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2013年10月 9日 (水)

検索の道(4) 竹内徳治、味の素、そして駐日ローマ法王庁

 

 昭和19年7月31日付の小暮泰用による「復命書」の提出先であった内務省管理局長竹内徳治に関するネット検索結果の続きである。

 

 

 竹内徳治の結婚相手は、あの「味の素」(当時鈴木商店)の二代目社長(初代社長の弟)であった鈴木忠治の長女千栄子と判明。

 検索で見つかったのは、鈴木忠治の子供たちに関する、

 

長男三千代東京商大卒(現一橋大学)元三楽オーシャン会長
次男松雄東大工学部卒、元東工大教授、多摩電気社長、相談役
三男竹雄東大法学部卒、元東大教授、元法学部長、商法の権威
四男義雄東大法学部卒、商工省鉱山局課長、軍需省軽金属課長
           貿易庁輸出局課長、通産省重工業局長
           日本輸出入銀行理事、元日揮社長
五男治雄東大法学部卒、野村証券、元昭和電工社長、会長
六男正雄東大卒学部不明、元三菱重工副社長、元三菱自販社長
七男秀雄東大法学部卒、大蔵省、在NY領事、財務調査官、
           国際金融局長、世界銀行IMF理事、
           大蔵省顧問、野村證券顧問を歴任
八男泰男東大経済学部卒、次男と多摩電気工業を設立、社長を歴任
長女千栄子は竹内徳治と結婚、竹内は内務省管理局長、香川県知事を歴任
http://taizo3.net/hietaro/2010/04/post-274.php

 

…という情報。大日本帝國を支えた錚々たるエリート家族の姿を見る思いがするが、若き日の竹内徳治には、理想に燃えたエスペランティストとしての側面もあったようである(もっとも、現時点では、以下の記述に登場する竹内徳治が、後の内務省管理局長と同名の別人である可能性も残されているが)。
 (その後、執筆者である東北大学の後藤斉氏からメールをいただき、同一人物であることが判明した:追記を参照)

 

 また、1921年東北宣伝隊に加わり(ほかに東大生の川原次吉郎、竹内徳治、堀真道、長谷川理衛、東京商大生の進藤静太郎)、武藤於菟(むとうおと. 1876~1942)が受け入れた仙台では、7月21日に二高を会場として「普及大講演会」を行った。翌1922年にも、5月28日、フィンランド公使ラムステット(1873~1959)、小坂狷二(おさかけんじ. 1888~1969. のち日本エスペラント学会会長)、何盛三(がもりぞう. 1884~1948))らとともに講師になって、東北大エスペラント会の主催により二高講堂で「大講演会」を行っている。
      (東北人井上万寿蔵)
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/historio/masuzoo.html

 

 

 竹内徳治の香川県知事就任は、まだ戦後間もない知事官選時代のことで、

 

1946 (昭和21年)
 1・25 知事田中省吾が依願免官となり,代って東北興業株式会社副総裁の竹内徳治が第36代知事に任官(歴代香川県知事調)
 6・8 知事竹内徳治が依願免官し,代って警視庁警務部長増原恵吉が第37代知事に任官(歴代香川県知事調)
『香川県史 別編Ⅱ』
http://www.library.pref.kagawa.jp/kgwlib_doc/local/local_2033-22.html

 

…という経緯であった。『香川県史』により、香川県知事就任までは、竹内が東北興業株式会社副総裁の地位にあったことも判明。

 

 

 また、内務省管理局長就任までの経歴についても、

 

企画院人第一〇〇一号 昭和十六年八月二十三日 企画院総裁鈴木貞一 内閣総理大臣公爵近衞文麿殿 企画院部長竹内徳治儀本月二十日拓務省殖産局長ニ任ゼラレ候処同人ハ去ル昭和九年十二月対満事務局事務官ニ任ゼラレ、同十五年七月ニハ本院部長ニ任ゼラレ転任迄勤続六年九ケ月ニ及ブ此ノ間事務格別勉励ニ付此ノ際特ニ左記頭書ノ金額ヲ賞賜相成度此段及上申候 記 金千百円 元企画院部長竹内徳治
(アジア歴史資料センタ― A04018595600)

 

…という検索の成果で、

 

 昭和9年12月 対満事務局事務官
 昭和15年7月 企画院部長
 昭和16年8月 拓務省殖産局長
 昭和17年11月 内務省管理局長(→大阪朝日新聞 1942.11.2記事 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10105829&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

 

…との流れまでがつかめた。

 

 

 対満事務局事務官就任の昭和9年には、竹内徳治の自宅も完成している。

 ネット検索の結果、竹内の自宅は義父の味の素社長鈴木忠治邸の敷地内に建設されたもの(設計図面では「鈴木忠治邸第2号舎」と呼ばれる)であり、鈴木忠治邸の築造と同時に、しかも鈴木忠治の三男の竹雄邸(設計図面では「鈴木忠治邸第1号舎」と呼ばれる)と共に設計施工された(昭和7年から昭和9年にかけての図面が残されている)ことが、東京都立中央図書館の「木子文庫」資料(解説には、「代々内裏の作事に関わる大工であった木子家伝来の建築関係資料です。1975年に木子清忠氏(1913-1995)から寄贈されました。明治宮殿及び明治期洋風建築の図面類が最も多く、江戸中期以降の近畿地方の寺社、御所等の建築図面、工匠他家の資料も含まれています」とある)から明らかになった。
http://www.library.metro.tokyo.jp/edo_tokyo/tokubun_guide/kigo_html/tabid/930/Default.aspx
http://www.library.metro.tokyo.jp/edo_tokyo/tokubun_guide/kigo_html/tabid/931/Default.aspx

 

 「木子文庫」資料の図面には「三番町鈴木邸詳細」といったタイトルが付されているが、現在の千代田区三番町には(少なくとも)鈴木忠治邸として築造された洋館は現存し、駐日ローマ法王庁大使館として使用されているようである。

 建築愛好家のサイトに掲載されている現状写真も見ることが出来る。

 

◆旧鈴木忠治邸(現・駐日ローマ法王庁) 
  ◎設計:木子幸三郎
  ◎竣工:昭和9(1934)年
  ◎所在地:東京都千代田区三番町9
現在ローマ法王庁として使われているこの建物、もとは味の素の創業者の一人・鈴木忠治の邸宅として建てられた。この写真は正門から撮影したものだが、法王庁の敷地はかなり広く他にもこの当時建てられた施設が多くあると思われる。
http://fkaidofudo.exblog.jp/7218933/

 

 この敷地内の一角に、後に内務省管理局長、香川県知事となる竹内徳治も暮らしていたわけである。

 

 

 

〔追記〕
 後藤氏からのメールによれば、柴田巌・後藤斉編、峰芳隆監修『日本エスペラント運動人名事典』(ひつじ書房 2013)の「竹内徳治」の項の記述は以下のようになっているという。

 竹内徳治/たけうち とくじ/1899.11.1~1991.5.10/群馬/前橋中(1917),一高(1920),東大(1923)/味の素社長鈴木忠治(1875~1950)の娘婿。鈴木松雄の義弟。大蔵省主計局をへて,対満事務局事務官,内務省管理局長など。その間の24年英国赴任。戦後,46年1~6月官選の香川県知事。のち日本長期信用銀行監査役,多摩電気工業取締役など。井上万寿蔵,長谷川理衛と一高独法科の同期。20年5月日本エスペラント学会に入り,21年委員。21年井上,長谷川,川原次吉郎,堀真道らと東北信州E宣伝隊に参加し,信濃尻学生キャンプで舟橋諄一とエスペラント講習。/[著]『満支貿易の現状並に将来』(日満実業協会, 1935)。/[参]『日本エスペラント運動史料 Ⅰ』。/[協]香川県立図書館。

 これもまたネットの力ということになるだろうか? 私には未知の方がブログ記事に目をとめ、メールという形で情報を提供して下さったのである。
 後藤氏には、あらためて御礼を申し上げると共に、昨年の10月にメールをいただいていたのにもかかわらず、記事に反映させるまでに時間を要してしまったことを、まず、お詫びしなければならない。

 この『日本エスペラント運動人名事典』の簡潔な記載内容は、同時にネットの限界をも明らかにしているようにも思われる。当ブログ記事本文執筆時のネット検索で明らかにすることが出来なかったのが、竹内徳治の生没年であった。そのような基本情報が、ネット上には存在しなかったのである(補注参照)。

 一方で、ネット検索で見つけた塚崎昌之氏による「アジア太平洋戦争下の大阪府協和会・興生会の活動と朝鮮人」(『東アジア研究』 第54号 大阪経済法科大学 2010 19-46ページ http://www.keiho-u.ac.jp/research/asia/bulletin/pdf/asia_54.pdf)には、昭和19(1944)年12月に閣議決定された「朝鮮及台湾同胞ニ対スル処遇改善ニ関スル件」に先立つ時期に、内務省管理局長として、大阪の朝鮮人組織の代表による処遇改善要望の窓口となっていた竹内徳治の姿が見出される。小暮泰用による「復命書」と同年の竹内は、朝鮮人の処遇改善という政策課題を遂行する立場にあったことになる。竹内に対し、朝鮮人組織の代表者は、かなり直載に問題を指摘し、要望を伝えているように見える。
 小暮泰用の「復命書」の内容といい、在日朝鮮人組織代表との関係のあり方といい、そこに若き日のエスぺランティストとしての(理想主義者としての)竹内徳治の面影を見出すことが出来るのかも知れない。
 もっとも、アイヒマンとユダヤ人組織代表の関係にもまた、そのような側面があったことを、私などは思い出してしまう。アイヒマンもユダヤ人組織代表を丁重に扱っていたのである。有能な行政官の類型の問題として、両者を考えることも視野に入れておく必要はあるだろう。しかし、もちろん、竹内徳治がアイヒマンと同様であったという話ではない。何らかの結論を得られる段階にはないのである。
 現在のところは、かつてのエスぺランティスト(理想主義者)としての竹内徳治という構図を再確認することで満足しておくべきであろう。
     (2014年1月3日記)

 

 

【補注:2014年1月28日記】
 その後、後藤氏からあらためて、

 なお、現在ではwikipediaに竹内徳治の項目ができています。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E5%BE%B3%E6%B2%BB
 履歴によれば、 この項は2013年11月27日に作られたとのこと。
 参考文献も挙げられています。ただし、官僚としての経歴が主で、
 味の素社長鈴木忠治の娘婿やエスペランティストとしての側面については
 記述がないようです。

…とのメールをいただいた。これで、竹内徳治の「生没年」については、ネット上でもアクセス可能な情報のひとつとなったわけである。
 ちなみに、『ウィキペディア』の「竹内徳治」の項の記載内容は以下の通り(2014年1月10日閲覧―同年1月28日に再確認したが変化はなし)。

竹内徳治
竹内 徳治(たけうち とくじ、1899年(明治32年)11月1日[1] - 1991年(平成3年)5月10日[2])は、日本の大蔵官僚。官選香川県知事。
経歴
 群馬県前橋市出身。竹内清次郎の三男として生まれる[1]。第一高等学校を卒業。1922年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。大蔵省に入省し主計局属となる[1][3]。
 以後、財務書記(英仏駐在)、司税官、主計官を歴任。1935年、対満事務局経済課長に就任。さらに、企画院第五部長、拓務省殖産局長、内務省管理局長、東北興業副総裁を務める[1]。
 1946年1月、香川県知事に就任し四国地方行政事務局長官を兼務した。県下の治安維持に尽力。同年6月に知事を辞任。公職追放となった[1][3]。
 その後、三光汽船 (株) 監査役、同顧問、日本長期信用銀行監査役などを務めた[1][2]。
脚注
 1.^ a b c d e f 『新編日本の歴代知事』907頁。
 2.^ a b 『現代物故者事典 1991-1993』360頁。
 3.^ a b 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』237頁。
参考文献
 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
 『現代物故者事典 1991-1993』日外アソシエーツ、1994年。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/09/18 22:48 → http://www.freeml.com/bl/316274/207778/

 

 

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2013年10月 8日 (火)

検索の道(3) 内務省管理局長竹内徳治

 

 昭和19年7月31日付の、小暮泰用による「復命書」の提出先の内務省管理局長の名が、竹内偲治ではなく竹内徳治であることまでは明確となった( 検索の道(2) 竹内偲治と竹内徳治(小暮泰用の上司の名は?) )。

 そして、当時、竹内が東洋拓殖株式会社の監理官の肩書も保有していたことも判明した。昭和10年には対満事務局事務官であったことからも、竹内が大日本帝國による植民地経営に深く関与した高級官僚と判断した。

 

 さて、そうなると、あらためて、内務省の管理局という部署について知っておく必要を感じる(そういう問題は、恥ずかしながら、私には未知の領域である)。

 で、ネット検索の道を進むと、水野直樹氏が内務省管理局について書いている文章に行き当たる。

 水野氏によれば、

 

 朝鮮や台湾に対する日本の植民地支配の歴史は、研究者のレベルだけでなく、強制連行や従軍慰安婦問題に見られるように社会的にも注目を集めるテーマとなっている。しかし、植民地に対する日本の政策や認識、支配の実態を明らかにするために必要な資料がすべて公開されているわけではない。むしろいまだに非公開のまま眠っている資料の方が多いかもしれない。
 その代表的な例が旧内務省文書である。内務省といえば、警察・土木・地方行政・社会衛生などを担当し、戦前日本の中央官庁の中で最も規模が大きかったが、1943年には「外地行政事務」をも管轄することになった。
 それ以前、植民地の事務を扱う中央官庁としては、1929年に設置された拓務省があった。ところがアジア太平洋戦争期に大東亜省が新設されると、拓務省は廃止され、朝鮮・台湾に関する事務は内務省が管轄することになり、内務省管理局が設けられた。「内政」の中心である内務省が「外地」=植民地の行政事務を扱うというのは、少し不思議な気がするが、大東亜省に朝鮮・台湾の事務を任せるわけにはいかないこと、当時は「外地の内地化」が目標とされていたこと(ただし「外地」という実態には変わりなかったが)から、内務省に植民地行政事務が移管されることになった。
 戦時期のごく短い期間であったが、植民地行政を扱う内務省にそれに関する文書が蓄積されたと考えられる。拓務省とそれ以前の植民地行政官庁の文書も引き継いだはずであるし、戦争末期の植民地に関する文書が内務省で作成されたり、送付されたりしたはずである。内務省文書というと、主に在日朝鮮人の民族運動・社会運動に関わる特高警察の資料を思い浮かべるが、植民地全般に関わる資料が含まれているのである。
 戦後内務省は解体されたが、「旧外地」に関わる事務は内務省管理局から外務省管理局に移管され、在外日本人の引揚げなどを担当した。このような経緯から、外務省は旧内務省管理局の文書を引き継いだ。それらは現在外交史料館にあり、一部が公開されている。「本邦内政関係雑件 植民地関係」と題された6冊のファイルが公開されているが、興味深い文書が数多く含まれている。
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~mizna/naimusho.html

 

…ということなのであった。抜き書きすれば、

  内務省といえば、警察・土木・地方行政・社会衛生などを担当し、戦前日本の中央官庁の中で最も規模が大きかったが、1943年には「外地行政事務」をも管轄することになった。
  それ以前、植民地の事務を扱う中央官庁としては、1929年に設置された拓務省があった。ところがアジア太平洋戦争期に大東亜省が新設されると、拓務省は廃止され、朝鮮・台湾に関する事務は内務省が管轄することになり、内務省管理局が設けられた。

…との経緯が、問題の焦点として明らかになったわけだ。

 

 さて、更にネット検索の道を進むと、神戸大学の電子図書館に、以下のような昭和17年11月2日の『大阪朝日新聞』記事があった。

 

必勝の官界体制確立
 大東亜相に青木一男氏
     各省新陳容一斉に発令

政府は大東亜戦争勃発以来戦争完遂に必要な国内体制強化のためあらゆる部面において着々各般の施策を講じて来たが最後まで取残され国民から久しく要望されて来たところの官界新体制の確立、行政の刷新の懸案も一日行政簡素化、大東亜省設置並に内外地行政一元化勅令の公布施行によりここに結実を見るにいたり戦争必勝の行政機構が完成した、しかして一日午前十時宮中において大東亜大臣の親任式がとり行わせられ国務相青木一男氏が初代大臣に就任し征戦下大東亜建設に邁進すべき重大使命を担当することとなり、また同日大東亜省はじめ各省の新機構による陣容が一斉に発令せられた、かくて青木一男氏の大東亜大臣就任によって東条内閣の陣容はここに整備せられるとともに新機構の発足によって政府の陣頭指揮が強力に運営されることとなった、政府は刷新された新機構の上に立って直ちに対議会策に専念するとともに今後執拗に来るべき米英の反撃を撃砕しつつ長期建設戦を完遂するため当面喫緊の要務たる生産の増強、国民生活の安定確保その他戦争遂行上の重要施策の実行に挺身て行くことと期待される
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10105829&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

 

 東條内閣での大東亜省発足を伝える記事であるが、その続きに、各省の人事を伝えるものがあり、その中に竹内徳治の内務省管理局長任命記事もあった。

 

内務省
 拓務省殖産局長 竹内徳治
任内務省管理局長(二)
 内務書記官 金子辰太郎
命管理局経済課長
命管理局監理課長 同 橋爪恭一
命管理局理財課長 同 中尾荘兵衛
命管理局殖産課長 同 佐藤勝也
命管理局民政課長 同 荒木和成
(竹内徳治のみ写真付きで掲載されている)

 

 拓務省の殖産局長であった竹内徳治は、大東亜省の設置に伴う拓務省の廃止により、拓務省の管轄であった「朝鮮・台湾に関する事務」を内務省管理局の初代局長として取り仕切ることになったわけである。

 

 小暮泰用に朝鮮への出張調査を命じたのは、そのような人物なのであった。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/09/14 23:22 → http://www.freeml.com/bl/316274/207625/

 

 

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2013年10月 7日 (月)

検索の道(2) 竹内偲治と竹内徳治(小暮泰用の上司の名は?)

 

 「朝鮮人強制連行問題の基本構図」の「註」を充実させておこうと思い、1944年の小倉泰用による「復命書」について、当初は、

 

【註:3】
小暮泰用による「復命書」 内務省 1944年7月31日
アジア歴史資料センター B02031286700

 

…と、史料へのアクセス先のみを記したものだったのを、最終的に、

 

 【註:3】
小暮泰用による「復命書」 内務省 1944年7月31日
アジア歴史資料センター B02031286700

参考のために、文書の冒頭部と目次を掲げておく。

   復命書
        嘱託 小暮泰用

依命小職最近ノ朝鮮民情動向竝邑面行政ノ状況調査ノ為朝鮮ヘ出張シタル處調査状況別紙添付ノ通ニ有之右及復命候也
     昭和十九年七月三十一日

   管理局長 竹内徳治

     目次
一、 戦時下朝鮮ニ於ケル民心ノ趨勢
     殊ニ知識階級ノ動向ニ関スル忌憚ナキ意見
二、 都市及農村ニ於ケル食糧事情
三、 今次在勤文官加俸令改正ノ官界並ニ民間ニ及シタル影響
四、 第一線行政の実状
     殊ニ府、邑、面ニ於ケル行政浸透ノ現状如何
五、 私立専門学校等整備ノ知識階級ニ及シタル影響
六、 内地移住労務者送出家庭ノ実情
七、 朝鮮内ニ於ケル労務規制ノ状況並ニ学校報国隊ノ活動状況如何
               以上

 小暮泰用は内務省の嘱託として、大日本帝國による朝鮮の植民地化、朝鮮人への皇民化政策を肯定していることが、文書の全体を読むことで理解出来る。「復命書」で植民地主義批判をしているわけではない。
 戦時期の朝鮮人の動向としては、基本的に日本への戦争協力姿勢を明確化しつつあるものとして、肯定的に評価している。ただし、植民地統治上、戦争遂行上の障害となる可能性のある問題のひとつとして、労務動員の実態を報告しているのである。
 「復命書」の提出先である竹内徳治は、昭和19年当時、内務省管理局長であると同時に、朝鮮の植民地化のための国策会社であった東洋拓殖株式会社の監理官の肩書も保有しており、大日本帝國の植民地経営に深く関与していた(対満事務局勤務の経歴もあり、昭和15年には企画院部長として叙勲(勲等進叙ノ儀)対象となり翌年には「満洲國皇帝陛下ヨリ肇國鴻業ニ關シ功勞アリタル廉ニ依リ御紋章附銀杯一組贈與相成候」ような)高級官僚である。

 

…という内容へと、大幅に加筆した。

 「文書の冒頭部と目次」に関しては、アジア歴史資料センターにアクセスし、「復命書」の画像から書き起こしたものだ(旧字体の漢字表記については不完全であるが)。

 その上で、文書全体の内容について、植民地主義批判を目的として書かれたものではなく、あくまでも大日本帝國内務省サイドの植民地統治者の視線により書かれたものであることを説明しておくことにした。

 さて、文書の冒頭の書き起こしに最初のハードルがあった。管理局長の名が判然としないのである。「竹内〇治」という状態。私は「徳」であると判断したが、あらためてネット上の関連記事を検索すると、竹内偲治となっているものと、竹内徳治となっているものがある。

 実際問題としては、画像を一見した限りでは、「徳」であるより「偲」に見えるのである。

 この文書は、水野直樹編『戦時期植民地統治資料』第7巻 (柏書房 1998)に収録されており、そこからの引用としてネットにアップされているものに「偲治」表記が採用されているようである。

 一方、外村大氏による論考では、「徳治」が採用されていた。

 

 で、あらためてアジア歴史資料センターにアクセスし、画像の名前の部分を拡大してみることにした。ところが、拡大しても、問題の一字だけが鮮明とは言い難い(それでも「偲」よりは「徳」らしく思えるようになったのだが)。

 

 で、次の策を考え、あらためてアジア歴史資料センターの検索機能を利用し、「竹内徳治」で文書の検索をかけてみた。

 すると多くの文書がヒットする。内容を確認すると、昭和10年代のもので、「対満事務局事務官」だの「企画院部長」だのの肩書のあるものが続き、問題の昭和19年のものに、確かに「内務省管理局長 竹内徳治」となっている複数の文書を発見。これで一件落着である。

 

 加えて、昭和19年のものに、内務省管理局長の肩書に加えて東洋拓殖株式会社監理官が併記されている文書(東洋拓殖株式会社の朝鮮半島の支店長人事に関するもの)まで見つかり、竹内徳治という人物の具体像も、当初に比べれば格段に明確になったわけである。

 で、小暮泰用も、そんな竹内の社会的位置付けを知った上で、竹内の命により朝鮮半島に出張し、「朝鮮民情動向竝邑面行政ノ状況」を調査し、竹内の意に添うべく「復命書」の文章を考えたに違いない。

 

 

 続きの記事(「検索の道(3) 内務省管理局長竹内徳治」及び「検索の道(4) 竹内徳治、味の素、そして駐日ローマ法王庁」)でも明らかにしたように、ネット上には、実はこれだけの情報がアクセスされるを待っているのである。ネット情報を吟味することなく安易に「拡散」に励む人々にも、このような情報発掘の楽しさを一度は味わって欲しいとは思うのだが(無理な望み、望んでも無駄な話であろうか?)。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/09/13 21:49 → http://www.freeml.com/bl/316274/207590/

 

 

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2013年9月24日 (火)

検索の道(1) モンテネグロと日本が国際法上100年間戦争状態だった…?

 ネット検索を適切に行うことで、「平成十八年二月十四日提出 質問第六九号 一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問主意書」の存在を知ることが出来る(衆議院での質問主意書の提出者は鈴木宗男氏である)。

 鈴木氏は質問主意書の第二項で、

 二 一九〇四年にモンテネグロ王国が日本に対して宣戦を布告したという事実はあるか。ポーツマス講和会議にモンテネグロ王国の代表は招かれたか。日本とモンテネグロ王国の戦争状態はどのような手続きをとって終了したか。
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a164069.htm

…と、日本政府に質問している。

 この質問は、個人的に、興味深いものだ…と言うより、その問題に対する個人的興味が、ネット検索を私にさせるに至ったのである。

 まず、ネット上で拾った(というか送りつけられた)以下の文章を読んでいただきたい。

  ネタ本にはその他にも、モンテネグロ(元はチェコスロバキアのバルト三国)と日本が国際法上100年間戦争状態だったとか面白いことが書かれています。
     (送信日時 2010/07/19 12:16)

 「モンテネグロ(元はチェコスロバキアのバルト三国)」という部分を読んだだけで、この一文の主がモンテネグロに関する基礎知識を欠いた人物であることが明らかとなるだろう。

 モンテネグロに関する基礎知識どころの問題ではなく、ここでは、90年代の国際情勢に関する基礎知識の欠如までが明らかになってしまっているのである。1989年のベルリンの壁崩壊に始まりソ連邦崩壊に至る過程と、その結果としての「冷戦終結」がもたらした国際社会の劇的変化に少しでも関心を持っていた者であれば、モンテネグロがどこに存在し、チェコスロバキアがどこに存在し、バルト三国がどこに存在し、冷戦終結過程でどのように国際的地位を変化させたのかは常識に属する基本的知識である。

 つまり、一文の主は、90年代から現在に至る国際社会の変容への自身の無関心を、自ら(それと気づくことなく)暴露しているということなのだ。

 モンテネグロは、冷戦終結まではユーゴスラビア社会主義連邦共和国内の一国であり、冷戦終結後はセルビアとの連邦を構成したがコソボ紛争の際にはセルビアと距離を置くようになり、最終的に2006年に完全な独立国家となった国である。

 チェコスロバキアは、1989年のいわゆる「ビロード革命」を経て共産主義政権に終止符を打ち、1968年の「プラハの春」の立役者であったドプチェクを政治の場に復権させたものの、1993年にはチェコ共和国とスロバキア共和国に分離している。

 バルト三国は、第二次世界大戦後はソ連邦に組み込まれ独立を失っていたが、いちはやくリトアニアが1990年の時点でソ連邦からの独立を宣言(ラトビアとエストニアは1991年に独立)し、その後のソ連邦崩壊の先陣を切っている。

 どれも、「少しでも国際関係の歴史に関心があれば知っていて当然」の部類に入る知識なのである。

 で、そんなわけで当該の一文の前半にある「モンテネグロ(元はチェコスロバキアのバルト三国)」という表現に呆れかえって、後半に注意を向けることなく過ごしてしまっていたのだが、

  モンテネグロと日本が国際法上100年間戦争状態だった

…というのは興味深い話でもあり、あらためて事実関係を調べてみようと思い立ったわけである。検索の結果、冒頭に紹介した鈴木宗男氏の「質問主意書」の存在を知ることが出来た。

 さて、日本政府の答弁やいかに??

 内閣総理大臣小泉純一郎名義による「平成十八年二月二十四日」の日付を持つ「衆議院議員鈴木宗男君提出一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問に対する答弁書」には、以下のように明記されている。

 二について
  政府としては、千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。モンテネグロ国の全権委員は、御指摘のポーツマスにおいて行われた講和会議に参加していない。
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b164069.htm

 つまり、日本国政府(自民党政権下の、である)の公式見解によれば、

  モンテネグロと日本が国際法上100年間戦争状態だった

…との主張に関し、「根拠があるとは承知していない」ということなのである。

 もちろん、それは日本政府側の見解であって、モンテネグロ政府の認識は別のものであり得ることも確かである。モンテネグロ側の外交文書に基づき、

  モンテネグロと日本が国際法上100年間戦争状態だった

…と主張されていた可能性も考える必要はある。

 ここで問題とした一文に立ち戻ってみると、

  ネタ本にはその他にも、モンテネグロ(元はチェコスロバキアのバルト三国)と日本が国際法上100年間戦争状態だったとか面白いことが書かれています。

…となっている。当人の主張ではなく、「ネタ本」が存在するというのである。となると、モンテネグロ側の外交文書に基づく研究が存在するのかも知れない。

 で、当人の紹介する「ネタ本」が何かというと、『あらすじとイラストでわかる日本史』(イースト・プレス 2010)なのであった!!

 これでは実証的歴史研究に基づく主張である可能性は低いと判断せざるを得ない。

 ちなみに「イースト・プレス」のホーム・ページに掲載されている最新刊はというと…

  『ぎんが堂 怖いほど本音がわかる心理テスト』
  著者: 中嶋真澄
   あなたの知っているあなたは「ウソ」かもしれない。

  『ぎんが堂 怖すぎる都市伝説』
  著者: 松山ひろし
   この世には、「知ってはならない」話がある。

  『ぎんが堂 合コン女王が教える 2時間で女ゴコロをつかむ技術』
  著者: 絵音
   「お持ち帰りできる男」に、なりたくありませんか?

  『まんがで読破 ソクラテスの弁明』
  著者: プラトン
   ただ生きるのではなく 正しく生きたいのだ

  『タイムスクープハンターコミック1』
  髪結い ちょんまげ騒動記
  著者: 中尾浩之
   髪結いは見た!薄毛武士の悲哀

  『タイムスクープハンターコミック2』
  瓦版ジャーナリスト魂
  著者: 中尾浩之
   江戸のゴシップvsジャーナリズム

  『タイムスクープハンターコミック3』
  熱狂!初ガツオ争奪戦
  著者: 中尾浩之
   江戸に到来、グルメブーム!

  『一生太らないカラダになる』
  著者: 阿部エリナ
   ほんの少しの心がけで「やせる習慣」がしっかり身に付く!

  『1分片づけ術 収納・整理編』
  著者: すはらひろこ
   1日1分、たった「5つのルール」で、もう散らからない!

  『あなたの夢をかなえる 目に見えない力の秘密 理想の人生を引き寄せる7つのステップ』
  著者: (著)ロバート・シャインフェルド(訳)本田健
   「引き寄せの法則」のエッセンスが一瞬でわかる1冊、まったく新しいアプローチの願望実現の実践マニュアルがここに!!

 この問題に関しては『あらすじとイラストでわかる日本史』の記述よりは、日本政府の公式見解の方を信頼しようと思う私であった(註:1)。

【註:1】
 念のために『ウィキぺディア』先生にお伺いを立ててみると…

  独立に際し、日露戦争時にモンテネグロがロシア側に立ち、日本に宣戦布告していることが問題となった。モンテネグロは日本と直接戦ったと半ば伝説化しており、日本とモンテネグロは講和していない為、再独立によって戦争状態が復活するのではと恐れた(手順として、独立と同時に日本と一旦国交を断絶し、あらためて講和しなくてはならない)。しかし、今回の独立承認後にロシアの公文書を調査したところ、ロシア帝国がモンテネグロの参戦打診を断っていたことが明らかとなり、独立しても戦争状態にならないことが確認された。
     (「モンテネグロの歴史」の項による―2013/03/31 閲覧)

 つまり、モンテネグロ側の外交文書を精査しても、

  モンテネグロと日本が国際法上100年間戦争状態だった

…との結論に至る可能性は存在しないということ。
(もちろん、『ウィキペディア』記事の信頼性という一般的問題もあるが、記事の性格から言って、ガセネタである可能性は低いと判断した)

 「今回の独立承認後にロシアの公文書を調査したところ」とは、つまり2006年の時点での話であり、今回の記事本文に示した日本政府の答弁も、平成18(2006)年のものであるという事実が確認出来る。

 それに対し、『あらすじとイラストでわかる日本史』の刊行年は2010年。
 この事実は、『あらすじとイラストでわかる日本史』の記述の信頼性の低さを示す。

 こういう本を「ネタ本」としてコピペ拡散に励むんじゃぁなぁ…

[追記]
 念のために、『ウィキペディア』先生の記述を再確認してみると、なんと驚いたことに、現在では、

  独立に際し、モンテネグロと日本の戦争状態が日露戦争以降続いているかについて、日本の国会で採り上げられた。2006年2月日本政府は1904年にモンテネグロの宣戦布告を見つけられないこと、ポーツマスでの会議にモンテネグロは参加していないことを回答していた。実際には日露戦争時にモンテネグロはロシア側に立ち、1905年日本に宣戦布告し、ロシア軍とともに戦うため義勇兵を満州に派遣していたが、日本とロシアの講和会議にモンテネグロが含まれていなかったため、技術上は戦争状態が続いていることになっていた。
  もっとも、モンテネグロが実際に宣戦布告していたか、宣戦布告が正規のものだったかどうかは、異説がある。しかしながら、2006年6月には、日本はモンテネグロに外務大臣と首相の特使を派遣し、モンテネグロの独立承認と戦争の終了を宣言する文書を届けた。これにより、101年に渡る両国の戦争状態が終わった。
     (「モンテネグロの歴史」)

…と記事内容が変更されていた(前回の検索から半年も過ぎていないが)。

 「2006年6月には、日本はモンテネグロに外務大臣と首相の特使を派遣し、モンテネグロの独立承認と戦争の終了を宣言する文書を届けた」という記述に関しては、実際に以下のように報道もされている。

PODGORICA, Serbia, June 16 (UPI) -- Montenegro says Japan has recognized the Balkan country as an independent state, ending more than 100 years of a state of war.
Akiko Yamanaka, Japan's deputy foreign minister and the prime minister's special envoy is scheduled to arrive in Podgorica next week to deliver a letter to Montenegrin officials declaring the war is over and Tokyo recognizes Montenegro as an independent state, Belgrade's B92 radio reported Friday.
The countries have been in a technical state of war since the 1904-05 Russo-Japan War and Montenegro sided with Russia. A local historian Told B92 that Montenegro's participation in the war was symbolic.
     (June 16, 2006 at 12:19 PM UPI)
http://www.upi.com/Top_News/2006/06/16/Montenegro_Japan_to_declare_truce/UPI-82871150474764/

…となると、この点に関しては、現在の『ウィキペディア』の記述の方が事態を正確に伝えているものと考えられる。

 あらためて整理すると、

  日本政府としては、1904年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない
  モンテネグロ国の全権委員は、ポーツマスにおいて行われた講和会議に参加していない
  しかし、今回の独立承認後にロシアの公文書を調査したところ、ロシア帝国がモンテネグロの参戦打診を断っていたことが明らかとなった
  モンテネグロが実際に宣戦布告していたか、宣戦布告が正規のものだったかどうかは、異説がある
  モンテネグロはロシア軍とともに戦うため義勇兵を満州に派遣していた

…との五点が、現時点でネット検索から得られる、日露戦争に際してのモンテネグロによる対日宣戦布告に関する事実関係情報ということになる。
 満州で対日戦闘に従事するために派遣されたのがモンテネグロの「義勇兵」とされている点からすると、正式な宣戦布告の存在には、まだ疑わしいところが残る。また、両国間の講和条約調印という形式を採らず、しかも宣戦布告した側であるはずのモンテネグロではなく日本の側が「戦争の終了を宣言する文書を届けた」という形式からも、モンテネグロによる正式な宣戦布告の存在への疑念が深まる。
 少なくとも、日本側にはモンテネグロによる宣戦布告文書の受領記録が存在せず、モンテネグロ側でも公文書としての対日宣戦布告の存在が確認されていないように見える(あるいは、宣戦布告はしたが、日本に対して手交していない)。そうでなければ「モンテネグロが実際に宣戦布告していたか、宣戦布告が正規のものだったかどうかは、異説がある」という話にはならないだろう。
 ここではあらためて、「2006年6月には、日本はモンテネグロに外務大臣と首相の特使を派遣し、モンテネグロの独立承認と戦争の終了を宣言する文書を届けた」という経緯が、どのような根拠に基づいた判断であったのか?という新たな課題が浮上するわけである。
 検索の道はまだ続くわけだ(もっとも、ネット上に情報としてアップされているという保証もないのだが)
     (2013年9月25日記)

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/03/31 15:16 → http://www.freeml.com/bl/316274/202233/

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