カテゴリー「神国日本」の記事

2009年8月15日 (土)

国体の精華としての、特攻、玉砕、本土決戦、そして特殊慰安施設協会

 

 昭和20年の8月14日、まだ戦争は続いていた。

 小田原がB-29の空襲を受けるのは、8月15日へと日付が変るころだった。

 

 

十四日の午後、千葉から兄上がいらっしゃった。無条件降伏のことはご存じなく、火事見舞と、本土決戦をひかえて、最後のつもりでいらっしゃったのだった。その夜はまだ空襲があって、小田原が燃えた。森の向こうに赤い火の手が上がり、それは、絵のように美しかった。
     太田静子 『斜陽日記』 (小学館文庫 1998)

 

 まさに、昭和20年8月14日の夜更けに、「小田原が燃えた」のである。

 太田静子自身は、8月12日に訪れた加来氏から、「無条件降伏に決まったことを教え」られていたのだが、そのこと(御前会議でのポツダム宣言受諾決定)を知らぬ「兄上」にとっては、戦争はまだまだ終わらず「本土決戦」へと続くものだったわけである。

 「兄上」同様、多くの日本人にとっては、「本土決戦」という事態がやがて待ち受けている。それが、昭和20年8月14日夜、大日本帝國臣民にとっての平均的未来像であったはずである。

 

 

 

 

 本土決戦?

 何のために??

 国体護持のために!!!

 

 戦争における敗北の経験は、それまでの「近代」の日本人にはなかったということを、ここでは思い出しておくべきかも知れない。

 単に未経験な事態であるばかりではなく、神国日本の国体の精華である皇軍は不敗の存在なのであり、勝たない(勝てない、ではなく)戦争など想像のつくものではなかったように見える。戦争に、敗北という終了があることに考えが及ばない状態、とでも言えばよいだろうか?

 昭和という時代は長いが、後に「戦前・戦中」と呼ばれることになる時期には、軍事的手段による大日本帝國の支配領域の拡大への努力が日常化し、それは常に成功するものと想定されていたのである。

 

 現実には、昭和12年7月7日以来の「支那事変」では、見かけ上の支配領域の拡大の一方で、期待されていた中華民国国民政府の降伏による戦争状態(あくまでも「事変」であって、国際法上の「戦争」ではなかったことになってはいるのだが)の終了に至ることはなく、つまり大日本帝國の勝利として戦争状態の終了を迎えることは出来なかったのである。

 支那(中華民国国民政府=中国)が負けを表明しない限り、大日本帝國としての勝利はないのである。しかし、当初の「対支一撃論」は根拠のない楽観であったし、「首都南京占領」が中国国民政府の降伏に結びつくこともなかった(国土は広く新たな首都は重慶とされたが、南京まではたどり着けた皇軍にも、重慶は遠すぎた)。

 しかし、そのことを大日本帝國から見れば、大日本帝國も決して負けているわけではないのであって、つまり、いつまで経っても勝てないという状態が続いていただけなのだ、ということになる。

 少なくとも、個々の戦闘には勝利し、大日本帝國は、その地図上の支配領域の拡大に成功したことも確かなのではあるが、安定した支配権力を確立することも最後まで出来なかったのである。

 広大な国土と、無尽蔵であるがごとき中国(あるいは支那)の人的資源を前に、戦争状態はいつまでも続くものに見えるようになった。あるいは「行き詰まり」状態として感じられるようになった。

 

 その「行き詰まり」の打開策として選択されたのが、米英との戦争なのである。

 

 しかし、言うまでもないことであると思われるのだが、対米戦争とは、米国の広大な国土と人的資源の大きさに加え、すべてにおいて巨大なその資本力と資源量と工業生産力との戦争となることを意味するのである。

 中国大陸における広大な国土と無尽蔵な人的資源を相手にしての、勝利という結末を見ることの出来ぬ戦争状態の継続の打開策が、米国との戦争であったということなのである。

 中国における戦争状態を勝利をもって終えることの出来ぬ大日本帝國が、中国大陸における戦争状態の継続に加え、新たに対米英戦争を開始してしまったわけなのだ。

 勝てるわけがない、と、現在の冷静な判断からは言うことが出来る。

 

 

 資源量の絶対的不足、工業力の絶対的劣位、その上で「特攻」という手法の採用による人的資源(及び工業生産物)の回復不可能な浪費・消耗にまで至るのが、対米英戦争開始後の大日本帝國なのである。

 しかし、負けるはずがないというのが、「戦前・戦中」と呼ばれる時代の(国体の精華としての)日本人の感覚であった(あるいは想像力の限界であった)。日本は「神国」なのであるから(20世紀の日本人は、実際に、そのように信じていたのである)、負けるはずはないのである。

 

 

 自ら策定した「絶対国防圏」を侵された段階で、戦争を勝利をもって終了する可能性の喪失が判断されるべきであるし、その時点で、国家目標は、戦争継続から戦争終結への努力へとシフトされるべきであった、と現在の冷静な視点からは言うことが出来る。

 

 しかし、玉砕、特攻、そして本土決戦という選択肢以外にないという視野狭窄状態が、大日本帝國の国体の精華として顕現してしまったのが、「戦前・戦中」と後に呼ばれることになる昭和の一時期のこの国の現実であったのである。

 本土決戦もまた、玉砕と特攻に終始することになったはずである。「負けたと言わねば負けたことにはならず、負けたと思った方が負けなのである」とは当時の新聞紙上にありふれた言い回しであった。しかし、玉砕と特攻、あるいは特攻と玉砕の組み合わせの果てにあるのは、大日本帝國の臣民の絶滅という事態である。

 絶対国防圏喪失後の大日本帝國の戦争継続理由は「国体の護持」であったわけなのだが、その結末が大日本帝國の臣民の絶滅となることは、頭を冷やせば誰にでもわかる理屈であろう。国民の絶滅によって、「護持」され得る何かがあるのだろうか?

 

 

 その理屈が理解出来る程度に頭を冷やす努力もしなかった結果、昭和20年8月15日まで日本国民にとっての戦争は続き、未明の空襲により小田原市民1,500人以上が罹災し、30~50人がが死亡することになったのである(正確な被害状況は今に至るも不明らしい)。

 

 

 

 ところで、昭和20年8月15日以前の大日本帝國には、戦争における敗北の経験はなかった。つまり、それまでは、戦争を勝利という状態でしか経験したことがなかったのである(個々の戦闘における勝利の集積が戦争における勝利となるわけだ)。

 その日本人にとって戦争における敗北が何を意味していたのかを考える上で、興味深い歴史的事実がある。

 あの「特殊慰安施設協会(RAA)」の存在を思い出すことが出来るだろうか?

 「特殊慰安施設協会」設立の経緯は、それまで自身の「戦争の敗北」経験を持たなかった日本人の想像力が描いた「敗北後の国民」が、敵兵に陵辱される婦女子の姿でイメージされていたことを示しているのである。

 戦闘の勝利が、かつてのこの国においては、戦時強姦の実行(そこでは実行する側であったことに留意)としてイメージされていたことを、あの「特殊慰安施設協会」設立の歴史が教えてくれるのである。

 「特殊慰安施設協会」の存在を、あらためて、わが国体の精華として深く認識に留めておくべきであろう。

  

 

【小田原空襲】
 → http://www.asahi-net.or.jp/~UN3k-MN/kusyu-odawara.htm
【対支一撃論】
 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E6%94%AF%E4%B8%80%E6%92%83%E8%AB%96
【神国日本】
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-45c4.html
【特殊慰安施設協会】
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/cat33396926/index.html



 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/14 21:24 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113133

 

 

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2009年5月 1日 (金)

神の国の戦争

 

 「広島」の「リトル・ボーイ」「長崎」の「ファットマン」どちらも

 侮蔑と皮肉と悪意に満ちた「ジェノサイド」の話になるが耐え難いか。

 少なくとも「現場」に居合わせた人々にとっては、許せぬ冗談だろう。

 要するに「チビ」と「デブ」と云う米国流ジョークを、ジョークに

 させ難い空気があるんだろう。井伏鱒二の小説「黒い雨」がそれだ。

 そんな事を許した「神」への「怨嗟の声」が、延々と語り継がれる。

http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/102657 「Comment 20」及び「Comment 21」参照)

 

…という言葉を読んで、そう言えば、この日本は「神国」だった、「神の国」だったんだ、ということを思い起こさせられた。

 

 そこから「神の国の軍隊」という一文(http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-45c4.html)が生まれた。

 

 神の国の神にとって、リトル・ボーイとファット・マンはどのような存在なのだろうか?というようなことを考える。

 

 神の国の神は、リトル・ボーイやファット・マンを望んだのか望まなかったのか?

 

 そんなことを考えてみようと書き始めたのが「神の国の軍隊」であった。明らかになったことは、リトル・ボーイやファット・マンによる殺戮を経験する以前に、大日本帝國の軍事・政治指導者が、若い兵士に自殺攻撃を求めていたという事実であった。

 神の国の神は、そのような大日本帝國の軍事・政治指導者達の行為を容認するのであろうか?

 

 

 

 日本が神国であるのは、北畠親房によれば、

大日本国は神国なり。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝へ給ふ。我国のみこの事あり。異朝にはそのたぐひなし。このゆえに神国と云ふなり。
 

からであった。ここでは、天皇の存在が、「神国」を支えているのである。

 

 

 あの大東亜戦争では、まさに、その天皇の存在が脅かされてしまったのである。敗戦必至となった戦局の悪化が意味するところは、敗戦後の天皇の地位の危機、、日本における天皇という存在の危機であった。つまり、日本が「神国」であることの危機であった、ということになる。

 大東亜共栄圏の確立という名分で始められた戦争は、米英軍による反攻の結果、戦争当初の占領地域の喪失の果てに、開戦前の国境線まで侵される事態に至ってしまう。本土空襲が日常化し、硫黄島、そして沖縄に米軍が上陸する。

 戦争の継続目的から、大東亜共栄圏の確立という名分が失われてしまって久しかったのが、昭和20年の春という段階であった(あの阿南陸相による「決戦訓」は、そのような状況下で書かれたものだ)。

 戦争の継続目的は、「国体の護持」、すなわち敗戦後の天皇の地位の保証の確保に収斂していくことになる。

 

 大日本帝國の敗戦は、帝國政府の「ポツダム宣言の受諾」により確定したわけだが、その決定は、連合国による「国体の護持の保障」への期待の上に成立したものであった。

 

 「国体の護持の保障の確保」のために、戦争終結の決断を先延ばしにしていく過程で自殺攻撃を強いられた(志願制というタテマエではあったが)のが、陸海軍特別攻撃隊の隊員達であった。

 神国の神は、そのような犠牲を望んでいたのだろうか?

 そもそも、大東亜戦争は、神国の神の望むものであったのだろうか?

 

 

 

 神国の神が大東亜戦争を望み、特別攻撃隊の犠牲を求めていたのだとすれば、リトル・ボーイやファット・マンに至る歴史も、神は自ら招いたこととして受け入れる(そして反省する)はずである。「自己責任」とは、そのようなことなのである。

 

 しかし、大東亜戦争が神国の神の望むところでなかったとすればどうだろうか?

 特別攻撃隊員の犠牲や、かつて地上になかった惨状の中で失われた広島・長崎市民の命に対し、その責任を負うべき者は誰なのだろうか?

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/05/01 22:37 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/102842

 

 

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神の国の軍隊

 

大日本国は神国なり。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝へ給ふ。我国のみこの事あり。異朝にはそのたぐひなし。このゆえに神国と云ふなり。

 

     北畠親房 『神皇正統記』

 
 

…ということなんだな。

 
 

 神の国の住人なのである、この私たちは。

 あまり実感はないかも知れないが、20世紀の前半の日本では常識だったのである。人間が空を飛ぶ道具で戦争をする時代に、しかし、日本は神国でもあったのだ。

 

 
 
 

 あの大東亜戦争は、大日本帝國臣民に向けられた、

天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有眾ニ示ス

という言葉で始まり、

皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有眾ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス

という言葉で終わる昭和天皇の言葉で開始されたのであった。 

 

 まさに、

 大日本国は神国なり。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝へ給ふ。我国のみこの事あり。異朝にはそのたぐひなし。このゆえに神国と云ふなり。

という認識が、国民にとっての現実だったわけだ。

 

 

 

 遂に来た一億待望の一瞬 撃滅へ、無二の関頭

 見よ敵補給限界点割る

 神機到る! 未曾有の戦果の下敵撃滅の神機到る! 陸、海、空の全空間を埋め尽くして死闘相次ぐ沖縄の決戦場、わが特攻隊の猛攻により敵艦船の数は特に著しく減少するが、必死の補給に狂奔する敵はたちまちこれを補充し、否前を凌駕する艦船数を以てすることさ再三であった、然しながら決戦的様相の最高潮に達するやさすがに物量を誇るアメリカの補給もわが必死必中の特攻隊を以てする連日連夜の猛攻の前には漸く頂点をつきここ一両日来全般的には著しくその数を減じ、補給の速度も漸次緩慢化するに至った

     『読売新聞』 昭和20年4月19日

 

 これが当時の新聞紙面である。

 

 「わが特攻隊の猛攻により」とは、つまり、称賛される戦果の陰には、機体の喪失と共にパイロットの死があったことを意味する。

 「神機」とは、すなわち操縦者の積極的な死への期待に支えられたものだった。

 陸海軍の特別攻撃隊にはそれぞれ名称があったのだが、現代社会で自爆攻撃の代名詞となった「カミカゼ」もまた、その特別攻撃隊の一つであった。「カミカゼ」すなわち「神風」である(「しんぷう」と訓むのが本来だったが、当時のニュース映画で既に「かみかぜ」として紹介されていたらしい)。

 ここでは、敵に対する神の風(鎌倉時代の故事のように)となることが、自殺攻撃を志願したパイロットに期待されていた、ということになるのだろう。

 

 

 決 戦 訓

 仇敵撃滅の神機に臨み、特に皇軍将兵に訓ふる所左の如し
一、皇軍将兵は神勅を奉戴し、愈々聖諭の遵守に邁進すべし。
 聖諭の遵守は皇国軍人の生命なり。
 神州不滅の信念に徹し、日夜、聖諭を奉誦して之が服行に精魂を尽くすべし。必勝の根基茲に存す。
二、皇軍将兵は皇土を死守すべし。
 皇土は、天皇在しまし、神霊鎮まり給ふの地なり。誓って外夷の侵襲を撃攘し、斃るるも尚魂魄を留めて之を守護すべし。
三、皇軍将兵は待つ有るを恃むべし。
 備有る者は必ず勝つ。
 必死の訓練を積み、不抜の城塁を築き、闘魂勃々以て滅敵必勝の備を完うすべし。
四、皇軍将兵は体当り精神に徹すべし。
 悠久の大義に生くるは皇国武人の伝統なり。
 挙軍体当り精神に徹し、必死敢闘、皇土を侵犯する者悉く之を殺戮し、一人の生還無からしむべし。
五、皇軍将兵は一億戦友の先駆たるべし。
 一億同胞は総て是皇国護持の戦友なり。
 至厳なる軍紀の下、戦友の情誼に生き、皇軍の真姿を顕現して率先護国の大任を完うすべし。
右の五訓、皇軍将兵は須く是を守し、速かに仇敵を撃滅して宸襟を安んじ奉るべし。

     『読売新聞』 昭和20年4月21日

 

 阿南陸軍大臣の発表した「決戦訓」がこれである。

 

 

 神の国の将兵の体当り精神への期待、つまり兵士への自殺攻撃敢行への期待が込められた大日本帝國陸軍最高首脳の言葉、ということになる。

 近代総力戦の時代、20世紀の大日本帝國の実話である。

 

 

 

 

 しかし、「神国」の神は、本当にそんなことを望んでいたのだろうか?

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/04/30 22:38 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/102780

 

 

   

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2008年11月25日 (火)

亡国の礎 3 万邦無比の我が国体 (現代史のトラウマ 19)

 

 「亡国」の姿、続きます。


…、民族の力量はこれだけで優劣は論ぜられない。すなはち民族の力はあくまで個々の力の総合結集でなければならない。この意味において、民族の各構成員が同一目標に向つて強調一致邁進する民族精神が重要な要素となるのである、これによつて民族の量と質は初めて活動体としての生命を与へられ、国家としての総力を発揮するのである。
日本はこの点に関しては皇室を上にいただき、義は君臣、情は父子の強固なる団結力と八紘一宇の聖業達成の大目標とが厳存して万邦無比である。

 昭和19年(1944年)7月2日の『読売報知』紙上の文章です。
 筆者の林春雄は、続けて、

しかるに米英等の民族精神は享楽主義をもととした個人主義である。…
…個人主義が骨の髄までしみこんでゐて、この思想の上に社会制度が強固に根を下ろしてしまつた…
 
と書き、

かくの如く米英等は個人中心、利己主義であるから強調一致の精神において破綻を来たし易い。国家の目的といへども、己が利害と一致しなければ反対の方向に走る危険は多分にあるのである。この点滅私奉公、至誠一貫の日本民族の団結とは雲泥の相違がある。

と主張しています。医学博士にして軍事保護院顧問の帝大名誉教授が、新聞紙上に発表した文章です。

 東條英機首相の下、言論統制下の新聞ですから、一般的な公的認識の反映された文章として理解出来ます。

 実際、対米英開戦当初から、「個人主義」あるいは「享楽主義」の米英への、「万邦無比の国体」とその精神の優越性は、一種の「常識」となっていました。
 今、手元に開戦当初の適当な文書がないので引用出来ないのが残念ですが、いずれにしても、上記の文章は、昭和19年サイパン陥落を目前にして考え出されたレトリックではなく、開戦当初から、あるいは開戦に至る決断を支えていた認識の延長として書かれているものであるところに注目する必要があります。

 支那人のナショナリズムに対する想像力を欠いていたように、敵国としてしまった米英人のナショナリズムと、その根底にある個人主義への無理解がそこにあったということです。
 贅沢に慣れた「享楽的な」米国人というイメージ。過酷な状況におかれれば、すぐに音を上げるはずだ、という思い込み。
 ピューリタンの伝統、過酷な開拓生活を経て来たその歴史への想像力の欠如。

 『国体の本義』に見出された「個人主義」への排撃の延長で、自らに都合よく積み重ねられたイメージの上に、対米英開戦へと導かれる雰囲気が醸成されたわけです。『国体の本義』自体が、「国体明徴」という時代精神の上に書かれたものでした。ナショナリズムの基盤を「国体」の上に置き、そこからの逸脱を許さぬという発想が、国家の行政に浸透し、言論の抑圧の上に政治的決定が行われるようになっていきます。

歴代の天皇が臣民を哀れみ給ふことは、恰も親が子に対するが如く、又国民が天皇を敬慕し奉ることも、恰も子が親に対するが如く、君臣の関係が、その心持に於て、親子間の恩愛と少しも変わらないのが、我が国体の事実であり、又将来に向つての理想である。

 昭和12年(1937年)刊の『新制 女子国語読本 巻九』にある「忠孝と我が国体」という文章です。

 大東亜戦争の開戦の背景には、「国体」の個人主義への優越性という認識がありました。しかし、その結果、国家は敗北し、200万人を超える英霊が新たに靖国神社に祀られることとなりました。「万古不易の国体」は「個人主義」に敗北したのです。
 「義は君臣」、「情は父子」。しかし、私には、昭和天皇が200万人の国民(一般市民を加えれば死者は300万人を超えます)の死を望んでいたとは思えません。「親が子に対するが如く」の情が「国体」を支えていたはずですから。

 「亡国」へと至る責任。どこにあるのでしょうか。
 「個人主義」の否定を基調とした新・教育基本法、より善い世界を築く礎となりえるのでしょうか。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/01/07 20:04 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/17688/user_id/316274

 

 

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亡国の礎 『国体の本義』 (現代史のトラウマ 17)

 

 今年の年賀状のテーマ(?)として、1937年を取り上げました。2007年から、丁度70年前になります。

 1917年、ロシア革命から90年目という年でもありますが、日本に住むものとしては、1937年が現在に直結している象徴的な年であるように思えました。

 賀状(フォトページ参照)にもあるように、1937年5月31日は、文部省による『国体の本義』の刊行日であり、7月7日は盧溝橋事件の起きた日付です。
 どちらも、1945年8月15日正午、昭和天皇自らの声による「玉音放送」を通じて、大日本帝国の敗北が国民に発表されるに至る事態への出発点にあると考えられる出来事です。すなわち、「亡国」への出発点であった、ということです。

 7月7日、盧溝橋事件に始まる中華民国国内における大日本帝国軍隊の武力行使の拡大は、やがて1941年12月8日の真珠湾攻撃に始まる対米英戦争へと発展しました。開戦後半年間の戦闘における勝利が続いた後は、敗北の連続となり、当初の占領地を失い、継戦能力の喪失による無条件降伏に等しい最期を迎える結果となったわけです。

 戦争当初の占領地域の喪失のみならず、(関東軍の謀略によるものであれ)親日国家として建国された満州国は瓦解し、明治以来獲得した台湾と朝鮮半島の植民地をも失うこととなったわけです。
 そして、大日本帝国は連合軍の占領下に置かれました。占領下の裁判で、大日本帝国の指導者は裁かれ、処刑もされました。
 「亡国」とは、そのような事態を指します。

 軍事的な出発点が、盧溝橋事件でした。それを政治がコントロール出来なかったという意味において、政治的出発点であったとも言えるでしょう。

 『国体の本義』の刊行は、精神的出発点とも呼びうるものであったと、私は、考えます。やがて来る「亡国」の精神的出発点であった、ということです。


 『国体の本義』の前文から抜書きしてみましょう。


抑々社会主義・無政府主義・共産主義等の詭激なる思想は、究極に於てはすべて西洋近代思想の根柢をなす個人主義に基づくものであつて、その発現の種々相たるに過ぎない。個人主義を本とする欧米に於ても、共産主義に対しては、さすがにこれを容れ得ずして、今やその本来の個人主義を棄てんとして、全体主義・国民主義の勃興を見、ファッショ・ナチスの台頭ともなつた。即ち個人主義の行詰りは、欧米に於ても我が国に於ても、等しく思想上・社会上の混乱と転換の時期を将来してゐるといふことが出来る、久しく個人主義の下にその社会・国家を発達せしめた欧米が、今日の行詰りを如何に打開するかの問題は暫く措き、我が国に関する限り、真に我が国独自の立場に還り、万古不易の国体を闡明し、一切の追随を排して、よく本来の姿を現前せしめ、而も固陋を棄てて益々欧米文化の摂取醇化に努め、本を立てて末を生かし、聡明にして宏量なる新日本を建設すべきである。即ち今日我が国民の思想の相克、生活の動揺、文化の混乱は、我等国民がよく西洋思想の本質を徹見すると共に、真に我が国体の本義を体得することによつてのみ解決せられる。而してこのことは、独り我が国のためのみならず、今や個人主義の行詰りに於てその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。ここに我等の重大なる世界史的使命がある。乃ち「国体の本義」を編纂して、肇国の由来を詳にし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、以て国民の自覚と努力とを促す所以である。

 前文の最後はこのような文章で終えられています。
 『国体の本義』において批判の対象となっていたのは、端的に言って、「個人主義」であった、そう述べて問題はないでしょう。
 当代の問題の起源が「個人主義の行詰り」に求められ、その克服の方途として「真に我が国独自の立場に還り、万古不易の国体を闡明すること」が示される、というわけです。

 歴史を振り返れば、形式的な愛国主義の瀰漫と、自己礼賛の繰り返しが、その後のこの国にあふれかえりました。
 しかし、最後にやって来たのは、1945年8月15日、亡国の日でした。
 米英の「個人主義」の国に、『国体の本義』の国は、敗北し去ったのです。

 そして現在、「個人主義」の否定に重点を置いたかに見える、教育基本法の「改正」が行われました。再度の亡国への出発点、私にはそのように見えます。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/01/05 22:49 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/17456/user_id/316274

 

 

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