カテゴリー「恐ろしき者の末」の記事

2013年2月12日 (火)

恐ろしき者の末の末 8

 

 クンデラは、

 

 

 一六一八年チェコの上流階級の人たちが勇気を奮いおこして、自分たちの宗教の自由を守ることを決意し、ウィーンに居を構えていた皇帝に憤激し、プラハの城の窓から皇帝の二人の高官を投げ落とした。そこでチェコ民族をほとんど完全に絶滅に導いた三十年戦争が始まった。当時チェコ人は勇気より慎重さのほうを示すべきであったろうか? 答えは容易であるようにみえるがそうではない。
      ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』 集英社文庫  282~283ページ

 

 

…と書いていたわけだが、その悲惨な三十年戦争はウェストファリア条約(ヴェストファーレン条約)により終結する。

 ウェストファリア条約によって、現在の「国際法」の基礎となった国家観が確立されたわけである。

 

 『ウィキペディア』先生にご登場願うと、「ウェストファリア条約」の結果ヨーロッパにもたらされた「ウェストファリア体制」について、

 

 

 もっとも大事なのは国家における領土権、領土内の法的主権およびと主権国家による相互内政不可侵の原理が確立され、近代外交および現代国際法の根本原則が確立されたことである。体制自体は、当時のヨーロッパ列強、フランス王国、神聖ローマ帝国、スウェーデン王国(バルト帝国)及びヨーロッパの経済大国、イングランド王国、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)によって維持されたが、18世紀の戦争(大北方戦争、第2次百年戦争)によって形骸化し(1740年以降は、グレートブリテン王国、ハプスブルク帝国、フランス王国、プロイセン王国、ロシア帝国の五頭体制に移行する)、ナポレオン戦争をもって完全に崩壊する。

 しかし、本条約の原則を基礎とする国際法は以後も継続されたため、現在の主権尊重の国際法そのものの現在のあり方を「ウェストファリアシステム」と呼ぶこともある。

 

 

…と説明されている(「ヴェストファーレン体制」の項)。

 これ以後、国家の統治権力による排他的な一元的領域支配に基礎を置く「主権国家」間の関係として、ヨーロッパの国家間の外交は展開されるようになる。そこでは統一的な権力が国境線内を排他的に支配する事実に、主権の存在を見るのである。

 

 その17世紀ヨーロッパの、そもそもはローカルな国家間関係を律するものであった「主権国家」概念は、ヨーロッパ諸国が「列強」としてアジア・アフリカを植民地化するにつれ、地球全体を覆うものとなる。

 19世紀の後半には、日本を含む東アジアも、その国際法(「萬国公法」などと訳されていたが)システムの中に組み込まれてしまうのである。

 

 それまでの東アジア世界は、帝国としての中国を中心とした冊封体制を国家間システムとしており、それはヨーロッパ流の主権国家とは異なる国家概念に基づくものであった。

 

 そこでは琉球國は、その国王の地位を中国(明・清)の皇帝に保障され、それに対し朝貢の義務を果たすことで、東アジアの(冊封体制内の)一国家として位置付けられていたが、その一方で17世紀以降は薩摩藩の支配下にも置かれ、その状況を「両属」と呼ぶことで処理されてきた。琉球國の統治権力は、排他的に領域支配をするという意味での、ヨーロッパ的な「主権」を行使する主体ではなかったわけである。

 

 ここで問題となるのは、そのような琉球國を「独立国」と見做し得るのかどうかである。

 冊封体制内の諸国家は、形式的には中国皇帝権力の従属的な存在であり、そもそもその意味では、ヨーロッパ的概念での主権国家とは異なる側面があることは否定出来ない。しかし、その「従属」は形式的なものであって、諸国家の国王は領域内での排他的な権力行使の主体でもあった。

 

 ただし、琉球國には薩摩藩の支配を排除する軍事的基盤はなく、その意味で琉球国王の権力は限定されたものだったが、しかし薩摩藩(そして徳川幕府)の側もまた、琉球國と中国皇帝権力との関係を放置し、琉球國に対する排他的支配を確立することもなかったのである。

 

 その意味で、琉球國を独立国として取り扱うことの正当性は、一義的に決定される性質のものとはなり得ないのである。

 

 

 「琉球処分」により、琉球國の独立が終焉を迎えたのか、それともそれ以前に(薩摩藩の支配により)琉球國の独立は失われていたのか? その問いに簡単に答えることは難しい。

 

 伊江王子が「琉球処分」の最初の段階を受け入れたことで琉球國が独立を失ったのか、そもそもそれ以前に既に独立状態ではなかったのか? そこから考えなければならない問題なのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/02/03 23:48 → http://www.freeml.com/bl/316274/201010/

 

 

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2013年2月11日 (月)

恐ろしき者の末の末 7

 

 かつてミラン・クンデラは、

 

 

 歴史も、個人の人生と似たようなものである。チェコ人の歴史はたったの一度しかない。トマーシュの人生と同じようにある日終わりを告げ、二度繰り返すことはできないであろう。
 一六一八年チェコの上流階級の人たちが勇気を奮いおこして、自分たちの宗教の自由を守ることを決意し、ウィーンに居を構えていた皇帝に憤激し、プラハの城の窓から皇帝の二人の高官を投げ落とした。そこでチェコ民族をほとんど完全に絶滅に導いた三十年戦争が始まった。当時チェコ人は勇気より慎重さのほうを示すべきであったろうか? 答えは容易であるようにみえるがそうではない。
 三百年後、一九三八年のミュンヘン会談の後、全世界はチェコ人の土地をヒットラーに捧げることを決めた。当時八倍もの強力な敵に自分たちで戦ってみるべきであったろうか? 一六一八年と違って当時は勇気よりも多くの慎重さを持っていた。チェコの占領により、何十年あるいは何百年とチェコ民族の自由の究極的喪失へとつながる第二次世界大戦が始まった。当時慎重さよりもより多くの勇気を持つべきであったのであろうか? 何をなすべきであったのか?
 もしもチェコの歴史を繰り返すことが可能であるなら、そのつど違うほうの可能性を試してみて、そのあとで二つの結果を比較してみればもちろんいいに違いなかろう。このような実験がないなら、あらゆる考察は単に仮説の遊びにすぎない。
      クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』 集英社文庫  282~283ページ

 

 

…と書いていたわけだが、1618年のチェコの歴史と1938年のチェコの歴史だけではなく、ここには1968年のチェコの歴史も埋め込まれているわけである。いわゆる「プラハの春」と、それを戦車で踏み潰したブレジネフの「社会主義共同体の利益」の論理が、である。

 

 1618年のチェコの貴族の勇気ある判断は、しかしチェコを荒廃に導いた。

 1938年のチェコ人は、ミュンヘン協定の結果を受け入れることで、ヒトラーの占領下に置かれることになった。1942年になり、慎重さより勇気を選択したチェコ人が副総督ラインハルト・ハイドリヒの暗殺に成功したが、ナチスの報復には容赦がなく、リディツェの村は完全に破壊され、村の男性のすべてが殺害され、女と子供は強制収容所に送られた。

 
 『存在の耐えられない軽さ』は、まず1968年のプラハの出来事が舞台とされる小説である。第一書記アレクサンドル・ドプチェクの下で、共産党の独裁的支配が否定され、社会主義と民主化の両立への希望が芽生えていた時代である。

 しかし、ソ連共産党書記長レオニード・ブレジネフにも、その他の東欧の政治指導者にとっても、チェコスロバキアで進行している事態は容認出来るものではなく、ワルシャワ条約機構の軍隊はチェコスロバキアの国境内に侵攻し、「プラハの春」などなかったことにされるのである。再び秘密警察と密告の時代に逆戻りするのだ。

 

 

 クンデラの問いは、1968年のプラハに生きた主人公の姿に託されたものだが、侵入したソ連の戦車への抵抗の可能性と1938年のチェコの経験とを重ね合わせ、そこに1618年の経験をも重ね合わせ、暴力による支配に対する「態度決定の正しさ」の決定不能性を明らかにしているわけである。

 
 正しさへの殉教は確かに美しく、人を感動させる。支配者ハイドリヒを暗殺する行為は、「正義」の名に値するものかも知れない。ソ連の戦車の前に身を投げて轢き殺されることは、確かに気高い行為であろう。

 しかし、ハイドリヒの暗殺はナチス支配を終焉させることには結びつくことはなかったし、ソ連の戦車に轢き殺されることによりブレジネフの態度が変化することもなかった。

 

 

 現在、ウィーンにチェコを支配する皇帝はいないし、ヒトラーの帝国がチェコを支配してはいないし、プラハの街角にソ連の戦車の姿はない。勇気ある抵抗者の姿は、確かに私達の心情を高揚させるが、その勇気が現在の皇帝の高官もヒトラーの兵士もブレジネフの戦車もいないプラハをもたらしたわけでもない。「勇気ある抵抗者の姿」は美しいエピソードであるが、それが暴力支配の終焉に直接結び付くものとなったわけではないのである。

 1618年の、1938年の、1968年のチェコの選択、ひとりひとりのチェコ人の選択の何が正しかったのかを決定することは難しい。

 しかし、それは、ヒトラーと手を結ぶこと、ブレジネフと握手をすることが正しかったという認識を意味するわけでもないだろう。

 

 

 

 琉球大学附属図書館の貴重資料展の解説では、

 
 

 琉球処分とは、明治政府のもとに琉球が日本の近代国家のなかに組み込まれる一連の過程をいう。その期間は、沖縄が1872年(明治5)の琉球藩として設置され、1879年(明治12)に廃藩置県となり、その翌年に分島問題が起こるまで、前後9年間にまたがる。
 1872年(明治5)、明治政府は鹿児島県を通じ、初めて琉球の入朝を促してきた。これを受けて王府は維新慶賀使を派遣したが、同年9月14日、政府は琉使を参朝させ、国王尚泰を琉球藩王となし、華族に列する旨の詔文をくだした。いわゆる琉球藩の設置である。これによって鹿児島県(薩摩藩)の管轄下にあった琉球を、明治政府の直轄に移し、藩王および摂政・三司官の任免権を明治政府が掌握することになった。続いて政府は台湾での宮古島島民遭難事件に対する報復処置として台湾出兵を実行、それを機に1875年(明治8)、松田道之処分官は琉球藩に対し、(1)清国に対する朝貢使・慶賀使派遣の禁止、および清国から冊封を受けることを今後禁止すること、(2)明治の年号を使用すること、(3)謝恩使として藩王(尚泰)みずから上京すること、などの政府の命令を伝えた。琉球藩はこれらの命令を拒否し、嘆願を繰返したが、松田は1879年(明治12)3月27日、警官・軍隊の武力のもと、廃藩置県をおこなうことを通達。ここに首里城は開け渡され、約500年間続いた琉球王国は滅び、沖縄県となった。
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/library/digia/tenji/tenji2001/m05.html

 
 

…と「琉球処分」の過程を要約している。

 

 ここには、

  1872年(明治5)、明治政府は鹿児島県を通じ、初めて琉球の入朝を促してきた。これを受けて王府は維新慶賀使を派遣したが、同年9月14日、政府は琉使を参朝させ、国王尚泰を琉球藩王となし、華族に列する旨の詔文をくだした。いわゆる琉球藩の設置である。これによって鹿児島県(薩摩藩)の管轄下にあった琉球を、明治政府の直轄に移し、藩王および摂政・三司官の任免権を明治政府が掌握することになった。

…とあるわけだが、この明治5年の「維新慶賀使」(琉使)の一員が伊江王子・伊江朝直であり、その伊江朝直の明治政府への対応が、琉球王国(正確な国号は「琉球國」)の明治日本への併合(ここに首里城は開け渡され、約500年間続いた琉球王国は滅び、沖縄県となった)のスタートとなってしまっているわけである。

 結果として、明治日本国家内部の琉球藩となった「琉球國」へ帰国した「慶賀使一行は当時弾劾と迫害の限りを受け」ることとなり、

  茲に悲惨なのは伊江朝直の夫人で住居に石塊を抛け込む悪罵の限りを尽す迫害の裏に煩悶病を得て女児を挙げて間もなく逝去した

…ような経験をすることに立ち至る(「沖縄秘話」 台湾日日新報 1929)。

 

 

 

 ここにクンデラのあの問いが再び浮かび上がるだろう。

 

 してみると、どうすることが正しい選択であったのか? 署名することか、それとも、署名しないことか?
 この問いは次のように定式化することもできよう。大声でどなり、自分の終末を早めるのがいいのか? それとも黙って、ゆっくりした死にいたるほうがいいのか?
 この問いに対してそもそも答えが存在するのであろうか?

 

 
 
 
 

 
 
 
(オリジナルは、投稿日時 :2013/02/02 22:53 → http://www.freeml.com/bl/316274/200977/
 
 

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2013年2月10日 (日)

恐ろしき者の末の末 6

 

 シリーズの前々回では、

 
  大日本帝國に併合・同化され独立を失った琉球王国の王家の血統に属する(「伊江御殿」の当主としての「伊江王子」である)伊江朝助が、ここでは大日本帝國の忠良な臣民(貴族院議員の地位はその事実を示す)として、盛脇(森脇)中尉の行為を告発している構図を読むと、その真摯さに打たれると同時に、小国の運命の象徴的存在としての痛ましさをも深く感じさせられる
 

…と書き、前回には、

 

  伊江朝助はここで、あくまでも沖縄の「祖国復帰」を主張しているわけだが、

   どうぞこの際におきまして、余計なことは決して申上げません、日本の宗主権の下に沖繩の基地を当分の間、期限をつけて置くということに対して、我々は止むを得ないと諦めておる次第であります。どうぞ皆さんにおかれましても我々の希望が通るように一層の御盡力を仰ぎたいと思うのであります。

  …とまで言ってしまう心情は悲痛である。
 

…と書いた。その伊江朝助の曾祖父は伊江朝直であり、「伊江王子」として、まさに明治のいわゆる「琉球処分」の際の琉球王国側の当事者となっている人物である。

 
 

 伊江朝直の次男である朝信の三男であった伊江朝貞は、「琉球処分」を以下のように描いている。

 

 

 明治と琉球

明治五年六月琉球国王を補佐し政務の枢機に与る最高官摂生与那城王子病気辞任の後を承けて尚健挙げられて摂生となった之琉球に於ける国相の最後である徳川幕府は政権を奉還し封建は廃されて廃藩知県となり茲に薩藩との従来の関係は絶たれたので鹿児島県参事大山綱良朝旨を承けて琉球使臣の入朝を促したので明治五年七月王政維新の慶賀正使尚健副使宜湾朝保参議官喜屋武朝扶等一行十名東上入朝する事となった琉球が足利時代より徳川幕府の末葉に至るまで将軍家へ入朝した事は屡々であったが皇室に対し奉り朝参の礼を修めたのは之が始てである此慶賀使を迎える政府は破格の優遇をして遠来の臣を歓待犒った当時の記録に依る

琉球使臣入京接遇の事
 近日上京に付き接待に付ては接待振の儀見込可申進旨致承知候国家は同所属の義に付外国人と視做し接待候には不及候乍去客礼を以て被遇候に付琉人に附添来る鹿児島県官員とも総て本省に属し右接待御用係被命御維新以来初て入京の義に付き優渥の御取扱相成可然存候右にて可然候わば本省並に鹿児島県へ速に御沙汰有之度候也壬申(明治五年)八月十五日 外務省
正院御中
とあり斯くて大蔵省は費用一万円を支出したのは当時に在りては其接待費の如何に巨額であったかが思われる正使一行の旅館は芝愛宕下の毛利邸が充てがわれた
 此処で思うのは外務省発文書中の外国人と視做し接待候には不及候の字句で既に当然領土であり同胞である事を明かにして在る事で朝鮮は暫く措き之を本島の領有に観る本島は支那より割譲されたものであり同時に島内の反抗する残兵を掃蕩駆逐し然して住民に布告して安堵して其儘永住する者は大日本帝国臣民とす之を嫌厭するものは何年何月何日迄に退去すべしと其去就の自由を与えた然も此事実に触れる事を避けて徒らに施政に反感を懐き或種の盲動をこれ事とする者有るは奇怪である聞く国家の慶弔日に国旗の樹立を肯ぜざる輩の如き児戯とあらば不問然らざれば当年の布告の精神の如く郷等は宜しく去って支那籍民たるべきである

表文の奉呈
使臣伊江朝直等は明治五年九月十五日午後一時参朝し正使伊江朝直、副使宜湾朝保、参議官喜屋武朝は式部輔に誘われて桜の間に憩い軈て伶人の奏楽裏に明治大帝出御遊ばされて玉座につかせられ太政大臣外務卿各省長官及次官の侍立を使臣は式部輔に誘われて進み畏くも竜顔に呎尺し式部輔より三使の名を披露言上すれば三使は磐折謹拝後天皇皇后両陛下へ尚泰王の表文並に献貢目録等を式部輔へ奉呈、輔は之を読上げて後上進した

尚泰王の表文
 恭惟、皇上登極以来乾綱始強庶政一新黎庶、皇恩に浴し歓欣鼓舞せざるなし尚泰南陬に在て伏して盛事を聞恐懼の至りに勝えず今正使尚健、副使向有恒、参議官向有新を遣し謹で朝賀の礼を修え且方物を貢す伏て奏聞を請う
 明治五年壬申七月十五日
 琉球尚泰謹奏
 恭惟、皇后位を中宮に正し徳至尊に配し天下の母儀となり四海日々文明の域に進み黎庶生を楽し三業に安ず尚泰海陬に在て伏て盛事を聞き懼祚の至りに勝えず今正使尚健副使向有恒参議官向有信を遣し謹んで慶賀の礼を修め且方物を貢す伏て奏聞を請う
 年月日 琉球尚泰謹奏
使臣等亦各自の献物目録を読上げ式部輔を経て奉献した、之に対し尚泰王には
 琉球の薩摩に附庸たる年久し今維新の際に会し上表且方物を献ず忠誠無二朕之を嘉納す
使臣等には
 汝等入朝す聞く汝の主の意を奉じて失うなし自ら方物を献ず深く嘉納す
陛下には冊封の勅を取らせられて之を外務卿に授け給い卿は宣伝し畢って使臣に伝えられた
 朕上天の景命に膺り万世一系の帝祚を紹き奄に四海を有ち八荒に君臨す今琉球近く南部に在り気類相同く言文異なる無く薩摩附庸の藩たり而して爾尚泰能く謹誠を致す宜く顕爵を与うべし聘して琉球藩王となし敍して華族に列す咨爾尚泰其れ藩屏の任を重し衆庶の上に立ち切に朕が意を体し永く皇室に輔たれ欽哉
此時使臣等謹拝して尚泰に代り謹て捧呈した請書は
 臣健等謹白す臣寡君の命を奉じ天朝に入貢す今、聖恩寡君を封じて藩王となし且華族に班せしむ、聖恩重渥恐感の至に堪えず健等代って詔命の辱を拝す
 月日
 正使尚健、副使向有恒、参議官向有新
次いで藩王の妃へ賜物の目録を式部輔宣読して之を授けた斯くて使臣等へも夫々御下賜金品を授けられたが、一行の為めには尚軍艦にて横須賀製鉄所其他を縦覧せしめて其の知見を博めしめる事に努めた
 この政府の措置に依って日本本土の文化の程度を識り帰って頑迷な守旧派に悩まされた伊江朝直外使臣一行の境遇が追て敍述するように頗る明治維新当時渡欧した伊藤博文其他の国士が帰って我国の頑迷者に悩まされた点と酷似して居る

御歌会に詠進
今年九月十八日、皇上吹上離宮の御歌会に三使臣をも召された歌人である副使宣湾朝保有恒の詠進歌は
 動きなき御代を心の厳が根にかけて絶えせぬ滝つ白糸
でいたく御嘉賞遊ばされたとある歌詞の巧拙は筆者此れを判い難きも同文の国であるとの考証には充分なる

光栄に輝く使臣
御歌会参列の光栄に浴した使臣は更らに同日皇太后、皇后両陛下に拝謁仰せ付かり献上物を願出て御嘉納あらせられた上御饗宴を賜わり数々の御下賜品あり明治五年十月勅諭並に御下賜品を奉じ光栄に輝きつつ退京品川を解纜して鹿児島に暫時滞留翌六年一月再び発般して琉球に向う途中逆風に遭って鬼界ヶ島に漂著したが折良く本島よりの使臣伊地知貞の乗船が碇泊して居たのへ移乗して帰国した此行が我王政維新の宏謨に基き琉球が朝勤の礼を修めた最初である爾来琉球は政府の直属として制度の革新と共に新文明に適応する施政を見んとしたが古来日支両国間に介在した情弊は一概に日本の文物を喜ぶ者斗りでなく就中守旧派は日本の封権制度の廃止四民平等権と云った形が其儘に琉球に行わるる事を怖れ厭いて新制度を呪咀して旧制度を復せしめんとし人心は恟々不穏の徴を来した当時政府は琉球の積弊を打破する一面租税を減免し征台の役を起して藩民を救恤したが(現在高雄州恒春郡四重渓統埔に墓碑を存する西郷従道侯の明治七年の役)征台の役も終りて対支問題漸く解決するや此処に琉球古来の両属政治は根本より革正し支那関係を断絶せしめんと廟議は決する所があった是より前伊江朝直は東京滞在中知行二百石を加増されて六百石の禄高となった慶賀使の功に依って更らに二百石の加増及恩賞金の沙汰のあったのを固辞したが翌七年九月藩庁は久米具志川切総地頭職を世子尚典(尚泰の世子俊の侯爵)に伊江朝直の殊勲を認めて之を恩納間切総地頭職に挙げた

琉球維新の序幕
政府は翌明治八年琉球藩に命じて清国と従来の関係を絶たしめ且征台役の謝恩として藩王尚泰の入勤を促し尚藩制改革等重大な問題に際会したので藩論は恰も明治維新の如く甲論乙駁極度に沸騰したが日本の文物制度に暗く世界の大勢を窺知せぬ多数の守旧派は斯かる事態を醸せし因は慶賀使一行の措置の過ちにありとて守旧派は国中に檄を飛ばして多数の士族を国学院に会して凝議し藩王に諫書を上呈し慶賀使一行を迫害弾劾至らざるなく遂に一行を刑に処せんとまで絶叫するに至った茲に悲惨なのは伊江朝直の夫人で住居に石塊を抛け込む悪罵の限りを尽す迫害の裏に煩悶病を得て女児を挙げて間もなく逝去した守旧派の多数党が明治九年三月藩主に提出した弾劾建議書は
 去る申年、伊江玉子、前宜湾親方喜屋武親、雲上東京へ御使者にて被御遣候時、藩主の御封冊直様御受仕り候処より重大の事件被申掛候に付藩主御称号御取返し御願被仰越候上、右御書面の相当の御咎被仰付度先達て奉願候処、急に御咎被仰付候わば差掛御願願筋の御障りに可相成も難計候間事能御願済御使者衆御聴相済候間可奉承知旨被仰渡奉畏候、臣として主君の御爵軽々敷御請右式国難の事供仕出候儀不忠無比上適恐入の書面差出被相真居候も御役場出勤等被仰付御咎向御無沙汰の様相見得申候刑罰は基い天心に順い、一人を罪して万人を救い給う忠愛の道此儀御国家の大典にて、君主さえも得々私に難被遊趣相見得候処右通出勤被仰付候儀は世上甚敷疑迷申居候尤御咎被仰付候わば御願筋の御障と可相成候との御沙汰候え共、於東京者国評不相円人心区々有之候抔と新聞致批判候由、左様候えば此涯君をなみし候方は早々御咎被仰付候わば人心一致に相堅候段は政府に相響き御願筋の為め可被成と奉存候間、急々御咎被仰付度奉存候以上
 子旧三月(明治九年丙子)
 (当時既に新聞は批判致居り候由と云う字句の使われて在るのは鳥渡眼を惹く)

琉球処分の一節
当時琉球の処分官であった松田内務大書記官の著『琉球処分』巻の下に一節は能く当時の事情を敍して在る
 『六月三日午前十時首里、那覇、久米、泊の士族総代二百名を出張所(在那覇内務省出張所)に集め予懇篤是等に説諭して曰く、此頃士族の中に於て伊江王子及故宜湾親方の子息某を殺害すべしと称して頻りに暴論を放つ者がある而して其趣意とする所は伊江王子及宜湾親方は先年立藩の令下った時上京して之を奉じた者に付今日の廃藩知県は彼の両人が立藩の令を奉じたるに依り起りたりとして之を憎むに出でたる由なれ共是れ甚だ誤見なり夫れ立藩の事たる政府は国制上行いしもので彼両人に於て之を如何ともする事は出来ない、特に故宜湾親方の如きは本琉球の一人物で忠良であり藩主に対し何等不忠の事を為すべきでない然るに漫りに罪を彼両人に帰して一般を煽動するは甚だ悪むべき所為なり而して拙者は能く其人物を探知し居るに付若し弥甚しければ之を縛して安寧を保護せんとするのである故に子等は其子弟を警戒して罪に抵らしめないように注意せよ』
文中故宜湾云々とあるが副使であった宜湾朝保は藩吏等の政府に対する会議を開く毎に社稷を安ずるに之れ努めず専ら己の門閥を保つ事に汲々たるを憂い長大息して
 野にすだく虫の声々かまびすし誰が聞わけてしなさだめせん
と口吟み党人等の跋扈迫害の裏に悶々の日を送り遂に病んで明治九年八月五十四歳で永眠した其長男亦那覇里主(那覇市尹)の冠を挂げて閉居した当時藩庁では党人等に対し偏に緩和策を講じたが熱狂する人心を鎮圧する事は出来なかった其処で政府は当時在京の琉球三司宮池城安規を召喚し責て曰く、先年使臣伊江王子及宜湾親方の封王の勅書を奉拝せしは恭順の道なり然るに士族者の之を罪に陥入れんとして沸騰するは叛逆無道の所為にして寛恕すべきでない速かに警官を派して之を調査し厳罰に処せん、と言渡したので池城は大に驚き是れ即ち頑迷無智の者の盲動であるから琉球藩に示達し自ら鎮圧の道を講じ度いから暫く政府の手を下すのを猶予され度いと陳弁し直ちに在京中の与那原親方、内間親雲上の両人を帰国させ政府の命を伝達させたので漸く事無きを得たのである
 斯様に慶賀使一行は当時弾劾と迫害の限りを受けたが其後日清戦役も終え領台当時頃には沖縄県民も大に覚醒し二区三郡七万人以上の有識階級を代表して尚順男爵は当時尚存命中の伊江朝直に昔日の罪を謝したとか、些か以て亡き宜湾朝保の霊も冥すべきか

琉球から沖縄へ
廃藩知県は明治十二年に行われ旧琉球藩は茲に沖縄県として更正したのである同時に尚泰王の弟尚弼並に伊江朝直は共に華族に列せられた伊江朝直の前半生は内に重大な疑獄事件を処断し外に英仏米蘭等の諸国船と通商貿易の衡に当り幕末迄徳川に入貢し王政復古の慶賀使としては永遠に琉球を泰山の安きに置くの措置に出でしも反対党の為めに極度の弾劾と圧迫を蒙り多事多難の生涯を経たが後年は報いられて県民崇高の的となり慰められつ風月を友とし明治二十九年一月四日七十九歳の高寿を保って永眠した、人となり謹直剛健、躯幹肥大の士であったと

台湾日日新報(新聞) 1929.1.27-1929.2.7(昭和4) 沖縄秘話
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10086836&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA

 
 
 
 

 「台湾日日新報」の記事は、

 

  本秘話は伊江氏の旧稿を披見し未だ見ぬ沖縄を情話のように砕いて其の経緯をと筆を取ったのではあるが系図にも等しい心血を注いだ原文は動もすると其儘に筆を走らせる然も想い付いては卑見を挿み時に原文を改訂したので或は氏の心に悖るものがありはせぬかを懼る、原文は氏が父祖の偉業を後昆に残さんが為めの主感の熱涙随所に迸るに対し第三者としての本稿は唯に事実の羅列に過ぎない事も亦告白する

 

…と結ばれているように、朝貞の文章そのままではないが、それでも原文が身内の視線の下に書かれたものであることは確実である。

 

 注目しておきたいのは、

 

  日本の文物制度に暗く世界の大勢を窺知せぬ多数の守旧派は斯かる事態を醸せし因は慶賀使一行の措置の過ちにありとて守旧派は国中に檄を飛ばして多数の士族を国学院に会して凝議し藩王に諫書を上呈し慶賀使一行を迫害弾劾至らざるなく遂に一行を刑に処せんとまで絶叫するに至った茲に悲惨なのは伊江朝直の夫人で住居に石塊を抛け込む悪罵の限りを尽す迫害の裏に煩悶病を得て女児を挙げて間もなく逝去した

 

…という記述である。伊江王子(伊江朝直)は、琉球ナショナリズムの視線からは、いわば「売国の徒」として「斯様に慶賀使一行は当時弾劾と迫害の限りを受けた」のであった。軍事的に無力な国家の王家の一員が、無抵抗なままに併合を受け入れことが「守旧派」から「弾劾」された、というわけである。

 
 

 伊江王子は抵抗すべきであったのだろうか? そこに抵抗の手段は存在したのであろうか?

 

 思い出すのはクンデラのあの問いである。

 
 してみると、どうすることが正しい選択であったのか? 署名することか、それとも、署名しないことか?
 この問いは次のように定式化することもできよう。大声でどなり、自分の終末を早めるのがいいのか? それとも黙って、ゆっくりした死にいたるほうがいいのか?
 この問いに対してそもそも答えが存在するのであろうか?
 そしてふたたび、もうわれわれが知っている考えが彼をとらえる。人生はたった一度かぎりだ。それゆえわれわれのどの決断が正しかったか、どの決断が誤っていたのかを確認することはけっしてできない。所与の状況でたったの一度しか決断できない。いろいろな決断を比較するための、第二、第三、第四の人生は与えられていないのである。
      ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』 (集英社文庫 282ページ)
 
 
 
 
 
(オリジナルは、投稿日時 : 2013/01/31 21:57 → http://www.freeml.com/bl/316274/200929/
 
 

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2013年2月 9日 (土)

恐ろしき者の末の末 5

 

 シリーズの前回では「第八十九帝國議會貴族院 衆議院議員選擧法中改正法律案特別委員會」の場で、「伊江のおじいちゃん」(祖父の妹の夫であった伊江朝助)が何を語ったのかを読んだ。

 

 

 その最後に、

 

  大日本帝國に併合・同化され独立を失った琉球王国の王家の血統に属する(「伊江御殿」の当主としての「伊江王子」である)伊江朝助が、ここでは大日本帝國の忠良な臣民(貴族院議員の地位はその事実を示す)として、盛脇(森脇)中尉の行為を告発している構図を読むと、その真摯さに打たれると同時に、小国の運命の象徴的存在としての痛ましさをも深く感じさせられる

 

…と書いたわけだが、今回は「第十回国会 外務委員会」の場での「伊江のおじいちゃん」の言葉を読んでおきたい。

 昭和26(1951)年、講和条約調印に至る時期に「沖繩及び奄美大島諸島の帰属問題の件」が主題となった場での話である。

 

 

 

第010回国会 外務委員会 第3号
昭和二十六年二月六日(火曜日)
   午後一時五十一分開会
  ―――――――――――――
  本日の会議に付した事件
○講和に関連する諸問題並びに国際情
 勢等に関する調査の件(沖繩及び奄
 美大島諸島の帰属問題の件)
  ―――――――――――――
○委員長(櫻内辰郎君) これより外務委員会を開会いたします。 昨日に引続き、領土問題について陳情のために御上京になつておりまする諸君から御意見を聽取することにいたします。最初に沖繩諸島日本復帰期成会の元貴族院議員の伊江朝助君、元首里市長仲吉良光君、都立大学教授東恩納寛惇君但し今日は東恩納寛惇君は御出席になりませんから、更に全国奄美連合総本部の委員長の昇直隆君、弁護士の谷村唯一郎君から御意見を伺いたいと存じます。最初に伊江朝助君。尚ちよつと申上げますが、大体御発言は二十分くらいとしてございます。
○参考人(伊江朝助君) ダレス大使のもたらすところの米国の対日七原則中に、沖繩諸島の軍事基地継続使用條件として沖繩諸島を米国の管理の下に、国際連合の信託統治下におくということを要望されておるのであります。信託統治というものは御承知の通り軍事的信託統治と普通の信託統治があるのでありまして、軍事的信託統治は安全保障理事会の承認を得なければなりませんが、この理事国であるところの英・米・仏・ソ・中国の五カ国が若し一カ国たりともこれを拒否するようなことがありましたならば、この案は廃案になるということは皆さん御承知の通りであります。普通の保託統治は国連憲章によりますと、自治不能の地域の住民に施行せられるのが原則になつておるのであります。もう一つは将来独立するという下に国際連合の指導を受けて独立するということに規定されておるのであります。然るに沖繩は御承知の通り内地の他府県と少しも異ならざる県会を持ち市町村会を持ち代議士も正名の代議士を出しまして国政に参與いたしておるのであります。又文化、社会制度その他におきましてもことごとく日本内地と異なるところがないのであります。これを自治不能の区域の住民と見るということは甚だ穏かならん話と私どもは思うのであります。米国におきましては信託統治として軍事政略的のものであるか、普通の統治かということをはつきりいたしておりません。又我々は祖国を離れて独立しようなどというような考えは毛頭起したこともなければ話合つたこともないのであります。我々は祖国と共に苦楽を共にし、日本再興の一メンバーとして奉公をしたいのが私どもの念願であります。併し敗戰国として無條件降伏をいたしました以上はこれは基地を貸す、日本宗主権の下に基地を設定するということは私共止むを得ないものだと諦めておる次第であります。この点につきましては政府当事者を始めとして、日本の三大政党はこれを支持して頂いたのであります。我々は思い起しまするというと、若し信託統治になりますると、我々の戸簿は殆んどどこの国の人間やらわからないという甚だ悲しむべき状態に陥らなければなりません。又ハワイのごときは、米国が領有以来五十年間に急激の大発展をしたのでありますが、ハワイの在来の住民は今日殆んど行方不明というような状態になつて、我々の子孫の将来を考えますと誠に悲痛な感じがいたすのであります。どうぞこの際におきまして、余計なことは決して申上げません、日本の宗主権の下に沖繩の基地を当分の間、期限をつけて置くということに対して、我々は止むを得ないと諦めておる次第であります。どうぞ皆さんにおかれましても我々の希望が通るように一層の御盡力を仰ぎたいと思うのであります。余り長くなりますとほかの皆さんにもお困りがありましようからして、私どもはただこれだけを申述ぺましてそうして皆さんの御盡力を仰ぐ次第であります。どうぞよろしくお願いします。
 なお御質問でもございましたら歴史、言語、風俗、宗教その他の点につきまして、私の思慮で及ぶだけお答えをするつもりでございます。私の陳情はこれだけにしておきます。

 

 

○参考人(伊江朝助君) 只今團さんの御質問でありますが、我々は終戰当時から、仲吉君が私より事情に詳しいのでありますが、仲吉君を中心として、私どもはマッカーサー司令部及び政府当局に陳情して復帰運動を続けているのであります。それに対して一部の人間、ここで申していいか惡いか知りませんが、いわゆる共産党の諸君が独立運動をしているのであります。共産党の宣伝で以て琉球は独立するということをほうぼうに宣伝している。併し我々はこういう問題に対して一顧も與えないものだといつて始終刎ねつけているのでありますが、共産党以外の人間で日本復帰に反対している人間は殆んどおりません。併し最近又いわゆるアメリカの信託統治になるであろうという声が大分盛んになりましたために、御承知の通り共産党はアメリカ嫌いでありますからして、又日本に復帰運動をするということでやつております。彼らのやることは始終自分本位でやつしている次第であります。なお又米国におりまする沖繩出身の有力なる連中がことごとく我々に同情してくれまして始終鞭撻をしてくれるのであります。しまいにはお前がたは運動費がないだるうから、幾らでも運動費をくれるがどうだというようなことまで言います。併し私どもはこの点については余り運動費も使いませず、ただ我々の希望を以て努力をしておりますから一厘たりとも補助を受けておりません。そうして向うにおります国務省のいろいろの人、殊にあのラジオの米国通信をやる坂井米夫君が断えず盡力してくれている。そういつたような按配で、独立運動というようなものは先にも申上げましたが、我々は夢想だにいたしません。独立しようはずはないのであります。我々は飽くまでも祖国本位であります。祖国と共に苦しみ祖国と共に楽しみ、そうして国家再建に盡したいのが我々沖繩県出身の者一同の殆んど全部の希望であります。

 

 

○参考人(伊江朝助君) 甚だ恐縮ですが、御承知の通り徳田球一君は沖繩の出身者でありまして徳田球一君なんかの考えは、アメリカの委任統治になると共産党の復帰はできない、宣伝ができない、そういう意味で独立といえば共産党の温床になる、こういう思想でおるのであります。
 それからもう一つは、先程仲吉君が知事の選挙があつたと言いましたが、共産党から一人立ちましたが殆んどものにならん、一万何千かあつたそうであります。十九万と八方と一万何千こういうような状態でありまして、徳田球一君の管下で一万人ぐらいは或いはおるかも知れません。それだけは一つ附加えて申上げておきます。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/010/0082/01002060082003a.html

 

 

 

 伊江朝助はここで、あくまでも沖縄の「祖国復帰」を主張しているわけだが、

  どうぞこの際におきまして、余計なことは決して申上げません、日本の宗主権の下に沖繩の基地を当分の間、期限をつけて置くということに対して、我々は止むを得ないと諦めておる次第であります。どうぞ皆さんにおかれましても我々の希望が通るように一層の御盡力を仰ぎたいと思うのであります。

…とまで言ってしまう心情は悲痛である。

 結局、講和条約締結後も沖縄は米軍統治下に置かれ、やっと1972年になって「祖国復帰」を果たすわけだが、その後も(現在に至るまで)米軍基地の存在は続くことになってしまう。

 あくまでも、

  当分の間、期限をつけて置くということに対して、我々は止むを得ないと諦めておる

…ということであったにもかかわらず、米軍基地の存在は21世紀まで続くものとなってしまったのである。

 

 

 

 背景史料として、前年度の国会の外務委員会の場での「請願」を記録しておく。

 

第009回国会 外務委員会 第4号
昭和二十五年十二月六日(水曜日)

十二月二日
 在外公館等借入金返還促進に関する請願(田口
 長治郎君紹介)(第三〇一号)
同月四日
 在外同胞引揚の国民運動強化に関する請願(若
 林義孝君外一名紹介)(第四四六号)
の審査を本委員会に付託された。
同月二日
 海外同胞救出国民運動費国庫負担の陳情書外一
 件(甲府市山梨県議会議長星野重治外一名)(
 第一三八号)
 沖繩の日本復帰促進に関する陳情書(東京都千
 代田区有楽町石川ビル沖繩諸島日本復帰期成会
 伊江朝助外三十四名)(第一四六号)
 海外同胞引揚促進の陳情書(全国町村議会議長
 会長齋藤邦雄)(第一八四号)
同月五日
 海外同胞引揚促進の陳情書(秋田市北海道東北
 七県社会事業協議会議長本間金之助)(第二二
 八号)
 在外公館等立替金即時返還に関する陳情書(東
 京都千代田区麹町一番町引揚者団体全国連合会
 理事長北條秀一)(第二四三号)
 密入国者取締費全額国庫負担の陳情書(東京都
 全国自治体公安委員会協議会会長小畑惟清)(
 第二九〇号)
 在外公館等立替金即時返還に関する陳情書(広
 島市広島県華中引揚者在外資産補償措置促進会
 理事長米沢大槌)(第三一五号)
を本委員会に送付された。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/009/0082/00912060082004a.html

 

 「沖繩の日本復帰促進に関する陳情書(東京都千代田区有楽町石川ビル 沖繩諸島日本復帰期成会 伊江朝助外三十四名)(第一四六号)」に名を連ねている一人に「伊江のおじいちゃん」がいるわけだが、前後に並ぶ「請願」の内容を読むと、前後6年目になっても「海外同胞引揚促進」が政治的課題の一つであったことがわかる。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/01/30 22:10 → http://www.freeml.com/bl/316274/200918/

 

 

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2013年1月27日 (日)

恐ろしき者の末の末 4

 

 「石川のおじいちゃん」が、私の祖父(加来金升)の妹の結婚相手であり、海軍少将石川秀三郎であったこと、そして石川秀三郎の娘婿がミズーリ艦上での降伏文書調印式に全権団の随員として列席した柴勝男海軍大佐であったことは書いた。

 

 

 そして、その祖父のもう一人の妹の結婚相手であった「伊江のおじいちゃん」の弟の伊江朝睦が1940(昭和15)年の時点で小菅刑務所長であった話までは書いた。

 さて、ネットを検索すると、その「伊江のおじいちゃん」である伊江朝助が、戦後になっての「第八十九帝國議會貴族院 衆議院議員選擧法中改正法律案特別委員會」でいったい何を語ったのかを読むことが出来る。

 

 

○男爵伊江朝助君 此ノ次ニ施行セラレマスル選擧ニ於キマシテハ沖繩縣ガ全ク選擧ノ執行ガ出来ナイト云フコトハ誠ニ遺憾ノ次第デアリマスガ、併シ情勢上已ムヲ得ズ内務大臣方ノ御苦心ニ對シテモ多トスル次第デアリマス、私ハ此ノ際少シ選擧法トハ懸ケ離レタ問題デアリマスガ、事内務省關係ノ法律案デアリマスル故ニ、少シバカリ希望ヲ述ベサセテ戴キタイト思ヒマス、現ニ沖繩縣カラ九州各縣ニ疎開シテ参リマシタ、主ニ女ト子供デゴザイマスガ、是等ハ非常ニ疲弊困憊ヲ致シテ居リマシテ、此ノ寒サニ非常ニ困難ヲ致シテ居リマス、是等ノ困難ハ、皆サン御推察下サイマスレバ能ク御分リノコトト思ヒマスルガ、實ニ沖繩縣カラ参リマシタ者ハ、此ノ寒サニ非常ニ堪ヘ難ク苦シンデ居リマス、是バカリヂヤナク、「フィリピン」ノ「ダバオ」カラ約七千名ノ移民ガ歸ッテ来テ居リマス、御承知ノ通リ、「フィリピン」ニハ日本移民ガ約一萬九千人居リマシテ、今回ノ「フィリピン」事件で約一萬三千人ニ減リ、後六千何百人ハ、向フデ戰死若クハ饑餓ニ飢エテ死ンデ居リマシテ、約一萬三千五百人バカリ居リマシテ、其ノ中ノ七割ガ沖繩縣ノ移民デゴザイマス、是ガ今日浦賀、ソレカラ鹿児島、長崎、福岡ニ皆歸ッテ来ル、サウシテ是等ノ中ニ約一日ニ十人乃至ニ十人モ死ンデ居リマス、尚是等ハ御承知ノ通リ「フィリピン」ノ暑イ所カラ参リマシタモノデスカラ、寒サニ堪ヘズ、先ニ申上ゲマス通リ、又栄養失調、其ノ他ノ為ニ死ンデ居リマス、ソシテ彼等ノ持ッテ来タ金ト云フモノハ大概軍票デゴザイマシテ、コッチデ「エックスチエンヂ」ガ出来ナイ、ソレデ以テ私ハ現ニ沖繩縣協會ノ會長ヲ致シテ居リマシテ、是等ノ救済ニ東奔西走致シテ居リマス、マダ目途ガ付カナイノデアリマス、此ノ點ニ付キマシテ、政府ノ方デモ相当ニ御援助下サツテ居リマスケレドモ、是デハナカナカ捗ラナイ、現ニ、御承知ノ通リ、沖繩縣ノ農民ト云フノハ主ニ藷ヲ作リ、砂糖ヲ作ッテ居リマシテ、耕ス耕地ガナイノデアリマス、今日各飛行場、其ノ他宮内省邊リノ御料地貸下ゲノ申請中デゴザイマスルガ、是モナカナカ捗ッテ居リマセヌ、サウシテ東京在住ノ沖繩縣民數萬ノ人間ハ、私ニ弾劾案ヲ叩キ付ケテ居リマス、甚ダ盡力ガ足リナイ、貴衆両院議員宜シク自決スベシト云フヤウナ弾劾案ヲ戴イテ居ル關係上、私モ無論力ガ足リナイデ、唯謝罪ヲ致シテ居ルダケデアリマスルガ、此ノ點ニ於キマシテモ、内務省ノ方デモ然ルベク善慮サレムコトノ希望ヲ述ベマシテ、若シ之ニ對スル内務大臣ノ適当ノ御考デモゴザイマシタラ、承リタイト思ヒマスガ、内務大臣ノ方デモ適当ナル御案ガ今日御アリデナケレバ、必ズシモ今日御答弁ヲ承ラナクテモ宜シウゴザイマスカラ、一ツ然ルベク善処シテ戴キタイコトヲ希望シテ置キマス

○國務大臣(堀切善次郎君) 沖繩縣ノ諸君ハ、従来海外雄飛ノ先頭トシテ各地ニ活躍サレテ居リマス、又此ノ戰争中、沖繩縣ガ戰場ト相成リマシタ際ニ縣民ノ諸君ガ現ハサレタ忠誠ノ事實ニ付キマシテハ、我々國民ト致シマシテモ、誠ニ感激ニ堪ヘナイ次第ナノデアリマス、其ノ後各地カラ引揚ゲテ来マスル人達、或ハ又九州方面ニ引揚ゲテ居リマスル人達ノ状態ニ付キマシテハ、只今伊江男爵ノ御話ニナリマシタ通リ、誠ニ御気ノ毒ニ堪ヘナイ次第デアリマス、浦賀ノ方ニ参ラレマシタ人達ニ付キマシテハ、是ハ伊江男爵モ御承知ト存ジマスガ、数日前ニ此ノ議會中、忙シイ所ヲ厚生大臣ガ實地視察ニ参リマシテ、皆ノ誠ニ御気ノ毒ナ、苦シンデ居ラレル模様ヲ視察シテ歸リ、歸郷ノ對策ヲ急イデ居ルノデアリマス、内務省ト致シマシテモ、各地方長官ヲ督励致シマシテ、又沖繩縣ニ對シマシテハ、只今、福岡縣、其ノ他ニ沖繩縣ノ事務所ヲ置キマシテ、沖繩縣ノ内務部長ヲ置イテ、是ガ沖繩縣ノ方々ノ御世話ヲサレルコトニナツテ居ルノデアリマスガ、尚其ノ方面、或ハ各地方長官ヲ能ク督励致シマシテ、出来ルダケノ御世話ヲ致シタイト考ヘテ居ル次第デアリマス

○男爵伊江朝助君 是以上申上ゲル必要モナイノデアリマスルケレドモ、尚一ツ御参考ノ為ニ、向フノ方ノ事情ヲホンノ五分間位御話致シマス、御承知ノ通リ沖繩本島ノ人口ハ、本島ダケデアリマス、離島ハ別ト致シマシテ、人口ハ四十萬居ルノデアリマス、其ノ中ニ疎開者ガ約五萬人、後三十五萬人デ、其ノ中ノニ十萬人ノ女ト年寄ハ北ノ方ニ居ル、後十五萬ガ南ノ方ニ出マシテ戰線ニ参加シテ居ル次第デアリマス、恐ラクハ此ノ十五萬人ハ戰死シテ居ルダラウト思フノデアリマスルガ、併シハツキリシタ事情ハ分リマセヌ、是等ノ者ハ男女共ニ奮戰シテ皆討死シタモノト思ヒマスルガ、沖繩終戰ノ三日前ニ、盛脇ト云フ陸軍ノ中尉ガ牛島司令官ノ命ヲ受ケテ沖繩カラ脱出シタ、其ノ道案内ヲシタ者ガ海軍ノ二等兵曹ノ上地ト云フ男、此ノ男ハ沖繩出身デ、大学ノ学生デアリマシタケレドモ、召集サレマシテ海軍ニ入ッタ男デアリマス、是ガ萬難ヲ冒シテ盛脇ト云フ中尉ヲ連レテ脱出シテ、奄美大島ノ徳之島迄行ツタ、盛脇中尉ハ非常ニ感謝シテ居ツタノデアリマスガ、徳之島ニ上陸スルト盛脇中尉ハ、今回ノ沖繩戰線ノ失敗ハ琉球人ノ「スパイ」行為ニ因ルト云フコトヲ放送シタ、其ノ上地二等兵曹ハ非常ニ憤慨シマシテ、刺違ヘテ、ヤラウト云フ考ヲ起シタ、然ルニ考ヘテ見ルト、司令官ノ命令デ脱出シテ大使命ヲ持ツテ居ルカラト云フノデ其ノ儘ニシテ居ッタ、サウシテ此ノ人ガ九州地方ヲ廻ッテ、九州ノ疎開地ニ、今回ノ沖繩戰ハ沖繩縣人ノ「スパイ」ニ因ッテ負ケタノダト云フヤウナコトガ流行ッテ、沖繩五萬ノ疎開民ガ受入地カラ非常ニ脅迫サレタト云フ事情モアルノデアリマス、我々カラ考ヘマスト、非常ニ残念ニ思フノデアリマス、サウシテ疎開地ノ人間ハ迫害サレタ為ニ、帝國臣民タル光栄ニ對シテ疑問ヲ起スト云フ迄憤慨シテ居ル次第デアリマス、斯ウ云フ點ハ無論内務大臣ノ御耳ニハ達シナイデアリマセウガ、斯フ云フコトモアツタト云フコトダケハチヨツト御耳ニ入レマシテ、私ノ希望ヲ打切ルコトニ致シマス

第八十九帝國議會貴族院 衆議院議員選擧法中改正法律案特別委員會議事速記録第二號 13~14ページ
http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/kizokuin/089/1200/0890120000211213.html

 

 

 ここで語られているのは、戦中、そして「終戦」の直後に沖縄県民の置かれていた状況(その苛酷な現実)である。

 

 ここでは、「是以上申上ゲル必要モナイノデアリマスルケレドモ、尚一ツ御参考ノ為ニ」との言葉と共に、わざわざ後半の発言で語られた問題に注目しておきたい。

 そこで「男爵伊江朝助君」が憤慨している「盛脇」中尉は、実際には「森脇」中尉であったらしいが(註:1)、いずれにしても、ここでは盛脇(森脇)中尉による、

  今回ノ沖繩戰線ノ失敗ハ琉球人ノ「スパイ」行為ニ因ルト云フコトヲ放送シタ

…という行為のために、

  九州ノ疎開地ニ、今回ノ沖繩戰ハ沖繩縣人ノ「スパイ」ニ因ッテ負ケタノダト云フヤウナコトガ流行ッテ、沖繩五萬ノ疎開民ガ受入地カラ非常ニ脅迫サレタト云フ事情モアル

  サウシテ疎開地ノ人間ハ迫害サレタ為ニ、帝國臣民タル光栄ニ對シテ疑問ヲ起スト云フ迄憤慨シテ居ル次第デアリマス

…として、戦中の帝國陸軍軍人による沖縄県民のスパイ視と、沖縄戦敗北の責任を沖縄県民のスパイ行為に負わせようとする姿勢、その陸軍軍人の姿勢が招いた疎開地での脅迫・迫害という現実に対する「帝國臣民」としての沖縄県民の「憤慨」を、帝國議会の「衆議院議員選擧法中改正法律案特別委員會」の場(つまり、「場違い」な場である)であえて発言し、伝えようとしているということなのである(もちろん、伊江朝助自身も「憤慨」する当事者の一人として、である)。

 この森脇中尉について、山梨学院大学の我部政男教授は、

 

 

  元陸軍中尉森脇弘二の稿本「沖縄脱出記」が、防衛研究所図書館に所蔵されている。その稿本の扉にこう説明してある。「本人は陸軍歩兵学校教官として該地巡回教育の途上沖縄において戦闘の渦中に投じて、32軍司令部付きに命課され、独立混成第44旅団司令部において勤務して作成に従事した。本記事は司令部より戦訓報告のため大本営へ派遣され脱出記事である」と。その第一巻のなかの6月8日の条に次のような箇所がある。少し長い引用になるがいとわず引いておく。

  「洞窟の中を歩いて見ると、以前の顔ぶれが揃っていた。変に思って聞いて見ると、昨日2組出発したが敵のスパイらしいが崖の上で発火信号したため、敵の掃海艇に攻撃せられ、陸軍切込隊は全員行方不明、海軍の組は一名を失っただけで舟をやられて辛うじて流れて帰って来たとのことであった。海軍の兵曹長が今晩スパイを斬って来ると張り切っているそうだ。夕刻になって伊良波が帰ってきた。軍命令は貰って来ていた。「軍命令なくして戦線離脱すべからず軍占領地区内にあるくり舟は軍命令なくしては一艘たりとも使用すべからず、所在部隊は軍命令により森脇中尉に能う限りの協力をせよ」という趣旨のものであった。既に軍の秩序は麻の如く乱れ、その統制は全く行われていない。人は軍律よりも自己の生命の危険に戦いている。この時期に一片の軍命令が何程の効果を発揮し得るだろうか。私は迷ったまま、黙っていた。日暮時兵曹長が「今からスパイを斬って来ます」と言って来た。私は「御苦労さん、拳銃を貸そうか」と言ったが、「何、これさえあれば沢山ですよ」と軍刀を見せ乍ながら出て行った暫くたつと「やはり借りて行った方がよかったですな。手負ひだけど一人逃がしてしまったよ」と残念そうに行って来た。スパイはハイカラな服装をした男一人と女二人で先ず男に一太刀あびせ次に女二人を斬ったが女を斬っている隙に男が拳銃を撃ち乍ら逃げてしなったのだということであった。然し、もう妨害は出来ないだろうと思って安心した。」

 

 

…と森脇弘二陸軍中尉自身の証言と伊江朝助の帝國議会での発言との照応関係を指摘している。

(『平成18年度検定決定高等学校日本史教科書の訂正申請に関する意見に係る調査審議について(報告)』  平成19年12月25 
教科用図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会  「沖縄戦に関する私見」 山梨学院大学我部政男  http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/08011106/001.pdf

 

 

 

 あの「琉球処分」以来の、近代沖縄の直面させられた厳しい現実が凝縮されたエピソードだと感じられる。大日本帝國により実質的に植民地化(併合・同化)された沖縄の現実が、である。

 植民地住民は、宗主国の軍人からは潜在的なスパイ視されるような存在ということなのである。

 大日本帝國に併合・同化され独立を失った琉球王国の王家の血統に属する(「伊江御殿」の当主としての「伊江王子」である)伊江朝助が、ここでは大日本帝國の忠良な臣民(貴族院議員の地位はその事実を示す)として、盛脇(森脇)中尉の行為を告発している構図を読むと、その真摯さに打たれると同時に、小国の運命の象徴的存在としての痛ましさをも深く感じさせられる。

 

 

 

【註:1】
 「海軍ノ二等兵曹ノ上地ト云フ男」から伝えられた時点(その時点が「伝聞」であった可能性もある)では文字情報ではなく「モリワキチュウイ」という音声情報のみであった可能性が高く、帝國議会での発言もまた音声によるものなので、伊江朝助自身に「盛脇」という漢字表記が意識がされていたかどうかまでは議事録からは判断出来ない。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/01/16 21:57 → http://www.freeml.com/bl/316274/200591/

 

 

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2013年1月26日 (土)

恐ろしき者の末の末 3

 

 ミズーリ艦上での降伏文書調印の場に、日本側全権団の随員として臨んでいた一人が柴勝男海軍大佐であり、それが「石川のおじいちゃん(石川秀三郎)」の娘婿なのであった。

 私からは、祖父の妹と夫の間に生まれた娘の結婚相手ということになり、かなり距離がある存在だが、母にとっては従姉妹の結婚相手であり、実際に顔を合わせる機会も少なくなかったと思われる。

 

 

 私からすれば、「ミズーリの降伏文書調印式」のエピソードをこそ聞いてみたい人物となるが、母からはそんな話を聞いた記憶はない。ヒトラー全盛時代のベルリンに駐在した親戚の存在についての話だけが記憶に残っている。

 相沢淳氏による「日本海軍の対独認識」(1996)によれば、確かに柴勝男は1935年5月からドイツに滞在しており、同年12月からが「武官補佐官」としての資格によるものとなっている(1937年7月まで)。1936年のベルリンオリンピックを挟む、いわばナチスの黄金期である。柴勝男の妻の従弟(つまり私の母)も、親戚の集まりなどで、そんなベルリンの姿を印象深く聞いていたのであろう。

 武官補佐官の前任者は神重徳であり、海軍内の親独派の中心となった人物である。その神と柴は、対米英開戦に至る時期の軍令部勤務を共にしているわけで、つまり国策としての対米英開戦の決定に関与していたことになる。

 

 

 

 祖父(加来金升)の妹の夫という意味では、母から「伊江のおじいちゃん」と呼ばれていた人物も、その一人である。

 その伊江朝助についてネット検索をすると、「1940年の沖縄県人会」の名簿を見ることが出来るのだが、そこに「伊江朝助(男爵、貴族院議員)ー中野区高根町、伊江朝睦(小菅刑務所所長)ー葛飾区小菅町」として記載されている前者が当人であり後者がその弟ということになる。

 今回の検索で、伊江朝睦の名を再確認することになったわけだが、母の話には「刑務所長をしていた伊江のおじいちゃんの弟」として登場していたことは覚えている。「収容者からも信頼を得ていた刑務所長」というような言い方であったが、あらためて考えれば、大日本帝國の法の執行の現場の長という捉え方も出来る。受刑者の側からは様々な評価があったものと思われる(註:1)。

 

 「伊江のおじいちゃん」は母が私淑していた人物であり、(現在に至る)沖縄の戦後の歴史にも関与している人物でもある。

 

 

 

 いずれにしても、このようにしてネット経由での情報と、母からの話を重ね合わせてみると、大日本帝國の国策をトップとして決定するような立場となったことはないが、大日本帝國の国策に近いところで近代化を推進し(時には統治する側の一員として)、その利益を享受していた一族だった、ということになりそうである。

 

 

 

【註:1】
 ネット検索すると、戦後になって(昭和23年の時点)、参議院の司法委員会で、伊江朝睦が「関東行刑管区長」として管区内の拘置所・刑務所・少年刑務所が置かれていた状況を証言しているのを読むことが出来る。戦後も継続した伊江朝睦の司法行政上の地位を確認すると同時に、(「終戦」から間もない)戦後の刑務所状況が管理者側からどのように認識されていたのかが読み取れるものである(収容者の過剰拘禁状況や食糧事情等、その要因も含めて、敗戦後日本の一断面として興味深い問題でもあるので、その証言の一部を掲載しておく)。

参議院会議録情報 第002回国会 司法委員会 第3号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/002/1340/00201281340003a.html

第002回国会 司法委員会 第3号 昭和二十三年一月二十八日(水曜日)
  ―――――――――――――
  本日の会議に付した事件
○行刑問題調査に関する件(証人より証言あり)

○委員長(伊藤修君) 次は関東行刑管区長伊江朝睦君。
○証人(伊江朝睦君) 先ず私共に証言の機会に與えて頂きましたことを感謝いたします。関東行刑管区内の刑務所の名前の先に申上げますれば、東京拘置所、府中刑務所、豐多摩刑務所、横濱刑務所、千葉刑務所、宇都宮刑務所前橋刑務所、長野刑務所、甲府刑務所新潟刑務所、靜岡刑務所それに少年刑務所といたしまして水戸、川越、松本八王子この四ケ所で、合計十一ケ所の刑務所でございます。
 先ず第一番に関東行刑管区内における拘禁並びに作業状態の概要を申上げたいと存じます。最初に拘禁状態から申上げます。管内の各所の收容総人員は一月の二十日現在で受刑者が一万七千四百十三名、初犯、累犯の内訳を申上げますれば、初犯が六八%、累犯が三二%であります。被告は、その他に五千四百六十五名おります。そうすると收容者の総人員が計二万二千八百七十八名であるます。收容定員の二万一千百五名を超過すること千七百七十三名であります。刑務所の施設から見まして実に飽和状態でありまして、種の刑務事故発生の一つの原因をなしておる現状であります。過剰拘禁の原因は、收容者の漸増がその一つに数えられますが、昭和二十一年の末には二万六百九十八名でありましたが、昨年昭和二十二年の末には二万二千百八十三名で、実に一年間に千四百八十五名の増加を示しておる状態であります。それに附加えまして宇都宮、前橋、甲府、靜岡、浦和、この江刑務所が戰災を被りましてその復旧工事の途方にあつて著しく收容施設が減殺されておる関係もありまするが、更に御承知の巣鴨にありました刑務所、並びに中野の豐多摩刑務所が連合軍の使用せらるるところとなつておりますのが、大きな影響を及ぼしておる所以であります。この過剰拘禁の対策といたしましては、戰災刑務所の復旧工事に進捗に促して、その根本的の改善を図りつつありますり外、健全なる構外泊込も作業の新設を図りますると共に各所間の合理的な移送を計画実施して、辛うじてこの住居の問題を解決しておる次第であります。
 それから食糧川情につきまして申上げますると、主食、副食物を併せまして平均的二千三百カロリーを攝取せしめるように努力しております。それから衣類、寝具は最近繊維事情の緊迫に伴いまして、非常に努力いたしております結果、辛うじて最低限度の物を支給しておる程度でありまして、尚管内の寒冷地にある刑務所に対しては、更に相当数これ以上支給しなければならん必要に迫られておりまして、目下関係方面に要望して、極力繊維類の入手に努めておる次第であります。
 管内の仮釈放に人員は昭和二十二年の一年間に累計九千三百十名を出しております。それから管内の病氣休養者の合計は現在約八百三十名であります。病氣に因る死亡者は、昭和二十二年の一ケ年を通じまして二百四十四名であります。丁度昭和二十一年の九百九名に比較いたしまして六百三十五名減少いたしておるわけでございます。その他刑務所全般の衞生には特に留意いたしまして、收容者をして明るい希望を持たせながら、行刑の完遂を期しておる次でございます。

(表記に不備があるように思われるが上記「参議院会議録情報 第002回国会 司法委員会 第3号」の文言をそのまま用いた)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/01/09 22:04 → http://www.freeml.com/bl/316274/200416/

 

 

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2013年1月25日 (金)

恐ろしき者の末の末 2

 

 前回の記事にある石川秀三郎は、母から「石川のおじいちゃん」として聞かされていた人物であった。それが私の祖父(加来金升)の妹の結婚相手であったという具体的関係を知ったのは、母の死後に相続関係の書類(古い戸籍謄本)に目を通していた際だから、母の話を聞いていた時点では、私とどういう関係にある「おじいちゃん」であるのかまでは把握してはいなかったというのも我ながら呑気な話ではある。

 

 そんな話の際に母から聞いた「石川のおじいちゃん」のエピソードというのは、「三笠の艦長」だった親族であるという話と、海軍軍人のハイカラな生活ぶりについての話だけで、具体的にどのような軍歴の持ち主なのかは知らず仕舞いだったのが実情である。

 それが、ネット検索の結果、時代の中での「石川のおじいちゃん」の姿が、急に立体的に見えて来たわけである。

 

 ちなみに、「海軍軍人のハイカラな生活ぶりについての話」として覚えているのは、「自宅を訪問すると紅茶でもてなされ」、「応接間にあるピアノをお嬢さんが弾いているような世界」であったというくらいではあるが、これが「戦前」の話(それも軍人一家の話)なわけである。

 それをすべてダメにしてしまったのが「戦争」というのは、いささかに皮肉な話ではある。

 

 

 ここは強調しておいた方がいい点なのかも知れないが、私にとって(私が育った家族の世界の中では)、戦前は決して「暗い時代」ではないのである。

 で、これも強調しておいた方がいい点なのかも知れないが、そんな戦前の生活が「敗戦」により失われた、ということなのだ。

 もちろん、「戦前」とは「格差社会」そのものであり、その意味では、全面的に肯定出来るような世界ではない。「格差社会」の中で、恵まれた場所にいられた一族が、敗戦を境に、恵まれた場所を失っただけの話でもある(註:1)。

 

 

 明治以来の富国強兵的世界の中で、それなりに恵まれた場所にいたということ、それも草創期以来の海軍の一翼を担って来た歴史を持つということは、敗戦に至る過程に関しても、分相応の責任を感じるような意識につながるわけである。「敗戦」もまた、恵まれた場所の延長に位置する歴史的事象、ということなのである。なので、私の大日本帝國に対する批判的な言動には、敗戦に至る歴史の中に埋め込まれた家族の歴史の問題と密着した所で発せられるものという側面もある。ある意味で「身内の問題」なのである。

 

 

 で、この石川秀三郎の娘婿が柴勝男であるということも、今回のネット検索から、あらためて明らかになったのであった。

 柴は海軍内の親独派の中心として知られたような人物なので、結局、身内が「すべてをダメにした」ような話でもあるという、より一層、何とも皮肉な話となるわけだ。柴との関係を知ることで、先に示した「身内の問題」という感覚は強められることになる。

 

 母からは、ヒトラー時代のベルリン勤務をしていたという、親戚の誰だかの話は聞いていたのだが、それが「誰」であるのかは知らなかった(あるいは覚えていなかった、あるいはわざわざ確かめようとまではしなかった)。今回、それが柴勝男であることが判明したわけである。尾形惟善にしても、「石川のおじいちゃん」にしても中央での軍歴はなく、その意味で政治過程からは離れていたことになる。

 しかし、この柴勝男は、昭和15~18年といった時代を軍令部で過ごし(中佐から大佐)、対米英開戦の決定に深く関与した人物なのである(昭和20年の降伏調印式の際には、全権団の随員としてミズーリ艦上にいた人物でもある)。

 

 

 対米英開戦決定に深く関与し、敗戦の象徴的シーンにも登場するのが身内なのであった。

 この事実は、私の中では、敗戦に至る歴史の責任のある部分を身内が負っているという認識(を、より強化すること)につながる。

 しかし、だからと言って、いわゆる「じっちゃんの名誉」(私の祖父ではないが身内のひとりである)のために、あの歴史的過程を正当化することに腐心するのは、私の採る態度ではない(註:2)。

 その都度の主張や決断の理路を、より詳しく理解したいという欲求が強くなっただけである。

 

 

 

【註:1】
 まさに「斜陽」である。
 以前の記事で紹介した太田静子の『斜陽日記』のエピソード(「丸ノ内ホテルのサンドウィッチ 」を参照)は、「戦前」ではなくて「戦中」の話だが、このノーテンキな太田静子の母娘の姿から、「暗い時代」ではない「戦前」のイメージがつかめるかも知れない。
 この母娘の疎開先として「別荘」を貸したのが、私の祖父である(「別荘」の詳細については「雄山荘焼失を惜しむ 」を参照)。

【註:2】
 政治的決定・軍事的決定のトップに身内がいたということではないが、しかし、まったく無関係と言うことも出来ない。

 そのような意味で、日本の「敗戦」に至る歴史は、私には、

  どこかの誰かが悪い

…という捉え方ではしっくりこない、ということなのであろう。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/01/05 22:52 → http://www.freeml.com/bl/316274/200307/

 

 

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2013年1月24日 (木)

恐ろしき者の末の末 1

 

 「夜な夜な女性を訪ねて妊娠させた大蛇の末裔」の血が、私の半分を構成していることが判明してしまった(恐ろしき者の末 )のは思いもよらないことであったが、勢いに乗って尾形惟善を始めとした親族関連の名をネット検索してみたら、それなりにヒットするではないか!

 

 

 

 たとえばこんな ↓ 具合。

 

 

石川 秀三郎 いしかわ ひでさぶろう 千葉 海兵25期 (16/32)
Ishikawa, Hidesaburo

発令日階級その他身分補職/任官
明 9(1876).12.20
功五級
明30(1897).12.18 海軍少尉候補生 金剛乗組(海兵卒)
明31(1898). 9.27 橋立乗組
明32(1899). 2. 1 海軍少尉 高砂乗組
明32(1899). 9.29 金剛乗組
明33(1900). 8.11 高千穂乗組
明33(1900). 9.25 海軍中尉
明33(1900).10.22 鎮西乗組
明34(1901). 1.18 陽炎乗組
明34(1901).12.12 呉水雷団水雷敷設隊分隊長心得
明35(1902). 5. 8 平遠分隊長心得
明35(1902). 8. 1 大湊水雷団水雷敷設隊分隊長心得
明35(1902).10. 6 海軍大尉 大湊水雷団水雷敷設隊分隊長
明36(1903). 9.14 大湊敷設隊分隊長
明37(1904). 5. 8 筑紫分隊長
明38(1905). 3.15 厳島分隊長
明39(1906). 1.25 海大乙種学生
明39(1906).12.20 常磐砲術長心得
明40(1907). 9.28 海軍少佐 常磐砲術長
明40(1907).11.22 常磐砲術長/分隊長
明41(1908). 4.20 砲術校教官
明42(1909). 5.25 砲術校教官/水雷校教官
明44(1911). 3.11 肥前砲術長
明44(1911).11. 1 河内砲術長/横工廠艤装員
明45(1912). 1.15 河内砲術長心得/横工廠艤装員
明45(1912). 4. 1 河内砲術長心得
大元(1912).12. 1 海軍中佐 橋立副長/砲術校教官
大 2(1913).12. 1 佐世保海兵団副長
大 3(1914).12. 1 河内副長
大 4(1915).12.13 大和艦長
大 5(1916). 2.10 労山指揮官
大 5(1916).12. 1 海軍大佐 利根艦長
大 6(1917).12. 1 周防艦長
大 7(1918).12. 1 敷島艦長
大 8(1919). 6.10 三笠艦長
大 8(1919).11.20 安芸艦長
大 9(1920).11.20 日向艦長
大10(1921).11.20 佐鎮附
大10(1921).12. 1 海軍少将 待命
大11(1922).12. 1 休職
大12(1923). 3.31 予備役
昭 9(1934).12.20 後備役
昭14(1939).12.20 退役
昭20(1945). 7.13 横須賀人事部軍事普及事務嘱託
昭42(1967).12.28 歿 (91)

http://homepage2.nifty.com/nishidah/px25.htm#r001

 

 

 

 母からは「石川のおじいちゃん」として伝えられた親族(母の父―私の祖父―である加来金升の妹の結婚相手)の海軍での軍歴である。

 こういう調べるとなるとメンドーなものが、既にネットにアップされているとなると、ちゃんとチェックしてみなきゃいかんなぁ…と思わされるのでありました。

 このデータから検索をかければ、その時々の乗艦の画像にもアクセス出来るし(註:1)、たとえば日露戦争時の乗艦も確認出来る。

 あらためて、近代史を身内の視線から捉えることが、図書館(と古書店)に通うしかなかった時代よりは、格段に楽になっていることがわかる。

 

 

 明治初年に若くして亡くなった(のでまったく有名じゃない)父方の絵描きの描いた作品が、ボストン美術館に収蔵されているという噂は以前から知ってはいたが、当人を主題とした論文(2010)があることも発見。フェノロサが日本滞在の最初期に出会った日本画家の一人でもあったらしく、フェノロサのセレクションとして収蔵されているらしいことも判明。

 

 

 

 

 父方と母方のそれぞれの近代が交錯する果てに私がいることが実感される。

 

 

 

【註:1】
 たとえば、私にとっては曾祖父となる尾形惟善が海軍で最初に乗り組んだ軍艦の画像にも簡単にアクセス出来た。

  日進丸(にっしんまる1869蘭国製)
  http://www.access21-co.jp/sinsaku/18gunkan.html

 なんと、三本マストの蒸気船!!であった。

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/01/04 23:10 → http://www.freeml.com/bl/316274/200277/

 

 

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2013年1月23日 (水)

恐ろしき者の末

 

 『平家物語』の巻第八、「緒環」の章に登場する緒方三郎維義は、巳年にふさわしい人物かも知れない。

 

 「件の大蛇は日向国に崇められさせ給ふ高千穂の明神の神体なりとぞ承る」という言葉で「緒環」の章は終わるが、その「件の大蛇」の末裔とされているのが緒方三郎維義なのである(以下に本文を示す)。

 

 

  豊後国は刑部卿三位頼資卿の国なりけり`子息頼経朝臣を代官に置かれたりけるが京より頼経の許へ`平家は既に神明にも放たれ奉り君にも捨てられ参らせて帝都を出で波の上に漂ふ落人となれり`然るを九州の者共が請ひ取つてもてあつかふこそ然るべからね`当国に於いては従ふべからず一味同心して九国の内を追ひ出だし奉るべき`由宣ひ遣はされたりければこれを緒方三郎維義に下知す`かの維義と申すは恐ろしき者の末にてぞ候ひける`たとへば豊後国片山里に女ありき`ある人の一人娘夫も無かりけるが許へ男夜な夜な通ふほどに年月も隔たれば身もただならずなりぬ`母これを怪しんで`汝が許へ通ふ者はいかなる者ぞ`と問ひければ`来るをば見れども帰るを知らず`とぞ云ひける`さらば朝帰りせん時印を付けて見よ`とぞ教へける`娘母の教へに随ひて朝帰りしける男の水色の狩衣を着たりける首上に`賤の緒環`といふ物を付けて経て行く方を繋いで見れば豊後国に取つても日向境優婆嶽といふ嵩の裾大きなる岩屋の内へぞ繋ぎ入れたる`女岩屋の口に佇んで聞きければ大きなる声してにえびければ`御姿を見参らせんが為にわらはこそこれまで参つて候へ`と云ひければ`我はこれ人の姿にはあらず`汝我が姿を見ては肝魂も身に添ふまじきぞ`孕める子は男子なるべし`弓矢打物取つては九州二島に並ぶ者あるまじきぞ`とぞ教へける`女重ねて申しけるは`たとひいかなる姿にてもあらばあれ日比の誼いかでか忘るべき`ただ見参せん`と云ひければ`さらば`とて岩屋の内より臥丈は五六尺ばかりにて跡枕へは十四五丈もあらんと覚ゆる大蛇にて動揺してぞ這ひ出でたる`女肝魂も身に添はず召し具したる十余人の所従共喚き叫んで逃げ去りぬ`首上に刺すと思ひし針は大蛇の喉笛にぞ立てたりける`女帰つてほどなく産をしたりければ男子にてぞありける`母方の祖父`育てみん`とて育てたれば未だ十歳にも満たざるに背大きう顔も長かりけり`七歳にて元服せさせ母方の祖父を`大太夫`といふ間これをば`大太`とこそ付けたりけれ`夏も冬も手足に皹隙なく破れたりければ`皹大太`とこそ申しける`かの維義は件の大太には五代の孫なりける`恐ろしき者の末なればにや国司の仰せを院宣と号して九州二島に廻文をしたりければ然るべき者共維義に皆従ひ付く`件の大蛇は日向国に崇められさせ給ふ高千穂の明神の神体なりとぞ承る
     (http://www.koten.net/heike/gen/117.html

 

 

 本文から抜き書きすれば、

 

  ある人の一人娘夫も無かりけるが許へ男夜な夜な通ふほどに年月も隔たれば身もただならずなりぬ

 

 つまり、ある人の独身の娘のところへ夜な夜な訪ねて来る男がいて、やがて娘を妊娠させてしまう。

 

  母これを怪しんで`汝が許へ通ふ者はいかなる者ぞ`と問ひければ`来るをば見れども帰るを知らず`とぞ云ひける`さらば朝帰りせん時印を付けて見よ`とぞ教へける`娘母の教へに随ひて朝帰りしける男の水色の狩衣を着たりける首上に`賤の緒環`といふ物を付けて経て行く方を繋いで見れば豊後国に取つても日向境優婆嶽といふ嵩の裾大きなる岩屋の内へぞ繋ぎ入れたる

 

 で、娘は母から男の正体を問われるが、「来るをば見れども帰るを知らず」としか答えられない。そこで、母が「朝帰りせん時印を付けて見よ」と言うので、それに従い辿って行くと「日向境優婆嶽といふ嵩の裾大きなる岩屋の内へぞ繋ぎ入れたる」という展開となり、男の正体が「十四五丈もあらんと覚ゆる大蛇」であることが判明する。

 

 やがて娘は無事に出産し、その「五代の孫」が緒方三郎維義ということになる。

 

 

 

…で、その先、何代の孫になるのかは知らないが、私にはその血が流れている、ということになっている(註:1)のでありました。

 

 

 

【註:1】
 母方の祖母の父の名が尾形惟善(おがたこれよし)で、緒方三郎維義の末裔ということになる。尾形惟善は明治の草創期からの海軍軍人で、佐世保鎮守府艦隊司令官まで務めた人物(海軍少将)であった。
 その話の印象(海軍軍人のルーツとしての武将)が強くて、緒方三郎維義を母方の母方の祖としてだけ認識していたのだが、あらためて調べてみると母方の祖父の家系(加来)もルーツは一緒だということが判明。
(→ http://www.kaku-net.jp/kakuh/index.html

…ということは、つまり、「夜な夜な女性を訪ねて妊娠させた大蛇の末裔」の血が、私の半分を構成していることが明らかになったわけで、大蛇の血はこれまで思っていたより濃いいらしい。

 ついでに父方の話をしておくと、小田原藩の下っ端の武士(つまり当時のサラリーマンというか公務員)であったらしい。少なくとも文化文政期には江戸詰めの生活をしていて、大田南畝(蜀山人)なんかと遊んでいた話が伝わっている。

 ペリーが来た時には、上役について江戸城の会議に…という話を聞いた覚えもある。

 で、幕末(文久)になって先祖代々の墓を麻布の寺に移し、これで完全に江戸のシティーボーイ化(…と言う間もなく、江戸は東京になっちゃったけど)。

 つまり、江戸のシティーボーイ家系と緒方三郎維義の末裔が一緒になって、現在の私がある、ということになるらしい。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/01/03 22:51 → http://www.freeml.com/bl/316274/200252/

 

 

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2012年12月26日 (水)

資産家の息子

 

 私の母方の祖父について、

 

  …、明治十八年大分県に生まれ、父政太郎は恵良家より養子に入り、母サダは中津の恩田家より嫁している。素封家で、「政太郎さんはカンガルーの靴しか履かないし、サダさんは、ハトの肉しか食べないそうな」と噂されたという話が残っているように、カンガルーの皮のように軽くてやわらかい靴しか履かず、ハトの肉のようなやわらかい肉しか食べないとの例え話で、その優雅な生活が想像される。福沢諭吉の同世代の文明開化に啓蒙された見本のような、大分の一族であったようだ。
     林和代 『「斜陽」の家 雄山荘物語』 (東京新聞出版局 1994)

  

…なんて書いてあるのを読む。

 (私にとっては曽祖父である)政太郎の「政太郎さんはカンガルーの靴しか履かない」という噂、それもそれが明治十年代の話であることに、ちょっと驚いたりする。私の履いているのは、基本的に牛革の靴である。

 「福沢諭吉の同世代の文明開化に啓蒙された見本のような、大分の一族」とあるが、実際に福沢諭吉のことを「ゆきっつぁん」と呼んでいたりするような「一族」であったらしい(それは母から聞いた)。

 庄屋・名主という種類の出身階層が、明治以降にも富裕な生活に結びついていた、ということのようである。祖父に嫁いだ相手(つまり祖母)も、こちらの先祖は『平家物語』(「緒環」の章)にも登場するような家で、祖母の父は明治の草創期海軍に参加し将官にまでなっている。

 祖父の姉妹の嫁ぎ先にも海軍将官がいたりするので、文明開化的であると同時に富国強兵的風潮からも無縁ではなかった一族なのであろう。

 

 

 その祖父は、応用化学畑から写真技術へと進み、美術印刷会社を設立・経営するに至る(註:1)。先の本には、

 

  美術印刷が主な仕事であったらしく、画集、写真集などたくさんあるが、大正十五年に発行されている『明治大帝御写真帖』は部厚い大変立派なもので、明治天皇から後の昭和天皇までの皇族のすべて、明治維新後の歴史的な事、天皇ゆかりの宝物から、めのと(乳母)に至るまで皇族のことが網羅されており、カラー印刷の立派な本である。

 

…なんて書いてあるが、「美術」というインターナショナルでもあるジャンルを手掛ける一方で、『明治大帝御写真帖』(こちらは単に印刷の請負ではなく出版元となっている)のようなナショナリズムにつながる系譜の仕事もこなしていたわけである。

 

 文明開化と富国強兵が共存していた世界の話である。それは富国強兵が支えた文明開化でもあった。

 

 

 

 父方の家は、小田原藩の下級武士階層だったようだが、江戸詰めになり文人生活化の道を辿ったらしい。蜀山人と交わした手紙が残されていたという話があるから、ま、江戸の都市生活を文人的に楽しんでいた公務員(武士)ということになるのであろうか。一族の中には文人的生活の延長として(?)絵画の世界の住人となった人物もいるようで、明治期の勧業博覧会の類で入賞した話を聞いた覚えもある(作品はボストン美術館収蔵品にもなっているらしい)。

 父方の祖父は若くして亡くなった(註:2)らしいが、日銀勤務であったというので、こちらは公務員家系の一員として文明開化の一翼を担ったことになる。

 ま、私は(父方で言えば)公務員系列ではなく文人系列の血を受け継いでしまったらしい。

 

 

 母方の祖父の話に戻ると、

 

  戦時中も従軍画家の画集や陸軍大将の写真集など軍事色の濃い仕事が増えていたが、四百名もいた従業員が次々と出征してしまい、技術者の人手が足りなくなって会社を継続するのが困難となり、凸版印刷に技術も会社もすべて譲ってしまった。

 

…という戦時生活を経験することになる。その影には統制経済体制の進行による会社合同があるだろうし、戦時利得という形式の金儲けに向かない当人の気質もあったのかも知れない(註:3)。

 

 いずれにしても、明治から戦前期昭和までは「カンガルーの靴しか履かないし、ハトの肉しか食べないそうな」と言われた一族も戦争ですべてを失い、今では相続財産とも金儲けとも縁のない世代が跡を継いでいるような状況である。

 

 

 

 宮澤賢治の場合は、その出自が農村社会の中での質屋という家業であったことが、彼の人生に大きく影を落としていることを感じさせるが、同じ戦前期の資産家階層であっても私の祖父の姿からは賢治のような負い目は感じられない。

 

 文化学院の創設者であった西村伊作もまた、継承した莫大な資産をその事業の原資としているわけだが、西村伊作にも賢治的な形での負い目は感じられない。伊作の場合は山林地主としての資産であることが、賢治的な負い目から身を離すことにつながっているように思われる(農民からの直接的搾取により資産形成をしたわけではない)。

 もっとも七歳時の濃尾地震で(目の前で)両親を失ったことが、資産継承の機縁であった(母方の祖母の家の相続者となった)こと。敬愛していた叔父の大石誠之助が大逆事件で連座させられ処刑されたことは、伊作を単なる金持ちの道楽息子として考え、文化学院の事業を金持ちの道楽として捉えようとする類の視点から私たちを遠ざける(註:4)。

 

 

 賢治の場合、単に資産家の家庭に生まれたという問題なのではなく、質屋という家業の落とした影が、大きく彼の人生を決定付けてしまった。

 そのように考えるわけだが、彼の自然科学的な文学的な宗教的な資質の基本は、彼自身のものであったはずである。質屋の息子であるということだけでは、彼の作品は存在し得ないのである。

 

 

 

【註:1】
 その後に判明したところによれば、

 東京高等工業学校 工業図案科選科
 明治41年(1908)7月入学 明治42年(1909)7月卒業

 明治44年(1911)~大正7年(1918) 九州帝国大学工科大学・応用化学教室 助手

 大正14年(1925)~アサヒ印刷所(東京)を設立・経営

…というのが経歴をめぐる事実関係の詳細のようであるが、調べて下さった未知の方(小野一雄氏のブログによる)には頭が下がる。
(より詳しくは→ http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/459/)。

 この「アサヒ印刷所」の仕事をめぐって私が母から聞いていたことの一つに、出版社「アルス」の北原鉄雄(白秋の弟)との親密な関係がある。

【註:2】
 あらためて確認したところ、父方の祖父が亡くなったのは大正7年、父が18歳、父の妹が8歳、弟はまだ6歳の時点であった。

【註:3】
 1942(昭和17)年に日本印刷文化振興会から刊行された『講演と座談会の報告書』(昭和17年上半期会報)には、「印刷統制の現状を語る会(鈴木正文,加来金升両氏をかこんで)」なる記事が掲載されているようである(http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000684488-00)。まだ戦勝気分に覆われた時点での「講演と座談会」と位置付けられるが、当人の時局意識(大東亜戦争観)を窺う上でも興味深い資料となりそうである(目を通す機会を作りたいと思う)。

【註:4】
 あらためて調べてみると、西村伊作が明治17(1884)年生まれで、私の祖父(加来金升)が明治18(1985)年生まれ。宮澤賢治は明治29(1896)年生まれであった。
 賢治の没年(37歳)である昭和8(1933)年には、西村伊作は49歳、祖父は48歳という関係になる。

 西村伊作は戦前の自由主義の代表格のような人物だが、祖父の立ち位置がどうであったかは(今のところ)よくわからない。
 ただ、母の小学校時代の恩師が小林宗作で、母は小林宗作への尊敬の念を最後まで語っていた。この小林宗作こそは黒柳徹子のトモエ学園時代の恩師であり、大正自由教育運動の推進者の一人であったわけで、そのように母を育てたのも祖父だ、ということにはなる。
 祖父の仕事としては陸軍美術協会関係の出版物もあるし、海軍関係の親戚もあるわけで、大日本帝國の国策を受け容れていたであろう可能性は考えられるが、祖父に育てられた子供たちの気質を見ると、大正デモクラシーの良質な部分を感じさせられもする。

 私の場合、父が五十代、母が四十代での生まれなので、周囲の遊び友達の両親とは一世代分のズレがあった。私の祖父は、普通なら曽祖父に相当する年代の人間である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/05/12 00:00 → http://www.freeml.com/bl/316274/188704/

 

 

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