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2016年5月17日 (火)

「民族」としての「沖縄の人々」 (琉球國の「独立」と伊江朝直 9)

 

 

 

  木原誠二外務副大臣は27日午前の衆院内閣委員会で、国連の人種差別撤廃委員会などが沖縄の人々を「先住民族」とする見解を示していることに対し「事実上の撤回、修正をするよう働きかけを行っていきたい」と述べた。自民党の宮崎政久氏の質問に答えた。
  また、外務省の飯島俊郎参事官も「政府として、先住民族と認識している人々は、アイヌ以外に存在しない。これらの委員会による最終見解や勧告などは法的な拘束力を有するものではない」と強調した。
  宮崎氏は「(日本人に)沖縄県民は先住民族だと思っている人はいない。誠に失礼な話だ。民族分断工作と言っても良い。放置しないでほしい」と政府に毅然とした対応を求めた。
     (産経新聞 2016/04/27 12:54)

 

 

 ここでは、「沖縄の人々」を「先住民族」と位置付けることの妥当性が問題にされているわけである。

 その妥当性を判断するには、「先住民族」とは「どのような人々」に対して用いられる語なのかを、まず問う必要がある。

 「先住民族」と同様に用いられるのが「先住民」であるが、現在の日本語では、両者は厳密に使い分けられているわけではない。たとえば代表的な国語辞典である『広辞苑』(手元の電子辞書によるが)では、「先住民」の項に、

 

  現在住んでいる人々に先立って住んでいる人々。大国や支配的民族によって土地や固有の文化を奪われている場合がある。先住民族。

 

…との定義が示されている(『広辞苑』には「先住民族」の項は存在しない)。一般に流通しているのも、このような意味合いでの理解であろう。

 一方で、より厳密には、たとえば『百科事典マイペディア』(これも手元の電子辞書によるが)には、

 

  一般に,ヨーロッパを起源とする〈近代化〉が世界的に展開する中で支配的集団により一方的に国家に統合されながら,民族としての存在と固有の文化を否定され,その植民地政策によって同化を強制された民族的集団をさす。 英語でindigenous peoples。先住民とも。先住民の認定には,どちらが先に住んでいたのかの〈先住性〉や,何が民族であるのかの〈民族性〉の問題は副次的であり,主権国家の成立が自己の国家宣言に始まるように,外部から定義されるものではなく,自己認定によるとされる。この点,〈先住民族〉は人類学の概念ではなく,政治学の概念である。典型的な先住民族としては,〈インディアン〉(アメリカン・インディアン),〈インディオ〉と差別的な意味を込めて呼称されてきた南北アメリカ大陸の先住民族,北極圏のサーミ,オーストラリアのアボリジニー,ニュージーランドのマオリ,東アジアのアイヌなどがある。また第2次世界大戦後の植民地解放は,それまでの植民地を地域の主要な民族に解放しただけで,〈国民形成〉という名目での植民地支配が継続しているという視点から,アジア・アフリカにおいても多くの民族集団が自らを〈先住民族〉と主張している。
  国連の推計によれば〈先住民族〉は世界70国以上に約3億人が生活しているとされ,その文化や環境には大きな違いがあるものの,コロンブス到達以降のアメリカ大陸の状況に象徴される共通の歴史を体験してきた。また,虐殺や弾圧による人権侵害のほか,大規模開発による生活環境の破壊,強制移住,貧困,差別など,今日の地球環境問題も含めて,近代社会のほとんどすべての矛盾を押し付けられてきた。しかし国連機関を中心とした国際社会で,自決権や土地獲得などの積極的な運動を展開し(〈マボ判決〉参照),1993年の〈国際先住民年〉や1995年-2004年の〈先住民の国際10年〉などを契機に,広範な国際理解と具体的な権利回復が実現されつつある。先住民族の国際的な組織としては,国際インディアン条約評議会,世界先住民族評議会,イヌイット周極会議,サーミ評議会などが代表的なものである。日本でも1997年に〈アイヌ文化振興法〉が制定されている。

 

…とあるように、ある程度の専門性の中では、一般に流通しているものとは異なる意味合いの下に用いられる語であることも事実である。

 

 

 確かに「沖縄の人々」を、「現在住んでいる人々に先立って住んでいる人々」と位置付けるには無理がある。しかし、「沖縄の人々」を、「〈近代化〉が世界的に展開する中で支配的集団により一方的に国家に統合されながら,民族としての存在と固有の文化を否定され,その植民地政策によって同化を強制された民族的集団」として位置付けることは、その歴史的経緯に鑑みて間違ってはいないだろう。

 

 日本政府が、「沖縄の人々」を「先住民族」とする国連人種差別撤廃委員会の見解に対して、どのような理路を用いて「事実上の撤回、修正をするよう働きかけを行」ったのかは興味深いところであるが、ここではその問題には深入りせずに、そもそも「沖縄の人々」を独立した「民族」として位置付けることが可能なのかどうかについて、まず考えてみたい。

 

 

 明治以降を日本の「近代」とし、その前の時代を「近世」とするならば、「近世」においては沖縄は「琉球國」の領域であり、琉球の国王が統治する領域であった。

 「日本列島」と現在の用語で呼ばれる領域の中で、「本州」と呼ばれる島、「四国」と呼ばれる島及び「九州」と呼ばれる島とその周辺の島々は「日本」と名乗る国家の領域であり、近世においては天皇の下に将軍家の統治する領域であった(ここでは「日本」を国号としておく―公式の歴史書が『日本書紀』と名付けられているので―が、近代になっても正式の国号表記には揺れがあったのも事実である→「日本国の象徴と、國體の本義 18(大日本帝國の「大」)」参照)。

 「日本列島」の中でも現在は「北海道」と呼ばれる島は、近世においては特定の国家に領有されることはなく、アイヌ民族の居住する領域であり、「日本」の側からは「蝦夷地」と呼ばれていた(「蝦夷」とは、近世における「日本」の側からのアイヌ民族の呼称であり、「蝦夷地」とはまさにそこがアイヌ民族の土地であったことを示す)。

 現在の主権国家としての「日本国」の領域は、近代以前には、「琉球國」と「日本」の二つの国家の統治する二つの異なる国家領域と、「蝦夷地」と「日本」からは呼ばれた非国家的領域に三分されていたのである。

 

 

 以下、論点を「琉球國」と「日本」の関係に絞ることとするが、実際、国家領域に関する幕末期の日本側の認識の事例を示せば(「琉球國の「独立」と伊江朝直 1」参照)、

 

  1850年代に入ると、琉球・日本への外圧はさらに増大した。「黒船」を率いて来日したペリー提督との開国交渉の前後に、江戸幕府の内部では琉球の「所属」問題が重要議題として論議され、老中の阿部正弘は琉球を日清両属と位置づけることが妥当かどうか、関係部門へ諮問した。林復斎(儒官、大学頭)らは琉球を日清「両国に随従」している国としながらも、最終的には「唐土の属国と申し候て然るべし」と答申し、井戸石見守(海防掛)らは「矢張り両国随従の国」とみなし日清両属論を妥当としたが、川路(勘定奉行)らはいずれとも「差し極め申し上げ難く」と態度を保留し、琉球を管轄する薩摩藩主島津斉彬の意見を聞くべきだと回答した。斉彬は17世紀の明清交替時点における幕府の選択(琉球切り捨て論)に注目しながらも、最終的には琉球の意思を確かめる必要があるとして、自らの直接の意思表示を避けた(洞富雄訳『ペリー日本遠征随行記』「付録2」)。
     西里喜行 琉球処分再考(上)沖縄タイムス(2009・06・29)
     
http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/history02.html

 

…というもので、「琉球國」は「日本」の領域の外部として、少なくとも「日本」の内部とは言い切り得ない領域として認識されていたのである。

 明治になっても、いわゆる「琉球処分」の過程の中での(それまでの)琉球国王に対する華族宣下の是非を論じる中で、当時の左院(立法院)は、

 

  華族宣下ノ不可ナル所以ハ国内形成沿革ノ自来ルニ従テ人ノ族類ヲ区別シテ皇族華族士族ト称謂ヲ定メタルハ国内人類ニ於テ自然ニ斯ク名目ヲ設ケサルヲ得サル勢ニ立至リシモノニシテ今般更ニ琉球国王ニ華族ノ称ヲ宣下スヘキ謂レアラス琉球国王ハ乃チ琉球ノ人類ニシテ国内ノ人類ト同一ニハ混看スへカラス

 

…との見解を示すことで(明治5(1872)年の左院の答義)、琉球国王への華族宣下に反対していたのである。しかも左院は、琉球國が日本の外部の異国であるのみならず、異民族の領域であるとの認識まで示しているのである(詳細については「琉球國の「独立」と伊江朝直 4」参照)。

 

 実は、この認識は戦後の日本政府にも受け継がれているのである。第二次橋本内閣(自民党)及び第三次小泉内閣(これも自民党政権)の下での政府答弁からは、

 

  結局、照屋覚徳参議院議員の「沖縄の人、ウチナーンチュはいつから日本人になったんでしょうか」という質問に対して、日本政府は「いつ」を明確にすることは出来なかったし、鈴木宗男衆議院議員による「政府は、1868年に元号が明治に改元された時点において、当時の琉球王国が日本国の不可分の一部を構成していたと認識しているか」という質問に対しても、「いつから日本国の一部であるかということにつき確定的なことを述べるのは困難であるが、遅くとも明治初期の琉球藩の設置及びこれに続く沖縄県の設置の時には日本国の一部であったことは確かである」としか答えることが出来なかったのである。
  つまり「日支両属」時代の琉球國(琉球王国)に関しては、日本の国家領域の内部の存在として明確に位置付けることが困難であることを、日本政府は明言していたことになる。
     (「琉球國の「独立」と伊江朝直 4」)

 

…との日本政府の認識が読み取れるのである(照屋議員の質問と答弁書には、近代以前の沖縄が単に異国であるだけでなく、異民族の領域として位置付けられ得る可能性も示されていることには留意する必要がある)。

 

 

 あらためて検討しなければならないのは、「沖縄の人々」を、近代以前からの「日本」(本州・四国・九州)に住んでいた人々(沖縄から見れば「内地」の住民)と異なる民族として位置付けることの妥当性(あるいは可能性)である。ここからは、煩雑を避けるために前者を「琉球人」と呼び、後者を「和人」と呼ぶことにする。琉球人と和人は、果たして一つの民族であるのか、それともそれぞれに独立した異なる民族と考えられ得るのか?

 

 しかし、そもそも「民族意識」(ある民族への帰属意識)は、当事者の持つ帰属意識の問題でもある。言い換えれば、当事者が同族意識を持つ範囲に規定されるものであるが、その範囲を最終的に決定するのは当事者自身である。つまり主観的な要素に依存するものであり、いわゆる「客観的」に(外部の基準のみにより)規定されるものではない。

 しかも同族意識の対象の範囲は様々な属性(互いに共有される属性の有無)によって判断されるものであるが、どのような属性が問題とされるのかはあらかじめ確定されてはいない。

 しかし、煩雑な議論を避けるために、あえて包括的に言えば、「歴史的経験の共有意識」ということになるだろう。もちろんそれは年代記的な歴史の問題に止まらない。むしろ、言語、文学的伝統、音楽的伝統、葬送に関する伝統、食文化の伝統,宗教的祭祀の伝統、伝承された起源神話、そして日常的な立ち居振る舞い等々に至るまでの文化の諸相であり、それぞれに共有された歴史の中で育まれ伝えられて来たものである。それらが共有される範囲、そこに同族意識の範囲は重ねられる(何を重要視するのか、何が重要視されるのかは、時代や集団によって異なる)。

 

 いずれにせよ、ここで重要なのは、和人と琉球人では、言語、文学的伝統、音楽的伝統、葬送に関する伝統、食文化の伝統、宗教的祭祀の伝統、伝承された起源神話、そして日常的な立ち居振る舞いに至るまでの多くが異なっているという事実(つまり、琉球人は和人とは異なる文化的伝統を保有しているという事実)である。

 和人の用いる「日本語」と琉球人の用いる「琉球語」は、フランス語とイタリア語(あるいはスペイン語)の違いと同程度に異なると言われているし、文学伝統について言えば、琉球の歌謡と「日本」の歌謡は異なる詩形を用いるし、音楽について言えば、琉球と「日本」では異なる音階システムを採用している。墓制も含めて葬送に関する習慣は異なっているし、食文化についても「日本」とは異なり肉食が禁忌とされることはなかったし、宗教的祭祀についても異なれば、和人と琉球人は異なる起源神話を持ち伝えて来た。起源神話の違いは、それぞれに異なるルーツが想定されていることを示す。「日常的な立ち居振る舞い」の一例としては、「ウチナータイム(沖縄時間)」をあげておこう(様々な「立ち居振る舞い」の基盤にある時間感覚そのものからして違うのである)。

 

 要するに、琉球人と和人とは(生まれる前から死して後の世界に至るまで、すなわち起源神話から葬送儀礼に至るまで)文化を大きく異にする存在なのであり、両者が民族というレベルで異なると考えることは十分に可能なのである(註:1)。

 

 

 以前に私は、

 

  そもそも日本と沖縄の間には「ライン」が存在していたのだ、と言うことも可能である。現在の枠組みで言えば、(日本国籍の保有者という意味において)どちらも「日本人」であるにしても、歴史的に見れば、(そして言語学的にも)異なる世界を人々は生きていたのである。
     (「「慰霊の日」に、比嘉賢多監督の『沖縄/大和』(2014)を観た」の「註:1」参照)

 

…との構図を(いささか控えめに)示したことがあるが、今回は、琉球人と和人を異なる民族集団として位置付けることの可能性にまで踏み込んでみたわけである。

 ここまで来れば、「沖縄の人々」が「先住民族」かどうかの議論をするまでもなく、この現在の日本国は、「北海道」の先住民族であるアイヌ民族に加え、和人と琉球人というそれぞれに異なる民族(もちろん韓国・朝鮮人の存在も忘れてはならない)によって構成されているのだということを明らかにし得たであろう。

 もちろん、先に示したように「民族意識」は当事者の「帰属意識」に依存する。「沖縄の人」が自身を「日本人」という民族に帰属する存在として位置付けることも決して間違ったことではない。民族への帰属とは、当事者の持つ同族意識の問題なのであり、あくまでも当事者が自身で自己決定すべき問題なのである。

 

 

 いずれにせよ、いまだに解決されない基地問題は、「沖縄の人々」が、「〈近代化〉が世界的に展開する中で支配的集団により一方的に国家に統合されながら,民族としての存在と固有の文化を否定され,その植民地政策によって同化を強制された民族的集団」の末裔であることを象徴的に示す事例と言い得る。沖縄への米軍基地の過度な集中は、「沖縄の人々」に本州・四国・九州の住民とは圧倒的に異なる負担を強いようとするものであり(「沖縄の人々」は「本土の人々」と同等の存在として扱われていないのである)、沖縄がいまだに「本土」としての「日本」に対して植民地的地位にあることを示すものであろう。

 

 

 あらためて振り返れば、「沖縄の人々」が、(国際的な「先住民族」をめぐる議論の文脈では)「先住民族」としての一般的状況の中に現に生きている人々(そのように生きることを強いられている人々)として見做され得る事実も、確かなものとして見えて来るのではないだろうか?

 

 

 

【註:1】
 言うまでもない話だとは思うが念のために付け加えておくと、琉球人は単に文化的レベルで和人と異なるだけの存在ではない。
 (既に示したように)琉球人は和人とは異なる政治共同体(すなわち琉球國である)に属していたのであり、和人とは異なる政治的一体性の歴史を持った存在なのである。同時に琉球國の国家領域の住民(すなわち琉球人)は、血縁関係においても「本土」の「和人」とは隔たりある存在であった(琉球人と和人は異なる通婚圏の中に生きていたのである)。
 すなわち、琉球人と和人の間には、政治的にも文化的にも血縁的にも境界が存在し、政治的にも文化的にも血縁的にも、「和人」とは異なる世界に属していたのが「琉球人」なのであって、そこに「民族」というレベルでの「違い」を見出すこと自体は理に適った話なのである(「補註:1」及び「補註:2」)。
 もちろん、民族の相違は当事者の帰属意識が決定する問題であるし、民族の相違の自覚を国家としての独立(琉球―沖縄の日本からの独立)に直結させる必要もない。複数の民族が権利において平等である国家を追求するという選択もあり得るのである。いずれにせよ、決定の当事者は、あくまでも琉球人(沖縄の人々)でなくてはならない。
          (追記:2016/06/19)

 〔補註:1〕
 ここでは、20世紀に大きな影響力を発揮したスターリンによる「民族」の定義を参照しておこう。
 スターリンは、『マルクス主義と民族問題』(1913)の中で、民族(ナーチア)を、

  言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちにあらわれる心理状態、の共通性を基礎として生じたところの、歴史的に構成された、人間の堅固な共同体

…と定義した。
 この定義の妥当性についての議論は避けるが、この定義は社会主義的な民族解放論を支えたと同時に、行政実務的な意味で、多民族により構成された社会主義国家としてのソ連の国内民族政策の理論的枠組みとしても機能しただけでなく、更に社会主義イデオロギーとしての役割を超えて、20世紀の民族をめぐる議論(民族自決原則の適用対象としての資格問題)に大きな影響を与えたものでもある。
 ここで注目しておきたいのは、スターリンが「民族」の条件とした「言語、地域、経済生活、および文化の共通性」のすべてにおいて、琉球國(琉球人)は日本(和人)に対し独自性を保ち続けたと言い得る点である(これまでに論じなかった「経済生活」についても、琉球國は日本と異なる通貨体系を採用していた―すなわち異なる経済圏の中にあった―事実は覚えておいてよい)。
          (追記:2016/06/22)

 〔補註:2〕
 日本語の「民族」は、「ネーション(nation)」の訳語として用いられると同時に、「エトノス(ethnos)」の訳語としても用いられるが、両者は語源を異にしニュアンスを異にする概念である。
 後者については特に「エスニック・グループ(ethnic group)」という言い方もされるが、(語源的問題―そしてそれは概念の本質的問題でもあるのだが―を別にすれば)両者の相違点としては、前者では対象となる人々の集団が政治的共同体としての機能をも果たしていたのか否か、政治的権利主体として自覚的に振る舞った歴史を有するのか否か、より具体的には(あるいはより単純化された文脈では)国家形成を志向した歴史の有無が問題とされるのに対し、後者ではその点が要件とされることはない(その意味で、後者より前者の方がハードルが高い)。
 誰が「民族自決権」を持つのかが問題となる文脈(民族自決原則の適用対象としての資格問題)では、後者(「ネーション」ではなく「エスニック・グループ」と位置付けられる人々)を民族自決権を持つ主体として取り扱わないことで、既存の国家(国内に少数民族問題を抱える国家)は自国内の民族問題を処理し、国家の分裂(複数の民族国家への分裂)としての帰結を避けようとする傾向がある。
 しかし、いずれにせよ、琉球人は琉球國という形で国家形成をした歴史を持つのであり、「民族」の定義としてハードルの高い「ネーション」概念からしても、琉球人を和人と異なる民族集団として見做すことは可能だということ、「沖縄の人々」を独立した「民族」として取り扱うことが決して不適切ではないということは再確認しておきたい。
          (追記:2016/06/22)
 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2016/05/17 15:46 → http://www.freeml.com/bl/316274/275330/

 

 

 

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2013年3月16日 (土)

琉球國の「独立」と伊江朝直 8

 

 前回は、安良城氏の紹介する、真境名安興の『沖縄現代史』(1923)により、既に1858年の時点で、

 

  安政5(1858)年即ち明治12(1879)年に於ける沖縄の廃藩置県を距ること20年前に於て、当時73歳の紫金大夫林文海 (城間親方) は、英仏の勢力が漸く東亜に瀰漫し来り、支那に朝貢せし安南の未路を観て、琉球の運命を揣摩し、支那と朝貢を絶ちて、我本土と併合統一せられべきことを論断し

 

あるいは、維新後間もない時期の、

 

  当時の碩学本国興 (津波古親方政正)の如きは、明治4 (1871) 年に於ける各藩の廃藩置県の処分を観て、沖縄の将来を揣摩し、視察員を内地の藩に派遣して、その状況を調査せしめ、寧ろ我より進んで、版籍奉還を為すを以て沖縄の国益なり

 

…といった、琉球國支配層による主張の存在事例を示した。

 ここには、それぞれ、

  支那に朝貢せし安南の未路を観て、琉球の運命を揣摩し

  各藩の廃藩置県の処分を観て、沖縄の将来を揣摩し

…とあるように、あくまでも問題の焦点は「琉球の運命」であり「沖縄の将来」であって、その問題意識の上に、

  支那と朝貢を絶ちて、我本土と併合統一せられべきこと

  寧ろ我より進んで、版籍奉還を為すを以て沖縄の国益なり

…との判断があるという構図に留意しておく必要がある。

 

 そこでは、「英仏の勢力が漸く東亜に瀰漫し来」るような国際情勢の中での、琉球國の国家としての存続の可能性が問われているわけである。小さな島々で成り立つ小国の存続可能性という問題である。

 

 

 

 

 ここで21世紀の議論を見ておきたい。

 松島泰勝氏は、「島嶼経済」の置かれた条件という観点から、

 

 

 島嶼経済を論じるにあたってまず認識しなければならないのは、島嶼性という地理的条件の中で経済活動が行われているということである。島嶼性から生じる問題としては次の諸点を指摘できる。

(1) 面積に限りがあるため「規模の経済」が働かない。大量生産、大量消費が不可能であり、生産、消費においてコスト高になりやすい。
(2) 天然資源の賦存量に限りがある。幾つかの島嶼を除いて、その限定性は開発用の資源だけでなく、環礁島において生活必需のための土地、水、野菜等が不足しがちになる。
(3) 少ない熱帯商品の輸出に依存している。島嶼は経済規模が小さいため交易条件に対して影響力をもちえず、世界市場の動向に左右される。
(4) 大市場との距離が離れすぎており、国内または国外における輸送コストが高くなり、それが島内のインフレを増進させる。
(5) 島内企業が競争力をもたず、輸入品が増大するため、国際収支が赤字になりやすい。
(6) 技能のある労働力が不足し、外国人技能者に依存する。一方で教育を受けた者の職場の確保困難であるという理由で、島外に職を求めるという頭脳流出問題が存在する。
(7) 島内資本の規模が小さく、少数の多国籍企業によって島内経済が支配される場合が多い。
(8) 金融と生産との有機的関係が強くなく、域外からの援助金に大きく依存する構造になりやすい。
(9) 自然災害の影響を大きく受けやすい。台風、飢饉等で島嶼経済が混乱し、経済基盤を最初から作り直す必要が生じる場合がある。その際、他国からの援助金を必要とし、それが更に援助依存の構造を強化することになる。
(10) 生態系や物理的環境が非常に脆い。また、遺伝子の種類や量も少なく、植物や動物が絶滅しやすい。
(11) 海によって隣国と隔てられているため、経済活動をする上で不効率性が生じやすい。例えばクック諸島とリヒテンシュタインは人口や領土面積はほぼ同じである。しかし、後者の場合、陸地によって隣国とつながっているため容易に隣国のインフラ等を利用できるが、前者ではそれが不可能である。
(12) 輸送コスト、工事監督者への給与、エネルギーコスト等、工業化のための様々な追加的費用が必要となる。それらは島内の低い賃金率、無税地域の設定、為替レートの調節等によっては補うことが困難である場合が多い。ゆえに島嶼は恒常的に財政赤字体質になりやすい。

 以上のように多種多様な経済問題の解決を島嶼地域は迫らせている。上に紹介した島嶼問題は、島嶼のみに焦点をあわせた、それから派生する問題であるといえる。島嶼経済問題を新たな観点から分析した議論に、MIRAB経済論がある。MIRABとは次の言葉の頭文字を組み合わせたものである。MIは移民社会、Rは送金収入、Aは経済援助、Bは官僚組織の肥大化と民間セクターの欠如をそれぞれ意味している。島嶼民には移民が多く、彼らによる送金、そして、外国援助を主な対外収入として得ており、その結果、政府部門が拡大するという島嶼経済の現状を示している言葉である。
     松島泰勝 「西太平洋島嶼貿易圏構想の可能性」 2001
     http://www.spf.org/yashinomi/pacific/international/matsushima03.html

 

 

…と、「島嶼経済」の抱える様々な困難を提示している。

 経済的困難は、政治的独立の困難に直結する問題である。

 かつて伊波普猷が「孤島苦」と表現した琉球・沖縄の宿命的困難の、現代的表現と言えるだろうか。

 

 佐藤優氏は、「沖縄の独立」をめぐって、

 

 

 まず沖縄独立に関してです。結論から言って、私は沖縄独立に反対です。その第一の理由は、独立した沖縄(琉球)共和国は、アメリカ、中国、日本という3つの帝国主義国に囲まれます。そのような環境で生き残るには多大なエネルギーがかかります。他方、沖縄国家の独立は可能と私は考えます。沖縄独立に関して、内地(ここでは沖縄以外の日本を内地と言います)の人々はもとより、沖縄の人々もその可能性を明らかに過小評価しています。沖縄独立は可能です。おそらく3年くらいあればできるでしょう。まずですね、沖縄の独立論云々と言ってもそれは「居酒屋独立論」じゃないか、圧倒的大多数の沖縄県民は独立なんて考えていないという議論がよくなされ、それが常識として通用しているところがあります。国家独立、民族独立、--沖縄の人々は、日本人の中の2つの国家を作っていくという方向なのか、別の民族として国家を作っていくことなのかは、とりあえずここでは詰めないでおきます。いずれにせよ独立可能性についての過小評価があるのです。
 まず、「居酒屋独立論」という言い方ですが、すべての独立運動というのは居酒屋から始まっているんです。これはヨーロッパで見ていただければ分かるんです。パブであり、あるいはコーヒー・ハウス、ティー・ショップ、そこに入るのは誰でも自由なんですね。こういう場所で、「おい、俺たちちょっとコケにされてるんじゃないか」「ふざけやがって」と、こういう話を飲みながらするうちに、だんだん国家独立という方向へ向かっていくわけなんです。ですから、居酒屋独立論というものが出てきているということは、それは一つの独立へ向けた土壌だということです。ちなみに沖縄の人々が居酒屋独立論だと言うことは構わないんです、若干の自嘲であれ、アイロニーだからです。ところが、内地の沖縄の置かれた状況を理解しようとしない人間が居酒屋独立論だと言うことはいけないんです。それは揶揄だからです。言葉というのは、その中に言霊が宿っています。ですから、それを発声する人の誠意によってその言葉の内容が異なるものになるからです。
     佐藤優 「沖縄の独立は3年くらいあれば可能だ」 『情況』2008年7月号
     http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/jokyo0807.htm#satomasaru

 

 

…と語っていた。

 佐藤氏は、

  独立した沖縄(琉球)共和国は、アメリカ、中国、日本という3つの帝国主義国に囲まれます。そのような環境で生き残るには多大なエネルギーがかかります

…という政治的な困難の大きさを理由に沖縄の独立には反対しているわけだが、

  他方、沖縄国家の独立は可能と私は考えます。沖縄独立に関して、内地(ここでは沖縄以外の日本を内地と言います)の人々はもとより、沖縄の人々もその可能性を明らかに過小評価しています。沖縄独立は可能です。おそらく3年くらいあればできるでしょう。

…と、独立の可能性を評価もしているのである。

 その先では、

 

 

 さらにですね、住民の圧倒的大多数が賛成していないから独立ができないということは、ありません。1991年3月に、ソ連全体でソ連維持に関する国民投票というのをやったんですね。8割のソ連人が「ソ連維持」です。バルト諸国でも過半数が独立反対です。ところが、その年の終わりにソ連は崩壊してしまって、15の独立共和国ができたじゃないですか。過去3回、「ウチナー評論」という「琉球新報」の評論に、ルーマニア人とまったく同じモルドバ人という人たちがいるんですが、これがルーマニア人からモルドバ人となって別の国家を建てていくプロセスについて書きました。国家がどういうときに独立するかという興味深い実例だからです。簡単に言いますと、独立というのは県会議員が国会議員になりたいと本気で思って、県会議長が国会議長になりたいと思って、知事が大統領になりたいと思う、商工部長が商工大臣になりたいと思う、と。そう思うと瞬く間に実現するんです。住民全体にとっては非常に不利になってもそれでも実現するんです。この例は、東欧の崩壊の中でも、ソ連の崩壊の中でもよく見られる現象でした。ですから、去年、教科書検定に対する抗議行動として11万6千人という一つの物語なり神話ができたということがすごく重要なんですね。
 あの11万6千人という数字は、一つ一つカウントすればそこまではいかないなということは、集会の主催者や参加者がいちばんよく知ってます。他方、内地の沖縄に対する目つきのよくない連中が、「航空写真で数えてみたら1万数千人しかいない」などと言うと話が変わってきます。沖縄戦の意味が何かを理解しようとしていない人間がアヤをつける。そんなことになるんだったら断固11万6千でいこう、とこう思うんです。沖縄の人々の心理を考えた場合、こうなるのは当たり前なんです。こうやって神話を作らせるようなことをしているのは、沖縄を軽く見てる奴ら、内地の一部の有識者なんですね。ただこういう雰囲気になって、仲里利信県会議長あたりが、けっして革命的と言う人ではないですからね、その人がカーッとする。この雰囲気というのは、独立の土壌を作るのに明らかに貢献しているわけなんです。この辺のことは、ナショナリズムの成立過程とか、ソ連や東欧の崩壊再編過程というものと比較してみると、私は端的に言いまして、1987年のバルト諸国の様子に今の沖縄は似ているなと思うんです。そして、翌1988年にはソ連からの分離独立の動きが本格化しました。そしてその3年後の1991年にソ連は崩壊しました。ですから、今後、沖縄がそのまま内地との統合の力を強めていくのか、あるいはどんどん独立の方向に行くのか、これは誰も分からないというところです。

 

 

…と、バルト諸国のソ連からの分離独立の経験に重ねて、沖縄の独立を現実的可能性として論じているのである。

 しかしそこには、

  独立した沖縄(琉球)共和国は、アメリカ、中国、日本という3つの帝国主義国に囲まれます。そのような環境で生き残るには多大なエネルギーがかかります

…という政治的困難と同時に、松島氏の指摘する経済的困難が存在しているわけである。

 

 

 

 これは21世紀の時点での判断だが、振り返って、19世紀後半の世界の中で、独立した琉球國の可能性は現実的なものであったのだろうか?

 隣国に日本という国家の存在がある。それが19世紀後半の琉球國の置かれた状況であった。

 19世紀後半、「列強」によるアジアの植民地化が進行する、まさに「英仏の勢力が漸く東亜に瀰漫し来」るような国際情勢の中で、維新後の日本は「富国強兵」による近代化を国策として採用することで国家としての独立の維持を図っていた。それは西欧起源の植民地主義の内面化による生き残り策でもあった。そこに琉球國の独立の維持の可能性が存在し得たのかどうか?

 もちろん、そもそも、

  17世紀以後の琉球國を独立国と呼べるのか?

…という問題も存在するわけだが、これまでに論じたように、

  東アジアの冊封体制における国家の独立とは何であるのか?

…という問題も存在し、話は簡単ではない。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/02/21 23:17 → http://www.freeml.com/bl/316274/201398/

 

 

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2013年3月 4日 (月)

琉球國の「独立」と伊江朝直 7

 

 「琉球処分」とは、日本と清国への「両属」状態にあった琉球國が、日本の内部存在として再定義される歴史的過程であった。

 

 その時点で、琉球(あるいは沖縄)の人々は、日本という国家の内部存在となる。琉球人(あるいは沖縄人)は、日本という(やがて大日本帝國と自称するに至る)国家に帰属する存在とされることになるわけである。

 

 

 

 論を先に進める前に、琉球人と呼ぶべきか沖縄人と呼ぶべきかの呼称の問題について、ここでの私の考え方を書いておこう。

 もちろん、これは、まずもって当事者の意識の問題であり、当事者の自称の問題である。

 ただ、沖縄という名称を用いた場合、それがかつての琉球國の領域及びその領域を継承している沖縄県の領域全体を指すものであるのか、あるいは特に沖縄本島を指すものとして用いているのであるのかが判別し難くなるという問題が生じる。その点を考慮し、引用文の場合は別として、今後の私の論の上では、「沖縄人」を沖縄本島に住む人として限定的に用い、琉球國の領域民あるいは沖縄県の領域民について(後者については沖縄県民あるいは沖縄県人とする場合もあるだろうが)は包括的に「琉球人」と呼ぶことにする。
     (あくまでも混乱を避けるための便宜的措置である)

 

 

 

 さて、あらためて、琉球人の帰属意識の問題に戻ることにしよう。

 

 首里王府の国王により支配された琉球國について考える場合、そこに存在するのは近代的意識の下にある国民国家ではない。

 琉球國の支配層にとっては、琉球國こそが帰属意識の向かう先であったにせよ、被支配民として琉球國の領域住民であった人々には、琉球国民としての意識など存在しなかったはずである。生まれ育った村あるいは島が帰属意識の対象となることはあっても、琉球國の領域全体を帰属意識の対象とすることはなかったであろう。

 

 そこには、大里知子氏の言う、

 

  「琉球処分」はまさに、近代化、文明化、日本化の名のもと「頑迷固陋」と称された旧体制からの「解放」の側面もあったが、同時にそれは沖縄の歴史や伝統文化に対する「差別」「偏見」を伴い、強圧的な政策により「同化」を迫ってくる「抑圧」の側面も強くあった。

 

…という構図が存在する。

 首里王府と薩摩の二重支配による過重な搾取の対象であった被支配層に属する琉球人からすれば、そのような「旧体制」への帰属意識を持つことを期待される謂われはない。「琉球処分」はむしろ、そのような旧体制からの脱却・解放として、被支配層としての琉球人からは受け取られた側面がある。

 

 

 また、安良城氏が紹介していた、真境名安興の『沖縄現代史』(1923)に、

 

(1)「是より先幕府の末路より維新に至りし政変が、如何に沖縄に於て観測せられしかといふに、慧敏なる沖縄の政治家は当時外国船?々渡来して外国関係を生ぜしより、夙に世界の気運に鑑み、我国の開国の巳むべからざるを察知し、延いて亦沖縄の政界にも何時か低気圧の襲来すべきことを予測せり。安政5(1858)年即ち明治12(1879)年に於ける沖縄の廃藩置県を距ること20年前に於て、当時73歳の紫金大夫林文海 (城間親方) は、英仏の勢力が漸く東亜に瀰漫し来り、支那に朝貢せし安南の未路を観て、琉球の運命を揣摩し、支那と朝貢を絶ちて、我本土と併合統一せられべきことを論断し

(2)「当時の碩学本国興 (津波古親方政正)の如きは、明治4 (1871) 年に於ける各藩の廃藩置県の処分を観て、沖縄の将来を揣摩し、視察員を内地の藩に派遣して、その状況を調査せしめ、寧ろ我より進んで、版籍奉還を為すを以て沖縄の国益なりと主張し、建策する所ありしも、当時の国論は之を腐儒迂人の言として一顧を与えられざりきといふ。又彼は、本土の事情を知らしむる為に、初めて当時の新聞紙を尚泰王に奉りたるに依り、益々世人の指弾を受けた

 

…とあったように、琉球國の支配層の中にも、当時の国際情勢の把握や明治維新後の日本の国内状況の観察から、

  支那と朝貢を絶ちて、我本土と併合統一せられべきことを論断

  寧ろ我より進んで、版籍奉還を為すを以て沖縄の国益なりと主張

…するに至った人物の存在が知られてもいるのである。

 

 「版籍奉還を為すを以て沖縄の国益なり」とあるように、琉球國の支配層に属しながら、しかも琉球國の「国益」という視点に基づき、「藩籍奉還」という形式での琉球國の消滅(日本の内部化)を主張する姿には、近代世界に呑み込まれようとする小国の運命が反映されているように思われる。

 林文海 (城間親方)や 本国興 (津波古親方政正)に「日本」への帰属意識があったとは考え難いが、琉球の日本への積極的帰属が、合理的選択肢として彼らの中では位置付けられたわけである(ただし、琉球國支配層の支持を得るには至らなかったが)。

 

 

 琉球人の帰属意識の問題もまた近代と近代以前では異なるわけである。

 近代以前の問題として言えば、支配層には国家としての琉球國への帰属意識は存在していただろうが、被支配階層に属する琉球人に琉球國への帰属意識があったとは考えにくい。

 近代の問題として考えれば、「日本」への帰属意識の内発性と外発性、帰属意識の定着と反発の双方を視野に入れる必要がある。「四民平等」としての近代化は被支配階層民の「解放」への可能性であると同時に、「富国強兵」の資本制経済原理が支配する過酷な世界への一元化過程でもあった。

 確かに「四民平等」と「一君万民」は、「富国強兵」に国家としての活路を見出した近代日本を根底から支える国民形成のスローガンであった。しかし現実の明治の国家体制には、「一君」としての天皇の周囲に、親任官、勅任官、奏任官、判任官という官吏の階層序列が存在していたし、華族は「皇室の藩屏」としての特権を行使し、帝國議会への参加は高額納税者に限定され、それらはそれぞれに社会の平等性ではなく臣民間の序列的階層性の存在を意味し、天皇からの距離の序列の存在を意味していた。琉球人は、「四民平等・一君万民」であるはずの世界の中で、天皇からの距離の最も遠い存在である自身の姿に気付くことになる(朝鮮人がやって来るまでは)。

 スローガンとしての「四民平等・一君万民」からの現実の乖離の認識は、スローガンを疑う方向へではなく、むしろスローガンの理念の原理主義的徹底の方向へ意識を導くというのもまた現実というものである。しかも「日本」を相手にして、ダイレクトに理念の徹底を求めるという方向ではなく、平等であるはずの「日本」の四民・万民として自身を徹底するという方向が選択されるのである。つまり「日本」への帰属意識の徹底化であり、「日本」への同化の徹底である。1900年に高等女学校開校式の演説で、「クシャミする事まで他府県の通り」にすべきとの象徴的な言葉を述べたのは太田朝敷であった。

 平等の確保には、その前提としての徹底的同化が必要であると、琉球人自らが認識するのである。つまり、「日本人」として確保される「平等」であり、「日本人となる」ことによってのみ確保される(はずの)「平等」なのである。

 

 

 引きつづき日本に抵抗するか、それとも日本の一員になるか、それは当時多くの沖縄知識人に迫られた苦悩の選択であった。流れは後者だった。「公同会運動」にも積極的に参加した太田朝敷(1865一1938)は、運動終結後に一転して日本への同化運動に身を投じた。太田の「くしゃみの仕方まで日本化」という提唱は、「下から」の日本への同化の努力を象徴するものであった。そればかりか、太田朝敷のような人物が、沖縄の独自性を護持する立場から沖縄の徹底的な日本化を訴える立場へと変節すること自体、まさに近代以降沖縄住民のアイデンティティ葛藤史初期のシンボリックな出来事である。
     林泉忠 『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクスー沖縄・台湾・香港』 明石書店 2005
     http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/Lim-Chuan-Tiong0502.htm

 

 このようにして「近代」は、琉球人に、「日本」への帰属意識を保有しようとする努力の過程として生きられることになる。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/02/20 21:37 → http://www.freeml.com/bl/316274/201382/

 

 

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2013年3月 1日 (金)

琉球國の「独立」と伊江朝直 6

 

 明治初頭のいわゆる「琉球処分」の過程と伊江朝直との関係を考えようとするに際して、

 

  維新慶賀使としての伊江王子・伊江朝直は、琉球國の独立喪失にいかなる責任を負うべきなのか?

 

…との問いを発するところから始めてみたわけだ。

 

 しかし、そもそもは、いつ、琉球國は独立を喪失したのか? まず、そこから問わねばならないと、私は判断し、あらためて、

 

  「琉球処分」により、琉球國の独立が終焉を迎えたのか、それともそれ以前に(薩摩藩の支配により)琉球國の独立は失われていたのか?

  伊江王子が「琉球処分」の最初の段階を受け入れたことで琉球國が独立を失ったのか、そもそもそれ以前に既に独立状態ではなかったのか?

 

…という問題から考えてみようと思ったわけである。

 

 

 ただ、その際に、

 

  「琉球処分」以前の琉球國における独立の問題は、戦後の本土復帰運動の評価とも連動する問題であり、つまり論者の政治的立場が反映されるような性格の問題であったこともあり、余計に複雑な展開を見せるものとなっている。

 

…という構図への目配りの必要も痛感させられた。

 

 

しかしこの問題については、私が詳細に立ち入るよりは、まず、大里知子氏の「『琉球処分』論と歴史意識」にある、

 

 

 屋嘉比は、近代以降の沖縄人が「日本帝国臣民でありながら、同時に近代日本国家の中で抑圧された沖縄人でもあるという、両義的位置」におかれたことで、常に「二重意識」を持つ存在としてあり、沖縄の統治政策は、「一方で沖縄に近代化や文明化としての『解放』をもたらした側面もあったが、他方で沖縄の歴史や文化に対して差別的偏見に基づく『抑圧』の歴史」でもあったとしている。「琉球処分」はまさに、近代化、文明化、日本化の名のもと「頑迷固陋」と称された旧体制からの「解放」の側面もあったが、同時にそれは沖縄の歴史や伝統文化に対する「差別」「偏見」を伴い、強圧的な政策により「同化」を迫ってくる「抑圧」の側面も強くあった。
 そしてこの「両義性」や「二重意識」は、現在もなお沖縄に影を落とし続けているという意味において、「琉球処分」の論者自身が、「解放」の側面を享受した・享受したい・享受すべきという立場から論じているのか、それとも「抑圧」に対する抵抗、怒りを表す立場から論じているのかによってえがかれる「琉球処分」像は変わってくる。逆に、読者がどちらの意識をもって「琉球処分」を読むかによってもまた捉えられる歴史像は違ってくる。いいかえれば、「琉球処分」当時に沖縄社会にもたらされた「解放」と「抑圧」の「両義性」、そしてその後の歴史過程の中で、「琉球処分」を描く側、読み取る側がもつ「両義性」と拠って立つ立場、それらがどのように相互に作用しているるかをみることによって、別の視点から「琉球処分」を問い直すことが出来るのではないだろうか。
     大里知子 「『琉球処分』論と歴史意識」 2012  374~376ページ
     http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/7171/1/12_oki_38_ozato.pdf

 

 

…という形での整理の仕方から全体の構図をつかんでおきたい(ここで大里氏は、屋嘉比収氏の『〈近代沖縄〉の知識人 島袋全発の軌跡』 吉川弘文館 2010 にある問題意識を継承しているわけである)。

 

 

 戦後の米軍統治下の沖縄には、いわゆる「革新」陣営の側が「本土復帰・祖国復帰」運動を展開した歴史がある。

 そこに見出されるのは日本への帰属意識であろう。「復帰」は、「独立」した沖縄(かつての琉球國)への復帰としてではなく、「日本」の一部(つまり沖縄県)への復帰として描かれたわけである。

 沖縄のマジョリティーは、「平和憲法」を持つ「祖国日本」への「復帰」を望み、米軍基地の縮小を期待したのであった(大里氏の論考の言葉を流用すれば、「琉球処分」の「解放」の側面を享受した・享受したい・享受すべきという立場が生み出した種類の願望、とでも言えるだろうか)。

 しかし、祖国復帰が実際にもたらしたのは、沖縄県民の望まない、米軍基地の固定化であった。本土では米軍基地が縮小されていたにもかかわらず、それが沖縄に及ぶことはなかったのである(これも大里氏の言葉を借りれば、復帰後の現実が、「琉球処分」後の現実としての明治国家による「抑圧」に対する抵抗、怒りを表す立場の正当性を、沖縄県民に再認識させることになったわけだ)。

 あらためて、日本という国家への帰属意識自体が問われることになる。琉球國の末裔にとって、日本は復帰すべき祖国であったのかどうか?

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/02/19 22:22 → http://www.freeml.com/bl/316274/201365/

 

 

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2013年2月23日 (土)

琉球國の「独立」と伊江朝直 5

 

 明治5(1872)年、琉球国王を華族に列することの可否に関して、左院の答義には次のようにあった。

 

 

 華族宣下ノ不可ナル所以ハ国内形成沿革ノ自来ルニ従テ人ノ族類ヲ区別シテ皇族華族士族ト称謂ヲ定メタルハ国内人類ニ於テ自然ニ斯ク名目ヲ設ケサルヲ得サル勢ニ立至リシモノニシテ今般更ニ琉球国王ニ華族ノ称ヲ宣下スヘキ謂レアラス琉球国王ハ乃チ琉球ノ人類ニシテ国内ノ人類ト同一ニハ混看スへカラス

 

 

 ここで左院は、まず華族宣下の意味を、

  国内形成沿革ノ自来ルニ従テ人ノ族類ヲ区別シテ皇族華族士族ト称謂ヲ定メタルハ国内人類ニ於テ自然ニ斯ク名目ヲ設ケサルヲ得サル勢ニ立至リシモノ

…として示している。左院にとっては、宣下の対象は「国内人類」に限定すべきものなのである。琉球国王に対する「華族宣下ノ不可ナル所以」の核心は、

  琉球国王ニ華族ノ称ヲ宣下スヘキ謂レアラス琉球国王ハ乃チ琉球ノ人類ニシテ国内ノ人類ト同一ニハ混看スへカラス

…という認識にある。その認識を要約すれば(前回に書いたように)、

 

  あくまでも琉球は日本の「外部」の存在、ということ

 

…なのである。

 

 琉球國の「両属」という状態に対する左院の認識を見ておくと、それは、

  

  琉球ノ我ニ依頼スルコト清ヨリ勝レルハ清ニハ名ヲ以テ服従シ我ニハ実ヲ以テ服従スレハナリ

 

…というものであった。ここにある「名」と「実」の関係については「名ハ虚文ナリ実ハ要務ナリ」とされ、「我其要務ノ実ヲ得タレハ其虚文ノ名ハ之ヲ清ニ分チ与ヘ必シモ之ヲ正ササルヘシ」という判断を示していた。

 ここでは、左院により、琉球國は「我ニハ実ヲ以テ服従」しているような存在として位置付けられてもいることに留意しておきたい。

 つまり、琉球は日本の外部であり、しかし同時に、日本に「実ヲ以テ服従」している存在として位置付けられていたことになる。

 

 

 それに対し、井上馨は、

 

  抑臣等居ル所ハ即チ 天子ノ土臣等牧スル所ハ即チ 天子ノ民ナリ安ンソ私有セへケンヤ今謹テ其藩籍ヲ収メテ之ヲ上ル願クハ 朝廷其宣ニ処シ其与フ可キハ之ヲ与ヘ其奪フ可キハコレヲ奪ヒ凡列藩ノ封土更ニ宜シク 詔命ヲ下シテコレヲ改メ定ムヘシ

 

…との論理の延長に琉球國を位置付け、「速ニ其藩籍ヲ収メ明ニ我所轄ニ帰シ国郡制置租税調貢等悉皆内地一軌ノ制度ニ御引直相成」るべきであると主張していた。琉球国王への対応は、井上馨には、あくまでも国内問題なのであった。

 

 

 

 結果から言えば、明治新政府は、左院ではなく井上馨が代表する大蔵省及び華族藩王化を主張する外務省の路線を採用する。

 明治5(1872)年9月14日、伊江王子以下の維新慶賀使は、明治天皇に謁見し、

 

 

 朕上天ノ景命ニ膺リ萬世一系ノ帝祚ヲ紹キ奄ニ四海ヲ有チ八荒ニ君臨ス今琉球近ク南服ニ在リ気類相同ク言文殊ナル無ク世々薩摩ノ附庸タリ而シテ爾尚泰能ク勤誠ヲ致ス宜ク顕爵ヲ予フヘシ陞シテ琉球藩王ト為シ叙シテ華族ニ列ス咨爾尚泰其レ藩屏ノ任ヲ重シ衆庶ノ上ニ立チ切ニ朕カ意ヲ体シテ永ク皇室ニ輔タレ欽ヨ哉

 

 

…との、(琉球国王)尚泰を華族とし琉球藩王とする旨の詔書(註:1)を受け取ることになる。

 

 

 以前にも紹介した琉球大学付属図書館の貴重書展の解説では、

 

 

 1872年(明治5)、明治政府は鹿児島県を通じ、初めて琉球の入朝を促してきた。これを受けて王府は維新慶賀使を派遣したが、同年9月14日、政府は琉使を参朝させ、国王尚泰を琉球藩王となし、華族に列する旨の詔文をくだした。いわゆる琉球藩の設置である。これによって鹿児島県(薩摩藩)の管轄下にあった琉球を、明治政府の直轄に移し、藩王および摂政・三司官の任免権を明治政府が掌握することになった。

 

 

…として示されていた歴史的過程である。ただし、この解説では、「琉球藩の設置」の意味が十分に説明されていないようにも思われる。

 冊封体制の下では、琉球国王は、あくまでも中国(明・清)の皇帝の臣下なのであり、国王の地位は中国の皇帝の権力と権威に基くものであった。確かに琉球國は、日本にとっては「我ニハ実ヲ以テ服従」するような存在であったが、君臣関係においては、琉球国王はあくまでも中国皇帝の臣下なのであって、天皇を頂点とする日本国内の君臣関係の外部の存在だったのである。

 琉球大学図書館の解説文にある、

 

  琉使を参朝させ、国王尚泰を琉球藩王となし、華族に列する旨の詔文をくだした

 

…ということの意味は、単に新たに琉球藩を設置したことにあるのではなく、冊封体制内の(中国皇帝の臣下としての)琉球国王尚泰を明治新体制内の華族とし琉球藩王とすることで、新たに天皇の臣下として位置付けたことにある。

 このようにして明治の新政権は、琉球の取り扱いを国内問題として再定義することに成功したのである。

 

 

 

【註:1】
 実際の詔書の文中では、「琉球国王」との称号は予め取り除かれ、ただ尚泰とのみ名が記されている点にも留意。尚泰を、日本の外部に存在する国家の王として位置付けることになりかねない称号に言及する文言を排除することで、尚泰を当初からの日本の内部存在として位置付けておこうとする明治日本政府の意図が見出されるであろう。
 そのような意味で、詔書の文言は実に周到であり巧妙なものである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/02/09 21:44 → http://www.freeml.com/bl/316274/201153/

 

 

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2013年2月21日 (木)

琉球國の「独立」と伊江朝直 4

 

 前回には、

 

  琉球國は日本の国家領域内の存在であったのかどうか?

 

…と問いを立て、それに日本政府がどのように答えて来たのかを確認してみたわけである。

 

 

 第二次橋本内閣(自民党)及び第三次小泉内閣(これも自民党政権)の下での政府答弁からは、

 

  結局、照屋覚徳参議院議員の「沖縄の人、ウチナーンチュはいつから日本人になったんでしょうか」という質問に対して、日本政府は「いつ」を明確にすることは出来なかったし、鈴木宗男衆議院議員による「政府は、1868年に元号が明治に改元された時点において、当時の琉球王国が日本国の不可分の一部を構成していたと認識しているか」という質問に対しても、「いつから日本国の一部であるかということにつき確定的なことを述べるのは困難であるが、遅くとも明治初期の琉球藩の設置及びこれに続く沖縄県の設置の時には日本国の一部であったことは確かである」としか答えることが出来なかったのである。

  つまり「日支両属」時代の琉球國(琉球王国)に関しては、日本の国家領域の内部の存在として明確に位置付けることが困難であることを、日本政府は明言していたことになる。

 

…として要約され得るような日本政府の認識が明らかとなった。そのことを確認した上で、

 

  しかし、照屋議員の問いは、「沖縄の人」が日本人=日本民族(いわゆるヤマト民族)かどうかの問題(民族的帰属問題)としても展開し得るものであり、これもまた一義的に決定され得るような問題ではないのである。

 

…という問題の所在にも言及したわけである。念のために照屋議員の問いを再確認しておくと、

 

  沖縄の人、ウチナーンチュはいつから日本人になったんでしょうか?

 

…というものであった。この問いを、

 

  沖縄の人(沖縄人あるいは琉球人)は、日本の外部の存在なのか、それとも内部の存在なのか? 内部の存在だとしたら、いつから日本の内部の存在となったのか?

 

…という問題として考えてみたい。

 

 

 

 明治の新政府の側にいた人々に、その問題はどのように認識されていたのだろうか?

 ここに明治5(1872)年の有名なやり取りがある(いわゆる「琉球処分」の過程の最初の段階のものである)。

 

 明治維新とは、国内の再統一と中央集権化の試みでもあった。そして、藩政奉還・廃藩置県という手続きを介して、日本列島は明治政府の一元的支配下に再編成される。

 それまでの「日支両属」という琉球國(琉球王国)との関係も、再検討されることになる。そこでは、「日支両属」という関係を解消し、琉球國を日本の国家領域内の存在として再編成する方途が政策課題として浮上した。

 方向性としては、「日支両属」を維持しながら日本との関係を強化する(させる)のか? あるいは、琉球國と清国の冊封関係を清算させた上で、琉球を日本の排他的国家領域内部の存在として確定させるのか? という二者に代表されるものとなった。

 

 後者の代表として問題提起をしたのが、当時、大蔵大輔の地位にあった井上馨であった。井上の建議には、

 

 彼ノ酋長ヲ近ク 闕下ニ招致シ其不臣ノ罪ヲ譴責シ且前文慶長大捷以後ノ情況順逆ノ大義土地ノ形勢其他伝記典章待遇交渉ノ上ニ表見スル証跡ヲ挙ケ詳細ニ説明シ彼ヲ使テ悔過謝罪茅土ノ不可私有ヲ了得セシメ然後速ニ其藩籍ヲ収メ明ニ我所轄ニ帰シ国郡制置租税調貢等悉皆内地一軌ノ制度ニ御引直相成一視同仁 皇化洽浹ニ至候

 

…とあった。井上は琉球国王に対し、「速ニ其藩籍ヲ収メ明ニ我所轄ニ帰」するよう求めることを提案したのである。この問題について大蔵省サイドでは、

 

 抑臣等居ル所ハ即チ 天子ノ土臣等牧スル所ハ即チ 天子ノ民ナリ安ンソ私有セへケンヤ今謹テ其藩籍ヲ収メテ之ヲ上ル願クハ 朝廷其宣ニ処シ其与フ可キハ之ヲ与ヘ其奪フ可キハコレヲ奪ヒ凡列藩ノ封土更ニ宜シク 詔命ヲ下シテコレヲ改メ定ムヘシ

 

…という言い方もされていた。「朝廷其宣ニ処シ其与フ可キハ之ヲ与ヘ其奪フ可キハコレヲ奪ヒ」との主張である。

 一方、外務省サイドの建議書では「尚泰ヲ藩王ニ封シ華族ニ列シ其外交ヲ遏メン」と主張された。琉球国王尚泰をあらためて琉球藩王に封じ、華族とする方策である。

 

 その両者に対する左院(立法院)の対応が興味深いわけである。左院は、建議に対し否定的な見解を示したのである。左院の答義には次のようにあった

 

 華族宣下ノ不可ナル所以ハ国内形成沿革ノ自来ルニ従テ人ノ族類ヲ区別シテ皇族華族士族ト称謂ヲ定メタルハ国内人類ニ於テ自然ニ斯ク名目ヲ設ケサルヲ得サル勢ニ立至リシモノニシテ今般更ニ琉球国王ニ華族ノ称ヲ宣下スヘキ謂レアラス琉球国王ハ乃チ琉球ノ人類ニシテ国内ノ人類ト同一ニハ混看スへカラス

 

 左院は、

  琉球国王ハ乃チ琉球ノ人類ニシテ国内ノ人類ト同一ニハ混看スへカラス

…との理由で、琉球国王尚泰に対し「華族ノ称ヲ宣下」することの不可を主張したのであった。「藩王」という名称をめぐっても、

 

 琉球王トカ中山王トカニ封スルハ可トス琉球藩王ニテハ藩号穏当ナラス内地ハ廃藩置県ノ令ヲ布テ琉球ニ更ニ藩号ヲ授ルハ名義ヲ以テ論シテモ前令ト相応セス琉球ハ兵力単弱ニシテ皇国ニ藩屏タル能ハサルハ世ノ知ル処ナレハ実際ヲ以テ論シテモ藩号ノ詮ナシ故ニ藩号ヲ除テ琉球王ノ宣下アルヲ可ナリトス

 

…と批判した。

 左院によって、「琉球ノ人類」は「国内ノ人類ト同一」ではないのであり、琉球は「内地」の「藩」とは異なる取り扱いをすべきものとして主張されたのである。あくまでも琉球は日本の「外部」の存在、ということなのだ。

 もっとも、左院によれば、

 

 皇国ハ東西洋一般ニ知ル所ノ帝国ナレハ其下ニ王国アリ候国アルハ当然ノ事ナレハ琉球ヲ封シテ王国ト為ストモ候国トナストモ我為ント欲スル所ノ儘ナレハ藩号ヲ除キ琉球王ト宣下アリテモ我帝国ノ所属タルニ妨ケナシ

 

…ということなのでもあった。つまり、帝国としての日本の内部の王国として位置付けようというわけである。しかし、この主張は、

 

 右ノ如ク我ヨリ琉球王ニ封シタリトモ更ニ清国ヨリモ王号ノ封冊ヲ受ルヲ許シ分明ニ両属ト看做スヘシ

 

…という認識(「両属」という形式の容認)に伴われるものであり、明治日本が対応を迫られていた近代国際法的秩序(そこでは排他的支配領域の確定が重要になる)に対する理解の不足を示すものと考えることも出来る。

 

 

 しかし、いずれにせよ、ここに明らかに存在したのは、琉球國を、琉球国王を、そして沖縄の人々を、日本なるものの外部の存在として位置付けるような認識のあり方である。

 

 再確認すれば、

  琉球國は日本の国家領域内の存在であったのかどうか?

…という問いに対し、何の躊躇もなく、

  琉球は日本である

…との認識を示すような対応は、明治初年の段階では、政府当局者にとってさえも、自明のものではなかったのである。

 そこに見出されたのは、「異国」としての琉球觀である。

 

 「異国」としての琉球を「征伐」した薩摩藩・徳川幕府権力が、将軍の代替わりや琉球国王の代替わりに際し、「異国」としての琉球からの使節団を迎えることで、その実力を誇示した歴史が反映されているのである。

 「日本」が、琉球をどのように位置付けていたのかという問題は、単純に一刀両断出来るような性質の話ではないのである(註:1)。

 

 

 

【註:1】
 今回の記事で紹介した明治初年の政府サイドの認識と、シリーズの第一回で示した幕末の徳川幕府サイドの認識とを重ねることで、日本と琉球の関係をいかに捉えるのかという問題が、明治維新前後の段階においては、決して自明のものではなかったことが理解されるはずである。以下に再録しておく。

 1850年代に入ると、琉球・日本への外圧はさらに増大した。「黒船」を率いて来日したペリー提督との開国交渉の前後に、江戸幕府の内部では琉球の「所属」問題が重要議題として論議され、老中の阿部正弘は琉球を日清両属と位置づけることが妥当かどうか、関係部門へ諮問した。林復斎(儒官、大学頭)らは琉球を日清「両国に随従」している国としながらも、最終的には「唐土の属国と申し候て然るべし」と答申し、井戸石見守(海防掛)らは「矢張り両国随従の国」とみなし日清両属論を妥当としたが、川路(勘定奉行)らはいずれとも「差し極め申し上げ難く」と態度を保留し、琉球を管轄する薩摩藩主島津斉彬の意見を聞くべきだと回答した。斉彬は17世紀の明清交替時点における幕府の選択(琉球切り捨て論)に注目しながらも、最終的には琉球の意思を確かめる必要があるとして、自らの直接の意思表示を避けた(洞富雄訳『ペリー日本遠征随行記』「付録2」)。
     西里喜行 琉球処分再考(上)沖縄タイムス(2009・06・29)

 示されているのは、徳川幕府の公式見解における混乱ぶりであり、明治以前の段階での、琉球國が日本の内部の存在であるのか外部の(独立した)国家であるのかについての共通認識の不在の事実である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/02/08 21:05 → http://www.freeml.com/bl/316274/201127/

 

 

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2013年2月20日 (水)

琉球國の「独立」と伊江朝直 3

 

 琉球國を独立国として取り扱うことが適切であるかどうかについて考えてきたわけだが、今回は、

 

  琉球國は日本の国家領域内の存在であったのかどうか?

 

…という観点から、問題に照明を当ててみたい。

 

 

 

 与儀武秀氏によれば、日本政府の見解は以下のようであったという。

 

 

 1997年4月の参院特別委員会で、当時参院議員の照屋覚徳氏が「沖縄の人、ウチナーンチュはいつから日本人になったんでしょうか」という質問を行った。これに対し、答弁に立った当時の政府担当者は「明治32年(1899年)に旧国籍法が制定された。沖縄の方々はその旧国籍法施行の前から一般に日本国籍を有するものとされていたというふうに承知している」との返答を行っている。
 …(中略)…
 質疑の前に、通例に従ってあらかじめ質問通告をした際には、議員からの「質問取り」のため照屋氏を訪れた法務省の担当者が、再三にわたり「ウチナーンチュはいつから日本人になったか、との質問は取り下げてもらえないか」「むつかしくて答えられません」と申し入れてきたという。
 だが結局、質疑は取り下げられず、前出のやりとりがなされた。その上で、引き続き論議は、近代沖縄の帰属とそのあり方についての根本的な関連質疑へとつながっていく。
     与儀武秀 「沖縄は何時から日本か」 (「沖縄タイムス」09.06.29)
     http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/history02yogi.html#y01

 

 

 これが、自民党第二次橋本政権下での日本政府の見解である。また、

 

 

 近代日本という統一的な国家内に沖縄が組み込まれた経線について、2006年3月の臨時国会では、衆院議員の鈴木宗男氏が政府の見解を質している。
 鈴木氏は琉球王国についての質疑で、「政府は明治維新の時点で琉球王国は日本国の不可分の一部を構成していたと認識しているか」と尋ねた上で、19世紀中ごろに琉球とアメリカ、フランス、オランダとの間で締結された修好条約が法的根拠を持つ国際条約かを確認した。政府側は「沖縄については、遅くとも明治初期の琉球藩の設置及びこれに続く沖縄県の設置の時には日本国の一部であったことは確か」と説明。各修好条約については「日本国としてこれら各国との間で締結した国際約束ではなく、その当時における法的性格につき政府として確定的なことを述べることは困難である」と答弁した。
 これを受け、鈴木氏は「理由を明示せずに答弁を拒否している部分があるところ、追加質問する」とした上で、「1871年にいわゆる廃藩置県が行われ、藩を撤廃する形での行政改革が行われたにもかかわらず、なぜ沖縄では(1879年に)藩が設置されたのか」「政府は、1868年に元号が明治に改元された時点において、当時の琉球王国が日本国の不可分の一部を構成していたと認識しているか」などとあらためて質問。
 これに対し答弁では「1872年当時、沖縄において県ではなく藩が設置された理由については、承知していない」「いつから日本国の一部であるかということにつき確定的なことを述べるのは困難であるが、遅くとも明治初期の琉球藩の設置及びこれに続く沖縄県の設置の時には日本国の一部であったことは確かである」と答えている。
     同 (沖縄タイムス 09.07.13)

 

 

 こちらは自民党第三次小泉政権下での政府見解である。

 結局、照屋覚徳参議院議員の「沖縄の人、ウチナーンチュはいつから日本人になったんでしょうか」という質問に対して、日本政府は「いつ」を明確にすることは出来なかったし、鈴木宗男衆議院議員による「政府は、1868年に元号が明治に改元された時点において、当時の琉球王国が日本国の不可分の一部を構成していたと認識しているか」という質問に対しても、「いつから日本国の一部であるかということにつき確定的なことを述べるのは困難であるが、遅くとも明治初期の琉球藩の設置及びこれに続く沖縄県の設置の時には日本国の一部であったことは確かである」としか答えることが出来なかったのである。

 

 つまり、日本政府は、

 

  元号が明治に改元された時点において当時の琉球王国が日本国の一部を構成していた

 

…のかどうかという質問を前に、明確な返答を与えることが出来なかった(「確定的なことを述べるのは困難である」と言っているわけだから)、ということになる。

 別の言い方をすれば、「明治初期の琉球藩の設置及びこれに続く沖縄県の設置」以前の時期の琉球王国については、「日本国の一部であったことは確か」とは言えないということなのである。

 つまり「日支両属」時代の琉球國(琉球王国)に関しては、日本の国家領域の内部の存在として明確に位置付けることが困難であることを、日本政府は明言していたことになる。

 

 

 照屋覚徳参議院議員の「沖縄の人、ウチナーンチュはいつから日本人になったんでしょうか」という問いについて言えば、鈴木宗男氏の質問とは異なる問題として考えることも出来る。

 「沖縄の人」が日本人であるかどうかという問題を国籍問題として考えれば、琉球王国の領域が日本の国家領域の内部にあったかどうかという問題(鈴木宗男氏の問い)と重ねて考えることは可能である。

 しかし、照屋議員の問いは、「沖縄の人」が日本人=日本民族(いわゆるヤマト民族)かどうかの問題(民族的帰属問題)としても展開し得るものであり、これもまた一義的に決定され得るような問題ではないのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/02/06 21:46 → http://www.freeml.com/bl/316274/201079/

 

 

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2013年2月19日 (火)

琉球國の「独立」と伊江朝直 2

 

 前回は、言うなれば、

 

  琉球國を独立国として取り扱うことの正当性は、一義的に決定される性質のものとはなり得ない

 

…という認識の正当性の一端を確認したようなものかも知れない。

 

 

 再び、安良城盛昭氏の、

 

 

 しかしながら、琉球王国は、他方、「異国=外国」ともみなされており、それ故に、琉球国王が中国の皇帝から冊封をうけることが容認され、琉球王国内では中国年号が使用されていた。島津の「領分」であるという点で、日本=幕藩体制社会の一環に組みこまれていながらも、他方、「異国=外国」であり、琉球国王は中国皇帝の冊封を受けているという、琉球王国の特殊な地位を、首里王府は「日支両属」ととらえたのであった。この首里王府の主張は、島津の実質的な琉球支配と、形式的な冊封=朝貢関係以外に現実的な支配=従属関係は一切存在しなかった中国との関係を、等置している点で歴史認識として不正確である

 

 

…という一文を取り上げるなら、「日支両属」という「首里王府の主張」に対し「歴史認識として不正確である」と指摘する安良城氏の論自体(あるいは言い方)に、問題が集約されているとも考えられる。

 

 果たしてこれは「首里王府」の「歴史認識」の問題なのであろうか? そして、その「不正確」さの問題なのであろうか?

 「歴史認識」の問題として考えるなら、ヨーロッパのローカルな国家間システムを支えたウェストファリア条約以来の主権国家概念が、19世紀の半ば以降の東アジア世界をも拘束するものとなり、最終的に冊封体制を支えた国家概念と置換されるに至ったという歴史的事実があるだけではないだろうか?

 東アジアの冊封体制の下では、近代的国際法を支える主権国家概念とは異なる構図によって諸国家が存立していたわけであり、近代国際法的な主権国家概念を遡及的に当てはめて「琉球國」の「独立」を問うこと自体に問題があるように思われる。首里王府の持った「歴史認識の不正確さ」の問題ではなかろう(国際情勢理解の甘さの問題ではあっても)。

 

 琉球國の国王の地位について言えば、その地位は中国皇帝の権威によって保障されたものであり、天皇を頂点とする律令制の官職の体系の完全な外部の存在なのである。

 

 

 
 しかし、一方で、薩摩藩の支配下となったことで「首里王府」は、、

 

 

 1611(慶長16)年、島津家久は尚寧に領有すべき知行目録(ちぎょうもくろく)を与えて、琉球が守るべき事柄を記した「掟十五条」(おきてじゅうごじょう)を言い渡し、琉球への帰国を許しました。
 同年9月には薩摩藩主家久宛の起請文(きしょうもん)(誓約書)を書かされました。島津氏は薩摩支配の全期間にわたり琉球国王以下、摂政(せっせい)・三司官(さんしかん)の個々人からそれぞれ起請文をとり、薩摩支配に服する旨の誓約を行わせました。
     http://www.archives.pref.okinawa.jp/publication/2012/04/post-168.html

 

 

…という状況にも立ち至るわけである。

 琉球国王の起請文を以下に示せば、

 

 

 慶長十六年辛亥九月十九日尚寧誓文

一 琉球古ヨリ島津氏ノ附庸タリ太守任ヲ襲カハ紋船ヲ發シテ祝シ奉リ歳時使ヲ派シ方物ヲ獻シ禮義怠ルナシ太閤秀吉公薩摩ニ定附シ諸般ノ徭役ニ從ハシム但タ遠陬法令ニ遵ハス自カラ罪戻ヲ招キ國破レ身擒ニセラレ生歸ノ念ヲ絶チ鳥ノ籠中ニ在ルカ如クナリシニ何ソ圖ラン家久公ハ窮囚ヲ哀憐セラレントハ既ニ放歸ヲ得又タ諸島ヲ割テ以テ下賜セラル此ノ如キ厚恩ハ何ヲ以テ之ニ報セン永世ニ薩州ノ君ニ對テ敢テ或ハ背クナカラン

一 子々孫々相ヒ傳へ此誓言ニ服シ敢テ失遺セス

一 定ムル所ノ法度ハ敢テ違亂セス

右敢テ背ク有ラハ神明コレヲ殛セン

     『日本外交文書』(ただし、大山梓 「琉球帰属と日清紛議」による)

 

 

…という内容であり、「琉球古ヨリ島津氏ノ附庸タリ」のような史実と異なる不当な文言さえ含まれるものであった。

 ここで琉球国王は、「薩州ノ君」への服従を誓約している(永世ニ薩州ノ君ニ對テ敢テ或ハ背クナカラン)わけである。

 国王のこのような薩摩への服従状況を前にして、その国王の統治する国家の「独立」を自明のこととして主張するのも困難であろう。

 冊封体制下の琉球國に対し、中国(明・清)の皇帝権力による排他的支配の事実はないし、薩摩藩(あるいは徳川幕府、あるいは天皇家)による排他的支配の事実があるわけでもなく、琉球国王が琉球國を排他的に支配していたということも出来ないわけである。

 ここに「日支両属」という、冊封体制下での独特の地位(国家の位置付け)があると考えておくべきなのであろう。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/02/05 22:30 → http://www.freeml.com/bl/316274/201055/

 

 

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2013年2月17日 (日)

琉球國の「独立」と伊江朝直 1

 

 維新慶賀使としての伊江朝直(伊江王子)の評価を語ろうとするに際し、

 

  「琉球処分」により、琉球國の独立が終焉を迎えたのか、それともそれ以前に(薩摩藩の支配により)琉球國の独立は失われていたのか? その問いに簡単に答えることは難しい。

  伊江王子が「琉球処分」の最初の段階を受け入れたことで琉球國が独立を失ったのか、そもそもそれ以前に既に独立状態ではなかったのか? そこから考えなければならない問題なのである。

 

…という話をした(「恐ろしき者の末の末 8」 )が、実際、歴史学の世界で、どのように論じられているのかを読んでおこう。

 

 

 

 西里喜行氏による「琉球処分再考(上)」には、次のような事例が紹介されている。

 

 

 1850年代に入ると、琉球・日本への外圧はさらに増大した。「黒船」を率いて来日したペリー提督との開国交渉の前後に、江戸幕府の内部では琉球の「所属」問題が重要議題として論議され、老中の阿部正弘は琉球を日清両属と位置づけることが妥当かどうか、関係部門へ諮問した。林復斎(儒官、大学頭)らは琉球を日清「両国に随従」している国としながらも、最終的には「唐土の属国と申し候て然るべし」と答申し、井戸石見守(海防掛)らは「矢張り両国随従の国」とみなし日清両属論を妥当としたが、川路(勘定奉行)らはいずれとも「差し極め申し上げ難く」と態度を保留し、琉球を管轄する薩摩藩主島津斉彬の意見を聞くべきだと回答した。斉彬は17世紀の明清交替時点における幕府の選択(琉球切り捨て論)に注目しながらも、最終的には琉球の意思を確かめる必要があるとして、自らの直接の意思表示を避けた(洞富雄訳『ペリー日本遠征随行記』「付録2」)。
     西里喜行 琉球処分再考(上)沖縄タイムス(2009・06・29)
     http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/history02.html

 

 

 示されているのは、明治政府による「琉球処分」に先立つ時期の日本国家を代表する徳川幕府の公式見解(の混乱)と言えるだろう。

 ここに明らかなことは、明治以前の段階での、琉球國が日本の内部の存在であるのか外部の(独立した)国家であるのかについての共通認識の不在の事実である。つまり琉球國の位置付けは、近世日本の統治者にとって自明のものではなかったのである(もちろんそれは、ヨーロッパ起源の「国際法」に基く国家概念の適用という新たな課題を前にしてのことであったが)。

 

 

 安良城盛昭氏は「琉球処分論」の補注で、琉球王国(琉球國)側の認識について、

 

 

 しかしながら、琉球王国は、他方、「異国=外国」ともみなされており、それ故に、琉球国王が中国の皇帝から冊封をうけることが容認され、琉球王国内では中国年号が使用されていた。島津の「領分」であるという点で、日本=幕藩体制社会の一環に組みこまれていながらも、他方、「異国=外国」であり、琉球国王は中国皇帝の冊封を受けているという、琉球王国の特殊な地位を、首里王府は「日支両属」ととらえたのであった。この首里王府の主張は、島津の実質的な琉球支配と、形式的な冊封=朝貢関係以外に現実的な支配=従属関係は一切存在しなかった中国との関係を、等置している点で歴史認識として不正確である

 

 

…と指摘している。

 しかし、本文においては、

 

 

 先にも指摘したように、琉球は薩藩領の一部分であって、したがって、島津氏の琉球領知は、代々の将軍による領知判物によって確認されていた。したがって、本土の諸藩の通例を以てすれば、薩摩藩主島津久光の版籍奉還は、島津の琉球に対する明治2(1869) 年の島津久光の版籍奉還は琉球をも含んでいた筈である。しかしながら、その版籍奉還は、島津久光の琉球支配権の返上=放棄ではありえても、そのことが直ちに、琉球国王尚泰の琉球統治権の天皇への返上に必ずしも直結しないところに、当時の琉球の歴史的地位の特殊性が浮彫りされているのである。
 たしかに、琉球は島津の「領分」に属してはいたが、その国王尚泰は中国皇帝の冊封をうけ、琉球国に対する統治についても、島津の指令権・監督権を容認した上で、かつ、島津に対する一定の貢納義務を負うことを絶対的義務としてはいたが、王府は広汎な内政上の自裁を許されていたのである。かかる歴史的事実は、本土諸藩の通例を以てしては、その版籍泰還を論じられないことを暗示しているのであって、島津久光の版籍泰還によって琉球の版籍泰還が完了しているとは単純にみなし難いのである。
 事実、本土の廃藩置県後、薩摩藩が鹿児島県に移行するにともなって、一応鹿児島県の管轄下に置かれていた琉球王国を、明治5(1872)年、外務省の管轄下に移し、改めて琉球藩とし藩主ならぬ「藩王」という沖縄だけにみられる特殊身分=地位に琉球国王尚泰を任じ、さらに、副島種臣外務卿は、「御国体・御政体永久不相替」と上京した藩吏に約束しているのである。そしてまた琉球藩設置後一応は、「先年来其藩二於テ、各国ト取結候条約、並ニ今後交際ノ事務、外務省ニテ管轄候事」と琉球藩に指示しながらも(明治5年9月28日)、進貢貿易について、明治政府はこれを積極的に公認しないまでもともかく容認しており、明治7年(1874)年秋に沖縄を出帆した進貢船二隻には進貢使国頭親雲上外17名が搭乗しており、翌明治8(1875)年3月一行は北京に現われ、明治7(1874)年10月31日の台湾事件についての日清和議成立以来、琉球の日本帰属の確定を信じて疑わない北京の日本公使館員を驚かせているのである。
     安良城盛昭「琉球処分論」(『新・沖縄史論』沖縄タイムス社1980)
     http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/arakimoriaki78.htm

 

 

…と、「琉球処分」(明治12年の琉球藩に対する「廃藩置県」により完成される「琉球処分」の起点に明治5年の維新慶賀使派遣が位置付けられる)に至る過程を記している。明治新政府の側も、琉球國の処遇を最初から国内問題として取り扱ってはいないことがわかるはずである。

 実際、安良城氏は、

  たしかに、琉球は島津の「領分」に属してはいたが、その国王尚泰は中国皇帝の冊封をうけ、琉球国に対する統治についても、島津の指令権・監督権を容認した上で、かつ、島津に対する一定の貢納義務を負うことを絶対的義務としてはいたが、王府は広汎な内政上の自裁を許されていた

…と書いており、ここにあるのは琉球國に君臨し統治する(「王府は広汎な内政上の自裁を許され」ていたという意味において)琉球國の国王の姿である。しかも、その国王尚泰は中国皇帝の冊封により地位にあるのであって、天皇により律令制官職内部の地位に任じられているわけではない。つまり「国体」(いわゆる天皇制)の外部の存在なのである(私はこれは重要な問題だと考える)。

 当初、琉球藩が外務省の管轄であった事実も、琉球國を日本国の国内の一地方としてストレートに位置付けることの困難さの存在を示しているだろう。

 

 

 しかし、同時に安良城氏は、真境名安興の『沖縄現代史』(1923)に、

 

 

 (1)「是より先幕府の末路より維新に至りし政変が、如何に沖縄に於て観測せられしかといふに、慧敏なる沖縄の政治家は当時外国船?々渡来して外国関係を生ぜしより、夙に世界の気運に鑑み、我国の開国の巳むべからざるを察知し、延いて亦沖縄の政界にも何時か低気圧の襲来すべきことを予測せり。安政5(1858)年即ち明治12(1879)年に於ける沖縄の廃藩置県を距ること20年前に於て、当時73歳の紫金大夫林文海 (城間親方) は、英仏の勢力が漸く東亜に瀰漫し来り、支那に朝貢せし安南の未路を観て、琉球の運命を揣摩し、支那と朝貢を絶ちて、我本土と併合統一せられべきことを論断し

 (2)「当時の碩学本国興 (津波古親方政正)の如きは、明治4 (1871) 年に於ける各藩の廃藩置県の処分を観て、沖縄の将来を揣摩し、視察員を内地の藩に派遣して、その状況を調査せしめ、寧ろ我より進んで、版籍奉還を為すを以て沖縄の国益なりと主張し、建策する所ありしも、当時の国論は之を腐儒迂人の言として一顧を与えられざりきといふ。又彼は、本土の事情を知らしむる為に、初めて当時の新聞紙を尚泰王に奉りたるに依り、益々世人の指弾を受けた

 

 

…との記述のあることを指摘することで、琉球國側の帰属意識もまた変容の渦中にあった、あるいは一元的なものではなかったことを示している。

 ここには、「両属」が国家としての独立を意味するのか二元的従属を示すのかという問題も残されているだろう。

 以前に用いた言葉を繰り返せば、

 

 琉球國を独立国として取り扱うことの正当性は、一義的に決定される性質のものとはなり得ない

 

…ということなのである。

 

 

 

(引用文の文言の表記には問題があるが、ここではネット上のものをそのまま利用している)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/02/04 22:52 → http://www.freeml.com/bl/316274/201036/

 

 

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