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2015年9月21日 (月)

飛虎隊(フライング・タイガース)伝説 3

 今回の問題の発端となったネット情報(全文は「飛虎隊(フライング・タイガース)伝説 1」を参照)には、フライング・タイガースについて、

  米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊「アメリカン・ヴォランティア・グループ(American Volunteer Group:略称「AVG」)

…と要約紹介されている。

 前回は、その「一癖も二癖もあったならず者」の一人について、カール・モールズワース『太平洋戦線のP-40ウォーホークエース』(大日本絵画 2002)の記述を読むところで話を終えた。再び引用すれば、

 

 エイジャックス・ボームラー大尉もそのひとりであったが、米義勇航空群に送られた他の操縦者とは違って、かれには戦闘経験があった。まず1930年代中盤、米陸軍航空隊に奉職、その後退職して1936~1937年、スペインで人民戦線の戦闘機乗りとして飛んだ。前線での7カ月間で、撃墜4.5機を報じた後、ボームラーは帰国し米陸軍航空隊に復職した。1941年、米義勇航空隊に参加するため、ふたたび辞職しようとしたが、中国に向かう最初の試みは真珠湾攻撃によって妨げられ、かれは陸軍航空隊に戻った。しかし、かれはまだ紙上の存在でしかなかった第23戦闘航空群の隊員として、まんまと中国への派遣割り当てを獲得した。1942年5月、ボームラーはとうとう昆明に到着し、翌月、もっと東にある米義勇航空隊の基地、衡陽へと向かった。
     (11ページ)

 

 

 もちろん、あくまでも「このような隊員もいた」ということであって、ボームラーが隊員を代表するというわけではない。しかし、ボームラー大尉は、この時代(1930年代後半から40年代の初め)の時代相を見事に反映した人物であるようにも思われる。

 「1936~1937年、スペインで人民戦線の戦闘機乗りとして飛んだ」経歴と、1941年に「米義勇航空隊に参加」しようとし、1942年に実際に隊員となった経歴には、時代の中での一貫性があると言わねばならない。1936~1937年のスペインで、独伊の援助を受けたフランコと闘うために「人民戦線の戦闘機乗りとして飛んだ」経歴と、1941年の中国で、独伊の同盟国である日本の軍隊と闘う国民政府のための「米義勇航空隊に参加」した経歴の持つ「一貫性」の問題である。

 

 その「一貫性」について考えるために、もう一人の戦闘機パイロットの姿を見ることにしたい。

 そのために開くのは、ロベルト・グレツィンゲル/ヴォイテック・マトゥシャック『第二次大戦のポーランド人戦闘機エース』(大日本絵画 2001)のページである。

 

 ポーランド人は、ドイツ及びイタリアとはヨーロッパと地中海のほとんどあらゆる前線で戦っていたが、3番目の枢軸国にはずっと少ない注意しか払われなかった。事実、ポーランドを代表して日本との戦いに実際に参加した人間は、たったひとりだけだった。
 1942年6月以来、ヴィルトウッド・ウルバノヴィッチュ少佐はワシントンでポーランド大使館付空軍武官補佐官を勤めていた。そこで彼はコシチュッシコ飛行隊の創設者で、1940年に英国で会ったことのあるクーパー大佐に再会した。中国でアメリカ人義勇兵グループ(American Volunteer Group : AVG)「フライング・タイガース」の創設を手伝ったことのあるクーパーは、ウルバノヴィッチュを同部隊の司令官シェンノート将軍に紹介した。ウルバノヴィッチュはシェンノートに対し、AVGで飛んでみたいという希望を表明し、1943年も遅くになって、彼は中国に送られた。公式には、地上作戦への空からの支援について実戦経験を得るためというのが理由だった。はじめは呈貢の第16戦闘飛行隊と昆明の第74戦闘飛行隊で、それから衡陽の第75戦闘飛行隊に移り、1943年の11月から12月にかけて、ウルバノヴィッチュは12回の作戦に出動した(飛行時間にして約26時間)。
 1944年1月11日、シェンノート少将はウルバノヴィッチュに航空殊勲賞を授与した。その勲記には中国での彼の活動が簡潔に述べられている。
 「1943年10月23日から12月15日までのあいだ、ウルバノヴィッチュ少佐は在中国アメリカ陸軍航空隊に志願して参加し、空中戦において賞賛すべき業績をあげた。この期間中、少佐は戦闘機操縦士として低空地上攻撃、爆撃、および空中護衛任務に約34時間飛行した。大部分は洞庭湖地域で日本軍に圧迫された中国軍地上部隊を空から支援するための任務であった。1943年12月11日、少佐は基地へ戻る途中の日本軍機編隊に対する攻撃に参加し、続いて起きた空戦で敵戦闘機2機を撃墜した。軍務全期間を通じて、少佐は敵をものともせぬ勇気と優れた戦闘技術を発揮した。その戦いぶりは少佐自身のみならず、ポーランド軍、またアメリカ軍の名誉の記録となるものであった」
     (68~69ページ)

 

 

 ドイツに(そして続いてソ連に)、ウルバノヴィッチュの祖国が侵略されたのは1939年のことであり、以来ウルバノヴィッチュの祖国は占領下にあった。

 日独伊による三国同盟は、ポーランド人ウルバノヴィッチュにとって、祖国ポーランドを侵略し占領した国家との「同盟」を意味するのである。「3番目の枢軸国」の軍隊と現に戦っている中国のために、「在中国アメリカ陸軍航空隊に志願して参加」することは、ウルバノヴィッチュにとって「理に適った」行為であったに違いない(ただし、ウルバノヴィッチュが「志願して参加」したのは、退役米陸軍大尉シェンノート(シェノールト)のAVGではなく、米軍に編入後のシェンノート将軍指揮下の「在中国アメリカ陸軍航空隊」なのである―引用記事では、その点が曖昧なので注意が必要であるが、枢軸国対連合国の構図がウルバノヴィッチュの動機の底流にあることへの理解を持つことが、ここでは重要なのである)。

 

 スペイン戦争、支那事変、そしてヨーロッパの戦争、そしてアジア太平洋での戦争。そこに一貫する対立軸の存在が、エイジャックス・ボームラー大尉そしてヴィルトウッド・ウルバノヴィッチュ少佐とクレア・リー・シェノールト(シェンノート)のフライング・タイガースを結びつけていたことに気付くことで、日中・日米という対立軸のみで問題を考えようとしてしまう視野狭窄状態から逃れることが可能になるはずだ。

 そして、フライング・タイガースの戦闘機パイロットについて、「一癖も二癖もあったならず者」としてだけ語ることがどこまで適切であるのか? ボームラーの信条、そしてウルバノヴィッチュの心情への想像力を持てれば、彼らを「一癖も二癖もあったならず者」とひとくくりにして断定的に語ることは躊躇するはずである。

 

 

 今や米陸軍の将軍となったシェンノート(シェノールト)から、ヴィルトウッド・ウルバノヴィッチュ少佐に航空殊勲賞が授与されたのは、1944年1月11日のことであった。

 ポーランド人ウルバノヴィッチュの経歴を概観しておこう。ロベルト・グレツィンゲル/ヴォイテック・マトゥシャック『第二次大戦のポーランド人戦闘機エース』(大日本絵画 2001)の記述(79~80ページ)によると、

  1908年 北東ポーランドで生まれる。

  1930年 デンブリンのポーランド空軍士官学校入校。

  1932年 観測兵少尉として任官。第1飛行連隊夜間爆撃中隊に配属。

  1933年 飛行訓練を志願し卒業。第111および第113飛行隊勤務の後、デンブリンの教官となる。

  1939年 デンブリンで第14期クラスの生徒監を勤める。9月にドイツがポーランドに侵攻。生徒の士官候補生を連れてルーマニアに脱出。その後マルセイユに到着。

  1940年 フランス陥落と共に英国に渡り、8月に英国空軍第601飛行隊、そして第145飛行隊に配属される。9月7日、第303飛行隊指揮官となる。「英本土航空戦(バトル・オブ・ブリテン)」で、15機を撃墜。

  1941年 ノーソルト航空団を組織し、指揮官となる。6月に渡米し、PAF(ポーランド空軍)の宣伝ツアーに携わる。

  1942年 6月にポーランド大使館付空軍武官補佐官に任命されるが退屈し、中国での軍務に志願する。

  1943年 10月23日~12月15日、在中国米陸軍航空隊で作戦に参加。

  1944年 ワシントンのポーランド大使館付空軍武官となる。

  1945年 7月、英空軍より「永久休暇」の待遇を受ける。その後ポーランドに帰国するが、共産主義者により誤認逮捕され、米国移住を決意し、米航空宇宙産業の一員となる。

  ポーランドの共産主義体制崩壊後は、度々ポーランドを訪れ、1995年には大将の位を贈られる。翌年に死去する。

…と要約される生涯であった。

 同じPAFで闘い、ポーランドへ戻ったスタニスワフ・スカルスキ少佐は戦後、

 

 対独戦終了後、スカルスキは英空軍から高い地位を提示されたが、ポーランドがすでにソ連の支配下に入っていたにもかかわらず、祖国に帰ることを選んだ。まず初めは、共産党員が支配するポーランド空軍に勤務した。
 だが「冷戦」が最高潮に達したとき、スカルスキは逮捕され、「アメリカとイギリスの帝国主義者」のためにスパイを働いたとして告発された。同じことが西側から帰国した戦中のPAF操縦士の多くの身の上にも起こった。その後スカルスキは、残酷さではゲシュタポやNKVD(ソ連内務人民委員部)のそれに匹敵するほどの恐るべき「査問」を受けた。この非人道的な扱いからは幸い生き残ったものの、最低に馬鹿げた告発のあと、彼は死刑を宣告された。結局、共産主義者たちは「慈悲をもって」終身刑に判決を変更する。1953年にスターリンが死ぬと、ポーランドでも事態はゆっくりと変わりはじめ、1956年、スカルスキは8年の獄中生活ののち釈放された。
     (79ページ)

 

…という運命を辿る。その後は空軍に復帰し、准将の地位まで昇進することになったが、これはむしろ「幸運」と呼ぶべき事柄であろう。祖国ポーランドのために勇敢に闘った戦闘機パイロット達に、祖国の共産主義者が用意したのは、「ゲシュタポやNKVDのそれに匹敵する」ような「最低に馬鹿げた」取り扱いなのであった。ヒトラーとの「大戦」は終了し、世界は「冷戦」と呼ばれる新たな戦争の時代に入ってしまっていたのである。

 

 第二次世界大戦ではナチス・ドイツに翻弄され(実際には、ドイツがポーランドの西部から侵攻すると同時にポーランド東部を占領したのはソ連であったのだが)、戦後はソ連の共産主義者に翻弄されたのが、ポーランド人にとっての現代史なのであった。

 

 

 ここであらためて、フライング・タイガースを世界史的文脈の中で考えてみたい。

 先に触れたように、フライング・タイガースに参加したエイジャックス・ボームラー大尉とヴィルトウッド・ウルバノヴィッチュ少佐の行動にはそれぞれに一貫性があり、共通点が存在する。両者にとって「先の大戦」は、対独戦争も対日戦争も共に、対ファシズム戦争として位置付けられるものであった。

 日独伊三国同盟とはまさに結束したファシストの同盟であり、ボームラー大尉にとって、スペイン人民戦線の側で義勇兵としてフランコ政権との戦闘(同時にフランコの支援者としてのドイツとイタリアを相手とした闘いである)に従事することと、蒋介石の中国の側で義勇兵として大日本帝國との戦闘に従事することには、「ファシストの同盟」に対する闘いとしての一貫性があるのだし、ウルバノヴィッチュ少佐にとって、ヨーロッパの上空で、英空軍の一員としてポーランドへの侵略者としてのドイツとの戦闘に従事することと、アジアの上空で在中国アメリカ陸軍航空隊の一員として中国への侵略者としての大日本帝國との戦闘に従事することには、やはり「ファシストの同盟」に対する闘いとしての一貫性があるのだ。そしてそこにまさに両者の共通点もある(ボームラー大尉の経歴は、私には、あの1942年製作の見事な反ファシスト同盟プロパガンダ映画『カサブランカ』でハンフリー・ボガートの演じたリックの姿を連想させるし、ウルバノヴィッチュ少佐には、ポール・ヘンリードが演じたヴィクター・ラズロを思い起こさせるところがある)わけだし、両者を結び付けるものとして、シェノールト(シェンノート)のフライング・タイガースがある。

 その文脈において、フライング・タイガースは、対ファシズム戦争の象徴なのである。

 

 

 振り返ってみれば、スペインで人民戦線の戦闘機乗りとして飛んだエイジャックス・ボームラーの側で共にフランコの軍隊と戦っていたのは、人民戦線政府を支援するソ連からの義勇兵であった。人民戦線が相手としていたのは、フランコの軍隊であると同時に、フランコを援助するためにスペインに送られていたドイツとイタリアからの義勇兵部隊でもあった。

 そして中国大陸では、1941年に米国からの義勇兵部隊が中国国民政府を援助するために結成され、それまで日本軍と戦う国民政府を支援していたソ連からの義勇兵部隊を継ぐこととなる。

 1937年、盧溝橋事件当時、蒋介石国民政府の強力な軍事顧問団がドイツ人によって構成されていた(「中独合作」と呼ばれる時期に相当し、南京攻略戦当初における皇軍の苦戦の背後には蒋介石の軍事顧問を務めたドイツ将校団の姿がある)のも歴史的事実であり、その年に蒋介石の空軍の軍事顧問に就いたのがシェンノート(シェノールト)だったのである。米国陸軍退役将校シェンノートだけが蒋介石の軍事顧問を務めたのではなく、ドイツの将校もソ連の軍人も同様に軍事顧問として蒋介石を支え、そしてソ連人は義勇兵として戦闘にも従事していた(前回記事の中で指摘したことだが、米国人義勇兵部隊としてのフライング・タイガースが編成され訓練を開始したのは1941年の7月、ビルマでのことであり、中国大陸にも展開し日本軍との戦闘に加わったのは日米開戦後―日本による真珠湾攻撃後―のことであった)。大日本帝國の軍隊を敵として国土防衛のために戦っていたのは、そのような履歴を持つ軍隊だったのである。

 現代史は、今回取り上げたネット情報の作者(そして拡散者)が思うほど単純ではない。

 

 

 スペイン内戦時にドイツが義勇兵という形式で派遣したコンドル軍団をめぐるエピソードは、ファシズムvs反ファシズムという当時の世界史的構図の中での、ファシスト側の軍事的介入の形式として興味深いものだ。

 「支那事変」の進展の中で、日独伊三国同盟結成を通じて、ファシズムの側に自身を位置付けていったのは大日本帝國であった。

 その意味で、スペインのフランコを義勇兵を用いて援助したドイツと、支那国民政府の蒋介石を義勇兵を用いて援助しようとした米国という構図の対比は面白い。

 

 

 ここで件のネット情報に戻れば、

 

 また、これは非常に重要な事なのですが、支那事変の「直接当事国」はあくまでも日本と支那(蒋介石政権)でした。米英ソが、軍事顧問団の派遣や物資援助をしていたのは事実であり、これが劣勢だった蒋介石軍を支えていた事は否めません。

 しかし、日米開戦前の段階に於いて、米国が「義勇軍」の名を借りた空軍部隊(飛虎隊)を派遣したとなると話は全く別です。これは、明らかに中立義務違反であり、国際法上許されるべきものではありません。

 ましてや、自国が宣戦布告なきまま、支那大陸に於いて日本軍との戦闘状態に突入していながら、真珠湾攻撃を、日本からの宣戦布告が遅れた事で、騙し討ち等と称する事は、正に言語道断といえます。

 

…との主張が読めるが、ドイツもまた国民政府に「軍事顧問団の派遣や物資援助をしていたのは事実であり、これが劣勢だった蒋介石軍を支えていた事は否めません」ということになるわけであるし、「日米開戦前の段階に於いて、米国が「義勇軍」の名を借りた空軍部隊(飛虎隊)を派遣したとなると話は全く別です。これは、明らかに中立義務違反であり、国際法上許されるべきものではありません」というのであれば、スペイン内戦時のコンドル軍団の存在(同盟国ドイツが派遣した「義勇軍」である)をどのようにお考えになるのであろうか?

 コンドル軍団は国策による派遣であったが、しかしドイツは義勇兵という形式を採用することで、ドイツによる(他国の内戦への)「軍事介入」との非難を回避したのである。

 

 世界史的文脈の中での義勇兵ということで言えば、第一次世界大戦時には、米国の国家としての参戦に先立ち(米国は基本的に、ヨーロッパの戦争に対し中立であろうとしていた)、義勇兵として戦闘に参加した米国人が存在したことは有名である(ラファイエット航空隊)し、フライング・タイガース結成の発想の背後にはこの第一次大戦時の経験(義勇兵―しかも戦闘機乗りだ)があって不思議ではない(実際、アラン・アームストロングは、「シェノールトの仲間達は、日本軍に包囲された中国人のために戦うことがいかに魅力にあふれ、冒険心を掻き立てらるかという点をほのめかし、アメリカ義勇兵部隊が第一次世界大戦中に活躍したアメリカの外人部隊(”ラファイエット・エスカドリル”)に匹敵する部分を持ち出すことによって、特別航空戦隊の任務に就くパイロット、整備士、技術者の採用に成功した」という書き方をしている)。

 

 第二次世界大戦時においても、ソ連によるフィンランド侵略(いわゆる「冬戦争」である)に際して、フィンランドの防衛に多くの国から義勇兵が参集した事実がある。特にスウェーデンは、国家としての参戦は避けたが、義勇兵の形式でフィンランドを援助したのである。

 義勇兵の形式による他国への軍事的支援は、世界史的視点からすれば、特に珍しいものではないことくらいは知っておくべきであろう。

 

 件のネット情報にある、「日米開戦前の段階に於いて、米国が「義勇軍」の名を借りた空軍部隊(飛虎隊)を派遣したとなると話は全く別です。これは、明らかに中立義務違反であり、国際法上許されるべきものではありません」との主張について言えば、「国際法上」の問題としては、「日米開戦前の段階」の日中間の敵対的戦闘の継続状況は、「事変」であって「戦争」ではないとされていた(それが日本政府の立場であり、蒋介石の国民政府も「宣戦布告」は避け、米国もまた「事変」として処理することで国内法としての中立法の発動を避けた)のである。「事変」においては(「事変」は「戦争」ではなく、従って「戦時」ではないのであるから)戦時国際法上の「中立義務」など発生しないのである(詳しくは「続・「事変」と「中立」」「続々・「事変」と「中立」」「続々々・「事変」と「中立」」「続々々々・「事変」と「中立」」参照)。

 しかも、既に繰り返し指摘したことだが、カーチスP-40戦闘機で編成されたフライング・タイガースの日本軍との初戦は日米開戦後のこと(当初のビルマから中国国内に移動した―ただし3個飛行隊のうち1個飛行隊はビルマに残置―のも日米開戦後)であり、「自国が宣戦布告なきまま、支那大陸に於いて日本軍との戦闘状態に突入していながら」との主張はまったくの誤りである。

 この点においても、件のネット情報の歴史理解の杜撰さは明らかである(総じて言えば、歴史的事実に対する無知と歴史的事実の積極的捏造を特徴とするデマ情報なのである)。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2010/08/23 00:27 → http://www.freeml.com/bl/316274/145570/
 投稿日時 : 2010/08/26 22:41 → http://www.freeml.com/bl/316274/145834/
 投稿日時 : 2010/08/27 22:19 → http://www.freeml.com/bl/316274/145891/

 

 

 

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2015年9月20日 (日)

飛虎隊(フライング・タイガース)伝説 2

 

 前回の記事で、ネット上に流布された、

 

 昭和16年4月15日。米国大統領フランクリン・ローズヴェルトは、ある重要な大統領令(行政命令)に署名、直ちにその命令が実行に移されました。そしてその命令とは、

  「米国空軍・海軍・海兵隊軍人は、クレア・リー・シェノールト陸軍大佐麾下の「フライング・タイガース」戦闘機部隊に志願すべし」

というものだったのです。

 

…というお話が、歴史的事実を反映していないこと(いわゆる「捏造」であること)を明らかにし得たものと思う。

 

 昭和16年4月15日の時点では、米国はまだ「空軍」を保有していなかったし(空軍が組織として独立するのは戦後のことである)、クレア・リー・シェノールト(あるいはシェンノート)が1937年に米国陸軍を退役した際の最終階級は陸軍大尉であった。存在しない米国「空軍」の軍人に、存在しないクレア・リー・シェノールトという名の陸軍「大佐」麾下の戦闘機部隊への「志願」を、米国大統領が「命令」したり、それが「実行に移され」たりすることなど、原理的にあり得ない話なのであった(しかも、アラン・アームストロング―『「幻」の日本爆撃計画』の著者である―の調査によれば、米軍人にフライング・タイガースへの志願を命ずる趣旨の大統領令―大統領が署名した行政命令―自体が存在しないというのである)。

 

 

 さて、ネット上の情報によれば、上記の話には、

 

 「フライング・タイガース(以下、飛虎隊と略)」とは、蒋介石軍(支那軍)の空軍顧問だった米軍佐官・クレア・リー・シェノールト(支那名は陳納徳、日本では一般にシェンノートと書かれる事が多い)が、蒋介石夫人・宋美麗の資金提供を受け、米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊「アメリカン・ヴォランティア・グループ(American Volunteer Group:略称「AVG」)の事です。

 

…との解説が附されている。

 これを読む限りでは、「傭兵戦闘部隊」への「一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名」が簡単であったような印象を受けるのだが、実際には、それほど思い通りに進んだわけでもないようである。

 『ウィキペディア』の記述を信じれば、という話ではあるが、実際には、

 

 派兵計画は当初、大統領直属の官僚であるLauchlin Currieが指揮し、資金融資に関してもフランクリン・D・ルーズベルト大統領の友人であるトミー・コルコランが作り上げたワシントン中国援助オフィスを経由して行うといった形をとった。また中立上の立場から直接の軍事援助を行わず、中国国民党軍が資金を使い部隊を集める形式を取った。1940年の夏にシェンノートは中華民国空軍増強の目的で優れたパイロットを集めるためにアメリカ合衆国に一時帰国した。

 アメリカ本土に到着したシェンノートは早速、ルーズベルト大統領の後ろ盾を受け100機の戦闘機と100名のパイロット、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集める権利を与えられ、アメリカ軍隊内で早速パイロットの募集を募った。シェンノートの理想は当然、メンバーは戦闘機乗りであること、飛行錬度は高いことが条件であった。採用されたパイロット達全員は義勇の名目からアメリカ軍を一旦退役する必要があった。またAVGとしての活動中、パイロット達には下記の条件が与えられた。

  軍退役後は全メンバーに一時金500ドルを支給
  中国での軍務の終了後、元の階級での空軍復帰を約束
  毎月600ドルを全てのパイロットに支給
  月支給プラス敵機を1機撃墜するごとに500ドルを支給

 パイロット募集の結果、シェンノートの下にはかつて彼と共に飛んだ「フライング・トラピーズ」(陸軍統括の飛行部隊)のメンバーも数名加わり、それなりにベテランパイロットは揃い始めた。しかしその後は思ったように集まることはなく最終的にはシェンノートが理想としていた基準は落とさざるを得なかった。さらに募集した人員の中には機体の扱いなどには未熟な者も多かった為、中国現地にてメンバーに対し再訓練が必要であった。

 募集名簿がすべて埋まった時、AVGのパイロットは39州から海軍50名・陸軍35名・海兵隊15名の合計100名で編成された。しかし戦闘機訓練と航空機射撃の訓練を受けてきたパイロットはこの中の僅か1/3しかおらず、むしろ爆撃機の経験者の方が多かった。そこでシェンノートは本国で提唱していたが無視され続けてきた一撃離脱戦法を、隊員たちに徹底的に訓練させた。部隊名は中華民国軍の関係者からは中国故事に習い彼らを「飛虎」と名づけ、世界からはワシントンD.C.に置かれた「中国援助オフィス」が設立した「フライングタイガース」の名称で知られるようになる。
     (以上『ウィキペディア』の「フライング・タイガース」の項による―2010年8月23日閲覧)

  
 
…という経緯を辿ったようである。

 この『ウィキペディア』記事も、「中国での軍務の終了後、元の階級での空軍復帰を約束」という記述、つまり「空軍」という表記をしている(この表記については、2015年9月20日の閲覧の時点でも修正されていない)わけで、どこまで信頼すべきなのか?という問題がないわけではない。

 しかし、アラン・アームストロング(『「幻」の日本爆撃計画』)によれば、

 

 V.D.チャップライン大佐は、ニミッツ提督に宛てた極秘覚書でパイロットに対する海軍の必要度について記している(1941年10月18日付の文書である-引用者)。海軍全体として一九四二年一月の時点で七五〇〇名のパイロットを必要とすることになっていた。だが実際には、パイロットは六八〇〇名しかいなかった。そのうちで経験者(つまり実際に機能している飛行隊に一年或はそれ以上勤務した者)は、三一九四名しかいなかったのである。このような事情から、チャップラインの覚書の左下の隅に「除隊資格者は、空母における艦上発着訓練を始める前に飛行訓練センターを卒業した者に限るべきである」と誰かが注釈を書き加えている。
 海軍はもっとも経験豊かなパイロットを必要としていたから、ノックス長官はカリーに書簡を送り、こう断言している。「……小職は、除隊有資格者は海軍飛行訓練センターの最近の卒業生で、飛行訓練を終了し、海軍飛行士として任命された直後から三カ月以内の者に限定されるべきと考える」。…
     (171ページ)

 

…という事情も、当時のフライング・タイガー創設をめぐる現実であったわけである。この1941年という年は、ヨーロッパでの戦争が始まってから既に2年が過ぎた時点なのであり(「支那事変」の5年目)、錬度の高い戦闘機パイロットをわざわざ除隊させて、「傭兵戦闘部隊」へと供給することに躊躇する海軍当局者の態度は合理的なものだ。

 ベテラン戦闘機パイロットの確保を望んでいたシェンノート(シェノールト)の目論見に対し、米軍自身の都合が優先されたであろうことは、疑う必要がないように思われる。結果として「シェンノートが理想としていた基準は落とさざるを得なかった」ことは、『ウィキペディア』の記事通りの事実であったと考えられる。

 

 米国の参戦が、現実的課題として浮上しつつある渦中での話なのである。チャーチルとルーズベルトによって「大西洋憲章」が発表されたのは、1941年の8月のことだったことを思い出しておくべきであろうか? 「大西洋憲章」の第六項には、

 
 
  第六に、ナチス専制主義の最後的破壊ののちに、両国は、全地上の人類が恐怖と欠乏から自由に生活しうるような平和を確立することを欲する。

 

…と明記されている。つまり、米国大統領は英国首相と共に、既にこの時点で、「戦後」の構想を語っていたのである。

 英国単独での「ナチス専制主義」への勝利は考えられず、米国大統領にとって、既に参戦は選択肢に組み入れられていた、と考えておく必要がある。

 先に示したのは、そのような背景の下での海軍首脳の判断なのであり、それがシェンノート(シェノールト)の目論見の障害となったわけである。

 

 

 これが、

  「フライング・タイガース(以下、飛虎隊と略)」とは、蒋介石軍(支那軍)の空軍顧問だった米軍佐官・クレア・リー・シェノールト(支那名は陳納徳、日本では一般にシェンノートと書かれる事が多い)が、蒋介石夫人・宋美麗の資金提供を受け、米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊「アメリカン・ヴォランティア・グループ(American Volunteer Group:略称「AVG」)の事です。

…という話の実情であり、米軍「佐官」の(実際には「大尉」で退役しているので佐官であったことはないのだが)クレア・リー・シェノールトが、「米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名を」彼の「傭兵戦闘部隊」に確保するに際して直面した、「思い通りにならぬ」現実の姿なのであった。

 

 アラン・アームストロング(『「幻」の日本爆撃計画』)は、その募集の様子をテックス・ヒルの証言に基き、

 

 一九四一年三月、パイロットのテックス・ヒルとエド・レクターは、バージニア州ノーフォークの海軍航空隊の駐機場を離れる途中、CAMCOのリクルート担当者に話しかけられた。ビルマ・ルートを守るために戦闘機のパイロットをやってみないか、ということだった。ヒルは、ビルマがどこにあるかさえ知らないと応えた。話し合いは飛行場の管制室で行われた。中国を守るために戦闘機を操縦することが意味する精神と冒険を納得したヒルとレクターは、海軍に入隊する前は新聞社のイラストレーターだったバート・クリストマンと共に、海軍将校を辞めてCAMCOに入社する意思を記した文書に署名した。だが三人とも、実際には中国のために戦闘機を操縦し、戦うという理由で除隊が認められるとは思っていなかった。
 だが、1カ月後、再びCAMCOの代表から話があり、三人は書類がパスしたと告げられたのだった。ある基地の司令官は、海軍の航空隊の一つから熟練パイロットが奪われたことに抗議するためにワシントンに飛んだが、本件はすべて「大統領の承認を得ている」と海軍航空局局長のタワーズ提督にはねつけられた。
     (148~149ページ)

 

…と記している。ここには、募集に応じたパイロット当人たちが、リクルート担当者の話を、それほどリアルなものと考えていなかった様子が窺える。

 「海軍の航空隊の一つから熟練パイロットが奪われたことに抗議するためにワシントンに飛んだ」という「ある基地の司令官」のエピソードは、熟練パイロットの確保を優先課題と考えるようになった、1941年当時の現場の雰囲気を伝えるものであろう。同時に、大統領の意向が、現場まで貫徹していなかった事実を物語るエピソードでもある。

 CAMCOは、中国政府に代わり(あるいは米国政府に代わり?)、パイロット達の雇用主となった企業である。アームストロングの著書には「傭兵戦闘部隊」の設立に際して大きな役割を果たした企業として、インターコンチネント・コーポレーションとCAMCOの名が挙げられているが、残念ながら、両社の関係・内実に関しての記述に一貫性はない(ので、ここでは詳述しない)。

 

 また、他の著作からのアームストロングの引用によれば、陸軍航空隊のチャーリー・ボンドは「戦闘機の操縦訓練を受けてきた自分がカナダに爆撃機を自力空輸する任務しか与えられないのは時間の浪費だからという理由で」、海兵隊中尉グレゴリー・ボイントンは「借金の清算」が可能となる「報酬が魅力的だった」という理由で、クレア・リー・シェノールトの創設した傭兵戦闘部隊に参加していたのだという。

 

 アラン・アームストロングは、

 

 シェノールトの仲間達は、日本軍に包囲された中国人のために戦うことがいかに魅力にあふれ、冒険心を掻き立てらるかという点をほのめかし、アメリカ義勇兵部隊が第一次世界大戦中に活躍したアメリカの外人部隊(”ラファイエット・エスカドリル”)に匹敵する部分を持ち出すことによって、特別航空戦隊の任務に就くパイロット、整備士、技術者の採用に成功した。……。シェノールトの下に馳せ参じた義勇兵たちは、ふつうの男たちではなかった。冒険家、ロマンチスト、根っからの傭兵気質の持ち主、理想主義者などからなるこれらの男たちの集団は、中国の厳しい戦闘環境を生き延びるために厳格な現場監督を必要とすることになった。
     (149~150ページ)

 

…という文章で、その話題を締めくくっている。

 要するに、「一癖も二癖もあったならず者」の内実は、多様な動機に支えられた多様なタイプの男たちなのであった。

 

 

 ここであらためて、カール・モールズワース『太平洋戦線のP-40ウォーホークエース』(大日本絵画 2002)の記述を用いて、ここまでの流れの全体を復習しておこう。

 

 計画は単純だった。米国の近代的な戦闘機とパイロット、それを飛ばし続けるための整備技術者を確保すれば、蒋介石は即席空軍を得られるわけである。しかし、欧州での戦争は連合国にとって不利で、辺鄙なアジアでの戦争に回せる飛行機はなかった。
 米産業界は、軍備強化にかかった米軍のために、夜を日に次いで軍需物資を生産していたが、法的に米国は、まだ中立ということになっていた。こんな事情に加えて、シェンノートと宋は、もうひとつ別の障害に直面していた。当時、日本帝国と合衆国の間には諍があり、ワシントンの政治家たちは事態をさらに悪化させるようなことを厭っていたのである。にもかかわらず、その年(1940年)の暮までにシェンノートと宋は、難関を打ち破った。
 合衆国と中国との取引によって、蒋介石は欲していた物のすべてを手に入れたわけではなかったが、ビルマ公路を日本軍の空襲から護るために不可欠であった戦闘機100機は入手でき、打ちのめされた中国に対する最後の補給線は確保された。米国の義勇軍パイロットと、地上勤務者は、軍務から離れることを許可され、1年間、中国で戦うという契約に署名することになる。乗機は、米陸軍戦闘機隊に多数配備されているP-40の輸出型である「トマホーク」になるだろう。シェンノートは同部隊の指揮官となり、同部隊は米義勇部隊と呼ばれるようになった。
 米義勇航空群の新兵たちは合衆国中の陸軍、海軍、海兵隊の飛行場から舞い上がり、志願書類に署名した。その間、海路、トマホークをビルマのラングーンへ運ぶ算段が為され、機体はそこで組み立てられることになった。1941年7月、米義勇航空群の空中、地上勤務者たちは英空軍がビルマの密林の奥深く、ラングーンからシッタン河を240㎞遡ったトングーに建設した基地で訓練をはじめた。日本が12月のはじめに真珠湾を攻撃するまでに、米義勇航空群はシェンノート直伝の対敵戦術に熟達していた。
 日米開戦の直後、シェンノートはビルマ公路防衛のため、彼の部隊を公路の両端に分割配備した。かれは1個飛行隊を、大港湾都市であるラングーンを基地としていた英空軍のもとに置き、残り2個飛行隊は仏印の日本軍航空部隊基地からの攻撃圏内にあった昆明に配置した。
     (9ページ)

 

 この際なのでモールズワースの記述に関連させて、紹介したネット情報の問題点を更に指摘しておくと、

 

 さて、この飛虎隊は、表向きAVGの「V(ヴォランティア)」が表しているように、あくまでも蒋介石軍を支援する為に馳せ参じた米国人の「義勇軍」とされていました。

 しかし飛虎隊が主戦場としたのは、日本陸軍と蒋介石軍が支那事変=日中戦争を戦っていた支那大陸であり、当時、蒋介石軍の航空兵力が日本陸軍航空兵力によって事実上壊滅状態にあった事を考えると、支那軍機として日本軍機と空中戦を演じていたのは、実質的に飛虎隊だったといえます。

  さらに、ローズヴェルトの大統領令、そして構成員が米軍関係者、使用機種が米軍の最新鋭戦闘機となると、これはもう単なる義勇軍どころの話ではありません。

 むしろ、米国が「国策」として飛虎隊を編成、支那大陸に派遣したとみるべきで、日米開戦の8ヶ月も前に、米軍は支那大陸に於いて宣戦布告なきまま日本軍との戦闘状態に突入していたという事になるのです。

 

…とネット情報には明記されているのだが、フライング・タイガース(AVG)が実際に日本軍との戦闘に参加したのは1941年12月8日の日米開戦後のことなのである(1941年12月20日、中国の昆明の話であり、しかも部隊が中国大陸内に移動したのも日米開戦後になってのことであった―日米開戦の直後、シェンノートはビルマ公路防衛のため、彼の部隊を公路の両端に分割配備した。かれは1個飛行隊を、大港湾都市であるラングーンを基地としていた英空軍のもとに置き、残り2個飛行隊は仏印の日本軍航空部隊基地からの攻撃圏内にあった昆明に配置した)。従って、「日米開戦の8ヶ月も前に、米軍は支那大陸に於いて宣戦布告なきまま日本軍との戦闘状態に突入していたという事」にはならない(完全な事実誤認に基づく主張なのである)。

 

 

 全体の流れを復習したところで、再び、

  蒋介石夫人・宋美麗の資金提供を受け、米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊「アメリカン・ヴォランティア・グループ(American Volunteer Group:略称「AVG」)

…の実像を追ってみたい。ネット情報では、「解説」は、

  「AVG」は、機体の機首部分に吊り目と鮫口(シャーク・マウス)、主翼に支那(中華民国)のマーク「青天白日旗」が描かれた、当時の米軍最新鋭戦闘機・カーチスP-40──これは、米国で成立した武器貸与法に基づいて供与された機体──を擁し、一般には「飛虎隊」の名で知られており、「AVG」の名よりもむしろこちらのほうが知名度が高く、AVGは知らないが飛虎隊は知っているという方が多いと思います。

…と続いている。

 ここでは、「蒋介石夫人・宋美麗の資金提供を受け、米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊「アメリカン・ヴォランティア・グループ(American Volunteer Group:略称「AVG」)」が使用した「当時の米軍最新鋭戦闘機・カーチスP-40」が、「米国で成立した武器貸与法に基づいて供与された機体」だと「解説」されている。しかし、実際には、米国からのカーチスP-40の提供に際し、「武器貸与法」は発動されてはいないと考えられる。私の読んだ限りでは、「武器貸与法」の発動による「供与」であることを明言、少なくとも示唆する内容の記述は、このネット上の解説(怪説?)以外にはない。

 実際、アラン・アームストロング(『「幻」の日本爆撃計画』)によれば、

 

 ブルース・レイトン退役少佐の一九四一年の報告から、中国政府が中国で航空戦隊を組織するために必要な借款とその他の援助を取り決めるため、一九四一年に特別使節団をワシントンに派遣したことは明らかである。レイトン少佐は、アメリカの一億ドルの対中借款がまとまり、合衆国は当時イギリスに割り当てられていたP-40戦闘機一〇〇機を中国に放出する予定である、と記している。P-40は高性能で複雑な戦闘機だから、戦闘で有効に活用し、訓練中の事故で失われないようにするために、アメリカ軍の退役パイロットが操縦すべきだという決定がなされた。レイトン少佐はさらに次のように述べている。「……明らかな理由で、中国で考慮されている種類の計画に加担する者は、合衆国政府と関係があってはならない」。…
     (153ページ)

 

…ということなのであり、別の箇所では、レイトンの残した記録から、

 

 当初の計画では、カーティスP-40一〇〇機を中国に輸送することが必要だった。そのあと、武器貸与法の下で、相当数の追加分の航空機の供与と当初の計画の拡大の手はずが整ったが…
     (157ページ)

 

…との文章も引用されている(つまり、「武器貸与法」の活用が検討されたのは「そのあと」の話、ということなのである)。

 「米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊(AVG)」が使用した100機のP-40は、「武器貸与法」に基く供給ではなく、「アメリカの一億ドルの対中借款」を利用した「売却」だったのである。ここには、むしろ、より以上に巧妙な(あるいは慎重な)米国政府の姿勢さえ読み取れるのではないだろうか。あくまでも、航空機メーカーから航空機運用業者への「売却」として処理されることで、米国政府の公式的な関与は存在しないことに出来るのである(それに対し、「武器貸与法」の適用は、米国政府の公式関与を宣言することになるものとなる)。「中国で考慮されている種類の計画に加担する者は、合衆国政府と関係があってはならない」という言葉の背後にある、合衆国政府関係者の巧妙かつ慎重な姿勢を理解しなければならない。

 

 

 今回あらためて明らかになったのは、まず、シェノールト(シェンノート)がAVGのパイロットの確保に奔走していた1941年の時点(ナチス・ドイツによるヨーロッパでの戦争が3年目となり、日中間の「事変」は5年目を迎え、しかも大日本帝國はヨーロッパでの戦争の推進者であったドイツとの軍事同盟―1940年のいわゆる「日独伊三国同盟」である―を誇示し、更に仏印進駐=軍事力による対外的強硬姿勢の顕示に向かおうとしていた時期である)では、シェノールトへの米軍の協力が消極的なものにとどまった事実である。既に当時の米軍は熟練したパイロットの確保を課題としており、シェノールトへの協力を優先することはなかった。

 加えて、ネット情報にある、

  「AVG」は、機体の機首部分に吊り目と鮫口(シャーク・マウス)、主翼に支那(中華民国)のマーク「青天白日旗」が描かれた、当時の米軍最新鋭戦闘機・カーチスP-40──これは、米国で成立した武器貸与法に基づいて供与された機体──を擁し

…との記述の誤りである。当初AVG(フライング・タイガース)が入手した100機のP-40は、「アメリカの一億ドルの対中借款」を利用し中国が「購入」した機体なのであって「米国で成立した武器貸与法に基づいて供与された機体」ではないのである。

 

 シェノールト(シェンノート)のフライング・タイガース(飛虎隊)をめぐるネット上のお説には、歴史的事象を取扱う上での慎重さ、そして誠実さが皆無であることが、ここからも再確認出来るように思われる。ネット上の情報にデタラメが多いことは事実ではあるが、それはデタラメ情報を「拡散」することを正当化する理由にはならないことは言うまでもない。

 

 

 

 さて、「一癖も二癖もあったならず者」の一人について、カール・モールズワース『太平洋戦線のP-40ウォーホークエース』(大日本絵画 2002)の記述を読もう。

 

 エイジャックス・ボームラー大尉もそのひとりであったが、米義勇航空群に送られた他の操縦者とは違って、かれには戦闘経験があった。まず1930年代中盤、米陸軍航空隊に奉職、その後退職して1936~1937年、スペインで人民戦線の戦闘機乗りとして飛んだ。前線での7カ月間で、撃墜4.5機を報じた後、ボームラーは帰国し米陸軍航空隊に復職した。1941年、米義勇航空隊に参加するため、ふたたび辞職しようとしたが、中国に向かう最初の試みは真珠湾攻撃によって妨げられ、かれは陸軍航空隊に戻った。しかし、かれはまだ紙上の存在でしかなかった第23戦闘航空群の隊員として、まんまと中国への派遣割り当てを獲得した。1942年5月、ボームラーはとうとう昆明に到着し、翌月、もっと東にある米義勇航空隊の基地、衡陽へと向かった。
     (11ページ)

 

…という経緯をたどり、ボームラーは、米陸軍航空隊に編入される前の米義勇航空隊の一員となり、中国大陸上空での日本軍との戦闘に従事したわけである。

 次回は、世界史的文脈の下で、ボームラーの経歴がどのような意味を持つものであるのかについて考えてみたい。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2010/08/23 23:14 → http://www.freeml.com/bl/316274/145633/
 投稿日時 : 2010/08/24 22:21 → http://www.freeml.com/bl/316274/145686/
 投稿日時 : 2010/08/25 22:07 → http://www.freeml.com/bl/316274/145747/

 

 

 

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2015年9月19日 (土)

飛虎隊(フライング・タイガース)伝説 1

 

 フライング・タイガースといえば、カーチスP-40戦闘機機首の液冷エンジン用の巨大なラジエーター側面に描かれたシャーク・マウスとディズニー・デザインの部隊マークの組み合わせという独特のノーズ・アートで、軍用機ファンならずとも知る人の多いであろう、「先の大戦」で活躍した戦闘機部隊の名だが、残念なことにネット上には不正確な情報も「拡散」されてしまっているようである。以前に私が読む羽目に陥った(5年前の話である)のもそのような情報の一つであったが、現在でもそのまま流布されているようなので、どこがどのように不正確なのかについてあらためて問題点のいくつか(あまりに問題があり過ぎるので、そのすべてを対象にすることはしない―今回の記事は、情報の不正確さにあきれて5年前に書いた文章を再編集したものである)を指摘していきたい。

 まず、私が読んだ内容を確認することから始めよう(今回は、ネット上にはほぼ同文の記述が複数存在することを指摘するにとどめ、オリジナルの情報源を確定することはしないし、引用元のURLも特に示さない―テキストとして用いるのは、5年前にコピペ保存しておいた文言そのままである)。

 

 

 

 昭和16年4月15日。米国大統領フランクリン・ローズヴェルトは、ある重要な大統領令(行政命令)に署名、直ちにその命令が実行に移されました。そしてその命令とは、

  「米国空軍・海軍・海兵隊軍人は、クレア・リー・シェノールト陸軍大佐麾下の「フライング・タイガース」戦闘機部隊に志願すべし」

というものだったのです。

 「フライング・タイガース(以下、飛虎隊と略)」とは、蒋介石軍(支那軍)の空軍顧問だった米軍佐官・クレア・リー・シェノールト(支那名は陳納徳、日本では一般にシェンノートと書かれる事が多い)が、蒋介石夫人・宋美麗の資金提供を受け、米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊「アメリカン・ヴォランティア・グループ(American Volunteer Group:略称「AVG」)の事です。

 「AVG」は、機体の機首部分に吊り目と鮫口(シャーク・マウス)、主翼に支那(中華民国)のマーク「青天白日旗」が描かれた、当時の米軍最新鋭戦闘機・カーチスP-40──これは、米国で成立した武器貸与法に基づいて供与された機体──を擁し、一般には「飛虎隊」の名で知られており、「AVG」の名よりもむしろこちらのほうが知名度が高く、AVGは知らないが飛虎隊は知っているという方が多いと思います。

 さて、この飛虎隊は、表向きAVGの「V(ヴォランティア)」が表しているように、あくまでも蒋介石軍を支援する為に馳せ参じた米国人の「義勇軍」とされていました。

 しかし飛虎隊が主戦場としたのは、日本陸軍と蒋介石軍が支那事変=日中戦争を戦っていた支那大陸であり、当時、蒋介石軍の航空兵力が日本陸軍航空兵力によって事実上壊滅状態にあった事を考えると、支那軍機として日本軍機と空中戦を演じていたのは、実質的に飛虎隊だったといえます。

  さらに、ローズヴェルトの大統領令、そして構成員が米軍関係者、使用機種が米軍の最新鋭戦闘機となると、これはもう単なる義勇軍どころの話ではありません。

 むしろ、米国が「国策」として飛虎隊を編成、支那大陸に派遣したとみるべきで、日米開戦の8ヶ月も前に、米軍は支那大陸に於いて宣戦布告なきまま日本軍との戦闘状態に突入していたという事になるのです。

 その後飛虎隊は、日本陸軍が新たに「ゼロ戦(三菱零式艦上戦闘機)」──米軍が「ゼロ・ファイター(Zero Fighter)」として恐れた高性能戦闘機を支那戦線に投入した事で壊滅。

 昭和17(1942)年7月、飛虎隊の残存兵力は、米軍正規部隊である第10空軍の戦闘機大隊「チャイナ・エア・タスクフォース=China Air Task Force:略称CATF」に編入、更に大戦後期には、米国第14空軍麾下の「中美混合航空団:美は米国の事」として戦い、終戦を迎えたのです。

 このように、支那事変における飛虎隊から、日米開戦後の「CATF」→「中美混合航空団」に至る一連の流れを見ていくと、そこには連続性があります。

 また、これは非常に重要な事なのですが、支那事変の「直接当事国」はあくまでも日本と支那(蒋介石政権)でした。米英ソが、軍事顧問団の派遣や物資援助をしていたのは事実であり、これが劣勢だった蒋介石軍を支えていた事は否めません。

 しかし、日米開戦前の段階に於いて、米国が「義勇軍」の名を借りた空軍部隊(飛虎隊)を派遣したとなると話は全く別です。これは、明らかに中立義務違反であり、国際法上許されるべきものではありません。

 ましてや、自国が宣戦布告なきまま、支那大陸に於いて日本軍との戦闘状態に突入していながら、真珠湾攻撃を、日本からの宣戦布告が遅れた事で、騙し討ち等と称する事は、正に言語道断といえます。

 それこそ、米国側が喧伝してきた所の「Sneaky(卑劣な)」というものです。

 最後に、真珠湾攻撃直前の日本潜水艦撃沈や、飛虎隊の支那派遣とは別に、米国が自ら対日戦争を望んでいた事実を書いて締め括りたいと思います。

 それは真珠湾攻撃の7ヶ月も前、昭和16年5月に、米国が蒋介石軍と共に、支那大陸から日本の主要都市に対する渡洋爆撃(日本本土空襲)を計画、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、更にはローズヴェルト大統領までもが承認の署名をしていた、というものです。

 結局、この計画は、欧州戦線への爆撃機投入が優先された事により、実行が開戦後にずれ込んだ訳ですが、計画によれば、カーチス戦闘機350機、ロッキードハドソン爆撃機150機を投入し、大阪・神戸・京都・東京・横浜といった日本の主要都市に対する爆撃を実施する。爆撃に際しては、木造家屋の多い日本の事情に合わせて焼夷弾を使用する。

といったものでした。

 余談ですが「焼夷弾」とは、戦時中、日本中を焦土に変えた米軍による空爆=空襲で威力を発揮した兵器で、爆裂して目標を破壊するのではなく、目標=主として日本の木造家屋を焼き尽くす事を目的に、戦前から米軍内で独自に研究開発された「対日戦争専用兵器」でした。

 もしも、米国が、本当に日本との戦争を望んでおらず、真珠湾攻撃が騙し討ちだったというのであるならば、わざわざ開戦前から日本専用の兵器開発に手を染める必要性等なかったのです。

 つまりは、如何に米国が真珠湾奇襲(騙し討ち)・日本軍国主義などと喧伝し、戦後も、米国は正義・日本が悪だったという「日本悪者論」を展開しようとも次々と明るみに出てくるこれらの事実を見れば、日米どちらにより大きな「戦争責任」があったか、如何に米国が「日本との戦争(大東亜戦争)」を欲していたかは、火を見るよりも明らかな事なのです。

 

 

…という内容なのだが、どうもおかしな記述ばかりが目に付くのである(ある程度の歴史的知識があれば、記述内容の杜撰さに気付くことは難しいものではない―と、私は思うのだが、実際問題としては、ネット上には上記内容のコピペ記事ないし上記内容にそのまま依拠した主張が蔓延・流通しているような現実がある)。

 

 で、まず今回は、

 

  昭和16年4月15日。米国大統領フランクリン・ローズヴェルトは、ある重要な大統領令(行政命令)に署名、直ちにその命令が実行に移されました。そしてその命令とは、

  「米国空軍・海軍・海兵隊軍人は、クレア・リー・シェノールト陸軍大佐麾下の「フライング・タイガース」戦闘機部隊に志願すべし」

というものだったのです。

 

…という記述の妥当性を検証してみよう。

 

 

 アラン・アームストロング 『「幻」の日本爆撃計画 「真珠湾」に隠された真実』 日本経済新聞出版社 2008)には、次のように書かれている。

 

 アメリカ義勇兵部隊結成のいきさつを知る権威の多くは、ルーズベルト大統領は同部隊結成を承認する秘密の大統領令に一九四一年四月一五日に署名していると語ってきた。これらの権威の一人であるクリア・シェノールトは、自伝の中で次のように記している。「一九四一年四月一五日、予備役将校と下士官が、中国におけるアメリカ義勇兵部隊に入隊する目的で陸軍航空隊並びに海軍と海兵隊の航空隊を除隊することを承認する、非公開の行政命令が大統領の署名の下で発令された」。また、『ならず者の戦い』の著者のドウェイン・シュルツ教授は、ルーズベルト大統領は「陸・海軍の現役将兵が一年間中国で軍務に服する契約をCAMCOとの間で結び、その後、以前の階級を失うことなく再び所属部隊に帰任することを許可する秘密行政命令に署名した」と主張している。しかしながら、ルーズベルトがアメリカ義勇兵部隊の結成を承認する大統領命令を文書で出した形跡はない。
 ノックス海軍長官補佐官のビーティー大佐が、真珠湾の合衆国海軍航空基地司令官、ジェームズ・シューメーカー大佐宛に一九四一年八月四日に書いた紹介状は、C.B.アデア大尉を紹介するものだった。だが、ビーティー大佐が行った紹介の中身はまったく不正確だった。

  中国政府によるパイロットおよび整備工の米軍からの採用を容易にすることは、かなりの期間にわたり、合衆国政府の政策だった。上記の将校は、中国政府に代わって採用を行っているインターコンチネント社の代表である。貴指揮官は同代表に協力し、貴航空基地のパイロットを面接して中国における軍務のためにインターコンチネント者に採用されることに関心があるか否かを打診することを可能にされたい。

 アメリカ人パイロットに中国軍の航空機を操縦させることが、「かなりの期間」アメリカの政策だったという事実はない。実のところ、シェノールトもその他の義勇兵たちも、宣戦布告なき日中戦争が勃発したあとの一九三七年八月には、中国を離れるようアメリカ領事から警告されているのだ。この警告がきっかけとなって、シェノールトはアラバマ州のモンゴメリー・アドバイザー紙に投稿した手紙のなかで次のように書いている。「中国航空公司のアメリカ人パイロットとその他の従業員の大半は、アメリカ領事の警告を受けて仕事を辞めた」。アメリカは中国にパイロットを提供していたという見方は、せいぜい一九三二年にジャック・ジューイット大佐が率いたアメリカ軍事使節団に該当するにすぎないのではなかろうか。とは言っても、その目的は中国人パイロットの育成であって、日本相手の戦闘で飛ぶことではなかった。
 次に、一九四一年八月七日、J.B.リンチ中佐はニミッツ提督に秘密覚書を送っている。テーマは、「セントラル航空機製造会社(CAMCO)による中国における海軍軍人雇用を認めるための除隊許可」だった。リンチ中佐はノックス長官に、自分は二ヵ月ほど前に多数の海軍将校とブルース・レイトンおよび陸軍航空隊を退役したオールドワース大尉なる人物との会合に呼び出されたと報告した。そのあとリンチ中佐はこう述べている。「示された目的のために海軍の将兵の除隊を認める計画は、海軍長官によって承認されていることが窺えた。長官もまた、大統領から指示を受けているというのが、私のはっきりした印象だった」
 書面による行政命令こそ不在だが、大統領が中国のための特別航空隊の結成を口頭で命令したことはほぼ疑いないだろう。リンチ中佐はまた、こうも報告している。「このような雇用が認められた海軍のすべての軍人は、正規の将兵も予備役の将兵も、合衆国軍隊となんら関係を持たないために、まず海軍あるいは海軍予備役から除隊しなければならないという決定が下された」
          (同書 159ページ~160ページ)

 

 

 アラン・アームストロング氏による限り、

  「米国空軍・海軍・海兵隊軍人は、クレア・リー・シェノールト陸軍大佐麾下の「フライング・タイガース」戦闘機部隊に志願すべし」

…という、大統領の署名のある行政命令は存在しない。

 ただし、

  書面による行政命令こそ不在だが、大統領が中国のための特別航空隊の結成を口頭で命令したことはほぼ疑いないだろう。

…ということなのであるらしい(件のネット記事には「米国大統領フランクリン・ローズヴェルトは、ある重要な大統領令(行政命令)に署名、直ちにその命令が実行に移されました」と明記されているわけだが、「口頭」の「命令」にどのように「署名」が可能だというのだろうか?)。

 それが、

  「このような雇用が認められた海軍のすべての軍人は、正規の将兵も予備役の将兵も、合衆国軍隊となんら関係を持たないために、まず海軍あるいは海軍予備役から除隊しなければならないという決定が下された」

…という条件を付けられたものであることには、真実味がある。「中国のための特別航空隊の結成を口頭で命令した」際に大統領にとって重要だったのは、「合衆国軍隊となんら関係を持たない」存在として「中国のための特別航空隊」を位置付けることであった。

 「決定」の内容は、除隊後の将兵に義勇兵部隊参加への可能性を開いたとまでは言えるにしても、型式としては大統領が義勇兵部隊への参加の条件を示したものに過ぎず、米軍将兵に義勇兵部隊への参加を指示命令したものではない。

 大統領は「特別航空隊の結成を口頭で命令した」が、「米国空軍・海軍・海兵隊軍人」に対し「戦闘機部隊に志願すべし」との命令は(「口頭」のものとしても)発していないのである。

 重要な点なので繰り返しておくが、要するに、「フライング・タイガース戦闘機部隊に志願すべし」という内容・文言の、米国空軍・海軍・海兵隊軍人に対する、米国大統領によって「署名」された「大統領令(行政命令)」と呼び得るものは存在しないということなのである。

 

 もっとも、アラン・アームストロング氏によって書かれた同書の主張の信憑性という問題はあるのかも知れない。しかし、同書の内容は、カバーの説明によれば、

  1941年7月23日、合衆国大統領ルーズベルトは「陸海軍合同委員会計画JB-355」と名付けられた極秘作戦を承認した。これは、中国本土から発進する爆撃機隊で、宣戦布告なしに日本の主要都市を爆撃する計画だった。実行日は41年11月――真珠湾攻撃の1か月前とされていた。
  この作戦を立案したのは、元米陸軍航空隊のシェノールト大尉(のち現役復帰して少将)。中国の蒋介石総統に雇われていた彼に、日本爆撃の密命を与えたのはモーゲンソー財務長官、ハル国務長官、スティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官――「プラス4」と呼ばれるルーズベルト大統領の側近たちである。もちろん大統領自身も、この計画に深く関与していた。
  ではなぜ、日本爆撃は実行されなかったのか。日本のスパイは計画をどこまで察知していたのか。この計画の存在が、今日まで秘密にされてきたのはなぜか……。本書は、アメリカも真珠湾攻撃と同様の「宣戦布告なき先制攻撃」を計画し、実行の一歩手前まで来ていたことを明らかにする。新発見された資料をもとに、日米開戦の「常識」を覆すノンフィクション大作!

…というものだ。大統領の署名のある「行政命令」が実在するのであれば、それはむしろ著者の同書での主張の補強材料として機能するのであり、積極的に公表・紹介すべき第一級の歴史史料と位置付けられる。にもかかわらず、著者自身がその存在を否定している以上、その著者の主張を疑うべき理由は私には思い付けない。

 

 

 それに、行政命令の内容自体が、あまりにいいかげんなものに見えるのだ。ネット上のお話によれば、ルーズベルトによる「重要な大統領令(行政命令)」の内容は、

  米国空軍・海軍・海兵隊軍人は、クレア・リー・シェノールト陸軍大佐麾下の「フライング・タイガース」戦闘機部隊に志願すべし

…というものだったというのだが、「クレア・リー・シェノールト陸軍大佐」とは何事だろうか!?アームストロング氏の著書のカバーにある通りで、クレア・リー・シェノールトの実際の肩書きは、

  元米陸軍航空隊のシェノールト大尉

…なのである。米陸軍航空隊大尉であったシェノールトは米「陸軍」航空隊を除隊の後に、中華民国「空軍」の大佐として現地に赴任したのである。である以上、

  米国空軍・海軍・海兵隊軍人は、クレア・リー・シェノールト陸軍大佐麾下の「フライング・タイガース」戦闘機部隊に志願すべし

…などという文言の「重要な大統領令(行政命令)」など、「陸軍大佐」としてのクレア・リー・シェノールトが存在しなかった以上、そもそもが存在し得ないものなのである。それに加えて、この「行政命令」の対象は「米国空軍・海軍・海兵隊軍人」となっているが、米国に独立した空軍が誕生したのは第二次世界大戦後のことである。つまり、二重の意味で、存在し得ない「行政命令」なのだ。

 従って、続く、

  「フライング・タイガース(以下、飛虎隊と略)」とは、蒋介石軍(支那軍)の空軍顧問だった米軍佐官・クレア・リー・シェノールト(支那名は陳納徳、日本では一般にシェンノートと書かれる事が多い)が、蒋介石夫人・宋美麗の資金提供を受け、米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊「アメリカン・ヴォランティア・グループ(American Volunteer Group:略称「AVG」)の事です。

…というお説にある「蒋介石軍(支那軍)の空軍顧問だった米軍佐官・クレア・リー・シェノールト(支那名は陳納徳、日本では一般にシェンノートと書かれる事が多い)」という記述、この「米軍佐官」という肩書きも事実を正確に反映したものとは言い難い(ただし、「蒋介石軍(支那軍)の空軍顧問」という記述については、中華民国の「空軍」は当時既に存在していたので誤りではない)。

 

 

 

 今回の結論として再確認しておくと、フライング・タイガース(飛虎隊)をめぐりネット上に流布された情報の冒頭にある、

 昭和16年4月15日。米国大統領フランクリン・ローズヴェルトは、ある重要な大統領令(行政命令)に署名、直ちにその命令が実行に移されました。そしてその命令とは、

  「米国空軍・海軍・海兵隊軍人は、クレア・リー・シェノールト陸軍大佐麾下の「フライング・タイガース」戦闘機部隊に志願すべし」

というものだったのです。

…との記述は、米国に空軍の存在しない時代に、米国軍人として存在しないクレア・リー・シェノールト陸軍「大佐」の指揮下の「フライング・タイガース」戦闘機部隊への志願を、米国の軍人に命令した実際には存在しない「大統領令」について述べたものであり、主張として(その根幹においても枝葉においても)歴史的事実に反する内容であることが明らかになった。

 今回取り上げたネット情報の内容は、その冒頭からして(つまり前提からして)誤りに満ちたものであり、フライング・タイガースについての積極的な「捏造記事」なのである。歴史的事実の「捏造」という問題は朝日新聞に限った問題ではなく、「朝日新聞の捏造」を批判する人々にとっても日常茶飯の行為である現実が、このようなネット情報を読むことで確かめられるわけだ。

 

          (次回に続く)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2010/08/19 22:18 → http://www.freeml.com/bl/316274/145352/
 投稿日時 : 2010/08/20 22:17 → http://www.freeml.com/bl/316274/145422/

 

 

 

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2010年8月17日 (火)

続々々々々・「事変」と「中立」

 

 1937年(昭和十二年)7月7日、いわゆる盧溝橋事件を機に、日本軍と中国国民党軍は軍事的衝突の継続状態に入った。

 しかし、どちらも宣戦布告をすることはなく、大日本帝國政府はと言えば、「戦争」ではなく「事変」と呼んで対処することを選んだ。それが「支那事変」である。

 

 

 「事変」に対し、米国は「中立法」の発動を選択しなかった。その間の事情を、大山卯次郎氏は、パンフレット「米國中立法の意義及其適用に就いて」の中で、

 

  尤も大統領の意向を代弁するのではないかと思はれる米国上院外交委員長ピットマン氏は北支事変不拡大当時の七月二十九日「戦争状態の存在を決定することは困難な問題である、余り性急に行動しては現在米国政府が続けつつある平和の努力を水泡に帰せしむる恐れがあるのみならず、大統領が中立法を布告して間もなく戦争が止まる様なことがあつては、大統領が面目を失することになる」と云ひ、事変拡大後の八月十四日に至り「支那の新事態は明らかに戦争と認められる、しかし日支両国のいずれもが未だ宣戦の布告を為さざる以上、大統領がその存在を宣明する必要もあるまい」との意味の談話を発表して居るのであつて、人をして政府は中立法の施行を好まないのではないかと思はしめて居る。

 

…と、述べていた(前回までの話)。

 

  支那の新事態は明らかに戦争と認められる、しかし日支両国のいずれもが未だ宣戦の布告を為さざる以上、大統領がその存在を宣明する必要もあるまい。

…との上院外交委員長の言葉は、確かに理屈に合っているものではあるのだろう。

 しかし、もちろん、大山博士の指摘する、

  此処に我等の大に注意を要することは、米国が今回の日支事件に関しこの法律を持て余して居ると云ふことである。その理由は米国がこの法律を制定した時には、米国の眼中に欧州のみあつて、東洋のことは余り考えて居なかつたのである。

  それ故英国が中立法に対して英国に都合が良い様な修正を要求した時に米国は英国に利益を与える積りで之に同意し「現金購入・自船積取」の規定を設けた次第であるが、今度日支事件が起つたので考へて見ると、英国に有利なこの規定は同じ海軍国であり又海運国である日本にも有利であり、それが甚だしく支那に不利益であると云ふことが明らかになつたので、此法律をこの事件に適用することは考へものだといふ意見が、米国の有力者の間に於て盛に唱へられてゐる。

…との事情も、その判断の背景として考えなければならない。

 1937年5月に「現金購入・自船積取(キャッシュ・アンド・キャリー)」条項を追加修正したばかりの「中立法」の発動の結果は、海運国である日本を一方的に利するばかりで、「甚だしく支那に不利益であると云ふことが明らかにな」ってしまったわけである。そこで、一方的に「支那に不利益である」法の発動を(あえて)すべき理由はないと米国政府が判断した、ということになるのだろう。

 蒋介石の国民政府が日本に対する「宣戦布告」の選択をしなかった背景にも、同じ問題を見出すことが出来る。日支両国間の「戦争状態」を宣言してしまえば、米国からの物資に大きく依存していた中国政府自身に、海運国日本の比ではない不利益な状況がもたらされてしまうわけである。「事変」であるという日本政府の主張は、そのような形で、中国の国益にも合致していたのである。

 結局、米国による「中立法」の発動を見ないままに、大陸での「事変」は拡大していくばかりであった。前回に示したように、「事変拡大」つまり大日本帝國による対支軍事力行使の継続を支えていたのもまた、「中立法」の不発動により継続されていた米国からの石油供給だったのである。「中立法」の不発動は、日本政府の利益にも合致するものであった(それが、日本による対支軍事行動が日本政府により「事変」と呼ばれるそもそもの理由であったことを思い出そう)。

 

 同年末には、大日本帝國の軍隊は国民政府の首都南京攻略を果たすが、しかし、南京陥落後も(帝國の期待していた)国民政府の屈服という事態は訪れなかった。国民政府の抗戦意欲が衰えることはなかったし、むしろ国民政府の求心力は強化されたようにさえ(現在の視点からは)見える。

 

 

 

 翌1938年(昭和十三年)1月16日、首都陥落を誇るべき軍事的達成と考えた近衛文麿首相は、あの有名な声明を発表してしまう。

 

 

     「國民政府ヲ相手ニセズ」  政府聲明
昭和十三年(1938年)一月十六日
帝國政府ハ南京攻略後尚ホ支那國民政府ノ反省ニ最後ノ機會ヲ與フルタメ今日ニ及ヘリ。然ルニ國民政府ハ帝國ノ眞意ヲ解セス漫リニ抗戦ヲ策シ、内人民塗炭ノ苦ミヲ察セス、外東亜全局ノ和平ヲ顧ミル所ナシ。仍テ帝國政府ハ爾後國民政府ヲ對手トセス、帝國ト眞ニ提携スルニ足ル新興支那政權ノ成立發展ヲ期待シ、是ト兩國國交ヲ調整シテ更生新支那ノ建設ニ協力セントス。元ヨリ帝國カ支那ノ領土及主權竝ニ在支列國ノ權益ヲ尊重スルノ方針ニハ毫モカハル所ナシ。今ヤ東亜和平ニ對スル帝國ノ責任愈々重シ。政府ハ國民カ此ノ重大ナル任務遂行ノタメ一層ノ發奮ヲ冀望シテ止マス。

 

 

…と言うだけでは足らず、2日後にはダメ押しまでしてしまう。

 

 

     (参考)  補足説明
          昭和十三年(一九三八年)一月十八日
爾後國民政府ヲ對手トセスト云フノハ同政府ノ否認ヨリモ強イモノテアル。元來國際法上ヨリ云ヘハ國民政府ヲ否認スルタメニハ新政權ヲ承認スレハソノ目的ヲ達スルノデアルカ、中華民國臨時政府ハ未タ正式承認ノ時期ニ達シテヰナイカラ、今回ハ國際法上ノ新例ヲ開イテ國民政府ヲ否認スルト共ニ之ヲ抹殺セントスルノテアル。又宣戰布告ト云フコトカ流布サレテヰルカ、帝國ハ無辜ノ支那民衆ヲ敵視スルモノテハナイ。又國民政府ヲ對手トセスヌ建前カラ宣戰布告モアリ得ヌワケテアル。

 

 

 大日本帝國は、こうして外交の場での交渉の相手を否認(実際には「否認ヨリモ強イモノ」とまで主張している)することで、外交的解決の機会を自ら棄ててしまったのであった。つまり、外交交渉による事変の終息の機会と手段は失われ、大陸における果てしない軍事力行使が続けられることになる。交渉での決着の道を否定してしまった以上、軍事的に解決する以外になくなってしまったのである。「事変の完遂」とは、国民政府の屈服による事態の終息の到来への希望を意味している。しかし、大日本帝國の国力では、中国大陸での全面的な軍事的制圧など望み得るものではなかった。米国からの石油供給なしには、軍事的勝利どころか、戦闘行為の継続さえ不可能なのであった。

 

 

 

 拡大する事変に対し、では、米国はどのように振舞っていたのか?

 

 10月6日、日本駐在米国大使から提出された、「中國に於ける米國權益確保に関する米大使申入」(十月六日附在京米國大使來翰第一〇七六号)では、

 

 

 …統制及課税竝ニ貿易禁止ヲ為ス最高権力カ直接ニセヨ間接ニセヨ一外國ノ官憲ニ依リテ右外國ノ利益伸張ノ為メニ行使セラルル限リ支那ニ於ケル機会均等乃至門戸開放ノ存シ得ルヘキコトハ殆ント贅言ヲ要サルヘク候、支那ニ於ケル機会均等乃至門戸開放ノ基礎要件ハ支那ニ於ケル経済活動ニ関シ直接ニセヨ間接ニセヨ一外國乃至其國民ノミヲ利益スルカ如キ特恵乃至独占的権利ノ存在セサルヘキ事ナル事ハ自明ノ理ナルへク候…

 …本使ノ申述ヘタル右諸事態ハ支那ニ於ケル日本ノ政策ノ明瞭ナル傾向ヲ示シ且日本軍占領下ノ地域ニ於テ日本官憲カ日本ノ利益ノ為ニ特恵及優越権ヲ確立スヘク努力シ居リ其必然的結果トシテ門戸開放主義ノ実際的適用ヲ破壊シ且米國市民ヨリ機会均等ヲ剥奪スルモノナルコトヲ明瞭ニ物語ルモノニ有之候

 

 

…との、米国政府の立場の説明と日本政府への要求が示されていた。ここで問題とされているのは、

  門戸開放主義ノ実際的適用ヲ破壊シ且米國市民ヨリ機会均等ヲ剥奪スルモノナルコトヲ明瞭ニ物語ル…

…大日本帝國の大陸における振る舞いであった。利己的で一方的な大日本帝國の帝国主義的振る舞いが、門戸開放機会均等主義により保障されているはずの米国の帝国主義的利益獲得を阻害しているという指摘なのである。

 外交交渉での日米間の問題の焦点は、実は、そこにあった。

 

 ここには、海運国である日本を一方的に利するばかりで「甚だしく支那に不利益であると云ふことが明らか」となった「中立法」を、米国が発動しないことへの積極的な理由を見出すことも出来るだろう。大陸において米国の権益追求の機会を阻む大日本帝國の軍事的政策の展開に対し、大陸における大日本帝國の権益追求に有利となるだけの「中立法」の発動を米国が選択しないことには、米国自身の国益追求上からも十分な理由があったことになる。

 日支間の軍事的衝突が「実質国家間の戦争行為」であるにもかかわらず、それを大日本帝國が「事変」と呼び、国民政府も「宣戦布告」を回避し、米国も「中立法」を発動しなかった背景には、各国それぞれの国益追求上のそれぞれに合理的理由があったのである。

 

 

 

 米大使グルーに対する有田八郎外務大臣からの回答は、

 

 

 帝國政府ハ支那ニ於ケル貴國権益ハ之ヲ充分ニ尊重スルノ意図ヲ以テ出来得ル限リノ努力ヲ為シ来レルモノナル処目下東亜ニ於テハ有史以来會テ見サル大規模ノ軍事行動行ハレツツアルヲ以テ貴國権益尊重ノ意図ヲ実行スル上ニ時トシテ支障ヲ生スルコトアルハ貴國政府ニ於テモ御諒承相成ルヘキコトト存候目下帝國ハ東亜ニ於テ真の国際正義ニ基ク新秩序ノ建設ニ全力ヲ挙ケテ邁進シツツアル次第ナルカ之カ達成ハ帝國ノ存立ニ欠クヘカラサルモノタルノミナラス東亜永遠ノ安定ノ礎石タルヘキモノニ有之候今ヤ東亜ノ天地ニ於テ新ナル情勢ノ展開シツツアル秋ニ当リ事変前ノ事態ニ適用アリタル観念乃至原則ヲ以テ其ノ儘現在及今後ノ事態ヲ律セントスルコトハ何等当面ノ問題ノ解決ヲ齎ス所以ニ非サルノミナラス又東亜恒久平和ノ確立ニ資スルモノニ非サルコトヲ信スル次第ニ有之候

 

 

…というものであった。外務大臣は、

  帝國政府ハ支那ニ於ケル貴國権益ハ之ヲ充分ニ尊重スルノ意図ヲ以テ出来得ル限リノ努力ヲ為シ来レルモノナル処…

…と言うのではあったが、しかし、

  帝國ト眞ニ提携スルニ足ル新興支那政權ノ成立發展ヲ期待シ…

…ていた帝國(近衛声明)が、その成立させられるべき「新興支那政權」に実際に求めていたのは、

 

第四條、 日華経済提携ハ互恵平等ノ原則ニ立チ密ニ経済合作ノ実績ヲ挙ケテ日本ノ優先権ヲ認メ特ニ華北資源ノ開発利用ニ関シテハ日本ニ特別ノ便利ヲ供与ス
     (日華協議記録・昭和十三年十一月二十日)

 

そして、
 

     

二、第四條ノ優先権トハ列國ト同一条件ノ場合ニ日本ニ優先権ヲ供与スルノ意トス
     (日華協議記録諒解事項・昭和十三年十一月二十日)

 

…という、「日本ノ優先権」であり「特別ノ便利」なのであった。現実に、「日本ノ優先権」を前提として中国大陸での振る舞いを続けていた以上、「支那ニ於ケル機会均等乃至門戸開放」を求める米国政府との利害の対立は解消され得ない。ここにあるのは、大陸における「権益」のあり方をめぐる日米の対立である。中国への軍事的恫喝により「権益」の強化を目指す日本と、各国の「権益」の確保は「機会均等乃至門戸開放」原則の下で、非軍事的に自由に行われるべきであると考える米国の対立なのである。

 詰まるところ、大陸における「日本ノ優先権」、「特別ノ便利」としての植民地的権益の維持・拡大の利己的な追及の「完遂」への努力こそが、「事変の拡大」の内実なのであった。そこには、大日本帝國による植民地的権益の維持・拡大の試みに対する対抗勢力であり続けて来たのが蒋介石の国民政府であるという構図が成立してしまうことになる。蒋介石の「屈服」を目指し、戦線を拡大すればするほど、後退を続ける蒋介石への支持基盤は(国内的にも国際的にも)強化されることになるのであった。拡大された戦線の維持だけで、大日本帝國の国力は消耗していくことになる。

 

 一方、その戦線の拡大を支えていたのは、実は、米国である。輸出による外貨獲得先として米国に依存し、輸入による資源確保においても米国に依存していたのが「帝國」の実態であった。「事変完遂」を目指す「帝國」の国力は、輸出入の両面で、大きく米国に依存していたのである。

 事変の拡大の過程とは、その「帝國」が、わざわざ米国との利害対立状態を拡大させる過程でもあった、というわけである。

 

 日米間の利害対立状態の継続の結果、1939年(昭和十四年)には、大日本帝國は、ついに米国から「日米通商条約廃棄」を通告される事態に立至る。

 しかし、それは米国による「最後通牒」となることはなく、日米間の外交交渉の課題は、「日米新通商条約締結」へと移行されることになった。その場での米国の要求は、依然として、

 

 

米国政府ハ「通商上ノ権利及機会の均等原則」ヲ通商条約ノ基礎条件ト為スモノニシテ従テ右原則確立カ新通商条約締結ノ先決要件ニテ又夫レニハ単ニ相手国ノ政策及措置カ問題トナルノミナラス相手国ノ勢力ノ下ニ存スル第三国ニ於ケル米国人ノ取扱ニ関スル点モ問題視セラルルモノナル処目下日本軍ノ占領治下ニ於テハ種々ノ通商居住移動等ニ関スル制限存在シ米国ノ商業上ノ権益ニ対スル均等待遇ヲ不可能ナラシメ居ルヲ以テ右ハ新条約締結ニ対スル障碍ナルモノナルコトヲ指摘セルモノナリ
     (日米新通商条約締結に関する第四次東京会談 昭和十四年十二月二十二日午後五時半ヨリ約一時間大臣官邸ニ於テ)

 

 

…というものであり、米国に対する「帝國」の「通商上ノ権利及機会の均等原則」の保障が求められ続けているのであったが、「帝國」によりその「障碍」が取り除かれるという展開に至ることもなかった。

 

 ドイツの侵攻によりヨーロッパでの戦争が開始された渦中での日独伊の三国の同盟関係の強化(軍事同盟化)は、(大日本帝國の期待としては)米国に対する牽制として機能し帝國の立場を強固にするものであるはずであったが、実際には米国(ドイツに攻撃されている英国の友好国だ!)の反発を買い、対立関係を強化することにしか役立たなかった。

 同時に国策の課題として浮上した、米国に依存しない資源供給確保を目的とした「南方進出(南進)」とは、結局のところ、軍事力を伴う南方への大日本帝國の勢力拡大そのものとして以外に実現し得ず、米国との対立関係を敵対的なものへと確定させるものでしかなかった。

 大日本帝國は、国策として、米国との関係悪化策を採用し続けることで一貫していたのである。

 

 

 

 「事変」の拡大(と消耗)の果てに、大日本帝國が対米英開戦に至るのは、盧溝橋事件から四年後、近衛声明から三年後、日米通商条約廃棄から二年後、日独伊三国同盟が成立し北部仏印進駐という名の南進開始の翌年のことになる。

 

 「中立法」に具体化されていた米国の孤立主義は、真珠湾以後、この地球上から姿を消すことになった。

 

 

 

 

 

 

…というわけで、「事変と中立」とのタイトルで、

 

  事変と言っても実質国家間の戦争行為だった事は明らかで、中立を守らず蒋を支援し続けた列強の行為も問題です。
 

…との主張の妥当性を、当時の国際法の実際、米国の国内法である「中立法」の文言の検討、その間の大日本帝國の政治的軍事的選択、日米間の外交交渉の内実といった観点から検証することを試みて来た。結果として六回に亘るシリーズとなってしまったが、いずれの観点からも、上記紹介の主張がお話にならないものであることが明らかになったように思われる。

 

 「実質国家間の戦争行為」を「事変」と呼ぶことによって、そこに国際法上の「戦争状態」は存在せず(それが大日本帝國の立場である)、である以上、戦時国際法上の「中立」は問題とはなり得ない。

 「実質国家間の戦争行為」に対し当事者が「事変」と呼んでいる以上、米国大統領が国内法としての「中立法」を発動させる必要(そして義務)もない。むしろ「中立法」の不発動は、論理的には、「実質国家間の戦争行為」を「事変」として処理する日本政府の意思を尊重したものとなっているのである。

 米国による日本のみを対象とした「石油禁輸措置」は、それが「戦争」であればこそ「中立義務違反」の指摘も可能になるが、「事変」であるという前提(たとえそれが、「実質国家間の戦争行為」であろうとも)の下では、国際法上の「中立義務」自体が発生せず、「石油禁輸措置」は単に日米二国間の通商上の問題にとどまってしまうのである。

…というのが、「支那事変」をめぐる、国際法上の「中立義務違反」の問題と、米国内法としての「中立法」発動の問題を検討した結果得られた、大日本帝國政府、中国国民政府、米国政府それぞれの国益追求の構図と言うことが出来るであろう。

 

 ご興味を感じられたら、各回の詳細をお読みになることで、問題の在処を正確に理解していただきたい。

 

 

〔追記〕

 俯瞰的視点から、つまり他人事として支那事変というものを眺めれば、

大日本帝國と中華民国国民政府(国民党と共産党の連合体である)との軍事的衝突
   その過程における中国内部での蒋介石への権力の収斂(とその影での中国共産党との対立)

資本主義的搾取の対象としての中国大陸における、権益確保をめぐる大日本帝國と英米の対立
   その際、大日本帝國は英国の既得権の侵害者であると共に、米国の権益獲得への障碍であった

…というファクターの同時進行過程であった、と言うことも出来るであろう。

 つまり…

大日本帝國による大陸での軍事力行使の継続の結果、米英と中国共産党は蒋介石の同伴者となり、対外的にも対内的にも(つまり対日戦継続と国内政治での主導権獲得の両面で)蒋介石は利益を得ることになった。

大日本帝國の軍事力による大陸での権益確保・拡大の試みは、門戸開放・機会均等原則に基づく米国の権益拡大策の妨げとなり、米国を敵とすることに役立った。

…のだということになる。そして…

事変は、対米英戦争へと連続し、最終的には大日本帝國は敗者として大陸から排除された。

勝者であったはずの蒋介石は、新たな敵(実際には旧来の敵であったが)としての中国共産党との闘争に敗北し、大陸から排除された。

英国は、第二次世界大戦による消耗からの恢復が出来ず、国際政治における地位を後退させることになった。

米国は、軍事的勝者として国際政治の主導権を握ると同時に、それまでの孤立主義的政策を放棄することとなり、以後の世界における戦争の主役となっていくことになる。そして米国も、ベトナムとイラクでは「負けた戦争」の体験者となった。

日本は「負けた戦争」の結果、米国の占領による戦後を経験したが、主権回復以後も米国に対する従属的立場を堅持することで経済発展を果たし、国際社会での一定の地位を非軍事的方法により確保することに成功した。

…というそれぞれの歴史的展開を経験することになったわけだ。

 それを「日本は負けて勝ったのだ」などと言うのは、300万の犠牲者のことを顧みない恥ずかしい負け惜しみである。
 戦後の対米従属の下で、非軍事的に戦前以上の経済発展が成し遂げられた事実がある以上、そもそも300万人の死が必要であったのかどうか? 非軍事的に達成可能であったことを、威圧的軍事力行使に頼り、結果として300万人の同朋の死(国外にはさらに2000万人の戦争犠牲者がいる)があるのだとすれば、その国策決定は批判され反省されねばならない。米国との協調の下に、非軍事的に大陸政策を進めていれば、敗戦による占領を免れ、明治以来獲得した植民地を失うこともなく、東京が焼け野原となることもなく、ヒロシマ・ナガサキの悲劇もなく、靖国に200万を超える新たな英霊を加えることもなかったのである(…というのは、もちろん事後的な、つまり結果から語られる仮定に過ぎず、私たちが直視しなければならないのは、事変の目的であったはずの大陸における権益の維持も、大東亜戦争の戦争目的とされた帝國の自存も自衛も果たされなかったという歴史的事実であり、その背後にある膨大な国内外の犠牲者の存在である)。
               (2011年2月10日記)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/08/06 22:05 → http://www.freeml.com/bl/316274/144369/

 

 

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2010年8月16日 (月)

続々々々・「事変」と「中立」

 

 米国大統領には、

 

  ある物資、原料の合衆国より交戦国または内乱の存する国への輸送に制限を加えることが、合衆国の安寧を促進し、その平和を維持し、あるいは合衆国市民の生命を保護するために必要であると認めたときは、その旨を布告する

 

…権限が与えられていた。

 それにより、米国の「中立法」が発動されることになる。

 前回に続き、昭和十二年(1937年)に発行された、大山卯次郎博士執筆のパンフレット「米國中立法の意義及其適用に就いて」により、「中立法」発動以後の展開を復習しておこう。

 

 

 第二 交戦国並に内乱国に対し、武器、弾薬並に軍用器材の輸出を禁止し、且つそれが中立国に輸出せられる場合に於ても、交戦国に転送せられ、又は交戦国の使用に供せられるものと認められた時は、矢張りその輸出を禁じて居る。尤も中立国は国際法上斯る禁輸を実行せねばならぬ訳のものではないが、米国は自ら交戦国との紛争を避ける為、自分の都合で之を禁止するまでである。
  (註)本項に所謂武器、弾薬、器材とは如何なるものを云ふのであるかは大統領に於て遅滞なく時々明確に列挙して布告せねばならぬことになつて居るが、現在は一九三七年五月一日本法制定と同時に大統領令を以てその品目を定めて居り、軍用器材は主として薬品であつて、鉄、石油、綿花等は含まれて居らず。

 第三 武器弾薬軍用器材以外の物品、例へば食料又は製造原材料等の貨物も、大統領の見込みにより輸出を禁出し得ることにし、その例外として外国の政府が現金で買入れ、自分の船舶で積取る場合には輸出を許すことにして居る。之をキャツシュ・エンド・キャーリーの即ち「現金買入・自国船積取」の規定と云ひ、本法の最も大なる特色である。これは本年春米国会議で中立案を討議中英国商務大臣のランシマン氏が渡米して談判の結果、かういふ除外例を設けたのであつて、米国はこの結果、一方に於て武器、弾薬、軍用器材並びに原料その他の物品の輸出を禁ずることによつて、理想主義を実行したけれども、他方に於て斯る除外例を設け、米国自らの為に戦時商業の道を開き、併せて財力の豊かな海上の優者たる英国が交戦国である場合に之を援助しようとしたのであつて、主義上大なる矛盾と云はねばならない。

 第四 交戦国及交戦団体に対し金融上の援助を禁じて居るが、米国は予て米国に対し借金を払はない国に対して金融上の便宜を与えないと云ふ法律を作つてゐて、欧州諸国は大抵此法律の為に米国から金が借りられないことになつてゐるから、この禁止条項は欧州に関する限り、実際上余り効果はないのである。

 

 

…ということになるわけだが、中心となるのは、「交戦国並に内乱国に対し、武器、弾薬並に軍用器材の輸出を禁止」という条項であろう。

 

 

 ここに、大日本帝國により、「支那事変」があくまでも「事変」として処理され、日支間の「戦争」として取扱われないことの理由がある。

 「支那事変の完遂」という大日本帝國政府の目標達成のためには、米国による中立法発動は致命的なものとなり得るからだ。

 

 ここでは、その実態を、森本忠夫『魔性の歴史 マクロ経営学から見た太平洋戦争』(光人社NF文庫 1998)から引用してみたい。大日本帝國の対支軍事力行使は、米国からの輸入資源に、大きく依存していたのである。

 

 

  日本が戦争遂行上、不可欠とした資源、石油(原油)は、1938年に82パーセント(数量では1939年に90パーセント)の依存度にも達し、鉱油は56パーセント、綿花は38パーセントにも達していたのである。すでに述べたとおり、米英の経済圏に頼ることなく、日本は日中戦争といえども戦争を遂行することはおぼつかなかったのである。

 

 

…というのが、大日本帝國の内情であった。米国による「中立法」の発動は、米国からの石油輸入の途絶を意味することになり得るものなのであり、「事変の完遂」は不可能になる。大日本帝國には、拡大の一途を辿った対支軍事力行使は、あくまでも「事変」でなければならなかったのである。

 

 

 しかし、興味深いことに、米国政府の側にも、「中立法」の発動をためらう理由があった。

 大山博士は、「米國中立法の意義及其適用に就いて」の中で、その事情を次のように解説している。

 

 

    五、日支事変に対する中立法の適用

 斯くの如く米国の中立法は従来米国が最も重要とした海洋自由主義に対する一大転換であるに相違はないが、その実その重要部分に関し海上の優者たる英国をその適用外に置いたことに依り、立法の価値を少なくとも半減してゐるのみならず、本法の運用を大統領の採量に一任してゐる為、それが大統領の政治的駆け引きに利用せられることは免れないと云はれて居る。
 此処に我等の大に注意を要することは、米国が今回の日支事件に関しこの法律を持て余して居ると云ふことである。その理由は米国がこの法律を制定した時には、米国の眼中に欧州のみあつて、東洋のことは余り考えて居なかつたのである。
 それ故英国が中立法に対して英国に都合が良い様な修正を要求した時に米国は英国に利益を与える積りで之に同意し「現金購入・自船積取」の規定を設けた次第であるが、今度日支事件が起つたので考へて見ると、英国に有利なこの規定は同じ海軍国であり又海運国である日本にも有利であり、それが甚だしく支那に不利益であると云ふことが明らかになつたので、此法律をこの事件に適用することは考へものだといふ意見が、米国の有力者の間に於て盛に唱へられてゐる。
 尤も米国政府としてはこの際我国に対し極めて慎重な態度をとつて居るのであつて、率直な意見は発表せられて居ないが、
 この際この中立法を発動することの可否に就て大に迷つ居ると云ふことが伝へられてゐる。尤も大統領の意向を代弁するのではないかと思はれる米国上院外交委員長ピットマン氏は北支事変不拡大当時の七月二十九日「戦争状態の存在を決定することは困難な問題である、余り性急に行動しては現在米国政府が続けつつある平和の努力を水泡に帰せしむる恐れがあるのみならず、大統領が中立法を布告して間もなく戦争が止まる様なことがあつては、大統領が面目を失することになる」と云ひ、事変拡大後の八月十四日に至り「支那の新事態は明らかに戦争と認められる、しかし日支両国のいずれもが未だ宣戦の布告を為さざる以上、大統領がその存在を宣明する必要もあるまい」との意味の談話を発表して居るのであつて、人をして政府は中立法の施行を好まないのではないかと思はしめて居る。
 (以下略)

 

 

…ということなのであった。

 

 

 結果として「中立法」は発動されず、大日本帝國にとっての最重要の戦略物資であった米国からの石油の供給が止まることはなかった。つまり、

  事変と言っても実質国家間の戦争行為だった事は明らかで、中立を守らず蒋を支援し続けた列強の行為も問題です。

…という話ではないのだ。確かに米国が蒋介石を支援したことも事実だが、大日本帝國が蒋介石相手の「実質国家間の戦争行為」を続けられた事実の背後にも、米国による大日本帝國への石油供給の継続という事実があったのである。

 問題の構図を論理的に整理すれば、「実質国家間の戦争行為」を「事変」として処理するという大日本帝國政府の方針は米国大統領にも尊重され、「実質国家間の戦争行為」が「戦争」ではない「事変」として米国からも取扱われることで、米国の国内法である「中立法」の発動が見送られれたわけである。「中立法」の不発動により米国からの石油供給は継続され、その結果として、「事変」という名による大日本帝國の「実質国家間の戦争行為」の継続も可能になったわけなのである。

  事変と言っても実質国家間の戦争行為だった事は明らかで、中立を守らず蒋を支援し続けた列強の行為も問題です。

…という主張は、大日本帝國政府の立場を擁護しているように見えて、実は、当時の大日本帝國政府の方針への無理解を表明しているのものであるに過ぎない。

 

 

 

                    (次回へ続く)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/08/04 23:40 → http://www.freeml.com/bl/316274/144253/

 

 

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2010年8月15日 (日)

続々々・「事変」と「中立」

 

 1937年、つまり昭和12年の5月1日、米国の「中立法」が成立した。

 正確に言えば、1935年に成立した最初の「中立法」が1936年に修正され、続いて1937年に再び修正されたのであった。その間の事情を、法律としての内容も含めて確認しておきたい。まず、ここでは『ウィキペディア』の記述を読んでおこう。

 

中立法(ちゅうりつほう、Neutrality Acts)とは1935年(昭和10年)にアメリカで制定された法律で、大統領が戦争状態にある国が存在していること又は、内乱状態にある国が存在していることを宣言した場合には、その国に対して武器や軍需物質の輸出を禁じるというものである。
1941年(昭和16年)の改正では、商船の武装禁止及び戦闘区域侵入の禁止が廃止された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E6%B3%95

 

…という、何とも簡単な記述であるが、1935年とは、イタリアによるエチオピア侵攻(第二次エチオピア戦争)の年であり、当時は孤立主義的であった米国が制定したのが、問題の「中立法」なのである。他国の戦争に関わらないことを目的とした法律であった(当初は「戦争状態にある国」だけが対象とされた)。

 1936年の修正で「内乱状態にある国」にまで対象が拡大されたが、それはスペイン内戦を受けてのことである。(…と書いてしまったが、正確さに欠けていたようである。この点については、「追記」を参照)

 『ウィキペディア』では触れられていないが、1937年の修正では「現金自国船条項」が追加されている。これは英国を意識した付加であり、依然として米国籍船舶による輸送・輸出は禁止されるが、輸送・輸出物が既に現金決済され、その上で自国の船舶(ここでは英国の船舶が想定されていたわけである)を使用しての輸送・輸出に関しては制限を設けないことを内容とするものだ。

 

 前回にご紹介した条文で、その「現金自国船」に関する修正に該当するのが、

 

2.他の物資・原料の輸出
 〔a〕 大統領は、本法第1条によつて布告を発し、かつその後の武器、弾薬、軍需器材に加うるに、ある物資、原料の合衆国より交戦国または内乱の存する国への輸送に制限を加えることが、合衆国の安寧を促進し、その平和を維持し、あるいは合衆国市民の生命を保護するために必要であると認めたときは、その旨を布告する。以後は……合衆国の船舶が右の物資および原料を、本法第一節により発せられた布告に指定された交戦国、または内乱のおこなわれる国に向けて、あるいは右交戦国または内乱のおこなわれる国へ積換える目的をもつて、またはその使用に供するために、いかなる中立国へ向けて運搬されることも不法とされる。大統領は合衆国船舶が輸送することが不法となるべき物資、原料を時々布告をもつて明確に列挙する。
 〔b〕 大統領は、本法第1節によつて布告を発し、かつその後物資および原料の合衆国より交戦国、または内乱の存する国への輸出に制限を加えることが、合衆国の安寧を促進し、その平和を維持し、あるいは合衆国市民の生命、通商を保護するために必要であると認めたときは、その旨を布告する。以後は……合衆国より本法第1節により発せられた布告に指定された交戦国、または内乱のおこなわれる国に向けて、あるいは右交戦国または内乱の行われる国へ積換える目的をもつて、またはその使用に供するために、いかなる中立国に対し輸出ないし輸送し、または輸出ないし輸送を企て、または輸出ないし輸送せしめることも、右物資あるいは原料に関する一切の権利、権利の根拠および利益が外国の政府、代理人、機関、協会、組合、法人または国民に譲渡されるまでは不法とされる。

 

…という条項である。これは私には大変にわかりにくいと思われるのだが、

 

 〔a〕において、「合衆国の船舶が右の物資および原料を、本法第一節により発せられた布告に指定された交戦国、または内乱のおこなわれる国に向けて、あるいは右交戦国または内乱のおこなわれる国へ積換える目的をもつて、またはその使用に供するために、いかなる中立国へ向けて運搬されることも不法とされ」ているわけだが、

 〔b〕において、「不法とされる」のは「右物資あるいは原料に関する一切の権利、権利の根拠および利益が外国の政府、代理人、機関、協会、組合、法人または国民に譲渡されるまで」という限定が付され、かつ「合衆国の船舶が」との限定は取り除かれている、

 

…ということなのである。

 

 当時の日本国内での受け取り方の例として、「米國中立法の意義及其適用に就いて」と題された昭和十二年十月五日発行のパンフレット(明倫会)の内容を読んでみよう。筆者である法学博士、大山卯次郎氏は、

 

     四、中立法の要領

 斯ういふ風で中立法制定の裏面に全然思想の異なつた意見が対立して居た為、議論百出といふ有様で、容易に纏らなかつたのを、漸く妥協に依て之を造り上げた次第であるから、そこに幾多の矛盾と欠陥を生ずるに至つたのは、誠に已むを得なかつたことと思はれる。然らばさうして出来た中立法はどういふ内容のものかといふと、その全文は十五箇條から成立つて居るが、その中重要なものは次の通りである。

 第一 此法律は云ふ迄もなく戦時に適用するのであるが、戦争の事実が存在するや否やは大統領の認定に一任してゐるのである。従つて大統領に非常な運用の自由が与へられる結果となつてゐるのであつて、大統領が之を以て外交上の駆け引きに利用するであらうことは想像に難からずとするところである。尤も交戦国が自ら宣戦を布告した場合は、大統領はそれに依り直ちに戦争存在の事実を認め、その旨を布告せねばならぬ訳であるが、その場合に於ても大統領がその布告を為すまでは本中立法の発動しないことは云ふまでもない。

 第二 交戦国並に内乱国に対し、武器、弾薬並に軍用器材の輸出を禁止し、且つそれが中立国に輸出せられる場合に於ても、交戦国に転送せられ、又は交戦国の使用に供せられるものと認められた時は、矢張りその輸出を禁じて居る。尤も中立国は国際法上斯る禁輸を実行せねばならぬ訳のものではないが、米国は自ら交戦国との紛争を避ける為、自分の都合で之を禁止するまでである。
  (註)本項に所謂武器、弾薬、器材とは如何なるものを云ふのであるかは大統領に於て遅滞なく時々明確に列挙して布告せねばならぬことになつて居るが、現在は一九三七年五月一日本法制定と同時に大統領令を以てその品目を定めて居り、軍用器材は主として薬品であつて、鉄、石油、綿花等は含まれて居らず。

 第三 武器弾薬軍用器材以外の物品、例へば食料又は製造原材料等の貨物も、大統領の見込みにより輸出を禁出し得ることにし、その例外として外国の政府が現金で買入れ、自分の船舶で積取る場合には輸出を許すことにして居る。之をキャツシュ・エンド・キャーリー即ち「現金買入・自国船積取」の規定と云ひ、本法の最も大なる特色である。これは本年春米国会議で中立案を討議中英国商務大臣のランシマン氏が渡米して談判の結果、かういふ除外例を設けたのであつて、米国はこの結果、一方に於て武器、弾薬、軍用器材並びに原料その他の物品の輸出を禁ずることによつて、理想主義を実行したけれども、他方に於て斯る除外例を設け、米国自らの為に戦時商業の道を開き、併せて財力の豊かな海上の優者たる英国が交戦国である場合に之を援助しようとしたのであつて、主義上大なる矛盾と云はねばならない。

 第四 交戦国及交戦団体に対し金融上の援助を禁じて居るが、米国は予て米国に対し借金を払はない国に対して金融上の便宜を与えないと云ふ法律を作つてゐて、欧州諸国は大抵此法律の為に米国から金が借りられないことになつてゐるから、この禁止条項は欧州に関する限り、実際上余り効果はないのである。

 第五 米国人に対し交戦国又は交戦団体の船舶に依つて旅行することを禁止して居るが、是は米国人をして戦争に関係せしめない為の手段であつて孤立派の主張を容れたものである。

 第六 米国の商船に対して武装することを禁じて居るが、之も米国人をして戦争に関係せしめない手段である。

 第七 外国潜水艦及武装商船が米国の港に出入りすることを禁じて居るが是も右と同様の趣旨である。

 第八 此法律は南米及び中米諸国が米州以外の国と戦争する場合に適用せられないことになつてゐるが、是は南米及び中米を米国の縄張とする為であつて、中米南米諸国と他の国とを区別し、中米及び南米の諸国が米州以外の国と戦争する場合に、米は中立国の態度をとらぬと云ふ意思を明らかにしたものである

 第九 此法律は恒久的に有効なものとせられて居るが「現金買入・自国船積取」の規定に限り一九三九年即ち昭和十四年五月一日まで有効とせられて居る。是はこの規定に多くの反対があるから、他日適当に修正しようとする為である。
http://books.google.co.jp/books?id=Dfz0RwuxRgoC&printsec=frontcover&dq=%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E6%B3%95%E3%80%80%E7%B1%B3%E5%9B%BD&source=bl&ots=464prErFzj&sig=XiGUpJFsbtvT4Fbk-nRTGXtTA1M&hl=ja&ei=4-BUTLyGONqPcIyJoMAM&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CBQQ6AEwADgK#v=onepage&q&f=false

 

…と、当時の日本人に対し、「米國中立法の意義及其適用に就いて」解説しているのであった。

 

 

 

 大山博士も、文中にはっきりと、

  尤も中立国は国際法上斯る禁輸を実行せねばならぬ訳のものではないが、米国は自ら交戦国との紛争を避ける為、自分の都合で之を禁止するまでである。

…と書いている。つまり、

  事変と言っても実質国家間の戦争行為だった事は明らかで、中立を守らず蒋を支援し続けた列強の行為も問題です。

…という指摘は、どうしようもなく徹底的に的外れなのである。

 米国の「中立法」は、あくまでも国内法であり、しかも米国大統領は支那事変に際しては「中立法」を発動・適用することはなかったのである。

 「中立法」により合衆国大統領に課せられていたのは、

  ある物資、原料の合衆国より交戦国または内乱の存する国への輸送に制限を加えることが、合衆国の安寧を促進し、その平和を維持し、あるいは合衆国市民の生命を保護するために必要であると認めたときは、その旨を布告する

…という任務であり、米国大統領は支那「事変」に際して、中立法を発動・適用することが、「合衆国の安寧を促進し、その平和を維持し、あるいは合衆国市民の生命を保護するために必要であると認め」ることはしなかった、ということになる。あるいは、日本政府の主張通りに「事変」として取り扱い、(日本政府の意に反して)「戦争」として取扱うことはしなかった、ということになるわけだ。米国大統領により、日本政府の意思は尊重されているのである。

 

 
 

                    (次回に続く)

 

 

〔追記 : 2010年8月26日〕

 年表を見ると、実際には、

1935年
 8月31日  米、中立法制定。孤立政策に傾斜。
 10月3日  伊軍、エチオピアに侵攻

1936年
 2月29日  米、第2次中立法制定。交戦国へ借款供与禁止。
 7月17日  スペイン内乱起きる。

1937年
 5月1日   第3次中立法制定。
 7月7日   盧溝橋事件。

…という流れとなっていた(岩波書店『世界史年表 第二版』による)。本文の論点には影響はないにせよ、当初の事実確認が万全ではなかったことも確かなことであり、「追記」として訂正の場を設けた次第である。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/08/03 22:54 → http://www.freeml.com/bl/316274/144183/

 

 

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2010年8月14日 (土)

続々・「事変」と「中立」

 

 「陸戦ノ場合ニ於ケル中立国及中立人ノ権利義務ニ関スル条約」を読むことによって、つまり1937年(昭和十二年)当時の国際法の観点からは、

  事変と言っても実質国家間の戦争行為だった事は明らかで、中立を守らず蒋を支援し続けた列強の行為も問題です。

…という指摘(その詳細は「南京事件否定論への視点 2 便衣兵の姿」コメント欄参照→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-3e58.html)が、まったくの的外れであることを確認することが出来た(前回までの話)。

 たとえそれが「事変」ではなく、「戦争」であったとしても、条文に、

第七条
 中立国ハ交戦者ノ一方又ハ他方ノ為ニスル兵器、弾薬其ノ他軍隊又ハ艦隊ノ用ニ供シ得ヘキ一切ノ物件ノ輸出又ハ通過ヲ防止スルヲ要セサルモノトス

第十八条
 左ニ掲グル事項ハ第十七条ロ号ニ所謂交戦者ノ一方ノ利益ト為ルヘキ行為ト認メス
 イ 交戦者ノ一方ニ供給ヲ為シ又ハ其ノ公債ニ応スルコト

…とある以上、「蒋を支援し続けた列強の行為」に対しての「中立を守らず」という評価は成立しないのである。「交戦者ノ一方又ハ他方ノ為ニスル兵器、弾薬其ノ他軍隊又ハ艦隊ノ用ニ供シ得ヘキ一切ノ物件ノ輸出又ハ通過」が、国際法上で、中立国に禁止されているわけではないのだ。

 

 しかも、「戦争」ではなく「事変」であるという立場は、日本政府のものだったのである。既にその問題に関しては、国際法である「開戦ニ関スル条約」(1907年)との関係から論じておいたが、国内法的な取り扱いも見ておこう。

 

大本営令(昭和12年軍令第1号)
第一条
 天皇ノ大纛下ニ最高ノ統帥部ヲ置キ之ヲ大本営ト称ス
 2 大本営ハ戦時又ハ事変ニ際シ必要ニ応ジ之ヲ置ク
第二条
 参謀総長及軍令部総長ハ各其ノ幕僚ニ長トシテ帷幄ノ機務ニ奉仕シ作戦ヲ参画シ終局ノ目的ニ稽ヘ陸海両軍ノ策応協同ヲ図ルヲ任トス
第三条
 大本営ノ編制及勤務ハ別ニ之ヲ定ム

 

 この「大本営令」発令以前に「大本営」設置を規定していたのは、「戦時大本営条例」(明治36年勅令第293号)であった。それが昭和12年11月18日「戦時大本営条例廃止ノ件」(昭和12年勅令第658号)により廃され、

 

 大本営ハ戦時又ハ事変ニ際シ必要ニ応ジ之ヲ置ク

 

…と、それまでの「戦時」限定の「大本営」から、「戦時又ハ事変ニ際シ必要ニ応ジ之ヲ置ク」という「大本営」へと、わざわざ改変されたのである。大日本帝國の国内法令上でも、「支那事変」は、あくまでも「事変」なのであり「戦時」ではない、つまり「戦争」ではないということなのだ。

 
 そもそもは「陸戦ノ場合ニ於ケル中立国及中立人ノ権利義務ニ関スル条約」は、「戦争」に際しての「国際法」なのであって、「事変」には適用されないはずである。

 である以上、

  事変と言っても実質国家間の戦争行為だった事は明らかで、中立を守らず蒋を支援し続けた列強の行為も問題です。

…という指摘は、二重の意味で的外れなものなのであった。

 

 

 実際問題としては、大日本帝國にとっての「支那事変」、つまり(対支「戦争」ではない)「事変」という用語の選択の背後にあるのは、国際法であったと言うよりは米国の国内法であったと言うべきであろう。

 

 米国の「中立法」の存在の大きさが、「事変」という名目による処理を選択させたのである。

 

 

中立法 Neutrality Act (1937)

1.武器、弾薬および軍需器材の輸出
 〔a〕 大統領は二国あるいは三国以上の外国間に戦争状態の存することを認めたときは、同事実を布告する。同布告以後は合衆国内のいずれの地より、同布告に指定されるいずれの交戦国に対しても、あるいは当交戦国へ積換える目的をもつて、または当交戦国の使用に供するために、いかなる中立国に対しても、武器、弾薬または軍需器材を輸出し、輸出を企て、あるいは輸出せしめることは違法とする。
 〔b〕 大統領は第三国がその戦争に参加するに至るにしたがつて、同国に対しても武器、弾薬または軍需器材の輸出禁止を時々布告をもつて拡張するものとする。
 〔c〕 大統領はある外国に内乱状態が存し、かつその内乱が大規模であるか、あるいは合衆国よりの同国への武器、弾薬または軍需器材の輸出が合衆国の平和を脅し、あるいは危殆に陥れるがごとき状態において遂行されていることを認めた場合には同事実を布告する。…
 〔d〕 本節によつて輸出の禁止される武器、弾薬、軍需器材は、大統領が時々布告をもつて明確に列挙する。…

2.他の物資・原料の輸出
 〔a〕 大統領は、本法第1条によつて布告を発し、かつその後の武器、弾薬、軍需器材に加うるに、ある物資、原料の合衆国より交戦国または内乱の存する国への輸送に制限を加えることが、合衆国の安寧を促進し、その平和を維持し、あるいは合衆国市民の生命を保護するために必要であると認めたときは、その旨を布告する。以後は……合衆国の船舶が右の物資および原料を、本法第一節により発せられた布告に指定された交戦国、または内乱のおこなわれる国に向けて、あるいは右交戦国または内乱のおこなわれる国へ積換える目的をもつて、またはその使用に供するために、いかなる中立国へ向けて運搬されることも不法とされる。大統領は合衆国船舶が輸送することが不法となるべき物資、原料を時々布告をもつて明確に列挙する。
 〔b〕 大統領は、本法第1節によつて布告を発し、かつその後物資および原料の合衆国より交戦国、または内乱の存する国への輸出に制限を加えることが、合衆国の安寧を促進し、その平和を維持し、あるいは合衆国市民の生命、通商を保護するために必要であると認めたときは、その旨を布告する。以後は……合衆国より本法第1節により発せられた布告に指定された交戦国、または内乱のおこなわれる国に向けて、あるいは右交戦国または内乱の行われる国へ積換える目的をもつて、またはその使用に供するために、いかなる中立国に対し輸出ないし輸送し、または輸出ないし輸送を企て、または輸出ないし輸送せしめることも、右物資あるいは原料に関する一切の権利、権利の根拠および利益が外国の政府、代理人、機関、協会、組合、法人または国民に譲渡されるまでは不法とされる。…
 (以下省略  文言は、『西洋史料集成』 平凡社 1956 による)

 

 

 正確には、「1935年8月31日修正通り裁可せられた『武器、弾薬、および軍需器材の交戦国への輸出の禁止、交戦国の使用に供するために合衆国の船舶によつて武器、弾薬および軍需器材を輸送することの禁止、武器、弾薬、または軍需資材の製造、輸出または輸入に従事するものの登録、免許に関し規定し、かつ戦争中交戦国船舶によるアメリカ市民の旅行を制限する共同決議』と題する共同決議を修正する共同決議」という名称の法律である。英語(特に法律用語)に堪能な方は、以下のページを参照願いたい(全文を読むことが出来る)。

"Neutrality Act" of May 1, 1937
JOINT RESOLUTION
To amend the joint resolution entitled "Joint resolution providing for the prohibition of the export of arms, ammunition, and implements of war to belligerent countries; the prohibition of the transportation of arms, ammunition, and implements of war by vessels of the United States for the use of belligerent states; for the registration and licensing of persons engaged in the business of manufacturing, exporting, or importing arms, ammunition, or implements of war; and restricting travel by American citizens on belligerent ships during war", approved August 31, 1935, as amended.
 (http://www.mtholyoke.edu/acad/intrel/interwar/neutrality3.htm

 

 

 

                    (次回に続く)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/08/02 22:57 → http://www.freeml.com/bl/316274/144130/

 

 

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2010年8月12日 (木)

続・「事変」と「中立」

 

 

  事変と言っても実質国家間の戦争行為だった事は明らかで、中立を守らず蒋を支援し続けた列強の行為も問題です。
 

…というお説の正当性を考えているわけだ(前回に始まる話)。

 

 

 現実には、「実質国家間の戦争行為」を「事変」と命名し、「戦争」とは異なる事態として取扱おうとしていたのは日本だったのである。ここで焦点となっている「中立」とは、戦争状態にある国家に対する第三国の態度の問題と言えるだろう。そもそもが「戦争」ではない「事変」において、第三国が「中立」であるかどうかは問題になり得ない性質のものなのであった。

 

 国際法上は、「開戦ニ関スル条約」(1907年)の、

 

第一条
 締約国ハ理由ヲ附シタル開戦宣言ノ形式又ハ条件附開戦宣言ヲ含ム最後通牒ノ形式ヲ有スル明瞭且事前ノ通告ナクシテ其ノ相互間ニ戦争ヲ開始スヘカラサルコトヲ承認ス
第二条
 戦争状態ハ遅滞ナク中立国ニ通告スヘク通告受領ノ後ニ非サレハ該国ニ対シ其ノ効果ヲ生セサルモノトス該通告ハ電報ヲ以テ之ヲ為スコトヲ得但シ中立国カ実際戦争状態ヲ知リタルコト確実ナルトキハ該中立国ハ通告ノ欠缺ヲ主張スルコトヲ得ス

 

…との条文が、「戦争状態」を規定するものとなる。

 第二条にある「中立国」の文言は、単に、戦争当事国(「開戦宣言」を挟んで「戦争状態」となった国家)ではない第三国を意味していると考えておくべきであろう。条約が目指しているのは「開戦」の規定なのであり、そもそも「戦争状態」に対する「中立状態」(「開戦宣言」を発するのでもなく、「開戦宣言」の対象ともならない状態)は開戦に先立っては存在し得ないものだからである。「開戦ニ関スル条約」で示されている「中立国」と、開戦宣言後の「中立」は、位相の異なる問題なのであり、その両者の混同から生み出されるのは不毛な議論であろう。

 対立する国家が「開戦宣言」あるいは「開戦宣言ノ形式又ハ条件附開戦宣言ヲ含ム最後通牒ノ形式ヲ有スル明瞭且事前ノ通告」を通して「戦争状態」に入り(第一条)、その「戦争状態」の発生は「遅滞ナク中立国(今回の「開戦宣言」の当事者ではない国家、つまり第三国)ニ通告スヘク」規定されている(第二条)ものとして理解されなければならないわけである。

 

 その「開戦宣言」あるいは「開戦宣言ノ形式又ハ条件附開戦宣言ヲ含ム最後通牒ノ形式ヲ有スル明瞭且事前ノ通告」を行わないことにより(行っていない以上)、大日本帝國の支那における軍事力行使は「戦争」としての条件を満たしていない、即ち「戦争状態」は存在しない、というのが「事変」という名称の背後にある日本政府の側の論理なのである。

 

 

 「戦争状態」にある国家に対し、戦争の当事者ではない国家による「どちらの側にも与しない」という選択が、これまで論じようとして来た「中立」の意味するところなのであった(「事変と言っても実質国家間の戦争行為だった事は明らかで、中立を守らず蒋を支援し続けた列強の行為も問題です」という主張にある「中立」という語に込められているであろう「意味」の問題である)。

 

 では、「戦争状態」にある国家に対するものとしての「中立国」の国際法上の位置付けは、そもそもどのようになっているのだろうか?

 それが次なる問題である。

 

 

 少し長くなるが、

 

 

陸戦ノ場合ニ於ケル中立国及中立人ノ権利義務ニ関スル条約

 …陸戦ノ場合ニ於ケル中立国ノ権利義務ヲ一層明確ナラシメ且中立領土ニ避退シタル交戦者ノ地位ヲ規定セルコトヲ欲シ又交戦者トノ関係ニ於ケル中立人ノ地位ヲ其ノ全体ニ付テ規定スルコトハ之ヲ後日ニ期待シ茲ニ中立人ノ資格ヲ定メムコトヲ希望シ之カ為条約ヲ締結スルニ決シ…因テ各全権委員ハ…左ノ条項ヲ協定セリ

   第一章 中立国ノ権利義務
第一条
 中立国ノ領土ハ不可侵トス

第二条
 交戦者ハ軍隊又ハ弾薬若ハ軍需品ノ輜重ヲシテ中立国ノ領土ヲ通過セシムルコトヲ得ス

第三条
 交戦者ハ又左ノ事項ヲ為スコトヲ得ス
 イ 無線電信局又ハ陸上若ハ海上ニ於ケル交戦国兵力トノ通信ノ用ニ供スヘキ一切ノ機械ヲ中立国ノ領土ニ設置スルコト
 ロ 交戦者カ戦争前ニ全然軍事上ノ目的ヲ以テ中立国ノ領土ニ設置シタル此ノ種ノ設備ニシテ公衆通信ノ用ニ供セラレサルモノヲ利用スルコト

第四条
 交戦者ノ為中立国ノ領土ニ於テ戦闘部隊ヲ編成シ又ハ徴募事務所ヲ開設スルコトヲ得ス

第五条
 中立国ハ其ノ領土ニ於テ第二条乃至第四条ニ掲ケタル一切ノ行為ヲ寛容スヘカラサルモノトス
 中立国ハ其ノ領土ニ於テ行ハレタルモノニ非サレハ中立違反ノ行為ヲ処罰スルヲ要セサルモノトス

第六条
 中立国ハ交戦者ノ一方ノ勤務ニ服スル為個人カ箇箇ニ其ノ国境ヲ通過スルノ事実ニ付其ノ責ニ任セス

第七条
 中立国ハ交戦者ノ一方又ハ他方ノ為ニスル兵器、弾薬其ノ他軍隊又ハ艦隊ノ用ニ供シ得ヘキ一切ノ物件ノ輸出又ハ通過ヲ防止スルヲ要セサルモノトス

第八条
 中立国ハ其ノ所有ニ属スルト会社又ハ個人ノ所有ニ属スルトヲ問ハス交戦者ノ為ニ電信又ハ電話ノ線条並無線電信機ヲ使用スルコトヲ禁止シ又ハ制限スルヲ要セサルモノトス

第九条
 第七条及第八条ニ規定シタル事項ニ関シ中立国ノ定ムル一切ノ制限又ハ禁止ハ両交戦者ニ対シ一様ニ之ヲ適用スヘキモノトス
中立国ハ電信若ハ電話ノ線条又ハ無線電信機ノ所有者タル会社又ハ個人ヲシテ右ノ義務ヲ履行セシムル様監視スヘシ

第十条
 中立国カ其ノ中立ノ侵害ヲ防止スル事実ハ兵力ヲ用井ル場合ト雖之ヲ以テ敵対行為ト認ムルコトヲ得ス

   第二章 中立国内ニ於テ留置スル交戦者及救護スル傷者
第十一条
 交戦国ノ軍ニ属スル軍隊カ中立国領土ニ入リタルトキハ該中立国ハ成ルヘク戦地ヨリ隔離シテ之ヲ留置スヘシ
中立国ハ右軍隊ヲ陣営内ニ監置シ且城寨若ハ特ニ之カ為ニ設備シタル場所ニ幽閉スルコトヲ得
 許可ナクシテ中立領土ヲ去ラサルノ宣誓ヲ為サシメテ将校ニ自由ヲ与フルト否トハ中立国ニ於テ之ヲ決スヘシ

第十二条
 特別ノ条約ナキトキハ中立国ハ其ノ留置シタル人員ニ糧食、被服及人道ニ基ク救助ヲ供与スヘシ
 留置ノ為ニ生シタル費用ハ平和克復ニ至リ償却セラルヘシ

第十三条
 逃走シタル俘虜カ中立国ニ入リタルトキハ該中立国ハ之ヲ自由ニ任スヘシ若其ノ領土内ニ滞留スルコトヲ寛容スルトキハ之カ居所ヲ指定スルコトヲ得
 右規定ハ中立国ノ領土ニ避退スル軍隊ノ引率シタル俘虜ニ之ヲ適用ス

第十四条
 中立国ハ交戦国ノ軍ニ属スル傷者又ハ病者カ其ノ領土ヲ通過スルヲ許スコトヲ得但シ之ヲ輸送スル列車ニハ戦闘ノ人員及材料ヲ搭載スルコトヲ得サルモノトス此ノ場合ニ於テハ中立国ハ之カ為必要ナル保安及監督ノ処置ヲ執ルヘキモノトス
 交戦者ノ一方カ前記条件ノ下ニ中立領土内ニ引率シタル傷者又ハ病者ニシテ対手交戦者ニ属スヘキ者ハ再ヒ作戦動作ニ加ルコトヲ得サル様該中立国ニ於テ之ヲ監守スヘシ右中立国ハ自己ニ委ネラレタル他方軍隊ノ傷者又ハ病者ニ付同一ノ義務ヲ有スルモノトス

第十五条
 「ジェネヴァ」条約ハ中立領土ニ留置セラレタル病者及傷者ニ之ヲ適用ス

   第三章 中立人
第十六条
 戦争ニ与ラサル国ノ国民ハ中立人トス

第十七条
 左ノ場合ニ於テ中立人ハ其ノ中立ヲ主張スルコトヲ得ス
 イ 交戦者ニ対シ敵対行為ヲ為ストキ
 ロ 交戦者ノ利益ト為ルヘキ行為ヲ為ストキ殊ニ任意ニ交戦国ノ一方ノ軍ニ入リテ服務スルトキ
 右ノ場合ニ於テ交戦者ニ対シ中立ヲ守ラサリシ中立人ハ該交戦者ヨリ同一ノ行為ヲ為シタル他方交戦国ノ国民ニ比シ一層厳ナル取扱ヲ受クルコトナシ

第十八条
 左ニ掲グル事項ハ第十七条ロ号ニ所謂交戦者ノ一方ノ利益ト為ルヘキ行為ト認メス
 イ 交戦者ノ一方ニ供給ヲ為シ又ハ其ノ公債ニ応スルコト但シ供給者又ハ債主カ他方ノ交戦者ノ領土又ハ其ノ占領地ニ住居セス且供給品カ此等地方ヨリ来ラサルモノナルトキニ限ル
 ロ 警察又ハ民政ニ関スル勤務ニ服スルコト

   第四章 鉄道材料
第十九条
 中立国ノ領土ヨリ来リタル鉄道材料ニシテ該中立国又ハ私立会社若ハ個人ニ属シ及属スト認ムヘキモノハ必要已ムヲ得サル場合及程度ニ於テスルノ外交戦者ニ於テ之ヲ徴発使用スルコトヲ得ス右材料ハ成ルヘク速ニ本国ニ送還スヘシ
 中立国モ亦必要ナル場合ニ於テハ交戦国ノ領土ヨリ来リタル材料ヲ該交戦国カ徴発使用シタル程度以内ニ於テ留置使用スルコトヲ得
 右ニ関スル賠償ハ使用シタル材料及使用ノ期間ニ応シテ双方ニ於テ之ヲ為スヘシ

   第五章 附則
第二十条(以下省略)

 千九百七年十月十八日
http://www1.doshisha.ac.jp/~karai/intlaw/docs/hc5.htm

 

 

…というのが、「中立国」を拘束する国際法上の規定である。

 

 まず確認しておかなければならないのは、どのような国家がここでは「中立国」と見なされているのか?という問題ではないだろうか。全体を見渡しても、「中立国」である要件を積極的に定義する条項は見当たらないように見えるが、ここでは、次の条文に注目してみよう。

第十一条
 交戦国ノ軍ニ属スル軍隊カ中立国領土ニ入リタルトキハ該中立国ハ成ルヘク戦地ヨリ隔離シテ之ヲ留置スヘシ

 ここにも明言されているわけではないが、「中立国」が「交戦国」に対比される形で、つまり「非交戦国」としてまず規定されていることを、条文から読み取ることが出来るであろう。それに加えて、

第十六条
 戦争ニ与ラサル国ノ国民ハ中立人トス

…との条文がある。この文言からは、「中立国」すなわち「戦争ニ与ラサル国」であることが理解可能である。

 つまり、「陸戦ノ場合ニ於ケル中立国及中立人ノ権利義務ニ関スル条約」において、条約上の「中立国」とされているのは、「戦争ニ与ラサル国(非交戦国)」だということになる。

 

 

 今回のテーマから焦点となるのは、

第七条
 中立国ハ交戦者ノ一方又ハ他方ノ為ニスル兵器、弾薬其ノ他軍隊又ハ艦隊ノ用ニ供シ得ヘキ一切ノ物件ノ輸出又ハ通過ヲ防止スルヲ要セサルモノトス

第十八条
 左ニ掲グル事項ハ第十七条ロ号ニ所謂交戦者ノ一方ノ利益ト為ルヘキ行為ト認メス
 イ 交戦者ノ一方ニ供給ヲ為シ又ハ其ノ公債ニ応スルコト

…という条項であろう。

 つまり、「事変」ではなく「戦争状態」であったとしても、ある国家が「中立国」であること、つまり「戦争ニ与ラサル国(非交戦国)」であることにより、「交戦者ノ一方又ハ他方ノ為ニスル兵器、弾薬其ノ他軍隊又ハ艦隊ノ用ニ供シ得ヘキ一切ノ物件ノ輸出又ハ通過」あるいは「交戦者ノ一方ニ供給ヲ為シ又ハ其ノ公債ニ応スルコト」が禁じられることはないのである。

 

 ただし、

第九条
 第七条及第八条ニ規定シタル事項ニ関シ中立国ノ定ムル一切ノ制限又ハ禁止ハ両交戦者ニ対シ一様ニ之ヲ適用スヘキモノトス

…ことは求められる。つまり国内法による「制限又ハ禁止」については、「両交戦者ニ対シ一様ニ之ヲ適用」しなければならないのである。

 

 

 それが国際法上の現実なのであった。

 

 

 

 

 つまり、たとえ日支間の「事変」が「戦争」であったにしても、「中立国」であることと「交戦者ノ一方又ハ他方ノ為ニスル兵器、弾薬其ノ他軍隊又ハ艦隊ノ用ニ供シ得ヘキ一切ノ物件ノ輸出」は両立するのであって、国際法上の問題とはならないのである。実際の第二次世界大戦でのケースでは、

  中立国スイスによるドイツへの精密機械の輸出

  中立国スウェーデンによるドイツへのボールベアリングの輸出

…の事実があり、それに対し連合国(英米空軍)は、スイス国内、スウェーデン国内の工場を意図的に「誤爆」することで対処していた、なんてエピソードもあるようである(飯山幸伸 『中立国の戦い』 光人社NF文庫 2005)。

 

 結局のところ、「中立を守らず蒋を支援し続けた列強の行為も問題」という認識にこそ「問題」があるのであり、事実として「中立を守り蒋を支援し続けること」が国際法上の問題となることはない、ということなのだ。

 

 

                    (次回に続く)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/07/31 22:29 → http://www.freeml.com/bl/316274/143973/

 

 

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2010年8月11日 (水)

「事変」と「中立」

 

 

支那事変(日中戦争)前、というか中華民国建国・成立以前より、日本は中国大陸に軍の駐留権、その他権益を保有していたこと、中央政権を自称する勢力が多数存在し、対日本以前から血みどろの内戦を繰り広げていたこと、日本は在支日本人・権益・日本軍が度重なるテロ行為により脅かされた為に軍事力を行使したこと、その他支那側のあらゆる違法行為に触れていません。
これは明らかに第二次世界大戦戦勝国側、連合国側の主張だと思いますね。
盧溝橋事件、度重なる停戦交渉、停戦協定、そして通州虐殺・・・それでも日本は停戦交渉を重ね、軍人が惨殺され、
その上での第二次上海事変ですよ?
通州も上海も日本軍の軍事力が無く、確実に民間の日本人が殺害できるシチュエーションを狙ってきている。
現在においても、このような仕打ちを受けながら容認する国があるでしょうか?
軍事力を行使しない国があるでしょうか?
敵対勢力を制圧せよ!と世論が爆発することが異常な事でしょうか?
たしかに支那事変は日本の国際的立場を危うくさせました。
しかし、その後の歴史が経緯を踏まえず断片的に断罪する事はいかがなものか。
中国を近代化させたのもまた日本です。
事変と言っても実質国家間の戦争行為だった事は明らかで、中立を守らず蒋を支援し続けた列強の行為も問題です。
そもそも侵略者は軍事力によって日本を脅かし、先制攻撃をした支那側であり、日本は被害者なのです。
(詳細は、「南京事件否定論への視点 2 便衣兵の姿」 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-3e58.html コメント欄参照)

 

 

…という主張に対比する形で、支那事変前後の陸軍参謀本部の分析・提言を読み進めて来た(前回までの話)。

 

 

 あらためて言うまでもないこととは思うが、

  帝国が其欧米依存主義の是正を要求しつつ我れ自ら彼を欧米依存に追い込む奇現象を将来する結果となり誠に自省分別の足らざるものと謂ふべし

  欧米の恐るるところは日本の所謂対支仁愛政策にして彼らの最も希望する所は民族相鬩ぐ日本の感情的圧迫政策なり

  我対支政策は日本的独我心を排除し日本的利益のみに終始する小乗的諸工作を一掃すべきなり

  之を新支那建設運動に転化せしむる一大動因は実に帝国が従来の帝国主義的侵寇活動を放棄し…

  此見地よりすれば必然新建設運動竝統一運動には援助の労を吝むべからざるは勿論侵略的独占的優位的態度の是正を要望せざるを得ざるなり

…という認識を示していたのは陸軍参謀本部なのであって、明らかに第二次世界大戦戦勝国側、連合国側の主張などではない。それも、「第二次世界大戦」以前の段階での、陸軍参謀本部第二課の「主張」なのであった。

 

 

 

 

 さて、今回は、

  事変と言っても実質国家間の戦争行為だった事は明らかで、中立を守らず蒋を支援し続けた列強の行為も問題です。

…というお説の当否について考えてみたい。

 これは正確な表現とは言えないだろう、と思う。

 私に言わせれば、

  「実質国家間の戦争行為」を「事変」と言ったのが日本だったことは明らかで(蒋介石の側も「戦争」として取扱うことはしなかったにせよ)、列強の蒋への支援を中立違反と考える行為にも論理的な問題があるのではないか?

…ということになる。

 

 

 

 事変であることの意味はといえば、戦争ではないということだ。

 この問題に関して、当時の大日本帝國が拘束されていたのは、まず、

 

 

戦争ノ抛棄ニ関スル条約

 …人類ノ福祉ヲ増進スベキ其ノ厳粛ナル責務ヲ深ク感銘シ
 其ノ人民間ニ現存スル平和及友好ノ関係ヲ永久ナラシメンガ為国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ率直ニ抛棄スベキ時期ノ到来セルコトヲ確信シ
 其ノ相互関係ニ於ケル一切ノ変更ハ平和的手段ニ依リテノミ之ヲ求ムベク又平和的ニシテ秩序アル手続ノ結果タルベキコト及今後戦争ニ訴ヘテ国家ノ利益ヲ増進セントスル署名国ハ本条約ノ供与スル利益ヲ拒否セラルベキモノナルコトヲ確信シ
 其ノ範例ニ促サレ世界ノ他ノ一切ノ国ガ此ノ人道的努力ニ参加シ且本条約ノ実施後速ニ加入スルコトニ依リテ其ノ人民ヲシテ本条約ノ規定スル恩沢ニ浴セシメ、以テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ノ共同抛棄ニ世界ノ文明諸国ヲ結合センコトヲ希望シ
 茲ニ条約ヲ締結スルコトニ決シ…

第一条
 締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言スル

第二条
 締約国ハ相互間ニ起コルコトアルベキ一切ノ紛争又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハズ平和的手段ニ依ルノ外之ガ処理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約ス

第三条
 (略)

 千九百二十八年八月二十七日
http://www1.doshisha.ac.jp/~karai/intlaw/docs/paris_convention_1929.htm

 

 

…であったと(国際法的観点からは)言えるだろう。いわゆる「不戦条約」である。

 第一次世界大戦の、当初の予想をはるかに超えた惨禍は、各国をして戦争自体の回避の試みへと向かわせたのであった。「国際連盟」の設立もまた、同じ経験から生まれたものである。そこでは、集団安全保障による戦争の回避が目指されていたわけだ。その調印国に、我が大日本帝國も名を連ねていたのである。

 つまり、「事変」であってそれは「戦争行為」ではないから「戦争ノ抛棄ニ関スル条約」違反は犯していない、ということなのだ。

 

 さて、「事変」であって「戦争」ではないと言い得る理由がどこに求められていたかというと、

 

 
開戦ニ関スル条約

…平和関係ノ安固ヲ期スル為戦争ハ予告ナクシテ之ヲ開始セサルヲ必要トスルコト及戦争状態ハ遅滞ナク之ヲ中立国ニ通告スルヲ必要トスルコトヲ考慮シ之カ為条約ヲ締結セムコトヲ希望シ…
…因テ各全権委員ハ其ノ良好妥当ナリト認メラレタル委任状ヲ寄託シタル後左ノ条項ヲ協定セリ

第一条
 締約国ハ理由ヲ附シタル開戦宣言ノ形式又ハ条件附開戦宣言ヲ含ム最後通牒ノ形式ヲ有スル明瞭且事前ノ通告ナクシテ其ノ相互間ニ戦争ヲ開始スヘカラサルコトヲ承認ス

第二条
 戦争状態ハ遅滞ナク中立国ニ通告スヘク通告受領ノ後ニ非サレハ該国ニ対シ其ノ効果ヲ生セサルモノトス該通告ハ電報ヲ以テ之ヲ為スコトヲ得但シ中立国カ実際戦争状態ヲ知リタルコト確実ナルトキハ該中立国ハ通告ノ欠缺ヲ主張スルコトヲ得ス

第三条 
本条約第一条ハ締約国中ノ二国又ハ数国間ノ戦争ノ場合ニ効力ヲ有スルモノトス
第二条ハ締約国タル一交戦国ト均シク締約国タル諸中立国間ノ関係ニ付拘束力ヲ有ス

第四条以下 (略)

 千九百七年十月十八日
http://www1.doshisha.ac.jp/~karai/intlaw/docs/hc3.htm

 

 

…ではなかったかと思われる。
(日露戦争が、日本による宣戦布告なしの奇襲攻撃で開始されたことが条約化の背景にあった、との話もあるらしいが、事実関係については未確認である)

 

 「支那事変」においては、

  開戦宣言ノ形式又ハ条件附開戦宣言ヲ含ム最後通牒ノ形式ヲ有スル明瞭且事前ノ通告

…は存在しないし、

  戦争状態ハ遅滞ナク中立国ニ通告スヘク通告受領ノ後ニ非サレハ該国ニ対シ其ノ効果ヲ生セサルモノトス

…と規定されている「通告」も存在しない。

 それ故に、日支間に「戦争状態」は存在しないという理屈なのであったはずだ。

 

 

 

 論理から言って、「事変であって戦争ではない」以上、

  中立を守らず蒋を支援し続けた列強の行為も問題です

…という形で、「列強の行為」を「問題」にすることは出来ないのではないだろうか?

 特定の国家間が「戦争状態」にあることを前提とするからこそ、「戦争状態」にある国家に対し「中立」であることが宣言され得るわけなのであって、「戦争状態」にない国家に対しての「中立」を問題にすることは出来ないように思える。

 

…というわけで、

  事変と言っても実質国家間の戦争行為だった事は明らかで、中立を守らず蒋を支援し続けた列強の行為も問題です。

…というお説の当否に関しては、論拠が弱すぎるぞ、という感想を申し述べるしかないだろう。

 

 

                    (次回に続く)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/07/30 22:38 → http://www.freeml.com/bl/316274/143891/

 

 

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