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2009年4月12日 (日)

「うそニュース」と「近代史の真実」

 

 日曜の夜になってしまった。

 
 

 「うそニュース」のフォトに、たぬき男いたち男氏のコメントがついていた(→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Photo/node/PhotoEntryFront/user_id/316274/file_id/52295)。

 

 で、「うそ」をめぐる話。

 
 

 エイプリルフールネタ(→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/99837)や、かつてのモモタローネタ(→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/47855/)を書いた時に目指したのは、「マコトシヤカ」でかつ「アカラサマ」な「うそ」であった。

 
 

 最初から「うそ」を書くつもりで書いているわけだが、騙しおおすことが目的ではない。他人を騙すことが目的ではない「うそ」というわけだ。

…という書き振りからは、「うそ」とは、通常、他人を騙すことを目的として語られるものであるという前提の存在が窺われる。

 実際問題として考えれば、自分自身を騙すための「うそ」というのも存在するように思える。しかし、この場合、それが「うそ」として認識されるのは、他者の視線においてであって、当人にとっては「真実」として把握されているケースが多いのではないだろうか?

 自分で自分を騙しているわけだが、当人にとってはそこに「うそ」は存在しない。

 

 ここで「うそ」という語を用いてしまったために、「真実」という語が登場してしまったが、普段の私が「真実」という語を用いて何かを語ることはない。

 普段の私なら、この手の文脈では「事実」の語を用いるだろう(その前に「現実」か?)。

 まずは当人にとっての「事実認識」(より正確には「現実認識」と言うべきか?)があり、その上で他者との共有可能な「事実認識」がある、という構図になる。当人にとってのみ有効な「事実認識」に関して、それが「うそ」であるのかどうかの判定は難しい。論理的整合性、時系列での整合性等から、第三者にも判定可能である場合もあるが、判断しようがないケースも多い。

 もちろん「他者との共有可能性」を条件にしたところで、関係者全員が錯誤に陥っている可能性を排除することも出来ないわけだ。「歴史」の記述でさえ、当事者を除いた「他者との共有可能性」よりは、当事者にとっての「望まれる歴史」に終始しがちなものである。

 共有可能性の範囲が狭いほど、記述内容には「うそ」が含まれやすくなる。しかし、もちろん、当事者にとっては、そこに「うそ」は存在しない。それこそが、「真実の歴史」と称されることになるのである。

 

 自分にとって都合の悪い「事実」は排除し、都合のよい「事実」だけで構成された「事実認識」の「真実性」が問われるわけだ。「真実」という語を用いることで生じがちな誤解を避ければ、都合のよい「事実」だけで構成された「事実認識」は、果たして「うそ」と何が異なるのか?という問いかけとなる。

 
 
 

…と書いて思い出すのが、

 
 

[満洲事変]

昭和六年九月十八日、奉天郊外柳条溝付近の鉄道爆破事件をきっかけに、関東軍が満洲全域の軍事占領を図った事変で、昭和八年五月三十一日の塘沽停戦協定によって事実上終結した。日本は、日露の戦勝で満洲に権益を有していたが、「滅満興漢」を旗印に新国家中華民国を建国した熱気は、既存の条約を無視した過激な国権回復運動となって満洲に波及した。この反日行動を武力で制圧した関東軍の行動は、国民に支持されたが、列国はこれに強く反発し、日本は国際連盟から脱退して、国際的孤立を深めるに至った。

 

 靖国神社 『遊就館図録』 (2003)

 
 

という「歴史記述」である。

 地名の「柳条溝」は誤りで、「柳条湖」であったことは既に常識に属する知識ではないかと思うのだが、それをなぜか「柳条溝」という記述に固執しているのも不思議な話なのであるが、その「鉄道爆破事件」が誰の手によるものであったのかが記載されていないというのは、もっと不思議な話ではなかろうか?

 その一句の挿入の意味は、実際の文章で比較すれば理解しやすいだろう。

 すなわち、

 

  奉天郊外柳条溝付近の鉄道爆破事件をきっかけに…

 

  関東軍による奉天郊外柳条溝付近の鉄道爆破事件をきっかけに…

 

という違いとなる。

 事実関係の確定という意味で、後者はより正確な記述である。しかもそこにあるのは単なる情報量における厳密性ではなく、歴史的経緯の理解に必須の情報の記載という意味において、歴史記述としての質に関わるものなのである。

 「関東軍による」という語句の排除により、「満洲事変」に際しての、中華民国の対応及び列国の対応の国際社会における意味合いが理解不能になってしまう。結果として、国際社会という視野から、当時の大日本帝國及び関東軍の行動を検証することが出来なくなってしまう。

 残されるのは、関東軍の都合のよさに合わせた記述にしか過ぎない。

 「事実認識」としての流通範囲は狭いものとなってしまうわけだ。

 

 『遊就館図録』の「ご挨拶」には、

 

 …近代史の真実を明らかにするのが遊就館の使命であり、眼目であります。

 

という言葉が書かれているのだが、その「真実」が身内のものでしかなくなってしまうのは残念なことだと思う。

 身内のための「真実」が、外部から見れば「うそ」に近い歴史認識をもたらしかねないのである。国際社会の被害者としての大日本帝國、というような。

 朝鮮民主主義共和国の指導者達には共有可能な歴史理解の構造かも知れないが…

 
 
 
 

…しかし、書き始めたときには予想だにしない展開となってしまった(という言葉に「うそ」はない)。ホントは、コンピュータが、自己保身のためにウソがつけるようになれば、コンピュータも人間並みになったと言えるんじゃないか、というお話に持って行くつもりだったんだが…

 
 
 
 
 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/04/12 21:03 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/100990

 

 

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2009年4月11日 (土)

続々々・「幻想の痕跡」

 

 再び…

 

 東京都立松沢病院内にある「日本精神医学資料館」をめぐるお話は、昨夜で終わるはずだったのだが、昨日の記事へのコメントに「葦原将軍」への言及があった。

 
…というわけで、今夜も、『怪』0026号(カドカワムック)の荒俣宏「松沢病院に残された幻想の痕跡に出会う」からのご紹介を続けたい。

 
 

 葦原将軍の話題としては、これまでに取り上げた発言の他に、まず鼎談の冒頭に、

 
 

荒(荒俣宏)  松沢病院を見学するのは、初めてです。それにしても広い敷地ですね。体育館も、コンビニも、集会所も中にあるし、椅子に座って飲み物を飲みながら談笑してらっしゃるのは、入院患者さんですね。われわれ外部の者が話しかけてよろしいですか?

春(春日武彦)  はい、ここは自由です。…(略)…。なにしろ広いので、医師は自転車で回診しなきゃいけません。…(略)…。

荒  この病院がこんなに駅の近くにあるとは、思ってもいませんでした。なんでも、五十年も居る患者さんもおいでだとか。普通の病院だとなかなか考えられませんね。もうここで、町と病院の共同社会が形成されてしまっている。

春  長い時間かけて、町と一体になった感じがありますね。近くのお店で何か買ったり、もう街に溶け込んでますよ。

京(京極夏彦)  他の疾病で入院する場合、入院が長引くすなわち症状が改善しない、悪くなるということですし、最後にはお亡くなりになってしまうわけですけれども、ここの患者さんの場合はそうではない。

春  葦原将軍のような方も居て、ここに居ながら、いろいろな色紙や証書を出して金儲けをしたりしていましたものね。

荒  販売とかは昔は自由だったんですか。揮毫などを売ったりと。

春  別に、本人がしたければしてもいい。わりと自由だったみたいです。…(略)…。

京  地域全体が本当の意味での開放病棟的に機能しているんですね。病院としても町としても。僕も暮らせるなあ、ここなら。

 
 

という形で登場する。

 

 実際、『ウィキペディア』には、

 
 

 病院に来る新聞記者や参観人に勅語を乱発しては売りつけたりした。葦原将軍の乃木希典との会見や、伊藤博文に金を無心して無視された事もある。また、明治天皇が巡幸した際に、「やあ、兄貴」と声をかけたこともある(大澤真幸『思想のケミストリー』紀伊国屋書店、118頁)。日露戦争時、「相撲取りの部隊を出してロシア軍のトーチカを破壊せよ」と発言するなど戦前のジャーナリズムを大いに賑わす人気者であった。奇矯かつ過激な言動は格好のゴシップネタとなり、新聞記者の間では「記事のネタに困ったときは葦原将軍に話を聞きに行け」と言われたくらいであった。
 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A6%E5%8E%9F%E5%B0%86%E8%BB%8D

 
 

と、その「逸話」が紹介されている。

 
 
 

荒  おっと、とうとう遭えましたよ。葦原将軍の遺品です!

春  そこにデスマスクも脳みそも、あります。

荒  大礼服や帽子も、ほとんど自作、サーベルも安ピカの手作り品ですね。

京  もうちょっと立派なのかと思ってました。でも、かわいいな、素朴で。

春  この葦原将軍に関して、だれか伝記を書かないかと思うんですけれどもね。種村季弘産は、予告だけして亡くなっちゃったし。

荒  当時は言論が弾圧されていましたが、この人は狂人だということで、どんな言論を発してもフリーだったそうですね。

春  マスコミが、何かにつけて話を聞きにきました。葦原将軍の話だからということで、過激な発言もお目こぼしになったんでしょう。

荒  そうですね。それで皆利用したんですよね。

春  そのあとが、山下清ですよ。彼の発言も比較的フリーだった。でも、さらにそのあとが居ないですよね、そういう役割を引き受けられる人が。

荒  いないですね、また表に一切出てきませんしね。でも以前、春日先生がおっしゃったことで、今は葦原将軍のような、宇宙的な広がりを持つ誇大妄想を語る人は居なくなった。俺は誰かに狙われているとか、小さい、しょぼい妄想しか存在しなくなったという話。妄想が小ぶりになったというのが、わたしには印象的でした。電気治療を跳ね返すくらいの妄想が、なかなか出てこない。

京  自分は偉いんだという人が居なくなってしまった……。

荒  デーモン閣下くらいですか。でも、『閣下』どまりですね。あとは有栖川で『殿下』が出たけれども、皇帝とか将軍と自称する人はいないなあ。

京  だからみんな、宇宙にいっちゃうんですね。でも、コリン星あたりじゃ偉くはないね。

 
 

…と、ここでは、『ウィキペディア』の記事にもあった、ジャーナリズムとの関係にも触れられている。

 ちなみに、その『ウィキペディア』によれば、山下清はサヴァン症候群ということになるらしい。

 葦原将軍の方は、確定した診断名はないという話だが、症状としては「誇大妄想」だろう。

 
 

 さて、鼎談には、

 
 

荒  元気になる妄想や、精神の異常状態を、人工的に体験すること(薬物使用についての言及-引用者)はまあ、本人の自覚次第としても、自分でどうしようもないのは統合失調症などの発症です。後遺症とは違う、薬害とも違う形になりますよね。発症すると、自力だけでは治せないですよね。

春  そうですね。家族や社会がパラメーターに入ってきますから。それと、統合失調症の研究が遅れている理由は、動物実験ができないことです。統合失調症のマウスなんて、イメージすることすらおぼつかない。

京  逆に、ほっとけばいい精神疾患というのもありませんか。それはそれで精神の安定が保たれているので、そのままでも良い、というような。たとえば、自分のしたことを覚えていないような場合、それを天井裏の妖怪がしていることだ、と信じこむ。でも、そう信じ込むことで精神の安定が得られているなら、本人も周囲も、それでかまわないのではないでしょうか。

春  そうなんです。わたしもそう思います。心を治すことは、風邪を治すようにはゆかない。ポイントは、本人にとっての幸せは何か、ということです。妄想を持っていてもそれなりに幸せということはありますよ。まわりが許容できるかどうかですが。

荒  統合失調症にかかると、たいていあまり幸せそうではなくなるみたい。

春  まわりからはじかれてしまうわけですよ。ただ昔だったら、どこの町にも一人くらい有名な人が居たわけです。今は街にそういう包容力が無くなったということが、いえます。

 
 

というやり取りも記録されている。

 
 
 

 葦原将軍は幸福だったのだろうか? その墓碑銘には、「狂聖」という語が刻まれているそうである。

 
 
 
 
 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/04/08 21:49 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/100589

 

 

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続々・「幻想の痕跡」

 

 東京都立松沢病院内にある「日本精神医学資料館」をめぐるお話は、昨夜で終わるはずだったのだが、昨日の記事へのコメントに夢野久作の『ドグラマグラ』への言及があった。

 実は、『怪』の記事中でも、取り上げられている。

 
 

 そこで、今夜も、『怪』0026号(カドカワムック)の荒俣宏「松沢病院に残された幻想の痕跡に出会う」のご紹介を続けたい。

 
 
 

荒(荒俣宏)  こちらは拘束具関係ですね。ボローニャ、癲狂院の製作とあります。こっちはベネチアだ。海外の病院とも連携をとっていたんですね。海外から輸入した足枷もある。

春(春日武彦)  全部イタリア製ですよ。昔はわりとイタリアが粗っぽい拘束具を開発したようですよ。電気ショック療法もイタリアが発祥地ですし、ロンブローゾもイタリア人ですし。

荒  ここにある写真は、榊俶院長ですか。『ドグラマグラ』に出てくる人だ。安政四年。江戸の下谷に生まれ、ドイツ留学。明治十九年日本で最初の精神医学担当の大学教授に任命され、日本人で最初の精神医学の講義をしたんですね。学生の講義をすべて病院の中で行って、榊門下たちはすべて、巣鴨病院で診察を担当した。榊院長はヨーロッパの新しい先進医学を日本に導入し、三十九歳で亡くなっているんですね。門下生には呉秀三、なるほどね、確かに『ドグラマグラ』に出てくるわけですね。この人がドンだったんですね。

春  日本の精神医学は、やはりドイツのクレペリンが源流ですよ。この人が精神疾患の分類体系を確立したわけですし。

荒  そうですね、性格や適性検査の理論も精神病理学も、ドイツが盛んでしたしね。呉秀三先生はどこへ留学したのかな。やはりドイツか。クラフト=エヴィングに学んだのですか。性的倒錯の大家に弟子入りしたとは! イタリアの精神医学の伝統を引いた人はいないんですね。皆ドイツだから、療法はまともだったわけね。

京(京極夏彦)  まともじゃないと困る(笑い)。でも、精神医学の巨人である榊に呉両氏は『ドグラマグラ』の主役ですからね。あの小説はドイツ精神医学を基礎に解読するのが正しいんだね(笑い)。

春  フランスだけはまた全然系統が違いますよ。あの国は独特だからなあ。

荒  そうなんですか。その対立関係も、あとで調べてみたいですね。

 
 

 記事(鼎談)の前書き部分に、病院の歴史が紹介されているのだが、その中に、

 

明治三十四年(1901)には、精神病者の解放治療をめざした呉秀三が医長(明治三十七年から院長制へ移行)に就任。

 

という記述がある。そこが『ドグラマグラ』の設定につながるわけだ。

 
 

 ドイツ精神医学摂取の事情は、小俣和一郎『精神医学とナチズム』(講談社現代新書 1997)では、

 

 明治期以降の医療、ことに精神医療が近代国家としては著しく立ち遅れていたのに対して、アカデミズムとしての精神医学の摂取は比較的迅速に行われた。すでに1876年(明治九年)にはドイツ人医師ベルツが、当時の東京医学校(東京大学医学部の前身)に招かれて内科学の講義を始めていたが、その中の一部に精神医学の講義が含まれていた。1886年には、ドイツ留学から帰国した榊俶によってわが国初の精神医学教室が帝国大学医科大学(のちの東京大学医学部)に開設され、今世紀初頭までには続いて設けられた各地の帝国大学医学部に次々と精神医学の講座が開かれていった。教授のほとんどは榊の門弟、つまり東大医学部出身者であり、大学精神医学においてもわが国特有の(出身大学別の)派閥が形成される契機ともなった。

 このように、わが国の大学精神医学が東京大学中心の保守的な学閥によって展開していたこともあって、精神医学そのものもまた、ドイツ精神医学の無批判な移入に終始することになった。のちの第一次大戦における日独交戦の期間を除けば、圧倒的多数の精神医学の教授たちがドイツ留学の経験者によって占められてきた。

 戦後に至って、医学全体が次第にアメリカからの影響を受けはじめたのちにも、精神医学はなおしばらくのあいだ、ドイツ精神医学の強い影響下にあったことは周知のとおりである。とりわけ精神病理学は、今日でもなおその長い一方的な影響下から完全に脱却しきれたと言い切ることはできない。

 日本の大学精神医学が、その誕生直後からこのようないわば「ドイツ精神医学至上主義」ともいえる体質を抱き続けてきたことが大きな背景となって、ナチス・ドイツ台頭後も依然としてナチ精神医学を無批判に摂取し続けることにつながったといえる。前述の国民優生法による断種の推進を前提とした精神障害者の疫学調査は、当時の東大精神医学教室によって着手されたものである。

 

と書かれている。視点が異なれば、自ずと評価も異なる、ということだろう。ドイツ精神医学至上主義がナチ精神医学の無批判な摂取につながったという指摘なわけだが、治療の場である松沢病院へのナチ精神医学の影響の有無もいささか気にかかるところだ。

 
 
 
 

 まぁ、それはさておいて、『怪』の記事。昨夜の荒俣宏発言の後は、

 
 

春  夢野久作の『ドグラマグラ』もそれに近い感じはありますよね。出版の機会が訪れたから、改稿の無間地獄から脱して何とか終了できたんでしょう。ただ、その強制終了は、早すぎたら意味がない。なりふり構わず踏ん張るから、成果を残せる。以前は編集者が作家の自宅に泊まりこんで、作品を書かせた。粘ったのです、ぎりぎりまで。重要なのは熟成ですよ。今は精神医学の治療がいい薬のおかげで早くなってきていますから、妄想もまた熟成されていかない。

京  狂人の芽を摘んでしまう、ということですか。

荒  それは名言だ、京極さん! 葦原将軍のような熟成されたサヴァンが消えた真の理由がはっきりした。結論が、ちょうどよきところで出ましたね。お疲れ様。

 

と続いていたのであった。

 

 あくまでも、鼎談の掲載誌は『怪』なのである。

 
 
 
 
 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/04/07 21:05 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/100457

 

 

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続・「幻想の痕跡」

 

 東京都立松沢病院内にある「日本精神医学資料館」をめぐるお話。

 

 昨夜の続きである。

 
 
 

 『怪』0026号(カドカワムック)の「松沢病院に残された幻想の痕跡に会う」という記事の内容紹介だ。

 

 昨日の荒俣宏氏のセリフからもう一度、その続きまで。

 
 

荒(荒俣宏)  ところで、本日は資料館見学ですが、事前に部長先生の許可をいただきました。中に入ってよろしいでしょうか?

春(春日武彦)  どうぞ、この資料館の正式名称は、「日本精神医学資料館」です。例の、皇居のお濠を渡ろうと計画した人が作ったという奇怪な小船が、入り口に展示してあります。

荒  え、これなんですか! こんな手製の船で皇居に何しに行こうとしたんですか?

春  昔は電波も音も、精神に影響する波動はすべて皇居からやってくる、と。

荒  昔、天から電話がかかってくるとか、電線から声がするとかいう話がありましたが、皇居からのも、あったんですか。

春  今は皇居のマジカルな力もすっかり価値が下落して、そういう話を聞きません。最近だと、怪電波は都庁からきたり、NHKからきたり。

 
 

 精神障害の世界における、皇居の地盤沈下、つまりマジカルなパワーの源泉としての天皇の認知度の低下ということだろうか?

 いわゆる「ネトウヨ」諸氏の意識を見ても(詳しいわけではないが)、わが「国体」への関心度の低下が窺われるという印象を持っている。右翼を称する人間から、「国体意識」が失われつつあるのだから、精神障害というある意味で感度の高い人々の関心が皇居から都庁やNHKへと移行しているというのもうなずける話であろう。

 日本文化史的観点からも興味深い事実だと思う。

 
 

 さて、ここからがホントの昨夜の続きである。

 
 

荒  それからもうひとつ、せっかくお目にかかったので伺いたいのですが、こういうアーティスティックな作業、これは昔、十七世紀くらいに精神病院を見物したホガースという画家が、病人たちの変な行動に気が付いて、皆壁に色んな画を描いたりして、もしかしたらこの人たちはアーティストなのかもしれないというところからはじまって、とうとうローザンヌで狂人アートの研究もはじまりますよね。このアーティスティックな能力、機能と、脳との関連に関して最近はサヴァン症候群が話題になっています。精神の障害がある人の中に、絵とか音楽とか数学とかに超人的な能力を発揮する例がある、という現象ですね。われわれ、妄想系の作家にとっても関心のある問題です。これ、どうお考えですか。

春  わたし個人としては、ロマンと過大評価とが混同されている印象がありますけどね。統合失調症などでみてみますと、技術的な機能は精神疾患が発生してもそんなに落ちないといわれています。ただし、絵の場合、構図に緊張感が失われて、描かれている要素がすべてバラバラになってしまう。本人たちも気がついてまずいと思うわけです。そうすると不安に駆られて空白をびっしりと埋めてゆくんです。でも、そんなことをすると画面は壁紙みたいにアクセントを失ってしまい、それゆえに偏執的な独特のトーンが生まれてくる。昔、わたしが知っていた絵描きの患者さんは、発病以来次第に構図がゆるくなってきて、苦し紛れに、画面全体を黒く塗りつぶして、その上に白く線を浮き出させる銅版画のメゾチント方式で描くようになった。すると全体の画面が闇に沈みますから、余白がなく、緊張感がでる。そういう工夫で、なんとか構図が散漫になるのを防いでいました。

京(京極夏彦)  作家でいうと、プロットが作れない、オチの付け方が分からない、の状態ですか。

春  そう、構図やオチを決められないというのは、ある意味で悲惨な話ですよ。

荒  人間やはり、二、三歩先の見当がつかないと先に進めませんからね。

春  そうですね。構図が散漫になってしまうことでおきる不安。つまり、それがいままでずっとお話してきた精神的な不安定状態の真相でもあるのです。

京  良いのか悪いのか判断できないから、どんどん隙間を埋めていってしまう。

荒  でも、われわれが助かるのは、物理的に締め切りが来て、作品を自動的に終了させてくれることですよ。天の救いの強制終了です。人生の強制終了である死も、ある意味では救いかもしれない。これ以上悩んだり、恥かいたりしなくて済むから。

 
 

 実際に、「アウトサイダーアート(アール・ブリュット)」という呼び方で、精神障害者による作品がカテゴライズされ、関心を持たれつつある。私自身、かつて世田谷美術館で開催された「パラレル・ヴィジョン」展を観て以来、興味を持ち続けている分野だ。

 まぁ、それはそれとして、ここでは、「プロット」と「オチ」という京極氏の表現に惹かれてしまった。

 絵画作品や立体作品を見ていて、どの時点で作家が完成と判断するのか? というのは、よく思うことなのである。

 文章にも、同様な側面があるだろう。改稿を繰り返してもフィニッシュに至らない状況。しかし、そんな時には、何を自分が言いたいのかが既に見失われていたりもするものだ。

 一方で、書き続けることによって、まったく別の眺望が開けるようなこともある。わかっていることを書きました、という状態から、書き続けたことで新たにわかった(それも思いもよらぬ展開として)、という状況への転換。

 絵画作品などでも、下描きの精緻化としてではない描き方があるように思える。完成形が、当初から明確にイメージされているとは限らないのである。

…なんてことを考えながら、荒俣氏の「人生の強制終了である死も、ある意味では救いかもしれない。これ以上悩んだり、恥かいたりしなくて済むから」という発言にも心から同意している私なのであった。

 
 
 

 あらためて数えてみたら、鼎談部分でも14ページという分量である。これだけでも読むに値する、と言うか、(その前に)買うに値する一冊だと思った(と購入→ますます部屋が狭くなる、を正当化している)。

 
 
 
 
 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/04/06 22:22 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/100371

 

 

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「幻想の痕跡」

 

 角川書店が出している、『怪』という雑誌(カドカワムック)の最新号(0026)に、「松沢病院に残された「幻想の痕跡」に会う」と題された記事がある。

 「荒俣宏の脳内異界探偵」というシリーズのひとつで、「驚愕の松沢病院コレクション」というサブタイトルも付けられている。

 

 巻頭の方の、4頁ほどが荒俣宏氏の文と写真で構成されたカラーグラビアページで、続きは後ろの方に別に、同行した京極夏彦氏、そして案内役の作家にして精神科医の春日武彦氏を交えた鼎談形式の記事となっている。

 

 言うまでもないことだとは思うが、「松沢病院」は、長い歴史を持つ精神科の病院である。本格的公立精神病院第一号の後身ということになるらしい。

 その東京都立松沢病院内にある、「日本精神医学資料館」を訪問しての紹介記事だ。

 
 
 

 グラビアのキャプションの言葉を用いれば、「患者の作品、松沢病院の歴史、精神病治療の歩みなどが2部屋にわたって展示されている」施設ということになる。

 かつて使用された拘束具や電気治療器もあれば、院内で発行印刷されていた同人誌、患者が制作したカルタもあれば仏像もあり、果ては「葦原将軍」のホルマリン漬けの脳なんてものまである。

 
 

 鼎談形式の記事には、「ところで、本日は資料館見学ですが、事前に部長先生の許可をいただきました。中に入ってよろしいですか?」という言葉がある。見学は許可制なのだろうか?

 いずれにしても、いつか訪れて見たいと思っている。実は、私の叔父のひとりが、松沢病院で生涯を終えた人物なのだ。院内で、なにやら「作品」を作り続けていたらしい。他人事ではないのである。

 
 
 
 

 記事の内容から、興味深かったところをご紹介すると、

 
 

荒(荒俣宏)  ここには院内の同人誌が残されていますね。自家出版だ。あ、印刷作業療法というのを実験していたんですね。「設立以来半世紀以上の歴史を持つわが国の精神病院の印刷作業療法の草分けである」か。松沢病院の印刷作業は昭和五年に開始され、一日平均四人で病床日記その他の印刷物を引き受けて始めた。ほっほう、すごい印刷物を発見しましたよ。「全世界最初の初宇宙神殿建立、天上公園を建設」という本、どうもこの印刷作業療法のひとつで成果のようです。しかも袋とじガリ版刷りになっています。宇宙や地球のことと、この世界のお話であるように思われます。今この本の序文を読みますよ。「小生御厚情を賜り居りまして、誠に喜ばしく、有難く、厚く御礼を申し上げます。およばずながら、本に印刷してあります宇宙や地球のことと世界の人のお話であるように思われます。宇宙や地球のことと、事実なる宇宙や地球がいかにありましょう宇宙の森羅万象とよくあいまして、世界の人のお話の意味が成立しております。」と。

春(春日武彦)  昔はですね、こういう壮大で誇大妄想的な患者が多かったというその実例ですね。

京(京極夏彦)  天上公園の請願がある。院長先生宛ですね。よほど強く願われていたんですね。

 
 

なんてやり取り。

 「天上公園を建設」の文章・文体が独特で面白い。

 
 

京  もう一歩深く知りたいところは、妄想なり錯乱状態なりが、治療することで本当に快方に向かうのか、という点です。どうなんでしょうか。

春  医学的にいうと、いわゆる神経細胞間の伝達物質がどうとかいわれますが、ただそれを調整する薬を使っても、ある程度は良くなることはあっても、完全にケロリと良くなることは無い。発症には、相当複合的な原因があるものと思われます。

京  何かのきっかけで、記憶喪失が回復するように正気づいたりすることはないのですか?

春  妄想は、急に我に返って、俺はいままで何をやっていたんだろう、という展開にはまずなりません。いつのまにか消えてしまうことはありますけど。ただ、わりと劇的に消える場合があって、それは本人の健康状態が悪くなって死にかけるか、体が極端に衰弱状態にあるときです。つまり、我が身が危急存亡の際に立たされると、気が狂っているどころではなくなってしまう。

荒  死ぬ寸前に、精神状態が回復する、ということもあるんですか。

春  あります。ですから合併症の手術などをしますと、精神科の薬は一時的に減らせます。精神状態も改善する。ところが体が良くなってくると精神科の薬も増やさざるを得なくなってくる。そういう意味では、一種の贅沢病かもしれません。

荒  大脳皮質みたいな、贅沢な脳の部位を使っているから。

春  そうそう。

荒  生きるか死ぬかの瀬戸際、原始的な動物脳に頼る状態になると、もう妄想だとかそういうものは吹っ飛ぶということなんですね。

京  ということは、我々は日々脳内で贅沢をしているということですね。

 
 

 これからが話の佳境で、芸術にまで話が及ぶのだけれど、本日はここまで。

 

 精神病院が他人事ではない人たちの「鼎談」というところが、話を面白くしているように思える。

 
 

 この続きは、明日にしたい。

 
 
 
 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/04/05 23:13 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/100265

 

 

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2009年4月 1日 (水)

陸軍冬期戦研究所(とらぬタヌキの肉算用)

 

 斎藤智久『智久日録』(幽玄閣  昭和31年)には、戦中の疎開先での様々なエピソードが書かれている。

 

 斎藤智久の本業は英文学者だったらしいが、同書を読むと、姻戚関係を通しての陸軍中枢部の軍人達との交流が窺われるところが興味深い。

 また、いわゆる学者一家という印象で、家族がそれぞれに民俗学であったり物理学であったりといった分野で活躍していたらしい。

 

 
 群馬の奥野村への疎開は、昭和19年の晩秋に済ませており、翌20年1月27日の空襲で小石川の自宅が焼かれた際には、疎開済みの家財だけは無事だったということだが、相当量の蔵書を焼かれてしまっている。蔵書を焼かれる気分には、想像するだに辛いものがある。

 同書によれば、その日は、東京に滞在中で、品川での会合を終え帰宅した時には、自宅は既に焼け落ちていたという。

 

 その品川での会合もまた、私には、興味深いものだ。民俗学関係の集まりだったらしいが、

  シュケムトビク氏の蒐集せる土民の用具類を観察す。

  鼻長き神像面白し。 

という記述からは、ハイアイアイ島住民の貴重な民族資料が、当時の日本国内に存在していたことが推測されるのである。その後の資料の消息は不明であるが、空襲の犠牲になった可能性はありそうである。また、資料の提供者が海軍関係者であるらしいことにも興味を覚えた。

 

 
 さて、奥野村への疎開は、陸軍関係者の紹介によるものだったと書かれている。当時の奥野村には、「陸軍冬期戦研究所」と呼ばれた、軍の研究所があったのである。

 狸の養殖が、研究所の課題であったらしい。

 つまり、軍用の毛皮の供給源としての狸、ということであろう。

 ここで興味深いのは、研究所の設立年代である。同書によれば、それは昭和14年であった。満洲事変により、既に満洲は大日本帝國の支配領域であった。

 対ソ戦を前提とした陸軍の戦略構想を考えれば、その時点での毛皮の供給源の確保は、実際的問題であったのだろう。

 

 ただし、大東亜戦争は対米英戦争として始まり、戦場も南方地域であった。戦局の逼迫と共に、北方の寒冷地の戦場用として想定されていた狸の毛皮の確保の優先度は低下してしまう。

 斎藤智久の疎開した昭和19年の時点では、予算の削減という事態に発展していたようである。

 

 
 陸軍との関係からの疎開先の選定ということで、研究所の陸軍軍人との交流が深かったようで、研究所の内情への言及は詳細で信頼度が高い。ちなみに、「陸軍冬期戦研究所」という正式名称は通常は用いられず、「勝々山部隊」と称していたらしい。『智久日録』刊行当時には研究所の建物も残されており、付近一帯は、村民からも「勝々山」と呼ばれていたということだ。

 

 予算削減という提案に直面した当時の所長、清水七郎大佐は、狸を毛皮の供給源としてではなく食肉として位置付けることによる、事態の打開を図る。

 毛皮としての価値に加え、食肉としての価値を強調することにより、研究所としての存続を画策したわけだ。

 

 
 そこに巻き込まれたのが、斎藤智久であった。

 悪化する当時の食糧事情の中でありながら、陸軍研究所という性格上、食糧の確保は難しいものではなかった。一般の食糧事情からすれば、実に恵まれた環境にあった、はずなのだが、新たな研究課題である。

 連日、所長宅に招かれての食卓に上がるのは、狸の肉なのであった。

 やはり、不味かったらしい。空襲の被害に遭った、神田のホテルのコックや、向島の料亭の板前など、一流の料理人を研究所嘱託として採用していたようだが、狸の肉のハードルは高かったようである。

 

 

 昭和20年4月1日の斎藤智久の言葉が、すべてを物語っているだろう。

  団栗を食べる狸を食べんが為に努力せしも、

                団栗は団栗として食べる方がはるかに美味なり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          (エープリル・フールの「freeml」用のネタ)

 
 
 

 
(オリジナルは、投稿日時:2009/04/01 19:29 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/99837

 

 

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2009年2月11日 (水)

昭和四年文部省檢定濟『家事新教科書』 (2)

 

   第11章 竃・燃料

    第一節 竃

一、要部 竃には、燃焼部・用熱部・通風部を備へることが必要である。

1、燃焼部 燃料を燃やす部で、火網と、焚込口と、爈戸とがなければならぬ、その構造は燃料の種類によつて異なる。

2、用熱部 熱を利用する部で、煮炊きをするものならば、鍋・釜の大きさに適せしめる等、その構造は利用の目的によつて異なる。

3、通風部 燃焼部に空気を入れ、且廃気を去る部で、開閉し得る通風口と、煙を生ずる燃料では煙突とがなければならぬ、その構造は燃料の種類によつて異なる。

二、種類 普通に用ふる竃には、日本竃・西洋竃・改良竃等がある、この外七輪類も亦多く用ひられる。

1、日本竃 日本従来の竃で土又は石を以てつくり、焚込口と通風口を兼ねし口があつて爈戸はない、故に燃焼は不完全で多くの煙を出す。

2、西洋竃 西洋式の竃で鉄を以てつくり、三要部を備へ、通常周囲を煉瓦にてかこむ、燃焼は完全で多くの煙を出さぬ。

3、改良竃 種類多く、鉄製で三要部を備へ、木炭用のものは煙突がない、必要に応じて、用熱部の形を種種に組み換へ得るから便である、愃六竃の如きはそれである。

4、炭七輪 土製と鉄製とがあり、用熱部の大きさを変ずるために枠がある、土製は鉄製よりも熱効率は大であるが、破損し易い。

5、ガス七輪 鉄製で括栓によつてガス量を加減し得る、もし空気量と鍋釜の高さとを加減し得るように改良すれば一層便利である。

6、電気七輪 燃焼によらず電気熱を利用したもので、切替スヰッチにより、電流の断続と電流の強さの加減とをなし得るから便である。

7、石油厨爈 種類多く、鉄製で、石油を燈心に吸上げて燃やすものと、石油を圧力で押上げ気化させたものを燃やすものとの二種がある、火力はやや強いから石炭ガスのない所では便である、スタンダード石油厨爈、平栄竃の如きものである。

    第二節 燃料

一、種類 普通に用ふる燃料は、薪・木炭・石炭・石炭ガス・及び石油である、近年電気も亦燃料の代りに次第に用ひられる。

1、薪 樫・楢・山毛欅・櫟等の堅木と松その他の雑木とがある、堅木は雑木よりも、又冬に切り取つた木は夏に切り取つた木よりも炭素分多く、従つて火力は強く、火持ちは長い。水分あるものは気化熱を奪ひ去るから、乾いたものよりも有効熱量は小である、残火は消し置きて利用する。

よい薪は、(1)その質かたく、(2)よく乾き、(3)木理はととのつている。薪に点火するには、先づ適当に組み重ねた下に、焚付を入れ、マッチを以て点火し、焚付の燃え切らぬ間に、次次と同じ場所に少しづつ焚付を送り入れ、薪の同一部を発火点に熱すればよい。

2、木炭 堅炭・佐倉炭・松炭等がある、堅炭は樫性が最良で、火付あしきも、火力は強く火持は長い。佐倉炭は櫟製が最良で、火力は堅炭に劣るも、火付はよく、火持は長く、埋火に適する。松炭は松製で、火力は弱く、火持は短い。故に炊事用には堅炭を用ひ、火鉢・煙草盆には佐倉炭を用ひる、残火は消し置きて利用する。

よい木炭は、(1)木理正しく、(2)切口黒くして、(3)堅くして打てば金属音を発する。

木炭に点火するには、先づ火種を中にして消炭を寄せかけ、更に堅炭を寄せかけて、その上に火起筒を立てればよい。

3、石炭 褐炭・黒炭・無煙炭等があり、普通に用ひるものは黒炭である、石炭は火力は強く、火持は長いが、火付はあしく、煙と悪臭とを発するから、煙突のある竃でなければ用ひ難い。

よい石炭は、(1)黒くして輝き、(2)かたくして重く、(3)結晶状に塊まつてゐる。

4、石炭ガス (1)点火・消火は容易で、(2)火力は強く、(3)火加減は自由で、(4)且周囲を汚さず、(5)至急の間に合ふことが他の燃料にまさる、しかし都市でなければ得難い。

石炭ガスを点火するには、先づ鍋・釜を七輪又はかも度にのせ、次にマッチをすり、括栓を少し開いて直に点火し、更に括栓を開いて焔の大きさを加減する。

5、電流 電気熱を利用せしもので、(1)電流の断続及び、(2)熱加減はやや自由で、(3)空気及び周囲を汚さぬから、他の燃料にまさるが、都市でなければ得難い。

6、石油 近年は燈用以外に、炊事・ストーブにも用ふ、点火に少し手数を要し、且空気を汚すが、(1)火力はやや強く、(2)火加減は自由であるため、石炭ガスや電流のない地では便である。

 
 

…と、80年前の、高等女学校師範学校用家事科用教科書には書いてある。

 既に昭和の時代の教科書なわけだが、炊事の主力は「薪」であり「竃」なのであった。

 こういうことは、知識としては確かにインプットされているのだが、しかし普段の想像力の外にあるようにも感じる。

 

 火力の主力として「1」が薪、「2」が木炭、「3」が石炭と続いているのだが、どれも火力調整の難しい「燃料」である。弱火から強火までを瞬時に使い分ける、現代の感覚での「料理」には向いていない。

 

 「石炭ガス」の項目の、

  (1)点火・消火は容易で、

  (2)火力は強く、

  (3)火加減は自由で、

  (4)且周囲を汚さず、

  (5)至急の間に合ふことが他の燃料にまさる

という記述には、今さらながら驚かされることになるだろう。言うまでもなく、どれも今や当たり前の話なのである。しかし、80年前の日本の少女達には、そして当時の主婦達にも、必ずしも当たり前の話ではなかったわけだ。

 時代を経た日常感覚への想像力を持つことの意外なほどの難しさを、家事科教科書の記述を通して味わうことが出来る。

 
 

 現代人である私達に、日常的に、「ガス七輪」や「電気七輪」を用いて生活しているという自覚はあるだろうか?

 
 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/02/10 20:40→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/94721

 

 

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昭和四年文部省檢定濟『家事新教科書』 (1)

 

   第五章 嗜好品

    第一節 嗜好品の意義・種類

一、意義 嗜好品は、(1)神經を刺戟し、(2)心身の働きを盛にするものである。

二、種類 普通のものは、(1)茶・コーヒー・ココア・酒類等の飲料、(2)山葵・生薑・山椒・胡椒・芥子・蕃椒等の香辛料及び、(3)煙草等である。

    第二節 嗜好品の性質

一、茶 緑茶・紅茶・烏龍茶等があり…

 
 

…と、昨日購入の、昭和四年文部省檢定濟『家事新教科書』の「嗜好品」の項は始まっている。

 文中それぞれのルビは、

 …山葵(ワサビ)・生薑(シヤウガ)・山椒(サンセウ)・胡椒(コセウ)・芥子(カラシ)・蕃椒(タウガラシ)等の香辛料(カウシンレウ)及び…

といった具合だ。

 毎度のことながら、舊字體の文章を相手にするのには、労力が要求される。「IMEパッド」様のご厄介になりつつ、注意力と根気の勝負となる。老眼人間には辛い。

ので、以下は、漢字の旧字体への変換をなしで済ませてしまうことにする。

 で、「嗜好品」についてのお勉強を続けると、

 
 

三、酒類 醸造酒・蒸留酒・混成酒の別がある、いづれも主成分はエチルアルコールで、その含量は酒の種類によって左の如く異なる。

 (酒名 エチルアルコール の順で)

ビール 4・5  葡萄酒 8・5  清酒 17・5  ウイスキー 39・6  焼酎 39・5  ブランデー 48・6

酒類は、(1)適量を飲めば、精神を興奮させ、血行を盛にし、消化を進める効はあるが、常用者は次第にその分量を増し易く、(2)過量を飲めば、胃腸と脳を害する、且その害は独り現在の我が身のみにとどまらず、子孫にも及ぼすことがある、而してこれ等の害は、エチルアルコール量の多い酒ほど甚だしい、故に飲酒の習慣をつけぬがよい、我が国では、未成年者には法律を以て飲用を禁じてゐる。   

四、山葵・生薑・山椒等 (1)少量を用ひれば、消化器を刺激し、食欲を進めるが、(2)多量を用ひれば、逆上をまねき、胃を害する。

五、煙草 刻煙草・紙巻煙草、葉巻煙草がある、いづれも、主成分はニコチンである、喫煙の際その大部分は分解するが、微量は煙と共に体内に入る。常用者は、(1)適度に用ひれば、神経を興奮し、心身の疲れをいやす効あるも、(2)過度に用ひれば、咽喉及び胃を害し、脳に作用して、記憶力・推理力を減ずる、故に喫煙の習慣をつけぬがよい、我が国では未成年者には法律を以て喫煙を禁じてゐる。

六、清涼飲料水 ラムネ・サイダー・平野水等は、炭酸ガスを含める清涼飲料で、蜜柑水・薄荷水・葡萄水等は炭酸ガスを含まぬ清涼飲料である。これ等は、(1)適量を飲めば、渇をいやし、清涼の感をあたへ、食欲を進める効はあるが、(2)妄に用ひれば胃腸を害する。

清涼飲料は、濁れるものは古くして有害であるから、用ひるときに壜のままこれを振って日光にすかし、透明なるものを選ぶがよい。

 
 
 

 戦前の新聞記事もそうだが、句読点の用い方が、現在と異なっている。

 現代の学校で、このようなスタイルで文章を書いたら、少なくとも句読点については、先生から直されてしまうだろう。しかし、これが、昭和4年の教科書の文章だったのである。

 まぁ、「適量・少量・適度」に用ひれば効があるが、「過量・多量・過度・妄」に用ひれば胃に悪い、というのが嗜好品の共通点、ということは理解出来るだろう。

 脳にも悪影響のある嗜好品もあるわけだが、心当たりのある方は注意されたい。

 
 
 

 ホントは、第11章の「竃・燃料」の項目を取り上げて、80年前の主婦の調理の苦労について考えるはずだったのだが…

 しかし、「平野水」とはどんな飲み物なのだろうか?

 
 

 
 

(オリジナルは、投稿日時:2009/02/09 20:05→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/94591

 

 

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2008年12月 7日 (日)

不都合な戦争の都合という問題 12

 

 

軍隊では上官の命令は(そこで彼は不動の姿勢をとる。背丈が二割は伸びたことを我々は心の底で感じる。軍隊が彼をバックアップして彼はキゼンたる表情になる。その一瞬よ!)気を付けッ! おそれ多くも天皇陛下のご命令である。休めッ! ことになっております。ですから、ただ今より教練する間は、自分の命令をそのようにお考え下さい。

          富士正晴 「帝国軍隊に於ける学習・序」

というような言葉が蔓延する世界。

 支那事変以来の大日本帝國は、「暴支膺懲」をスローガンとしながら、その支那の国境を越えて軍隊を送り込み、暴威を振るったにもかかわらず、「支那」の国民政府を「懲らしめる」ことは出来ず、「事変」という名の戦争に終わりは来なかった。4年が過ぎても終結の緒は見出せず、国民政府との戦闘状態の終了どころか、逆に大日本帝國は対米英開戦という選択をしてしまう。

 より大きな戦争を始めてしまうのである。

 支那事変は、あの広大な中国大陸を舞台としての、実質的な戦争であった。大日本帝國にはその自覚はなかったが、対する国民政府を率いる蒋介石も、中国共産党を指導する毛沢東も、その戦略を大日本帝國に対する一大消耗戦として構想していた。

 本来、対米戦争における資源供給地として構想されていた中国大陸において、大日本帝國は消耗戦に陥ることを余儀なくされ、実際に、資源も兵隊も消耗の一途をたどってしまったわけである。しかも、大陸における戦火の拡大は、米国による経済制裁へと発展し、資源の枯渇はますます現実問題として帝國を追い詰めていくことになる。

 ここで大日本帝國は、大陸での戦闘の終結のかわりに、真珠湾攻撃を選択してしまうのである。

 当初の戦果として獲得した占領地を、大日本帝國への資源供給地として組み込むより早く、米軍の反抗は開始されてしまう。

 支那事変段階では、敵は広大な大陸であり、豊富な人的資源であった。

 対米戦争では、敵は巨大な生産力に支えられた国家なのである。大日本帝國においては、米国民は享楽的な個人主義者であり、そこに戦争における弱点を抱えているのだされていた。しかし、実際の米国民は、清教徒の末裔であり、フロンティアスピリットに支えられた精神力ある個人主義者であったのである。

 もちろん、滅私奉公の「国体の精華」が、米英の個人主義などに負けるはずなどないのであったが…

…しかし、滅私奉公の内実が、

  上官の命令は、 気を付けッ! 

 おそれ多くも天皇陛下のご命令である。

  休めッ! ことになっております。

 

という上官への滅私奉公となり、

とにかく長とつく奴の命令は朕の命令にほぼちかくなってきていた

世界では、すべてが「朕の命令」への「滅私奉公」として表現されるということになっていくのが、大日本帝國臣民にとっての現実であった。

   

 現実の大元帥陛下の意思とは全く関わりのない場所で、「朕の命令」が暴威を振るい始めるのである。

 上位者の単なる私的欲求の充足も、下級者には「朕の命令」として伝えられ、その実現に努力することが、臣民の義務として強要されることになる。

 米英の個人主義においては、個人は同時に公的世界の主人公でもある。個人と公的世界は相補的なものなのだ。個人が個人として生きる場を確保するためにも、公的世界は、その個人によって守り抜かれねばならないのである。

 まぁ、いわば、「奉私奉公」というイメージだろうか。

 大日本帝國における滅私奉公の実態は、上級者の恣意への服従であった。

 戦争は続き、あらゆる物資は不足し、兵隊が戦死していく中で、「朕の命令」に名を借りた、「滅私奉私」とでも言うべき状況が進行していくのである。

 一大消耗戦の果ての、そんな世界のあり方が、富士正晴によって、見事に描き出されているのであった。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/10/08 22:58 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/81205/user_id/316274

 

 

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不都合な戦争の都合という問題 11

 

だが我々はその容易ならぬものが国法を背後に背負っていることをちゃんと感じている。国法はこわいのである。国法は守ってくれる気がしない。国法は罰を加えにくる。

と、「帝国軍隊に於ける学習・序」の主人公は感じていた。

 昨日に続き、富士正晴の「帝国軍隊に於ける学習・序」を読み返す。

 註 成年に達し徴兵検査というので男根から尻の穴まで調べられた結果、合格不合格が決定される。合格に甲種、第一乙種、第二乙種、丙種がある。体の良い順であり、大体丙種などは数の内に入らぬものだった。従って在郷軍人会の受ける点呼などというものには関係なく、主観的には不合格のつもりでおれたのである。ところが……

というところで「1」が終わり、小説は「2」へと進む。

 皆様お疲れのところをまことにごくろうさまでございます。ごぞんじのように今年から丙種も点呼を受けるようになりまして、今後から点呼のために、準備教育をいたすことになりました。不肖わたくし(このころから妙に不肖というのが流行しはじめ、もっと後になると東条英機の気障ったらしい演説口調とナマリが世間一杯になった。その憂鬱さ!)が皆様を訓練することになりました。よろしくお願いいたします。軍隊は地方とは異なっていますから、教練が始まりますと地方での地位も名誉も忘れて、単なる一兵卒という気持ちになっていただきます。軍隊では上官の命令は(そこで彼は不動の姿勢をとる。背丈が二割は伸びたことを我々は心の底で感じる。軍隊が彼をバックアップして彼はキゼンたる表情になる。その一瞬よ!)気を付けッ! おそれ多くも天皇陛下のご命令である。休めッ! ことになっております。ですから、ただ今より教練する間は、自分の命令をそのようにお考え下さい。終り。

 終の頃には彼はすでに「自分」となっていて断じて「わたし」や「わて」ではない。軍人としての彼である。例え上等兵位であっても(と、何にも知らぬ地方人は気楽に考えて、実際に軍隊に入るまでそれがとんでもない誤解であったことが判らぬ)その命令は三等兵の前では朕の命令である。教練が始まって十五分もたたぬうちに朕の命令がいかに垂直に人間関係を貫き通すものかを手痛く我々は知らされる。それは役所の昼休みの教練どころではない。

と続く。日常風景なのである、これが。というか、戦局の進展と共に日常風景化していくのである。続く文から、少し抜書きをしておこう。

 自分は、自分は……でありますと大声で喋ることで、かんじんの自分が口から抜けていくような心細さ。

 われわれは煙草屋で煙草を買うのにも最敬礼をしそうにさえなってくる。なぜなら煙草屋のチョビひげのおやじは在郷軍人会何々分会の副会長の准尉であり、町会長であり、警防団長ですらあるからだ。煙草屋のおかみさんまで少し威張り気味でかげで評判がわるいが、そこはサワラヌカミニタタリナシだ。とにかく長とつく奴の命令は朕の命令にほぼちかくなってきていた。下手にさからうと防空演習の時に、焼夷弾が二階に落下と想定され、バケツリレーの対象になって、二階の畳はびしょ濡れとなるのである。

 富士正晴の文章を通して、「朕の命令」に覆われた、当時の生活風景がよみがえるだろう。

 この背後にあるのが、

 第1章 天 皇 

第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス 

第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス 

第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス 

第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ 

第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ 

第6条 天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス 

第7条 天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及衆議院ノ解散ヲ命ス 

第8条 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス  2 此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ 

第9条 天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス 

第10条 天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル 

第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 

第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム 

第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス 

第14条 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス  2 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム 

第15条 天皇ハ爵位勲章及其ノ他ノ栄典ヲ授与ス 

第16条 天皇ハ大赦特赦減刑及復権ヲ命ス 

第17条 摂政ヲ置クハ皇室典範ノ定ムル所ニ依ル  2 摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ

という「大日本帝國憲法」の条文である。

 煙草屋のチョビひげおやじの発する「朕の命令」を支えているのが、

第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 

という大元帥陛下としての天皇の姿、昭和天皇の存在なのである。

 「立憲的に」振舞おうとする天皇とは別の天皇の姿がここにあるわけだ。

 大元帥陛下は陸海軍を統帥するのみでなく、

とにかく長とつく奴の命令は朕の命令にほぼちかくなってきていた

時代の日常風景の中で、国民生活が命令と服従の連鎖として組上げられていく過程の中心に位置することになってしまうのである。

 多分、昭和天皇の意思とは全く関係のない話としてではあろうが。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/10/07 22:29 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/81104/user_id/316274

 

 

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不都合な戦争の都合という問題 10

 

 高田里恵子 『男の子のための軍隊学習のススメ』 (ちくまプリマー新書 2008)のご紹介をした際に、富士正晴の作品である「帝国軍隊にお於ける学習・序」に言及した。

(→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/79799

 先日、久しぶりに読み直してみた(『ちくま日本文学全集 富士正晴』 筑摩書房 1993)。

 やはり傑作であった。

 前回、高田里恵子の本を紹介する際に、

 高田里恵子は、時代的変遷も見逃さない。

 要するに、日中戦争から米英との戦争へと進行し、軍隊が恒常的に人員不足へと陥る中で、徴兵対象が拡大される。つまりそれまでは兵役不適格者と評価されていた人間達をも兵士として取り扱わざるを得ない状況に追い込まれるわけだ。

 結果として、日本社会の元来持っていた可能性が、凝縮された姿で、兵営の中に現実化することになる。

 多くの軍隊小説の背景にはそのような状況があること、つまり、そこに見出されるのは日本の軍隊の、必ずしも恒常的な姿なのではなく、ある追い詰められた状況下に現実化してしまった姿なのであるということ。

 それを指摘した上で論を進める高田里恵子の姿に、私は大きな信頼感を感じる。

と書いたわけだが、今回あらためて富士の作品を読み直してみて、その「帝国軍隊に於ける学習・序」に、戦争の進展と共に追い詰められていく「帝国」の姿が、そして追い詰められていく「帝国」により追い込まれていく主人公の運命が、見事に重ね合わせて描かれていることに気付かされ、感心した次第である。

 当初、徴兵検査で、丙種合格であった主人公は兵役の対象とならず、役所勤めの身であったのだが、時代の進展(好転しない戦局)は、丙種合格者も軍事教練の対象として取り込んでいくようになる。それが嫌な主人公は、役所勤めを辞めて、解放された気分となる。

 しかし、それもつかの間、ますます好転しない戦局の中で、丙種も簡閲点呼の対象となり訓練に組み込まれてしまう。防空演習が日常的になる。

 防空演習の日常にウンザリした主人公は、徴用対象になり、防空演習の日常からは逃れる。しかし徴用工の生活もあまりにひどい。

 そこへついに教育召集令状がやって来る。いよいよ新兵さんである(しかし30過ぎの)。

 兵営の日々が始まり、最後には、一番成績の悪かったはずの主人公達が、前線部隊へと送られることになる。

という流れの中に、様々なエピソードと主人公の感想が積み重ねられ、小説は進行していくのであった。

 番号ッ! 一、二、三、四、五、六……。たちまち一箇の数に抽象され、人間の安物に具体化される。体がもとであるからだ。そして教練を受ける方は乙種にしろ丙種にしろ、三等兵に外ならない。軍隊にひっぱられてやっと二等兵になる代物である。つまり安物だ。軍隊教育がないのだ。号令一下、あっちへ動かしこっちへ動かししているうちに在郷軍人諸君の下士官気質、古兵気質がむくむくと頭をもちあげてくる。被教育者の方は何やら容易ならぬものが頭にかぶさってくるような不快さと恐怖を感じる。畜生! 秘書課の若造め(この人物が在郷軍人として主人公達の教練にあたっているわけだ-引用者)、ここをいいしおに、いばりやがって! だが我々はその容易ならぬものが国法を背後に背負っていることをちゃんと感じている。国法はこわいのである。国法は守ってくれる気がしない。国法は罰を加えにくる。――何とかこの時間をはぐらかす方法はないか。昼間から出張することなど計画するより外はない。そうはうまく行かぬ。この世に憲兵がおるということが、見たこともない癖にいやに気になりはじめる。命じられること、強いられること、恐れること。全く厭になって役所を止してしまった。しばらくは軍事教練は姿を消す。丙種はやっぱりしゃれておるよ。

 小説冒頭の後半部分である。

 「命じられること、強いられること、恐れること。全く厭になって」役所勤めを辞める主人公。

だが我々はその容易ならぬものが国法を背後に背負っていることをちゃんと感じている。国法はこわいのである。国法は守ってくれる気がしない。国法は罰を加えにくる。

この世に憲兵がおるということが、見たこともない癖にいやに気になりはじめる。

という世界の中での出来事なのである。

 ある時期の、大日本帝國の日常風景、ということになる。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/10/06 22:54 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/80991/user_id/316274

 

 

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高田里恵子 『男の子のための軍隊学習のススメ』 のススメ

 

 

 意図的であるかどうかは知りません。内容が題名を裏切っている、とまではいかないにしろ、内容と題名がズレている本があります。料理の本だと思っていたら人として生きる道を説く本だったり。(老)人として生きる道を説く本だと思っていたら。料理の本だったり、品格を教えてくれるはずの本が実は……と、まあ、例は尽きません。

と、こんな書き出しで始まるのだった。

 高田里恵子 『男の子のための軍隊学習のススメ』 (ちくまプリマー新書 2008)の話だ。

 著者、高田里恵子のファンである。

 頭がよくていぢわる。

 目配りがよくていぢわる。

 人の感情のひだまで見通しながらいぢわる。

 人間の弱さをあくまでも容認しながらいぢわる。

…と、まぁ、「いぢわる」という言葉を連ねてしまったが、やはり、その「いぢわる」さが魅力なのだ。

 『グロテスクな教養』(ちくま新書)、『文学部をめぐる病 教養主義・ナチス・旧制高校』(ちくま文庫)、『学歴・階級・軍隊 高学歴兵士たちの憂鬱な日常』(中公新書)と、冴え渡る著者のいぢわる振りを読みついで、今回は「ちくまプリマー新書」でも期待に違わず「いぢわる」炸裂である。

 「品格を教えてくれるはずの本が実は……」というあたり、もうそれだけで、うれしくなってしまう。まぁ、この一節を呼んで、筆者の「いぢわる」に思い至らない人には、全編「いぢわる」でもなんでもないものに過ぎないのかもしれない。

 
 

 で、本書においても題名と内容はズレています。実は料理の本なのです。などというのは冗談ですが、ズレていない書名をつけるとしたら「軍隊小説を百倍楽しむ法」とでもなるでしょうか。わたしは日本の軍隊や兵士をテーマにした小説や体験記を読むのが好きです。それどころか最近は、若い人たちにもこの軍隊小説の魅力をぜひ伝えたいと、文字通りの老婆心をもってしまったというわけです。

 

と、著者は続く文章で、執筆の動機を説明している。

 そして、しばらく続く文章を、

 

 戦後小説史のなかで、帝国軍隊やあの戦争を描いた作品群が占める場所は小さくありません。大袈裟に言えば、日本や日本人というものを考えさせてくれるのが軍隊小説です。先ほどから「楽しむ」という言葉を気楽に使っていますが、むしろ楽しめないところにこそ、この読書の妙味があると言えるでしょう。

  優れた軍隊小説を読んでみませんか。その読書の方法を伝授します、などと言っている本書をまず読んでみませんか。それは、ひいては人間がどう生きていくかの話につながるかも知れません。あっ、これはやっぱり料理の本か……。

 

という言葉で終えている。

 軍隊というものは、戦争を前提とした存在だろう。

 しかし、平時にも軍隊は存在するし、戦争中であれども、戦場を離れた兵営での生活というものがある。

 基本的に、高田里恵子により選ばれているのは、そんな、兵営における軍隊(あるいは捕虜収容所における軍隊)の姿を描いた作品である。

 軍体内における人間関係が主題となる作品群であるわけだが、いわば究極の日本的組織としての軍隊における人間関係に、まさに「大袈裟に言えば、日本や日本人というものを考えさせてくれる」素材が詰め込まれているということになるわけだ。

 高田里恵子は、時代的変遷も見逃さない。

 要するに、日中戦争から米英との戦争へと進行し、軍隊が恒常的に人員不足へと陥る中で、徴兵対象が拡大される。つまりそれまでは兵役不適格者と評価されていた人間達をも兵士として取り扱わざるを得ない状況に追い込まれるわけだ。

 結果として、日本社会の元来持っていた可能性が、凝縮された姿で、兵営の中に現実化することになる。

 多くの軍隊小説の背景にはそのような状況があること、つまり、そこに見出されるのは日本の軍隊の、必ずしも恒常的な姿なのではなく、ある追い詰められた状況下に現実化してしまった姿なのであるということ。

 それを指摘した上で論を進める高田里恵子の姿に、私は大きな信頼感を感じる。

 何人もの作家の作品が取り上げられているわけだが、富士正晴の『帝国軍隊における学習・序』が、その中心の一つとして位置していることは、私にはとりわけうれしいことだった。

 私は富士正晴のファンであり、『帝国軍隊における学習・序』は名作であると信じているからだ。

 本文中の引用から引けば、

 

 おれのようなものを引っ張り出さんならんようでは、日本もよっぽど兵隊が品がすれになったらしい。わたしは招集される自分を気の毒とさらさら思わず、大日本帝国が気の毒であった、ほんの少しだけ。

 

ということになるが、富士正晴のような自覚的兵役不適格者(それも当時31歳!)を召集せねばならぬほど追い詰められた「帝国軍隊」の世界が、高田里恵子により、見事に描き出されているのである。

 冒頭に引用した「はじめに」の続きには、

 

 日本の軍隊には特殊な用語があって、物干し場のことを「ブッカンバ」、発熱のことを逆さにして「ネッパツ」、洗面のことを「メンセン」と言ったりしたそうですが、そうした「軍隊オモシロ豆知識」的な話はしません。「戦争は二度と起こしてはいけないと思いマース」といった内容を直接的に主張することもしません。この件については、「ちくまプリマー新書」のライバルである(らしい)ジュニア向けの新書にお任せいたします。

 じゃあ、この本を読んで何を考えたら(読後感想文でどういうもっともらしい発言をしたら)いいかって、お訊きですか? まずは、いろいろな経験、いろいろな見解、いろいろな悲惨があるものだなあ、と思って下さればいいです。

 

とある。

 この、

「戦争は二度と起こしてはいけないと思いマース」といった内容を直接的に主張することもしません。この件については…

という記述にまさに著者の「いぢわる」が宿っているわけだが、それを「いぢわる」と呼ばずに、センチメンタルなアジテーションの排除と評価しておきたい。

 筆者は「想像の中の男の子」に向けて書いている、と書いているのだが、その上で、

 みなさんも、たとえロマンスグレーのおじさまや妙齢のお嬢様であっても、どうか、わたしの想像のなかの男の子になりきって読んでください。

とも書いている。

 「ロマンスグレーのおじさま」というよりは白髪混じりのオッサンが、高田里恵子の「想像の中の男の子」になりきれていたという自信はない。

 けど、この読者、十分に楽しんだことは確かだ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/09/24 23:47 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/79799/user_id/316274

 

 

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不都合な戦争の都合という問題 6

 

 戦争責任とは何のことなのか、という話題に、久しぶりに戻る。

 豊下楢彦 『昭和天皇・マッカーサー会見』 (岩波現代文庫 2008)には、占領下日本における、昭和天皇の様々な発言が収録されている。

 1946年1月29日付の、昭和天皇から英国国王へ宛てられた「親書」には、

 

私は戦争を回避するために最善を尽しました。しかしながら国内の諸事情により、まことに不本意ながら貴国に対して戦端を開く事態に立ち至りました。

 

という文言があるという。

 昭和20年9月29日の『木戸幸一日記』にも、昭和天皇の、

 

自分が恰もファシズムを信奉するが如く思はるることが、最も堪へ難きところなり、実際余りに立憲的に処置し来りし為に如斯事態となりたりとも云ふべく、戦争の途中に於て今少し陛下は進んで御命令ありたしとの希望を聞かざるには非ざりしも、務めて立憲的に運用したる積りなり、戦争についても極力避くることに努力し、前の上海事変の時、白川大将は実に余の命令を守りよくやつて呉し故、大将の薨去の際には和歌を詠みて未亡人に与へたることもあり、又支那事変の当初、天津に事変の起りたるときは、参謀総長と陸軍大臣を呼び、何とか蒋と妥協せしむることにつき下問せむとせしが、頭から一挙に解決し得との奉答なりし故、手の下し様なかりしこともあり、今日から思へば実に残念なり

 

という言葉が記録されている。

 戦争回避こそが、昭和天皇の真意であったというのである。

 しかし、「立憲的」な振る舞いを優先したために、その真意は実現されなかったのだと説明しているわけだ。

 昭和37年刊の『天皇様の還暦』で、入江相政は、

 

二・二六の時と、終戦の時と、この二回だけ、自分は立憲君主としての道を踏みまちがえた。二・二六の時は総理大臣が生きているか、死んでいるか分らないので、自分か進んで態度を決めるように指導した。終戦の時は、総理大臣が「どうしようか」と聞くから「早くやめろ」といった

 

との昭和天皇の言葉を伝えている。

 立憲政治の下では、君主は政治的決定に関与しないのが原則である。

 昭和天皇自身は、その原則に忠実であろうとしたが、2・26事件の時と、終戦時においては、例外的に政治的決断を自ら下したと言うのだ。入江に対しては、「自分は立憲君主としての道を踏みまちがえた」という言葉まで用いて、その例外性を強調しているわけである。

 支那事変の拡大、そして対米英開戦に至る歴史の中で、立憲的であろうとした昭和天皇には、(まさに立憲的であろうとしたが故に)その流れを止めることは出来なかったという主張も、その陰にあることにある。

 もちろん、戦争の犠牲者からすれば、開戦の時点で「立憲君主としての道を踏みまちがえ」ることがなぜ出来なかったのか?なぜしなかったのか?という問いが投げかけられるのは当然であろう。

 「立憲君主」とは、憲法の制約に従う君主を意味する。昭和天皇も、大日本帝國憲法に従属する君主であらんと努力したのであり、だからこそ、

私は戦争を回避するために最善を尽しました。しかしながら国内の諸事情により、まことに不本意ながら貴国に対して戦端を開く事態に立ち至りました。

という歴史の進行を避けることが出来なかった、というわけだ。

 ここでは、開戦時において、昭和天皇が立憲君主として振舞うべきではなかったかどうかについては論じない。少なくとも、開戦時においては、昭和天皇が立憲君主として振舞っていた。そのように考えておくことにしよう。

 立憲君主である以上、開戦決定に、昭和天皇は関与出来ないわけだから、開戦についての責任もないということになる。もちろん、ここで論じているのは憲法との関係における「責任」の問題であり、戦争の犠牲者には、当然のことながら、別の視点が存在するだろう。

 それを分けて考えることが、私自身のスタンスである。

 さて、英国国王への「親書」には、

私は当時の首相東条大将に対し、英国での楽しかった日々を思い起こしつつ、強い遺憾と不本意の気持をもって余儀なくするのだと繰り返し述べながら、断腸の思いで宣戦の詔書に署名したのであります。

という昭和天皇の言葉が書かれている。

 「立憲君主としての道を踏みまちがえ」ないための昭和天皇の努力は、「強い遺憾と不本意の気持をもって余儀なくするのだと繰り返し述べながら、断腸の思いで宣戦の詔書に署名」することによって果たされたのである。

 少なくとも、昭和天皇は、英国国王に対し、そのように説明していたわけだ。

 その「当時の首相東条大将」は、極東軍事裁判(東京裁判)の法廷において、A級戦犯として裁かれ、絞首刑に処せられた。

 サンフランシスコ講和条約第11条(戦争犯罪)には、

日本国は、極東軍事裁判並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする

との文言がある。

 豊下によれば、講和条約調印10日後の1951年9月18日に行われたリッジウェイ(占領軍最高司令官)との会見の席で、昭和天皇は、

有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約

とのサンフランシスコ講和条約への賞賛の言葉を述べている。

 英国国王宛の「親書」にも、

私はポツダム宣言の条項を忠実に履行し、平和と民主主義に貢献する、よりよい国家の再建のために出来る限りの努力を払いたいと切に望んでおります

という昭和天皇の言葉がある。言うまでもなく、ポツダム宣言は、その条項の中で、戦争犯罪人の処罰を戦争終結条件として明示していた。

 いずれにせよ、昭和天皇自身は、極東軍事裁判(東京裁判)の判決とその刑の執行に対し、積極的に肯定的な評価を与えているのである。

 しかし、東京裁判で裁かれたのは、被告達の連合国に対する罪であったに過ぎない。

 大日本帝國に対する責任、昭和天皇に対する責任、そして国民に対する責任が裁かれたわけではない。

 昭和天皇による極東軍事裁判(東京裁判)への積極的な肯定的評価の底にあるのは、どのような論理あるいは心理なのであろうか?

 いささか気にかかるところである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/09/18 22:19 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/79137/user_id/316274

 

 

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2008年12月 4日 (木)

フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (6)

 

 斎藤正躬『独立への苦悶-フィンランドの歴史-』(岩波新書 昭和26年)の「まえがき」には、

 

 またこの國が、位置からいっても、大きさからいっても、ほとんど世界の関心をひいていないために、手に入る資料は極めて少ない。このことも私の仕事をむずかしくした。

と書かれていた。

 その50年後に執筆された寺岡寛論文(「フィンランド-経済再生をめぐって-」)にも、

 

 ルイスはフィンランドがスカンジナビアの隣人とは異なると述べたが、この典型はフィンランド語であろう。他の諸国の言語、とりわけヨーロッパ言語とは隔絶したフィン・ウゴル語族を形成する。フィンランドの元国連大使のヤコブソンは、この少数言語に言及して、フィンランドと世界との関係を外交官の感覚からつぎのように述べる。

「フィンランドの場合、他国の政策の一機能とならず、自主的な演技者としての独自の条件での容認と理解をうるための難しさは、フィンランド人の生活の最深部を外部の人間に隠している言語の壁で高められている。・・・・フィンランド人の過去と現在をおおざっぱに理解することが必要な場合でも、教科書の片隅で、他国語により紹介されているにすぎない。フィンランドについての外国人向けの情報の大半は古いもので、内容も二級品である。(1998)

 事実、フィンランド語という言語障壁もあり、従来はフィンランドについての知識は孫引き、あるいは古い情報に基づいたものであったことは否定できない。ただし、EUに加盟した1990年半ば以降については、以前はフィンランド語だけで発表されてきた政府文書や資料が英語など翻訳発表されるようになり、現時点での法律、政策、制度についての情報も入手しやすくなった。また、インターネット技術と普及で大きな進展をみせたフィンランドらしく、ウェブサイト上の情報も充実してきた。

 

という記述がある。

 同じ50年の間、日本人の過去と現在をおおざっぱに理解することが必要な場合でも、教科書の片隅で、他国語により紹介されているにすぎないし、日本についての外国人向けの情報の大半は古いもので、内容も二級品であった時代も長かったわけでもある。

 今では、アキバ系文化は世界を席巻し、日本のヲタクの日常が世界標準となってしまっているわけだ。

 『独立への苦悶』を読み進めると、この50年という歳月を実感させられる。

 私たちはソ連邦の崩壊を目にし、「冷戦」終結後の世界に住んでいるのである。著者の斎藤正躬が目撃していたのは、「冷戦」の開始であり、朝鮮戦争であった。

 人権抑圧機構としての社会主義国家の実態は明らかではなかった。いや、むしろ、「冷戦」の進行過程で、社会主義国の人権抑圧体制は整備されていくのである。「人権抑圧機構としての社会主義国家」とは現在からの視点からの言葉でもあることには留意しておくべきだろう。

 著者は、フィンランド独立時の内戦を描くに当たっても、勝者としてその後のフィンランドの政治体制の基礎となった白軍よりも赤軍に共感を寄せている。

 冬戦争を描くに際しても、フィンランド政府よりもソ連の境遇に同情的である。

 時代を感じざるを得ない。

 独ソ不可侵条約の秘密議定書では、当初から、ポーランドの分割と共に、戦後のバルト3国とフィンランドの地位が、ソ連の領域として取り扱われていたことは、現在では周知のことだ。2つの軍事大国間でのヨーロッパ分割の取り決めの一環としての、フィンランドに対するソ連の侵略戦争であったことは、今日では明白である。

 著者は、

 

 第一次ソ・フィン戦争は終わった。それはフィンランドにとっては、全く迷惑なものだったし、恐ろしい悲劇でもあった。だがその悲劇の原因が、この小さなソ連周辺國の中に、独立以来親独、反共の性格が流れていたこと、いいかえれば完全な中立的態度を持っていなかったことにあった点を、見逃すわけにはいかない。しかもこの性格は、独ソ開戦後の第二次ソ・フィン戦争に至って、フィンランドを身動きの取れない立場に追い込むのである。

 

と書いてしまっているが、時代の制約を感じる。

 しかし57年前の話なのである。現在の私たち自身が、現在という時点での「時代の制約」の囚われ人であることもまた忘れられてはならないだろう。

 

 もし一部の人人の判断のように、ソ連の衛星國の政治が、すべてクレムリンの発する指令によっておこなわれるものとするなら、フィンランドは正しくその例外であり、政権の性格からいえば、これは「衛星國」とさえ呼べない國である。

 何がこのソ連周辺の小國、しかもソ連と戦って敗れた國を、このような状態に置いているのだろう? ふたつのソ・フィン戦争に示された、驚異的な戦争能力であろうか? そうではない。パリ条約以後のフィンランド軍は、もはや外國と戦うような力を持たず、その軍事的な要点を、すべてソ連ににぎられている。もしソヴエトが、軍隊を動かしてこの國を占領しようと思うなら、それは一週間もかからない仕事だろう。ソ・フィン戦争の折には、モスクワはフィンランドの戦力を、誤算したようだ。だがこんどは、誤算しようにもフィンランドは武力を持っていないのだ。

 理由は簡単、それはフィンランドが、ソ連のよい隣國として、生きてゆこうとしているからだ。フィンランドの経済は、その大部分をソ連との貿易に依存している。主な産品のパルプ、紙、ニッケルなどをソ連に送り、不足な食糧をソ連に仰いでいる。正直なフィンランドは、賠償を一日も遅らせず、きちんきちんと支拂っている。その上、過去の苦い経験にこりたこの國の指導者たちは、他國の力に頼って、自分の國の安全をかち得ようとはしない。フィンランドは北大西洋条約には加盟せず、北欧諸國とも同盟しようとはしない。これがソ連を刺激せず、その干渉を防いでいる最大の原因ではなかろうか?

 大國ソヴエトの周辺にある、人口四百万の小國フィンランドは、みずからの独立をどのように保つかについての、最後の結論をはっきりとつかんだようだ。みずからの独立と、平和とを、誰の手にもよらずみずから守る精神、フィンランドがこの精神を捨てない限り、「カレワラの平和境」は、長く独立を楽しむことができるであろう。

 

という記述で、斎藤はその著書を結んでいる。

 どこに「時代の制約」を感じ、どこに現在なお生きた言葉を発見するであろうか?

 現在の私たちの視点もまた問われるのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/03/07 21:32 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/60324/user_id/316274

 

 

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フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (5)

 

 フィンランドの「戦後」と日本の「戦後」を、少しだけ、考えたいと思う。

 テキストは、斎藤正躬『独立への苦悶-フィンランドの歴史-』(岩波新書 昭和26年)。当時の定価が100円、古書店での値段が300円だった。

 昭和26年刊行ということは、つまり「戦後」6年という時点での出版物ということになる。1951年ということだ。

 1945年10月に国際連合が発足し、戦後の平和で安定した国際関係の枠組みを規定することになった、と思われた。

 「と思われた」が、それは1946年3月の、チャーチルによる「鉄のカーテン」演説で明らかになったように、米ソ対立に発する「冷戦」時代の幕開けでもあった。

 この間、大日本帝國はポツダム宣言の規定により完全に武装解除され、その上で新生国家としての日本国は、自身の「日本国憲法」を通して非武装国家としての立国を宣言している。それは、大日本帝國の交戦国としての米国、戦後の占領国としての米国の意向であったと共に、戦争の惨禍にうんざりした日本国民自身の希望するところでもあった。

 しかし、「冷戦」の進展は、1950年6月に至り、「朝鮮戦争」という名の「熱い」戦争と化してしまった。

 その結果、米国の意向は、非武装国家としての日本の維持から、再武装要求へと変化していく。

 1950年8月には、日本は「警察予備隊」という名の下に、再軍備を開始する。

 そして、1956年(昭和26年)とは、サンフランシスコ講和条約による日本の独立の回復の時点であると同時に、「日米安全保障条約」調印に始まる、戦後の米国の国益に従属する国家としての日本の出発点でもあった。

 そのような年に書かれたのが、『独立への苦悶』ということになる。

 さて、まず「まえがき」をご紹介しておきたい。

 

 戦後のアジアには、「独立」を旗印にした、民族主義の嵐が、際限もなく吹き荒れている。それは、インドを、パキスタンを、フィリピンを独立させ、中國の革命を呼び、イランに、インドシナに、マライに、熾烈な旧支配者への反抗を生んでいる。長らく眠っていたアジアは、いまこの夜明けを迎えて、ようやく目をさましたのだ。

 十九世紀のなかばから、今世紀のはじめにかけて、ヨーロッパは、ちょうどこれと同じような、ひとつの嵐の時代を持った。嵐はいくつかの「独立」を生み、「革命」を生みながら、大陸を縦横に吹き荒れた。二十世紀のヨーロッパは、この嵐の中から生まれた新しい社会である。

 ふたつの嵐の性格には、西と東の差があろうし、また五十年という時のずれが、つくりだす違いもあるにちがいない。だが、嵐は嵐であり、その内容は決してふたつのものではない。

 嵐は、雪と氷に閉ざされた極北の一小國、フィンランドにも烈しく吹き荒れた。いや、われわれ東の國の人間には、平素はほとんど知られていないこの國の、静かな森と湖のほとりに描かれた「独立の歴史」は、ヨーロッパ史の中でも、もっとも典型的な「民族独立史」の一巻である。

 「独立」はどのようにして芽生えたか? どのように闘われたか? そしてどんな方向に進んだか? 混迷するアジアにとって、フィンランドの歴史は、一本のたいまつとなり、暗くきびしいその行手を、明るくてらしてくれる。

 この本は、そうした考えの故に書かれた。期間にしたらわずか一ヵ月、たった二回しかフィンランドを訪れなかった私が、この國の歴史をあやまりなく傅えることは、もちろん不可能なことだ。またこの國が、位置からいっても、大きさからいっても、ほとんど世界の関心をひいていないために、手に入る資料は極めて少ない。このことも私の仕事をむずかしくした。だから私は、はじめからこの本が完全なものとは思わない。

 にもかかわらず、私がこの本を書いた理由は、今日のアジアにたいして、フィンランドは、かならず何かを教えてくれると思うからだ。

 フィンランドの中で、いちばんわれわれの心をひく部分は、この國がロシア帝國の治下に入ってから、独立を完成するまでの、烈しい「抵抗の時代」であろう。この本は、もちろんその時代を中心にしているのだが、読者の理解を深めるため、その前後の時代にも触れて、一應通史の形をとった。もし退屈したら、その前後、特に第二章の「スエーデン時代」は、飛ばしてもらっても結構だと思う。

     一九五一年六月

                                   斎藤正躬

 

 斎藤正躬(さいとう まさみ)は、1911年生まれのジャーナリスト。1941年から46年まで、同盟通信社欧州特派員として、ストックホルムに駐在し、その間二回フィンランドを旅行。北欧文化協会会員。著書として『北欧通信』『北ヨーロッパの國民』があるという(奥付による)。

 1951年という時代は、まだ多くの地域が西欧諸国の植民地であったことが、斎藤の記述から、あらためて理解出来る。アフリカの諸国家の「独立」は、そのほとんどが1960年代以降のことである。

 そしてその50年前には、ヨーロッパにおいて、新たな国家の独立が目指されていたのだという歴史的事実も、よく理解出来るだろう。

 1930年代の終わりから1945年に至るヨーロッパでの戦争は、そのような新たな独立国家を含む主権国家に対する軍事大国の侵略として開始されたということになる。

 1930年代の初めから1945年に至る、大日本帝國を中心としたアジアの戦争は、別の相を持っている。大日本帝國の戦争は、近代国家としての統一過程にある中国、国際連盟に加盟した主権国家としての中国の国土に対する侵略であったと同時に、東南アジアを植民地化した宗主国への戦争、植民地再分割のための戦争でもあった。

 ヨーロッパにおける軍事大国が、ナチスドイツとソ連であり、極東にける軍事大国は大日本帝國であった。

 アジアにおける植民地の独立をもたらしたのは、大日本帝國の勝利と同時に敗北であったことには留意しておきたい。大日本帝國の敗北により、アジア諸国は、大日本帝國の利害を離れた独立国として存在することが可能になったのである。大日本帝國の勝利がもたらしたものは、「大東亜共栄圏」という名の、大日本帝國のための利益共同体に過ぎなかったと、私は理解している。

 そのような意味で、あの時代の戦争の被侵略国としてのフィンランドの経験は、戦後の日本国民の想像力の外部にあったであろうことは確かなことだろう。

 同時に、アジアの経験もまた、日本人の想像力の外部にあったのではないか、ということも考える。

 57年後の今日にも、その指摘が当てはまりそうなところは、日本国民の一人として、いささか残念な思いを抱かざるを得ない感がある。

 民族の独立とは、国家の独立とはどのような事態であるのか、ということが日本人の想像力の外部にあるのではないか、そのように思わざるを得ない。

 古い岩波新書の「まえがき」を読み、そのようなことを思う。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/03/06 20:40 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/60246/user_id/316274

 

 

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多重虚偽の魅力?

 

 R.H.ロービア 『マッカーシズム』 (岩波文庫 1984)を、久しぶりに読み返した。いつぞやの日記で、古本屋で見つけた話を書いた記憶がある。

 書庫のどこかに、かつて読んだ時の購入本が眠っているはずなんだが、「片付けの神」の降臨のない限り、手に取ることは出来ない。

 で、古本屋で見つけて即購入、だったわけだ。リリアン・ヘルマンの『眠れない時代』と一緒に見つけたような気もするが、よくは覚えていない。

 ヘルマンの本も、二冊目だ(書庫のどこかに一冊目は隠れているはず)。

 で、たまたま、知り合いの関係しているコミュニティの「騒動」を身近から観察する機会にめぐりあい、以下に紹介する文章が身にしみた。

  
 マッカーシーが国務省への攻撃を始めて間もない頃、私は『ニューヨーカー』誌の「ワシントン便り」の中で、マッカーシーを取り上げた際、そのもっとも注目すべき新手法の一つを「多重虚偽」と呼び、多くの点でヒトラーの大うそに比すべき技術だと書いた。私は次のように書いた。「「多重虚偽」は特に大きな虚偽である必要はなく、一連の相互に余り関係のない虚偽、あるいは多くの側面を持つ一個の虚偽であったりする。いずれの場合にも、全体が多くの部分で構成されているために、真実を明らかにしたいと思う人は虚偽の全要素を頭の中に入れて置くことが全く不可能ということになってしまう。真実を明らかにしようとしても、人はその中の二、三の言明を取り出して、それがうそだということを証明するかもしれないが、こういうやり方は、取り出された声明だけがうそであって、残りは本当なのだという印象を残すだろう。「多重虚偽」の更に大きな利点は、うそと証明された声明をその後も平然と何べんでもくり返しうるということである。というのは、どの声明が否定され、どれが否定されていないかを誰も覚えていないからである。」……
(145~146頁)

 

 

 私自身が、そういう友人のためにここでコミュニティを作ることに参加し、多重虚偽と闘い、コミュニティを解散したという経験者だ。

 ネット上のコミュニケーションだと、日常の対面的人間関係の中でよりは、「多重虚偽」との闘いは、若干、こちらに有利に働くことになる。

 すべての発言がそこに残されているからだ。口頭でのやり取りでは、「私はそんなこと言っていない」、「私の言ったのは…」と、いくらでも誤魔化しがきく。が、ネット上の発言は、記録として残ってしまう。「消去・削除」という手段もあるが、実際その輩はすぐに行使するのではあるが、こちらで記録・保存してしまえば、都合が悪くなって削除された発言も手元に残すことが出来てしまう。

 ただ、まぁ、巻き込まれれば、時間を取られることは確実だ。検索機能や、コピー機能など、様々な機能が助けになるとしても、巻き込まれないに越したことはない。

 巻き込まれてしまった知り合いは、今、奮闘中である。

 問題の中心にいるのは、「論旨ずらし」という手法に長けた人物のようだ。そして、他人への非難の量はすごいのだが、他人からの問いかけに答えることはない。自分からは質問攻めにしているというのに。まぁ、ヤッカイな相手のようだ。

 この「論旨ずらし」というのは、私のかつての友人の得意技でもあった。論点がどんどん横へ横へとずらされていく。気付くと、当初の問題が何だったのか、もうわからなくなっていたりする。

 議論に費やされるエネルギーが大きい割りに、何も解決されていない。

 対面的コミュニケーションでのお付き合いの間は、これで、相当に消耗させられたものだ。

 ネット上に問題が移行したお陰で、本人以外の関係者の間に連帯感が生まれ、連係プレーさえ可能になる。面白い経験ではあった。

 もっとも、私の場合は、リアルコミュニケーションをそのままネットに持ち込み、結果として、当人が逃げ場を失ったというケースになる。リアルコミュニケーションも同時に存在していたわけだ。

 今、知り合いが奮闘している相手は、ただのネット上でのお相手なので、別に相手を続ける義理はない、はずだ。

 それでも、相手をしているのは、どこか面白がっている要素があるのだろう。実際、「多重虚偽」系人間の共通点は、すべてが思いつき・言い逃れとして始まるというところなので、実は自縄自縛の太いロープを首に自ら巻き続けているという結果をもたらしてしまう。自ら墓穴を掘る状態だ。

 そのお手伝いをするのも、楽しいと感じてしまえば、楽しいのだろう。

 まぁ、あまりに深く墓穴を掘るので、彼は王家の谷のファラオにひっかっけて、ラムセス氏と呼ばれつつある(仲間内でのハナシだが)。

 そろそろ、墓穴の用意も完了したように見えるのだが、どうなるのか、展開を見物中だ。

 で、マッカーシーだ。結局、蒔いた種が芽を出して、年貢を納めることになる。

 しかし、その間、アメリカの外交政策は大きく停滞することになる。マッカーシーのターゲットとされたのが国務省だったからだ。

 冷戦初期のアメリカ外交は、マッカーシズムという大きな障害のために、理性的な判断から遠ざけられてしまっていたのである。

 朝鮮戦争の最中にもかかわらず、マッカーシーの関心は、戦争の行方に、ではなく、国務省内にいるとマッカーシーの主張する共産主義者の排除にのみ向けられていた。マッカーシーは証拠を握っていると主張していたが、その証拠が提出されることはなかった。

 そして、国務省内の人間は、その間、外交の行方を論じることよりは自分が共産主義者ではないことを証明することに没頭させられたのであった。

 ヴェトナム戦争へと帰結する冷戦時のアメリカ外交を考える上で、マッカーシズムによる損失の大きさを無視することは出来ない、なんてことまで考えさせられる。

 多重虚偽の恐ろしい帰結である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/01/16 00:24 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/55007

 

 

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負けた戦争の記憶 2

 

 生井英考『負けた戦争の記憶』を読み続けている。

  戦争に「負けた」ことを「受け入れる」ことが出来るのかどうか、という問題として、昨日は、アメリカにとってのヴェトナム戦争と、日本(大日本帝國)にとっての第二次世界大戦(大東亜戦争)を対比して提示してみた。

 日本人にとって、「あの戦争」が「負けた戦争」であることは、疑問の余地がない。

 アメリカと戦争をして負けた。マッカーサーの軍隊に占領されたことは、否定出来ない。

 天皇陛下が占領軍司令官のもとへ出向いていった姿を知らぬ日本人はいなかった。

 負けたのである。アメリカに。誰にとっても自明のことだ。

 しかし、「あの戦争」については別の側面もある。

 1941年の真珠湾攻撃は、支那事変の「打開」を目指したものだった。対米戦争の起源は、対中戦争にあったということだ。

 で、大日本帝國は、支那事変を制することは出来たのかどうか、という問題が存在しているのである。

 もちろん、私の認識は、蒋介石と毛沢東に日本人は負けたというものだ。

 しかし、いまだに、この点は自明の歴史ではない。アメリカには負けたけれど、中国には負けていないという主張は、今でも存在するのである。

 蒋介石と毛沢東に対し、日本軍は勝つことは出来なかった。戦闘での勝利はあっても、戦争での勝利は獲得出来なかった。

 対中戦争(支那事変)で、大日本帝國の軍隊は、蒋介石を降伏させることが出来なかった。蒋介石の軍隊を降伏させることは出来なかったし、毛沢東の率いる軍隊とゲリラ組織を屈服させることも出来なかった。

 つまり、日本軍は勝てなかった。日本人は中国人との戦争に勝つことは出来なかったのである。

 逆に言えば、対中戦争に勝利出来ていれば、対米戦争の必要はなかっただろう。

 しかし、アメリカには負けたけれど、中国には負けていない。そう思うことでプライドを保つことが出来ると考える日本人も少なくはないのである。

 結局、戦争が何であるかが理解出来ていないということだと思う。

 政治・外交での合意困難な問題の決着を戦争でつけること。これは、かつての国際社会での問題解決法の一つであった。戦争は合法的であったということになる。

 しかし、一方で、第一次世界大戦の経験から、総力戦としての近代戦争の惨禍もまた認識されるようになっていた。実際、不戦条約として結実している。

 いずれにせよ、古典的なイメージの下での戦争は、政治・外交の手段のひとつであった。政治・外交の延長としての戦争である。

 重要なのは、戦争は自己目的ではなく、政治・外交の手段に過ぎないという認識なのである。

 戦闘には勝利出来ても、戦争に勝利出来ない戦争であった、対中戦争が対米戦争へと発展し、大日本帝國の敗北に至る過程に存在するのは、蒋介石の政治的・外交的な勝利そのものだ。つまり、大日本帝國は、蒋介石の政治・外交に負け、毛沢東の人民戦争に負けたということだ。

 ただし、このことを認めることは、簡単なことではないらしい。

 日本は蒋介石に占領されたわけではない、という論理が構築される。

 アメリカに対する敗北の明白さは、国土の占領という事実によるものだろう。

 その意味で、ヴェトナムにおけるアメリカをアメリカ人自身がどのように評価するのかという問題に、共有された心情のあり方を見出すことが出来るだろう。

 アメリカは、ヴェトナム人に占領されたわけではないのである。つまり、戦争に負けたわけではない。

 しかし、アメリカは、ヴェトナムのジャングルで米軍兵士の大きな犠牲の上に、何も達成出来なかった。

 もたらされたのは、思いもよらぬことであったが、一種の社会的荒廃であった。

 70年代、ヴェトナム戦争は、存在しない歴史として取り扱われた。つまり、歴史として対象化することが避けられ、言及することさえ避けられた。

 そのあたりの事情が、生井の本では取り扱われているわけだ。

 「負けた戦争」という認識の難しさのひとつは、結局、そこでは、戦死者は「犬死」したことになってしまうところにある。

 「負けた」ことは理解出来ても、戦争自体は正当化されなければならないという心情も、そこから生まれるのだろう。「自虐史観批判」はそんな場所に産み落される。

 「犬死」認識を拒否しようとすると、戦争の正当化が必要になり、「負けた戦争をした責任」を問う回路が閉ざされることになる。

 ヴェトナムとアメリカという主題が、思わぬところで、靖国問題とリンクしてしまう。

 様々なことを考えながら読み続けているところだ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/01/09 00:10 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/54243/user_id/316274

 

 

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負けた戦争の記憶

 

 生井英考『負けた戦争の記憶』(三省堂 2000)を読み始めたところだ。

 この本については、12月27日の日記「ジャングルクルーズにうってつけな?…年末の一日(http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/52906/user_id/316274)』の中で、既に触れている。

 サブタイトルは「歴史の中のヴェトナム戦争」となっている。

 つまり、アメリカ合衆国がヴェトナム戦争をどのように体験したか、どのような体験としてヴェトナム戦争を描き出そうとして来たのか、時間の経過と国内の様々なレヴェルでの意味づけの変化を追ったもの、とでも紹介すればいいだろうか。

 まぁ、まだ読書中であって、読み終えたわけではないので、今回は、私の視点から印象的だと思ったことについて書いておこうと思う。

 「犠牲者の神話」と題された、第三章からの引用から始めたい。

 ジャーナリストであるアーノルド・アイザックスの1997年の本『ヴェトナムの陰』から、次のような文章が引用されている。

 

 ヴェトナム戦争の記憶が参加した当事者にとって泥まみれのものであるとするなら……戦争が終わってから成人になった世代にとって、ヴェトナムの記憶はより混乱したものだった。彼らの多くにとってヴェトナムは、誰も真実を語りたがらない、惨めで途惑いの多い家族のスキャンダルのように思われた、が、同時に、彼らの過去の一部であるがゆえに理解せねばならないものでもあった。……

 戦争が終わって20年以上が経過し、国内での混乱した議論が展開されたあとになっても、なにがどのように起こり、なにを意味するのかという問題は依然として微妙な問題であった。ヴェトナムは悲劇的な過ちだったのか、それとも「気高き大義」によるものだったのか、戦争は果たして倫理的に誤りのないかたちで戦われたものであったのかどうか――といった大局的な問題について、アメリカには依然として一致した見解がないというだけではない。ごく端的な事実の確認をするだけでも見方はさまざまに分かれていたからである。そのうちのほんのいくつかを挙げてみただけでも、ヴェトナムで駆使された空軍力はどれほどのインパクトと効果があったのか、当時のアメリカの世論はどうだったのか、反戦運動や新聞とTVの報道はどのぐらいの影響を世論に与えたのか、メディアの報道はどこまで正確だったのか、そして世論の動きがどの程度政策決定者の意思に関わりを持っていたのか、等々、実に多彩なものになる。さらには、ワシントンの文官による指示が現地の軍部をどこまで阻害したか、そして戦争拡大の時期(1965年から67年にかけて)に合衆国の軍事力は果たして「勝利した」のか「敗北した」のか、つまり軍事的な成功を測る正確な基準とは結局のところ一体なんなのか――というところまで発展するのである。

 

 アイザックは、「戦争について学ぶ」という章の中で、「高等教育におけるヴェトナム戦争の問題」として、このように述べているのである。

 もう一ヶ所、引用をしておく。

 

 ヴェトナムをめぐって続いた議論は、あの時代とあの場所でなにが起こったのかを正しく知りたいと考えている若いアメリカ人たちの眼を開かせるようなことはほとんどなかった。或る学生が私に語った言い方を借りると、彼女が大きくなるまでに聞かされた戦争についてのすべては「情緒(エモーション)と〔党派的な〕意見(オピニオン)だけで、なにも事実はなかった」のである。アメリカ人があの戦争とその意味を論じつづけているあいだ、エモーションとオピニオンは事実と冷静な追求を圧倒し、覆い隠してしまった。多数の主題をめぐって戦わされた論争の波は、時を経ても収まることはおよそなかった。事実、互いに競い合うあまたの神話は現実の出来事の記憶を追い越し、なかでもいくつかの議論――たとえば戦争報道とそのインパクトについての――はますます党派的になり、多極化し、しかもいっこうに収まることなく、むしろ年を重ねるごとにこの傾向を強めるばかりだった。たとえ〔政府の公文書が情報公開されるといったかたちで〕新しい情報が知らされても、たいていは既存のオピニオンのなかにとりこまれるだけで終わった。「概して」と歴史学者のウィリアム・ターリーはコメントしている、「戦時中にAの意見を持っていた者は戦後も同じことを言い続け、Bの立場にあった者はそれを維持した。要するにめざましく考えを変えた者はほとんどいないのである」と。

 

 

 戦後日本を知る者にとって、そして現代の日本社会の一員として、どこかで聞いたような気にさせられる話である。「聞いた」は、必ずしも、正確な言い回しではないかも知れない。

 私たちの実体験は、そして実感しているところは、やはりそのようなものであった。しかし、このように言語化して語られるのを、あまり聞いた気がしないのである。

 現在に至る、戦後日本の「負けた戦争」への言説のあり方は、まさにそのようなものであった。しかし、そのことが自覚的に語られているのを聞く機会は、あまりないように思う。

 いまだにエモーションかオピニオン、現実にはエモーションそのものとしてのオピニオンでしかないことが多いのではないか。

 しかし、当たり前の話であるが、ヴェトナム戦争と大東亜戦争は別のものである。ここで「別」という言葉に込められた意味は、日本人の誰にとっても、大東亜戦争が「負けた戦争」であることは自明の事実として理解されているということだ。アメリカ人にとってのヴェトナム戦争は、必ずしも「負けた戦争」ではないのである。

 勝利は獲得出来ず、戦争目的も達成出来なかった「戦争」、米国民と米国にとっての「悲劇」ではあっても、「負けた」という形容は、長い間、避けられて来たというのである。

 戦後の日本人の課題は、負けた戦争についてどのように説明するのか、であった。負けた戦争をどのように正当化するのか、あるいは批判するのかが問題の焦点であった。いずれにせよ、戦争に負けたという認識が出発点となるものであった。

 「勝てなかったかも知れないが負けもしなかった」という認識から、「負けた戦争」という認識への距離は近いようで遠い。

 「負けた」という認識の受容の過程、あるいは受容拒否の過程が、『負けた戦争の記憶』の中で語られているということになるのだろうか(まだ読了していないので、ここで言い切ることは出来ないのだが)。

 エモーションでもオピニオンでもない歴史認識のあり方。

 63年前の「負けた戦争」について、いつになったらそのように形容出来る歴史認識を獲得出来るのだろうか?

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/01/07 22:32 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/54141/user_id/316274

 

 

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2008年12月 3日 (水)

ジャングルクルーズにうってつけな?…年末の一日

 

 生井英考『ジャングルクルーズにうってつけの日』(三省堂 2000)を、年末の片付かない部屋の中で読み終えた。

 二週間前に、ほとんど読み終えていたのだが、「エピローグ」と初版・新版の「あとがき」が残っていたのだった。

 初版の出版は1987年、筑摩書房から。1993年に、ちくま学芸文庫から増補改訂版が出ている。それは既に読んでいたのだが、これは「新版」ということで、改めて購入し、読んでみたわけだ。

 新版用の「あとがき」によれば、著者は同年に、同じ三省堂から『負けた戦争の記憶』も出している。そこまで読んで、これは買った覚えがあるぞ(読んだ覚えはないが)という記憶が蘇り、しばらく本棚(というか本の積んである場所)を捜索することになった。

 本は、二階の階段室のタンスの上に組上げたラック上にあった。

 で、まだ読み始めてはいないのだが、『負けた戦争の記憶』という書名からは、読む前からさまざまなイメージを呼び起こさせられる。

 サブ・タイトルが「歴史の中のヴェトナム戦争」だ。ちなみに『ジャングルクルーズにうってつけの日』の方のサブ・タイトルは、「ヴェトナム戦争の文化とイメージ」である。

 アメリカが「負けた」戦争、少なくともアメリカが「勝てなかった」戦争であるヴェトナム戦争をめぐる、文化史的論考である(というか、『負けた戦争の記憶』の方はまだ読んでいないわけだから、歴史的論考であろう、と書くべきだろうか)。

 実際のところ、日本人は、いまだに、かつての「負けた戦争の記憶」との対面に終止符を打つことが出来ていないように思える。

 大東亜戦争は、いまだに、冷静な歴史的評価の対象となっていないのではないか、ということだ。

 日清日露の十万の英霊の犠牲を無駄にしないため、という口実の下に、支那事変の撤兵による事態収拾を拒否し、結果として引き起こされた対米英戦争がもたらしたのは、二百万を超える新たな英霊の犠牲であった。しかもそれは「敗戦」による終結であり、日清日露の両戦争での十万の英霊の犠牲の上に獲得された権益もすべて失っての終結である。

 「負けた戦争」と言っても、犠牲者の規模において、ヴェトナム戦争と大東亜戦争では、犠牲者数の桁が違う。ヴェトナムでのアメリカ兵の戦死者数は5万人規模だという。大東亜戦争で失われた日本軍兵士は185万~250万と言われている(行方不明者の取り扱い等で、幅が生じる)。ちなみに第二次世界大戦全体での(つまりヨーロッパ戦域も含む)アメリカの戦死者数は50万人台である。

 大日本帝國の敗戦は、国土(ここでは、植民地も国土と考えているわけだが)の喪失をも伴うものであった。ヴェトナムでアメリカが失ったものは、国土ではない。それはむしろ文化的なものであった。その相違は大きいだろう。

 もっとも、その意味では、大戦前後で、日本人もまた文化的変容に見舞われているわけではあるが。

 生井は、『ジャングルクルーズにうってつけの日』の中で、ヴェトナム戦争がアメリカ文化に与えた変容を、戦争という行為自体への意味付けの変化の検討も含めて、様々な角度から論じている。

 大東亜戦争という「負けた戦争の記憶」との関連で、いくつかの点について取り上げてみたい。

 「戦争の大義」のないところで闘われた戦争であったというところで、両者は共通している。

 大東亜戦争の起源としての支那事変は、その「大義」のなさが、戦争遂行をする軍部に、そして総力戦としての戦争に巻き込まれていく銃後の国民に付きまとい続けた。

 もちろん、その「大義のなさ」から生み出された対米英戦争も、その出生の経緯ゆえに、実のところは大義を欠いたものではあったのだが、アジア人と白人の闘いという構図の下に、道義の欠落は覆い隠されることになったわけだ。

 ヴェトナムでのアメリカと、中国大陸での日本軍に共通していたのは、どちらも宣戦布告のない中での「戦争」であったということだろう。

 大日本帝國は、それを「事変」という名で呼ぶことで糊塗し、アメリカ合衆国は南ヴェトナム政府への「支援」として処理し続けた。

 そしてどちらもゲリラ戦争という泥沼に足を取られていくことになる。

 「あらゆる量的計測は、われわれがこの戦争に勝っていることを示している」というマクナマラ国防長官の言葉は、言うのも野暮なことではあるが言わずにはいられないくらい、ヴェトナムにおけるアメリカの存在を語る上で象徴的であろう。

 統計的データには、砲火にさらされ、爆撃を受け、住まいを焼き払われ、家族を失った者の気持ちはカウントされていないのである。

 ゲリラ戦争を支えるのは、外からやって来て、自分たちだけの勝手な理屈で軍事力を行使し、生活を蹂躙し続ける者への反発である。それも、大きな悲しみと憎しみのこもった反発なのである。

 大日本帝國の軍人にはそのことは理解出来ていなかったし、ヴェトナムへの介入を深める米国政府及び軍関係者の想像力からも欠けていたものだ。

 その中での兵力の逐次投入からは、決して勝利は生み出されず、泥沼は深くなるばかりとなっていった。

 アメリカは、やがてヴェトナムの泥沼から足を引き抜くことをしたが、大日本帝國は、対米英戦へと突き進み、すべてを失うところまで行ってしまったのである。

 大東亜戦争が大日本帝國にもたらしたものは、軍民合わせて325万人を超える死者であり、国土の喪失であった。「国土の喪失」とは、もちろん国家領域の縮小的変更の受け入れのみのことではない。何より、そこには、国家としての独立の喪失という事態が存在していたのである。

 そして、いまだにそのことへ、きちんと向き合うことが出来ていないのが、この国の、この国民の現実なのである。

 「負けた戦争」の意味、戦争に負けることの意味、負ける戦争をしてしまったことの意味、そこで大きな犠牲者を出してしまったことの意味、自国だけではなく様々な民族・国民に犠牲を強いたことの意味に、いまだにきちんと向き合うことが出来ているようには見えないのだ。

 そしてこれらの問題の多くは、ヴェトナム戦後のアメリカにおいても同様であるようにも思える。

 大義なき戦争における米兵の犠牲の大きさ、その不条理な死、あるいは帰還兵に対する米社会の当初の冷たさ、帰還兵を蝕むPTSDの深刻さ、戦争の過程で生じた倫理観の喪失、様々な意味での白人文化の変容…

 アメリカにおけるヴェトナム戦争の意味とは、基本的にそのようなものであり、戦場とされたヴェトナム人の蒙った被害の深刻さについて、想像力の及ぶことは少ない。

 アメリカの軍事行動は、再検討され、やがて湾岸戦争において、大義ある戦争、宣戦布告ある戦争、国際的に理解を得られた戦争、軍の大量投入による圧倒的軍事力の行使により決着の付けられる戦争として、「負けた戦争」は過去のものとなった、ように見えた。

 湾岸戦争に先立って、当時のブッシュ大統領(現ブッシュの父)は、「ヴェトナムの最後の教訓は、偉大な国家とは、いつまでも長々と記憶に引き裂かれつづけはしないということ」と、その就任式で述べていたという。確かに湾岸戦争で、その予言は果たされたように見えた。

 シュワルツコフやパウエルといった湾岸戦争を率いた軍人たちは、かつてヴェトナムで苦汁をなめた職業軍人である。ヴェトナム戦争で大きなダメージを受けた軍の再建に当たってきたのが彼らであった。湾岸戦争の勝利は、その成功を証明していた。

 しかし、就任式で「ヴェトナム戦争の最後の教訓」について語り、湾岸戦争での勝利という新たな戦争のの体験を米国にもたらした大統領の息子の手により、米国は新たな「負けた戦争の記憶」を経験しつつある。

 イラクにおいて、米国は再び、「負けた戦争の記憶」を作り上げつつあるのだ。

 そこにあるのは、ジャングルではなかったが、砂漠の世界でのゲリラ戦争なのであった。

あらゆる量的計測は、われわれがこの戦争に勝っていることを示している

とは、イラクの状況についてのブッシュ政権の説明に関しても、何度も聞いたような気にさせられるセリフである。

 幸いなことに、我々日本人にとっては、大東亜戦争の記憶が「負けた戦争の記憶」の最後のものとなっている。

 しかし、日本政府が、

あらゆる量的計測は、われわれがこの戦争に勝っていることを示している

という類の米国政府のセリフに同意し続けてもいることが、何を意味してしまうかについては、もう少し注意深く考えておくことが、日本人には必要であろう。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/12/27 23:58 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/52906/user_id/316274

 

 

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オランダ人にとってのナチスの強制収容所と日本軍の収容所という問題への入り口日記

 

 10月も一週間経過。

 大金欠終了以来、買い物づいている。

 パソコンディスプレイ兼用の26インチテレビ。

 収納用ワゴン。

 デジカメ。

 そして、本日はパソコン本体。

 デジカメ購入に新宿まで出かけた際に、オーディオ関係のカタログを持ち帰ってしまった。危ない。

 まぁ、残りの金の使い道は限定されている状況なので、これ以上、むやみに買い物する状況にはないのだが、二階のオーディオセット①のアンプとCDプレイヤーの不具合を考えると色気が出てしまう。

 今後は衝動に注意、だ。

 6月以来、仕事の異動(?)で、帰りが遅くなったが、読書時間は確保出来てしまった(なんてステキな仕事でしょう!!)。

 ので、これまで読めなかった、あるいは読み返しておきたい、厚めのハードカバーを読むということをしている。

 結果として、このところ、ナチズムと強制収容所をめぐる本を読み続けている。

 今週は、お酒パーティーの余波で、眠くて眠くてなかなか読み進められなかったが、エミリ・コーエンの『強制収容所における人間行動』を読んでいた(今、手の届くところにないので、出版年等は記せないが、岩波書店の刊行で、清水幾太郎が翻訳者の一人だったはずだ)。

 著者はオランダ系ユダヤ人で、自らもアウシュヴィッツを体験している。

 1950年代の初めに書かれた本だ。

 以前に一度読んでいたのだが、あらためて再読しているわけである。

 強制収容所体験をフロイト理論を軸に読み解いている部分は、さすがに時代を感じさせるが、オランダ系ユダヤ人ならではの視点が、私達日本人には興味深いと思われる。

 つまり、ユダヤ人としてのナチスの強制収容所体験に対比されているのが、オランダ人の日本軍の収容所体験なのである。

 飢餓状況や、虐待の実態、収容者のおかれた心理的状況などが、ナチスの強制収容所体験と日本軍の収容所体験者の報告により、描かれている。

 比較すれば、ナチスの強制収容所の過酷さは言を俟たない。

 ナチスの強制収容所がユダヤ人に果たした役割とは「絶滅」なのであるから。

 到着直後の「選別」により、労働不能者とみなされればガス室行きであり、労働適格者も「労働による絶滅」の対象とされるのである。

 終日の直接的な暴力と虐待に加えて、長時間労働と、栄養の決定的な不足、そして極度に低劣な居住条件。到着後の数ヶ月で、ほとんどの収容者は死を迎える。

 そのような意味では、日本軍の収容所は、収容者の「絶滅」を目的としたものではなかった。

 しかし、良い待遇が与えられなかったことも確かである。大日本帝国の軍隊自身が、補給面で過酷な状態に置かれていたのである。

 捕虜に対する国際法に関する無理解と相俟って、収容者の待遇への配慮は期待出来ないものであった。

 コーエンの本を読むことによって、普段、思い浮かべる機会のない、日本軍によるオランダ人の収容という事実が、問題として浮上するのである。

 オランダ人の収容というのは、軍人だけが対象となったのではなく、一般市民も収容所に収容されたのだ。そこから、オランダ人の少女が従軍慰安婦として、日本軍人の性欲処理の犠牲となったのである。

 コーエンの本には、もちろんそのようなことが書かれているわけではない。

 しかし、記述を追うことにより、ナチスの強制収容所体験が、オランダ人にとっては日本軍の収容所体験と共に語られていることに気付かされるのである。第二次世界大戦の被害体験として、ナチスの強制収容所と日本軍の収容所が、いわば、同列に位置していることに、気付かされてしまうというわけだ。

 普段、意識に上ることが少ないことであるので、ここで読み返したことを幸運に思う。

 「飢餓」をめぐる記述では、ナチスの強制収容所、日本軍の収容所と共に、ドイツ占領下のオランダで発生した飢饉も事例として論じられている。占領下のオランダもまた、過酷な状態にあったのだ。

 今回は、深く論じるところまでは取り上げられないが、最近の読書報告である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/10/07 22:09 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/44352/user_id/316274

 

 

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2008年11月27日 (木)

昭和二十年八月 「科学無き者の最後」

 

 昭和20年の大日本帝國の日常を、この二週間ほど、当時の日記・記録類から、日を追って再現してみた。



 本日は、日常生活というキーワードでこの2週間の日記を書いてきた仕上げとして、永野護『敗戦真相記』の記述をご紹介してみたい。

 「まえがき」は、

 
 この小著は去る九月、広島で行なった私の講演の速記録を基礎に「自由国民」朱筆、長谷川国男氏に全文にわたって修正の労を煩わせたものであります。

 
と始まり、

 
 私が、この書において言うを苦痛とするような点まで敢えて触れて敗戦の真相を明らかにしたのは、日本が敗れたのは単に武力ばかりではなかったことを反省したいがためであり、この小書が多少ともそれらの点についての我が国民の参考になれば望外の幸せと存じます。
 昭和二十年十一月二十三日
                  渋谷僑居にて 永野 護

 
と結ばれている。永野護は、戦前から戦後日本の、政治経済界で活躍した人物である(岸内閣の運輸大臣でもあった)。
 その永野が、原爆投下の翌月に広島で講演した速記録が11月には出版されていたということになる。


 さて、「科学無き者の最後」と題された章の中から、記述をご紹介したい。

 

 
 ところで、このような科学兵器の差という物は目に見えるから皆納得するが、目に見えないで、もっと戦局に影響を及ぼしたのはマネージメントの差です。残念ながら我が方は、いわゆるサイエンティフィックマネージメントというものが、ほとんどゼロに等しかった。例えば日本の鉄の生産量というものは全部有効に使っても、アメリカの五パーセントしかないのに、この五パーセントの鉄量すら有効に使えなかったので、実際は、二パーセントの生産量ぐらいにしか当たらない。
 ちょうど、隅田川に橋を架けるのに十本架けなければ交通量がさばけないという場合、日本のやり方は漫然と十本の橋を架けるが、みな資材が足りなくて途中で切れていて、結局、向こうに渡れる橋は一本も出来なかったという状態です。マネージメントがうまくいけば、十本架ける量がないとなれば、では、五本だけ架けよう。あるいは一本だけでもいい、早く架ければ人が通れて大変重宝する。これはマネージメントの差で、科学力や生産量の差ではありません。
 ところが、この経営能力が、また科学兵器の差よりもひどい立ち遅れであって、この代表的なものが日本の官僚のやり方でしょう。日本の官僚の著しい特性は一見非常に忙しく働いているように見えて、実は何もしていないことで、チューインガムをかんだり、ポケットに手を入れたりして、いかにも遊んでいるように見えて、実際は非常に仕事の速いアメリカ式と好対照を見せています。
 今度、進駐軍が来ていろいろなものの引渡しをやるのを見ると、日本のほうは引継式をやろうというので、証書に目録をつけて、当日はフロックに身を正して、テーブルにはちゃんと白い布を張って、花ぐらい生けて待っている。そうすると何時間経っても進駐軍は来やしない。一同、待ちくたびれた頃に倉庫からアメリカの兵隊が出てきて、もう調べたから日本人は出て行ってくれという。打ち合わせて物品を受け取るというような形式的なことはない。挨拶の英語を暗記してきたフロックコートの先生は大いに面食らってしまったという実例を聞いたけれども、このマネージメントの差がこの戦争の遂行上実に大きな影響を与えたことは、むしろ目に見えるサイエンスの差より大きい。
 例えば軍の動員計画なんかも実に非科学的なもので、その技術者がいなければ工場が一遍に止まるというような重要な者を引っ張っていて、馬を洗わせたり、壕を掘らせたりする。もっとひどいのは工場から熟練工を召集したために、その工場の能率が落ちると応援の兵隊さんを今度は軍から寄越してくることです。工場から応召した熟練工は新兵になって壕堀りをしているのに、壕堀りのうまい古参兵が、ズブの素人になって工場に応援に来る。そうして最近どうも工場の能率が落ちたと騒いでいる。こういう例を挙げれば、数限りありません。これが、日本が敗けた、見えざる大きな原因です。

 聞くところによると、アメリカのニュース映画で東京空襲の映画を上映するとき、日本なら「日本空襲何々隊」とつけるべきところを、そんな題はつけないで「科学無き者の最後」という標題を付しているということです。ああ、科学無き者の最後!!アメリカは最初から日本のことをそう見ており、まさにその通りの結果になったと言い得ましょう。

 

 

 官僚主義の蔓延による能率の悪さについては、清沢冽の日記に詳しい。しかし、清沢は昭和20年5月に死去。戦後日本を見ることは出来なかった。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/18 22:32 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/38427/user_id/316274

 

 

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