カテゴリー「戦争のトラウマ」の記事

2013年5月18日 (土)

あるときには兵隊さんを肉体的に激励する「無給軍属」としての「慰安婦」

 

 昭和43年というから、1968年の国会での「戦傷病者戦没者遺族援護法等の一部を改正する法律案」をめぐる議論の中に、「慰安婦」をめぐるやり取りがあるので、まず関係する部分を抜粋しておく。

 

 

 

第058回国会 社会労働委員会 第21号
昭和四十三年四月二十六日(金曜日)
   午前十時二十五分開議
 出席委員
   委員長 八田 貞義君
   理事 小沢 辰男君 理事 佐々木義武君
   理事 田川 誠一君 理事 橋本龍太郎君
   理事 藤本 孝雄君 理事 河野  正君
   理事 田邊  誠君 理事 田畑 金光君
      大坪 保雄君    海部 俊樹君
      齋藤 邦吉君    澁谷 直藏君
      世耕 政隆君    田中 正巳君
      竹内 黎一君    中山 マサ君
      増岡 博之君   三ツ林弥太郎君
      箕輪  登君    粟山  秀君
      加藤 万吉君    後藤 俊男君
      西風  勲君    平等 文成君
      八木 一男君    山本 政弘君
      本島百合子君    和田 耕作君
      伏木 和雄君
 出席国務大臣
        厚 生 大 臣 園田  直君
        労 働 大 臣 小川 平二君
 出席政府委員
        厚生政務次官  谷垣 專一君
        厚生省援護局長 実本 博次君
        社会保険庁医療
        保険部長    加藤 威二君
        労働省労働基準
        局長      村上 茂利君
 委員外の出席者
        専  門  員 安中 忠雄君

 

   午後零時四十三分開議
○八田委員長 休憩前に引き続き、会議を開きます。
 内閣提出の戦傷病者戦没者遺族援護法等の一部を改正する法律案を議題とし、審査を進めます。
 質疑の申し出がありますので、これを許します。後藤俊男君。
○後藤委員 大臣のほうが、時間が十分ないそうでございますので、まず第一番にお尋ねいたしたいと思いますのは、大東亜戦争当時、第一線なり、いわゆる戦場へ慰安婦がかなり派遣されておったと思うのです。私も内々これらの派遣されたいきさつにつきまして、できるだけ、どういうふうな計画でどういうふうにやられたかを調べようと、かなり苦心をしたわけでございますが、聞くところによりますと、無給軍属ということで派遣をしておる。さらにこの派遣につきましては、それらの業者と軍との間で、おまえのところでは何名派遣せよというようなことで、半強制的なようなかっこうで派遣されておるというようなことも私聞いておる次第でございますが、さらにこれらの派遣された慰安婦につきましては、戦場におきまして、戦闘がたけなわになると、あるいは敵の急な襲撃等があった場合には、看護婦の代理もやっておる。さらに弾薬も運ぶというような、さながら戦闘部隊のような形でやられておるというような実績もかなりあると聞いておるのです。
 いま申し上げましたような、この慰安婦に対する現在の援護法の適用の問題でございますけれども、これも、過去において五、六十名適用したこともあるというようなことも聞きました。これは、たとえば自分の家族なりきょうだいなりが戦場に派遣された――振り返ってそういうことは言えるわけでございますけれども、しかしながら、あまりかっこうのいい話ではございませんので、言いたくても言わずにしんぼうしておる人があるんじゃないかというふうなことも推察できるわけなんです。いま申し上げましたような、先ほど言ったように、戦場で、あるときには戦闘部隊になり、あるときにはたまを運ぶ、あるときには兵隊さんを肉体的に激励する、こういうふうないろいろな苦労をした慰安婦に対しまして、この援護法との関係、いままでの経過、さらにこれからの問題につきまして、どういうふうな方向をとっていこうとされておるのか、この点につきまして大臣にお伺いをいたしたいと思います。
○園田国務大臣 ただいまの御指摘の問題は、その実情が、海軍と陸軍とで関係も違っておりますし、それからもう一つは、戦争の初めごろと終わりごろとではまた資格、契約等のことも変わっておるようでございます。また終戦後の混乱時については、御指摘のような点もございますが、事の本質上、この問題として援護することは実態もなかなかわかりませんし、調査も困難でございますので、じかにこの問題として取り上げることはなかなか困難な問題が多いわけでございますが、委員の御指摘の点、私もそのように考えますので、たとえば無給軍属の契約をしておる、あるいは戦争の混乱時で後方勤務をやったとか、あるいは弾薬運びをやったとか、あるいは看護婦さんの仕事をやったとか、そういうものはそういう面からできるだけ広げていって、将来こういう方々にも何とかお報いができるような方針で、事務当局で検討したいと考えております。
○後藤委員 いま大臣が言われたのは、こちらがやかましくてあまり十分聞き取れなかったわけでございますけれども、私はこのいま申し上げました問題について、別に厚生省なり政府としても、そういう関係にあった者については援護法を適用しますというようなPRも全然していないと思うのです。さらに通達その他につきましても、例示等をして、こういう件については援護法が適用されるのだ、こういうふうなことも全然されておらないと思います。先ほど言いましたように、五十名ないし六十名が適用されておるというのは、だれかに聞いて、聞いた者だけがうまくやったと言うと語弊がありますけれども、そういう人だけは適用されたのではないかというふうに思うわけでございますけれども、当時大臣も兵隊に行っておられて、慰安婦等の数なりその他につきましては、千名や二千名ではなかろうと思います。おそらく数千名の慰安婦が第一線なりその他多くの戦場に派遣されておった、これはもう間違いないと思うのです。その中の、先ほど申し上げましたような犠牲者が、全部うまく把握されて援護法の適用をされておるかというと、そこまではいっておらないと私は思います。それなら一体、先ほど申し上げましたような条件にある人を、その援護法の適用対象にする、そういうようなことになったといたしますと、それなりの何かの手続をしていただかないと、せっかくそういう条件にありながら、ありがたい法律が適用されないことになってしまう、こういうふうに思うわけでございますけれども、その辺のところはいかがでありましょうか。
○実本政府委員 いま先生のお話にございますいわゆる慰安婦と申しますか、そういった人々の問題につきましては、援護法のたてまえからいたしますと、先ほど大臣も申し上げましたように、ちょっとそういう見地からの適用のことを考えたことがございませんので、実は何らそういう面からの実態を把握いたしておりません。ただ、大臣が先ほど申し上げましたように、現実に本来の尉安婦の仕事ができなくなったような状態、たとえば昭和二十年の四月以降のフィリピンというような状態を考えますと、もうそこへ行っていた慰安婦の人たちは一緒に銃をとって戦う、あるいは傷ついた兵隊さんの看護に回ってもらうというふうな状態で処理されたと申しますか、区処された人たちがあるわけでございまして、そういう人たちは戦闘参加者あるいは臨時看護婦というふうな身分でもってそういう仕事に従事中散っていかれた、こういうふうな方々につきましては、それは戦闘参加者なりあるいは軍属ということで処遇をいたしたケースが、先ほど四、五十と申し上げました中の大部分を占めておるわけでございます。したがいまして、こういう人たちの実態というものは、先生が先ほどちょっと触れられましたように、現実には何か相当前線の将兵の士気を鼓舞するために必要なわけで、軍が相当な勧奨をしておったのではないかというふうに思われますが、形の上ではそういった目的で軍が送りました女性というものとの間には雇用関係はございませんで、そういう前線の将兵との間にケース、ケースで個別的に金銭の授受を行なって事が運ばれていた模様でございます。軍はそういった意味で雇用関係はなかったわけでございますが、しかし、一応戦地におって施設、宿舎等の便宜を与えるためには、何か身分がなければなりませんので、無給の軍属というふうな身分を与えて宿舎その他の便宜を供与していた、こういう実態でございます。いま援護法の対象者としては、そういう無給の軍属というものは扱っておりませんで、全部有給の軍属、有給の雇用人というものを対象にいたしておりまして、端的にいいますと、この身分関係がなかったということで援護法の対象としての取扱いはどうしてもできかねる。しかしながら、先ほど申し上げました例のように、戦闘参加者なり、あるいは従軍看護婦のような臨時の看護婦さんとしての身分を持った方々につきましては、そういう見地から処遇をいたしておるわけでございまして、もしそういう意味での方がこういう方々の中にまだ処遇漏れというふうになっておりますれば、援護法は全部申請主義でございますので、そういう人があれば申請していただくということになるわけでございます。ただ、時効の問題その他ございますが、そういう面で援護法の適用をそういう方々にしてまいりたいというのが、このケースの処理としていまのところ援護局と申しますか厚生省の態度でございます。
○後藤委員 そうしますと、いま言われましたように、たとえば第一線へ派遣されたその人らが戦闘に参加した、あるいは看護婦という身分にはなっておりませんけれども、看護婦と同じ作業に従事させられたというとおかしいのですが、従事した、それでなくなった、こういうふうな人もあると思うのです。それらの人に対しては援護法を適用してもよろしい、そういうことなのですか。
○実本政府委員 いま先生のおっしゃいますようなケースといたしましては、戦闘参加者なり、あるいは臨時看護婦としての身分でなくなられた人については、当然請求をしていただいて裁定する、こういうことに相なります。
○後藤委員 そうしますと、いまあなたが言われたように、当時第一線なり戦場へどれくらいの数の慰安婦が派遣されておったか、数千人だろうというふうな想像をいたしておるわけでございますけれども、これらの中に、先ほどの援護法を適用してもよろしいというような条件に該当する人があったとしたならば援護法の適用をされるわけなのです。ところが、局長も言われるように、これは申請しなければ問題にならない。しかしそれらの条件に該当する遺族なりそれらの人は、全然そういうことを知らないと思うのです。百人のうち一人や二人は知っておる人があるかもしれませんが、ほとんどの人がわからない。わからなければ申請をしない。申請をしないからこのままいくのだ、こういうふうなかっこうに進んできたのが今日であり、これからもそういうふうになるのではないかと思われるわけでございますけれども、局長がせっかくそこまではっきりきちっと言い切られましたら、それらの条件に該当する人については、これは援護法の適用がされるのだということで、やはり連絡なり、PRなり、通達なり、それらに十分なる手配をとっていただく必要があると思うのです。
 それと同時に、こんなことを申し上げるとまことに失礼かもしれませんけれども、それらの条件に該当する人は、生活も裕福な人は少なかろうと思うのです。いわば生活に非常に苦しんでおられる家庭の人が多いのじゃないか。しかも遺族の人も、まことにいい話ではございませんので遠慮しがちになってくる。全然声が出てこない。そういうところへこの援護法等の適用につきましても手を差し伸べていくのが政治の力であろうと私は考えるわけです。だから、これは具体的に局長として、いま申し上げました問題をどう進めていこうとされておるのか、もう少し具体的にお答えいただきたいと思います。
○実本政府委員 先生のおっしゃることはまことにごもっともなことでございまして、単にいま先生のおっしゃるケースだけではなくて、やはり同じような法の適用が受けられるケースというもので、現実には当たっているのだけれども、当たっているかどうかわからないままに、たとえばこれは、法律ができましてからいろいろな請求の時効は七年の期間を与えておりますが、七年間徒過してしまったというふうな人がほかにもあるわけでございます。特に援護法とか恩給法とかいうものは、非常に難解でございまして、そのときそのときでまたいろいろ範囲の拡張とかあるいは給付の対象になる人の拡大とかいうふうな改善が行なわれまして、継ぎはぎ継ぎはぎで、専門家が見ましても非常に難解な法律になっておりますので、その点は特にそういう方々にとっては、条件の逆に働いている場合だと思います。ただここで私が申し上げましたように、現にこういう方々であって、援護法上の準軍属なり軍属として処遇されていた方々は、これはもうはっきりとそういうケースとして、軍のほうから戦闘参加を要請したというケースが事実としてあり、あるいは日赤の従軍看護婦のような臨時に雇った者につきましては、そういう事情がございます。それから、ある前線からある前線へ大量の人を輸送船で運んでいた。それが海没したような場合につきましては、はっきりそういう人たちのケースがわかっておりますので、ほんとうに先生がおっしゃられるような準軍属なり軍属として取り上げてもいいような人たちについては、おおむねそういうケースとして処遇してきたつもりであります。しかし、それの数は、さっき先生が言われましたように、われわれのほうとしても的確な数字を持っておりませんが、大体四、五千というふうなことを聞いております。そのうちの四、五十人ということでございますから、あるいはまだほかにそういったケースも、知らないために眠っている、あるいは泣いているという方があることが考えられます。これは援護法のほかの対象者にもそういうことがございますので、この問題のみならず、常にそういった人たち全体についてのRRなり徹底の方法といたしまして、月並みではございますけれども、年に二回、都道府県の部課長会議を開いて、そういった意味での徹底を、窓口でございます市町村の援護係のほうにさせるようにやっておるわけでございます。そういった都道府県、市町村のルートを使いまして、こういった問題、特に法律改正があるとか、あるいはいろんな特別措置が行なわれるとかというようなことになりますときには、その問題と同時に、そういう意味でのPRをして、一人でも漏れのないようにしていくということをやっておるわけでございますので、そういう際には、こういうケースは必ず徹底するように運んでいく、いまの段階ではそういうことを考えております。
○後藤委員 そうしますと、いま局長が言われましたように、さっきのような条件につきましては援護法の適用はされるんだ。だけれども、いままで知らずに漏れてきた人――四、五十名は過去において適用されておりますけれども、それ以外で漏れておる人があるとするならば、これは援護法の適用になる。ところが、一般国民の中には、そういうことを全然知らない人もあろう。だから、あらゆる機会を通じまして――これだけではございません。ほかの条件で漏れておる人もあろうかとは思いますけれども、この問題については十分徹底をして、漏れておるような人のないように今後やっていきたい、こういうことでございますね。
○実本政府委員 お示しのとおりでございます。先ほど先生のおことばにもありましたように、こういう人たち並びにその御遺族の人は、何といいますか、外へ出たくないというようなグループですから、特にそういう面についてはそういう観点から、遠慮しないで出ていらっしゃいというような導き方といいますか、引き出し方をするように指導してまいりたいと思います。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/058/0200/05804260200021c.html

 

 

 

 政府側委員として出席していた、厚生省援護局長の実本博次の発言にまず注目しておきたい。「戦傷病者戦没者遺族援護法」の適用対象という観点から、実本援護局長は「慰安婦」の法的地位について、

 

 こういう人たちの実態というものは、先生が先ほどちょっと触れられましたように、現実には何か相当前線の将兵の士気を鼓舞するために必要なわけで、軍が相当な勧奨をしておったのではないかというふうに思われますが、形の上ではそういった目的で軍が送りました女性というものとの間には雇用関係はございませんで、そういう前線の将兵との間にケース、ケースで個別的に金銭の授受を行なって事が運ばれていた模様でございます。軍はそういった意味で雇用関係はなかったわけでございますが、しかし、一応戦地におって施設、宿舎等の便宜を与えるためには、何か身分がなければなりませんので、無給の軍属というふうな身分を与えて宿舎その他の便宜を供与していた、こういう実態でございます。

 

…と述べている。「慰安婦」の法的地位は「無給の軍属」だというのである。

 

 厚生大臣の園田直は、

 

 委員の御指摘の点、私もそのように考えますので、たとえば無給軍属の契約をしておる、あるいは戦争の混乱時で後方勤務をやったとか、あるいは弾薬運びをやったとか、あるいは看護婦さんの仕事をやったとか、そういうものはそういう面からできるだけ広げていって、将来こういう方々にも何とかお報いができるような方針で、事務当局で検討したいと考えております。

 

…という見解を示しているが、園田大臣は、給付対象の拡大について、

  無給軍属の契約をしておる
  戦争の混乱時で後方勤務をやった
  弾薬運びをやった
  看護婦さんの仕事をやった

…というものを挙げ、その上で、

  そういうもの(=給付条件)はそういう面からできるだけ広げていって、
  将来こういう方々(つまり「慰安婦」)にも何とかお報いができるような方針で

…との方向性を打ち出しているわけである。

 その後の政府委員(実本厚生省援護局長)とのやり取りでは、現行規定で可能なものとして、

  戦争の混乱時で後方勤務をやった
  弾薬運びをやった
  看護婦さんの仕事をやった

…といったものが示され、議論は給付対象拡大の方向ではなく、現行規定で可能な対象者への周知の必要性に焦点が向かっているが、園田厚生大臣の言葉には、「慰安婦」にまで給付対象を拡大する可能性の追及という方向性が示されているように見える。

 

 

 あらためて、やり取りされた言葉を読むと、

 

 これは、たとえば自分の家族なりきょうだいなりが戦場に派遣された――振り返ってそういうことは言えるわけでございますけれども、しかしながら、あまりかっこうのいい話ではございませんので、言いたくても言わずにしんぼうしておる人があるんじゃないかというふうなことも推察できるわけなんです。いま申し上げましたような、先ほど言ったように、戦場で、あるときには戦闘部隊になり、あるときにはたまを運ぶ、あるときには兵隊さんを肉体的に激励する、こういうふうないろいろな苦労をした慰安婦…
 当時大臣も兵隊に行っておられて、慰安婦等の数なりその他につきましては、千名や二千名ではなかろうと思います。おそらく数千名の慰安婦が第一線なりその他多くの戦場に派遣されておった、これはもう間違いないと思うのです。その中の、先ほど申し上げましたような犠牲者が、全部うまく把握されて援護法の適用をされておるかというと、そこまではいっておらないと私は思います。それなら一体、先ほど申し上げましたような条件にある人を、その援護法の適用対象にする、そういうようなことになったといたしますと、それなりの何かの手続をしていただかないと、せっかくそういう条件にありながら、ありがたい法律が適用されないことになってしまう…
     (後藤委員)

 したがいまして、こういう人たちの実態というものは、先生が先ほどちょっと触れられましたように、現実には何か相当前線の将兵の士気を鼓舞するために必要なわけで、軍が相当な勧奨をしておったのではないかというふうに思われますが、形の上ではそういった目的で軍が送りました女性というものとの間には雇用関係はございませんで、そういう前線の将兵との間にケース、ケースで個別的に金銭の授受を行なって事が運ばれていた模様でございます。軍はそういった意味で雇用関係はなかったわけでございますが、しかし、一応戦地におって施設、宿舎等の便宜を与えるためには、何か身分がなければなりませんので、無給の軍属というふうな身分を与えて宿舎その他の便宜を供与していた、こういう実態でございます。
     (実本政府委員)

 

…といったものが印象深く感じられる。「当時大臣も兵隊に行っておられて」という世代の、「慰安婦」をめぐるやり取りということになるけだが、どの言葉にも「慰安婦」の境遇に対する思いやりがある。

 橋下徹氏の「慰安婦必要論」が下品な印象を与えるのは(橋下氏の主張を含む現代の議論が総じて下品な印象を与えるのは)、つまるところ、このような同時代の世代が持っていた思いやりを、まったく欠いているからであるようにも感じられる。

 「当時大臣も兵隊に行っておられて」という世代が持つ、「慰安婦の境遇に対する思いやり」とはまさに、ひとりの生身の「慰安婦」との肌を触れ合う関係の中から生まれたものであり、何も好き好んで慰安婦になったわけではない事情=境遇もまた、「兵隊」と「慰安婦」の双方に共有されたものであったろう。

 その構図をしっかり押さえることで、

  しかしながら、あまりかっこうのいい話ではございませんので、言いたくても言わずにしんぼうしておる人があるんじゃないかというふうなことも推察できるわけなんです。
  それと同時に、こんなことを申し上げるとまことに失礼かもしれませんけれども、それらの条件に該当する人は、生活も裕福な人は少なかろうと思うのです。いわば生活に非常に苦しんでおられる家庭の人が多いのじゃないか。しかも遺族の人も、まことにいい話ではございませんので遠慮しがちになってくる。全然声が出てこない。そういうところへこの援護法等の適用につきましても手を差し伸べていくのが政治の力であろうと私は考えるわけです。

・・・という後藤委員の言葉への理解も深まるはずである。

 「慰安婦」として日々を送らねばならなかった「境遇」の裏には、家庭の貧困というものがあり、それがいわば常識として、「当時大臣も兵隊に行っておられて」いた世代に共有されたものであったことが、昭和43年の国会でのやり取りから読み取れるわけである。いやむしろ、45年後の我々はそれを読み取らなければならない、と言うべきかも知れない。

 

  先ほど言ったように、戦場で、あるときには戦闘部隊になり、あるときにはたまを運ぶ、あるときには兵隊さんを肉体的に激励する、こういうふうないろいろな苦労をした慰安婦…
     (後藤委員)
  こういう人たちの実態というものは、先生が先ほどちょっと触れられましたように、現実には何か相当前線の将兵の士気を鼓舞するために必要なわけで、軍が相当な勧奨をしておったのではないかというふうに思われますが…
     (実本政府委員)

 ここでは「慰安婦」の本来の職能として、「兵隊さんを肉体的に激励する」ということが挙げられ、それが、「現実には何か相当前線の将兵の士気を鼓舞するために必要」と考えられているわけである。

 そのような職能に関連して、実本政府委員の、

  こういう人たち並びにその御遺族の人は、何といいますか、外へ出たくないというようなグループですから

…との認識も生まれるわけであるし、それが「慰安婦」の「境遇」として、「当時大臣も兵隊に行っておられて」いた世代に共有されていた、ということなのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/05/14 21:39 → http://www.freeml.com/bl/316274/203394/

 

 

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2012年12月19日 (水)

戦争体験の「語り難さ」への想像力への回路

 

 

  戦争体験に固執するかぎり、そこからは何ものも生まれないであろうし、それは次代に伝承されることも不可能であろうという批判は、耳の痛くなるほど聞かされている。しかし、戦争体験を放棄することによって単なる日常的な経験主義に陥り、その都度かぎりの状況のなかに溺れることだけは、ぼくはもうマッピラだ。
  戦争体験の伝承ということ、これについては、ほとんど絶望的である。ぼくは、戦争体験に固執し、それについて、ブツクサといいつづけるつもりであるが、それを次代の若者たちに、必ず伝えねばならぬとは考えていない。最近どこかの座談会で、「それを受けつぐか、受けつがないかは、若いゼネレーションの勝手たるべし」と発言していた竹内好の言葉に、ぼくはぼくなりに、全く感動的に共鳴するのである。

 

 

 福間良明氏は、この安田武の文章(『戦争体験』 未来社 1963)を引いた後に、

 

  安田は、頑なに戦争体験の語りがたさにこだわり、わかりやすい形で戦争体験を若い世代に伝えることを拒もうとした。戦争体験を「受けつぐか、受けつがないか」は、安田にとってみれば「若いゼネレーションの勝手」でしかなかった。ましてや、戦争体験の表層的な部分を都合よく、その時々の政治主義に流用することなど、安田には許容しがたいことであった。右のような突き放した物言いも、戦後派以下の世代の戦争体験への向かい方に対する安田の絶望を示すものでもあった。
     福間良明 『「戦争体験」の戦後史 世代・教養・イデオロギー』 中公新書 2009  158ページ

 

…と記している。

 福間氏は、その先で再び安田武の文章から、

 

  何を継承するかが緊急の課題であって、何を伝承するかは、二の次のことである。それに、伝承ということが可能になるためには、継承したいと身構えている人びとの姿勢が前提であろう。継承したくない、と思っている者に、是が非でも伝承しなければならぬ、と意気込むような過剰な使命感からは、ぼくの心はおよそ遠いところにある。戦争体験を現在に生かすも生かさぬも、それはまったく、それぞれ各自の問題であって、余人の立ち入るところではない。戦争体験から何も学びたくないと思う者、あるいは何も学ぶことはないと考える者は 学ばぬがよいのである。書かれ、伝説化された歴史の裡には、書かれず、伝説化もされなかった無数の可能性が死んでいる。死んでしまった筈のそのような可能性から、やがて復讐される、その亡霊に悩まされることもあり得る、ということをおそれぬものは、戦争体験にかぎらず、およそ歴史のすべてから、何も学ばぬがよい。若い世代は、いつの時にも、記憶を持たぬものだ。

 

…という言葉を引き、

 

  安田はしばしば、挑発的な表現を用いるが、そこでこだわっていたのは、戦争体験の伝承の困難さであった。とはいえ、安田はそれを不可知論として扱うわけではない。むしろ、困難をともなう戦争体験の伝承がいかにすれば可能になるのかを、模索しようとしていた。戦争体験が次世代に受け継がれる上で重要なのは、「継承したいと身構えている人びとの姿勢」であって、それをわかりやすく、あるいは心地よく「伝承」することではない。そうした安易な「伝承」では、幾多のものが切り捨てられ、「無数の可能性が死」ぬことになる。そうした「伝承」を避けるべく、声なき「死者」の声、容易に言い表せない心情に謙虚に耳をすませる――そこに、安田は戦争体験を伝承するぎりぎりの可能性を見出していた。

 

…と記している。

 

 

 

 人は、経験と共に、あるいは経験の中を、生きている。生きているということは経験することと同義である、と言ってもよい。

 言うまでもない話であるはずだが、日常的経験のすべてを語ること(語り尽くすこと)は不可能である。経験は身体全体に関わるものであり、そのすべてを語り尽くすには言葉はあまりに無力なのである。

 そもそも、そのような構図が、ありふれた日常的経験を語ること(語り尽くそうとすること)への制約として、既に存在している。

 

 「戦争体験」は、平時の日常的経験から可能な想像力の外部に大きく拡がるものとして体験されるものであり、日常性に立脚した言葉による語りの可能性を超えたものとして体験されてしまうものなのである。しかも「戦争体験一般」というものなど存在せず、あるのは、日常性に立脚した言葉によっては語り難い個々の個別の体験なのだ。

 語り難い体験の中からかろうじて言語化されたもの(語り得たもの)だけが、私たちの前に存在するのである。

 「語り難い体験」を語ろうとする場合、その語り難さに語ることを断念するか、語り難さを乗り越えて語ろうとすることに執念を注ぐか、語り難さをステロタイプな表現に変換して済ませてしまうかのいずれかしかないように思われる。

 語りが断念されてしまえば、その「語り難い体験」へのアクセスの手段は存在しない。

 ステロタイプな表現に変換された戦争体験は、わかりやすいものとして歓迎されるだろうが、そこからは「語り難さ」が欠落しており、ある種の戦争体験の「語り難さ」への想像力への回路も失われてしまうことになる。

 

 

 ここにあるのは、安田武の、

  書かれ、伝説化された歴史の裡には、書かれず、伝説化もされなかった無数の可能性が死んでいる

…という表現に込められた思いに、どこまで我々の想像力が及ぶのかという問題と言えるだろうか?

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/12/18 22:22 → http://www.freeml.com/bl/316274/199902/

 

 

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2012年2月16日 (木)

戦争のトラウマ 2

 

 「戦争体験を語り継ぐ」ということが果して可能なのかどうか?

 

…という問題が、そもそもはあるのではないか?

 

 

 およそそれがどのような「体験」であれ、「体験」とは本質的に個人的なものなのであり、「戦争体験」もまた、それを体験した当事者としての個人を離れたところで語り得るものなのだろうか? 当事者としての個人を離れたところで語られる「体験」とは、どこまでその名に値するものなのだろうか?

 

 

 そんなことを考えたりしていたのである。

 

 

 ネットを介して、「戦争体験の語り継ぎ」という行為に加担しつつも、その行為自体の可能性と共に「語り継ぐ」という意思(志すこと)の限界にも気付かざるを得ない。

 他人の「体験」を自らのこととして語ること、語ろうとすることの限界である。

 

 

 

 そんな中で、先日、ネット上(メーリングリスト利用)でお付き合い下さっている方々と顔を合わせる機会を持つことが出来た(いわゆる「オフ会」である)。

 20代から80代までの男女取り混ぜて十数名が集り、話をしたわけだ。ネット上のお付き合いでは「文」でしか知らない相手と、顔を合わせ、言葉を交し合ったわけである。

 

 80代のシベリア帰りの元少年航空兵が、実は日本橋浜町生まれ新宿育ちのチャキチャキの江戸っ子シティーボーイであり、戦前のモダンボーイ生活の延長にある軍国少年化であり、その果ての戦場体験・シベリア抑留体験であったことが、あらためて判明する。ネット上のメールのやり取りでは、元少年航空兵の歯切れのいい江戸弁は伝わらないのである。

 ご当人は、

  戦場体験は、兵士の数だけあります。その人の戦場体験はその人でなければ語れません。誰もその元兵士に代ることは出来ません。

あるいは、それに加えて、

  戦場体験というのは、話す人の数だけあります。軍隊は、人を殺すための軍隊です。同時に、軍隊の中の身分が将校か下士官か兵隊かという違いや、古参兵だったのか新兵だったのかで、同じ体験に遭っても全部違ってきます。それぞれの考えも違っています。同時に日本に帰ってきた後、どのような生活体験をしたかによっても思いが違ってきます。その意味で、一人の人の体験が全てではないのです。同じ場面に遭っても、指揮する立場と、指揮される立場とは全然違います。
  やがては消えていく体験なので、より多くの人に語り残していくということが求められているのです。

…などという言い方をした上で(つまりそれがご自身の個人的な「体験」であることを念押しした上で)、様々な機会に様々な聴衆を相手にご自身の「戦場体験」について語っているわけだが、その「体験」を活字で読むのと、生で聴くのは異なる経験であることを実感させられたのである。かつてのモダン東京のシティーボーイが由緒正しい江戸っ子の語り口で語るのを聞くことの持つ意味を考えてしまったりするわけだ。

 活字で読む限り、どこまでも陰々滅々の暗い老人の話となってしまうのだが、そして実際に皇軍組織の救い難さの体験が語られているわけなのだが、それがシャレのわかる江戸っ子の歯切れのいい口調で語られるのを聞けば、(活字知識としての暗い話とは異なる)陰影あるかつての少年兵としての日々が伝わってくるのである。

 

 (そしてまた、この江戸っ子の語り口を語り継ぐことの不可能さをも思わざるを得ないのである)

 

 

 そんなことを思いながら、かつての少年航空兵のお話を伺っていたのだが、「戦場体験」を語る機会が増えたことの喜びを聞くと同時に、その難しさの指摘にもうなずかざるを得ない。

 小学生を相手に、零下20度のシベリアの寒さ(それも十分な毛布も暖房もない中でのいつまで続くのかもわからない日々である)をどのように説明すれば理解を得られるのか? 「飢え」の感覚、つまり単なる空腹感とは隔絶した「飢え」の感覚を現代の小学生に伝えることは出来るのか? そこが理解されなければ、本来伝えるべき話は伝わらないのである。

 

 

 そんな話の流れから、参加者の間でも当時の「飢え」が話題となった。戦後になっての日々、復興後の日々にも、決して「混ぜご飯」を食べようとしなかった家族(父親であったか?)のエピソードは、つまり白米のない戦時下・終戦直後の日々への反動である。あるいは家族にはお土産にバナナを買って帰っても、自らは決して食べようとしなかった復員後の父のエピソード(南方でのバナナだけで飢えをしのいだ日々への反動である)。

 このような話は、戦中派の体験談には珍しいものではない。戦後は決してカボチャをサツマイモをトウモロコシを口にすることなく過ごそうとした人々の話は、むしろ「ありふれた」という印象を与えるものにさえ思える。

 「飢え」のトラウマ、つまり、毎日それだけしか食べられなかったことへの反動から、それを絶対に食べないという決意が生まれたわけである。いや、「決意」という種類のもの(つまり頭で考えたという次元の話)ではなく、「それを身体が受け付けなくなってしまった」という種類の出来事であったようにさえ思われる。これはむしろ身体性に刻み込まれた「トラウマ」と言うべきだろう。

 

 

 

 そんなことを考えながら、この数日間を過ごしていたのであった。

 しかし、あらためて考えると、あの世代の「日の丸・君が代」に対する忌避感もまた、そのような身体性のトラウマとして理解すべきであるようにも思われてくるのである。

 あの世代の人間にとってカボチャを食べないのはリクツの問題ではないし、「日の丸・君が代」に対する忌避感もまたリクツの問題ではないのではないだろうか?

 戦後生まれとしては、正直なところ、あの、

  日の丸・君が代いやだ

…という感覚を体感として共有し合うことは出来ない。戦時下での体験を聞き、当時の記録類を読めば、なぜ彼らが「日の丸・君が代」への忌避感を持つに至ったのかをリクツとして理解することまでは、私たちにも可能である。家族が死に仲間が死に、家が灰となり街が焼き尽くされ、そこで飢えと不安をとことん味う惨憺たる日々を送った。その背後には日の丸があり、命令と服従の体系があり、日の丸には教壇から発せられ町内会長から発せられ古参兵から発せられそして軍司令官から発せられるあらゆる理不尽な命令をも正当化させる力があった。その日の丸の下で、愛着あるあらゆるものが失われたのである。

 そこに日の丸への(君が代への)忌避感が胚胎したであろうことは、リクツとして理解出来るし、リクツとして説明することは出来る。しかし、それはあくまでもリクツであり説明なのであって、戦争を生き抜いた世代の身体感覚に到達するものではない。身体感覚として刻み込まれた体験の質への想像力は(共感への道は)求め得ないものなのであろうか?

 しかし、そこに、

  カボチャが食べられない

…というあの世代の身体感覚を重ねることで、「日の丸・君が代いやだ」への理解への道が拓かれたように感じたのである。カボチャやサツマイモは、しかしそれでも彼らの食糧となり、彼らを飢えから救い、彼らを生き延びさせた、にもかかわらず、二度と口にしたくないものとなってしまっているのである。その彼らの皮膚感覚からすれば、「ニッポン」は彼らをそのような飢えに追い込み、「日の丸・君が代」はその飢えから彼らを救うものではなかった。家族や仲間の死は、そして自分の飢えは、日の丸を背負った命令と服従の体系の終着点に起きた出来事なのである。

 「戦争体験を語り継ぐ」と言葉で言うのは簡単だが、体感・身体感覚を離れたところでの「体験」の「語り継ぎ」の限界は思わざるを得ない。詰まるところ「体験」は代弁することが出来ないのである。しかし、それをあっさりと他人事で終わらせてしまうことには、実際に身近で話を聞いてしまった以上、抵抗感が残るのである。

 「日の丸君が代いやだ」の忌避感が身体感覚に刻まれたものであり、その刻まれ方が、「今でもカボチャが食べられない」の感覚を参照することで、戦後世代にも「理解」が可能になるのではないか? 「カボチャ」を参照することで、「日の丸・君が代」についての忌避感を「反日的」などと切り捨てる(いくらなんでもカボチャが食べられないことを「反日」とは言わないだろう)のではなく、ある時代のある世代の身体に刻み込まれた体験として、つまりこの国の歴史の重要なひとつのエピソードとして私たちが継承することを可能にするのではないか? 「代弁」は出来ないにしても、彼らの体験に、そして個人としての彼あるいは彼女の体験に、より近いところで寄り添うことは出来るはずである。その時、彼らの体験は「他人事」ではなくなっているはずである。

 

 そんなことを思ったわけだ。

 

 

 もちろん、この話も、

  戦場体験は、兵士の数だけあります。その人の戦場体験はその人でなければ語れません。誰もその元兵士に代ることは出来ません。

…というのと同様で、すべてのあの世代がカボチャを食べないわけではないし、すべてのあの世代が「日の丸・君が代」への忌避感情を持ってしまったわけではない。あくまでも個別の問題である。

 しかし、その「個別」のあり方への想像力を持ち続けることこそが、現在を生きる私たちの重要な課題ではないのか? 「戦争体験の語り継ぎ」とは、まず、あの時代を生きた一人の人間と出会うことから始まるのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/02/07 22:14 → http://www.freeml.com/bl/316274/181876/

 

 

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2012年2月14日 (火)

戦争のトラウマ 1

 

 戦争というものは、その非日常性において、渦中に巻き込まれた人間に昂揚感をもたらすと同時に、やがて日常性として体験されることになるその悲惨さは、それを体験した個人の中にも大きな傷痕を残すものである。

 同時に、戦争とは国家というレベルでの出来事であり、国家という枠組み、国家という枠組みを形成する国民というレベルにおいても、大きな傷痕(つまりトラウマ)を刻み込むものである。その前後での意識の変容は、無視するにはあまりにも大きい。

 戦争という体験は、いわば、「国民意識」のレベルでの変化を引き起こすものなのである。

 

 そして、その変容のあり方は、その戦争をどのように体験したのかに、そしてその体験をどのように解釈するのかに規定される。

 

 

 第二次世界大戦の経験は、日本とヨーロッパで、まったく相反すると言ってもよいくらいの認識をそれぞれにもたらした。

 日本では「大東亜戦争」と呼ばれる「あの戦争」の体験は、軍事力そのものへの忌避感として表明され、現行憲法の第九条の規定に集約的に表現された。そこでは国家による軍事力保有自体が忌避されたのである。

 それに対し、ヨーロッパでは、ヒトラーのナチス・ドイツにより引き起こされた戦争の体験により生まれたのは、軍事力そのものへの忌避感ではなく、むしろ適切なタイミングでの軍事力行使の必要性の認識であった(と私は思う)。戦後のヨーロッパに深く刻み込まれたのは、軍事力保有自体への忌避感情ではなく、保有した軍事力を適切に行使する政治判断の重要性である。

 1938年の英仏と独伊の四国によるミュンヘン会談は、「平和裏に」チェコスロバキアの分割によるドイツへの併合を決定し、それが当面の戦争の可能性を回避したものとして広く歓迎された。

 もちろん、その影にあるのは第一次世界大戦の経験であり、その経験によりもたらされたヨーロッパにおける戦争への忌避感情である。大戦の惨禍の大きさは、「戦争」そのものへの忌避感となって結実し、ミュンヘン会談の「成果」は、独伊の国民だけではなく英仏の国民からも熱烈に支持されたのであった。英仏の国民はチェコスロバキア国民の感情に配慮する必要よりは、協定により確保された当面の「平和」を受け容れる方を選んだのである。

 しかし、ミュンヘンの成果は、ヒトラーへの手法へのドイツ国防軍内の懐疑を減少させ、ドイツ国内におけるヒトラーの権力基盤の拡充をもたらした。同時にヒトラーの手法を国際社会が受け容れたこととして理解され、保有する軍事力の脅迫的運用の有効性を、ヒトラーに知らしめる結果となった。

 そして1939年の9月にヒトラーのドイツは、スターリンのソ連の合意の下でポーランドに侵攻し、ポーランドをソ連と分割することで第二次世界大戦が開始されることになる。軍事力が脅迫の手段ではなく、軍事的侵攻の手段として行使され、つまりヨーロッパでの新たな戦争が始まったのであった。

 戦後のヨーロッパは、その過程を回顧し、ミュンヘン会談の評価を、その当時とは異なるものとしたのである。あの時点でヒトラーの軍事的脅迫に対し、英仏が適切に軍事力を背景とした政治外交を行なっていれば、その後の第二次世界大戦は回避出来たのではないのか? それが、大戦後のヨーロッパの人々、大戦後のヨーロッパの政治家に深く刻まれたトラウマ的感覚となったことを、私たちは知っているはずである。イラク戦争に先立って(ブッシュにより)用いられたのは、サダム・フセインをヒトラーのイメージで語るレトリックであった。サダム・フセインに対する軍事力の行使に対する躊躇は、ミュンヘンでのヒトラーへの躊躇と重ねてイメージされ、チェンバレンの後裔としてのブレアの判断に大きく影響を与えていたはずである。

 

 それに対し日本国民の経験は、山東出兵以来の脅迫的な軍事力の運用と、満洲事変以来の実際の軍事的侵攻への軍事力の使用の歴史と、その帰結としての未曾有の敗戦として描かれる、「あの戦争」の姿となった。国家の存立を保証するはずの軍事力が、国家的な破局をもたらしたのである。

 反省的に見れば、そこに存在するのは政治によるコントロールを欠いた軍事力の暴走であり、政治をもコントロールしようとし実際にコントロールした軍人の姿であった。対米英戦争の進行と共に、より多くの人々が家族を失い、生活の惨めさを徹底的に味わうこととなった。その経験が軍事そのものへの忌避感となって結実したことも当然のことと思わざるを得ない(それは、既に第一次世界大戦後のヨーロッパで広く共有された感情でもあった―つまり近代総力戦のもたらす悲惨さという第一次世界大戦でのヨーロッパの経験を、遅れて日本が味わったことを意味する)。

 戦後の日本は、軍事力の保有に積極的ではなく、保有した軍事力を自らコントロールしようとすることにも積極的ではなかった。保有する軍事力をコントロールすべき政治を、国民自らコントロールすることを望もうとはせず、米国のコントロールの下へ置くことを選択したのである。

 少なくとも、その選択の結果、大東亜戦争に至る時期の軍事的暴走の結果もたらされた生活の惨めさからの脱却には成功し、日本国民はその戦後を、それなりに満足しながら生きていたのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/01/30 21:46 → http://www.freeml.com/bl/316274/181268/

 

 

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2008年12月 3日 (水)

生き残るということの意味

 

 生き残ることについて考えてみたい。


 自分が生き残ることが、誰かの命と引き換えになってしまうような状況について。


 昨日、「東京大空襲・戦災資料センター」を再訪し、展示品を見ながら、あらためて考えさせられたことだ。

 実はこのところ、過去に録画したドキュメンタリー映像を見直していた。東京大空襲をはじめ、ヨーロッパの無差別爆撃の歴史や、爆撃機のエピソードといった映像である。

 焼夷弾による都市無差別爆撃がもたらす被害には想像を超えているところがある。
 火の勢いは、あまりに強く、1000度を超える熱さとなる。ガラスも融け、人間が燃える。熱風が生じ、嵐のように吹き荒れる。世界が燃える。燃焼により酸素が奪われ無傷のままに窒息死する。

 安全な場所は誰にもわからない。

 熱風は、人が逃げる速度を超えて吹き荒れ、火に追われてきたはずが、火に逃げ道を閉ざされる。
 避難者の列が火の壁となる。燃える人間が道を塞ぐ。


 必死で猛火の下を逃げまどい、結果として生き残っていたことに気付くのである。


 かろうじての安全地帯も収容人数は限られている。入れた者は助かるかも知れないが、すべての者が逃げ込むわけにはいかないのだ。入り口は閉ざされなければならない。入れた者達が生き残るためには。
 生き残った者は、翌朝には、逃げ込むことの叶わなかった者達のおびただしい無残な死体に出会う。
 自分が生き残るために、彼らの死があった。

 安全な防空壕に家族を残し、自分にはもう入る余地がないので炎の中を逃げ、翌朝、防空壕に戻ってみれば、全員が蒸し焼きになっていたという体験者もいる。
 家族の安全を確保し、危険に身を投じたはずの自分が生き残り、家族は炎の犠牲となっていた。結果として、守ろうとした家族を殺したのは自分である。

 安全な場所は誰にもわからない、とはそのような状況なのである。

 プールに逃げた者もいる。後から後から逃げ込む人をかき分け押し戻しながら自分の場所を確保しないと、深みに追いやられ溺死することになる。朝を迎え、溺死した者達の積み重なった死体の上に立っていたことに気付く。死体の中に自分の家族の姿を見つける。自分の家族を踏み台にすることによって生き残ったということになる。


 生きている自分、生き残っている自分について考えざるを得ない。他の者の死が、現在生きている自分を支えているのである。他の者の死と引き換えに、現在、生きている自分が存在するのである。
 他の者が家族であり、愛する者であるという体験を想像出来るだろうか。

 生き残ることが出来た喜びは、同時に愛する者を喪った悲しみであり、しかも愛する者の死に、自分が責任を負っているという感情に伴われるものとなる。


 自分が生きるためには、人を押しのけることを当然と考える者も確かにいるだろう、この世の中には。
 しかし、多くの人間にとって、自分が生き残ったことが、他者を死に追いやったことと引き換えに得られたものだという事実は、簡単には受け入れ難いものとなるだろう。もちろん、その状況に責任があるわけではない。しかし、引き換えとなって死んでいった者達への責任を感じることなく、その後の人生を生きることもまた難しいものとなるのである。


 東京大空襲、あるいは都市無差別爆撃の犠牲者だけの問題ではない。戦争が究極的に個人にもたらすのは、そのような状況なのである。
 中国残留孤児は、家族の犠牲となったのでもあるし、残留孤児となったために他の家族と共に死ぬことを免れていたかも知れないのである。残留させられることも、引き揚げることも、どちらも確実な生きる保障につながるものではなかったということだ。
 最前線の兵士にとっても、強制収容所の被収容者にとっても、生き残るということは、誰かの死と引き換えにもたらされるものとなるのである。


 都市無差別爆撃は、そのような状況を市民に強いるものとなった。

 昭和20年3月10日、2時間の空襲で、被災者100万人、死者10万人だ。夜明けとともに、自分が生き残ったことは理解出来た。しかし、やがてそれは10万人の死と引き換えの生存でもあることに気付かされることになる。
 一晩の空襲の結果、100万人もの市民が、そのような経験に巻き込まれたのだ。10人に一人の死者ということは、誰か遠くの知らない人間の死と引き換えに生き残ったのではなく、自分の命は親しい誰かの命と引き換えに得られたものだという経験として意味付けられることになるのである。

 近代的戦争、総力戦が市民にもたらしたのは、そのような経験であったのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/27 22:55 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/39175/user_id/316274

 

 

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