カテゴリー「多摩武蔵野軍産複合地帯」の記事

2017年7月 4日 (火)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)

 

 前回記事(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)」)の書き出しは「昭和10年代の多摩(武蔵野)地域が軍産複合地帯化していたことについて」であったが、「多摩」と「武蔵野」をどのように使い分けるのかについて(どのように使い分けられているのかについて)、あらためてここで記しておきたい。

 

 「多摩」と「武蔵野」を政治的な視点(特に行政区分の視点)、すなわち人間にとっての「歴史」の問題として捉えようとする際にも、「人間にとっての歴史」のいわば基底となる自然史の問題、具体的には地形的特質の問題(自然景観の形成の視点)として考えようとするに際しても、「多摩」と「武蔵野」は用語として異なった様相を示すこと(時には包含関係が反転する)に、まず注意が必要である。

 歴史的には(行政区分上の問題としては)、古代においては「多摩郡」は「武蔵の国」の一部であった。すなわち「多摩」は「武蔵」に包含される地域名称であった。

 近代における行政上の名称としては、北多摩郡と南多摩郡と西多摩郡(合わせて「三多摩」とも呼ばれる)によって構成される「多摩」地域は、東京府下であった時代から東京都下となった時代(昭和18年より)を通して存在する。一方で「武蔵」の語を冠した「武蔵野」は広域名称としてではなく、「北多摩郡」内の「武蔵野町」(現・武蔵野市)を表すものとして用いられるものであったし、「武蔵小金井」駅(交通行政に関わる名称)は同じ「北多摩郡」内の「小金井町」(現・小金井市)にある駅名であった。すなわち、「武蔵」を冠する行政上の地域名称は、より広域の「多摩」に包含されているのである。

 

 一方で、自然史の視点から(地形的特質から)東京府下及び東京都下の「多摩」地域を語る際の用語法について言えば、「多摩」地域の中心に位置するのは「多摩川」の北にひろがる広大な「武蔵野台地」(「多摩川」が青梅を扇頂とする扇状地を形成することで成立―北端となるのは埼玉県の川越―それほどに「広大」な地域)であり、その南に流れる「多摩川」の南岸の丘陵地帯が「多摩丘陵」と呼ばれている。どちらも、行政区分としての東京府、東京都の境界を越えて(武蔵野台地は埼玉県域に続き、多摩丘陵は神奈川県域に続く―行政上の名称としては神奈川県の川崎市には「多摩区」があり、埼玉県には「武蔵浦和」の駅名もある)更に広がる自然景観として位置付けられている。ちなみに気象庁が発表する気象警報・注意報発令に際しては、「東京地方」は23区東部、23区西部、多摩北部、多摩西部、多摩南部に分割され、多摩北部はかつての北多摩郡、多摩西部は西多摩郡、多摩南部はかつての南多摩郡に相当するものとなっているが、単にかつての行政区分を引き継いだからなのか、実際の自然条件の違いによるものなのか、興味をそそられるところではある。

 

 ここであらためて、この自然地形と星野朗氏の論考に示された、「4つの地域」の関係を整理してみよう。再び星野論文から引用すれば、

 

  ① 武蔵野・三鷹・田無・保谷を中心に、中島飛行機株式会社を核に、航空機用発動機を組立生産した地域、また横河電機や日本無線など電気や通信機器の組立生産を主とした地域で、部品・下請企業は近隣地域から大森・蒲田・品川など遠く京浜地域にひろがる。
  ② 小平・国分寺・小金井・調布・狛江にわたる地域で、①の地域の南と西に隣接する地域。①あるいは他と重なりあうが、東京重機工業や中央工業南部銃製作所など造兵廠と結ぶほか、多くの民間企業が多様な兵器を生産した地域。軍事施設も多い地域。
  ③ 立川・大和・昭和・拝島を中心に、立川の陸軍飛行場と航空廠を中心に、陸軍用航空機組立の立川飛行機株式会社と発動機生産の日立航空機株式会社を中心とする地域と、海軍機用航空機組立の昭和飛行機株式会社との二つの航空機生産地域がある地域。
  ④ 府中・日野・町田・稲城など多摩川に沿い、また多摩丘陵にかかる地域で、軍用車輛・戦車・砲弾や火薬などが目立つ製品となり、日本製鋼・東京芝浦電機・日野自動車など民間企業が板橋や相模など陸軍造兵廠とかかわりをもち生産を続けた地域。
     星野朗 「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学』 第105号 1998 122~124ページ

 

このように概説されていたわけだが、①の武蔵野・三鷹・田無・保谷、②の小平・国分寺・小金井・調布・狛江、③の立川・大和・昭和・拝島、これらはすべて多摩川流域の北側に形成された武蔵野台地上にある行政地域の名称であり、④の府中・日野・町田・稲城の中でも日野・町田・稲城のみが多摩川の南側の丘陵部(多摩丘陵)を含む行政地域である。行政区分上は、①~③と④の中の府中は北多摩郡に属し、日野・町田・稲城は南多摩郡に属する地域となっている。

 

 あらためて、平坦な台地上の北多摩地域と多摩川南岸丘陵部にある南多摩地域に、それぞれの地形を活かす形で(それぞれの自然的景観の上に)、多摩軍産複合地帯が昭和10年代を通して形成されていったことが理解されるだろう。

 

 

 

 ここからは、②の中でも現・小平市を中心とした地域の地形的特質について、武蔵野台地上の自然景観の実際の姿を示す事例として、より詳細な検討を加えてみたい(註:1)。

 

 小平市の名称である「小平」は、その母体となった開発新田である「小川村」の「小」と、周辺地域の地形的平坦さを表す「平」の組合せによるものだとされている。

 小平市内には、東西方向に(西側を上流として)「玉川上水」と呼ばれる江戸期に開削された多摩川を水源とする水路(上水道)が流れている。この人工水路の小平市付近での西端と東端の高低差はおよそ20メートルを超えるが(西端の小平市中島町付近で標高約98メートル、東端の小平市御幸町付近で標高約72メートル―ただし電子国土Webを用いての付近地表面のおおよその数値なので誤差含みの話)、その間の距離は約8キロメートルなので1000メートルあたりの標高差が約3メートルとなる。ちなみに、取り入れ口の羽村から終点の四谷までの距離が43キロメートルで標高差が約100メートルとされているから、先の数値がどこまで正確なのかは確言出来ないが、少なくとも小平地域の地形の平坦さについては把握し得るものと思う(小平市内の南北方向の標高差についても同様で、高低差は微小である)。そもそも市内に(丘や山のような)高地は存在しない―この近辺で土地の人から「山」と呼ばれたのは「高地」ではなく、「武蔵野」を象徴する「雑木林」のことであった―が、古い水源の痕跡は存在し、周囲より土地が少し低いことでかつての流路も想定可能である(平坦な台地の地形の中に、より高い土地―「小高い」という語が相当する土地―はないが、より低く位置する土地がないわけではない)。

 

 そのほぼ平坦な地形上(武蔵野台地の自然景観上)に、傷痍軍人武蔵療養所、陸軍技術研究所、陸軍経理学校・練兵場、陸軍兵器補給廠小平分廠といった軍事施設が次々に設立・配置されていったわけである。

 

 

 

 最後に「武蔵野」と「多摩」の名称関連の話題を付け加えておくと、武蔵野美術大学は武蔵野市(吉祥寺)が発祥の地であり、多摩美術大学が開校したのは世田谷区上野毛で、どちらも武蔵野台地上の立地であった。

 現在の武蔵野美術大学のキャンパスは、同じ武蔵野台地上の小平市内にあるが、平坦に見える地形の中にも―健常者にはあまり意識されることもないであろうが車椅子の移動では障害として意識されるであろう―高低差があり、そこにかつての水源の存在を想像させられる。

 多摩美術大学は八王子市内にもキャンパスを開設したが、こちらは視覚的にも明らかな高低差の中に建物群が展開され、そこが多摩丘陵地域内の土地であることを(そしてかつての南多摩郡内にいることを)実感させられるはずである。

 

 ちなみに、武蔵野音楽大学は存在するが、多摩音楽大学は存在しない。

 

 

 

【註:1】
 「武蔵野台地」について、基本知識を得ると同時に視覚的にイメージする上で役立つのが「武蔵野台地と野川公園」にある概説と画像である。ぜひ参考にしていただきたい。
 → http://www.geocities.jp/yamanekoforest/noyamaaruki/musasinodaiti.html

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/07/04 19:49 → http://www.freeml.com/bl/316274/307967/

 

 

 

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2017年6月29日 (木)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)

 

 昭和10年代の多摩(武蔵野)地域が軍産複合地帯化していたことについて、前回は星野朗氏の論考により、地域内の工場群の様相―地域内に軍需工場が集中している実態―についての概観を得るところまで進んだ(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)」)。すなわち「軍産複合」の中での「産」の展開状況である。星野氏は、地域を4つのグループにわけ、

 

  ① 武蔵野・三鷹・田無・保谷を中心に、中島飛行機株式会社を核に、航空機用発動機を組立生産した地域、また横河電機や日本無線など電気や通信機器の組立生産を主とした地域で、部品・下請企業は近隣地域から大森・蒲田・品川など遠く京浜地域にひろがる。
  ② 小平・国分寺・小金井・調布・狛江にわたる地域で、①の地域の南と西に隣接する地域。①あるいは他と重なりあうが、東京重機工業や中央工業南部銃製作所など造兵廠と結ぶほか、多くの民間企業が多様な兵器を生産した地域。軍事施設も多い地域。
  ③ 立川・大和・昭和・拝島を中心に、立川の陸軍飛行場と航空廠を中心に、陸軍用航空機組立の立川飛行機株式会社と発動機生産の日立航空機株式会社を中心とする地域と、海軍機用航空機組立の昭和飛行機株式会社との二つの航空機生産地域がある地域。
  ④ 府中・日野・町田・稲城など多摩川に沿い、また多摩丘陵にかかる地域で、軍用車輛・戦車・砲弾や火薬などが目立つ製品となり、日本製鋼・東京芝浦電機・日野自動車など民間企業が板橋や相模など陸軍造兵廠とかかわりをもち生産を続けた地域。
     星野朗 「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学』 第105号 1998 122~124ページ

 

このように、「4つの地域間には境界線を引くことは困難で、区分は考察への一つの目安である」との留保を付けた上で、各地域の特徴を明らかにしている。

 

 

 今回は、軍産複合地域を成立させる上でもう一つの重要な要素となる、軍事施設(軍の飛行場、工廠、補給廠、研究施設、教育施設、軍病院等)が実際にどのように地域内に配置されていたのかについて、すなわち「軍産複合」の中での「軍」の展開状況について、星野論文の付表等を参考としながら確かめておきたい。

 

 

 まず、①の武蔵野・三鷹・田無・保谷地域について言えば、「中島飛行機株式会社を核に、航空機用発動機を組立生産した地域、また横河電機や日本無線など電気や通信機器の組立生産を主とした地域」と要約されている通りで、軍の施設としては、田無・保谷(現在の西東京市)に陸軍兵器本廠田無教育隊が設置(1938年)されたのが目につくくらいである。

 

 次に、②の小平・国分寺・小金井・調布・狛江地域についてだが、「軍事施設も多い地域」とある通りで、年代別に整理すると、

 

 1938(昭和13)年

  調布飛行場用地買収開始(調布)

 1940(昭和15)年

  傷痍軍人武蔵療養所(小平)

  陸軍少年通信兵学校(東村山)

 1941(昭和16)年

  陸軍技術研究所(小平・小金井)

  調布飛行場竣工(調布)

 1942(昭和17)年

  陸軍経理学校・練兵場(小平)

  陸軍技術研究所(小平・小金井)

  陸軍兵器補給廠小平分廠(小平)

 

このように、現在の小平市内に特に各種の軍事施設が集中している状況が明らかになる。ちなみに、地域内の軍需産業としては、国分寺の中央工業南部銃製作所、調布の東京重機工業が共に銃砲の生産を担っていた。

 

 続いて、③の立川・大和・昭和・拝島地域だが、まず中心となるのは「立川の陸軍飛行場と航空廠」といった軍事施設であり、それらの立地の上に「陸軍用航空機組立の立川飛行機株式会社と発動機生産の日立航空機株式会社を中心とする地域と、海軍機用航空機組立の昭和飛行機株式会社との二つの航空機生産地域」となっている。軍事施設について、こちらも年代別に整理しておくと、

 

 1922(大正11)年

  立川飛行場完成―当初は陸軍と民間の共用飛行場(立川)

 1928(昭和3)年

  陸軍航空本部技術部(所沢より立川に移転)

 1933(昭和8)年

  陸軍航空本部補給部(所沢より立川に移転)

 1935(昭和10)年

  陸軍航空本部技術部は航空技術研究所へ改組

  陸軍航空本部補給部は航空廠へ改組

 1938(昭和13)年

  陸軍航空輸送部立川支部(立川)

  陸軍気象部立川観測所(立川)

 1939(昭和14)年

  陸軍航空技術学校(所沢より立川に移転)

 1940(昭和15)年

  陸軍航空工廠(昭島)

  陸軍多摩飛行場開設(福生)

  陸軍航空審査部(福生)

 1941(昭和16)年

  陸軍資材本廠(立川)

  立川飛行場拡張(砂川)

  陸軍多摩飛行場少年飛行兵学校(福生)

 

小平の軍事施設が多様であるのに比べ、航空関係の軍事施設が圧倒的に多く、その周囲を航空機生産各社の工場が取り巻いていることがわかる。

 

 最後に、④の府中・日野・町田・稲城など多摩川に沿い、また多摩丘陵にかかる地域だが、こちらも軍事施設について年代別に整理しておくと、

 

 1937(昭和12)年

  陸軍燃料廠(府中)

 1938(昭和13)年

  陸軍火工廠(稲城)

  陸軍兵器学校(相模原)

  東京工廠相模兵器製作所(相模原)

 1939(昭和14)年

  陸軍火工廠が造兵廠多摩火薬製造所に

  陸軍第九技術研究所(登戸)

 1940(昭和15)年

  東京工廠相模兵器製作所が相模陸軍造兵廠に

 1943(昭和18)年

  通称「戦車道路」開通(町田)

  多摩火薬製造所拡張

 

地域内で「軍用車輛・戦車・砲弾や火薬などが目立つ製品」となっているのは、これらの軍事施設(「軍」)と軍需工場(「産」)が連動しての話と言えよう。

 ①の武蔵野・三鷹・田無・保谷地域、②の小平・国分寺・小金井・調布・狛江地域及び③の立川・大和・昭和・拝島地域が、武蔵野台地上の平坦な地形を特徴とするのに対し、④の府中・日野・町田・稲城(特に日野・町田・相模原)は多摩丘陵にかかる地域であり、必ずしも平坦な地形ではないが、人家が少ない丘陵地は秘密保持(日野の小西六写真工業)の必要や危険な火薬の製造・貯蔵(陸軍火工廠・造兵廠多摩火薬製造所)にはむしろ適地でもあった。「軍」と「産」の「立地」の問題として整理すれば、武蔵野台地の平坦な地形はもちろんのこと、多摩の丘陵地の地形的特徴も積極的に利用され、それぞれに様々な軍需品生産拠点選定に際しての自然的基盤となっていたことになる。

 

 

 

 このように整理してみることで、昭和10年代の多摩地域が、陸軍の飛行場、陸海軍の航空機製造拠点、戦車・軍用車輛等の陸上兵器製造拠点、両者に関係する通信機製造拠点及び銃器製造拠点、燃料貯蔵・供給施設と火薬製造・貯蔵拠点、そして各種軍事教育機関、研究機関、傷痍軍人病院といった軍事施設群(すなわち「軍」の施設である)及び軍需工場群(すなわち「産」の施設である)によって構成された、まさに軍産複合地帯と呼ばれるにふさわしい地域であったことが再確認されるであろう。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/06/29 18:47 → http://www.freeml.com/bl/316274/307652/

 

 

 

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2017年6月28日 (水)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)

 

 B-29による日本本土空襲について語られる際に、まずイメージされるのは昭和20(1945)年3月10日の「東京大空襲」とそれに続く名古屋(3月12日)、大阪(3月13日)、神戸(3月17日)等の都市(人口密集地)への焼夷弾を用いた無差別爆撃ではないかと思う。

 しかし、時系列で見れば、米軍にとっての日本本土の爆撃目標が当初から都市(人口密集地)であったわけではないし、焼夷弾を用いたものでもなかった。

 

 

 B-29による東京への空襲は、昭和19年11月24日から始まる(出撃機数111機)が、その際の爆撃目標(第一目標)は東京郊外・武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所の工場群であった(すなわち、第一に爆撃の標的とされたのは日本の航空機生産能力であった―名古屋でも、航空機用エンジン生産拠点の一つであった三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場が初期の空襲の目標となっている)。同工場を目標とした作戦は、11月27日(81機)、12月3日(86機)、12月27日(72機)、翌昭和20年1月9日(72機)、1月27日(76機)、2月19日(150機)、3月4日(192機)、4月2日(122機)、4月7日(107機)、4月12日(114機)と繰り返され(註:1)、最終的に壊滅する。もっとも、工場上空の天候(厚い雲)に阻まれ(註:2)、結果的に第二目標として設定されていた東京の都市部への投弾となっているケースも多い(註:3)(本土空襲=都市爆撃というイメージはここからも生まれるだろう)。

 ターボチャージャー付きエンジンを搭載し、与圧キャビンを備えたB-29の高高度性能に加え、ノルデン照準器による高高度からの精密爆撃能力からすれば、中島飛行機武蔵工場への精密爆撃の実行は現実的であるはずだったが、高高度でのジェット気流と悪天候はノルデン照準器の能力を無効化(高高度を飛行する機体と目標である地上の間にひろがる雲は、高性能であるはずの照準器による地上視認を不可能にする)し、期待したほどの戦果に結びつかなかったのである。作戦の中心は、軍事目標に対する高高度からの通常爆弾による昼間精密爆撃(「軍事目標主義」と呼ばれる)から、大量の焼夷弾を用いた低空からの夜間都市無差別爆撃へと移行し、多数の市民(非戦闘員)が爆撃の犠牲となるに至った(戦闘地域からは後方であるはずの都市住民に対する無差別爆撃は、理論的には「人命節約効果」が期待されるものとして正当化されてもいた―「無差別爆撃の論理 1」、「無差別爆撃の論理 2」参照)。

 

 

 東京の郊外に当る多摩(武蔵野)地域は、特に昭和10年代以降、多くの軍需工場、陸軍飛行場や補給廠といった軍事施設、軍関連の研究所の集中する、いわば軍産複合地域となっており、中島飛行機武蔵工場への爆撃もその状況を反映したものと言えるだろう(註:4)。

 多摩地域に対する空襲についても、その背景となった軍産複合地域化にしても、専門的な研究者にとっては周知の歴史的・地誌的事実なのかも知れないが、私自身も含め、現在の多摩地域の住民には知られることもなく、そもそもあまり意識されることもない話題のように感じられる。

 

 

  この多摩地域の工業化について、各市・町の市史・町史・市誌をみると、各市・町ともほとんど共通して、工業化は昭和時代・昭和10年代など昭和に入っていからの区部の方から進出してくる軍需工場によってであり、それはまた農村を急速に近代化させたと記している。たとえば国分寺市史では、「昭和の初めから多摩地方は突然に工業化をした。それもかつての紡織産業ではなくて機械器具工業を中心とした軍事産業主導の重工業化をした……北多摩一世紀の歴史のなかで、戦前、重工業化による地域社会の変貌という、郊外化とは異なった局面のあったこと」と記している。
  これらによれば、この地域が激変するのは昭和初期に当る1930年代であり、東京地域の工業の中心地域である京浜地域の特に城南の低地帯から、工場規模の拡大のために地価の安い広い土地を求めて、また農村の潜在労働力を求めて移動してきた機械工業を中心とする近代工業によってであった。しかもその機械工業の内容は、1930(昭和5)年から続く15年戦争といわれる軍備拡張の時代を反映した軍需工場であった。この軍需品の製造は機械工業として組立工業であり、そのため主力工場とともに多数の関連する下請工業をともない、従業員をひきつれて多摩地区に移動してきた。
     星野朗 「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学』 第105号 1998 120ページ)

 

 この星野氏の論文では、続いてこれらの工場の立地条件として、

 

  多摩地域の工業化について、先行研究の一つ、石井雄三郎は、三多摩における近代工業の起因は、中央線による交通指向であり、駅を中心に徒歩15分以内に飛行機製作所などの設立があり、昭和10年代以後は各街道沿いと中央線の支線にそって、京浜からの群立となったとし、これを列状展開と表現している。また奥田義雄は、京浜工業地帯の外延的拡大は、臨海部沿岸線および内陸部主要交通線に沿って放射状に展開され、交通条件に強く制約されている。その他用地取得条件の難易も作用したとある。このほか周辺地域への工業移動は環状に拡大とみたり、内部の業種構成の変化から波動的とみる観点もある。

 

これらの考察を紹介(同ページ)しているが、そこには中心となる武蔵野台地の平坦な地形(広大な工場用地、軍事施設への転用に有利)があり、鉄道輸送網として東西方向を結ぶ中央線と、それに並行する(現在の名称で言えば)京王、小田急、西武の各線があり、南北方向にも複数の路線があることに加え、旧来の街道が存在することで地域外及び地域内相互間の陸上輸送の便もよく、しかも「陸海軍の中枢管理機能の集中する東京霞ヶ関等」とのアクセスもよかった。

 

 

 

 では具体的に、どのような軍需関連工場が存在したのか?

 

 

  こうして成立した多摩地域の軍需工業の最終製品の特徴は次の3点に要約できる。
  第一に、航空機と航空機用発動機で、関連する航空計器や通信機器などとそのための中間完成品、および部品である。陸軍と海軍の需要に応じていた。
  第二に、中型戦車と軍用車輛、小銃・機関銃・機関砲・高射砲などで、火薬の生産を含め陸軍造兵廠の注文・指導・監督のもとに行れていた。主として陸軍の需要に応じた。
  第三に、通信機器のほか、測距儀や軍用時計から風船爆弾、落下傘など多種類の直接の兵器やそのための工具や計測器など多様な形での軍需品である。陸・海軍双方の需要に応じた。
  次に、これらの工場群を、工場所在地、製造品の種目、中心の企業・資本・軍、製造開始の時期などを考慮して、およそ4つのグループにわけてみた。
  ① 武蔵野・三鷹・田無・保谷を中心に、中島飛行機株式会社を核に、航空機用発動機を組立生産した地域、また横河電機や日本無線など電気や通信機器の組立生産を主とした地域で、部品・下請企業は近隣地域から大森・蒲田・品川など遠く京浜地域にひろがる。
  ② 小平・国分寺・小金井・調布・狛江にわたる地域で、①の地域の南と西に隣接する地域。①あるいは他と重なりあうが、東京重機工業や中央工業南部銃製作所など造兵廠と結ぶほか、多くの民間企業が多様な兵器を生産した地域。軍事施設も多い地域。
  ③ 立川・大和・昭和・拝島を中心に、立川の陸軍飛行場と航空廠を中心に、陸軍用航空機組立の立川飛行機株式会社と発動機生産の日立航空機株式会社を中心とする地域と、海軍機用航空機組立の昭和飛行機株式会社との二つの航空機生産地域がある地域。
  ④ 府中・日野・町田・稲城など多摩川に沿い、また多摩丘陵にかかる地域で、軍用車輛・戦車・砲弾や火薬などが目立つ製品となり、日本製鋼・東京芝浦電機・日野自動車など民間企業が板橋や相模など陸軍造兵廠とかかわりをもち生産を続けた地域。
  これら軍需工場は組立産業として多くの部品生産企業を擁し、4地域のそれぞれの中で完結することなく、とくに進出企業の出身の京浜工業地帯との結びつきは強い。また下請関係は複数企業にわたり変動もある。したがって4つの地域間には境界線を引くことは困難で、区分は考察への一つの目安である。
     星野 前掲論文 122~124ページ

 

 

 

     (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)」に続く)

 

 

 

【註:1】
 用いたのは、齊藤勉 「多摩の空襲」(『多摩のあゆみ』 第119号 2005 8~9ページ 表2)のデータだが、鈴木芳行 『首都防空網と〈空都〉多摩』(吉川弘文館 2012 145~146ページ 表11)では、作戦の日付と出撃機数は以下のようになっており、多少の異同がある。

 11月24日(111機)、11月27日(81機)、12月3日(86機)、12月27日(72機)、1月9日(72機)、1月27日(62機)、2月19日(152機)、3月4日(194機)、4月1日(124機)、4月7日(111機)、4月12日(119機)

【註:2】
  しかし、アメリカ軍の戦果調べによると武蔵製作所が壊滅状態となるのは、二十年の四月七日と十二日の両爆撃によってであって、それ以前の戦果はいずれも「貧弱」「失敗」「不明」などであった。戦果の上がらない理由は、「雲量大」「強風」などのためであり、冬場に関東地方をしばしば襲う荒天が、B29の八〇〇〇㍍以上の高高度から投下する爆弾などの命中率を下げていたことにあった。
     鈴木芳行 (前掲書 144ページ)

【註:3】
 最初の作戦である11月24日の空襲からしてそのようであった。

  公開された650枚超の写真群は、昭和19(1944)年11月24日に撮影された荏原の空襲後の情景から始まる。
  まさにその11月24日から、B-29による東京への空襲が開始されたわけだが、作戦上は市街地が目標とされていたわけではなく、中島飛行機武蔵野工場が本来の爆撃目標であった。ノルデン照準器を用いた高高度精密爆撃による軍需産業の破壊を目的としていたにもかかわらず、工場上空の天候不良(ノルデン照準器がその高性能を発揮しない)のために工場への投弾を果たせなかった機により、航路上の東京市街が投弾地点とされ、それがたまたま荏原区であったということのようである(つまり荏原は本来の爆撃目標であったわけではない)。
  それが初のB-29による東京空襲の背景であったが、以後、同様な経緯での東京の市街地への高高度爆撃が続き、翌年3月10日には低高度からの侵入による市街地無差別爆撃(いわゆる「東京大空襲」である)へと転換され、米軍戦略爆撃機による都市無差別爆撃の手法が確立されるに至る。
  東方社写真部撮影による昭和19年11月24日の空襲の写真は、まさにその最初の空襲による被害の視覚的記録なのである。
     (「
プロパガンダと記録(東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃)」参照)

【註:4】
 B-29による多摩地区の軍需関連施設への空襲としては、4月4日に立川飛行機(113機)、4月24日に日立航空機立川発動機製作所(131機)、4月30日に立川陸軍航空工廠(106機)、5月19日に立川陸軍航空工廠(309機)、6月10日には中島飛行機武蔵製作所と日立航空機立川発動機製作所(124機)、同日に立川陸軍航空工廠(34機)、7月29日に中島飛行機武蔵製作所(1機によるもので原爆の1万ポンド模擬爆弾を投下)、8月8日に中島飛行機武蔵製作所(69機)がある。他にも、気象偵察機による投弾、艦載機(小型機)による空襲が記録されている。
    齊藤勉 「多摩の空襲」(前掲)及び「多摩上空のB29」(『多摩のあゆみ』 第141号 2015)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/06/28 15:06 → http://www.freeml.com/bl/316274/307574/

 

 

 

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