カテゴリー「『アーロン収容所』を読む」の記事

2011年2月28日 (月)

『アーロン収容所』を読む 3 (日本人がよくやったような、なぐったり蹴ったりの直接行動)

 

 シリーズの前回には、会田雄次の『アーロン収容所』にある、

  たえずなぐられ蹴られる目にあったというわけでもない。
               (「まえがき」2頁)

  日本人がよくやったような、なぐったり蹴ったりの直接行動はほとんどない。
               (63頁)

…という記述の存在について指摘したが、ここには、

  なぐられ蹴られる

  なぐったり蹴ったり

…という二様の表現があることにも留意しておくべきだろう。

 前者では、「なぐられ蹴られる」という受動的な存在(つまり暴力行為の被害者である)として提示されているのに対し、後者では、「なぐったり蹴ったり」する側の能動的行為者(暴力行為の加害者)として位置付けられている。

 前回には、 

  日本人もまた、朝鮮人、支那人、満人…といった、大日本帝國の統治下・占領下に置かれた人々を対等な存在として取扱おうとはしなかったが、そこでの日本人の優位は、恒常的・直接的な暴力(殴る日本人である)によって示されるものであった。つまり、そこでは、暴力行使の非対称性が、支配関係の優劣を明示するのである(常に殴られる側と常に殴る側の関係として)。

…ということも書いたが、ここにあるのは、会田が書いた「日本人がよくやったような、なぐったり蹴ったりの直接行動」が、日本人ではない人々に向けて行使された場面である(日本人は暴力を行使する側に位置し、つまり「加害者」である)。

 しかし、これも前回に書いたことだが、そこには同時に、

  皇軍内での日常的な暴力行使の実状(そこでは上級者と下級者の関係が、暴力行使の非対称性により再確認され続けるのである―下級者は一方的に殴られ続けられる存在だ)

…という問題もある。そこでは、「なぐられ蹴られる」のも日本人なら、「なぐったり蹴ったり」するのも日本人なのである(つまり「被害者」も「加害者」も日本人である)。もちろん、そのような日本人内部の経験・行動様式の延長として(つまり日本人にとり「当たり前」の行為として)、「大日本帝國の統治下・占領下に置かれた人々」への「なぐったり蹴ったりの直接行動」が引き起こされてしまったわけである。

 

 
 

 ここでは、まず、「なぐったり蹴ったり」が当然とされる世界で、「なぐったり蹴ったり」が引き起こされなかった例外的状況の記録を読んでおきたい。

 

 元来我輸送大隊ハ渡兵団(第十四軍)補充隊トシテ、マニラ周辺ノ警備ニ就ク予定デアッタガ、内地参謀ト現地参謀ノ間ニ意見ノ相違アリ(端的ニイエバ現地参謀ハ我々ノ如キ装備訓練劣等ノ兵隊ハ要ラナイトイッタ由)、着クニハ着イタガ、現地デハ我々ヲ作戦通リ使用スル意志ナク、然ルベキ兵器弾薬モ支給サレズ、僻地ノ警備ニ当テラレタノデアル。
 シカシコノ混乱カラ我々兵士ハ一ツノ利益ヲ受ケタ。即チ我々ハ上官トシテ将校(准尉欠)下士官(曹長欠)ヲ戴クノミデ、カノ班内ノ暴君上等兵ヲ持タズニ済ンダコトデアル。住地ニツクト下士官ハ別室ニ集マッタカラ、我々ハ少クトモ班内デハ平等デアッタ。
 カツ中隊長ノ方針デ我々ノ教育(我々ハ前線ニ着イテモナオ教育中ト見做サレタ)ハカナリ寛大ナモノデアッタ。頬打(ビンタ)ハメッタニ行ナワレズ、演習モ必要以上ノ過激ニ至ラナイ。
     大岡昇平 「西矢隊始末記」 『俘虜記』所収 新潮文庫 昭和42年(原著は昭和27年刊)

 

 昭和19年7月、フィリピンでの話である。「兵ノ三分ノ二ガ昭和七年徴集ノ三十四、五歳、三分ノ一ガ昭和十八年徴集ノ二十一歳の補充兵デアッタ」中の、35歳の補充兵の一人が大岡であった。三十代半ばの兵士が最前線に送られるというのは、それだけで軍事的に追いつめられた事態を意味しているのだが、到着したフィリピンでの大岡が、

  班内ノ暴君上等兵ヲ持タズニ済ンダコト

  我々ハ少クトモ班内デハ平等デアッタ

  頬打ハメッタニ行ナワレズ

…と記していることの意味を、ここでは味わっておきたい。

 つまり大岡の記述から反語的に読み取れるのは、「班内ノ暴君上等兵」の存在により、「班内デハ平等」であることはなく、「頬打」が頻繁に「行ナワレ」ている状態が基本であった、皇軍内の初年兵の日常なのである(註:1)。

 つまりそこでは、「なぐられ蹴られる」のも日本人なら、「なぐったり蹴ったり」するのも日本人なのであった。

 帝國陸軍をめぐり、兵隊の経験のある世代には当たり前の話題として語られていた「内務班」での凄惨な「しごき」や「私的制裁」を体験談として聞く機会が失われつつある現在であるからこそ、かつての日本の軍隊内の日常風景を大岡や会田の記述から読み取る力をなくさないようにしたい。

 

 

 

 「大日本帝國の統治下・占領下に置かれた人々」への日本人の態度を考える上で、大岡がフィリピンへと送られたのと同じ昭和19年に刊行された、日本放送協会編の『日本教育の道統』(日本放送出版協会 昭和十九年十月二十日発行)を読んでおくことにしよう。

 読むのは同書に収録された、幣原坦文学博士による「大東亜建設と次代育成」と題された文章である。大東亜戦争下、博士の問題意識は、

 

 かやうに、何れの地域においても、今日は皆日本の方を向いてをる。これ一には、日本の武力に信頼するの外がないことを知つてをるのと、また一には、米英蘭等の圧迫搾取の悪夢より覚めたのとに依るのであらう。然し彼等は、たとひこの悪夢より覚めたとしても、日本人が果して、米英蘭に優つてゐるや否やと、事毎に比較して、注意の眼を見張つてゐる。原住民は、概して単純で、而も着目の鋭いことは、恰も小児の場合と同じであるから、目の当り日本人が、過去の英米蘭に優つてゐるならば、いつ迄もこちらを向いてゐるけれども、若しこれに劣つてゐると見たならば、何時あちらを向いてしまうか、知れない状態である。
 いかなる事があつても、大東亜の新建設は、わが国民の総力を以て完成しなければならぬのであるから、次代の育成も、またこの線に沿ひ、決戦体制に則つて、皇軍と一体となり、この大戦に勝ちぬいて、建設の大業を遂げ、民族指導の大試験に及第せなばならぬ立場は、抜き差しならぬ所である。国民教育者も、最早旧体制の観念論や、教科書の内容を図解することなどに浮身をやつすやうな、上滑りに終始すべきでなく、次の代に、道義亜細亜の建設者として立たしめる青少年の練成には、より深刻にして、より底力ある、準備をなさしめる必要があるであらう。その日常の生活に具現せられる準備は、眼前の事実を通じて為されるのではあつても、着眼の処は、素より高所大局にあるべきである。

 

…というものであった(もちろん、オリジナルは旧字体表記である)。

 大東亜戦争の開戦により、「日本の武力」は、アジア地域を「米英蘭等の圧迫搾取の悪夢」から解放したわけだが、そのアジアの、

  原住民は、概して単純で、而も着目の鋭いことは、恰も小児の場合と同じであるから、目の当り日本人が、過去の英米蘭に優つてゐるならば、いつ迄もこちらを向いてゐるけれども、若しこれに劣つてゐると見たならば、何時あちらを向いてしまうか、知れない状態…

…にあるというわけだ(幣原博士の記述の背景となっているのは、南方での「原住民」に対する占領統治の経験である)。そこに、

   いかなる事があつても、大東亜の新建設は、わが国民の総力を以て完成しなければならぬのであるから、次代の育成も、またこの線に沿ひ、決戦体制に則つて、皇軍と一体となり、この大戦に勝ちぬいて、建設の大業を遂げ、民族指導の大試験に及第せなばならぬ立場は、抜き差しならぬ所…

…であるとの、次世代教育という課題への認識が生まれる。その先で幣原博士は、

  我々は、国体の精華を凝視し、皇民の本分に徹し、中外に施して悖らざる大道を邁進するあるのみであるが、更にわが国の現状において、大東亜建設の為に、各地域の民族に臨む準備としては、差向き左の如き修練を以て、青少年の習慣性としたいと思ふのである。

…と十項目の提言をしているが、その中にある、

  一 国民の品位を墜さぬこと―このことは米英蘭も、最も注意してゐた。彼等は、人の見ていない所では可なり悪いことを行ふが、人の面前にては、自戒自粛して醜態を暴露せず、どこまでも自分等は、上等な国民であると見せかけてゐた。我々日本人は、露骨にして裏表のないのは一面美点ともいへるが、行儀が悪くして、原住民の反発をかひ、甚しきは原住民との間に殺傷事件を生ずることは、南方から帰った人々が、異口同音に唱ふる所である。三百年前、礼儀の民として賞賛を受けた国民が、今俄にかく変化したとは考へられないところである。恐らく他の住民を軽く見る結果かと思はれる。何れにしても、次代の育成上、考慮すべきことであると思ふ。

  三 生活安定の注意―何れの処とても同様であるが、特に原住民の場合においては、先づ以て生活を安定せしめるのが要件である。彼らの信仰慣習を無視したり、一個人の感情を以て彼らを苦しめたりすることなく、而して、衣食住の満足を得しめる工夫をしてやるのが大切である。

  八 小事を忍んで、大事を決行する勇気―小事に腹を立てて、個人の感情を以て人の頭を打つやうなことは、我々日本人の間に少なくない。原住民の多くは、人の霊が頭の中に宿ると信じてゐるから、頭を打たれることは、殺されるに等しいと思つて反抗する。何分にも小事に気を取られることなく、而も東亜建設の為に為さねばならぬ大事は、何の躊躇もなくこれを断行する勇気を要する。次代育成の為には、幼き時より、小事と大事とを見極める見識を養つておく必要がある。

…といった「次代育成」・「青少年の練成」の要点には、反語的に、大東亜諸地域における日本人の振る舞いの実状が反映されていることに気付いておくことは重要である。幣原博士は、控えめな表現ながら、

  行儀が悪くして、原住民の反発をかひ、甚しきは原住民との間に殺傷事件を生ずることは、南方から帰った人々が、異口同音に唱ふる所

  彼らの信仰慣習を無視したり、一個人の感情を以て彼らを苦しめたりすること

  小事に腹を立てて、個人の感情を以て人の頭を打つやうなことは、我々日本人の間に少なくない

…などの事象(註:2)を、南方での日本の占領統治の際に噴出した「我々日本人」の問題点として指摘しているのである。博士にとってそれらの諸点が、「我々日本人の間に少なくない」・「南方から帰った人々が、異口同音に唱ふる所」(註:3)として問題視されているというところに、私たちは留意しなければならない(博士は特殊な事例としてではなく、一般的に観察される問題として提示しているのである)。

 博士は、まさに「日本人がよくやったような、なぐったり蹴ったりの直接行動」に心を痛めているのだ(註:4)。

 

 

 

 

(註:1)
 飯塚浩二 『日本の軍隊』(岩波同時代ライブラリー 1991)には、

小林 軍隊の中でも、上等兵というのが殴るね。内務班において。
多米田 それはこうなんです。一つの階級的組織に入っておりますから、将校が直接兵隊を殴るということは一番少ない。将校はむしろ下士官を殴り、下士官は上等兵くらいまで殴る、上等兵は直接兵隊を殴る、将校が兵隊を殴るというのは、非常に特別な場合なんですね。将校はある程度おうようにしておるわけなんで、その代わり下士官をしぼり、下士官は上等兵を、上等兵は兵隊を、兵隊はどこにも当たるところがないから馬に当たるとか。(笑声)
小林 ですから、厩を見て馬が非常に荒れている、または馬にきずのある中隊に、だいたい制裁が盛んだというようなことがいわれますね。(笑声)

…という座談の記録が残されている。
 原著書は1950年、東大協同組合出版部刊、つまり玉音放送から五年という早い時期の出版物であり、「昔話」としてではなく、まさに同時代の体験として語られているのである。ちなみに、発言者は、

 小林順一 経済学士 陸士五六期
 多米田宏司 経済学士 陸士五五期(幼年学校)

…という経歴の持ち主である。

(註:2)
 「聖戦一年を顧て」と題された望月重信少尉の執筆記事が、第十四軍機関紙『南十字星』(昭和17-1942-年12月)に収録されている。望月少尉もその一員として体験した日本軍によるフィリピンの占領統治は、

 一部の不心得の〇〇の中には、戦場に於いてあれほど立派に戦い抜いた神兵の本性を忘却して、無辜の良民に些細な事柄にて平ビンタを喰わせたり、甚しきは一函の中に半分丈しかない煙草を一函分として無力な比島人に売りつけたものがある。マニラ市の或る地点の歩哨にして、教会に通ふ婦女子に幾遍も敬礼を強要し、其の挙句に鼻先をつまんで戯れて居つたものがある。甚しき者に至つては、婦女子に強姦を敢行してあたら軍人の誉れを失ひ、罪人の汚名を負ふて身を獄中に置いてゐるものがある。

…と記さざるを得ないものであった。
 この記事が第十四軍機関紙に掲載されている事実に、私たちは希望を見出すべきだろうか? 少なくとも、占領統治の実状から眼を逸らそうとしなかった陸軍関係者が存在したという意味において。
 (この望月少尉の文章は、津野海太郎 『物語・日本人の占領』(平凡社ライブラリー 1999)に収録されたものを使用した)

(註:3)
 鶴見俊輔は、かつての海軍バタビア在勤武官府での勤務経験を振り返り、

  昭和十年代に日米戦争が始まって南洋に出て行く。ジャワで日本語をしいたら、土地の人は愉快じゃないですよ。酔っぱらうと殴ったり、いい関係が出来るわけはないですよ。オランダ人は自分たちはえらいと思ってるから、酔っぱらって殴るようなことはしない。逆に日本軍は人力車で行って、「おれたちはおまえたちより白い。同格じゃないんだ」といって殴る。「土人と一緒にされてたまるか」ということです。

…と、当時の経験を要約している
 (鶴見俊輔 『期待と回想』 朝日文庫 2008)

(註:4)
 もちろん、すべての日本人が「なぐったり蹴ったり」に憂き身をやつしていたわけではない。
 大岡昇平自身、

 無論中には遅れた昇進、その他によって意地悪になった古兵もいたが、旧日本軍隊の兵士が悉く悪漢であったかの如く想像するのは、丁度前線で一部の者の犯した惨虐を見て、日本兵を悉く人でなしと空想するのと同じく事実と符合しない。
 もっとも私がここで兵士というのは、文字通りに兵を指すのであって、下士官は含まない。これは既に軍隊内のその位置に快適を感じ、自己の個人的幸福のためにも、この組織を支持する意識を持ったエゴイストである。彼等は特権によって誘惑された者共であり、特権ある者は常に堕落するのである。
          「季節」 『俘虜記』 208~209頁

…と書いている通りで、あくまでも、

  旧日本軍隊の兵士が悉く悪漢であったかの如く想像するのは、丁度前線で一部の者の犯した惨虐を見て、日本兵を悉く人でなしと空想するのと同じく事実と符合しない。

…ということなのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/02/28 17:38 http://www.freeml.com/bl/316274/159116/

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2011年2月18日 (金)

会田雄次 『アーロン収容所』を読む 2 (ビルマで英軍に捕虜となったものの実状)

 

 会田雄次は、『アーロン収容所』の「まえがき」に、

 

 この経験は異常なものであった。この異常ということの意味はちょっと説明しにくい。個人の経験としても、一擲弾筒兵として従軍し、全滅に近い敗戦を味わいながら奇蹟的にも終戦まで生きのび、捕虜生活を二年も送るということも異常といってよいかもしれない。異常といえば、日本軍が敗戦し、大部隊がそのまま外地に捕虜になるということ自体が、日本の歴史始まって以来の珍しいことである。
 だが私がここで異常というのは、もう少し別の意味においてである。捕虜というものを私たちは多分こんなものだろうと想像することができる。小説や映画やいろいろの文書によっても、また、日本軍に捕らえられたかつての敵国の捕虜の実際を見ることによっても、いろいろ考えることができる。私たちも終戦になったとき、これからどういうことになるだろうかと、戦友たちと想像しあった。ところが実際に経験したその捕虜生活は、およそ想像とかけちがったものだったのである。
 想像以上にひどいことをされたというわけでもない。よい待遇をうけたというわけでもない。たえずなぐられ蹴られる目にあったというわけでもない。私刑(リンチ)的な仕返しをうけたわけでもない。それでいて私たちは、私たちといっていけなければ、すくなくとも私は、英軍さらには英国というものに対する燃えるような激しい反感と憎悪を抱いて帰ってきたのである。異常な、といったのはそのことである。
 ビルマで英軍に捕虜となったものの実状は、ほとんど日本には知られていない。ソ連に抑留された人びとのすさまじいばかりの苦痛は、新聞をはじめ、あらゆるマスコミの手を通じて多くの人びとに知られている。私たちの捕虜生活は、ソ連におけるように捕虜になってからおびただしい犠牲者を出したわけでもなく、大半は無事に労役を終わって帰還している。だから、多分あたりまえの捕虜生活を送ったとして注目をひかなかったためもあろう。抑留期間も、ながくて二年余でしかない。そのころは内地の日本人も敗戦の傷手から立ち直るためにのみ夢中のときである。人々の関心をほとんどひかなかったとしても無理はない。

 

…と、書いている(註1)。

 これを読むと、前回のイラワジ河の鉄道隊の人びとの姿は、英軍による捕虜の取り扱いの実際という意味では、むしろ例外的な事例として考えるべきものであることが、あらためてよくわかるだろう。

 英軍の下に経験された会田雄次の捕虜生活は、

 
  想像以上にひどいことをされたというわけでもない。

  よい待遇をうけたというわけでもない。

  たえずなぐられ蹴られる目にあったというわけでもない。

  私刑(リンチ)的な仕返しをうけたわけでもない。

  私たちの捕虜生活は、ソ連におけるように捕虜になってからおびただしい犠牲者を出したわけでもなく、大半は無事に労役を終わって帰還している。

  抑留期間も、ながくて二年余でしかない。

 
…と要約されるものだったのである。

 まず、その点を再確認しておきたい。会田雄次の「英軍さらには英国というものに対する燃えるような激しい反感と憎悪」は、暴力的な捕虜虐待によって生まれたものではない、ということなのだ。

 
 

 会田のこの文章が書かれたのは1962年のことだ。まだ敗戦(当時の感覚では「終戦」と書くべきか)から17年のことであり、20代後半以上の世代(それが読者層として期待されていた人々だろう)には、戦時の記憶も当事者としてのもの(つまり、「あの戦争」の「戦争体験者」世代だ!)なのである。文中に、

  捕虜というものを私たちは多分こんなものだろうと想像することができる。小説や映画やいろいろの文書によっても、また、日本軍に捕らえられたかつての敵国の捕虜の実際を見ることによっても、いろいろ考えることができる。

…とあるように、「日本軍に捕らえられたかつての敵国の捕虜の実際を見ること」が、読者にも共有され得る体験として想定されているのである。その時代性は、書中での、皇軍内での日常的な暴力行使の実状(そこでは上級者と下級者の関係が、暴力行使の非対称性により再確認され続けるのである―下級者は一方的に殴られ続けられる存在だ)に対する記述の少なさにも帰結しているはずである。つまりそれ(皇軍の暴力性)は、読者にも常識として共有されていることが期待されている種類の(わざわざ言うまでもない)経験なのである。

 ここで会田雄次は、「捕虜というものを私たちは多分こんなものだろうと想像することができる」と書き、その「想像」の可能性の根拠として、「日本軍に捕らえられたかつての敵国の捕虜の実際を見ること」という自身の経験的な知識=捕虜認識を据えているわけだ(繰り返すが、その種の「認識」が読者にも共有されているものとして、つまり自明の前提・世代的常識として、この「まえがき」が書かれていることには留意しておきたい)。その上で、

  私たちも終戦になったとき、これからどういうことになるだろうかと、戦友たちと想像しあった。

  ところが実際に経験したその捕虜生活は、およそ想像とかけちがったものだったのである。

…と、日本軍による連合軍捕虜の取り扱いの実際から想像していた自身の捕虜生活の想定と、実際の捕虜生活が大きくかけ離れたものであったことを語っているわけである。

 繰り返すが、実際の捕虜生活は、事前の想像とは大きく異なり、

  想像以上にひどいことをされたというわけでもない。

  よい待遇をうけたというわけでもない。

  たえずなぐられ蹴られる目にあったというわけでもない。

  私刑(リンチ)的な仕返しをうけたわけでもない。

…として要約されるものなのであった(註2)。

 

 『アーロン収容所』というと、そして英軍による捕虜の取り扱いという話題となると、ネット上に拡散している、あのイラワジ河の鉄道隊の悲惨なエピソードが思い浮かべられてしまうようになってしまっているが、あの鉄道隊兵士の姿は、あくまでも例外的なものだったことを、会田雄次自身の記述から読み取っておかなければならないのである。

 

 
 会田の抱いた「英軍さらには英国というものに対する燃えるような激しい反感と憎悪」の根底となったのは、英軍による(「たえずなぐられ蹴られる」というような)暴力的な取り扱い(それは皇軍内では日常であった)などではなく、むしろ恒常的なプライドの侵害の問題だったのである(つまり、精神的なものだ)。対等な人間として取扱われることのない経験なのであった(註3)。

 日本人もまた、朝鮮人、支那人、満人…といった、大日本帝國の統治下・占領下に置かれた人々を対等な存在として取扱おうとはしなかったが、そこでの日本人の優位は、恒常的・直接的な暴力(殴る日本人である)によって示されるものであった。つまり、そこでは、暴力行使の非対称性が、支配関係の優劣を明示するのである(常に殴られる側と常に殴る側の関係として)。

 それに対し、英国人は日本人捕虜に対する直接的な暴力行使はしない。そこでは(彼らにとって)支配関係の優劣は自明なものなのであって、その都度の暴力行使によって再確認される必要さえないものとして取扱われているわけである。支配者としての英国人の地位は自明のことなのであって、日常的な暴力行使による再確認は必要とされていないのだ。圧倒的な優位の感覚は、暴力による再確認など必要としないのである。

 会田雄次が、とことん思い知らされたのは、そのような構図なのであった。殴られもしないのは、そこではむしろ、対等な存在ではない証なのである(註4)。

 

 
 
 

(註1)
 「まえがき」の文章は、

 だが、私はどうにも不安だった。このままでは気がすまなかった。私たちだけが知られざる英軍の、イギリス人の正体を垣間見た気がしてならなかったからである。いや、たしかに、見届けたはずだ。それは恐ろしい怪物であった。この怪物が、ほとんどの全アジア人のすべての不幸の根源になってきたのだ。私たちは、それを知りながら、なおそれとおなじ道を歩もうとした。この戦いに敗れたことは、やはり一つの天譴というべきであろう。しかし、英国はまた勝った。英国もその一員であるヨーロッパは、その後継者とともに世界の支配をやめてはいない。私たちは自分の非を知ったが、しかし相手を本当に理解しただろうか。

…と続く。
 つまり、会田雄次は「植民地解放戦争」であったなどという理屈による「大東亜戦争」の正当化はしていない。会田にとっての大日本帝國は、

  私たちは、それを知りながら、なおそれとおなじ道を歩もうとした。
  この戦いに敗れたことは、やはり一つの天譴というべきであろう。

  私たちは自分の非を知ったが…

…という存在(大英帝国の模倣者であり、模倣の失敗者)なのである。

 ちなみに、アジア・アフリカ諸地域が植民地宗主国からの独立を果たしつつあったのは、『アーロン収容所』出版の同時代の出来事である。

  しかし、英国はまた勝った。英国もその一員であるヨーロッパは、その後継者とともに世界の支配をやめてはいない。

…とは、ヨーロッパに植民地保有国が残存する当時の世界の現実なのであり、比喩的な表現などではない。

(註2)
 もちろん、あくまでも「よい待遇をうけたというわけでもない」のであって、会田は次のように書いている。

 英軍はこのような危険な作業を他にも平気でやらせた。健康上からいっても耐えられないほどの連続重労働を課した。しかし、奇妙なことにケガ人や病人は日本の軍隊よりずっと大切にしてくれたような気がする。ご自慢のビタミンC錠を師団全員に毎日のませてくれたこともある。私がケガしたときも自動車を特に出してくれた。このきわ立った対照には兵隊たちみんなが気がついていた。
               (50頁)

 前にものべたように、日本人とイギリス人―ヨーロッパ人とどちらが残虐であるか、どちらがより正しいかを決める共通の尺度はないと思う。日本軍捕虜に対する英軍の待遇のなかにも、私たちには、やはり、これはイギリス式の残虐行為ではないかと考えられるものがある。そして、英軍の処置のなかには、復讐という意味がかならずふくまれていた。
 問題はその復讐の仕方である。日本人がよくやったような、なぐったり蹴ったりの直接行動はほとんどない。しかし、一見いかにも合理的な処置の奥底に、この上なく執拗な、極度の軽蔑と、猫がネズミをなぶるような復讐が込められていたように思う。
               (62~63頁)

 英軍は、確かに「健康上からいっても耐えられないほどの連続重労働を課した」が、しかしそこには、「日本人がよくやったような、なぐったり蹴ったりの直接行動はほとんどない」というのが、会田雄次の経験したところなのである(「日本人がよくやったような、なぐったり蹴ったり」という表現の存在には留意しておきたい)。

(註3)
 「女兵舎の掃除」と題されたエピソードに描かれた事例は有名だろう。

 私たちが英軍兵舎に入るときは、たとえ便所であろうとノックの必要はない。これが第一いけない。私たちは英軍兵舎の掃除にノックの必要はなしといわれたときにはどういうことかわからず、日本兵はそこまで信頼されているのかとうぬぼれた。ところがそうではないのだ。ノックをされればとんでもない格好をしているときなど身仕度をしてから答えねばならない。捕虜やビルマ人にそんなことをする必要はないからだ。イギリス人は大小の用便中でも私たちが掃除しに入っても平気であった。
               (37~38頁)

 その日、私は部屋に入り掃除をしようとして驚いた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。…
 入ってきたのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげ大変な騒ぎになったことと思われる。しかし日本人だったので、彼女らはまったくその存在を無視していたのである。
               (39頁)

(註4)
 大陸や南方で、日本人はレイシストとして現地住民を差別的に取扱った。

 その日本人が、レイシストとしての英国人にどのように取扱われたのか?

 それが、『アーロン収容所』の主題であった。

…ということで、会田の著書を要約することは妥当に思われる。

 会田雄次の抱いた「英軍さらには英国というものに対する燃えるような激しい反感と憎悪」は、私たち日本人の想像力を超える様態を示した英国人の人種差別主義的振る舞いを前にして、実に正当なものである。
 しかし、私たちには、「日本人がよくやったような、なぐったり蹴ったりの直接行動」が英国人の振る舞いに比べれば人種差別的ではないので甘受するべきだ、と主張することも出来ないのである(相手が英国人であろうが、支那人であろうが、朝鮮人であろうが、つまり誰を相手にしてであろうが)。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投降日時 : 2011/02/18 19:00 → http://www.freeml.com/bl/316274/158443/

 

 

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2011年2月16日 (水)

会田雄次 『アーロン収容所』を読む 1 (イラワジ河の鉄道隊)

 

 

 二十一年の初秋ごろだったか、雨季あけの心地よい季節であるのに、私たちの隊は特に憂鬱だった。じつに嫌な仕事が廻ってきたのである。兵隊たちの言葉でいえば隠亡(おんぼ)作業、つまり英軍墓地の整理である。
 終戦前後からそのころまで続々戦傷戦病死するイギリス人やインド人は、仮墓地に応急的に埋葬された。それが不規則で乱雑だったので、整頓することになったのであろう。
 私たちに与えられたのは、棺を掘り出し、別の場所へ移す仕事である。…
 …
 ほとんどの死体は腐乱最中である。…
 この作業のとき、私は奇妙な一群を見た。インド兵のような服装をした日本兵の集団で、私たちと同じ作業をしている。なぜか私たちを避けている。ものも言わない。やがて私たちは気がついた。戦時中の捕虜、投降者たちである。それは、捕虜(キャプチュアード)、または戦争捕虜(プリゾナー・オブ・ウォー)、(戦犯者クライムドではない)として私たち降伏軍人(サレンダー・パーソネル)、被武装解除人(ディスアームド・ミリタリー・パーソネル)から区別され、チャンギーの監獄に収容されている人々であった。
 私は、行き会った一人に「やあ」と声をかけてみた。顔をそむけて応答をしてくれなかった。
「話しようと思っても物を言ってくれないな。気の毒だから無理に話しかけることはしないけれど、ひどくひがんでいる」
と小隊長は言った。日本軍の教育はおそろしい。「捕虜」たちは、戦争が終わったその時でも、私たちが軽蔑の目で見ているとうたがい、全身でそれに反發している。しかも自分を恥じている。私たちは、自分たちを立派だとは思っていない。ことにろくろく戦闘もしなかった私など威張れるわけがない。しかし、こういう人たちを目の前にすると正直なところ、おれは投降はしなかったという気分がわき、優越者みたいな気になるのを抑えきれなかった。
 しかし、とうとう一人の人と話すようになった。関東の人で、名も所属も言わない。歯切れのよい東京弁で率直な感じである。
「私はミッチーナで重傷を負い、倒れていて英軍に収容されました。意識を失っていて収容されたのです。でも、それはどうでもよいのです。私たちは帰れないかもしれません。ですから、この話だけはしておきたい。日本の人に知らせて下さい」
「英軍はひどいことをします。私たちは、イラワジ河のずっと河下の方に一時いました。その中洲に戦犯部隊とかいう鉄道隊の人が、百何十人か入っていました。泰緬国境でイギリス人捕虜を虐待して大勢を殺したという疑いです。その人たちが本当にやったのかどうかは知りません。イギリス人はあの人たちは裁判を待っているのだと言っていました。狂暴で逃走や反乱の危険があるというので、そういうところへ収容したのだそうです。でもその必要はありませんでした。私たちは食糧が少なく飢えに苦しみました。ああ、やはりあなたたちもそうでしたか。あの人たちも苦しみました。あそこには”毛ガニ”がたくさんいます。うまい奴です。それをとって食べたのです。あなたもあのカニがアミーバ赤痢の巣だということを知っていますね。あの中洲は潮がさしてくると全部水に没し、一尺ぐらいの深さになります。みんな背嚢を頭にのせて潮がひくまで何時間もしゃがんでいるのです。そんなところですから、もちろん薪の材料はありません。みんな生まのままで食べました。英軍はカニには病原菌がいるから生食いしてはいけないという命令を出していました。兵隊たちも危険なことは知っていたでしょう。でも食べないではいられなかったのです。そしてみんな赤痢にやられ、血便を出し血へどを吐いて死にました。水を呑みに行って力つき、水の中にうつぶして死ぬ、あの例の死に方です。監視のイギリス兵はみんなが死に絶えるまで、岸から双眼鏡で毎日観測していました。全部死んだのを見とどけて、『日本兵は衛生観念不足で、自制心も乏しく、英軍のたび重なる警告にもかかわらず、生ガニを捕食し、疫病にかかって全滅した。まことに遺憾である』と上司に報告したそうです。何もかも英軍の計画どおりにいったというわけですね」

     会田雄次 『アーロン収容所』 中公文庫 1962 64~67頁

 

 

 

…というのは、英軍による捕虜虐待例として(特にネット上で「拡散」され)有名になった話である。

 確かにひどい話なのだが、会田雄次の文章は、次のように続いてもいる。

 

  とにかく英軍は、殴ったり蹴ったりはあまりしないし、殺すにも滅多切りというような、いわゆる残虐行為はほとんどしなかったようだ。…

 

 ここで「殴ったり蹴ったり」、あるいは「滅多切りというような、いわゆる残虐行為」として比較対象となっているのは、日本軍による所業(会田雄次にとって、「蹴ったり殴ったり」は日本軍の行為として自明の前提だ)である。そのことは忘れない方がよいだろう(註1)。

 
 

 会田雄次自身は、「終戦後」に降伏したので(当人の言葉によれば)「降伏軍人(サレンダー・パーソネル)、被武装解除人(ディスアームド・ミリタリー・パーソネル)」と呼ばれるカテゴリーに属していた(これは国際法上の「捕虜(俘虜)」とは異なる取り扱いとなるが、日本軍側も同意していたようである)。ここではカテゴリー間の相違の詳細は述べないが(註2)、会田に話をした「関東の人」は「戦争捕虜(プリゾナー・オブ・ウォー)」に分類され、これは国際法上の「捕虜」という扱いになる。イラワジ河の中洲に「収容」され、「衛生観念不足で、自制心も乏しく、英軍のたび重なる警告にもかかわらず、生ガニを捕食し、疫病にかかって全滅した」のは「戦犯部隊とかいう鉄道隊の人」(つまり「戦犯者クライムド」)であり、ここに登場する三者は同列の存在ではないことには留意すべきであろう。

 英軍の行為は正当なものとは言えないだろうが、イラワジ河の中洲で「全滅した(させられた)」のは、「泰緬国境でイギリス人捕虜を虐待して大勢を殺したという疑い」のある部隊、つまり英軍捕虜虐待を実行した(とされる)部隊の隊員なのであって、「戦争捕虜(プリゾナー・オブ・ウォー)」あるいは「降伏軍人(サレンダー・パーソネル)、被武装解除人(ディスアームド・ミリタリー・パーソネル)」に対する処遇であったわけではないということなのである。

 そのニュアンスの違い(そこには異なる処遇がある)を読み落としてしまうと、歴史的事実の理解としては不十分なものとなってしまうだろう。降伏した日本軍人・兵士一般に対する取り扱いが、あの「鉄道隊の人」へのもの同様であったというわけではないのである。

 イラワジ河の中洲で展開されたのは、単なる日本軍捕虜虐待なのではなくて、かつての英軍捕虜虐待者に対する「復讐」なのだ(註3)。

 
 
 

(註1)
 会田雄次は、支那事変に従軍してはいないし、占領軍として住民統治に携わってもいないし、連合軍捕虜の取り扱いに従事した経験もない、教育召集からそのままインパール作戦直前のビルマに送り込まれた人物だ。
 つまり、皇軍の「残虐行為」の舞台とされる場とは(あまり)縁なく過ごしたと思われる人物である。皇軍の兵営内での下級者に対する暴力行使は、会田の当事者としての日常的経験であったにせよ、戦場での残虐行為の当事者であった経験は語られていない。
 『アーロン収容所』を読む際には、その点にも留意すべきであろう。日本軍の残虐行為・捕虜虐待に当事者として関係した人物に比べて、英軍人の持つ復讐感情への理解・想像力は低いものとなるであろうから、英軍による取り扱いは、より不当なものとして感じられたはずなのである。

(註2)
 「戦争捕虜(プリゾナー・オブ・ウォー)」はPOWと略記され、戦時国際法規としてのハーグ条約に基づく地位(捕虜・俘虜)が与えられ、「戦犯部隊とかいう鉄道隊の人」は、ハーグ条約の違反者=戦争犯罪の容疑者(戦犯者クライムド)として取扱われており、どちらの地位も国際法に基づくものである。
 それに対し会田雄次がその一員であった「降伏軍人(サレンダー・パーソネル)、被武装解除人(ディスアームド・ミリタリー・パーソネル)」は、公式には「降伏日本軍人・Japanese Surrendered Personnel(略称・JSP)」と呼ばれる存在であった。戦時国際法上には存在しない地位であるが、国際法上の「捕虜(俘虜)」と異なる「地位」は、「虜囚の辱め」を嫌悪した日本軍人からも歓迎されていた節がある。

 JSP経験者のお一人によれば、

 英軍の公式戦史(''The War against Japan'' Vol,V, HMSO 1969)ではJSP設定の経緯につき、次の記述が見られる。

ALSEA(Allied Land Forces South East Asia)はStaffrd(注:英軍中将、Mountbattenが当時、Potsdam会談に呼ばれていたため、SEACの代行を務めていた)に対し「日本軍をSittang河西側に集結させては給養はできないから、河の東側にとどめ、彼等の補給方法に依存さすべきであり、全面的な現状維持を命令さるべきであるとし、降伏した軍はPOWとせず、’Japanese Surrendered Personnel(JSP) ’と定める。したがって日本軍の維持と軍規は依然として彼等自身の将校の責任である。

と初めてJSPを登場させている。
 このことが示すように、降伏した日本軍をPOWとして直接管理してゆく余裕(人員、予算)がないため、JSPという新しい管理形態を作り、日本軍を間接統治したもの。これは日本軍にとっても戦中の建制が保たれ、隊内の秩序と平和が保たれることになった。

 SEACの方針は「最低限の費用で処理する」、「JSPに敗戦を自覚させるために出来るだけきつい作業をさせる、例えば道路補修」を明示し、更に「戦中の自国民の捕虜、抑留者に対する待遇に対する報復をする」事を暗黙裡に強行した。
 具体的には「日本軍は自活を原則」とした。蓄積の多かったジャワではアデプリン(マラリア特効薬)以外は英軍・オランダ軍より支給されたものは皆無。 「日本軍に敗戦を自覚させるため、出来るだけきつい作業として、炎天下の道路補修、港湾荷役、死体発掘、どぶ川さらいなど」をさせられた。食料は一日1,600-1,800カロリーで、戦争中の半分。これで、炎天下で重労働させるので、事故も多発する。軍司令官が抗議すると「戦中に我々の捕虜にした通りにしている」と取り上げない。赤十字などに頼んでも「無条件降伏だから、国際法の保護が受けれない」といわれた。

…という経緯であったらしい。ちなみに、

  軍司令官が抗議すると「戦中に我々の捕虜にした通りにしている」と取り上げない。

…とあるが、同様のエピソードは、会田雄次自身の経験として書中にも登場する。

(註3)
 この、イラワジ河の中洲でのエピソードは、会田自身の直接の体験による記述ではなくて、関東出身のPOWの兵士からの「伝聞」である点にも留意すべきだろう。
 私は、この話の信憑性について、ありそうな話だと判断しているが、現在のところ、歴史的事実として検証されたという話も聞かない。
 これが「南京事件」に関する話であれば、検証の厳密性を求め、伝聞証言に疑義を表明することに熱意を燃やすであろう人々が、ここでは、平気で、伝聞にとどまる記述をあたかも疑問のない事実であるかのように、ネット上で「拡散」することに熱意を燃やしているのである。
 「復讐」であることが、英軍の行為を正当化するものではないのはもちろんのことである。ただし一方で、日本本土空襲に際し撃墜され捕虜となったB-29搭乗員の処刑・殺害の事実の背後にあったであろう日本人の復讐感情に共感し得るのだとすれば、英軍人の行為も理解の対象とならねばならない。日本人がB-29搭乗員に抱いた復讐感情を当然視し、B-29搭乗員の処刑・殺害を当然視するならば、英軍の行為を非難することは難しくなる。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投降日時 : 2011/02/16 19:36 → http://www.freeml.com/bl/316274/158272/

 

 

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