カテゴリー「安楽死と自殺(生きるに値しない命)」の記事

2009年2月14日 (土)

続々々々々々・老眼と自己決定

 

人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

 

 

 

…という話題に、久しぶり、立ち戻る。

 

 

 

 「続々々々・老眼と自己決定」では、自殺をめぐり、

 

自殺とは、自身の生命を、自身の決定により処分可能であるという事実の上に成立する。ここにも、可能であるのかどうかと、それを権利として主張出来るのかどうかという、異なる二つの側面がある。

生命の処分権は誰のものなのか?

 

という問い方をしてみた。

 

 その上で、

 

一般的な文脈において、自己の権利として処分し得る対象は、自身の所有物として想定されているものだろう。当人の所有物に関しては、当人に処分権が属すると考えるのが、私達の生きる現代社会である。

 

という視点を設定し、その検討の後に、

 

…つまり、自身の生命は自身の所有物とは言えない。

…つまり、自身の生命の処分を自身の権利として主張することは不適切である。

 

と結論付けた。

 

 

 この論点について、今回は別の観点から論じてみたい。

 

 

 

 生命の処分権は誰のものなのか?と考えた時に、処分の対象と成り得るものと、その処分の決定権者の関係について、再度、ここでは考えてみたいのである。

 

 処分の対象物に対し、処分権保有者が処分の実行をした際に生ずる変化に着目しよう。

 処分=破棄と考えた場合、処分実行後には処分対象は破棄され、その存在を失う。しかし、処分権保有者=処分実行者の存在はそのまま残る。

 そこに、所有関係に基づく「処分」を特徴付ける性格を見出すことが出来るだろう。所有物の処分後にも、その所有者の存在自体は、そこにそのまま残るのである。もちろん、そこに残されるのは、かつての所有者としてという意味における存在であり、既に破棄された物件の所有者ではないのであるが、その人物の生命は維持されているのである。

 

 それに対し、「自殺=自身の生命の処分・破棄」と考えてみよう。自分の生命が自身の所有物であるならば、その処分・破棄後にも、自分自身が生き続けている必要がある。もちろん、自殺の意味するのは、自身の生命の抹消であり、処分実行後には、自身の生命の所有者であったはずの自分自身の存在は失われてしまうことになる。

 つまり、結論として、自分自身の生命に関し、それを自身の所有対象として考え、自分自身にその処分権が属すると考えることは誤りである、という認識が導き出されるだろう。

 

 

 

 自殺は行為として可能であるが、やはり、それを当人の「権利」として主張し得るような性格のものとして考えることは妥当ではない。

 

 

 

 

 しかし…

 自身にとっての耐え難い苦痛が存在し、その上で、自身の生の存続を望まぬこと。

 それが自殺の理由であり、安楽死(「尊厳死」と呼ぶにせよ)を望む理由として考えられている事態であろう。その当人に対し、苦痛ある生の存続を強要する権利を持つ者の存在を、私は、想定出来ない。

 

 

 

人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

 

生命の処分権は誰のものなのか?

 

 

 

 もう少し、考え続けてみたい。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/02/14 23:40→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/95153

 

 

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2009年2月 4日 (水)

続々々々々・老眼と自己決定

 

 人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

 
 

…という問いを重ねて、ついにタイトルに「続々々々々」と「々」が4つも並ぶところまで来てしまった。

 しかし、まだ考えておくべきことはある。

 
 

 自殺、あるいは安楽死の実行を求めることに、「権利」という語を用いることの妥当性について、昨日は考えた。

 自らの意思で、自らの命を断つこと。自らの手で実行出来れば、それは自殺であるし、他者の手助け無しに実行し得ないのが安楽死である。

 そこに「権利」という語を用いることに関しての違和感と、その根底にあるであろう論理について、昨日は論じてみたわけだ。

 
 

 自殺も安楽死も、自らに対する殺人という意味を帯びてしまう行為であることを否定出来ないが、しかし、他者に対する殺人行為とは大きく異なる側面もある。殺人の対象となる他者は、その行為の被害者であり、実行者は加害者である。自殺の場合は、自らの意思に基づく自らに対する殺人行為であり、そこに被害と加害という関係性は生じ得ない。安楽死の場合も、その実行役としての他者が加害者として、安楽死の実行を希望した当人からみなされることはない。

 殺人と呼ぶことの出来る行為がそこに存在することは確かであるが、しかし、その場所には、一般的な意味において、被害者も加害者も存在しないのである。

 まずそのことを確認しておきたい。

 

 

 さて、その上で、自殺あるいは安楽死の「権利」についての考察を思い出してみよう。「権利」という語を使用して、もう一度問題を見つめておこうと思う。

 

 

 自らの意思で死を選択ようとする人物に対し、その死を禁ずる「権利」を持つ者は存在するのであろうか?

 自ら選択する死は、当人の自由な意思による選択として、尊重されるべきものではないのだろうか?

…という問いが生まれて来てしまうのである。

 
 

 苦痛でしかないと当人には思われる人生の継続を望まぬという、当人による決断を前にして、その決断を禁じ、あるいは阻止する権利は存在するのだろうか?

 
 
 

 一昨日の日記で、その夜の『クローズアップ現代』の話題を取り上げた。

 将来的な安楽死の実行(番組中では「安楽死」という語の使用は慎重に避けられていたように思うが)を希望するALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の男性である照川氏の意思に関し、

 

  照川氏の選択に対し、言葉はない。

 

  もう一度繰り返すが、照川氏の選択自体を非難する理由は、私にはない。

 

と、私は書いた。

 その背後には、先に示した問題があるのだ。自由意志による当人の選択に対し、当人自身による当人自身の人生に関する選択に対し、他人であるに過ぎない私が介入する権利などないだろう。

 
 

 しかし、現実問題として、身近な人間(多分、身近な人物でなくとも)が自殺を志そうとする場に立ち会ってしまったら、私には決してその背中を押すことは出来ないようにも思う。

 あなたが自らの意思で死ぬことは、あなたの自由に属するのかも知れないし、それを阻止する権利は私にはないのかも知れない。しかし、それならば、あなたの死を望まぬ者の存在を無視して自らの死を選択することは、決してあなたの権利ではないことの自覚を求めることも私の自由に属する事柄であろうし、あなたの自殺を阻止するのもまた私の自由に属する行為であろう。

…ということを考えてしまったりもする。

 
 
 
 
 

 人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

 
 
 
 
 

(オリジナルは、投稿日時:2009/02/04 20:11→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/94020

 

 

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2009年2月 3日 (火)

続々々々・老眼と自己決定

 

 人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

 

…という問いかけに答えること。

 

 昨日も書いたが、最優先されるべきは、当人の意思だろう。

 自分の死を自分で決定するとはどのようなことなのか?

 生物としての人間の身の上について考えれば、災害死・事故死という偶発的ケースを除外し、重篤な感染症や様々な進行性の疾患を免れることが出来たとしても、身体の老化の果てに、死は必ず向こうから訪れて来るものだ。何人も、最終的な死を免れることは出来ない。

 自身の決定により、最後に訪れる死を左右することは出来ないのである。

 つまり、自身の決定の対象となり得る死とは、生物的あるいは生理学的な過程の果ての肉体の死ではない。事故死・災害死、そして疾病による自ら望まぬ死もまた、自身による選択的決定の対象とは言えないだろう。

 事故死・災害死は、外部から強要される死であろうし、老化の果ての死は、内部崩壊の結果である。疾病による死は、両者の中間にあると言えるだろうか。そのいずれもが、自らの決定によらぬ死であることにおいては同列のものである。

 自身の決定の対象となる死とは、生物としての肉体として避けられぬ死ではなく、生物としての肉体に生の継続の可能性があるにもかかわらず、自ら選び取る死なのである。

 自殺、自死と呼ばれる死こそが、自身の決定の対象となり得る、自らの身の上に起きる死、自らの身の上に自ら起す死なのである。

 自殺という選択は、死を対象化する能力を抜きには存在し得ない。その意味で、大変に「人間的」な能力の上にのみ実現可能な、大変に「人間的」な選択だと言うことも出来るだろう。

 人間であるからこそ、自殺は可能なのである。

 

 人は望めば自殺をすることが出来るのだ。その意味で、自殺は自己決定の問題である。当人の意思に基づく自己決定は尊重されるべきだろう。

 しかし、ここで考えなくてはならないのは、当人の意思の尊重の重要性であると共に、その自殺への自己決定は、他者に対し自らの権利として主張されるべき性格のものであるのかどうか、ということだ。

 自らの生命を自己の意思でストップすること、つまり自らの意思で自らを殺害することは、「権利」として主張されるべき性格の行為なのだろうか?

 自身に対する殺人は、自身の権利であるのだろうか?

…つまり、自殺をめぐる自己決定権の主張とは、自身に対する殺人の権利の主張なのである、と考えることに論理的錯誤は存在するのであろうか?

…つまり、人は殺人の権利を、権利として主張出来るものなのだろうか?

…という問いかけをし、考えることに、私は意味を見出してしまうわけだ。

 

 さて、次に、異なる視点から、事態を見ておくことにしよう。

 自殺とは、自身の生命を、自身の決定により処分可能であるという事実の上に成立する。ここにも、可能であるのかどうかと、それを権利として主張出来るのかどうかという、異なる二つの側面がある。

 生命の処分権は誰のものなのか?

 一般的な文脈において、自己の権利として処分し得る対象は、自身の所有物として想定されているものだろう。当人の所有物に関しては、当人に処分権が属すると考えるのが、私達の生きる現代社会である。

 だとすれば、自身の生命は自身の所有物であるのかどうか?という問いが、ここに浮上して来るのである。

 所有物となり得るのは、自身の労働の成果、金銭による購入物、他者からの譲渡物、そして相続物件、ということになるであろうか?

 自身の生命は、自身の労働の結果の獲得物ではないし、購入物でも譲渡により得たものでもない。相続物件という主張が出来そうにも思えるが、相続対象と成り得る物件の元を辿れば、これも先行世代の労働・売買・譲渡による獲得物なのである。生命と呼ばれる現象を相続物件とみなすことは妥当ではない。

…つまり、自身の生命は自身の所有物とは言えない。

…つまり、自身の生命の処分を自身の権利として主張することは不適切である。

 

 

 人間にとって、他者の殺害であれ、自己の殺害であれ、行為としては可能なものである。

 しかし、それは、権利という範疇で論じられるべき性格の問題ではない。

 そのように考えるわけだ。

 

 「安楽死」もまた、自殺の延長として考えることが可能な行為である。

 自殺は個人の行為として実現可能なものであるが、安楽死は、その実行に他者の手を必要とする。安楽死は、社会的な場においてしか実現出来ないという制約の下にあるということだ。自殺の延長であると共に、自殺との相違も大きい行為として考えることも必要なのである。

 自殺が権利という範疇で論じられるべき問題でないのだとすれば、安楽死もまた権利という範疇の問題ではないだろう。

 どのような文脈で語ることで、社会的に可能な事態として認め得る地点に到達出来るのだろうか?

 安楽死の実行に関与するということは、他者の殺害に関与することでもあるのだ。

 人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

 まだ問いを続けなければならない。

 
 
 

 

 
(オリジナルは、投稿日時:2009/02/03 19:03→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/93904

 

 

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2009年2月 2日 (月)

続々々・老眼と自己決定

 

 人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

 

…というテーマ。軽い話ではない。

 そんな話を続けて、今日で4回目である。

 

 

 今夜の『クローズアップ現代』のテーマは、まさにその問題であった。

 意思の疎通が不可能になった時点での、人工呼吸器の取り外しを求めるALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の男性の話である。

 筋萎縮性側索硬化症は、文字通り、筋肉の機能が停止することにより、生命の維持が困難になる難病である。肺による呼吸も、食物の咀嚼摂取も、筋肉の働きによるものだ。もちろん、歩くことを含めて、私達が通常、運動として理解している能力は失われてしまう。寝返りも打てないのである。

 かつては、呼吸器の筋肉の停止が、患者に死をもたらしていた。現在では、人工呼吸器の使用により、肺の筋肉の機能が失われても、生き続けることが可能となった。

 

 番組に登場した男性患者、照川氏は20年以上の病歴を持つ方だ。

 通常の会話能力は失われているが(と簡単に書いてしまっているが、声を出さずに他人とコミュニケーションすることの困難をどこまで想像出来るだろうか?)、頬の筋肉の動きを利用し、周囲に伝えたいことはパソコンに入力することが出来る。つまり、そのことにより意思の伝達が可能になっているのである。

 照川氏は、その能力が失われた時点で、つまり周囲に対する自らの意思伝達能力が失われた時点での呼吸器の取り外しを、病院に求めたのである。

 意思伝達能力の喪失と共に、彼の恐れているのは、瞼の筋肉の機能停止により視覚を失うことである。暗闇と化した世界の中で、身動きすることが出来ず、意思の伝達も出来ない自分の姿。照川氏は、その状態での生の存続を望まない。

 病院の倫理委員会は、一年にわたる議論の後に、彼の求めに応じる報告書を提出する。しかし、病院長は、刑事訴追の可能性を指摘し(番組内では、それが明示的な表現であったかどうかは記憶にないが)、実現には消極的である。

 

 

…というのが、現在の照川氏を取り巻く状況だ。

 

 

 さて、どのように考えるべきか? 

…とは私の考えるべきことではない。私に書けるのは、どのように考えるべきかではなく、私はどのように考えるか、それだけだ。

 

 

 まず、人の生死については、最優先されるべきは当事者本人の意思であると思っている。他人が、当人を差し置いて、口を出し・指図すべき問題ではないと考えている、ということだ。

 特に照川氏の場合、ALSの病歴20年の積極的な闘病人生の後の、現在の心情である。その20年という時間は、私の想像力の殆ど及ばぬ場所にある。

 照川氏の選択に対し、言葉はない。

 

 

 その上で、人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか? この視点から、私が何を考えたのか、それを記しておきたい。

 

 病院長の対応を、不適切なものと考えることは私には出来ない。法的なシステムの下に生きるのが、現代の人間の条件である。

 照川氏の希望の実現には、制度的な対応が不可欠と考えざるを得ない。医師や家族による、恣意的な、安楽死という名目の殺人行為が可能となるような条件は、事前に、制度的に、取り除かれねばならないのだ。

 しかし、制度化は両刃の剣である。患者自身、家族、そして医師、更に周囲の社会に対し、難病患者に対する医療継続の打ち切りを促す契機として機能しかねないのである。早期の安楽死実行の決断を求める圧力として機能する可能性は十分にあると考えておくべきだろう。

 難病患者への救いとして想定されていることは確かだが、難病患者の社会からの(世界からの)排除として帰結してしまう可能性も否定出来ないのである。

 問題の書物、『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』(1920)での主張の帰結は、不健康な者の排除(ガス殺の対象となったのである)を制度化した、アドルフ・ヒトラー氏のユートピアであるナチスドイツの国家政策として現実化したのである。

 同書で、共著者の一人カール=ビンディングは、安楽死の対象として、

  1)助かる見込みのない患者〈末期癌の患者など〉。
  2)治療不能な知的障害者
  3)瀕死の重傷者

の3つの事例を提示していたのであるが、その3事例の共通項は「治療不能状態」なのである。

 ナチスドイツは、治療不能な精神障害者に対するガス殺の実行を制度化してしまった。7万人以上が殺害されたと言われている。

 

 照川氏の願いが、ナチスドイツに直結しているなどど言うのではない。

 しかし、歴史的経験を想像力の内に持ち続けることは、少しは役に立つものだ。

 照川氏の願いの制度化を試みようとするならば、そして難病患者の社会的排除としての帰結を希望しないならば、そのような過去の歴史的経験を見据えておくことが必要だ。

 

 その上で、意思の伝達手段の喪失を理由に、安楽死を認めることは、意思の伝達手段を持たない、それどころか意思の存在すら疑問に付されてしまうような重度心身障害者の生の存続に、消極的な態度を社会にもたらすことにつながる可能性をも秘めているのである。

 重度心身障害者の社会からの(世界からの)積極的排除として帰結してしまう可能性がある、ということだ。

 現在の日本のマジョリティーの現実は、そのような危惧にリアリティーを感じさせるものでありはしないだろうか?

 

 そしてもう一つ。

 安楽死の権利とは、論理的には自殺の権利である。

 自殺は人間にとって権利なのだろうか?

 ある種の精神障害者にとっての自殺への誘惑は、侮ることが出来ないものだ。医療行為とは、彼らをその誘惑から守り、生の側へとつなぎとめておくことではないのだろうか? 自殺の権利の容認は、そのような努力を無効にしてしまう。

 あくまでも論理上の話ではあるのだが…

 

 もう一度繰り返すが、照川氏の選択自体を非難する理由は、私にはない。

 しかし、照川氏の選択が、結果としてどのように機能してしまう可能性があるのかについては、私は考えておかないわけにはいかない。

 人は社会の中で生きているのである。照川氏自身の個人的選択は尊重されるべきだが、その個人的選択は、同時に社会性を帯びたものとして機能してしまうのだ。そして、この人間に課せられた条件からは、誰も逃れることは出来ないのである。

 

 
 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/02/02 20:52→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/93796

 

 

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2009年2月 1日 (日)

続々・老眼と自己決定

 

 人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

 

 

…という話になってしまっているが、発端は「老眼のカミングアウト」だった。まぁ、論文を書いているわけではないので、話の流れに身を任せるのもアリだと考えることにしよう。

 

 老眼になる(なってしまった)のは、自らの意思の結果ではない。つまり、考え・企み・思いつき・計画し・戦略を立て…といった言葉で表現される私の振る舞いの結果ではない。言い換えれば、私が自発的に老眼になったわけではない。

 しかし、一方で、外部の誰かの強制により、老眼となった私が存在するわけでもない。生体としての私に組み込まれたプログラムが発現した結果の老眼、と言うことも出来るだろう。

 私=意思する私、と考えれば、私の自発性に基づく老眼ではない。

 私=生体としての私、と考えれば、老眼は自発的な生体の老化に伴う自発的な現象として表現され得るものだ。

 既に、「私」として表現される対象が、必ずしも自明のものではないということが理解出来るはずだ。

 文脈により、私=意思する私であったり、私=生体としての私であったりする、というのが実際のところだろうか?

 

 さて、人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

 私にとっての死自体も、意思する私の死であるのか、それとも生体としての私の死として想定されるのかによって、見え方が異なるものとなるであろう。

 老化による死は、意思する私の「意思」に反するものであるかも知れないが、生体としての私にとっては「自発的な過程」の最終段階に過ぎない。

 外部から強制される死は、意思する私の意思に反する死であると共に、生体としての私の自発性を無視したところに成立する(成立させられる)死でもある。

 

 

 『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』(1920)において、法律家カール=ビンディングは、
 

  1)助かる見込みのない患者〈末期癌の患者など〉。
  2)治療不能な知的障害者
  3)瀕死の重傷者
 

の三つのケースを、安楽死の対象とすることの法学的可能性を問題として提起していた。
 しかし、ビンディング自身の本来の議論は、共著者アルフレート=ホッヘの論点(社会的コスト削減を趣旨とした、政策としての知的障害者への安楽死を提言)とは異なり、「自殺」をめぐる法学的考察であった。

 1)と3)のケースは、まさに「自殺」の延長としての「安楽死」であり、意思する私の意思に基づく、他者の手を借りた自殺としての安楽死である。もちろん、社会的合意の存在という前提があっての話だ。1)および3)のケースの対象とされた当事者も、その社会の成員として、安楽死に関する社会的合意の同意者であるという想定が、安楽死実行の合法性を保障するわけである。

 ビンディングは、自殺行為の違法性(の有無)を法学的に考察したわけだが、その違法性を主張する論拠を見出すことは出来なかった。その結果、安楽死の違法性に関しても、自殺の延長と考えることにより、そこに違法性を見出すことは出来ないと考えていたのであろう。

…「考えていたのであろう」とは実に歯切れの悪い表現ではあるが、手元に本がないので記憶に頼って書いていることの結果とご理解いただきたい。ビンディングやホッヘの思想の祖述・紹介ではなく、提出された論点をより深く考えることが今回の一連の文章の焦点なのである、と書いている当人は考えているわけだ。

 

 さて、ビンディングの提出した三つのケースに戻ろう。

 そこには共通点も存在する。「治療不能」という事態だ。

 医療の目的が、「治癒」に至る「医療行為」であるとすれば、「治療不能」という状態は、「医療行為」の終着点であろう。

 しかし、「医療行為」とは「治癒」という終着点をのみ目指すものであるのだろうか? 「苦痛の緩和」もまた、医療行為の中心を占める行為ではないだろうか? 言い換えれば、生体としての人間に対する、生きているという状態へのサポートこそが、「医療行為」の基底を形成するのだと考えることは出来ないだろうか?

 

 

 これは、法学者ではなく、医師にこそ問われるべき問題なのかも知れないが、しかし、医師であるアルフレート=ホッヘこそが、知的障害者への安楽死の積極的主張者なのであった、というのが『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』と題された出版物により世界に放たれた問題の焦点のようにも思えて来るのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/02/01 21:49→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/93678

 

 

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2009年1月31日 (土)

続・老眼と自己決定

 

 人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

 言うまでもないことだが、誕生の瞬間から、人は(そして、すべての生き物は)、死という生物としての最終地点への道を辿ることを、その生の歩みの内に組み込まれてしまう。

 生き物であることは、同時に、やがて死に行くものであることを意味するのだ。

 誕生という出来事自体が、当人の意思と関係なく起ってしまう事柄であるのと同様に、死もまた、当人の意思のあり方とは無関係に、向こうからやって来てしまうものだ。

 老眼もまた、やがて死へと至る生の過程のある時点で、当人の意思とは関係なく、向こうからやって来るものだ。

 

 

 しかし、人間の場合、当人による死の決定は可能であるし、生物としての条件とは関係なく社会的に決定されてしまう死を経験させられてしまうという事態も存在する。

 自殺こそは、当人の意思に基づく当人の身の上に起る死であろう。それを、実に人間的な行為と呼ぶことも出来る。死という出来事を対象化した思考の存在を抜きに、自殺という死の形態はありえない。自殺に擬せられる集団的なレミングの死は、個々のレミング自身の自己決定の結果と考えることは出来ないのである。そのような意味合いにおいて、自殺は人間的な、人間ならではの行為として考えられることになる。

 死刑制度に代表される、社会的合意により、対象とされた個人または集団に下される死の決定もまた、人間の身の上にのみ起きる事態であろう。

 

 

 法律家カール=ビンディングと医師アルフレート=ホッへの共著になる、『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』(1920)では、

  1)助かる見込みのない患者〈末期癌の患者など〉。
  2)治療不能な知的障害者
  3)瀕死の重傷者
 

の3つのケースが、法律家カール=ビンディングにより、安楽死の対象として想定・検討され、2〉のケースが特に精神科の医師アルフレート=ホッへによる考察の対象となり、ホッヘは知的障害者への積極的安楽死政策の提言者となる。

 この書が、「悪名高い」ものとして、後世に取り扱われることになるのは、ナチスによる精神障害者への積極的な安楽死政策としてホッヘの提言が結実し、更にその経験が、ユダヤ人に対するガス殺戮への実行へとつながっているからだ。

 しかし、カール=ビンディングのそもそもの問題意識は、「自殺」を犯罪として取り扱うべきかどうかに関する法学上のものであり、その考察過程で、1)、2)、3)のケースの検討が行われていた、というのがビンディング自身の論文の内容であった。確かに「共著」という形態で出版されたが、ビンディングの論文と、ホッヘの論文では問題意識がまったく異なっているのである。

 ビンディング自身の問題意識の焦点については、死の決定主体と法学上の「殺人行為」との相関を問うものではなかったのか、という理解が私にはある。

 死の決定主体が当人であるものが「自殺」であり、死の決定主体が社会であるものが「安楽死」、ということになるだろう。

 その際、「安楽死」を支えるのは、その前提としての社会的合意の存在である。安楽死の対象とされてしまう当人もまた、その社会の成員として、社会的合意への同意者として取り扱われることにより、当人に対する安楽死の実行が正当化されることになるわけだ。

 そのように考えた時に、

  1)助かる見込みのない患者〈末期癌の患者など〉。
  2)治療不能な知的障害者
  3)瀕死の重傷者
 

という、ビンディングにより想定された「安楽死」の対象の中で、2)の異質性が際立つことになる。

 ここで、治療不能な知的障害者として想定されているのは、社会的合意の外部の存在だからである。当人が「治療不能な知的障害者」と判定される根拠には、社会的合意に関する理解の不能状態と、意思表明能力の欠損が想定されているはずだ。

 ビンディングにより、安楽死の対象とされてしまった「治療不能な知的障害者」のケースは、自殺行為の延長として理解可能な側面がある1)及び3)のケースとは、本質的に異なったものとなっているのである。

 

 

 人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

 この問いをもう一度思い出そう。

 自己決定不能者に対する社会的決定としての殺害は、正当化可能なものなのだろうか?

 そしてもう一つ、自己決定可能な存在であるという想定は、自己への殺害としての自殺の正当化を保障するものであり得るのだろうか?

 

 

 

 

(今回の内容は、先日の日記のコメント欄でのやり取り→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/93326から生まれた考察、と考えることが出来る。以前から考えていたことではあるけれど、こうして言葉に出来たのはコメントを書いてくれた友人のお陰である。どうもありがとう)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/01/31 20:34→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/93553

 

 

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2009年1月29日 (木)

老眼と自己決定

 

 老眼のカミングアウト、ってのは、しかし、どこか悔しいところがあるのかも知れない。

 既に「若い者」ではなくなってしまったことを、当人の意思とは無関係に自覚させられるように仕向けられた感じだ。

 データをプリントアウトしたはいいが、メガネ(もちろん近眼用の)のままじゃ読めない。紐の結び目を解くことが出来ない。CDの中身をチェックしようにも、たとえば、文字が小さ過ぎて録音日時の確認が出来ない。

 様々な瞬間に、老眼の自覚を強要されるのである。

 まぁ、生物としてのヒトという枠組みで考えれば、世界からの引退の時期、ということなのだろう。「人生五十年」というのは、要するに、そういうことなのだろう。

 しかし、人類は、寿命の延長に心を砕いて来たわけだ。公衆衛生や医療、戦争の抑制は、寿命延長の原動力だ。

 その結果、先進諸国では、高齢者の人口比率が高まり、老人の存在が社会問題化している。想定内の出来事なのか、それとも想定外の出来事なのであろうか?

 いずれにしても、私が近代以前のシステム内の住人であれば、既に晩年なのであった。

 老眼とは、近代以前には、晩年入りの徴のようなものだったのかも知れない、なんてことを思ってみたりする。

 もっとも、近代以前の社会でも、老人の存在は知られていた。幸運あるいは強運の下では、喜寿米寿も可能性の内部ではあったのだ。生き延びて老人となることは、誰にでも出来ることではなかったが、達成し老境を生きる経験をする人物が皆無であったわけでもない。

 しかし、それはあくまでも稀有な経験であり、だからこそ祝福される対象ともなり得た。

 誰でも老人であることを経験し得る状況。それこそが現代社会で特徴的なことであろう。

 しかし、同時に、それはありふれた事態に成り下がり、既に祝福の対象ではなくなってしまった。老人であることが、当人にとっても周囲にとっても、あまり祝福されるべき事態ではなくなりつつあるように感じる。

 人生から死を遠ざけること。近現代社会の根底にある基本的な方向性と言うことも出来るだろう。

 もっとも、近代における戦争は、人生において国家のための死を受け入れることを、国民に対し要求するものでもあった。そこでは、自らの意思をもって死に近付き行くことこそが求められていたわけだ。

 それでも、第一次世界大戦および第二次世界大戦の経験は、戦争による死がどのようなものであるかについてのリアルな認識を人類にもたらした、とでも言うべき側面があることを否定することも出来ない。

 特に、ナチスドイツによる、(その対象が、ユダヤ人であれ精神障害者であれ)政策的な「生きるに値しない命」への死刑(厳密には「刑」ではないわけだが)宣告は、他者への死の強要の「権利」の所在への、根底的な疑問を持つことを人類に求めるものとなった。

 他者の死への決定権は、誰のものであるべきなのか? あるいは、誰のものでもないのではないか? という反省的思考が、そこに生じ、人類に共有されるものともなった(もちろん、共有しようとしない人間達の存在もまた無視し得ないものではあるのだが)。

 誰が、死を決定出来るのか?

 本人による決定ならオーケーなのか?

 「自殺」は自己決定として尊重されるべき行為であるのかどうか?

 ナチスドイツにより受容・実践させられることになった、「生きるに値しない命」という発想は、1920年に出版された、法律家カール=ビンディングと医師アルフレート=ホッへの共著になる『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』と題された書物に遡るものだ。

 そこでは、

  1)助かる見込みのない患者〈末期癌の患者など〉。
  2)治療不能な知的障害者
  3)瀕死の重傷者
 

の3つのケースが、法律家カール=ビンディングにより、安楽死の対象として想定され検討され、2〉のケースが特に精神科の医師アルフレート=ホッへによる考察の対象となっており、特にアルフレート=ホッヘによる考察部分が、ナチスの政策として結実していくのである。

 しかし、カール=ビンディングのそもそもの問題意識は、「自殺」を犯罪として取り扱うべきかどうかに関する、法学上のものであった。死の決定主体と、法学上の「殺人行為」との相関を問うものであった、と言い換えることが出来るかも知れない。

 自己に対する、死の自己決定としての自殺を「殺人」という範疇の行為として記述することに、法学者としてのビンディングは慎重であった。当人の意思に反する死の強要こそが「殺人」の構成要件とまで考えたのかどうかは、現在手元に参照するべき本がないので確言出来ないのだが、そのような問題関心が彼の発想の源にはあったわけだ、ということは思い出しておくに値する。

 人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

 我が身の上に起きた老眼の話題から、はるか遠い地点にまで来てしまったが、老眼が当人の意思を越えた地点での出来事であるように、当人の死もまた当人の意思の内部の出来事ではないのではないか、なんてことを考えているわけだ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/01/29 22:03→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/93326

 

 

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2008年11月26日 (水)

健康という名のテロリズム

 

 健康とは何なのだろうか?

 このところの、コミュニティ「存在の意味」での、やわらか@テロルさんのトピック「人間の存在様式としての「公共性」の問題」の上での、やわらか@テロルさんの発言に注目している。


 ナチスの政策としての、障害者への「断種」と「安楽死」をめぐる議論である。
 アーリア民族至上主義イデオロギーを現実化するにおいて、民族=人種の「健康」がナチスのテーマとなっていた。

 人種の健康の維持に欠かせないのが、不健康者の排除である。
 至上の人種としてのアーリア人の健康への脅威が、外部のユダヤ人であり、内部の精神障害者であった。

 ナチスの政権獲得と共に、ユダヤ人の排除が現実化する。
 外部からの、アーリア人種の健康への脅威の排除が、その目的であった。

 精神障害者は、それ以前から精神病院に収容され、社会からは隔離されてはいた。
 しかし、福祉の対象として、その生存は国家によって保障されていたのである。

 ナチス特有というよりは時代の産物という側面もある当時の「優生学」思想の結実として、政権獲得の年である1933年7月14日に、第三帝国議会において、「遺伝病の子孫を予防するための法律」が可決される。
 精神薄弱者、精神分裂病者(統合失調症患者)、躁鬱病者、癲癇患者、重症アルコール中毒者、先天性の盲人と聾唖者、重度障害児、小人症、痙性麻痺、筋ジストロフィー、フリードライヒ病、先天性股関節脱臼の患者が、断種処置の対象となったのである。
 アーリア人種から、遺伝的障害の拡散の危険が排除された、と理解されていた処置である。
 アーリア人内部における人種の健康の維持は、これで保障される。


 一方で、ヴァイマール期の悪化した経済状態は、国家による障害者への福祉政策への疑問を生じさせた。
 福祉への支出は、国家財政の損失として、一部の人間から理解され始めるのである。
障害者への安楽死の妥当性が議論の対象となり始めるのである。
 これは、優生学的問題意識とは別の文脈として理解することが必要のようである。
 法律家カール=ビンディングと医師アルフレート=ホッへの共著になる『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』と題された1920年に出版された本が、その手の議論の嚆矢とされている。

 この書物では、安楽死の対象として3つのカテゴリーが想定されている。
 

1)助かる見込みのない患者〈末期癌の患者など〉。
2)治療不能な知的障害者
3)瀕死の重傷者
 

 この3つのケースが、法律家カール=ビンディングにより、安楽死の対象として想定され検討されるのである。
 そして、2〉のケースが特に精神科の医師アルフレート=ホッへによる考察の対象となっている。

 出版年はナチス結党の年でもあり、同時代性を感じられると共に、しかし異なる文脈の出来事であることにも留意しておく必要はあると思う(ナチスの思想と同書を直接的に結び付けて論じる風潮に、私は、距離をおきたいと思う〉。

 安楽死が実行されるのは、1939年になってからのことであるが、その際は、カール=ビンディングとアルフレート=ホッへの想定を超えた範囲の「精神障害者」が「安楽死」という名の殺人の対象とされることになった。
 T4アクツィオーンとして知られる作戦の開始である。ドイツ国内の何ヶ所かの精神病院内に、安楽死用のガス室と焼却炉が設置される。
 1941年になり、作戦の内実が知られるようになり、教会関係者からの異議がもたらされ、作戦は中止されるが、その時点で7万人以上の精神障害者がガス室での殺人の対象となっていたのである。

 そして、このT4アクツィオーンの中心に位置していた人物が、後のユダヤ人に対する「最終的解決」の一環としての「絶滅収容所」の設置に携わっていくのである。


 アーリア人種の健康の実現は、ユダヤ人の絶滅と、精神障害者の抹殺にかかっていた、そう考えられていたのである。

 ちなみに、アドルフ・ヒトラーは菜食主義者として有名であり、酒もタバコも嫌っていた。
ナチスの健康な世界の中心にはふさわしい、そう言うことが出来るだろうか。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/06/30 23:00 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/34627/user_id/316274

 

 

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