カテゴリー「戦争のトラウマ」の記事

2019年4月 1日 (月)

総力戦下の猫

 

 

 戦争は人間の都合によるものだが、その悲惨に巻き込まれるのは人間だけではない。

 

 

 

 アジア太平洋戦争下の昭和19年(1944)秋、軍需毛皮の兎が不足したことから、軍需省・厚生省が飼い犬の毛皮供出献納を都道府県知事あてに通牒し運動が全国に展開した。ところが、北海道では早くも18年に犬毛皮の供出が始まり、19年には海軍の要請により飼い猫が加わった。運動と実施の主体は北海道庁と札幌市及び大政翼賛会北海道支部と札幌支部であり、実際の業務は国策会社の北海道興農公社が全道にまたがり行うという、官民一体となった運動であった。背景には国民を戦争協力体制へ導く教化運動があり、日中戦争(1937年)を契機に開始した国民精神総動員運動が翌年1938年の国家総動員運動へ、さらに1940年の国民統合組織の大政翼賛会運動へ発展・継続した。物資不足の代替に供出対象が飼い犬飼い猫という身近な愛玩動物へエスカレートした。社会全体を上意下達の全体主義が覆い、行政の末端の町内会までに草の根の軍国主義が及んだ一つの現象であった。
     (西田秀子 「アジア太平洋戦争下 犬、猫の毛皮供出、献納運動の経緯と実態―史実と科学鑑定」 2016 札幌市公文書館 事業年報第3号別冊 論考3冒頭の「要旨」より)

 

 

 今回は、戦時下の猫の受難について、西田氏のすぐれた論考を通して紹介してみようと思う。

 

 「戦時下の猫」と書いて思い出すのは、米国陸軍省による「Why We Fight」と題されたシリーズの一本、フランク・キャプラによる『Why We Fight: The Battle of Britain 』に登場する、ロンドン空襲下で市民と共にあるネコの姿である(29分5秒と37分25秒)。とても短いシーンの中に、空襲の惨禍の中で、ネコの存在が人々にもたらす安らぎが記録されている(https://www.youtube.com/watch?v=cSZnFo7JORo)。

 

 悲惨なのは、普仏戦争の際にプロシア軍に包囲され食糧補給の途絶えたパリから記事を送っていたヘンリー・ラブシェアの伝えるエピソードである。

 

 ラブシェアは、従軍記者に期待されていた強がりを軽蔑した。「私は、遠くから戦闘の匂いを嗅ぎつけて、その真っ只中に急行するという抗し難い欲望は持ち合わせていない。自分の好奇心を満たすためだけに頭部に砲弾を受けるなどは、私には愚の骨頂としか思えない……」。そこでラブシェアは一〇人から一二人が殺される毎日の砲撃のことは無視し、食糧補給が途絶えたために動物園の獣を食べ、やがてこれまでは食物と思われなかった物まで料理し始めたパリ市民の生き残りの決意を克明に書くことに専念した。
 ラブシェアが最近食べた献立の記事に読者はぞっとしながらも、『デーリー・ニューズ』の発行部数は着実に伸びていった。彼によると、猫は「ネズミとリスの中間の味ながら、独特の風味がある。美味である。子猫は、玉ネギで蒸し煮にするか、シチューにすると最高である」。ロバはマトンに似ているし、「ドブネズミのサラミ」はカエルとウサギの中間の味がした。イギリス人の彼には、犬を喰うのはとても無理だった。「私は、人間の友である犬を食べるときは、罪悪感をおぼえる。こないだはスパニエルを一切れ食べた。決して悪い味ではなく、子羊のようだったが、人食い人種の気分だった」
     (フィリップ・ナイトリー 『戦争報道の内幕 隠された真実』 中公文庫 2004)

 

 厳しい飢餓の中、追い詰められた人々に、ネコも食料とされてしまうのである。

 

 

 さて、西田氏の論考である。

 戦時下の日本で、飼い猫が毛皮の供給源とされてしまった事実を、史料に基づいて示したものだ。

 皮革・毛皮は重要な軍需物資であった。昭和12年以降の支那事変の拡大は、軍需物資としての皮革・毛皮の確保を切実な問題とさせた。

 

 昭和13年3月、戦時(事変)に際して人的および物的資源を統制、動員、運用するための国家総動員法が公布され5月に施行された。
 皮革は軍需品として国の統制下に入った。政府は生産力拡充の目的で(2)、昭和13年7月1日付けで皮革について次の商工省令を公布した。①「使用制限規則」、②「製品販売価格取締規則」、 ③「配給統制規則」これにより、皮革原皮の集荷・販売・配給が一元化された。全国の原皮を集荷統制し、各製革工場に販売、配給する権限を国から付与されたのは、東京原皮商業組合、大阪原皮商業組合、北海道では酪連であった。
 酪連は道内の原皮統制機関として13年8月から営業を開始した。皮革統制により商売不能となった道内の原皮仲買人は、酪連が道内28カ所の現地処理主任として採用した。道内各地の屠場で処理された原皮を札幌苗穂(14年に新設)の酪連皮革工場に集荷し、軍が買い上げた後に同工場で製革し、残りを民需用として販売した(3)。これらの毎月の取り扱い数量は所管の商工省に報告の義務があった。酪連は札幌市から委譲された屠場で処理した材料で軍用缶詰を製造し、第七師団に納入する一方、原皮の集荷・鞣革(牛・馬・豚)と兎毛皮生産についても軍需・民需両面の生産、販売を一手に担い急成長していく。
     (西田論文 
2-1-2ー論文にはページ数の表記がないので、以下、各節の番号で引用箇所を示す)

 

 肉は軍用缶詰に、皮革は様々な装具に用いられ、毛皮は防寒具として重要であった。

 兎の毛皮については、ナチスドイツでのエホバの証人をめぐるエピソードを思い出す(強制収容所で兎を飼育し、軍用毛皮の供給源としていた中での出来事)。

 

 証人たちは軍務を嫌悪した。そのため、毛皮が軍服に使われるというのでウサギの番さえ拒否することも起きた。その結果、何人かの女性囚は、ラーヴェンスブリュックとアウシュヴィッツ(オシフィエンチム)で反逆罪により死刑を執行された。
     (シビル・ミルトン 「エホバの証人」 ウォルター・ラカー編『ホロコースト大辞典』)

 

ナチスにより強制収容所に収容されたエホバの証人は、徴兵拒否にとどまらず広範な戦争関係業務拒否も貫き、(労働としては軽度であるはずの)「ウサギの番さえ拒否することも起きた」というのである。それが死刑に相当する「反逆罪」と位置付けられた背景として、軍用毛皮の確保の国家的重要性も考えておくべきであろう。

 

 さて、日本である。西田氏は特に北海道に焦点を合せているのだが、北海道空知郡農会により昭和12年(1937)9月、傘下の農家の実行組合長と組合員に宛てた「急告兎毛皮奉国」というチラシが紹介されている。西田氏による抜き書きを引用しておこう(チラシ原文にある振り仮名は略、アンダーラインは原文通り)。

 

〇膺懲の皇軍の、矢継早の勝利に伴ふて、兎毛皮の軍事品としての要求が彌々緊切必須の度を高めました。
〇零下三四十度の、寒冽なる戦場に於ける我等勇士に、暖かき兎毛皮付きの外套等を供することは、身も心も一層勇壮にし明朗にして以て三軍の士気を振はしむることとなるのであります。(略)
〇然るに、僅かの値ちがいに眩惑して(本年度は値ちがいのない計画ではあるが)商人の奪取に一任するが如きは、忠誠なる日本人魂の上から、不可解ばかりでなしに、見様によりては、非国民呼はりをも、さけ得ないことではないでせうか
〇陸海軍では、如何にしても予定の兎毛皮の納入を得なければならぬといふ、軍事上の最大急要の事情があるので、確聞するところによれば、全国農家飼育頭数の全部(来年に備ふべき種等は別として)買上げの計画であり、亦近く、国法では、兎毛皮海外輸出を禁ずることになるとのことであります。兎毛皮奉国の理由は之だけでも明かでせう。
実行組合会長各位、なにとぞ其の組合員の分を取りまとめて下さい。組合員各位、何卒衷心より、赤誠を以て、納入を敢行してください。
 学校の生徒諸君は、自分の飼育の分は、勿論ご両親が飼育している分でも、もし、ご両親が、気づかずにいるなれば、諸君が早速申し出て、兎毛皮奉国の実を挙げて下さい。

〇兎毛皮奉国! !!兎毛皮奉国! !!本年は是非少なくとも配当の枚数だけは、萬障を排して、町村農会を経て納入して、他府県、外支庁管内に比し断然優勝の成績を挙くるやふ、お互に努力奮闘したいと思ひます。
〇納入手続、価格、其他詳細のことは、町村農会よりお知らせ致しますが、各位からも御照会を願います。
     (2-3-2)

 

 北海道という土地柄からすれば、「零下三四十度の、寒冽なる戦場に於ける我等勇士に、暖かき兎毛皮付きの外套等を供することは、身も心も一層勇壮にし明朗にして以て三軍の士気を振はしむることとなるのであります」、すなわち「暖かき兎毛皮付きの外套等を供すること」の切実さは実感として理解・共有されるものであったろう。その上で「陸海軍では、如何にしても予定の兎毛皮の納入を得なければならぬといふ、軍事上の最大急要の事情がある」とし、「軍事上の最大急要の事情」を強調しているのである。それへの非協力に対し、「見様によりては、非国民呼はりをも、さけ得ないことではないでせうか」と脅迫的言辞も付け加えられての「急告兎毛皮奉国」なのである。上意下達の国家的行政的指示命令システムによるもの以前に、北海道空知郡農会は「兎毛皮奉国」を率先して展開しようとしていたのである。下からの「兎毛皮奉国」運動の盛り上がりなのだ。事変が始まって、まだ2か月の段階での話だ。

 

 その3年後、「事変発生以来暖かい防寒毛皮となり肉となって聖戦に尽くした幾多の軍用兎の霊を慰める」との趣旨で開催された、帝国農会による「軍兎祭」は全国的なものであったという(「兎毛皮奉国」の全国化を示す慰霊祭祀形式の軍需協力プロパガンダ)。

 

 昭和15年ころに兎関連の新聞記事が急増する。15年9月16日、中秋の名月の日を選び帝国農会は「軍兎祭」を日本全国各地で行った。「事変発生以来暖かい防寒毛皮となり肉となって聖戦に尽くした幾多の軍用兎の霊を慰める」とある。「修祓(しゅうふつ)、献選、招魂祭の儀についで農林次官(代理)、道農会会長、陸軍被服支廠札幌出張所長森中佐、札幌地方海軍人事部斎藤中尉ほかの奉奠(ほうてん)があり慰霊祭を終り、被服本廠長より道農会へ感謝状、郡農会より道内市町村、小学校養兎家、軍兎の功労者256人へ表彰状授与。北光小学校児童の「兎のダンス」の余興が披露された」。国益に叶うなら兎の霊も慰める「軍兎祭」のように、国家に捧げた命の犠牲を儀式化することで、一般国民に報国を知らしめる戦争プロパガンダ(宣伝)が増えていく。
 「少女ら兎を献納札幌市北光小学校では『学童養兎報国団』をつくり四年生以上の二百五十名が学校から子兎一頭ずつをもらい受け、自宅で空箱を利用して」6か月間育てたあと、学校で酪連の技師による審査を受け、肥育の良い200羽が「酪連を通じて戦地の兵隊さんの外套の襟として献納」された。この兎飼育運動は来年も続けるとあり、昭和19年には学校単位の競争に発展する(『北海タイムス』昭和15年10月17日、『北海道新聞』昭和19年2月19日)。2016年の現在、校庭の隅の兎小屋で兎を飼育する小学校が見受けられるが、もとは戦時下の兎飼育奨励の毛皮献納運動に始まっている。
     (2-3-4)

 

 「軍用兎の霊を慰める」一方で、「学童養兎報国団」をつくる小学校もあり、「昭和19年には学校単位の競争」にまで発展する。西田氏による「2016年の現在、校庭の隅の兎小屋で兎を飼育する小学校が見受けられるが、もとは戦時下の兎飼育奨励の毛皮献納運動に始まっている」との指摘は興味深い(起源は忘れ去られている)。

 

 しかし、「兎と兎皮の集荷数は昭和14年26万8000羽をピークに下降し、昭和20年はピーク時の1割に届かないまでに減少した。北海道庁が12年にたてた5カ年計画は農家12万戸に24羽ずつの割当飼育で年間288万羽の兎毛皮を見込んだ。最盛期14年の48万羽でさえも2割にも満たない大きな計算違いであった(2-3-6)」と西田氏は実情を明らかにしている。

 

 17年度は大政翼賛会が主体となって陸軍・海軍・農林・文部各省と帝国農会の協力により全国的な家兎大増産運動を展開し農家はもちろん学校・家庭にも飼育を奨励したが収入の少ない養兎はなおざりにされて家庭労働力も減少し「頼みの学童飼育でさえ労力を緊急方面に動員された」ため全国的に運動の成果が上がらなかった。17年度の兎毛皮は14万8600枚で3000枚の増産にとどまった。18年度は道庁・農業会・興農公社の3者が一体となって飼育と供出を勧奨したところ、家兎の公定価格が3割引き上げられ、さらに北海道の特殊事情により公定価格よりも百匁につき2銭の歩合を付けたが自家用屠殺が増えて集荷数は13万9700枚と前年よりも8900枚の減少となった。配給制に頼る食糧難が続くと、自宅で飼っている兎は良質のたんぱく源として、家族の胃袋を満たしてくれる存在となった結果である。19年の全道生産が20万羽あっても、興農公社が兎肉を集荷できなかったということを現している。航空服用の毛皮に兎が入手できなくなった北海道庁と興農公社、大政翼賛会の運動が非常時対策として次に着目したのが、飼い犬飼い猫の毛皮供出献納運動であった。
     (2-3-6 )

 

 総力戦下での戦時動員は多方面に及び、労働力不足はどの産業でも深刻化した(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)」も参照)。農家にとっても学校でも養兎どころではなくなりつつあったのである。さらに食糧難は兎を「良質のたんぱく源」として自家消費させるところに追い込む。戦時日本の限界の典型的事例であろう。

 そこで着目されたのが飼い犬であった。

 

 西田氏は昭和18年4月2日の『北海道新聞、「毛皮報国ワン公も滅私奉公」と題する記事を紹介している(3-2-3)。

 
 街頭を横行する野犬を大東亜戦を勝ち抜くための毛皮報国のために御役にたてる妙案が札幌市翼賛会支部で実施されることになった。
 畜犬毛皮の献納運動は翼壮、青年団員の勤労奉仕によることとして準備中であったが、野犬の捕獲は、狂犬病を有するものがあって、相当危険なので警察当局と打合わせの結果、畜犬に限り連合公区長及公区長を煩はして、飼い主から献納申し込み徴収し、四月六日まで市役所公区係に提出させることになった。その方法は、次の通りで、札幌支部では野犬報国運動の徹底を期してゐる。
一、各公区で献納が十頭以上あるときは申込書と同時にその公区の一定の場所に集め、引渡し月日を市公区係に通知すること。(ただし四月十日までを献納期間とす)十頭未満の場合は、献納主より直接豊平毛皮工場に引付けのこと。
二、興農公社の買収代金は、大政翼賛会札幌支部(公区係)を経て国防献金として同時に支部に報告すること。

 

 昭和19年2月1日の北海道庁経済部長、警察部長名による「野畜犬毛皮献納運動実施ニ関スル件」の「野畜犬毛皮献納運動要綱」では、

 

 一、趣旨兎毛皮ハ酷寒地第一線ノ将兵並ニ航空将兵ノ衣料トシテ眞ニ欠クベカラザル重要ナル軍需資材ナリ然ルニ輓近軍用兎ノ増殖ヲ図ルモ野畜犬ノ被害ニ依リ飼育頭数激減スルノ状勢ニアリ。決戦下寔ニ寒心耐ヘザルモノアルニ鑑ミ本運動ヲ実施シ軍用兎ノ増産ヲ計ルト共ニ野畜犬毛皮ヲ献納シ軍兎毛皮ノ不足ヲ補フヲ目途トス

 

との理由付けがされている(3-2-4)。北海道庁の発行する『北海道庁公報』第3306号(昭和19年2月2日)の表紙には「野畜犬進んで奉公さあ! 今だ!」の標語とイラストが掲載されている(3-2-5)。

 「進んで奉公」の実際は、殺されて毛皮となることである。その決断・協力を飼い主に求めたのである。

 既に人間には「玉砕」の名による戦死が慫慂され、やがて特攻という名の自殺攻撃が求められるようになる時代の話なのである。大日本帝國の戦争、総力戦は、果てに「一億総玉砕」なるスローガンまで編み出すに至る。言葉通りに理解すれば、日本人全員が戦死するという話だ。飼い犬だって「進んで奉公」するのが当然なのである。ただし、それは飼い犬自身の意思の問題ではなく人間の都合の問題なのであった。

 

 

 西田氏によれば、飼い犬飼い猫を毛皮の供給源とする発想については、先行事例があった。

 

 北昤吉衆議院議員が第七十五回帝国議会衆議院予算委員会の質問で、第一次世界大戦時に独逸が行った例を挙げ、「軍用犬以外の犬猫は全部殺してしまふ、さうすれば皮は出る、飼料はうんと助かります。」と犬猫不要論を唱えた。それに対して畑俊六陸軍大臣が、「犬を全部殺して愛犬家の楽しみを奪ったが善いか悪いかと云ふことに尽きましては、尚ほ折角研究を致したい」と答を回避した。北議員は「犬は豚や鶏と違い、唯物を食って大して益する所がない。皮が不足しているので犬猫を撲殺することに陸軍が努力してはどうか、非常時であるから統制を強化しなければならぬ。軍用犬以外の犬猫は全部殺してしまへば皮は出る、飼料はうんと助かります。農林大臣には犬猫の数及び一年の飼育に要する分量等御聴きしたい。独逸では現にあった」という持論を展開した。
     (3-2-2)

 

 既に昭和15(1940)年2月13日、衆議院予算委員会の場で、北昤吉は「皮が不足しているので犬猫を撲殺することに陸軍が努力してはどうか、非常時であるから統制を強化しなければならぬ。軍用犬以外の犬猫は全部殺してしまへば皮は出る、飼料はうんと助かります」と主張していたのである。

 北海道での取り組みとの関連はわからないが、昭和18年の「毛皮報国ワン公も滅私奉公」に先立つ議論が対米戦争開戦の前に(支那事変段階において)行われていたのである。

 しかし「犬は豚や鶏と違い、唯物を食って大して益する所がない」との前提、そして「皮が不足しているので犬猫を撲殺することに陸軍が努力してはどうか、非常時であるから統制を強化しなければならぬ。軍用犬以外の犬猫は全部殺してしまへば皮は出る、飼料はうんと助かります」と展開される主張には言葉を失う(平成日本の用語法に従えば「犬猫には生産性がない」であろうか?)。が、やがて大日本帝國において北の主張は現実化するのである。

 西田氏は、昭和20年5月11日の鳥取県の鳥取県告示第百八十四号に、「軍需省厚生省通牒犬原皮増産確保竝狂犬病根絶対策要綱ニ基キ、畜犬ノ献納受入及供出犬買上竝野犬ノ掃蕩ヲ左記日時場所ニ於テ之ヲ施行ス」とあり、それが軍需省化学局長・厚生省衛生局長の連名による「犬原皮増産確保竝狂犬病根絶対策」およびその「要綱」の通牒(西田氏によれば昭和19年11月15日付)に基くものであることを確認している。北海道内での献納運動から全国展開に至ったのである。「毛皮報国ワン公も滅私奉公」がついに国策になったのである。

 こうして飼い犬の受難は全国展開される。

 

 飼い猫の方は、北海道限定だったようである。

 西田氏は昭和19年5月27日付の『北海道新聞』記事を引いている。

 

 犬猫の皮も軍用に買上げ犬は十円、猫は五円の公定価
 二十六日道会議事堂で開かれた北海道地方行政協議会に、在室蘭海軍主席監督官から『犬猫毛皮買ひ上げの件』が提案されたが、犬の毛とともに猫の毛も航空要員の防寒服にしようと、この協議会に華々しくとりあげられたもので、その集荷の方法や製皮関係も考へて犬猫皮回収策を決定した。
 集荷方法としては、市町村長が管内の畜犬、畜猫の率先供出を求めるほか、野良犬や、野良猫までもかり集めて、剥皮し、それを興農公社の各皮革工場でなめして立派な製皮として軍に納入することになってゐるが、興農公社では剥皮のままの猫の皮一匹約五円、犬の皮はその皮質や大小に応じて十円前後で買ひ上げる。剥皮されたものは、なめし料とか生皮のときに使ふ防腐用の薬代などを含んだ値段が軍納価格となってゐるが、これによって犬猫の皮にも公定価格が付されたわけだ。それはともかく、この犬猫毛皮の軍用実材化は、軍用兎毛の不足を補う海軍当局の非常手段である。
 犬猫もただならぬといわれた不仲も、戦争必勝には見事に解消し、空の武具として仲良く出陣することになったもの。
 なほ、堵殺の時期は冬が一番であって、すでに時期遅れの感があるが、全道的に約二万頭の犬猫が動員される予定であり、今冬のいはゆる堵殺時期には道樺民の協力で、相当数の供出が期待されているが、当局は、犬猫の献納運動も進める方針である。
     (3-2-6)

 

 「在室蘭海軍主席監督官から『犬猫毛皮買ひ上げの件』が提案されたが、犬の毛とともに猫の毛も航空要員の防寒服にしようと、この協議会に華々しくとりあげられたもの」とあるように、「猫毛皮の軍用実材化 」を提唱したのは海軍関係者であったらしい。

 昭和19年11月10日付の『北海道新聞』記事では、

 

 兵隊さんの温い防寒服へ犬や猫を全道から供出しょう
 北の前線に戦ふ兵隊さんの防寒服用として道庁では昨年初めて献犬運動を起こし、翼賛会や興農公社の協力を得て全道から百三十頭の野良犬の毛皮を集め供出したが今年は陸海軍の要望もあり大々的な献犬献猫運動を展開、温かい防寒被服を沢山送らうと意気込んでゐる、道庁北方農業課の皮算用では道内の野畜犬は十五万頭、そのうち二割が軍用犬、番犬、運搬犬で、他はすべて主なき野良犬または飼主は居ても食餌を与へぬ野良犬同様のものばかりといふ、しかも犬による家畜被害は昭和十七年の調査によれば一年間に兎三万五千頭、鶏三万一千羽、緬羊六百四十頭で、兎は総飼育数の十五%に達してをり、兎の飼育者から「兎の毛皮を増産するなら犬を退治してほしい」との悲鳴さへあがってゐる本道第一の軍用兎飼育地である上湧別村が野犬の徹底的撲滅はもちろん畜犬の全廃によって犬害の恐れなく、全村一体の養兎報国に邁進してゐる例のみならず戦争にはつきものといはれる狂犬病を未然に防ぐ上からも野犬狩り、畜犬の取締りを一段と強化しなければならぬわけだ
 猫は家鼠の駆逐にも必要とあってその一部を供出させる方針でこれら供出犬猫の処置は一切興農公社が引受けるが供出は犬猫とも毛の密生した十一月から春三月までがよく、割当ては近く市町村から通牒されるはず。
     (3-2-7)

 

このように「献犬献猫運動」の成果が語られている。当時の全体状況としては、

 

 集荷・処理事業を実施した興農公社は「18年度は兎毛皮だけでは需要を満たすことができず、リス・いたち・きつね・オットセイ、犬、ネズミまで集めて毛皮増産に拍車をかけた。19年度は海軍の発注により犬・猫その他の毛皮を集荷したが、とくに犬、猫については道庁と公社が中核となり、市町村当局ならびに諸団体、公社地方工場の協力を得て、全国的に有名となった献犬、献猫運動を起こした。ネズミは樺太で前年野ネズミが発生し60万枚の毛皮があるという調査から、海軍の買収命令を受け、公社職員が樺太庁と大泊の海軍要港部の援助を求め各地を回ったが大半は既に処分され、ようやく5万枚を獲得することができた」という。
     (4―1)

 

このように(小さな)野ネズミの毛皮まで対象とされるまでに追い詰められていた。その中での北海道の飼い猫の受難なのである。

 

 もちろん、飼い主にとっては可愛い飼い犬であり可愛い飼い猫である。昭和20年6月13日付の『日本海新聞』の「親子三代犬納物語」と題された記事では、

 

 戦ふ日本の軍需皮革としてお役に立てて下さいと、県下千八百匹の畜犬、野犬は今献納、供出運動に応召してゐるが、現在までに応召した畜犬は六百五拾六匹で約三分の一、以下は県衛生課の話。
 愛玩、番犬中には「この犬を取られたら生きてゐる気がしない」と哀願する人、「時局は認識してゐるが、犬だけはゆるしてほしい、永年家族同様に飼ってきたものだから」と歎願する人また逆に食ってかゝるものもあるといった具合でこの傾向は概して有力者とみられる層に多い、然し鳥取市吉方の元市議常田幸治氏などは、分娩して間もない親仔犬を伴れてきて、「仔持ちで可哀そうだがこれも勝つためだ、親仔ともに供出します、もし仔犬の皮が役立たぬならすてゝ頂けばいい、それからこれはこの親犬の親の毛皮でなめしたものですが、これも一緒にお役に立てて下さい」と親、子、孫三代の犬を一とときに献納してゐる。
     (4-2-1)

 

このように、「仔持ちで可哀そうだがこれも勝つためだ、親仔ともに供出します、もし仔犬の皮が役立たぬならすてゝ頂けばいい、それからこれはこの親犬の親の毛皮でなめしたものですが、これも一緒にお役に立てて下さい」と自身の飼い犬を率先して献納する模範的(とされたであろう)人物の姿の一方で、愛犬家らしく「「この犬を取られたら生きてゐる気がしない」と哀願する人、「時局は認識してゐるが、犬だけはゆるしてほしい、永年家族同様に飼ってきたものだから」と歎願する人また逆に食ってかゝるもの」のあることも記されている。

 

 献納された飼い猫の受領證が残されている。

 

 受領證

 畜猫壱匹

  右軍需用毛皮供出トシテ正ニ受領候也
   昭和二十年二月二十二日

           札幌市長三澤寛一市長押印
 納者

    牧スミ殿

 

 牧スミさんにとって人生のかけがえのない伴侶であったかも知れない大事な飼い猫は、一枚の受領證と引きかえに「軍需用毛皮」として「供出」された。すなわちスミさんの愛猫は、大日本帝國の軍需(という人間の都合)のために命を奪われたのである。

 

 さらに西田氏は、殺処分の現場に立ち会った人物の証言を記録している。

 

【証言a】昭和20年2月頃興農公社の殺処分のアルバイトをした
 証言者:国民学校高等科を卒業後のこと。当時15歳の少年。
 興農公社の知人から処分作業のアルバイトに誘われた。昭和20年の2月か3月頃の冬に4,5人の処理班とともに岩見沢、滝川、江部乙、新十津川、雨竜町のオシラリカ(尾白利加)川を覚えている。主に農村地帯を馬橇で廻り、5日間程度の日程を旅館で宿泊しながら11、12カ所で作業をした。
 岩見沢では朝、旅館から出かけて行った。幅1メートルくらいの小さな川の側で、兎や猫を連れてきた人が一列に並んだ。農協の受付係の人が「兎、犬、猫」と書いて、1匹50銭か1円の時もあった。連れてきた人の眼の前で、金槌で殺すんだ。怖がっていたよ。自分も怖かった。なるべく苦しまないように眉間を狙うんだ。
 滝川では農協の職員が小さな机を置いて、猫や犬を連れてきた人に一匹当たり1円を支払い、帳面につけていた。女性の事務員も一人いた。皮を剥ぐとカマスに入れて塩をぶっかけて、塩漬けにして興農公社に送っていた。友人の一人は作業が怖くなり、途中で止めて自宅に帰った。
 今でも忘れられない。時々夢を見る。孫娘から「おじいちゃんは戦争中にそんな悪い事をしていたの」と言われるのが一番怖くて、家族には一言も話していない。「兵隊さんも戦場で戦っているのに、犬もお国のためにならなければ」と言われていた。戦争の時は惨いことをしたもんだ。(場所:札幌市文化資料室。2007年6月西田秀子聞き取り)

【証言b】学校の帰り道犬猫の処分を見ていた
 当時前田村(現・共和町)の集会所証言者加藤光則さん(当時10歳)
 当時は国民学校の5年生、学校でも白米弁当は姿を消しました。季節風に小雪の舞う寒い日でした。学校の帰り、部落の集会所の空き地に雪穴が掘られて周囲を雪壁でかこってました。その中から男の人の声が聞こえてきて、何だろうと友達と近寄って穴を覗き込みました。で、
息を飲んだんですよ。雪穴の中は一面が血の色に染まっていて、雪壁の縁には犬猫の毛皮と裸にされた犬猫が山積みになっていました。
 「子どもは来るな」と怒鳴られました。男の人が口の閉じたカマスを金槌みたいな斧みたいなもので数回叩きつけてました。カマスの口を空けた途端に、猫が飛び出して雪壁を駆けあがり、ポプラの木に駆け上った。怖くて身震いしていました。急いで家に帰り、父親に話すと、「犬猫の供出だ。戦地の兵隊さんに送るんだ」と。「農家はネズミ捕るやつ一匹だけ残していいんだ」。それ以来、供出は忘れられません。(2007年6月西田秀子聞き取り)
 動物の命奪っておいて人間だけが幸せになるなんてできやしませんよ。弾が飛んでくるとこだけが戦場だと理解したら、とんでもないです。(2015年談話)
     (4-3)

 

 実に生々しく、痛ましい。

 

 

 

 西田氏は「北海道内の実施状況」として以下の数字を示している。

 

 初年度の18年度は犬皮のみ2,627枚、19年度は北海道庁が道内各市町村長宛てに割当頭数を通達したことから犬皮1万5000枚、猫も4万5000枚で合計6万枚が供出された。これを種類別にみると、猫が4万5000匹で、犬3万157頭と猫の供出が犬よりも1万5000匹多い。割当頭数と比較してみると、4年間の合計犬3万頭は、昭和19年度の1年分の割当2万9664頭と同数。猫は19年度だけで4万5000匹供出されており、割当1年分の約7万7000匹の6割が供出されている。換言すれば、18年の戦時中から4年間で(引用者註:付表の年度が昭和18年から昭和21年となっている)北海道内の飼い犬が3万頭、猫は4万5000匹が供出されて殺処分となり毛皮にされたということである。
     (4―1)

 

 3万頭の飼い犬、4万5000匹の飼い猫の受難(すなわち「供出されて殺処分となり毛皮にされたということ」)である。戦時下、国家の求めに従わざるを得なかった愛犬家・愛猫家の心情はどのようであっただろうか。もっとも、人間にも国家のための戦死が慫慂されてた時代の話である。

 

 

 

 このように、西田氏による丹念な史料探索と見出した体験者による証言は、戦時期のイヌネコの運命を明らかにした。

 西田論文はそれだけで終わらない。続く第5章でのアプローチに、私は敬意を抱く。西田氏の問題意識は、以下のように展開していくのである(引用部は「戦争遺品の毛皮同定(鑑定)検査の目的」と題されている)。

 

 本章では、戦時中の犬や猫の毛皮供出献納運動によって集荷された毛皮類が、献納運動の趣旨の通り実際に将兵の防寒着に使用されていたのだろうかという疑問について検討・考察する機会としたい。しかしこの件に関する明確な記録や関係者による証言が残されていないことから、次の方法を取ることにした。
  ①日中戦争・太平洋戦争期の防寒着や防寒靴には、どのような動物の毛皮が使われていたのか。
  ②その結果を当時の陸軍被服廠の「製造仕様書」と照合し、一致と不一致を確認する。
 すなわち当時の史料である防寒着などの「製造仕様書」と、実際の戦争遺品の防寒着・防寒靴から毛を採取し、同定検査(鑑定)した結果とを照合・検証し、事実を確認することが目的である。
 検証作業に当たっては、次の道内の三博物館・資料館に所蔵されている戦争遺品から、博物館職員により所蔵保管に影響のない範囲内で動物の毛皮の毛を採取し、試料を提供していただいた。また、同定(鑑定)検査については、次の専門家三人に依頼し、結果の回答を顕微鏡写真とともに所見をいただいた。
     (5-1)

 

 そこから得られた知見も実に興味深いものである。

 

 今回の同定(鑑定)検査によって判明した動物の種類と、当時の陸軍被服廠による防寒外套の仕様書とを照合する。
 まず、3005-90(半袖)昭和17年製の左小袖腋回りにはネコ、右袖にはウサギの毛が使われていた。製作年から該当する仕様書を調べてみると、「陸軍被服品仕様聚下巻/第1編成品被服/第3款特殊地方用被服」(6)という昭和14年の仕様書を綴った史料が見つかった。その「一五四頁」の「其の二防寒外套真綿裏(人口毛皮製)昭和一四年一二月一四日被臨仕第一一一号改正」のなかに、「皮革兎毛皮小袖裏」とある。
 また「一五七頁」には、「防寒外套真綿裏(人口毛皮製)臨時材料調書昭和一四年五月二九日被臨仕第三六号制定」があり、そのなかに「皮革兎毛皮色相ヲ限定セズ猫、小羊等使用シ得」とある。つまり基本は兎だが、臨時に「色相は限定しないで猫、小羊など使用しても良い」となっている。
 ネコもウサギも、この昭和14年制定の仕様書と一致した。仕様書通りに製作されていた。つまり、犬、猫毛皮供出献納運動(昭和18年以降)よりも以前から、遅くとも昭和14年以降は、防寒外套に猫毛皮の使用を陸軍省管理の被服廠が公的に指示していた、という事実が確認された。
     (5-3-2)

 

 西田氏が依頼した科学的鑑定から明らかになったのは、「3005-90(半袖)昭和17年製の左小袖腋回りにはネコ、右袖にはウサギの毛が使われていた」事実であった。さらに史料探索による「昭和14年の仕様書」の内容確認を通して、「つまり、犬、猫毛皮供出献納運動(昭和18年以降)よりも以前から、遅くとも昭和14年以降は、防寒外套に猫毛皮の使用を陸軍省管理の被服廠が公的に指示していた、という事実」が、科学的鑑定からも公文書からも明らかになったのである。

 「献犬献猫運動」として推進される以前に、既に現場では「猫毛皮の使用」は行われていたのである。「皮革兎毛皮色相ヲ限定セズ猫、小羊等使用シ得」との規定が示すのは、当時の毛皮流通事情の中で、猫、小羊等の毛皮が入手可能であった事実であろう。入手可能であり、用途に適った毛皮として、猫と小羊が指定されているということではないか。しかし、その流通量は軍需を満たすには少なく、ついに(入手の容易な)飼い猫の犠牲を飼い主に強いるようになったのが、「献犬献猫運動」以降の展開であった、ということか。

 もう一度、その数を確認しておこう。

 18年の戦時中から4年間で北海道内の飼い犬が3万頭、猫は4万5000匹が供出されて殺処分となり毛皮にされた
     (4―1)

 いずれにせよ、戦争という人間の都合の犠牲にされた猫の姿を、深く心に刻んでおきたい。ネコの生命を粗末にする国ではやがて人間の生命も粗末に扱われる、という話ではなく、構図は逆転しており、人間に自身の生命を粗末にすることを強いる国家においてネコの生命も粗末に取り扱われることになったという、戦時期日本を象徴するエピソードであった。

 

 

 

 

 今回は、西田秀子氏の論文に依拠した、論文からの引用の多い記事となってしまったが、言うまでもなく、私の関心に基づく抜粋に終始している。この論考の魅力は、紹介し尽くせてはいない(註:1)。ぜひ、論文そのものを味読することをお勧めする。以下にリンク先を示す(4つのPDFファイルに分割されている)。

 

西田秀子 「アジア太平洋戦争下、犬猫の毛皮供出、献納運動の経緯と実態-史実と科学鑑定」 2016

事業年報第3号別冊<研究論考編> 札幌市公文書館

論考3-1(PDF:4,245KB)2(PDF:2,726KB)3(PDF:4,142KB)4正誤表(PDF:277KB)

 

 

 

【註:1】
 記事中で言及した「急告兎毛皮奉国」というチラシや「献納された飼い猫の受領證」は画像で掲載されているので、ぜひ確認して欲しい。
 また、それ以外にも様々な画像資料(史料画像だけでなく鑑定画像も含む)も採録されており、実見しておく価値があるものと思う。
 個人的には、数多く掲載された『北海道廰公報』の表紙が興味深いものであった。特に昭和19年2月16日の第3317号の表紙を飾る、「決戦生産・決戦増産/設置だ!保育所/乳幼児は保育所へ/一家揃って増産へ」の文字には、戦時期小平の託児所であった「津田こどもの家」の姿(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)」参照)と重なるものがあり、総力戦下の女子動員事情も窺われ、感慨深いものであったことを記しておきたい。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2019/04/01 09:49 → https://www.freeml.com/bl/316274/324357/
 投稿日時 : 2019/04/01 09:52 → https://www.freeml.com/bl/316274/324358/)

 

 

 

 

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2013年5月18日 (土)

あるときには兵隊さんを肉体的に激励する「無給軍属」としての「慰安婦」

 

 昭和43年というから、1968年の国会での「戦傷病者戦没者遺族援護法等の一部を改正する法律案」をめぐる議論の中に、「慰安婦」をめぐるやり取りがあるので、まず関係する部分を抜粋しておく。

 

 

 

第058回国会 社会労働委員会 第21号
昭和四十三年四月二十六日(金曜日)
   午前十時二十五分開議
 出席委員
   委員長 八田 貞義君
   理事 小沢 辰男君 理事 佐々木義武君
   理事 田川 誠一君 理事 橋本龍太郎君
   理事 藤本 孝雄君 理事 河野  正君
   理事 田邊  誠君 理事 田畑 金光君
      大坪 保雄君    海部 俊樹君
      齋藤 邦吉君    澁谷 直藏君
      世耕 政隆君    田中 正巳君
      竹内 黎一君    中山 マサ君
      増岡 博之君   三ツ林弥太郎君
      箕輪  登君    粟山  秀君
      加藤 万吉君    後藤 俊男君
      西風  勲君    平等 文成君
      八木 一男君    山本 政弘君
      本島百合子君    和田 耕作君
      伏木 和雄君
 出席国務大臣
        厚 生 大 臣 園田  直君
        労 働 大 臣 小川 平二君
 出席政府委員
        厚生政務次官  谷垣 專一君
        厚生省援護局長 実本 博次君
        社会保険庁医療
        保険部長    加藤 威二君
        労働省労働基準
        局長      村上 茂利君
 委員外の出席者
        専  門  員 安中 忠雄君

 

   午後零時四十三分開議
○八田委員長 休憩前に引き続き、会議を開きます。
 内閣提出の戦傷病者戦没者遺族援護法等の一部を改正する法律案を議題とし、審査を進めます。
 質疑の申し出がありますので、これを許します。後藤俊男君。
○後藤委員 大臣のほうが、時間が十分ないそうでございますので、まず第一番にお尋ねいたしたいと思いますのは、大東亜戦争当時、第一線なり、いわゆる戦場へ慰安婦がかなり派遣されておったと思うのです。私も内々これらの派遣されたいきさつにつきまして、できるだけ、どういうふうな計画でどういうふうにやられたかを調べようと、かなり苦心をしたわけでございますが、聞くところによりますと、無給軍属ということで派遣をしておる。さらにこの派遣につきましては、それらの業者と軍との間で、おまえのところでは何名派遣せよというようなことで、半強制的なようなかっこうで派遣されておるというようなことも私聞いておる次第でございますが、さらにこれらの派遣された慰安婦につきましては、戦場におきまして、戦闘がたけなわになると、あるいは敵の急な襲撃等があった場合には、看護婦の代理もやっておる。さらに弾薬も運ぶというような、さながら戦闘部隊のような形でやられておるというような実績もかなりあると聞いておるのです。
 いま申し上げましたような、この慰安婦に対する現在の援護法の適用の問題でございますけれども、これも、過去において五、六十名適用したこともあるというようなことも聞きました。これは、たとえば自分の家族なりきょうだいなりが戦場に派遣された――振り返ってそういうことは言えるわけでございますけれども、しかしながら、あまりかっこうのいい話ではございませんので、言いたくても言わずにしんぼうしておる人があるんじゃないかというふうなことも推察できるわけなんです。いま申し上げましたような、先ほど言ったように、戦場で、あるときには戦闘部隊になり、あるときにはたまを運ぶ、あるときには兵隊さんを肉体的に激励する、こういうふうないろいろな苦労をした慰安婦に対しまして、この援護法との関係、いままでの経過、さらにこれからの問題につきまして、どういうふうな方向をとっていこうとされておるのか、この点につきまして大臣にお伺いをいたしたいと思います。
○園田国務大臣 ただいまの御指摘の問題は、その実情が、海軍と陸軍とで関係も違っておりますし、それからもう一つは、戦争の初めごろと終わりごろとではまた資格、契約等のことも変わっておるようでございます。また終戦後の混乱時については、御指摘のような点もございますが、事の本質上、この問題として援護することは実態もなかなかわかりませんし、調査も困難でございますので、じかにこの問題として取り上げることはなかなか困難な問題が多いわけでございますが、委員の御指摘の点、私もそのように考えますので、たとえば無給軍属の契約をしておる、あるいは戦争の混乱時で後方勤務をやったとか、あるいは弾薬運びをやったとか、あるいは看護婦さんの仕事をやったとか、そういうものはそういう面からできるだけ広げていって、将来こういう方々にも何とかお報いができるような方針で、事務当局で検討したいと考えております。
○後藤委員 いま大臣が言われたのは、こちらがやかましくてあまり十分聞き取れなかったわけでございますけれども、私はこのいま申し上げました問題について、別に厚生省なり政府としても、そういう関係にあった者については援護法を適用しますというようなPRも全然していないと思うのです。さらに通達その他につきましても、例示等をして、こういう件については援護法が適用されるのだ、こういうふうなことも全然されておらないと思います。先ほど言いましたように、五十名ないし六十名が適用されておるというのは、だれかに聞いて、聞いた者だけがうまくやったと言うと語弊がありますけれども、そういう人だけは適用されたのではないかというふうに思うわけでございますけれども、当時大臣も兵隊に行っておられて、慰安婦等の数なりその他につきましては、千名や二千名ではなかろうと思います。おそらく数千名の慰安婦が第一線なりその他多くの戦場に派遣されておった、これはもう間違いないと思うのです。その中の、先ほど申し上げましたような犠牲者が、全部うまく把握されて援護法の適用をされておるかというと、そこまではいっておらないと私は思います。それなら一体、先ほど申し上げましたような条件にある人を、その援護法の適用対象にする、そういうようなことになったといたしますと、それなりの何かの手続をしていただかないと、せっかくそういう条件にありながら、ありがたい法律が適用されないことになってしまう、こういうふうに思うわけでございますけれども、その辺のところはいかがでありましょうか。
○実本政府委員 いま先生のお話にございますいわゆる慰安婦と申しますか、そういった人々の問題につきましては、援護法のたてまえからいたしますと、先ほど大臣も申し上げましたように、ちょっとそういう見地からの適用のことを考えたことがございませんので、実は何らそういう面からの実態を把握いたしておりません。ただ、大臣が先ほど申し上げましたように、現実に本来の尉安婦の仕事ができなくなったような状態、たとえば昭和二十年の四月以降のフィリピンというような状態を考えますと、もうそこへ行っていた慰安婦の人たちは一緒に銃をとって戦う、あるいは傷ついた兵隊さんの看護に回ってもらうというふうな状態で処理されたと申しますか、区処された人たちがあるわけでございまして、そういう人たちは戦闘参加者あるいは臨時看護婦というふうな身分でもってそういう仕事に従事中散っていかれた、こういうふうな方々につきましては、それは戦闘参加者なりあるいは軍属ということで処遇をいたしたケースが、先ほど四、五十と申し上げました中の大部分を占めておるわけでございます。したがいまして、こういう人たちの実態というものは、先生が先ほどちょっと触れられましたように、現実には何か相当前線の将兵の士気を鼓舞するために必要なわけで、軍が相当な勧奨をしておったのではないかというふうに思われますが、形の上ではそういった目的で軍が送りました女性というものとの間には雇用関係はございませんで、そういう前線の将兵との間にケース、ケースで個別的に金銭の授受を行なって事が運ばれていた模様でございます。軍はそういった意味で雇用関係はなかったわけでございますが、しかし、一応戦地におって施設、宿舎等の便宜を与えるためには、何か身分がなければなりませんので、無給の軍属というふうな身分を与えて宿舎その他の便宜を供与していた、こういう実態でございます。いま援護法の対象者としては、そういう無給の軍属というものは扱っておりませんで、全部有給の軍属、有給の雇用人というものを対象にいたしておりまして、端的にいいますと、この身分関係がなかったということで援護法の対象としての取扱いはどうしてもできかねる。しかしながら、先ほど申し上げました例のように、戦闘参加者なり、あるいは従軍看護婦のような臨時の看護婦さんとしての身分を持った方々につきましては、そういう見地から処遇をいたしておるわけでございまして、もしそういう意味での方がこういう方々の中にまだ処遇漏れというふうになっておりますれば、援護法は全部申請主義でございますので、そういう人があれば申請していただくということになるわけでございます。ただ、時効の問題その他ございますが、そういう面で援護法の適用をそういう方々にしてまいりたいというのが、このケースの処理としていまのところ援護局と申しますか厚生省の態度でございます。
○後藤委員 そうしますと、いま言われましたように、たとえば第一線へ派遣されたその人らが戦闘に参加した、あるいは看護婦という身分にはなっておりませんけれども、看護婦と同じ作業に従事させられたというとおかしいのですが、従事した、それでなくなった、こういうふうな人もあると思うのです。それらの人に対しては援護法を適用してもよろしい、そういうことなのですか。
○実本政府委員 いま先生のおっしゃいますようなケースといたしましては、戦闘参加者なり、あるいは臨時看護婦としての身分でなくなられた人については、当然請求をしていただいて裁定する、こういうことに相なります。
○後藤委員 そうしますと、いまあなたが言われたように、当時第一線なり戦場へどれくらいの数の慰安婦が派遣されておったか、数千人だろうというふうな想像をいたしておるわけでございますけれども、これらの中に、先ほどの援護法を適用してもよろしいというような条件に該当する人があったとしたならば援護法の適用をされるわけなのです。ところが、局長も言われるように、これは申請しなければ問題にならない。しかしそれらの条件に該当する遺族なりそれらの人は、全然そういうことを知らないと思うのです。百人のうち一人や二人は知っておる人があるかもしれませんが、ほとんどの人がわからない。わからなければ申請をしない。申請をしないからこのままいくのだ、こういうふうなかっこうに進んできたのが今日であり、これからもそういうふうになるのではないかと思われるわけでございますけれども、局長がせっかくそこまではっきりきちっと言い切られましたら、それらの条件に該当する人については、これは援護法の適用がされるのだということで、やはり連絡なり、PRなり、通達なり、それらに十分なる手配をとっていただく必要があると思うのです。
 それと同時に、こんなことを申し上げるとまことに失礼かもしれませんけれども、それらの条件に該当する人は、生活も裕福な人は少なかろうと思うのです。いわば生活に非常に苦しんでおられる家庭の人が多いのじゃないか。しかも遺族の人も、まことにいい話ではございませんので遠慮しがちになってくる。全然声が出てこない。そういうところへこの援護法等の適用につきましても手を差し伸べていくのが政治の力であろうと私は考えるわけです。だから、これは具体的に局長として、いま申し上げました問題をどう進めていこうとされておるのか、もう少し具体的にお答えいただきたいと思います。
○実本政府委員 先生のおっしゃることはまことにごもっともなことでございまして、単にいま先生のおっしゃるケースだけではなくて、やはり同じような法の適用が受けられるケースというもので、現実には当たっているのだけれども、当たっているかどうかわからないままに、たとえばこれは、法律ができましてからいろいろな請求の時効は七年の期間を与えておりますが、七年間徒過してしまったというふうな人がほかにもあるわけでございます。特に援護法とか恩給法とかいうものは、非常に難解でございまして、そのときそのときでまたいろいろ範囲の拡張とかあるいは給付の対象になる人の拡大とかいうふうな改善が行なわれまして、継ぎはぎ継ぎはぎで、専門家が見ましても非常に難解な法律になっておりますので、その点は特にそういう方々にとっては、条件の逆に働いている場合だと思います。ただここで私が申し上げましたように、現にこういう方々であって、援護法上の準軍属なり軍属として処遇されていた方々は、これはもうはっきりとそういうケースとして、軍のほうから戦闘参加を要請したというケースが事実としてあり、あるいは日赤の従軍看護婦のような臨時に雇った者につきましては、そういう事情がございます。それから、ある前線からある前線へ大量の人を輸送船で運んでいた。それが海没したような場合につきましては、はっきりそういう人たちのケースがわかっておりますので、ほんとうに先生がおっしゃられるような準軍属なり軍属として取り上げてもいいような人たちについては、おおむねそういうケースとして処遇してきたつもりであります。しかし、それの数は、さっき先生が言われましたように、われわれのほうとしても的確な数字を持っておりませんが、大体四、五千というふうなことを聞いております。そのうちの四、五十人ということでございますから、あるいはまだほかにそういったケースも、知らないために眠っている、あるいは泣いているという方があることが考えられます。これは援護法のほかの対象者にもそういうことがございますので、この問題のみならず、常にそういった人たち全体についてのRRなり徹底の方法といたしまして、月並みではございますけれども、年に二回、都道府県の部課長会議を開いて、そういった意味での徹底を、窓口でございます市町村の援護係のほうにさせるようにやっておるわけでございます。そういった都道府県、市町村のルートを使いまして、こういった問題、特に法律改正があるとか、あるいはいろんな特別措置が行なわれるとかというようなことになりますときには、その問題と同時に、そういう意味でのPRをして、一人でも漏れのないようにしていくということをやっておるわけでございますので、そういう際には、こういうケースは必ず徹底するように運んでいく、いまの段階ではそういうことを考えております。
○後藤委員 そうしますと、いま局長が言われましたように、さっきのような条件につきましては援護法の適用はされるんだ。だけれども、いままで知らずに漏れてきた人――四、五十名は過去において適用されておりますけれども、それ以外で漏れておる人があるとするならば、これは援護法の適用になる。ところが、一般国民の中には、そういうことを全然知らない人もあろう。だから、あらゆる機会を通じまして――これだけではございません。ほかの条件で漏れておる人もあろうかとは思いますけれども、この問題については十分徹底をして、漏れておるような人のないように今後やっていきたい、こういうことでございますね。
○実本政府委員 お示しのとおりでございます。先ほど先生のおことばにもありましたように、こういう人たち並びにその御遺族の人は、何といいますか、外へ出たくないというようなグループですから、特にそういう面についてはそういう観点から、遠慮しないで出ていらっしゃいというような導き方といいますか、引き出し方をするように指導してまいりたいと思います。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/058/0200/05804260200021c.html

 

 

 

 政府側委員として出席していた、厚生省援護局長の実本博次の発言にまず注目しておきたい。「戦傷病者戦没者遺族援護法」の適用対象という観点から、実本援護局長は「慰安婦」の法的地位について、

 

 こういう人たちの実態というものは、先生が先ほどちょっと触れられましたように、現実には何か相当前線の将兵の士気を鼓舞するために必要なわけで、軍が相当な勧奨をしておったのではないかというふうに思われますが、形の上ではそういった目的で軍が送りました女性というものとの間には雇用関係はございませんで、そういう前線の将兵との間にケース、ケースで個別的に金銭の授受を行なって事が運ばれていた模様でございます。軍はそういった意味で雇用関係はなかったわけでございますが、しかし、一応戦地におって施設、宿舎等の便宜を与えるためには、何か身分がなければなりませんので、無給の軍属というふうな身分を与えて宿舎その他の便宜を供与していた、こういう実態でございます。

 

…と述べている。「慰安婦」の法的地位は「無給の軍属」だというのである。

 

 厚生大臣の園田直は、

 

 委員の御指摘の点、私もそのように考えますので、たとえば無給軍属の契約をしておる、あるいは戦争の混乱時で後方勤務をやったとか、あるいは弾薬運びをやったとか、あるいは看護婦さんの仕事をやったとか、そういうものはそういう面からできるだけ広げていって、将来こういう方々にも何とかお報いができるような方針で、事務当局で検討したいと考えております。

 

…という見解を示しているが、園田大臣は、給付対象の拡大について、

  無給軍属の契約をしておる
  戦争の混乱時で後方勤務をやった
  弾薬運びをやった
  看護婦さんの仕事をやった

…というものを挙げ、その上で、

  そういうもの(=給付条件)はそういう面からできるだけ広げていって、
  将来こういう方々(つまり「慰安婦」)にも何とかお報いができるような方針で

…との方向性を打ち出しているわけである。

 その後の政府委員(実本厚生省援護局長)とのやり取りでは、現行規定で可能なものとして、

  戦争の混乱時で後方勤務をやった
  弾薬運びをやった
  看護婦さんの仕事をやった

…といったものが示され、議論は給付対象拡大の方向ではなく、現行規定で可能な対象者への周知の必要性に焦点が向かっているが、園田厚生大臣の言葉には、「慰安婦」にまで給付対象を拡大する可能性の追及という方向性が示されているように見える。

 

 

 あらためて、やり取りされた言葉を読むと、

 

 これは、たとえば自分の家族なりきょうだいなりが戦場に派遣された――振り返ってそういうことは言えるわけでございますけれども、しかしながら、あまりかっこうのいい話ではございませんので、言いたくても言わずにしんぼうしておる人があるんじゃないかというふうなことも推察できるわけなんです。いま申し上げましたような、先ほど言ったように、戦場で、あるときには戦闘部隊になり、あるときにはたまを運ぶ、あるときには兵隊さんを肉体的に激励する、こういうふうないろいろな苦労をした慰安婦…
 当時大臣も兵隊に行っておられて、慰安婦等の数なりその他につきましては、千名や二千名ではなかろうと思います。おそらく数千名の慰安婦が第一線なりその他多くの戦場に派遣されておった、これはもう間違いないと思うのです。その中の、先ほど申し上げましたような犠牲者が、全部うまく把握されて援護法の適用をされておるかというと、そこまではいっておらないと私は思います。それなら一体、先ほど申し上げましたような条件にある人を、その援護法の適用対象にする、そういうようなことになったといたしますと、それなりの何かの手続をしていただかないと、せっかくそういう条件にありながら、ありがたい法律が適用されないことになってしまう…
     (後藤委員)

 したがいまして、こういう人たちの実態というものは、先生が先ほどちょっと触れられましたように、現実には何か相当前線の将兵の士気を鼓舞するために必要なわけで、軍が相当な勧奨をしておったのではないかというふうに思われますが、形の上ではそういった目的で軍が送りました女性というものとの間には雇用関係はございませんで、そういう前線の将兵との間にケース、ケースで個別的に金銭の授受を行なって事が運ばれていた模様でございます。軍はそういった意味で雇用関係はなかったわけでございますが、しかし、一応戦地におって施設、宿舎等の便宜を与えるためには、何か身分がなければなりませんので、無給の軍属というふうな身分を与えて宿舎その他の便宜を供与していた、こういう実態でございます。
     (実本政府委員)

 

…といったものが印象深く感じられる。「当時大臣も兵隊に行っておられて」という世代の、「慰安婦」をめぐるやり取りということになるけだが、どの言葉にも「慰安婦」の境遇に対する思いやりがある。

 橋下徹氏の「慰安婦必要論」が下品な印象を与えるのは(橋下氏の主張を含む現代の議論が総じて下品な印象を与えるのは)、つまるところ、このような同時代の世代が持っていた思いやりを、まったく欠いているからであるようにも感じられる。

 「当時大臣も兵隊に行っておられて」という世代が持つ、「慰安婦の境遇に対する思いやり」とはまさに、ひとりの生身の「慰安婦」との肌を触れ合う関係の中から生まれたものであり、何も好き好んで慰安婦になったわけではない事情=境遇もまた、「兵隊」と「慰安婦」の双方に共有されたものであったろう。

 その構図をしっかり押さえることで、

  しかしながら、あまりかっこうのいい話ではございませんので、言いたくても言わずにしんぼうしておる人があるんじゃないかというふうなことも推察できるわけなんです。
  それと同時に、こんなことを申し上げるとまことに失礼かもしれませんけれども、それらの条件に該当する人は、生活も裕福な人は少なかろうと思うのです。いわば生活に非常に苦しんでおられる家庭の人が多いのじゃないか。しかも遺族の人も、まことにいい話ではございませんので遠慮しがちになってくる。全然声が出てこない。そういうところへこの援護法等の適用につきましても手を差し伸べていくのが政治の力であろうと私は考えるわけです。

・・・という後藤委員の言葉への理解も深まるはずである。

 「慰安婦」として日々を送らねばならなかった「境遇」の裏には、家庭の貧困というものがあり、それがいわば常識として、「当時大臣も兵隊に行っておられて」いた世代に共有されたものであったことが、昭和43年の国会でのやり取りから読み取れるわけである。いやむしろ、45年後の我々はそれを読み取らなければならない、と言うべきかも知れない。

 

  先ほど言ったように、戦場で、あるときには戦闘部隊になり、あるときにはたまを運ぶ、あるときには兵隊さんを肉体的に激励する、こういうふうないろいろな苦労をした慰安婦…
     (後藤委員)
  こういう人たちの実態というものは、先生が先ほどちょっと触れられましたように、現実には何か相当前線の将兵の士気を鼓舞するために必要なわけで、軍が相当な勧奨をしておったのではないかというふうに思われますが…
     (実本政府委員)

 ここでは「慰安婦」の本来の職能として、「兵隊さんを肉体的に激励する」ということが挙げられ、それが、「現実には何か相当前線の将兵の士気を鼓舞するために必要」と考えられているわけである。

 そのような職能に関連して、実本政府委員の、

  こういう人たち並びにその御遺族の人は、何といいますか、外へ出たくないというようなグループですから

…との認識も生まれるわけであるし、それが「慰安婦」の「境遇」として、「当時大臣も兵隊に行っておられて」いた世代に共有されていた、ということなのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/05/14 21:39 → http://www.freeml.com/bl/316274/203394/

 

 

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2012年12月19日 (水)

戦争体験の「語り難さ」への想像力への回路

 

 

  戦争体験に固執するかぎり、そこからは何ものも生まれないであろうし、それは次代に伝承されることも不可能であろうという批判は、耳の痛くなるほど聞かされている。しかし、戦争体験を放棄することによって単なる日常的な経験主義に陥り、その都度かぎりの状況のなかに溺れることだけは、ぼくはもうマッピラだ。
  戦争体験の伝承ということ、これについては、ほとんど絶望的である。ぼくは、戦争体験に固執し、それについて、ブツクサといいつづけるつもりであるが、それを次代の若者たちに、必ず伝えねばならぬとは考えていない。最近どこかの座談会で、「それを受けつぐか、受けつがないかは、若いゼネレーションの勝手たるべし」と発言していた竹内好の言葉に、ぼくはぼくなりに、全く感動的に共鳴するのである。

 

 

 福間良明氏は、この安田武の文章(『戦争体験』 未来社 1963)を引いた後に、

 

  安田は、頑なに戦争体験の語りがたさにこだわり、わかりやすい形で戦争体験を若い世代に伝えることを拒もうとした。戦争体験を「受けつぐか、受けつがないか」は、安田にとってみれば「若いゼネレーションの勝手」でしかなかった。ましてや、戦争体験の表層的な部分を都合よく、その時々の政治主義に流用することなど、安田には許容しがたいことであった。右のような突き放した物言いも、戦後派以下の世代の戦争体験への向かい方に対する安田の絶望を示すものでもあった。
     福間良明 『「戦争体験」の戦後史 世代・教養・イデオロギー』 中公新書 2009  158ページ

 

…と記している。

 福間氏は、その先で再び安田武の文章から、

 

  何を継承するかが緊急の課題であって、何を伝承するかは、二の次のことである。それに、伝承ということが可能になるためには、継承したいと身構えている人びとの姿勢が前提であろう。継承したくない、と思っている者に、是が非でも伝承しなければならぬ、と意気込むような過剰な使命感からは、ぼくの心はおよそ遠いところにある。戦争体験を現在に生かすも生かさぬも、それはまったく、それぞれ各自の問題であって、余人の立ち入るところではない。戦争体験から何も学びたくないと思う者、あるいは何も学ぶことはないと考える者は 学ばぬがよいのである。書かれ、伝説化された歴史の裡には、書かれず、伝説化もされなかった無数の可能性が死んでいる。死んでしまった筈のそのような可能性から、やがて復讐される、その亡霊に悩まされることもあり得る、ということをおそれぬものは、戦争体験にかぎらず、およそ歴史のすべてから、何も学ばぬがよい。若い世代は、いつの時にも、記憶を持たぬものだ。

 

…という言葉を引き、

 

  安田はしばしば、挑発的な表現を用いるが、そこでこだわっていたのは、戦争体験の伝承の困難さであった。とはいえ、安田はそれを不可知論として扱うわけではない。むしろ、困難をともなう戦争体験の伝承がいかにすれば可能になるのかを、模索しようとしていた。戦争体験が次世代に受け継がれる上で重要なのは、「継承したいと身構えている人びとの姿勢」であって、それをわかりやすく、あるいは心地よく「伝承」することではない。そうした安易な「伝承」では、幾多のものが切り捨てられ、「無数の可能性が死」ぬことになる。そうした「伝承」を避けるべく、声なき「死者」の声、容易に言い表せない心情に謙虚に耳をすませる――そこに、安田は戦争体験を伝承するぎりぎりの可能性を見出していた。

 

…と記している。

 

 

 

 人は、経験と共に、あるいは経験の中を、生きている。生きているということは経験することと同義である、と言ってもよい。

 言うまでもない話であるはずだが、日常的経験のすべてを語ること(語り尽くすこと)は不可能である。経験は身体全体に関わるものであり、そのすべてを語り尽くすには言葉はあまりに無力なのである。

 そもそも、そのような構図が、ありふれた日常的経験を語ること(語り尽くそうとすること)への制約として、既に存在している。

 

 「戦争体験」は、平時の日常的経験から可能な想像力の外部に大きく拡がるものとして体験されるものであり、日常性に立脚した言葉による語りの可能性を超えたものとして体験されてしまうものなのである。しかも「戦争体験一般」というものなど存在せず、あるのは、日常性に立脚した言葉によっては語り難い個々の個別の体験なのだ。

 語り難い体験の中からかろうじて言語化されたもの(語り得たもの)だけが、私たちの前に存在するのである。

 「語り難い体験」を語ろうとする場合、その語り難さに語ることを断念するか、語り難さを乗り越えて語ろうとすることに執念を注ぐか、語り難さをステロタイプな表現に変換して済ませてしまうかのいずれかしかないように思われる。

 語りが断念されてしまえば、その「語り難い体験」へのアクセスの手段は存在しない。

 ステロタイプな表現に変換された戦争体験は、わかりやすいものとして歓迎されるだろうが、そこからは「語り難さ」が欠落しており、ある種の戦争体験の「語り難さ」への想像力への回路も失われてしまうことになる。

 

 

 ここにあるのは、安田武の、

  書かれ、伝説化された歴史の裡には、書かれず、伝説化もされなかった無数の可能性が死んでいる

…という表現に込められた思いに、どこまで我々の想像力が及ぶのかという問題と言えるだろうか?

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/12/18 22:22 → http://www.freeml.com/bl/316274/199902/

 

 

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2012年2月16日 (木)

戦争のトラウマ 2

 

 「戦争体験を語り継ぐ」ということが果して可能なのかどうか?

 

…という問題が、そもそもはあるのではないか?

 

 

 およそそれがどのような「体験」であれ、「体験」とは本質的に個人的なものなのであり、「戦争体験」もまた、それを体験した当事者としての個人を離れたところで語り得るものなのだろうか? 当事者としての個人を離れたところで語られる「体験」とは、どこまでその名に値するものなのだろうか?

 

 

 そんなことを考えたりしていたのである。

 

 

 ネットを介して、「戦争体験の語り継ぎ」という行為に加担しつつも、その行為自体の可能性と共に「語り継ぐ」という意思(志すこと)の限界にも気付かざるを得ない。

 他人の「体験」を自らのこととして語ること、語ろうとすることの限界である。

 

 

 

 そんな中で、先日、ネット上(メーリングリスト利用)でお付き合い下さっている方々と顔を合わせる機会を持つことが出来た(いわゆる「オフ会」である)。

 20代から80代までの男女取り混ぜて十数名が集り、話をしたわけだ。ネット上のお付き合いでは「文」でしか知らない相手と、顔を合わせ、言葉を交し合ったわけである。

 

 80代のシベリア帰りの元少年航空兵が、実は日本橋浜町生まれ新宿育ちのチャキチャキの江戸っ子シティーボーイであり、戦前のモダンボーイ生活の延長にある軍国少年化であり、その果ての戦場体験・シベリア抑留体験であったことが、あらためて判明する。ネット上のメールのやり取りでは、元少年航空兵の歯切れのいい江戸弁は伝わらないのである。

 ご当人は、

  戦場体験は、兵士の数だけあります。その人の戦場体験はその人でなければ語れません。誰もその元兵士に代ることは出来ません。

あるいは、それに加えて、

  戦場体験というのは、話す人の数だけあります。軍隊は、人を殺すための軍隊です。同時に、軍隊の中の身分が将校か下士官か兵隊かという違いや、古参兵だったのか新兵だったのかで、同じ体験に遭っても全部違ってきます。それぞれの考えも違っています。同時に日本に帰ってきた後、どのような生活体験をしたかによっても思いが違ってきます。その意味で、一人の人の体験が全てではないのです。同じ場面に遭っても、指揮する立場と、指揮される立場とは全然違います。
  やがては消えていく体験なので、より多くの人に語り残していくということが求められているのです。

…などという言い方をした上で(つまりそれがご自身の個人的な「体験」であることを念押しした上で)、様々な機会に様々な聴衆を相手にご自身の「戦場体験」について語っているわけだが、その「体験」を活字で読むのと、生で聴くのは異なる経験であることを実感させられたのである。かつてのモダン東京のシティーボーイが由緒正しい江戸っ子の語り口で語るのを聞くことの持つ意味を考えてしまったりするわけだ。

 活字で読む限り、どこまでも陰々滅々の暗い老人の話となってしまうのだが、そして実際に皇軍組織の救い難さの体験が語られているわけなのだが、それがシャレのわかる江戸っ子の歯切れのいい口調で語られるのを聞けば、(活字知識としての暗い話とは異なる)陰影あるかつての少年兵としての日々が伝わってくるのである。

 

 (そしてまた、この江戸っ子の語り口を語り継ぐことの不可能さをも思わざるを得ないのである)

 

 

 そんなことを思いながら、かつての少年航空兵のお話を伺っていたのだが、「戦場体験」を語る機会が増えたことの喜びを聞くと同時に、その難しさの指摘にもうなずかざるを得ない。

 小学生を相手に、零下20度のシベリアの寒さ(それも十分な毛布も暖房もない中でのいつまで続くのかもわからない日々である)をどのように説明すれば理解を得られるのか? 「飢え」の感覚、つまり単なる空腹感とは隔絶した「飢え」の感覚を現代の小学生に伝えることは出来るのか? そこが理解されなければ、本来伝えるべき話は伝わらないのである。

 

 

 そんな話の流れから、参加者の間でも当時の「飢え」が話題となった。戦後になっての日々、復興後の日々にも、決して「混ぜご飯」を食べようとしなかった家族(父親であったか?)のエピソードは、つまり白米のない戦時下・終戦直後の日々への反動である。あるいは家族にはお土産にバナナを買って帰っても、自らは決して食べようとしなかった復員後の父のエピソード(南方でのバナナだけで飢えをしのいだ日々への反動である)。

 このような話は、戦中派の体験談には珍しいものではない。戦後は決してカボチャをサツマイモをトウモロコシを口にすることなく過ごそうとした人々の話は、むしろ「ありふれた」という印象を与えるものにさえ思える。

 「飢え」のトラウマ、つまり、毎日それだけしか食べられなかったことへの反動から、それを絶対に食べないという決意が生まれたわけである。いや、「決意」という種類のもの(つまり頭で考えたという次元の話)ではなく、「それを身体が受け付けなくなってしまった」という種類の出来事であったようにさえ思われる。これはむしろ身体性に刻み込まれた「トラウマ」と言うべきだろう。

 

 

 

 そんなことを考えながら、この数日間を過ごしていたのであった。

 しかし、あらためて考えると、あの世代の「日の丸・君が代」に対する忌避感もまた、そのような身体性のトラウマとして理解すべきであるようにも思われてくるのである。

 あの世代の人間にとってカボチャを食べないのはリクツの問題ではないし、「日の丸・君が代」に対する忌避感もまたリクツの問題ではないのではないだろうか?

 戦後生まれとしては、正直なところ、あの、

  日の丸・君が代いやだ

…という感覚を体感として共有し合うことは出来ない。戦時下での体験を聞き、当時の記録類を読めば、なぜ彼らが「日の丸・君が代」への忌避感を持つに至ったのかをリクツとして理解することまでは、私たちにも可能である。家族が死に仲間が死に、家が灰となり街が焼き尽くされ、そこで飢えと不安をとことん味う惨憺たる日々を送った。その背後には日の丸があり、命令と服従の体系があり、日の丸には教壇から発せられ町内会長から発せられ古参兵から発せられそして軍司令官から発せられるあらゆる理不尽な命令をも正当化させる力があった。その日の丸の下で、愛着あるあらゆるものが失われたのである。

 そこに日の丸への(君が代への)忌避感が胚胎したであろうことは、リクツとして理解出来るし、リクツとして説明することは出来る。しかし、それはあくまでもリクツであり説明なのであって、戦争を生き抜いた世代の身体感覚に到達するものではない。身体感覚として刻み込まれた体験の質への想像力は(共感への道は)求め得ないものなのであろうか?

 しかし、そこに、

  カボチャが食べられない

…というあの世代の身体感覚を重ねることで、「日の丸・君が代いやだ」への理解への道が拓かれたように感じたのである。カボチャやサツマイモは、しかしそれでも彼らの食糧となり、彼らを飢えから救い、彼らを生き延びさせた、にもかかわらず、二度と口にしたくないものとなってしまっているのである。その彼らの皮膚感覚からすれば、「ニッポン」は彼らをそのような飢えに追い込み、「日の丸・君が代」はその飢えから彼らを救うものではなかった。家族や仲間の死は、そして自分の飢えは、日の丸を背負った命令と服従の体系の終着点に起きた出来事なのである。

 「戦争体験を語り継ぐ」と言葉で言うのは簡単だが、体感・身体感覚を離れたところでの「体験」の「語り継ぎ」の限界は思わざるを得ない。詰まるところ「体験」は代弁することが出来ないのである。しかし、それをあっさりと他人事で終わらせてしまうことには、実際に身近で話を聞いてしまった以上、抵抗感が残るのである。

 「日の丸君が代いやだ」の忌避感が身体感覚に刻まれたものであり、その刻まれ方が、「今でもカボチャが食べられない」の感覚を参照することで、戦後世代にも「理解」が可能になるのではないか? 「カボチャ」を参照することで、「日の丸・君が代」についての忌避感を「反日的」などと切り捨てる(いくらなんでもカボチャが食べられないことを「反日」とは言わないだろう)のではなく、ある時代のある世代の身体に刻み込まれた体験として、つまりこの国の歴史の重要なひとつのエピソードとして私たちが継承することを可能にするのではないか? 「代弁」は出来ないにしても、彼らの体験に、そして個人としての彼あるいは彼女の体験に、より近いところで寄り添うことは出来るはずである。その時、彼らの体験は「他人事」ではなくなっているはずである。

 

 そんなことを思ったわけだ。

 

 

 もちろん、この話も、

  戦場体験は、兵士の数だけあります。その人の戦場体験はその人でなければ語れません。誰もその元兵士に代ることは出来ません。

…というのと同様で、すべてのあの世代がカボチャを食べないわけではないし、すべてのあの世代が「日の丸・君が代」への忌避感情を持ってしまったわけではない。あくまでも個別の問題である。

 しかし、その「個別」のあり方への想像力を持ち続けることこそが、現在を生きる私たちの重要な課題ではないのか? 「戦争体験の語り継ぎ」とは、まず、あの時代を生きた一人の人間と出会うことから始まるのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/02/07 22:14 → http://www.freeml.com/bl/316274/181876/

 

 

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2012年2月14日 (火)

戦争のトラウマ 1

 

 戦争というものは、その非日常性において、渦中に巻き込まれた人間に昂揚感をもたらすと同時に、やがて日常性として体験されることになるその悲惨さは、それを体験した個人の中にも大きな傷痕を残すものである。

 同時に、戦争とは国家というレベルでの出来事であり、国家という枠組み、国家という枠組みを形成する国民というレベルにおいても、大きな傷痕(つまりトラウマ)を刻み込むものである。その前後での意識の変容は、無視するにはあまりにも大きい。

 戦争という体験は、いわば、「国民意識」のレベルでの変化を引き起こすものなのである。

 

 そして、その変容のあり方は、その戦争をどのように体験したのかに、そしてその体験をどのように解釈するのかに規定される。

 

 

 第二次世界大戦の経験は、日本とヨーロッパで、まったく相反すると言ってもよいくらいの認識をそれぞれにもたらした。

 日本では「大東亜戦争」と呼ばれる「あの戦争」の体験は、軍事力そのものへの忌避感として表明され、現行憲法の第九条の規定に集約的に表現された。そこでは国家による軍事力保有自体が忌避されたのである。

 それに対し、ヨーロッパでは、ヒトラーのナチス・ドイツにより引き起こされた戦争の体験により生まれたのは、軍事力そのものへの忌避感ではなく、むしろ適切なタイミングでの軍事力行使の必要性の認識であった(と私は思う)。戦後のヨーロッパに深く刻み込まれたのは、軍事力保有自体への忌避感情ではなく、保有した軍事力を適切に行使する政治判断の重要性である。

 1938年の英仏と独伊の四国によるミュンヘン会談は、「平和裏に」チェコスロバキアの分割によるドイツへの併合を決定し、それが当面の戦争の可能性を回避したものとして広く歓迎された。

 もちろん、その影にあるのは第一次世界大戦の経験であり、その経験によりもたらされたヨーロッパにおける戦争への忌避感情である。大戦の惨禍の大きさは、「戦争」そのものへの忌避感となって結実し、ミュンヘン会談の「成果」は、独伊の国民だけではなく英仏の国民からも熱烈に支持されたのであった。英仏の国民はチェコスロバキア国民の感情に配慮する必要よりは、協定により確保された当面の「平和」を受け容れる方を選んだのである。

 しかし、ミュンヘンの成果は、ヒトラーへの手法へのドイツ国防軍内の懐疑を減少させ、ドイツ国内におけるヒトラーの権力基盤の拡充をもたらした。同時にヒトラーの手法を国際社会が受け容れたこととして理解され、保有する軍事力の脅迫的運用の有効性を、ヒトラーに知らしめる結果となった。

 そして1939年の9月にヒトラーのドイツは、スターリンのソ連の合意の下でポーランドに侵攻し、ポーランドをソ連と分割することで第二次世界大戦が開始されることになる。軍事力が脅迫の手段ではなく、軍事的侵攻の手段として行使され、つまりヨーロッパでの新たな戦争が始まったのであった。

 戦後のヨーロッパは、その過程を回顧し、ミュンヘン会談の評価を、その当時とは異なるものとしたのである。あの時点でヒトラーの軍事的脅迫に対し、英仏が適切に軍事力を背景とした政治外交を行なっていれば、その後の第二次世界大戦は回避出来たのではないのか? それが、大戦後のヨーロッパの人々、大戦後のヨーロッパの政治家に深く刻まれたトラウマ的感覚となったことを、私たちは知っているはずである。イラク戦争に先立って(ブッシュにより)用いられたのは、サダム・フセインをヒトラーのイメージで語るレトリックであった。サダム・フセインに対する軍事力の行使に対する躊躇は、ミュンヘンでのヒトラーへの躊躇と重ねてイメージされ、チェンバレンの後裔としてのブレアの判断に大きく影響を与えていたはずである。

 

 それに対し日本国民の経験は、山東出兵以来の脅迫的な軍事力の運用と、満洲事変以来の実際の軍事的侵攻への軍事力の使用の歴史と、その帰結としての未曾有の敗戦として描かれる、「あの戦争」の姿となった。国家の存立を保証するはずの軍事力が、国家的な破局をもたらしたのである。

 反省的に見れば、そこに存在するのは政治によるコントロールを欠いた軍事力の暴走であり、政治をもコントロールしようとし実際にコントロールした軍人の姿であった。対米英戦争の進行と共に、より多くの人々が家族を失い、生活の惨めさを徹底的に味わうこととなった。その経験が軍事そのものへの忌避感となって結実したことも当然のことと思わざるを得ない(それは、既に第一次世界大戦後のヨーロッパで広く共有された感情でもあった―つまり近代総力戦のもたらす悲惨さという第一次世界大戦でのヨーロッパの経験を、遅れて日本が味わったことを意味する)。

 戦後の日本は、軍事力の保有に積極的ではなく、保有した軍事力を自らコントロールしようとすることにも積極的ではなかった。保有する軍事力をコントロールすべき政治を、国民自らコントロールすることを望もうとはせず、米国のコントロールの下へ置くことを選択したのである。

 少なくとも、その選択の結果、大東亜戦争に至る時期の軍事的暴走の結果もたらされた生活の惨めさからの脱却には成功し、日本国民はその戦後を、それなりに満足しながら生きていたのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/01/30 21:46 → http://www.freeml.com/bl/316274/181268/

 

 

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2008年12月 3日 (水)

生き残るということの意味

 

 生き残ることについて考えてみたい。


 自分が生き残ることが、誰かの命と引き換えになってしまうような状況について。


 昨日、「東京大空襲・戦災資料センター」を再訪し、展示品を見ながら、あらためて考えさせられたことだ。

 実はこのところ、過去に録画したドキュメンタリー映像を見直していた。東京大空襲をはじめ、ヨーロッパの無差別爆撃の歴史や、爆撃機のエピソードといった映像である。

 焼夷弾による都市無差別爆撃がもたらす被害には想像を超えているところがある。
 火の勢いは、あまりに強く、1000度を超える熱さとなる。ガラスも融け、人間が燃える。熱風が生じ、嵐のように吹き荒れる。世界が燃える。燃焼により酸素が奪われ無傷のままに窒息死する。

 安全な場所は誰にもわからない。

 熱風は、人が逃げる速度を超えて吹き荒れ、火に追われてきたはずが、火に逃げ道を閉ざされる。
 避難者の列が火の壁となる。燃える人間が道を塞ぐ。


 必死で猛火の下を逃げまどい、結果として生き残っていたことに気付くのである。


 かろうじての安全地帯も収容人数は限られている。入れた者は助かるかも知れないが、すべての者が逃げ込むわけにはいかないのだ。入り口は閉ざされなければならない。入れた者達が生き残るためには。
 生き残った者は、翌朝には、逃げ込むことの叶わなかった者達のおびただしい無残な死体に出会う。
 自分が生き残るために、彼らの死があった。

 安全な防空壕に家族を残し、自分にはもう入る余地がないので炎の中を逃げ、翌朝、防空壕に戻ってみれば、全員が蒸し焼きになっていたという体験者もいる。
 家族の安全を確保し、危険に身を投じたはずの自分が生き残り、家族は炎の犠牲となっていた。結果として、守ろうとした家族を殺したのは自分である。

 安全な場所は誰にもわからない、とはそのような状況なのである。

 プールに逃げた者もいる。後から後から逃げ込む人をかき分け押し戻しながら自分の場所を確保しないと、深みに追いやられ溺死することになる。朝を迎え、溺死した者達の積み重なった死体の上に立っていたことに気付く。死体の中に自分の家族の姿を見つける。自分の家族を踏み台にすることによって生き残ったということになる。


 生きている自分、生き残っている自分について考えざるを得ない。他の者の死が、現在生きている自分を支えているのである。他の者の死と引き換えに、現在、生きている自分が存在するのである。
 他の者が家族であり、愛する者であるという体験を想像出来るだろうか。

 生き残ることが出来た喜びは、同時に愛する者を喪った悲しみであり、しかも愛する者の死に、自分が責任を負っているという感情に伴われるものとなる。


 自分が生きるためには、人を押しのけることを当然と考える者も確かにいるだろう、この世の中には。
 しかし、多くの人間にとって、自分が生き残ったことが、他者を死に追いやったことと引き換えに得られたものだという事実は、簡単には受け入れ難いものとなるだろう。もちろん、その状況に責任があるわけではない。しかし、引き換えとなって死んでいった者達への責任を感じることなく、その後の人生を生きることもまた難しいものとなるのである。


 東京大空襲、あるいは都市無差別爆撃の犠牲者だけの問題ではない。戦争が究極的に個人にもたらすのは、そのような状況なのである。
 中国残留孤児は、家族の犠牲となったのでもあるし、残留孤児となったために他の家族と共に死ぬことを免れていたかも知れないのである。残留させられることも、引き揚げることも、どちらも確実な生きる保障につながるものではなかったということだ。
 最前線の兵士にとっても、強制収容所の被収容者にとっても、生き残るということは、誰かの死と引き換えにもたらされるものとなるのである。


 都市無差別爆撃は、そのような状況を市民に強いるものとなった。

 昭和20年3月10日、2時間の空襲で、被災者100万人、死者10万人だ。夜明けとともに、自分が生き残ったことは理解出来た。しかし、やがてそれは10万人の死と引き換えの生存でもあることに気付かされることになる。
 一晩の空襲の結果、100万人もの市民が、そのような経験に巻き込まれたのだ。10人に一人の死者ということは、誰か遠くの知らない人間の死と引き換えに生き残ったのではなく、自分の命は親しい誰かの命と引き換えに得られたものだという経験として意味付けられることになるのである。

 近代的戦争、総力戦が市民にもたらしたのは、そのような経験であったのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/27 22:55 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/39175/user_id/316274

 

 

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