カテゴリー「特殊慰安施設協会史ノート」の記事

2008年12月 7日 (日)

国体の精華としての特殊慰安施設協会

 

 何とか風邪からも脱出し、長い文章もO.K.になった。

 昨日は、歴史に名高い(?)特殊慰安施設協会を取り上げることまでしてしまった。

 要するに、戦中の日本人にとって、敗戦とは「戦時強姦」を意味していた、ということなのであろう。

 ここにあるのは、戦勝とは「戦時強姦」をする側にいることを意味し、敗戦が「戦時強姦」をされる側となることとして認識されていたという、戦中の日本人の意識のあり方である。

 前提にあるのは、「戦時強姦」を組織的に遂行した皇軍の存在であろう。

 昭和12年の支那事変段階での、南京攻略戦における戦時強姦の多発と、その問題性は、陸軍自身によっても認識され、その解決策として採用されたのが、いわゆる「従軍慰安婦」であるというのが通説である。

 その後に展開する大東亜戦争の全戦域を通じて、大日本帝國軍隊=皇軍と共に、従軍慰安婦の姿を見ることが出来るはずだ。

 昨日は、ML内でのやり取りから、ドイツ軍の慰安所が話題となり、かつて観たドイツ映画のワンシーンを思い出すこととなった。ヘルマ・サンダーズ・ブラームス監督 『ドイツ・青ざめた母』(1980)の中に、ドイツ軍の慰安所のシーンがあったのである。

 ただし、ML内のやり取りによれば、ドイツ軍の場合は、「従軍」慰安婦ではなく、現地の女性の採用によるものだったということだ。そこに「強制」があったのかどうかという点には、微妙なところが残りそうな気もするが(そこに、占領-被占領という、非対称な関係性があることは確かだし)、一般的な娼婦と客の関係としても理解可能にも見える。

…と書いていて、テオ・アンゲロプロスの作品『旅芸人の記録』(1975)にも、娼婦を前にしたドイツ軍人の姿があったことを思い出した。ここでの娼婦も、現地のギリシア人であり、「従軍」慰安婦は登場しない。

 いずれにしても、戦時強姦発生予防策としての「従軍慰安婦」の制度的な採用は、皇軍の特徴であるということであろう。ここにも、我が国体の精華を見出すべきであろうか?

 MLでのやり取りからは、特に従軍慰安婦としての朝鮮人の存在がクローズアップされている。植民地の女性を、従軍慰安婦として「活用」していたことは事実であるし、その採用手続きのすべてが公正なものであったとは思われない。…というのは穏やかな言い方であって、意に反して慰安婦とされた女性は多かっただろう。

 巷では、かつてのこの国での公娼制度の存在から、当時の法的システムの中での従軍慰安婦の存在を正当化しようという試みもあるようである。しかし、当時の実際状況を考えれば、公娼制度を支えていたのも、自由意志で娼婦となることを選択した女性ではないだろう。経済的困窮が、女性を売買の対象とさせ、売られた女性が陥るのが娼婦という境遇であったのも歴史的事実である。そのような農村の状況があればこそ、その解決を目指しての、昭和11年2月26日の青年将校の決起もあったのだということは忘れられるべきではない。

 かつての日本人は、日本人の女性を売買の対象とし、その売買の結果として女性を娼婦として取り扱うことを否定していなかったのである。従軍慰安婦の背景として、当時の日本における公娼制度の存在を取り上げるとすれば、その実態自体が問題なのであり、従軍慰安婦の存在の正当化になりえるはずがない、と私は思う。

 実際には、多くの植民地女性の意思を問うことなく、大量の兵士の性的充足の相手をさせたわけであるのだから、彼女らが性的奴隷であったという評価を否定し去ることは難しいだろう。

…と、我が国体の精華としての従軍慰安婦を位置付けたわけだが、MLのやり取りの中で思い出したのは、かつての日本映画の中にしっかり登場していた従軍慰安婦の姿であった。

 検索の結果、動画を発見する。

 タイトルは、

48年前(1959年)の日本映画における慰安婦の描写
          (監督・脚本:岡本喜八 )
 → http://vision.ameba.jp/watch.do?movie=191511
 

となっているのだが、岡本喜八監督の『独立愚連隊』シリーズの一作である。

 朝鮮人慰安婦の存在、皇軍と共に移動する従軍慰安婦の姿も、しっかり描かれている。

 実際の戦場体験者が、まだ30代という時代の映画である。観客にとっても、映画製作陣にとっても、ここに描かれているのは自らの経験世界なのである。

 日常的な記憶の中に、従軍慰安婦の存在もあった時代の映画作品ということになる。

 皇軍の存在と不可分な従軍慰安婦という存在。それが戦後日本の娯楽映画の中に、しっかり記録されていたというわけだ。

 その背後にあるのが、戦時強姦とも不可分な存在であった皇軍の姿、ということになる。そして、特殊慰安施設協会の背後には皇軍の存在があり、つまるところ、特殊慰安施設協会もまた、我が誇るべき国体の精華ということになるのだろう。

 

  

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/10/27 23:34 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/83269/user_id/316274

 

 

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情けない日本の私(特殊慰安施設協会史ノート)

 

 高見順の『敗戦日記』、昭和二十年十一月十四日の条に、

 松坂屋の横に Oasis of Ginza と書いた派手な大看板が出ている。下にR.A.Aとある。Recreation & Amusement Association の略である。松坂屋の横の地下室に特殊慰安施設協会のキャバレーがあるのだ。「のぞいて見たいが、入れないんでね」というと、伊東君が、「地下二階までは行けるんですよ」
 地下二階で「浮世絵展覧会」をやっている。その下の三階がキャバレーで、アメリカ兵と一緒に降りて行くと、三階への降り口に「連合国軍隊ニ限ル」と貼紙があった。「支那人と犬、入るべからず」という上海の公園の文字に憤慨した日本人が、今や銀座の真ん中で、日本人入るべからずの貼紙を見ねばならぬことになった。しかし占領下の日本であってみれば、致し方ないことである。ただ、この禁札が日本人の手によって出されたものであるということ、日本人入るべからずのキャバレーが日本人自らの手によって作られたものであるということは、特記に値する。さらにその企画経営者が終戦前は「尊皇攘夷」を唱えていた右翼結社であるということも特記に値する。
 世界に一体こういう例があるのだろうか。占領軍のために被占領地の人間が自らいちはやく婦女子を集めて淫売屋を作るというような例が――。支那ではなかった。南方でもなかった。懐柔策が巧みとされている支那人も、自ら支那女性を駆り立てて、淫売婦にし、占領軍の日本兵のために人肉市場を設けるというようなことはしなかった。かかる恥かしい真似は支那国民はしなかった。日本人だけがなし得ることではないか。
 日本人は前線に淫売婦を必ず連れて行った。朝鮮の女は身体が強いと言って、朝鮮の淫売婦が多かった。ほとんどだまして連れ出したようである。日本の女もだまして南方へ連れて行った。酒保の事務員だとだまして、船に乗せ、現地へ行くと「慰安所」の女になれと脅迫する。おどろいて自殺した者もあったと聞く。自殺できない者は泣く泣く淫売婦になったのである。戦争の名の下にかかる残虐が行われていた。
 戦争は終った。しかしやはり「愛国」の名の下に、婦女子を駆り立てて進駐軍御用の淫売婦にしたてている。無垢の処女をだまして戦線へ連れ出し、淫売を強いたその残虐が、今日、形を変えて特殊慰安云々となっている。

という記述がある。

 以前から気になっていたのだが、今回、参加しているMLで、「パンパンガール」や「従軍慰安婦」が話題となっているのを読み、あらためて周辺を調べてみた。

 そのMLへの私の投稿内容、参加者のレス等が、本日のネタ元である。

 ネット検索の結果、佐藤正晴氏の論文、「占領期 GHQ の対日政策と日本の娯楽」(http://www.meijigakuin.ac.jp/~soc/fuzoku/nen/nen35ronbun/35sato.pdf)を発見。

 その「第2章 占領期の文化政策と RAA  第2節 RAA の実態」に、問題のRAA(特殊慰安施設協会)設立の経緯として、

 

 1945年8月18日、 RAA は、 東久邇稔彦首相と近衛文麿副総理、 外務大臣重光葵、 内務大臣山崎巌、 大蔵大臣津島寿一らが、 「日本婦女子の純潔が性に飢えた進駐軍兵士らに損なわれる」と心配し、 内務省による占領軍向け性的慰安施設の設置を指令、 この 「進駐軍のための特殊慰安施設を可及的すみやかに整備せよ」 という無電指令が、 内務省警保局長から全国の警察網に伝えられた。 これをうけて同年8月23日、警視庁の高乗保安課長が東京都の料理飲食業組合長宮沢浜次郎と総務部長渡辺政治を招き、「防波堤を作って婦女子を守りたい」 と協力を訴えたことに端を発する。
 この日、 発表された警視庁の方針と計画の中に、 「できれば、 公娼・私娼・芸妓・酌婦、 料亭・旅館・ホテル・ダンスホールなどを一ヵ所にあつめて、 総合的な大歓楽街をつくってもらいたい」 とあり、 この時点でダンスホールのような娯楽施設と公娼や私娼といった売春施設の差異が明確に考えられておらず、 これらの存在を別個に切り離そうという警視庁の意向が弱いものであったことが窺える。
 こうして同年8月26日に政府出資の事業資金3300万円で進駐軍特殊慰安施設の運営団体として RAA が警視庁に設立認可の申請をし、 2日後の8月28日、 22名の理事全員が皇居前広場で宣誓式を行った。 RAA に対する接客とダンスホールの許可は第八軍軍用娯楽施設課長ウイルソン大佐が与えている。

 
という時系列での、日本側の対応が示されている。

 確かに、事態は、高見順が、

 世界に一体こういう例があるのだろうか。占領軍のために被占領地の人間が自らいちはやく婦女子を集めて淫売屋を作るというような例が――。

 戦争は終った。しかしやはり「愛国」の名の下に、婦女子を駆り立てて進駐軍御用の淫売婦にしたてている。無垢の処女をだまして戦線へ連れ出し、淫売を強いたその残虐が、今日、形を変えて特殊慰安云々となっている。

と書いた通りなのであった。

 佐藤正晴の記述を用いれば、

 同年8月26日に政府出資の事業資金3300万円で進駐軍特殊慰安施設の運営団体として RAA が警視庁に設立認可の申請をし、 2日後の8月28日、 22名の理事全員が皇居前広場で宣誓式を行った。

とある通り、日本政府主導の下に、政府資金により設立されていたのである。

 また、民間での対応として、

 また RAA 以外でも、 アメリカ軍向けのクラブを作ろうという動きはあり、 代表的なものとして、 1945年10月に安藤明によって作られた「大安クラブ」 がある。 ここではアメリカ側との公式交渉にワン・クッションを置く民間外交の役割が期待された。 また長屋式の鳩の街や焼けビルの吉原とちがって、 大きなダンスホールを持ち、 ジャズのすきなアメリカ兵に快適な満足をあたえたと思われるのは、 小岩のインターナショナル・パレス (後の東京パレス)であり、 ここにも寄宿舎の食堂を改造したダンスホールが設営された。

 
という動きも紹介されている。

 ダンスホールには、娯楽施設という側面もあるが、一方で RAA の提供するサーヴィスの性的側面については、

 だが現に東京の33ヶ所の施設はどこもアメリカ兵が殺到し、 性風俗の紊乱と性病の蔓延に手をやいた。 RAA 協会以外のダンスホールにも、いろいろと風紀上の問題点があり、 ダンサーにも週1回の性病検診が強いられた。 これはアメリカの一方的強制というよりも、 治安面からオフ・リミット (立ち入り禁止) を恐れる日本の当局の指導と、 業者の自発的協力もあったようである。 なにより基本として GHQ は、 公娼がデモクラシーの理念に反すると考えていた。
 1946年1月21日 「日本における公娼廃止に関する覚書」 がマッカーサー元帥代理アレン中佐から出され、 内務省では同年2月2日内務省令第3号を公布、 即日これを施行して同日各庁府県に対し警保局長をもって警保局公安発第9号「公娼制度廃止に関する件」 の通達が発せられた。 この公娼制度廃止は GHQ へのアメリカ本国の世論の圧力と民主主義的政策のたまものであった。
 これらを理由に、 同年3月10日、 占領軍当局の命令によって、 RAA 所属のすべての慰安所に進駐軍将兵が立ち入ることを禁じられた。

と書かれてる通りであろう。

 巷間では、「米軍が占領下の日本で米軍専用売春施設を作らせて大々的に活用したことなど余りにもよく知られた事実」というような俗説も流通しているらしいのだが、現実の歴史的事実関係は、日本政府が主体的に「米軍専用売春施設を作らせ」たのであるし、その「米軍専用売春施設」を閉鎖させたのは占領軍当局の方であった、ということなのだ。

 そして、

 RAA 自体は1949年4月22日、 RAA は上野の観光閣で臨時総会を開き、 正式に幕を閉じたのである。

という結末を迎えることになる。「慰安所」閉鎖後も占領軍向け娯楽施設運営主体として、1949年までは存続していた、ということのようである。

 以上が、「特殊慰安施設協会」 (RAA) をめぐる、歴史的事実関係として基本的に押さえておくべき事項、ということになるのだと思う。

 高見順ならずとも、どうも情けない気持ちにさせられる、この国の歴史の断面である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/10/26 20:13 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/83143/user_id/316274

 

 

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2008年11月27日 (木)

昭和二十年八月十九日 婦女子を大至急避難

 

 八月十九日
 新聞は、今までの新聞の態度に対して、国民にいささかも謝罪するところがない。詫びる一片の記事も掲げない。手の裏を返すような記事をのせながら、態度は依然として訓戒的である。等しく布告的である。政府の御用をつとめている。
 敗戦について新聞は責任なしとしているのだろうか。度し難き厚顔無恥。
 なお「敗戦」の文字が今日はじめて新聞に現れた。今日までは「戦争終結」であった。
 中村光男君の話では今朝、町内会長から呼び出しがあって、婦女子を大至急非難させるようにと言われたという。敵が上陸してきたら、危険だというわけである。
 中央電話交換局などでは、女は危いから故郷のある人はできるだけ早く帰るようにと上司がそう言っている由。
 自分を以て他を推すという奴だ。事実、上陸して来たら危い場合が起るかもしれない。絶対ないとはいえない。しかし、かかることはあり得ないと考える「文明人」的態度を日本人に望みたい。かかることが絶対あり得ると考える日本人の考えを、恥かしいと思う。自らの恥かしい心を暴露しているのだ。あり得ないと考えて万一あった場合非はすべて向うにある。向うが恥かしいのである。
 一部では抗戦を叫び、一部ではひどくおびえている。ともに恥かしい。
 日本はどうなるのか。
 一時はどうなっても、立派になってほしい。立派になる要素は日本民族にあるのだから、立派になってほしい。欠点はいろいろあっても、駄目な民族では決してない。欠点はすべて民族の若さからきている。苦労のたりないところからきているのだ。私は日本人を信ずる。

     高見順 『敗戦日記』

 
 62年過ぎて、日本人は「立派に」なれたのだろうか?

 婦女子を避難させる話。日本軍における婦女暴行の伝統(?)が、国民一般に共有されていたということだろう。
 支那事変当時の、南京攻略戦時の日本陸軍の行動、捕虜殺害とともに、婦女子への暴行殺人は悪名高いものとなっている。
 いわゆる「従軍慰安婦」の存在も、南京攻略戦における日本軍将兵の素行の悪さから、その対策として発案されたことが、陸軍内の文書として残されているくらいだ。
 「自分を以て他を推す」ことからは、米占領軍(進駐軍)兵士による婦女暴行は当然のこととして予測せざるを得ない。
 アジア諸国での、買春行為で日本人が名を揚げたのは戦後のことである。
 日本人男性の性的不品行について、「立派」になったという証拠はまだない。


 8月14日の日記には、

 
「アメリカ軍が入ってきたら、――西洋人というのはジャガイモが好きだから、もこうして食えなくなるんじゃないか」
 米の代用の馬鈴薯だが、その馬鈴薯が取り上げられたら、何を一体食うことになるのだろう。

 
という記述がある。
 これもまた「自分を以て他を推す」一例であろう。
 大日本帝國陸軍の現地調達主義もまた悪名高いものであった。補給を軽視し、物資の現地調達を前提にした作戦行動をとったのである。
 「調達」と「略奪」の間に線は引けない。現地住民からすれば、すべて貴重な食料物資の略奪となる。
 アメリカ占領軍は、基本的に、食料の現地調達は考えなかった。高見順の考えた(心配した)ようには事態は進行しなかったのである。


 ただ、日記を読んでいるとわかるのだが、昭和20年は冷夏であった。農産物の生産量は低く、食糧不足となった。
 その後、米国からの援助物資で、日本人は戦後の食糧難をしのぐことになるのだが、それはまだ先の話である。

 

 
十九日(日) 晴
 ○酷暑つづく。
 爆音聞こえ、日本機一機飛ぶ。どこかへビラでも撒くつもりにや。あの姿、あの日本機の姿。――千機万機仰ぐは未来いつの日ぞ。
 ○夕、徳田氏東京より帰る、都民みな呆然。陸軍機海軍機東京上空を乱舞し、軍は降伏せずと盛んにビラを撒きありとのこと。
 マニラにて休戦協定を結ぶため、山下奉文この役を快諾せりという。山下が普通の意味でこれを「快諾」するはずなし。すべてひっくり返しておじゃんにするつもりなるべし、そうなったら面白くなるぞ、と皆期待す。
 ○夜凄じき雷鳴。青白き閃光きらめきて、轟々たる音につづき、時にどこかに落ちたるがごとき音す。電燈消ゆ。ただし雨一滴もふらず。空鳴りにて秋となるや、こおろぎ鳴く。

     山田風太郎 『戦中派不戦日記』

 
 もう秋も近い。
 しかし、まだ、敗戦にリアリティーがない感じがする長野の飯田の疎開先の一日。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/19 23:35 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/38494/user_id/316274

 

 

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