カテゴリー「特別な日付」の記事

2009年11月 9日 (月)

壁を築くことの意味

 

 壁を築くこと。

 

 

 

 壁とは、内部と外部を分かつ境界として機能するものだ。

 壁の内部とは、私の部屋であり、我が家であり、そして国境線の内側である。

 そこは私の場所であり、私達の場所である。

 

 外部には異質な世界が広がり、時には危険であるかも知れない。

 

 そんな異質で危険でさえある外部から、壁が、私を、私達を守るというわけだ。

 そのために私達は壁を築く。安全な世界を維持するために。

 

 

 

 そんな壁に対し、内部に築かれる壁というものもある。刑務所の壁であり、精神病院の壁がそれだ。内部の異質さ、そして危険と想定される存在を、内部世界から排除・隔離するための壁である。彼らは内部の内部に閉じ込められる。築かれるのは、内部の内部に閉じ込めるための壁なのである。

 

 

 

 20世紀の前半、ナチスは内部の危険な異質さとしてユダヤ人を指名し、ドイツの国民生活からの排除に着手し、やがて強制収容所のフェンス(つまり壁である)の内に閉じ込め、ガス室の扉の向こうに閉じ込め、最後にはその生命を世界から排除した。

 占領地では、まず、ゲットーの壁の内部にユダヤ人は閉じ込められ、外部から隔離された。壁は外部の生活世界からユダヤ人を隔離し、つまり生産活動からも経済活動からもユダヤ人は切り離され、生活基盤そのものを奪われた状態に置かれることになる。ゲットーの壁はユダヤ人の生を守るものではないのである。

 ゲットーのユダヤ人も、強制収容所あるいは絶滅収容所に順次移送され、その多くは焼却炉の煙となった。

 

 ゲットーや強制収容所の壁により守られたのは、アーリア人の純潔であり、ナチスにとって望ましいドイツの姿であった。

 

 

 

 

 

 20世紀後半のドイツの共産主義者達は、新たな壁を築くことになる。

 1961年、東西ベルリンは壁により分断された。

 この壁の特異性は、これまでにも何度か書いたことだと思うが、繰り返し考察するに値するものだ。

 

 資本主義世界から共産主義世界を守る壁、というのは正確な評価ではないのである。異質で危険な外部の脅威から内部世界を守る壁ではないのだ。内部への外部の流入に対する防波堤ではないのである。

 共産主義者が統治する世界から、資本主義者が統治する世界への国民の移動を阻むための壁なのである。ドイツ民主共和国からドイツ連邦共和国の領域への住民の移動を阻止すること、つまり、内部の外部への流出を阻止するための壁なのである。

 

 ベルリンに築かれた壁で何が何から守られたのか? これは考えておくに値する問題ではないだろうか?

 果たして共産主義世界は、ベルリンの壁で守られていたのだろうか? …という問題である。

 ベルリンの壁で守られたのは、共産主義者の純潔であり、共産主義者にとって望ましいドイツの姿であった、と言い切ることが出来るのか? …という問題なのである。

 

 自らの国民を外部から隔離し、壁の内部に閉じ込めるという選択。その発想に示されているのは、ドイツの東側を統治した共産主義者の弱体ぶりであろう。

 壁により守られたのは、国民ではなく、共産主義者による統治体制の存続であったに過ぎないのである。

 

 

 

 

 

 かつてナチスにより、壁の中に閉じ込められ、ガス室のドアの中に閉じ込められ、生命を奪われた経験を持ったユダヤ人が、自らの民族国家であるイスラエルの建国に成功したのは20世紀後半のことであった。

 国境という壁により外部の脅威から守られることのなかったユダヤ人が、自らの民族国家を獲得し、国境線と国軍により守られる安全な内部空間を確保したのである。

 

 しかし、歴史的に、イスラエル国家の土地はパレスチナ人の土地なのであり、ユダヤ人によるイスラエル国家の建国が意味するのは、パレスチナに対する占領統治なのである。

 ユダヤ人にとっての安全な内部空間は、パレスチナ人にとっては不当な占領状態の空間なのである。安全なはずの内部空間は、最初から不安定なものなのであった。

 イスラエル国家のユダヤ人にとり、パレスチナ人の存在は内部の異質性、内部の不安定要因、内部の危険として理解されることにならざるを得ない。

 

 21世紀のイスラエル国家のユダヤ人の選択は、新たな壁の構築であった。

 新たな壁を築き、パレスチナ人を壁の内部に閉じ込める。ユダヤ人国家内部の安全は、内部に新たに構築される壁により保証されることになる(はず)なのである。

 

 壁は、外部からパレスチナ人を隔離し、パレスチナ人同士を分断し、パレスチナ人による生産活動や経済活動の自由を奪うものとなる。つまり、パレスチナ人からの生活基盤の剥奪を意味するものとなるのである。

 かつてナチスが築いたゲットーの壁と同じ効果をパレスチナ人にもたらすのである。

 

 そのような壁の構築は、果たしてイスラエル国家内部のユダヤ人の安全に、永続的な効果を持ち得るものなのだろうか?

 

 少なくとも、かつてのホロコースト被害者の末裔が、かつてのナチスの似姿を演じていることの意味は、考えておくべきであろう。

 他者への永続的な抑圧が、自らの安全の保証を意味するものだという信念の構築がもたらすのは、当人の道徳的腐敗以外の何物でもないように思われる。

 

 もちろん、ナチスの将校も、ドイツ民主共和国の共産主義者達も、自らの道徳的正しさをこそ確信していたに違いないのであるが…

 

 

 

 

 

 

 

 1989年の11月8日。

 ドイツ民主共和国の共産主義者達は、その社会主義統一党の中央委員会総会を開催していた。

 その時点では、誰も、翌日に起きるいわゆる「ベルリンの壁崩壊」を予測してはいなかったのである。

 そんな20年前の出来事を思いながら、あらためて壁という存在について考えてみたわけだ。

 20世紀と21世紀の歴史の中の「壁」の姿である。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/11/08 18:47 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/121540

 

 

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2009年9月12日 (土)

9月11日 世界は、より安全になったのか?

 

 全体主義と陰謀論。

 どちらも私の嫌いなものだ。

 

 

 

 あの「9 . 11」がブッシュ一味の陰謀であった、という話があることは知っているが、アルカイダによるブッシュ政権(というより米国)への敵対的行為であったと考えても、事実関係に矛盾は生じない。

 ブッシュ政権による陰謀であったという解釈で、事件全体(と、その後の展開)の理解が容易になるとも思えない。

 まぁ、陰謀論の内容を検証しての話ではないので、私に言えるのはそこまでだ。

 

 

 大日本帝國海軍による真珠湾攻撃の成功がルーズベルトの罠だった、と考えることは出来るが、対日宣戦布告とそれに連動しての対独宣戦布告をするためだけに、太平洋艦隊の主力を犠牲にする必要はないだろう。真珠湾で連合艦隊を迎え撃ち、日本海軍の主力を撃滅した上で対日戦に臨む方が合理的である。

…というのが私の判断であり、ルーズベルト陰謀説に与する気にならない理由である。

 

 

 

 アフガン戦争にしても、タリバンによるビンラディン引渡しの可能性は存在したわけだし、戦争は必然ではなかったはずだ。ビンラディンの身柄引渡しが実現していれば、戦争に至ることはなかったのである。

 戦争という帰結は、「9 . 11」から確定的に導き出されるものではなく、あの被害をビンラディン引渡しで埋め合わせても、ブッシュ政権の利益にはならないだろう。陰謀論の描く「ブッシュの利益」は、事後の現実の展開からの解釈としては成立するのかも知れないが、すべての展開が事前のシナリオによるものと考えるには無理があるようにしか思えないのである。

 

 

 対イラク戦争を導き出したのは、アフガンにおける予想を超えた米軍の勝利であろう。対アフガン戦争(現実には対タリバン戦争である)は、いわゆる米軍の「軍事における革命 (RMA; Revolution in Military Affairs)」の成功例として語られることになったが、確かにそのような側面を無視は出来ないにしても、北部同盟として地上戦を現実に遂行した反タリバン勢力の存在なしには、あそこまで迅速な勝利の確保はなかったはずである。

 ラムズフェルドに、そのことを理解する冷静さがあれば、対イラク戦争でのあそこまでの失態はなかったであろう。

 

 

 

 そもそも、アフガンにおけるタリバン支配がなぜ生み出されたのか?

 ソ連によるアフガン侵攻に対し、抵抗したアフガン勢力を支援したのは米国であった。アフガンからのソ連の撤退と、ソ連邦自体の崩壊後の世界において、国際社会(そして米国)は、戦争で荒廃したアフガニスタン国家の復興という課題を放置し、結果として生み出されたのがタリバンによる統治だったのである。そして、ビンラディンは、対ソ抵抗時のイスラム戦士のいわば代表としてタリバンに遇されていたわけだ。

 その歴史的過程を一瞥すれば、アフガン戦争後の最大の課題は、アフガニスタンの国家としての復興の成功であったことを理解するのは容易(なはず)である。

 

 アフガン復興の成功こそは、世界をより安全にする鍵であったはずだ。

 しかし、なぜか、ブッシュ政権には、アフガニスタンの復興支援への関心はなかったようである。

 

 アフガンでの(見かけの)軍事的成功による、国際社会での米国の発言力の強化という実績を前に、米軍の「軍事における革命 (RMA; Revolution in Military Affairs)」の成功の再演による国際社会における絶対的発言権の確保こそが、対イラク戦争の目的であったのだと、私は考える。

 対タリバン戦争という、軍事的には劣弱な勢力を相手にした戦争の成功に続き、湾岸戦争で装備の多くを喪失し、その後の新兵器への更新のない、劣弱になったイラク軍との戦争における勝利は自明のことであり、ブッシュ政権はその機会を捉えたわけだ。

 それにより、国際社会における米国の発言力の絶対的優位が獲得出来るはずだったのである。ブッシュは、米国大統領として、歴史的に称賛されるべき実績が残せたはずなのである。もちろん、ブッシュ一味には戦後のイラクにおける利権からの利益が保証されるというオマケ付きで。

 

 

 

 確かに、米軍は戦闘には勝利したわけだが、戦後統治には失敗し、結果として、ブッシュは史上最低の大統領という評価を得ることになったわけだ。

 第二次世界大戦後の日本占領の経験が、イラクの戦後統治のモデルとして喧伝されていたが、日本占領の成功は、天皇の地位の保証と戦前からの国家行政組織の温存というファクターによる部分が大きく、すべての国家組織を雲散霧消させてのイラクの占領は、まったくの別の事態だったのである。

 困難なのは、戦闘における勝利の獲得ではなく、占領統治の成功であることは、中国大陸における大日本帝国の軍隊が十分に味わったものである。同じ過ちを、ブッシュの軍隊は繰り返した(繰り返す羽目に陥らされた)わけだ。

 皇軍の失敗は、政治を理解しない軍人によるものであったが、米軍の(そして米国民が味わった)悲劇は、軍事の困難を理解しない政治家ラムズフェルド(あくまでも彼は文民である)がもたらしたものであった。

 

 

 

 

 

 この8年の歴史をふり返った時に、私に見えるのはそのような現実であり、そこに「陰謀」というファクターを加えなければ理解出来ない事態は存在しないのである。

 

 

 

 もちろん、「陰謀」が現実のものであったのだとすれば、ブッシュの愚かさは倍化されることになる。

 ブッシュは、結果として何の利益も得ていないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/09/11 22:10 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/115821

 

 

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2009年8月16日 (日)

無差別爆撃の論理 4 (特攻と戦略爆撃)

 

 「あの戦争」について語る時、「特攻」の問題を避けて通ることは出来ないだろう。

 

 

 特攻による戦死者を、崇高な精神の発揮者として賛美するか、無謀な戦争の果ての無責任な作戦の犠牲者として悼むのか、いずれにせよ、そこにあるのは軍の作戦としての自殺攻撃という手法なのである。

 近代における技術と生産力の発展という条件の下に、人類は二度にわたる「世界大戦」を経験することになった。技術革新と新たな兵器の登場。それが20世紀の戦争を語るに際し、あの時代の戦争の特徴的な姿として、私達に共有されているように思える。

 

 近代戦争、近代総力戦と呼ばれる戦争の形の背後には、技術革新と生産力の結合がある。そこからは、戦争遂行者としての軍隊が、技術革新の集約的産物である最新兵器を最後まで駆使し得るかに戦争の勝敗の帰趨がかかっている、という認識が生まれるだろう。

 「あの戦争」において大日本帝國の軍隊が追い込まれたのは、技術革新と工業的生産力に基づく戦争遂行という条件における無能力さという現実であり、特別攻撃という名の自殺攻撃の採用であった。そこには、兵器の操作者としての軍人・兵士の存在は既になく、人間の命そのものが攻撃兵器として「作戦」に使用されるという状況のみが残されていた。

 

 特攻による戦死者を賛美するにせよ、犬死として悼むにせよ、そこには近代戦争としては異様な用兵・作戦の存在があったことが、前提として理解・共有されているものと言い得るだろう。

 

 

 

 大西瀧治郎の名は、その特攻攻撃の組織者あるいは責任者の名として理解されている。近代戦争における非近代的な用兵・作戦の実行者、ということになるだろう。昭和19年10月に大西が第一航空艦隊司令長官として、特攻作戦の指揮を執ったことは事実である。

 しかし、大西の軍人としての生涯を見渡せば、彼自身はそのような非近代的用兵・作戦の発想から最も遠い場に身を置いていたことがわかる。

 第一次世界大戦後の世界に軍人として身を置いた彼は、戦争における航空力の優位を主張していた人物として、日本海軍で頭角を現すのである。戦艦の建艦能力と保有量が海軍の戦力を決するという当時の認識の中で、第一次世界大戦後の世界、第一次世界大戦後の戦争のあり方を、つまり近代戦争の現実を正確に理解していたのが大西瀧治郎その人、ということなのだ。

 

 

 

 たとえば荒井信一は、1936年の陸軍航空本部作成の『航空部隊用法』中の「政略攻撃」の項を、当時の日本陸軍における「戦略爆撃」思想の例として紹介した上で、

 一方、海軍では1937年7月、航空本部の意見パンフレットとして『航空軍備に関する研究』が関係者に配布された。起案者は、当時航空本部教育部長であり、のちに特攻作戦の発案者となる大西瀧治郎大佐であった。陸海軍の作戦への協力以外に戦略爆撃を実施する独自の戦力として空軍(純正空軍)の独立を説き、「純正空軍式航空兵力の用途は、陸方面においては、政略的見地より敵国政治経済の中枢都市を、また戦略的見地より軍需工業の中枢を、また航空戦術見地より敵純正空軍基地を空襲する等、純正空軍独特の作戦を実施するほか、要する場合は敵陸軍の後方兵站線、重要施設、航空基地を攻撃し陸軍作戦に協同するにある」と述べ、「純正空軍式の戦備」の急速な整備を急務と説いた(戦史叢書『海軍航空概史』)。
 …
 しかし、海軍ではパンフレットは部内の統制を混乱させるとして、回収を命じられた。海軍の主流にとっての関心事が、海上決戦の主力である主力艦を戦艦にすべきか航空母艦とすべきかという時代錯誤的な論争にあったからであろう。
     荒井信一 『空爆の歴史』 (岩波新書 2008)

と、海軍における戦略爆撃思想の理解者・主唱者として、大西瀧治郎の名を提示しているのである。

 

 支那事変の進展に伴い、

 海軍は陸軍の要請に応え、航空隊の主力を支那方面艦隊の指揮下に移し、第一・第二連合航空隊(司令部漢口)に配備していた。海軍きっての戦略爆撃論者大西瀧治郎は、1939年末に第二連合航空艦隊司令官に任じられ、奥地爆撃の強化に当たる。翌年4月10日付で各艦隊司令官などに配布された『海軍要務令(航空戦之部)』は、「要地攻撃」を「軍事政治経済の中枢機関、重要資源、主要交通線等敵国要地に対する空中攻撃」と定義している。作戦実施要領の骨子は、37年に大西が起案し「怪文書」として没収されたパンフレットの内容そのままである。「要地攻撃」の最大目標として重慶爆撃が本格化するのは39年5月からである。

という形で、近代戦における航空機の優位と戦略爆撃の有効性の論理を理解し、部隊司令官として攻撃を実行した人物としての大西瀧治郎の姿が、荒井により描かれている。

 

 

 

 しかし、海軍では艦隊決戦論者の下に戦艦大和・武蔵の建造が優先され、航空母艦及び航空兵力の充実は後回しにされることになる。真珠湾攻撃(大西の基本計画に基づく)の成功は、実戦での航空力の優位を証明するものであったにもかかわらず、そのことへの理解が得られたようにも見えない。

 そのような状況下で、米国の圧倒的な工業生産力との闘いとして大東亜戦争は進行し、生産力の絶対的劣位の中で大日本帝國は敗退していくのである。

 

 軍人として近代戦争を誰よりも理解していた人物が、航空本部教育部長としてパイロット養成の困難を誰よりも理解していたはずの人物が、「特攻」という「統帥の(統率の)外道」の作戦指揮を執る事態に陥るに至る軌跡は、この国の歴史の一断面として、「あの戦争」の現実を語る際に忘れずにいたいことの一つである。

 

 

 軍事理論としての「戦略爆撃」思想の先駆的理解者の一人が大西瀧治郎であったのであり、中国大陸における「要地爆撃」を実施する「戦略爆撃」の先駆的実行者の一人が大西瀧治郎であった。

 大東亜戦争の戦局の悪化の中で、その大西が「特攻」を指揮し、その祖国が容赦のない戦略爆撃の対象となっていく。空襲により荒廃した東京で、ポツダム宣言受諾に反対し、徹底抗戦を叫び続けたのも同じ軍令部次長としての大西瀧治郎であった。

 昭和20年8月15日、大西は渋谷の軍令部次長邸で自決する(靖国神社『遊就館 図録』によれば自決の日付は15日であるが、『ウィキペディア』によれば8月16日である)。

 

 

 

 

 

【大西瀧治郎】
 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E7%80%A7%E6%B2%BB%E9%83%8E
【無差別爆撃の論理】
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/cat33391635/index.html

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/15 20:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113240

 

 

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2009年8月15日 (土)

国体の精華としての、特攻、玉砕、本土決戦、そして特殊慰安施設協会

 

 昭和20年の8月14日、まだ戦争は続いていた。

 小田原がB-29の空襲を受けるのは、8月15日へと日付が変るころだった。

 

 

十四日の午後、千葉から兄上がいらっしゃった。無条件降伏のことはご存じなく、火事見舞と、本土決戦をひかえて、最後のつもりでいらっしゃったのだった。その夜はまだ空襲があって、小田原が燃えた。森の向こうに赤い火の手が上がり、それは、絵のように美しかった。
     太田静子 『斜陽日記』 (小学館文庫 1998)

 

 まさに、昭和20年8月14日の夜更けに、「小田原が燃えた」のである。

 太田静子自身は、8月12日に訪れた加来氏から、「無条件降伏に決まったことを教え」られていたのだが、そのこと(御前会議でのポツダム宣言受諾決定)を知らぬ「兄上」にとっては、戦争はまだまだ終わらず「本土決戦」へと続くものだったわけである。

 「兄上」同様、多くの日本人にとっては、「本土決戦」という事態がやがて待ち受けている。それが、昭和20年8月14日夜、大日本帝國臣民にとっての平均的未来像であったはずである。

 

 

 

 

 本土決戦?

 何のために??

 国体護持のために!!!

 

 戦争における敗北の経験は、それまでの「近代」の日本人にはなかったということを、ここでは思い出しておくべきかも知れない。

 単に未経験な事態であるばかりではなく、神国日本の国体の精華である皇軍は不敗の存在なのであり、勝たない(勝てない、ではなく)戦争など想像のつくものではなかったように見える。戦争に、敗北という終了があることに考えが及ばない状態、とでも言えばよいだろうか?

 昭和という時代は長いが、後に「戦前・戦中」と呼ばれることになる時期には、軍事的手段による大日本帝國の支配領域の拡大への努力が日常化し、それは常に成功するものと想定されていたのである。

 

 現実には、昭和12年7月7日以来の「支那事変」では、見かけ上の支配領域の拡大の一方で、期待されていた中華民国国民政府の降伏による戦争状態(あくまでも「事変」であって、国際法上の「戦争」ではなかったことになってはいるのだが)の終了に至ることはなく、つまり大日本帝國の勝利として戦争状態の終了を迎えることは出来なかったのである。

 支那(中華民国国民政府=中国)が負けを表明しない限り、大日本帝國としての勝利はないのである。しかし、当初の「対支一撃論」は根拠のない楽観であったし、「首都南京占領」が中国国民政府の降伏に結びつくこともなかった(国土は広く新たな首都は重慶とされたが、南京まではたどり着けた皇軍にも、重慶は遠すぎた)。

 しかし、そのことを大日本帝國から見れば、大日本帝國も決して負けているわけではないのであって、つまり、いつまで経っても勝てないという状態が続いていただけなのだ、ということになる。

 少なくとも、個々の戦闘には勝利し、大日本帝國は、その地図上の支配領域の拡大に成功したことも確かなのではあるが、安定した支配権力を確立することも最後まで出来なかったのである。

 広大な国土と、無尽蔵であるがごとき中国(あるいは支那)の人的資源を前に、戦争状態はいつまでも続くものに見えるようになった。あるいは「行き詰まり」状態として感じられるようになった。

 

 その「行き詰まり」の打開策として選択されたのが、米英との戦争なのである。

 

 しかし、言うまでもないことであると思われるのだが、対米戦争とは、米国の広大な国土と人的資源の大きさに加え、すべてにおいて巨大なその資本力と資源量と工業生産力との戦争となることを意味するのである。

 中国大陸における広大な国土と無尽蔵な人的資源を相手にしての、勝利という結末を見ることの出来ぬ戦争状態の継続の打開策が、米国との戦争であったということなのである。

 中国における戦争状態を勝利をもって終えることの出来ぬ大日本帝國が、中国大陸における戦争状態の継続に加え、新たに対米英戦争を開始してしまったわけなのだ。

 勝てるわけがない、と、現在の冷静な判断からは言うことが出来る。

 

 

 資源量の絶対的不足、工業力の絶対的劣位、その上で「特攻」という手法の採用による人的資源(及び工業生産物)の回復不可能な浪費・消耗にまで至るのが、対米英戦争開始後の大日本帝國なのである。

 しかし、負けるはずがないというのが、「戦前・戦中」と呼ばれる時代の(国体の精華としての)日本人の感覚であった(あるいは想像力の限界であった)。日本は「神国」なのであるから(20世紀の日本人は、実際に、そのように信じていたのである)、負けるはずはないのである。

 

 

 自ら策定した「絶対国防圏」を侵された段階で、戦争を勝利をもって終了する可能性の喪失が判断されるべきであるし、その時点で、国家目標は、戦争継続から戦争終結への努力へとシフトされるべきであった、と現在の冷静な視点からは言うことが出来る。

 

 しかし、玉砕、特攻、そして本土決戦という選択肢以外にないという視野狭窄状態が、大日本帝國の国体の精華として顕現してしまったのが、「戦前・戦中」と後に呼ばれることになる昭和の一時期のこの国の現実であったのである。

 本土決戦もまた、玉砕と特攻に終始することになったはずである。「負けたと言わねば負けたことにはならず、負けたと思った方が負けなのである」とは当時の新聞紙上にありふれた言い回しであった。しかし、玉砕と特攻、あるいは特攻と玉砕の組み合わせの果てにあるのは、大日本帝國の臣民の絶滅という事態である。

 絶対国防圏喪失後の大日本帝國の戦争継続理由は「国体の護持」であったわけなのだが、その結末が大日本帝國の臣民の絶滅となることは、頭を冷やせば誰にでもわかる理屈であろう。国民の絶滅によって、「護持」され得る何かがあるのだろうか?

 

 

 その理屈が理解出来る程度に頭を冷やす努力もしなかった結果、昭和20年8月15日まで日本国民にとっての戦争は続き、未明の空襲により小田原市民1,500人以上が罹災し、30~50人がが死亡することになったのである(正確な被害状況は今に至るも不明らしい)。

 

 

 

 ところで、昭和20年8月15日以前の大日本帝國には、戦争における敗北の経験はなかった。つまり、それまでは、戦争を勝利という状態でしか経験したことがなかったのである(個々の戦闘における勝利の集積が戦争における勝利となるわけだ)。

 その日本人にとって戦争における敗北が何を意味していたのかを考える上で、興味深い歴史的事実がある。

 あの「特殊慰安施設協会(RAA)」の存在を思い出すことが出来るだろうか?

 「特殊慰安施設協会」設立の経緯は、それまで自身の「戦争の敗北」経験を持たなかった日本人の想像力が描いた「敗北後の国民」が、敵兵に陵辱される婦女子の姿でイメージされていたことを示しているのである。

 戦闘の勝利が、かつてのこの国においては、戦時強姦の実行(そこでは実行する側であったことに留意)としてイメージされていたことを、あの「特殊慰安施設協会」設立の歴史が教えてくれるのである。

 「特殊慰安施設協会」の存在を、あらためて、わが国体の精華として深く認識に留めておくべきであろう。

  

 

【小田原空襲】
 → http://www.asahi-net.or.jp/~UN3k-MN/kusyu-odawara.htm
【対支一撃論】
 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E6%94%AF%E4%B8%80%E6%92%83%E8%AB%96
【神国日本】
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-45c4.html
【特殊慰安施設協会】
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/cat33396926/index.html



 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/14 21:24 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113133

 

 

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2009年6月16日 (火)

人民解放軍の銃口

 

 6月4日という日付は、やはり、「天安門事件」を思い起させるものだ。

 
 

 1989年だから、20年が過ぎたことになる。

 

 人民解放軍の銃口が人民に向けられた日だった。社会主義の軍隊の行為としては、そもそも軍隊の行動としては、珍しいわけではないだろう。

 軍隊とは、必ずしも国民の守護者ではないのである。

 

 しかし、「人民解放軍」という名称の軍隊が、人民に対し発砲する姿は痛ましいものだった。

 
 
 

 国民の存在が国家を生み出すのか?

 あるいは国家があればこそ国民が存在するのか?

…と問うことに意味はあるだろうか?

 

 まぁ、いずれにせよ、国家を否定することは簡単だが、国家に代わる存在を私たちはイメージしえていない。

 つまりここには、治安の保障も人権の保証も、国家という存在を抜きにしては成立しないという問題がある。

 

 国家こそが人権を蹂躙し、国民へ発砲する暴力そのものではないか、と言われればその通りなのであるが、しかし、国家以外に強制力を持ち、人権を保障することの出来る機関も存在しないのである。

 人権の保障自体が、暴力行使の可能性を排除しない強制力としての国家に裏打ちされているのである。

 
 

 もっとも国民に対し人権を保証する国家とは、実に最近の出来事なのであるが…

 「国民」という存在に支えられた「国家」というイメージ自体が、これまた実に最近のものなのである。っていうのは人類の歴史から見て、という話だが…

 
 
 

 今さらのことではあろうが、江戸時代に日本国民は存在しない。

 国とは藩のことであったし、その藩内においても士農工商を一括して国民と考えることはしなかった。

 統治者と被統治者、支配者と被支配者という関係性が貫かれる限り、そこに「国民」は生まれない。統治者、支配者による支配・収奪の対象として位置付けられる限り、国民としての自負は生じないのである。

 どこまでもフィクションであろうとも、国家の主人公であり国家の受益者であるという意識が、国民という自己意識の基盤となるのだ。

 

 法に縛られる存在なのではなく、法を創り出す存在。それでこそ国民なのである。

 軍隊を養い、兵士として参加し使役する国民。他国による侵略を撃退し、国民の安全を守る軍隊。つまり、その軍隊の主人は、あくまでも国民なのである。

 警察力の主人、それが国民なのだ。

 官僚組織の主人、それも国民だ。

 それが近代国民国家における、理念としての国民の位置付けである。

 

 代議制による国民の代表が立法府を構成し、そのことが国民が「法を創り出す存在」であることを保証する。

 であるからこそ、必ずしも暴力的でない形での法的強制力も生じるわけだ。法とは自分のルールなのである。

 
 
 

 もちろん、これまで書いたことは、理念であり、多分にフィクションである。

 

 代議制という手段しか持ちえない以上、法制定への関与は間接的なものでしかありえない。

 国民という括りの中にも、利害の対立する様々な集団が存在するのであり、立法府はその利害の調整装置となるわけだが、当然のことながら民主的運営による限り、どの集団の利益も完全には満たされることはない。

 非民主的すなわち独裁的運営を採用すれば、特定の集団の利益は最大限に満たされるであろうが、他の集団の利益は打ち棄てられることになる。

 
 
 

 1989年の天安門では、人民の利益を代表すると称した中国共産党が、共産党の利害をのみ考えて現実的に振舞ったに過ぎない。

 しかし、人類にとっての実に痛ましい歴史的経験であった。

 
 
 
 
 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/06/04 23:55 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/106145

 

 

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2008年12月 9日 (火)

ルーズベルトの真珠湾

 

帝國・米英に宣戰を布告す

 西太平洋に戰闘開始

  布哇米艦隊航空兵力を痛爆

【大本營陸海軍部発表】(12月8日午前6時)帝國陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戰闘状態に入れリ

【大本營海軍部発表=八日午後一時】

一、帝國海軍は本八日未明ハワイ方面の米國艦隊並に航空兵力に對し決死的大空襲を敢行せり

     (朝日新聞 東京版 昭和16年12月8日 夕刊)

…と、1941年12月8日の朝日新聞・夕刊の第一面トップに書かれている(「帝國・米英に宣戰を布告す」は右から左への大活字の横書き)。

 真珠湾に対する攻撃の報の横に並んで、「宣戰の大詔」が掲載され、更に「大本営海軍部発表」の続き、そして「社説」が並ぶ。

 その下段に「我海鷲、ハワイ爆撃」の見出しと共に、戦果が紹介されている(ただし詳細なものではない)。

 実際の戦果はというと、

日本軍の戦果 : 真珠湾在泊の戦艦8隻のうち撃沈4隻(アリゾナ・オクラホマ・ウェストバージニア・カリフォルニア)、大破3隻(ネバダ・メリーランド・テネシー)、小破1隻(ペンシルバニア)。地上基地飛行機の破壊は陸軍機231機・海軍機80。アメリカ軍に与えた人的損害は戦死・行方不明2402人(市民68人を含む)、戦傷1382人(市民35人を含む)。

日本軍の損害 : 喪失29機。戦死55人。

     (『太平洋戦争・主要戦闘辞典』 PHP文庫 2005)

となっている。

 パーフェクトゲームという気がしてしまったのも無理はないだろう。

 しかし、この戦果には空母が含まれていない。米太平洋艦隊所属の空母3隻は、在泊しておらず無傷のままであった。

 また、日本海軍による攻撃も徹底さを欠き、第3次攻撃は見送られてしまう。

 結果として、破壊を免れた乾ドックなどの米海軍施設は、被害を受けた艦船の補修に活躍することになる。戦艦8隻のうち6隻は引き上げられ、補修の上、戦列に復帰してしまうのである。

 結局、現実の戦果(つまり米海軍へのダメージ)は戦艦2隻の撃沈にとどまってしまうことになる。

 また、ワシントンで続けられて来た日米交渉打ち切りの通告も、在米日本大使館の不手際により、真珠湾攻撃の事後のものとなってしまう。

 その結果として、米国民からは「奇襲・騙まし討ち」という評価を与えられ、彼らの復讐感情を大きく刺激することになる。米国民の戦意高揚に貢献してしまったのである。

 ルーズベルトは、ハル・ノートの提示の結果、大日本帝國政府による日米交渉の打ち切りに至るであろうことは予測していたであろうし、暗号文解読の結果として、大日本帝國による先制攻撃のあることも予測していたようである。それを根拠にしての、ルーズベルトの仕掛けた罠だったという、一種の陰謀説も流布しているようだが、私は採用する気にはなれない。

 ルーズベルトあるいは米国政府及び軍当局者が、連合艦隊によるハワイへの攻撃、それも空母からの航空機による攻撃という事態まで予測していたと考えるには無理があるだろう。しかも第3次攻撃が実行され、あるいは別の海域で空母が発見・攻撃されていれば、米海軍は太平洋から姿を消していたのである。

 それが実現しなかったのは、ルーズベルトの陰謀あるいは戦略の結果ではなく、帝國海軍の不徹底さの結果と言うべきだろう。

 米海軍力の壊滅の可能性さえあったのが、帝國海軍による真珠湾攻撃なのであり、そんなチャンスを誰が自ら与えようとすると言うのだろうか? 

 そして、在米日本大使館の不手際まで予測出来なければ、日本軍による卑劣な奇襲という評価の獲得も出来ない。

 私は、陰謀説の採用には批判的にならざるを得ないのである。

 いずれにしても、温存された米空母と修復された艦船、そして新造される艦船と量産される航空機。アメリカの巨大な物量が、「リメンバー・パールハーバー!」の合言葉と共に大日本帝國へと向けられ、昭和20年8月15日の玉音放送という結末に至るのである。

 大本営および帝國政府には、どこまで問題を把握出来ていただろうか?

 赫々たる戦果の陰に生まれていた米国民の戦意の恐ろしさを。その生産力の巨大さを。

 真珠湾攻撃の成功が、その成功こそが、米国の国力のスイッチをオンにしてしまったのである。

 しかし、昭和16年12月8日の夕刊紙面から、誰が玉音放送という帰結を予測出来たであろうか? 

 結果を知っている現在から見れば、敗戦は当然の帰結に過ぎないと思われるが、後知恵による批判もまた空しい。

 昭和16年の今夜、国民の多くは、戦果を歓迎して眠りに就いたはずである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/12/08 22:34 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/87878

 

 

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2008年12月 7日 (日)

21世紀の最初の9月11日

 

 2001年の9月11日は、東京人にとっては、日中の台風の通過が、せいぜい共通の記憶として残るだろうにしても、7年も過ぎれば台風のことなど忘れ去られ、特に記憶すべきこともない、ありふれた9月の一日として思い出すことすらされない日付となっていただろう。

 台風のニュースも見終え、久しぶりに早寝をしようと思っていたところへ、階下から声がかかった。

 呼ばれて階段を降り、指差された先のテレビを見る。

 ニューヨークの高層ビルの中ほどから大量の煙が上がっていた。

 飛行機が衝突したのだと、私を呼んだ、娘の母が言う。

 なんてことだと思いながら画面に見入っていると、何と2機目が隣に並んだビルに激突した。「激突」というか、吸い込まれ、激しい炎と煙へと変った。

 事故ではないぞ、ということは、その時点で推測出来た。

 やがて、他にもハイジャックされた旅客機の存在が明らかとなり、ペンタゴンも標的とされ、別の一機の墜落も確認されていく。

 もっとも、7年前の記憶となってしまった出来事の順番は定かではないが、とにかく、深夜まで、テレビの前から離れられなくなってしまったことを覚えている。

 当時、私は休職し、寝たきり状態となった母の介護を続けていた。一日中、家で過ごしていたのである。

 台風も、家の中で、外を過ぎていく出来事として経験したに過ぎない。

 その日の台風を覚えているのは、母の介護の日々、母の最後の日々を、その日の母の姿を撮影することで、家にこもり続けた一日のアクセントとしていたからだ。同じカメラで、台風の過ぎ行く窓の外を撮影し、そして炎上するツインタワーのテレビ画面も私は撮影していた。

 母の死後、残された写真を整理している中で、同時多発テロの日、東京は台風に襲われていたことは再発見されたのである。

 時期的には介護保険制度の発足と重なり、身体の介護に関しては、訪問看護師と、ヘルパーさんの力を十分に借りることが出来た。

 しかし、衰えゆく家族の傍で過ごす毎日は、思うほど気楽なものではなかった。

 まぁ、そんな一日の重苦しさもある時間の流れの中で、死にゆく老人と介護する家族という関係を、写真家(?)とモデル(…?)の関係へと変換させる時間を持てたのは幸せなことだったと思う。

 煮詰まった日常の時間が、その時だけ別の時空へと変化する。母に寄り添う猫の姿。母の横で漫画を読みふける、まだ小学生の娘の姿。カメラのファインダー越しにそこへ向けられる私の視線も、日常のものではなくなるのだ。

 そんな日々の中に、同時多発テロが飛び込んで来たのだった。

 一日中、家にいるわけだ。衛星放送で、CNN、BBC、ABC、CBS等の映像が視聴出来るようになった時代の話だ。

 母の介護をしながら、毎日、テレビ画面に見入っていたのを思い出す。

 ブッシュ政権は、「テロとの闘い」を名目として、アフガニスタンへの攻撃を選択する。戦争では、テロリストではない多くのアフガニスタン国民が犠牲となった。

 現代の軍隊の装備としては、実に不十分なものしか持たなかったタリバンの兵士に対し、最先端兵器を駆使した米軍の攻撃は、確かに効果を挙げた。

 アフガニスタン内のタリバンへの対抗勢力の軍事力が、地上戦を制した。

 そして、アフガニスタンは、タリバンの支配から「解放」されることになった。

 アフガニスタンに対する攻撃の名目は、同時多発テロの実行グループとしてのアルカイダの存在だった。しかし、対アフガン戦争は、アルカイダを消滅させるような成果には結びつかず、攻撃の目的が達成されたわけではなかった。

 ブッシュ政権は、アフガニスタンの復興という課題には興味を示さず、新たなる敵としてイラクを指名した。

 国内にアルカイダは存在せず、大量破壊兵器も保有していないイラクが、アルカイダの存在と大量破壊兵器の保有を理由に、米軍の攻撃の対象となったのである。

 最先端兵器を装備した米軍は、イラク軍との戦闘でも、圧倒的に優位に立ち、イラク正規軍を崩壊させ、イラク政府を消滅させた。

 しかし、最先端兵器を装備した少数兵力の使用による戦闘の勝利には成功したが、大量の兵力を必要とする軍事的占領と治安の維持への想像力を欠いたために、戦後イラク統治には失敗してしまった。

 第二次世界大戦後の日本占領が、戦後イラク統治のモデルとなるはずだった。しかし、戦後日本には、戦前から継承された正統性に基づく政権が存在し、行政機構が存在し、警察組織が存在し、指揮系統に基づき武装解除する軍隊が存在した。イラクにはそのすべてがなかった。

 大日本帝國政府はポツダム宣言を受諾し、大日本帝国の軍隊は連合軍に対し降伏したのである。しかし、イラクでは、公式には、誰も降伏していないのだ。

 そのイラクの地に、小兵力の米軍は、治安維持能力を欠いた存在でしかなかった。

 宗派や民族を異にする人間によって構成されていた国家であったイラクには、国民の統合の基盤となるはずのイラク人としての共通したアイデンティティーが存在していたわけではない。

 国家による権力的な統治があって初めて、イラク国民の存在があったわけだ。

 そのイラクから、統一的な権力を消失させてしまったのが、ブッシュ政権による戦争の「成果」であった。

 国民としての統合の枠組みは失われ、それぞれの宗派的・民族的アイデンティティーと様々な利害関係の上に国内対立は激化し、同時に占領軍としての米軍へのゲリラ攻撃も恒常化してしまった。

 最新鋭を誇る米軍の装備は、ゲリラ戦には無力である。

 軍需産業は確かに潤いはしただろうが、一方で最新鋭兵器の無力振りをもさらけ出してしまった。

 誰が、利益を得たのだろうか?

 利益を得た者など存在するのだろうか?

 アメリカの威信など、消えてしまった。

 何も達成されず、イラク国民は死の恐怖にさらされ続け、米軍兵士は市民による攻撃の恐怖にさらされ続けている。そして、殺し殺され続けているのである。

 アフガニスタンでは、タリバンは勢力を盛り返し、あの戦争の成果など、誰にとっても存在しないだろう。

 アフガン攻撃に至る日々(母は存命であった)、イラク攻撃に至る日々(これは母の死後の出来事だ)、このような現状は、既に多くの人々によって予測されていたことだ。

 私ですら予測出来たのだから、決して難しい話ではなかったはずだ。

 普通なら、予測が当たることは「うれしい」出来事の一つだろう。しかし、この「予測通り」に実現されてしまった現状を見るのは、実につらいことである。

 21世紀の最初の7年の人類の経験がこんなものとなってしまったことは残念な話だ。別に多くを期待していたわけではないが、ここまで愚かさの中に埋もれた7年となることを望んだこともない。

 そんなことを思う、2008年9月11日の夜である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/09/11 21:51 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/78458/user_id/316274

 

 

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8月15日、天皇はラジオから語りかけた

 

 昭和二十年八月十五日には、前日付けのポツダム宣言の受諾を伝える天皇の言葉が、天皇自身の肉声の録音放送という前代未聞の方法により、ラジオを通じて、日本国民(大日本帝國臣民)のもとへと届けられた。

 その出来事が、後に8月15日が「終戦記念日」として、日本人にとっての特別な日となる基となった。

…ということが確かなことである一方で、しかし、各戦域における実質的な戦闘行為の終了や、国家間における戦争状態の終結が、その日付をもって果たされたわけでもない。

 昨日の日記ではそのことを取り上げたわけだ。

 いわゆる「玉音放送」の日付をもって、「終戦記念日」とすることは、天皇という存在とあの戦争の関係性、大日本帝國という国家と天皇の関係性、天皇という存在の国民(臣民)との関係性等々、かつての「国体」観念を無言の前提として、この国における歴史的出来事を考えることを意味するものだ。

 念のために申し添えておくが、ここにあるのは、いわゆる「天皇の戦争責任」というフレーズとは別の問題である。

 戦後の日々の中で、回顧的に戦争とその終結を語る時、日本人の中で8月15日の「玉音放送」体験がクローズアップされていった事実の中に、国民(旧・臣民)にとっての天皇の位置が見えて来るだろう、ということだ。

 昨日ご紹介した『東アジアの終戦記念日』の中に、作家の正宗白鳥の次の言葉がある。

 

 数ヶ月を隔てた過去の日に於ける感想の記録は、八月十五日当日の実感とはおのづから異なつてゐるであらう。この頃頻繁にあらはれる知名人の回想録、過去の感想談も、眉に唾をつけて見るべきであり聞くべきである。

          (昭和二十年十二月二十三日)

 

 正宗白鳥の指摘には耳を傾けておくべきだろう。現在の、大きく隔てられた歴史の時間の中にいる私達としては、あの戦争をめぐる過去の記録を読み解くに当たって、特に留意すべき点の一つだと思われる。

 つまり、昭和20年8月15日のそれぞれの経験とは別に、戦後の日々の中で、8月15日が日本人の共有する記憶を刻印された特別の日付となっていったということだ。

 歴史とは、出来事の事実関係の問題であると同時に、選択的に共有される記憶により形成されるものでもある。

 「玉音放送」という事実としての出来事が、戦後の日本人の中で、あの戦争の終わり=「終戦」そのものを体現する出来事として再解釈され流通していった。

 そのこと自体の背後に、あの戦争と天皇の存在の不可分な関係が、そのようには意識されることなく示されているのではないだろうか。

 これは現実の政治的軍事的過程における天皇の果たした役割とは、まったく別の問題だ。

 そこに、国民自身にとっての天皇の意味付けを読み取ることが出来るだろう、ということなのだ。

 昨日の日記で取り上げた問題を思い起こしてみよう。

 あの戦争の交戦国では、8月15日という日付は、意味ある特別な日付として取り扱われてはいない。

 あの戦争を語る上で、8月15日という日付が特別に意味を持つのは、この日本(あるいは大日本帝國)での話だからこそなのである。

 朝鮮半島においての8月15日の意味合いは、大日本帝國による植民地であった歴史と不可分ではないだろう。

 同じ大日本帝國の植民地であった台湾における取り扱いが異なるのは、植民地化当時の台湾は独立国家ではなく、多様な民族の居住地であり、しかも居住民の大陸国家への帰属意識も大きなものではなかったという歴史的経緯の違いに起因するものだろう。

 朝鮮半島においては、大日本帝國は、民族意識に支えられた独立国家を植民地化したのである。

 植民地からの解放の第一日としての8月15日という記憶の仕方を選択したのが、朝鮮半島の人々であったとすれば、天皇の「玉音放送」による戦争の終結という記憶のあり方を選択したのが日本の国民であった、ということになるだろう。

 天皇と日本国民を不可分の関係において見るという、日本国民の考え方をそこに見出すことが出来る、というわけだ。

 そういう意味で、「玉音放送」というもの自体が画期的な意味を持つものでもあった。

 それまでの日本人にとっての天皇の存在は、支配の重層的で間接的な関係の究極の向こうの遠くの頂上に位置付けられるものであった。

 それが、ラジオを通しての直接的な関係として経験されたのが、「玉音放送」であったわけだ。

 そう考えてみれば、「玉音放送」とは、日本国民の天皇体験の画期であったと言うことも出来るだろう。

 昨日の日記に頂いたコメントへのお答えにも書いた話ではあるが、昭和14年以来、8月15日は「戦没英霊盂蘭盆会法要」が全国にラジオ中継される日とされていた。

 8月15日は、「お盆」という、日本文化の中での死者追憶の時期と重なる日付でもある。

 様々な角度から論じることが出来る問題として8月15日という日付を取り上げてみること。

 私達の共有物としての歴史理解に必要なのは、排他的な正しさの追及ではなく、他者の経験への想像力ではないかと考えるところに、本日の日記の出発点もある。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/08/16 21:20 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/76010/user_id/316274) 

 

 

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8月15日、何を記念し何を祈念する?

 

 昭和二十年八月十五日という日付を、現在、私たちは、あの戦争(大東亜戦争、あるいは太平洋戦争、第二次世界大戦等々、どのように呼ぶべきかという問題は別に論じるとして)の「終了」と結びつけて考えてしまうようになっている。

 実際、一般には「終戦記念日」と呼ばれているし、リアルな認識を尊ぶ人々からは、「敗戦記念日」という言い方もされている。

 「終戦記念日」にしても、「敗戦記念日」と呼ぶにしても、その日をもって戦争が終結した、あるいは戦争に負けたという認識を持つことにおいては共通している。

 しかし、ポツダム宣言の受諾の日付は8月14日であるし、降伏文書への調印は9月2日のことだ。敗戦による占領状態の終結を、戦争状態の終了と考えるなら、昭和26年9月8日の「サンフランシスコ平和条約」締結の日付となる。

 「戦争」は国家間における出来事であり、戦争の終結が軍事的・外交的に語られるべきであるとすれば、あの戦争の終結の日付は、8月14日あるいは9月2日または9月8日とされるべきであろう。

 つまり、戦争とは対外的な出来事である以上、交戦国との関係を抜きに、その開始も終了も考えることは出来ないはずなのである。

 そのような意味で、昭和20年8月15日という日付は、対外的には何かがあった日付ではない。

 それは、前日付けのポツダム宣言の受諾を、国民(あるいは臣民)に対し、昭和天皇が自らの声(録音)で告げるラジオ放送があった日付であった。つまり、対内的には意味を持つ日付ということは出来る。

 しかし、軍事的に考えれば、大本営から帝國陸海軍へ向けての停戦命令が出されたのは、8月16日のことであり、そのような意味では8月15日に戦争が終了していたわけでもない。

…というような話は、別に私の創見ではなく、佐藤卓巳/孫安石編『東アジアの終戦記念日』(ちくま新書2007)に書いてあることを紹介したまでのことだ。

 同書によれば、事態は更に複雑である。

 国家間の出来事として「戦争」を考えれば、日本ではない他国では、あの戦争の終結の日付をどのように理解しているのかという問題が浮上して来る。

 ミズーリ号上での降伏文書調印の相手としての交戦国においては、その日付である9月2日が対日戦勝記念日として、戦争の勝利による終結を記憶に刻み込むべき日となっている(ソ連、中国、モンゴルでは9月3日付だということだが)。

 大日本帝國の植民地支配下にあった、朝鮮半島の南北の国では、どちらも8月15日を、戦争終結と植民地からの解放の記念すべき日付として意味付けている。

 しかし、同様に大日本帝國の植民地であった台湾では、台湾総督府から中華民国へと統治権の移管がされた日付である10月25日を、「光復節」として祝日としている。

 東南アジアに眼を向ければ、現地日本軍の降伏あるいは武装解除の日付である9月3日(フィリピン)、9月12日(シンガポール、マレーシア)、9月13日(タイ、ビルマ)が、それぞれの戦争終結の日付であると言う。

 国内的にも、6月23日の現地司令官の自決の日付をもって「沖縄慰霊の日」としている一方で、現実の戦闘終了の日付である9月7日も「沖縄降伏の日」として、沖縄の人々には意味ある日付として認識されている。

 これには説明が必要であろう。

 軍司令官は自決に際し停戦命令を発することなく、兵士への戦闘の継続を指示しているのである。その結果、8月15日を過ぎても軍司令部不在のまま、統制を失った軍により戦闘は継続されてしまったのであった。

 沖縄の住民にとっては、8月15日以前に、米軍に制圧された地域では戦争は終結し、未制圧地域では8月15日を過ぎても日本軍による戦闘行動は継続していた。つまり戦争は終わっていなかったのである。

 実際問題としても、8月15日が法的に「終戦記念日」とされるのは、1963年5月14日の第二次池田隼人内閣の閣議決定「全国戦没者追悼式実施要綱」を待っての話であり、その名称が正式に「戦没者を追悼し平和を祈念する日」となったのは、1982年4月13日の鈴木善幸内閣の閣議決定においての話なのだと言う。

 別に、ここで、8月15日を「記憶すべき日」と考えるべきではないと主張するつもりはない。

 しかし、その日付が特別に意味を持つようになる歴史的経緯への想像力は持っているべきだとは思う。

 それは、あの戦争自体の多面性を見失わないことにつながるはずだ。

 『東アジアの終戦記念日』はその意味で、実に示唆的な一書である。

 歴史とは様々な当事者により形作られるものだ。それぞれの当事者により語られる歴史は、当然のことながら一面の真実に止まるだろう。

 自身にとっての歴史の語りに決定的に欠けてしまうものが、他者による歴史の語りの中には見出せるはずである。

 本気で「平和を祈念」するのなら、他者の語りに耳を傾けなければならない。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/08/15 21:23 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/75922/user_id/316274

 

 

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2008年11月27日 (木)

昭和二十年八月十五日 帝国ツイニ敵ニ屈ス

 

十五日(水) 炎天
 ○帝国ツイニ敵ニ屈ス。

     山田風太郎 『戦中派不戦日記』

 
 この日、若き山田風太郎は、日記にこの一行だけを書いた。

 

 
 八月十五日(水)           晴 暑 四、〇〇 八、〇〇
 徳川、戸田両君に起される。近衛兵の動きが怪しいとの事、すぐ起きて御文庫の各所の鉄扉を厳重にお閉めする。侍従長、大夫、三井さん等も詰められる。御警衛内舎人の武装を解除しろと近衛兵がせまった由。間もなく田中静壱大将が来て総てを取り静めて事は終わる。馬鹿々々しいことだ。久々で二、二六の時の事を思出す。午前十一時二十分枢密院本会議、於附属室。途中正午の御放送を拝聴、涙が出て仕様がない。森近衛師団長は昨夜反乱将校の為に殺され、それを聞いた阿南陸相は責任を感じて自刃した由。なかなか暑い。夕方入浴。夕食は君子がくれた米をたいておいしく食べ、事務官室の畳の上にほろ蚊帳を吊って寝る。昨夜五十分しか寝ないので七時半頃には入床。
  当直

     入江相政 『入江相政日記』

 
 近衛師団司令部に、参謀本部の畑中健二少佐、椎崎二郎少佐等が訪れ、森赳師団長にクーデター断行を要請したが、森師団長は「近衛師団は私兵ではない」と答え、応じなかった。師団長は、現場に居合わせた西部軍の白石参謀と共にクーデター派の将校に殺害される。クーデター派に同調する近衛師団参謀古賀秀正少佐により、近衛連隊の出動命令が発せられた。
 玉音放送の録音を終えて皇居から去ろうとしていた下村情報局総裁や日本放送協会役員は、近衛兵に連行・監禁され、また木戸内大臣、石渡宮相らも別の地下室に監禁された。
 「玉音放送」の録音盤奪取が目的だったようだが、夜明けと共に、司令官田中静壱大将指揮下の東部軍にクーデターの試みは鎮圧された。

 阿南陸相の自決は、入江の推測とは異なり、既に決意されていたものであった。

 

 

 
 一死以て大罪を謝し奉る。

   昭和二十年八月十四日夜
       陸軍大臣阿南惟幾

 神州不滅ヲ確信シツツ

 大君の深き惠に
      浴みし身は
    言い遺すべき
       片言もなし
 
   昭和二十年八月十四日夜
       陸軍大将 惟幾

 
 遺書は14日付けである。しかし、決行は15日の明け方となったのであった。
 東郷外相の記録によれば、14日の閣議後に、

 
 阿南陸相は自分の所に来て姿勢を正した上、先刻保障占領及武装解除に付き聯合国側に申入るる外務省案を見たがあれは洵に感謝に堪へない、ああ云ふ取扱をして貰へるのであったら御前会議でも左程強く言ふ必要もなかったのだと挨拶したから、自分は此二問題に付いては条件として提出するに反対であったが我方の希望として申入るることは度々説明した通りであると答えたが、先方は重ねていろいろお世話になりましたと丁寧に御礼を云ふので、少しく鄭重過ぎる感じを受けたが、兎に角総て終了してよかったと笑って別れた。

 
というやり取りがあった(『時代の一面』)。


 大本営の『機密戦争日誌』の8月15日の条には、

 
 一、 次官閣下以下ニ報告
 二、 十一時二十分、椎崎、畑中両君、宮城前(二重橋ト坂下門トノ中間芝生)ニテ自決。
 午后死体ノ引取リニ行ク。
 三、 大臣、椎崎、畑中三神ノ茶毘、通夜。
     コレヲ以テ愛スル我ガ国ノ降伏経緯ヲ一応擱筆ス。

 
とのみ書かれている。

 

 
 荷風氏は十一時二十六分にて岡山へ帰る。余は駅まで見送りに行き帰宅したるところ十二時天皇陛下御放送あらせらるとの噂をきき、ラジオをきくために向う側の家に走り行く。十二時少し前までありたる空襲の情報止み、時報の後に陛下の玉音をきき奉る。然しラジオ不明瞭にてお言葉を聞き取れず、ついで鈴木首相の奉答ありたるもこれも聞き取れず、ただ米英より無条件降伏の提議ありたることのみはほぼ聞き取り得。予は帰宅し、二階にて荷風氏の『ひとりごと』の原稿を読みいたるに家人来り今の放送は日本が無条件降伏を受諾したるにて陛下がその旨を国民に告げ玉えるものらし、警察の人々の話なりと云う。皆半信半疑なりしが三時の放送にてそのこと明瞭になる。町の人々は当家の女将を始め皆興奮す。家人も三時のラジオを聞きて涙滂沱たり。

     谷崎潤一郎 『疎開日記』

 

 午後二時過岡山の駅に安着す。焼跡の町の水道にて顔を洗い汗を拭い、休み休み三門の寓舎にかえる。S君夫婦、今日正午ラジオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言う。恰もよし日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る。休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ。

     永井荷風 『断腸亭日常』

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/15 23:30 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/38237/user_id/316274

 

 

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