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2014年8月 8日 (金)

白骨でも黒焦でも、屍體でも (『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 昭和20年8月8日)

 

 

 ところで、俺はこの日新しく見たり感じたりしたことを、も少しお前に知らせたいのだ。災後三日目のこの日の焼跡の街は、人の動きがめつきり多くなつていた。いろいろの人たちがいたが、その一つは廣島以外の地から救援にきた人たちだね。勿論羅災した人で無きずや軽傷の人もまじつていたし、兵隊さんもいたけれど、その數の少なかつたことは前にも書いたろう。この人たちは羅災者への物資の配給や道路の整理、屍體の取片づけなどに働いていた。
 各町會の假事務所の立札なども、あちこちに見受けられたよ。そうした人々のはたらきで、路上の屍體は少しは少なくなつていたが、何しろ酷熱の晴天三日目だろう。屍體は腐敗して屍臭はますますはげしくなつていて、それを魚の山のように一ヶ所にまとめたところなどは、目もあてられぬような氣がしたよ。屍體にはところかまわずうじがわいているし、蠅の多いことは實にお話にならぬ有様だつたからね。
 そんなわけだから、屍體は片づけてもそのままにして置けない。それを焼跡の露天でつぎからつぎへと「合同火葬」するのだ。焼けなかつた近郊の小學校や病院や、その他の「救護所」でも、引取人のない死んだ人は、皆そのようにして焼いたのだ。幸にして家族や親戚の人などにさがしだされた屍體は、個人個人で焼いているのもたくさんあつたが、そうでない人の屍體の處理は、實際氣の毒だつたよ。しかし、この場合そうするよりほかに仕方がなかつたのだ。
 どこだつたかわすれたが、道路の四つ辻に、焼残りの柱や板を縄でしばつた縁日の植木屋の棚のようなものができていてね、それに種物屋の店頭のように小さな新聞紙の袋やおひねりが並べてあるのだ。そしてそれに住所氏名などが書いてある。遺骨なのだ。それも姓名のあるのはいい方で、「三十才位の男」「四十才の女」なんて札のついたのも少くなかつたよ。こんなのは最後まで引取人のないのが多かつたわけだが、中にはたずねあぐんだあげく、遭難場所を推定して、こうした遺骨を貰つて歸つた遺族が、俺の知つている中にも何人かある。ところによつては焼くのにも手がまわらず、まとめて埋めてしまつたのも少くなかつた。
 火事の餘燼は大分おさまつていたが、それにかわつて、到るところ屍を焼く煙が立ちはじめたのだから、焼野ヶ原がそのまま「鳥部野」に化したというわけだ。既に家の下敷きになつて、自然に火葬されてしまつた白骨を拾つている人もあるし、焼跡から掘り出した黒焦死體を二つならべて、「誰だろう」と評定しているようなところも見たよ。こうした状態はこの日ばかりでなく、その後も何日かつづいたね。
 だが、白骨でも黒焦でも、屍體でも、「生きた屍」でも、三日か四日で肉親の手に入ったのはまだまだ幸な方なのだ。それがどこにどうしているやらわからず、市内の焼跡ばかりでなく、近在近郷の村々や島々の救護所や心あたりを、喪神したようにつぎからつぎへとさがして歩く人々の群を、この日も随分多く見かけたが、こうした人々は、その後十日も二十日も一ヶ月も、いや二ヶ月、三ヶ月後にもそのあとを絶たなかつた。だから、お前のように無事に逃げおうせても、肉親にめぐりあわずに死んでいった人々も、随分多かつたのだ。
          小倉豊文 『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 中央社 昭和24年(初版は昭和23年) 157~160ページ

 

 

 

 

 広島への原爆投下から三日目、8月8日の話である。

 

 8月7日の夜、府中国民学校で妻の文子との再会を果たした小倉豊文は、その足で再び夜の広島市街の捜索に向かう。息子の恭二の姿を求めて。

 

 

 

 とにかく俺は、前日見た江波線の電車道路の「救護所」に行つて見た。そこには晝間見たと同じように「生きた屍」が行列していた。俺は懐中電灯をつけて、はしからはしまでゆつくり丁寧にしらべて行つた。しかし、恭二らしい姿はやつぱり見當らなかつた。
 俺は家の焼跡に行くのはやめて、己斐への道路を歩きはじめた。焼跡に行つても今更どうにもならないとわかつていたから、地御前の勝山まで行つてみようと決心したのである。
 ――萬一、田川の人たちといつしょに避難しているかも知れない。
     同書 138~39ページ

 

 

 そして、夜も明けた勝山で、恭二との再会を果たすのであった。

 

 

 

  何しろ酷熱の晴天三日目だろう。屍體は腐敗して屍臭はますますはげしくなつていて、それを魚の山のように一ヶ所にまとめたところなどは、目もあてられぬような氣がしたよ。屍體にはところかまわずうじがわいているし、蠅の多いことは實にお話にならぬ有様だつたからね。

 文章を読んでも臭いは伝わらないが、「屍體」の発する臭いであれ、焼跡の焼け焦げた臭いであれ、あるいは炎天下の人々の汗の臭いであれ、ここでは周囲に立ち込める臭いまで読み取らねば、状況を理解したことにはならないわけである。昭和20年8月8日の広島の状況を。

 

 

 翌日の8月9日には長崎にも原爆が投下され、長崎の人々もまた、

  だが、白骨でも黒焦でも、屍體でも、「生きた屍」でも、三日か四日で肉親の手に入ったのはまだまだ幸な方なのだ。それがどこにどうしているやらわからず、市内の焼跡ばかりでなく、近在近郷の村々や島々の救護所や心あたりを、喪神したようにつぎからつぎへとさがして歩く人々の群を、この日も随分多く見かけたが、こうした人々は、その後十日も二十日も一ヶ月も、いや二ヶ月、三ヶ月後にもそのあとを絶たなかつた。

…という日々の中を生き抜くことを強いられることになる。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/08/08 18:02 → http://www.freeml.com/bl/316274/206298/

 

 

 

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2014年8月 7日 (木)

シルウェット-體幹のうねりたしかに妻なり (『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 昭和20年8月7日) 

 

 

 少年工たちに入り口でまつていてもらつて、俺はひとりで講堂の中にはいつた。己斐でのそれと同じように、むせかえるような屍臭がたちこめていて、二、三本ところどころにともしたローソクのうす暗い光の下に、俺には既に見なれた「生きた屍」が並んでいた。己斐の學校よりは、その數が少なくまばらであつた。
 ジッと死んだように動かぬのもあるが、寝たり起きたりうごめいているのもあつた。幸いにうす暗いので一人一人の形相はわからなかつた。それだけに識別するのが困難だつた。俺はふみつけぬように足もとに気をつけながら、腰をかがめて一人一人の顔をのぞきこむようにして、入り口からの順々に見て行つた。なかなか見つからなかつた。最後の一人と思われる人までまわつて行つたが、見つからなかつた。
 俺が顔を近づけると、知らぬ顔に目をつむつている人もあるし、横を向いたまま見かえりもしない人もあつた。時々、うつろな目でうらめしそうに見かえされることがあつた。そのまなざしに胸をえぐられた。この人たちは、昨日から「晒し物」にされているような、こうした經験を何十度となく繰りかえしていたであろう。そして近づけられる顔に、自分の愛する肉親や知人の顔を、待ちわびていたのであろう。だが、その度に期待を裏ぎられ、希望をかきけされていたのであろう。
 かくてこの人たちには、一晝夜がすぎ、二晝夜目の夜も深くなろうとしていたのだ。どの人の枕もとにも、白い炊きだしのお結びが一つ二つころがつていた。だが、この人たちの渇望しているのは、肉體の飢えではなくて魂のかわきにちがいない。肉親の顔を、知人の愛を、求めつづけていたのであろう。しかも、その期待が、その希望が、にべもなく何十度打ち破られていたことか。知らぬ顔の「絶望」も、力ない「怨恨」も、かなしき必然であるといわなければなるまい。
 俺はその「絶望」と「怨恨」に、もう一度ふれるのはたまらない氣がした。しかし、お前が見つからないのだ。俺は今度は、奥の方から入口の方へ向かつて同じしぐさをくりかえした。だが、やつぱりお前は見当たらなかつた。三度目にはお前の名を低く呼びながら一まわりした。そして一番最後まで行つて引きかえしかけた時だつた。俺は足もとでつぶやくような聲をきいた。
 「その方は今さつきまで、ここにおられましたが…」
 目の前に、頭を繃帯して足を投げだした女の人が坐つていた。両脚も繃帯し、胸には子供を抱いている。そして、その隣が一人分ほど空いていて、筵の片隅にお結びが二つころがつている。俺が腰をかがめると、
 「大學の方でしよう?」
と顔をあげた。「そうです」というと、
 「今さつきまでここにおられたのですがね…」とくりかえした。俺はそれをきくなり、あいさつもせず外にとびだした。入口の少年工たちは、擔架を立てかけて地面に足を投げだしてしまつていた。
 「わかりませんか」
 「わからん」
 「あのへんじやないですか」
 年かさらしい少年がそういつて指す方を見ると、校庭の隅の方に、大地に並んだ屍らしいシルウェットが五つ六つ目にうつつた、背後の焚火に照らしだされて―。俺は「死んではいまい」と思つたが、恐る恐るその方に近づいて行つた。シルウェットが一つ一つだんだんハッキリしてくる。
 ――文子だ!
 そのシルウェットの中の一つを、とつさに俺はそう思つた。顔は見えない。だが、肩から腰にかけてうねる肉體の線は、まぎれもなくお前だ。俺は走りよつた。夜なのに蠅がプーンととびたつた。顔、手、足に白い繃帯がしてある。
     顔 手 足  繃帯に蠅が群れておれど 體幹のうねりたしかに妻なり
 これはあとでつくつたその時の俺の歌だ。
 「どうした、文子、俺だぞ」
 俺がそういつても、お前はしばらくなにもいわなかつたね。焚火のあかりで俺の顔は見えたろうのに――。俺は繃帯の間からのぞいているお前の目を、口を、そして鼻を、たしかに見た。だが放心したような目だつた。N君からの豫告で、俺のくるのはわかつていただろうに。何かすつかり絶望しきつているような顔つきだつたよ。のぞきこんだ俺の顔を、ジッとうつろなまなざしでみつめていて、やがてお前はしずかにいつた。
 「ピカッと、とても大きな稲妻が光つたと思つたの。それから、なんにもわからなくなつちやつたの。福屋の前で……」
 「福屋の前で?」
 瞬間、前の日に見た死屍累々たる福屋の前の路上が、電光のように頭の中を走つた。
     小倉豊文 『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 中央社 昭和24年(初版は昭和23年) 126~129ページ

 

 

 

 

 広島への原爆投下の翌日、8月7日の夜のエピソードである。

 

 妻の姿を探して二日目の夜、大学の学生(といっても直接の教え子ではない)から妻文子が府中國民學校に収容されているとの情報を得、ついに小倉豊文は妻を見つけ出した。

 

 それに先立つ、国民学校の講堂での、

  俺が顔を近づけると、知らぬ顔に目をつむつている人もあるし、横を向いたまま見かえりもしない人もあつた。時々、うつろな目でうらめしそうに見かえされることがあつた。そのまなざしに胸をえぐられた。この人たちは、昨日から「晒し物」にされているような、こうした經験を何十度となく繰りかえしていたであろう。そして近づけられる顔に、自分の愛する肉親や知人の顔を、待ちわびていたのであろう。だが、その度に期待を裏ぎられ、希望をかきけされていたのであろう。

…との記述に、身動きも叶わぬほどの深い傷を負いながらも「近づけられる顔に、自分の愛する肉親や知人の顔を、待ちわびていた」人々、そして「その度に期待を裏ぎられ、希望をかきけされ」たままに死んでいったであろう多くの人々の姿を、私は、見出す。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/08/07 23:01 → http://www.freeml.com/bl/316274/206257/

 

 

 

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2014年8月 6日 (水)

何でガンスカノー? (『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 昭和20年8月6日)

 

 

 その時、俺は耳もと近くにせきこむような人聲をきいた。
 「何でガンスカノー?」
 「どこでガンヒョウ?」
 振り向くと中背の六十歳近い男が二人、この近所のお百姓らしい。
 「西練兵場あたりじやないでしようか」
 「そのあたりでガンスノー」
 「やっぱり爆彈でガンヒョウカ」
 「イヤ……」
 俺はうかつなことはいえないと思つて言葉を切つた。お前も知つているようにあの頃の廣島の「流言蜚語」の取締は實にひどかつたからね。尤も、あれも仕方がなかつたかも知れないよ。俺が敗戰後にある軍の参謀から聴いたことだが、あの頃全國の主要都市がみんな片つぱしから爆撃されているのに、廣島がまぎれ彈を二三發見舞われただけで、大規模な爆撃を全然受けていなかつたのは、スパイが多數入り込んでいるからかも知れない、という解釋をしていたというのだからね。
 だが俺は、「何か新兵器ちゆうもんでガンヒョウカ」とたたみかけてきかれると「私は火藥庫の爆發じやないかと思うんですがね」と答えてしまつた。ところが、「やっぱり爆彈を落とされたんでガンヒョウカ」と追及された。俺は軍の過失による爆發と思いこんでいたのだ。だつて飛行機の一臺もこない爆撃なんてナンセンスだものね。そこで「飛行機の来ない爆撃なんてまだ日本にはないでしよう」と皮肉るつもりで答えたのだ。すると意外、二人共殆ど異口同音にきおいこんでいうのだ。
 「きましたぜ、こつちからあつちへ」
 やつぱり二人いつしよに東から西の方を指すのだ。
 「いつ?」
 「ホンさつき――B29でガンス」
     小倉豊文 『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 中央社 昭和24年(初版は昭和23年) 15~16ページ

 

 

 

 

 広島への「原爆」の投下直後の情景である。

 小倉豊文は、この時、爆心から東に4キロ以上離れた地点にいた。

 何が起きたのか、誰にもまだ本当のところは理解されていないのである。米軍による爆撃とは思わず、日本軍の火薬庫の爆発と考えていたことが記されている。

 

 その日一日をかけて市内を横切り(爆心地から500メートルほどの地点を通る―ただし爆心がどこかも知らないままに―想像力の限界を超えたような惨状の続く中を)、最終的に爆心から3キロ西方のかつての家主の住まいで夜を過ごす(家族の所在も安否もわからないままに)。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/08/06 23:41 → http://www.freeml.com/bl/316274/206218/

 

 

 

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2014年7月31日 (木)

高級國語時代の思想(原理主義者の描く「靖國」と浄土真宗的殲滅戦の論理)

 

 

 伊原吉之助先生の、

 

  略字・漢字制限・現代假名遣に飼馴(かひなら)されると戰前の書物も新聞も讀めません。
  戰前の書物が讀めぬやうな幼稚な日本人が、
  外國の知識人と對等に意思疏通できませうか?
     (「高級言語と低級言語」 伊原吉之助教授の読書室)
      http://jas21.com/athenaeum/athenaeum243.htm

 

…との問題提起に応え、あらためて「正字・歴史的假名遣」が実際に用いられていた時代(ここでは伊原先生に敬意を表して「高級國語時代」と呼ぶことにしよう)の書物を読んでみたい(「讀書によつて語彙(ごゐ)が殖え、知識が擴がり、考へる能力が育ちます」という伊原先生の言葉を実践してみようとの試みでもある)。

 

 

 

 

  一、 聖職奉公のための戦死は生命奉還である。畏こみて大君の辺にこそ死ぬるのである。死して忠霊なほ大君の辺にまつろひ、以て無限に皇運を扶翼し奉るのである。
  若しその霊を阿弥陀仏に托して西方十万億土に送り、釈迦仏に附して彼岸極楽に送りやる如きことあらば、忠死の根本否定であり、忠霊の致命的冒涜である。肉体の生命は至尊に捧げるが霊魂の生命は天津日嗣以外に捧げると言ふのでは忠節どころか、恐るべき国体叛逆の大罪である。この様な相対忠は絶対に否定されねばならぬ。これでは断じて「天皇陛下万歳」にはならぬ、即ち「天皇機関説」の極致にほかならない。
     影山正治 「陸軍葬再論」 (『忠霊神葬論』 大東塾出版部 昭和19年)

 

 

 これも前回同様、早川タダノリ氏の『神国日本のトンデモ決戦生活』(ちくま文庫 2014)に収録されているものだが(残念ながら、表記は「正字」ではなく「略字」であるが、「歴史的假名遣」に関しては原文に忠実だと思われる)、まさにここに、「高級國語時代」の靖國思想の「極致」が示されているのを「讀」むことが出来るはずである。

 

 早川氏は、「陸軍葬再論」に展開される主張を、

 

  「生命奉還」というフレーズには心底驚愕した。この一文が興味深いのは、影山先生が死後の霊魂の存在と極楽浄土の実在をマジで信じており、戦死した霊魂の行く先が気になって仕方がないところにある。〈英霊〉が極楽浄土ヘ行ってしまったら、大君に「生命奉還」できないじゃないかというわけだ。ひとたび〈英霊〉となったならば、「死して忠霊なほ大君の辺にまつろひ、以て無限に皇運を扶翼し奉」らなければならないというのは「忠霊公葬」論者に共通するイデオロギーで、「極楽行き禁止」なのであるから、死んでからも〈英霊〉は忙しくてたまらない。これでは皇国臣民はうかつに死ねないのである。
     早川 前掲書 270ページ

 

…と評しているが、原理主義的に靖國神社の意義を語れば、その「極致」には、影山先生の語るような形で〈英霊〉の姿が見出されることになる、というわけだ。

 

 靖國神社とは、思想的にはそのような存在なのであり、単なる戦死者の追悼施設ではないのである。

 〈英霊〉は社の奥に鎮まっているのではなく、

  死して忠霊なほ大君の辺にまつろひ、以て無限に皇運を扶翼し奉る

…ことを求められ続ける。これこそが「天皇機関説」に堕すことのない、「国体明徴論」的に正しい、靖國神社の本来的な〈英霊〉の姿なのである(「陸軍葬再論」ではそのように主張されているのだ)。

 

 

 

 

 さて、続いて、次なる「高級國語時代」の書物を「讀」むことにしよう。

 

 

  殺生戒といつて、人の生命をとるなかれといふ戒の如きは、直接今の問題になつてゐる戦争と関係があることになる。殺生戒を守つて、人の生命をとらぬとなれば、それは戦争ができないこととなり、国家の一員として非常に困惑することとなるであろう。
     佐々木憲徳 「仏教と戦争」 (『立信報国』 戦時布教文庫 興教書院 昭和12年9月刊)

 

 

 昭和12年の9月刊ということは、支那事変の「勃発」からまだ間もない時期の出版物である。「あの戦争」での宗教界による戦争協力の問題を語る際に、浄土真宗の果たした大きな役割は、いわば常識に属するものとさえ言えるのだが、ここで(真宗教団の一員としての)佐々木憲徳師は、「殺生戒を守つて、人の生命をとらぬとなれば、それは戦争ができないこととなり、国家の一員として非常に困惑することとなる」との言葉で、問題の所在を指摘している。「殺生戒」の存在が「事変完遂」の障害となることに「困惑」しているわけだ。

 「殺生戒」を優先させ、「殺生戒を守つて、人の生命をとらぬ」道を選択することこそが仏教徒としては当然であるはずなのだが、佐々木氏は仏教徒であることよりも「国家の一員」であることを優先させることを当然と考えてしまっているので、ここで「困惑」が生じるわけである。「極楽往生」がかかっているのだから、浄土真宗的には当然の話ではある。言うまでもなく、「殺生戒を守つて、人の生命をとらぬ」道を選択することこそが、浄土真宗的にも「当然の話」であるとは思われるのだが、当時(「高級國語時代」において)はそこで「困惑」することの方が、「当然の話」と考えられていたのであろう。

 

 この問題について、早川タダノリ氏は、あっさりと、

  別に困惑しなくても、お釈迦様の教えを守ればよいだけである。

…と指摘している(『神国日本のトンデモ決戦生活』 260ページ)。

 早川氏は続けて、

  佐々木は戦争を「折伏」であると言う。戦争とは常に正義と悪が争うものであり、正義が悪を折伏する過程なのだと考えねばならぬ……ということらしい。

…と、佐々木憲徳の論理を解説し、引用を続ける。

 

  戦争の如きことも、正義の戦争なるものは、実に折伏逆化の心術方法によりて行わるるわけで悪逆非道にして暴慢なる敵国に、膺懲の大鉄槌をあたへて反省自覚せしめ、以て正義の大道に復帰せしむる目的よりほかはない。

 

 佐々木憲徳はこのように「戦争」を位置付ける。「事変」における「敵国」は既に「悪逆非道にして暴慢」な存在として規定され、自らの「正義」は自明の前提とされているのである。その上で…

 

  ……勿論戦争には人が死ぬる、金がかかつて、不容易の大事ではあるが、しかし戦争をせなくては正義が世界からつぶれ、正道が埋没するのであるから、どうしても菩薩の願行よりしても、正義を守り正道を護るために、銃剣をとつて悪逆無道の魔軍を殲滅せねばならぬのである。

 

 このように、佐々木は語る。「正義」の名の下に、「殺生戒を守」ることなどは、二の次の問題にされてしまうのである。

 

  戦争をせなくては正義が世界からつぶれ、正道が埋没するのであるから、どうしても菩薩の願行よりしても、正義を守り正道を護るために、銃剣をとつて悪逆無道の魔軍を殲滅せなばならぬ

 

 佐々木の理路からすれば、「菩薩の願行よりしても、正義を守り正道を護るために、銃剣をとつて悪逆無道の魔軍を殲滅」することは極楽往生の障害になるはずがないことになる。

 

 

 

 しかし、国体明徴論的には、皇国臣民は極楽往生など望んではいけないのだ。影山正治先生は断言する。

 

  若しその霊を阿弥陀仏に托して西方十万億土に送り、釈迦仏に附して彼岸極楽に送りやる如きことあらば、忠死の根本否定であり、忠霊の致命的冒涜である。肉体の生命は至尊に捧げるが霊魂の生命は天津日嗣以外に捧げると言ふのでは忠節どころか、恐るべき国体叛逆の大罪である。

 

 

 影山先生によれば、佐々木憲徳師の説くのは「相対忠」に過ぎず、「恐るべき国体叛逆の大罪」を犯すものであり、「天皇機関説の極致」だというのである。

 「国体(國體)明徴論」的には、

  生きている間は戦死するまで滅私奉公
  戦死したら永遠に滅私奉公

…ということでなければならない。しかしこれでは「臣民」は奴隷である。私は皇恩の有難さは、その仁慈にこそあるのだと思っていたが、そのような考えもまた、影山先生からは「天皇機関説の極致」と指弾されそうである。

 

 

 

 さて、このような「讀書によつて語彙が殖え、知識が擴がり、考へる能力が育」ったでありましょうか?

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2014/02/18 21:53 → http://www.freeml.com/bl/316274/214742/
 投稿日時 : 2014/02/19 22:43 → http://www.freeml.com/bl/316274/214821/) 

 

 

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2014年5月24日 (土)

昭和21年5月23日

 

 本日は木村久夫の命日になる。昭和21年5月23日、木村久夫は「戦犯」として処刑された。

 

 

 

 有田芳生氏の「木村久夫遺書全文を公開する」から、田辺元の『哲学通論』の欄外に書き込まれた、いわゆる木村久夫の「遺書」の末尾近くの文章を、あらためて読んでおきたいと思う。

 

 

 

 

 天皇崇拝の熱の最も厚かったのは軍人さんだそうである。然し、一枚の紙を裏返へせば、天皇の名を最も乱用、悪用した者は即ち軍人様なのであって、古今之に勝る例は見ない。所謂「天皇の命」と彼等の言ふのは即ち「軍閥」の命と言ふのと実質的には何等変らなかったのである。只此の命に従はざる者の罪する時にのみ天皇の権力と言ふものが用ひられたのである。若し之を聞いて怒る軍人あるとするならば、終戦の前と後に於ける彼等の態度を正直に反省せよ。私が戦も終った今日に至って絞首台の露と消ゆる事を、私の父母は、私の運の不幸を嘆くであろう。然し、私としては神が斯くも良く私を此処迄で御加護して下さった事を、感謝しているのである。之で最後だと自ら断念した事が幾多の戦闘の中に幾度びもあった。それでも私は擦傷一つ負はずして今日迄生き長らへ得たのである。全く今日迄の私は幸福であったと言わねばならない。私に今の自分の不運を嘆くよりも、過去に於ける神の厚き御加護を感謝して死んで行き度いと考えている。父母よ嘆くな、私が今日迄生き得たと言う事が幸福だったと考えてくれ。私もそう信じて死んで行き度い。

 今計らずもつまらないニュースを聞いた。戦争犯罪者に対する適用条項が削減されて我々に相当な減刑があるだろうと言ふのである。数日前、番兵から此の度び新に規則が変って、命令でやった兵隊の行動には何等罪はないことになったとのニュースを聞いたのと考え合わせて、何か淡い希望の様なものが湧き上った。然し之等のことは結果から見れば死に到る迄での果無い波にすぎないと思はれるのである。

 私が特に之を書いたのは、人間が愈々死に到るまでには、色々の精神的変化を自ら惹起して行くものなることを表はさんがためである。人間と云う物は死を覚悟し乍らも、絶えず生への吸着から離れ切れないものである。

 アンダマン海軍部隊の主計長をしている主計少佐内田実氏は実に立派な人である。氏は年令三十そこそこであり、東京商大を出た秀才である。何某将軍、司令官と言はれる人でさえ人間的には氏に遥か及ばない。其の他軍人と称される者が此の一、商大出の主計官に遥か及ばないのは何たる皮肉か。稀を無理に好む理由(わけ)ではないが、日本の全体が案外之を大きくしたものにすぎなかったのではないかと疑わざるを得ないのである。矢張り書き読み、自ら苦しみ、自ら思索して来た者には、然からざる者とは何処か言ふに言われぬ相異点のあるものだと痛感せしめられた。高位高官の人々も其の官位の取り去られた今日に於ては、少しでもの快楽を少しでも多量に享受せんと見栄も外聞も考慮出来ない現実をまざまざ見せ付けられた。

 今時に於ては全く取り返しのつかない皮肉さえ痛感するのである。精神的であり、亦、たる可きと高唱して来た人々の如何に其の人格の賎しき事を我々日本のために暗涙禁ず能はず。明日は死すやもしれない今の我が身であるが、此の本は興味盡きないものがある。三回目の読書に取り掛る。死の直前とは言ひ乍ら、此の本は言葉では表し得ない楽しさと、静かではあるが真理への情熱を与へてくれる。何だか私の本性を再び、凡ての感情を超越して、振り帰らしてくれるものがあった。家庭問題をめぐって随分な御厄介を掛けた一津屋の御祖母様の苦労、幼な心にも私には強く刻み付けられていた。私が一人前となれば、先ず第一に其の御恩返しは是非せねばならないと私は常々一つの希望として深く心に抱いていた。然し、今や其の御祖母様よりも早く立って行く。此の大きな念願の一つを果し得ないのは、私の心残りの大きなものの一つだ。此の私の意思は妹の孝子に依り是非実現されんことを希ふ。今まで口には出さなかったが、此の期に及んで特に一筆する次第である。

 私の仏前、及び墓前には、従来仏花よりも、ダリヤ、チューリップなどの華かな洋花も供えてくれ。之は私の心を象徴するものであり、死後は殊に華かに、明るくやって行きたい。美味しい洋菓子をどっさり供えてくれ。私の頭腦(とうのう)にある仏壇は余りにも静かすぎた。私の仏前はもっと明るい華かなものであり度い。仏道に反するかも知れないが仏たる私の願う事だ。

 そして私の個人の希望としては、私の死んだ日よりはむしろ、私の誕生日である四月九日を仏前で祝ってくれ。私はあくまで死んだ日を忘れていたい。我々の記憶に残るものは唯私の生れた日丈であって欲しい。私の一生に於て楽しく記念さる可き日は、入営以後は一日も無い筈だ。私の一生の中最も記念さる可きは昭和十四年八月だ。それは私が四国の面河の渓で始めて社会科学の書をひもどいた時であり又同時に真に学問と云ふものの厳粛さを感得し、一つの自覚した人間として、出発した時であって、私の感激ある人生は唯其の時から始まったのである。

 此の本を父母に渡す様お願いした人は上田大佐である。氏はカーニコバルの民政部長であって私が二年に渉って厄介になった人である。他の凡ての将校が兵隊など全く奴隷の如く扱って顧みないのであるが、上田氏は全く私に親切であり、私の人格も充分尊重された。私は氏より一言のお叱も受けた事はない。私は氏より兵隊としてではなく、一人の学生として扱われた。若し私が氏に巡り会ふ事がなければ、私のニコバルに於ての生活はもっとみじめなものであり、私は他の兵隊が毎日やらせられた様な重労働により恐らく、病気で死んでいたであろうと思はれる。私は氏のお陰に依りニコバルに於ては将校すらも及ばない優遇を受けたのである。之全く氏のお陰で、氏以外の誰ものもの為めではない。之は父母も感謝されて良い。そして法廷に於ける氏の態度も立派であった。
(木村久夫による、田辺元『哲学通論』昭和八年版の113~141ページ欄外への書き込み)
     有田芳生「木村久夫遺書全文を公開する」より
 → http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2014/04/post_0142.html

 

 

 

 (引用部の冒頭にも記されているような)皇軍の現実を皇軍の一員として味わった木村久夫が、28年の人生の最後に書き残した言葉である。

 

 全体の冒頭(『哲学通論』の扉と1ページ目)には、この「遺書」の書かれた状況が記されている。

 

 

  死の数日前偶然に此の書を手に入れた。死ぬ迄にもう一度之を読んで死に赴こうと考えた。四年前私の書斎で一読した時の事を思い出し乍ら。コンクリートの寝台の上で遥かな古郷、我が来し方を想ひ乍ら、死の影を浴び乍ら、数日後には断頭台の露と消ゆる身ではあるが、私の熱情は矢張り学の途にあった事を最後にもう一度想ひ出すのである。

  此の書に向っていると何処からともなく湧き出づる楽しさがある。明日は絞首台の露と消ゆるやも知れない身であり乍ら、盡きざる興味にひきつけられて、本書の三回目の読書に取り掛る。昭和二十一年四月二十二日

 

 

 「三回目の読書」と共に書き込まれたであろう木村久夫の言葉の中に、木村自身が味わった皇軍の現実(そして日本社会の現実)に対する幻滅(そして怒り、そして若干の希望)が記されているのを読むことは難しいことではない。たとえば…

 

 

  我々罪人を看視しているのはもと我軍に俘虜たりしオランダ軍兵士である。曾て日本兵士より大変なひどい目に遭はされたとかで我々に対するしっぺ返しは大変なものである。撲る蹴るは最もやさしい部類である。然し吾々日本人も之以上の事をやっていたのを思えば文句は出ない。
  更って文句をブツブツ言ふ者に陸軍の将校の多いのは曾ての自己を棚に上げた者で、我々日本人にさえも尤もだと言ふ気は起らない。一度も俘虜を使った事のない、又一度もひどい行為をした事のない私が斯様な所で一様に扱われるのは全く残念ではあるが、然し向こふ側よりすれば私も他も同じ日本人である。区別してくれと言ふ方が無理かも知れぬ。
  然し天運なのか、私は一度も撲れた事も蹴られた事もない。大変皆々から好かれている。我々の食事は朝米紛の糊と夕方に「カユ」を食ふ二食で一日中腹ペコペコで、やっと歩ける位の勢力しかないのである。然し私は大変好かれているのか、監視の兵隊がとても親切で夜分こっそりとパン、ビスケット、煙草などを持ってきてくれ、昨夜などはサイダーを一本持って来てくれた。私は全く涙が出た。モノに対してよりも親切に対してである。
  其の中の一人の兵隊が或は進駐軍として日本へ行くかも知れぬと言ふので、今日私は私の手紙を添へて私の住所を知らせた。可能性は薄いが、此の兵隊が私の謂はば無実の罪に非常に同情し、親切にしてくれるのである。大極的には徹底的な反日の彼等も、斯の個々に接して居る内には斯様に親切な者も出てくるのである。矢張り人間だ。
  此の兵士は戦前はジャワの中学校の先生で、我軍に俘虜となっていたのであるが、其の間、日本の兵士より撲る、焼くの虐待を受けた様子を詳しく語り、其の人には何故日本兵士には撲る蹴るなどの事があれ程平気で出来るのか全く理解出来ないと言っていた。私は日本人全般の社会教育、人道教育が低く、且 社会的試練を充分に受けていないから斯くある旨をよく説明して置いた。又彼には日本婦人の社会的地位の低いことが大変な理解出来ぬ事であるらしい つまらぬ之等の兵士からでも、全く不合理と思へる事が日本では平然と何の反省もなく行われている事を幾多指摘されるのは全く日本に取って不名誉な事である。彼等が我々より進んでいるとは決して言わないが、真赤な不合理が平然と横行するまま許してきたのは何と言っても我々の赤面せざる可からざる所である。単なる撲ると言ふ事から丈でも、我々日本人の文化的水準が低いとせざる可からざる諸々の面が思ひ出され、又指摘されるのである。殊に軍人社会、及び其の行動が其の表向きの大言壮語に不拘らず、本髄は古い中世的なもの其物に他ならなかった事は反省し全国民に平身低頭謝罪せねばならぬ所である。

 

 

 ここでは皇軍軍人によるオランダ軍捕虜への処遇がどのようなものであったのかが語られ、その延長として、敗戦後に立場逆転しオランダ軍の捕虜となり戦犯容疑者とされた皇軍軍人がどのような処遇を受け、どのように振る舞うこととなったのか(まさに「曾ての自己を棚に上げた」振る舞いであった)が語られている。

 しかし、同時に、木村自身が受けた処遇については、「然し私は大変好かれているのか、監視の兵隊がとても親切で夜分こっそりとパン、ビスケット、煙草などを持ってきてくれ、昨夜などはサイダーを一本持って来てくれた。私は全く涙が出た。モノに対してよりも親切に対してである」と記されている。オランダ人がオランダ人として一般化されるようなことはなく、(木村に親切に振る舞った)個人の行為が見出されているのである。ここでは、そのように木村を取り扱ったオランダ人の側も、木村を日本人一般としてではなく、個人としての木村久夫として見出していた事実を(そこに成立していた相互的な関係を)読み取っておくべきであろう。

 木村自身の皇軍の現実(皇軍組織一般の現実)に対する幻滅と怒りを読むことと同時に、内田少佐や上田大佐についての言及からは、木村が皇軍軍人をただ一般化し「類」として批判するのではなく、そこに尊敬すべき個人の存在を見出し、最後に残された時間の中で、『哲学通論』の欄外に書き記したことが持つであろう意味にも、読み手としての私たちは注意深くありたい。

 

 

 この、木村に対するオランダ人の振る舞いからも、大言壮語・空威張り(これが皇軍軍人のスタンダードに木村には見えた)から遠い内田少佐と上田大佐の姿からも、そして彼らの振る舞いを書き残した木村久夫自身からも、私は、「教養の力」とでも言うべきものを感じる。教養無き者を見下す態度に結実する浅薄な衒学的振る舞いの基底として「教養」を位置付けるのではなく、大言壮語・空威張りから自身を遠ざけ、批判すべき「類」の中からも尊敬すべき個人の姿を見出し得る冷静で謙虚な態度にこそ、「教養」と呼ぶに値するものを見出そうとするわけだ。

 全体冒頭の一文からも、そのような木村の態度(教養の力)が静かに滲み出ているように思われる。

 

 

 

 

 「遺書」の最後は、以下のように結ばれている。

 

(奥付けの右ページ)
 此の一書を私の遺品の一つとして送る。昭和二十一年四月十三日 シンガポール チャンギー監獄に於て読了。死刑執行の日を間近に控え乍ら、之が恐らく此の世に於ける最後の本であろう。最後に再び田辺氏の名著に接し得たと言う事は無味乾燥たりし私の一生に最後一抹の憩ひと意義とを添えてくれる物であった。母よ泣く勿れ、私も泣かぬ。
(巻末余白ページ)
 紺碧の空に消えゆく生命かな

 

 

 

(木村久夫については、「日本人であること、あるいは木村久夫の刑死」も併せて読んでいただくことで、今回の記事で「教養の力」と呼んだものへの理解が、より深まるのではないかと思う)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2014/05/23 23:06 → http://www.freeml.com/bl/316274/220318/

 

 

 

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2013年10月21日 (月)

兵站勤務ノ困難(資料篇)

 

 前回は、佐々木輜重兵大佐の『兵站勤務ノ研究』(偕行社 昭和7年)に「附録」として収録されている日清戦争時のエピソードに、

 

平壌陥落後第一軍ノ給養事務カ絶對不安ニ陥ツタ時ニ軍参謀長ヨリ大本営ニ向ツテ「日本人足一萬人ヲ急キ渡韓セシメラレタシ」ト請求シタ其人足カ十月末頃沸々到著シタカ荷物ノ擔ケル者ハ十中二三人テ其他ハ分捕ヲ目的トシテ應募シタ者カ多イ韓人夫カ「チホ」ヲ少クモ二俵運フノニ日本人夫ハ其米一俵ヲ両人ニテ運搬スルトイ云フ情ケナイ有様ナルノミナラス清韓人ヲ脅迫シテ種々ノ悪イコトヲスル、酒ヲ飲ム博奕スル、喧嘩ヲスル、梅毒ニ罹ル、凍傷ヲ病ム、仕末ニ了ヘヌ人間テアル、ソレテ喰フコトタケハ一人前ハ確カテアツタ

 

…との記述があることを紹介した(「 兵站勤務ノ困難(苦笑篇) 」)わけだが、今回は、その背景について確かめておきたい。

 

 

 

 八月二日の『読売新聞』は、以下のような記事を載せている。

  日本橋南茅場町に住みて有名なる侠客石定の乾児(こぶん)数百名は、何も生命は親分に預け置くと云ふ血気の盛んな連中計なるゆゑ、其中より五百名の壮健者を撰抜し、運送人夫として使用せられ度き旨、已に其筋へ出願せし由にて、許可あり次第、広島へ向け出発せしめんとて昨今専ら準備中。

 侠客石定こと高橋大吉は、七月に子分千人を率いて従軍を願い出たが容れられず、あらためて軍夫として従軍を願い出ている。義勇軍がだめなら、せめて軍夫としてでも従軍したいというのである。同日の『読売』は、同じく麹町の侠客、柴田喜太郎が子分五十人を率いて渡韓することになった、とも伝えている。ほかにも山梨県甲府では、侠客早川勘十、佐々木勘吉が、子分五百名を集めて従軍を志願している。
 このような従軍志願熱は、剣客や力士など「腕に覚えのある」男たちのあいだにも広まっていく。従軍志願はたんに政治的な運動というだけでなく、「男らしさ」の表現でもあった。七月三十日の『読売』は、青森県を巡業中の高砂浦五郎や西ノ海、小錦、朝汐といった力士たちが従軍を志願していて、準備に余念がないと伝えている。
 相次いだ従軍志願には、愛国心からというだけでなく、軍人や軍夫になって一旗挙げたいという目論見もあったようだ。七月二十二日『郵便報知』は、人力車夫たちが「人夫となりてかの地に渡り、死を期して一儲けせんとて非常に意気込み、日々の仕事にも手が附かざる有様ゆゑ、各雇主はすこぶる迷惑しをる由」と伝えている。
     佐谷眞木人 『日清戦争 「国民」の誕生』 講談社現代新書 2009  147~148ページ

 

 

 日清戦争に際しては、ある種の国民の間で、「義勇軍」の結成と、「義勇軍」による戦争参加の動きが盛んであった。

 

  原田敬一は、新聞記事に見えるだけでも、五十二の事例があること、これらの参加者には旧士族の再結集がもっとも多く、国権派・民権派、侠客がそれに次ぐと指摘している(『日清戦争の社会史』)。
     同書  144ページ

  当然のことながら、義勇軍の戦争への参加を政府は認めなかった。にもかかわらず、各地で義勇軍の結成が相次いだため、政府は警察を通じてその動きを抑えようとした。しかし、沸騰する国民の熱意は、警察には抑えきれず、八月七日、政府はついに「義勇兵ニ関スル詔勅」を発した。
  詔勅は「各地ノ臣民義勇兵ヲ団結スルノ挙アルハ忠良愛国ノ至情ニ出ルコトヲ知ル」と述べる。しかし、続けて「国ニ常制アリ民ニ常業アリ」と諭す。つまり国には「常制」つまり正規軍、民には「常業」すなわち日々の仕事があるから、「義勇兵ノ如キハ現今其ノ必要ナキヲ認ム」というのである。この詔勅によって、ようやく義勇軍運動は下火となっていった。
  義勇軍運動に旧士族が熱心なのはともかくも、侠客が多数参加していることに興味が惹かれる。幕末の尊王攘夷運動にも侠客は大きな役割を果たしていた。侠客というと、ならず者のように思われがちだが、幕末維新期には在野の政治勢力という側面も有していたのである。そのような気風が、この時代までは残っていたのであろう。
     同書  146~147ページ

 

…という次第で、義勇軍による戦争への参加から、軍夫(つまり「軍」に使用される「運送人夫」)としての参加へとシフトしていったわけである。

 佐谷氏の伝える「剣客や力士など腕に覚えのある男たち」の「従軍熱」については、後の支那事変段階で生起した、「剣士」による捕虜の「試し斬り」にまでつながる問題と思われる。

 いずれにしても、軍の訓練を経ていない人間たちが、軍夫として「従軍」することに、日清戦争時の日本の戦争遂行は依存していたのである。

 

 

 

 さて、前回にも紹介した一ノ瀬俊也氏の『旅順と南京』の記述に戻ると、

 

 前述の通り、第一師団は野戦師団と兵站部に大別されるが、その野戦師団の総員は二万八六人、そのうち軍夫が三七六八人、兵站部は総員四八〇四人、うち軍夫は四二五六人であった。つまり、第一師団の総員二万四八九〇人中、八〇二四人が「国際法上の戦闘員としての資格の疑わしい」(大谷正「「文明戦争」と軍夫」1994)軍夫であった。馬は馬は乗馬・輓馬・駄馬の動員計画が五三八三頭だったのが、実際の動員数は二五四四頭であった。減らされた約二七〇〇頭の駄馬を徒歩車輛(大八車)一四〇五台で補い、それを軍夫が引いたのである。
 軍は当初、後方輸送は輜重兵・輜重輸卒の担当する駄馬の使用、朝鮮の人夫・馬の雇用で補えると安易に考えていたが、朝鮮半島の道路事情は馬匹の使用に適さず、また朝鮮人の逃亡などが相次いだため内地から人夫(=軍夫)を募集することになった。熊本第六師団のように、駄馬より人間を雇うほうが安上がりという意見を上申した師団もあった。かくして八月下旬以降各師団は大量の「人夫」雇用を開始した。結局日清戦争を通じて内地から雇用した軍夫は一五万三九七四人、清国・台湾にて現地雇用した人員は実に延べ一二一一万人余にのぼった。日本人軍夫は形式的には読法式(軍の規範である「読法」を朗読させる宣誓式)を済ませていちおう軍属の資格を備え、陸軍刑法の管轄に属した(大谷正「旅順虐殺事件再考」1995、原田敬一「軍夫の日清戦争」1997)
     一ノ瀬俊也 『旅順と南京』 文春新書 2007  45~46ページ

 

 

 経緯としては、「軍は当初、後方輸送は輜重兵・輜重輸卒の担当する駄馬の使用、朝鮮の人夫・馬の雇用で補えると安易に考えていたが、朝鮮半島の道路事情は馬匹の使用に適さず、また朝鮮人の逃亡などが相次いだため内地から人夫(=軍夫)を募集することになった」(『兵站勤務ノ研究』に「平壌陥落後第一軍ノ給養事務カ絶對不安ニ陥ツタ時ニ軍参謀長ヨリ大本営ニ向ツテ「日本人足一萬人ヲ急キ渡韓セシメラレタシ」ト請求シタ」として経緯が記述されている問題である)結果として、「人夫となりてかの地に渡り、死を期して一儲けせんとて非常に意気込」むような男たちが「軍夫」として雇用されることになったわけである。そして、軍は、

 

  東京出発直前まで、丸木の属する第一師団第二糧食縦列では「不品行なる人夫」が続々と解雇される有様であった。『縦列陣中日子』によると九月一九日四名、二一日六名、二二日二名、二三日一名、二十四日八名、二五・六日四名がその理由で解雇され、「直ちに補充」されている。
     一ノ瀬 同書  46ページ

 

…と、「不品行なる軍夫」の問題を抱え込むこととなった。

 しかし、その「不品行なる軍夫」への軍の待遇自体もまた不十分なものであった。

 

  先にふれたように、軍夫ばかりが凍死しているのは、兵士と異なり十分な防寒装備が与えられなかったためである。当初は前述のように「寒さを凌ぐためチャンの明家に行き衣類を持来り着て居るのを見られ罰を食う」(一〇月二八日)者があったが、死者が続出する有り様に、本来「文明の義戦」の建前を堅持すべき上官も黙認せざるをえなかったのであろうか。
     同書  118~119ページ

  丸木日記には「とびら打こわし焚物にした」とあるが、一月一九日、金州で出された第一師団会報(『連隊歴史』所収)にも「報告によれば、家屋の戸扉を脱し持ち去る者あり、甚しきは昨夜軍法会議の戸扉を脱し持ち去る、右は物を弁えざる者の所為と思わる、是等も一層取締をなし不都合なき様にすべし」とある。軍法会議の扉までも持ち去るほど、兵士・軍夫たちは寒さに苦しめられていた。
     同書  137ページ

 

 つまり、十分な防寒装備の支給がないために、軍夫による「不品行」な略奪行為も発生してしまうのである(軍夫への冬服の支給はやっと12月2日になってのことであった)。 

 

 軍夫は戦争の遂行に不可欠な存在でありながら、正規軍の兵士ではなかった。

 

 一ノ瀬氏は、以下のように記している。

 

 

 例えば、原田敬一がいうように、日清戦争における軍夫の戦死者数が公式に集計され顕彰されることはなかった。だから丸木は自らそれを日記の末尾に書き付けた。

  日清戦役日本軍死亡者は、有栖川宮殿下及北白川宮殿下始め、その数実に一万五四七人の多きに達し、もしこれに軍夫を加うれバ、その数また数千人まさん、この死亡者を区別すれば
  〇戦死一一二五人〇傷死二九一人〇病死八九九七人
  〇死亡者一〇七人 〇生死不明二七人
     〇総計一万五四七人
  右の内死亡者多きは第二師団也、威海衛その外遼東半島を守備して後ち台湾へ赴き、日数多き故なり、第五師団第三師〔団〕に戦死者多きは、遼東〔半島〕にて寒気烈しきに奮戦せる故なり、右に書きしはその当時二年間も毎日官報に出たるヲうつす

 原田は丸木のこの一文について、「物資輸送の根幹を担った軍夫が、戦後忘れ去られた状況への異議申し立てであろう」という(原田敬一『シリーズ日本近現代史③日清・日露戦争』岩波新書2007)が、筆者も同感である。
 ただ、やはり軍夫たちのことは急速に世間から忘れられていった。一〇年後の日露戦争では軍夫という制度にかわり、大量の「補助輸卒」が動員された。賃金を支払う必要のない徴兵の一部として、本来あまり兵役に向かない人たちを補充招集し、日清戦争時の軍夫と同一の仕事をさせたのである。今日でも日本軍の補給軽視について語られるさい、「輜重輸卒が兵隊ならば、蜻蛉蝶々も鳥のうち」という戯れ歌が持ち出されることがあるが、その輜重輸卒よりさらに下の身分である。第三師団第五補助輸卒隊第一〇分隊所属の補助輸卒だった西村真次なる人物は著書『血汗』(精華書院、一九〇七年)において、自己の日露戦争従軍体験を記している。
 彼らはほとんど訓練も受けず、銃剣一本すら持たされないまま(そのため彼らを「無帯剣輸卒」と称したという)戦場に送られ、「徒歩車輛」を引いて中国人から「噯呀(アイヤア)、日本苦力(イイベンクリイ)」と言われるほどの辛い物資輸送にあたった。大工、左官から役場の書記、銀行員まで「有らゆる階級の人が集まって」いたあたりも、丸木たち軍夫とそっくりである。西村は『血汗』のなかで、なぜ自分たちが補助輸卒として戦場に行く羽目になったのかについて、次のように書いている。

  由来、二十七八年戦役〔日清戦争〕までは、補助輸卒と云うものはなかったので有るが、同戦役に使った人夫が、不規律で、吾が儘で、繊弱で、到底、繁劇な後方勤務に堪えなかったので、「これでは成らぬ」と当局者は早速名案を案出した。その名案の祭壇に捧げられた犠牲こそは、即ちこの補助輸卒であったのだ。

 かつて同じ中国の地で同じ仕事をしていた(『血汗』には、かつて丸木らが荷物を運んだ普蘭店などの地名が出てくる)はずの軍夫たちに対する共感の念はまったくない。丸木が同時代人として、もしこの件を読んでいたら、激怒しただろうか、それとも苦笑したであろうか?
     同書  211~213ページ

 

 

 

 西村真次の記す「同戦役に使った人夫が、不規律で、吾が儘で、繊弱で、到底、繁劇な後方勤務に堪えなかった」との評価は、『兵站勤務ノ研究』にある「荷物ノ擔ケル者ハ十中二三人テ其他ハ分捕ヲ目的トシテ應募シタ者カ多イ韓人夫カ「チホ」ヲ少クモ二俵運フノニ日本人夫ハ其米一俵ヲ両人ニテ運搬スルトイ云フ情ケナイ有様ナルノミナラス清韓人ヲ脅迫シテ種々ノ悪イコトヲスル、酒ヲ飲ム博奕スル、喧嘩ヲスル、梅毒ニ罹ル、凍傷ヲ病ム、仕末ニ了ヘヌ人間テアル、ソレテ喰フコトタケハ一人前ハ確カテアツタ」との評価に確実に照応するものである。

 これを、日露戦争時の補助輸卒が軍組織の最底辺で酷使された自身の経験を振り返るに際し、日清戦争時の「軍夫」と比較することで、自らのプライドを維持しようとしたものとして読むことも可能であろう。しかし、軍組織の最底辺で酷使された状況に違いはない。

 とは言え、一ノ瀬氏の言葉を繰り返せば「今日でも日本軍の補給軽視について語られるさい、「輜重輸卒が兵隊ならば、蜻蛉蝶々も鳥のうち」という戯れ歌が持ち出されることがあるが、その輜重輸卒よりさらに下の身分である」ということなのであり、その補助輸卒より「さらに下の身分」の存在として、「軍夫」が位置付けられていることになる。そもそもが「熊本第六師団のように、駄馬より人間を雇うほうが安上がりという意見を上申した師団もあった」という程度の認識だったのである。

 

 『兵站勤務ノ研究』では、日本人軍夫は朝鮮人軍夫の能力との比較において非難され、『血汗』においては、日清戦争時の日本人軍夫は日露戦争時の補助輸卒との比較において蔑まれているのである。

 しかし、そこには確かに、近代の入り口の日本を生き抜こうとする庶民の情けなくもたくましい姿が見出されもするはずである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/10/18 20:11 → http://www.freeml.com/bl/316274/208900/

 

 

 

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2013年10月20日 (日)

兵站勤務ノ困難(苦笑篇)

 

 前回の記事(「 兵站勤務ノ困難(笑) 」)で紹介した偕行社刊行の『兵站勤務ノ研究』(昭和7年)の「附録」として収録されている日清戦争時のエピソードの続きである。

 

 

 「幾ラ言フテモ長イ電報ヲ打ツ癖カ止マナカツタ」兵站司令官の話の前に触れられているのが、

 

兵站監ハ鹽屋方圀少将テアツタカ、大任セノ人ニテ餘リ仕事ハシナイ人テアル丈ケ、自分ノ役目カ忙シイ、當時兵站司令官ニハ豪傑カ多イノミナラス、相手カ朝鮮人ノコトテアルカラ、迚モ遣リ切レタモノテハ無イ、嘘ヲ突クコト、盗ムコトハ人間ノ道徳ナリト心得居ル米ヲ運ハスレハ弱虫ニテモ三俵負ヒタカル、ソシテ途中叺ヲ破リバラバラ米ヲ零シ目的ノ兵站部ニ到著スル頃ニハ中身ハ二俵シカナイ、夫レモ一俵一里十銭ト定ツテ居ルカラ三俵ノ代価ハ払ハネハナラヌ(後略)

韓人夫ハ銀貨ヲ盗ム妙ヲ得テ居ル當時ハ銀貨二千圓入ノ箱テ、一箱毎ニ一人ノ監視ヲ附ケレハ論ハ無イカ、兵站司令部の兵卒カ極メテ小数テアルカラ韓人夫二名ニ一監視兵ヲ附ケルコトニナツタ、所カ内一名ハ腹痛ト號シ後レ勝チニナリ他ノ一名ハ委細構ハスズンズン急キ出ス監視兵ハ中間ヲ歩イテ一方ヲ止メ一方ヲ急カスカ言語不通テハアリ命令中々徹底シナイ、其内先頭ノ者カ駆ケ出スカラ之ヲ捕ヘ様ト追ヒカケ顧ミテ後方ヲ見ルト腹痛ハ頓ニ直リ後方ニ向ツテ駆ケ出シ前狼モ後虎モ夫ヒシコト五六囘モアツタ、中ニハ責任觀念上監視兵テ自殺シタ者マテアツタ
     佐々木輜重兵大佐 『兵站勤務ノ研究』 偕行社 昭和7年  144~145ページ (「兵站参考第二十二 日清戦争ニ於ケル第一軍ノ兵站」から「兵站勤務ノ困難」の項より)

 

…との「兵站勤務ノ困難」である。

 「兵站勤務」の中心には、戦地における戦闘部隊への補給の問題があるわけだが、日清戦争時には軍の組織としては十分なものではなく(もっとも、大東亜戦争時に至っても不十分なままではあったわけだが)、軍による訓練を経ていない大量の人夫(軍夫)に依存するものであった。

 

 その間の事情を、一ノ瀬俊也氏の『旅順と南京 日中五十年戦争の起源』(文春新書 2007)により確認しておくと、

 

 この第一師団は野戦師団と兵站部に大別される(内地の守備隊などを除く)が、野戦師団の員数は兵科(軍人)一万五五五九人・衛生部等四五二七人(うち軍夫三七六八人)挽馬(荷車を引く馬)三八四頭、徒歩車輛(大八車)一四〇五台、一方の兵站部の人員数は兵科三七〇人・衛生部等四四三四人(うち軍夫四二五六人)、駄馬一一頭、徒歩車輛一二一六台、つまり野戦師団、兵站部とも軍夫が多数含まれており、「彼らがいなければ動かない構造となっていた」(原田二〇〇七、前記の数字は『明治二十七八年戦役統計』上巻〈1〉「動員人馬総員」による)のである。
     同書 28ページ

 

…ということになる。

 先に引用した「兵站勤務ノ困難」に描かれているのは、「彼らがいなければ動かない構造になっていた」戦地の日本軍が実際に軍夫として採用した(つまり現地調達した)朝鮮人の人夫が、「相手カ朝鮮人ノコトテアルカラ、迚モ遣リ切レタモノテハ無イ、嘘ヲ突クコト、盗ムコトハ人間ノ道徳ナリト心得居ル」ような連中であったことがもたらす「困難」だということである。

 

 

 この話は、いかにもネトウヨ諸氏を喜ばせそうなものであるが、しかし、「兵站勤務ノ困難」の実際は、引用したエピソードを読んで喜んでいられるようなものではない。

 

 「嘘ヲ突クコト、盗ムコトハ人間ノ道徳ナリト心得居ル」ような現地調達の朝鮮人を軍夫とすることのもたらす困難を克服するための措置は、より大きな困難を日本軍にもたらす結果となるだけであった。

 

 

平壌陥落後第一軍ノ給養事務カ絶對不安ニ陥ツタ時ニ軍参謀長ヨリ大本営ニ向ツテ「日本人足一萬人ヲ急キ渡韓セシメラレタシ」ト請求シタ其人足カ十月末頃沸々到著シタカ荷物ノ擔ケル者ハ十中二三人テ其他ハ分捕ヲ目的トシテ應募シタ者カ多イ韓人夫カ「チホ」ヲ少クモ二俵運フノニ日本人夫ハ其米一俵ヲ両人ニテ運搬スルトイ云フ情ケナイ有様ナルノミナラス清韓人ヲ脅迫シテ種々ノ悪イコトヲスル、酒ヲ飲ム博奕スル、喧嘩ヲスル、梅毒ニ罹ル、凍傷ヲ病ム、仕末ニ了ヘヌ人間テアル、ソレテ喰フコトタケハ一人前ハ確カテアツタ、然ラハ後送センカ、傷病兵スラ還スノニ困ツテ居ル時分故ソレモ出来ス萬策窮シタ末、大東溝ノ横田兵站司令官カラ日本人夫ノ亂暴狼藉ナル始末ヲ略説シタル末今日ニ於テハ何トモ仕方ナイカラ不良分子ハ悉ク撲殺致シタケレハ其ノ承認ヲ請フトノ親展電報カ来タ、予ノ之ニ對スル返電ハ極メテ簡單テアツタ、「人夫モ陛下ノ赤子ナリ宜シク愛護スヘシ」ト
 親展ノ内容、前略日本人夫程困却致シ候モノハ無之糧食ノ少キ方面ニ此米喰虫ヲ送ラルルコトハ養育院ナラハ格別此米穀ノ貴重ナル場合斷シテ不可ナリ日本人夫ノ力ヲ補フニ地方力ヲ以テスヘシトハ貴部ノ常套語ナレトモ日本人夫千人ハ牛車二十輌ニ相當ス、此簡便有力ナル牛車ヲ止メテ困難千萬ナル日本人夫千人ヲ使用セントスル議ニハ何レノ兵站司令官モ皆不同意ナリ〇屋組人夫ノ如キハ凡テ乞食同様ノ姿ニシテ國辱此上ナシ〇〇司令官ノ如キハ之ヲ悉ク切リ捨テント申居候少シハ當方ノ苦境モ御推察可被下候云々
  二十七年十二月二十六日
     『兵站勤務ノ研究』  146~147ページ 「人夫モ亦陛下ノ赤子ナリ」の項

 

 

 ここには、「第一軍ノ給養事務カ絶對不安」に直面した軍が、「日本人足一萬人」の調達により「絶對不安」の解消を図ったにもかかわらず、到着した「日本人足」の実状が「荷物ノ擔ケル者ハ十中二三人テ其他ハ分捕ヲ目的トシテ應募シタ者カ多イ韓人夫カ「チホ」ヲ少クモ二俵運フノニ日本人夫ハ其米一俵ヲ両人ニテ運搬スルトイ云フ情ケナイ有様ナルノミナラス清韓人ヲ脅迫シテ種々ノ悪イコトヲスル、酒ヲ飲ム博奕スル、喧嘩ヲスル、梅毒ニ罹ル、凍傷ヲ病ム、仕末ニ了ヘヌ人間テアル、ソレテ喰フコトタケハ一人前ハ確カ」という、まことにもってどうしようもないものであり、「今日ニ於テハ何トモ仕方ナイカラ不良分子ハ悉ク撲殺致」すことを兵站司令官自身が提案するような事態にまで発展してしまった(「嘘ヲ突クコト、盗ムコトハ人間ノ道徳ナリト心得居ル」朝鮮人に交代させるべき日本人が「荷物ノ擔ケル者ハ十中二三人テ其他ハ分捕ヲ目的トシテ應募シタ者カ多イ」と評すしかなかった)という、ネトウヨ諸氏が死んじゃいたくなるような「兵站勤務ノ困難」が記録されているのである(ただし、「日本将校ノ外閲覧ヲ禁ス」)。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/10/17 21:08 → http://www.freeml.com/bl/316274/208844/

 

 

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2013年10月19日 (土)

兵站勤務ノ困難(笑)

 

 以前に古書店で購入した『兵站勤務ノ研究』(偕行社 昭和7年)を拾い読みしていて大笑い、というのは思いもかけない展開であったが、これもまた読書の楽しみであろうか。

 

 表紙には表題の他に「日本将校ノ外閲覧ヲ禁ス」と印刷されており、著者名は扉ページに佐々木輜重兵大佐とのみ記されている。内容的には、帝國陸軍将校による帝國陸軍将校向けの「兵站勤務」の参考書的な一冊であり、全編文語体カタカナ表記の実にお堅いとしか言いようのない一冊である。

 構成としては、本編が、

  想定
  第一 兵站設定要領
  第二 兵站線
  第三 軍ノ後方ニ何本ノ兵站線ヲ要スルヤ
   其一 給養兵額ノ算定
   其二 所要輸送力ノ算定
   其三 運行表ノ調整
   其四 軍ノ前進ニ伴フ運行表
  …

…という感じで、実際の作戦を想定したシミュレーション。それが本書の前半(~68ページ)を構成し、後半に「附録」(兵站参考)として、日清・日露戦争時の実際の事例が多数収録されている(~147ページ)。

 

 

佐々木輜重兵大佐 『兵站勤務ノ研究』 偕行社 昭和7年

 (『兵站勤務ノ研究』 表紙)

 

  佐々木輜重兵大佐 『兵站勤務ノ研究』 偕行社 昭和7年 奥付

   (『兵站勤務ノ研究』 奥付)

 

    佐々木輜重兵大佐 『兵站勤務ノ研究』 偕行社 昭和7年 扉

     (『兵站勤務ノ研究』 扉頁)

 

 

 その文語体カタカナ表記のお堅い一冊に、以下のような日清戦争時のエピソードが記されていたのだ。

 

 

其兵站司令官ハ幾ラ言フテモ長イ電報ヲ打ツ癖カ止マナカツタ偶々小黒山ニ兵站司令部ヲ移ス爲ニ途中義州ノ兵站監部ニ立寄ラレタ、予ハ午餐ヲ饗シ其席上ニ於テ兵站勤務ノ爲ニ餘計ニ電報ヲ用ユルトキハ作戰上ノ通信ヲ遅カラシムル大害アルカラ、貴官ニ毎度御注意シタル如ク電文ハ極メテ簡單ニセラレタシトシテ態々依頼シタ然ルニ其夜九時過同官カラ電報ガ来タ副官ガ怒リ乍ラ之ヲ讀ムノヲ聞クト「小官義兵站部員(人五人、馬一頭、人夫六人)ヲ率ヒ本日午後五時四十二分當小黒山ヘ安著致候間此段御届申上候」ト云フ馬鹿氣タ電報テアルカラ「本日アレ程八釜敷云フタニ何故コンナ冗長ナ電信ヲ掛ケルカ」ト僕ノ名前テ直ク電報シ給ヘト白井二郎副官ニ吩附ケタ、翌日ニナツタラ過クト電信カ届イタ、「昨日参謀長殿ヨリ長文ノ電報ヲ掛ケルコトニ關シ懇々御説明アリシニ拘ラス電文長キニ失シ候段重々恐レ入リ候也」モー打遣ツテ置ケ迚モ駄目タカラトテ爾後何モ云ハナカツタ、兵站司令官ノ取扱難キコト概ネ此類テアツタ
     佐々木輜重兵大佐 『兵站勤務ノ研究』 偕行社 昭和7年  146ページ  「兵站参考第二十二 日清戦争ニ於ケル第一軍ノ兵站」から「兵站勤務ノ困難」の項の一部

 

 

 

 まぁ、現代を生きる我々も、この手の上司・同僚・部下・取引先には恵まれており、まったくもって他人事ではないのである。

 もっとも、あくまでも、「日清戦争ニ於ケル第一軍」の某兵站司令官の「幾ラ言フテモ長イ電報ヲ打ツ癖カ止マナカツタ」件に関しては、「日本将校ノ外閲覧ヲ禁ス」の話ではあるのだが…

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/10/16 21:50 → http://www.freeml.com/bl/316274/208803/

 

 

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2013年6月 8日 (土)

隊務執行官としての―・ド・カヴァリー少佐の秘められた任務

 

     (橋下徹氏のツイートより)
 日本軍と世界各国の軍との違いとして今言われているのは、暴行・脅迫・拉致を用いて、強制的にそのような仕事に就かせたかどうかだ。しかしここは今のところはっきりしていない。軍が施設を管理し、意に反して慰安婦になった方が悲惨な境遇であったことは確かだが、これは他国の軍でもある話だ。
     posted at 15:27:37 5月14日

 もっと端的に言う。アメリカの日本占領期では日本人女性を活用したのではなかったのか。戦場での性の対応策として、女性を活用するのは言語道断だ。しかしアメリカも、世界も、日本の慰安婦だけを取り上げて、日本だけが性奴隷を活用していた特殊な人種と批判する。これは違う。
     posted at 07:46:47 5月17日

 日本の慰安婦利用は悪かった。しかし、世界各国の軍も当時は女性を利用していた。にもかかわらず、世界は日本だけ「性奴隷」を使っていたと徹底非難。日本の国会議員も政府もメディアもなぜ徹底抗議しない。今年に入ってから、アメリカの州議会で4件も、日本に対する非難決議がなされている。
     posted at 19:47:54 5月19日

 

 

 

 ジョーゼフ・ヘラ―の小説『キャッチ=22』の舞台となったのは、第二次世界大戦時のイタリア戦線、ピアノーサ島に駐留する米陸軍爆撃機大隊(機種としてはB-25を使用する)である。

 様々な常軌を逸した登場人物の常軌を逸したエピソードを通して、戦争(というより現代社会の、と言うべきかも知れないが)の常軌を逸した(しかしそれが既に我々の日常でもあるような)不条理な現実が描かれる。

 

 

 橋下氏の主張に関連すると思われる部分を読んでみよう。

 

 

 ―・ド・カヴァリー少佐は獅子を思わせるがっしりした頭を持ち、威風堂々として人々に畏敬の念を起させるような老人であり、怒気天を衝くがごときその乱れた白髪は、彼の峻厳で族長的な顔の周囲に大吹雪のように猛り狂っていた。大隊の隊務執行官としての彼の任務は、ダニーカ軍医とメイジャー少佐が同じく推測したとおり、蹄鉄投げと、イタリア人労務者の誘拐と、将校および下士官兵用の休暇用アパートメントを借りあげることであり、彼はその三つすべてに抜きん出た才能を発揮していた。
 ナポリ、ローマ、フィレンツェなどの都市陥落がさし迫るたびに、―・ド・カヴァリー少佐は小雑嚢の荷造りをし、飛行機一機と操縦士ひとりを徴発して飛んでいき、一言も発することなく、ただ彼の重々しくいかめしい表情と皺だらけの指の威圧的なジェスチャーだけでいっさいをやり遂げるのであった。都市陥落の一日か二日後に、彼はふたつの―ひとつは将校用で、もうひとつは下士官兵用だが、両方ともすでに有能で陽気な料理人と給仕女のついている―大きくて豪華なアパートメントの賃貸契約書を持って帰ってくるのであった。その二、三日後には世界中の新聞に、崩れた石を乗り越え、砲煙のなかをくぐって、壊滅した都市に勇ましく突入しようとしているアメリカ軍将兵の写真が載った。―・ド・カヴァリー少佐の姿はかならずそのなかにあった。彼はどこからか手に入れたジープに乗り、彼の不屈の顔の近くで砲弾がしきりに炸裂し、カービン銃を構えた体のしなやかな若い歩兵が燃える建物のかげになった歩道を走ったり、家の戸口で倒れて死んだりしているにもかかわらず、まるで杖みたいにまっすぐな姿勢をとったまま、右にも左にも目を向けることがなかった。彼は危険にとりかこまれて坐っていながらも永遠に不滅であるかのように見え、その顔は、大隊のあらゆる将校、下士官、兵によって常によく知られ、畏敬されているのと同じ、剛毅で威厳に満ち、狷介にして孤高の風貌を備えていた。
 ドイツ軍の諜報機関にとって、―・ド・カヴァリー少佐はいまいましくも解き難い謎であった。数百人にのぼるアメリカ軍捕虜のだれひとりとして、ごつごつした凄みのある額と力づよく燃える目を持ち、あらゆる重要な侵攻においていささかも恐れを知らず首尾よく一番乗りを果たすと思われる、この白髪の老将校については、具体的な情報を全然持ち合わせていなかった。アメリカ軍当局にとっても彼の正体は同様に不明確きわまるものだった。優秀なCIDが一個連隊分も彼の本性を突きとめるために前線に送られる一方、歴戦の宣伝部将校が一大隊分も、彼の正体がわかりしだい、それを公表せよという命令を受けて、一日二十四時間ぶっつづけで特別に注意の目を注いていた。
 ―・ド・カヴァリー少佐は、ローマではアパートメント契約に関してかつてない成功を収めていた。四、五人ずつ群れをなしてやってくる将校のためには、新築の石造りの建物のなかに、ひろびろとした二間つづきの部屋をひとりについて一組ずつあてがい、そのほかに壁に藍緑色のタイルを張った大きなバスルーム三つと、ミカエラという名の、なにかにつけてクスクス笑う癖のある、そしてどの部屋も塵ひとつなくきれいに掃除する痩せたメードをひとり用意していた。下の踊り場のところにはへつらい上手の家主たちが住んでいた。
     ジョーゼフ・ヘラ― 『キャッチ=22 上』 ハヤカワ文庫 1977  220~222ページ

 

 

 あくまでもヘラ―の小説中のエピソードであるが、米軍がどのように問題に対処していたのかが描かれているわけである。小説=フィクションではあるけれど、「女たち」と米軍将兵との関係のあり方には、ヘラ―自身のイタリア戦線での従軍経験が反映されているものと考えられる。個々のエピソードは創作であるにしても、米軍と米軍の展開した地域の現地女性との関係のあり方については、実際の米軍の方針に対応した記述となっているであろうということだ。執筆者であるヘラ―には、米軍を美化するいかなる動機も存在しないのである。

 

 

 下士官兵のほうは十二人かそれ以上の集団をなし、ガルガンチュワ的な食欲と罐詰食品でいっぱいの木箱をかかえてローマに降り立ち、すばらしいエレベーターのついた赤煉瓦の建物の六階にある彼ら専用ののアパートメントの食堂で、女たちに料理と給仕をさせるのだった。下士官兵の休養所のほうがいつも活気に満ちていた。だいいち下士官兵のほうが数が多かったし、料理、給仕、掃除のための女の数も多かった。そのほかに、ヨッサリアンが見つけてはそこに連れて帰る陽気で頭の弱い肉感的な若い娘たちや、精力を使い果たす七日間の放蕩の後でピアノーサ島に帰る眠たげな下士官が勝手に連れてきて、そのあと欲しい者のために残しておく女たちもいた。女たちは好きなだけそこに留まっていても、ちゃんと寝るところと食べものを与えられた。彼女たちがお返しすることといえば、体を求めてくるどのアメリカ兵ともいっしょに寝ることだけであり、それで万事めでたしだと思っているらしかった。
     同書 222~223ページ

 

 

 

 日本軍の「慰安所」システムとの相違点がどこにあるのか? その点をきちんとを把握しておくことは重要である。

 

 

 小説中で、問題の中心に位置するのは、―・ド・カヴァリー少佐である。少佐のファーストネームが「―」で示されているのは、誰も少佐のファーストネームを知らない(小説上の設定では、連隊長のキャスカート大佐でさえ知らず、それは「本人に聞くだけの勇気を持っている者がひとりもいなかったからである」と説明されている)からだ。

 その「威風堂々として人々に畏敬の念を起させるような老人」であるところの―・ド・カヴァリー少佐は、大隊の「隊務執行官」であり、その任務について説明されている部分を、あらためて抜き書きしてみよう。

 

  大隊の隊務執行官としての彼の任務は、ダニーカ軍医とメイジャー少佐が同じく推測したとおり、蹄鉄投げと、イタリア人労務者の誘拐と、将校および下士官兵用の休暇用アパートメントを借りあげることであり、彼はその三つすべてに抜きん出た才能を発揮していた。(註:1)

  ナポリ、ローマ、フィレンツェなどの都市陥落がさし迫るたびに、―・ド・カヴァリー少佐は小雑嚢の荷造りをし、飛行機一機と操縦士ひとりを徴発して飛んでいき、一言も発することなく、ただ彼の重々しくいかめしい表情と皺だらけの指の威圧的なジェスチャーだけでいっさいをやり遂げるのであった。都市陥落の一日か二日後に、彼はふたつの―ひとつは将校用で、もうひとつは下士官兵用だが、両方ともすでに有能で陽気な料理人と給仕女のついている―大きくて豪華なアパートメントの賃貸契約書を持って帰ってくるのであった。

  ―・ド・カヴァリー少佐は、ローマではアパートメント契約に関してかつてない成功を収めていた。四、五人ずつ群れをなしてやってくる将校のためには、新築の石造りの建物のなかに、ひろびろとした二間つづきの部屋をひとりについて一組ずつあてがい、そのほかに壁に藍緑色のタイルを張った大きなバスルーム三つと、ミカエラという名の、なにかにつけてクスクス笑う癖のある、そしてどの部屋も塵ひとつなくきれいに掃除する痩せたメードをひとり用意していた。下の踊り場のところにはへつらい上手の家主たちが住んでいた。

  下士官兵のほうは十二人かそれ以上の集団をなし、ガルガンチュワ的な食欲と罐詰食品でいっぱいの木箱をかかえてローマに降り立ち、すばらしいエレベーターのついた赤煉瓦の建物の六階にある彼ら専用ののアパートメントの食堂で、女たちに料理と給仕をさせるのだった。下士官兵の休養所のほうがいつも活気に満ちていた。だいいち下士官兵のほうが数が多かったし、料理、給仕、掃除のための女の数も多かった。

 

 ―・ド・カヴァリー少佐の「任務」とされる中にある「蹄鉄投げ」というのは、「イタリア人労務者の誘拐と、将校および下士官兵用の休暇用アパートメントを借りあげること」以外の時間を、大隊内で「蹄鉄投げ」をして過ごしていることを示すもので、要するに少佐の「暇潰し」の方法である。「イタリア人労務者の誘拐」については、軍のための現地での「労務者の確保」という任務を「誘拐」という語を用いてヘラ―が表現したのであって、いわゆる「労務者の強制連行」的問題ではないと思われる。

 現在の我々の関心の焦点となるのは、―・ド・カヴァリー少佐の三つの「任務」の中でも「将校および下士官兵用の休暇用アパートメントを借りあげること」についてであろう。

 再確認すると、

  ひとつは将校用で、もうひとつは下士官兵用だが、両方ともすでに有能で陽気な料理人と給仕女のついている―大きくて豪華なアパートメント

…の確保が、―・ド・カヴァリー少佐の最大の任務であり、少佐はその任務に関しての有能さにおいて抜きん出ている人物、ということなのである。

 

 各アパートメントには「料理、給仕、掃除のための女」あるいは「メード」が「用意」されており、それとは別に、

  そのほかに、ヨッサリアンが見つけてはそこに連れて帰る陽気で頭の弱い肉感的な若い娘たちや、精力を使い果たす七日間の放蕩の後でピアノーサ島に帰る眠たげな下士官が勝手に連れてきて、そのあと欲しい者のために残しておく女たちもいた。女たちは好きなだけそこに留まっていても、ちゃんと寝るところと食べものを与えられた。彼女たちがお返しすることといえば、体を求めてくるどのアメリカ兵ともいっしょに寝ることだけであり、それで万事めでたしだと思っているらしかった。

…として示される「女たち」がいた。

 「女たち」には「寝るところと食べものを与えられた」が、その代償としては、「体を求めてくるどのアメリカ兵ともいっしょに寝ることだけ」が期待されていた、ということになる。

 「女たち」は、軍との直接間接のいかなる契約関係も持たないのであり、米軍将兵との個人的関係の延長でアパートメントに滞在し、「体を求めてくるどのアメリカ兵ともいっしょに寝る(=性行為の相手をする)こと」によって、「寝る(=身体を休める)ところと食べものを」確保していたわけである。そこでは「女たち」の「自由意思」が保たれていたことになる。「女たち」には、―・ド・カヴァリー少佐の契約したアパートメントに滞在せず、「体を求めてくるどのアメリカ兵ともいっしょに寝ること」をしない「自由」は保たれているのである。

 

 各アパートメントに用意されていた「料理、給仕、掃除のための女」あるいは「メード」については、小説中の続く部分で、

 

 ライム色のパンティーをはいたメードというのは、三十代の半ばにも達する威勢のいい、よく肥えた、世話好きの女で、ぶよぶよの腿を持ち、よく揺れ動く臀をライム色のパンティーに包んでいたが、彼女は自分の体を求めるどんな男のためにも必ずそのパンティーをたくし下ろした。だった広い平凡な顔の持ち主だったが、この世で最も美徳に満ちた貞女であった。
 なぜなら彼女は、相手の人種、信条、、皮膚の色、生まれた国などにかかわらずだれとでも寝たし、歓待の行為として愛想よくわが身を捧げ、男から抱きつかれると、そのとき持っているものが布巾であれ、箒であれ、モップ雑巾であれ、それを捨てるのに一瞬たりとも躊躇しなかったからである。彼女の魅力はその近づきやすさから発していた。エベレストのように彼女はそこにあり、男たちは切なる欲望を感じるたびに彼女の上にのぼればよかったのだ。ヨッサリアンはこのライム色のパンティーのメードを愛していたが、それは彼女こそ恋に陥ることなく抱ける、いまや残された唯一の女だと思われたからである。シシリー島の頭の禿げた娘ですら、まだ彼のうちに同情とやさしさと後悔の強い感情をあおるのだった。
     同書  223~224ページ

 

…という描かれ方をされているが、しかし、この「ライム色のパンティーのメード」もまた、米軍将兵の性行為の相手をすることについて米軍と契約していたというわけではなく、彼女の自由意思は保たれている。彼女は自由意思に基づいて「相手の人種、信条、、皮膚の色、生まれた国などにかかわらずだれとでも寝たし、歓待の行為として愛想よくわが身を捧げ」たのであって、であるからこそ、主人公ヨッサリアンにとって、「このライム色のパンティーのメードを愛していたが、それは彼女こそ恋に陥ることなく抱ける、いまや残された唯一の女だと思われた」のであった。

 しかし、アパートメントに用意されていた「料理、給仕、掃除のための女」や「メード」のすべてが「ライム色のパンティーのメード」のように振る舞い、あるいは米軍将兵から「ライム色のパンティーのメード」のように取り扱われていたわけではない。すべての「女たち」が米軍将兵の性行為の相手として期待されていたわけではないのである。将校用アパートメントのミカエラは下士官兵用アパートメントの女たち、たとえば「ライム色のパンティーのメード」とは異なり、米軍人に性行為の相手として期待され取り扱われる存在ではなく、あくまでも「そしてどの部屋も塵ひとつなくきれいに掃除する痩せたメード」なのであった。

 しかしミカエラは、ヨッサリアンの乗機の航法士アーフィーの気まぐれと独善と冷酷の犠牲となり、強姦された果てに二階の窓から投げ落とされ、殺されてしまう。ここで重要なのは、将校用アパートメントのメードとして雇われていたミカエラが、アーフィー以外のすべての将校たちから性的対象としては取り扱われていなかったことである。アーフィーによるミカエラの強姦と殺害は、どちらかと言えば、アーフィーの個性の帰結として描かれているのである。もちろん、それはあくまでも戦時下の米軍支配地という条件下で引き起こされた強姦と殺人であるが(註:2)。

 

 『キャッチ=22』の主人公ヨッサリアンの相手となる女としては、米軍の病院看護婦、ローマの街の女、そして下士官兵用アパートメントのライム色のパンティーのメードなどが登場する。もちろん看護婦は、米国籍の同年代の(つまり若い)女性であり、それ以外は現地イタリアの若い女たちである。そして、どちらもが性欲の対象であると同時に、どちらもが恋愛の(それも熱烈な恋愛の)対象ともなるのである。

 ヘラーは、そのように、第二次世界大戦当時の米軍将兵と「女たち」の関係を描いているが、ヘラー自身のイタリアでの従軍体験が反映されたものであろう。

 ヨッサリアンには、街で出会ってアパートメントに連れて帰る「女たち」との性行為は、どこか「うしろめたさ」の感覚を残すものであったのに対し、この「ライム色のパンティーのメード」の当人の徹底的な自由意思に基づく性行為には、そのような感覚を抱く必要がなかった、ということなのであろう。日本軍の慰安婦と将兵の関係について言っても、性行為という究極の個人と個人との関係の中で、「慰安婦」としての「女たち」と、「慰安婦」としての「女たち」に性行為の相手をさせる日本軍将兵との間に(慰安婦の境遇への「うしろめたさ」をも含む)共感的な個人的感情の交流は存在し得たし、実際に存在もしていたわけである。

 もちろん、これは作中人物としてのヨッサリアンのキャラクターから発するものであり、ヨッサリアンのキャラクターはヘラ―により設定されたものであって、米軍将兵の「感覚」として一般化すべきものではない。ここでは「ライム色のパンティーのメード」がどのような存在として描かれているのかを、ヨッサリアンとのエピソードを通して読み取ることが問題なのである。実際の米軍将兵と「女たち」との関係の一面を反映したものと考えても間違いはないはずである。

 

 

 

 いずれにしても、敗戦後の占領下の日本で「進駐軍」としての米軍将兵の相手をした「パンパンガール」にしても、ヨッサリアンがアパートメントに連れて帰る「女たち」にしても、「ライム色のパンティーのメード」にしても、米軍将兵の性行為の相手をしない自由は残されているのであり(いかなる契約にも拘束されてはいないのである)、そこが日本軍の「慰安婦」とはまったく異なるのだということ(註:3)は、十分に理解しておかなくてはならない。

 
 

 
 

 

【註:1】
 原文は以下の通り。
 His duties as squadron executive officer did consist entirely, as both Doc Daneeka and Major Major had conjectured, of pitching horseshoes, kidnaping Italian labores, and renting apartments for the enlistedmen and officers to use on rest leaves, and he excelled at all three.

【註:2】
 ヘラーは、ミカエラとアーフィーのエピソードを以下のように描いている。ヘラーは戦時下の米軍将兵の行状を美化しようとしてはいないのである。

 手近なところで彼の知っている唯一の女は、将校たちがだれひとりいっしょに寝たことのない例の将校用アパートメントの不器量なメードであった。ミカエラという名前であったが、将校たちは甘ったるい作り声で愛そうよさそうにきたならしい呼びかたをした。しかし彼女は英語が全然わからないので、お世辞を言われたり、罪のない冗談を言われたりしたのだろうと思って、そのたびに子供みたいに喜んでクスクス笑った。彼女は将校たちのどんな粗野な行為を見ても、喜びに満たされてうっとりした。字は読めず自分の名前すら、満足に書けないが、幸福で、純朴で、よく働く女だった。肌は土色。しかも近眼で、将校たちのだれひとりとして彼女とは寝なかった。だれもそうしたいと思わなかったからである。ただひとりの例外がアーフィーで、彼はその晩に一回だけミカエラを強姦し、それから約二時間、彼は衣装戸棚の中に、手をミカエラの口に押し当てたまま監禁した。やがて民間人の外出禁止を告げるサイレンが鳴った。それ以後彼女が外へ出るのは違法というわけであった。
 たちまちアーフィーはミカエラを窓から投げ出した。ヨッサリアンがやってきたとき、彼女の死体はまだ舗道に放置され、そのまわりを厳粛な顔をした近所の人々が淡い光のカンテラを下げてとり巻いていた。ヨッサリアンは腰を低めて彼らを押しわけたが、しりごみをする人々の目は憎悪で輝き、おたがいにひそひそと、不気味な、非難のこもったことばを交しながら、にがにがしげに二階の窓を指さしていた。潰れた死体の哀れな、不吉な、血だらけの姿を見たヨッサリアンの心臓は驚愕と恐怖のために激しく鼓動した。彼は頭をかがめて玄関に突進し、一気に階段を駆け上がってアパートメントに入ると、そこにはアーフィーが、もったいぶった、ほんの少し不安げなほお笑みを浮かべながら、おちつきなく歩きまわっていた。アーフィーはいくらかあわて気味に彼のパイプをもてあそんでいたが、万事うまくいくだろう、とヨッサリアンに保証した。なにも心配することはない、というのである。
「おれはたったの一回あの女を強姦しただけだから」と彼はその理由を説明した。
 ヨッサリアンは唖然とした。「しかしおまえはあの女を殺したんだぞ、アーフィー。あの女を殺したんだぞ!」
「ああ、強姦してしまった以上、ああするほかなかったんだよ」と、アーフィーは彼にしてはこの上なくへりくだった口ぶりで答えた。「あの女がこれからおれたちの悪口をふれてまわるのを放っておくわけにはいかないじゃないか、なあ」
「それにしても、なんだってあんな女に手を出さなきゃならなかったんだ。この抜け作め」とヨッサリアンはどなった。「女が欲しけりゃなぜほかの女を手に入れなかったんだ。この市はどこへいっても淫売だらけじゃないか」
「ああ、そりゃだめだよ、おれには無理だ」とアーフィーは大きな顔をして言った。「おれはこれまでいっぺんだって淫売のために金を使ったことはないんだから」
「アーフィー、おまえは気が狂っているのか」ヨッサリアンはほとんどものを言う気力も失っていた。「おまえはひとりの女をころしたんだぞ。監獄にぶちこまれるんだぞ!」
「いや、そんなことはないよ」と、アーフィーはわざとらしい微笑を見せながら答えた。「おれにかぎってそんなことはない。だれも善良なアーフィーさんを監獄に入れやしないよ。あの女を殺したという理由ではね」
「しかしおまえはあの女を窓から投げ落とした。あの女は路上に倒れて死んでいる」
「あの女はここにいる権利はないんだよ」とアーフィーが答えた。「外出禁止時間が過ぎているんだから」
     ジョーゼフ・ヘラ― 『キャッチ=22 下』 ハヤカワ文庫 1977  303~305ページ

【註:3】
 日本軍の「慰安婦制度」の特徴として、慰安婦の募集には(そして多くの場合、慰安所の運用にも)民間業者を活用し、軍の直接的関与を避けていた事実がある。軍の関与の直接性ではなく間接性が、慰安婦制度の基本構図なのである。
 しかし、間接的関与ではあっても、慰安所の設置を起案するのは軍であり、民間業者に慰安婦の募集を求めるのも軍であり、戦地に慰安婦を移送するのも軍であり(これは直接的関与に属する)、民間業者の運営する慰安所を警備するのも軍であり、民間業者の運営する慰安所の衛生管理をするのも軍であり、民間業者の運営する慰安所の顧客も軍であった。
 慰安所は軍による軍のための施設なのであり、慰安婦は軍が集めさせた軍のための戦時売春婦(平沼赳夫)なのである。
 慰安婦と軍の間での直接的な契約は避けられていることは確かであるが、しかし、日本軍将兵を相手にした性行為を契約に基づいて遂行することが慰安婦には求められていたのであり、軍はそのような契約を民間業者に代行させたに過ぎない。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
     投稿日時 : 2013/06/03 22:13 → http://www.freeml.com/bl/316274/204222/
     投稿日時 : 2013/06/07 20:21 → http://www.freeml.com/bl/316274/204327/

 

 

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2012年12月26日 (水)

資産家の息子

 

 私の母方の祖父について、

 

  …、明治十八年大分県に生まれ、父政太郎は恵良家より養子に入り、母サダは中津の恩田家より嫁している。素封家で、「政太郎さんはカンガルーの靴しか履かないし、サダさんは、ハトの肉しか食べないそうな」と噂されたという話が残っているように、カンガルーの皮のように軽くてやわらかい靴しか履かず、ハトの肉のようなやわらかい肉しか食べないとの例え話で、その優雅な生活が想像される。福沢諭吉の同世代の文明開化に啓蒙された見本のような、大分の一族であったようだ。
     林和代 『「斜陽」の家 雄山荘物語』 (東京新聞出版局 1994)

  

…なんて書いてあるのを読む。

 (私にとっては曽祖父である)政太郎の「政太郎さんはカンガルーの靴しか履かない」という噂、それもそれが明治十年代の話であることに、ちょっと驚いたりする。私の履いているのは、基本的に牛革の靴である。

 「福沢諭吉の同世代の文明開化に啓蒙された見本のような、大分の一族」とあるが、実際に福沢諭吉のことを「ゆきっつぁん」と呼んでいたりするような「一族」であったらしい(それは母から聞いた)。

 庄屋・名主という種類の出身階層が、明治以降にも富裕な生活に結びついていた、ということのようである。祖父に嫁いだ相手(つまり祖母)も、こちらの先祖は『平家物語』(「緒環」の章)にも登場するような家で、祖母の父は明治の草創期海軍に参加し将官にまでなっている。

 祖父の姉妹の嫁ぎ先にも海軍将官がいたりするので、文明開化的であると同時に富国強兵的風潮からも無縁ではなかった一族なのであろう。

 

 

 その祖父は、応用化学畑から写真技術へと進み、美術印刷会社を設立・経営するに至る(註:1)。先の本には、

 

  美術印刷が主な仕事であったらしく、画集、写真集などたくさんあるが、大正十五年に発行されている『明治大帝御写真帖』は部厚い大変立派なもので、明治天皇から後の昭和天皇までの皇族のすべて、明治維新後の歴史的な事、天皇ゆかりの宝物から、めのと(乳母)に至るまで皇族のことが網羅されており、カラー印刷の立派な本である。

 

…なんて書いてあるが、「美術」というインターナショナルでもあるジャンルを手掛ける一方で、『明治大帝御写真帖』(こちらは単に印刷の請負ではなく出版元となっている)のようなナショナリズムにつながる系譜の仕事もこなしていたわけである。

 

 文明開化と富国強兵が共存していた世界の話である。それは富国強兵が支えた文明開化でもあった。

 

 

 

 父方の家は、小田原藩の下級武士階層だったようだが、江戸詰めになり文人生活化の道を辿ったらしい。蜀山人と交わした手紙が残されていたという話があるから、ま、江戸の都市生活を文人的に楽しんでいた公務員(武士)ということになるのであろうか。一族の中には文人的生活の延長として(?)絵画の世界の住人となった人物もいるようで、明治期の勧業博覧会の類で入賞した話を聞いた覚えもある(作品はボストン美術館収蔵品にもなっているらしい)。

 父方の祖父は若くして亡くなった(註:2)らしいが、日銀勤務であったというので、こちらは公務員家系の一員として文明開化の一翼を担ったことになる。

 ま、私は(父方で言えば)公務員系列ではなく文人系列の血を受け継いでしまったらしい。

 

 

 母方の祖父の話に戻ると、

 

  戦時中も従軍画家の画集や陸軍大将の写真集など軍事色の濃い仕事が増えていたが、四百名もいた従業員が次々と出征してしまい、技術者の人手が足りなくなって会社を継続するのが困難となり、凸版印刷に技術も会社もすべて譲ってしまった。

 

…という戦時生活を経験することになる。その影には統制経済体制の進行による会社合同があるだろうし、戦時利得という形式の金儲けに向かない当人の気質もあったのかも知れない(註:3)。

 

 いずれにしても、明治から戦前期昭和までは「カンガルーの靴しか履かないし、ハトの肉しか食べないそうな」と言われた一族も戦争ですべてを失い、今では相続財産とも金儲けとも縁のない世代が跡を継いでいるような状況である。

 

 

 

 宮澤賢治の場合は、その出自が農村社会の中での質屋という家業であったことが、彼の人生に大きく影を落としていることを感じさせるが、同じ戦前期の資産家階層であっても私の祖父の姿からは賢治のような負い目は感じられない。

 

 文化学院の創設者であった西村伊作もまた、継承した莫大な資産をその事業の原資としているわけだが、西村伊作にも賢治的な形での負い目は感じられない。伊作の場合は山林地主としての資産であることが、賢治的な負い目から身を離すことにつながっているように思われる(農民からの直接的搾取により資産形成をしたわけではない)。

 もっとも七歳時の濃尾地震で(目の前で)両親を失ったことが、資産継承の機縁であった(母方の祖母の家の相続者となった)こと。敬愛していた叔父の大石誠之助が大逆事件で連座させられ処刑されたことは、伊作を単なる金持ちの道楽息子として考え、文化学院の事業を金持ちの道楽として捉えようとする類の視点から私たちを遠ざける(註:4)。

 

 

 賢治の場合、単に資産家の家庭に生まれたという問題なのではなく、質屋という家業の落とした影が、大きく彼の人生を決定付けてしまった。

 そのように考えるわけだが、彼の自然科学的な文学的な宗教的な資質の基本は、彼自身のものであったはずである。質屋の息子であるということだけでは、彼の作品は存在し得ないのである。

 

 

 

【註:1】
 その後に判明したところによれば、

 東京高等工業学校 工業図案科選科
 明治41年(1908)7月入学 明治42年(1909)7月卒業

 明治44年(1911)~大正7年(1918) 九州帝国大学工科大学・応用化学教室 助手

 大正14年(1925)~アサヒ印刷所(東京)を設立・経営

…というのが経歴をめぐる事実関係の詳細のようであるが、調べて下さった未知の方(小野一雄氏のブログによる)には頭が下がる。
(より詳しくは→ http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/459/)。

 この「アサヒ印刷所」の仕事をめぐって私が母から聞いていたことの一つに、出版社「アルス」の北原鉄雄(白秋の弟)との親密な関係がある。

【註:2】
 あらためて確認したところ、父方の祖父が亡くなったのは大正7年、父が18歳、父の妹が8歳、弟はまだ6歳の時点であった。

【註:3】
 1942(昭和17)年に日本印刷文化振興会から刊行された『講演と座談会の報告書』(昭和17年上半期会報)には、「印刷統制の現状を語る会(鈴木正文,加来金升両氏をかこんで)」なる記事が掲載されているようである(http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000684488-00)。まだ戦勝気分に覆われた時点での「講演と座談会」と位置付けられるが、当人の時局意識(大東亜戦争観)を窺う上でも興味深い資料となりそうである(目を通す機会を作りたいと思う)。

【註:4】
 あらためて調べてみると、西村伊作が明治17(1884)年生まれで、私の祖父(加来金升)が明治18(1985)年生まれ。宮澤賢治は明治29(1896)年生まれであった。
 賢治の没年(37歳)である昭和8(1933)年には、西村伊作は49歳、祖父は48歳という関係になる。

 西村伊作は戦前の自由主義の代表格のような人物だが、祖父の立ち位置がどうであったかは(今のところ)よくわからない。
 ただ、母の小学校時代の恩師が小林宗作で、母は小林宗作への尊敬の念を最後まで語っていた。この小林宗作こそは黒柳徹子のトモエ学園時代の恩師であり、大正自由教育運動の推進者の一人であったわけで、そのように母を育てたのも祖父だ、ということにはなる。
 祖父の仕事としては陸軍美術協会関係の出版物もあるし、海軍関係の親戚もあるわけで、大日本帝國の国策を受け容れていたであろう可能性は考えられるが、祖父に育てられた子供たちの気質を見ると、大正デモクラシーの良質な部分を感じさせられもする。

 私の場合、父が五十代、母が四十代での生まれなので、周囲の遊び友達の両親とは一世代分のズレがあった。私の祖父は、普通なら曽祖父に相当する年代の人間である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/05/12 00:00 → http://www.freeml.com/bl/316274/188704/

 

 

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