・長期化のなかで、軍需工業をはじめとする重要産業に労働力を効率的に供給するため、政府は労働力動員政策を展開した。一九三九年の国民徴用令にもとづいて労働者を徴用するほか、女子や農業者、学校の新規卒業者を重要産業に誘導しようとした。さらに政府は一九四〇年一〇月、非軍需産業の中小商工業者を廃業させ、軍需産業への転職を促すことにした。そのため転職を斡旋する国民職業指導所を設けるとともに、転職者の職業訓練をおこなうために国民勤労訓練所がつくられることが決まった(一九四一年二月)。東部国民勤労訓練所はその最初のもので、その後奈良市、愛知県一ノ宮村、福岡県神湊村の三か所にも同様の訓練所がつくられた。
     (『小平市史』 284ページ)

 

「国民徴用令」は、国家総動員法に基づくもので、同法では、

 

  第四條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝國臣民ヲ徴用シテ總動員業務ニ從事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズ

  第三十六條 左ノ各號ノ一ニ該當スル者ハ一年以下ノ懲役又ハ千圓以下ノ罰金ニ處ス
   一 第四條ノ規定ニ依ル徴用ニ應ゼズ又ハ同條ノ規定ニ依ル業務ニ從事セザル者

 

このように規定され、「第四條ノ規定ニ依ル徴用ニ應ゼズ又ハ同條ノ規定ニ依ル業務ニ從事セザル者」は処罰の対象となっていた―つまり「徴用」は法による強制であった―のである(「国家総動員体制と都市無差別爆撃の論理」参照)。その徴用対象者の教育訓練施設が「東部国民勤労訓練所」なのであった。

 ちなみに東部国民勤労訓練所を所管する厚生省は、昭和13(1938)年に陸軍の主導により設立されている。

 

  厚生省の設立目的は、「国民の健康を増進し体力の向上を図り以て国民の精神力活動力を充実すると共に、各種の社会施設を拡充して国民生活の安定を図る」ことにあったが、国民の健康増進、体力向上や国民生活安定は戦争の遂行と密接に関係していた。厚生省設立に際しての総理大臣声明は、「事変中及び事変後に於ける銃後諸施設及復員計画に伴う諸施設の拡充徹底は国民保険及国民福祉の双方面に亘りて刻下喫緊の要務なり」と述べている。
     増山道康 「戦争計画による社会保障制度形成―人口政策確立要綱―」 (『岐阜経済大学論集 37巻第2号』 2004 抜刷2ページ)

  厚生省構想は、当初陸軍省より衛生省設置案として提起されたが、この案は枢密院審議までこぎつけるものの結局破棄される。結局1937年12月閣議決定された保健社会省設置要綱に基づき、翌年厚生省が設立された。この設置要綱では、設立目的が戦争計画の一環であることを明言している。
  「国民生活の健康を増進し体位の向上を図り以て国民精神力及活動力の源泉を維持培養し産業経済及非常時国防の根基を確立するは国家百年の大計にして特に国力の飛躍的増進を急務とする現下内外の情勢に鑑み喫緊の要務たり。然るにわが国に於いては……国民的活力を減殺し、産業経済及国防の根基を動揺せしむるに至るべく……この際特に一省を設けて急速且徹底的に国民の健康を増進し体位の向上を図るは刻下焦眉の急務となす」。
     同論文(同2~3ページ)

 

東部国民勤労訓練所が厚生省所管であることの意味も、より明らかとなるであろう。

 

 

 そして「総力戦」状況は、各国の「新兵器」の開発能力を問うものともなっていた。そのための施設が「陸軍技術研究所」であり「陸軍多摩技術研究所」であり、開発された電波兵器の操作訓練の場が「多摩陸軍技術研究所電波兵器練習部(通称東部第九二部隊)」であった。

 

  電波兵器とは、通信以外の用途に電波を利用した兵器で、陸軍では一九三八年頃からレーダー兵器(地上用の電波警戒機や航空機用の電波標定機など)の研究が開始され、一九四二年頃にはやっと実用段階に到達したが、すでに「電波戦」を戦っている欧米諸国には大きく遅れをとっていた。アメリカ軍の圧倒的な航空戦力との格差はすでに明らかで、それに対抗するために日本軍は、電波兵器の研究開発・実戦配備を急ピッチで進めていかねばならなかったのだ。同研究所では機上電波警戒機、機上電波標定機、電波妨害機、地形判別機、電波高度計、電波探索機が開発された。
     (『小平市史』 280ページ)

 

 この「電波兵器」はそれ自体の破壊力に意味がある種類の「新兵器」ではなかったが、「総力戦」時代の「新兵器」の多くは、より高速で、より強力なものとなり、その集中的使用がもたらす破壊力の大きさは兵士の肉体だけでなく精神をも粉砕するものとなっていった。

 

 

 すなわち第一次世界大戦時には「シェル・ショック」と呼ばれた戦争ストレス反応の多発である。戦時日本では「戦時神経症」(あるいは「戦争神経症」)と呼ばれたが、まさに「傷痍軍人武蔵療養所」こそは、強力な破壊力の集中的使用に特徴づけられる近代総力戦下の戦場で精神を粉砕された兵士、「戦時神経症」を発症した将兵のための施設であった。

 その開所は昭和15(1940)年である。つまり対米英戦争(いわゆる「太平洋戦争」である)以前の段階、中国大陸での軍事行動(いわゆる「支那事変」である)の段階で既に戦時神経症症状の多発があり、日本陸軍は対処を迫られていたのである。

 早くも昭和13(1938)年の段階(事変の2年目)で、国府台陸軍病院が戦争神経疾患対策のための特殊病院に指定されていたのが実情であった。

 

  1931年の満州事変から足掛け15年にわたる戦争でこれまでにない規模の人々が戦地へと動員される中で、心理的な原因で精神疾患になったと考えられた人々は当時「戦争神経症」「戦時神経症」と呼ばれ、軍部や国家の関心事となった。その中で、1938年、国府台陸軍病院が精神神経疾患となった軍人の専門治療機関となり、1940年に精神障がいを対象にした傷痍軍人武蔵療養所が設立された。
     中村江里 「往還する〈戦時〉と〈現在〉:日本帝國陸軍における「戦争神経症」」 (博士論文要約 2015)

 

  十五年戦争は、精神神経疾患兵士に対する国家的なケアがなされるようになった初めての戦争であった。一九三八年以降、国府台陸軍病院が精神神経疾患専門の治療機関として機能するようになり、一九四〇年に精神疾患を対象とした傷痍軍人療養所である武蔵療養所が設立されたことはその証左であろう。このような福祉領域への国家の介入は、近年明らかにされつつある総力戦と「福祉国家」ないし「社会国家」化という問題とも関連している。
     中村江里 「「白衣の勇士」か「疾患への逃避」か?―総力戦と精神疾患をめぐるポリティクス」 (東京歴史科学研究会第49回大会個別報告要旨 2015)

 

  戦争の影響で精神疾患になり、国の費用負担で療養を続けたまま亡くなった旧日本軍関係者らが、政府統計が残る過去約五十年で約千人に上ることが、共同通信のまとめで分かった。このうち七割近くは入院したまま最期を迎えた。それ以前の統計や民間のデータはなく、戦争で心の傷が生涯残った人は千人をはるかに上回るとみられる。

  日本国籍を持つ旧軍人や旧軍属らが精神疾患を含めて戦争に関連するけがや病気と診断されると、戦傷病者特別援護法に基づき国が療養費用を負担する。この制度の対象者に関して国が毎年公表している統計資料などを基に集計した。
  同法が施行された一九六四年度以降、精神疾患の療養を受けている状態で亡くなった元軍人らは九百九十九人に上る。内訳は入院先で最期を迎えたケースが六百八十二人、通院中が三百十七人。病気や事故、自殺など、死亡原因に関する情報はない。一方、治癒した人は延べ百七十五人にとどまり、後に再発したケースが含まれている可能性もある。
  療養途中の人数を年度ごとに見ると、七四~八五年度は常に千人を超え、最多は七八年度の千百七人だった。今年三月時点では少なくとも九人が療養中とみられる。発症した状況は分からないが、陸軍病院の医療記録を分析している埼玉大の細渕富夫教授によると、戦闘への恐怖、軍隊生活で受けた制裁、加害行為への罪悪感などが精神疾患の要因になっている場合が多いという。
  民間人の精神疾患では、住民が地上戦に巻き込まれた沖縄県で、戦争による心的外傷後ストレス障害(PTSD)などと診断された人がいるが、実態が把握されているのはごく一部とみられる。

  <元軍人の精神疾患への対応> 日中戦争開始翌年の1938年、陸軍は「戦争神経症患者」の扱いに関する方針を定め、千葉県にあった国府台(こうのだい)陸軍病院を中心に対応することを決定。各地から精神疾患の将兵を同病院に送る態勢が終戦まで続いた。戦後も精神疾患を含む戦傷病者の療養に国費を充てる仕組みがつくられ、現在は戦傷病者特別援護法で規定している。戦争や、関連する公務が原因と診断された旧軍人や旧軍属などに限られ、朝鮮半島や台湾の出身者は対象外。療養は手術や投薬といった治療のほか、自宅や入院先での看護を含む。
     (東京新聞 2016年11月7日 朝刊記事抜粋)

 

この東京新聞記事には、「戦時神経症」による「療養」が過去の話ではなく現在にも続くものである事実に加え、「戦時神経症」の要因として「戦闘への恐怖」だけでなく、「軍隊生活で受けた制裁、加害行為への罪悪感などが精神疾患の要因になっている場合が多い」との細渕教授による談話が掲載されている点も見落とさないでおきたい。

 また、『小平市史』には、

 

  一九四〇年から四五年までの五年間に延べ九五三人が入所し、七一四名が退所したが、うち死亡による退所が三八〇名に及んだ。食料事情の悪化と燃料不足による寒さが、患者の死亡率を押し上げたのだった。
     同書(276~277ページ)

 

とあり、「戦時神経症」となった兵士の療養生活の悲惨な実態も記されている。

 

 

 

 

 銃後の軍事施設という共通点の中から、「先の大戦」が「近代総力戦」であったことの意味が見えてくるはずである。既に前線での戦闘部隊の勇猛さと、その背後の参謀本部の作戦立案能力だけが戦争の帰趨を決する時代ではなくなっていた。

 広域化・長期化する戦争の中で、正確な情報収集、確実かつ継続的な補給の重要性が高まり、より強力な兵器の開発能力が問われ、巨大組織と化した軍のマネジメント能力が問われ、各種軍需品の生産能力が問われるのが、「総力戦」時代の戦争の姿であった。その時代条件に対応する関連軍施設、教育訓練施設、研究施設が集中的に立地されたのが小平地域なのである。そして戦時神経症の多発もまた「総力戦」としての戦争がもたらす現実であり、軍自らの対処を迫られることになった。

 小平に立地された軍事関連施設群の特質を通して、日本の近代、総力戦時代としての近代の姿が見えてくるはずである。

 

 

 

    (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」に続く)

 

 

 

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 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-cb9a.html
  小平地域の軍事関連施設の総力戦期的特質

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)
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  軍産施設の進出に伴う集団住宅建設問題(住宅営団と東京瓦斯電気のジードルング)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-22a7.html
  武蔵野台地上での水源確保の困難を営団住宅の給水問題を通して再確認

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (8)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-242c.html
  『国分寺市の今昔』(2015)巻末の一覧を用いて軍産施設設置状況を再確認

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-b433.html
  箱根土地の小平学園開発と販売戦略としての小平簡易水道設置とナチス礼賛広告

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-6ff4.html
  「津田こどもの家」を中心に、総力戦下の女性動員と託児所の役割

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-152e.html
  木材供出で姿を消した青梅街道の欅並木と「木造船建造緊急方策要綱」

 「グローブマスター機墜落 (軍産複合地域としての昭和十年代多摩 戦後編-1)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-511f.html
  1953年の小平町のグローブマスター機墜落事故と沖縄の現在

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/08/30 19:47 → http://www.freeml.com/bl/316274/311076/

 

 

 

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2017年8月25日 (金)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)

 

 前回の記事「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)」では、用語として「多摩」と「武蔵野」をどのように使い分けるのか(使い分けられているのか)という問題を導入として、「現・小平市を中心とした地域の地形的特質」についての概略をも示した。

 その上で、「そのほぼ平坦な地形上(武蔵野台地の自然景観上)に、傷痍軍人武蔵療養所、陸軍技術研究所、陸軍経理学校・練兵場、陸軍兵器補給廠小平分廠といった軍事施設が次々に設立・配置されていった」事実―小平の軍事地域化の事実―を再確認したわけである。

 

 

 

 今回はあらためて、小平の軍事化が開始される直前の時期に書かれた、「武藏野小平村に於ける新田聚落の研究」と題された矢嶋仁吉論文(『地理学評論 11』 1939)により、小平の地勢的条件についての理解を更に深めておきたい。

 

 

 まず矢嶋氏はその「緒言」において、

 

  武藏野臺地の聚落に就いては、既に諸先學の多くの業績があるが、著者は既に屢々述べた如く、聚落立地と飲料水問題に着眼し、本地域に於ける新田聚落を以て聚落立地とその發展を考究する一つのインディケーターとし、本地域の地域性を闡明せんと試みたのである。地理的諸現象に就いては、1933年以来、屢次に亙つて行へる實測的野外調査を基とし、歴史的考察は、出来得る限り根本史料に據らん事を務め、舊家を歴訪して古記録を渉獵し、又地割その他聚落景觀に就いては、役場の土地臺帳及び地籍圖その他の資料等を照合して論述を進めた。
     (矢嶋仁吉 「武藏野小平村に於ける新田聚落の研究」 『地理学評論 11』 1939  13ページ)

     (以下、原文の旧字体表記の引用に際しては、「武藏野臺地の聚落」を「武蔵野台地の集落」とするように、原則として新字体表記としておく)

 

このように自身の問題意識と方法を述べた上で、「1 研究地域」として、

 

  研究地域は東京府北多摩郡小平村に属する諸新田である。小平村は、武蔵野台地の西部、狭山丘陵と、該台地の南縁を流れる多摩川とのほぼ中間に位置している。既報(先行する矢嶋論文がある―引用者)の砂川村と、東方の田無町との間に於て、青梅街道に沿って開墾発達した小川、小川新田及び野中新田(与衛門組及び善左衛門組)を中心とし、その北方の大沼田新田と南方の鈴木新田、回田(原文では「囘田」表記)新田等の諸新田を合併した村である。
     (同論文 13~14ページ)

 

このように説明している。

 更に論文執筆時(昭和十年代すなわち1930年代後半)の小平地域の状況にも言及し、

 

  最近、東京市の発達膨張に伴って、本地域附近にも漸次住宅地、工場地等が増加し、東京商科大学予科、津田英学塾等が設立され、その附近の住宅地化と共に同村の一部には、新しく碁盤目状の土地区画が行われ、陸測地形図にも明瞭に示されている。それ故、単に地形図のみによって推断すると、本地域の地割が極めて新しく見え、国立、井荻等のそれと同一視されるおそれがあるが、かかる土地区画は、全く同村の一部分に過ぎず、小平村の他の大部分の地割は、徳川時代の地割形態を存しているのである。即ち、小平村は、武蔵野台地に於ける新田集落の標式的な列状村の一例であって、特にその地割と集落景観に顕著なる特色を具現している。
  現在残る大部分の地割は、その開拓に当り、計画的に短冊形に施行されたものであって、最近行われた碁盤目状の土地区画とは判然と区別されねばならぬものである。
     (同論文 14~15ページ)

 

現・一橋大学と現・津田塾大学の小平進出と、箱根土地(のちの西武グループ)による住宅地開発について述べた上で、「かかる土地区画は、全く同村の一部分に過ぎず、小平村の他の大部分の地割は、徳川時代の地割形態を存している」こと、「現在残る大部分の地割は、その開拓に当り、計画的に短冊形に施行されたもの」であることに注意を喚起している。

 

 次の「2 開拓過程」では、明暦期(17世紀)の開拓地(小川村)と享保期(18世紀)の開拓地(小川新田、野中新田、鈴木新田、回田新田、大沼田新田)の開拓の経緯についてそれぞれ概観した上で、「3 飲料水問題」へと続く。

 前回の「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)」の中で、小平市内を「東西方向に(西側を上流として)」流れる「玉川上水」と呼ばれる「江戸期に開削された多摩川を水源とする水路(上水道)」について言及したが、まさに「玉川上水」の存在こそが、明暦・享保期の新田開発を可能にしたのである。

 矢嶋氏は、自身の研究の根底として、「聚落立地と飲料水問題に着眼し」たことを述べていたが、明暦以前の小平の地が未開拓・未開墾のままであった背景には「飲料水問題」があり、小平地域の「新田開発」を可能にしたのが「玉川上水」(そしてその「分水」)であった。玉川上水の通水が承応3(1654)年で、岸村(現・武蔵村山市)の小川九郎兵衛による新田開発の開始が明暦2(1656)年である(「新田」とは言うもののその実態は畑作であり、玉川上水からの分水の水はまず飲料水として必要とされたのであった)。その点について、「3 飲料水問題」での論を追ってみよう。

 

 

  本地域は、武蔵野台地の南半部の狭山丘陵と多摩川とのほぼ中間地域で海抜高度は90-70mで西部より東部に至るに従って緩傾斜を示している。地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10-15mの深さの地域に属している。即ち、該台地南半の中間地域たる小平村を中心として、その西部の砂川村、霞村新町及び多摩村五ノ神附近がこれと同じ階級に属し、東部に於ては小金井村梶野新田、関野新田及び小金井新田に至る地域であって、小平村はほぼその中間に位している。
  尚、地下水の水深(この場合の「水深」は地下水面深度と井底面深度の差を示す:引用者)は、大部分2.5-5mであり、特に本地域より東方、田無町附近に至る地域は地下水同水位曲線の緩慢なことは著しい現象である。
  かかる地域であるから、集落立地の根本要因たる飲料水の採取に困難を感じたことは、既報(矢嶋先行論文:引用者)の諸新田の場合と同様である。それ故、井戸掘削の技術の進んだ今日に於ても、同村一帯に井戸の数の少ない事は注目すべき事実である。
  井戸の掘削は山麓又は河川の沿岸地域の如く帯水層の比較的浅い所では、左程困難ではないが、大地の中央に近くて帯水層の深い本地域附近に於ては、一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する。
  又、井戸掘削の難易はただに帯水層の深度関係するのみならず、その場所の地質の関係する所が大である。例えば武蔵野台地の東部の如く、ローム層の比較的厚い地域では、その井戸の内壁も掘ったままで良いが、該台地の西部、又は秋留台地に於ける如くローム層が比較的薄く直ちに厚い礫層に及んでいる地域では、井戸内壁の崩壊を防ぐ為、玉石を以て畳むか、又は材木を以て組み上げなければならない。
  それ故その費用も極めて莫大である。かかる関係から帯水層の深い所では、特にその困難は著しいのである。それ故台地内部に於ては、何処でも戸別毎に井戸を所有するという訳には行かず、共同井戸を使用する所が多い。
     (同論文 17~19ページ)

 

 いささか長い引用となってしまったが、小平地域でも「井戸を掘れば水が出る」ことが間違いではないにしても容易な話ではなく、飲料水としての水を得ることさえが著しく困難であった実態(そしてその背景となる地勢的条件)が伝わってくるのではないだろうか。

 

 18ページの付表には、当時の「小平村の字別戸数と井戸数との関係」(1936年10月調査)と題されたデータも示されている。

 

  小川村 戸数:398 井戸数:45 平均一井使用戸数:8.8

  小川新田 戸数:151 井戸数:22 平均一井使用戸数:6.9

  大沼田新田 戸数:107 井戸数:11 平均一井使用戸数:9.7

  野中新田 戸数:214 井戸数:26 平均一井使用戸数:8.2

  鈴木新田 戸数:161 井戸数:25 平均一井使用戸数:6.4

  回田新田 戸数:37 井戸数:1 平均一井使用戸数:37.8

 

これに対し、

 

  狭山丘陵の麓に沿った地域と、加治丘陵の南麓地域では平均一井使用戸数は、1.0-1.5戸位が大部分を占めている。又、多摩川沿岸の地域に於ては、河岸段丘の上段と下段に於ては著しい差異を示している。下段の集落に於ては殆んど戸別に井戸を有しているに対し、上段の帯水層の深い地域に於ては、2.0-3.0もしくはそれ以上の平均一井使用戸数を示している。
      (同論文 19ページ)

 

ここに示された、他地域の「平均一井使用戸数」との隔絶に、小平地域の「飲料水問題」の切実さは明らかとなるであろう。

 再確認しておけば、これは1936(昭和11)年のデータであり、戦時期日本(1937年に盧溝橋事件による「事変」の開始)の小平地域のインフラ水準の基盤を示す数値とも言い得る。矢嶋論文では、「井戸掘削の技術の進歩した今日に於てさえかくの如き状態であるから、往時の状態は想像に余りあるものであろう」と評している(この「今日」という言葉を通して、1930年代の終わり―昭和十年代半ば―の日本の現実が語られているのである)。

 

 地下水利用の困難としての「井戸」の問題に続き、「次に飲料水問題に就て重要なのは用水路に就てである」として、人工流水路である玉川上水からの「分水」(=用水路)の経緯・概略が語られ、

 

  分水の開削前には、永く荒蕪の原野として放置されながら、分水の開削した享保以後急激にその開拓の進捗した理由もここに存する。又逆に、それ迄長く開拓の行われなかった理由の1つとして、本地域の飲料水採取の不便にあったという事が重要な一因であったと言い得るであろう。
  現在に於ても本地域の各集落に於てこれらの用水の水を飲料としている所が多いのは注意すべき点である。
     (同論文 21ページ)

 

このように話は結ばれる。「井戸掘削の技術の進歩した今日に於てさえかくの如き状態」であるばかりでなく「現在に於ても本地域の各集落に於てこれらの用水の水を飲料としている所が多い」というのが、戦時期日本の小平地域のインフラ水準の実情なのであった(井戸掘削が困難な土地であればこそ、玉川上水の開削と「分水」による「飲料水」の確保に頼っての「新田開発=開拓」の開始であったわけであるし、「現在に於ても本地域の各集落に於てこれらの用水の水を飲料としている」実情は、繰り返される伝染病蔓延にも結び付いていた―「井戸掘削」の困難が「用水」への依存を続けさせたが、「用水の水」は衛生上の問題も引き越し続けたのである)。

 

 

 続くのは「4 聚落景観」である。先に示した、「小平村の他の大部分の地割は、徳川時代の地割形態を存している」のであり、「小平村は、武蔵野台地に於ける新田集落の標式的な列状村の一例」なのであり「現在残る大部分の地割は、その開拓に当り、計画的に短冊形に施行されたもの」だという点に関し、具体的事例に基づく記述が続く。抜き書きしておくと、

 

  本地域の諸新田の地割は極めて規則的で特に小川に於て、間口がほぼ一定して区画されている。

  少なくとも小川、小川新田に於ける地割の規一性は、開拓当初における均田主義を物語るものではあるまいか。

  道路に接して宅地があり、背後に屋敷林があり、更に畑地となりその先端に雑木林の存する事
     (同論文 22ページ)

 

このような「景観」の中に、「東京商科大学予科、津田英学塾等が設立」され、箱根土地による住宅地開発(いわゆる「学園都市」建設)が始められ、1930年代の終わりと共に軍事施設の集中する地域として「発展」していくのである。

 「4 聚落景観」では、特に箱根土地による学園都市開発構想について以下のような指摘がされている。

 

  尚、本地域の南部の一部に、碁盤目状の地割を施した所がある。この地域は同村の一部に過ぎぬもので、前述の如く、商大予科の校舎設定後、土地会社の手によって、区画された地域である。その計画では、商科大学予科の校舎を中心とし、その周囲に住宅地、焦点地域を区画し、国分寺駅より主要道路を設け碁盤型の3間道路を縦横に通じて、田園都市化せんとしたところである。そのため、新田開発当初よりの短冊形の地割は一部崩壊し、従来の畑地に若干文化住宅の建設もあるが、未だ著しい発達を見ない。東京の都心地域より約1時間を以てして到達し得るところでありながら、その発達の見るべきもののない最大の制約は前述の飲料水採取の不便という事実である。かかる例は省線国立駅の南方、商科大学の校舎附近に於ても見るところであって、井然と区画された道路住宅予定地もほとんど省みられぬ有様である。本地域に居住地域を発展せしめんには、先ず第一にかかる不便の除去が必須条件であって、例えば、埼玉県の所沢駅附近に於ける如く、動力による簡易水道の如き施設をなすか、その他の方法によって上水施設の完成を図ることが必要であろう。
     (同論文 24ページ)

 

 

 「4 聚落景観」の最後では、あらためて以下の指摘をし、「飲料水問題」の重大性についての注意を再喚起している。

 

  最近、本地域方面に工場等の設立されるものも多いが、これを中心として建設されれるべき居住地域の発展には、上述の飲料水問題は往時の居住を制約せるのみならず、今後に於ても残された一つの課題であって、本地域附近の地域性を如実に具現しているものである。
     (同論文 25ページ)

 

 

 

 

 そのような制約ある地域が、戦時期に軍事地域化することになるわけである。

 実際問題として、戦時期に突入した後に小平地域に設立された軍事施設を景観的に特徴づけるものとして、敷地内の「給水塔」の存在を挙げられる。

 陸軍兵器補給廠や陸軍技術研究所の跡地の景観に関する話題の中で、敷地内の「給水塔」(利用するのは地下水―すなわち給水塔の下には深井戸が隠されている)について語られるのを耳にしたり、目にする機会は少なくない(小平地域に隣接した現・東大和市の日立航空機工場ににあった給水塔についても同様である―「学芸大 給水塔」や「日立航空機 給水塔」等で検索すれば、ネット上にある関連記事・画像がヒットする)。戦後には町営水道の重要な施設となった歴史を持つ給水塔もある(陸軍兵器補給廠の給水塔は小平町の水道供給施設となり、陸軍技術研究所の給水塔は小金井町の水道供給施設となった)。

 念のために申し添えておくが、行政によるインフラとしての給水システムとは別に、独立した軍事施設として自らの給水施設(給水塔)を用意するという話ではまったくなく、公的インフラとしての給水システムの存在しない土地に、陸軍は自らの給水塔を建設することで対処したという話なのである。

 

 

 

 

 「蛇口をひねれば水は出る」のはあまりに当たり前の話と思い込んでいるが、小平地域(東京都の一部であるのだが)で公的なインフラとしての「上水道」が普及するのは20世紀も後半の話なのである。

 「井戸」を掘るのは個人(あるいは集落)であり、「分水」を整備するのも各集落の人々であった。20世紀の前半まで、水道施設は公的に(行政により)整備された(整備されるべき)インフラではなかったのである。

 今回あらためて矢嶋論文を取り上げたわけだが、論文中で繰り返される「飲料水問題」への「注意喚起」に際しても、行政によるインフラ整備の課題として水道事業が語られるのではなく、開発事業主に対する注意喚起として語られている印象がある。

 

 実際、小平地域の軍事施設化の中心となった陸軍(ここでは陸軍が「開発事業主」と位置付けられる)は、それぞれの施設に自前で給水塔を設置したのであった(もっとも、市内のすべての軍事施設跡地について調べたわけではなく、今後の課題として残されている部分もあることはお断りしておくが―しかし、給水施設は自前で整備するしかなかったのもまた当時の歴史的事実なのである)。

 

 

 

    (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」に続く)

 

 

 

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2017年7月 4日 (火)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)

 

 前回記事(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)」)の書き出しは「昭和10年代の多摩(武蔵野)地域が軍産複合地帯化していたことについて」であったが、「多摩」と「武蔵野」をどのように使い分けるのかについて(どのように使い分けられているのかについて)、あらためてここで記しておきたい。

 

 「多摩」と「武蔵野」を政治的な視点(特に行政区分の視点)、すなわち人間にとっての「歴史」の問題として捉えようとする際にも、「人間にとっての歴史」のいわば基底となる自然史の問題、具体的には地形的特質の問題(自然景観の形成の視点)として考えようとするに際しても、「多摩」と「武蔵野」は用語として異なった様相を示すこと(時には包含関係が反転する)に、まず注意が必要である。

 歴史的には(行政区分上の問題としては)、古代においては「多摩郡」は「武蔵の国」の一部であった。すなわち「多摩」は「武蔵」に包含される地域名称であった。

 近代における行政上の名称としては、北多摩郡と南多摩郡と西多摩郡(合わせて「三多摩」とも呼ばれる)によって構成される「多摩」地域は、東京府下であった時代から東京都下となった時代(昭和18年より)を通して存在する。一方で「武蔵」の語を冠した「武蔵野」は広域名称としてではなく、「北多摩郡」内の「武蔵野町」(現・武蔵野市)を表すものとして用いられるものであったし、「武蔵小金井」駅(交通行政に関わる名称)は同じ「北多摩郡」内の「小金井町」(現・小金井市)にある駅名であった。すなわち、「武蔵」を冠する行政上の地域名称は、より広域の「多摩」に包含されているのである。

 

 一方で、自然史の視点から(地形的特質から)東京府下及び東京都下の「多摩」地域を語る際の用語法について言えば、「多摩」地域の中心に位置するのは「多摩川」の北にひろがる広大な「武蔵野台地」(「多摩川」が青梅を扇頂とする扇状地を形成することで成立―北端となるのは埼玉県の川越―それほどに「広大」な地域)であり、その南に流れる「多摩川」の南岸の丘陵地帯が「多摩丘陵」と呼ばれている。どちらも、行政区分としての東京府、東京都の境界を越えて(武蔵野台地は埼玉県域に続き、多摩丘陵は神奈川県域に続く―行政上の名称としては神奈川県の川崎市には「多摩区」があり、埼玉県には「武蔵浦和」の駅名もある)更に広がる自然景観として位置付けられている。ちなみに気象庁が発表する気象警報・注意報発令に際しては、「東京地方」は23区東部、23区西部、多摩北部、多摩西部、多摩南部に分割され、多摩北部はかつての北多摩郡、多摩西部は西多摩郡、多摩南部はかつての南多摩郡に相当するものとなっているが、単にかつての行政区分を引き継いだからなのか、実際の自然条件の違いによるものなのか、興味をそそられるところではある。

 

 ここであらためて、この自然地形と星野朗氏の論考に示された、「4つの地域」の関係を整理してみよう。再び星野論文から引用すれば、

 

  ① 武蔵野・三鷹・田無・保谷を中心に、中島飛行機株式会社を核に、航空機用発動機を組立生産した地域、また横河電機や日本無線など電気や通信機器の組立生産を主とした地域で、部品・下請企業は近隣地域から大森・蒲田・品川など遠く京浜地域にひろがる。
  ② 小平・国分寺・小金井・調布・狛江にわたる地域で、①の地域の南と西に隣接する地域。①あるいは他と重なりあうが、東京重機工業や中央工業南部銃製作所など造兵廠と結ぶほか、多くの民間企業が多様な兵器を生産した地域。軍事施設も多い地域。
  ③ 立川・大和・昭和・拝島を中心に、立川の陸軍飛行場と航空廠を中心に、陸軍用航空機組立の立川飛行機株式会社と発動機生産の日立航空機株式会社を中心とする地域と、海軍機用航空機組立の昭和飛行機株式会社との二つの航空機生産地域がある地域。
  ④ 府中・日野・町田・稲城など多摩川に沿い、また多摩丘陵にかかる地域で、軍用車輛・戦車・砲弾や火薬などが目立つ製品となり、日本製鋼・東京芝浦電機・日野自動車など民間企業が板橋や相模など陸軍造兵廠とかかわりをもち生産を続けた地域。
     星野朗 「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学』 第105号 1998 122~124ページ

 

このように概説されていたわけだが、①の武蔵野・三鷹・田無・保谷、②の小平・国分寺・小金井・調布・狛江、③の立川・大和・昭和・拝島、これらはすべて多摩川流域の北側に形成された武蔵野台地上にある行政地域の名称であり、④の府中・日野・町田・稲城の中でも日野・町田・稲城のみが多摩川の南側の丘陵部(多摩丘陵)を含む行政地域である。行政区分上は、①~③と④の中の府中は北多摩郡に属し、日野・町田・稲城は南多摩郡に属する地域となっている。

 

 あらためて、平坦な台地上の北多摩地域と多摩川南岸丘陵部にある南多摩地域に、それぞれの地形を活かす形で(それぞれの自然的景観の上に)、多摩軍産複合地帯が昭和10年代を通して形成されていったことが理解されるだろう。

 

 

 

 ここからは、②の中でも現・小平市を中心とした地域の地形的特質について、武蔵野台地上の自然景観の実際の姿を示す事例として、より詳細な検討を加えてみたい(註:1)。

 

 小平市の名称である「小平」は、その母体となった開発新田である「小川村」の「小」と、周辺地域の地形的平坦さを表す「平」の組合せによるものだとされている。

 小平市内には、東西方向に(西側を上流として)「玉川上水」と呼ばれる江戸期に開削された多摩川を水源とする水路(上水道)が流れている。この人工水路の小平市付近での西端と東端の高低差はおよそ20メートルを超えるが(西端の小平市中島町付近で標高約98メートル、東端の小平市御幸町付近で標高約72メートル―ただし電子国土Webを用いての付近地表面のおおよその数値なので誤差含みの話)、その間の距離は約8キロメートルなので1000メートルあたりの標高差が約3メートルとなる。ちなみに、取り入れ口の羽村から終点の四谷までの距離が43キロメートルで標高差が約100メートルとされているから、先の数値がどこまで正確なのかは確言出来ないが、少なくとも小平地域の地形の平坦さについては把握し得るものと思う(小平市内の南北方向の標高差についても同様で、高低差は微小である)。そもそも市内に(丘や山のような)高地は存在しない―この近辺で土地の人から「山」と呼ばれたのは「高地」ではなく、「武蔵野」を象徴する「雑木林」のことであった―が、古い水源の痕跡は存在し、周囲より土地が少し低いことでかつての流路も想定可能である(平坦な台地の地形の中に、より高い土地―「小高い」という語が相当する土地―はないが、より低く位置する土地がないわけではない)。

 

 そのほぼ平坦な地形上(武蔵野台地の自然景観上)に、傷痍軍人武蔵療養所、陸軍技術研究所、陸軍経理学校・練兵場、陸軍兵器補給廠小平分廠といった軍事施設が次々に設立・配置されていったわけである。

 

 

 

 最後に「武蔵野」と「多摩」の名称関連の話題を付け加えておくと、武蔵野美術大学は武蔵野市(吉祥寺)が発祥の地であり、多摩美術大学が開校したのは世田谷区上野毛で、どちらも武蔵野台地上の立地であった。

 現在の武蔵野美術大学のキャンパスは、同じ武蔵野台地上の小平市内にあるが、平坦に見える地形の中にも―健常者にはあまり意識されることもないであろうが車椅子の移動では障害として意識されるであろう―高低差があり、そこにかつての水源の存在を想像させられる。

 多摩美術大学は八王子市内にもキャンパスを開設したが、こちらは視覚的にも明らかな高低差の中に建物群が展開され、そこが多摩丘陵地域内の土地であることを(そしてかつての南多摩郡内にいることを)実感させられるはずである。

 

 ちなみに、武蔵野音楽大学は存在するが、多摩音楽大学は存在しない。

 

 

 

【註:1】
 「武蔵野台地」について、基本知識を得ると同時に視覚的にイメージする上で役立つのが「武蔵野台地と野川公園」にある概説と画像である。ぜひ参考にしていただきたい。
 → http://www.geocities.jp/yamanekoforest/noyamaaruki/musasinodaiti.html

 

 

 

     (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)」に続く)

 

 

 

《記事一覧》

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 「多摩武蔵野軍産複合地帯
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(オリジナルは、投稿日時 : 2017/07/04 19:49 → http://www.freeml.com/bl/316274/307967/

 

 

 

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