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2018年5月17日 (木)

十四娘を賣つた金 四十圓の家と化す (昭和期日本の貧困 その4)

 

 古書市で入手した昭和9年と10年の新聞切抜き帳(スクラップブック)に貼られた記事を用いて、近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実がどのようなものであったのかについて読み進めてきた。

 

 昭和9年、冷害に襲われた東北地方(冷害による飢餓の実態は「草木に露命をつなぐ (昭和期日本の貧困 その2)」参照)の人々は、「口べらし」のために娘を身売りするまでに追い込まれた(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」参照)。

 

 「娘の身売り」に頼る貧困層の姿(「廓模様新紅毛情史 (昭和期日本の貧困 その3)」参照)。それが、昭和戦前期の日本の現実、近代日本の現実の姿であった。

 

 今回も、当時の紙面から切り抜かれ、スクラップブックに残された新聞記事から、「娘の身売り」の実状に迫ってみたい。

 

 

 

 

スクラップブック(昭和9年~10年) 
     十四娘を賣つた金四十圓の家と化す (9.12.1 朝日)

 

 

 

 今回取り上げるのは、昭和9年12月1日付の朝日新聞記事である。

 

 

 

 

 十四娘を賣つた金
  四十圓の家と化す
    冬籠りの窮農を訪ふ
          東北凶作地にて
          荒垣特派員

 

 村の夜道は真つ暗だつた、村には外灯がなかつた、それは昭和六年の凶作から廃止になつたのだ、凶作は色んな意味で村から『明るさ』を奪つて行く、今度はまた娘を、凶作は村から奪い去らうとしてゐる、もう幾人も奪つて行つてしまつた、私はその標本を青森の新城村に求めた
     ▽   △
 『これがその、娘が化けた四十円の家ですよ』と教へられた窓から洩れる鈍い電灯の光で畑の菜つ葉が真白な霜に萎れてゐるのが見えた、この村としては割合に小綺麗な家だが、これが一人の津軽娘が娼妓に売られた身代金で買はれた家かと思ふと異様な汚感に襲われざるを得なかつた
  入つてみると、七十を越したお婆さんと、身売娘の両親と五つ位の女の児とが、煙に燻ぶる囲炉裏を囲んでゐた、女の子は風邪をひいてギャーギャー泣いてゐた
 姉娘が売られて居なくなつてからこの児も泣虫になつたさうだ、『どうして娘つ子売れしたば?』ときくと、婆さんは泥炭の煙に傷められたトラホームの眼をしばたいて『スミエあ売られて難儀してす、吾あ死んでもいいはで孫達あ楽にさせてやりてい』と赤く瀾れた眼から涙をボロボロこぼした、この佐藤一家は、家を借金のカタに取られて近所の家に同居してゐたが、スミエといふ十四の娘を名古屋市賑町の娼妓屋に売つた金で、此家を買つたのだ、身代金は五ヶ年の契約で四百五十円だつたが、そのうち百円は一本になつたら渡すとの事で、娘の着物代にといつて五十円、周旋料だといつてブローカーに廿二円五十銭、親爺と周旋屋とで娘を名古屋まで送つて行つた汽車賃、宿料、自動車代その他雑費だといつて百廿七円五十銭をとられ、結局手に渡つたのは僅百五十円だつた、そのうちから七十円の借金を支払ひ、四十円で家を買ふと残る四十円も何といふことなしに消えてしまつた
     ▽   △
 父親はいつた
  吾あ娘売る気あ夢にもなくてあつたども、周旋屋が家のわらし(娘)ど借金の□なみに眼つけで売れ売れつて四十日の間も付き纏ひした、其うちね飯米あなくなるし女房あ妊娠脚気ねなるし借金取りにや責め立てられるし、おまけね、借金の保証が女房の妹だはで、吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて、とうとう売る腹ねなりした
 と溜息をついた、母親はまた母親で
  家のわらし(娘)あ、吾あ妊娠脚気で留守の間ね死んだりへば困るはで行きたくねいといつてをれした、取り返せねいもんですべか?
 と今になつて返らぬ愚痴をいつてゐる
     ▽   △
 そして娘からはもうこんな手紙が来るやうになつた
  …私達はシヨウギさんがゐる家にゐるものですから、ほんとうに嫌ひです、主人は、お正月になるとお客さんをとらせるといつてをします、私はシヨウギなんかやるんぢやない、ほんとうにつまらない、しつかりしたことはお正月にでなければ分かりませんが、ほんとうにお客さんをとらせると直ぐ手紙を出します……
 まだ半信半疑でおびえてゐる十四歳の津軽娘の姿!手紙を出すことより外に策を知らぬ可憐さ!
     ▽   △
 いつのまにか出た冷たい冬の月を浴びて、私は次の『娘を売つた家』に行つた、そこには逆睫毛に悩む母親と、小倉の夏服に綿を入れた洋服を着た少年とがゐた、この綿入れの夏服はやはり姉さんが売られた余剰価値だつた、この村には洋服を着てゐる子供は一人もゐないので、松雄少年はこれが得意だつた、そして『姉さまのお蔭で……とお礼状を出した、すると身売娘からはこんな返事がきた
  松雄は私のお蔭で立派な服をきたと書いてをりますが、私のお蔭ではありません、父上様や母上様のお蔭です……
 いはば自分を売つた非道の親、それを微塵も怨まぬ心はいぢらしい限りだ
     ▽   △
 この娘の母は娘の身代金で逆睫毛の目を手術する事になつてゐた、ところが結局そんな金は余らずいまだに逆睫毛で悩んでゐるとの知らせに娘はビツクリしてゐる、そして自分が家にゐる時は、いつも母の逆睫毛を抜いてやつたのだが、今はどうしてをられるだらうかと『逆睫毛は今誰にとつてもらつてをりますか、知らせて下さい』と涙の筆を綴つてゐる
  私は夜外に出て家の方を見て、家の者が達者にゐますやうにとお月様に祈つてゐます

 

 

 

 記事は「娘の身売り」による解決を望ましいものとして取り扱っているわけではないが、それ以外に手段を持たぬ東北農民の現実を伝えるものとなっている。描かれているのは、冷害に付け込んで実直な東北農民を「娘の身売り」にまで追い込む周旋屋の姿であり、周旋屋を前にしてなす術のない農民の姿である。

 記事の見出しには、

  十四娘を賣つた金 四十圓の家と化す

とあるが、父親は家欲しさに娘を売ったわけではない。

  吾あ娘売る気あ夢にもなくてあつたども、周旋屋が家のわらし(娘)ど借金の□なみに眼つけで売れ売れつて四十日の間も付き纏ひした、其うちね飯米あなくなるし女房あ妊娠脚気ねなるし借金取りにや責め立てられるし、おまけね、借金の保証が女房の妹だはで、吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて、とうとう売る腹ねなりした

この言葉を疑う必要を(私は)感じない。

 貧困の果てに、

  吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて
  とうとう売る腹ねなりした

ここにまで追い込まれたのである。

 解決の手段が「娘の身売り」以外にない状況。

 記者は取材に先立って、

  これが一人の津軽娘が娼妓に売られた身代金で買はれた家かと思ふと異様な汚感に襲われざるを得なかつた

このように心情を吐露し、母親の言葉に対しては、

  今になつて返らぬ愚痴をいつてゐる

と非難めいた感想を漏らすものの、

 貧困→娘の身売り

これ以外に手段を持たぬ現実に、傍観者であるしかなかった。

 

 記事にあるのは決して例外的状況などではなく、冷害による凶作下での一般的状況なのである。以下に示すのは、昭和6年の事例である。

 

  昭和六年、農業恐慌にあえぐ東北、北海道の農村を冷害による凶作が襲った。同年一〇月三一日付の『東京朝日新聞』は「未曾有の凶作で、北海道、青森に飢饉来 雪近く不安つのる」と、その惨状を報じた。
  この年の東北地方は、四月から七月にかけて異常低温に見舞われ、特に七月の平均気温は盛岡で一八・四度という低さだった。加えて六月の多雨日照不足で、稲の苗代での発育不良、移植期の遅れ、田植え後の活着障害、生育の障害という状態におちいった。
  被害のもっともひどい青森県では、米価下落で「豊作貧乏」といわれた五年の一三〇万石に対し、六年の収穫は半分以下の六〇万八〇〇〇石、北海道も稲作は平年の三六㌫強、畑作六一㌫という大減収だった。作家の下村千秋は、岩手県北部から青森県へと「飢餓地帯」を歩き、「餓死線上」の農民は「岩手県下に三万人、青森県下に十五万人、秋田県下に一万五千人、そうして北海道全道には二十五万人」(『中央公論』昭和七年二月号)と書き、青森県の寒村では「どうせ飢え死ぬなら、せめて一度でも、米のめしがげんなりするほど喰つて見てえ」(『前出』)と老人が語るのを聞いた。
  農民は米不足のため、粟、ひえなどの雑穀、だいこん雑炊、それに木の芽や草の葉を混ぜた薄いかゆなどを食べた。学校へ弁当を持って行けないいわゆる欠食児童は、北海道一万八九八人、青森県六一〇七人、秋田県九九六人、岩手県三五三九人、全国では二〇万人を超すと推定された(昭和七年七月文部省調べ)。
  北海道庁の調査では、七年上半期に六〇六件の人身売買があり、平均一〇六円で多くは都市に売られた。また、内務省社会局の調べでは、青森、山形、秋田、福島、新潟の各県でも、六年一月から七年六月までの間に計一万六〇四人の若い女性が、家族を支えるために「身売り」をした。
  廃娼連盟は六年一一月、他県への「娼妓移出地」といわれる山形県最上郡西小国村の実状を調査し、報告書『農村疲弊と子女売買問題』(松宮一也、橋本成行共著)をまとめた。それによると同村の出稼ぎ娼妓は五七人で、その数は村の一五歳~二五歳の女子四一七人の約一四㌫にあたった。現金収入がなく、負債を返却するには、定期的に村を回る紹介業者に娘を売るしか方途がなかった。
  この惨状が報道されると、東京では学生や無産党系、キリスト教系の諸団体が救援活動を始め、報道も詳細になった。東北・北海道の冷害は、農村不況を克服しようという世論形成の契機になったのである。
     (『昭和 二万日の全記録 第2巻』 講談社 1989  307ページ)

 

 

 ここに紹介された「廃娼連盟」による報告書にある山形県最上郡西小国村は、まさに「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」の記事の舞台となった地域でもある。廃娼連盟による昭和6年の調査で明らかになったのは、

  同村の出稼ぎ娼妓は五七人で、その数は村の一五歳~二五歳の女子四一七人の約一四㌫にあたった。現金収入がなく、負債を返却するには、定期的に村を回る紹介業者に娘を売るしか方途がなかった。

という悲惨な現実であった。

 

 朝日新聞記事には「まだ半信半疑でおびえてゐる十四歳の津軽娘の姿」とあったが、当時の公娼制度下でも年齢制限はあり、本来なら「十四歳の津軽娘」が人身売買の対象となることはないはずなのだが、しかし、そこには抜け道があった。元森論文には以下のようにある。

 
  公娼のみを調べた場合,18歳未満は登録できないというタテマエが守られているためそれ以下の者はいないが,私娼には18歳未満もしばしば含まれていることが報告されている。たとえば,上村行彰『売られゆく女』(大正7年,集成2:209)では,娼妓が「異性に触れた当時の職業」として,「家事手伝い」,「女工」に次いで「芸妓酌婦稼業中」が2割1分と多いと述べ,16歳以下の3分の1は芸妓酌婦稼業中に性行為を行っていたことを明らかにしている。「東北凶作を契機とせる女子の貞操問題」として東北の芸娼妓を調べた調査では,12歳7人,9歳1人を含む14歳未満の女子が60人いたことが報告され,「多分口減らしと,之に依つて幾等かの生計費を得て家族の食餌に資せんとしたものであらう」と述べられている(三浦精翁『売られ行く娘の問題』昭和10年,集成5:308-309)。
  帝国議会でも,芸妓の「約半分位は十三で客に接することを強いられて居ると云う記事が(引用者注:前日の新聞に)出ております」(土屋清三郎,第56回帝国議会衆議院未成年者飲酒禁止法中改正法律案外一件委員会第6回速記録,昭和4年,p.24)と問題視されたり,「私娼窟」における低年齢層の売春問題が報告されている。
     (元森,絵里子「自由意志なき性的な身体―戦前期日本の公娼制問題における「子ども」論の欠如―」 『明治学院大学社会学・社会福祉学研究(139)』 2013)

 

 当時から「低年齢層の売春問題」は深刻なものとして注目を集めてはいたのである。「まだ半信半疑でおびえてゐる十四歳の津軽娘の姿」は、決して特異な事例ではなかった。

 元森論文には以下の事例(どちらも昭和4年の事例である)も紹介されている。

 

  現在公娼に於きましては,十八歳以上の女でなければ営業に従事することが出来ないのでありまするが,寺島,亀戸のやうな,いわゆる淫売窟に居りまする所の女と云ふものは,十五歳,十六歳,甚しきは十三歳,十四歳と云ふ風な,殆ど吾々言ふに忍びないやうな少女が,何れも売淫行為を行って居るのであります,是等の年少な少女と云ふよりも,寧ろ幼女に近い婦人と云ふものは,何れも自分の意思に反して ,或いは親の犠牲となり ,若しくは暴行脅迫 ,中には傷害迄受けて ,斯る魔窟に拉し去られて醜業に従事して居るのであります(川島正次郎,第56回帝国議会衆議院請願委員会議録(速記)第9回,昭和4年,pp.2-3) 

 

  最近二万八千二百三十四人の娼妓に就いて取調べた処によれば,内尋常小学の中途退学者が二万〇〇五十八人(即ち七割一分強),まったく尋常小学にさへ登らなかつた者が四千四百六十五人(即ち一割五分強)で,つまり全数の計八割六分以上は,尋常小学に入らないか入つても卒業しないで退学した者共であります。彼等は全く無教育無知である。之に義務教育完了の機会さへ与へず ,之を娼妓などにならせて置くと云ふは ,誰の責任であるか。此の点に於て,日本の国家はその臣民に対する当然の務めを行うて居ないものと言はれても,致方はありますまい。(山室軍平『公娼制度の批判』昭和4年,集成3:125)

 

 川島正次郎の言葉には、「十五歳、十六歳、甚しきは十三歳、十四歳と云ふ風な、殆ど吾々言ふに忍びないやうな少女」が、「何れも自分の意思に反して 、或いは親の犠牲となり 、若しくは暴行脅迫 、中には傷害迄受けて 、斯る魔窟に拉し去られて醜業に従事して居」たことが示されている。

 

 

 悪質な周旋屋の実態については、安中論文に当時の新聞記事を用いた事例紹介がある(安中 進「娘の身売り」の要因と鉄道敷設 現代政治経済研究所(Waseda INstitute of Political EConomy) 早稲田大学 WINPEC Working Paper Series No. J1702 October 2017)。こちらは昭和6年と8年の事例だ。

 

  打続く農村不況に加へて大凶作に見舞はれた青森縣下の農民は ,既に売る物は皆尽して食料に代へ現金は全く農村から姿を消すに至つたが ,暮れを控へて農民の逼迫につけ込む悪徳周旋業者が最近横行し ,純ぼくな農村の娘さん達を「給金高い東京お屋敷へ世話をする」などと言葉巧みに欺き ,東京方面の魔くつに賣飛ばしてゐる,もつとも被害の甚しいのは上北 ,下北 ,三戸地方の収穫皆無地で ,青森発上野行列車などには手付金二 ,三圓といふ安い直段で取引された純な農村の乙女一團が周旋人に連れられて二組か三組は必ず乗込んでゐる有様で,警察方面でも人買ひの取締りに躍起となってゐる。
     「凶作につけ込む娘買ひの悪周旋屋  青森地方では二三圓の手付けで」『東京朝日新聞』 1931 年 12 月 26 日

 

  「寺島署では向島区寺島町七ノ六〇前科二犯無職諸岡ひで(三二)同町七ノ七前科一犯松井幸太郎(三六)同町六の一三四無職小林武(三三)足立区竹塚五十嵐丑蔵八もぐり 六)(足立区竹塚五十嵐丑蔵八もぐり 六)同町の一三四無職小林武(三三)足立区竹塚町四一四五十嵐丑蔵(三八)のもぐり周旋屋一味を留置取調べてゐるが同人らは諸岡ひで総指揮官とし玉の井根城玉の井根城秋田 ,山形 ,北海道等凶作地の婦女を甘言もつて連れだし八十圓から三百五位で玉北海道等凶作地の婦女を甘言もつて連れだし八十圓から三百五位で玉井,亀戸等の魔窟に賣り飛ばし手数料を身代金半分以 上取つてゐたもので被害者は秋田縣生れ影澤あき( 二一)外十八名の多数に上り係官もそ悪辣な手段驚いてゐる」
     「モグリ周旋団 凶作地の子女へ魔手 」,『読売新聞』 , 1933 年 1月 31 日)

 

 

 先に紹介した朝日新聞記事には、記者に「いはば自分を売つた非道の親、それを微塵も怨まぬ心はいぢらしい限りだ」との感懐を抱かしめた「身売り娘」のエピソードが載せられているが、このような事例が決して珍しいものではなかったらしいことも、安中論文の紹介する新聞記事から読み取れる。

 

  十六日朝 ,岩手県警察部からの至急配で危うく身賣 りの一歩手前で救はれた東北娘がある。岩手県稗貫郡石鳥谷町大字北寺林の貧農似内櫻香長女くりさん(二七)永年の間,婚期も忘れて女中奉公に出た仕送りで老父と三人弟妹の一家を養つて来たが ,父子五人が木の實も食へぬ赤貧から青春を汗のために失つた女には身賣り四年間がタツタ三百圓にしか値なかつた ,しかし大金を握らされた一家にとつては桂庵の姿が神にさへ見えたといふ ,この くりさんがいよ洲崎遊郭の春賣樓に売られて娼妓登録の許可申請から縣警察部への照會となり「身賣娘を護れ」スローガン下に奔命してゐる同縣からのS・O・Sで危なく救ひ出された。さてここに喜ばないのは當のくりさん「私を救つて下すつた事は有りがたい事です,けれどもどうして私がこのまま國許へ帰れませうまとまつた金が無ければ父子五人が野垂死をしなければなりません,私一人が死んだ気になれば父や弟妹達が救はれますどうぞ私を娼妓にして下さい」といふ ,警視廳でも「身賣り救済運動」の将来に投げかけられた切實な問題として,早速くりさんを愛國婦人會の手を借りてどこか前借出来る女中奉公口を探してやることになつた
    「『私が犠牲になれば』 救われて浮かぬ娘 凶作地の『血の記録』」 ,『東京朝日新聞』 ,1934 年 11 月 17 日

 

 「私を救つて下すつた事は有りがたい事です、けれどもどうして私がこのまま國許へ帰れませうまとまつた金が無ければ父子五人が野垂死をしなければなりません、私一人が死んだ気になれば父や弟妹達が救はれますどうぞ私を娼妓にして下さい」という「身賣娘」の言葉。この、くりさんの「自分の意思」を「美談」として位置付けることを是認することは正しいのか? 確かに近代日本には、そのような「自分の意思」を示した「身賣娘」の姿に「美談」を感じ取る土壌があった。だからこそ、記者は「いはば自分を売つた非道の親、それを微塵も怨まぬ心はいぢらしい限りだ」との心情を吐露したのであるし、くりさんは「どうぞ私を娼妓にして下さい」との言葉を発したのである。

 その近代日本の現実の中で「身賣り救済運動」に奔走した人々も確かに存在した。しかし、その救済策は「どこか前借出来る女中奉公口を探してやること」でしかなかった。

 

 これが、昭和戦前期の貧困層が置かれた現実であった。そして、昭和12年には大日本帝國は「支那事変」という名称の下での中国との実質的戦争状態に陥る。昭和も戦時期(戦中)となるのである。

 戦時期昭和には、貧困層の娘たちは、いわゆる従軍慰安婦の供給源となる。かつての公娼制度の枠組みの上に、慰安婦の供給システムが構築される。貧困と「娘の身売り」の構図が、軍の存在によって維持される時代となっていくのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 :  2018/05/16 21:07 → https://www.freeml.com/bl/316274/319007/

 

 

 

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2018年3月29日 (木)

廓模様新紅毛情史 (昭和期日本の貧困 その3)

 

 たまたま古書市で手に入れた、昭和9年~10年の新聞の切り抜き帳(スクラップブック)に貼られた記事を読むことで、「近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実」に触れてきた(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」及び「草木に露命をつなぐ (昭和期日本の貧困 その2)」)。

 

 冷害による大凶作の中で、

 

    稗飯を食へるものがめぐまれた最上流の農家で、学童の大半はあざみの葉、山ごぼうの葉椎の実、やどり木の葉を貪り食つてははかない露命をつないでゐる、大根の葉、そばの粉などが食へたら中流以上の家庭で、甚だしい地方――主として岩手県の郡部から津軽方面――では藁を粉にして水とともにすすりこんだり団栗をかじつたり『生きんがため』『食はんがため』の悲惨な社会実話がくり返されてゐる
     (東京日日新聞 昭和9(1934)年10月17日)

 

このような食糧事情に追い込まれ、

 

  娘一人の身代金は年期四年で五百円乃至八百円、然し周旋屋の手数料や着物代や何かを差引かれて実際親の手に渡るのは、せいぜい百五十円位だ、可愛い娘を手放しても、百五十円の金を握りたい、一つの悪風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう
  かうして床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく、淪落の巷を流浪する最上娘の「新庄節」こそ彼女等の望郷の憶ひをこめた哀歌であると共にドン底の農村の悲しむべき生活苦を、まざまざと物語るものでなくて何だらう、然も娘を売つた親達は「凶作で米がないから、年期が明けても村の懐には帰るな」といふのだ農村の窮乏もここに至つて正視するに忍びない
     (朝日新聞 昭和9(1934)年10月22日)

 

「口べらし」のために娘を身売りするまでに追い込まれる。しかも「凶作で米がないから、年期が明けても村の懐には帰るな」との言葉が出るところまで追い詰められていたのである。

 

 

 

 今回も、スクラップブックに切り貼りされた新聞記事から、再び「娘の身売り」の現実、人身売買に頼るしかなかった「近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実」に迫ってみたい。

 

 

 

 取り上げるのは昭和9(1934)年12月10日の朝日新聞記事である。タイトルは「廓模様新紅毛情史」、枠付きの大見出しとなっている。

 歌舞伎の名題を思わせる大見出しだが、実際、「芝居じみた」という語がふさわしいような気さえしてしまうエピソード(実際、記者自身が「まるで劇の筋書でも読む様な」と書いている)である。

 

 

 

スクラップブック(昭和9年~10年) 
     廓模様新紅毛情史 (9.12.10 朝日)

 

 

 

 (原則として、見出しの表記は原文のまま―変換可能な限り―とし、本文は「かなづかい」は原文通りだが、旧字体は新字体にあらため、本文中の大きな活字は太字で表記)

 

 

 廓模様新紅毛情史

 吉原遊郭へ飄然遊んだ一外人が、その遊女の優しいもてなしと、余りにも可哀相な身の上話しに同情、約二千円を投げ出して身請から落籍祝ひまでし更に同女に小遣ひ五百円を渡して母の許に帰し母娘の喜ぶ様を見てほつと安心、浅かつた三日間のなじみの絆を絶つてその夜十時横浜出帆のプレジデント・フーヴア号に乗船、アメリカへの孤独の旅に上って行った、吉原遊女と旅の一外人――まるで劇の筋書でも読む様な新しい紅毛情史である【写真は十六夜こと細屋みよ子】

 身請に大枚の金
  絆を切り船出
    夢かと許り喜ぶ彼女と親
      提供の主 和蘭の旅人

 浅草区新吉原京町一ノ一七長金楼事中村彌一方へ去る四日夕刻日本人ガイドに案内された一外人が登楼した、『オランダ人、ヤン・シー・フオツク(二八)』と署名し娼妓十六夜(二〇)を相手に約一時間遊興して帰ったが更に六日夜八時再び登楼同夜は宿泊した七日午前一時半頃の事である、突然ガイドを通じて主人に会いたいといふので主人が会ふと『借金はいくら位ある?』といふ『千五百円位だらう』と大ざつぱの返事をすると、『それでは身請して自由にしてやりたい、金は一度帰つて持つて来る』と非常な乗気である、同楼ではよくあるお客さんの気まぐれと別に気にもしなゐでゐると、その朝五時半語呂帰つたその外人がその日(七日)午後三時頃三度び現れ札束を積んで『すぐ身請する』といふ、眼の前の札束を見せられて始めて楼主はびつくり、先づこの喜びを親許に知らせねばなるまいと「十六夜」の母、深川区三好町二ノ一四、細屋ふみ(五三)を円タクで迎へにやると、ふみはびつくりして現れ、娘の手を取つて喜びの泣き笑ひである、母娘の喜びを眺めていたこの外人、それから間もなく廓の芸者数名に、同家の娼妓十三名その他雇人全部を大広間に集め一人五円の総花をまいた上「十六夜」から改めて本名に返つた細屋みよのため杯を挙げてその前途を祝福した上、持って来た珊瑚の指輪を彼女の指にはめ更に自分の首に巻てゐた真紅な襟巻を彼女の肩にかけてやりながら
  自分は今夜十時出帆の船でアメリカへの旅に上って行く、もう再び会ふ機会もあるまいが、あなたは結婚して幸福な生活に入つて下さい、若し家庭に子供でも生まれたら、せめてその子供の写真を送つてもらひたい
 といふ、更に並ゐる朋輩衆に向かひ
  もし私にお金がどつさりあつたらあなた方全部も身請けしてやりたいが、もう私には金がない今夜立つ船では一等に乗る積りだつたが、もう金がないので二等の旅しか出来ないのです、それでは皆さん御機嫌よう、サヨナラ
 この意味が日本人ガイドを通じて語られると大広間の酒席もしんみりとなつて泣き出す始末、その日の夕刻、この喜びの細屋母娘はこの外人に軒先まで送られて自宅に引き取つて行つたが、その後姿を見送つた彼はガイドを連れそのまま夜の街に姿を消した、同夜十時横浜出帆のプレジデント・フーヴア号二等船客の中には『アムステルダム、二八歳、旅行家Y・C・FOCK』と署名した一外人の淋しい姿があつたといはれる

 苦界の姉も
  救ひに
   貰つた小遣で

 たつた三日の間に夢のやうな境遇の激変にあつた細屋みよは千葉県長生郡八積村生れ、職人をしてゐた父大西徳次郎に連れられその後深川区月島に住んでゐたが、震災で父が行方不明になつてから、母ふみが八人の子供を抱へて女土方となつて育ててゐたが、遂にどん底に落ちて
  姉一人は栃木県に売られ彼女も昨年八王子で芸者となり、ついて今春五月、千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつたもの、その際母の手には僅か百円が渡つただけらしく、おとなしい女として長金楼でも大事がられてゐた
 九日夜みよはフオツク氏から贈られた小遣五百円余の中から、栃木県の苦界に身を沈めてゐる実姉を救ひたいと、実兄と共に、同夜上野駅発の列車で栃木県下に向ひ、深川三好町の長屋には母のふみさんがどん底から蘇る一家の喜びに目を泣きはらしてゐる

 『籠釣瓶』が動機
  純情に感銘
    本國に打電して金策

 【神戸電話】 この外人の身許はガイドをつとめた神戸市加納町一丁目互明荘アパート止宿通訳バチェラー・オブ・アーツ中村三郎君によつてオランダの青年実業家Y・C・フオツク氏(二八)と判つた同君の話によるとフオツク氏は日本観光中東京の歌舞伎座で左団次、松蔦一座の籠釣瓶を見物、日本の花魁に興味を感じ一夜吉原の長金楼に遊び敵娼をつとめた十六夜の真情にほだされ翌日日光観光に赴いたが、ホテルでも溜息ばかりついて深く物を思ひつめて居た
  あの花魁は別れるときに私が五円をチップに与へたが遠い外国から来た人に要らぬお金を使はすのは勿体ないとどうしても取らなかつた、何といふ純な気持であらう、僅か数時間の対面ではあつたがあの子の起居振舞総て優美でしとやかでどうしても商売女とは思へないあんな正直な女を籠の鳥にしておくのは自分の良心に恥ぢる
 といひこの女に邂逅しただけで世界観光の徒事でなかつたことを喜んでゐた、中村君の骨折りで直に本国に打電金策した結果、フーヴア号が横浜出帆「七日午後十時」の直前に二千円の為替が届き劇的な情景の裡にぽんと彼女のために投出し、彼女のしごき一本を後生大事に貰つて行つた
  フオツク氏は若年ながらオランダで新聞を経営し既に妻子がありもし独身ならば勿論彼の女を連れて帰国するといつてゐたといふ

 

 

 新聞経営の28歳のオランダ人青年実業家が、吉原で出会った遊女(身売り=人身売買の犠牲者―そして貧困の犠牲者である)の「真情にほだされ」て、その場で「身請け」を決意し実行してしまう。まるで芝居の筋書であるが、昭和9年12月の新吉原遊郭での実話・美談として報道されているのである。

 

 まず、広辞苑にある「身請け」の項を確認しておこう。

 

 み-うけ【身請け】 年季を定めて身を売った芸妓・娼妓などの身代金(みのしろきん)を払って、その商売から身をひかせること。うけだすこと。落籍。

 

 初めて日本の遊郭を訪れたオランダ人青年実業家が、初対面の遊女の「真情にほだされ」て、その「身請け」を実行してしまった顛末である。

 オランダ人フォック氏に身請けされた「十六夜」(細谷みよ)は、東北の農家出身者ではない。

 

  細屋みよは千葉県長生郡八積村生れ、職人をしてゐた父大西徳次郎に連れられその後深川区月島に住んでゐたが、震災で父が行方不明になつてから、母ふみが八人の子供を抱へて女土方となつて育ててゐたが、遂にどん底に落ちて
  姉一人は栃木県に売られ彼女も昨年八王子で芸者となり、ついて今春五月、千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつたもの

 

 千葉に生まれ東京で育ったが、「震災で父が行方不明」になったことから家族は零落し、「遂にどん底に落ちて」、「千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつた」のであった。貧困層の最底辺ともなれば「口べらしと借金の返済」は切実な問題であり、実際、「娘の身売り」は東北六県だけの問題ではなかったことが、十六夜(細屋みよ)一家のエピソードを通して理解し得るであろう。

 しかし、「千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつたもの、その際母の手には僅か百円が渡つただけ」というのが実態であったし、「四年の年期」にしても、

 

  客から十円の収入があれば、実に七割五分を楼主に取られてしまい、二割五分だけが玉割と称して娼妓の取り分となる。しかも、その中の一割五分が借金返済のための天引きされてしまうので、娼妓は残りの僅か一割だけで生活しなければならないという仕組みなのである。彼女の稼ぎ高は月に三百円程度の箏が多かったので、手元に残るのは三十円程度にすぎなかった。これに対して呉服代から化粧代、洗濯代、電話代、客用の茶菓代、さては湯銭や病気のさいの治療費にいたるまで、諸掛一切が娼妓の負担となっており、これが月に四十円をくだらないので、いきおい楼主から追借をせざるを得ない。
  正月の三が日、七草、および十五、六日は「しまい日」と称し、客に「しまい玉」(または玉ぬき)という特別料金を請求するように仕向ける。揚代金は一時間二円、全夜(オールナイト)十二円を取ったが、「しまい日」には客に全夜の玉を倍の二十四円請求し、そのうえ遣手婆にも普段より多くの祝儀(五円)を出させる。無論、かなりの馴染み客でない限り応じるわけもないが、しまい玉が取れない娼妓に対しては一日二円の罰金が科せられるので、売れっ子以外は戦々兢々とならざるをえない。そのような客のないものは花魁の恥とされるからでもある。

  しまい日は正月ばかりでなく、三月三日、五月五日にも適用される。そのほかに「移り替」といって六月と十月の衣替えにも同様の“行事”がある。とにかく、あらゆる機会をとらえて搾り取る仕組み
     (紀田順一郎 『東京の下層社会』 ちくま学芸文庫 2000)

 

の中での話なのである。

 

 フォック氏との出会いが、十六夜(細屋みよ)にとってどれだけ僥倖であったことか。

 

 

 「戯作者と傾城は虚が真で真が虚なり」との言い回しがあるが、記事の伝える経緯(背景)による限り、フォック氏が「ほだされ」た十六夜の「真情」に偽りを感じる必要はないだろうし、当のフォック氏だって、「飾り窓の女」として有名な売春街を擁するオランダが故国なのである。未経験な若者が遊女の口先に騙された、という話ではないであろう。

 

 

 昭和9(1934)年のエピソードということは、3年後には支那事変、5年後にはヒトラーによるヨーロッパでの戦争(オランダが占領されるのは1940年)である。細屋みよの家族、フォック氏はいかなる運命に翻弄されることになったであろうか?

 美談の先にあるのは、そんな惨禍に満ちた歴史でもある。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/03/29 20:52 → https://www.freeml.com/bl/316274/317986/

 

 

 

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2018年3月27日 (火)

草木に露命をつなぐ (昭和期日本の貧困 その2)

 

 前回は、近代日本の(それも昭和期の)「人身売買」の実状について、昭和9年と10年の新聞スクラップブックに切り抜きとして残された朝日新聞記事を読んだ(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」)。昭和9年の冷害による大凶作の中での、「口べらしと借金の返済」の手段としての「娘の身売り」である。

 

 

 紹介した新聞記事には、

 

  一つの悪風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう

 

とあった。望ましいものではないとのニュアンスに伴われながらも、社会に容認されたものとして「人身売買」という解決法が取り扱われているのである。その規模は以下の通り。

 

  東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、九年一〇月までの一年間で五万人余にのぼった。新聞は連日のように救済を訴え、矯風会や救世軍が身売り防止運動を始めたが、口べらしと借金の返済に迫られた農村の厳しい現実の前では、ほとんど効果はなかった。
     (『昭和 二万日の全記録 第3巻』 講談社 1989  306ページ)

 

「一年間で五万人余」という数字には「東北六県で」との限定が付けられていることも見逃すべきではないであろう(他の地域の貧困層にとっても「口べらしと借金の返済」は切実であり、「娘の身売り」は東北六県だけの問題ではなかった―近代日本の病理というべきか)。しかし、もちろん、冷害がなければ、「東北六県」での「娘の身売り」が「一年間で五万人余」とまではならなかったのでもあるが。

 

 「口べらし」が特に切実な問題となったのは、まさにそこに冷害による大凶作があったからであり、「飢饉」と呼ぶべき状況がもたらされていたからである。

 

  小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民は、八年のように空前の豊作を記録した年ですら、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられていた。九年の凶作は、それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった。岩手県では全農家の七七㌫が緊急の救済を必要とした。
  飢饉の影響は、まず子どもたちの上に現れた。欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。
     (『昭和 二万日の全記録 第3巻』 講談社 1989  306ページ)

 

 

 今回も、前回に用いた昭和9年と10年の新聞記事のスクラップブックから、当時の報道の実際を読んでみたい。「それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった。岩手県では全農家の七七㌫が緊急の救済を必要とした」実状である(取り上げる記事は、その岩手県の惨状を伝えるものだ)。

 用いるのは、昭和9(1934)年10月17日の東京日日新聞記事である(時系列的には、前回記事で用いた朝日新聞記事より前のものということになるが、スクラップブック上では後のページに貼られている―スクラップブックの掲載順ということでご理解願いたい)。

 

 

 

スクラップブック(昭和9年~10年) 
     榮養價ゼロでも食べねばならぬ (9.10.17 東京日日新聞)

 

 

 (見出しの表記は原文のままとし、本文は「かなづかい」は原文通りだが、旧字体は新字体にあらため、本文中の大きな活字は太字で表記)

 

 

 喘ぐ東北
  榮養價ゼロでも
   食べねばならぬ
     草木に露命をつなぐ
          この世の地獄-冷寒地

 東北地方、わけても岩手県下を汽車で通過すると冷害に荒んだ山野にションボリと「をぢさん、残りの弁当を放つて頂戴!」と叫ぶ学童たちの悲痛な声を耳にするだらうここ数十年来みたことのない大飢饉に虐げられた食へない人達のノドをついて出る真の叫びだ、何百万人かにのぼるであらうこれら哀れな罹災者をどうして救ふか、廿万人と算される欠食児童の救済さへ手につかぬ惨状は中央都会人の想像だに及ばないほど深刻化されてゐる、本社が西野入、手島両慰問使を取敢へず派遣したのも苦難のどん底にあへぐ人々への心からなる隣人愛である

 稗飯は最上等
     悲惨な學童のお弁當

 本社盛岡支局では冷害が最も深刻な岩手県下二戸郡奥中山村小学校の児童達がもつて来る弁当を四階級に分けて本社に送り届けてきた
  茶わん一ぱい分ばかりの稗飯と馬蔓芋四個ほど
  精白しない稗の飯とキヤベツ二切れほど
  稗の餅、ガンモドキほどのもの一個
  稗さへ食へず、楢の実十五個ばかりを紙片にくるんだもの
 どれにも砂糖気もなければ醤油の色もついていない、馬蔓餅もキヤベツも少しばかりの塩分をふくんでゐるばかり
 都会人には想像も及ばぬお粗末な弁当だが、冷害地にとつては稗飯を食へるものがめぐまれた最上流の農家で、学童の大半はあざみの葉、山ごぼうの葉椎の実、やどり木の葉を貪り食つてははかない露命をつないでゐる、大根の葉、そばの粉などが食へたら中流以上の家庭で、甚だしい地方――主として岩手県の郡部から津軽方面――では藁を粉にして水とともにすすりこんだり団栗をかじつたり『生きんがため』『食はんがため』の悲惨な社会実話がくり返されてゐるが、送り届けられた前記四種の弁当について内務省栄養研究所原博士の検定を求めると
  最上流といはれる甲の弁当にしても含水炭素のみで蛋白質に乏しくヴイタミンAを欠いてゐるためにこれを常食としたら極端な栄養不良に陥り、老人、子供の場合には視力減退、鳥目となり妊産婦は分娩困難、乳児の保育はできないだらう、丙、丁に至つては議論のほかだとのこと―
 何十万かの農民はその丙、丁にさへありつけないのだ

 人間らしく
  身體が保てぬ
     せめて鰯か豆を…

 内務省栄養研究所の佐伯所長、栄養学の権威原博士はこもごも語る――
 昨年の飢饉当時には出張して現地で詳細調査したが、岩手県と青森県下は特に驚くべき惨状で、ま冬には土を掘つて地中の植物の根をかじつて露命をつないだものさへあつた、今年はそれ以上だといふから惨状推して知るべしで、この弁当をもつて学校へゆけるものはごく少数の農家に限られてゐるのだ、栄養上どうか、カロリーはどれくらゐか、などの質問をうけても数字の上や統計の上で返事はできない、せめて鰯や豆類でも摂ることが出来たら、人間らしい身体を保てやうが、こんなものでは科学的に説明し得ない、一度伝染病でも流行したらそれこそ一大事で、飢饉にたたきのめされた罹災民にはただ涙あるのみだ

 

 

 掲載された学童の弁当の写真のキャプションも収録しておく(写真もよく見て欲しい―「インスタ映え」からは遠い世界である)。

 

 これでもお弁當
   黒いのは團栗、 上方の白い部分は馬鈴薯、ほかは稗

 

 「都会人には想像も及ばぬお粗末な弁当だが、冷害地にとつては稗飯を食へるものがめぐまれた最上流の農家で、学童の大半はあざみの葉、山ごぼうの葉椎の実、やどり木の葉を貪り食つてははかない露命をつないでゐる、大根の葉、そばの粉などが食へたら中流以上の家庭で、甚だしい地方――主として岩手県の郡部から津軽方面――では藁を粉にして水とともにすすりこんだり団栗をかじつたり『生きんがため』『食はんがため』の悲惨な社会実話がくり返されてゐる」のであり、しかし「この弁当をもつて学校へゆけるものはごく少数の農家に限られてゐる」のであった。栄養学的観点からは「最上流といはれる甲の弁当にしても含水炭素のみで蛋白質に乏しくヴイタミンAを欠いてゐるためにこれを常食としたら極端な栄養不良に陥り、老人、子供の場合には視力減退、鳥目となり妊産婦は分娩困難、乳児の保育はできないだらう、丙、丁に至つては議論のほかだと」いうのであり、しかも「何十万かの農民はその丙、丁にさへありつけないのだ」というのである。

 

 

 かつて松原岩五郎が記録したのは、明治20年代の都市最貧困層が残飯に命をつなぐ姿であった(「残飯に命をつなぐ(明治期日本の貧困)」参照)。しかし東北の農村部には「残飯」は存在しない(「残飯」は都市のものなのである)。

 

 内務省栄養研究所の佐伯所長、栄養学の権威原博士が伝えるのは、

 

  ま冬には土を掘つて地中の植物の根をかじつて露命をつないだものさへあつた、今年はそれ以上だといふから惨状推して知るべし

 

このような「惨状」である。記事の見出しには「草木に露命をつなぐ」とあるが、それが比喩などではなく文字通りの現実だったのである。

 

 

 

 スクラップブックに戻ると、前回に紹介した昭和9年10月22日付の朝日新聞記事の左には、掲載紙名は不明だが同年11月14日付の新聞記事が貼られている(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」画像参照)。岩手県知事による救済策を伝えるものだ。

 

 六萬余の窮民に
  衣類足袋を配給
    懸費で購ひ無料で・・・
      石黒岩手知事さらに英斷

 【盛岡発】全国民の絶賛裡に施米を断行した石黒岩手県知事は第二の巨弾として十二日塩、味噌、鰯の施給を声明し十三日朝から関係課長など集合して施給方針について協議の結果、更に栄養不良のため痩せ衰へて行く凶作民に栄養を与えるべく五万貫の昆布を県費で購入施給することに決定した、また白魔襲来して寒空に震へてゐる窮民に対し衣類、足袋類等を同じく県費で五十四万の凶作民中特に救済を要する六万七千名に対しこれを今月末日までに全部一名の漏れもなく配給することとなつた、しかして今月上旬から一斉に開始された救農土木事業の賃金は十日目毎に支払ふことになつてゐたが、これでは救済の意味をなさぬといふので隔日支払いにすることになり、十三日各町村一斉に通牒を発した、今や石黒知事の善政は凶作民等から随喜の涙で迎へられてゐる

 

 石黒岩手県知事が、「栄養不良のため痩せ衰へて行く凶作民に栄養を与えるべく」、米、塩、味噌、鰯、昆布の「施給」と、「寒空に震へてゐる窮民に対し衣類、足袋類等」の「配給」を「決定」したこと等を伝える記事だが、「英断」、「善政」といった評価が示されている。

 大凶作による困窮者の救済は、行政として当然のことと理解されているのではなく、「英断」や「善政」としてやっと実現され得るものと位置付けられていることも読み取れる。前回にも引用した『昭和 二万日の全記録 第3巻』の記事には、

 

  十二月六日、衆議院は農林省提出の「凶作地に対する政府所有米穀の臨時交付に関する法律案」を可決し、政府所有米のうち五〇万石が、東北六県の町村に交付されることになった。

 

とあった。すなわち、12月になってやっと国家による救済策が打ち出された、ということだ。

 しかし、「身売り」された「娘」が国家により救済されることはなかったのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/03/27 22:01 → https://www.freeml.com/bl/316274/317952/

 

 

 

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2018年3月24日 (土)

賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)

 

 近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実がどのようなものであったのか?

 

 「残飯に命をつなぐ(明治期日本の貧困)」では、松原岩五郎の『最暗黒の東京』(1893)を通して、明治20年代半ばの東京のスラム街住民の姿、食料としての残飯の販売がビジネスとして成り立ち、商品として流通する残飯を食べて生き延びる明治20年代の都市最貧困層の実情を明らかにした。

 「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々(続・明治期日本の貧困)」では、イザべラ・バードの『日本奥地紀行』(1885)に記録された、明治10年代初頭の北関東から東北にかけての農民の姿を取り上げた。

 ノミやシラミだらけの環境の中で、「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々が、いまだ近代医学の恩恵から遠い世界で暮らしている姿である。「着たきり雀の風呂へも入らない人々」は、当時の農村部の貧困層の姿であっただけでなく、都市最貧困層も同様であったことも松原岩五郎によって記録されていた。

 

 記事の最後では、

 

  近代日本の(国体の精華たる?)「公娼制度」は(そして昭和期の皇軍の「慰安婦」もまた)「人身売買」に支えられたものであったが、その背景には、このような最底辺の帝國臣民の貧困の現実があったことも覚えておいてよいだろう。

 

このような指摘を加えておいた。

 

 

 今回は、貧困層の困窮が生み出す「身売り」、すなわち人身売買の問題に焦点を合せてみたい。取り上げるのは明治期ではなく、昭和戦前期の日本の現実、近代日本の現実である。

 

 

 昭和9年から10年(1934~1935)にかけて、日本が直面していた問題の一つが「凶作」であった。実状は以下の通りである。

 

 

  昭和九年は、日本各地に自然災害がおこり、農作物が大きな被害を受けた。九州・四国の干害、北陸・山陰の冷雪害、関西・中国の室戸台風による風水害と続いたが、冷害に見舞われた東北の被害は甚大で、明治三八年(1905)以来の大凶作となり、多くの農山村が飢餓線上をさまよった。十二月六日、衆議院は農林省提出の「凶作地に対する政府所有米穀の臨時交付に関する法律案」を可決し、政府所有米のうち五〇万石が、東北六県の町村に交付されることになった。
 
  小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民は、八年のように空前の豊作を記録した年ですら、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられていた。九年の凶作は、それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった。岩手県では全農家の七七㌫が緊急の救済を必要とした。
  飢饉の影響は、まず子どもたちの上に現れた。欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。とくに大きな問題となったのは、娘の身売りだった。東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、九年一〇月までの一年間で五万人余にのぼった。新聞は連日のように救済を訴え、矯風会や救世軍が身売り防止運動を始めたが、口べらしと借金の返済に迫られた農村の厳しい現実の前では、ほとんど効果はなかった。
     (『昭和 二万日の全記録 第3巻』 講談社 1989  306ページ)

 

 

 まず、ここで押さえておかなくてはならないのは「小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民は、八年のように空前の豊作を記録した年ですら、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられていた」との記述である。豊作の年ですら、生産者であるはずの農民の口に米は入らず、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食としていたというのである。その背後にあったのが「小作料と年間収入を超えた額の借金」であった(「豊作」であろうが「貧困」が現実であった)。

 そこに「明治三八年(1905)以来の大凶作」が襲う。もたらされたのは「それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった」ような深刻な「飢餓」であった。

 その「飢餓」からの脱出手段の一つが「娘の身売り」なのである。

 

  欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。とくに大きな問題となったのは、娘の身売りだった。東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、九年一〇月までの一年間で五万人余にのぼった。

 

 貧困層にとっては、人身売買に頼るしかなかった近代日本の現実がそこにある。

 

 

 

 以下、当時の新聞記事を読んでみたい(2015年の4月に、立川の中武デパートの古書市で手に入れた昭和9年と10年の新聞記事のスクラップブックによる)。取り上げるのは、昭和9(1934)年10月22日の朝日新聞記事である。

 

 

 


スクラップブック(昭和9年~10年) 
     東北の凶作地を見る (9.10.22 朝日) 1

 


スクラップブック(昭和9年~10年) 
     東北の凶作地を見る (9.10.22 朝日) 2

 

 

 (見出しの表記は原文のままとし、本文は「かなづかい」は原文通りだが、旧字体は新字体にあらため、本文中の大きな活字は太字で表記)

 

 

 東北の凶作地を見る
 賣られる最上娘
  哀切・新庄節
   「年期明けても歸つてくれるな」
    親達の悲痛な言葉
          山形懸新庄にて
          飯島特派員

 他郷の人の手に売られて哀切な『新庄節』に故郷の山河をしのぶ女の数は決して少なくない、山形県最上郡はその娘地獄の本場だがここは県下でも一の凶作地、ならして七割の減収、一かたまりになつてゐる三十五町歩の田が稲熱(ゐもち)病で全滅してしまつたところもある、飯米は至るところ不足で、西小国村の野頭部落では
  一人でも口を減らさうと思つてゐるのに売つた娘の年が明けて帰つて来られてはそれこそえらいことだ、何とかして娘の年期明けを延ばすことにしよう
 といふ申合わせさへやつたといふ、県ではこの凶作で一層娘の身売りが増えるだらうといふので、身売防止の方策を樹て新庄警察署が主になつて、先頃村村で「娘を売るな」と座談会をやつて歩いた
  娘一人の身代金は年期四年で五百円乃至八百円、然し周旋屋の手数料や着物代や何かを差引かれて実際親の手に渡るのは、せいぜい百五十円位だ、可愛い娘を手放しても、百五十円の金を握りたい、一つの悪風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう
 かうして床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく、淪落の巷を流浪する最上娘の「新庄節」こそ彼女等の望郷の憶ひをこめた哀歌であると共にドン底の農村の悲しむべき生活苦を、まざまざと物語るものでなくて何だらう、然も娘を売つた親達は「凶作で米がないから、年期が明けても村の懐には帰るな」といふのだ農村の窮乏もここに至つて正視するに忍びない
     ▽……△
 娘地獄のこの地方は馬の産地で「子供の出産より馬の出産が大事だ」とまでいはれる位、馬を売るために毎年秋に馬市がたつ、記者は折よく東小国村へ行つて、この馬市を見ることが出来た
  この付近では東小国に八百頭、西小国に五百頭位の馬がゐるさうだが、三日間の馬市に百二十一頭の馬が売りに出た、みんな二歳駒の威勢のいい奴ばかり、馬買ひの博労は遠く青森、秋田岩手の方からもやつて来る、馬市をのぞいて見ると、博労達が人垣の輪を作つて、その輪の中を、農家の若衆が売り馬の口をとつて、ぐるぐる円を書いて歩く「おうい、いひ値が二十円」「一円買つた」「もう三円!」かうやつてせり上げて、相当の値だと思ふと、世話人がポンと手を叩いて売買が決まる、見てゐるうちに、四頭の馬が売れた、一年半も手塩にかけた馬が三十五円、四十六円、四十七円最後の馬はたつた十七円であつた、しかも、この中から産業組合に一割五分の手数料を出さねばならぬ
 馬が安値に売られるたびに見物の百姓達までホツと肩で息をして「話にもならない値だなあ」とガツカリしてしまふ
 馬市の表の道の奥にはづらりと露店が並んでゐる、鍋、釜、古着、雑貨、食料品何でもある、つまり馬を売つてから、ここで一年分の必要品を買ひ込むといふ習慣になつてゐるのだが、今年はそれがひどい寂れ方だといふ、西小国村では凶作のため「馬市には馬一頭につき一人以上付いて行くな」といふ決議をした。人がわいわい多勢ゆけば買物も自然多くなるから、今までのやうにゾロゾロ馬にくつついて行つてはいけないといふのである、田舎廻りのサーカスの小屋がかかつてゐて、客を呼んでゐるが、人々はただ泥絵具の看板をポカンと眺めてゐるだけで、ガマ口を開けようともしない、収穫のない田圃、その田圃の中の小さい宿場、馬のせり市、さびれた露店、サーカスの荒んだ楽隊――凶作地のうら淋しい晩秋の風景は記者の心を徒らに傷ましむるのみだ
      ▽……△
 飯米不足でどこの村々でも濡米の払下げを申請してゐるがとうとう山から栃の実を拾つて米の代用に食ひ始めた、栃の木はパリの街路樹マロニエに似た木で実は栗のやうな格好をしてゐるが苦みと渋味があるので各村役場では「苦みをとつて粉にしてそれから餅にする迄の加工法」をガリ版に刷つて戸毎に配り学校の先生のきも入りで内儀さん、処女会員を集めて講習会なども開かれてゐる
  栃の実のほかにワラビの根、山葡萄の葉や山牛蒡の葉なども食ふ、学校にゆけば鼻をたらした「干松」が居り、村落の掘立小屋にひとしい家々には、米を作って米の食へない「伯夷叔斉」が青い顔をしてゐる、芋、大根、茄子みんな不出来で、きうりや茄子の漬物もない
 小学校の実習で作った大根が幾らか残つてゐるといふので、百姓が銅貨を握つて小学校へ大根を買ひに来る、細いのが三本五銭でこれが大した御馳走だ、村落を歩いて農家の軒先の蓆の上に並べて乾てある栃の実を貰つて五銭白銅を一枚子供に渡したら「やあ、この銭ア光つてるぞ」と大喜びだ帰りがけにまたその家の前を通つたら、さつきの子が出て来て「平シヤボテンもあるんだがなあ」と呼びかけた、記者はぐつと胸のつまる思ひをした、豊田村では一村禁酒、電燈減燭の決議をして、違反者には私刑を加へるといふ罰則を作つた、最上一帯は全く光を失つた村々の集団だ、米を作る農民の「飯米を与へよ」の声こそ悲痛である 

 

 

 「床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく」という「人身売買」の現実。

 それだけでは終わらず、「人でも口を減らさうと思つてゐるのに売つた娘の年が明けて帰つて来られてはそれこそえらいことだ、何とかして娘の年期明けを延ばすことにしよう」との「申し合わせ」をするまでに追い込まれているのである。

 

 ただし、当時の「公娼制度」のシステムの下では、「娘の年期明け」への心配は無用であったかも知れない。

 

  このように決死の思いでつけられた日記の中で、最も頻繁に出てくるのは搾取システムの実態である。元元彼女は三百円の借金で首が回らない実家を救おうと、千三百五十円で身を売ったのであるが、十分余裕ができると期待したのも束の間、周旋人に二百五十円も取られ、さらに借金を返してしまうと、家には差引八百円しか入らなかった。それでも六年間の年季の間に千三百五十円を返済するのは比較的容易に見えたが、朋輩の多くが長年月つとめながら一向に足を洗うことができない様子をみて、不審の念をいだいた。
  その謎はすぐに判明した。客から十円の収入があれば、実に七割五分を楼主に取られてしまい、二割五分だけが玉割と称して娼妓の取り分となる。しかも、その中の一割五分が借金返済のための天引きされてしまうので、娼妓は残りの僅か一割だけで生活しなければならないという仕組みなのである。彼女の稼ぎ高は月に三百円程度の箏が多かったので、手元に残るのは三十円程度にすぎなかった。これに対して呉服代から化粧代、洗濯代、電話代、客用の茶菓代、さては湯銭や病気のさいの治療費にいたるまで、諸掛一切が娼妓の負担となっており、これが月に四十円をくだらないので、いきおい楼主から追借をせざるを得ない。
  問題がこれだけでないことを、彼女は正月になってから知った。正月の三が日、七草、および十五、六日は「しまい日」と称し、客に「しまい玉」(または玉ぬき)という特別料金を請求するように仕向ける。揚代金は一時間二円、全夜(オールナイト)十二円を取ったが、「しまい日」には客に全夜の玉を倍の二十四円請求し、そのうえ遣手婆にも普段より多くの祝儀(五円)を出させる。無論、かなりの馴染み客でない限り応じるわけもないが、しまい玉が取れない娼妓に対しては一日二円の罰金が科せられるので、売れっ子以外は戦々兢々とならざるをえない。そのような客のないものは花魁の恥とされるからでもある。
  しまい日は正月ばかりでなく、三月三日、五月五日にも適用される。そのほかに「移り替」といって六月と十月の衣替えにも同様の“行事”がある。とにかく、あらゆる機会をとらえて搾り取る仕組みだが、不器用な彼女にはどうしても玉ぬきができない。最初の月だけで十円の罰金をとられ、主人から「いくら初見世でも、一人位玉ぬきができそうなものだ。もういく日になるんだ」と小言をいわれる。チップで生計を立てている遣手からもいやがらせをされるようになる。
     (紀田順一郎 『東京の下層社会』 ちくま学芸文庫 2000  167~170ページ)

 

 

 ここで紹介されている「日記」とは、「大正十三年(一九二四)の師走、群馬県高崎市に育った十九歳の女性が周旋人に案内されて新吉原の門をくぐった。森光子というこの女性は、その後の約一年間、娼妓として辛酸をなめ、ついに死を賭しての脱出に成功、翌十四年に『光明に芽ぐむ日々』という告発の手記」のことである(「賣られる最上娘」の記事の10年前の、人身売買の当事者による告発である―この10年間で、公娼制度の制度的枠組みが変化したという話は聞かない)。「朋輩の多くが長年月つとめながら一向に足を洗うことができない」のが実情であった。しかも紀田順一郎氏の文章は、「新吉原以外の公娼地帯では一層ひどい状況が見られた」と続いているのである。

 「賣られる最上娘」を待ち受けていたのが、どのような悲惨であったのか。切抜きとして残された新聞記事に書かれた以上の過酷な現実であったことは、想像しておいた方がよいだろう。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/03/24 14:01 → https://www.freeml.com/bl/316274/317854/

 

 

 

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2018年1月30日 (火)

「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々(続・明治期日本の貧困)

 

 「残飯に命をつなぐ(明治期日本の貧困)」と題して、松原岩五郎によるルポルタージュ(『最暗黒の東京』)を通して、明治20年代半ばの大日本帝國臣民の最底辺の姿を取り上げてから一月が過ぎてしまった。

 そこに記録されていたのは、残飯に支えられて生きる、東京の貧民街の最貧困層の姿であった。

 

 

 今回はあらためて、まず明治10年代初頭の農村部の「臣民」の姿を、民俗学者の宮本常一による『イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む』(平凡社ライブラリー 2002  引用は92~97ページ)を読むことを通して確かめておくことから始めたい。

 イザべラ・バードの記述に宮本常一が解説を加える形で進められている(ここでは、バード自身による記述は太字にしてある)

 

 

 

  きびしい労働 貧しいくらし

  それから小佐越というところで当時の山中の村の貧しかったことがでてきます。
 
   ここはたいそう貧しいところで、みじめな家屋があり、子供たちはとても汚く、ひどい皮膚病にかかっていた。女たちは顔色もすぐれず、酷い労働と焚火のひどい煙のために顔もゆがんで全く醜くなっていた。その姿は彫像そのもののように見えた。(第十一信)
 
  それほど汚れていたのです。それは風呂へも入らないということでもあったのです。同じようなことが栃木県の横川というところを通るときに出て来ます。
 
   五十里から横川まで、美しい景色の中を進んで行った。そして横川の街路の中で昼食をとった。茶屋では無数の蚤が出てくるので、それを避けたかったからである。(第十二信)
 
  何度もいうように、日本にはすごいほど蚤がいて、実は茶屋だけではなくて、地面の上にもいたらしいのです。日本の国土全体の上に、かつて充満していたようなのです。
 
   すると、私のまわりに村の人たちのほとんど全部が集まってきた。はじめのうち子どもたちは、大きい子も小さい子も、びっくりして逃げだしたが、やがて少しずつ、親の裾につかまりながら《裾といっても、この場合は譬喩的表現だが》〔腰にまとわりつきながらということでしょう〕、おずおずと戻ってきた。しかし私が顔を向けるたびに、またも逃げだすのであった。群衆は言いようもないほど不潔でむさくるしかった。ここに群がる子どもたちは、きびしい労働の運命をうけついで世に生まれ、親たちと同じように虫に喰われ、税金のために貧窮の生活を送るであろう。(第十二信)
 
 
  薬のききめと病人たち

  また同じような場面があります。
 
   宿の亭主の小さな男の子は、とてもひどい咳で苦しんでいた。そこで私はクロロダインを数粒この子に飲ませたら、すべて苦しみが和らいだ。治療の話が翌朝早くから近所に広まり、五時ごろまでには、ほとんど村中の人たちが、私の部屋の外に集まってきた。(第十二信)
 
  日本の医療がどんなものであったかが、これで非常によくわかるのです。村の医者ではどうしようもなかったが、新しい化学薬品に会うと実にきれいになおるのです。
 
   ささやく音、はだしの足を引きずる音がだんだん大きくなり、窓の障子の多くの穴に眼をあてていた(障子に穴を開けてのぞくのは、日本のひとつの習俗ですね〕。私は障子を開けてみて、眼前に現れた痛ましいばかりの光景にどぎまぎしてしまった。人々は押しあいへしあいしていた。父親や母親たちは、いっぱい皮膚病にかかっている子、やけど頭の子、たむしのできている子を裸のまま抱きかかえており、娘たちはほとんど眼の見えなくなった母親の手をひき、男たちはひどい腫れ物を露出させていた。子どもたちは、虫に刺され、眼炎で半ば閉じている眼をしばたいていた。病気の者も、健康な者も、すべてがむさくるしい着物を着ていた。それも、嘆かわしいほど汚くて、しらみがたかっている。病人は薬を求め、健康なものは、病人を連れてくるか、あるいは冷淡に好奇心を満足させるためであった。私は悲しい気持ちになって、私には、彼らの数多くの病気や苦しみを治してあげる力がないこと、たとえあったとしても、薬の蓄えがないこと、私の国では絶えず着物を洗濯すること。絶えず皮膚を水で洗って、清潔な布で摩擦すること。これらは同じような皮膚病を治療したり予防したりするときに医者のすすめる方法である、と彼らに話してやった。(第十二信)
 
 
  着たきり雀の生活

  これは栃木県から福島県へ越えようとする山中での話なのですが、いかに不潔であったか、ということです。また次に、
 
   この人たちはリンネル製品を着ない。彼らはめったに着物を洗濯することはなく、着物がどうやらもつまで、夜となく昼となく同じものをいつも着ている。(第十二信)
 
  これはこのとおりだったと思うのです。これは先ほどの裸でいるということと関係があって、着物をできるだけ汚さないようにする。それは洗濯すると痛んで早く破れるからで、着物の補給がつかなくなるのです。それでもだいたい一年に一枚くらいの割合で着破ったと考えられるのです。その着物というのは、この山中だと麻か籐布が多かったと思います。すると家族が五人いるとして、五人分の麻を作るか、あるいは山に行って藤をとってきて、その繊維をあく出しして細かくさいて紡いで糸にし、それを機にかけて織る、ということになると、着物一人分の一反を織るのにだいたい一ヵ月かかると見なければならない。五人分なら五ヵ月で、それを、働いている上にそれだけのことをしなければならないのです。
  着物を買えば簡単ですが、買わない生活をしてとなると非常に自給がむずかしかったわけです。これが生糸になると、まゆを煮さえすれば繊維の長いのが続いているから、うんと能率も上がってくることになります。植物の皮の繊維をとって着物を織ることがどのくらい苦労の多いものであったかがわかるのです。汚ない生活をせざるを得なかったということは、こういうことにあると思うのです。
  『おあむ物語』の中のおあん様がまだ妙齢の娘だった頃に、腰までの着物一枚しか持っていなかったというのです。それでもお父さんは立派な医者で、大名に仕えて高三百石というのですから、当時武士の中でも中流以上の生活をしていた人だと見て良いのですが、それでそのくらいの状態だったのです。それほど衣服というのは得られにくいものだったのです。今(一九七六年)『平将門』をNHKテレビでやっているけれど、あんなきれいな着物を着ていたなんてとんでもないことで、実際に当時の服装で出て来たら、これはたいへんなものだったろうと思うのです。それでは綿がなかったのかというと、あったのですが非常に貴重なものだったのです。

 

 

 

 ここに描かれているのは明治10年代初頭の北関東から東北にかけての農民の姿である(そこには時代的限定と地域的限定と階層的限定がある)。

 

 ノミやシラミだらけの環境の中で、「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々が、いまだ近代医学の恩恵から遠い世界で暮らしている姿。このような「姿」を、どこまで当時の日本列島全体に一般化することが妥当なのか? その点には慎重でありたいが、しかし、バードが記録した明治11年の農村部に生きる臣民の姿もまた、日本の近代史の「事実」の一端を伝えるものであることは直視しておきたい。

 

 再び松原岩五郎の記録した明治20年代半ばの東京の(すなわち都市部の)最貧困層の姿に戻ろう。

 やはりそこにも、ノミやシラミだらけの環境の中で、「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々の姿がある。

 

 

 

  新賓客なる余は右側の小暗き処に座を取りしが、そこには数多積重ねたる夜具類ありて、垢に塗れたる布団の襟より一種得ならぬ臭気を放ち、坐ろに木賃的の不潔を懐わせたるのみならず、予の隣に坐せる老漢はいわゆる子供たらしの文久的飴売りなるが、その煮しめたる如き着物より紛々と悪臭を漲らし、頸筋または腋の下辺を荐に掻き捜しつつ所在なき徒然に彼の小虫を噛み殺しつつあるありしを見て、予は殆んど坐に堪えがたく、機会を見て何処かへか場所を転ぜんと思い居るうち、また四、五人の客どやどやと入り込み来れり。
     (松原岩五郎 「二 木賃宿」 『最暗黒の東京』 岩波文庫 1998  22ページ)

 

 

  その内にまた幾人か帰り来り、宿の主婦来って床を伸かんというに、おのおの立上りて手伝をなせしが、一畳一人の割なれば随分究屈を感ずるならんと思い居りしに、事実はそれをも許さで、一帳の幮に十人以上の諸込みなれば、何かは以て耐るべき。蒸さるる如き空気の裡に労働的の体臭を醞醸し、時々呼吸も塞がんばかりなるに加えて蚤の進撃あり。蚊帳は裾より壊れたれば蚊軍は自由に入るべく、この境界にあってもなお予は彼の捫虱的飴屋の傍に近かざらん事を祈り居りしが、命なる哉、いつしか既に伝染せし事と見えて膝のあたり不思議にむず癢くなりしを以て、指頭を入れて模索見しに果して彼の因循的小虫なり。彼が垢膩を啖い血を喰い飽きて麦粒の如くに肥りたるものなれば、余りの事に予が手を以て潰すことも得ならざりし。ああ偽なる哉、偽なる哉、予は曩日かかる暗黒界に入るべき準備として数日間の飢を試験し、幾夜の野宿を修業し、かつ殊更に堕落せる行為をなして以て彼ら貧者に臆面なく接着すべしと心密かに期し居たりしに、これが実際の世界を見るに及んで忽ち戦慄し、彼の微虫一疋の始末だになすことを得ざりしは、我れながら実に不甲斐なき事なりき。ああ想像は忝なく癩乞丐の介抱をもなし得べし。しかれども実際は困難なり、虱を捫る翁の傍にも居がたし。
     (松原岩五郎 「二 木賃宿」 前掲書  23~24ページ)

 

 

  たとえ、よもすがら池をめぐりて名月のあざやかさを見るとも常に我が庵なく我が臥床なくして奚ぞ美景の懐に入るべき。西行も三日露宿すれば坐に木銭宿を慕うべく、芭蕉も三晩続けて月に明さば必ずや蚊軍、蚤虱の宿も厭わざるに至るべし。ああ木賃なる哉、木賃なる哉、木賃は実に彼ら、日雇取、土方、立坊的労働者を始めとして貧窟の各独身者輩が三日の西行、三夜の芭蕉を経験して、しかして後慕い来る最後の安眠所にして、蚤、シラミ元より厭う処にあらず、苦熱悪臭また以て意となすに足らず、彼の一畳一人の諸込部屋も五、六人の破れ幮に十人逐込の動物的待遇も彼らのためには実に貴重なる瑶の台にして、茲に体を伸べ茲に身を胖くして身体の疲労を恢復し、以て明日の健康を養い、以て百年の寿命を量るにあれば、破れ布団も錦繍の衾にして、截り落しの枕もこれ、邯鄲の製作なりと知るべし。
     (松原岩五郎 「三 天然の臥床と木賃宿」 前掲書  27ページ)

 

 

  日済に続いて危急なるは損料屋なり。貸し衣装、貸布団、貸車。貸布団は一枚八厘より二銭まであり、尤も絹布上下三枚襲ねて一夜三十銭より五、六十銭に登る損料物もあれども、これらはもっぱら贅沢社会の需用にして寒を凌ぐために供給する貧街の談にあらざれば、茲にこれを多く語るを要せず。貸衣装また同じく一枚三銭より五、六銭位までのもの、多くは下等芸人一日の晴衣に向ッて用立ツ。中には股引法被、また布子〔木綿の綿入れ〕を貸す内あり。これ車夫的労働者の必要に向ッて供えたるもの、大抵は貸車業者においてこれを兼業す。なかんずく貧街において繁昌するは貸布団にして、冬の十二月より翌年三月まで厳冬四ヶ月間の戦争、いわゆる飢寒窟の勁敵に向ッて供給するものなれば、その時節に至れば貧街の営業中何ものかよくこの商法の劇しきに及ぶものあらん。細民の生計として夏より秋に移る際ただの一枚の着物すらも着替ゆる事能わざるほどなるもの、まして夜具布団の穿鑿、到底出来る事にあらず。凌げるだけは日光の縕袍に依頼して凌ぐも、十二月の月に入っては日光最早頼むべからず。是に至ッて一枚の布団用意せんと欲するも俄かに作る事能わざるを以て余儀なく損料に依頼せざるを得ず。
     (松原岩五郎 「十二 融通」 前掲書  71~72ページ)

 

 

  殊にその物品たるや、煎餅の如き薄縁のものにあらざれば雑巾の如くに側を綴ぎ集めたるもの、これを借用して一夜一銭ずつの損料を払うものは、いずれも皆よくよくの貧家にして、見るさい憐れなる母子三人裸体を抱き合いて身を縮め、慄いかつ戦きて辛うじて危寒を禦ぐ。この場合においても料銭の延滞するに至れば直ちに寝所へ踏込んで剥ぎ取らざるを得ず。実に涙あっては出来ぬ商法、無慈非道と見らるるも余儀なし。
     (松原岩五郎 「十二 融通」 前掲書  72~73ページ)

 

 

 

 

 これもまた近代日本の現実であった。

 木賃宿の宿泊者も長屋の住人も、「細民の生計として夏より秋に移る際ただの一枚の着物すらも着替ゆる事能わざるほどなる」が故の「着たきり雀」の日常において、「煮しめたる如き着物より紛々と悪臭を漲ら」すのであり、「煎餅の如き薄縁のものにあらざれば雑巾の如くに側を綴ぎ集めたる」と表現される「垢に塗れたる布団」は、その「襟より一種得ならぬ臭気を放」っていたのである。バードは「彼らはめったに着物を洗濯することはなく、着物がどうやらもつまで、夜となく昼となく同じものをいつも着ている」と観察しているが、「煮しめたる如き」とはまさに「洗濯」されることのない「着物」の視覚的表現である。松原岩五郎のルポルタージュの背後にあるのは、すなわち岩五郎が体験したのは、現実としての「臭気」であり「悪臭」だったのである(文字を通して、当時の嗅覚的経験まで読み取っておくべき―あるいは嗅ぎ取っておくべき―記録である)。

 

 もちろん、このイザベラ・バードや松原岩五郎によるルポルタージュを読んで、一気に「日本がどうだこうだ」という話にするのは避けるべきである(註:1)。他の地方の状況や、階層による生活の違いの可能性も考え併せ、あくまでも明治10年代初頭の北関東から東北での農村部の生活の詳細の観察として、あるいは明治20年代半ばの都市部の最貧困層の暮らしの詳細の観察として位置付けることが必要である。

 しかし、同時に、以下の構図の存在も忘れずにおきたい。

 近代日本の(国体の精華たる?)「公娼制度」は(そして昭和期の皇軍の「慰安婦」もまた)「人身売買」に支えられたものであったが、その背景には、このような最底辺の帝國臣民の貧困の現実があったことも覚えておいてよいだろう。

 

 

 

【註:1】
 イザべラ・バードによるノミをめぐる記述について、宮本常一は、

  何度もいうように、日本にはすごいほど蚤がいて、実は茶屋だけではなくて、地面の上にもいたらしいのです。日本の国土全体の上に、かつて充満していたようなのです。

このように説明している。
 確かに松原岩五郎も木賃宿でのノミやシラミの猛威を記録している。しかし、松原にとって木賃宿でのノミ・シラミ体験は、それまでの想像力を超えた新鮮なものとして描かれてもいる。つまり、それまでの松原岩五郎は、同じ都市に住みながら、それほどにはノミやシラミに悩ませられることなく過ごしていたようにも見える。
 農村部と都市部には差異があり、都市部の中にも居住地区(階層の反映でもある)による差異があったということであろう。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/01/30 20:50 → https://www.freeml.com/bl/316274/316621/

 

 

 

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2017年12月28日 (木)

残飯に命をつなぐ(明治期日本の貧困)

 

 

  ああ残飯屋、残飯とはいかなるものか、これ大厨房の残物なるのみ。諸君試みに貧民を形容するに元といかなる文字がよく適当なりと見る。飢寒、襤褸、廃屋、喪貌、しかしどれも予はこれが残飯または残菜なる二字のもっとも痛快に最も適切なるを覚わずんばあらず。しかして今、予はこの貧民を形容するに適切なる残飯もしくは残菜を実にしたる残飯屋を目前に控えたり、予は往かざらんと欲するも得べからず、予は飛んで往きぬ。
  まず見る貧窟残飯屋の光景、西より入れば窟の入口にして少しく引込みたる家なりしが、やや広き表の空地には五、六枚の筵を舗きて残飯の饐れたるを麹の如く日に乾したるものありしが、これ一時に売切れざりし飯の残りを糒となして他日売るものにやあらん。彼らのためには即ちこれが彼の凶荒備蓄的の物ならんかと想像せしめたり。家は傾斜して殆んど転覆せんとすするばかりなるを突かい棒もて、これを支え、軒は古く朽て屋根一面に蘚苔を生し、庇檐は腐れて疎らに抜けたるところより出入する人々の襟に土塊の落ちんかを殆ぶむほどの家なりしが、家内は田舎的の住居にして坐舗よりも庭広く殆ど全家の三分の二を占めたる処に数多の土取笊、半切桶、醤油樽、大なる壺、粗き瓶そのほか残飯残菜を容るるに適当なる器具の悉く不潔を帯びて不整列に並ばり居るを見たりき。しかるに何ぞ図らん、この不潔なる廃屋こそ実に予が貧民的生活のあらゆる境界を実見して飢寒窟の消息を感得したる無類の(材料蒐集に都合よき)大博物館なりしならんとは。
     (松原岩五郎 『最暗黒の東京』 岩波文庫 1988 39~40ページ)

 

 

 

 松原岩五郎の『最暗黒の東京』が出版されたのは明治26(1893)年であった。既に大日本帝國憲法は発布されていたが(1889年)、本格的対外戦争である日清戦争(1894)には先立つ時期の、東京のスラム街の実情のルポルタージュということになる。日本の工業社会化以前の段階であり、工場労働者が貧困層として登場するに先立つ時代の話である(底辺の男たちが担ったのは人力車夫であった)。

 密集する廃屋的な長屋と木賃宿が彼らの住居であった。長屋の住民の食生活を支えていたのが残飯。これが松原岩五郎が見出し、記録にとどめた当時の都市最貧困層の現実だったのである。

 

 

  弥兵衛氏の周旋を以てその日より予は残飯屋の下男となり、毎日、朝は八時、午は十二時半、夕は同じく午後の八時頃より大八車にて鉄砲笊と唱えたる径一尺あまりの大笊、担い桶、または半切、醤油樽等を積みて相棒二人と共に士官学校の裏門より入り、三度の食事の剰り物を仕入れて帰る事なるが、何をいうにも元来箸よりほかに重き物を持たる事のなき身が、俄かにかかる荒働きの仲間に入りたる事なれば、その労苦は実に容易の事にあらず、力は無理をしても出すべきなれど、労働の呼吸に不案内なるより毎々小児の如き失策を重ねて主人の不機嫌を買う事一方ならざりし。されど、これもまた貧大学の前期課程なれば茲の我慢が肝要なりとジッと辛棒する内、日ならずして、その呼吸も覚わり、後には最寄の怪人種より番頭々々と尊称されるに至りき。さるほどにこの残飯は貧人の間にあッてすこぶる関係深く、彼らはこれを兵隊飯と唱えて旧くより鎮台営所の残り飯を意味するものなるが、当家にて売捌くは即ちその士官学校より出づる物にて一ト笊(飯量およそ十五貫目)五十銭にて引取り、これを一貫目およそ五、六銭位に鬻ぐ。尤もこれに属する残菜はその役得として無代価にて払下ぐるものなるが、何がさて、学校の生徒始め教官諸人数、千有余人を賄う大庖厨の残物なれば、或る時は彼の鉄砲笊に三本より五、六本位出る事ありて、汁菜これに準じ沢庵漬の截片より食麺包の屑、ないし魚の骸、焦飯等皆それぞれの器にまとめて荷造りすれば殆んどこれ一小隊の輜重ほどありて、朝夕三度の運搬は実に我々人夫の労とする所にてありき。しかして、この残物を買う者如何と見渡せば、皆その界隈の貧窟の人々にして、これを珍重する事、実に熊掌鳳髄もただならずというべく、我らが荷車を輾きて往来を通れば、彼らは実に乗輿を拝するが如く、老若男女の貧人ら皆々手ごとに笊、面桶〔一人盛りの食器〕、重箱、飯櫃、小桶、あるいは丼、岡持などいえる手頃の器什を用意しつつ路の両側に待設けて、今退たり、今日は沢山にあるべし、早く往かばやなどと銘々に咡きつつ荷車の後を尾て来るかと思えば、店前には黒山の如く待構えて、車の影を見ると等しくサザメキ立ちて宛然福島中佐の歓迎とも言うべく颯と道を拓きて通すや否や、我れ先にと笊、岡持を差し出し、二銭下さい、三銭おくれ、これ一貫目、茲へも五百目と肩越に面通を出し脇下より銭を投ぐる様は何に譬えん、大根河岸、魚河岸の朝市に似て、その混雑なお一層奇態の光景を呈せり。そのお菜の如き漬物の如き、煮シメ、沢庵等は皆手攫みにて売り、汁は濁醪の如く桶より汲みて与え、飯は秤量に掛くるなれど、もし面倒なる時はおのおの目分量と手加減を以てす。饌の剰り、菜の残り元来払下の節においては普通一般的施与的の物品なれど、一旦茲へ引取ッて売鬻げば、またこれ一廉の商品なり。あるいは虎の皮、土竈、アライ、株切などと残物の上に種々な異名を附けて賞翫するはなかなかに可笑し。株切とは漬物の異名にして菜漬、沢庵のごときまたは胡瓜茄子の如き、蒂もしくは株の付たる頭尾の切片をいい、アライとは釜底の洗い流しにして飯のあざれたるを意味するものにして、土竈とは麺包の切片なり。これその中身を抉りたる食麺包の宛然竈の如き形なせるより、かくは異名したるものとぞ。さて虎の皮とは如何、これ怪人種等の調諧にして実に焦飯を異名したるものなり。巨大なる釜にて炊く飯は是非とも多少焦塩梅に焚かざれば上出来とならざるより、釜の底に祀られし飯が一面に附着して宛然虎豹の皮か何ぞの如く斑に焦たる故にかくは名付けたるものならん。さて譬え虎の皮にせよ土竈にせよ、既に残飯とあれば、これ貧窟の尊き商品にして怪人種等の争うて購求する所なり。世に桂を焚き珠を炊ぐとて富豪者の奢侈を意味する事なるが、実際これをなすものは富豪者にあらずしてかえって貧民、しかも極貧饑寒の境にあるものこそ真に珠を炊ぎ桂を焚くものなり。試みに見よ、彼の貧民輩が常例として買う一銭二銭ずつの炭、薪、漬物のいかに高値なるよ、しかしてまた彼らの五合七合ずつなる米、割麦のいかに少量なるよ。十人二十人を賄う大庖厨の経済には平常、米、薪の特用買という事あれば、実際珠桂の如き材料も会計上薪炭の値段となるなり。これに反して貧民の庖所においては毎日の材料一銭的の小買を以て便ずるにあれば、尋常の薪炭も計算上においては実に珠玉の値となるを免かれず。銭稀なる貧窟の人、いかでこの珠玉を炊いで生活し得べけんや。残飯残菜は実にこの一銭的庖厨の惨状を救う慈悲の神とも言うべく、彼ら五人の家族にて飯二貫目、残菜二銭、漬物一銭、総計十四、五銭位にて一日の食料十分なるなり。もし強て一銭的材料を以てこれを充さんとせば、彼らは日に三十銭を費やさざるを得ず。是を以て残飯屋の繁昌は、常に最下層の生活談における、図画的光景の一に数えらるるにありき。
     (同書 41~45ページ)

 

 

 以上は、「七 残飯屋」の全文であるが、士官学校の残飯が貧民の食事を支えていた事実が示されている。残飯が貧民の(それも大日本帝國臣民の)生活を支える商品として流通していた事実、しかも商品として流通するに足る残飯の量に驚かされるが(明治20年代半ばの士官学校の食生活は倹約的ではなかった!?)、明治期の都市貧困層の最底辺と軍隊の残飯の結びつきは記憶しておくに値するだろう。

 

 

 

  貧民の群がいかに残飯を喜びしよ、しかして、これを運搬する予がいかに彼らに歓迎されしよ。予は常に彼らのこの歓迎に酬ゆべく、あらゆる手段を旋らして庖厨を捜し、なるべく多くを運びて彼らに分配せん事を務めたりき。しかれどもまた哀しかりき、或る朝そこに(士官学校の庖厨)運搬すべき残物の何もがあらざりし時に。しかれどもまた嬉しかりき、或夕そこに飯および菜を以て剰されたる新しき残物が、三輌の荷車に余るべく積まれし時に。しかして予は常もこれらの潤沢を表する時にこれを「豊年」と呼び、常もこれらの払底を表する時に予が「饑饉」と呼びて、食物について渇望したる彼らに向ッて前触をするにありき。
  或る朝、――それは三日間一磅の飯をも運ぶ事能わざりし事程左様に哀れなる飢饉の打続きし或朝――庖厨を捜して運ぶべく何物があらざりし時に予が大いなる失望を以て立ちし、いかに貧民の嘆きを見せしむるよ。しかれども予は空しく帰らざりし。予は些かの食物を争うべく賄方に向ッて嘆願を始めし。「今日に限ッては貧民を飢せしめざる部屋頭閣下、冀くば彼の麺包の屑にても」。しかる時に彼が言いし、「もし汝がさほどに乞うならば、そこに豕の食うべき餡殻に畠を肥やすべく適当なる馬鈴薯の屑が後刻に来るべく塵芥屋を待ちつつある」と。それは薯類を以て製せられたる餡のやや腐敗して酸味を帯びたるものと、洗いたる釜底の飯とおよび搾りたる味噌汁の滓にてありき。たとえこれが人に向ッて食すべき物にあらぬとはいえ、数日間の飢に向ッては、これが多少の饗応となるべく注意を以てそこにありし総てを運び去りし。
  かくして、予が帰りし時に飢たる人々は非常なる歓娯を以て迎えし。「飢饉」と予が一言前触れをせし時に彼らの顔色が皆失望に包まれし。「オオいかに、夥しき食物がそこにあるよ」と荷車を見て一人が叫びし時に店の主が探奇の眼を注ぎし。「飯ならば早く分配せよ、我々はただ菜のみにてもよし}と催促が始まりし時に、荷は解かれし、しかしてそこに陳べられし。人々は彼らが三日間の飢饉からそこにいかなる豊年の美食が湧きしかを疑うべく伺きし。腐れたる餡を名称べく予がそれを「キントン」と呼びし時に、店の主人がいかに効果なる珍菜であるかを聞糺せし、そうしてそれが一椀五厘にて売られし。味噌の糟がなお多く需用者をもちし。饐たる飯が売るべく足らざりし。
     (同書 46~48ページ)

 

 

 本来であれば豚のエサとなり、畠の肥やしとなるべき種類の残飯が、最底辺の貧民層には喜びをもって迎えられる現実があった。

 

 

 

 紀田順一郎氏は『東京の下層社会』の中で、以下のように問題を整理している。

 

 

  明治半ばごろの東京の地図を見ると、中央の広大な面積が皇居と諸官庁によって占められ、その周辺に市街地がへばりつくように、急速な膨張をとげつつあることがわかる。たまに広いスペースがあるかと思えば、陸軍省や海軍省の用地ときまっている。
  その地図の上で当時の三大スラム街といわれた地区を確認してみると、いずれも市域の周辺部で、まず北東に浅草万年町、ついで西方に四谷鮫ヶ橋、南方には芝新網町といったところが目につく。この場合、浅草は市中随一の繁華街である浅草寺界隈や上野駅に隣接していたので、車夫などの生活に便利だったことは想像し得るが、それでは四谷や芝はどのようなメリットがあったのだろうか。
  理由は簡単、鮫ヶ橋が陸軍士官学校の付近にあり、芝新網町が海軍兵学校に近接していたということだ。そこに”残飯”があったからだ。軍隊の残飯、すなわち鎮台飯は良質の上、好不況に無関係な安定的供給源だったので、軍隊から味噌汁の冷めない距離を保つことは、福祉なき時代の極貧階級にとって生存のための必要条件だったのである。帝国陸海軍の廃棄物によって、社会の底辺が支えられていたというのは皮肉というほかはないが、当時は軍隊側も残飯の処理に窮していたので、払下げに協力的だったという。
  ところが、日清戦争以後、産業構造の大きな変化によって細民の数が激増すると、とても軍隊だけでは追いつかなくなってきた。彼らは工場や大学など、残飯の新たな供給源を求めて奔走しなければならなくなる。残飯源の拡大と多様化が、即明治社会の発展にほかならないというのも、やはり皮肉というほかないであろう。
     (紀田順一郎 『東京の下層社会』 ちくま学芸文庫 2000 67~68ページ)
 

 

 

 

 フィリピンのスモーキー・マウンテンと呼ばれるスラム街の映像などを前にしても、どこか遠くの他人の話として理解してしまうのではなく、100年ちょっと前の日本の都市風景と重ね得る想像力を用意しておきたいと思う。

 スモーキー・マウンテンの貧困を通して100年前の大日本帝國臣民の最底辺が置かれていた状況を思い、明治期の大日本帝國臣民の貧困の実情を通してスモーキー・マウンテンの悲惨を他人事としてではなく理解する。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/12/28 16:13 → https://www.freeml.com/bl/316274/315474/

 

 

 

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2014年8月 8日 (金)

白骨でも黒焦でも、屍體でも (『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 昭和20年8月8日)

 

 

 ところで、俺はこの日新しく見たり感じたりしたことを、も少しお前に知らせたいのだ。災後三日目のこの日の焼跡の街は、人の動きがめつきり多くなつていた。いろいろの人たちがいたが、その一つは廣島以外の地から救援にきた人たちだね。勿論羅災した人で無きずや軽傷の人もまじつていたし、兵隊さんもいたけれど、その數の少なかつたことは前にも書いたろう。この人たちは羅災者への物資の配給や道路の整理、屍體の取片づけなどに働いていた。
 各町會の假事務所の立札なども、あちこちに見受けられたよ。そうした人々のはたらきで、路上の屍體は少しは少なくなつていたが、何しろ酷熱の晴天三日目だろう。屍體は腐敗して屍臭はますますはげしくなつていて、それを魚の山のように一ヶ所にまとめたところなどは、目もあてられぬような氣がしたよ。屍體にはところかまわずうじがわいているし、蠅の多いことは實にお話にならぬ有様だつたからね。
 そんなわけだから、屍體は片づけてもそのままにして置けない。それを焼跡の露天でつぎからつぎへと「合同火葬」するのだ。焼けなかつた近郊の小學校や病院や、その他の「救護所」でも、引取人のない死んだ人は、皆そのようにして焼いたのだ。幸にして家族や親戚の人などにさがしだされた屍體は、個人個人で焼いているのもたくさんあつたが、そうでない人の屍體の處理は、實際氣の毒だつたよ。しかし、この場合そうするよりほかに仕方がなかつたのだ。
 どこだつたかわすれたが、道路の四つ辻に、焼残りの柱や板を縄でしばつた縁日の植木屋の棚のようなものができていてね、それに種物屋の店頭のように小さな新聞紙の袋やおひねりが並べてあるのだ。そしてそれに住所氏名などが書いてある。遺骨なのだ。それも姓名のあるのはいい方で、「三十才位の男」「四十才の女」なんて札のついたのも少くなかつたよ。こんなのは最後まで引取人のないのが多かつたわけだが、中にはたずねあぐんだあげく、遭難場所を推定して、こうした遺骨を貰つて歸つた遺族が、俺の知つている中にも何人かある。ところによつては焼くのにも手がまわらず、まとめて埋めてしまつたのも少くなかつた。
 火事の餘燼は大分おさまつていたが、それにかわつて、到るところ屍を焼く煙が立ちはじめたのだから、焼野ヶ原がそのまま「鳥部野」に化したというわけだ。既に家の下敷きになつて、自然に火葬されてしまつた白骨を拾つている人もあるし、焼跡から掘り出した黒焦死體を二つならべて、「誰だろう」と評定しているようなところも見たよ。こうした状態はこの日ばかりでなく、その後も何日かつづいたね。
 だが、白骨でも黒焦でも、屍體でも、「生きた屍」でも、三日か四日で肉親の手に入ったのはまだまだ幸な方なのだ。それがどこにどうしているやらわからず、市内の焼跡ばかりでなく、近在近郷の村々や島々の救護所や心あたりを、喪神したようにつぎからつぎへとさがして歩く人々の群を、この日も随分多く見かけたが、こうした人々は、その後十日も二十日も一ヶ月も、いや二ヶ月、三ヶ月後にもそのあとを絶たなかつた。だから、お前のように無事に逃げおうせても、肉親にめぐりあわずに死んでいった人々も、随分多かつたのだ。
          小倉豊文 『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 中央社 昭和24年(初版は昭和23年) 157~160ページ

 

 

 

 

 広島への原爆投下から三日目、8月8日の話である。

 

 8月7日の夜、府中国民学校で妻の文子との再会を果たした小倉豊文は、その足で再び夜の広島市街の捜索に向かう。息子の恭二の姿を求めて。

 

 

 

 とにかく俺は、前日見た江波線の電車道路の「救護所」に行つて見た。そこには晝間見たと同じように「生きた屍」が行列していた。俺は懐中電灯をつけて、はしからはしまでゆつくり丁寧にしらべて行つた。しかし、恭二らしい姿はやつぱり見當らなかつた。
 俺は家の焼跡に行くのはやめて、己斐への道路を歩きはじめた。焼跡に行つても今更どうにもならないとわかつていたから、地御前の勝山まで行つてみようと決心したのである。
 ――萬一、田川の人たちといつしょに避難しているかも知れない。
     同書 138~39ページ

 

 

 そして、夜も明けた勝山で、恭二との再会を果たすのであった。

 

 

 

  何しろ酷熱の晴天三日目だろう。屍體は腐敗して屍臭はますますはげしくなつていて、それを魚の山のように一ヶ所にまとめたところなどは、目もあてられぬような氣がしたよ。屍體にはところかまわずうじがわいているし、蠅の多いことは實にお話にならぬ有様だつたからね。

 文章を読んでも臭いは伝わらないが、「屍體」の発する臭いであれ、焼跡の焼け焦げた臭いであれ、あるいは炎天下の人々の汗の臭いであれ、ここでは周囲に立ち込める臭いまで読み取らねば、状況を理解したことにはならないわけである。昭和20年8月8日の広島の状況を。

 

 

 翌日の8月9日には長崎にも原爆が投下され、長崎の人々もまた、

  だが、白骨でも黒焦でも、屍體でも、「生きた屍」でも、三日か四日で肉親の手に入ったのはまだまだ幸な方なのだ。それがどこにどうしているやらわからず、市内の焼跡ばかりでなく、近在近郷の村々や島々の救護所や心あたりを、喪神したようにつぎからつぎへとさがして歩く人々の群を、この日も随分多く見かけたが、こうした人々は、その後十日も二十日も一ヶ月も、いや二ヶ月、三ヶ月後にもそのあとを絶たなかつた。

…という日々の中を生き抜くことを強いられることになる。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/08/08 18:02 → http://www.freeml.com/bl/316274/206298/

 

 

 

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2014年8月 7日 (木)

シルウェット-體幹のうねりたしかに妻なり (『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 昭和20年8月7日) 

 

 

 少年工たちに入り口でまつていてもらつて、俺はひとりで講堂の中にはいつた。己斐でのそれと同じように、むせかえるような屍臭がたちこめていて、二、三本ところどころにともしたローソクのうす暗い光の下に、俺には既に見なれた「生きた屍」が並んでいた。己斐の學校よりは、その數が少なくまばらであつた。
 ジッと死んだように動かぬのもあるが、寝たり起きたりうごめいているのもあつた。幸いにうす暗いので一人一人の形相はわからなかつた。それだけに識別するのが困難だつた。俺はふみつけぬように足もとに気をつけながら、腰をかがめて一人一人の顔をのぞきこむようにして、入り口からの順々に見て行つた。なかなか見つからなかつた。最後の一人と思われる人までまわつて行つたが、見つからなかつた。
 俺が顔を近づけると、知らぬ顔に目をつむつている人もあるし、横を向いたまま見かえりもしない人もあつた。時々、うつろな目でうらめしそうに見かえされることがあつた。そのまなざしに胸をえぐられた。この人たちは、昨日から「晒し物」にされているような、こうした經験を何十度となく繰りかえしていたであろう。そして近づけられる顔に、自分の愛する肉親や知人の顔を、待ちわびていたのであろう。だが、その度に期待を裏ぎられ、希望をかきけされていたのであろう。
 かくてこの人たちには、一晝夜がすぎ、二晝夜目の夜も深くなろうとしていたのだ。どの人の枕もとにも、白い炊きだしのお結びが一つ二つころがつていた。だが、この人たちの渇望しているのは、肉體の飢えではなくて魂のかわきにちがいない。肉親の顔を、知人の愛を、求めつづけていたのであろう。しかも、その期待が、その希望が、にべもなく何十度打ち破られていたことか。知らぬ顔の「絶望」も、力ない「怨恨」も、かなしき必然であるといわなければなるまい。
 俺はその「絶望」と「怨恨」に、もう一度ふれるのはたまらない氣がした。しかし、お前が見つからないのだ。俺は今度は、奥の方から入口の方へ向かつて同じしぐさをくりかえした。だが、やつぱりお前は見当たらなかつた。三度目にはお前の名を低く呼びながら一まわりした。そして一番最後まで行つて引きかえしかけた時だつた。俺は足もとでつぶやくような聲をきいた。
 「その方は今さつきまで、ここにおられましたが…」
 目の前に、頭を繃帯して足を投げだした女の人が坐つていた。両脚も繃帯し、胸には子供を抱いている。そして、その隣が一人分ほど空いていて、筵の片隅にお結びが二つころがつている。俺が腰をかがめると、
 「大學の方でしよう?」
と顔をあげた。「そうです」というと、
 「今さつきまでここにおられたのですがね…」とくりかえした。俺はそれをきくなり、あいさつもせず外にとびだした。入口の少年工たちは、擔架を立てかけて地面に足を投げだしてしまつていた。
 「わかりませんか」
 「わからん」
 「あのへんじやないですか」
 年かさらしい少年がそういつて指す方を見ると、校庭の隅の方に、大地に並んだ屍らしいシルウェットが五つ六つ目にうつつた、背後の焚火に照らしだされて―。俺は「死んではいまい」と思つたが、恐る恐るその方に近づいて行つた。シルウェットが一つ一つだんだんハッキリしてくる。
 ――文子だ!
 そのシルウェットの中の一つを、とつさに俺はそう思つた。顔は見えない。だが、肩から腰にかけてうねる肉體の線は、まぎれもなくお前だ。俺は走りよつた。夜なのに蠅がプーンととびたつた。顔、手、足に白い繃帯がしてある。
     顔 手 足  繃帯に蠅が群れておれど 體幹のうねりたしかに妻なり
 これはあとでつくつたその時の俺の歌だ。
 「どうした、文子、俺だぞ」
 俺がそういつても、お前はしばらくなにもいわなかつたね。焚火のあかりで俺の顔は見えたろうのに――。俺は繃帯の間からのぞいているお前の目を、口を、そして鼻を、たしかに見た。だが放心したような目だつた。N君からの豫告で、俺のくるのはわかつていただろうに。何かすつかり絶望しきつているような顔つきだつたよ。のぞきこんだ俺の顔を、ジッとうつろなまなざしでみつめていて、やがてお前はしずかにいつた。
 「ピカッと、とても大きな稲妻が光つたと思つたの。それから、なんにもわからなくなつちやつたの。福屋の前で……」
 「福屋の前で?」
 瞬間、前の日に見た死屍累々たる福屋の前の路上が、電光のように頭の中を走つた。
     小倉豊文 『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 中央社 昭和24年(初版は昭和23年) 126~129ページ

 

 

 

 

 広島への原爆投下の翌日、8月7日の夜のエピソードである。

 

 妻の姿を探して二日目の夜、大学の学生(といっても直接の教え子ではない)から妻文子が府中國民學校に収容されているとの情報を得、ついに小倉豊文は妻を見つけ出した。

 

 それに先立つ、国民学校の講堂での、

  俺が顔を近づけると、知らぬ顔に目をつむつている人もあるし、横を向いたまま見かえりもしない人もあつた。時々、うつろな目でうらめしそうに見かえされることがあつた。そのまなざしに胸をえぐられた。この人たちは、昨日から「晒し物」にされているような、こうした經験を何十度となく繰りかえしていたであろう。そして近づけられる顔に、自分の愛する肉親や知人の顔を、待ちわびていたのであろう。だが、その度に期待を裏ぎられ、希望をかきけされていたのであろう。

…との記述に、身動きも叶わぬほどの深い傷を負いながらも「近づけられる顔に、自分の愛する肉親や知人の顔を、待ちわびていた」人々、そして「その度に期待を裏ぎられ、希望をかきけされ」たままに死んでいったであろう多くの人々の姿を、私は、見出す。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/08/07 23:01 → http://www.freeml.com/bl/316274/206257/

 

 

 

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2014年8月 6日 (水)

何でガンスカノー? (『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 昭和20年8月6日)

 

 

 その時、俺は耳もと近くにせきこむような人聲をきいた。
 「何でガンスカノー?」
 「どこでガンヒョウ?」
 振り向くと中背の六十歳近い男が二人、この近所のお百姓らしい。
 「西練兵場あたりじやないでしようか」
 「そのあたりでガンスノー」
 「やっぱり爆彈でガンヒョウカ」
 「イヤ……」
 俺はうかつなことはいえないと思つて言葉を切つた。お前も知つているようにあの頃の廣島の「流言蜚語」の取締は實にひどかつたからね。尤も、あれも仕方がなかつたかも知れないよ。俺が敗戰後にある軍の参謀から聴いたことだが、あの頃全國の主要都市がみんな片つぱしから爆撃されているのに、廣島がまぎれ彈を二三發見舞われただけで、大規模な爆撃を全然受けていなかつたのは、スパイが多數入り込んでいるからかも知れない、という解釋をしていたというのだからね。
 だが俺は、「何か新兵器ちゆうもんでガンヒョウカ」とたたみかけてきかれると「私は火藥庫の爆發じやないかと思うんですがね」と答えてしまつた。ところが、「やっぱり爆彈を落とされたんでガンヒョウカ」と追及された。俺は軍の過失による爆發と思いこんでいたのだ。だつて飛行機の一臺もこない爆撃なんてナンセンスだものね。そこで「飛行機の来ない爆撃なんてまだ日本にはないでしよう」と皮肉るつもりで答えたのだ。すると意外、二人共殆ど異口同音にきおいこんでいうのだ。
 「きましたぜ、こつちからあつちへ」
 やつぱり二人いつしよに東から西の方を指すのだ。
 「いつ?」
 「ホンさつき――B29でガンス」
     小倉豊文 『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 中央社 昭和24年(初版は昭和23年) 15~16ページ

 

 

 

 

 広島への「原爆」の投下直後の情景である。

 小倉豊文は、この時、爆心から東に4キロ以上離れた地点にいた。

 何が起きたのか、誰にもまだ本当のところは理解されていないのである。米軍による爆撃とは思わず、日本軍の火薬庫の爆発と考えていたことが記されている。

 

 その日一日をかけて市内を横切り(爆心地から500メートルほどの地点を通る―ただし爆心がどこかも知らないままに―想像力の限界を超えたような惨状の続く中を)、最終的に爆心から3キロ西方のかつての家主の住まいで夜を過ごす(家族の所在も安否もわからないままに)。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/08/06 23:41 → http://www.freeml.com/bl/316274/206218/

 

 

 

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2014年7月31日 (木)

高級國語時代の思想(原理主義者の描く「靖國」と浄土真宗的殲滅戦の論理)

 

 

 伊原吉之助先生の、

 

  略字・漢字制限・現代假名遣に飼馴(かひなら)されると戰前の書物も新聞も讀めません。
  戰前の書物が讀めぬやうな幼稚な日本人が、
  外國の知識人と對等に意思疏通できませうか?
     (「高級言語と低級言語」 伊原吉之助教授の読書室)
      http://jas21.com/athenaeum/athenaeum243.htm

 

…との問題提起に応え、あらためて「正字・歴史的假名遣」が実際に用いられていた時代(ここでは伊原先生に敬意を表して「高級國語時代」と呼ぶことにしよう)の書物を読んでみたい(「讀書によつて語彙(ごゐ)が殖え、知識が擴がり、考へる能力が育ちます」という伊原先生の言葉を実践してみようとの試みでもある)。

 

 

 

 

  一、 聖職奉公のための戦死は生命奉還である。畏こみて大君の辺にこそ死ぬるのである。死して忠霊なほ大君の辺にまつろひ、以て無限に皇運を扶翼し奉るのである。
  若しその霊を阿弥陀仏に托して西方十万億土に送り、釈迦仏に附して彼岸極楽に送りやる如きことあらば、忠死の根本否定であり、忠霊の致命的冒涜である。肉体の生命は至尊に捧げるが霊魂の生命は天津日嗣以外に捧げると言ふのでは忠節どころか、恐るべき国体叛逆の大罪である。この様な相対忠は絶対に否定されねばならぬ。これでは断じて「天皇陛下万歳」にはならぬ、即ち「天皇機関説」の極致にほかならない。
     影山正治 「陸軍葬再論」 (『忠霊神葬論』 大東塾出版部 昭和19年)

 

 

 これも前回同様、早川タダノリ氏の『神国日本のトンデモ決戦生活』(ちくま文庫 2014)に収録されているものだが(残念ながら、表記は「正字」ではなく「略字」であるが、「歴史的假名遣」に関しては原文に忠実だと思われる)、まさにここに、「高級國語時代」の靖國思想の「極致」が示されているのを「讀」むことが出来るはずである。

 

 早川氏は、「陸軍葬再論」に展開される主張を、

 

  「生命奉還」というフレーズには心底驚愕した。この一文が興味深いのは、影山先生が死後の霊魂の存在と極楽浄土の実在をマジで信じており、戦死した霊魂の行く先が気になって仕方がないところにある。〈英霊〉が極楽浄土ヘ行ってしまったら、大君に「生命奉還」できないじゃないかというわけだ。ひとたび〈英霊〉となったならば、「死して忠霊なほ大君の辺にまつろひ、以て無限に皇運を扶翼し奉」らなければならないというのは「忠霊公葬」論者に共通するイデオロギーで、「極楽行き禁止」なのであるから、死んでからも〈英霊〉は忙しくてたまらない。これでは皇国臣民はうかつに死ねないのである。
     早川 前掲書 270ページ

 

…と評しているが、原理主義的に靖國神社の意義を語れば、その「極致」には、影山先生の語るような形で〈英霊〉の姿が見出されることになる、というわけだ。

 

 靖國神社とは、思想的にはそのような存在なのであり、単なる戦死者の追悼施設ではないのである。

 〈英霊〉は社の奥に鎮まっているのではなく、

  死して忠霊なほ大君の辺にまつろひ、以て無限に皇運を扶翼し奉る

…ことを求められ続ける。これこそが「天皇機関説」に堕すことのない、「国体明徴論」的に正しい、靖國神社の本来的な〈英霊〉の姿なのである(「陸軍葬再論」ではそのように主張されているのだ)。

 

 

 

 

 さて、続いて、次なる「高級國語時代」の書物を「讀」むことにしよう。

 

 

  殺生戒といつて、人の生命をとるなかれといふ戒の如きは、直接今の問題になつてゐる戦争と関係があることになる。殺生戒を守つて、人の生命をとらぬとなれば、それは戦争ができないこととなり、国家の一員として非常に困惑することとなるであろう。
     佐々木憲徳 「仏教と戦争」 (『立信報国』 戦時布教文庫 興教書院 昭和12年9月刊)

 

 

 昭和12年の9月刊ということは、支那事変の「勃発」からまだ間もない時期の出版物である。「あの戦争」での宗教界による戦争協力の問題を語る際に、浄土真宗の果たした大きな役割は、いわば常識に属するものとさえ言えるのだが、ここで(真宗教団の一員としての)佐々木憲徳師は、「殺生戒を守つて、人の生命をとらぬとなれば、それは戦争ができないこととなり、国家の一員として非常に困惑することとなる」との言葉で、問題の所在を指摘している。「殺生戒」の存在が「事変完遂」の障害となることに「困惑」しているわけだ。

 「殺生戒」を優先させ、「殺生戒を守つて、人の生命をとらぬ」道を選択することこそが仏教徒としては当然であるはずなのだが、佐々木氏は仏教徒であることよりも「国家の一員」であることを優先させることを当然と考えてしまっているので、ここで「困惑」が生じるわけである。「極楽往生」がかかっているのだから、浄土真宗的には当然の話ではある。言うまでもなく、「殺生戒を守つて、人の生命をとらぬ」道を選択することこそが、浄土真宗的にも「当然の話」であるとは思われるのだが、当時(「高級國語時代」において)はそこで「困惑」することの方が、「当然の話」と考えられていたのであろう。

 

 この問題について、早川タダノリ氏は、あっさりと、

  別に困惑しなくても、お釈迦様の教えを守ればよいだけである。

…と指摘している(『神国日本のトンデモ決戦生活』 260ページ)。

 早川氏は続けて、

  佐々木は戦争を「折伏」であると言う。戦争とは常に正義と悪が争うものであり、正義が悪を折伏する過程なのだと考えねばならぬ……ということらしい。

…と、佐々木憲徳の論理を解説し、引用を続ける。

 

  戦争の如きことも、正義の戦争なるものは、実に折伏逆化の心術方法によりて行わるるわけで悪逆非道にして暴慢なる敵国に、膺懲の大鉄槌をあたへて反省自覚せしめ、以て正義の大道に復帰せしむる目的よりほかはない。

 

 佐々木憲徳はこのように「戦争」を位置付ける。「事変」における「敵国」は既に「悪逆非道にして暴慢」な存在として規定され、自らの「正義」は自明の前提とされているのである。その上で…

 

  ……勿論戦争には人が死ぬる、金がかかつて、不容易の大事ではあるが、しかし戦争をせなくては正義が世界からつぶれ、正道が埋没するのであるから、どうしても菩薩の願行よりしても、正義を守り正道を護るために、銃剣をとつて悪逆無道の魔軍を殲滅せねばならぬのである。

 

 このように、佐々木は語る。「正義」の名の下に、「殺生戒を守」ることなどは、二の次の問題にされてしまうのである。

 

  戦争をせなくては正義が世界からつぶれ、正道が埋没するのであるから、どうしても菩薩の願行よりしても、正義を守り正道を護るために、銃剣をとつて悪逆無道の魔軍を殲滅せなばならぬ

 

 佐々木の理路からすれば、「菩薩の願行よりしても、正義を守り正道を護るために、銃剣をとつて悪逆無道の魔軍を殲滅」することは極楽往生の障害になるはずがないことになる。

 

 

 

 しかし、国体明徴論的には、皇国臣民は極楽往生など望んではいけないのだ。影山正治先生は断言する。

 

  若しその霊を阿弥陀仏に托して西方十万億土に送り、釈迦仏に附して彼岸極楽に送りやる如きことあらば、忠死の根本否定であり、忠霊の致命的冒涜である。肉体の生命は至尊に捧げるが霊魂の生命は天津日嗣以外に捧げると言ふのでは忠節どころか、恐るべき国体叛逆の大罪である。

 

 

 影山先生によれば、佐々木憲徳師の説くのは「相対忠」に過ぎず、「恐るべき国体叛逆の大罪」を犯すものであり、「天皇機関説の極致」だというのである。

 「国体(國體)明徴論」的には、

  生きている間は戦死するまで滅私奉公
  戦死したら永遠に滅私奉公

…ということでなければならない。しかしこれでは「臣民」は奴隷である。私は皇恩の有難さは、その仁慈にこそあるのだと思っていたが、そのような考えもまた、影山先生からは「天皇機関説の極致」と指弾されそうである。

 

 

 

 さて、このような「讀書によつて語彙が殖え、知識が擴がり、考へる能力が育」ったでありましょうか?

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2014/02/18 21:53 → http://www.freeml.com/bl/316274/214742/
 投稿日時 : 2014/02/19 22:43 → http://www.freeml.com/bl/316274/214821/) 

 

 

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