カテゴリー「宮澤賢治を読む」の記事

2012年12月26日 (水)

資産家の息子

 

 私の母方の祖父について、

 

  …、明治十八年大分県に生まれ、父政太郎は恵良家より養子に入り、母サダは中津の恩田家より嫁している。素封家で、「政太郎さんはカンガルーの靴しか履かないし、サダさんは、ハトの肉しか食べないそうな」と噂されたという話が残っているように、カンガルーの皮のように軽くてやわらかい靴しか履かず、ハトの肉のようなやわらかい肉しか食べないとの例え話で、その優雅な生活が想像される。福沢諭吉の同世代の文明開化に啓蒙された見本のような、大分の一族であったようだ。
     林和代 『「斜陽」の家 雄山荘物語』 (東京新聞出版局 1994)

  

…なんて書いてあるのを読む。

 (私にとっては曽祖父である)政太郎の「政太郎さんはカンガルーの靴しか履かない」という噂、それもそれが明治十年代の話であることに、ちょっと驚いたりする。私の履いているのは、基本的に牛革の靴である。

 「福沢諭吉の同世代の文明開化に啓蒙された見本のような、大分の一族」とあるが、実際に福沢諭吉のことを「ゆきっつぁん」と呼んでいたりするような「一族」であったらしい(それは母から聞いた)。

 庄屋・名主という種類の出身階層が、明治以降にも富裕な生活に結びついていた、ということのようである。祖父に嫁いだ相手(つまり祖母)も、こちらの先祖は『平家物語』(「緒環」の章)にも登場するような家で、祖母の父は明治の草創期海軍に参加し将官にまでなっている。

 祖父の姉妹の嫁ぎ先にも海軍将官がいたりするので、文明開化的であると同時に富国強兵的風潮からも無縁ではなかった一族なのであろう。

 

 

 その祖父は、応用化学畑から写真技術へと進み、美術印刷会社を設立・経営するに至る(註:1)。先の本には、

 

  美術印刷が主な仕事であったらしく、画集、写真集などたくさんあるが、大正十五年に発行されている『明治大帝御写真帖』は部厚い大変立派なもので、明治天皇から後の昭和天皇までの皇族のすべて、明治維新後の歴史的な事、天皇ゆかりの宝物から、めのと(乳母)に至るまで皇族のことが網羅されており、カラー印刷の立派な本である。

 

…なんて書いてあるが、「美術」というインターナショナルでもあるジャンルを手掛ける一方で、『明治大帝御写真帖』(こちらは単に印刷の請負ではなく出版元となっている)のようなナショナリズムにつながる系譜の仕事もこなしていたわけである。

 

 文明開化と富国強兵が共存していた世界の話である。それは富国強兵が支えた文明開化でもあった。

 

 

 

 父方の家は、小田原藩の下級武士階層だったようだが、江戸詰めになり文人生活化の道を辿ったらしい。蜀山人と交わした手紙が残されていたという話があるから、ま、江戸の都市生活を文人的に楽しんでいた公務員(武士)ということになるのであろうか。一族の中には文人的生活の延長として(?)絵画の世界の住人となった人物もいるようで、明治期の勧業博覧会の類で入賞した話を聞いた覚えもある(作品はボストン美術館収蔵品にもなっているらしい)。

 父方の祖父は若くして亡くなった(註:2)らしいが、日銀勤務であったというので、こちらは公務員家系の一員として文明開化の一翼を担ったことになる。

 ま、私は(父方で言えば)公務員系列ではなく文人系列の血を受け継いでしまったらしい。

 

 

 母方の祖父の話に戻ると、

 

  戦時中も従軍画家の画集や陸軍大将の写真集など軍事色の濃い仕事が増えていたが、四百名もいた従業員が次々と出征してしまい、技術者の人手が足りなくなって会社を継続するのが困難となり、凸版印刷に技術も会社もすべて譲ってしまった。

 

…という戦時生活を経験することになる。その影には統制経済体制の進行による会社合同があるだろうし、戦時利得という形式の金儲けに向かない当人の気質もあったのかも知れない(註:3)。

 

 いずれにしても、明治から戦前期昭和までは「カンガルーの靴しか履かないし、ハトの肉しか食べないそうな」と言われた一族も戦争ですべてを失い、今では相続財産とも金儲けとも縁のない世代が跡を継いでいるような状況である。

 

 

 

 宮澤賢治の場合は、その出自が農村社会の中での質屋という家業であったことが、彼の人生に大きく影を落としていることを感じさせるが、同じ戦前期の資産家階層であっても私の祖父の姿からは賢治のような負い目は感じられない。

 

 文化学院の創設者であった西村伊作もまた、継承した莫大な資産をその事業の原資としているわけだが、西村伊作にも賢治的な形での負い目は感じられない。伊作の場合は山林地主としての資産であることが、賢治的な負い目から身を離すことにつながっているように思われる(農民からの直接的搾取により資産形成をしたわけではない)。

 もっとも七歳時の濃尾地震で(目の前で)両親を失ったことが、資産継承の機縁であった(母方の祖母の家の相続者となった)こと。敬愛していた叔父の大石誠之助が大逆事件で連座させられ処刑されたことは、伊作を単なる金持ちの道楽息子として考え、文化学院の事業を金持ちの道楽として捉えようとする類の視点から私たちを遠ざける(註:4)。

 

 

 賢治の場合、単に資産家の家庭に生まれたという問題なのではなく、質屋という家業の落とした影が、大きく彼の人生を決定付けてしまった。

 そのように考えるわけだが、彼の自然科学的な文学的な宗教的な資質の基本は、彼自身のものであったはずである。質屋の息子であるということだけでは、彼の作品は存在し得ないのである。

 

 

 

【註:1】
 その後に判明したところによれば、

 東京高等工業学校 工業図案科選科
 明治41年(1908)7月入学 明治42年(1909)7月卒業

 明治44年(1911)~大正7年(1918) 九州帝国大学工科大学・応用化学教室 助手

 大正14年(1925)~アサヒ印刷所(東京)を設立・経営

…というのが経歴をめぐる事実関係の詳細のようであるが、調べて下さった未知の方(小野一雄氏のブログによる)には頭が下がる。
(より詳しくは→ http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/459/)。

 この「アサヒ印刷所」の仕事をめぐって私が母から聞いていたことの一つに、出版社「アルス」の北原鉄雄(白秋の弟)との親密な関係がある。

【註:2】
 あらためて確認したところ、父方の祖父が亡くなったのは大正7年、父が18歳、父の妹が8歳、弟はまだ6歳の時点であった。

【註:3】
 1942(昭和17)年に日本印刷文化振興会から刊行された『講演と座談会の報告書』(昭和17年上半期会報)には、「印刷統制の現状を語る会(鈴木正文,加来金升両氏をかこんで)」なる記事が掲載されているようである(http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000684488-00)。まだ戦勝気分に覆われた時点での「講演と座談会」と位置付けられるが、当人の時局意識(大東亜戦争観)を窺う上でも興味深い資料となりそうである(目を通す機会を作りたいと思う)。

【註:4】
 あらためて調べてみると、西村伊作が明治17(1884)年生まれで、私の祖父(加来金升)が明治18(1985)年生まれ。宮澤賢治は明治29(1896)年生まれであった。
 賢治の没年(37歳)である昭和8(1933)年には、西村伊作は49歳、祖父は48歳という関係になる。

 西村伊作は戦前の自由主義の代表格のような人物だが、祖父の立ち位置がどうであったかは(今のところ)よくわからない。
 ただ、母の小学校時代の恩師が小林宗作で、母は小林宗作への尊敬の念を最後まで語っていた。この小林宗作こそは黒柳徹子のトモエ学園時代の恩師であり、大正自由教育運動の推進者の一人であったわけで、そのように母を育てたのも祖父だ、ということにはなる。
 祖父の仕事としては陸軍美術協会関係の出版物もあるし、海軍関係の親戚もあるわけで、大日本帝國の国策を受け容れていたであろう可能性は考えられるが、祖父に育てられた子供たちの気質を見ると、大正デモクラシーの良質な部分を感じさせられもする。

 私の場合、父が五十代、母が四十代での生まれなので、周囲の遊び友達の両親とは一世代分のズレがあった。私の祖父は、普通なら曽祖父に相当する年代の人間である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/05/12 00:00 → http://www.freeml.com/bl/316274/188704/

 

 

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2012年7月31日 (火)

非科学的なものは信じないリアリストでもある信仰者の姿(宮澤賢治)

 

 

《性格・思考》

 基本的に常識人で周囲の的外れな言動によく突っ込みを入れることもあるが、自己中心的な性格で、非常に短気で感情的になりやすい。また喧嘩っ早いうえに粗暴で不良少年のような性格をしており、ひねくれてもいる。その一方、努力家かつ人情家で正義感が強く、思いやりもあり、総じて繊細で感受性の強い人物と言える。アルやウィンリィなど、自分の大切な人に危害を加えようとする(加えた)者に対しては激しい怒りを示し、時に報復行為に出る。

 何かを思い立つと即座に実行に移すなど行動力はあるが、周囲に相談することなくどんどん次のステップへ進む(または失敗して問題を引き起こす)傾向がある為、周囲からはトラブルメーカーとして認識されている節がある。

 結構、几帳面な一面もあり、頭脳明晰で頭の回転は速く、洞察力が鋭い。また探究心が強く、一度調べ物を始めると時間が経つのも忘れて没頭するなど集中力も高い。資料を正確に理解・分析する力に長け、かつそこから導き出した答えを発展させる応用力もあるなど、思考力に優れ、またその思考は非常に柔軟であるが、非科学的なものは信じないリアリストでもある。

 

 

 以上、『ウィキペディア』先生による、エドワード・エルリック氏の性格と思考である。

 断るまでもなく、フィクション(『鋼の錬金術師』)の主人公の設定だが、

  何かを思い立つと即座に実行に移すなど行動力はあるが、周囲に相談することなくどんどん次のステップへ進む(または失敗して問題を引き起こす)傾向がある為、周囲からはトラブルメーカーとして認識されている節がある。

…なんてところを読むと、そのまま宮澤賢治の話、のようでもある。

 

 賢治が、

  喧嘩っ早いうえに粗暴で不良少年のような性格

…であったという話は知らないが、否定的表現を用いれば、

  自己中心的な性格で、非常に短気で感情的になりやすい

…として描ける側面が賢治になかった、と言い切ることは難しいような気もする。

 もちろん、積極的に、

  努力家かつ人情家で正義感が強く、思いやりもあり、総じて繊細で感受性の強い人物と言える

…と賢治を肯定的に評価することに異論はない。

 

 自然科学者としての賢治を知る者なら、

  結構、几帳面な一面もあり、頭脳明晰で頭の回転は速く、洞察力が鋭い。また探究心が強く、一度調べ物を始めると時間が経つのも忘れて没頭するなど集中力も高い。資料を正確に理解・分析する力に長け、かつそこから導き出した答えを発展させる応用力もあるなど、思考力に優れ、またその思考は非常に柔軟であるが、非科学的なものは信じないリアリストでもある。

…とのエドワード・エルリックに関する評価を、宮澤賢治の一面を示すものとして喜んで受け容れるであろう。

 

 法華経の信仰者としての賢治であっても、「非科学的なものは信じないリアリスト」という側面に変化はないようにも思われる。

 賢治のマクロな世界観は法華経が支えたかも知れないが、世界の細部を自然科学者の目で観察していたのが賢治であった、と言ってしまうことは出来そうな気もするのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/05/10 23:02 → http://www.freeml.com/bl/316274/188609/

 

 






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2012年7月30日 (月)

警察署長のミクロな幸福(「よだかの星」と「毒もみのすきな署長さん」)

 

 宮澤賢治の「幸福」について考えながら、

 

  彼の不幸は、彼が資産家の息子であったという一事に尽きる。
  それも家業である質屋は、進行する農村社会の疲弊を利益の源泉としていたのである。

 

  彼の初めから持っていた資質(自然への感受性に支えられた科学的かつ文学的感性)を抜きに、彼の生涯を語ることは出来ないが、その資質を育てたのは実家の資産であった。実家の資産あればこそのモダンボーイであり自然科学者であり教育者なのである。しかし、その実家の資産が、資産家の息子という出自が、彼の不幸の原点ともなっていたわけである。

 

…という問題を指摘した。

 

 

 賢治の名高い作品である「よだかの星」の基調にあるのは、農村社会の搾取者としての自身の姿だと言ってよいであろう。

 しかし、どんな家に生まれるかを人は選択出来ない。それが人生の出発点にある人間の条件なのである。

 そして、どんな生物として生まれるのかを選択することは出来ない。それが生物として生まれることの条件なのである。しかし、その「生まれ」を意識することは、生き物を絶望へと追い込むかも知れない。「よだかの星」を読むと、そんなことを思う。

 

 

 それからにわかによだかは口を大きくひらいて、はねをまっすぐに張って、まるで矢のようにそらをよこぎりました。小さな羽虫が幾匹も幾匹もその咽喉にはいりました。
 からだがつちにつくかつかないうちに、よだかはひらりとまたそらへはねあがりました。もう雲は鼠色になり、向うの山には山焼けの火がまっ赤です。
 夜だかが思い切って飛ぶときは、そらがまるで二つに切れたように思われます。一疋の甲虫が、夜だかの咽喉にはいって、ひどくもがきました。よだかはすぐそれを呑みこみましたが、その時何だかせなかがぞっとしたように思いました。
 雲はもうまっくろく、東の方だけ山やけの火が赤くうつって、恐ろしいようです。よだかはむねがつかえたように思いながら、又そらへのぼりました。
 また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。
(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)

     (宮澤賢治 「よだかの星」より)

 

 

 よだかの自意識の目覚めは、羽虫を食べる経験そのものからではなく、鷹から改名を迫られたことによる。鷹のマガイモノのような名を責められたのだ。そして改名しないと殺すと脅されるのである。

 殺されるかも知れない立場に追い込まれ、それに怯える自分自身の姿を省みることで、「毎晩僕に殺されるたくさんの羽虫」の存在に思い至るのである。

 そして、生き続けることを罪深いものと感じてしまう。

 

 しかし、生き物を食べて命をつなぐのは、そもそもの生き物としての宿命的な条件である。

 よだかだけが罪深いわけではないのである。

 

 賢治について、

 

  家業である質屋は、進行する農村社会の疲弊を利益の源泉としていた

 

…という事実から生じたであろう自己意識を指摘したが、その事実に立ち向かおうとする賢治の姿を見ていて、いわゆる社会問題としてではなく、存在すること自体の問題として捉えようとしていたような印象を受ける。そこにあるのは社会的矛盾と言うことも出来るが、しかし、賢治はそれを社会的矛盾=社会問題のレベル(国家の制度設計もまた社会問題であるし、経済体制のあり方も社会問題である)で考えるのではなく、生きて存在することそのものの宿命的問題として考えようとしていたように思えるのだ。社会問題という枠組みで考えるならば解決は、少なくとも解決の方法を提示することくらいなら、容易である(「おれたちは大いにやらう約束しやう」と気炎を上げることも出来る)。

 であるからこその、法華経への接近・傾倒があるわけだし、法華経への接近は、社会問題として社会制度を弄ぶような解決法から賢治の身を引き離す方向に(あらためて)役立ったであろう。

 

 「よだかの星」では自身の存在を消し去る選択が示されているわけだが、それは同時に星として輝くイメージで語られてもいる。

 

 

 どんな家に生まれるかを人は選択出来ない。それが人生の出発点にある人間の条件なのである。(註:1)

 

 そこで、現実にはどのような選択肢が残されているのだろうか?

 

 

 

…と、考えを進めながらも、あまりに深刻な方向に行ってしまうことには、賢治の愛読者として多いに違和感も感じざるを得ない。

 ここで思い起こすのは、別の賢治の作品である。ここではまず、「毒もみのすきな署長さん」が相応しいだろう。

 

 

 さてこの国の第一条の
「火薬を使って鳥をとってはなりません、
 毒もみをして魚をとってはなりません。」
 というその毒もみというのは、何かと云いますと床屋のリチキはこう云う風に教えます。
 山椒の皮を春の午の日の暗夜に剥いて土用を二回かけて乾かしうすでよくつく、その目方一貫匁を天気のいい日にもみじの木を焼いてこしらえた木灰七百匁とまぜる、それを袋に入れて水の中へ手でもみ出すことです。
 そうすると、魚はみんな毒をのんで、口をあぶあぶやりながら、白い腹を上にして浮びあがるのです。そんなふうにして、水の中で死ぬことは、この国の語ではエップカップと云いました。これはずいぶんいい語です。
 とにかくこの毒もみをするものを押えるということは警察のいちばん大事な仕事でした。
 ある夏、この町の警察へ、新らしい署長さんが来ました。

     (宮澤賢治 「毒もみのすきな署長さん」より)

 

 

 「毒もみ」という行為が禁じられている国のある町(ブハラ)の新任警察署長が主人公である。赴任後のその町で、「毒もみ」の使用事件が多発する。やがて町の子供たちの間で署長犯人説が囁かれ始め、噂は拡がっていく。

 ブハラの町長は警察署を訪問し、署長に町の評判について尋ねる。

 

「はあ、そんな評判がありますかな。」
「ありますとも。どうもそしてその、子供らが、あなたのしわざだと云いますが、困ったもんですな。」
 署長さんは椅子から飛びあがりました。
「そいつは大へんだ。僕の名誉にも関係します。早速犯人をつかまえます。」
「何かおてがかりがありますか。」
「さあ、そうそう、ありますとも。ちゃんと証拠があがっています。」
「もうおわかりですか。」
「よくわかってます。実は毒もみは私ですがね。」
 署長さんは町長さんの前へ顔をつき出してこの顔を見ろというようにしました。
 町長さんも愕きました。
「あなた? やっぱりそうでしたか。」
「そうです。」
「そんならもうたしかですね。」
「たしかですとも。」
 署長さんは落ち着いて、卓子の上の鐘を一つカーンと叩いて、赤ひげのもじゃもじゃ生えた、第一等の探偵を呼びました。
 さて署長さんは縛られて、裁判にかかり死刑ということにきまりました。
 いよいよ巨きな曲った刀で、首を落されるとき、署長さんは笑って云いました。
「ああ、面白かった。おれはもう、毒もみのことときたら、全く夢中なんだ。いよいよこんどは、地獄で毒もみをやるかな。」
 みんなはすっかり感服しました。

 

 

 この署長最後のエピソード、

 

 いよいよ巨きな曲った刀で、首を落されるとき、署長さんは笑って云いました。
「ああ、面白かった。おれはもう、毒もみのことときたら、全く夢中なんだ。いよいよこんどは、地獄で毒もみをやるかな。」
 みんなはすっかり感服しました。

 

 これが、私には忘れ難い。賢治は署長にわざわざ、

 

  ああ、面白かった。おれはもう、毒もみのことときたら、全く夢中なんだ。いよいよこんどは、地獄で毒もみをやるかな。

 

…と語らせ(註:2)、しかも、

 

  みんなはすっかり感服しました。

 

…と、話を締め括っているのである。(註:3)

 

 

 

【註:1】 
 「よだかの星」には、次のような一節もある。

 ある夕方、とうとう、鷹がよだかのうちへやって参りました。
「おい。居るかい。まだお前は名前をかえないのか。ずいぶんお前も恥知らずだな。お前とおれでは、よっぽど人格がちがうんだよ。たとえばおれは、青いそらをどこまででも飛んで行く。おまえは、曇ってうすぐらい日か、夜でなくちゃ、出て来ない。それから、おれのくちばしやつめを見ろ。そして、よくお前のとくらべて見るがいい。」
「鷹さん。それはあんまり無理です。私の名前は私が勝手につけたのではありません。神さまから下さったのです。」
「いいや。おれの名なら、神さまから貰ったのだと云ってもよかろうが、お前のは、云わば、おれと夜と、両方から借りてあるんだ。さあ返せ。」
「鷹さん。それは無理です。」

 よだかの、

「鷹さん。それはあんまり無理です。私の名前は私が勝手につけたのではありません。神さまから下さったのです。」

…という言葉の含意は深い。

 示されているのは、神によって命名された(=神に条件付けられた)自らの出自である。

【註:2】
 署長は、いわば「ミクロな幸福」を生き切った人物である。
 それに対し、

  みんなはすっかり感服しました。

…と、話を締め括った賢治に注目しておきたい。

 反社会的行為に「ミクロな幸福」を見出した署長に、「すっかり感服」するブハラの町の「みんな」なのである。
 この「みんな」には賢治も含まれる、と考えることは、多分、間違ってはいないものと思われる。

【註:3】
 天上のよだかと地獄の警察署長。
 読者は、そのどちらにも「すっかり感服」させられることになるわけである。
 ただし、宮澤賢治の「愛読者」としての私を支えているのは、「よだかの星」であるよりは「毒もみのすきな署長さん」の賢治である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/05/09 23:01 → http://www.freeml.com/bl/316274/188528/

 

 

 

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2012年5月27日 (日)

宮澤賢治のミクロな幸福

 

 

  宮澤賢治は幸福であったのか?

 

…という問いを前にして考えることは、少なくとも賢治は「ミクロな幸福」というものを知り尽くしていた人物であろう、ということである。

 

 

 鉱物の美しい結晶を見ているだけで、彼は幸福であった。鉱物の結晶構造に美しさを見出すことに限らず、彼は自然というものの示す「美」に敏感であり、その「美」を前にして彼は幸福であったはずである。鉱物の世界や星の世界、実験室内での化学反応の過程に彼が見出した「美」の感覚は、彼の作品中でも繰り返し示されているところだ。

 花巻農学校教師として、教え子たちに、まさに自然の美の多様な魅力を伝える努力を続けていたことは、生徒の回想からも明らかである。彼は、彼が感じた幸福感を生徒にも共有して欲しかったのであろう。

 彼にとって幸福は遠くに求めるものではなく、現に目の前に、自然の美として存在していたのではないか(註:1)?

 

 

 彼の不幸は、彼が資産家の息子であったという一事に尽きる。

 それも家業である質屋は、進行する農村社会の疲弊を利益の源泉としていたのである(註:2)。

 しかし、その家業のもたらす資産があるからこそ、彼は盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)へと進学し、自然科学的素養を手にし、単に自然の造形の外形的美しさの嘆賞にとどまらない、化学反応の美しさやその原理までをも含めた「自然」という現実についての広い視野を獲得し得たのである。それは彼が自然との交流の中で抱いた生来の幸福感を、より深化させることにも役立ったであろう。

 また、その学歴が、花巻農学校教師としての彼の姿に結実したわけであるし、農民への肥料設計を可能にしたのも学業の成果であった。その背後には、地方資産家としての彼の実家が存在するのである。

 羅須地人協会時代には、レコードコンサートの主催者ともなったが、それを可能にしたレコード蒐集趣味もまた、地方資産家の息子なればこその話である。

 

 妹トシの死の悲しみの深さを綴ったものとして有名な「永訣の朝」にしても、そこにあるのはあくまでも愛する家族との死別の悲しみなのであって、貧困の中の死の悲惨ではないのである。トシの発病は東京の日本女子大に在学中のことであった。そこにあるのは地方資産家の娘としてのトシの境遇である。

 

 賢治はトシの看病を含め、東京での生活経験もある、レコード蒐集趣味のある音楽好きのモダンボーイであったのだ。彼は都会生活の楽しみを知らない貧しい地方人ではないのである。

 音楽のもたらす幸福感を知ればこそ、羅須地人協会での農民向けのレコードコンサートも存在するのだということ。花巻農学校教師として、生徒に自然に内在する美を見出すことがもたらす幸福感を伝えようとしたように、西洋音楽のもたらす幸福感を農民たちと共有しようとしたのである。

 どちらも自分の知った「ミクロな幸福」を、周囲の人間にも伝え、共有することへの願望に支えられた行為であろう(註:3)。

 

 

 彼の初めから持っていた資質(自然への感受性に支えられた科学的かつ文学的感性)を抜きに、彼の生涯を語ることは出来ないが、その資質を育てたのは実家の資産であった。実家の資産あればこそのモダンボーイであり自然科学者であり教育者なのである(註:4)。しかし、その実家の資産が、資産家の息子という出自が、彼の不幸の原点ともなっていたわけである。

 

 

 

【註:1】
 賢治の場合、鉱物の結晶構造に見出すミクロな幸福が、法華経的世界観を介してマクロな幸福感につながっていた可能性もある。

【註:2】
 「よだかの星」の基調にあるのは、農村社会の搾取者としての自身の姿である。
 どんな家に生まれるかを人は選択出来ない。
 それが人生の出発点にある人間の条件なのである。

【註:3】
 自身が感じた「ミクロな幸福」を伝え分かち合おうとする賢治の姿。
 そこには、あの、

   幸福感の中に生きる者の存在が、隣人をも幸福にしていく

  …ということもまた真実なのではないだろうか?

   ミクロの幸福が、ミクロの幸福を呼び覚ます

  …ということはあり得ないことなのだろうか?

…として提示した問いへの賢治自身による答えがある、ようにも見える。

【註:4】
 モダンボーイとしての賢治像が抜けてしまうと、賢治は近寄り難い聖人となってしまうように思われるので、「ミクロな幸福」を知るモダンボーイとしての賢治像を記してみたわけである。

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/05/08 23:20 → http://www.freeml.com/bl/316274/188473/

 

 

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2012年5月24日 (木)

北上川の百万疋の鼠

 

 最近はあまり読み返す機会もなかったが、宮澤賢治の愛読者として生きてきたことは確かだと思う。

 

 たまたま、宮澤賢治は幸福であったのか? という話題に出会って思い出したのが『春と修羅 第二集』の「序」であった(註:1)。

 

 

 この一巻は
 わたくしが岩手県花巻の
 農学校につとめて居りました四年のうちの
 終りの二年の手記から集めたものでございます
 この四ヶ年はわたくしにとって
 じつに愉快な明るいものでありました
 先輩たち無意識なサラリーマンスユニオンが
 近代文明の勃興以来
 或ひは多少ペテンもあったではありませうが
 とにかく巨きな効果を示し
 絶えざる努力と結束で
 獲得しましたその結果
 わたくしは毎日わづか二時間乃至四時間のあかるい授業と
 二時間ぐらゐの軽い実習をもって
 わたくしにとっては相当の量の俸給を保証されて居りまして
 近距離の汽車にも自由に乗れ
 ゴム靴や荒い縞のシャツなども可成に自由に選択し
 すきな子供らにはごちさうもやれる
 さういふ安固な待遇を得て居りました
 しかしながらそのうちに
 わたくしはだんだんそれになれて
 みんながもってゐる着物の枚数や
 毎食とれる蛋白質の量などを多少夥剰に計算したかの嫌ひがあります
 そこでたゞいまこのぼろぼろに戻って見れば
 いさゝか湯漬けのオペラ役者の気もしまするが
 またなかなかになつかしいので
 まづは友人藤原嘉藤治
 菊地武雄などの勧めるまゝに
 この一巻をもいちどみなさまにお目通りまで捧げます
 たしかに捧げはしまするが
 今度もたぶんこの出版のお方は
 多分のご損をなさるだらうと思ひます
 そこでまことにぶしつけながら
 わたくしの敬愛するパトロン諸氏は
 手紙や雑誌をお送りくだされたり
 何かにいろいろお書きくださることは
 気取ったやうではございますが
 何かと願ひさげいたしたいと存じます
 わたくしはどこまでも孤独を愛し
 熱く湿った感情を嫌ひますので
 もし万一にもわたくしにもっと仕事をご期待なさるお方は
 同人になれと云ったり
 原稿のさいそくや集金郵便をお差し向けになったり
 わたくしをくるしませぬやうおねがひしたいと存じます
 けだしわたくしはいかにもけちなものではありますが
 自分の畑も耕せば
 冬はあちこちに南京ぶくろをぶらさげた水稲肥料の設計事務所も出して居りまして
 おれたちは大いにやらう約束しやうなどといふことよりは
 も少し下等な仕事で頭がいっぱいなのでございますから
 さう申したとて別に何でもありませぬ
 北上川が一ぺん汎濫しますると
 百万疋の鼠が死ぬのでございますが
 その鼠らがみんなやっぱりわたくしみたいな云ひ方を
 生きているうちは毎日いたして居りまするのでございます

 

 

 

 賢治が花巻農学校の教師を辞めたのは1926年のことであった。その年に、実家である宮澤家の別宅の建物を利用して、「羅須地人協会」を設立している。その際に書いたのが「農民芸術概論綱要」である。

 

 

農民芸術概論綱要

 序論

  ……われらはいっしょにこれから何を論ずるか……

   おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
   もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
   われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
   近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
   世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
   自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
   この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
   新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
   正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
   われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である

 農民芸術の興隆

  ……何故われらの芸術がいま起らねばならないか……

   曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
   そこには芸術も宗教もあった
   いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
   宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
   芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
   いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
   われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
   いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
   芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
   ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
   都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ

 農民芸術の本質

  ……何がわれらの芸術の心臓をなすものであるか……

   もとより農民芸術も美を本質とするであらう
   われらは新たな美を創る 美学は絶えず移動する
   「美」の語さへ滅するまでに それは果なく拡がるであらう
   岐路と邪路とをわれらは警めねばならぬ
   農民芸術とは宇宙感情の 地 人 個性と通ずる具体的なる表現である
   そは直観と情緒との内経験を素材としたる無意識或は有意の創造である
   そは常に実生活を肯定しこれを一層深化し高くせんとする
   そは人生と自然とを不断の芸術写真とし尽くることなき詩歌とし
   巨大な演劇舞踊として観照享受することを教へる
   そは人々の精神を交通せしめ その感情を社会化し遂に一切を究竟地にまで導かんとする
   かくてわれらの芸術は新興文化の基礎である

 農民芸術の分野

  ……どんな工合にそれが分類され得るか……

   声に曲調節奏あれば声楽をなし 音が然れば器楽をなす
   語まことの表現あれば散文をなし 節奏あれば詩歌となる
   行動まことの表情あれば演劇をなし 節奏あれば舞踊となる
   光象写機に表現すれば静と動との 芸術写真をつくる
   光象手描を成ずれば絵画を作り 塑材によれば彫刻となる
   複合により劇と歌劇と 有声活動写真をつくる
   準志は多く香味と触を伴へり
   声語準志に基けば 演説 論文 教説をなす
   光象生活準志によりて 建築及衣服をなす
   光象各異の準志によりて 諸多の工芸美術をつくる
   光象生産準志に合し 園芸営林土地設計を産む
   香味光触生活準志に表現あれば 料理と生産とを生ず
   行動準志と結合すれば 労働競技体操となる

 農民芸術の(諸)主義

  ……それらのなかにどんな主張が可能であるか……

   芸術のための芸術は少年期に現はれ青年期後に潜在する
   人生のための芸術は青年期にあり 成年以後に潜在する
   芸術としての人生は老年期中に完成する
   その遷移にはその深さと個性が関係する
   リアリズムとロマンティシズムは個性に関して併存する
   形式主義は正態により標題主義は続感度による
   四次感覚は静芸術に流動を容る
   神秘主義は絶えず新たに起るであらう
   表現法のいかなる主張も個性の限り可能である

 農民芸術の製作

  ……いかに着手しいかに進んで行ったらいいか……

   世界に対する大なる希願をまづ起せ
   強く正しく生活せよ 苦難を避けず直進せよ
   感受の後に模倣理想化冷く鋭き解析と熱あり力ある綜合と
   諸作無意識中に潜入するほど美的の深と創造力はかはる
   機により興会し胚胎すれば製作心象中にあり
   練意了って表現し 定案成れば完成せらる
   無意識即から溢れるものでなければ多く無力か詐偽である
   髪を長くしコーヒーを呑み空虚に待てる顔つきを見よ
   なべての悩みをたきぎと燃やし なべての心を心とせよ
   風とゆききし 雲からエネルギーをとれ

 農民芸術の産者

  ……われらのなかで芸術家とはどういふことを意味するか……

   職業芸術家は一度亡びねばならぬ
   誰人もみな芸術家たる感受をなせ
   個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
   然もめいめいそのときどきの芸術家である
   創作自ら湧き起り止むなきときは行為は自づと集中される
   そのとき恐らく人々はその生活を保証するだらう
   創作止めば彼はふたたび土に起つ
   ここには多くの解放された天才がある
   個性の異る幾億の天才も併び立つべく斯て地面も天となる

 農民芸術の批評

  ……正しい評価や鑑賞はまづいかにしてなされるか……

   批評は当然社会意識以上に於てなさねばならぬ
   誤まれる批評は自らの内芸術で他の外芸術を律するに因る
   産者は不断に内的批評を有たねばならぬ
   批評の立場に破壊的創造的及観照的の三がある
   破壊的批評は産者を奮ひ起たしめる
   創造的批評は産者を暗示し指導する
   創造的批評家には産者に均しい資格が要る
   観照的批評は完成された芸術に対して行はれる
   批評に対する産者は同じく社会意識以上を以て応へねばならぬ
   斯ても生ずる争論ならばそは新なる建設に至る

 農民芸術の綜合

  ……おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか……

   まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう
   しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きてゐる
   ここは銀河の空間の太陽日本 陸中国の野原である
   青い松並 萱の花 古いみちのくの断片を保て
   『つめくさ灯ともす宵のひろば たがひのラルゴをうたひかはし
   雲をもどよもし夜風にわすれて とりいれまぢかに歳よ熟れぬ』
   詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画
   われらに理解ある観衆があり われらにひとりの恋人がある
   巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす
   おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう

 結論

 ……われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である……

   われらの前途は輝きながら嶮峻である
   嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる
   詩人は苦痛をも享楽する
   永久の未完成これ完成である

   理解を了へばわれらは斯る論をも棄つる
   畢竟ここには宮沢賢治一九二六年のその考があるのみである

 

 

 

 花巻農学校教師時代の詩をまとめたのが『春と修羅 第二集』であるが、出版の計画が持ち上がったのは後の話(もっとも生前には出版は実現しなかったが)で、先に掲げた「序」はその際に書かれたものであるらしい。つまり、順序としては「農民芸術概論綱要」が先で『春と修羅 第二集』の「序」は後に書かれたものということになる。

 

 

 「序」が書かれた時点では、「羅須地人協会」の活動は停止されていた(農民運動と目されて警察の聴取を受けている)。

 花巻農学校教師の職とはつまりサラリーマン生活であり、そこには農民生活との乖離がある。

 「羅須地人協会」の活動もまた、実家の存在(資産家であった)に依存していた側面がある。

 教師としてのサラリーマン生活は、それでも実家からの経済的自立を意味してもいたであろう。

 ここに掲げた二つの賢治の文章には、なかなかに複雑な成立事情が読み取れそうである。

 

 

 しかし、少なくとも『春と修羅 第二集』の「序」を読む限り、そこに「不幸な」と形容されるべき人物の姿は見出せないように思われる。

 

 教師時代の自身の姿を相対化し、羅須地人協会時代の自身の姿をも相対化した地点で書かれているように感じられるが、そこに自身に対する皮肉な反省的視線を持ちながらも、次のステージへ向けて再出発しようとする賢治の姿が残されているように、私には見える(註:2)。

 

 

 

【註:1】
 たまたまミクロとマクロという話題となり、そこからミクロ経済学とマクロ経済学に話が及んだ末に、

  マクロな世界に対して無力に感じられるミクロな私

…という問題をどのように考えたらよいのか?という問いが生まれ、「農民芸術概論綱要」の一節を思い出したのが話の始まりであった。
 この、「農民芸術概論綱要」にある、

  世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

…という言葉の持つ厳しい美しさを認めつつも、論理としてそれが、

  絶対的なマクロの幸福の確保がなければ、
  個人としてのミクロの幸福はあり得ない

…となってしまうことに問題はないのか? についても考えてみようとすると、そこに生まれるのは、

  幸福感を持てないミクロとしての自分が、
  マクロとしての世界を幸福にすることなど出来るのだろうか?

  幸福感の中に生きる者の存在が、隣人をも幸福にしていく

 …ということもまた真実なのではないだろうか?

  ミクロの幸福が、ミクロの幸福を呼び覚ます

 …ということはあり得ないことなのだろうか?

…という問いである。

 その問いをめぐって議論をする中で、新たに問題の、

  宮澤賢治は幸福であったのか?

…という問いが発せられ、そこで、『春と修羅 第二集』の「序」を思い出したのであった。

【註:2】

  まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう
  しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きてゐる
     (農民芸術概論綱要)

  わたくしはどこまでも孤独を愛し
  熱く湿った感情を嫌ひますので
  もし万一にもわたくしにもっと仕事をご期待なさるお方は
  同人になれと云ったり
  原稿のさいそくや集金郵便をお差し向けになったり
  わたくしをくるしませぬやうおねがひしたいと存じます
  けだしわたくしはいかにもけちなものではありますが
  自分の畑も耕せば
  冬はあちこちに南京ぶくろをぶらさげた水稲肥料の設計事務所も出して居りまして
  おれたちは大いにやらう約束しやうなどといふことよりは
  も少し下等な仕事で頭がいっぱいなのでございますから
  さう申したとて別に何でもありませぬ
     (春と修羅 第二集 序)

 この両者を読み併せる時、そこには一足飛びにマクロな大言壮語的地点に向かおうとするのではなく、ミクロとしての自分自身を起点とすることへの賢治の決意のようなものが見えて来るように思われる。

 

 

 
 
 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/05/07 23:07 → http://www.freeml.com/bl/316274/188384/

 

 

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