カテゴリー「国体と象徴の本義(憲法と天皇)」の記事

2011年12月18日 (日)

日本国の象徴と、國體の本義 18(大日本帝國の「大」)

 

 

  「大日本帝國憲法」が、そのように呼ばれるのはなぜか?

 

…というのは、言うまでもない話だと思うが、それが「大日本帝國」という名称の国家の「憲法」だからである。

 

 国家の呼称としての「大日本帝國」の用例の代表的なものと思われるのは、

 

 

 天佑ヲ保全シ、萬世一系ノ 皇祚ヲ践メル大日本帝國皇帝ハ、忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス。
 朕茲ニ淸國ニ對シテ戰ヲ宣ス。…(以下略)
     「明治天皇 淸國に對する宣戰の詔」 明治二十七年八月一日 官報 (森清人 『詔語索引』 啓文堂書店 昭和十七年 173~174ページ)

 

 天佑ヲ保有シ、萬世一系ノ 皇祚ヲ践メル大日本帝國皇帝ハ、忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス。
 朕茲ニ露國ニ對シテ戰ヲ宣ス。…(以下略)
     「明治天皇 露國に對する宣戰の詔」 明治三十七年二月十日 官報 (前掲書 190ページ)

 

 天佑ヲ保有シ、萬世一系ノ 皇祚ヲ践メル大日本帝國皇帝ハ、忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス。
 朕茲ニ獨逸國ニ對シテ戰ヲ宣ス。…(以下略)
     「大正天皇 獨逸國に對する宣戰の詔」 大正三年八月二十三日 官報 (前掲書 213ページ)

 

 天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
 朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス…(以下略)
     「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」 (前掲書 ただし扉ページの表記―これ以外の引用は本文の表記によるものであり、句読点が添えられているが、本来は句読点なしのものである―による)

 

 

…といったものであろう。これらでは、「大日本帝國」という国家の皇帝あるいは天皇(その称号表記の変遷も興味深いが、ここではその問題には立ち入らない)により、「宣戰の詔」が発せられているのである。「詔書」という最高度に公的な文書の中で、「大日本帝國」という呼称が、明治・大正・昭和の三代にわたり、国家の自称として用いられている事実が確認出来るだろう。

 

 

 

 
 さて、「大日本帝國憲法」における「大日本帝國」表記の成立過程を、清水伸『明治憲法制定史 下』(原書房 明治百年叢書 1973)により見ておきたい(原著の刊行年は昭和15年)。示されるのは、枢密院における憲法原案の討議過程である(底本とされているのは、枢密院議長伊藤博文秘書官であった伊東巳代治による「憲法草案枢密院会議筆記」である)。

 

 

     二 国号「大日本帝国」の決断(第一条)

 第二読会の討議は、原案「第一章 天皇」、「第一条 日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」からはじめられた。この条は、原案に見るように、「日本」に「大」が無いことが、まず議場の注目をひいた。すなわち寺島宗則提議して曰く、
  『皇室典範には大日本とありて、此憲法には只日本とのみあり。故に此憲法にも大の字を置き、憲法と皇室典範との文体を一様ならしめん事を望む。』
 さきに枢密院で決議した皇室典範「第一章 皇位継承」、第一条には、「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」とあり、その国号には「大」を冠したのに、憲法にはこれがないのは、首尾一貫せぬ不体裁といわねばならなかった。したがって森有礼、大木喬任、土方久元等も進んで寺島の一元化の提案に賛成した。しかし、「大」を除いたのは、起草者の十分に意識していたところであり、決して書落としなどの結果ではなかった。井上毅は寺島にその諒解を求めた。
  『皇室典範には大日本と書けども、憲法は内外の関係もあれば、大の字を書くこと不可なるが如し。若し憲法と皇室典範とは一様の文字を要するものなれば、叡旨を受て、典範にある大の字を削り、憲法と一様にせんことを望む。英国に於て大英国(グレイト・ブリタン)と云ふ所以は、仏国にある「ブリタン」と区別するの意なり。又大清、大朝鮮と云うものは、大の字を国名の上に冠して自ら尊大にするの嫌いあり。寧ろ大の字を削り、単に日本と称すること穏当ならん。』
 かえりみるに当時の日本は、維新の業成って漸く二十余年を経過したばかりで、国際的地位はきわめて低かった。情けないことに、列強の顔色を恐れ気兼ねする結果、国号に大の字を冠するさえ、左顧右眄せねばならなかったのである。世界の大勢に明るかった森有礼は、井上の見解に同意してかどうか、直ちに井上説による文体の統一を支持して、
  『大の字を置くは自ら誇大にするの嫌いあるや否やに係わらず、典範と憲法と国号を異にするは目立つものなれば、之を削ること至当ならん。』
 ところが吉田清成はこれと反対であった。すなわち、
  『典範には已に大日本とあり。又此憲法の目録にも大日本とあり。故に原案者は勿論同一にするの意ならん。』
 ただし吉田の大日本説も、起草者の、「内外の関係もあれば……自ら尊大にするの嫌いあり」との思慮に対して触れず、僅かに典範の前例を指摘して、前後の矛盾を言及するにすぎなかった。
 「日本」か「大日本」か。これ、第二読会の最初の憲法上の問題であった。かくして国号問題の解決が必要になったのであるが、この問題は、これ以上の論議なく、にわかに解決を見た。それは伊藤議長の決断であった。曰く、
  『此事は別に各員の表決を取らずして、大の字を加えて可ならん。故に書記官に命じて大の字を加えしむ。』
 これは伊藤が、議場に「大」の賛成者が圧倒的だったのに、当事者のみが原案を固執する無意味を察し、かく改めさせたものと思われる。ついでその他の点に関する異論を待ったが、それらしいものはなかったので、
  『本条につき別に意見なければ、直に原案同意の起立を乞ふ。』
 会議手記には『起立(全会一致)』とあり、実にわが「大日本」は、このようにして決定されたのであった。よって伊藤は、
  『全会一致に付、本条は原案に可決し第二条に移る。』
と、この成立を宣したのである。
 思うに、伊藤のこの「大」に対する決断が、はたしてわが国に対するそのような信念にもとづいたものであったかいなかは不明である。なぜなら、政府は憲法発布と同時にその英訳を公表したが、そこには、原文の「大日本」は、”Great Japan”と訳されていなかった。恐らく当時の伊藤は、「大」の拒否が井上の言う様に外国に対する気兼ねだけの理由ならば、英訳の際に手心を加えればそれでよい、とも考えていたためだったのではあるまいかと思われる。
          (156~159ページ)

 

 

 これが、「国号」としての「大日本帝國」表記の可否が論じられた、枢密院(これは「議会」ではない)での憲法制定に際しての議論の実際であった(憲法上の表記は国号として機能してしまうものなのである)。

 

 ここでは、皇室典範では「大日本帝国」ではなく「大日本国」表記であったらしい点が気になるが、今回はその問題に立ち入ることはしないでおく。

 

 また、手元にある明治以来の貨幣を見ると、すべて「大」が加えられた「大日本」となっている。たとえば明治4年の20銭、大正2年の10銭、昭和12年の1銭、すべて「大日本」表記であり、少なくとも貨幣上の国号表記に関しては、明治初年から戦前期昭和に至るまで、「大日本」で一貫していたらしいことがわかる(貨幣に関しては、「大日本國」あるいは「大日本帝國」ではなく「大日本」なのである)。

 

 いずれにしても、

  又大清、大朝鮮と云うものは、大の字を国名の上に冠して自ら尊大にするの嫌いあり。寧ろ大の字を削り、単に日本と称すること穏当ならん。

…との井上の主張は、皇室典範との表記の一貫性の保持という形式性の方が重視された、枢密院の議論過程で顧みられることがなく終わったのであった。「自ら尊大にするの嫌いあり」と、井上に指摘された国号「大日本帝國」が、こうして選択・決定されたわけである(註:1)。

 

 

 

 「国号」としての「大日本帝國」表記の使用事例として、もうひとつ、ここでは昭和初期に用いられた教科書(もちろん「国定」教科書である)の記述を参照してみたい。

 

 

     第三課 擧國一致

明治三十七八年戰役は、我が大日本帝國が、國家の安全と東洋の平和のためにロシヤと戰つて、國威を世界にかがやかした大戰争であります。明治三十七年二月十日に宣戰の詔が下ると、國民は皆一すぢに大御心を奉體して、帝國の為に盡さうとかたく決心しました。
…(以下略)

 

     第二十七課 よい日本人

我が大日本帝國は萬世一系の天皇を戴き、御代々の天皇は我等臣民を子のやうにおいつくしみになり、我等臣民は數千年来、心をあはせて克く忠孝の道に盡くしました。これが我が國の世界に類のないところであります。我等臣民たる者は常に天皇陛下・皇后陛下の御高徳を仰ぎ奉り、祖先の志を継いで、忠君愛國の道に励まねばなりません。忠君愛國の道は君國の一大事に臨んでは、擧國一致して奉公の誠を尽くし、平時にあつては、常に大御心を奉じて各自分の業務に励んで、國家の進歩發達をはかることであります。我等が市町村の公民としてよく其の勤めを盡すのは、やはり忠君愛國の道を實行するのであります。
…(以下略)

 

 

…と、「尋常小學校修身書 巻五」(ここでは大正11年から用いられた、いわゆる「第三期」の修身教科書から引用―『日本教科書体系 近代編 第三巻』 講談社 1962 172ページ 193~194ページに収録)にある通り、ここでも「大日本帝國」表記が採用されているのを読むことが出来る。

 つまり、文部省による「国定」の教科書中に、「大日本帝國」という呼称が採用されており、教科書を通して「大日本帝國」という呼称を学ぶことにより、「国号」としての「大日本帝國」は、日常的場面にも流通していったはずである。

 

 

 

 しかし、実際には、当時の各種の公文書類を読むと、「大」を欠いた「日本帝國」や「大」もなければ「帝國」でもない「日本國」といった表記に出会うことも珍しいことではなく、当時の「国号」の表記法自体が、それほど厳密な一元化されたものではなかったと考えることも出来るだろう(註:2)(註:3)。

 たとえば、先の『詔語索引』にある、「大正天皇 (摂政御名) 學制頒布五十周年記念式典に際し下し給へる勅語」の出典名は、「大正十一年十月三十日 日本帝國文部省第五十年報」となっているのである(先の第三期教科書出版年次と同じ、大正11年のものであるのにもかかわらず)。「國定教科書」の元締めである文部省自身が、「大日本帝國」ではなく、「大」のない「日本帝國」を、自省の年報という公的文書の表示で用いていたというわけである(註:4)。

 

 

 

 

 

 私自身は、「大日本帝國」表記を愛用しているが、「太平洋戦争」ではなく「大東亜戦争」表記を愛用し、「日中戦争」ではなく「支那事変」を愛用しているのと同様、それが歴史的用語としての妥当性を持つと判断しているからである。実際にこれまで見たように、公的に厳密な場面での使用例を多く見ることが出来るし、あの事大主義的国家の呼称として、「自ら尊大に」振舞った果てに亡国への道を辿った国家の呼称として、「大日本帝國」表記は実にマッチしたものであると判断しているからでもある。

 

 

 

 最後に、もう一度、

  「大日本帝國憲法」が、そのように呼ばれるのはなぜか?

…という最初の問いに立ち戻ってみよう。確かに、

  それが「大日本帝國」という名称の国家の「憲法」だからである。

…という答え方は間違ってはいない。しかし、ここで新たに、

  「大日本帝國」が、そのように呼ばれるのはなぜか?

…という問いを立ててみると、

  その国家の「憲法」に「大日本帝國」と書かれているからである。

…という答えが得られることになるだろう。

 そこには、国家と憲法の密接な関係のあり方の特異性が見出されるはずである。国家の存在が憲法を生み出し、生まれ出た憲法によって国家のあり方が規定され直されることになるのである。

 

 

 

 

 

【註:1】
 「大日本帝國憲法」は、

朕國家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣榮トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大權ニ依リ現在及將來ノ臣民ニ對シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス
     (憲法發布勅語)

將來若此ノ憲法ノ或ル條章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ繼統ノ子孫ハ發議ノ權ヲ執リ之ヲ議會ニ付シ議會ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ
朕カ在廷ノ大臣ハ朕カ爲ニ此ノ憲法ヲ施行スルノ責ニ任スヘク朕カ現在及將來ノ臣民ハ此ノ憲法ニ對シ永遠ニ從順ノ義務ヲ負フヘシ
     (上諭)

…とあるように、天皇により「朕カ祖宗ニ承クルノ大權ニ依リ現在及將來ノ臣民ニ對シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」ることで発効し、「將來若此ノ憲法ノ或ル條章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ繼統ノ子孫ハ發議ノ權ヲ執」ることでのみ「條章」の「改定」が可能になるものであった。
 憲法條章の改定に関しては、天皇の発議によるもののみが可能であり、それ以外は「朕カ現在及將來ノ臣民ハ此ノ憲法ニ對シ永遠ニ從順ノ義務ヲ負フヘシ」とされ、つまり天皇以外に憲法の改定を発議出来る存在はなかったのである。
 ここに「天皇大権」の意味がある。議会の権能は、「議會ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外」には存在し得ないのである。国民=臣民=議会には、憲法改定の発議権はないというのが、大日本帝國憲法の原則なのであり、それが「国民主権」による「日本国憲法」との決定的な相違点なのである。

 つまり、「朕カ祖宗ニ承クルノ大權ニ依リ現在及將來ノ臣民ニ對シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布」した後には、その條章の改定には天皇の発議が要件とされ、である以上、発布後は「大日本帝國」という「国号」の変更についても、天皇の発議による以外にはなし得ないことになる。
 国号の変更についても、国民(議会)は発議し得ないというのが、大日本帝國憲法上の原則なのである。

 しかし、一方で、「議會ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スル」という文言、そして「第三十七條 凡テ法律ハ帝國議會ノ協贊ヲ經ルヲ要ス」というような條規の解釈により議会の権能を強化しようと試みたのが、いわゆる「天皇機関説」なのであった。「君臨すれども統治せず」との言葉で表現される「立憲君主」としての天皇像は、いわば解釈改憲の産物なのである。大正期から昭和初年には、その天皇機関説が公的天皇像を支えるものにまでなったが、その後の「国体明徴運動」とそれに促された政府の「国体明徴声明」により「天皇機関説」が公的に否定され、天皇大権の強調による「君臨し統治する」天皇像(御親政的天皇像)が、敗戦に至る昭和期の大日本帝國を規定するものとなったのである。
 その結果として、「裁可ノ権」のみでなく「裁可セザルノ権」をも保有した、大権の保持者としての天皇像が国家運営の基本に位置付けられるようなことにまでなってしまった。これは、昭和天皇自身が天皇大権を積極的に行使し、独裁的に振舞ったということを意味するわけではない。しかし、政治システムの中での天皇大権の位置付けが、政治的意思決定の硬直化と責任主体の曖昧化に結びつき、敗戦に至るこの国の歴史過程を支配したことは否定出来ない。それは、大枠としては、天皇の意思の問題ではなく、憲法システムの問題なのである。

 そのような「裁可セザルノ権」をも保有した御親政的天皇像(それは「立憲君主による御親政」なのである)の下では、「議會ニ付シ議會ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スル」という規定が存在しようとも、その議決の結果を「裁可セザルノ権」をもって否定することさえも天皇には可能なのである。現在の日本国憲法下の感覚からすれば、「朕及朕カ繼統ノ子孫ハ發議ノ權ヲ執リ之ヲ議會ニ付シ」なる文言を、天皇が議会の議決に拘束される存在であるかのように解釈してしまうことにもなるのであろうが、それは「国民主権」の下にある現代人の感覚で帝國憲法を語ろうとする試みに過ぎず、そのような感覚では帝國憲法下の政治的意思決定過程は理解し得ないのである。
 あくまでも「裁可ハ天皇ノ独有主権ナリ。天皇ハ自由ニ裁可シ又ハ裁可セザルコトヲ得。故ニ天皇ノ裁可権ハ、其提議権ノ為ニ束縛セラレ、帝国議会ニ対スル政府ノ宣言ノ為ニ羈束セラレ、及帝国議会ノ決議ノ為ニ左右セラルルコトナシ。天皇ハ議会ノ決議ニ反シ法律ヲ裁可スルコトヲ得ズト雖モ、議会ノ決議シタル法律ヲ裁可スベキ羈束ヲ受クルコトナシ」というのが、大日本帝國憲法制定時の制定者の理念なのであり(伊東巳代治 「大日本帝国憲法衍義」)、その理念が国体明徴論者により強化され解釈運用されたことが、あの大日本帝國の歴史の骨格を形作っているのである。

 この構図を把握しない限り、敗戦に至る大日本帝國期の歴史は理解し得ないし、大日本帝國憲法の歴史的意義を理解したことにもならない。

 

《「この構図」の詳細については以下の記事も参照のこと》

日本国の象徴と、國體の本義 13(「立憲政治」と天皇)
 http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-3d4d.html

日本国の象徴と、國體の本義 14(君臨し統治する天皇)
 http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-156d.html

日本国の象徴と、國體の本義 15(「輔弼」と「助言と承認」)
 http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-535e.html

日本国の象徴と、國體の本義 16(天皇と「裁可セザルノ権」)
 http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-5311.html

日本国の象徴と、國體の本義 17(立憲君主による御親政)
 http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/17-aa35.html

 

【註:2】
 現在の外務省のページでは、この問題について、

 日本の国号標記に関しては、外務省条約局作成(昭和11年5月)の「我国国号問題二関スル資料」(外務省記録「条約ノ調印、批准、実施其他ノ先例雑件」所収)に、従来の経緯や諸学説、外国での実例などの調査結果が記されています。
 1927年(昭和2年)、日本の国号について日本政府は、各国がどのように呼称するかは便宜上の問題であり、一般的に周知されている呼称を用いることが適当であるとして、各国が「ジャパン」という呼称を用いても構わないとの見解を明らかにしました。しかし、その後、1934年(昭和9年)に文部省の臨時国語調査会が国号の呼称を「ニッポン」に統一し、外国に発送する書類にも“Japan"ではなく“Nippon"を用いるべしとの案が政府に提出され、また翌1935年(昭和10年)には、衆議院に対して、「ジャパン」という呼称は「我ガ帝国ノ威信ヲ損スル」ものであり、世界各国に対して日本の国号の呼称を「大日本帝国」とするよう求める建議がなされるなど、国号標記の変更を求める動きが強まりました。こうした動きを受けて外務省は、1935年(昭和10年)7月、外務省所管である条約など外交文書の日本文(漢文もこれに準じる)について、それまで「日本国」「日本帝国」「大日本国」「大日本帝国」と様々な標記がされていた国号の標記を、「大日本帝国」とすると決定しました。しかし、英語標記については結局、統一的な見解が示されることはありませんでした。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/sonota_02.html

…と、説明している。

 その「我国国号問題二関スル資料(正式な表記は「我國國號問題二關スル資料」である)」の「緒言」を読むことで、問題の概略を把握しておきたい。

     第一 國號問題の概要
(一)緒言
 我國國號問題ニ付テハ従来種々の議論(内大臣府及議会ニ対スル請願或ハ議會ニ於ケル建議案ノ對象ト為レルコトモ屡々アリ)アル處要スルニ問題ノ中心ハ
 (イ)國號ハ之ヲ「大日本帝國」トスヘシ
 (ロ)右ハ日本文ニ於テノミナラス條約其ノ他ノ文書ノ外國文ニ於テモ之ヲ其ノ儘羅馬字ニテ表示スヘシ
 トノ二点ニ帰着スヘシ
 仍テ左ニ國號問題ニ關スル従来ノ經緯ヲ述ヘ然ル後将来ノ問題ニ及フヘシ
(二)従来ノ経緯
 我國號ハ明治初年以来條約其ノ他ノ文書ニ於テ「日本國」「日本帝國」「大日本國」等種々ノ名稱用ヒラレ近時條約ニ於テハ略「日本國」ニ統一セラレタル處昭和十年六月條約其ノ他ノ文書ノ日本文ニ於テハ憲法第一條ニ於ケルカ如ク「大日本帝國」ナル名稱ヲ用フヘシトノ問題起リ爾来当省ニ於テ研究ヲ重ネタル結果國號ノ一般的統一其ノ他ノ本件ノ根本的解決ハ姑ク措キ外務省所管タル條約其ノ他ノ文書ノ日本文(漢文之ニ準ス)ニ於テハ右名稱ニ依ルコトニ決定シ昭和十年七月内閣及宮内省側ニモ之ヲ通知シタル上
 (イ)條約トシテハ昭和十年十二月二十七日公布セラレタル日満郵便條約
 (ロ)其ノ他ノ文書トシテハ八月十六日附〇羅國駐箚矢田部公使ニ対スル更新御信任状
 以来實行シツツアリ
 尚宮内省ニ於テモ外務省ト歩調ヲ合セ同省関係ノ文書ニ付「大日本帝國」ノ國號ヲ用フルコトトナレリ
          (外務省記録 外務省外交資料館 我国国号問題ニ関スル資料 1 1~4ページ アジア歴史資料センター B02031473100)

…という具合で、外務省において「條約其ノ他ノ文書」上の国号表記が「大日本帝國」に統一された(言うまでもないこととは思われるが、これは国号の「変更」ではなく、国号の表記法の「統一」に過ぎない)のは、昭和10年以降のことなのであった。
 また、

  尚宮内省ニ於テモ外務省ト歩調ヲ合セ同省関係ノ文書ニ付「大日本帝國」ノ國號ヲ用フルコトトナレリ

…とあるように、宮内省においてでさえも国号の「大日本帝國」表記が原則化されたのが、この昭和10年になってのことなのである。

 言うまでもないが、この昭和10年とは、あの「国体明徴声明」が政府から発せられた年である。詰まるところ、「国体明徴運動」とは、井上毅の保有していた「大の字を国名の上に冠して自ら尊大にするの嫌いあり」との感覚を失ってしまった時代精神の表現なのであろうか?

 注目点としては、「国号」を「大日本帝國」に統一すべしとの議論の根拠が、

  條約其ノ他ノ文書ノ日本文ニ於テハ憲法第一條ニ於ケルカ如ク「大日本帝國」ナル名稱ヲ用フヘシトノ問題

…という形で、憲法第一條の文言に求められているところであろう。
 憲法上の表記と「国号」の相関については、枢密院での憲法原案審議段階での、

  『大の字を置くは自ら誇大にするの嫌いあるや否やに係わらず、典範と憲法と国号を異にするは目立つものなれば、之を削ること至当ならん。』

…との、森有礼の発言にあるように、当初から意識されていたところではあった。
 しかし、国号が「大日本帝國」であるはずの国家で実際の文書作成に当たった官吏達は、異なる表記を用いることに特段の問題を見出すこともなく、昭和10年までの日々を過ごしていたというわけである。

 もっとも、「我國國號問題二關スル資料」で取上げられている「資料」の多くは、「国号」としての「大日本帝國」表記の問題ではなく、“Japan"ではなく“Nippon"たるべしという問題と、その前提としての「ニホン」なのか「ニッポン」なのかの問題の方についてのものであることも申し添えておくべきであろう。その問題に関しては、集録された様々な資料の中でも、昭和9年2月19日の第六十五議会貴族院の速記録(昭和我国国号問題ニ関スル資料 2 B02031473200)にある、政府委員としての金森徳次郎の答弁が秀逸なものなので、場をあらためて紹介したいとは思っている。

 

【註:3】
 「条約ニ於ケル本邦ノ国号ニ関スル件」(外務省記録)によれば、条約文中の国号表記の実際は次のようなものであった。

     條約ニ於ケル本邦ノ國號ニ關スル件
一、本邦カ明治維新前二外國ト締結シタル條約ニ於ケル本邦ノ國號ヲ見ルニ左表ノ如シ
  (表には、嘉永七年の「日米和親條約」から慶應三年の「日魯新約定書」までの事例について、「條約名」、「前文ニ於ケル稱呼」、「條文中ニ於ケル稱呼」が掲載されているが、ここでは略)
即チ二十四箇ノ條約中前文ニ於テ帝國大日本ナル國號ヲ使用セルハ安政五年ノ日米、日蘭、日魯、日英間ノ四通商條約、萬延元年ノ日葡、日魯間ノ二通商條約、慶應二年ノ日白、日伊間ノ二通商條約計八箇ノ通商條約ニシテ其ノ他ハ嘉永七年ノ日米和親條約外安政四年ノ日米下田條約、慶應二年ノ日丁通商條約ノ三條約カ帝國日本ナル稱呼使用シタル外全部(十三箇ノ條約)ハ單二日本又ハ日本國ナル稱呼ヲ使用シタリ而テ條約ノ條文ニ於テハ例外ナク日本又ハ日本國ナル稱呼ヲ使用シタリ
 (註一)最初ノ條約タル日米和親條約ハ前文ニテ帝國日本ナル文字ヲ使用シ條文中ニテハ英文ニハ The Empire of Japan トアレトモ 日本文ニテハ日本ト云ヘリ
 (註二)安政二年ノ日蘭條約ニ於テハ蘭文ノ前文ニ Great Japon トシ而モ括弧内ニ Dai Nipon ト註セルニモ拘ラス日本文ニテハ單ニ日本ト稱セルハ面白キ事例ナリ
二、明治初年ニ締結セラレタル條約ニ於ケル例ヲ見ルニ左表ノ如シ
  (表は略)
即チ前文ニ於テ大日本又ハ大日本國ナル稱呼ヲ使用セルモノ三箇日本又ハ日本國ト云ヘルモノ八箇、帝國日本ナル稱呼ヲ使用セルモノ一箇アリ而テ條文中ニ於テハ原則トシテ日本ナル稱呼ヲ使用シ唯日丁傳信機條約書(第一條ノミ)、日布通商條約及日露千島樺太交換條約カ大日本國ト云ヒ日英郵便為替約定カ帝國日本ト云ヘルノミナリ
三、其ノ後本邦カ諸外國ト締結シタル條約(既ニ効力ヲ失ヘルモノト現ニ効力ヲ有スルモノトヲ問ハス)ヲ通覧スルニ前文ニ於テモ條文ニ於テモ原則トシテ日本國又ハ日本 Japan ナル稱呼ヲ使用シ(註)只逓信省關係ノ條約ニ於テハ多ク日本帝國 Japan ナル文字ヲ使用シタリ
 (註)例外トシテ明治四十三年日米難破船費用償還約定(前文)…(以下18の条約が例示されているが詳細は略)…等ニ於テハ日本帝國ナル稱呼ヲ使用セリ
四、尤モ前記三ニ對シテハ一大例外アリ即チ中華民國トノ間ニ締結セラレシ條約ニシテ此等ノ條約ニ於テハ左表ニ示ス如ク原則トシテ大日本國ナル稱呼ヲ使用セリ
  (表は略)
即チ右ニ依レハ明治時代ニ締結セラレタル諸條約ニ在リテハ日本文ニモ中國文ニテモ大日本國ナル稱呼ヲ使用シ明治二十八年ノ休戰定約、休戰延期條約、媾和條約三者ノ中國文ニテハ大日本帝國ト稱シタルモ大正時代ニ入リテハ中國文ニテハ大日本國ト記載スルニ拘ラス日本文ニテハ單ニ日本國ト稱シタルヲ見ルヘシ
而テ中國ト最近締結セラレタル關税協定ノ中國文ニハ大日本帝國ナル文字ヲ使用シタリ
五、要之條約ニ於テハ本邦ノ國號トシテ明治維新前ニ於テハ大日本帝國ナル文字ヲ使用シタル事例相當アリ且昨春中國トノ間ニ締結セラレタル關税協定ノ中國文ニモ亦大日本帝國ナル文字ヲ使用シタルモ明治維新以後ハ原則トシテ日本國ナル文字ヲ使用シ只中國トノ關係ニ於テノミ大日本國ナル文字ヲ使用シタリト云フヲ得ヘシ
     (外務省記録 条約ニ於ケル本邦ノ国号ニ関スル件 アジア歴史資料センター B04013428100)

 興味深いのは、「大日本」と「帝國」の組み合わせによる「帝國大日本」表記が、既に幕府の手により使用されていたことであろう。明治以前(帝國憲法以前に、でもある)に、領域名としての「日本」に「大」が加えられ、かつ「帝國」として政体が表示されていたことになる。
 また、明治以後の条約文における「大日本國」表記が、対中国のケースでは(他と異なり)一貫して使用されていた事実があるらしい。「中華」に対抗するに、「大」を加えた「日本」を用いたということであろうか? 漢字表記による表意という性質が、このような対応の背後にあるのかも知れない。

 

【註:4】
 あらためて明治期の詔勅上での国号表記の実態を調べてみた結果、帝國憲法発布以前に「大日本帝國」の使用例があり、また発布後にも「日本」、「日本帝國」が使用されている事実が判明した。

日本國 
 日本國天皇。告各國帝王及其臣人。…(以下略)
     天皇の稱を用ふるの國書 (明治元年正月十日 法規分類大全)

大八洲
 我大八洲ノ國體ヲ創立スル…(以下略)
     新刑律改撰に就き集議院に下し給へる御下問 (明治二年九月二日 集議院日誌一)

大日本帝國
 大日本帝國天皇睦仁、敬テ威望隆盛、友誼親密ナル英吉利、伊太利、荷蘭、魯西亜、瑞典、獨逸、墺地利、白耳義、葡萄牙、西班牙、丁抹、布哇皇帝陛下、米利堅合衆国、仏蘭西、瑞斯聯邦大統領ニ白ス。 …(以下略)
     特命全權大使派遣の國書 (明治四年十一月四日 法規分類大全)

日本
 天佑ヲ保有シ、萬世一系ノ帝祚ヲ践ミタル日本皇帝、此書ヲ以テ宣示ス。朕、全露西亜皇帝陛下ト…(以下略)
     千島樺太交換条約批准の詔 (明治八年十一月十日 太政官日誌)

日本
 …、右等貴君ノ日本交際ニ付、…(以下略)
     米國前大統領「グラント」に賜りし御沙汰 (明治十三年七月四日)

日本國
 …汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ國に報ゆるの務を盡さは日本國の蒼生擧りて之を悦ひなん朕一人の懌のみならんや
     陸海軍人に下し給へる勅諭 (明治十五年一月四日 法規分類大全)

大日本國
 天佑ヲ保有シ、萬世一系ノ帝祚ヲ践メル、大日本國大皇帝、敬テ朕カ良友ナル大朝鮮國大王ニ白ス。…(以下略)
     井上馨朝鮮派遣の國書 (明治十七年十二月二十一日 法規分類大全)

大日本帝國
 (国号の記載は表題のみで、本文には、国号への言及はない)
     大日本帝國憲法發布の告文 (明治二十二年二月十一日 官報)

大日本帝國
 (国号の記載は表題のみで、本文には、国号への言及はない)
     大日本帝國憲法發布の勅語 (明治二十二年二月十一日 官報)

大日本帝國
 (国号の記載は表題のみで、本文には、国号への言及はない)
     大日本帝國憲法發布の上諭 (明治二十二年二月十一日 官報)

日本帝國
 天佑ヲ享有シタル我カ日本帝國ノ寳祚ハ、萬世一系、歴代繼承シ、以テ朕カ躬ニ至ル。…(以下略)
     皇室典範制定の勅語 (明治二十二年二月十一日 三条實美公年譜二九)

大日本帝國
 天佑ヲ保全シ、萬世一系ノ 皇祚ヲ践メル大日本帝國皇帝ハ、忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス。 朕茲ニ淸國ニ對シテ戰ヲ宣ス。…(以下略)
     淸國に對する宣戰の詔 (明治二十七年八月一日 官報)

大日本帝國
 …。朕、固ヨリ今囘ノ戰捷ニ因リ、帝國ノ光輝ヲ闡發シタルヲ喜フト共ニ、大日本帝國ノ前程ハ、朕カ即位以来ノ志業ト均ク…(以下略)
     戰勝後國民に下し給へる勅語 (明治二十八年四月二十一日 官報)

日本帝國
 …。然ルニ露西亜・獨逸・両帝國及法朗西共和國ノ政府ハ、日本帝國カ遼東半島ノ壌地ヲ、永久ノ所領トスルヲ以テ、東洋永遠ノ平和ニ利アラスト為ス…(以下略)
     遼東半島還附の詔 (明治二十八年五月十日 官報)

大日本帝國
 天佑ヲ保有シ、萬世一系ノ 皇祚ヲ践メル大日本帝國皇帝ハ、忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス。 朕茲ニ露國ニ対シテ戰ヲ宣ス。…(以下略)
     露國に對する宣戰の詔 (明治三十七年二月十日 官報)

日本
 …。蓋シ淸韓両國ノ領土ノ保全ハ、我日本ノ獨立自衛ト密接ノ關係ヲ有ス。…(以下略)
     露國との國交断絶に當り海陸軍大臣に下されし勅語 (明治三十七年二月十日 官報)

日本帝國
 天佑ヲ享有シタル我カ日本帝國皇家ノ成典ハ…(以下略)
     皇室典範増補の詔書 (明治四十年二月十一日 官報)

日本帝國
 …。此ノ事態ニ鑑ミ、韓國ヲ擧テ日本帝國ニ併合シ…(以下略)
     韓國併合に付き下し給へる詔書 (明治四十三年八月二十九日 官報)

 以上、森清人『詔語索引』(啓文堂書店 昭和十七年)による。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/12/18 14:59 → http://www.freeml.com/bl/316274/177965/

 

 

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2011年1月 8日 (土)

日本国の象徴と、國體の本義 17(立憲君主による御親政)

 

 そもそも、この「日本国の象徴と、國體の本義」シリーズは、

 

 

 明治憲法における天皇の概念(規定の仕方)は、二千年余の日本の歴史から見ると、それはある時代における特殊の天皇の概念なのであって、それが古今にわたって適用すべきものとは考えない。明治憲法における天皇の規定の仕方やその歴史的性格を脱却することが、天皇の概念に大きさと広さと豊かさを与えるものと思う。

…と、1963年3月13日の憲法調査会の席で発言したのは、若き日の中曾根康弘であった。
 ケネス・オルフ 『国民の天皇 戦後日本の民主主義と天皇制』 (岩波現代文庫 2009) には、そんなエピソードが紹介されている。

 

 

…という話から始まっていたのだった(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-07cb.html)。

 ここで、中曾根康弘により、「明治憲法における天皇の概念(規定の仕方)」として取上げられているのは、言うまでもなく「天皇親政」の構図であろう。つまり親政的天皇像に対し、「それはある時代における特殊の天皇の概念なのであって、それが古今にわたって適用すべきものとは考えない」と、中曾根は主張しているのである。

 
 

 昭和十二年、文部省により刊行されたのが『國體の本義』であった。

 

 我が憲法に祖述せられてある皇祖皇宗の御遺訓中、最も基礎的なものは、天壌無窮の神勅である。この神勅は、萬世一系の天皇の大御心であり、従つて知ると知らざるとに拘らず、現實に存在し規律する命法である。それは獨り将來に向かつての規範たるのみならず、肇國以來の一大事實である。憲法第一條に「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるのは、これを昭示し給うたものであり、第二條は皇位繼承の資格並びに順位を昭かにし給ひ、第四條前半は元首・統治權等、明治維新以来採擇せらせられた新しき概念を以て、第一條を更に昭述し給うたものである。天皇は統治權の主體であらせられるのであつて、かの統治權の主體は國家であり、天皇はその機關に過ぎないといふ説の如きは、西洋國家學説の無批判的の踏襲といふ以外には何等の根據はない。天皇は、外國の所謂元首・君主・主權者・統治權者たるに止まらせられる御方ではなく、現御神として肇國以來の大義に随つて、この國をしろしめし給ふのであつて、第三條に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのは、これを明示せられたものである。外國に於て見られるこれと類似の規定は、勿論かかる深い意義に基づくものではなくして、元首の地位を法規によつて確保せんとするものに過ぎない。
 尚、帝國憲法の他の規定は、すべてかくの如き御本質を有せられる天皇御統治の準則である。就中、その政體法の根本原則は、中世以降の如き御委任の政治ではなく、或は又英國流の「君臨すれども統治せず」でもなく、又は君民共治でもなく、三權分立主義でも法治主義でもなくして、一に天皇の御親政である。これは肇國以來萬世一系の大御心に於ては一貫せる御統治の洪範でありながら、中世以降絶えて久しく政體法上制度化せられなかつたが、明治維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うたのである。
 帝國憲法の政體法の一切は、この御親政の原則の擴充紹述に外ならぬ。例へば臣民權利義務の規定の如きも、西洋諸國に於ける自由權の制度が、主權者に對して人民の天賦の權利を擁護せんとするのとは異なり、天皇の惠撫滋養の御精神と、國民に隔てなき翼賛の機會を均しせしめ給はんとの大御心より出づるのである。政府・裁判所・議會の鼎立の如きも、外國に於ける三權分立の如くに、統治者の權力を掣肘せんがために、その統治者より司法權と立法權とを奪ひ、行政權のみを容認し、これを掣肘せんとするものとは異なつて、我が國に於ては、分立は統治權の分立ではなくして、親政補翼機關の分立に過ぎず、これによつて天皇の御親政の翼賛を彌々確實ならしめんとするものである。議會の如きも、所謂民主國に於ては、君主の専横を抑制し、君民共治するための人民の代表機關である。我が帝國議會は、全くこれと異なつて、天皇の御親政を、國民をして特殊の事項につき特殊の方法を以て、翼賛せしめ給はんがために設けられたものに外ならぬ。
     『國體の本義』 (文部省 昭和十二年)
          「第二 國體の顕現」
               「六、政治、経済、軍事」

 

 ここに紹介した『國體(国体)の本義』の描く天皇像こそが、中曾根の言う「ある時代における特殊の天皇の概念」の典型的な事例であろう(それも、文部省刊行物に描かれた「公的」な認識なのである)。そこには、

 

 尚、帝國憲法の他の規定は、すべてかくの如き御本質を有せられる天皇御統治の準則である。就中、その政體法の根本原則は、中世以降の如き御委任の政治ではなく、或は又英國流の「君臨すれども統治せず」でもなく、又は君民共治でもなく、三權分立主義でも法治主義でもなくして、一に天皇の御親政である。これは肇國以來萬世一系の大御心に於ては一貫せる御統治の洪範でありながら、中世以降絶えて久しく政體法上制度化せられなかつたが、明治維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うたのである。

 

…と、書かれていたわけだ。

 ここで注目すべき点のひとつは、

  その政體法の根本原則は、

    中世以降の如き御委任の政治ではなく、
    一に天皇の御親政である

  これは肇國以來萬世一系の大御心に於ては一貫せる御統治の洪範でありながら、

    中世以降絶えて久しく政體法上制度化せられなかつた

…という形で、「政體法の根本原則としての「天皇親政」が、「中世以降絶えて久しく政體法上制度化せられなかつた」との認識が示されていることである。つまり、「天皇親政」は「政體法の根本原則」でありながらも、歴史的には実現されることのない時代が長く続いていたという事実認識が、ここには(図らずも?)示されているのである。

 

 現在では中曾根康弘の主張は、むしろ常識的なものとなっているだろうし、「天皇不親政」こそが日本の歴史の伝統(その「根本原則」)であったとの認識もまた、常識に近いものとして流通しているように思われる。

 「天皇親政」を「国体」の「本義」と考え、「本義」の「明徴」を求めようとするような原理主義的視点からは、事実としての「天皇不親政」の長い歴史は、「本義」とされる状態(政體法の根本原則)からの逸脱として指弾され、だからこそ「維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うた」ことが重要視されることになるのである。

 

 両者共に、「天皇不親政」の時代の長く続いたことは事実として認識しながらも、国体明徴論的文脈からは、「天皇不親政」はあくまでも「政體法の根本原則」からの逸脱として評価され、「維新に於て復古せられ」た「天皇親政」こそが我が「国体」の本然の姿なのであり、そこでは「天皇は、外國の所謂元首・君主・主權者・統治權者たるに止まらせられる御方ではなく、現御神として肇國以來の大義に随つて、この國をしろしめし給ふ」存在とされるのである。

 この「天皇親政」の歴史としての国史(つまり皇国史である)の叙述が、公的なものとして流通していたのが、敗戦までのこの国の現実なのであった。

 

 現実に長く続いた「天皇不親政」の事実が歴史認識の基盤として一般化されるようになるのは、敗戦後の昭和21年、津田左右吉が発表した論文「建国の事情と万世一系の思想」(『世界』第4号)以後の話となるのである。中曾根康弘の認識も、その延長線上のものであって、そこにある戦前(戦中)期の公的歴史認識との断絶の大きさには十分に留意しなければならない。

 「大権」の否定された「日本国憲法」上の天皇の位置付けが、戦前以来の保守政治家にはいかに受け入れ難いものであったのかについては、既に「日本国の象徴と、國體の本義」シリーズの2~6で詳述した通りである。その意味で、中曾根康弘は、「戦後」の保守政治家なのである。

 
 
 

 ここであらためて、明治維新の原点に立ち返って考えてみよう。「天皇親政」とは、(『国体の本義』に記されているように)維新のスローガンであった「王政復古」の現実化を意味することに気付かなければならない。同時に「立憲政体」の確立が明治新政権による「維新」の方向として示されていたわけである。

 
御誓文
一廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ
一上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ
一官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
我國未曾有ノ變革ヲ爲ントシ 朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス衆亦此趣旨ニ基キ協心努力セヨ
     五ヶ條ノ御誓文(明治元年三月十四日 法令全書第百五十六)
 

朕、即位ノ初首トシテ群臣ヲ会シ、五事ヲ以テ神明ニ誓ヒ、国是ヲ定メ、万民保全ノ道ヲ求ム。幸ニ祖宗ノ霊ト群臣ノ力トニ頼リ、以テ今日ノ小康ヲ得タリ。顧ニ中興日浅ク、内治ノ事当ニ振作更張スヘキ者少シトセス。朕、今誓文ノ意ヲ拡充シ、茲ニ元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ広メ、大審院ヲ置キ以テ審判ノ権ヲ鞏クシ、又地方官ヲ召集シ以テ民情ヲ通シ公益ヲ図リ、漸次ニ国家立憲ノ政体ヲ立テ、汝衆庶ト倶ニ其慶ニ頼ント欲ス。汝衆庶或ハ旧ニ泥ミ故ニ慣ルルコト莫ク、又或ハ進ムニ軽ク為スニ急ナルコト莫ク、其レ能朕カ旨ヲ体シテ翼賛スル所アレ。
     立憲政体の詔書(明治八年四月十四日)

 

 ここにある、

  一廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ
          (五箇条の御誓文)

  朕、今誓文ノ意ヲ拡充シ、茲ニ元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ広メ、大審院ヲ置キ以テ審判ノ権ヲ鞏クシ、又地方官ヲ召集シ以テ民情ヲ通シ公益ヲ図リ、漸次ニ国家立憲ノ政体ヲ立テ、汝衆庶ト倶ニ其慶ニ頼ント欲ス。
          (立憲政体の詔書)

…という言葉に注目しておきたい。

 

 明治維新のスローガンであった「王政復古」が、明治政府の正統性を保証する理念としての「天皇親政」の淵源となったように、新政府の掲げた「五箇条の御誓文」は、その後の「立憲政体」構築の基礎となるものだ。

 どちらも政府・政権の正統性の基盤として欠かすことの出来ぬものとなり、明治以来の政府を拘束するものとなったわけである。

 徳川幕府(政権)存続の正統性を否定し、維新政府(及び継承政権)の正統性を主張するためには、「立憲政体」でありかつ「天皇親政」でもある形式を追求せねばならなかった、ということになる(『国体の本義』には、その両者―憲法と御親政―の関係について、「肇國以來萬世一系の大御心に於ては一貫せる御統治の洪範でありながら、中世以降絶えて久しく政體法上制度化せられなかつたが、明治維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うたのである」と記されている)。

 「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決ス」るものとしての「立憲政体」を追求すれば、議会の権能の強化を重視せざるを得ず、それが「天皇機関説」を生み、「政党内閣」時代を築いたわけだ。

 しかし、それに対し、「天皇親政」の原理主義的主張は、「統帥権干犯」をする政党内閣への批判(これは天皇の軍事的な「大権」の強調にも結びつく)と同時に「天皇機関説」の否定へと結実し、昭和10年代の「国体明徴声明」・「国体の本義」を経て戦前(戦中)期の「御親政」体制を生み出すことになった。

 

 

 「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決ス」るものとしての「立憲政体」に関しては、議会の開設と憲法の制定という形で、つまり具体的な政治制度として現実化されていくことになる。

 それに対し「天皇親政」の問題は、具体的な政治制度として確立されていくというよりは、あくまでも政権の正統性を背後から支える理念の形で、明治から昭和の政府に継承されていったように見える。

 そこにあるのは主権者としての天皇、統治権の主体としての天皇、大権の保持者としての天皇像こそが、我が国体の精華であり歴史的伝統であるという意識である。

 その際、具体的政治制度の問題として、「天皇親政」を具現した統治システムを構築することよりは、立憲政体のシステムにより具現化されるであろう「理念」として位置付けられていたように思える。あるいは、制度化された「立憲政体のシステム」は、「天皇親政」の「理念」により運営されるものとして期待されていた、という構図(『国体の本義』には、まさにその構図が示されている)。

 つまり、例えるならば、「民主主義」の理念が「議院内閣制」という制度としても米国式の「大統領制」の形式の上にも成立し得るものなのであって、「理念」と具体的制度は一対一の関係として考えられる必要がないのと同様の話なのである。

そこに、

  「立憲君主」としての天皇による「御親政」

…という図式が成立してしまう理由がある。
(ここにある「立憲君主」は「君臨し統治する」存在である)

 

 

 議会の権能の優位を強調し、政党内閣時代を背後から支えた「天皇機関説」が描き出すのは、「君臨すれども統治せず」的な天皇像である。つまり、政治的決定に関与することのない「立憲君主」としての天皇像である。
 
 それに対し、「大権」の保持者としての「御親政」的天皇像の前提となるのは、政治的決定に関与する「君臨し統治する立憲君主」としての天皇の姿である。
 
 その「御親政」的天皇像、つまり政治的決定に関与する天皇像が、国体明徴論者の手によって公的なものとされてしまったのが、昭和10年代の日本だったのである。実際に、国体解釈・理解の規範として文部省により公刊された『国体の本義』では、「その政體法の根本原則は…一に天皇の御親政…でありながら、中世以降絶えて久しく政體法上制度化せられなかつたが、明治維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うたのである」との表現で、「天皇の御親政」が「憲法に…明示」されているものであるとまで主張されているのだ。
 
 その結果、「あの戦争」の時代の政治的(軍事的)決定が天皇の意思と不可分のものとして表象されてしまうことになる。つまり、開戦も敗戦も天皇の意思と不可分の出来事であったという認識が導かれてしまうのである(「天皇の御親政」が「憲法に明示」されていると主張されていたことの論理的結果として)。
 
 帝國憲法上は、あくまでも天皇が無答責の存在(つまり憲法上の天皇の責任は否定されている―神聖ニシテ侵スヘカラス)であるにしても、政治的(軍事的)決定に天皇が関与するという「天皇親政」の理念が支配していた以上、開戦及び敗戦の責任と天皇が分かち難いものとして考えられてしまうのもまた当然の成り行きであろう。

 国体明徴論者による天皇親政原理主義がもたらしたのは、開戦と敗戦の責任(いわゆる天皇の戦争責任問題である)と不可分なものとしての天皇像であったというのは、実に皮肉な歴史的帰結ではある。

 「天皇機関説」に依拠し続ける限り、「天皇の戦争責任」問題は生じなかったようにさえ思われる。

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/01/08 14:49 → http://www.freeml.com/bl/316274/155573/)

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2010年12月11日 (土)

日本国の象徴と、國體の本義 16(天皇と「裁可セザルノ権」)

 

 大日本帝國憲法中の、

 

 第一章 天皇
第四條
天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ
第六條
天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
 第四章 國務大臣及樞密顧問
第五十五條
國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
凡テ法律勅令其ノ他國務ニ關ル詔勅ハ國務大臣ノ副署ヲ要ス

 

…といった規定と、日本国憲法中の、

 

 第一章 天皇
第一條
天皇は、日本國の象徴であり日本國民統合の象徴であつて、この地位は、主權の存する日本國民の總意に基く。
第三條
天皇の國事に關するすべての行爲には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第四條
1.天皇は、この憲法の定める國事に關する行爲のみを行ひ、國政に關する權能を有しない。
第七條
天皇は、内閣の助言と承認により、國民のために、左の國事に關する行爲を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び條約を公布すること。

 

…等の条項の意義の違いの根底にあるのは、主権者が誰であるのかの相違なのであった(前回の話)。

 「統治權ヲ總攬」する天皇とは、主権者としての天皇であり、「大権」の保持者としての天皇なのである。それに対し、日本国憲法下では、主権者は国民なのであり、天皇の「大権」と呼ばれるものは存在しない。

 

 「大権」の性質を考える上で、帝国憲法上の「裁可」と「輔弼」が、実際に、どのような性格のものとして構想されていたのかを確認することは、問題のより深い理解の獲得につながるものと思われる。

 

 

 今回も前回に続いて、戦前の、つまり大日本帝國憲法下の日本を代表する憲法学者と考えられる、清水澄博士の憲法論を読むことにしたい。清水博士によれば、「裁可」の問題と「輔弼」の問題は、

 

  【法律不裁可の許容】
議会ノ議決ハ、必ズシモ天皇ヲ拘束スルモノニ非ズシテ、議会ノ可決シタモノト雖、之ヲ斥ケテ、法律トセラレザルヲ妨ゲズ

  【国務大臣の輔弼に対する採択の自由】
輔弼トハ、国務大臣ガ、天皇ノ大権ノ行動ニ対シ、自己ノ意見ヲ、天皇ニ奉呈シテ、其ノ御採択ヲ奉請スルノ謂ナリ。……但シ大臣ノ意見ヲ御採択アラセラルルト否トハ、一ニ天皇ノ御自由ニ属スルモノニシテ、天皇ノ之ヲ御採択アラセザルルトキハ、大臣ハ、仍私見ヲ主持シテ、大権ノ発動ヲ阻害シ奉ルベキ限リニ在ラズ。自ラ意見ヲ変更シテ、天皇ノ御思召ニ循由スルカ、又ハ敬ンデ骸骨ヲ乞フノ外ナキナリ。而シテ憲法上大権行使ノ要件トシテ、天皇ガ、国務大臣ノ輔弼ニ頼ラセラルルコトヲ要スト言イフハ、只大臣ノ意見ヲ聴カセラルベキノ意ニシテ、敢テ之ヲ採ラセラルベキノ義ニ非ズ。
     (菅谷幸浩 「清水澄の憲法学説と昭和戦前期の宮中」 年報政治学 2009-1 ただし後註:1参照)

 

…ということになるのである。

 「議会ノ議決ハ、必ズシモ天皇ヲ拘束スルモノニ非ズシテ」とは、つまり、帝国憲法下の天皇には、「裁可」の権のみでなく「不裁可」の権もあるということを意味する。

 そして、国務大臣による「輔弼」に関しても、「而シテ憲法上大権行使ノ要件トシテ、天皇ガ、国務大臣ノ輔弼ニ頼ラセラルルコトヲ要スト言イフハ、只大臣ノ意見ヲ聴カセラルベキノ意ニシテ、敢テ之ヲ採ラセラルベキノ義ニ非ズ」とされているのであり、天皇が「大臣ノ意見」には拘束されることのない存在であることが示されているのである。

 そこに「大権」の保持者としての天皇の姿を見出す必要がある(天皇個人の意思・振る舞いの問題とは別に、天皇に関する憲法の規定が政治的に果たしてしまう問題の根幹として)。

 

 今回は、特に「裁可」の問題に焦点を絞り、大日本帝國憲法上の「大権」の保持者としての天皇を支える法的論理の実際を味わうこととしたい。

 

 

 清水澄博士の「法律ノ裁可ヲ論ス」(法学協会雑誌 明治37年)という、そのものズバリのタイトルの論文から、「第一 裁可ノ性質」、「第三 裁可ト拒否(Veto)」、「第四 裁可者」、「第五 裁可権ノ実行」を抜書きしてみよう。そこには、

 

          第一 裁可ノ性質
法律ヲ制定スルニ付テハ其内容ヲ確定スル行為ト之ニ命令ノ力ヲ与フル行為(ドイツ語表記省略)ト之ニ命令ノ力ヲ与フル行為(ドイツ語表記省略)トヲ区別セサルヘカラス而シテ其内容ヲ確定スル行為ハ議会ノ協賛ニシテ之ニ命令ノ力ヲ与フル行為ハ裁可ナリ法律ニシテ其内容確定セラレ且之ニ命令タルノ力ヲ附与セラルルトキハ之ニテ法律ハ完成スルモノナルカ故ニ或ハ「裁可ハ法律ヲ完成スル行為ナリ」ト称スルナリ又法律案ノ内容ヲ如何ニ確定スルモ之ニ命令タルノ力ヲ附与セサルトキハ法律トシテ認メラルへキモノニアラサルカ故ニ或ハ裁可トハ法律案ヲ法律トナスノ行為ナリト称スルモノナキニアラサルナリ茲ニ於テ単ニ法律案ノ内容ヲ確定スルニ過キサル議会ヲ立法権ノ行使ニ参与スルモノナリト考ヘ或ハ議会ヲ立法機関ナリト称スルハ共ニ誤レルコトヲ容易ニ知ルコトヲ得ヘシ何トナレハ法律ニ命令タルノ力ヲ与フル裁可ハ立法行為ノ本体ニシテ法律案ノ発案及議会ノ協賛ハ事前ノ予備行為ニ過キス又公布ノ如キハ後発ノ結果トシテ発生スルモノニ外ナラス而モ議会ノ行動ハ其予備行為ノ一部ニ参与スルモノナレハナリ

          第三 裁可ト拒否(Veto)
今日尚裁可ト拒否トヲ同一視シ裁可トハ(Recht des absoluten Veto)即チ絶対拒否ノ権ナリト唱フル人ナキニアラスト雖モ(リヨンネ氏普国国法論第四版第一巻三九〇頁以下)此両者ハ其性質ヲ異ニスルモノニヨリ之ヲ同一視スルヲ得サルモノナリ即チ拒否トハ行政権ガ立法権ヲ制御スル方法ニシテ此説ノ結果ハ議会立法者ニシテ元首ハ単ニ拒否ノ権ニヨリ之ヲ制御スルノ機関タルニ過キサルコトトナルナリ之ハ天皇ハ立法権ヲ行フトノ我憲法ノ主旨ニ適合セサルモノト云フヘシ然ラハ裁可ハ如何ナル点ニ於テ拒否ト異ルヤト云フニ拒否ハ消極的ノ作用ナルモ裁可ハ積極的ノ作用ナリ又拒否ハ法律ノ成立ヲ妨ケントスル作用ナルモ裁可ハ積極的ニ法律タルノ効力ヲ附与スルモノナリ

          第四 裁可者
裁可ハ已に述ヘタル如ク法律ヲ完成スル国法上ノ行為ニシテ即チ立法ナリ故ニ裁可者ノ立法者タルコト明ナリ我憲法第五條ニ天皇ハ立法権ヲ行フト規定シ天皇ノ立法者タルコトヲ明カニセルニヨリ第六條ノ「天皇ハ法律ヲ裁可シ」ノ明文ナキモ裁可権天皇ニ属スルコト当然ナリ又立法権ハ統治権ノ一面ニシテ統治権其モノニ外ナラサレハ立法者ハ統治権ノ総覧者タルト共ニ裁可者ハマタ統治者タルコト疑ナキモノナリ故ニ国ノ元首カ統治権ヲ掌握セサル国例ヘハ英米仏ニ於テハ法律ノ裁可権其国王ニ属スルコトナク只此等ノモノハ拒否権ヲ有スルニ過キサルナリ而カモ此等ノ拒否権モ英国ニ於テハ永ク行ハレタルコトナクマタ仏米ニ於テハ拒否シタル場合ニ必ス議会ニ再議ヲ求ムヘク議会ニ於テ再ヒ同一ノ議決ヲナシタルトキハ大統領必ス之ヲ公布セサルヘカラサルモノトシテ其拒否権執行ノ範囲ヲ大ニ制限セリ

          第五 裁可権ノ実行
裁可者カ裁可権ヲ行フニツキ左ノ原則存在セリ
第一 (略)
第二 (略)
第三 裁可者ハ裁可ヲ与フルノ権ヲ有スルト共ニ与ヘサルノ自由ヲ有スルモノナリ殊ニ裁可者ハ政府ノ原案ヲ変更スルコトナク議会ニ於テ協賛ヲ与ヘタル場合ニ於テモ尚ホ其法律案ニ対シ裁可ヲ与フルヲ拒ムコトヲ得ルナリ(註釈省略)
第四 裁可ヲ与フルト与へサルトハ全ク自由ニシテ之ヲ与ヘサル場合ニモ裁可者ハ其事由ヲ説明スルノ必要ナキナリ

 

…と書かれているのである(註:2)。中でも、

  裁可者ハ裁可ヲ与フルノ権ヲ有スルト共ニ与ヘサルノ自由ヲ有スルモノナリ

  殊ニ裁可者ハ政府ノ原案ヲ変更スルコトナク議会ニ於テ協賛ヲ与ヘタル場合ニ於テモ尚ホ其法律案ニ対シ裁可ヲ与フルヲ拒ムコトヲ得ルナリ

…との文言に、まずは注目しておくべきであろう。

 

 もちろん、この認識は、清水澄博士による恣意的憲法解釈の結果などではない。

 既に憲法制定過程の議論での前提とされていた「認識」だったのである。

 

裁可及公布ノ大権既ニ至尊ニ属スルトキハ、其ノ裁可セサルノ権及公布執行ノ緩急ヲ定ムルノ権ハ従テ至尊ニ属スルコト、謂ハスシテ知ルヘキナリ。
     (「憲法説明書」 枢密院での憲法案審議の際に用意された文書 伊藤博文の『憲法義解』の底本だという 註:3)

 

裁可ノ權既ニ至尊ニ属スルトキハ其ノ裁可セサルノ權ハ之ニ従フコトハ言ハスシテ知ルヘキナリ
     (伊藤博文 『憲法義解』 ただし、文言は蓑田胸喜 『學術維新原理日本』中の引用による)

 

裁可ハ天皇ノ独有主権ナリ。
天皇ハ自由ニ裁可シ又ハ裁可セザルコトヲ得。
故ニ天皇ノ裁可権ハ、其提議権ノ為ニ束縛セラレ、帝国議会ニ対スル政府ノ宣言ノ為ニ羈束セラレ、及帝国議会ノ決議ノ為ニ左右セラルルコトナシ。
天皇ハ議会ノ決議ニ反シ法律ヲ裁可スルコトヲ得ズト雖モ、議会ノ決議シタル法律ヲ裁可スベキ羈束ヲ受クルコトナシ。
     (伊東巳代治 「大日本帝国憲法衍義」 註:4)

 

 憲法制定過程での枢密院における審議で用いられた資料文書、憲法制定事業の中心にあった伊藤博文による憲法注解書、そして伊藤博文の下で憲法条文案起草作業に従事した伊東巳代治による注釈と、そのどれをとっても、「裁可権」と同時に「裁可セザルノ権」の天皇にあることを明言しているのである。
 

 
 そこにある論理は、再び清水澄博士に登場願えば、日本では、

  立法権ハ統治権ノ一面ニシテ統治権其モノニ外ナラサレハ立法者ハ統治権ノ総覧者タルト共ニ裁可者ハマタ統治者タルコト疑ナキモノナリ

…からなのであり、それに対し、

  国ノ元首カ統治権ヲ掌握セサル国例ヘハ英米仏ニ於テハ法律ノ裁可権其国王ニ属スルコトナク只此等ノモノハ拒否権ヲ有スルニ過キサルナリ

  而カモ此等ノ拒否権モ英国ニ於テハ永ク行ハレタルコトナクマタ仏米ニ於テハ拒否シタル場合ニ必ス議会ニ再議ヲ求ムヘク議会ニ於テ再ヒ同一ノ議決ヲナシタルトキハ大統領必ス之ヲ公布セサルヘカラサルモノトシテ其拒否権執行ノ範囲ヲ大ニ制限セリ

…ということになるのである。

 つまり、「国ノ元首カ統治権ヲ掌握セサル国」である「英米仏」の「国ノ元首」が保有するのは「拒否権」に過ぎず、その「拒否権」なるものは、議会で再議決がなされれば効力が失われてしまう「執行ノ範囲ヲ大ニ制限」された「権」なのだ(天皇の「大権」は、「執行ノ範囲ヲ大ニ制限」されるようなものではない)。「英米仏」の「国ノ元首」は、「裁可セザルノ権」は持たないのである。それとは異なる帝国憲法上の天皇の姿を、君臨し統治する立憲君主の姿、大権の保有者としての天皇の姿として再確認することで、問題の構図を理解しておきたい。

 もちろん、今さら言うまでもないことだとは思うが、現行憲法においては、天皇には、「内閣の助言と承認により、國民のために、左の國事に關する行爲を行ふ」ことが求められている。そこには、「裁可セザルノ権」は存在しないし、「拒否権」すら存在しないのである。象徴として統治しない天皇こそが、日本国憲法上の天皇の姿なのだ。

 

 

 

 大日本帝國憲法と日本国憲法の間の断絶は、それほどに大きいのである(帝國憲法下での天皇が「裁可セザルノ権」を露骨に行使するようなことはなかったが、しかし行使し得る存在であったことの政治的意味の大きさは、敗戦に至る歴史を考える上で無視すべき問題ではない、ということ、だ)。

 

 

 

 最後に、

  自分は旧憲法においても現行憲法でも天皇のあり方という点において変わってないように見える。

…というご意見をお持ちの方のために、清水澄博士の経歴をご紹介しておこう。

 『ウィキペディア』記事には、

 

慶応4年(1868年)、石川県金沢市に生まれる。
東京帝国大学法科を卒業。ドイツへ留学後、学習院教授となる。明治38年(1905年)、法学博士号を取得する。大正15年(1926年)2月27日帝国学士院会員。
宮内省及び東宮御学問所御用掛となり、大正天皇、昭和天皇に憲法学を進講した。行政裁判所長官、枢密院顧問官・副議長を経て、敗戦後、昭和21年(1946年)6月13日最後の枢密院議長に任ぜられる。

 

…と記されている、昭和天皇自身の憲法観を考える上でも、「宮内省及び東宮御学問所御用掛となり、大正天皇、昭和天皇に憲法学を進講した」忘れてはならぬ人物なのである。筋金入りの立憲主義者であると同時に、「天皇大権」に支えられた「国体」の観念に身を捧げた人物であった。さらに『ウィキペディア』記事を続ければ、

 

枢密院が廃止され、昭和22年(1947年)5月3日に日本国憲法が施行された後の同年9月25日、日本の国体の危機を憂い、熱海錦ヶ浦海岸から投身自殺を遂げた。
遺言に当たる「自決ノ辞」には、

新日本憲法ノ發布ニ先ダチ私擬憲法案ヲ公表シタル團体及個人アリタリ其中ニハ共和制ヲ採用スルコトヲ希望スルモノアリ或ハ戦争責任者トシテ今上陛下ノ退位ヲ主唱スル人アリ我國ノ將來ヲ考ヘ憂慮ノ至リニ堪ヘズ併シ小生微力ニシテ之ガ對策ナシ依テ自決シ幽界ヨリ我國體ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈願セント欲ス之小生ノ自決スル所以ナリ而シテ自決ノ方法トシテ水死ヲ択ビタルハ楚ノ名臣屈原ニ倣ヒタルナリ
元枢密院議長  八十翁 清水澄  法學博士  昭和二十二年五月 新憲法実施ノ日認ム
追言 小生昭和九年以後進講(宮内省御用係トシテ十数年一週ニ二回又ハ一回)シタルコト従テ龍顔ヲ拝シタルコト夥敷ヲ以テ陛下ノ平和愛好ノ御性質ヲ熟知セリ従テ戦争ヲ御賛成ナカリシコト明ナリ

と記し、大日本帝国憲法に殉じ、自殺をすることと、その自殺が中国の戦国時代の楚国の屈原が汨羅(べきら)の淵に投身自決した故事に倣ったことが記されている。そして、公人としての最後の責任を全うするために、自らの想いとは別に最後の枢密院議長として新憲法の審議に尽力したのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%BE%84

 

…と、その長く誠実な生涯の終止符を自ら打つことになった人物なのである。つまり、「最後の枢密院議長として新憲法の審議に尽力した」後に、清水博士は「大日本帝国憲法に殉じ」、自らの命を絶ったのであった。

 「自決ノ辞」にある、

  小生昭和九年以後進講(宮内省御用係トシテ十数年一週ニ二回又ハ一回)シタルコト

…との文言からは、昭和天皇の抱いていた憲法観と清水博士の憲法論との距離の近さが推察されるであろう。同時に、

  従テ龍顔ヲ拝シタルコト夥敷ヲ以テ陛下ノ平和愛好ノ御性質ヲ熟知セリ従テ戦争ヲ御賛成ナカリシコト明ナリ

…という言葉にも注目したい。昭和天皇の「平和愛好ノ御性質ヲ熟知」し、「戦争ニ御賛成ナカリシコト明」かだという清水博士の言葉を疑う理由はない(博士の目に映じた昭和天皇の姿という意味において)。昭和天皇の「平和愛好ノ御性質」、「戦争ニ御賛成ナカリシ」にもかかわらず、あの未曾有の敗戦に至る戦争の時代として進行した昭和の歴史の背後には、大日本帝國憲法が厳として存在する。そこには、上位者の命令が天皇の命令として(天皇自身の意思とは関係なく)絶対化され、一度下された政治的軍事的決定が(天皇の意志として)絶対化されてしまう世界が現出してしまったのである。敗戦は(その前提としての開戦の問題も含め)、帝国憲法の「大権」条項が生み出した政治過程の帰結なのであり、21世紀の現在を生きる我々は、史料の正確な読解を通して、その構図を把握し理解しなければならないのである。
 

 いずれにせよ、清水澄博士には、「旧憲法においても現行憲法でも天皇のあり方という点において変わってない」などと考えることは出来なかったのだ。日本国憲法下の「戦後民主主義」に骨の髄まで浸潤された身(「GHQの洗脳」の被害者、とまでは言わないが)には想像もつかないことなのかも知れないが…

 

 
 

 
註:1 引用した文言は、須賀博志 「清水澄博士の帝国憲法御進講」 2009(http://book.geocities.jp/geirinjp/suga.pdf)によった。菅谷論文の方は未読である(見出しの言葉が、菅谷論文からのものなのか須賀論文で付されたものなのかは、現時点では不明)。引用されている「裁可」や「輔弼」に関する文言は、確かに清水澄博士のものと思われるが、ネット情報のコピペで済ましてしまう安易な手法は採りたくないので、あらためて「註:2」以下の文献に当った次第である。
註:2 『清水澄博士論文・資料集』(原書房 1983)に収録
註:3 清水伸 『明治憲法制定史 (下)』(原書房 1973)に収録 原著は昭和15年、岩波書店刊
註:4 江村栄一 校注 『日本近代思想大系 9  憲法構想』(岩波書店 1989)に収録


 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/12/11 21:03 → http://www.freeml.com/bl/316274/153636/

 

 

 

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2010年12月 5日 (日)

日本国の象徴と、國體の本義 15(「輔弼」と「助言と承認」)

 

  『御前会議の末席を汚してご聖断を拝し余りの辱さに感涙滂沱たるものがありました、現人神に存ずればこそで臣下の顧慮の及ぶところではありませぬ、本当に生神様であらせられるといふことを畏れ多いことながら観念でなく現実に拝して身も慄ふ感激に打たれました』ある閣僚は涙を溜めて謹話した、大方針決した刹那の尊きその光景を拝察するとき、われわれは皇國に生を享けた感激に泣かざるを得ない。そしてこの感激は今日只今からのわれわれの行動を律するものであらねばならぬ、親政厳として一切の夾雑物を排しわが心魂に〇るる思ひである、この親政に一切の私欲を棄てて随順し奉ることが皇國再生の活路であり、そしてまた敗戰欧洲にみるが如き恥辱と混沌からわが國家民族を護る唯一の途である
     (『朝日新聞』 昭和二十年八月十五日  〇は判読不能文字)

 

 

 この、昭和20年8月15日の『朝日新聞』記事には、大日本帝國憲法下の天皇の姿が、凝縮的に表現されていると言えるだろう。

 ポツダム宣言受諾決定の御前会議に出席していた「ある閣僚」の発したという、

  御前会議の末席を汚してご聖断を拝し余りの辱さに感涙滂沱たるものがありました、
  現人神に存ずればこそで臣下の顧慮の及ぶところではありませぬ、
  本当に生神様であらせられるといふことを畏れ多いことながら観念でなく現実に拝して身も慄ふ感激に打たれました

…との言葉にある、「現人神」として「臣下」に対し「ご聖断」を下す天皇の姿であり、

  この親政に一切の私欲を棄てて随順し奉ることが皇國再生の活路

…と主張する朝日新聞記者の言葉の中に見える、「皇國再生の活路」としての「親政」(への「随順」)の文字である。

 

 

 つまり、大日本帝國憲法の条文から抜書きすれば、

 

 第一章 天皇
第一條
大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第二條
皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス
第三條
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四條
天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ
第六條
天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
第十條
天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ條項ニ依ル
第十一條
天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第十三條
天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス
 第四章 國務大臣及樞密顧問
第五十五條
國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
凡テ法律勅令其ノ他國務ニ關ル詔勅ハ國務大臣ノ副署ヲ要ス
第五十六條
樞密顧問ハ樞密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ應ヘ重要ノ國務ヲ審議ス
 (大日本帝國憲法)

 

…といった文言で規定された、憲法上の天皇の地位・権能が現実に機能する姿を、この『朝日新聞』記事から読み取ることが出来るわけである。ここでは、「統治権ヲ総攬シ」、「陸海軍ヲ統帥ス」る地位にある天皇が、「法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命」じる主体として、「戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結」する権能の下に、「和ヲ講」ずべきことを、御前会議出席の臣下を前に、その「執行ヲ(ご聖断として)命」じているのだ(「大方針決」する主体としての天皇である)。

 

 清水澄博士の『逐条帝國憲法講義』(昭和7年)には、

  憲法トハ統治権ノ所在ヲ宣明シ立憲政治ノ法則ニ基キ統治権行使ノ形式ヲ定メタル大則ヲ謂フ其ノ成文法タルト不文法タルトハ問フ所ニ非ス立憲政体ヲ定ムル国家ノ根本法ハ即チ憲法タルナリ
  統治権ハ意思ノ力ニシテ国家ノ意思ハ何人カノ自然ノ意思ニ出テサルヘカラス其ノ自然ノ意思ハ即チ統治権ナリ我カ国ニ於テハ国家ノ意思ハ天皇ノ自然意思ニ出ツ国家ノ意思ト天皇ノ意思トハ一ニシテ二ニ非ス国家ノ意思ト天皇ノ意思トハ相同化シテ一体ヲ為シ国家ノ統治権ノ主体ナリト謂フハ即チ天皇カ統治権ノ主体ナリト謂フニ同シ

…とあったことを思い出そう。あくまでも、

  我カ国ニ於テハ国家ノ意思ハ天皇ノ自然意思ニ出ツ

  国家ノ意思ト天皇ノ意思トハ一ニシテ二ニ非ス

  国家ノ意思ト天皇ノ意思トハ相同化シテ一体ヲ為シ国家ノ統治権ノ主体ナリト謂フハ即チ天皇カ統治権ノ主体ナリト謂フニ同シ

…ということなのである。

 

 大日本帝國憲法の、

  天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ

…との文言にある天皇の姿と、日本国憲法の、

 

第一章 天皇
第一條
天皇は、日本國の象徴であり日本國民統合の象徴であつて、この地位は、主權の存する日本國民の總意に基く。
第二條
皇位は、世襲のものであつて、國會の議決した皇室典範の定めるところにより、これを繼承する。
第三條
天皇の國事に關するすべての行爲には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第四條
1.天皇は、この憲法の定める國事に關する行爲のみを行ひ、國政に關する權能を有しない。
2.天皇は、法律の定めるところにより、その國事に關する行爲を委任することができる。
第六條
1.天皇は、國會の指名に基いて、内閣總理大臣を任命する。
2.天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
第七條
天皇は、内閣の助言と承認により、國民のために、左の國事に關する行爲を行ふ。
 (日本国憲法)

 

…との各条文に規定された天皇の姿の違いは大きい。

 清水澄博士の言葉を流用すれば、日本国憲法においては、

  我カ国ニ於テハ国家ノ意思ハ「国民」ノ自然意思ニ出ツ

  国家ノ意思ト「国民」ノ意思トハ一ニシテ二ニ非ス

  国家ノ意思ト「国民」ノ意思トハ相同化シテ一体ヲ為シ国家ノ統治権ノ主体ナリト謂フハ即チ「国民」カ統治権ノ主体ナリト謂フニ同シ

…ということになるのであって、そこに「国民主権」であることの意味が見出されなければならない。

 

 

 大日本帝國憲法の下では、

  天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス

  國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス

…と規定されており、つまり、総理大臣以下の国務大臣は天皇に「任免」され、「統治権ノ主体」として「統治權ヲ總攬」する天皇の統治行為を「輔弼」するのであって、そこに「国民ノ意思」は介在しないのである。あくまでも「国家ノ意思」としての「天皇ノ意思」を(「法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス」天皇の権能を)、「輔弼(サポート)」するのが国務大臣に期待された役割なのである。ここでは、裁可=承認の主体は天皇なのだ。

 首相は「大命降下」という形式で天皇に直接指名され、その首相が各国務大臣を選任するわけだが、構図としては、各国務大臣の地位も天皇の「大命」の下にあることになる(つまり「天皇ノ意思=国家ノ意思」であることが、ここにも貫徹されている)。

 

 それに対し、日本国憲法下では、

日本國民は、正當に選擧された國會における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸國民との協和による成果と、わが國全土にわたつて自由のもたらす惠澤を確保し、政府の行爲によつて再び戰爭の慘禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主權が國民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも國政は、國民の嚴肅な信託によるものであつて、その權威は國民に由來し、その權力は國民の代表者がこれを行使し、その福利は國民がこれを享受する。
 (日本国憲法前文)

…とあるように、日本国民は、

  正當に選擧された國會における代表者を通じて行動し、

  主權が國民に存することを宣言し、

  國政は、國民の嚴肅な信託によるものであつて、その權威は國民に由來し、その權力は國民の代表者がこれを行使し、その福利は國民がこれを享受する。

…との構図(つまり「統治権ノ主体」としての「国民」なのである)の下にあり、天皇は、

  天皇の國事に關するすべての行爲には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

  天皇は、この憲法の定める國事に關する行爲のみを行ひ、國政に關する權能を有しない。

…という以上の存在ではない。それが「象徴」としての天皇の地位・権能なのであり、政治的決定に天皇が関与することはないのである。

 

 「國政に關する權能を有」していたのが、帝國憲法下の天皇だったのであり、その「國政に關する權能」を「輔弼」するのが、帝國憲法下の國務大臣の任務であったわけだ。國務大臣を任免するのも天皇であり、「法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス」るのも天皇であった。つまり政治的決定の主体(統治権ノ主体)としての天皇の「輔弼」が、帝國憲法下での臣下としての閣僚・國務大臣(=「内閣」の構成員)の役割だったのである。

 
 それとは異なり、「憲法の定める國事に關する行爲のみを行」う天皇に、つまり政治的決定には関与せず「国事行為」のみを行う天皇に「助言と承認」を与える「内閣」は、あくまでも、

  國政は、國民の嚴肅な信託によるものであつて、その權威は國民に由來し、その權力は國民の代表者がこれを行使し、その福利は國民がこれを享受する

…という、日本国憲法の構図の下にある存在なのである。

 要するに天皇による「國事に關する行爲」は、「國民の嚴肅な信託」に基づき成立する内閣の「助言と承認」の下にのみ行われるものなのであって、つまり(統治権ノ主体としての)国民の「承認」を抜きにはなし得ないものなのである(「承認」をする主体は国民なのだ)。「統治権ノ主体」としての天皇が「裁可」する世界と、「統治権ノ主体」としての国民が「承認」する世界の違いを理解しておく必要がある。

 大日本帝國憲法下の、國務大臣による天皇への「臣下」としての「輔弼」と、日本国憲法における天皇の「國事行爲」への「内閣の助言と承認」は、まったく異なるものなのだ。

 そこにあるのは、天皇(=主権者)への「臣下」による「輔弼」と、主権者としての国民(内閣を経由するものではあるが)からの天皇(=象徴)への「助言と承認」の違いなのである。

 「統治権ノ主体」としての天皇が、つまり「君臨し統治する天皇」が、「臣下」としての國務大臣に求めるのが、天皇の統治行為への「輔弼」なのであるのに対し、「統治権ノ主体」としての日本国民が、「象徴」としての天皇、つまり「象徴であり統治しない天皇」に「国事行為」の遂行を託す際に必要とされるのが、内閣(=国民の代表者)による「助言と承認」なのである。それが憲法上の構図なのだということを理解しなければならない。

 
 

〔追記〕

 河童氏から、コメントとトラックバックまでいただいてしまっていた。

 河童氏のコメント及びトラックバックの内容を瞥見したところでは、河童氏が大日本帝國憲法と日本国憲法の相違点をまったく理解していないことは確かに思われる。
 本来ならコメント欄で応対すべきなのであろうが、問題の詳細をご理解いただくには、コメント欄のやり取りで意を尽すことは難しそうに感じられる。いずれにせよ、シリーズの続きで書く予定の話題でもあるので、その時をお待ちいただきたい。

 が、せっかくなので、ここでは、「裁可」の語の意味が、帝國憲法と現憲法では全く異なる性格のものである点だけを指摘しておくことにする。
 以下に紹介するのは、伊藤博文の『憲法義解』にある、「裁可」の語への言及である。

裁可ノ權既ニ至尊ニ属スルトキハ其ノ裁可セサルノ權ハ之ニ従フコトハ言ハスシテ知ルヘキナリ……故ニ議會ノ協賛ヲ経ト雖裁可ナケレハ法律ヲ成サス

 要するに、大日本帝國憲法上では、天皇には「不裁可」の権(裁可セサルノ權)もあるということなのだ。
(「憲法義解」の文言は、蓑田胸喜 『學術維新原理日本』 原理日本社 昭和八年 からの孫引きであることを申し添えておく)

 コメントにトラックバックまでいただいたことについては、河童氏に感謝申し上げたい。
                    (2010年12月6日記)

 

 
 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/12/04 23:02 → http://www.freeml.com/bl/316274/153145/

 

 

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2010年10月29日 (金)

日本国の象徴と、國體の本義 14(君臨し統治する天皇)

 

 現在、「立憲君主」という言葉から連想されるのは英国国王であり、「君臨すれども統治せず」こそが「立憲君主」の姿のように思われていると考えて大きな誤りはないであろう。そして、その英国国王イメージの延長として、君臨すれども統治しない「立憲君主」としての天皇像が流通しているように思われる。

 

 

 大日本帝國憲法下の日本で、オーソドックスな憲法学・国法学を展開した清水澄博士によれば、英国国王は、

  英国ノ統治権ハ国王及国会ニ存シ元首タル国王ハ単純ナル国家機関ニアラサルト共ニ又其統治権ノ一部ヲ有スルニ止マルモノナリ

  英国国王ハ統治権ヲ総攬スルコトナク君主国ノ元首ニ専属スル立法権ノ如キハ英国ニテハ国会ノミニ存スルモノニテ国王ニ属セサルナリ

…として位置付けられ、「統治権ヲ総攬スル」天皇とは異なる存在であった。しかし、同時に清水博士は天皇をも「立憲君主」として取扱っている。つまり、その地位・権能が、

  統治権ノ所在ヲ宣明シ立憲政治ノ法則ニ基キ統治権行使ノ形式ヲ定メタル大則

…としての「憲法」に基づくものであれば、君臨し統治するのか君臨すれども統治しないのかの相違にかかわらず、「立憲君主」と呼ぶことが出来るということなのである。

 

 

 ただし、戦後の日々の中で、「君臨すれども統治せず」の英国式立憲君主としての天皇像が戦前からの伝統あるものとして語られることにより、「立憲君主」という言葉から「君臨し統治する君主」の姿がイメージされることがなくなってしまった、ということのようである。

 

 

 実際問題として、最近のお付き合いの中で、

  戦前においても天皇って立憲君主ではなかったですか?
  天皇親政なら責任はあるでしょうが立憲君主の場合お飾りに近く憲法(帝国憲法にしても)に縛られるのが立憲君主だと思いますが?

…という言葉が、いわゆる天皇の戦争責任をめぐる議論の過程で発せられるのに立ち会った経験がある。

 この認識を支えているのは、まさに「君臨すれども統治せず」という言葉で語られる「立憲君主」イメージであり、天皇親政=君臨し統治する天皇の姿が、「立憲君主」とは異なるものとして示されているわけである。つまり、天皇不親政であってこその「立憲君主」イメージということだ。

 

 

 そのような意味で、「国体明徴に関する政府声明」は「天皇親政」の宣言であり、「君臨し統治する」天皇像を「明徴」にしたものなのである。

 要するに、現在の日本で流布している「君臨し統治せず」の英国式立憲君主としての天皇像(不親政的天皇像)を、戦前・戦中の天皇像にまで延長することは誤りだということなのである。

 

 ここでは、昭和二十年八月十五日、国内的には終戦を迎えた日(あの玉音放送の日)の『朝日新聞』から、「國體護持に邁進 親政厳たり随順し奉る」というタイトルの記事を紹介しておこう。「戰争終結の大詔渙發さる」という大見出しの記事が最上段にある紙面の中央部にあるのが、

 

 國體護持に邁進
  親政厳たり随順し奉る

皇國三千年、最初にして最後のこの一大試煉を直視するとき悲慨胸を焦し、痛恨骨を噛むのみには止まらない。この日この時こそ、まさに我ら一億が眞に素裸の日本人となつて、大君を御中心にはらからの血〇をしつかと固めねばならぬのである
われわれは國體護持に対する保障を敵に求めんとするのか、否國體護持はわれら民草の胸中にある、沸々と湧いて止まず、煌々と輝いて盡きぬ民族傳統の血脈の裡にある
『御前会議の末席を汚してご聖断を拝し余りの辱さに感涙滂沱たるものがありました、現人神に存ずればこそで臣下の顧慮の及ぶところではありませぬ、本当に生神様であらせられるといふことを畏れ多いことながら観念でなく現実に拝して身も慄ふ感激に打たれました』ある閣僚は涙を溜めて謹話した、大方針決した刹那の尊きその光景を拝察するとき、われわれは皇國に生を享けた感激に泣かざるを得ない。そしてこの感激は今日只今からのわれわれの行動を律するものであらねばならぬ、親政厳として一切の夾雑物を排しわが心魂に〇るる思ひである、この親政に一切の私欲を棄てて随順し奉ることが皇國再生の活路であり、そしてまた敗戰欧洲にみるが如き恥辱と混沌からわが國家民族を護る唯一の途である
     (『朝日新聞』 昭和二十年八月十五日  〇は判読不能文字)

 

…という、記者の「悲慨胸を焦し、痛恨骨を噛むのみには止まらない」心境を吐露した記事なのである。文中の、

  この親政に一切の私欲を棄てて随順し奉ることが皇國再生の活路であり、そしてまた敗戰欧洲にみるが如き恥辱と混沌からわが國家民族を護る唯一の途である

…との朝日新聞紙面上の主張を、ここでは特に、深く味わっておくことにしたい。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/10/29 19:14 → http://www.freeml.com/bl/316274/150507/

 

 

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2010年10月27日 (水)

日本国の象徴と、國體の本義 13(「立憲政治」と天皇)

 

  かつての「国体明徴に関する政府声明」を読めば、政府自身が「君臨すれども統治せず」的な、「立憲君主」としての天皇像を明確に否定していた事実が理解出来るだろう。

…と、前回には書いた。

 

 

 お気付きのこととは思うが、

  「君臨すれども統治せず」的な、「立憲君主」としての天皇像

…という表現には含意がある。対象となる君主が「立憲君主」であるかどうかと、その地位・権能が「君臨すれども統治せず」という枠内のものであるかは、本来的には別の問題なのである。つまり、「君臨し統治する」ことが、「立憲君主」であることを妨げるというわけではない。

 

 

 ここではまず、昭和七年(1932年)に書かれた、清水澄博士による「立憲政治」及び「統治権」についての解説を読んでおこう。

 

近世学者ハ憲法ナル語ニ更ニ特別ノ意味ヲ有セシム即チ専制政治ヲ排シ三権行使ノ機関ヲ分立セシメ民選議会ヲ立法ニ参与セシムルヲ以テ立憲政治ノ本義ト為スカ故ニ此ノ政治組織ノ大綱ヲ定メタル国家ノ根本法ニ非スンハ以テ憲法ト称スルコトヲ得スト為セリ蓋政治変遷ニ伴フ自然ノ結論ニシテ極メテ妥当ナル主張ナリトカ解ス即チ憲法ハ立憲政体ヲ採レル国家ノ根本法ナリ憲法ト立憲政治トハ之ヲ分離シテ観念スルヘカラス専制政体ニ於ケル国家根本法ハ所謂憲法ニ非サルナリ即チ憲法ナル語ノ真義左ノ如シ
 「憲法トハ統治権ノ所在ヲ宣明シ立憲政治ノ法則ニ基キ統治権行使ノ形式ヲ定メタル大則ヲ謂フ其ノ成文法タルト不文法タルトハ問フ所ニ非ス立憲政体ヲ定ムル国家ノ根本法ハ即チ憲法タルナリ」

統治権ハ意思ノ力ニシテ国家ノ意思ハ何人カノ自然ノ意思ニ出テサルヘカラス其ノ自然ノ意思ハ即チ統治権ナリ我カ国ニ於テハ国家ノ意思ハ天皇ノ自然意思ニ出ツ国家ノ意思ト天皇ノ意思トハ一ニシテ二ニ非ス国家ノ意思ト天皇ノ意思トハ相同化シテ一体ヲ為シ国家ノ統治権ノ主体ナリト謂フハ即チ天皇カ統治権ノ主体ナリト謂フニ同シ換言スレハ国家ヲ具体ノ団体トシテ其ノ構成ヨリ言ヘハ天皇ハ恰モ人体ニ於ケル首脳ノ如ク団体ノ中心力ノ存スル所ト為シ又国家ヲ意思ノ主体トシテ其ノ活動スル方面ヨリ謂ヘハ天皇ハ即チ国家ナリト為スノ義ナリ国家ヲ統治権ノ主体ナリトシ同時ニ天皇ヲ統治権ノ主体ナリト為スニ於テ決シテ矛盾スル所ナシ
     清水澄 『逐条帝國憲法講義』 昭和7年 (『清水澄博士論文・資料集』 原書房 1983 浅野一郎による〔解説〕「清水澄博士の学説の特色」に収録)
 

 つまり、

  専制政治ヲ排シ三権行使ノ機関ヲ分立セシメ民選議会ヲ立法ニ参与セシムルヲ以テ立憲政治ノ本義ト為ス

…ということは「立憲政治」は「専制政治」に対立するところに意味が見出される政治システムであり、そこでの憲法の意義は、

  憲法トハ統治権ノ所在ヲ宣明シ立憲政治ノ法則ニ基キ統治権行使ノ形式ヲ定メタル大則

…であるところにあり、その「統治権」とは、

  統治権ハ意思ノ力ニシテ国家ノ意思ハ何人カノ自然ノ意思ニ出テサルヘカラス其ノ自然ノ意思ハ即チ統治権ナリ

…ということなのである。その「統治権ノ所在」が君主のものであることが憲法に明記されていれば、「統治権行使ノ形式」が立憲的に定められていれば、そこに「立憲君主」は存在し得るのである。 

 その上で、大日本帝國憲法においては「統治権ノ所在」が天皇の下にあることが示されているということが、

  我カ国ニ於テハ国家ノ意思ハ天皇ノ自然意思ニ出ツ

  国家ノ意思ト天皇ノ意思トハ一ニシテ二ニ非ス

  国家ノ意思ト天皇ノ意思トハ相同化シテ一体ヲ為シ国家ノ統治権ノ主体ナリト謂フハ即チ天皇カ統治権ノ主体ナリト謂フニ同シ

…との言葉で語られているのである。ここに描かれているのは、君臨し統治する君主としての、立憲政治と共にある天皇の姿なのである。

 

 

 では、それに対し、「君臨すれども統治せず」という言葉で語られる「立憲君主」イメージを代表すると思われる英国国王について、清水澄博士がどのように位置付けているのかについても見ておきたい。

 

 

英国ノ統治権ハ国王及国会ニ存シ元首タル国王ハ単純ナル国家機関ニアラサルト共ニ又其統治権ノ一部ヲ有スルニ止マルモノナリ故ニ英国元首ノ地位ハ君主国ノ元首ト異リ又非君主国ノ元首ノ地位ハ異ルコト勿論ナリ今先ツ非君主国ノ元首ト英国ノ元首ト異ル点ヲ述フレハ英国国王ハ所謂残留政権ナルモノヲ有スト雖非君主国ノ元首ハ如此キ権ヲ有スルコトナキナリ残留政権トハ国会カ国王ニ対シ之ヲ行フコトヲ禁止セルヤ又ハ之ヲ自ラ執行スルカモ若クハ之ヲ他ニ執行スルコトヲ委任シタルモノヲ除キタル以外ノモノニシテ国王ニ依然残留スル権力ヲ云フ然ルニ非君主国ノ元首ニハ明ニ委任セラレタル権限ノ外活動範囲ヲ有セサル機関ナルニヨリ固ヨリ残留権ナルモノ之ニ附著スルノ理由ナキモノナリ之ニ反シテ君主国ノ元首ト異ル点ヲ考フルトキハ英国国王ハ統治権ヲ総攬スルコトナク君主国ノ元首ニ専属スル立法権ノ如キハ英国ニテハ国会ノミニ存スルモノニテ国王ニ属セサルナリ尤モ国王ハ国会ノ議決ニ対シ不裁可権(Veto)ヲ行フコトヲ得ルモ此権モ二百年来殆ント使用セラレタルコトナキニヨリ立法権ハ無制限ニ国会ニ専属シ国会マタ之ヲ専行スルモノト云フヘシ又国務大臣ハ国王ニ於テ之ヲ任免スルモノナリト雖国会政党ノ消長ニ従ヒ之ヲ交迭セシメサルヲ得サルモノナルニヨリ大臣任命権モ実際国会ニ属スルナリト断シテ誤ラスト信スルナリ…(後略)
     清水澄「元首ノ地位ヲ論ス」(明治36年) (『清水澄博士論文・資料集』 原書房 1983)

 
 

 ここでは、

  英国国王ハ統治権ヲ総攬スルコトナク君主国ノ元首ニ専属スル立法権ノ如キハ英国ニテハ国会ノミニ存スルモノニテ国王ニ属セサルナリ

…との文言に注目することで、問題の所在が明確になるであろう。

 言うまでもなく「統治権ヲ総攬スル」のが、大日本帝國憲法上の天皇の位置付けなのであり、そこに英国的な「統治権ヲ総攬スルコトナク=君臨すれども統治せず」とは異なる「立憲君主」としての天皇の地位、大日本帝國における「統治権ノ所在」のあり方が見出されるわけである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/10/27 20:01 → http://www.freeml.com/bl/316274/150366/

 

 

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2010年10月18日 (月)

日本国の象徴と、國體の本義 12

 

  恭しく惟るに、我が国体は天孫降臨の際下し賜へる御神勅に依り昭示せらるる所にして、万世一系の天皇国を統治し給ひ、宝祚の隆は天地と倶に窮なし。されば憲法発布の御上諭に国家統治の大権は朕が之を祖宗に承けて之を子孫に伝ふる所なりと宣ひ、憲法第一条には、大日本帝国は万世一系の天皇之を統治すと明示し給ふ。即ち大日本帝国統治の大権は厳として天皇に存すること明かなり。もしそれ統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すがごときは、これ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり。近時憲法学説を繞り国体の本義に関連して兎角の論議を見るに至れるは寔に遺憾に堪へず。政府はいよいよ国体の明徴に力を効し、その精華を発揚せんことを期す。乃千茲に意の在る所を述べて広く各方面の協力を希望す。
     (「国体明徴に関する政府声明」1935年8月3日  第1次国体明徴声明)

 
  暴に政府は国体の本義に間し所信を披涯し以って国民の響ふ所を明にしいよいよその精華を発揚せんことを期したり。抑々我が国体における統治権の主体が天皇にましますことは我が国体の本義にして帝国臣民の絶対不動の信念なり。帝国憲法の上諭並条章の精神亦姦に存するものと拝察す。しかるに漫りに外国の事例学説を援いて我が国体に擬し、統治権の主体は天皇にましまずして国家なりとし、天皇は国家の機関なりとなすが如き所謂天皇機関説は、神聖なる我が国体に悖り、その本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除せざるべからず。政教其他百般の事項総て万邦無比なる我が国体の本義を基とし、その真髄を顕揚するを要す。政府は右の信念に基き姦に重ねて意あるところを間明し、以って国体観念いよいよ明徴ならしめ、英美蹟を収むる為全幅のカを効さんことを期す。
     (「国体明徴に関する政府声明」1935年10月15日  第2次国体明徴声明)

 

 
 昭和10年の岡田内閣による「国体明徴声明」とは、つまり、神話の記述を根拠とした、立憲君主としての天皇の地位の否定に他ならないのである。

…と、シリーズの前回に書いたわけだが、問題の焦点となっていたのは、憲法上の天皇の位置付けであった。

 

 現在では、「君臨すれども統治せず」との言葉で表現される(政治的決断に関与しない、憲法に拘束された存在という意味での)立憲君主としての天皇イメージが前面に出ており、その立憲君主的天皇像が、大日本帝國憲法以来の連続性を持つものとして語られている節がある。

 

 昭和天皇自身も、「立憲君主」たらんと努力していたという帝國憲法下の自身の姿を、戦後の日々の中で語っていた。

 戦中を、「自由主義者」として政治の本流からは排除されがちになりながらも生き抜いた政治家達からも、彼らが戦後の政治権力の中枢に位置するに際し、昭和天皇の立憲君主的イメージが(平和主義者としてのイメージと共に)戦前からの一貫したものとして語られていた。

 戦勝国であった米国の対日占領政策の背後には、戦前からの日本の「自由主義的」政治家との親交の深かった駐日大使グルーの姿があり、そこでもやはり、自由主義者たちと共にある立憲君主的イメージの昭和天皇像が語られていたように思われる。

 

 日本国憲法を受け入れた多くの日本人達にも、昭和天皇を戦前からの一貫した「立憲君主」としてイメージすることで、「象徴として」の天皇の地位の存続(天皇という地位の存在)への同意は、より容易なものとなったに違いない。

 そこには、戦争中の国民が「軍国主義者の被害者」であったように、戦中の天皇も「軍国主義者の被害者」であった、という構図が成立しているようにさえ見える。それは、滅私奉公・尽忠報国の言葉と共に戦争遂行への協力を惜しまなかった自身の姿を、国民が忘れる上でも役立ったに違いない。昭和天皇が「立憲君主」である以上、戦争を遂行した「軍国主義者」と天皇の間には一線が引かれ、国民の蒙ったあらゆる戦争被害に対する責任は「軍国主義者」のものとなり、「立憲君主」である天皇の責任を問う必要からも逃れられるのである。

 

 

 しかし、かつての「国体明徴に関する政府声明」を読めば、政府自身が「君臨すれども統治せず」的な、「立憲君主」としての天皇像を明確に否定していた事実が理解出来るだろう。

 そこでは、天皇の地位を立憲君主「的」に解釈することで、大日本帝國憲法下の国家運営の実質的指針として機能しつつあった美濃部達吉の「天皇機関説」が、

 

  即ち大日本帝国統治の大権は厳として天皇に存すること明かなり。もしそれ統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すがごときは、これ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり。近時憲法学説を繞り国体の本義に関連して兎角の論議を見るに至れるは寔に遺憾に堪へず。

  抑々我が国体における統治権の主体が天皇にましますことは我が国体の本義にして帝国臣民の絶対不動の信念なり。帝国憲法の上諭並条章の精神亦姦に存するものと拝察す。しかるに漫りに外国の事例学説を援いて我が国体に擬し、統治権の主体は天皇にましまずして国家なりとし、天皇は国家の機関なりとなすが如き所謂天皇機関説は、神聖なる我が国体に悖り、その本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除せざるべからず。

 

…等の言葉をもって否定されていたのであった。

 

 

 

 
 

 

〔これまでの記事〕

日本国の象徴と、國體の本義 1
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-07cb.html

日本国の象徴と、國體の本義 2
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-51d5.html

日本国の象徴と、國體の本義 3
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-f855.html

日本国の象徴と、國體の本義 4
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-cd93.html

日本国の象徴と、國體の本義 5
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-3ac5.html

日本国の象徴と、國體の本義 6
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-75b6.html

日本国の象徴と、國體の本義 7
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-6c1f.html

日本国の象徴と、國體の本義 8
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-12d5.html

日本国の象徴と、國體の本義 9
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-9871.html

日本国の象徴と、國體の本義 10
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-8834.html

日本国の象徴と、國體の本義 11
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-c22d.html

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/10/18 22:42 → http://www.freeml.com/bl/316274/149711/

 

 

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2009年12月20日 (日)

日本国の象徴と、國體の本義 11

 

 

  我が神代に於ける現国(あきつくに)即ち葦原中国の統制の原理は、記紀に見える民族意識の内に、最も厳格に又最も明確に現れてゐる。その統制の原理として最も重大な点は、唯一つ皇室の尊厳といふことに帰着するのであつて、これは総べての生活の根底たり中枢たるものである。故に皇室の尊厳を犯すことは国民生活を根底から破壊することである。

…というのは、『新制 女子国語読本 巻九』(昭和十二年 東京開成館)に収録されている、田中義能の「世界無比の我が國性」と題された文章の冒頭である。国語教科書であって、歴史教科書ではないにしても、「世界無比の我が國性」の根拠が神話の記述に求められていることは確認出来るだろう。

 この冒頭に始まる文章は、

  神代にあつては、畏くも天照大神が当時の生活の中心として仰がれ給ひ、国民のあらゆる者は悉くこれを崇敬し奉つて、誰一人としてその高大な権威を認識し奉らない者はない実情であった。随つて御降誕の初からして、「光華明彩、六合の内に照徹せり。」と伝はり、最も優れた世界の高天原に君臨せられ統治あらせられたと記されている。故に一朝素戔嗚尊の如き神があつて、その尊厳を犯し奉られるや、八百万神は、一斉に立つて、天照大神の御為に百万奉仕し、その不祥神を排斥することに全力を尽くされたのである。かくして皇祖神である天照大神の御尊厳は、如何なる僻遠の地方にも早くから徹底してゐたのであつて、その証拠は種々の記述に於て見出される。素戔嗚尊が高天原から追われて出雲の国に降りられた時、足名椎・手名椎の二神は容易に尊に信服しなかつた。恐らく当時素戔嗚尊は多数の部下を率ゐ、権威を以て足名椎に臨まれたらうと察せられるが、而もその地方の有力者であつた足名椎も尊を知らなかつたとみえて、「恐(かしこ)けれども御名を覚(し)らず。」と、躊躇の色を示しているのである。然るに素戔嗚尊がこれに対して最も厳かな口調で、「吾(あ)は天照大神の伊呂勢(いろせ)なり。」と、その兄弟神たること答へさせ給ふや、「然坐(しかま)さばかしこし。」と言下に信服の旨を言上してゐるのである。この一事によつて見ても、天照大神の尊厳が、全国の如何なる地にも及んでゐたことが十分に理解されるのである。勿論今日の如き世の中ならば、新聞紙や雑誌などによつて、統べての事が容易に全国に普及するのは怪しむを要しないことであるが、何等の交通施設もなく報道機関もなかつた当時に於て、なほ天照大神の尊厳が徹底的に普く認識されてゐたことは、尋常ではないことと言はねばならぬ。
  この時に素戔嗚尊は八岐大蛇を平げて、その尾の中から霊剣を得られたので、「これは以て私に用ふべからず。と、わざわざ特使を出して、これを御姉天照大神に献上されたと伝へられてゐる。更にその御子の大国主命は、父尊から、「速に天下を平定して大国主命となり、また宇都志国玉神となつて国土を経営せよ。」との命を受けて、努力奮闘、遂に赫々たる功勲を立てられ、百姓はその恩沢を被つて、皆その徳を仰いだといふほどの大勢力者であつたにも拘らず、天つ神からこの国土を皇孫に奉れとの命を受けられるや、何等の抗争もなしにこれを献上された上、自ら八十万神を率ゐて、永く皇孫のために奉護を盟はれたのである。此等の事は、或は一種の神話に過ぎないと見る人があるかも知れないが、上代の伝説によれば、これは確な事実である。そしてこの事実は皇室の尊厳がただ漫然と全国的に認められていたといふのに止らず、如何に深く一般国民の脳裏に浸透してゐたかといふことを物語るものである。

…と続くのである。

 ここでは、神話の内容が歴史的事実として主張されることの実際に触れて欲しい。1937年の大日本帝國の教科書には、ファンタジーとしてではなく大真面目に、このような文章が収録されているのである。

 

 ここまで読めば、冒頭の文中の、

  皇室の尊厳を犯すことは国民生活を根底から破壊することである。

…という結語は、神話=歴史的事実という認識に起源を持つものであったことが、あらためて、理解出来るであろう。

 
 
 

 もちろん、そのような認識は教科書だけの問題ではない。

 

 政治の中枢である内閣までがそのような認識を強調して見せていたのが、昭和になっての大日本帝國の現実の姿なのである。

  恭しく惟るに、我が国体は天孫降臨の際下し賜へる御神勅に依り昭示せらるる所にして、万世一系の天皇国を統治し給ひ、宝祚の隆は天地と倶に窮なし。されば憲法発布の御上諭に国家統治の大権は朕が之を祖宗に承けて之を子孫に伝ふる所なりと宣ひ、憲法第一条には、大日本帝国は万世一系の天皇之を統治すと明示し給ふ。即ち大日本帝国統治の大権は厳として天皇に存すること明かなり。もしそれ統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すがごときは、これ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり。近時憲法学説を繞り国体の本義に関連して兎角の論議を見るに至れるは寔に遺憾に堪へず。政府はいよいよ国体の明徴に力を効し、その精華を発揚せんことを期す。乃千茲に意の在る所を述べて広く各方面の協力を希望す。
     (「国体明徴に関する政府声明」1935年8月3日  第1次国体明徴声明)

  暴に政府は国体の本義に間し所信を披涯し以って国民の響ふ所を明にしいよいよその精華を発揚せんことを期したり。抑々我が国体における統治権の主体が天皇にましますことは我が国体の本義にして帝国臣民の絶対不動の信念なり。帝国憲法の上諭並条章の精神亦姦に存するものと拝察す。しかるに漫りに外国の事例学説を援いて我が国体に擬し、統治権の主体は天皇にましまずして国家なりとし、天皇は国家の機関なりとなすが如き所謂天皇機関説は、神聖なる我が国体に悖り、その本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除せざるべからず。政教其他百般の事項総て万邦無比なる我が国体の本義を基とし、その真髄を顕揚するを要す。政府は右の信念に基き姦に重ねて意あるところを間明し、以って国体観念いよいよ明徴ならしめ、英美蹟を収むる為全幅のカを効さんことを期す。
     (「国体明徴に関する政府声明」1935年10月15日  第2次国体明徴声明)

 昭和10年の岡田内閣による「国体明徴声明」とは、つまり、神話の記述を根拠とした、立憲君主としての天皇の地位の否定に他ならないのである。

 
 
 
 
 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/06/16 22:18 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/107300

 

 

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日本国の象徴と、國體の本義 10

 

 

  明治期に採択された旧憲法の特色の第一は天皇中心主義、天皇第一主義であり、国民は第二義的であり、第二の特色は天皇と国家は同一視され、天皇への忠義は国家への責任を果たすことと一つだとみなされる。第三の特色は、天皇と国民は一つの家族であり、国家は大家族と考えられ、天皇は家長とみなされる。第四に、天皇と臣民の間には明確な区別があり、天皇は絶対権を持ち、臣民は無条件的服従をなすことになっている。第五に、国体と政体とは別であり、政体は変わっても国体は不変であり、皇室が永久に支配する。こうした諸要素の総合によって世界征服の妄想、いわゆる八紘一宇の思想が唱えられた。従って、日本の中心的な伝統思想を根絶するためには、現人神的天皇は廃止すべきであり、天皇神聖の思想は打破されるべきである。
     (香港紙「華僑日報」1945年10月16日付社説「論日本修改憲法」)

 

 

 

     一六 国体の精神          辻 善之助
  そもそもわが日本帝国の国体は天照大神の神勅を基として立てられて居る。この神勅は古くからわが国民の理想として立てて居るもので、その理想は奈良時代に編纂せられた「日本書紀」の中に書き現はされて居る。然しながらそれは理想であり、主義であるのであつて、その理想を実現するために長い間の年所を経て、その間自ら消長あるを免れないと思ふ。即ち国体観念の発達の間にも尚外国思想といふものが輸入せられ、その思想の影響を受けて種種と色彩の変って居る時がある。然しながらその根本主義とふものは少しも変らない。そこで日本歴史の大体に就いて見ると、国体観念の発達には三つの大きな段階がある。
  日本の国の初めに於ては、皇室を中心として氏族制度を以て国を建てて居つた。即ち建国の精神といふものは最もよく氏族制度に現はれて居る。国家を以て父子的の一大団結として、皇室を以てその大きな家族の家長と仰いで、皇室を中心にして、多くの氏族が世襲の職によつて仕へて居る。血族団体で共通の思想感情を有する民族が、同一祖先の観念、即ち共同の氏神を有つて居るといふ観念で、皇室を中心に仰いで職業に従事して居ることである。…
 …明治の初め、五箇条の御誓文によつて、輿論政治の基礎を定められ、次いで立憲政治を始め、議会は開かれるといふことになり、これが第三段階となつた訳である。立憲政治は固より西洋思想を取り入れたものであり、西洋思想の影響を受けたものであるけれども、国体の根本精神は依然として不変である。かやうに国体験念の発達に種々の変遷はあつたけれども、その主義といふものは少しも変りはない。而も年を経ると共に益々磨かれて来たのである。(皇室と日本精神)
          (『女子 皇国新読本 巻七』 帝國書院 昭和十二年   旧字体はあらためた)

 
 
 

 「華僑日報」の社説と、『女子 皇国新読本』の「国体の精神」を読み比べると、その「国体」イメージには違いがないことが理解出来るだろう。

  国体と政体とは別であり、政体は変わっても国体は不変であり、皇室が永久に支配する。

…と考えることを問題視するか、

  国体の根本精神は依然として不変である。かやうに国体験念の発達に種々の変遷はあつたけれども、その主義といふものは少しも変りはない。而も年を経ると共に益々磨かれて来たのである。

…からスバラシイと礼賛するのか。それだけが異なる点だ。

 

 「華僑日報」が問題として指摘する点は、そのすべてが『女子 皇国新読本』では礼賛の対象となる。たまたま手元に『女子 皇国新読本』があったので、そこから引用してみたわけだが、例の『国体の本義』の記述もまさに「華僑日報」の認識と裏表の関係にあるものと言える。

 
 
 

  明治期に採択された旧憲法の特色の第一は天皇中心主義、天皇第一主義であり、国民は第二義的であり、第二の特色は天皇と国家は同一視され、天皇への忠義は国家への責任を果たすことと一つだとみなされる。
(だからスバラシイと考えるのが『国体の本義』で、だから問題なのだというのが「華僑日報」)

 第三の特色は、天皇と国民は一つの家族であり、国家は大家族と考えられ、天皇は家長とみなされる。
(だからスバラシイと考えるのが『国体の本義』で、だから問題なのだというのが「華僑日報」)

 第四に、天皇と臣民の間には明確な区別があり、天皇は絶対権を持ち、臣民は無条件的服従をなすことになっている。
(だからスバラシイと考えるのが『国体の本義』で、だから問題なのだというのが「華僑日報」)

 第五に、国体と政体とは別であり、政体は変わっても国体は不変であり、皇室が永久に支配する。
(だからスバラシイと考えるのが『国体の本義』で、だから問題なのだというのが「華僑日報」)

 こうした諸要素の総合によって世界征服の妄想、いわゆる八紘一宇の思想が唱えられた。
(それを国体の顕現と考えるのが『国体の本義』で、それを「妄想」と評価するのが「華僑日報」)

 従って、日本の中心的な伝統思想を根絶するためには、現人神的天皇は廃止すべきであり、天皇神聖の思想は打破されるべきである。
(と考えることは決してしないのが『国体の本義』で、そのように結論するのが「華僑日報」)

 
 
 

 要するに、その「国体」が遂行した戦争の被害者の視点によって書かれているのが「華僑日報」なのであり、その戦争を正当化する主体の視点から書かれているのが『国体の本義』なのである。

 礼賛されるべき点と、批判されるべき点が、ここまで一致していることも興味深いところではないだろうか。

 
 
 
 
 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/06/15 23:10 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/107216

 

 

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日本国の象徴と、國體の本義 9

 

 「ポツダム宣言」には、

日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ (第6項)

吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ (第10項)

そして、

前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ (第12項)

…という文言がある。

 
 
 

 「戦争犯罪人」に天皇も含まれるのかどうかという問題と、「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思」がどのような戦後体制を選択するのかという問題が、ここでは焦点となる。

 前者は連合国の意思の問題であるし、後者は日本国民の意思の所在の問題である。

 後者については、言うまでもないだろうが、敗戦後の日本における天皇の地位が問題となっているわけだ。

 
 
 

 1945年(昭和20年)6月29日付のワシントン・ポスト紙は、ギャラップ世論調査による、戦後の天皇の取り扱いに関する米国の世論として、

 処刑                     33%
 裁判で決定                17%
 終身刑                   11%
 追放                      9%
 軍閥の道具だから何もしない       4%
 日本を動かすパペットに利用せよ    3%
 雑、回答なし                23%

…という数字を掲載している。

 戦争犯罪人としての天皇認識を示す、処刑+裁判で決定+終身刑+追放のトータルは70%という圧倒的な数字となっている。

 まだ戦争が続く中での米国の世論は、天皇を裁かれるべき戦争犯罪人の一人として評価していたことになる。

 
 

 一方で、敗戦後の日本国民の「自由ニ表明セル意思」は、

 天皇制支持     95%
 天皇制否定      5%
          (「読売報知新聞」 1945年12月9日)

…というものであった。1946年1月23日付の「朝日新聞」の世論調査報道の見出しは「天皇は政治圏外に―支持が圧倒的多数九二対八%の比率」となっている。圧倒的な、大権を保有しない天皇(天皇制)への支持である。

 
 

 1945年10月16日の香港紙「華僑日報」の社説「論日本修改憲法」は、

  明治期に採択された旧憲法の特色の第一は天皇中心主義、天皇第一主義であり、国民は第二義的であり、第二の特色は天皇と国家は同一視され、天皇への忠義は国家への責任を果たすことと一つだとみなされる。第三の特色は、天皇と国民は一つの家族であり、国家は大家族と考えられ、天皇は家長とみなされる。第四に、天皇と臣民の間には明確な区別があり、天皇は絶対権を持ち、臣民は無条件的服従をなすことになっている。第五に、国体と政体とは別であり、政体は変わっても国体は不変であり、皇室が永久に支配する。こうした諸要素の総合によって世界征服の妄想、いわゆる八紘一宇の思想が唱えられた。従って、日本の中心的な伝統思想を根絶するためには、現人神的天皇は廃止すべきであり、天皇神聖の思想は打破されるべきである。

…と、大日本帝國憲法下の天皇の姿を描いていた。

 
 
 

 いずれにしても、「日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力」と天皇は分離可能なのかどうか、つまり大東亜戦争遂行と天皇の意思は分離可能なのかどうかが問題の焦点となるわけだ。

 これは、個人としての昭和天皇の意思の所在の問題であると共に、国体あるいは天皇制という制度の問題でもあることになる。

 
 
 
 
 
 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/06/11 22:44 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/106828

 

 

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