カテゴリー「桃太郎の戦争」の記事

2010年7月12日 (月)

続々々々・桃太郎の蘭印(インドネシア民族独立の幻)

 

 

東印度独立措置ニ関スル件
   第一 方針
大東亜戦争完遂ニ資スル為帝国ハ可及的速カニ東印度ノ独立ヲ容認ス之ガ為直チニ独立準備ヲ促進強化スルモノトス
   第二 要領
一 独立セシムル地域ハ旧蘭領東印度トス
二 全地域ニ亘リ独立準備ヲ推進シ主要地域ノ準備完了次第全地域ニ亘リ新国家独立ヲ宣言セシム但シ準備完了セザル地域ノ施政ニ関シテハ準備進捗ノ状況ニ応ジ逐次之ヲ新国家ノ管轄ニ移行セシムル如ク措置ス
 之ガ為速カニ「ジャワ」ニ独立準備委員会ヲ組織シテ独立実施ニ必要ナル諸般ノ事項ヲ準備セシム
三 独立ノ予定時期ハ成ル可ク速カニ之ヲ概定シ新国家ノ領域タルベキ地域ト共ニ独立準備委員会ヨリ之ヲ発表ス
四 新独立国ノ国体、政体、国名、国民ノ範囲等ニ関シテハ民意ニ依リ之ヲ定ム
五 独立ニ関スル施策ヲ通ジ住民ノ民族意識昂揚ニ努メ且戦争遂行ニ寄与セシムルヲ主眼トシ作戦、戦備上ノ支障ハ之ヲ防止スル如ク措置ス
六 本施策ノ実行ハ一切之ヲ現地軍ニ一任ス
 

…という形で(明治百年史叢書 『敗戦の記録』 原書房 1967、による。原文は旧漢字であるが、ここではPCで変換された新字体で表記するにとどめた)、大日本帝國も、最終的には蘭印(インドネシア)の「可及的速カ」な「独立ヲ容認」することになる。

 「最高戦争指導会議決定第二十七号」でのことだ。その日付は、昭和20年7月17日である。敗北による大東亜戦争の終息、つまり大日本帝國のポツダム宣言受諾決定まで、わずか四週間の時点での話であった。まさに敗北に至る最終段階での「決定」である(検討開始の時期を考えれば数箇月前の時日となるにせよ、既に絶対国防圏を突破されて久しい、帝國の敗北が現実化しつつある時点であったことに変わりはない)。

 

 

 昭和16年11月20日、開戦に先立ち、第七十回大本営政府連絡会議で決定されたのが「南方占領地行政実施要領」であった(『杉山メモ』)。

 

南方占領地行政実施要領
   第一 方針
占領地ニ対シテハ差シ当リ軍政ヲ実施シ治安ノ恢復、重要国防資源ノ急速獲得及作戦軍ノ自活確保ニ資ス
占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテハ別ニ之ヲ定ムルモノトス

 

 来たるべき戦争を前にして、ここに描かれているのは、大日本帝國が獲得するであろう占領地の位置付けである。

 前半で表明されている、

  占領地ニ対シテハ…軍政ヲ実施シ…重要国防資源ノ急速獲得及作戦軍ノ自活確保ニ資ス

…とは、つまり「重要国防資源ノ急速獲得」という占領目的である。この、「大本営政府連絡会議」という国策決定の最高レベルの会議で明らかにされた大日本帝國の国策決定者達のホンネからは、「重要国防資源ノ急速獲得」という大東亜戦争の戦争目的の現実さえ透かし見ることが出来るだろう。

 そして後半の、

  占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテハ別ニ之ヲ定ムルモノトス

…とは、(巷間、語られることのある)「植民地解放」などという戦争目的が、大日本帝國の最高指導層のホンネの議論で語られる性質のものではなかったことを示している。

 結局、「占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテ」の議論をすることなく、つまり国策レベルで「南方占領地行政」の確たる方針を共有することのないままに、帝國は昭和16年12月8日の対米英開戦の日を迎えてしまうのである。

 

 

 開戦翌年の昭和17年3月14日の第九十五回大本営政府連絡会議になって、やっと「占領諸地域ノ帰属及統治機構」についての議論が行われたが、そこで表明された大日本帝國の最高指導層のホンネを復習しておこう。前回は全文をご紹介したので、今回は各人の発言からの抜書きで、「植民地解放」への関心を見せることなく、「重要国防資源ノ急速獲得」への関心を率直に示した、国務と統帥の最高指導者達の姿を確認することとしたい。

 
 大蔵大臣 「ジャバ」本土ノミヲ独立セシメタル理由如何

 山本局長 軍事上ノ必要アリ「スマトラ」ハ取ラネバナラズ「ボルネオ」モ然リトシテ切リ詰メテ来ルト結局「ジャバ」本土ノミ残ルコトトナリタル次第ニシテ大シタ理由ナシ

 大蔵大臣 独立サセテ置イテ種々制限ヲ加ヘル位ナラ始メヨリ独立セシメザル方遥カニ有利ナリ
  「ジャバ」ノ如キハ「ズーッ」ト永ク軍政ヲ行フヲ要スベシ

 企画院総裁 軍政ハ「ズーッ」ト永ク施行セザルベカラズ、過早ニ蘭印ニ独立ヲ約シタリナドシテ増長我儘サセテハナラヌ(大蔵大臣強ク同意)
  独立セシムト言フモ実質的独立ニハ非ズシテ相当ノ干渉ヲ受クル独立ナラズヤ、何レニセヨ今ヲ独立ト決定スルハ過早ナリ

 書記官長 何モ左程遠慮スルノ要ナシ、敵国領有シアリシモノナルヲ以テ其ノ儘之ヲ取ツテモ一向差支無シ

 軍令部次長 南方占領地域ハ全部帝国領土トスルコト可能ナラバ申分無キモ…

 総理 然ラバ「ジャバ」モ皆我ガ手ニ収メザルベカラズ

 

…と、実にミモフタモナイと言うしかないホンネが続くのであった(『杉山メモ 下』)。
 

 

 ここでは、対米英開戦を一年以上遡る、昭和15年9月19日の御前会議での議論も見ておこう(『杉山メモ』)。

 

陸軍大臣 
 石油ニ関シテハ陸軍ニ於テモ海軍同様之ヲ重要視シアリ此ノ問題ヲ推シ進メレハ結局蘭印ノ問題トナルヘシ本件ニ関シテハ組閣早々大本営政府連絡会議ニ於テ時局処理要綱ヲ定メ支那事変ヲ速ニ解決スルト共ニ好機ヲ捕捉シテ南方問題ヲ解決スヘク蘭印ニ関シテハ暫ク外交的措置ニ依リ其重要資源ノ確保ニ努メ又場合ニヨリテハ武力ヲ行使スル事アルヘキ旨略々決定シアリ決シテ無方針ニ進行シアル次第ニアラス固ヨリ蘭印資源ノ獲得ハ平和的手段ニヨルヲ望ムモ又状況ニヨリ武力行使ヲモ定メ政府ノ方針ハ決定シアリ

枢府議長
 外相ノ方針ヲ聴キ又陸相ヨリ対南方ノ方針既ニ決定シタル旨ヲ承知シ結構ト存ス蘭印ハ目下石油資源ヲ獲得スル唯一ノ所ナリ

 

…という言葉を、日独伊の「三国同盟」を主題としたその日の「御前会議控へ 次長記述」文書中に見出すことが出来る(「三国同盟」もまた「南方問題ヲ解決」する方策の一つ、という認識なのであった)。

 ここにある、

  蘭印ニ関シテハ暫ク外交的措置ニ依リ其重要資源ノ確保ニ努メ又場合ニヨリテハ武力ヲ行使スル事アルヘキ旨略々決定シアリ

  対南方ノ方針既ニ決定シタル旨ヲ承知シ結構ト存ス蘭印ハ目下石油資源ヲ獲得スル唯一ノ所ナリ

…との認識こそが、国策としての大東亜戦争の基底を支えていたことを、事実として、深く味わっておくべきだろう(米国による対日石油全面禁輸措置は翌年昭和16年8月になっての話なのであって、ここに示された「対南方ノ方針」は石油禁輸の結果のものではないことに留意しておきたい)。

 

 

 

 

 こうして、大東亜戦争をめぐる大日本帝國の最高指導層のホンネの言葉を時系列で振り返ることで、昭和20年7月17日に至っての、「最高戦争指導会議決定第二十七号」における「帝国ハ可及的速カニ東印度ノ独立ヲ容認ス」という「方針」の現実的意味合いも見えてくるだろう。

 

 昭和20年7月17日という時点では、既に制海権を奪われていた大日本帝國に、蘭印の「重要資源」の存在は意味を失っていたのである。つまり、当初の蘭印(インドネシア)領有の意味は失われていたのである。

 蘭印独立容認で、大日本帝國が失うものが何もなくなった時点(つまり、既に蘭印から大日本帝國が獲得出来るものが何もなくなっていた時点)。それが昭和20年7月17日であったと考えなければならない。

 蘭印(インドネシア)民族の「独立」、蘭印の植民地状態からの「解放」は、大東亜戦争における大日本帝國の緒戦の勝利によってもたらされることはなく、大東亜戦争における大日本帝國の敗北必至の状況こそがもたらしたものなのであった。

 

 

 

〔追記 : 2010年7月17日〕

 大日本帝國の首脳による、公式の場での「蘭印(インドネシア)独立」への言及は、昭和19年9月7日、第85帝國議会における小磯國昭首相の施政方針演説に始まるようである。

  帝国ハ東『インド』民族永遠ノ福祉ヲ確保スル為メ、将来其ノ独立ヲ認メントスルモノナルコトヲ茲ニ声明スルモノデアリマス

 ただし、「声明」には「将来其ノ独立ヲ認メントスルモノナルコト」とあるように、「将来」がいつの時点であるのかが明確化されることはなく、具体的な内容の何もない曖昧なものであった。これでは帝國の方針が、100年後の独立容認であっても、声明が偽りとはならないのである。
 いずれにしても、東條首相の退陣と小磯首相の登場の背景には絶対国防圏喪失という事態があり、蘭印保有からの利益が失われつつある時点、帝國領土としての蘭印占領支配の継続が困難となりつつある時点での、首相声明であることは明らかであろう。
(参照→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF%E5%A3%B0%E6%98%8E

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/07/11 21:11 → http://www.freeml.com/bl/316274/142450/

 

 

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2010年7月11日 (日)

続々々・桃太郎の蘭印(インドネシア民族独立の幻)

 

 「占領諸地域ノ帰属及統治機構」についての議論がされたのは、やっと、開戦翌年の昭和17年3月14日の第九十五回大本営政府連絡会議になってのことであった。

 

 対米英戦争となった大東亜戦争の緒戦の勝利で、大日本帝国はかつての米英蘭各国の植民地であった地域を占領することになる。その占領諸地域に対し、どのような処遇をもって大日本帝國は臨もうとしてたのか?

 その問題に答えるために、『杉山メモ』に残された、大日本帝國の国策決定者達の議論を読み続けてきたわけである。大本営と政府のトップクラスによる会議で語られた、彼らのホンネの言葉に注目することで、大日本帝國にとっての大東亜戦争の現実的意義が明らかになりつつあるわけだ。

 

 

 前回は、当日の「議事」記録から、

 

 一、原案ニ就キ山本東亜局長ヨリ説明(別冊ヲ除ク)アリ
 二、本問題ニ関スル大東亜建設審議委員会ノ空気ニ就キ鈴木企画院総裁及武藤軍務局長ヨリ左ノ如キ紹介アリ
  (A)一般的空気ト認ムベキモノ
  (B)個人的意見ト認ムベキモノ

 

…の各項目の内容を全文引用してみた(『杉山メモ 下』による)。

 

 「註 以上極秘扱トスルコト」とあるだけあって、「本問題ニ関スル大東亜建設審議委員会」における「(A)一般的空気ト認ムベキモノ」として、たとえば、

  (1)占領地の帰属其ノ他ノ決定ハ国防上ノ要求ニ最モ重キヲ置キテ決定スルヲ要ス

  (6)今回掌握下ニ入リタル各民族ハ大体ニ於テ独立ノ経験無キヲ以テ独立セシムル必要ハ絶対的ナラズ

…などという、「植民地解放」とは逆方向を目指すかのような見解が表明されていたのであった。少なくとも、「植民地解放」という戦争目的の存在には疑問符を付けざるを得ない内容であろう。

 

 

 で、今回は前回の続き(つまり「占領諸地域ノ帰属及統治機構」についての議論の続き)を読むことにする。

 

三、山本東亜局長ノ原案説明ニ関シ未ダ「別冊」統治機構問題ノ説明ニ入ラザル内ニ左ノ如キ議論沸騰ス
   註 外務省ガ説明用トシテ準備セル帰属別地図ニ帝国領土ハ赤、独立予定地ハ黄ヲ以テ色別ヲ施シアリ、「ジャバ」ノミノ独立ガ強ク関心ヲ惹キタルモノノ如シ
 山本局長 本案ハ冒頭記述セラレアル如ク情勢ノ推移ニ依リ変更スルコトアルベク最後的決定ハ作戦ノ結果又ハ其ノ推移ヲ見ザレバ不可能ナリ、従テ本案ハ腹案トシテ置キ度 但シ国防上絶対必要ナル地域ハ之ヲ固ク把握スルノ要アルコト勿論ナリ
 大蔵大臣 此等ノ決定ハ単ニ軍事上ノミナラズ政治上及経済上ヨリモ十分検討ヲ加フベキモノナリ(鈴木企画院総裁強ク之ヲ同意ス)
  「ジャバ」本土ノミヲ独立セシメタル理由如何
 山本局長 軍事上ノ必要アリ「スマトラ」ハ取ラネバナラズ「ボルネオ」モ然リトシテ切リ詰メテ来ルト結局「ジャバ」本土ノミ残ルコトトナリタル次第ニシテ大シタ理由ナシ
 大蔵大臣 独立サセテ置イテ種々制限ヲ加ヘル位ナラ始メヨリ独立セシメザル方遥カニ有利ナリ、全部ヲ帝国ノ領土トシ必要ニ応ジテ高度ノ自治ヲ与フレバ可ナルニ非ズヤ
 書記官長 何モ左程遠慮スルノ要ナシ、敵国領有シアリシモノナルヲ以テ其ノ儘之ヲ取ツテモ一向差支無シ、和蘭ノ如キ無籍国ニ非ズ
 大蔵大臣 独立ハ時間的ニモ之ヲ明瞭ニスルノ要アリ、比島ノ如キハ間モ無ク独立セシメテ可ナルヤモ知レザルモ「ジャバ」ノ如キハ「ズーッ」ト永ク軍政ヲ行フヲ要スベシ、従テ主権ハ先ヅ日本ニ取リ適当ノ時機ニ独立ヲ与フレバ可ナリ
  独立サセルト言フモ実際ハ独立出来ザルヤモ知レズ
 企画院総裁 軍政ハ「ズーッ」ト永ク施行セザルベカラズ、過早ニ蘭印ニ独立ヲ約シタリナドシテ増長我儘サセテハナラヌ(大蔵大臣強ク同意)
  独立セシムト言フモ実質的独立ニハ非ズシテ相当ノ干渉ヲ受クル独立ナラズヤ、何レニセヨ今ヲ独立ト決定スルハ過早ナリ
 山本局長 高度ノ自治ヨリ独立ニ進ムト言フコトモ考慮シ得ベキモ何レ独立セシムルモノナラバ今ノ内ニ決定シテ置クヲ可トス
 以上ニテ大体ノ空気ハ「ジャバ」ノミ何故独立セシムルヤ、実質的ニ掌握シテ独立セシメテハ却テ文句ガ起ルベシトノ意見強ク会議ヲ支配ス
 総理 統帥関係事項ナルモ海軍ハ根拠地設定ノ為何レ位ノ地域ヲ確実ニ把握スルヲ必要ト認メラレアリヤ
 軍令部次長 先ヅ以テ日本海ヲ中心トシ其ノ周辺ハ国防ノ中心タラザルベカラズ
  次テ小笠原諸島ヨリ南洋委任統治領ヲ経テ「ビスマルク」諸島ニ亘ル線及昭南港並ニ「スラバヤ」ヲ中心トスル海域ヲ確保スルヲ要シ「ニューギニア」東部「サラモア」附近ヲ確保スレバ豪州ヲ制圧シ得ベシ
  対英国防ノ為ニハ「ジャバ」「スマトラ」ヲ以テ第一線トシ之ニ「アンダマン」ヲ加ヘテ確保スルヲ要スルモ「ジャバ」「スマトラ」西南岸ニハ良好ナル基地ナシ、結局昭南港「スラバヤ」及「サラモア」ヲ確保スルノ外ナシ
  対英作戦ノ為ニハ南支那海ト「ジャバ」海トヲ確保スレバ先ヅ大丈夫ナリ
  東方ニ対シテハ小笠原諸島ト「ニューギニア」間ニ若干ノ心配アリ
  此等ノ見地ヨリ南方占領地域ハ全部帝国領土トスルコト可能ナラバ申分無キモ局地ニヨリテハ政治的民族的各種ノ事情アリ、其此ニ研究ヲ要スル問題アリ
 総理 然ラバ「ジャバ」モ皆我ガ手ニ収メザルベカラズ何故「ジャバ」ノミヲ残シタルヤ
 武藤局長 ドウモ全部取ラネバナラヌト思フモ何ト無ク蘭印ハ独立セシメザルベカラズ、然ルニ「スマトラ」ハ取ラネバナラヌ、「ボルネオ」ハ取ラネバナラヌト漸次逐ヒ詰メテ行ケバ結局「ジャバ」ノミ残ラザルヲ得ズ、斯ル経緯ニテ「ジャバ」ノミ独立セシムルコトトナレル次第ナリ
 斯クテ依然「ジャバ」ノ独立ハ今ヨリ決定シテカカルノ要ナシトノ空気トナリ最後ニハ海軍大臣ヨリ「ジャバ」ヲ独立セシメテ如何ナル利益アリヤヲ研究セルモノナリヤ』トノ詰問的意見モアリ
 「其処迄行カンデモヨカロウ」トノ仲裁モアリ
四、結局本件ハ更ニ研究ヲ要ストシテ未決ノ儘別冊ノ検討ニモ入ラズ散会トナル

 

…というのが全文であるが、ここでは特に蘭印の取り扱いが議論の焦点となっている観がある。

 

 蘭印(インドネシア)の民族独立実現への積極的主張は、まったく、存在しないのであった。

 むしろ、蘭印(インドネシア)における民族独立否定への積極的主張が、第九十五回大本営政府連絡会議の議論を主導していたのである。

 

 

 

 そして、昭和18年5月31日御前会議決定の「大東亜政略指導大綱」に至り、

  (イ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム

…との文言と共に、蘭印は「帝国領土ト決定」され、つまり国家意思として、大日本帝國のインドネシア民族独立への否定的姿勢は明確化されたのであった(『杉山メモ 下』)。それは、民族独立を希求して来た蘭印(インドネシア)の民族主義者の視点からすれば、植民地状態の継続を意味する事態なのである。実際、そのインドネシアの民族主義者であるイワ・クスマ・スマントリは、自伝の中で、

  オランダは去ったが、日本が支配していた。虎の口からは逃げたが、鰐の口の中にはいっていた。これがインドネシア民族の置かれていた状況である。

…と、彼らにとっての日本軍による占領の意味を語っていたのであった。

 

 占領地としての蘭印に関する限り、御前会議決定(つまり国策決定の最高段階)の中に、大東亜戦争の戦争目的としての「植民地解放」への関心・配慮を発見することは出来ない、ということなのだ。

 国策文書の中に発見することは出来ないし、蘭印(インドネシア)の地においても、(当然のことながら)「植民地解放」という現実を発見することは出来ないのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/07/10 21:40 → http://www.freeml.com/bl/316274/142394/

 

 

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2010年7月10日 (土)

続々・桃太郎の蘭印(インドネシア民族独立の幻)

 

 

 対米英戦争としての大東亜戦争開戦に際し、占領地の処遇に関して、大日本帝國がどのような展望の下に戦争に臨もうとしていたのか?
 特に、蘭印(インドネシア)の民族独立に、大日本帝國はどのような形で貢献しようとしていたのか?

 

 その二つの問いに対し、大本営政府連絡会議及び御前会議の決定という、大日本帝國の国策策定の最高レベルでの決定事項を参照することで、答えを見出そうとして来たわけだ。

 

 

 

 開戦前の大本営政府連絡会議での、来たる戦争において帝國が獲得するであろう占領地に関する議論としては、昭和16年11月20日第七十回大本営政府連絡会議開催時に決定された、「南方占領地行政実施要領」中の、

 

  第一 方針
占領地ニ対シテハ差シ当リ軍政ヲ実施シ治安ノ恢復、重要国防資源ノ急速獲得及作戦軍ノ自活確保ニ資ス
占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテハ別ニ之ヲ定ムルモノトス
   第二 要領
八 原住土民ニ対シテハ皇軍ニ対スル信倚観念ヲ助長セシムル如ク指導シ其ノ独立運動ハ過早ニ誘発セシムルコトヲ避クルモノトス

 

…という条項に注目しておくべきであろう(文言は『杉山メモ』)。

 ここに示された、

  占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテハ別ニ之ヲ定ムルモノトス

  原住土民ニ対シテハ…其ノ独立運動ハ過早ニ誘発セシムルコトヲ避クルモノトス

…という文言からは、米英蘭の植民地下にあったアジア民族の独立支援への積極的姿勢の存在を見出すことは出来ない。見出すことが出来るのは、単なる消極的姿勢ではなく、むしろ「其ノ独立運動ハ過早ニ誘発セシムルコトヲ避クルモノトス」という民族独立抑制への積極的姿勢なのである。

 前回にも指摘したように、「占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテハ別ニ之ヲ定ムルモノトス」としながらも、開戦前の連絡会議のその後の議論では「占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテ」の決定がされることはなかった。つまり、「占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテ」の確たる展望を欠いたままに、大日本帝國は対米英戦に突入してしまったのである。

 

 

 開戦翌年の昭和17年3月14日の第九十五回大本営政府連絡会議に至り、やっと「占領諸地域ノ帰属及統治機構」についての議論がされる。

 しかし、記録に残された議論の内容は、たとえば、

 

   議題
一、研究問題第七「占領地域ノ帰属及統治機構」(未完)
   議事
一、原案ニ就キ山本東亜局長ヨリ説明(別冊ヲ除ク)アリ
  其ノ際左ノ如キ補足的説明アリ
 (イ)各地域人口説明中「ジャバ」、「スマトラ」等ニハ相当ノ支那人アル点注意ヲ惹ケリ
 (ロ)「ジャバ」ノ人口密度ハ世界中ニテモ有数ノ部ニ属シ此ノ狭小ナル地域ニ人口四千万ヲ擁ス、而モ種族ノ数十数種ニ達ス
   (蘭印ニハ土候ノ数二八〇ヲ超ユ)
 (ハ)其ノ他ノ地域ニハ相当ノ未開ノ種族アリ、「ミンダナオ」島ノ「モロ」族、「サラワク」ノ「ダイヤル」族等ノ外「スマトラ」ニモ未開ノ種族アリ、「チモール」ニハ最モ未開ノ土族アリ
 (ニ)比島ノ統治ニ関スル米人ノ地位ハ高キモ実際政治機関ニ入レル米人ノ数ハ極メテ少数ニシテ百七、八十名ニ過ギザリシモノノ如シ
二、本問題ニ関スル大東亜建設審議委員会ノ空気ニ就キ鈴木企画院総裁及武藤軍務局長ヨリ左ノ如キ紹介アリ
 (A)一般的空気ト認ムベキモノ
  (1)占領地の帰属其ノ他ノ決定ハ国防上ノ要求ニ最モ重キヲ置キテ決定スルヲ要ス
  (2)占領地処理ハ躊躇又ハ遠慮ヲ要セズ、明快率直徹底的ニ断行スベシ
  (3)政治的、民族的、経済的ニ複雑ナル地方ニ対シ直接繁累ニ携ハルハ不利ナリ、成ルベク従来ノ機構ヲ活用スルヲ可トス
  (4)右ニ反シ人口稀薄ニシテ未開ノ処女地ハ帝国ニ於テ強力ニ把握スベシ
    但シ戦争遂行中ノ現情ニ於テハ統治ノ容易ニシテ而モ開発ニ手数ヲ要セザル地域ヲ把握スルヲ要ス
  (5)占領地域ニ関シテハ豪州又ハ「ニュージーランド」ヲ包含セヨトカ西ハ「インダス」河迄、東ハ「パナマ」迄占領セヨトカノ説アリ
  (6)今回掌握下ニ入リタル各民族ハ大体ニ於テ独立ノ経験無キヲ以テ独立セシムル必要ハ絶対的ナラズ
  (7)蘭印ハ従来一組織内ニ在リシヲ以テ今後モ一組織トシテ取扱フヲ可トス、然ラザレバ帝国ノ手ニ依リ凡テノ組織ヲ改編スルノ必要ヲ生ズベク満洲等ノ経験ニ依ルモ此レハ一考ヲ要ス
  (8)統帥事項ニ触ルルコトトナルモ飛ビ石ニ利用セラルル諸島嶼ハ必ズ我ガ手ニ収ムルヲ要ス
 (B)個人的意見ト認ムベキモノ
  (1)占領地ノ帰属其ノ他ノ決定ニハ先ズ以テ八紘一宇ノ理念ヲ基礎トシ細部ニ入ルノ要アリ、方針ヲ忘レテ直接具体的問題ニ入ルハ不可ナリ
  (2)占領地処理ハ戦争遂行ニ有利ナラシムルヲ以テ第一義トスベシ、四、五十年ノ将来必ズ大戦争ヲ惹起スベシ
  (3)占領地域ニ対シテハ軍事ト外交トノミヲ十分把握シ其ノ他ハ細部ニ干渉スベカラズ
  (4)大東亜建設ハ日満支ヲ中心トシテ実施スベシ南方ノ如キ遠距離ノ地域ニ重点ヲ持テ行クハ不可ナリ、南方ノミニ夢中ニナルベカラズ、帝国ト南方トノ距離ハ英米間ノ距離ヨリモ大ナリ(某海軍将官)
  (5)徒ラニ領土ヲ拡張スルノミガ能ニアラズ、占領地域ノ各民族ガ喜ンデ働ク様ニ指導スルノ要アリ、然ラザレバ将来戦ニ於テ却テ指導下民族ノ反噬ヲ受クルニ至ルベシ
  (6)マゴマゴスルト独逸人支那人等ニ良イ所ヲ全部取ラルル虞アリ、今ヨリ之ヲ警戒シテ所要ノ方策ヲ講ズルノ要アリ
  (7)占領地域ヲ余ニ細分スルハ統治ノ複雑ナラシムルヲ以テ少数の区画ニ区分スルヲ要ス
  註 以上極秘扱トスルコト

 

…のようなものであった(明治百年史叢書 『杉山メモ 下』 原書房 1967、による。まだ記録は続くが、後半部分の引用紹介は次回とする)。

 これが、本題としての山本局長による「原案」説明に至る前の「補足的説明」と、企画院総裁と軍務局長による「大東亜建設審議委員会」の議論内容の紹介部分の全文なのである。

 

 「大東亜建設審議委員会ノ空気」にも、(新たに帝國の占領地となった)かつての米英蘭の植民地下にあったアジア民族の独立支援への積極的姿勢の存在を見出すことは出来ない。そこでも、

  (1)占領地の帰属其ノ他ノ決定ハ国防上ノ要求ニ最モ重キヲ置キテ決定スルヲ要ス

  (6)今回掌握下ニ入リタル各民族ハ大体ニ於テ独立ノ経験無キヲ以テ独立セシムル必要ハ絶対的ナラズ

…といった見解が、「一般的空気ト認ムベキモノ」として語られているのである。

 全体を読んでも、国策上の統一された意思の存在を見出すことすら難しいのが「本問題ニ関スル大東亜建設審議委員会」での議論の実態であったような印象しか残らない(国策レベルでの公式委員会の議論というよりは、赤提灯が似合いそうな内容にさえ感じられる)。

 

 

 

 大東亜戦争における緒戦の勝利と、蘭印(インドネシア)の民族独立とのつながりは、大変に頼りなく心細いものなのであった(見出すには拡大鏡が必要…いや必要なのは特殊な色眼鏡であろうか?)。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/07/08 22:28 → http://www.freeml.com/bl/316274/142265/

 

 

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2010年7月 9日 (金)

続・桃太郎の蘭印(インドネシア民族独立の幻)

 

 「大東亜政略指導大綱(昭和18年5月31日御前会議決定)」には、

 

  (イ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム

 

…と記されていた。つまりここには、「大東亜戦争完遂ノ為帝国ヲ中核トスル大東亜ノ諸国家民族結集ノ政略態勢ヲ更ニ整備強化」するという「方針」の下に、蘭印(インドネシア)として総称される「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」を、「御前会議」(国策決定における最高ランクの会議である)の場において「帝国領土ト決定シ」たことが、一片の誤解の余地もない形で記されていたわけだ(『杉山メモ 下』)。

 大日本帝國の「大東亜戦争完遂」に際し、占領地インドネシアの民族独立構想は(国策レベルには)存在しなかった…というのが前回に明らかとなってしまった話である。

 

 

 

 ところで、以前の記事上で、

 

 収拾不能となった盧溝橋以来の中国大陸における軍事力行使が、仏印進駐にまで拡大し、米国による石油禁輸という経済制裁発動をもたらしてしまった結果、大日本帝國は石油供給の枯渇の現実化という事態に直面してしまう。そこにあらためて浮上したのが、蘭印の石油の存在であり、軍事力による獲得の実行策としての開戦なのである。
 そこに、いわゆる南進局面となった対米英戦としての大東亜戦争の起源がある。
 資源確保における対米依存からの脱却、米国に依存しない石油資源の確保こそが、大東亜戦争の目的なのである。実際、開戦に先立つ大本営での議論は、南進の形式(対英蘭戦争に限定するのかどうか、それが可能かどうか、つまり対米戦争回避の可能性)と対米戦争となった場合の勝算、そして南進による資源獲得問題(南方資源確保が戦争の目的であると同時に、占領地からの資源供給が対米英戦の戦線維持の前提となる)に集中しているのだ。植民地からのアジアの解放についての議論には、大本営の参謀達には、その段階では関心が持たれていなかったように見える。

 

…と書いた。

 

 「植民地からのアジアの解放についての議論」において問題の焦点となるのは、対米英開戦後の占領地の処遇であろう。

 本題として「占領地の処遇」についての議論が行われた「開戦に先立つ」国策レベルでの会議としては、第七十回大本営政府連絡会議(昭和16年11月20日)以外には見当たらないように思われる。

 午前9時から午前10時半まで開かれた会議では、「南方占領地行政実施要領」が決定された。

 

 さて、「南方占領地行政実施要領」には、対米英開戦後の占領地の処遇について、どのような決定が記されているのだろうか?

 「要領」は、「第一 方針」と「第二 要領」の二部構成で書かれている。その「第一 方針」の内容を読むことにしよう。そこには、

 

南方占領地行政実施要領
   第一 方針
占領地ニ対シテハ差シ当リ軍政ヲ実施シ治安ノ恢復、重要国防資源ノ急速獲得及作戦軍ノ自活確保ニ資ス
占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテハ別ニ之ヲ定ムルモノトス

 

…と書かれている(文言は、明治百年史叢書 『杉山メモ』 原書房 1967、による)。

 残念ながら、「南方占領地行政実施」の「方針」には、「植民地からのアジアの解放についての議論」に相当する内容は存在しない。

 

 

  占領地ニ対シテハ差シ当リ軍政ヲ実施シ治安ノ恢復、重要国防資源ノ急速獲得及作戦軍ノ自活確保ニ資ス

…とはつまり、大日本帝國にとっての占領地の「差シ当リ」の意義が、「重要国防資源ノ急速獲得及作戦軍ノ自活確保」の場であったということを示している。

 残念なことに、より具体的に書かれている「第二 要領」の各項目でもそのことに変わりはない。たとえば、

二 作戦ニ支障ナキ限リ占領軍ハ重要国防資源ノ獲得及開発ヲ促進スヘキ措置ヲ講スルモノトス
 占領地ニ於テ開発又ハ取得シタル重要国防資源ハ之ヲ中央ノ物動計画ニ織リ込ムモノトシ作戦軍ノ現地自活ニ必要ナルモノハ右配分計画ニ基キ之ヲ現地ニ充当スルヲ原則トス

七 国防資源取得ト占領軍現地自活ノ為民生ニ及ホサルルヲ得サル重圧ハ之ヲ忍ハシメ宣撫上ノ要求ハ右目的ニ反セサル程度ニ止ムルモノトス

…というのがその内容なのであった。その上に、

八 (米、英、蘭国人、枢軸国人、華僑に関する文言は略)
 原住土民ニ対シテハ皇軍ニ対スル信倚観念ヲ助長セシムル如ク指導シ其ノ独立運動ハ過早ニ誘発セシムルコトヲ避クルモノトス

…とまで書いてある。「原住土民ニ対シテハ…独立運動ハ過早ニ誘発セシムルコトヲ避クル」ことこそが国策遂行上の課題なのであった。

 再び「方針」の文言に戻れば、

  占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテハ別ニ之ヲ定ムルモノトス

…とあるものの、開戦に先立って、「占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテ」の何らかの決定がなされることは、ついになかったというのが現実である。

 開戦翌年の昭和17年3月14日の第九十五回大本営政府連絡会議に至り、やっと「占領諸地域ノ帰属及統治機構」について議論されるが、「結局本件ハ更ニ研究ヲ要ストシテ未決ノ儘別冊(外務省作成の「原案」である)ノ検討ニモ入ラズ散会トナル」のであった。

 つまり、開戦の翌年、昭和17年3月半ばになっても、「占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル」大日本帝國の国策レベルでの「方針」と呼ばれるべきものは存在しなかったのである。

 

 

 

 

 そして、大日本帝國の占領地である蘭印(インドネシア)の「最終的帰属」が、

  (イ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム

…として最高国策レベルで明確に「決定」されたのは、開戦の翌々年の5月の終わりになっての「御前会議」での話なのであった。

 結局のところ、対米英(蘭)開戦後も、大東亜戦争の目的として、蘭印(インドネシア)の独立(つまり植民地状態からの解放)が、国策レベルで検討されることはなかったのである。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/07/07 22:47 → http://www.freeml.com/bl/316274/142192/

 

 

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2010年7月 8日 (木)

桃太郎の蘭印(インドネシア民族独立の幻)

 

 昭和18年5月31日の御前会議で決定されたのが、「大東亜政略指導大綱」であった。

 大東亜戦争における大日本帝國占領地域の処遇に関する、国策最高レベルでの決定事項である。

 

 その内容は、

 

大東亜政略指導大綱
    第一 方針  
一、帝国ハ大東亜戦争完遂ノ為帝国ヲ中核トスル大東亜ノ諸国家民族結集ノ政略態勢ヲ更ニ整備強化シ以テ戦争指導ノ主導性ヲ堅持シ世界情勢ノ変転ニ対処ス 政略態勢ノ整備強化ハ遅クモ本年十一月頃迄ニ達成スルヲ目途トス  
二、政略態勢ノ整備ハ帝国ニ対スル諸国家民族ノ戦争協力強化ヲ主眼トシ特ニ支那問題ノ解決ニ資ス  
    第二 要領  
一、対満華方策
  帝国ヲ中心トスル日満華相互間ノ結合ヲ更ニ強化ス
  之ガ為
  (イ)対満方策
   既定方針ニ拠ル
  (ロ)対華方策
  「大東亜戦争完遂ノ為ノ対支処理根本方針」ノ徹底具現ヲ図ル為右ニ即応スル如ク別紙ニ定ムル所ニ拠リ日華基本条約ヲ改訂シ日華同盟ヲ締結ス之ガ為速ニ諸準備ヲ整フ
  右ニ関連シ機ヲ見テ国民政府ヲシテ対重慶政治工作ヲ実施セシムル如ク指導ス
  前項実行ノ時機ハ大本営政府協議ノ上之ヲ決定ス
二、対泰方策
  既定方針ニ基キ相互協力ノ強化ヲ強化ス特ニ「マライ」ニ於ケル失地回復、経済協力強化ハ速ニ実行ス
  「シャン」地方ノ一部ハ泰国領ニ編入スルモノトシ之ガ実施ニ関シテハ「ビルマ」トノ関係ヲ考慮シテ決定ス
三、対仏印方策 既定方針ヲ強化ス  
四、対緬方策 昭和十八年三月十日大本営政府連絡会議決定緬甸独立指導要綱ニ基キ施策ス  
五、対比方策 成ルヘク速ニ独立セシム  
独立ノ時期ハ概ネ本年十月頃ト予定シ極力諸準備ヲ促進ス  
六、其他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通定ム  
但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セス  
  (イ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム  
  (ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ応シ努メテ政治ニ参与セシム  
  (ハ) ニューギニア等(イ)以外ノ地域ノ処理ニ関シテハ前二号ニ準ジ追テ定ム  
  (二) 前期各地ニ於テハ当分軍政ヲ継続ス  
七、大東亜会議  
以上各方策ノ具現ニ伴ヒ本年十月下旬頃(比島独立後)大東亜各国ノ指導者ヲ東京ニ参集セシメ牢固タル戦争完遂ノ決意ト大東亜共栄圏ノ確立トヲ中外ニ宣明ス

 

…というもの(これで全文)であった(明治百年史叢書 『杉山メモ 下』 原書房 1967)。

 

 

 

 ここでは蘭印(インドネシア)の取り扱いに注目しておこう。
 

  (イ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム

…というのが、開戦後三年目(開戦の翌々年)における大日本帝國の国策の現実なのであった。「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」を併せれば、即ち蘭印である。

 つまり、蘭印に対しては「帝国領土」とすることが、昭和18年5月31日の御前会議の決定事項には含まれていたのである。「大東亜戦争完遂ノ為帝国ヲ中核トスル大東亜ノ諸国家民族結集ノ政略態勢ヲ更ニ整備強化」するためには、蘭印を「帝国領土」としておくことが必要と判断されたのであった。

 

 

 

 

 これまでも繰り返しご紹介した通り、靖国神社の遊就館の図録(平成20年版)には、

 

  戦後アジアの独立
 終戦と同時に、かつての宗主国が自らの領土と信じる植民地に復帰した。しかし、独立の意欲に目覚めた人々は、かつての従順な下僕ではなかった。マレーや仏印、蘭印で、激烈な独立戦争が勃発した。第一次世界大戦後に、日本が提唱して否決された「人種平等」の理想は、開戦劈頭に日本に破れて権威を失った宗主国が、武力で阻止できるものではなかった。東南アジアの民族は次々と独立し、やがて独立運動はアフリカなどに波及した。

  第二次世界大戦後の各国独立
 日露戦争の勝利は、世界特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。
 アジア民族の独立が現実になったのは、大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が破れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した。

 

…などという解説文が、インド、フィリピン、ミャンマー(ビルマ)、ベトナムの独立後の指導者の写真と共に掲載されている。そこには(当然のことながら)インドネシアのスカルノ、ハッタの姿もある。そしてインドネシアの「ナラリア勲章」の写真には、

  インドネシアの最高勲章。インドネシア対蘭独立(昭和二十四年)のために帰国せず現地に残り、オランダとの独立戦争に参加した日本軍軍人六名の功績に対し授与された。

…という説明が添えられていたりもする。

 記されているのは、植民地の解放の契機となった大日本帝國の姿であり、インドネシアの独立に貢献した日本軍軍人の存在である。

 

 インドネシアの独立と大日本帝國の戦争が同時に語られることにより、そして大日本帝國敗戦後にインドネシアの独立に協力した元帝国軍人の存在が強調されることにより、大東亜戦争がインドネシア独立をもたらしたもの(もたらすためのもの)であったかのように、事情を知らない者には読み取られてしまうだろう。

 

 確かに、

  アジア民族の独立が現実になったのは、大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。

…という記述に偽りはないが、重要な事実が省略されてもいるのだ。

 

 蘭印(インドネシア)の人々にとり、

  大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後

…に「現実」であったのは、

  (イ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム

…という大日本帝國の国策なのであって、その時点で「民族の独立」が彼らの「現実」となることはなかったのである。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/07/06 23:46 → http://www.freeml.com/bl/316274/142105/

 

 

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2010年6月30日 (水)

続々々・蘭印にやって来た桃太郎

 

 我が愛読書である、靖国神社の遊就館の図録(ここでは平成20年版を使用)を読むと、

  戦後アジアの独立
 終戦と同時に、かつての宗主国が自らの領土と信じる植民地に復帰した。しかし、独立の意欲に目覚めた人々は、かつての従順な下僕ではなかった。マレーや仏印、蘭印で、激烈な独立戦争が勃発した。第一次世界大戦後に、日本が提唱して否決された「人種平等」の理想は、開戦劈頭に日本に破れて権威を失った宗主国が、武力で阻止できるものではなかった。東南アジアの民族は次々と独立し、やがて独立運動はアフリカなどに波及した。

  第二次世界大戦後の各国独立
 日露戦争の勝利は、世界特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。
 アジア民族の独立が現実になったのは、大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が破れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した。

…などと書いてあるのに出会う。

 アジア解放戦争としての大東亜戦争という物語が語られようとしているわけである。

 

 先日来の話で言えば、アニメ『桃太郎 海の神兵』で描かれた、蘭印に降下した海軍空挺部隊長の桃太郎の活躍には、アジア諸民族の植民地状態からの解放に貢献する皇軍のイメージが込められている、というわけだ。

 

 

 しかし、先日来のもう一つのストーリーである、蘭印(インドネシア)の人々自身の目には進駐して来た皇軍の姿がどのように見えていたのか?という話からは、桃太郎の自己イメージとは異なる物語の存在を思い知らされことになるのであった。

 

 蘭印(インドネシア)の民族主義者の一人、イワ・クスマ・スマントリの『インドネシア民族主義の源流 -イワ・クスマ・スマントリ自伝-』(早稲田大学出版部 1975)を読めば、

  私たちは、まだ植民地支配のおりの中にあった。白い肌をした民族による植民地主義支配は終わったが、インドネシア民族は、黄色い肌の民族である日本人によって支配され続けていた。独立を求め闘おうとする者は、オランダ時代と同じ圧迫を受けていた。

あるいは、

  しかし、このインドネシア民族に数多くの悲劇をひき起こした日本軍の残酷で強圧的で厳しい植民地支配は、私たちの民族に積極的な感情をも植えつけた。

…という表現にぶつかるのである。

 ここには、はっきりと「インドネシア民族に数多くの悲劇をひき起こした日本軍の残酷で強圧的で厳しい植民地支配」と書かれているのである。インドネシアの民族主義者にとって、日本軍による占領(つまり桃太郎による占領)は、オランダの植民地から日本の植民地への変更を意味するものでしかなかったということになる。「私たちは、まだ植民地支配のおりの中にあった」とは、つまり、そういうことだ。

 

 

 もちろん、遊就館の図録にあるように、

  日露戦争の勝利は、世界特にアジアの人々に独立の夢を与え…

…たことは事実である。しかし、昨日に指摘したように、日露戦争後の日本の国策の基本は、

 一、国利民福ヲ増進スル為メ勉テ海外ニ向テ我利権ヲ拡張スルコト
 二、年々増加シツツアル過剰ノ人口ヲ移殖スヘキ植民地ヲ獲得スルコト
  即チ是ナリ
  利権ノ拡張ハ兵力ノ発達ニ伴ヒ世界ノ各方面ニ向ヒ商業的即チ平和的ニ増進セシムルヨリ外道ナシト雖モ植民地ノ獲得ニ至テハ平和的手段ノ外必ス兵力ノ之ニ伴隋スルモノナカル可ラス

…というものであった。まさに、日露戦争後の日本の陸軍中枢は、「年々増加シツツアル過剰ノ人口ヲ移殖スヘキ植民地ヲ獲得スルコト」という国策上の課題を実現すべく、「陸海軍ノ総兵力ヲ策定」するための作業に心血を注いでいたのである。

 日露戦争後の帝國の国是は、植民地解放ではなく、植民地獲得だったということだ。

 もちろん、それは、大日本帝國が特異な存在であったことを意味するのではなく、西欧先進諸国の流儀を見事に学び、列強と肩を並べつつあったことを意味するのである。大日本帝國の国益増進は、「植民地ヲ獲得スルコト」と不可分の関係にあると考えられていたのが、日露戦争後の現実であった。「植民地ヲ獲得スル」能力を持つことに、列強の一員たる資格が見出されていた時代の話である。

 そして、当時の日本人は、「植民地ヲ獲得スルコト」に成功し植民地保有国の一員となった祖国、列強の一員となった祖国に誇りを抱くことが出来たのである(その「誇り」は、往々にして、依然として列強の植民地下にあったアジアの人々に対する優越感となって表明されてしまうものではあったが)。

 

 

 さて、再び、遊就館の図録に戻ろう。そこには、

  第一次世界大戦後に、日本が提唱して否決された「人種平等」の理想は、開戦劈頭に日本に破れて権威を失った宗主国が、武力で阻止できるものではなかった。

…とも書いてあった。

 「日本が提唱して否決された人種平等の理想」とは、第一次世界大戦後のパリ講和会議における「国際連盟規約委員会」の場で、日本全権であった牧野伸顕が提唱した、

  人種あるいは国籍如何により法律上あるいは事実上何ら差別を設けざることを約す

…という規約条文案のこと(提案された文言は、たったこれだけの短いものである)を指していると思われる。が、帝國日本の示したこの美しい理想は、第一次世界大戦後の列強に受け入れられることはなかった。

 

 しかし、その美しい挫折の一方で、第一次世界大戦中の日本には、中華民国政府に対し、あの「二十一ヶ条」要求を突きつけた歴史もある。

 
 

第1号 山東問題の処分に関する条約案
 日本国政府及支那国政府は、偏に極東に於ける全局の平和を維持し且両国の間に存する友好善隣の関係を益々鞏固ならしめんことを希望し、ここに左の条款を締結せり。
1. 支那国政府は、独逸国が山東省に関し条約其他に依り支那国に対して有する一切の権利利益譲与等の処分に付、日本国政府が独逸国政府と協定すべき一切の事項を承認すべきことを約す。
2. 支那国政府は、山東省内若くは其沿海一帯の地又は島嶼を、何等の名義を以てするに拘わらず、他国に譲与し又は貸与せざるべきことを約す。 
3. 支那国政府は、芝盃又は龍口と膠州湾から済南に至る鉄道とを聯絡すべき鉄道の敷設を日本国に允許す。
4. 支那国政府は、成るべく速に外国人の居住及貿易の為自ら進で山東省に於ける主要都市を開くことを約す。其地点は別に協定すべし。

第2号 南満東蒙に於ける日本の地位を明確ならしむる為の条約案
 日本国政府及支那国政府は、支那国政府が南満州及東部内蒙古に於ける日本国の優越なる地位を承認するに依り、ここに左の条款を締結せり。
1. 両締約国は、旅順大連租借期限並南満州及安奉両鉄道各期限を、何れも更に九九カ年づつ延長すべきことを約す。
2. 日本国臣民は、南満州及東部内蒙古に於て、各種商工業上の建物の建設又は耕作の為必要なる土地の賃借権又は其所有権を取得することを得。
3. 日本国臣民は、南満州及東部内蒙古に於て、自由に居住往来し各種の商工業及其他の業務に従事することを得。
4. 支那国政府は、南満州及東部内蒙古に於ける鉱山の採掘権を日本国臣民に許与す。其採掘すべき鉱山は別に協定すべし。
5. 支那国政府は、左の事項に関しては予め日本国政府の同意を経べきことを承諾す。
6. 南満州及東内蒙古に於て他国人に鉄道敷設権を与え、又は鉄道敷設の為に他国人より資金の供給を仰ぐこと
7. 南満州及東部内蒙古に於ける諸税を担保として他国より借款を起こすこと
8. 支那国政府は、南満州及東部内蒙古に於ける政治財政軍事に関し顧問教官を要する場合には、必ず先ず日本国に協議すべきことを約す。
9. 支那国政府は本条約締結の日より九九カ年間日本国に吉長鉄道の管理経営を委任す。

第3号 漢冶萍公司に関する取極案
 日本国政府及支那国政府は、日本国資本家と漢冶萍公司との間に存する密接なる関係に顧み且両国共通の利益を増進せんが為、左の条款を締結せり。
1. 両締約国は、将来適当の時機に於て漢冶萍公司を両国の合弁となすこと、並支那国政府は日本国政府の同意なくして同公司に属する一切の権利財産を自ら処分し又は同公司をして処分せしめざることを約す。
2. 支那国政府は、漢冶萍公司に属する諸鉱山付近に於ける鉱山に付ては同公司の承諾なくしては之が採掘を同公司以外のものに許可せざるべきこと、並其他直接間接同公司に影響を及ぼすべき虞ある措置を執らんとする場合には先ず同公司の同意を経べきことを約す。

第4号 中国の領土保全の為の約定案
 日本国政府及支那国政府は、支那国領土保全の目的を確保せんが為、ここに左の条款を締結せり。支那国政府は、支那国沿岸の港湾及島嶼を他国に譲与し若くは貸与せざるべきことを約す。

第5号 中国政府の顧問として日本人傭聘方勧告、其他の件
1. 中央政府に政治財政及軍事顧問として有力なる日本人を傭聘せしむること。
2. 支那内地に於ける日本の病院、寺院及学校に対しては、其土地所有権を認むること。
3. 従来日支間に警察事故の発生を見ること多く、不快なる論争を醸したることも少からざるに付、此際必要の地方に於ける警察を日支合同とし、又は此等地方に於ける支那警察官庁に多数の日本人を傭聘せしめ、以て一面支那警察機関の刷新確立を図るに資すること。
4. 日本より一定の数量(例えば支那政府所要兵器の半数)以上の兵器の供給を仰ぎ、又は支那に日支合弁の兵器廠を設立し日本より技師及材料の供給を仰ぐこと。
5. 武昌と九江南昌線とを聯絡する鉄道及南昌杭州間、南昌潮州間鉄道敷設権を日本に許与すること。
6. 福建省に於ける鉄道、鉱山、港湾の設備(造船所を含む)に関し外国資本を要する場合には、先ず日本に協議すべきこと。
7. 支那における本邦人の布教権を認むること。

 
 

 国際政治の場で「人種平等」の理想を唱えることと、中国大陸における植民地的権益拡大の試み(それが二十一ヶ条-特に第5号-の実質である)が、我らが日本により、同じ1910年代に遂行されていた現実を見ておくことも、帝國の末裔たる私たちには必要なことだと思われる。

 

 

 

 

 今回、桃太郎=海兵隊説(?)から始まって、桃太郎による蘭印(インドネシア)の占領統治の話となり、当のインドネシア独立に貢献した民族主義者の自伝の記述という他者の視線と、「帝國國防方針」を策定した陸軍参謀本部自身の視線を交えることにより、「大東亜戦争=植民地解放戦争」論の自己欺瞞的側面を明らかにするという結果となってしまった。

 重要な点は、そこで援用したのが、決して「第二次世界大戦戦勝国側、連合国側の主張」ではないというところにある(と思っている)。

 一方は、植民地宗主国としての「第二次世界大戦戦勝国側、連合国」からの独立を果たしたインドネシアの民族主義者の自伝の記述なのであり、もう一方は、大日本帝國の国策遂行の当事者の認識を示した内部文書の記述なのである。いわゆる「東京裁判史観」とは関係のないところで、「大東亜戦争=植民地解放戦争」論の問題点が明らかにされてしまったわけだ。

 
 
 

 植民地保有国としての過去は、自慢すべき話ではないかもしれないが、「なかったこと」にして大東亜戦争=植民地解放戦争などという都合の良い話をでっち上げる必要もないんじゃないか、と私は思う。

 現在を生きる我々にとって、過去の大日本帝國の植民地保有を特別に恥じなければならない理由はない。植民地保有は、現代人としての我々自身の行為ではないからだ。つまり、我々が直接責任を負うべき問題ではないのである。世界史的展望の下で、過去の祖国の歴史を対象化し、距離をもって冷静に考察すればよいだけの話なのだ。

 しかし、歴史の捏造の試みは恥ずかしい。これは現在の我々の現実の恥、我々自身が責任を負うべき恥なのである。

 

 

 

 

 

〔付記〕 桃太郎については、「海兵隊と桃太郎(桃太郎 海の神兵)」(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-e5e1.html)をお読みいただきたい。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/06/03 23:03 → http://www.freeml.com/bl/316274/139497/

 

 

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2010年6月29日 (火)

続々・蘭印にやって来た桃太郎

 

 前回は、靖国神社の遊就館の図録(平成20年版)に、

  第二次世界大戦後の各国独立
 日露戦争の勝利は、世界特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。
 アジア民族の独立が現実になったのは、大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が破れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した。

…というお話があるのをご紹介した。

 いわば、桃太郎の側から見た、大日本帝國の歴史であり、大東亜戦争の意義ということになる。

 

 

 それに対し、桃太郎の占領下に置かれた蘭印(インドネシア)の民族主義者の経験を伝えるものとして、イワ・クスマ・スマントリの『インドネシア民族主義の源流 -イワ・クスマ・スマントリ自伝-』(早稲田大学出版部 1975)の内容を紹介した。オランダという「鬼」を退治した桃太郎だったが、しかし、その桃太郎の統治下、つまり日本軍政の下で、インドネシアの人々が経験したのは、

 

  日本軍政下のインドネシア人民は、貧困に呻吟していた。栄養失調の人民は、浮腫に悩まされ、つぎはぎだらけの衣服をまとうことになった。
  日本軍は、各地に警防団(ケイボウダン)という名の武装警察を組織した。人民の安全を保障するという名目で創設されたが、実際には、その警防団は、インドネシア人民が自由に食糧、特に米を移動するのを監視する機構であった。警防団の活動は、人民の安全を守るためではなく、人民の物資を強奪するためのものであった。一つか二つしかない椰子の実すら奪われた。
  人民の苦窮は、人民の間に怨恨の念を植えつけ、日本軍の野蛮な行為に対する蜂起を生み出していった。蜂起は、いつも、人民の為政者に対する怨恨と不満の感情という基礎の上に発生するのである。
  ジャワ島のみならずインドネシア各地で日本軍政に対する農民蜂起がおき、農民の間には少なからぬ犠牲者が出た。

 

…という現実なのであった。さらにスマントリは、

 

  私たちは、まだ植民地支配のおりの中にあった。白い肌をした民族による植民地主義支配は終わったが、インドネシア民族は、黄色い肌の民族である日本人によって支配され続けていた。独立を求め闘おうとする者は、オランダ時代と同じ圧迫を受けていた。私たちは、祖国インドネシアから、あらゆる形の植民地主義支配を葬り去りたいと願っていた。私たちは新しい危険の中で、闘争を前進させてゆかなければならなかった。

 

…とも書いている。

 しかし、もちろん、大東亜戦争が戦後におけるインドネシアの独立の契機となったことをスマントリは認めている。蘭印における桃太郎の存在は、決して無意味なものではなかった。

 遊就館の図録にある「日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が破れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した」という解説に対応するスマントリの言葉は次のようなものである。

 

  インドネシアにおける日本軍の占領行政は、強圧的で残酷なものであった。まだ幼い子供たちも、炎天下を隊列を組んで長距離行進させられた。行進中の子供たちには、健康上の配慮が払われず、多くの子供が過労で病気になり、死んでいった。
  しかし、このインドネシア民族に数多くの悲劇をひき起こした日本軍の残酷で強圧的で厳しい植民地支配は、私たちの民族に積極的な感情をも植えつけた。
  日本軍によって、インドネシア民族は、はじめて、力強い、規律ある生活を学んだ。日本軍がインドネシアを占領していた時代には、この私たちの祖国においては、盗みがほとんどなかった。民衆生活は非常に貧しかったけれど、盗みをしなかった。盗みに対して加えられる日本軍の処罰のおそれの方が、人間的な欲望より強かったからである。そして、夜おそくまで、市中どこを歩いても安全であった。

 

 独立を達成したインドネシアで、スカルノやハッタと共に政権を担った民族主義者のスマントリは、日本の占領行政を、

  このインドネシア民族に数多くの悲劇をひき起こした日本軍の残酷で強圧的で厳しい植民地支配は、私たちの民族に積極的な感情をも植えつけた。

…という言葉を用いて、その意義を評価しているのである。遊就館の図録にある通りで、インドネシアにおいても、「日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が破れても消えることはなく」、オランダの植民地からの独立達成の実現に、確かに結びついていたわけだ。ただし、「日本軍の残酷で強圧的で厳しい植民地支配」が、「私たちの民族に積極的な感情をも植えつけた」ことによって。

 

 

 

 さて、再び、遊就館の図録の言葉に戻ろう。そこには、

  日露戦争の勝利は、世界特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。

…と書いてあったわけだが、これを読んで、以前の「現代史のトラウマ」で、

  しかし「富国強兵政策」は植民地化に対する防衛にとどまらず、日露戦争後には、日本自身が植民地保有国となることで、防衛的なものから攻撃的なものへと変化していく。
  当時の国際情勢の中で西欧列強に植民地化されることは、日本にとって何よりの脅威だったわけだが、植民地化への防衛策としての「富国強兵」から、自らが他国を植民地化することが自己目的化される過程は、分けて考えられるべき側面があるように思われる。自らが植民地保有国になることは、いわば、防衛的姿勢から攻撃的姿勢への転換を意味するわけである。
 (「続々・聖戦の論理(植民地宗主国への道)」 
http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-bb02.html

…と書いたことを思い出した。

 

 

 

 日露戦争後の「帝國」となった日本は、山県有朋を中心として、「帝國國防方針」、「用兵綱領」といった、その後の国策の中心となる文書をまとめる。

 その過程での、軍の内部文書からは、当時の陸軍中央のホンネを窺うことが出来る。

 「明治三十九年度日本帝國陸軍作戦計画策定ノ件」には、

  日本帝國ノ守勢作戦計画ヲ改正シテ帝國作戦ノ本領ヲ攻勢ト為セリ

あるいは、

  明治三十九年度ニ於ケル帝國陸軍ノ作戦計画ハ攻勢ヲ取ルヲ本領トナス

…といった文言がある。

 そのような「攻勢」局面での作戦計画策定の基盤となる「国策」の方向性についての陸軍内部の認識を探る上で、明治39年12月26日作成の、松石安治参謀本部第二部長による「国防大方針ニ関スル意見」の言葉が示唆的である。そこには、

一、軍備ハ国是ト一致シ戦略ハ政略ニ伴ハサル可カラス
 故ニ先ツ開国進取ノ国是ヲ実行スルニ必要ナル陸海軍ノ総兵力ヲ策定スル必要アリ
 之カ為メニ開国進取ノ国是ヲ遂行スルニ如何ナル要目アルカヲ詮索スルニ
 一、国利民福ヲ増進スル為メ勉テ海外ニ向テ我利権ヲ拡張スルコト
 二、年々増加シツツアル過剰ノ人口ヲ移殖スヘキ植民地ヲ獲得スルコト
  即チ是ナリ
  利権ノ拡張ハ兵力ノ発達ニ伴ヒ世界ノ各方面ニ向ヒ商業的即チ平和的ニ増進セシムルヨリ外道ナシト雖モ植民地ノ獲得ニ至テハ平和的手段ノ外必ス兵力ノ之ニ伴隋スルモノナカル可ラス
  (後略)

…という言葉で、陸軍中枢の率直な国策認識が記されているのである。参謀本部第二部長により、国策の最重要課題と考えられていたのは、

  一、国利民福ヲ増進スル為メ勉テ海外ニ向テ我利権ヲ拡張スルコト
  二、年々増加シツツアル過剰ノ人口ヲ移殖スヘキ植民地ヲ獲得スルコト

…なのであって、「開国進取ノ国是」の実行・遂行を考えるに際し、「植民地権力打倒」という目標はどこにも掲げられてはいない。
 (以上の文言は、明治百年史叢書『満洲問題と国防方針』原書房 1967、による。ただし原文の旧字体は、PCにより変換された新字体のままとした)

 

 

 

 

 

〔付記〕 桃太郎については、「海兵隊と桃太郎(桃太郎 海の神兵)」(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-e5e1.html)をお読みいただきたい。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/06/02 22:56 → http://www.freeml.com/bl/316274/139414/

 

 

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2010年6月28日 (月)

続・蘭印にやって来た桃太郎

 

 前回は、

  桃太郎の意気込みとは別に、オランダという鬼の下で植民地とされていたインドネシアの人々に、桃太郎がどのように見えたのか?

…という視点から、独立達成後のインドネシアで政府閣僚となった、イワ・クスマ・スマントリの『インドネシア民族主義の源流 -イワ・クスマ・スマントリ自伝-』(早稲田大学出版部 1975)の、第五章「日本軍政の時代」の一部を紹介した。

 

 

 今夜は、桃太郎からは同じ光景がどのように見えていたのか?あるいは、どのように見えていたと考えられている(考えられようとしている)のか?について、靖国神社の遊就館の図録(平成20年版)を読むことから始めたい。

 図録には、

  戦後アジアの独立
 終戦と同時に、かつての宗主国が自らの領土と信じる植民地に復帰した。しかし、独立の意欲に目覚めた人々は、かつての従順な下僕ではなかった。マレーや仏印、蘭印で、激烈な独立戦争が勃発した。第一次世界大戦後に、日本が提唱して否決された「人種平等」の理想は、開戦劈頭に日本に破れて権威を失った宗主国が、武力で阻止できるものではなかった。東南アジアの民族は次々と独立し、やがて独立運動はアフリカなどに波及した。

  第二次世界大戦後の各国独立
 日露戦争の勝利は、世界特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。
 アジア民族の独立が現実になったのは、大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が破れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した。

…などと書いてあり、ページ上には、インド、フィリピン、ミャンマー(ビルマ)、ベトナムの独立後の指導者の写真と共に、インドネシアのスカルノ、ハッタの姿も紹介されている。

 また、「ナラリア勲章」の写真には、

  インドネシアの最高勲章。インドネシア対蘭独立(昭和二十四年)のために帰国せず現地に残り、オランダとの独立戦争に参加した日本軍軍人六名の功績に対し授与された。

…という説明が添えられている。

 遊就館の図録にあるのは、植民地の解放の契機となった大日本帝國の姿と言えようか。そしてインドネシアの独立に貢献した日本軍軍人の存在が誇らかに記されているというわけだ。

 

 

 

 さて、再び、スカルノやハッタと共に、独立達成後のインドネシア政府の閣僚となったイワ・クスマ・スマントリの自伝に話を戻そう。

 スマントリの味わった日本軍による占領とはどのような経験であったのか?

 

  ジャワの占領が強化されるにつれて、日本軍は、これまでのような甘い態度を示さなくなった。全面的に姿勢を変えはじめた。ねんごろな態度が、強圧的になった。とくに一般民衆に対する態度の変化は顕著であった。しかし、知識人に対する日本軍の態度は、相変わらず柔軟なものであった。望むと望まざるにかかわらず、インドネシア人指導者の協力が日本軍に必要だったからであった。
  日本軍は、結社・団体を組織することを禁止した。政治団体、労働組合、宗教団体、さらには社会団体まで禁止した。

 

…つまり、時と共に、「ねんごろな態度が、強圧的になった」というのである。

 しかし、一方で、大日本帝國は緒戦の勝利から、戦局の不利な展開に直面し始める。スマントリによれば、

 

  …日本軍は、ミッドウェーとイリアン東方の二つの海戦における敗退を、オーストラリア作戦計画の失敗のしるしと認めねばならなかった。そのときから、日本軍は、いつでも勝利が彼とともにあるのではないに気づきはじめた。満州や中国における戦争でも、勝利をえることはできなくなっていった。日本にとって、もっとも悲劇的な敗戦の色が感じられるようになった。日本軍は、植民地の潜在力を引き出すことが必要であると考えるようになった。植民地からの支援をうるために、日本軍は、植民地人民の同情をえる努力を始めねばならなかった。東京の日本政府は、インドネシア統治には直接には関知していないようであり、そのインドネシアにおける日本軍は内部分裂をおこしていたように見うけられた。すなわち、政策や世界観をめぐって、陸軍の軍政監部と海軍民政府の間に分裂がみうけられた。ジャカルタの海軍武官府の人々は軍政監部の指導者に比べ、より高い見識を示していた。

 

…という変化を、大日本帝国の占領に生じさせた。戦局の悪化は、占領軍(つまり日本軍)に対し、時と共に「強圧的にな」るよう仕向けると同時に、「植民地からの支援をうるために」、「植民地人民の同情をえる努力」を必要とさせるようにも働いたのである。

 別の箇所でスマントリは、

 

  インドネシアは、日本軍により、三つの地域に分轄された。第一は、ジャワ・マドゥラ地区であり、第二は、スマトラ地区、第三は、スラウェシ・カリマンタンなどの東インドネシア地区であった。第一の地区は、日本陸軍第十六軍に、第二の地区は第二十五軍に統治され、それぞれ軍政監部が置かれていた。第三の地区は日本海軍に統治され、海軍民政府が置かれていた。この海軍は、ジャカルタに、日本陸軍との連絡のため、前田精大佐を長とする海軍武官府を置いていた。

 

…と書いているが、当初から大日本帝國によるインドネシアの占領は一枚岩のものではなかった。「ジャカルタの海軍武官府の人々は軍政監部の指導者に比べ、より高い見識を示していた」とあるように、占領に際してのそれぞれの地域の当事者による姿勢の差異を、スマントリの記述からは読み取っておきたい。スマントリの叙述は、決して、日本非難に終始するわけではないのである(海軍軍人前田精に対し、スマントリは一貫して高い評価を表明している)。

 しかし…

 

  連合軍の圧力が強まるにつれ、日本軍にとってインドネシア人民の協力が、ますます必要となった。ジャワには、中央参議院が設けられた。中央参議院は、軍政監部の諮問に答申する任務をもつものであった。これらは、日本軍が真の意図をおおいかくすためのものであった。
  インドネシア人民は、ときとともに、いよいよ窮乏感をいだくようになった。日本軍は、ひそかにジャワ米を彼らの艦船に積み込み、持ち去っていた。インドネシアの都市住民は、一人一日二百グラムの米で暮らしていた。人民の間には、新生活運動 Gerakan Hidup Baru という運動が実施され、非常に苦しんでいた。日本軍は、インドネシア人民に、普段食べつけない新しい食べ物を考え出すように提案してきた。牛肉その他の食肉は、クミアイという名の協同組合の手を通し、日本軍の手に集められた。サクラと呼ばれる日本民間人は、歯ブラシや歯みがき粉などを国内で製造するように要請してきた。
  日本軍政下のインドネシア人民は、貧困に呻吟していた。栄養失調の人民は、浮腫に悩まされ、つぎはぎだらけの衣服をまとうことになった。
  日本軍は、各地に警防団(ケイボウダン)という名の武装警察を組織した。人民の安全を保障するという名目で創設されたが、実際には、その警防団は、インドネシア人民が自由に食糧、特に米を移動するのを監視する機構であった。警防団の活動は、人民の安全を守るためではなく、人民の物資を強奪するためのものであった。一つか二つしかない椰子の実すら奪われた。
  人民の苦窮は、人民の間に怨恨の念を植えつけ、日本軍の野蛮な行為に対する蜂起を生み出していった。蜂起は、いつも、人民の為政者に対する怨恨と不満の感情という基礎の上に発生するのである。
  ジャワ島のみならずインドネシア各地で日本軍政に対する農民蜂起がおき、農民の間には少なからぬ犠牲者が出た。
  人民が生活の苦しさに喘いでいる中で、日本軍は、インドネシアの知識人の抱きこみの努力をつよめていた。私たちは、人民の生活と、日本軍政に協力している指導者の生活の間には、極めて顕著な格差があることを見てとることができた。

 

…というのもまた日本による占領の現実なのであった。

 つまり、

  連合軍の圧力が強まるにつれ、日本軍にとってインドネシア人民の協力が、ますます必要となった。ジャワには、中央参議院が設けられた。

…という一方で、

  日本軍は、ひそかにジャワ米を彼らの艦船に積み込み、持ち去っていた。インドネシアの都市住民は、一人一日二百グラムの米で暮らしていた。

…という事態が進行していったのである。

 桃太郎の戦争がインドネシアの人々を巻き込んでいく過程での、形式的ではあれ政治(占領行政)への参加の経験は、戦後のインドネシアの独立への準備運動として確実に機能したであろう。また、日本軍政により設立された郷土防衛義勇軍(Tentara Pembela Tanah Air、略称PETA「ペタ」)での軍事訓練の経験は、オランダを相手にした独立戦争に際し、大きな意味を持つものとなったことも否定出来ない。

 しかし一方で、大日本帝國の占領が過酷なものとして経験されたこともまた事実と言わざるを得ないのである。郷土防衛義勇軍に対する軍事訓練の成果が最初に発揮されたのは、1945年2月14日の「ブリタル反乱」、つまり過酷な日本軍政に対するインドネシアの人々の反抗の際なのであった(「PETA」による最初の軍事力行使は、日本による軍事支配の現実に向けられたものだったということである)。

 

 

 

 

 遊就館の図録からは、つまり桃太郎の視点からは、後者の現実(相手の経験)がスッポリ抜け落ちているのだ。そのことに気付いておくことも、歴史理解の上で必要に思える。

 他者の経験、他者の視線のあり方への想像力を欠いた歴史理解は、自己礼賛の道具で終わってしまいかねないのである。

 

 

 

 

 

〔付記〕 桃太郎については、「海兵隊と桃太郎(桃太郎 海の神兵)」(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-e5e1.html)をお読みいただきたい。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/06/02 00:20 → http://www.freeml.com/bl/316274/139357/

 

 

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2010年6月27日 (日)

蘭印にやって来た桃太郎

 

  なお、「空の神兵」として国民に広く知られる事となる日本海軍空挺部隊を運搬したのも、九六式陸攻の輸送機版である九六式陸上輸送機である。1942年(昭和17年)1月11日にセレベス島のメナドに二波408人を降下させたのは延べ45機、2月20日に西ティモールのクパンへ二次に渡り700人を降下させたのは28機の九六式輸送機であった。

…という『桃太郎 海の神兵』にまつわる話(前回、前々回参照)と、

  神州丸はGL,龍城丸,MT,土佐丸という多彩な防諜名を持っているので,その事績を調べようとするとしばしば混乱してしまいます.対米英開戦開始の直後,インドネシア(蘭印)攻略を目指すジャワ島上陸作戦の最中に味方の魚雷を受け,作戦を指揮する第十六軍司令官今村均中將を海中に放り出して転覆した龍城丸がこの神州丸のことだと理解するまで私自身だいぶ回り道をしてしまいました.それほどに重要な機密として秘匿された船でした.

…という「陸軍独創の強襲揚陸艦」にまつわる話(前回参照)の共通点は、蘭印(インドネシア)であった。
(前々回→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-e5e1.html
(前回→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-c1ca.html

 どちらも、大東亜戦争緒戦段階における、蘭印攻略戦でのエピソードということになる。

 

 蘭印獲得こそが、対米英戦となった昭和16年12月8日以降の大日本帝國の戦争の焦点だったわけである。

 もちろん、真珠湾攻撃には、米太平洋艦隊の無力化という軍事的目的があり、大東亜戦争の重要な作戦であったことは確かだ。しかし、それは太平洋・東南アジア方面における米英の軍事力の弱体化が、蘭印獲得の永続性の保障を意味するからこその軍事作戦行動なのである。

 

 収拾不能となった盧溝橋以来の中国大陸における軍事力行使が、仏印進駐にまで拡大し、米国による石油禁輸という経済制裁発動をもたらしてしまった結果、大日本帝國は石油供給の枯渇の現実化という事態に直面してしまう。そこにあらためて浮上したのが、蘭印の石油の存在であり、軍事力による獲得の実行策としての開戦なのである。

 そこに、いわゆる南進局面となった対米英戦としての大東亜戦争の起源がある。

 資源確保における対米依存からの脱却、米国に依存しない石油資源の確保こそが、大東亜戦争の目的なのである。実際、開戦に先立つ大本営での議論は、南進の形式(対英蘭戦争に限定するのかどうか、それが可能かどうか、つまり対米戦争回避の可能性)と対米戦争となった場合の勝算、そして南進による資源獲得問題(南方資源確保が戦争の目的であると同時に、占領地からの資源供給が対米英戦の戦線維持の前提となる)に集中しているのだ。植民地からのアジアの解放についての議論には、大本営の参謀達には、その段階では関心が持たれていなかったように見える。

 
 

 もちろん、大東亜戦争における大日本帝國の敗戦が、戦後のアジアにおける植民地独立の契機となったことは確かである。その意味では、大東亜戦争は、アジアの植民地状態からの脱却の重要な要因であった。

 インドネシアの独立に際して、旧日本軍軍人兵士の果たした役割が評価されているのも事実である。しかし、大日本帝國の蘭印への関心は、石油資源の確保に始まるものであったのもまた、事実と言わねばならない。

 

 ここでは、植民地からの「解放」をもたらした大日本帝國の占領統治が、インドネシアの民族主義者の目に、どのように映じていたかを見ておこう。

 
 

  私たちは、蘭印政庁がどんなに残忍なインドネシア統治をしていたかを、いつでも、即座に描き出すことができる。人民は、オランダ人に対し激しい憎悪の念をもやしていた。従って、日本軍がインドネシアに上陸すると、私たちの間には、オランダからの解放感が生まれていた。民族運動の一部指導者は、日本軍を、将来のインドネシアに対する良い兆候であるとみなした。日本軍は、巧みな宣伝活動を行った。一部の知識人は、日本軍の語る計画を真実であると信じた。次々に標語が打ち出されてきた。そして、インドネシア人の胸を燃えたたせた。「アジア民族のためのアジア」「大東亜共栄圏」「アジアの指導者日本」が、その主なスローガンであった。日本軍がインドネシアに上陸したばかりのころ、インドネシア人民は、インドネシアに独立を与えるという日本軍の約束を大きな希望をもって迎えたものであった。
  だが、そうした状況は長く続かなかった。インドネシア人民、とりわけ知識人は、日本軍のジャワ上陸の意味が何であるかに、次第に気づくようになった。日本軍に続いて、文官、サクラ・グループ(民間人)が、インドネシアにやってきた。彼らは、インドネシアの天然資源を乱掘した。
  日本軍が、インドネシア人を登用し、官吏や兵士にする教育をしたのは、オランダ人が去ったあと、そのオランダ人の仕事の空白を埋めることができなかったからであった。日本軍に協力したインドネシア人指導者は、強制されたものもあったが、自発的に協力したものも少なくなかった。強制であれ、何であれ、私たちは、日本軍に協力しなければならなかった。一時に、全面的に日本軍との協力を拒否するのは、賢明な道ではなかった。知識人が占領軍に協力したのは、彼らがインドネシア民族の利益を無視したり、また、忘れたりしたからではなかった。そののちにおいても、あらゆる危険をのりこえて民族闘争が続けられていった。

 
 

 独立達成後のインドネシアで政府閣僚となった、イワ・クスマ・スマントリの『インドネシア民族主義の源流 -イワ・クスマ・スマントリ自伝-』(早稲田大学出版部 1975)の、第五章「日本軍政の時代」には、このように書かれている。

 
 

 桃太郎の意気込みとは別に、オランダという鬼の下で植民地とされていたインドネシアの人々に、桃太郎がどのように見えたのか?

 インドネシアの人々の目に映じた桃太郎の姿、それをここから読み取っておきたい。

 
 
 
 
 
 

 

〔付記〕 アニメ『桃太郎 海の神兵』(1944)の詳細については、前々回の記事、「海兵隊と桃太郎(桃太郎 海の神兵)」の後半をお読みいただきたい。
→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-e5e1.html


 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/05/31 23:38 → http://www.freeml.com/bl/316274/139273/

 

 

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2010年6月26日 (土)

海兵隊、陸戦隊、陸軍船舶兵、そして桃太郎の九六式陸攻とディズニーのB-36

 

 『桃太郎 海の神兵』(1944)では、海兵隊ならぬ海軍陸戦隊所属の空挺部隊指揮官としての桃太郎の姿を目撃したわけだ(前回の話)。

 

 

 そこでご紹介した通り、『ウィキペディア』の「九六式陸上攻撃機」の項には、

なお、「空の神兵」として国民に広く知られる事となる日本海軍空挺部隊を運搬したのも、九六式陸攻の輸送機版である九六式陸上輸送機である。1942年(昭和17年)1月11日にセレベス島のメナドに二波408人を降下させたのは延べ45機、2月20日に西ティモールのクパンへ二次に渡り700人を降下させたのは28機の九六式輸送機であった。

 …と書いてある。つまり、蘭印(インドネシア)攻略作戦での海軍空挺部隊の活躍が、アニメのベースとなっているというわけだ。

 

 「敵地に降下して強襲、制圧」するのが空挺部隊(落下傘部隊)の役割である。海軍に所属する部隊であるが、陸上戦闘を任務とし、しかも航空機から落下傘降下して、敵地を強襲・制圧するわけだ。実際に、大東亜戦争の緒戦での勝利を、彼らの活躍が飾っているのである。最前線を突破するというよりは、敵の後方、あるいは敵の渦中に乗り込んでの戦闘を任務としていることになる。

 米国の海兵隊の任務の中心が敵前上陸の先頭を務めることであるのと同様の、危険な兵種である。日本海軍の陸戦隊は、敵前上陸のような戦闘行動を主任務としているとは言い難いが、その中の空挺部隊に関しては、米海兵隊の敵前上陸に劣らぬ危険度の高い作戦行動に従事していたと言うことが出来る。

 

 

 

 大日本帝國の戦争の場合は、敵前上陸も陸軍が担っていた。そのために陸軍も船舶を保有し、陸軍船舶兵という兵種も存在した(ただし、「兵種」としての独立は蘭印攻略戦後のことで、それまでは「船舶工兵」あるいは「上陸工兵」として取り扱われていたらしい)。

 ダイハツ(大発)と呼ばれる上陸用舟艇の存在は知っていたが、最近、その母艦に当たる艦艇の存在を教えられた。

 「神州丸」の話が、実に興味深いのでご紹介する。
 → http://homepage2.nifty.com/i-museum/19450103sinsyu/sinsyuu.htm

 

 

 このサイトによれば、

 陸軍独創の強襲揚陸艦
 陸軍歩兵部隊が海から敵地の海岸に上陸するには,輸送船の甲板に積んだ上陸用舟艇(大発・小発など)をクレーンで海上に降ろし(泛水)歩兵は縄梯子を伝って舟艇に乗り移るという危険で効率の悪い作業が必要でした.その欠点を補う目的で陸軍が独創的なアイデアを盛り込んで極秘に設計したのが運送母艦GL(GodLand)すなわち神州丸だったのです.

…ということであったらしい。

 

 しかし、今回、この神州丸を取上げたのは、むしろ、

 多くの船名をもつ機密船
 神州丸はGL,龍城丸,MT,土佐丸という多彩な防諜名を持っているので,その事績を調べようとするとしばしば混乱してしまいます.対米英開戦開始の直後,インドネシア(蘭印)攻略を目指すジャワ島上陸作戦の最中に味方の魚雷を受け,作戦を指揮する第十六軍司令官今村均中將を海中に放り出して転覆した龍城丸がこの神州丸のことだと理解するまで私自身だいぶ回り道をしてしまいました.それほどに重要な機密として秘匿された船でした.

…というエピソードの方に心を惹かれたからでもある。

 

 

 「日本海軍空挺部隊長」としての桃太郎の活躍したのと同じ蘭印(インドネシア)攻略作戦で、日本陸軍の上陸作戦実施中に味方の日本海軍の魚雷により沈められた艦が、この神州丸なのだ。この春の韓国哨戒艦沈没にまつわる「疑惑」の一つとして話題になったものに、同士撃ち説(演習中の魚雷の誤発射による)があるが、それを思い出させる話ではないか!

 
 
 
 
 
 ところで、前回の最後で、同時期のアメリカではカラーの娯楽アニメ作品が制作上映されていた云々という話をした。

 

 その例として、ダフィー・ダックがナチス相手に活躍するワーナー製のアニメをご紹介しておくことにしよう(→ http://www.youtube.com/watch?v=FWehnyAR6-k)。

 『桃太郎 海の神兵』は確かに(様々な意味においての)力作・大作だがモノクロ作品であるのに対し、ダフィー・ダックの方はお笑い目当ての娯楽アニメであるにもかかわらずカラー作品だったのである。もっとも、当時の米国では、モノクロアニメも量産されていたことも確かである。ここでは、有名な『Tokio Jokio』を取上げておこう(実は以前にも紹介したことがあるのだが…  Banned Cartoons--Japs- Tokio Jokio - 1943 - B&W → http://www.youtube.com/watch?v=KvA1zphaeTQ)。『Tokio Jokio』は、ご覧になればわかる通り、当時の日本製の(大日本帝國の)ニュースフィルムの体裁をとっている。

 
 今回、数ある戦中アニメの中から『Tokio Jokio』を取り上げたのは、そのニュースフィルム仕立てであるところに着目したからだ。

 つまり、毎週の映画館での新作映画(ドラマ)の上映の際には、ニュースフィルムも必ず上映されていたのが、当時の映画上映のスタイルだったということを、あらためて意識にのせて欲しいのである(テレビのない時代の話だ)。そして、もうひとつ、ニュースフィルムに加えて、ワーナーやディズニーの娯楽短編アニメの上映も欠かせないものであったということなのだ。

 あのダフィー・ダックは、そういった週代わり上映用の量産アニメの一本だったと思われる。つまり、乾坤一擲の国策プロパガンダなどではない、(多少のプロパガンダ臭があるとは言え)お笑い娯楽作品としてのアニメが、フル・カラーであったというお話なわけだ。

 
 
 で、フルカラー・アニメの事例をもう一本。『Victory Through Air Power』(→ http://www.youtube.com/watch?v=C7dkC4iJf54)をご覧いただきたい。これは、ディズニーの「自主制作」のプロパガンダアニメなのだ。空軍力の充実、特に戦略爆撃機(重爆撃機)の生産・保有・活用こそが、戦争での勝利を約束するのだという(セバスキーの)主張の紹介啓蒙のために、ディズニーは、カラー長編アニメを「自主制作」していたのである。

 内容については、実は以前に取上げているので、そちらをお読みいただきたい(「無差別爆撃の論理 3」→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-dcda.html ただし、文中で紹介した「予告編」の動画は削除されてしまって「YouTube」では、今は見ることは出来ない←ただし「ニコ動」で見ることは出来るようである)。

 
 さて、問題の『Victory Through Air Power』のラスト・シーンに出てくるのは、ディズニーが(セバスキーが)理想とした「アメリカ本土から発進し、無着陸で日本を攻撃可能な長距離爆撃機」をアニメ化した姿である。アラスカから発進する六発重爆撃機が日本に対する都市無差別爆撃を敢行し、日本は焼き尽くされ、破壊し尽くされるわけだ(それがディズニーにとってのハッピーエンドである)。

 現実には、当時の米国にも、「アメリカ本土から発進し、無着陸で日本を攻撃可能な長距離爆撃機」を製造する力はなかった。B-29が東京をターゲットとするためには、サイパン陥落を待たねばならなかったのである。

 
 

 で、現実に米国が、「アメリカ本土から発進し、無着陸で日本を攻撃可能な長距離爆撃機」を保有するのは戦後のことであった。

 次の動画をご覧いただきたい。

Convair B-36 Peacemaker Biggest Bomber 1946 Universal Newsreel   (2:00)
 → http://www.youtube.com/watch?v=YgStI1S_rEM

 これがまさに当時のニーュスフィルムなわけだが(後半のアイゼンハワーの姿!)、このフィルムの前半に登場するのがコンベアの六発重爆撃機B-36である。1946年8月8日の初飛行の映像がユニヴァーサルのニュースリールとなったわけだ。

 第二次世界大戦の終了後、米国は念願の(?)空中給油により無着陸長距離飛行を可能にした大型爆撃機を手に入れたのである。冷戦の時代のスタートを飾ったのが、このB-36「ピース・メイカー」なのであった。

 
 B-36を主人公(?)にしたような映画さえ製作された。日本では『戦略空軍命令』というタイトルで公開された『Strategic Air Command』の映像を紹介しよう。

Now that's a BOMBER!   (5:32)
 → http://www.youtube.com/watch?v=3wvEzhyY9F4

 ここに登場するのは、レシプロの六発に加えて、ジェットエンジン四発を追加装備したモデルである(ジェットエンジン始動に伴い震える機体の様子が、見事に撮影されている)。

 

 もう一つ、アラスカの基地のB-36の映像だ。

B-36 Peacemaker   (8:37)
 → http://www.youtube.com/watch?v=AIKVBPVmeHo&feature=related

 まさに、かつてのディズニーの(セバスキーの)描いた夢(アラスカから発進する六発重爆撃機!)の現実化した姿である。

 

 

 

 

 ところで、このB-36だが、「YouTube」の映像だと、もう一つその巨大さが伝わらない。

 で、B-29と並んで写っている有名な画像を用意してみた。どうだろう、この大きさ!! B-36の左に並ぶ「小さな」爆撃機がB-29なのだ。

 B-29は、B-36の登場により、空軍内では「中型爆撃機」として分類されるようになったんだそうな…

 

 

 (http://commons.wikimedia.org/wiki/File:B-29_and_B-36.jpg

 

 

 

 検索で見つけた別の画像も面白い。上から第一次大戦時、1920年代の複葉爆撃機(機種は不勉強なので不明)だが、3段目が1930年代のB-10爆撃機、その下が第2次世界大戦時にヨーロッパで活躍したB-17、そしてB-29、B-36という順になる。

 

 

 (http://blogarticles.blogspot.com/2005/08/b-36-peacemaker.html

 

 

 

 B-36の巨大さのダメ押し的画像ではないだろうか? (併せて、この画像上での九六式陸上攻撃機のサイズも想像して欲しい) 繰り返すが、これがディズニーの(セバスキーの)描いた夢の現実化した姿なのである。

 

 話を戻して、『桃太郎 海の神兵』中の、日本海軍空挺部隊を載せて飛ぶ九六式陸上輸送機の飛行シーン、厚い雨雲の中、機体の継ぎ目から雨水が浸入するエピソードも思い出しておこう。任務の困難さと、それを克服する皇軍精神の強調ということなのであろうか? しかし、既に与圧キャビンを備えていたB-29では、そのようなエピソード(雨漏り)は起こり得ないのであった(カラーの娯楽アニメも、与圧キャビンの装備も、大日本帝國には手の届かぬものだったわけだ)。

 昭和二十年の四月、そのB-29の都市無差別爆撃により焦土と化した日本で、『桃太郎 海の神兵』の上映が開始されたわけである。

 
 
 
 
 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/06/26 00:05 → http://www.freeml.com/bl/316274/141308/

 

 

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