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2019年3月24日 (日)

カチンの拳銃弾 4

 
 

 

 一九四三年(昭和十八年)二月の最終の週間に、ソ連領土の奥深く、スモレンスク(ソ連西部の古都、ドニエプル川上流に臨み、中世期以来、通商、交通の中心、当時人口十五万)の西方数マイルの地点に駐屯中の独軍第五三七通信連隊のテレタイプ(印字電信機)は、独軍の野戦警察が、同連隊の露営地区内でポーランド軍将校の多数の死体を発見した、と報告した。彼らはどれくらい多数であるかを正確には知らなかったが、数千名の死体であることは確実であった。
 その死体は皮製のたけの高い長靴をはいて、胸には皮製の弾帯をめぐらし、その多くは功績と武勲を示す勲章をつけていた。各人はその頭部を撃ち抜かれていた。彼らはソ連の土地で、いくつもの集団墓場の中で発見されたが、彼らを射殺した弾丸はドイツ製のものであった。
     (J.K.ザヴォトニー 『カティンの森の夜と霧』 読売新聞社 1963  25ページ)
 
 
 これが、いわゆる「カチンの虐殺」の事実が明らかになる発端であった。
 問題は、集団墓場の中に死体となって発見された数千名のポーランド軍将校は、何時そして誰によって殺害されたのか?である。

 1939年9月1日、対ポーランド戦を開始し、ポーランド国内に西から進撃したのはドイツ軍であった。次いで9月17日にはポーランド国境の東からソ連軍がポーランド攻撃に加わった。当時のドイツとソ連は「独ソ不可侵条約」によって同盟関係にあり、条約の秘密議定書には両国によるポーランド侵攻と領土の分割が、明記されていたのである。ポーランドは9月27日に降伏し、以後、ポーランド領土の西側はドイツの占領下となり、東半分はソ連に占領され、ポーランド軍将兵は、それぞれドイツとソ連の収容所に送られた。
 1941年6月22日、今度はドイツがソ連に侵攻し、ドイツとソ連の同盟関係は終わる。ソ連は連合国の一員となり、最終的に勝利者となった。
 ポーランドの降伏後、ポーランド人は亡命政府をロンドンに設立し、連合国側で故国の占領者であるドイツとソ連との闘いを続けていたが、1941年6月の独ソ戦開始以降は、連合国の一員となったソ連との同盟関係の選択を余儀なくさせられた。
 ソ連国内の収容所に収容されていたポーランド軍将兵も解放され、連合国のソ連と共に対独戦争に参加することとなったが、集合地にはポーランド人将校の姿は、ほとんど現われなかった。消えたポーランド将校団の行方は、ポーランド亡命政府にとっても、もちろん占領下のポーランド人にとっても、追求すべき問題であったわけである。亡命政府当事者は、ソ連国内での捜索努力を続けたが、何も得られぬままに1943年の2月を迎えていたのであった。
 
 
 ドイツ宣伝相ヨージェフ・ゲッベルスの個人的日記の中には、一九四三年(昭和十八年)四月九日の日付の下で、次のような記述が発見されるであろう。
 「ポーランド人の墓の大群がスモレンスク付近で発掘されている。ボルシェヴィキ党員(共産主義者、ソ連軍をさす)が約一万名のポーランド軍捕虜をあっさり射殺してから、穴を掘って墓の中に埋め込んだのだ……」
 おそらく、この身の毛もよだつようなものすごい発見を、ゲッベルス宣伝相の注意を喚起するようにしたのはドイツの従軍記者であろう。一九四三年(昭和十八年)四月十三日午前九時十五分(ニューヨーク時間)に、ドイツのラジオ放送は連合国の団結を打ち砕くことをねらった宣伝をいっせいに電波にのせた。それは全世界に向けて、ポーランド軍将校が大量にソ連軍の手で殺害されたことを発表した。このドイツ側の声明にもとづくと、連合国側の一国の政府が、その同盟国の将校団の約半分を殺してしまったように思われた。
 その翌日、ソ連側の激しい反応は、マスコミのあらゆる可能な手段によってばらまかれた。ソ連政府の情報局は一九四三年(昭和十八年)四月十五日に声明を発表し、「一九四一年(昭和十六年)に、スモレンスク西方で建設工事に従事していたポーランド軍捕虜は、ドイツ・ファシストの死刑執行人の手中に陥った……」ので、その後に処刑されたのであると闡明した。…
     (前掲書 25~26ページ)
 
 
 独ソはそれぞれに、ポーランド将校団殺害の犯行を、相手の行為として断じたのである。
 ところで、問題のカチンの森とはどのような場所であったのか?
 
 
 カティンの森は、スモレンスク市西方約十マイルのところにあった。…(中略)…一九一七年のロシア革命後に、この地区はソ連政治警察の管轄下に置かれていた。
 ドイツとポーランド両国筋によると、一九二九年(昭和四年)ごろに、この森の周辺には「GPU特別地区、許可されない人の立ち入りを禁止す」という標識が立っていた。一九三一年(昭和六年)に、この森の一地区は鉄条網で取り囲まれた。その付近に居住しているソ連市民たちによると「さらに、立ち入り禁止の警告の張り紙が下げられた」といわれる。そして大きな家が、墓の大群の発見された地点より半マイルばかり離れたところに建てられたが、それは政治警察の係り官のための休息所として使用された。一九四〇年(昭和十五年)からソ連軍が撤退するまでの間、この全地域は、警察犬の護衛を伴った政治警察の保安隊員(NKVD)が巡察していた。
     (前掲書 26~27ページ)
 
 
 つまり、独ソ戦開始後にドイツに占領されるまでは、カチンの森はNKVDの管理下にあった土地なのである。ソ連内務人民委員部(あるいは中野五郎訳では政治警察)の管理する土地であったのだ。

 1943年にドイツ軍がポーランド軍将校の多数の死体を発見したのは、そんな性格の土地なのであった。
 
 
 

 

 一般の世論は、ドイツ軍に対し非難の指をさし向けた。発見された死体がドイツ製の弾丸で射殺されていた事実から、ドイツ政府は現地調査を行なうために、独立した国際調査委員会と、ポーランド赤十字委員会、ドイツ特別法医学委員会などを招待することに踏み切った。
     (前掲書  27ページ)
 
 この国際調査委員会とポーランド赤十字委員会のほかに、ドイツ特別法医学委員会も、また調査活動をしていた。この三つの調査委員会の各委員は、その調査期間中に、まったく独立して行動していた。そして独自の立場より結論に達したが、それは三つの個別の最終報告の中に述べられていた。これらの報告書は、そのもっとも重要な詳細な点で一致しているから、カティンの森の調査結果に関する次の記述は、これらのすべての報告と、さらに他の筋より収集した適切な補足にもとづいたものである。
 さてカティンの森では、八つの集団的な墓が発見された。それは深さ六フィートないし十一フィートの中に、死体がいっぱい充満していた。一般に、これらの死体の埋葬には特殊の方式がとられていた。彼らは顔を下にして両手をわきに置くか、または両手を身体の背後でしばられ、両足をまっすぐに伸ばして横たわっていた。しかも死体は一つずつ互いに重なり合って、十段か十二段になって積まれていた。
 その死体は全部、例外なく後頭部を撃ち抜かれていた。たいていの場合、これらの人々は、ただ一回で射殺されていた。しかし二回撃たれていたものもいくらかあったし、ある場合には頭蓋骨を三発の弾丸で粉砕されていた。概して弾丸を撃ち込まれたところは首筋の上であり、その発射方向は上向きで、弾丸は頭蓋骨を貫通して、鼻と頭髪のはえぎわの中間で顔の側面に抜けていた。
 二つの個別の墓が見つかった。その墓の中には、二名の、完全に軍服を着用した将軍の死体が発見されたが、いずれも一発で射殺されていた。赤外線の助けを借りて、その軍服を顕微鏡で分析した結果、この二名の将軍は、その冬外套のエリを立てたところを拳銃で撃たれたか、あるいは直接その頭部を撃たれたかして、処刑されたことが実証された。
 死体の大群の中の多数、とくに士官候補生と青年将校の死体は、その両手をしばられていた。これらの死体の発掘を目撃したある証人は、次の通り報告していた。
 「この第五号の墓より発掘された死体の典型的な特色は、その死体の全部の両手が背中で、白いナワで二重の結びめをつくってしばられていた事実であった。彼らの冬外套を頭部のまわりにかぶせて、しばりつけられていた。この冬外套は、同じ種類のナワで首の高さをしばられていて、時には二番目の結びめが犠牲者の頭上につくられていた。首筋にはただ一つの結びめがあり、そのナワの残部は背中を下方へ通って、しばられた両手のまわりにグルグルと巻きつけられた上、さらに首筋で、もう一度しばりつけてあった」
 「こんな風にして、犠牲者の両手は肩胛骨の高さまで引きつり上げられていた。犠牲者はこのような方法でしばり上げられていたので、いかなる抵抗もすることができなかった。なぜなら両手を動かすたびに、首筋のまわりのナワのくくり結びが堅く締まり、そのために、ノドを絞めつけるからであった。それのみならず、彼らは頭の上から冬外套をおおいかぶされていたために、どんな音を立てることもできなかった。処刑前に犠牲者を、このような風にしばり上げていたことは、死ぬ前に特別にくふうした拷問を加えていたものであった」
 このナワの結びめをつくる技術は、すべての実例で同一であった。そのナワは全部、同じ長さのものであったから、それが計画的に、事前に用意されたことは明白であった。現場でドイツ人の科学者が行なった、そのナワの顕微鏡検査によると、それはソ連製のものであることが判明した。また同じ種類の結びめが、ソ連製の衣服の残りぎれを身に着けていた数名の男女の死体についても発見された。これらの死体もまた、カティンの森の別個の墓穴の中で発見されたものであった。これらの死体を仔細に検視した結果、この人々は五年ないし十年前に同じ方法で殺害されたものであり、それは独軍が、この地方に侵入したときよりも数年以前の出来事であった。
     (前掲書  30~32ページ)
 
 
 この「ソ連製の衣服の残りぎれを身に着けていた数名の男女の死体」こそが、大粛清時に犠牲となったソ連国民の姿なのである。
 これが、カチンの森がNKVD(ソ連内務人民委員部)の管理下にあった土地であることの意味するところなのだ。
 カチンの森の奥でのNKVDの犠牲者は、まずは自国民だったのである。
 
 第二次世界大戦以前に大量の自国民を処刑・殺害してきたのと同じ手法(註:1)が、大戦に際してのポーランド軍将校の殺害においても用いられていたことが、これらの調査報告(ポーランド赤十字委員会には、抵抗運動メンバーも委員として参加しており、報告の信頼性は高い)から判明するわけである。 平時に、自国民の大量処刑・殺害を日常業務として効率的に実行してきた国家機関が、戦時には、他国民の効率的な大量処刑・殺害にその洗練された能力を発揮したのである。
 
 
 

 

【註:1】
 
  その死体は全部、例外なく後頭部を撃ち抜かれていた。たいていの場合、これらの人々は、ただ一回で射殺されていた。しかし二回撃たれていたものもいくらかあったし、ある場合には頭蓋骨を三発の弾丸で粉砕されていた。概して弾丸を撃ち込まれたところは首筋の上であり、その発射方向は上向きで、弾丸は頭蓋骨を貫通して、鼻と頭髪のはえぎわの中間で顔の側面に抜けていた。
     (J.K.ザヴォトニー 『カティンの夜と霧』 読売新聞社 1963  31ページ)
 
  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。
     (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)
 
   ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。
     (ザスラフスキー 『カチンの森』 173ページ 「訳者あとがき」より
 
 (ブローヒンについては「カチンの拳銃弾 3」を参照)
 
 
 
 
 
(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/09/07 21:36 → https://www.freeml.com/bl/316274/170641/
 投稿日時 : 2011/09/12 21:32 → https://www.freeml.com/bl/316274/170949/)
 
 
 

 

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2019年2月 2日 (土)

カチンの拳銃弾 3

 

 

 「カチンの虐殺」として知られる、ソ連という国家によるポーランド人捕虜の大量殺害。その現場には効率的大量殺害に公務として従事した処刑人の姿があった。効率的な処刑には専門性が必要であり、彼らは洗練された大量殺害技術の保持者であった。その専門性と技術は、ポーランドとの戦争に先立つ時期に、ソ連国内でソ連国民を処刑する中で磨かれたものであった。そんなソ連の処刑人を代表する人物と考えられているのが、ポーランド人捕虜殺害の際も活躍したヴァシリー・ブローヒンである(「ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった」)。

 前回、「ブローヒンが従事したのは効率的な処刑=殺人であり、それが彼とその部下にとっての日常業務(「メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまで」)なのであった」と要約したが、あらためて、効率的な処刑=殺人の詳細について確かめておきたい。

 

  カリーニン虐殺はモスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮した。ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参、三人は駅の引込み線に止められた、電話交換機を入れた食堂車に寝泊りした。

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。

  拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた。反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない。大量処刑のカチン事件では、ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた。

  看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。

  監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。

 

ブローヒンの役割・手法について、前回までにこのように紹介した(「カチンの拳銃弾 1」及び「カチンの拳銃弾 2」参照)。さらにザスラフスキーの著作を読み続けてみたい。

 

 すべての解剖報告書は、処刑が執行の専門家によって行われたと証言している。ほとんどの犠牲者は後頭部の正確な個所を狙って一発の弾丸で殺されていた。二発目が発射されたのはきわめてまれである。報告書には、多くの場合に将校たちが抵抗したと記録されている。多くの将校には銃剣創が見られた。またある者は両腕が背中で特別な結び方で縛られたうえで首のまわりに繋がれていた。これだと手を動かせば首が閉って窒息する。射殺はNKDVの特別部隊が実行した。NKDVには数万の「処刑専門家」がいて、殺害と死体隠しの訓練を受けていた。ナチ親衛隊の銃殺執行隊とちがって、NKDVの銃殺執行隊は犠牲者から金歯を抜いたり貴重品を取り去る命令を受けていなかった。だから死体発掘にさいして結婚指輪と金歯がポーランド将校の遺体に残っていたと記録されている。
 検屍記録はあきらかに矛盾する技術的細部を正確に書きとめていた。なかでも拳銃と銃弾はドイツ製でありながら、創傷はソ連軍が使っていた四刃の銃剣による刺殺を示していた。それに、犠牲者を縛っていた縄はソ連製だった。ブルデンコ委員会は銃剣と縄を無視しながら、ドイツ製弾丸が射殺に使われた事実を最大限利用して世論の大きな反響を勝ちえたのだ。以前に国際医学調査委員会が説明したところでは、拳銃はカールスルーエ近くのグスタフ・ゲンショウ社がヴェルサイユ条約後にドイツの兵器需要が激減したため、ソ連、ポーランド、バルト諸国に大量輸出するために製造されたものだったが、この事実は意図的に無視された。今やソ連公文書館の文書によると、NKDV銃殺執行隊がドイツ製拳銃と口径七・六五ミリの弾丸「ゲコ」で装備されていたことが確認されている。
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 126~127ページ)

 

 カチンでの屋外での処刑(「カチンで処刑を統率したのはモスクワから来た処刑人ではなく、スモレンスクNKVD監獄長グリポフ保安中尉、次長グヴォズドフスキー、ステルマハとみられる。これにスモレンスクNKVD監獄の看守、運転手、それにミンスクNKVD本部から派遣された処刑専門家がくわわったという説が有力」)と、カリーニンでの屋内での処刑(「モスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮」)では状況が異なることに留意しておく必要がある。ここに記されているのは、集団として自身の運命が明らかな中で次々に殺害されたカチンでの検証記録(解剖報告書)である。カリーニンでの個室での殺害では、被害者は抵抗を考える以前に、すなわち抵抗し銃剣で傷付けられることなく殺害されていたと考えられる。

 いずれにせよ、「すべての解剖報告書は、処刑が執行の専門家によって行われたと証言している。ほとんどの犠牲者は後頭部の正確な個所を狙って一発の弾丸で殺されていた。二発目が発射されたのはきわめてまれである」とカチンの「解剖報告書」にも記されており、「執行の専門家」の熟練度が窺われる。

 

 根岸隆夫氏による「訳者あとがき」には、カリーニンでNKDV責任者であったトカリェフ(トカリェフは国境警備隊からNKDVに移動したときは大佐だったが、カリーニン虐殺でベリヤに認められ、1954年に少将に昇進した)による1991年3月20日の証言(軍事検察官ヤブロコフ中佐との質疑応答)の紹介がある。

 

 トカリェフ  ブローヒン、シネグボフ、クリヴェンコがモスクワ本部から処刑人として到着したときに拳銃を詰めこんだスーツケースを持ってきました。
 ヤブロコフ  どんな拳銃ですか。
 トカリェフ  ヴァルターですよ。
 ヤブロコフ  弾薬はなんですか。
 トカリェフ  ヴァルター用ですよ。有名な拳銃です。口径は知らないけれどドイツ製です……
 ヤブロコフ  監獄を描写してください。
 トカリェフ  ここが地下室。ここに囚人監房があります。ここが「赤い隅」で、そこから処刑室まで廊下があります。「赤い隅」で本人確認がおこなわれ、そこから廊下を通って処刑室に連れていき銃殺です。小さい部屋です。扉があって中庭に向かって開きます。そこから死体を出して、待ち受けているトラックに載せます。
 ヤブロコフ  監獄から「赤い隅」まで捕虜は一人ずつ連れてこられるのですか。
 トカリェフ  そうです、一人ずつです。「赤い隅」には政治ポスターが何枚か貼ってあります。政治教育に使われていました。だからレーニンの部屋と呼ばれました。
 ヤブロコフ  処刑室にはなにもないのですか。
 トカリェフ  荷台がひとつありました。
 ヤブロコフ  いつもウォッカがあったということでしたが。
 トカリェフ  箱で買いこんでいました。銃殺と埋葬にかかわっただれもが飲めるようにです。モスクワから来たブローヒンたち処刑人はパジャマ姿ですわって飲んでいましたね。かならず銃殺が終わってからで、その前や最中には飲みませんでした。ポーランド人の銃殺が終わると宿にしている引き込み線の食堂車で大宴会でした……
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 172~173ページ 訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

「捕虜は一人ずつ連れてこられる」のであり、処刑室は防音されており(「看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる」)、処刑されることへの予期は持ちにくい(多くの場合、抵抗を考える前に殺害されているはずである)。

 

 

 実際にNKDV(内務人民委員部)で処刑の任務に携わった人物による証言(「カチンの虐殺」への関与は語られていないが、多くのソ連国民を処刑した経験が語られている)が記録されているので読んでおきたい。

 

 「……わしは内務人民委員部の仕事に採用されたとき、ほんとに鼻高々だった。はじめての給料で上等のスーツを買ったんだよ。
 ……あのような仕事は……なんにたとえればいいのだろう。たとえるとしたら、戦争だ。しかし、わしは戦場ではらくだった。ドイツ人を銃殺刑にする、やつはドイツ語でさけぶ。ところが、こいつらときたら……こいつらはロシア語でさけぶんだ。なにやら仲間みたいだ……。リトアニア人やポーランド人を撃つのはもっとらくだった。ところが、こいつらときたらロシア語なんだよ。「でくの坊! 能なし野郎め! さっさと殺れよ!」畜生! わしは全身血まみれ……手のひらを自分の頭髪でぬぐっていた……。たまに皮製の前掛けが支給されることがあった。そういう仕事だった。勤務だ。きみは若いよ……ペレストロイカ! ペレストロイカ! しゃべくり野郎どもの話を真にうけておる。さけばせておくがいい、自由、自由と。広場をちょっと走らせておくがいい……。斧が置かれているんだ……斧はご主人さまがいなくなっても生きつづけるんだよ。覚えておけ。畜生! わしは兵士だ。命令されたから、やった。撃った。命令されたら、やるもんだよ。や・る・ん・だ・よ! わしが殺していたのは敵だ。破壊分子どもだ。正式な書類があった。「極刑に処す……」。国家の判決だ。あんな仕事は、願いさげだ! まだ息のあったやつは、たおれて、豚みたいにキーキーいって……血を吐いておった。けらけらわらってる男を撃つのは、とくに胸くそが悪かった。そいつは気が狂っているか、こっちをさげすんでいるか、どっちかなんだ。あっちからもこっちからも、号泣と汚いことば。あのような仕事の前には食事などできん……。わしは食えなかった……。いつものどがからからだった。水をくれ! 水だ! 酒を飲みすぎたあとのように……。畜生! 勤務時間の終わりにバケツがふたつ持ってこられた。ウォッカのバケツとオーデコロンのバケツ。ウォッカは仕事のあとで持ってきてくれた、仕事の前じゃなかった。どっかで読んだことがあるだと? それそれ、そこなんだよ……。いまではあらん限りのことが書かれている……多くはでっちあげだ……。わしらはオーデコロンで上半身を洗っていた。血は、鼻にツンとくる、一種独特のにおいがして……ちょっと精液のにおいに似ている……。わしの家にはシェパードがいたが、仕事のあとでは、わしによりつこうとしなかった。畜生! なんでだまってんだ。青二才め……未熟者めが……よく聞け! まれに殺すのが好きだという兵士がいたもんだ……そういうやつは銃殺班からよそにとばされた。やつらはあまり好かれていなかった。わしのような農村の出身者がたくさんいた、田舎もんは都会もんよりタフだ。ハラがすわっておる。死というものに慣れている。ある者は家で豚をつぶしたことがあったし、ある者は子牛を殺したことがあったし、ニワトリはだれでもしめたことがあった。死に……慣れさせなくてはいかん……。最初の数日間は連れていって見せる……。兵士たちは死刑に立ち会っていただけ、あるいは既決囚を護送していただけだ。すぐに発狂というケースもあった。耐えられなかったのだ。デリケートな問題だ……。うさぎをひねる、それだって慣れが必要で、だれにでもやれるもんじゃない。畜生! ひざまずかせて、ナガン連発式ピストルの銃口部を左後頭部につきつけて撃つ……左耳あたりに……。勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった。ほかのあらゆる場所のように、わしらにも割当量があった。工場の生産割当量のように。最初のころは、割当量をこなすことができなかった。物理的に遂行できなかったのだ。すると、医師が呼び集められ、立会診察がおこなわれた。その結果、週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった。右手と人差し指のマッサージ。人差し指のマッサージはどうしても必要だ、撃つときにいちばん大きな負荷がかかるんだ。わしに残ったのは、右耳の聞こえが悪くなったことだけだ。右手で撃っていたからだよ。
 ……わしらは「党と政府の特殊任務遂行に対して」表彰状をもらって、そこには「レーニン・スターリンの党の事業に献身的である」と書かれていた。上質紙のこれらの表彰状を、わしは戸棚いっぱい持っておる。年に一度、家族と一緒にりっぱなサナトリウムに行かせてもらった。最高の食事……肉がたっぷり……療養……。妻はわしの仕事のことはなにも知っちゃいなかった。責任重大な極秘の仕事、それだけだ。わしは恋愛結婚だった。
 ……戦時中は弾が節約されていた。もし海が近ければ……。平底船にぎゅうぎゅうに詰めこんだもんだ。船倉からはさけび声ではなく、けものの咆哮「誇り高きわがヴァリャーグ号は敵に屈せず/赦免はだれも望まない……」。一人ひとりの両手は針金で縛られていて、足には石が……。もし天気がおだやかなら……水面はなめらかで……やつらが底に沈んでいくのが長いあいだ見えていた……。なんだ、その目は。乳臭いやつめ! その目はなんだ! 畜生! 酒をつげ! そういう仕事……勤務だ……。きみが理解するために、話してやってるんだ。ソヴィエト政権はわしらにとって高くついた。それを大事にしなくてはならん。守らなくてはならんのだ。夕方、わしらが帰ってみると、平底船はからっぽ。死の静けさ。みんなの頭にあるのはひとつ。わしらが岸辺に出ていけば、わしらもそこで……。畜生! わしは、すぐ持ちだせるように、何年間もベッドの下に木のトランクを置いていた。替えの下着、歯ブラシ、カミソリ。枕の下にはピストル……。自分の額を撃ちぬく覚悟でいた。当時、みんながそんなふうに生きていたんだ。兵士も、元帥も。そこんとこは平等だった。
 ……戦争がはじまった……。わしはすぐ前線に志願した。戦闘で死ぬのはそれほどこわくない。祖国のための死だとわかっているからだ。すべてが簡単明瞭。ポーランドを解放していた、チェコを……。畜生! ベルリンの近くで自分の戦歴を終えた。二個の勲章と記章をもっておる。勝利だ! だが……その後に待っていたのは……。勝利のあと、わしは逮捕された。特務部のやつらがリストを用意していたのだ……。チェキスト〔国家保安機関の勤務員〕には、ふたつの道しかなかった。敵の手にかかって死ぬか、内務人民委員部の手にかかって死ぬか、どちらかだ。七年の刑をくらった。わしは、七年の刑期をまっとうした。いまでも……なあ、きみ……収容所時間で目が覚めるのだ、朝六時に。なんの罪で入っていたのか。なんの罪か、それはおしえてくれなかった。いったいなんの罪があるというのだ。畜生! 」
     (スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ 『セカンドハンドの時代』 岩波書店 2016  357~359ページ)

 

 かつてNKDVに処刑要員として(処刑の専門家として)勤務した人物の証言である。「NKDVには数万の「処刑専門家」がいて、殺害と死体隠しの訓練を受けていた」という中の一人だ。キャリアのスタートは戦前、大粛清の時代である。語られているのはその技術的詳細、処刑現場の状景の生々しさ、処刑要員としての心情。

 

  わしは全身血まみれ……手のひらを自分の頭髪でぬぐっていた……。たまに皮製の前掛けが支給されることがあった。そういう仕事だった。勤務だ。

  わしは兵士だ。命令されたから、やった。撃った。命令されたら、やるもんだよ。や・る・ん・だ・よ! わしが殺していたのは敵だ。破壊分子どもだ。正式な書類があった。「極刑に処す……」。国家の判決だ。

  あっちからもこっちからも、号泣と汚いことば。あのような仕事の前には食事などできん……。わしは食えなかった……。いつものどがからからだった。

  勤務時間の終わりにバケツがふたつ持ってこられた。ウォッカのバケツとオーデコロンのバケツ。ウォッカは仕事のあとで持ってきてくれた、仕事の前じゃなかった。

  わしらはオーデコロンで上半身を洗っていた。血は、鼻にツンとくる、一種独特のにおいがして……ちょっと精液のにおいに似ている……。わしの家にはシェパードがいたが、仕事のあとでは、わしによりつこうとしなかった。

 うさぎをひねる、それだって慣れが必要で、だれにでもやれるもんじゃない。畜生! ひざまずかせて、ナガン連発式ピストルの銃口部を左後頭部につきつけて撃つ……左耳あたりに……。

  勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった。

 ほかのあらゆる場所のように、わしらにも割当量があった。工場の生産割当量のように。最初のころは、割当量をこなすことができなかった。物理的に遂行できなかったのだ。

  すると、医師が呼び集められ、立会診察がおこなわれた。その結果、週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった。右手と人差し指のマッサージ。人差し指のマッサージはどうしても必要だ、撃つときにいちばん大きな負荷がかかるんだ。

 

 確かに「あんな仕事は、願いさげだ!」という言葉もある。自身への呪いの言葉と満足感が同居している。

 ここではドイツ製のワルサーではなく、ソ連製の「ナガン連発式ピストル」を使用していたこと、引き金が引かれたのは「左後頭部」に向けてであったことが語られている。ブローヒンの流儀を過剰に一般化するべきではないということなのだろう。しかし、「ナガン連発式ピストル」使用により「勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった」ために「割当量」を果たすことが困難となり、「週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった」エピソードからは、あらためてブローヒンのワルサーが、「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」との理由で選択されていたことが思い出される。

 

 「あんな仕事は、願いさげだ!」との言葉も吐いたこのチェキストは、しかし「名誉退役軍人」として特権を享受していた。「特別配給食料」としてサラミソーセージ、ブルガリア製のキュウリとトマトのピクルスの瓶詰、外国製の魚の缶詰、ハンガリー製の缶入りハム、グリーンピース、タラのレバーといった「当時、一般の人には手に入らなかったもの」を手にし、「官給の四〇〇平米の土地ではなく、どのくらいの広さだったか、もう正確には覚えていないが、そこには森林の一部も入っていた。古いマツ林だった。高い地位の人には、あのようなダーチャが与えられていたんです。特別な功績に対して。アカデミー会員や作家に」と対話者に語られるような特権的な生活を享受していたのである。公務としての効率的な殺人により得た特権である。

 そのような特権者が存在した国家。それがソ連であり、そのような特権者こそがソ連の国家権力を支えていた。処刑人の凄惨な現場の上に、日々の業務としての処刑の上に、「割当量」を果たそうと格闘する現場の上に、ソ連という国家は築かれていたのである。

 

 

 

 さて、あらためてブローヒンである。

 日本語の『ウィキペディア』をチェックしてみた(「百科事典」としての利用とは別に、ネット空間の中での対象への関心の程度を知る効果もある)が、現状(2011年9月6日、そして2019年2月2日に再確認)では「ブローヒン」の項目はなかった。しかし、「ニコライ・エジョフ」の項に、

 

 1940年2月4日、ニコライ・エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された。

 

という形で、ブローヒンの名が登場する(以下、2011年9月6日時点での記載内容である)。

 「カチンの虐殺」は1940年の4月から5月の話で、その直前の時期に、ブローヒンは、エジョフの処刑の実行者となっていたわけである。ただし、『カチンの森』によれば、その時点でのブローヒンの地位は「保安少佐(モスクワNKVD監獄長)」なのであり、『ウィキペディア』の記述は正確ではないように思われる(2019年2月2日現在でも「1940年2月4日、エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された」との記述のままであった)。

 

 さて、では、ニコライ・エジョフとは何者か? 再び『ウィキペディア』の「エジョフ」の項を参照すると、

 

 ニコライ・イヴァーノヴィチ・エジョフ(ロシア語;Николай Иванович Ежовニカラーイ・イヴァーナヴィチュ・イジョーフ、ラテン文字表記の例:Nikolai Ivanovich Yezhov、1895年5月1日 - 1940年2月4日頃)は、ソビエト連邦の政治家。1936年から1938年まで政治警察・秘密警察であるNKVDの長を務めた。国家保安総委員。ヨシフ・スターリンによる大粛清(大テロル)を実行し、天文学的な数の国民を虐殺したが、のちに自らも粛清対象にされて処刑された。

 エジョフの政治体制は、後世、「エジョフシチナ」(Ежовщинаイジョーフシナ;エジョーフシチナ、エジョフ時代、エジョフ体制の意)としばしば呼称される。

 

として要約される人物である。

  ヨシフ・スターリンによる大粛清(大テロル)を実行し、天文学的な数の国民を虐殺したが、のちに自らも粛清対象にされて処刑された。

とあるように、つまり、あの大粛清のシステムの中心人物であり、やがて当人も粛清の対象とされ、最後にブローヒンの手により処刑されたわけである。

 

 『ウィキペディア』は、エジョフの絶頂期の姿を、

 

 エジョフは、スターリンに対する忠実な支持者であったとことで知られる。1935年、エジョフは政治的反対勢力が暴力とテロリズムと結合して反国家・反革命に結合するに違いないと主張する内容の論文を発表している。これは粛清におけるイデオロギー上の基礎の一部となった。1936年ゲンリフ・ヤゴーダの後任として、9月26日に内務人民委員(内務大臣)、中央執行委員に就任し、翌1937年10月には党中央委員会政治局員候補となった。

 エジョフは粛清の第一段として、まず前任のヤゴーダ派の一掃に着手した。ヤゴーダ派の粛清で生き残った部下を自身の配下に組み入れることで、権力の基盤を磐石にしたのである。1937年3月、将校クラブに招集したNKVDメンバーの前の演説でエジョフは、前任者のヤゴーダが「ファシストのスパイ」として逮捕されたことを述べた上で、「無実の人間を10人犠牲にしてもいいからスパイ1人を逃してはならない。木を切り倒すときは木端が散るものだ」と主張した。また、自身の身長の低さに言及し、「私の身の丈は小さいが、両手は頑丈だ。-スターリンの意思を実行する両手だからだ」と述べた。

 エジョフは、スターリンの大テロルにおける忠実な執行者として君臨した。NKVDとGPUに徹底的な粛清を指揮し、前任者のヤゴーダ、ヴャチェスラフ・メンジンスキーが任命した多くの人員が解任、銃殺されたが、その中にはエジョフ自ら任命した者も含まれていた。エジョフはスターリンから粛清の命令を受けた際には、その一字一句をメモに書き残していたとされる。さらにはNKVDの部署内にさえも、二重・三重の監視網が敷かれた。

 エジョフはかつてレフ・トロツキーを支持していた重工業人民委員部次官ゲオルギー・ピャタコフらを公開裁判(第二次モスクワ裁判)にかけ、銃殺刑を言い渡した。これを皮切りにエジョフ体制下での粛清は猛威を振るい、ソビエト共産党指導者・官僚・軍人の半数、ほかにも数百万人の市民が政府への反抗・政府の転覆活動・反革命の容疑を受けて粛清の対象として逮捕され、容赦ない拷問の結果、処刑・追放・収容所送りに至った。

 1937年12月20日、党はボリショイ劇場において、NKVDの創設20周年を祝う大祝典を催した。会場には、スターリンの巨大な肖像と隣り合ってエジョフの肖像が架けられた。花でうずまるステージにおいて、ダークのコーカサス風のチュニックコートとベルトを締めたアナスタス・ミコヤンが、エジョフの仕事を賞賛し、「同志エジョフから、同志スターリンの方法を学びましょう!ちょうど、同志エジョフ自身が、同志スターリンから学び、これからも学び続けるであろうように!」と述べた。会場にいたある人物は、エジョフの様子を「彼はうつむき加減で、恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。まるで、こんな手放しの賞賛に自分は相応しくないという風だった」と伝えている。スターリンが、このときの様子をプライベートボックスから眺めていた。

 

と記している。

 しかし、その絶頂の翌年、

 

 1938年4月8日、ほかの役職はそのままに、水上交通人民委員を兼任したが、エジョフの役割は徐々に小さくなっていった。これはエジョフの権勢が衰微し、没落する予兆であった。党内で上位にある者を定期的に粛清するスターリンのやり方は、主にそのやり方を組織化する役割を果たしたエジョフも知っていた。同年8月22日、ラヴレンチー・ベリヤが内務人民委員代理に就任する。ベリヤは政治将校の政務のためにエジョフの権力を奪い始め、NKVDの実質的な責任者になった。

 連日のように粛清を繰り返したエジョフは、晩年には疑心暗鬼によって、自身の妻までも粛清している。すでに飲んだくれとなっていたエジョフはアルコール依存症に陥り、絶望的になった。最後の業務の月のエジョフは、陰鬱で、だらしなく、起きている時間はほとんど酒を飲んでおり、勤務のために現れたことは滅多になかったという。

 同年11月11日、スターリンとヴャチェスラフ・モロトフは、エジョフ体制下のNKVDを激しく批判した。エジョフは内務人民委員の解任を自発的に求め、11月25日にはベリヤが内務人民委員に就任した。

 

このように、手にした権力を失っていく。そして、

 

 1939年3月3日、エジョフはソ連共産党中央委員会における全官職を解任された。

 

という形で、スターリン体制における地位のすべてを喪失し、エジョフの立場は完全に逆転することになる。

 

 1939年4月10日、エジョフは逮捕され、スハーノフカ刑務所(en:Sukhanovka)に収容された。拷問に耐えることができなかったエジョフは、奇しくも、自らが多くの人間を処刑したのと同じ理由、すなわち「自分は公式に無能であること、ドイツの諜報機関と結託してスパイ活動を行い、クーデターを計画していた」と自白した。さらにエジョフは、「自分は性的に逸脱しており、男色家で異性愛者である」とも自白した。これはのちに証言によって部分的に補強され、のちの取り調べによってほぼ真実と考えられている。

 1940年2月3日、ソビエトの裁判官ヴァシリー・ウルリヒは、ベリヤの事務室において彼を審理した。エジョフの言い分は支離滅裂であり、前任のヤゴーダのように終始悲嘆に暮れ、スターリンへの敬愛を述べ続けた。エジョフは、ベリヤからスターリン暗殺計画の自白を勧められたが、これを拒否して「どうせこの地上から消え去るなら、高潔な人間として消え去ったほうがましだ」と述べた。エジョフは自身の弁明のためにベリヤの前に跪いて許しを請うが、再三無視された。そしてついに、「スターリンの名を呼んで死ぬ」と誓った。エジョフのスターリン暗殺計画の自白の拒絶は、自身の宣伝目的に役立つことはなかった。

 死刑判決が読まれたとき、エジョフは泣き崩れ、部屋から体ごと運ばれなければならないほどに生気を失った。目撃者によると、ベリヤはエジョフに服を脱ぐよう命令し、エジョフを叩くよう警備員に命令したという。エジョフは体ごと処刑室に運ばれ、しゃっくりし、泣きじゃくった。1940年2月4日、ニコライ・エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された。遺灰は、モスクワのドンスコイ修道院の集団墓地(en:Mass graves in the Soviet Union)に捨てられた。

 

というのが、大粛清システムの中心人物の最後のあさましい姿であった。

 

 しかし、このベリヤもまた、『ウィキペディア』の「ラヴレンチー・ベリヤ」の項によれば、

 

 同年(1953年)12月、ベリヤ、メルクーロフ、コブロフ、セルゲイ・ゴルギーゼ、デカノゾフ、メシク、ヴロジミルスキーの7人は、「英国の諜報機関と結託し、秘密警察を党と国家の上に置いてソヴィエトの権力を掌握しようとしたスパイである」と報道された。ベリヤは特別法廷において、弁護人なし、弁明権なしで、裁判にかけられた。裁判の結果、ベリヤは死刑判決を受けた。モスカレンコによると、死刑判決が下ったとき、ベリヤは膝を突いて泣きながら慈悲を乞い、助命嘆願をしたという。しかし、ベリヤはルビヤンカの地階に連行され、彼と彼の部下は、1953年12月23日にパーヴェル・バチツキーによって銃殺刑に処された。ベリヤの遺体はモスクワの森の周辺で火葬されたのち、埋葬された。

 

という最期を遂げることになるのであった。

 そのような政治体制の中で、「カチンの虐殺」は起きたのである。

 

 

 ちなみに、英語版の『ウィキペディア』には、ブローヒンの項目はあり、その最期についても記述がある。

 

 Blokhin was forcibly retired in 1953 following Stalin's death that March. However, his "irreproachable service" was publicly noted by Beria at the time of his departure.After Beria's fall from power in June of the same year, Blokhin's rank was stripped from him in the de-Stalinization campaigns of Nikita Khrushchev. He reportedly sank into alcoholism and serious mental illness, and died on 3 February 1955, with the official cause of death listed as "suicide".
     (Vasily Blokhin → 
https://en.wikipedia.org/wiki/Vasily_Blokhin

 

 ブローヒンはスターリン批判の中で栄誉を剥奪される。アルコールに溺れる日々を送り、公式には自殺として記録される最期であったらしい。

 そこに大量殺害者としての悔悟があったのであろうか?

 (私には、ブローヒンの悔悟など想像し難いが)

 

 

 

           (「カチンの拳銃弾 4」に続く

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/09/06 21:50 → https://www.freeml.com/bl/316274/170569/
 投稿日時 : 2019/02/01 21:04 → https://www.freeml.com/bl/316274/323553/

 

 

 

 

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2019年1月31日 (木)

カチンの拳銃弾 2

 

 

 ガス室のある収容所は数が限られていたことは、今でも知る人が少ない。もっとも有名なアウシュヴィッツ、トレブリンカ、マイダネクとシュトゥットホーフのほかにはヘウムノ、ソビブル、ベウジェツ、それにシュトゥットホートだけである。
 これに反して、ブッヘンヴァルト、ベルゲン・ベルゼン、シルメック、ノイエンガメ、マウトハウゼン、ラーフェンスブリュック、ザクセン・ハウゼン、フロッセンブルクにガス室はなかった。そこでは、収容者は緩慢な死を迎えるか、拳銃で項を撃たれるか、つるはしで殴り殺されるか、働いている採石場の高い所から突き落とされるか、であった。
     (アルベール・シャンボン 『仏レジスタンスの真実』 河出書房新社 1997 171ページ)

 

これもまた、昨日のルドルフ・へスの証言に加えて、

  後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する

というソ連の手法が、ナチスの強制収容所での収容者殺害においても採用されていた事実への言及(「拳銃で項を撃たれる」)である。

 小銃を構えた銃殺隊による銃殺刑という軍隊的スタイルや、機銃の乱射による大量殺害とは別に、「拳銃で項を撃たれる」殺害法もナチス体制の下で広く行なわれていたのだが、その手法の起源がソ連にあったのではないかというのが今回のテーマのひとつ、ということになろうか。

 

 

 前回記事(「カチンの拳銃弾 1」)で示した通り、「後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する」処刑法は、そもそもは、

 

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。
    (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

とあるように、ソ連秘密警察において愛好され洗練された手法であった。

 あらためて、その詳細について読み進めると、

 

 トカリェフの証言をまとめると、カリーニン虐殺(オスタシュコフ収容所の5291人のポーランド人捕虜は、カリーニンのNKVD本部の地下監房に移送され、別室で殺害された-引用者)はモスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮した。ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参、三人は駅の引込み線に止められた、電話交換機を入れた食堂車に寝泊りした。ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。処刑と埋葬にはNKVDの地方、中央をふくめてあらゆる階級の職員三〇名がたずさわった。看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。ブローヒンでなければカリーニンNKVDの総務部長ルバノフだった。監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。死体から手錠を外すと、中庭で待っている五、六台の無蓋トラックに積みこむ。いっぱいになると覆いをかぶせる。モスクワ=レニングラード街道(当時)にそって三〇キロばかり走ると、トヴェル川にのぞむメドノエ村がある。ブローヒンは村外れの塀のない埋葬地を選んであった。トカリェフの別荘から五〇〇メートル離れた森のはずれだ。一晩でトラックは二往復した。モスクワからブルドーザー二台と運転手が来て墓穴を掘り、死体を埋めた。植樹して隠そうとはしなかった。カチン、ハリコフとちがってカリーニンのドイツ軍占領は短かったので、発見されなかった。
 カリーニンでは合計六三一四人(オスタシュコフ収容所からの移送者以外の犠牲者も含まれる数字?-引用者)が銃殺されたが、一九九〇年に二三の墓穴が掘り返されたときには、死体の司法解剖は不可能だった。遺体は五十年経ち、土に戻っていた。
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 173~174ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

このように記されている。カリーニン虐殺における、ブローヒンの役割と手法の詳細に注目しておきたい。

 

  看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。

  監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。

 

 ブローヒンが従事したのは効率的な処刑=殺人であり、それが彼とその部下にとっての日常業務(「メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまで」)なのであった。

 

 

 ブローヒンの使用していたヴァルター二型拳銃(「ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参」とある)については、ワルサー社の「モデル2」を示すものであるのかどうか、検討の余地が残る。前回記事に引用した「拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた」との記述に示される口径から判断すると、口径6.35ミリの「モデル2」(1909年開発)には該当しない。口径7.65ミリのワルサー社の拳銃ということであれば、いずれも1910年代に開発された「モデル3」あるいは「モデル4」が存在する(註:1)。

 用いられた「後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する」処刑法からすれば、6.35ミリの小口径拳銃でも十分に役に立ちそうである。いずれにせよ、使用されたのはワルサー社の生産した拳銃であり、「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」というのが選択基準であった。「疲れが少ない」拳銃を用いて、効率的な処刑が遂行されたのである。そして、「死体から手錠を外すと、中庭で待っている五、六台の無蓋トラックに積みこむ。いっぱいになると覆いをかぶせる。モスクワ=レニングラード街道(当時)にそって三〇キロばかり走ると、トヴェル川にのぞむメドノエ村がある。ブローヒンは村外れの塀のない埋葬地を選んであった。トカリェフの別荘から五〇〇メートル離れた森のはずれだ。一晩でトラックは二往復した。モスクワからブルドーザー二台と運転手が来て墓穴を掘り、死体を埋めた」とあるように、死体処理も効率よく遂行された。

 日常的処刑業務を効率的に遂行するに際して「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」ことにおいて優位なドイツ製拳銃が、すなわち「ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた」のである。

 

 一方、ナチス・ドイツで愛用されたのは同じワルサー社のワルサーPP、あるいはPPKではないかと思われる。(内容的に妥当と思われるので、入力の手間を省き)『ウィキペディア』記事から引用すると、

 

 ワルサーPP(Walther PP)は、ドイツのカール・ワルサー社が1929年に開発したダブルアクション式セミオートマチック拳銃である。.22口径(5.6mm)、.32ACP口径(7.65mm)、.380ACP口径(9mm)の3種類がある。PPとはPolizeipistole(警察用拳銃)を意味する。

 1929年に開発される。ドイツ警察や再軍備宣言がなされたドイツ軍の将校用標準ピストルとして採用されており、国家社会主義ドイツ労働者党の制式拳銃でもあった。
     (2011/09/05 閲覧時の記述)

 

ということになる。その発展型にワルサーPPKがあるが、

 

 ワルサーPPKは、ドイツのカール・ワルサー社が開発した小型セミオートマチック拳銃である。警察用拳銃として開発されたワルサーPP(Polizeipistole)を私服刑事向けに小型化したもの。名称のKはもともと「刑事 (用)」を意味するクリミナールkriminalの頭文字だが、一般には「短い」を意味するクルツkurzの頭文字だと解釈されることも多い。

 1931年に発売開始。ヒトラーも、愛銃として使用しており、ドイツ警察(ゲシュタポ)や軍隊、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)で制式拳銃とされる。

 

とある通り、どちらもがナチス体制とも縁の深い拳銃である。

 

 

 処刑の効率について、

  屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。

とあったが、ナチス関係のものを読んでも同様の効率性は伝わってくる。しかし、ナチスは、ガス殺というより効率的な手法を開発した点において、ソ連の共産主義者を超えたわけである。

 

 

 いずれにしても、

  ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。

とされるブローヒンの人物像には、ソ連の共産主義の歴史の一面が深く刻印されており、いろいろと興味を引くところがある。

 

 

 

          (「カチンの拳銃弾 3」に続く)

 

 

 

【註:1】

 ワルサー モデル1は、ドイツのワルサー社が1908年に開発した、同社初のポケットピストルである。
 作動方式はシンプルブローバック、トリガーはシングルアクションで発射する。スライドはオープントップデザイン。フレーム左側後部にクロスボルト式のマニュアルセイフティ(シアを固定)を備えている。フロントサイトはあるが、リアサイトはスライド上面の溝を利用するスナッグフリーデザイン。銃身にはテイクダウン用のバレルシュラウドが被せてあり、これを取り外すことで分解するという独特な構造をしている。形状や細かな仕様の違いで、5つのバリエーションが存在する。
 元々は「Selbstlade Pistole Cal.6.35」という名称だったが、後続モデルが登場した際に「モデル1」に改名された。
 1909年には改良モデルの「モデル2」が登場。スライドをフルカバーデザインに変更し、全体的なバランスの見直しを図っている。他にも、内蔵式ハンマーに変更、グリップ底部のマガジンリリースレバーの大型化、マニュアルセイフティをレバー式に変更、などの改良が施されている。初期型には、チャンバーインジケーターを兼ねる可動式リアサイトとマガジンセイフティが備わっていたが、後期型では製造工程とコストを省くため、両機能とも廃止されている。モデル1ではロングタイプだったテイクダウン用のバレルシュラウドは、銃口先端を覆うショートタイプのものに変更された。
 「モデル4~モデル8(モデル5を除く)」になるとサイズが大型化するが、1921年には再び小型モデルの「モデル9」が登場。オープントップスライドでストライカー式という特徴はモデル1と変わらないが、よりオーソドックスなデザインになっている。ただし、マニュアルセイフティの位置はフレーム左側後部ではなく、トリガーガード左側後部に変更された。

モデル
 全長 銃身長 重量 口径 装弾数

モデル1
 112mm 50mm 360g .25 ACP 6+1
モデル2
 113mm 50mm 277g
モデル3
 127mm 67mm 472g .32 ACP 8+1
モデル4
 151mm 88mm 521g
モデル5
 113mm 50mm 269g .25 ACP 6+1
モデル6
 210mm 121mm ?g 9mm×19 8+1
モデル7
 135mm 76mm 360g .25 ACP 8+1
モデル8
 130mm 73mm 364g
モデル9
 99mm 51mm 260g .25 ACP 6+1
     (MEDIAGUN DATABASE→ 
http://mgdb.himitsukichi.com/pukiwiki/index.php?%BC%AB%C6%B0%B7%FD%BD%C6/%A5%EF%A5%EB%A5%B5%A1%BC%20M1

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/09/05 21:18 → https://www.freeml.com/bl/316274/170528/

 

 

 

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2019年1月30日 (水)

カチンの拳銃弾 1

 

 

 これからしばらく、80年前のポーランド人捕虜の運命(1939年の9月1日、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻、同年9月17日にはソ連がポーランドの東側国境から侵攻し、ポーランドは両国により占領された)を振り返るところから始めて、20世紀の全体主義的ユートピアを支えた人間像―特に処刑人とその犠牲者の姿に焦点を当てることになるだろう―について考える機会としたい。

 

 

 コゼルスクから最初の捕虜の一隊を乗せた列車は、四月三日(1940年の話-引用者)の午後に出発した。捕虜は汽車で四時間くらいかけて、スモレンスクを通過して郊外二〇キロばかりの小さな駅に着く。そばをドニエプル川が悠々と流れている。この年の春は遅く、残雪があった。着剣し小銃をもったNKVD(ソ連内務人民委員部)警護・護送部隊が厳重に警戒するなかを、黒塗りの囚人輸送車に押しこまれて、二メートルの金網を周囲にめぐらしたNKVD管理下のカチンの森に入り、三キロ離れた山羊が丘(斜め丘との解釈もある)のある広々とした空き地に連れていかれる。そこには三月はじめに、スモレンスク監獄の囚人を使って八つの矩形の墓穴が掘られていた。深さは二メートルから三メートル。二人の兵隊が捕虜を一人ずつ両脇で腕を抑え、矩形に深く掘られた墓穴の縁で跪かせるか立たせる。後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する。犠牲者は墓穴に倒れこむ。死体は顔を下にして九層から一二層積み重ねられた。
 拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。モスクワNKVD本部は手練れの処刑人一二五人を、ブローヒン少佐を長としてポーランド将校銃殺のために派遣した。しかし、カチンで処刑を統率したのはモスクワから来た処刑人ではなく、スモレンスク
NKVD監獄長グリポフ保安中尉、次長グヴォズドフスキー、ステルマハとみられる。これにスモレンスクNKVD監獄の看守、運転手、それにミンスクNKVD本部から派遣された処刑専門家がくわわったという説が有力だ。しかし資料は十分ではない。ゲシュタポがNKVDに殺人手段で勝るのはガス殺だけだといわれる。拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた。反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない。大量処刑のカチン事件では、ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた。弾丸には、ドイツの弾薬メーカー、ゲンショウを意味するGECOと刻まれていた。ソ連はカチン事件をドイツ軍になすりつける口実にこの弾丸を使ったが、すぐに底が割れてしまう。というのも、第一次大戦後に軍縮で不況をかこったゲンショウ社が、この弾丸をさかんに、ソ連、バルト三国、ポーランドなどに輸出していたのだ。
 いっぱいになった墓穴には土がかけられ、松の苗木が植えられた。その樹齢で埋葬時期が科学的に推定され、ドイツ軍占領以前の一九四〇年春ころが特定され、NKVDの犯行を裏付けた。処刑されることを知って、捕虜が最後の抵抗をしたことは、遺体の状態から想像に難くない。後ろ手を縄で縛られ、それが首にまわされ、暴れると首が絞まるようになっていた。また将校用長外套をまくりあげて頭上で縛ってある遺体も、抵抗したからと推測される。口におが屑やぼろ切れが詰められた遺体もあった。使われた縄はあらかじめ一定の長さに切り揃えてあってソ連製だった。
     (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169~170ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

 

 ここで、私は、軍事裁判と人質処刑のことにふれねばならない。ただし、ここではポーランド人の場合にかぎる。人質は、大方はもう長いこと収容所に入れられていた。彼らが人質だったことは、彼ら自身にも収容所指導部にもわかっていなかった。
 やがて、突然、保安防諜部だか国家保安本部だかからの命令を伝える電報が一通きた。それには、以下の抑留者を人質として、銃殺もしくは絞首刑にせよ、とあった。数時間のうちには、その完了を報告しなければならなかった。該当者は、その作業場から連れもどされ、また点呼によってえらび出され、処刑場に連れて行かれた。
 すでに長らく抑留されていた者たちの多くは、そのときすでにその決定を知り、少なくとも何が彼らを待ちうけているかを予感していた。処刑場で処刑命令が下された。
 初めの時期、一九四〇~四一年ごろには、彼らは部隊の処刑司令部によって、銃殺に処せられた。後になると、絞首刑にされたり、一人ひとり小銃で頭を撃ちぬかれたり、また、病院で寝たきりの病人なら注射で殺されたりした。
     (ルドルフ・へス 『アウシュヴィッツ収容所』 サイマル出版会 1972 108ページ)

 

 

 1939年9月、まずドイツがポーランドに侵攻し、続いてソ連がポーランドの東半分を占領した。独ソ不可侵条約の秘密議定書の取り決めに従い、両国はポーランドを侵略し分割したのであった。

 ドイツによる占領においても、ソ連による占領においても、ポーランド人への取り扱いは過酷を極め、ソ連による「カチンの虐殺」もその一端に過ぎない(註:1)。

 カチンでソ連が用いたのは、

 

  後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する

 

という手法であったが、これは親衛隊あるいはゲシュタポも採用したナチスにとっても重要な殺害手段のひとつであった。

 「ここで、私は、軍事裁判と人質処刑のことにふれねばならない。ただし、ここではポーランド人の場合にかぎる」との限定が付されたアウシュヴィッツ収容所長ヘスの証言にも、「一人ひとり小銃で頭を撃ちぬかれたり」との記述がある通りである(ここで「小銃」と訳されている語は、「拳銃」を意味していたのではないだろうか)。

 また、その手法は、そもそもはソ連における粛清の歴史の中で、国内向けに用いられ洗練されて来たものなのである。再確認すれば、

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。モスクワNKVD本部は手練れの処刑人一二五人を、ブローヒン少佐を長としてポーランド将校銃殺のために派遣した。

との構図(「拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった」)である。引用中に登場するブローヒン少佐は、「一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった」(同書「訳者あとがき」)ような人物であり、ソ連の国民を処刑することにおいて既に豊富な経験を持っていた(そのブローヒンが「手練れの処刑人一二五人」を指揮していたことは、NKVDは既にそれだけ―実際にはそれ以上であろう―の人数の「拳銃による処刑」の専門家を擁していたことを示す)。つまり、ポーランド人は、最初の犠牲者ではない。

 

 

 あらためてソ連の捕虜となったポーランド人の運命について確認しておくと、

 

 三収容所の約一万五五〇〇人の捕虜は、カチンをふくめて後述するように銃殺される。くわえてウクライナ、ベロルシアで七〇〇〇人の将校捕虜が銃殺された。その他に三九年秋にドイツ軍に引き渡されたり、移送途中や、強制労働収容所で死んだ捕虜は一三万三〇〇〇人と推定される。これを合わせると一五万五〇〇〇人のポーランド人捕虜がソ連で犠牲になったと推定されている。
     (『カチンの森』 160ページ)

 この三収容所の収容者は一万四八五六人、そのうち三九五人はなんらかの理由で他の収容所へ移され、その多くが九死に一生を得た。残りの一万四四六一人(一九五九年三月にNKVDの後身KGB議長シェレーピンはフルシチョフに、一万四五五二人とする覚書を送っている。いずれにしても、カチン関連の数字は末尾一桁まで出ているのがいくつもあるが、どれが真実かわからない。ただ真実に近い)とウクライナ、ベロルシアのNKVD監獄に収監されていた約七〇〇〇人の将校たち、合わせて約二万二〇〇〇人が、一九四〇年四月から五月にかけてNKVDによって銃殺された。
     (『カチンの森』 161ページ)

 

つまり、カチン関連でのポーランド人犠牲者数は約2万2000人。全体では15万5000人ということになる。

 

 ザスラフスキーによれば、

 

  一九三九年終わりまでに、ソ連占領地域のポーランド将校は根こそぎ逮捕された。特別命令で、下士官とオサドニツィは将校と同等とみなされ、収容所に拘禁された。逮捕された将校の一部だけが職業軍人で、大多数は予備役だった。かれらはポーランド軍に動員されたばかりでソ連の手に落ちた新聞記者、大学教授、医師、弁護士、技師、芸術家たちである。
     (前掲書 24ページ)

 

とある通り、ポーランドの予備役将校を構成するのは、そのままポーランドの知識人階級であり、カチンでのポーランド将校殺害は、ポーランド知識人の殺害を意味してもいるのである。

 ここでは知識人が、反ソ抵抗運動の中核となることが予期され、その防止策としての殺害が実行されたのである。ザスラフスキーの『カチンの森』の日本語版サブタイトルは「ポーランド指導者階級の抹殺」であり、イタリア語で書かれた原著のタイトルは『階級浄化―カチンの虐殺』である。「虐殺」のターゲットとなったのが特定の階層のポーランド人であった事実を反映した表題である。

 

 その発想はナチスにも共有され、ポーランド知識人はドイツに占領された地域では、アインザッツグルッペン(「特別行動部隊」などと訳される占領地での「敵性分子」の殺害に特化した部隊)による殺害対象の中核とされたのであった。

 ここで(いささかの手抜きではあるが、内容的に妥当と思われるので)『ウィキペデイア』の「アインザッツグルッペン」の項から引用すると、

 

 対ポーランド戦争に際してもポーランド占領をしやすくするためにアインザッツグルッペンが再度組織された。ハイドリヒは1939年9月21日にアインザッツグルッペンの指揮官たちを前に「ポーランドの指導者層・知識人層は絶滅されるべきである」などと訓示している。
 ポーランドのアインザッツグルッペンは、1隊・2隊・3隊・4隊・5隊・6隊・「フォン・ヴォイルシュ」隊の7隊により構成され、それぞれの隊の下にアインザッツコマンドが複数ずつ置かれた。ポーランド戦の際のアインザッツグルッペンの総員は2700名であった。それぞれ陸軍14軍、陸軍10軍、陸軍8軍、陸軍4軍、陸軍3軍、南部軍集団の進撃を後ろから付いて行って銃殺活動を行った。「フォン・ヴォイルシュ」は軍に付随せず、ドイツとポーランドの国境付近において銃殺活動を行った。
 ポーランド戦の際にアインザッツグルッペンの銃殺活動の対象にされたのは主に教員、聖職者、貴族、叙勲者、退役軍人などのポーランド指導者層、またユダヤ人、ロマなどであった。1939年9月1日から10月25日にかけてドイツ占領下のポーランドでは民間人16,000人以上が殺害されたが、そのうち四割がアインザッツグルッペンによるものとされる。
     (2011/09/04 閲覧時の記述)

 

と記されている通りである。ラインハルト・ハイドリヒは「ポーランドの指導者層・知識人層は絶滅されるべきである」と訓示し、部隊はポーランドの指導者層・知識人層の絶滅を実行した。

 

 

 ナチス・ドイツとソ連の両全体主義体制の発想と手法の共通性、そしてその犯罪性を考える際に、この「カチンの虐殺」は一つの象徴的事件と言えるだろう。

 

 米英は、カチンにおけるソ連の行為を知りながら、対枢軸戦争での勝利を優先し、連合国の一員となったソ連(1941年6月、ヒトラーのドイツがソ連との不可侵条約を破棄し対ソ戦争を開始したことにより、ソ連はヒトラーの側から連合国の側へと転換していた)に迎合し、ソ連によるポーランド人将校虐殺を不問にしたのであった。

 ポーランド人は、米英の政治的リアリズムによってもカチンの墓穴深く葬り去られ、忘れ去られようとしたわけである。

 

 

 

          (「カチンの拳銃弾 2」に続く)

 

【註:1】

 ポーランドの戦争補償局の報告(一九四七年)によれば、戦争中の死者は、実に戦前の人口の約五人に一人、六〇二万八〇〇〇人にのぼった。そのうち戦闘行為による戦死者は軍人・民間人を合せて六四万四〇〇〇人で、残りの五三八万四〇〇〇人が根絶政策に従って意図的に虐殺された。
 この中には二七〇万のユダヤ系ポーランド人が含まれている。戦前のユダヤ人人口は三三〇万人であったのだから、死を免れたユダヤ人はわずかに六〇万人ということになる。ユダヤ系ポーランド人を含めてポーランド国民はまさに絶滅の淵に立たされていた。
 一方、赤軍の占領下にあったポーランド人も、決して安全であったわけではない。ヒトラーが「占領者の権利」に基いてポーランドの領土を処置したのに対し、スターリンは、民族自決という一見民主的な手段を講じてほぼカーゾン線から東にあたるこの地域をソ連邦に併合した。つまりソ連政府は、独ソ秘密協定に従って、ヴィルノ地方をリトアニアに割譲したあと、残余の地域に二つの国民会議を創設させ、これにソ連邦への編入を宣言させたのである。ここでもロシア中央部に強制的に移されたポーランド人は一五〇万人にのぼったという。
     (山本俊朗・井内敏夫 『ポーランド民族の歴史』 三省堂選書 1980  187~189ページ)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/09/04 19:11 → https://www.freeml.com/bl/316274/170440/

 

 

 

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2018年12月27日 (木)

明治の悪童と修身 (『實驗 日本修身書巻八 高等小學 生徒用』)

 

 古本の価値というのは様々だと思うが、かつての持ち主の書き込みを読むという楽しみもある。もっとも、最近の出版物(出版後10数年程度)であれば、新本でないがゆえの安価な入手法としての古書店利用もあり、その場合は当然ながら書き込みのないものを選ぶ。

 しかし、戦後復興期以前の出版物となると、書き込みの内容から、当時の読者の関心のあり方を読み取るという楽しみ方もあり、あえて書き込みのある古書に手を出すこともある。

 

 今回は、古書市で手に入れた、落書き炸裂の明治期の修身教科書の紹介である。

 

 

 

 三宅米吉 中根淑 校閲 渡邊政吉 編纂 『實驗 日本修身書巻八 高等小學 生徒用』 (明治廿七年一月十六日 文部省檢定済) 東京 金港堂書籍會社 明治廿六年(1893)  定價 金七銭

 

 2015年に、改装前の立川フロム中武の古書市で購入。価は500円であった。

 

 

 

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(表紙)

 

 表紙を一瞥して、特徴ある筆法(いわゆる「ひげ題目」系)から、日蓮宗関係の書かと思いきや、そうではなかった。修身の教科書!

 

 

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(見返し)

 

 こちらも、タイトル部分は日蓮宗的筆法が加えられている(持ち主の生家が日蓮宗、という生育環境の反映か?)。

 肖像が誰のものかは、教養が足りず、不分明。筆描きの肖像の上方には、鉛筆描きによる富士山がある。題目風にあらためられたタイトルの下方には、「大日帝國萬歳萬歳萬歳」の文字もある。

 

 これだけでも、なんとも豪快な修身教科書への落書きだが、本文については至って真面目で、鉛筆による漢字表記への振り仮名が付されている程度である。

 

 

 そして…

 

 

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(奥付、裏表紙の見返し)

 

 裏表紙側の見返しに描かれているのは、さらに豪快で怪異な西郷従道の肖像であった。やたら長い足に、股間からは謎の生物(?)の姿。

 ちなみに、従道は、

 

  さいごうつぐみち【西郷従道】
  1843‐1902(天保14‐明治35)
  明治時代の軍人,政治家,元老。本名は隆興,通称信吾。薩摩国鹿児島城下に生まれる。西郷隆盛の実弟。1869年(明治2)山県有朋とともに兵制研究のため渡欧(プロイセン,フランス,ロシア)し,帰国後兵部権大丞陸軍少将,兵部少輔,陸軍少輔,同大輔に進む。74年陸軍中将兼台湾蕃地事務都督に任ぜられ,政府の中止命令をおして台湾へ出兵した。76年征台の功により最初の勲一等に叙せられる。78年参議兼文部卿次いで陸軍卿に就任し,81年農商務卿,84年伯爵,そして85年内閣制の成立を機に海軍大臣となった。
     (平凡社/世界大百科事典 第2版)

 

このような人物である。経歴を反映して、落書上でも当初記された「陸」の字が消され(そのままでは「陸」軍大将)、従道の肩書は「海軍大将」に換えられている(背景には軍艦)。

 怪異な肖像が描かれた当時(従道は第二次伊藤内閣で海軍大臣に任じられていた)、すなわち明治27(1894)年は日清戦争の年でもある。先の「大日帝國萬歳萬歳萬歳」の文字も、そのような時代の空気を反映したものであろうか。

 

 

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(見返しの裏)

 

 先の西郷従道の肖像は、見返しの上に描かれていたものだが、見返し紙は貼られた裏表紙の裏からはがされ、裏表紙の裏には鉛筆画が描かれている。「徳川時代風俗」、ということらしい。

 まだ明治20年代の話なので、「徳川時代」は持ち主の父母の生まれた時代である(たかだか20数年前まで「徳川時代」が続いていたのである―もっとも、描かれているのは徳川時代初期をイメージさせる戦闘モードの武将の姿であるが)。

 

 

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(裏表紙)

 

 持ち主の名が記されている。この奔放豪快な落書きの作者は、当人の署名により、小川八郎君と判明。生年は明治10年代、1885年前後であろうか(19世紀の話なのだ)。

 裏表紙には、日清戦争らしき戦場が描かれている(まさに日清戦争最中の小川八郎君の高揚感が伝わる)。しかし、なぜか、戦場の手前を走るのは、軍服姿の帝國軍人ではなく、烏帽子姿の人物である(八郎君の想像力上の必然から生まれた表現であろうが、21世紀の私の想像力は、その「必然」に届かない)。

 

 

 「大日帝國」は日清戦争で勝利し、日露戦争で勝利し、第一次世界大戦でも勝者の側にあったが、支那事変以来の大東亞戦争では敗者となる。昭和20年には還暦前後となっていた小川八郎氏は、どのような老人(かつての日本では60歳は既に立派な老人である)となっていたであろうか? 「大日帝國」の近代をどのように経験したのであろうか?

 

 

 

 『日本修身書巻八』の第十七課では、以下のように説かれている。

 

 

  人の質性は、生まれながらにして、完備せるはなし。されば、人皆自ら其の身の長ずる所と、短なる所とを知り、其の長ずる所を助けて、ますます長ぜしめ、其の短なる所を養ひて、漸く長ぜしめんことを務めざるべからず。斯くの如くするを、自ら其の身を修むといふ。自ら其の身を修むるは、何人にも極めて大切なり。人としては、多少父母教師の教へを受けざるものもなかるべければ、自修の心なくとも、無下に愚かなるものともならざるべし。されども、自修の心なきときは、父母教師の教へも、深く其の心に入らざるべければ、其の人に取りて、大いなる損なり。
     (第十七課 「修養」から抜き書き)

 

 

 この豪快に落書き(むしろ「落描き」と呼ぶべきか?)された修身教科書から、小川八郎少年は何を学び取ったのであろうか? この奔放豪快さを八郎少年の「身の長ずる所」として理解し、「其の長ずる所を助けて、ますます長ぜしめ」ようとした高等小學校教師との出会いはあったであろうか?

 

 

 

(小川八郎少年は、学校での修身の授業の度に、教室でこの教科書を開いていたのであろうか? とすれば相当な悪童である。 それとも進級して用済みになってから、教科書を落書帳へと転用したのであろうか? 本文ページが無事なところからすると、落書帳転用説も弱い。 やはり悪童説が妥当なのであろうか?)

 

 

 

 

 

((オリジナルは、投稿日時 : 2018/12/27 13:02 → https://www.freeml.com/bl/316274/323029/

 

 

 

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2018年11月24日 (土)

無事なりし吾家の火鉢囲みけり (徳川夢声と昭和19年11月24日の空襲)

 

 

 昭和19(1944)年11月24日から、東京はB-29による空襲のターゲットとなった。同年7月にサイパンが陥落し米軍の占領地域となったことで、ついに東京はB-29の航続距離圏内に入り、米軍による航空基地の整備、部隊の訓練等を経て、11月24日の空襲に至ったのである。

 山田風太郎は、当日の経験を日記に記している(「プロパガンダと記録(東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃)」から再録)。

 

  ついウトウトと眠ってしまった。ふと眼を醒ますと、拡声器が、
「空襲警報発令! 空襲警報発令!」
と叫び出したので愕然となる。横浜駅であった。プラットフォームも車内もいっせいに騒然となり出した。
「なつかしの東京に、とんでもないことが待っていたなあ」
と、だれもが笑う。みな生き生きと嬉しげな顔になる。
  ただちに武装し、車窓の青幕を引いてそのまま発車する。
  川崎駅に入るや、全員退避の命令が下った。自分達も一般乗客も、デッキから構内へばらばらと飛び下りて、駅前の広場へ逃げ走る。プラットフォームではないので、一メートル余りの高さを飛び下りる女の中には、足を挫いて倒れる者もある。
     (山田風太郎 『戦中派虫けら日記』 ちくま文庫 1998  535ページ)

 

 これが当時、東京医学専門学校の学生であった山田風太郎の昭和19年11月24日の日記である。

 11月21日から富士山の裾野での軍事演習に参加した医学生達が東京へ到着しようとする時に、空襲警報の発令にあい、川崎駅で下車して駅近くの防空壕で警報解除までの時間を過ごす。そして…

 

  一時間半もたって、ようやく入口から這い出すことを許された。空は灰色の雲に覆われ、もう砲声も爆音も聞えない。
  満員電車に乗ってやっと品川に着き、山ノ手線で新宿に帰る。空襲警報は解除になったが、乗客はむろん何となく殺気立っている。がやがやと話し声は聞えるが、べつに今の空襲について話しているわけではないらしい。無意味なる騒音、沈痛なる動揺――といった態である。
  すると、五反田から乗り込んできた二十二、三歳の工員風の男が二人、突然溜息を吐いて、
「おい、凄かったなあ、おれ、飯が食えねえや!」
と、叫んだ。みなふりむいた。一人の紳士が、おずおずと、
「――何か――見て来たんですか?」
と、たずねた。工員は待っていたように、カン高い声でしゃべり出した。
  二人は荏原を通って来たのだそうで、そこの防空壕に入っていると、突然しゅうっという実にいやな音が聞え、つづいて、ゴーっという凄まじい地響きがした。しばらくたって這い出してみると、二、三百メートル向こうに黒煙が見えた。いってみると三十メートルくらいの大穴が地にひらいて――「五十メートルはあったよ」と一人が訂正する――家は吹き飛ばされ、なぎ倒され、崩れおち、近傍の屋根瓦や戸障子やガラスなどが恐ろしい惨状をえがき出して――人はむろん死んでいた。防空壕の中で十数人全員即死したものもあり、身体の表面に傷は見えないのに真っ白になって死んでいるのもあり、幼児など石垣に叩きつけられてペシャンコになり、――
「病院へもいってみましたが、実に何ともむごたらしいかぎりでさあ。おら、腰がぬけちまった。顔の半分なくなったのが、口をあけてうなってるんですからね。たいてい女です。子供はわあわあ泣いている。――工場に主人の出た留守、一家全滅したのもあるそうです……おれ、今夜飯が食えねえや、……」
 一人がはっと気づいて眼で知らせながら、
「おい、あんまりしゃべらねえ方がいいぜ」
と注意した。
  二人は急に沈黙したが、また昂奮を抑えきれないらしく、蒼いカン走った声で「おら、飯が食えねえや」を繰り返しはじめる。――
  ○五時前に帰校。ただちに解散。
  下宿に帰ると、部屋のガラス窓はみななずされ、まるで暴風の一過したあとのようだ。しかし、こちらは全然何事もなかったということであった。やがて警戒警報解除となる。
  夜のラジオによれば、本日帝都周辺に来襲した敵機は、マリアナよりの七十機。主として荏原附近に投弾したらしい。
          (539~541ページ)

 

 

 日記には「夜のラジオによれば、本日帝都周辺に来襲した敵機は、マリアナよりの七十機。主として荏原附近に投弾したらしい」とあるが、市街地である「荏原附近」が本来の攻撃目標であったわけではない。

 本来の攻撃目標は、市街地ではなく、軍事的価値をもつ武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所(カテゴリー「多摩武蔵野軍産複合地帯」収録記事も参照)であった。米軍は当初から都市無差別爆撃を志向していたわけではなく、高高度からの軍事目標への精密爆撃を戦術の基本としてはいたのである。ただし、それが達せられなかった場合の市街地爆撃も作戦計画には組み込まれていたのであり、市街地への爆撃が軍の指示から逸脱したものであったわけではない。その後も軍事目標への爆撃の価値が失われることはなかったが、翌年3月10日以降、市街地への無差別爆撃への躊躇は失われることになる。

 

 

 当時の日記類にも、空襲の経験は様々に記されているが、今回は徳川無声の日記を読んでみたい。11月24日の(そしてそれに続く)東京への空襲が、徳川夢声にはどのような経験であったのか。

 実は、夢声は11月24日には東京にいなかった。その時期は、苦楽座の一員として産業戦士慰問の地方巡業公演中であったのである。24日は、福井の小松日本館での公演をこなしていた(ただし「昼夜トモ不入リ」であったが「閉場後、館主ノ宅ニ招待サレ、鶏すき、酒ナド大御馳走。大損ヲサセタ上、甚ダ気ノ毒ナリ」と記されている)。

 空襲については翌25日の日記に、

 

  小松駅の売店で新聞を買う。出ている!
  ――B29八十機帝都空襲!
  やっぱり来やがったな、と思う。大した感動もない。なんだか「〆たッ」という気持ちもする。うれしいという感じとよく似た心境である。
  杉並区の吾家は如何? 妻は如何? 子供は如何? などチラチラ考えてみるが、あまりピンと来ない。坊やの姿だけが一番ハッキリ浮かぶ。
  ――なァに、私の家は大丈夫さ。
  心の底にはこの観念が納まっている。
  だが万一の事吾家にあった時、私という男が、如何に狼狽てるか、また狼狽てないか、まるで予測がつかない。遅かれ早かれ、東京が半分くらいになるのであろうが、それはまたその時のこと。
     (徳川夢声 『夢声戦争日記(五) 昭和十九年(下)』 中公文庫 1977  231ページ)

 

このように登場するが、自宅近辺の状況は(それだけでなく東京の状況も)、報道からはわからないのである。東京への空襲も、情報のない中、遠く離れた巡業先の夢声には切実な問題とはなっていない。夢声にとって切実であった(11月30日付日記)のは靴の盗難被害(これで三回目)であった(戦時下生活での靴の盗難被害は珍しいものではなかった)。

 

 

 12月1日の日記に、岐阜へ向かう車中で出会った東京からの避難者が登場する。

 

  二十九日夜(一昨夜ナリ)の東京爆撃に出っくわしたという女たちが、途中駅から乗り込んできた。東京を出発するまで、生きた気はしなかったと言う。
  ――日本橋、小石川、神田など酷くやられたらしい。
  ――夜通し火の手が上がっていたそうだ。
  だんだん話を聞いているうちに、これは大変だと思い出した。一刻も早く東京へ帰らねばならんと思う。女たちはそれぞれ子供をつれていて、これから大阪へ行くのだが、その大阪も今度はイカれるだろうと話していた。
  丸山ガンさんにその話をしたら、
「なアに、女のハナシには誇張がありますからね」
  と至極落ちついている。ガンさんは既に、郊外にある三好十郎の家に疎開し、夫婦二人きりで子供もない。なるほど、立場が違うと、Aにとっての一大事も、Bにとっては一向平気なわけだ。
  杉並の家で、水のある防空壕を、坊やが出たり入ったりする幻がチラついてならないのである。
     (244~245ページ)

 

 

 空襲が切実なものに感じられるようになった夢声は、「一日も早く東京へ帰って、家族と苦を共にすべきである」との思いを抱くようになる。しかし、

 

  宿へ帰ってから、同人の顔の揃ったところで、
「どうも東京空襲は容易ならんものらしい。私は九州行を御免こうむりたい」
  と申し出た。一大決意をもって申し出たつもりだった。すると高山君が、馬鹿に静かな声で、
「あなたが行かないという事は、この旅を中止するということになりますなあ」
  と言った。
「なにも中止するには当たらないでしょう。私一人だけぬけるんですから……」
「しかし、兵器廠との契約に、あなたの名が含まれていますから……」
  私が行かないと、契約を破ることになると言う。
「どうぞこの通りです。苦楽座同人に対する愛情を、何とか持ってもらえませんか? ねえ、お願いします」
  と丸山定夫君が、畳に両手をついて、華々しく頭を下げた。そして、結局私は、九州まで行くことにされてしまった。
  だらしがない! まったく吾ながらダラシがない! こんなことなら初めから帰京するなんて、言い出さない方が好かった。
     (246ページ 12月2日の条)

 

 

 この後の数日は、日記に帰京の話は記されていないが、もちろん、心の底では東京の家族のことを気にかけ続けていたはずである。

 

  美濃の山河を車窓から見つつ、人間は常に死と直面せることを思う。なにも空襲時に限ったことではない。いつ心臓の故障で斃れるか、いつ屋根瓦が落ちて昏倒するか、分かったものではない。空襲があるからと言って、急に狼狽てるのは、甚だ愚である。常時と同じ気もちで、私は旅を続ければ好い訳だ。死はいつも眼前にあり、同時に生も遥かに彼方のものである。
     (248ページ 12月4日の条)

 

 12月4日には、自らに言い聞かせるように、日記にこのように書きつける。しかし、いつか自身に訪れる死への覚悟を記すことで、離れた東京で空襲下にある家族の身の上への心配が霧消するわけでもないだろう。

 

  武蔵野工場(中島飛行機)が爆撃され、学徒が沢山死んだという事は本当らしい。浅野院長、副院長、看護婦たちはどうしたろうかしら。これが荻窪工場だったら、私もじっとしていられない訳だ。何しろ早く東京へ帰りたい。
  松沢病院に爆弾が落ちたという、昨日車中で聴いた情報は、まだ疑わしい。
     (252ページ 12月6日の条)

 

いろいろな噂が耳に入り、あらためて「何しろ早く東京へ帰りたい」と思う。

 

 そして12月7日、倉敷で妻からの速達を受け取る。千秋座前にの事務所で受け取った手紙を、夢声は座員と共に訪れた美術館の中で読む(「ゴーガン、モネ、ゴッホを前に、ミレー、シャバヌ、モローを背に、大ソファの上で、改めて静枝の手紙を読む」)。

 

  毎日毎日手紙を書こうと思いながら、先月の空襲以来、午前十一時になると敵機の来る時間なので、早めにご飯やら色々の支度。午後三時頃になると少しはおちつき、又夜は十一時頃より心配が始まり、まったくおちつきません。
  何しろ敵機が来る度に杉並、それも荻窪近くときて、中島(註 中島飛行機荻窪工場、田無工場、小金井工場トアリ)はそのたんび。田無は一番ひどく、大分の死人です。荻窪も宮田さん(註は略)の近所に先日は五個ぐらい落ち若杉小学校(註 愚息ノ通学シタ校)はいつもねらわれて、三日の時は家のそばのフミキリの家に落ち、親子二人生き埋めになり大変でした。それから八幡様のそばにも落ち、四、五人生き埋めで死んだ人もあります。
  折角でき上った陸橋の真中にもバクダンが落ち、線路にも落ち、中央線二日間不通、歩いて通う人、田舎に逃げる人で、大晦日の銀座通りの様でした。
  今日はやっと静かになりましたが、何しろこれだけバクダンが落ちる間の気持ち、ゴー(壕)の屋根の不完全さに、地ひびきや色々の音で、中に居た者は皆、生きた気持ちもありません。今度は家に落ちたかと、あと見廻るのも大変です。でも裕彦さん(長女俊子ノ夫)も質屋さんもみまわってくれますし、ことに質屋さん(註は略)はよく来てくれるので、其時はほっとします。
  一雄の学校も休みになり、時々は様子により出かけます。でも今まで皆が無事なのはほんとに結構と思います。
  一日中何もできず、そわそわと暮らします。杉並も荻窪もこんなに危険とはいがいでした。
  子供たちもビクビク閉口しています。夜の時も雨は降るし、洩るし、心細いこと此上もありませんでした。私だけはゴーにも入らず外にいましたが、質屋連のおかげで少しは心丈夫でした。
  空は真赤になるし、新宿あたりかと思いましたが、神田と日本橋でした。神田は千戸くらい、死人は大変だそうです。日本橋は白木の裏、阿野さんの事務所はやっと一廓のこったそうです。それで家でも急に、茶間の前に、裕彦さんと質屋さんに、丈夫なゴーを掘ってもらってます。石田さん(私のマネージャー)は三日の夜、荻窪がなくなったと言われビックリして見舞にきてくれました。今日(五日)は小島、丸山、吉井アン氏など三人きてくれ、丸山さんは旅から帰ったばかり。吉井さんは今晩と明日はゴーの手つだいをしてくれる事になっています。
  頭山(註 妻の妹の嫁ぎ先)でも心配して近所にいる富岡氏と尾形氏を見舞によこしてくれました。是非、田舎に家をかりるよう言ってます。私も、一坊、俊子、明子くらいは田舎にやる様にしなければいけないと思っています。
  何しろ地ひびきがダンダン近くなり、ガンガンいう音を聞くと、手足まといはまったく気になります。
  一日も早く帰られる事を一同まっています。
  飯田の母上は其上かるい中風になり、寝ているので閉口でしたが、空襲でびっくりして起きられたそうです。原宿駅前東郷神社にも落ちたそうです。
  そろそろお時間になりますから、これで。
     (254~256ページ 〔妻の書簡〕)

 

 千秋座前の事務所での開封直後にも、「自宅の近く踏切番親子が生埋めになったとあっては、もう少しで私の家の者が生埋めになるところだった事を意味する」と夢声は事態を理解した(註:1)が、

 

  さて、この手紙を改めて、大原美術館の名画に囲まれて、静かに読んでみた。大変だ大変だという気もちがだんだん真物になり、何か斯う血の気の下がる思いである。

 

美術館のソファの上での思いの深まりを記している。しかし、

 

  劇場昼の部、漫談が終わって「無法松」を開幕しようとするや地震あり。水平動であるが永い地震である。停電となる。客席から催促の喝采に私の心は甚だ落ちつかない。斯うなると、東京の空襲よりも何よりも、さしあたり早く電気がくれば好いと、そればかりが気になる。
  人間の感覚というもの、眼をつむれば富士山も見えないように出来ているから仕方がない。他人の首が切られるより、自分が針で刺される方が痛いのである。東京のことをケロリ忘れている時間を、自分ながら妙なものと思う。
     (256ページ)

 

夢声は劇場で昭和東南海地震(マグニチュード7.9、最大震度6)に遭遇するのである。「東京のことをケロリ忘れている時間」を味わうことになった。

 

 しかし、もちろん、「何しろ早く東京へ帰りたい」という思いが失われることはない、のだが…

 

  家が爆撃されたのならとにかく、近所に爆弾が落ちたでは、工場の慰問を捨てて、東京に帰る理由にはならん、と徳衛門氏は言う。だから帰るというなら私が病気をしたという事にしよう、そんなら言いわけは立つ、と彼は言う。爆弾が落ちてからではなんにもならん、落ちそうだから帰るのである。然し、慰問する相手が軍需工場の戦士たちである。この方は公事であり、吾家の方は私事である。入場料をとる興業ならまた話は別であるが、どうもこいつは私だけ一座からぬけるという訳に行きにくい。
  一方中坪の方では、委細構わず私の切符も買って了い、うやむやのうちに私を小倉に送り込む手配をしている。
  えーい、仕方がない、と諦めた。
     (257ページ 12月8日の条)

 

との次第で「えーい、仕方がない、と諦め」るのである。

 「諦め」ながらも、

 

  寒い寒い、足首の所が殊に冷える。ねむいので眼をつむると、寒さが肩の辺から水のように浸みこんでくる。吾家のことを想う。坊やを疎開させねばと思う。この正月は定めし厭な正月だろうと想う。俊子が赤ン坊を産んでも、空襲つづきでは母乳が止りはしないかと思う。東京の半分が無くなった時、私たちの家にも他人が強請的に割り込んで来るだろう。家庭生活なんて目茶目茶だと想う。インフレまたインフレで、いくら稼いでも始まらない事になりそうだと想う。
  この数日来めっきり悪くなった歯で、ポロポロの握り飯をムニャつきつつ、しみじみ味気なくなる。あれを想いこれを想いしているうち、――戦争はイヤだなア、と心の中で言う。馬鹿! 貴様は日本人か! と自分を叱る。
  敗戦は無論イヤである。然し、戦争も別にヨクはない。
     (258ページ 12月9日の条)

 

このような「想い」を書き連ねる(「反戦」というよりは「厭戦」の気分であろう)。同じ日、

 

  人間の思想斯の如し、平静なる時、興奮せる時、悄然たる時、同じ人間が同じ日の中に、幾度か変転する。一椀の飯、一杯の酒、寒暖五度の差よく思想を左右する。
  平静なる時の思想を当人の思想とすべきか、あらゆる場合の最大公約数を当人の思想とすべきか?
     (259ページ 12月9日の条)

 

このように自らを突き放してもみる。夢声の想いは、日々「変転」を続ける。

 

  小倉の街、何所を歩いても雑然たる感じ。イヤな街である。取片づけてない疎開の跡、空爆の跡、凸凹の道、加うるに寒気凛冽とくる。
  然し、あれほど目茶目茶に空爆された噂のある小倉が、この程度で、市民は平気で住んでいるという点が、私の心もちを楽にしてくれた。なアに東京だって斯の通り、少々の爆撃では平気で暮らせるに違いないと思う。
  工廠と産報の仕事とあっては、私も諦めて約束の十七日までは仕方があるまいと決心する。
  それに、私の家の近所が酷くやられたという事は、次の空爆には安全だという気がする。そう一つところがやられる筈はないという気がする。一度やられた町は、即ち敵の狙ったところというなら話はまた別になるが、盲爆であるなら、一度落ちた近所にはもう落ちないと見て宜しかろう。
     (259~260ページ 12月10日の条)

 

 既に空襲下となっていた小倉(翌日の夜には夢声も離れた場所での空襲を経験する)の街の姿を前に、「なアに東京だって斯の通り、少々の爆撃では平気で暮らせるに違いない」という気持になり(そのように自身に言い聞かせ)、「工廠と産報の仕事」であることと併せ、「私も諦めて約束の十七日までは仕方があるまいと決心する」のであった。

 

 

 こうして、座員への昼食の用意もないようなトラブル(一方で、終演後に館主・主催者等による「御馳走」を堪能する機会も多かったが)も起きる中、風船爆弾工場への動員学徒の慰問も経験しながら、12月20日過ぎまで九州での巡業を続けることになる。

 

  これで三日昼飯でもめている。今日は皆が混ぜ御飯の握り飯にありついたのが後二時頃である。元来今日は三方から昼飯が出る事になっていた。昨夜のうち中坪が交渉しておいた劇場での炊出し一ツ、平林老の自腹によるもの一つ(三十人前と称す)、工廠の方から支給されるもの一つ、これだけある話であった。それが平林老提供と称するものが、劇場の米一升五合を用いたものであり、工廠の分は十二時迄に取りに行かなかったから分けてしまったという返事である。工廠の役人から取りに行けと言われたのが十二時四十分過ぎであったから、十二時前に行ける訳がない。
  要するに、金儲け主義のインチキ興行師や、ブローカーや、二重にも三重にも絡んでいるところへ、工廠が絡んだり、警察が絡んだり(産報関係)で、結局一本筋の責任者がいないせいであろう。
  私と釜さんは今日も工廠で昼飯を喰ったから好いようなものの、他の座員はこれで三日続いて昼飯で苦しんでいる訳である。自分の腹は一杯でも、斯ういうゴタゴタを聴かされると、こちらも苦労になる、実に馬鹿馬鹿しい話。
     (262ページ 12月12日の条)

 

  今日もまた昼飯問題でヤッサモッサ、今は既に午後三時、まだ昼飯が来ない。飯々々で大騒ぎを、ベニヤ板一枚の隣室に聴かれて了う。そこには田舎廻りの劇団がトヤをしているらしく先刻も本読みが聴こえていた。田舎廻りの劇団は定めし、東京の最紳士劇団の文句を聴いて呆れているに違いない。
  やっと運搬された工廠よりの昼飯、飯の分量は充分だが副食物が菜葉の煮つけ、この食事のためあの大騒ぎと思えば苦笑ものである。あとで聴くと、私たちは早すぎたので、豆腐の煮たのと、沢庵の山盛りにありつけなかったのだそうだ。
     (264~265ページ 12月13日の条)

 

「昼飯問題」に翻弄されながらの産業戦士慰問巡業であった。「金儲け主義のインチキ興行師や、ブローカーや、二重にも三重にも絡んでいる」のは劇団の地方巡業の常でもあったろうが、戦時日本であればこそ、そこに「工廠が絡んだり、警察が絡んだり(産報関係)」と事態はより複雑化することになる。しかもそこに「結局一本筋の責任者がいない」という戦時統制の典型的症状が見出される。

 

 巡業も終盤を迎える中で、帰京の算段をするが鉄道は不通、郵便も電信も不通である。あらためて家族への募る想いが湧き上る。

 

  東海道線豊橋静岡間が未だに不通であるという。十八日には私が東海道線で帰京する訳だが、徒歩連絡などありとすると、あの重いスーツは困る。中央線でも迂回して帰るか、どうするか。現在は郵便も電信も不通だという。事によると東京から何か急の報せがありながら、こちらに届いていないのかとも疑われる。東京へ帰ってみると、吾家に大惨害があったら、など想像する。

  釜サント語ル――荻窪ノ家爆撃サレテ、私一人生キ残ッタ場合如何ニスルカ? 自殺スルカモ知レント私ハ言ッタ。
     (265~266ページ 12月14日の条)

 

  尾形重蔵に扮する時肥衣を二枚つけるが、これは妻が私の注文に従って、素人らしく造ってくれたものだ。下に着けるのはシャツを加工したもので、やや型を成しているが、上に着けるのは、チャンチャンコのような、暖簾のような至極不細工なものである。然し、私はこの不細工なところに一種の涙ぐましさを感ずる。こんな亭主を持った為に、彼女もこんな不細工な作品を縫わなければならなかったのである。私はこれを着ける度毎に、いつも妻を懐かしくあわれに思い出す。

  遠く離れていて坊やを考える。何故日頃もっと坊やに優しくしなかったと悔いる。さて顔を見るとすぐ小言が言いたくなる。自分と坊やとあまりに性質が似ているせいなのであろう。自分に対しては腹の立つことが多いのであるか?
     (271~272ページ 12月17日の条)

 

 

 産業戦士慰問も最終日を迎えたはずが、

 

  ヤレヤレ今日一日勤めれば、明日は東京へ発てると、ほがらかになっていると、平林老楽屋に現れて、二十日迄是非とも頼むと言う。全くうんざりして了った。平林老は私が途中からぬける事を契約の際知らずにいたのである――言わば一杯喰わされた型なのである。間に入った興行師連が悪いのであって、私には責任が無い訳であるが、老の立場として見れば気の毒でもある。頼まれてみると、イヤどうあっても帰るとは、私として言えなくなる。私の家の近くに爆弾が落ちたところで、老にとってはなんでもない事である。思えばお互様で、老の妻君が先日、天ぷらを揚げていて顔に火傷をしたという話を聴いても、私としては何等感動しなかった。こっちの爆弾は先方の火傷である、即ち他人の歯痛は私の歯痛でない。
  これは結局、二十日迄勤めさせられる事になりそうだ。放送局の事などで嘘をつけば、老も強いてとは言えなくなるだろうが、ウソはつきたくない。してみれば、工廠の兵器戦士慰問という公事の前に、吾家の心配という私事は、犠牲にせねばならない。
  二日早く帰宅したところで、実は別にどうという事もない訳だ。東海道線は今だに不通、帰るとすれば、今のところ、信州を廻って、松沢の家へ行き疎開先を物色したりして、東京に帰るという段取になりそうだから、明日出発として二十一日か二十二日にならないと荻窪へは着かない。二十日迄いれば、或は東海道全通となるかもしれない、それなら二十二日には帰宅出来る。
  まア仕方がない。二日余計勤めたために、吾家が全滅となるという事もあるまい。一日も早く帰りたい事も事実だが、二日延びればそれだけイヤな天沼の防空壕から遠ざかる事でもある。
     (272~274ページ 12月18日の条)

 

「私事」より「公事」の優先を自身に言い聞かせるしかない。

 

 しかし、苦楽座のメンバーの「私事」にも戦時の苛烈さが滲み出る。

 

  丸サンの兄さんが死んだという電報が来た。これは正に丸サンにとっての一大事である。今年になって四人兄弟のうち二人の兄さんが死んでいる。今度死んだ兄さんには、未亡人の他に二人の幼児が遺された。この遺族の面倒を見なければならないらしい。然し、私はさのみ心痛はしない、いや全然心痛しないと言ってよろしい。気の毒だなアと意識の表面で軽く考えるだけだ。私の不幸も丸サンにとって同じことである。
     (276ページ 12月19日の条)

 

  昨日ハ丸山君ノ兄ノ死。今日ハ河原君ノ兄ノ死。輸送船ノ機関長ナリシト。
     (277ページ 12月20日の条)

 

 

 ようやく慰問巡業を終えての東京への列車は、乗客が窓から出入りするような超満員状態であった。

 

  いやはや何とも物凄い列車である。やりきれなくなって吾等三人は広島で下車した。八時間立ったままであった。時々便所に行く人があるが、皆泣きっ面になって、人と人をこじあけて通る。諦めて途中から引き返す老紳士もある。私は房総線で一度大失敗をしているので気が気ではない。もし尿意をもよおして来たら、人を掻き分けて行く途上で落城して了うであろう。万已むを得なければ、ズボンの中へ流し込みと覚悟をする。幸いにして車中がムンムンと熱いので辛うじて広島までもったが、出口を飛び出すと、前の防空広場で用をたした。
  血気盛んの水兵が悲鳴をあげるくらいだから、以ってその混みようが分ろう。中程の客は窓から出て行く。女が三人ほど窓から飛び込んで来た。
  立ち続けは宜しいとして、私の靴は借り物であるためギシギシである。それが血が下がって足が腫れてくるにつれ両足のつま先がシンシンと痛んで来る。尿の心配とこの痛みでは到底このあと名古屋まで行って、中央線に乗り換えて(都合二晩車中で過ごすことになる)などは思いもよらない。
  私は広島で一応降りる決心をする。釜さんは直ちに賛成する。釜さんは悲鳴をあげ通しである。
  愈々広島駅に着いて、洗面所に頑張っている高山君に、二人は此処で降りる由を言うと、たちどころに彼も降りると言う。それまでに打合せしていると好かったんだが、突然、沢山の荷物を持って降りることになったから、さア大変である。乗る客が黒山のように押しよせている。文字通り高山君は獅子奮迅、二つのリュックサックと、毛布の巻いたのと鞄とパンの箱と、何やかや両手に持って、滅多矢鱈に飛び出して来た。奇跡のような働きであった。釜さんの白いズック小鞄と、高山君のラクダの襟巻とが、紛失して了ったが、とにかくあの人間の密集激流を突破してよく出られたものだ。
  私にはとても斯んな勇敢な行動はとれない。三人のうちこの意味における弱虫は一番私であろう。
  この騒ぎで、前記の如く二人が品物を失った時、私は心の一部で快哉を叫んだ。こいつは誠にはや情けない性分であるが、何しろ私は、蟇口を盗られ、剃刀を失い(これは返るかもしれない)、靴を盗まれという始末の旅であったから、他人が何か失うことに、やれ俺だけではなかったぞよ、という慰めを感ずるのである。
     (280~282ページ 12月22日の条)

 

  立ッタリ、床ニ胡坐シタリ、九時間アマリ難行苦行。イヨイヨ旅ハ考エモノデアル。朝ニナリ一時間半ホド、若キ海軍士官ノオ蔭デ席ニツキ少シ眠ル。
  名古屋駅デ、窓ヨリ人間ガ降リタゴタクサニ、私ノボストンバックガ歩廊ニ出テソノママ発車トナル。中ニハシャボン、飴、豆、他人ノゲートルナド入ッテイタリ。
     (283ページ 12月24日の条)

 

 12月22日には「この騒ぎで、前記の如く二人が品物を失った時、私は心の一部で快哉を叫んだ」という夢声も、12月24日には「窓ヨリ人間ガ降リタゴタクサニ、私ノボストンバックガ歩廊ニ出テソノママ発車トナル」という羽目に陥る。

 

 

 「いやはや何とも物凄い列車」の乗客として数日を過ごしてやっと12月24日の夕刻、

 

  十七時頃帰宅。静枝ジンマシンで寝テイル。他ハ一同無事ナ姿ヲ見テ安心スル。目出度シ目出度シ。
     (284ページ)

 

このように帰宅を果たし、「今回の旅行に於ける得失」についての考察を記した上で、

  俊子が十五日に出産したそうだ。空襲の影響であろう、一カ月ほど早産であった。女の児で、母子共に健全だという。これで私も愈々祖父となった訳、人間としての、生物としての二歩前進をした訳である。
     (245ページ)

 

と、その日の日記を結んでいる。11月24日の空襲から1ヶ月が過ぎてのことであった。

 

 無事なりし吾家の火鉢囲みけり

 

 吾家の無事を確かめての一句である。

 

 

 

【註:1】
  B29八〇機編隊が午後〇時一五分、北多摩郡武蔵野町の中島飛行機武蔵製作所、およびその付近に高高度より集中爆撃を行い、その後、六ないし八機の小編隊に分かれて荏原、品川、杉並の各区および東京港をそれぞれ攻撃する。
     (鈴木芳行 『首都防空網と〈空都〉多摩』 吉川弘文館 歴史文化ライブラリー358 2012  156ページ)

 夢声の家族が経験したのが、この中の杉並への爆撃であった。

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2018/11/24 09:40 → https://www.freeml.com/bl/316274/322532/
 投稿日時 : 2018/11/24 09:44 → https://www.freeml.com/bl/316274/322533/

 

 

 

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2018年5月17日 (木)

十四娘を賣つた金 四十圓の家と化す (昭和期日本の貧困 その4)

 

 古書市で入手した昭和9年と10年の新聞切抜き帳(スクラップブック)に貼られた記事を用いて、近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実がどのようなものであったのかについて読み進めてきた。

 

 昭和9年、冷害に襲われた東北地方(冷害による飢餓の実態は「草木に露命をつなぐ (昭和期日本の貧困 その2)」参照)の人々は、「口べらし」のために娘を身売りするまでに追い込まれた(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」参照)。

 

 「娘の身売り」に頼る貧困層の姿(「廓模様新紅毛情史 (昭和期日本の貧困 その3)」参照)。それが、昭和戦前期の日本の現実、近代日本の現実の姿であった。

 

 今回も、当時の紙面から切り抜かれ、スクラップブックに残された新聞記事から、「娘の身売り」の実状に迫ってみたい。

 

 

 

 

スクラップブック(昭和9年~10年) 
     十四娘を賣つた金四十圓の家と化す (9.12.1 朝日)

 

 

 

 今回取り上げるのは、昭和9年12月1日付の朝日新聞記事である。

 

 

 

 

 十四娘を賣つた金
  四十圓の家と化す
    冬籠りの窮農を訪ふ
          東北凶作地にて
          荒垣特派員

 

 村の夜道は真つ暗だつた、村には外灯がなかつた、それは昭和六年の凶作から廃止になつたのだ、凶作は色んな意味で村から『明るさ』を奪つて行く、今度はまた娘を、凶作は村から奪い去らうとしてゐる、もう幾人も奪つて行つてしまつた、私はその標本を青森の新城村に求めた
     ▽   △
 『これがその、娘が化けた四十円の家ですよ』と教へられた窓から洩れる鈍い電灯の光で畑の菜つ葉が真白な霜に萎れてゐるのが見えた、この村としては割合に小綺麗な家だが、これが一人の津軽娘が娼妓に売られた身代金で買はれた家かと思ふと異様な汚感に襲われざるを得なかつた
  入つてみると、七十を越したお婆さんと、身売娘の両親と五つ位の女の児とが、煙に燻ぶる囲炉裏を囲んでゐた、女の子は風邪をひいてギャーギャー泣いてゐた
 姉娘が売られて居なくなつてからこの児も泣虫になつたさうだ、『どうして娘つ子売れしたば?』ときくと、婆さんは泥炭の煙に傷められたトラホームの眼をしばたいて『スミエあ売られて難儀してす、吾あ死んでもいいはで孫達あ楽にさせてやりてい』と赤く瀾れた眼から涙をボロボロこぼした、この佐藤一家は、家を借金のカタに取られて近所の家に同居してゐたが、スミエといふ十四の娘を名古屋市賑町の娼妓屋に売つた金で、此家を買つたのだ、身代金は五ヶ年の契約で四百五十円だつたが、そのうち百円は一本になつたら渡すとの事で、娘の着物代にといつて五十円、周旋料だといつてブローカーに廿二円五十銭、親爺と周旋屋とで娘を名古屋まで送つて行つた汽車賃、宿料、自動車代その他雑費だといつて百廿七円五十銭をとられ、結局手に渡つたのは僅百五十円だつた、そのうちから七十円の借金を支払ひ、四十円で家を買ふと残る四十円も何といふことなしに消えてしまつた
     ▽   △
 父親はいつた
  吾あ娘売る気あ夢にもなくてあつたども、周旋屋が家のわらし(娘)ど借金の□なみに眼つけで売れ売れつて四十日の間も付き纏ひした、其うちね飯米あなくなるし女房あ妊娠脚気ねなるし借金取りにや責め立てられるし、おまけね、借金の保証が女房の妹だはで、吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて、とうとう売る腹ねなりした
 と溜息をついた、母親はまた母親で
  家のわらし(娘)あ、吾あ妊娠脚気で留守の間ね死んだりへば困るはで行きたくねいといつてをれした、取り返せねいもんですべか?
 と今になつて返らぬ愚痴をいつてゐる
     ▽   △
 そして娘からはもうこんな手紙が来るやうになつた
  …私達はシヨウギさんがゐる家にゐるものですから、ほんとうに嫌ひです、主人は、お正月になるとお客さんをとらせるといつてをします、私はシヨウギなんかやるんぢやない、ほんとうにつまらない、しつかりしたことはお正月にでなければ分かりませんが、ほんとうにお客さんをとらせると直ぐ手紙を出します……
 まだ半信半疑でおびえてゐる十四歳の津軽娘の姿!手紙を出すことより外に策を知らぬ可憐さ!
     ▽   △
 いつのまにか出た冷たい冬の月を浴びて、私は次の『娘を売つた家』に行つた、そこには逆睫毛に悩む母親と、小倉の夏服に綿を入れた洋服を着た少年とがゐた、この綿入れの夏服はやはり姉さんが売られた余剰価値だつた、この村には洋服を着てゐる子供は一人もゐないので、松雄少年はこれが得意だつた、そして『姉さまのお蔭で……とお礼状を出した、すると身売娘からはこんな返事がきた
  松雄は私のお蔭で立派な服をきたと書いてをりますが、私のお蔭ではありません、父上様や母上様のお蔭です……
 いはば自分を売つた非道の親、それを微塵も怨まぬ心はいぢらしい限りだ
     ▽   △
 この娘の母は娘の身代金で逆睫毛の目を手術する事になつてゐた、ところが結局そんな金は余らずいまだに逆睫毛で悩んでゐるとの知らせに娘はビツクリしてゐる、そして自分が家にゐる時は、いつも母の逆睫毛を抜いてやつたのだが、今はどうしてをられるだらうかと『逆睫毛は今誰にとつてもらつてをりますか、知らせて下さい』と涙の筆を綴つてゐる
  私は夜外に出て家の方を見て、家の者が達者にゐますやうにとお月様に祈つてゐます

 

 

 

 記事は「娘の身売り」による解決を望ましいものとして取り扱っているわけではないが、それ以外に手段を持たぬ東北農民の現実を伝えるものとなっている。描かれているのは、冷害に付け込んで実直な東北農民を「娘の身売り」にまで追い込む周旋屋の姿であり、周旋屋を前にしてなす術のない農民の姿である。

 記事の見出しには、

  十四娘を賣つた金 四十圓の家と化す

とあるが、父親は家欲しさに娘を売ったわけではない。

  吾あ娘売る気あ夢にもなくてあつたども、周旋屋が家のわらし(娘)ど借金の□なみに眼つけで売れ売れつて四十日の間も付き纏ひした、其うちね飯米あなくなるし女房あ妊娠脚気ねなるし借金取りにや責め立てられるし、おまけね、借金の保証が女房の妹だはで、吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて、とうとう売る腹ねなりした

この言葉を疑う必要を(私は)感じない。

 貧困の果てに、

  吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて
  とうとう売る腹ねなりした

ここにまで追い込まれたのである。

 解決の手段が「娘の身売り」以外にない状況。

 記者は取材に先立って、

  これが一人の津軽娘が娼妓に売られた身代金で買はれた家かと思ふと異様な汚感に襲われざるを得なかつた

このように心情を吐露し、母親の言葉に対しては、

  今になつて返らぬ愚痴をいつてゐる

と非難めいた感想を漏らすものの、

 貧困→娘の身売り

これ以外に手段を持たぬ現実に、傍観者であるしかなかった。

 

 記事にあるのは決して例外的状況などではなく、冷害による凶作下での一般的状況なのである。以下に示すのは、昭和6年の事例である。

 

  昭和六年、農業恐慌にあえぐ東北、北海道の農村を冷害による凶作が襲った。同年一〇月三一日付の『東京朝日新聞』は「未曾有の凶作で、北海道、青森に飢饉来 雪近く不安つのる」と、その惨状を報じた。
  この年の東北地方は、四月から七月にかけて異常低温に見舞われ、特に七月の平均気温は盛岡で一八・四度という低さだった。加えて六月の多雨日照不足で、稲の苗代での発育不良、移植期の遅れ、田植え後の活着障害、生育の障害という状態におちいった。
  被害のもっともひどい青森県では、米価下落で「豊作貧乏」といわれた五年の一三〇万石に対し、六年の収穫は半分以下の六〇万八〇〇〇石、北海道も稲作は平年の三六㌫強、畑作六一㌫という大減収だった。作家の下村千秋は、岩手県北部から青森県へと「飢餓地帯」を歩き、「餓死線上」の農民は「岩手県下に三万人、青森県下に十五万人、秋田県下に一万五千人、そうして北海道全道には二十五万人」(『中央公論』昭和七年二月号)と書き、青森県の寒村では「どうせ飢え死ぬなら、せめて一度でも、米のめしがげんなりするほど喰つて見てえ」(『前出』)と老人が語るのを聞いた。
  農民は米不足のため、粟、ひえなどの雑穀、だいこん雑炊、それに木の芽や草の葉を混ぜた薄いかゆなどを食べた。学校へ弁当を持って行けないいわゆる欠食児童は、北海道一万八九八人、青森県六一〇七人、秋田県九九六人、岩手県三五三九人、全国では二〇万人を超すと推定された(昭和七年七月文部省調べ)。
  北海道庁の調査では、七年上半期に六〇六件の人身売買があり、平均一〇六円で多くは都市に売られた。また、内務省社会局の調べでは、青森、山形、秋田、福島、新潟の各県でも、六年一月から七年六月までの間に計一万六〇四人の若い女性が、家族を支えるために「身売り」をした。
  廃娼連盟は六年一一月、他県への「娼妓移出地」といわれる山形県最上郡西小国村の実状を調査し、報告書『農村疲弊と子女売買問題』(松宮一也、橋本成行共著)をまとめた。それによると同村の出稼ぎ娼妓は五七人で、その数は村の一五歳~二五歳の女子四一七人の約一四㌫にあたった。現金収入がなく、負債を返却するには、定期的に村を回る紹介業者に娘を売るしか方途がなかった。
  この惨状が報道されると、東京では学生や無産党系、キリスト教系の諸団体が救援活動を始め、報道も詳細になった。東北・北海道の冷害は、農村不況を克服しようという世論形成の契機になったのである。
     (『昭和 二万日の全記録 第2巻』 講談社 1989  307ページ)

 

 

 ここに紹介された「廃娼連盟」による報告書にある山形県最上郡西小国村は、まさに「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」の記事の舞台となった地域でもある。廃娼連盟による昭和6年の調査で明らかになったのは、

  同村の出稼ぎ娼妓は五七人で、その数は村の一五歳~二五歳の女子四一七人の約一四㌫にあたった。現金収入がなく、負債を返却するには、定期的に村を回る紹介業者に娘を売るしか方途がなかった。

という悲惨な現実であった。

 

 朝日新聞記事には「まだ半信半疑でおびえてゐる十四歳の津軽娘の姿」とあったが、当時の公娼制度下でも年齢制限はあり、本来なら「十四歳の津軽娘」が人身売買の対象となることはないはずなのだが、しかし、そこには抜け道があった。元森論文には以下のようにある。

 
  公娼のみを調べた場合,18歳未満は登録できないというタテマエが守られているためそれ以下の者はいないが,私娼には18歳未満もしばしば含まれていることが報告されている。たとえば,上村行彰『売られゆく女』(大正7年,集成2:209)では,娼妓が「異性に触れた当時の職業」として,「家事手伝い」,「女工」に次いで「芸妓酌婦稼業中」が2割1分と多いと述べ,16歳以下の3分の1は芸妓酌婦稼業中に性行為を行っていたことを明らかにしている。「東北凶作を契機とせる女子の貞操問題」として東北の芸娼妓を調べた調査では,12歳7人,9歳1人を含む14歳未満の女子が60人いたことが報告され,「多分口減らしと,之に依つて幾等かの生計費を得て家族の食餌に資せんとしたものであらう」と述べられている(三浦精翁『売られ行く娘の問題』昭和10年,集成5:308-309)。
  帝国議会でも,芸妓の「約半分位は十三で客に接することを強いられて居ると云う記事が(引用者注:前日の新聞に)出ております」(土屋清三郎,第56回帝国議会衆議院未成年者飲酒禁止法中改正法律案外一件委員会第6回速記録,昭和4年,p.24)と問題視されたり,「私娼窟」における低年齢層の売春問題が報告されている。
     (元森,絵里子「自由意志なき性的な身体―戦前期日本の公娼制問題における「子ども」論の欠如―」 『明治学院大学社会学・社会福祉学研究(139)』 2013)

 

 当時から「低年齢層の売春問題」は深刻なものとして注目を集めてはいたのである。「まだ半信半疑でおびえてゐる十四歳の津軽娘の姿」は、決して特異な事例ではなかった。

 元森論文には以下の事例(どちらも昭和4年の事例である)も紹介されている。

 

  現在公娼に於きましては,十八歳以上の女でなければ営業に従事することが出来ないのでありまするが,寺島,亀戸のやうな,いわゆる淫売窟に居りまする所の女と云ふものは,十五歳,十六歳,甚しきは十三歳,十四歳と云ふ風な,殆ど吾々言ふに忍びないやうな少女が,何れも売淫行為を行って居るのであります,是等の年少な少女と云ふよりも,寧ろ幼女に近い婦人と云ふものは,何れも自分の意思に反して ,或いは親の犠牲となり ,若しくは暴行脅迫 ,中には傷害迄受けて ,斯る魔窟に拉し去られて醜業に従事して居るのであります(川島正次郎,第56回帝国議会衆議院請願委員会議録(速記)第9回,昭和4年,pp.2-3) 

 

  最近二万八千二百三十四人の娼妓に就いて取調べた処によれば,内尋常小学の中途退学者が二万〇〇五十八人(即ち七割一分強),まったく尋常小学にさへ登らなかつた者が四千四百六十五人(即ち一割五分強)で,つまり全数の計八割六分以上は,尋常小学に入らないか入つても卒業しないで退学した者共であります。彼等は全く無教育無知である。之に義務教育完了の機会さへ与へず ,之を娼妓などにならせて置くと云ふは ,誰の責任であるか。此の点に於て,日本の国家はその臣民に対する当然の務めを行うて居ないものと言はれても,致方はありますまい。(山室軍平『公娼制度の批判』昭和4年,集成3:125)

 

 川島正次郎の言葉には、「十五歳、十六歳、甚しきは十三歳、十四歳と云ふ風な、殆ど吾々言ふに忍びないやうな少女」が、「何れも自分の意思に反して 、或いは親の犠牲となり 、若しくは暴行脅迫 、中には傷害迄受けて 、斯る魔窟に拉し去られて醜業に従事して居」たことが示されている。

 

 

 悪質な周旋屋の実態については、安中論文に当時の新聞記事を用いた事例紹介がある(安中 進「娘の身売り」の要因と鉄道敷設 現代政治経済研究所(Waseda INstitute of Political EConomy) 早稲田大学 WINPEC Working Paper Series No. J1702 October 2017)。こちらは昭和6年と8年の事例だ。

 

  打続く農村不況に加へて大凶作に見舞はれた青森縣下の農民は ,既に売る物は皆尽して食料に代へ現金は全く農村から姿を消すに至つたが ,暮れを控へて農民の逼迫につけ込む悪徳周旋業者が最近横行し ,純ぼくな農村の娘さん達を「給金高い東京お屋敷へ世話をする」などと言葉巧みに欺き ,東京方面の魔くつに賣飛ばしてゐる,もつとも被害の甚しいのは上北 ,下北 ,三戸地方の収穫皆無地で ,青森発上野行列車などには手付金二 ,三圓といふ安い直段で取引された純な農村の乙女一團が周旋人に連れられて二組か三組は必ず乗込んでゐる有様で,警察方面でも人買ひの取締りに躍起となってゐる。
     「凶作につけ込む娘買ひの悪周旋屋  青森地方では二三圓の手付けで」『東京朝日新聞』 1931 年 12 月 26 日

 

  「寺島署では向島区寺島町七ノ六〇前科二犯無職諸岡ひで(三二)同町七ノ七前科一犯松井幸太郎(三六)同町六の一三四無職小林武(三三)足立区竹塚五十嵐丑蔵八もぐり 六)(足立区竹塚五十嵐丑蔵八もぐり 六)同町の一三四無職小林武(三三)足立区竹塚町四一四五十嵐丑蔵(三八)のもぐり周旋屋一味を留置取調べてゐるが同人らは諸岡ひで総指揮官とし玉の井根城玉の井根城秋田 ,山形 ,北海道等凶作地の婦女を甘言もつて連れだし八十圓から三百五位で玉北海道等凶作地の婦女を甘言もつて連れだし八十圓から三百五位で玉井,亀戸等の魔窟に賣り飛ばし手数料を身代金半分以 上取つてゐたもので被害者は秋田縣生れ影澤あき( 二一)外十八名の多数に上り係官もそ悪辣な手段驚いてゐる」
     「モグリ周旋団 凶作地の子女へ魔手 」,『読売新聞』 , 1933 年 1月 31 日)

 

 

 先に紹介した朝日新聞記事には、記者に「いはば自分を売つた非道の親、それを微塵も怨まぬ心はいぢらしい限りだ」との感懐を抱かしめた「身売り娘」のエピソードが載せられているが、このような事例が決して珍しいものではなかったらしいことも、安中論文の紹介する新聞記事から読み取れる。

 

  十六日朝 ,岩手県警察部からの至急配で危うく身賣 りの一歩手前で救はれた東北娘がある。岩手県稗貫郡石鳥谷町大字北寺林の貧農似内櫻香長女くりさん(二七)永年の間,婚期も忘れて女中奉公に出た仕送りで老父と三人弟妹の一家を養つて来たが ,父子五人が木の實も食へぬ赤貧から青春を汗のために失つた女には身賣り四年間がタツタ三百圓にしか値なかつた ,しかし大金を握らされた一家にとつては桂庵の姿が神にさへ見えたといふ ,この くりさんがいよ洲崎遊郭の春賣樓に売られて娼妓登録の許可申請から縣警察部への照會となり「身賣娘を護れ」スローガン下に奔命してゐる同縣からのS・O・Sで危なく救ひ出された。さてここに喜ばないのは當のくりさん「私を救つて下すつた事は有りがたい事です,けれどもどうして私がこのまま國許へ帰れませうまとまつた金が無ければ父子五人が野垂死をしなければなりません,私一人が死んだ気になれば父や弟妹達が救はれますどうぞ私を娼妓にして下さい」といふ ,警視廳でも「身賣り救済運動」の将来に投げかけられた切實な問題として,早速くりさんを愛國婦人會の手を借りてどこか前借出来る女中奉公口を探してやることになつた
    「『私が犠牲になれば』 救われて浮かぬ娘 凶作地の『血の記録』」 ,『東京朝日新聞』 ,1934 年 11 月 17 日

 

 「私を救つて下すつた事は有りがたい事です、けれどもどうして私がこのまま國許へ帰れませうまとまつた金が無ければ父子五人が野垂死をしなければなりません、私一人が死んだ気になれば父や弟妹達が救はれますどうぞ私を娼妓にして下さい」という「身賣娘」の言葉。この、くりさんの「自分の意思」を「美談」として位置付けることを是認することは正しいのか? 確かに近代日本には、そのような「自分の意思」を示した「身賣娘」の姿に「美談」を感じ取る土壌があった。だからこそ、記者は「いはば自分を売つた非道の親、それを微塵も怨まぬ心はいぢらしい限りだ」との心情を吐露したのであるし、くりさんは「どうぞ私を娼妓にして下さい」との言葉を発したのである。

 その近代日本の現実の中で「身賣り救済運動」に奔走した人々も確かに存在した。しかし、その救済策は「どこか前借出来る女中奉公口を探してやること」でしかなかった。

 

 これが、昭和戦前期の貧困層が置かれた現実であった。そして、昭和12年には大日本帝國は「支那事変」という名称の下での中国との実質的戦争状態に陥る。昭和も戦時期(戦中)となるのである。

 戦時期昭和には、貧困層の娘たちは、いわゆる従軍慰安婦の供給源となる。かつての公娼制度の枠組みの上に、慰安婦の供給システムが構築される。貧困と「娘の身売り」の構図が、軍の存在によって維持される時代となっていくのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 :  2018/05/16 21:07 → https://www.freeml.com/bl/316274/319007/

 

 

 

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2018年3月29日 (木)

廓模様新紅毛情史 (昭和期日本の貧困 その3)

 

 たまたま古書市で手に入れた、昭和9年~10年の新聞の切り抜き帳(スクラップブック)に貼られた記事を読むことで、「近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実」に触れてきた(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」及び「草木に露命をつなぐ (昭和期日本の貧困 その2)」)。

 

 冷害による大凶作の中で、

 

    稗飯を食へるものがめぐまれた最上流の農家で、学童の大半はあざみの葉、山ごぼうの葉椎の実、やどり木の葉を貪り食つてははかない露命をつないでゐる、大根の葉、そばの粉などが食へたら中流以上の家庭で、甚だしい地方――主として岩手県の郡部から津軽方面――では藁を粉にして水とともにすすりこんだり団栗をかじつたり『生きんがため』『食はんがため』の悲惨な社会実話がくり返されてゐる
     (東京日日新聞 昭和9(1934)年10月17日)

 

このような食糧事情に追い込まれ、

 

  娘一人の身代金は年期四年で五百円乃至八百円、然し周旋屋の手数料や着物代や何かを差引かれて実際親の手に渡るのは、せいぜい百五十円位だ、可愛い娘を手放しても、百五十円の金を握りたい、一つの悪風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう
  かうして床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく、淪落の巷を流浪する最上娘の「新庄節」こそ彼女等の望郷の憶ひをこめた哀歌であると共にドン底の農村の悲しむべき生活苦を、まざまざと物語るものでなくて何だらう、然も娘を売つた親達は「凶作で米がないから、年期が明けても村の懐には帰るな」といふのだ農村の窮乏もここに至つて正視するに忍びない
     (朝日新聞 昭和9(1934)年10月22日)

 

「口べらし」のために娘を身売りするまでに追い込まれる。しかも「凶作で米がないから、年期が明けても村の懐には帰るな」との言葉が出るところまで追い詰められていたのである。

 

 

 

 今回も、スクラップブックに切り貼りされた新聞記事から、再び「娘の身売り」の現実、人身売買に頼るしかなかった「近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実」に迫ってみたい。

 

 

 

 取り上げるのは昭和9(1934)年12月10日の朝日新聞記事である。タイトルは「廓模様新紅毛情史」、枠付きの大見出しとなっている。

 歌舞伎の名題を思わせる大見出しだが、実際、「芝居じみた」という語がふさわしいような気さえしてしまうエピソード(実際、記者自身が「まるで劇の筋書でも読む様な」と書いている)である。

 

 

 

スクラップブック(昭和9年~10年) 
     廓模様新紅毛情史 (9.12.10 朝日)

 

 

 

 (原則として、見出しの表記は原文のまま―変換可能な限り―とし、本文は「かなづかい」は原文通りだが、旧字体は新字体にあらため、本文中の大きな活字は太字で表記)

 

 

 廓模様新紅毛情史

 吉原遊郭へ飄然遊んだ一外人が、その遊女の優しいもてなしと、余りにも可哀相な身の上話しに同情、約二千円を投げ出して身請から落籍祝ひまでし更に同女に小遣ひ五百円を渡して母の許に帰し母娘の喜ぶ様を見てほつと安心、浅かつた三日間のなじみの絆を絶つてその夜十時横浜出帆のプレジデント・フーヴア号に乗船、アメリカへの孤独の旅に上って行った、吉原遊女と旅の一外人――まるで劇の筋書でも読む様な新しい紅毛情史である【写真は十六夜こと細屋みよ子】

 身請に大枚の金
  絆を切り船出
    夢かと許り喜ぶ彼女と親
      提供の主 和蘭の旅人

 浅草区新吉原京町一ノ一七長金楼事中村彌一方へ去る四日夕刻日本人ガイドに案内された一外人が登楼した、『オランダ人、ヤン・シー・フオツク(二八)』と署名し娼妓十六夜(二〇)を相手に約一時間遊興して帰ったが更に六日夜八時再び登楼同夜は宿泊した七日午前一時半頃の事である、突然ガイドを通じて主人に会いたいといふので主人が会ふと『借金はいくら位ある?』といふ『千五百円位だらう』と大ざつぱの返事をすると、『それでは身請して自由にしてやりたい、金は一度帰つて持つて来る』と非常な乗気である、同楼ではよくあるお客さんの気まぐれと別に気にもしなゐでゐると、その朝五時半語呂帰つたその外人がその日(七日)午後三時頃三度び現れ札束を積んで『すぐ身請する』といふ、眼の前の札束を見せられて始めて楼主はびつくり、先づこの喜びを親許に知らせねばなるまいと「十六夜」の母、深川区三好町二ノ一四、細屋ふみ(五三)を円タクで迎へにやると、ふみはびつくりして現れ、娘の手を取つて喜びの泣き笑ひである、母娘の喜びを眺めていたこの外人、それから間もなく廓の芸者数名に、同家の娼妓十三名その他雇人全部を大広間に集め一人五円の総花をまいた上「十六夜」から改めて本名に返つた細屋みよのため杯を挙げてその前途を祝福した上、持って来た珊瑚の指輪を彼女の指にはめ更に自分の首に巻てゐた真紅な襟巻を彼女の肩にかけてやりながら
  自分は今夜十時出帆の船でアメリカへの旅に上って行く、もう再び会ふ機会もあるまいが、あなたは結婚して幸福な生活に入つて下さい、若し家庭に子供でも生まれたら、せめてその子供の写真を送つてもらひたい
 といふ、更に並ゐる朋輩衆に向かひ
  もし私にお金がどつさりあつたらあなた方全部も身請けしてやりたいが、もう私には金がない今夜立つ船では一等に乗る積りだつたが、もう金がないので二等の旅しか出来ないのです、それでは皆さん御機嫌よう、サヨナラ
 この意味が日本人ガイドを通じて語られると大広間の酒席もしんみりとなつて泣き出す始末、その日の夕刻、この喜びの細屋母娘はこの外人に軒先まで送られて自宅に引き取つて行つたが、その後姿を見送つた彼はガイドを連れそのまま夜の街に姿を消した、同夜十時横浜出帆のプレジデント・フーヴア号二等船客の中には『アムステルダム、二八歳、旅行家Y・C・FOCK』と署名した一外人の淋しい姿があつたといはれる

 苦界の姉も
  救ひに
   貰つた小遣で

 たつた三日の間に夢のやうな境遇の激変にあつた細屋みよは千葉県長生郡八積村生れ、職人をしてゐた父大西徳次郎に連れられその後深川区月島に住んでゐたが、震災で父が行方不明になつてから、母ふみが八人の子供を抱へて女土方となつて育ててゐたが、遂にどん底に落ちて
  姉一人は栃木県に売られ彼女も昨年八王子で芸者となり、ついて今春五月、千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつたもの、その際母の手には僅か百円が渡つただけらしく、おとなしい女として長金楼でも大事がられてゐた
 九日夜みよはフオツク氏から贈られた小遣五百円余の中から、栃木県の苦界に身を沈めてゐる実姉を救ひたいと、実兄と共に、同夜上野駅発の列車で栃木県下に向ひ、深川三好町の長屋には母のふみさんがどん底から蘇る一家の喜びに目を泣きはらしてゐる

 『籠釣瓶』が動機
  純情に感銘
    本國に打電して金策

 【神戸電話】 この外人の身許はガイドをつとめた神戸市加納町一丁目互明荘アパート止宿通訳バチェラー・オブ・アーツ中村三郎君によつてオランダの青年実業家Y・C・フオツク氏(二八)と判つた同君の話によるとフオツク氏は日本観光中東京の歌舞伎座で左団次、松蔦一座の籠釣瓶を見物、日本の花魁に興味を感じ一夜吉原の長金楼に遊び敵娼をつとめた十六夜の真情にほだされ翌日日光観光に赴いたが、ホテルでも溜息ばかりついて深く物を思ひつめて居た
  あの花魁は別れるときに私が五円をチップに与へたが遠い外国から来た人に要らぬお金を使はすのは勿体ないとどうしても取らなかつた、何といふ純な気持であらう、僅か数時間の対面ではあつたがあの子の起居振舞総て優美でしとやかでどうしても商売女とは思へないあんな正直な女を籠の鳥にしておくのは自分の良心に恥ぢる
 といひこの女に邂逅しただけで世界観光の徒事でなかつたことを喜んでゐた、中村君の骨折りで直に本国に打電金策した結果、フーヴア号が横浜出帆「七日午後十時」の直前に二千円の為替が届き劇的な情景の裡にぽんと彼女のために投出し、彼女のしごき一本を後生大事に貰つて行つた
  フオツク氏は若年ながらオランダで新聞を経営し既に妻子がありもし独身ならば勿論彼の女を連れて帰国するといつてゐたといふ

 

 

 新聞経営の28歳のオランダ人青年実業家が、吉原で出会った遊女(身売り=人身売買の犠牲者―そして貧困の犠牲者である)の「真情にほだされ」て、その場で「身請け」を決意し実行してしまう。まるで芝居の筋書であるが、昭和9年12月の新吉原遊郭での実話・美談として報道されているのである。

 

 まず、広辞苑にある「身請け」の項を確認しておこう。

 

 み-うけ【身請け】 年季を定めて身を売った芸妓・娼妓などの身代金(みのしろきん)を払って、その商売から身をひかせること。うけだすこと。落籍。

 

 初めて日本の遊郭を訪れたオランダ人青年実業家が、初対面の遊女の「真情にほだされ」て、その「身請け」を実行してしまった顛末である。

 オランダ人フォック氏に身請けされた「十六夜」(細谷みよ)は、東北の農家出身者ではない。

 

  細屋みよは千葉県長生郡八積村生れ、職人をしてゐた父大西徳次郎に連れられその後深川区月島に住んでゐたが、震災で父が行方不明になつてから、母ふみが八人の子供を抱へて女土方となつて育ててゐたが、遂にどん底に落ちて
  姉一人は栃木県に売られ彼女も昨年八王子で芸者となり、ついて今春五月、千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつたもの

 

 千葉に生まれ東京で育ったが、「震災で父が行方不明」になったことから家族は零落し、「遂にどん底に落ちて」、「千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつた」のであった。貧困層の最底辺ともなれば「口べらしと借金の返済」は切実な問題であり、実際、「娘の身売り」は東北六県だけの問題ではなかったことが、十六夜(細屋みよ)一家のエピソードを通して理解し得るであろう。

 しかし、「千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつたもの、その際母の手には僅か百円が渡つただけ」というのが実態であったし、「四年の年期」にしても、

 

  客から十円の収入があれば、実に七割五分を楼主に取られてしまい、二割五分だけが玉割と称して娼妓の取り分となる。しかも、その中の一割五分が借金返済のための天引きされてしまうので、娼妓は残りの僅か一割だけで生活しなければならないという仕組みなのである。彼女の稼ぎ高は月に三百円程度の箏が多かったので、手元に残るのは三十円程度にすぎなかった。これに対して呉服代から化粧代、洗濯代、電話代、客用の茶菓代、さては湯銭や病気のさいの治療費にいたるまで、諸掛一切が娼妓の負担となっており、これが月に四十円をくだらないので、いきおい楼主から追借をせざるを得ない。
  正月の三が日、七草、および十五、六日は「しまい日」と称し、客に「しまい玉」(または玉ぬき)という特別料金を請求するように仕向ける。揚代金は一時間二円、全夜(オールナイト)十二円を取ったが、「しまい日」には客に全夜の玉を倍の二十四円請求し、そのうえ遣手婆にも普段より多くの祝儀(五円)を出させる。無論、かなりの馴染み客でない限り応じるわけもないが、しまい玉が取れない娼妓に対しては一日二円の罰金が科せられるので、売れっ子以外は戦々兢々とならざるをえない。そのような客のないものは花魁の恥とされるからでもある。

  しまい日は正月ばかりでなく、三月三日、五月五日にも適用される。そのほかに「移り替」といって六月と十月の衣替えにも同様の“行事”がある。とにかく、あらゆる機会をとらえて搾り取る仕組み
     (紀田順一郎 『東京の下層社会』 ちくま学芸文庫 2000)

 

の中での話なのである。

 

 フォック氏との出会いが、十六夜(細屋みよ)にとってどれだけ僥倖であったことか。

 

 

 「戯作者と傾城は虚が真で真が虚なり」との言い回しがあるが、記事の伝える経緯(背景)による限り、フォック氏が「ほだされ」た十六夜の「真情」に偽りを感じる必要はないだろうし、当のフォック氏だって、「飾り窓の女」として有名な売春街を擁するオランダが故国なのである。未経験な若者が遊女の口先に騙された、という話ではないであろう。

 

 

 昭和9(1934)年のエピソードということは、3年後には支那事変、5年後にはヒトラーによるヨーロッパでの戦争(オランダが占領されるのは1940年)である。細屋みよの家族、フォック氏はいかなる運命に翻弄されることになったであろうか?

 美談の先にあるのは、そんな惨禍に満ちた歴史でもある。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/03/29 20:52 → https://www.freeml.com/bl/316274/317986/

 

 

 

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2018年3月27日 (火)

草木に露命をつなぐ (昭和期日本の貧困 その2)

 

 前回は、近代日本の(それも昭和期の)「人身売買」の実状について、昭和9年と10年の新聞スクラップブックに切り抜きとして残された朝日新聞記事を読んだ(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」)。昭和9年の冷害による大凶作の中での、「口べらしと借金の返済」の手段としての「娘の身売り」である。

 

 

 紹介した新聞記事には、

 

  一つの悪風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう

 

とあった。望ましいものではないとのニュアンスに伴われながらも、社会に容認されたものとして「人身売買」という解決法が取り扱われているのである。その規模は以下の通り。

 

  東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、九年一〇月までの一年間で五万人余にのぼった。新聞は連日のように救済を訴え、矯風会や救世軍が身売り防止運動を始めたが、口べらしと借金の返済に迫られた農村の厳しい現実の前では、ほとんど効果はなかった。
     (『昭和 二万日の全記録 第3巻』 講談社 1989  306ページ)

 

「一年間で五万人余」という数字には「東北六県で」との限定が付けられていることも見逃すべきではないであろう(他の地域の貧困層にとっても「口べらしと借金の返済」は切実であり、「娘の身売り」は東北六県だけの問題ではなかった―近代日本の病理というべきか)。しかし、もちろん、冷害がなければ、「東北六県」での「娘の身売り」が「一年間で五万人余」とまではならなかったのでもあるが。

 

 「口べらし」が特に切実な問題となったのは、まさにそこに冷害による大凶作があったからであり、「飢饉」と呼ぶべき状況がもたらされていたからである。

 

  小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民は、八年のように空前の豊作を記録した年ですら、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられていた。九年の凶作は、それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった。岩手県では全農家の七七㌫が緊急の救済を必要とした。
  飢饉の影響は、まず子どもたちの上に現れた。欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。
     (『昭和 二万日の全記録 第3巻』 講談社 1989  306ページ)

 

 

 今回も、前回に用いた昭和9年と10年の新聞記事のスクラップブックから、当時の報道の実際を読んでみたい。「それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった。岩手県では全農家の七七㌫が緊急の救済を必要とした」実状である(取り上げる記事は、その岩手県の惨状を伝えるものだ)。

 用いるのは、昭和9(1934)年10月17日の東京日日新聞記事である(時系列的には、前回記事で用いた朝日新聞記事より前のものということになるが、スクラップブック上では後のページに貼られている―スクラップブックの掲載順ということでご理解願いたい)。

 

 

 

スクラップブック(昭和9年~10年) 
     榮養價ゼロでも食べねばならぬ (9.10.17 東京日日新聞)

 

 

 (見出しの表記は原文のままとし、本文は「かなづかい」は原文通りだが、旧字体は新字体にあらため、本文中の大きな活字は太字で表記)

 

 

 喘ぐ東北
  榮養價ゼロでも
   食べねばならぬ
     草木に露命をつなぐ
          この世の地獄-冷寒地

 東北地方、わけても岩手県下を汽車で通過すると冷害に荒んだ山野にションボリと「をぢさん、残りの弁当を放つて頂戴!」と叫ぶ学童たちの悲痛な声を耳にするだらうここ数十年来みたことのない大飢饉に虐げられた食へない人達のノドをついて出る真の叫びだ、何百万人かにのぼるであらうこれら哀れな罹災者をどうして救ふか、廿万人と算される欠食児童の救済さへ手につかぬ惨状は中央都会人の想像だに及ばないほど深刻化されてゐる、本社が西野入、手島両慰問使を取敢へず派遣したのも苦難のどん底にあへぐ人々への心からなる隣人愛である

 稗飯は最上等
     悲惨な學童のお弁當

 本社盛岡支局では冷害が最も深刻な岩手県下二戸郡奥中山村小学校の児童達がもつて来る弁当を四階級に分けて本社に送り届けてきた
  茶わん一ぱい分ばかりの稗飯と馬蔓芋四個ほど
  精白しない稗の飯とキヤベツ二切れほど
  稗の餅、ガンモドキほどのもの一個
  稗さへ食へず、楢の実十五個ばかりを紙片にくるんだもの
 どれにも砂糖気もなければ醤油の色もついていない、馬蔓餅もキヤベツも少しばかりの塩分をふくんでゐるばかり
 都会人には想像も及ばぬお粗末な弁当だが、冷害地にとつては稗飯を食へるものがめぐまれた最上流の農家で、学童の大半はあざみの葉、山ごぼうの葉椎の実、やどり木の葉を貪り食つてははかない露命をつないでゐる、大根の葉、そばの粉などが食へたら中流以上の家庭で、甚だしい地方――主として岩手県の郡部から津軽方面――では藁を粉にして水とともにすすりこんだり団栗をかじつたり『生きんがため』『食はんがため』の悲惨な社会実話がくり返されてゐるが、送り届けられた前記四種の弁当について内務省栄養研究所原博士の検定を求めると
  最上流といはれる甲の弁当にしても含水炭素のみで蛋白質に乏しくヴイタミンAを欠いてゐるためにこれを常食としたら極端な栄養不良に陥り、老人、子供の場合には視力減退、鳥目となり妊産婦は分娩困難、乳児の保育はできないだらう、丙、丁に至つては議論のほかだとのこと―
 何十万かの農民はその丙、丁にさへありつけないのだ

 人間らしく
  身體が保てぬ
     せめて鰯か豆を…

 内務省栄養研究所の佐伯所長、栄養学の権威原博士はこもごも語る――
 昨年の飢饉当時には出張して現地で詳細調査したが、岩手県と青森県下は特に驚くべき惨状で、ま冬には土を掘つて地中の植物の根をかじつて露命をつないだものさへあつた、今年はそれ以上だといふから惨状推して知るべしで、この弁当をもつて学校へゆけるものはごく少数の農家に限られてゐるのだ、栄養上どうか、カロリーはどれくらゐか、などの質問をうけても数字の上や統計の上で返事はできない、せめて鰯や豆類でも摂ることが出来たら、人間らしい身体を保てやうが、こんなものでは科学的に説明し得ない、一度伝染病でも流行したらそれこそ一大事で、飢饉にたたきのめされた罹災民にはただ涙あるのみだ

 

 

 掲載された学童の弁当の写真のキャプションも収録しておく(写真もよく見て欲しい―「インスタ映え」からは遠い世界である)。

 

 これでもお弁當
   黒いのは團栗、 上方の白い部分は馬鈴薯、ほかは稗

 

 「都会人には想像も及ばぬお粗末な弁当だが、冷害地にとつては稗飯を食へるものがめぐまれた最上流の農家で、学童の大半はあざみの葉、山ごぼうの葉椎の実、やどり木の葉を貪り食つてははかない露命をつないでゐる、大根の葉、そばの粉などが食へたら中流以上の家庭で、甚だしい地方――主として岩手県の郡部から津軽方面――では藁を粉にして水とともにすすりこんだり団栗をかじつたり『生きんがため』『食はんがため』の悲惨な社会実話がくり返されてゐる」のであり、しかし「この弁当をもつて学校へゆけるものはごく少数の農家に限られてゐる」のであった。栄養学的観点からは「最上流といはれる甲の弁当にしても含水炭素のみで蛋白質に乏しくヴイタミンAを欠いてゐるためにこれを常食としたら極端な栄養不良に陥り、老人、子供の場合には視力減退、鳥目となり妊産婦は分娩困難、乳児の保育はできないだらう、丙、丁に至つては議論のほかだと」いうのであり、しかも「何十万かの農民はその丙、丁にさへありつけないのだ」というのである。

 

 

 かつて松原岩五郎が記録したのは、明治20年代の都市最貧困層が残飯に命をつなぐ姿であった(「残飯に命をつなぐ(明治期日本の貧困)」参照)。しかし東北の農村部には「残飯」は存在しない(「残飯」は都市のものなのである)。

 

 内務省栄養研究所の佐伯所長、栄養学の権威原博士が伝えるのは、

 

  ま冬には土を掘つて地中の植物の根をかじつて露命をつないだものさへあつた、今年はそれ以上だといふから惨状推して知るべし

 

このような「惨状」である。記事の見出しには「草木に露命をつなぐ」とあるが、それが比喩などではなく文字通りの現実だったのである。

 

 

 

 スクラップブックに戻ると、前回に紹介した昭和9年10月22日付の朝日新聞記事の左には、掲載紙名は不明だが同年11月14日付の新聞記事が貼られている(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」画像参照)。岩手県知事による救済策を伝えるものだ。

 

 六萬余の窮民に
  衣類足袋を配給
    懸費で購ひ無料で・・・
      石黒岩手知事さらに英斷

 【盛岡発】全国民の絶賛裡に施米を断行した石黒岩手県知事は第二の巨弾として十二日塩、味噌、鰯の施給を声明し十三日朝から関係課長など集合して施給方針について協議の結果、更に栄養不良のため痩せ衰へて行く凶作民に栄養を与えるべく五万貫の昆布を県費で購入施給することに決定した、また白魔襲来して寒空に震へてゐる窮民に対し衣類、足袋類等を同じく県費で五十四万の凶作民中特に救済を要する六万七千名に対しこれを今月末日までに全部一名の漏れもなく配給することとなつた、しかして今月上旬から一斉に開始された救農土木事業の賃金は十日目毎に支払ふことになつてゐたが、これでは救済の意味をなさぬといふので隔日支払いにすることになり、十三日各町村一斉に通牒を発した、今や石黒知事の善政は凶作民等から随喜の涙で迎へられてゐる

 

 石黒岩手県知事が、「栄養不良のため痩せ衰へて行く凶作民に栄養を与えるべく」、米、塩、味噌、鰯、昆布の「施給」と、「寒空に震へてゐる窮民に対し衣類、足袋類等」の「配給」を「決定」したこと等を伝える記事だが、「英断」、「善政」といった評価が示されている。

 大凶作による困窮者の救済は、行政として当然のことと理解されているのではなく、「英断」や「善政」としてやっと実現され得るものと位置付けられていることも読み取れる。前回にも引用した『昭和 二万日の全記録 第3巻』の記事には、

 

  十二月六日、衆議院は農林省提出の「凶作地に対する政府所有米穀の臨時交付に関する法律案」を可決し、政府所有米のうち五〇万石が、東北六県の町村に交付されることになった。

 

とあった。すなわち、12月になってやっと国家による救済策が打ち出された、ということだ。

 しかし、「身売り」された「娘」が国家により救済されることはなかったのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/03/27 22:01 → https://www.freeml.com/bl/316274/317952/

 

 

 

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2018年3月24日 (土)

賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)

 

 近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実がどのようなものであったのか?

 

 「残飯に命をつなぐ(明治期日本の貧困)」では、松原岩五郎の『最暗黒の東京』(1893)を通して、明治20年代半ばの東京のスラム街住民の姿、食料としての残飯の販売がビジネスとして成り立ち、商品として流通する残飯を食べて生き延びる明治20年代の都市最貧困層の実情を明らかにした。

 「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々(続・明治期日本の貧困)」では、イザべラ・バードの『日本奥地紀行』(1885)に記録された、明治10年代初頭の北関東から東北にかけての農民の姿を取り上げた。

 ノミやシラミだらけの環境の中で、「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々が、いまだ近代医学の恩恵から遠い世界で暮らしている姿である。「着たきり雀の風呂へも入らない人々」は、当時の農村部の貧困層の姿であっただけでなく、都市最貧困層も同様であったことも松原岩五郎によって記録されていた。

 

 記事の最後では、

 

  近代日本の(国体の精華たる?)「公娼制度」は(そして昭和期の皇軍の「慰安婦」もまた)「人身売買」に支えられたものであったが、その背景には、このような最底辺の帝國臣民の貧困の現実があったことも覚えておいてよいだろう。

 

このような指摘を加えておいた。

 

 

 今回は、貧困層の困窮が生み出す「身売り」、すなわち人身売買の問題に焦点を合せてみたい。取り上げるのは明治期ではなく、昭和戦前期の日本の現実、近代日本の現実である。

 

 

 昭和9年から10年(1934~1935)にかけて、日本が直面していた問題の一つが「凶作」であった。実状は以下の通りである。

 

 

  昭和九年は、日本各地に自然災害がおこり、農作物が大きな被害を受けた。九州・四国の干害、北陸・山陰の冷雪害、関西・中国の室戸台風による風水害と続いたが、冷害に見舞われた東北の被害は甚大で、明治三八年(1905)以来の大凶作となり、多くの農山村が飢餓線上をさまよった。十二月六日、衆議院は農林省提出の「凶作地に対する政府所有米穀の臨時交付に関する法律案」を可決し、政府所有米のうち五〇万石が、東北六県の町村に交付されることになった。
 
  小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民は、八年のように空前の豊作を記録した年ですら、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられていた。九年の凶作は、それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった。岩手県では全農家の七七㌫が緊急の救済を必要とした。
  飢饉の影響は、まず子どもたちの上に現れた。欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。とくに大きな問題となったのは、娘の身売りだった。東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、九年一〇月までの一年間で五万人余にのぼった。新聞は連日のように救済を訴え、矯風会や救世軍が身売り防止運動を始めたが、口べらしと借金の返済に迫られた農村の厳しい現実の前では、ほとんど効果はなかった。
     (『昭和 二万日の全記録 第3巻』 講談社 1989  306ページ)

 

 

 まず、ここで押さえておかなくてはならないのは「小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民は、八年のように空前の豊作を記録した年ですら、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられていた」との記述である。豊作の年ですら、生産者であるはずの農民の口に米は入らず、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食としていたというのである。その背後にあったのが「小作料と年間収入を超えた額の借金」であった(「豊作」であろうが「貧困」が現実であった)。

 そこに「明治三八年(1905)以来の大凶作」が襲う。もたらされたのは「それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった」ような深刻な「飢餓」であった。

 その「飢餓」からの脱出手段の一つが「娘の身売り」なのである。

 

  欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。とくに大きな問題となったのは、娘の身売りだった。東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、九年一〇月までの一年間で五万人余にのぼった。

 

 貧困層にとっては、人身売買に頼るしかなかった近代日本の現実がそこにある。

 

 

 

 以下、当時の新聞記事を読んでみたい(2015年の4月に、立川の中武デパートの古書市で手に入れた昭和9年と10年の新聞記事のスクラップブックによる)。取り上げるのは、昭和9(1934)年10月22日の朝日新聞記事である。

 

 

 


スクラップブック(昭和9年~10年) 
     東北の凶作地を見る (9.10.22 朝日) 1

 


スクラップブック(昭和9年~10年) 
     東北の凶作地を見る (9.10.22 朝日) 2

 

 

 (見出しの表記は原文のままとし、本文は「かなづかい」は原文通りだが、旧字体は新字体にあらため、本文中の大きな活字は太字で表記)

 

 

 東北の凶作地を見る
 賣られる最上娘
  哀切・新庄節
   「年期明けても歸つてくれるな」
    親達の悲痛な言葉
          山形懸新庄にて
          飯島特派員

 他郷の人の手に売られて哀切な『新庄節』に故郷の山河をしのぶ女の数は決して少なくない、山形県最上郡はその娘地獄の本場だがここは県下でも一の凶作地、ならして七割の減収、一かたまりになつてゐる三十五町歩の田が稲熱(ゐもち)病で全滅してしまつたところもある、飯米は至るところ不足で、西小国村の野頭部落では
  一人でも口を減らさうと思つてゐるのに売つた娘の年が明けて帰つて来られてはそれこそえらいことだ、何とかして娘の年期明けを延ばすことにしよう
 といふ申合わせさへやつたといふ、県ではこの凶作で一層娘の身売りが増えるだらうといふので、身売防止の方策を樹て新庄警察署が主になつて、先頃村村で「娘を売るな」と座談会をやつて歩いた
  娘一人の身代金は年期四年で五百円乃至八百円、然し周旋屋の手数料や着物代や何かを差引かれて実際親の手に渡るのは、せいぜい百五十円位だ、可愛い娘を手放しても、百五十円の金を握りたい、一つの悪風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう
 かうして床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく、淪落の巷を流浪する最上娘の「新庄節」こそ彼女等の望郷の憶ひをこめた哀歌であると共にドン底の農村の悲しむべき生活苦を、まざまざと物語るものでなくて何だらう、然も娘を売つた親達は「凶作で米がないから、年期が明けても村の懐には帰るな」といふのだ農村の窮乏もここに至つて正視するに忍びない
     ▽……△
 娘地獄のこの地方は馬の産地で「子供の出産より馬の出産が大事だ」とまでいはれる位、馬を売るために毎年秋に馬市がたつ、記者は折よく東小国村へ行つて、この馬市を見ることが出来た
  この付近では東小国に八百頭、西小国に五百頭位の馬がゐるさうだが、三日間の馬市に百二十一頭の馬が売りに出た、みんな二歳駒の威勢のいい奴ばかり、馬買ひの博労は遠く青森、秋田岩手の方からもやつて来る、馬市をのぞいて見ると、博労達が人垣の輪を作つて、その輪の中を、農家の若衆が売り馬の口をとつて、ぐるぐる円を書いて歩く「おうい、いひ値が二十円」「一円買つた」「もう三円!」かうやつてせり上げて、相当の値だと思ふと、世話人がポンと手を叩いて売買が決まる、見てゐるうちに、四頭の馬が売れた、一年半も手塩にかけた馬が三十五円、四十六円、四十七円最後の馬はたつた十七円であつた、しかも、この中から産業組合に一割五分の手数料を出さねばならぬ
 馬が安値に売られるたびに見物の百姓達までホツと肩で息をして「話にもならない値だなあ」とガツカリしてしまふ
 馬市の表の道の奥にはづらりと露店が並んでゐる、鍋、釜、古着、雑貨、食料品何でもある、つまり馬を売つてから、ここで一年分の必要品を買ひ込むといふ習慣になつてゐるのだが、今年はそれがひどい寂れ方だといふ、西小国村では凶作のため「馬市には馬一頭につき一人以上付いて行くな」といふ決議をした。人がわいわい多勢ゆけば買物も自然多くなるから、今までのやうにゾロゾロ馬にくつついて行つてはいけないといふのである、田舎廻りのサーカスの小屋がかかつてゐて、客を呼んでゐるが、人々はただ泥絵具の看板をポカンと眺めてゐるだけで、ガマ口を開けようともしない、収穫のない田圃、その田圃の中の小さい宿場、馬のせり市、さびれた露店、サーカスの荒んだ楽隊――凶作地のうら淋しい晩秋の風景は記者の心を徒らに傷ましむるのみだ
      ▽……△
 飯米不足でどこの村々でも濡米の払下げを申請してゐるがとうとう山から栃の実を拾つて米の代用に食ひ始めた、栃の木はパリの街路樹マロニエに似た木で実は栗のやうな格好をしてゐるが苦みと渋味があるので各村役場では「苦みをとつて粉にしてそれから餅にする迄の加工法」をガリ版に刷つて戸毎に配り学校の先生のきも入りで内儀さん、処女会員を集めて講習会なども開かれてゐる
  栃の実のほかにワラビの根、山葡萄の葉や山牛蒡の葉なども食ふ、学校にゆけば鼻をたらした「干松」が居り、村落の掘立小屋にひとしい家々には、米を作って米の食へない「伯夷叔斉」が青い顔をしてゐる、芋、大根、茄子みんな不出来で、きうりや茄子の漬物もない
 小学校の実習で作った大根が幾らか残つてゐるといふので、百姓が銅貨を握つて小学校へ大根を買ひに来る、細いのが三本五銭でこれが大した御馳走だ、村落を歩いて農家の軒先の蓆の上に並べて乾てある栃の実を貰つて五銭白銅を一枚子供に渡したら「やあ、この銭ア光つてるぞ」と大喜びだ帰りがけにまたその家の前を通つたら、さつきの子が出て来て「平シヤボテンもあるんだがなあ」と呼びかけた、記者はぐつと胸のつまる思ひをした、豊田村では一村禁酒、電燈減燭の決議をして、違反者には私刑を加へるといふ罰則を作つた、最上一帯は全く光を失つた村々の集団だ、米を作る農民の「飯米を与へよ」の声こそ悲痛である 

 

 

 「床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく」という「人身売買」の現実。

 それだけでは終わらず、「人でも口を減らさうと思つてゐるのに売つた娘の年が明けて帰つて来られてはそれこそえらいことだ、何とかして娘の年期明けを延ばすことにしよう」との「申し合わせ」をするまでに追い込まれているのである。

 

 ただし、当時の「公娼制度」のシステムの下では、「娘の年期明け」への心配は無用であったかも知れない。

 

  このように決死の思いでつけられた日記の中で、最も頻繁に出てくるのは搾取システムの実態である。元元彼女は三百円の借金で首が回らない実家を救おうと、千三百五十円で身を売ったのであるが、十分余裕ができると期待したのも束の間、周旋人に二百五十円も取られ、さらに借金を返してしまうと、家には差引八百円しか入らなかった。それでも六年間の年季の間に千三百五十円を返済するのは比較的容易に見えたが、朋輩の多くが長年月つとめながら一向に足を洗うことができない様子をみて、不審の念をいだいた。
  その謎はすぐに判明した。客から十円の収入があれば、実に七割五分を楼主に取られてしまい、二割五分だけが玉割と称して娼妓の取り分となる。しかも、その中の一割五分が借金返済のための天引きされてしまうので、娼妓は残りの僅か一割だけで生活しなければならないという仕組みなのである。彼女の稼ぎ高は月に三百円程度の箏が多かったので、手元に残るのは三十円程度にすぎなかった。これに対して呉服代から化粧代、洗濯代、電話代、客用の茶菓代、さては湯銭や病気のさいの治療費にいたるまで、諸掛一切が娼妓の負担となっており、これが月に四十円をくだらないので、いきおい楼主から追借をせざるを得ない。
  問題がこれだけでないことを、彼女は正月になってから知った。正月の三が日、七草、および十五、六日は「しまい日」と称し、客に「しまい玉」(または玉ぬき)という特別料金を請求するように仕向ける。揚代金は一時間二円、全夜(オールナイト)十二円を取ったが、「しまい日」には客に全夜の玉を倍の二十四円請求し、そのうえ遣手婆にも普段より多くの祝儀(五円)を出させる。無論、かなりの馴染み客でない限り応じるわけもないが、しまい玉が取れない娼妓に対しては一日二円の罰金が科せられるので、売れっ子以外は戦々兢々とならざるをえない。そのような客のないものは花魁の恥とされるからでもある。
  しまい日は正月ばかりでなく、三月三日、五月五日にも適用される。そのほかに「移り替」といって六月と十月の衣替えにも同様の“行事”がある。とにかく、あらゆる機会をとらえて搾り取る仕組みだが、不器用な彼女にはどうしても玉ぬきができない。最初の月だけで十円の罰金をとられ、主人から「いくら初見世でも、一人位玉ぬきができそうなものだ。もういく日になるんだ」と小言をいわれる。チップで生計を立てている遣手からもいやがらせをされるようになる。
     (紀田順一郎 『東京の下層社会』 ちくま学芸文庫 2000  167~170ページ)

 

 

 ここで紹介されている「日記」とは、「大正十三年(一九二四)の師走、群馬県高崎市に育った十九歳の女性が周旋人に案内されて新吉原の門をくぐった。森光子というこの女性は、その後の約一年間、娼妓として辛酸をなめ、ついに死を賭しての脱出に成功、翌十四年に『光明に芽ぐむ日々』という告発の手記」のことである(「賣られる最上娘」の記事の10年前の、人身売買の当事者による告発である―この10年間で、公娼制度の制度的枠組みが変化したという話は聞かない)。「朋輩の多くが長年月つとめながら一向に足を洗うことができない」のが実情であった。しかも紀田順一郎氏の文章は、「新吉原以外の公娼地帯では一層ひどい状況が見られた」と続いているのである。

 「賣られる最上娘」を待ち受けていたのが、どのような悲惨であったのか。切抜きとして残された新聞記事に書かれた以上の過酷な現実であったことは、想像しておいた方がよいだろう。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/03/24 14:01 → https://www.freeml.com/bl/316274/317854/

 

 

 

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