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2018年11月24日 (土)

無事なりし吾家の火鉢囲みけり (徳川夢声と昭和19年11月24日の空襲)

 

 

 昭和19(1944)年11月24日から、東京はB-29による空襲のターゲットとなった。同年7月にサイパンが陥落し米軍の占領地域となったことで、ついに東京はB-29の航続距離圏内に入り、米軍による航空基地の整備、部隊の訓練等を経て、11月24日の空襲に至ったのである。

 山田風太郎は、当日の経験を日記に記している(「プロパガンダと記録(東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃)」から再録)。

 

  ついウトウトと眠ってしまった。ふと眼を醒ますと、拡声器が、
「空襲警報発令! 空襲警報発令!」
と叫び出したので愕然となる。横浜駅であった。プラットフォームも車内もいっせいに騒然となり出した。
「なつかしの東京に、とんでもないことが待っていたなあ」
と、だれもが笑う。みな生き生きと嬉しげな顔になる。
  ただちに武装し、車窓の青幕を引いてそのまま発車する。
  川崎駅に入るや、全員退避の命令が下った。自分達も一般乗客も、デッキから構内へばらばらと飛び下りて、駅前の広場へ逃げ走る。プラットフォームではないので、一メートル余りの高さを飛び下りる女の中には、足を挫いて倒れる者もある。
     (山田風太郎 『戦中派虫けら日記』 ちくま文庫 1998  535ページ)

 

 これが当時、東京医学専門学校の学生であった山田風太郎の昭和19年11月24日の日記である。

 11月21日から富士山の裾野での軍事演習に参加した医学生達が東京へ到着しようとする時に、空襲警報の発令にあい、川崎駅で下車して駅近くの防空壕で警報解除までの時間を過ごす。そして…

 

  一時間半もたって、ようやく入口から這い出すことを許された。空は灰色の雲に覆われ、もう砲声も爆音も聞えない。
  満員電車に乗ってやっと品川に着き、山ノ手線で新宿に帰る。空襲警報は解除になったが、乗客はむろん何となく殺気立っている。がやがやと話し声は聞えるが、べつに今の空襲について話しているわけではないらしい。無意味なる騒音、沈痛なる動揺――といった態である。
  すると、五反田から乗り込んできた二十二、三歳の工員風の男が二人、突然溜息を吐いて、
「おい、凄かったなあ、おれ、飯が食えねえや!」
と、叫んだ。みなふりむいた。一人の紳士が、おずおずと、
「――何か――見て来たんですか?」
と、たずねた。工員は待っていたように、カン高い声でしゃべり出した。
  二人は荏原を通って来たのだそうで、そこの防空壕に入っていると、突然しゅうっという実にいやな音が聞え、つづいて、ゴーっという凄まじい地響きがした。しばらくたって這い出してみると、二、三百メートル向こうに黒煙が見えた。いってみると三十メートルくらいの大穴が地にひらいて――「五十メートルはあったよ」と一人が訂正する――家は吹き飛ばされ、なぎ倒され、崩れおち、近傍の屋根瓦や戸障子やガラスなどが恐ろしい惨状をえがき出して――人はむろん死んでいた。防空壕の中で十数人全員即死したものもあり、身体の表面に傷は見えないのに真っ白になって死んでいるのもあり、幼児など石垣に叩きつけられてペシャンコになり、――
「病院へもいってみましたが、実に何ともむごたらしいかぎりでさあ。おら、腰がぬけちまった。顔の半分なくなったのが、口をあけてうなってるんですからね。たいてい女です。子供はわあわあ泣いている。――工場に主人の出た留守、一家全滅したのもあるそうです……おれ、今夜飯が食えねえや、……」
 一人がはっと気づいて眼で知らせながら、
「おい、あんまりしゃべらねえ方がいいぜ」
と注意した。
  二人は急に沈黙したが、また昂奮を抑えきれないらしく、蒼いカン走った声で「おら、飯が食えねえや」を繰り返しはじめる。――
  ○五時前に帰校。ただちに解散。
  下宿に帰ると、部屋のガラス窓はみななずされ、まるで暴風の一過したあとのようだ。しかし、こちらは全然何事もなかったということであった。やがて警戒警報解除となる。
  夜のラジオによれば、本日帝都周辺に来襲した敵機は、マリアナよりの七十機。主として荏原附近に投弾したらしい。
          (539~541ページ)

 

 

 日記には「夜のラジオによれば、本日帝都周辺に来襲した敵機は、マリアナよりの七十機。主として荏原附近に投弾したらしい」とあるが、市街地である「荏原附近」が本来の攻撃目標であったわけではない。

 本来の攻撃目標は、市街地ではなく、軍事的価値をもつ武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所(カテゴリー「多摩武蔵野軍産複合地帯」収録記事も参照)であった。米軍は当初から都市無差別爆撃を志向していたわけではなく、高高度からの軍事目標への精密爆撃を戦術の基本としてはいたのである。ただし、それが達せられなかった場合の市街地爆撃も作戦計画には組み込まれていたのであり、市街地への爆撃が軍の指示から逸脱したものであったわけではない。その後も軍事目標への爆撃の価値が失われることはなかったが、翌年3月10日以降、市街地への無差別爆撃への躊躇は失われることになる。

 

 

 当時の日記類にも、空襲の経験は様々に記されているが、今回は徳川無声の日記を読んでみたい。11月24日の(そしてそれに続く)東京への空襲が、徳川夢声にはどのような経験であったのか。

 実は、夢声は11月24日には東京にいなかった。その時期は、苦楽座の一員として産業戦士慰問の地方巡業公演中であったのである。24日は、福井の小松日本館での公演をこなしていた(ただし「昼夜トモ不入リ」であったが「閉場後、館主ノ宅ニ招待サレ、鶏すき、酒ナド大御馳走。大損ヲサセタ上、甚ダ気ノ毒ナリ」と記されている)。

 空襲については翌25日の日記に、

 

  小松駅の売店で新聞を買う。出ている!
  ――B29八十機帝都空襲!
  やっぱり来やがったな、と思う。大した感動もない。なんだか「〆たッ」という気持ちもする。うれしいという感じとよく似た心境である。
  杉並区の吾家は如何? 妻は如何? 子供は如何? などチラチラ考えてみるが、あまりピンと来ない。坊やの姿だけが一番ハッキリ浮かぶ。
  ――なァに、私の家は大丈夫さ。
  心の底にはこの観念が納まっている。
  だが万一の事吾家にあった時、私という男が、如何に狼狽てるか、また狼狽てないか、まるで予測がつかない。遅かれ早かれ、東京が半分くらいになるのであろうが、それはまたその時のこと。
     (徳川夢声 『夢声戦争日記(五) 昭和十九年(下)』 中公文庫 1977  231ページ)

 

このように登場するが、自宅近辺の状況は(それだけでなく東京の状況も)、報道からはわからないのである。東京への空襲も、情報のない中、遠く離れた巡業先の夢声には切実な問題とはなっていない。夢声にとって切実であった(11月30日付日記)のは靴の盗難被害(これで三回目)であった(戦時下生活での靴の盗難被害は珍しいものではなかった)。

 

 

 12月1日の日記に、岐阜へ向かう車中で出会った東京からの避難者が登場する。

 

  二十九日夜(一昨夜ナリ)の東京爆撃に出っくわしたという女たちが、途中駅から乗り込んできた。東京を出発するまで、生きた気はしなかったと言う。
  ――日本橋、小石川、神田など酷くやられたらしい。
  ――夜通し火の手が上がっていたそうだ。
  だんだん話を聞いているうちに、これは大変だと思い出した。一刻も早く東京へ帰らねばならんと思う。女たちはそれぞれ子供をつれていて、これから大阪へ行くのだが、その大阪も今度はイカれるだろうと話していた。
  丸山ガンさんにその話をしたら、
「なアに、女のハナシには誇張がありますからね」
  と至極落ちついている。ガンさんは既に、郊外にある三好十郎の家に疎開し、夫婦二人きりで子供もない。なるほど、立場が違うと、Aにとっての一大事も、Bにとっては一向平気なわけだ。
  杉並の家で、水のある防空壕を、坊やが出たり入ったりする幻がチラついてならないのである。
     (244~245ページ)

 

 

 空襲が切実なものに感じられるようになった夢声は、「一日も早く東京へ帰って、家族と苦を共にすべきである」との思いを抱くようになる。しかし、

 

  宿へ帰ってから、同人の顔の揃ったところで、
「どうも東京空襲は容易ならんものらしい。私は九州行を御免こうむりたい」
  と申し出た。一大決意をもって申し出たつもりだった。すると高山君が、馬鹿に静かな声で、
「あなたが行かないという事は、この旅を中止するということになりますなあ」
  と言った。
「なにも中止するには当たらないでしょう。私一人だけぬけるんですから……」
「しかし、兵器廠との契約に、あなたの名が含まれていますから……」
  私が行かないと、契約を破ることになると言う。
「どうぞこの通りです。苦楽座同人に対する愛情を、何とか持ってもらえませんか? ねえ、お願いします」
  と丸山定夫君が、畳に両手をついて、華々しく頭を下げた。そして、結局私は、九州まで行くことにされてしまった。
  だらしがない! まったく吾ながらダラシがない! こんなことなら初めから帰京するなんて、言い出さない方が好かった。
     (246ページ 12月2日の条)

 

 

 この後の数日は、日記に帰京の話は記されていないが、もちろん、心の底では東京の家族のことを気にかけ続けていたはずである。

 

  美濃の山河を車窓から見つつ、人間は常に死と直面せることを思う。なにも空襲時に限ったことではない。いつ心臓の故障で斃れるか、いつ屋根瓦が落ちて昏倒するか、分かったものではない。空襲があるからと言って、急に狼狽てるのは、甚だ愚である。常時と同じ気もちで、私は旅を続ければ好い訳だ。死はいつも眼前にあり、同時に生も遥かに彼方のものである。
     (248ページ 12月4日の条)

 

 12月4日には、自らに言い聞かせるように、日記にこのように書きつける。しかし、いつか自身に訪れる死への覚悟を記すことで、離れた東京で空襲下にある家族の身の上への心配が霧消するわけでもないだろう。

 

  武蔵野工場(中島飛行機)が爆撃され、学徒が沢山死んだという事は本当らしい。浅野院長、副院長、看護婦たちはどうしたろうかしら。これが荻窪工場だったら、私もじっとしていられない訳だ。何しろ早く東京へ帰りたい。
  松沢病院に爆弾が落ちたという、昨日車中で聴いた情報は、まだ疑わしい。
     (252ページ 12月6日の条)

 

いろいろな噂が耳に入り、あらためて「何しろ早く東京へ帰りたい」と思う。

 

 そして12月7日、倉敷で妻からの速達を受け取る。千秋座前にの事務所で受け取った手紙を、夢声は座員と共に訪れた美術館の中で読む(「ゴーガン、モネ、ゴッホを前に、ミレー、シャバヌ、モローを背に、大ソファの上で、改めて静枝の手紙を読む」)。

 

  毎日毎日手紙を書こうと思いながら、先月の空襲以来、午前十一時になると敵機の来る時間なので、早めにご飯やら色々の支度。午後三時頃になると少しはおちつき、又夜は十一時頃より心配が始まり、まったくおちつきません。
  何しろ敵機が来る度に杉並、それも荻窪近くときて、中島(註 中島飛行機荻窪工場、田無工場、小金井工場トアリ)はそのたんび。田無は一番ひどく、大分の死人です。荻窪も宮田さん(註は略)の近所に先日は五個ぐらい落ち若杉小学校(註 愚息ノ通学シタ校)はいつもねらわれて、三日の時は家のそばのフミキリの家に落ち、親子二人生き埋めになり大変でした。それから八幡様のそばにも落ち、四、五人生き埋めで死んだ人もあります。
  折角でき上った陸橋の真中にもバクダンが落ち、線路にも落ち、中央線二日間不通、歩いて通う人、田舎に逃げる人で、大晦日の銀座通りの様でした。
  今日はやっと静かになりましたが、何しろこれだけバクダンが落ちる間の気持ち、ゴー(壕)の屋根の不完全さに、地ひびきや色々の音で、中に居た者は皆、生きた気持ちもありません。今度は家に落ちたかと、あと見廻るのも大変です。でも裕彦さん(長女俊子ノ夫)も質屋さんもみまわってくれますし、ことに質屋さん(註は略)はよく来てくれるので、其時はほっとします。
  一雄の学校も休みになり、時々は様子により出かけます。でも今まで皆が無事なのはほんとに結構と思います。
  一日中何もできず、そわそわと暮らします。杉並も荻窪もこんなに危険とはいがいでした。
  子供たちもビクビク閉口しています。夜の時も雨は降るし、洩るし、心細いこと此上もありませんでした。私だけはゴーにも入らず外にいましたが、質屋連のおかげで少しは心丈夫でした。
  空は真赤になるし、新宿あたりかと思いましたが、神田と日本橋でした。神田は千戸くらい、死人は大変だそうです。日本橋は白木の裏、阿野さんの事務所はやっと一廓のこったそうです。それで家でも急に、茶間の前に、裕彦さんと質屋さんに、丈夫なゴーを掘ってもらってます。石田さん(私のマネージャー)は三日の夜、荻窪がなくなったと言われビックリして見舞にきてくれました。今日(五日)は小島、丸山、吉井アン氏など三人きてくれ、丸山さんは旅から帰ったばかり。吉井さんは今晩と明日はゴーの手つだいをしてくれる事になっています。
  頭山(註 妻の妹の嫁ぎ先)でも心配して近所にいる富岡氏と尾形氏を見舞によこしてくれました。是非、田舎に家をかりるよう言ってます。私も、一坊、俊子、明子くらいは田舎にやる様にしなければいけないと思っています。
  何しろ地ひびきがダンダン近くなり、ガンガンいう音を聞くと、手足まといはまったく気になります。
  一日も早く帰られる事を一同まっています。
  飯田の母上は其上かるい中風になり、寝ているので閉口でしたが、空襲でびっくりして起きられたそうです。原宿駅前東郷神社にも落ちたそうです。
  そろそろお時間になりますから、これで。
     (254~256ページ 〔妻の書簡〕)

 

 千秋座前の事務所での開封直後にも、「自宅の近く踏切番親子が生埋めになったとあっては、もう少しで私の家の者が生埋めになるところだった事を意味する」と夢声は事態を理解した(註:1)が、

 

  さて、この手紙を改めて、大原美術館の名画に囲まれて、静かに読んでみた。大変だ大変だという気もちがだんだん真物になり、何か斯う血の気の下がる思いである。

 

美術館のソファの上での思いの深まりを記している。しかし、

 

  劇場昼の部、漫談が終わって「無法松」を開幕しようとするや地震あり。水平動であるが永い地震である。停電となる。客席から催促の喝采に私の心は甚だ落ちつかない。斯うなると、東京の空襲よりも何よりも、さしあたり早く電気がくれば好いと、そればかりが気になる。
  人間の感覚というもの、眼をつむれば富士山も見えないように出来ているから仕方がない。他人の首が切られるより、自分が針で刺される方が痛いのである。東京のことをケロリ忘れている時間を、自分ながら妙なものと思う。
     (256ページ)

 

夢声は劇場で昭和東南海地震(マグニチュード7.9、最大震度6)に遭遇するのである。「東京のことをケロリ忘れている時間」を味わうことになった。

 

 しかし、もちろん、「何しろ早く東京へ帰りたい」という思いが失われることはない、のだが…

 

  家が爆撃されたのならとにかく、近所に爆弾が落ちたでは、工場の慰問を捨てて、東京に帰る理由にはならん、と徳衛門氏は言う。だから帰るというなら私が病気をしたという事にしよう、そんなら言いわけは立つ、と彼は言う。爆弾が落ちてからではなんにもならん、落ちそうだから帰るのである。然し、慰問する相手が軍需工場の戦士たちである。この方は公事であり、吾家の方は私事である。入場料をとる興業ならまた話は別であるが、どうもこいつは私だけ一座からぬけるという訳に行きにくい。
  一方中坪の方では、委細構わず私の切符も買って了い、うやむやのうちに私を小倉に送り込む手配をしている。
  えーい、仕方がない、と諦めた。
     (257ページ 12月8日の条)

 

との次第で「えーい、仕方がない、と諦め」るのである。

 「諦め」ながらも、

 

  寒い寒い、足首の所が殊に冷える。ねむいので眼をつむると、寒さが肩の辺から水のように浸みこんでくる。吾家のことを想う。坊やを疎開させねばと思う。この正月は定めし厭な正月だろうと想う。俊子が赤ン坊を産んでも、空襲つづきでは母乳が止りはしないかと思う。東京の半分が無くなった時、私たちの家にも他人が強請的に割り込んで来るだろう。家庭生活なんて目茶目茶だと想う。インフレまたインフレで、いくら稼いでも始まらない事になりそうだと想う。
  この数日来めっきり悪くなった歯で、ポロポロの握り飯をムニャつきつつ、しみじみ味気なくなる。あれを想いこれを想いしているうち、――戦争はイヤだなア、と心の中で言う。馬鹿! 貴様は日本人か! と自分を叱る。
  敗戦は無論イヤである。然し、戦争も別にヨクはない。
     (258ページ 12月9日の条)

 

このような「想い」を書き連ねる(「反戦」というよりは「厭戦」の気分であろう)。同じ日、

 

  人間の思想斯の如し、平静なる時、興奮せる時、悄然たる時、同じ人間が同じ日の中に、幾度か変転する。一椀の飯、一杯の酒、寒暖五度の差よく思想を左右する。
  平静なる時の思想を当人の思想とすべきか、あらゆる場合の最大公約数を当人の思想とすべきか?
     (259ページ 12月9日の条)

 

このように自らを突き放してもみる。夢声の想いは、日々「変転」を続ける。

 

  小倉の街、何所を歩いても雑然たる感じ。イヤな街である。取片づけてない疎開の跡、空爆の跡、凸凹の道、加うるに寒気凛冽とくる。
  然し、あれほど目茶目茶に空爆された噂のある小倉が、この程度で、市民は平気で住んでいるという点が、私の心もちを楽にしてくれた。なアに東京だって斯の通り、少々の爆撃では平気で暮らせるに違いないと思う。
  工廠と産報の仕事とあっては、私も諦めて約束の十七日までは仕方があるまいと決心する。
  それに、私の家の近所が酷くやられたという事は、次の空爆には安全だという気がする。そう一つところがやられる筈はないという気がする。一度やられた町は、即ち敵の狙ったところというなら話はまた別になるが、盲爆であるなら、一度落ちた近所にはもう落ちないと見て宜しかろう。
     (259~260ページ 12月10日の条)

 

 既に空襲下となっていた小倉(翌日の夜には夢声も離れた場所での空襲を経験する)の街の姿を前に、「なアに東京だって斯の通り、少々の爆撃では平気で暮らせるに違いない」という気持になり(そのように自身に言い聞かせ)、「工廠と産報の仕事」であることと併せ、「私も諦めて約束の十七日までは仕方があるまいと決心する」のであった。

 

 

 こうして、座員への昼食の用意もないようなトラブル(一方で、終演後に館主・主催者等による「御馳走」を堪能する機会も多かったが)も起きる中、風船爆弾工場への動員学徒の慰問も経験しながら、12月20日過ぎまで九州での巡業を続けることになる。

 

  これで三日昼飯でもめている。今日は皆が混ぜ御飯の握り飯にありついたのが後二時頃である。元来今日は三方から昼飯が出る事になっていた。昨夜のうち中坪が交渉しておいた劇場での炊出し一ツ、平林老の自腹によるもの一つ(三十人前と称す)、工廠の方から支給されるもの一つ、これだけある話であった。それが平林老提供と称するものが、劇場の米一升五合を用いたものであり、工廠の分は十二時迄に取りに行かなかったから分けてしまったという返事である。工廠の役人から取りに行けと言われたのが十二時四十分過ぎであったから、十二時前に行ける訳がない。
  要するに、金儲け主義のインチキ興行師や、ブローカーや、二重にも三重にも絡んでいるところへ、工廠が絡んだり、警察が絡んだり(産報関係)で、結局一本筋の責任者がいないせいであろう。
  私と釜さんは今日も工廠で昼飯を喰ったから好いようなものの、他の座員はこれで三日続いて昼飯で苦しんでいる訳である。自分の腹は一杯でも、斯ういうゴタゴタを聴かされると、こちらも苦労になる、実に馬鹿馬鹿しい話。
     (262ページ 12月12日の条)

 

  今日もまた昼飯問題でヤッサモッサ、今は既に午後三時、まだ昼飯が来ない。飯々々で大騒ぎを、ベニヤ板一枚の隣室に聴かれて了う。そこには田舎廻りの劇団がトヤをしているらしく先刻も本読みが聴こえていた。田舎廻りの劇団は定めし、東京の最紳士劇団の文句を聴いて呆れているに違いない。
  やっと運搬された工廠よりの昼飯、飯の分量は充分だが副食物が菜葉の煮つけ、この食事のためあの大騒ぎと思えば苦笑ものである。あとで聴くと、私たちは早すぎたので、豆腐の煮たのと、沢庵の山盛りにありつけなかったのだそうだ。
     (264~265ページ 12月13日の条)

 

「昼飯問題」に翻弄されながらの産業戦士慰問巡業であった。「金儲け主義のインチキ興行師や、ブローカーや、二重にも三重にも絡んでいる」のは劇団の地方巡業の常でもあったろうが、戦時日本であればこそ、そこに「工廠が絡んだり、警察が絡んだり(産報関係)」と事態はより複雑化することになる。しかもそこに「結局一本筋の責任者がいない」という戦時統制の典型的症状が見出される。

 

 巡業も終盤を迎える中で、帰京の算段をするが鉄道は不通、郵便も電信も不通である。あらためて家族への募る想いが湧き上る。

 

  東海道線豊橋静岡間が未だに不通であるという。十八日には私が東海道線で帰京する訳だが、徒歩連絡などありとすると、あの重いスーツは困る。中央線でも迂回して帰るか、どうするか。現在は郵便も電信も不通だという。事によると東京から何か急の報せがありながら、こちらに届いていないのかとも疑われる。東京へ帰ってみると、吾家に大惨害があったら、など想像する。

  釜サント語ル――荻窪ノ家爆撃サレテ、私一人生キ残ッタ場合如何ニスルカ? 自殺スルカモ知レント私ハ言ッタ。
     (265~266ページ 12月14日の条)

 

  尾形重蔵に扮する時肥衣を二枚つけるが、これは妻が私の注文に従って、素人らしく造ってくれたものだ。下に着けるのはシャツを加工したもので、やや型を成しているが、上に着けるのは、チャンチャンコのような、暖簾のような至極不細工なものである。然し、私はこの不細工なところに一種の涙ぐましさを感ずる。こんな亭主を持った為に、彼女もこんな不細工な作品を縫わなければならなかったのである。私はこれを着ける度毎に、いつも妻を懐かしくあわれに思い出す。

  遠く離れていて坊やを考える。何故日頃もっと坊やに優しくしなかったと悔いる。さて顔を見るとすぐ小言が言いたくなる。自分と坊やとあまりに性質が似ているせいなのであろう。自分に対しては腹の立つことが多いのであるか?
     (271~272ページ 12月17日の条)

 

 

 産業戦士慰問も最終日を迎えたはずが、

 

  ヤレヤレ今日一日勤めれば、明日は東京へ発てると、ほがらかになっていると、平林老楽屋に現れて、二十日迄是非とも頼むと言う。全くうんざりして了った。平林老は私が途中からぬける事を契約の際知らずにいたのである――言わば一杯喰わされた型なのである。間に入った興行師連が悪いのであって、私には責任が無い訳であるが、老の立場として見れば気の毒でもある。頼まれてみると、イヤどうあっても帰るとは、私として言えなくなる。私の家の近くに爆弾が落ちたところで、老にとってはなんでもない事である。思えばお互様で、老の妻君が先日、天ぷらを揚げていて顔に火傷をしたという話を聴いても、私としては何等感動しなかった。こっちの爆弾は先方の火傷である、即ち他人の歯痛は私の歯痛でない。
  これは結局、二十日迄勤めさせられる事になりそうだ。放送局の事などで嘘をつけば、老も強いてとは言えなくなるだろうが、ウソはつきたくない。してみれば、工廠の兵器戦士慰問という公事の前に、吾家の心配という私事は、犠牲にせねばならない。
  二日早く帰宅したところで、実は別にどうという事もない訳だ。東海道線は今だに不通、帰るとすれば、今のところ、信州を廻って、松沢の家へ行き疎開先を物色したりして、東京に帰るという段取になりそうだから、明日出発として二十一日か二十二日にならないと荻窪へは着かない。二十日迄いれば、或は東海道全通となるかもしれない、それなら二十二日には帰宅出来る。
  まア仕方がない。二日余計勤めたために、吾家が全滅となるという事もあるまい。一日も早く帰りたい事も事実だが、二日延びればそれだけイヤな天沼の防空壕から遠ざかる事でもある。
     (272~274ページ 12月18日の条)

 

「私事」より「公事」の優先を自身に言い聞かせるしかない。

 

 しかし、苦楽座のメンバーの「私事」にも戦時の苛烈さが滲み出る。

 

  丸サンの兄さんが死んだという電報が来た。これは正に丸サンにとっての一大事である。今年になって四人兄弟のうち二人の兄さんが死んでいる。今度死んだ兄さんには、未亡人の他に二人の幼児が遺された。この遺族の面倒を見なければならないらしい。然し、私はさのみ心痛はしない、いや全然心痛しないと言ってよろしい。気の毒だなアと意識の表面で軽く考えるだけだ。私の不幸も丸サンにとって同じことである。
     (276ページ 12月19日の条)

 

  昨日ハ丸山君ノ兄ノ死。今日ハ河原君ノ兄ノ死。輸送船ノ機関長ナリシト。
     (277ページ 12月20日の条)

 

 

 ようやく慰問巡業を終えての東京への列車は、乗客が窓から出入りするような超満員状態であった。

 

  いやはや何とも物凄い列車である。やりきれなくなって吾等三人は広島で下車した。八時間立ったままであった。時々便所に行く人があるが、皆泣きっ面になって、人と人をこじあけて通る。諦めて途中から引き返す老紳士もある。私は房総線で一度大失敗をしているので気が気ではない。もし尿意をもよおして来たら、人を掻き分けて行く途上で落城して了うであろう。万已むを得なければ、ズボンの中へ流し込みと覚悟をする。幸いにして車中がムンムンと熱いので辛うじて広島までもったが、出口を飛び出すと、前の防空広場で用をたした。
  血気盛んの水兵が悲鳴をあげるくらいだから、以ってその混みようが分ろう。中程の客は窓から出て行く。女が三人ほど窓から飛び込んで来た。
  立ち続けは宜しいとして、私の靴は借り物であるためギシギシである。それが血が下がって足が腫れてくるにつれ両足のつま先がシンシンと痛んで来る。尿の心配とこの痛みでは到底このあと名古屋まで行って、中央線に乗り換えて(都合二晩車中で過ごすことになる)などは思いもよらない。
  私は広島で一応降りる決心をする。釜さんは直ちに賛成する。釜さんは悲鳴をあげ通しである。
  愈々広島駅に着いて、洗面所に頑張っている高山君に、二人は此処で降りる由を言うと、たちどころに彼も降りると言う。それまでに打合せしていると好かったんだが、突然、沢山の荷物を持って降りることになったから、さア大変である。乗る客が黒山のように押しよせている。文字通り高山君は獅子奮迅、二つのリュックサックと、毛布の巻いたのと鞄とパンの箱と、何やかや両手に持って、滅多矢鱈に飛び出して来た。奇跡のような働きであった。釜さんの白いズック小鞄と、高山君のラクダの襟巻とが、紛失して了ったが、とにかくあの人間の密集激流を突破してよく出られたものだ。
  私にはとても斯んな勇敢な行動はとれない。三人のうちこの意味における弱虫は一番私であろう。
  この騒ぎで、前記の如く二人が品物を失った時、私は心の一部で快哉を叫んだ。こいつは誠にはや情けない性分であるが、何しろ私は、蟇口を盗られ、剃刀を失い(これは返るかもしれない)、靴を盗まれという始末の旅であったから、他人が何か失うことに、やれ俺だけではなかったぞよ、という慰めを感ずるのである。
     (280~282ページ 12月22日の条)

 

  立ッタリ、床ニ胡坐シタリ、九時間アマリ難行苦行。イヨイヨ旅ハ考エモノデアル。朝ニナリ一時間半ホド、若キ海軍士官ノオ蔭デ席ニツキ少シ眠ル。
  名古屋駅デ、窓ヨリ人間ガ降リタゴタクサニ、私ノボストンバックガ歩廊ニ出テソノママ発車トナル。中ニハシャボン、飴、豆、他人ノゲートルナド入ッテイタリ。
     (283ページ 12月24日の条)

 

 12月22日には「この騒ぎで、前記の如く二人が品物を失った時、私は心の一部で快哉を叫んだ」という夢声も、12月24日には「窓ヨリ人間ガ降リタゴタクサニ、私ノボストンバックガ歩廊ニ出テソノママ発車トナル」という羽目に陥る。

 

 

 「いやはや何とも物凄い列車」の乗客として数日を過ごしてやっと12月24日の夕刻、

 

  十七時頃帰宅。静枝ジンマシンで寝テイル。他ハ一同無事ナ姿ヲ見テ安心スル。目出度シ目出度シ。
     (284ページ)

 

このように帰宅を果たし、「今回の旅行に於ける得失」についての考察を記した上で、

  俊子が十五日に出産したそうだ。空襲の影響であろう、一カ月ほど早産であった。女の児で、母子共に健全だという。これで私も愈々祖父となった訳、人間としての、生物としての二歩前進をした訳である。
     (245ページ)

 

と、その日の日記を結んでいる。11月24日の空襲から1ヶ月が過ぎてのことであった。

 

 無事なりし吾家の火鉢囲みけり

 

 吾家の無事を確かめての一句である。

 

 

 

【註:1】
  B29八〇機編隊が午後〇時一五分、北多摩郡武蔵野町の中島飛行機武蔵製作所、およびその付近に高高度より集中爆撃を行い、その後、六ないし八機の小編隊に分かれて荏原、品川、杉並の各区および東京港をそれぞれ攻撃する。
     (鈴木芳行 『首都防空網と〈空都〉多摩』 吉川弘文館 歴史文化ライブラリー358 2012  156ページ)

 夢声の家族が経験したのが、この中の杉並への爆撃であった。

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2018/11/24 09:40 → https://www.freeml.com/bl/316274/322532/
 投稿日時 : 2018/11/24 09:44 → https://www.freeml.com/bl/316274/322533/

 

 

 

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2011年8月14日 (日)

1961年8月13日(ベルリンにおける公衆衛生学的処置としての「壁」)

 

 1961年8月13日、東西ベルリンの間に壁が築かれた。

 それから50年が過ぎたわけだ。

 

 

 『ウィキペディア』を引用すれば、

 

1961年8月13日0時、東ドイツ政府は東西ベルリン間68の道すべてを閉鎖し、有刺鉄線による最初の「壁」の建設を開始した。6時までに東西間の通行はほとんど不可能になり、有刺鉄線による壁は13時までにほぼ建設が完了した。2日後には石造りの壁の建設が開始された。

東ドイツは当時、この壁は西側からの軍事的な攻撃を防ぐためのものであると主張し、対ファシスト防壁 (antifassistischer Schutzwall) とも呼んでいた。これは名目で、実際には東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出するのを防ぐためのものであり、「封鎖」対象は西ベルリンではなく東ドイツ国民をはじめとした東側陣営に住む人々であった。壁は、後に数度作り変えられ、1975年に完成した最終期のものはコンクリートでできていた。壁の総延長は155kmに達した。

 

…と要約される出来事であった。

 

 ベルリンの壁の特異性については、これまでも度々取上げて来た(註:1)が、伝統的なヨーロッパの都市の城壁が外敵の侵入への防護を目的として築かれてきたのに対し、この『ウィキペディア』記事にあるように、1961年に築かれた「ベルリンの壁」は、

  実際には東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出するのを防ぐためのものであり、「封鎖」対象は西ベルリンではなく東ドイツ国民をはじめとした東側陣営に住む人々であった

…という事実に、そのユニークさが見出される。外敵の侵入(流入)に対する防護ではなく、東ドイツ国民の国外脱出(流出)の阻止を目的として築かれた「壁」なのであった。いわば、国家が自らをゲットーとして位置付けた瞬間である。

 

 その背後には、住民にとって共産主義者の支配が、資本主義者の支配より魅力的ではなかったという現実がある。当時の東ドイツの共産主義者達は、魅力ある共産主義社会の建設を目指すよりも、住民を共産主義社会に閉じ込める方が手っ取り早いと判断したのであろう。ちなみに、1961年当時ベルリンの壁の建設を指揮したのは、そのベルリンの壁が崩壊する1989年に最高指導者(国家評議会議長にして、ドイツ社会主義労働者党書記長)の地位にあったホーネッカーであった。『ウィキペディア』の「エーリッヒ・ホーネッカー」の項には、

  ホーネッカーは中央委員会の国防担当委員として1961年にベルリンの壁の建設を担当した。

…と記されている。

 

 

 

 東ドイツ(ドイツ民主共和国)の国民からすれば、ベルリンの壁に代表される東西ドイツ間の「壁」は、国境線内に国民を閉じ込めるためのものであった。彼らは、実際、閉じ込められたと感じ、壁の外への脱出を夢見ることになる。ある者は成功し、ある者はドイツ民主共和国国境警備隊員の銃弾に斃れることとなった。

 

 しかし、視点を移動させ、ベルリン(特に西ベルリン)に注目すると、東ドイツ国境内に西ベルリン市民を閉じ込めたものとして「壁」を位置付けることも出来る。西ベルリンとは、東独国境線内に存在する資本主義の拠点なのであり、「壁」は(西ベルリン市民をも含む)資本主義的世界を共産主義世界から隔離し閉じ込めるためのものとして位置付けることも可能なのである。

 つまり、こちらも一種のゲットーとして考えることも出来る。

 

 ゲットーとは、ここでも『ウィキペディア』を活用すれば、

  本来は、中世ヨーロッパにおいてユダヤ人が法律によって居住を強制された市街地区を指す言葉であった。

…とあるように、かつてのヨーロッパのユダヤ人隔離地区の総称であった。『ウィキペディア』を読み続けると、

 

13世紀後半以降、まずドイツでユダヤ人の強制隔離が実施されるようになった。こうしてできたユダヤ人の強制隔離居住区は、周囲が壁で囲まれ、出入りが制限され、また黄色の印などユダヤ人であることを示すマークを付けさせられるなどの様々な制限が課せられていた。

14世紀のペスト大流行でペストを持ち込んだとされたユダヤ人への迫害が強まり、ヨーロッパ中でユダヤ人の隔離政策が取られるようになっていき、ユダヤ人隔離居住区は教会から離れた場所に設けられることが一般化した。

フランス革命後、18世紀末以降西ヨーロッパ諸国では、フランス革命ならびに当時の自由主義運動を背にしたナポレオンがユダヤ人解放とともに各地のゲットーを解放した。1870年ごろにはローマのゲットーが、ヨーロッパに残る、法文による最後のゲットーとなっていた。しかし、ナポレオン失脚後、再びユダヤ人の生活には制限がかけられるようになり、アメリカへ移住するユダヤ人が大量に生まれることになった。また、他方でロシアや東欧諸国のゲットーは20世紀にいたるまで存続した。

 

…と、ヨーロッパ史の一部として描かれているユダヤ人の「ゲットー」の姿を見出すことが出来る。19世紀から20世紀初頭にはゲットーからのユダヤ人の解放と、それぞれの国民国家への同化の歴史も存在する。しかし一方で、ナチスに収斂する新たな反ユダヤ主義の流れが始まるのもその時代であった。

 進化論と遺伝学を背景にした優生学的人種差別主義の台頭である。そこでは、ユダヤ人は人種的に(あるいは生物学的に)劣等なものとされ、遺伝的隔離の対象とされる。同時にこの優生学的人種差別は、公衆衛生学的視線とも合体し、感染症における病原菌のイメージがユダヤ人に重ねられることになる。

 本来の優生学的(つまり遺伝学的)視点からは、劣等さの「感染源」としてのユダヤ人というイメージは発生し得ないが、近代とは感染症の病因としての病原菌の発見の時代でもあり、近代科学的知識の大衆化は、優生学的視点と感染症の病理学を合体させ、ユダヤ人は二重の意味で隔離されるべき存在として取扱われていくのである。アーリア人種の清潔な世界からのユダヤ人の排除は、遺伝的隔離としてだけではなく、伝染病患者の隔離と病原菌の消毒という公衆衛生学的イメージの下でも進行することになってしまう。

 やがてヨーロッパはナチスドイツの占領下となり、ポーランドにはゲットーが復活し、各国のユダヤ人も強制収容所に移送隔離され、絶滅施設も稼動し始める。優生学と公衆衛生学の合体したところに、害虫駆除用ガスによるユダヤ人殺害と焼却による死体処理システム(ガス室と焼却炉!)が完成するのである。

 

 

 

 さて、問題は東独である。共産主義者からすれば、資本主義は伝染性の強い悪疫であり、資本主義の感染からの防衛は、国家の衛生上の問題としてイメージされることになる。

 その意味で、西ベルリンを囲む壁は、悪疫の感染源から東ドイツ国民を保護する防壁としてイメージされ得るものとなる。ナチスとユダヤ人の関係が、東独の共産主義者と西ベルリン市民の関係として再現されているわけである。

 

 

 ゲットーとして西ベルリンを考えることで、ナチスから東独の共産主義者に継承された、20世紀に大衆化された近代的科学知識の姿の一端を垣間見ることが出来るようにも思われる。

 

 

 

(註:1)
 たとえば、「壁を築くことの意味」(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-5ea5.html)を参照。

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/08/13 22:29 → http://www.freeml.com/bl/316274/169469/

 

 

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2009年11月 9日 (月)

壁を築くことの意味

 

 壁を築くこと。

 

 

 

 壁とは、内部と外部を分かつ境界として機能するものだ。

 壁の内部とは、私の部屋であり、我が家であり、そして国境線の内側である。

 そこは私の場所であり、私達の場所である。

 

 外部には異質な世界が広がり、時には危険であるかも知れない。

 

 そんな異質で危険でさえある外部から、壁が、私を、私達を守るというわけだ。

 そのために私達は壁を築く。安全な世界を維持するために。

 

 

 

 そんな壁に対し、内部に築かれる壁というものもある。刑務所の壁であり、精神病院の壁がそれだ。内部の異質さ、そして危険と想定される存在を、内部世界から排除・隔離するための壁である。彼らは内部の内部に閉じ込められる。築かれるのは、内部の内部に閉じ込めるための壁なのである。

 

 

 

 20世紀の前半、ナチスは内部の危険な異質さとしてユダヤ人を指名し、ドイツの国民生活からの排除に着手し、やがて強制収容所のフェンス(つまり壁である)の内に閉じ込め、ガス室の扉の向こうに閉じ込め、最後にはその生命を世界から排除した。

 占領地では、まず、ゲットーの壁の内部にユダヤ人は閉じ込められ、外部から隔離された。壁は外部の生活世界からユダヤ人を隔離し、つまり生産活動からも経済活動からもユダヤ人は切り離され、生活基盤そのものを奪われた状態に置かれることになる。ゲットーの壁はユダヤ人の生を守るものではないのである。

 ゲットーのユダヤ人も、強制収容所あるいは絶滅収容所に順次移送され、その多くは焼却炉の煙となった。

 

 ゲットーや強制収容所の壁により守られたのは、アーリア人の純潔であり、ナチスにとって望ましいドイツの姿であった。

 

 

 

 

 

 20世紀後半のドイツの共産主義者達は、新たな壁を築くことになる。

 1961年、東西ベルリンは壁により分断された。

 この壁の特異性は、これまでにも何度か書いたことだと思うが、繰り返し考察するに値するものだ。

 

 資本主義世界から共産主義世界を守る壁、というのは正確な評価ではないのである。異質で危険な外部の脅威から内部世界を守る壁ではないのだ。内部への外部の流入に対する防波堤ではないのである。

 共産主義者が統治する世界から、資本主義者が統治する世界への国民の移動を阻むための壁なのである。ドイツ民主共和国からドイツ連邦共和国の領域への住民の移動を阻止すること、つまり、内部の外部への流出を阻止するための壁なのである。

 

 ベルリンに築かれた壁で何が何から守られたのか? これは考えておくに値する問題ではないだろうか?

 果たして共産主義世界は、ベルリンの壁で守られていたのだろうか? …という問題である。

 ベルリンの壁で守られたのは、共産主義者の純潔であり、共産主義者にとって望ましいドイツの姿であった、と言い切ることが出来るのか? …という問題なのである。

 

 自らの国民を外部から隔離し、壁の内部に閉じ込めるという選択。その発想に示されているのは、ドイツの東側を統治した共産主義者の弱体ぶりであろう。

 壁により守られたのは、国民ではなく、共産主義者による統治体制の存続であったに過ぎないのである。

 

 

 

 

 

 かつてナチスにより、壁の中に閉じ込められ、ガス室のドアの中に閉じ込められ、生命を奪われた経験を持ったユダヤ人が、自らの民族国家であるイスラエルの建国に成功したのは20世紀後半のことであった。

 国境という壁により外部の脅威から守られることのなかったユダヤ人が、自らの民族国家を獲得し、国境線と国軍により守られる安全な内部空間を確保したのである。

 

 しかし、歴史的に、イスラエル国家の土地はパレスチナ人の土地なのであり、ユダヤ人によるイスラエル国家の建国が意味するのは、パレスチナに対する占領統治なのである。

 ユダヤ人にとっての安全な内部空間は、パレスチナ人にとっては不当な占領状態の空間なのである。安全なはずの内部空間は、最初から不安定なものなのであった。

 イスラエル国家のユダヤ人にとり、パレスチナ人の存在は内部の異質性、内部の不安定要因、内部の危険として理解されることにならざるを得ない。

 

 21世紀のイスラエル国家のユダヤ人の選択は、新たな壁の構築であった。

 新たな壁を築き、パレスチナ人を壁の内部に閉じ込める。ユダヤ人国家内部の安全は、内部に新たに構築される壁により保証されることになる(はず)なのである。

 

 壁は、外部からパレスチナ人を隔離し、パレスチナ人同士を分断し、パレスチナ人による生産活動や経済活動の自由を奪うものとなる。つまり、パレスチナ人からの生活基盤の剥奪を意味するものとなるのである。

 かつてナチスが築いたゲットーの壁と同じ効果をパレスチナ人にもたらすのである。

 

 そのような壁の構築は、果たしてイスラエル国家内部のユダヤ人の安全に、永続的な効果を持ち得るものなのだろうか?

 

 少なくとも、かつてのホロコースト被害者の末裔が、かつてのナチスの似姿を演じていることの意味は、考えておくべきであろう。

 他者への永続的な抑圧が、自らの安全の保証を意味するものだという信念の構築がもたらすのは、当人の道徳的腐敗以外の何物でもないように思われる。

 

 もちろん、ナチスの将校も、ドイツ民主共和国の共産主義者達も、自らの道徳的正しさをこそ確信していたに違いないのであるが…

 

 

 

 

 

 

 

 1989年の11月8日。

 ドイツ民主共和国の共産主義者達は、その社会主義統一党の中央委員会総会を開催していた。

 その時点では、誰も、翌日に起きるいわゆる「ベルリンの壁崩壊」を予測してはいなかったのである。

 そんな20年前の出来事を思いながら、あらためて壁という存在について考えてみたわけだ。

 20世紀と21世紀の歴史の中の「壁」の姿である。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/11/08 18:47 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/121540

 

 

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2009年9月12日 (土)

9月11日 世界は、より安全になったのか?

 

 全体主義と陰謀論。

 どちらも私の嫌いなものだ。

 

 

 

 あの「9 . 11」がブッシュ一味の陰謀であった、という話があることは知っているが、アルカイダによるブッシュ政権(というより米国)への敵対的行為であったと考えても、事実関係に矛盾は生じない。

 ブッシュ政権による陰謀であったという解釈で、事件全体(と、その後の展開)の理解が容易になるとも思えない。

 まぁ、陰謀論の内容を検証しての話ではないので、私に言えるのはそこまでだ。

 

 

 大日本帝國海軍による真珠湾攻撃の成功がルーズベルトの罠だった、と考えることは出来るが、対日宣戦布告とそれに連動しての対独宣戦布告をするためだけに、太平洋艦隊の主力を犠牲にする必要はないだろう。真珠湾で連合艦隊を迎え撃ち、日本海軍の主力を撃滅した上で対日戦に臨む方が合理的である。

…というのが私の判断であり、ルーズベルト陰謀説に与する気にならない理由である。

 

 

 

 アフガン戦争にしても、タリバンによるビンラディン引渡しの可能性は存在したわけだし、戦争は必然ではなかったはずだ。ビンラディンの身柄引渡しが実現していれば、戦争に至ることはなかったのである。

 戦争という帰結は、「9 . 11」から確定的に導き出されるものではなく、あの被害をビンラディン引渡しで埋め合わせても、ブッシュ政権の利益にはならないだろう。陰謀論の描く「ブッシュの利益」は、事後の現実の展開からの解釈としては成立するのかも知れないが、すべての展開が事前のシナリオによるものと考えるには無理があるようにしか思えないのである。

 

 

 対イラク戦争を導き出したのは、アフガンにおける予想を超えた米軍の勝利であろう。対アフガン戦争(現実には対タリバン戦争である)は、いわゆる米軍の「軍事における革命 (RMA; Revolution in Military Affairs)」の成功例として語られることになったが、確かにそのような側面を無視は出来ないにしても、北部同盟として地上戦を現実に遂行した反タリバン勢力の存在なしには、あそこまで迅速な勝利の確保はなかったはずである。

 ラムズフェルドに、そのことを理解する冷静さがあれば、対イラク戦争でのあそこまでの失態はなかったであろう。

 

 

 

 そもそも、アフガンにおけるタリバン支配がなぜ生み出されたのか?

 ソ連によるアフガン侵攻に対し、抵抗したアフガン勢力を支援したのは米国であった。アフガンからのソ連の撤退と、ソ連邦自体の崩壊後の世界において、国際社会(そして米国)は、戦争で荒廃したアフガニスタン国家の復興という課題を放置し、結果として生み出されたのがタリバンによる統治だったのである。そして、ビンラディンは、対ソ抵抗時のイスラム戦士のいわば代表としてタリバンに遇されていたわけだ。

 その歴史的過程を一瞥すれば、アフガン戦争後の最大の課題は、アフガニスタンの国家としての復興の成功であったことを理解するのは容易(なはず)である。

 

 アフガン復興の成功こそは、世界をより安全にする鍵であったはずだ。

 しかし、なぜか、ブッシュ政権には、アフガニスタンの復興支援への関心はなかったようである。

 

 アフガンでの(見かけの)軍事的成功による、国際社会での米国の発言力の強化という実績を前に、米軍の「軍事における革命 (RMA; Revolution in Military Affairs)」の成功の再演による国際社会における絶対的発言権の確保こそが、対イラク戦争の目的であったのだと、私は考える。

 対タリバン戦争という、軍事的には劣弱な勢力を相手にした戦争の成功に続き、湾岸戦争で装備の多くを喪失し、その後の新兵器への更新のない、劣弱になったイラク軍との戦争における勝利は自明のことであり、ブッシュ政権はその機会を捉えたわけだ。

 それにより、国際社会における米国の発言力の絶対的優位が獲得出来るはずだったのである。ブッシュは、米国大統領として、歴史的に称賛されるべき実績が残せたはずなのである。もちろん、ブッシュ一味には戦後のイラクにおける利権からの利益が保証されるというオマケ付きで。

 

 

 

 確かに、米軍は戦闘には勝利したわけだが、戦後統治には失敗し、結果として、ブッシュは史上最低の大統領という評価を得ることになったわけだ。

 第二次世界大戦後の日本占領の経験が、イラクの戦後統治のモデルとして喧伝されていたが、日本占領の成功は、天皇の地位の保証と戦前からの国家行政組織の温存というファクターによる部分が大きく、すべての国家組織を雲散霧消させてのイラクの占領は、まったくの別の事態だったのである。

 困難なのは、戦闘における勝利の獲得ではなく、占領統治の成功であることは、中国大陸における大日本帝国の軍隊が十分に味わったものである。同じ過ちを、ブッシュの軍隊は繰り返した(繰り返す羽目に陥らされた)わけだ。

 皇軍の失敗は、政治を理解しない軍人によるものであったが、米軍の(そして米国民が味わった)悲劇は、軍事の困難を理解しない政治家ラムズフェルド(あくまでも彼は文民である)がもたらしたものであった。

 

 

 

 

 

 この8年の歴史をふり返った時に、私に見えるのはそのような現実であり、そこに「陰謀」というファクターを加えなければ理解出来ない事態は存在しないのである。

 

 

 

 もちろん、「陰謀」が現実のものであったのだとすれば、ブッシュの愚かさは倍化されることになる。

 ブッシュは、結果として何の利益も得ていないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/09/11 22:10 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/115821

 

 

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2009年8月16日 (日)

無差別爆撃の論理 4 (特攻と戦略爆撃)

 

 「あの戦争」について語る時、「特攻」の問題を避けて通ることは出来ないだろう。

 

 

 特攻による戦死者を、崇高な精神の発揮者として賛美するか、無謀な戦争の果ての無責任な作戦の犠牲者として悼むのか、いずれにせよ、そこにあるのは軍の作戦としての自殺攻撃という手法なのである。

 近代における技術と生産力の発展という条件の下に、人類は二度にわたる「世界大戦」を経験することになった。技術革新と新たな兵器の登場。それが20世紀の戦争を語るに際し、あの時代の戦争の特徴的な姿として、私達に共有されているように思える。

 

 近代戦争、近代総力戦と呼ばれる戦争の形の背後には、技術革新と生産力の結合がある。そこからは、戦争遂行者としての軍隊が、技術革新の集約的産物である最新兵器を最後まで駆使し得るかに戦争の勝敗の帰趨がかかっている、という認識が生まれるだろう。

 「あの戦争」において大日本帝國の軍隊が追い込まれたのは、技術革新と工業的生産力に基づく戦争遂行という条件における無能力さという現実であり、特別攻撃という名の自殺攻撃の採用であった。そこには、兵器の操作者としての軍人・兵士の存在は既になく、人間の命そのものが攻撃兵器として「作戦」に使用されるという状況のみが残されていた。

 

 特攻による戦死者を賛美するにせよ、犬死として悼むにせよ、そこには近代戦争としては異様な用兵・作戦の存在があったことが、前提として理解・共有されているものと言い得るだろう。

 

 

 

 大西瀧治郎の名は、その特攻攻撃の組織者あるいは責任者の名として理解されている。近代戦争における非近代的な用兵・作戦の実行者、ということになるだろう。昭和19年10月に大西が第一航空艦隊司令長官として、特攻作戦の指揮を執ったことは事実である。

 しかし、大西の軍人としての生涯を見渡せば、彼自身はそのような非近代的用兵・作戦の発想から最も遠い場に身を置いていたことがわかる。

 第一次世界大戦後の世界に軍人として身を置いた彼は、戦争における航空力の優位を主張していた人物として、日本海軍で頭角を現すのである。戦艦の建艦能力と保有量が海軍の戦力を決するという当時の認識の中で、第一次世界大戦後の世界、第一次世界大戦後の戦争のあり方を、つまり近代戦争の現実を正確に理解していたのが大西瀧治郎その人、ということなのだ。

 

 

 

 たとえば荒井信一は、1936年の陸軍航空本部作成の『航空部隊用法』中の「政略攻撃」の項を、当時の日本陸軍における「戦略爆撃」思想の例として紹介した上で、

 一方、海軍では1937年7月、航空本部の意見パンフレットとして『航空軍備に関する研究』が関係者に配布された。起案者は、当時航空本部教育部長であり、のちに特攻作戦の発案者となる大西瀧治郎大佐であった。陸海軍の作戦への協力以外に戦略爆撃を実施する独自の戦力として空軍(純正空軍)の独立を説き、「純正空軍式航空兵力の用途は、陸方面においては、政略的見地より敵国政治経済の中枢都市を、また戦略的見地より軍需工業の中枢を、また航空戦術見地より敵純正空軍基地を空襲する等、純正空軍独特の作戦を実施するほか、要する場合は敵陸軍の後方兵站線、重要施設、航空基地を攻撃し陸軍作戦に協同するにある」と述べ、「純正空軍式の戦備」の急速な整備を急務と説いた(戦史叢書『海軍航空概史』)。
 …
 しかし、海軍ではパンフレットは部内の統制を混乱させるとして、回収を命じられた。海軍の主流にとっての関心事が、海上決戦の主力である主力艦を戦艦にすべきか航空母艦とすべきかという時代錯誤的な論争にあったからであろう。
     荒井信一 『空爆の歴史』 (岩波新書 2008)

と、海軍における戦略爆撃思想の理解者・主唱者として、大西瀧治郎の名を提示しているのである。

 

 支那事変の進展に伴い、

 海軍は陸軍の要請に応え、航空隊の主力を支那方面艦隊の指揮下に移し、第一・第二連合航空隊(司令部漢口)に配備していた。海軍きっての戦略爆撃論者大西瀧治郎は、1939年末に第二連合航空艦隊司令官に任じられ、奥地爆撃の強化に当たる。翌年4月10日付で各艦隊司令官などに配布された『海軍要務令(航空戦之部)』は、「要地攻撃」を「軍事政治経済の中枢機関、重要資源、主要交通線等敵国要地に対する空中攻撃」と定義している。作戦実施要領の骨子は、37年に大西が起案し「怪文書」として没収されたパンフレットの内容そのままである。「要地攻撃」の最大目標として重慶爆撃が本格化するのは39年5月からである。

という形で、近代戦における航空機の優位と戦略爆撃の有効性の論理を理解し、部隊司令官として攻撃を実行した人物としての大西瀧治郎の姿が、荒井により描かれている。

 

 

 

 しかし、海軍では艦隊決戦論者の下に戦艦大和・武蔵の建造が優先され、航空母艦及び航空兵力の充実は後回しにされることになる。真珠湾攻撃(大西の基本計画に基づく)の成功は、実戦での航空力の優位を証明するものであったにもかかわらず、そのことへの理解が得られたようにも見えない。

 そのような状況下で、米国の圧倒的な工業生産力との闘いとして大東亜戦争は進行し、生産力の絶対的劣位の中で大日本帝國は敗退していくのである。

 

 軍人として近代戦争を誰よりも理解していた人物が、航空本部教育部長としてパイロット養成の困難を誰よりも理解していたはずの人物が、「特攻」という「統帥の(統率の)外道」の作戦指揮を執る事態に陥るに至る軌跡は、この国の歴史の一断面として、「あの戦争」の現実を語る際に忘れずにいたいことの一つである。

 

 

 軍事理論としての「戦略爆撃」思想の先駆的理解者の一人が大西瀧治郎であったのであり、中国大陸における「要地爆撃」を実施する「戦略爆撃」の先駆的実行者の一人が大西瀧治郎であった。

 大東亜戦争の戦局の悪化の中で、その大西が「特攻」を指揮し、その祖国が容赦のない戦略爆撃の対象となっていく。空襲により荒廃した東京で、ポツダム宣言受諾に反対し、徹底抗戦を叫び続けたのも同じ軍令部次長としての大西瀧治郎であった。

 昭和20年8月15日、大西は渋谷の軍令部次長邸で自決する(靖国神社『遊就館 図録』によれば自決の日付は15日であるが、『ウィキペディア』によれば8月16日である)。

 

 

 

 

 

【大西瀧治郎】
 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E7%80%A7%E6%B2%BB%E9%83%8E
【無差別爆撃の論理】
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/cat33391635/index.html

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/15 20:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113240

 

 

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2009年8月15日 (土)

国体の精華としての、特攻、玉砕、本土決戦、そして特殊慰安施設協会

 

 昭和20年の8月14日、まだ戦争は続いていた。

 小田原がB-29の空襲を受けるのは、8月15日へと日付が変るころだった。

 

 

十四日の午後、千葉から兄上がいらっしゃった。無条件降伏のことはご存じなく、火事見舞と、本土決戦をひかえて、最後のつもりでいらっしゃったのだった。その夜はまだ空襲があって、小田原が燃えた。森の向こうに赤い火の手が上がり、それは、絵のように美しかった。
     太田静子 『斜陽日記』 (小学館文庫 1998)

 

 まさに、昭和20年8月14日の夜更けに、「小田原が燃えた」のである。

 太田静子自身は、8月12日に訪れた加来氏から、「無条件降伏に決まったことを教え」られていたのだが、そのこと(御前会議でのポツダム宣言受諾決定)を知らぬ「兄上」にとっては、戦争はまだまだ終わらず「本土決戦」へと続くものだったわけである。

 「兄上」同様、多くの日本人にとっては、「本土決戦」という事態がやがて待ち受けている。それが、昭和20年8月14日夜、大日本帝國臣民にとっての平均的未来像であったはずである。

 

 

 

 

 本土決戦?

 何のために??

 国体護持のために!!!

 

 戦争における敗北の経験は、それまでの「近代」の日本人にはなかったということを、ここでは思い出しておくべきかも知れない。

 単に未経験な事態であるばかりではなく、神国日本の国体の精華である皇軍は不敗の存在なのであり、勝たない(勝てない、ではなく)戦争など想像のつくものではなかったように見える。戦争に、敗北という終了があることに考えが及ばない状態、とでも言えばよいだろうか?

 昭和という時代は長いが、後に「戦前・戦中」と呼ばれることになる時期には、軍事的手段による大日本帝國の支配領域の拡大への努力が日常化し、それは常に成功するものと想定されていたのである。

 

 現実には、昭和12年7月7日以来の「支那事変」では、見かけ上の支配領域の拡大の一方で、期待されていた中華民国国民政府の降伏による戦争状態(あくまでも「事変」であって、国際法上の「戦争」ではなかったことになってはいるのだが)の終了に至ることはなく、つまり大日本帝國の勝利として戦争状態の終了を迎えることは出来なかったのである。

 支那(中華民国国民政府=中国)が負けを表明しない限り、大日本帝國としての勝利はないのである。しかし、当初の「対支一撃論」は根拠のない楽観であったし、「首都南京占領」が中国国民政府の降伏に結びつくこともなかった(国土は広く新たな首都は重慶とされたが、南京まではたどり着けた皇軍にも、重慶は遠すぎた)。

 しかし、そのことを大日本帝國から見れば、大日本帝國も決して負けているわけではないのであって、つまり、いつまで経っても勝てないという状態が続いていただけなのだ、ということになる。

 少なくとも、個々の戦闘には勝利し、大日本帝國は、その地図上の支配領域の拡大に成功したことも確かなのではあるが、安定した支配権力を確立することも最後まで出来なかったのである。

 広大な国土と、無尽蔵であるがごとき中国(あるいは支那)の人的資源を前に、戦争状態はいつまでも続くものに見えるようになった。あるいは「行き詰まり」状態として感じられるようになった。

 

 その「行き詰まり」の打開策として選択されたのが、米英との戦争なのである。

 

 しかし、言うまでもないことであると思われるのだが、対米戦争とは、米国の広大な国土と人的資源の大きさに加え、すべてにおいて巨大なその資本力と資源量と工業生産力との戦争となることを意味するのである。

 中国大陸における広大な国土と無尽蔵な人的資源を相手にしての、勝利という結末を見ることの出来ぬ戦争状態の継続の打開策が、米国との戦争であったということなのである。

 中国における戦争状態を勝利をもって終えることの出来ぬ大日本帝國が、中国大陸における戦争状態の継続に加え、新たに対米英戦争を開始してしまったわけなのだ。

 勝てるわけがない、と、現在の冷静な判断からは言うことが出来る。

 

 

 資源量の絶対的不足、工業力の絶対的劣位、その上で「特攻」という手法の採用による人的資源(及び工業生産物)の回復不可能な浪費・消耗にまで至るのが、対米英戦争開始後の大日本帝國なのである。

 しかし、負けるはずがないというのが、「戦前・戦中」と呼ばれる時代の(国体の精華としての)日本人の感覚であった(あるいは想像力の限界であった)。日本は「神国」なのであるから(20世紀の日本人は、実際に、そのように信じていたのである)、負けるはずはないのである。

 

 

 自ら策定した「絶対国防圏」を侵された段階で、戦争を勝利をもって終了する可能性の喪失が判断されるべきであるし、その時点で、国家目標は、戦争継続から戦争終結への努力へとシフトされるべきであった、と現在の冷静な視点からは言うことが出来る。

 

 しかし、玉砕、特攻、そして本土決戦という選択肢以外にないという視野狭窄状態が、大日本帝國の国体の精華として顕現してしまったのが、「戦前・戦中」と後に呼ばれることになる昭和の一時期のこの国の現実であったのである。

 本土決戦もまた、玉砕と特攻に終始することになったはずである。「負けたと言わねば負けたことにはならず、負けたと思った方が負けなのである」とは当時の新聞紙上にありふれた言い回しであった。しかし、玉砕と特攻、あるいは特攻と玉砕の組み合わせの果てにあるのは、大日本帝國の臣民の絶滅という事態である。

 絶対国防圏喪失後の大日本帝國の戦争継続理由は「国体の護持」であったわけなのだが、その結末が大日本帝國の臣民の絶滅となることは、頭を冷やせば誰にでもわかる理屈であろう。国民の絶滅によって、「護持」され得る何かがあるのだろうか?

 

 

 その理屈が理解出来る程度に頭を冷やす努力もしなかった結果、昭和20年8月15日まで日本国民にとっての戦争は続き、未明の空襲により小田原市民1,500人以上が罹災し、30~50人がが死亡することになったのである(正確な被害状況は今に至るも不明らしい)。

 

 

 

 ところで、昭和20年8月15日以前の大日本帝國には、戦争における敗北の経験はなかった。つまり、それまでは、戦争を勝利という状態でしか経験したことがなかったのである(個々の戦闘における勝利の集積が戦争における勝利となるわけだ)。

 その日本人にとって戦争における敗北が何を意味していたのかを考える上で、興味深い歴史的事実がある。

 あの「特殊慰安施設協会(RAA)」の存在を思い出すことが出来るだろうか?

 「特殊慰安施設協会」設立の経緯は、それまで自身の「戦争の敗北」経験を持たなかった日本人の想像力が描いた「敗北後の国民」が、敵兵に陵辱される婦女子の姿でイメージされていたことを示しているのである。

 戦闘の勝利が、かつてのこの国においては、戦時強姦の実行(そこでは実行する側であったことに留意)としてイメージされていたことを、あの「特殊慰安施設協会」設立の歴史が教えてくれるのである。

 「特殊慰安施設協会」の存在を、あらためて、わが国体の精華として深く認識に留めておくべきであろう。

  

 

【小田原空襲】
 → http://www.asahi-net.or.jp/~UN3k-MN/kusyu-odawara.htm
【対支一撃論】
 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E6%94%AF%E4%B8%80%E6%92%83%E8%AB%96
【神国日本】
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-45c4.html
【特殊慰安施設協会】
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/cat33396926/index.html



 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/14 21:24 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113133

 

 

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2009年6月16日 (火)

人民解放軍の銃口

 

 6月4日という日付は、やはり、「天安門事件」を思い起させるものだ。

 
 

 1989年だから、20年が過ぎたことになる。

 

 人民解放軍の銃口が人民に向けられた日だった。社会主義の軍隊の行為としては、そもそも軍隊の行動としては、珍しいわけではないだろう。

 軍隊とは、必ずしも国民の守護者ではないのである。

 

 しかし、「人民解放軍」という名称の軍隊が、人民に対し発砲する姿は痛ましいものだった。

 
 
 

 国民の存在が国家を生み出すのか?

 あるいは国家があればこそ国民が存在するのか?

…と問うことに意味はあるだろうか?

 

 まぁ、いずれにせよ、国家を否定することは簡単だが、国家に代わる存在を私たちはイメージしえていない。

 つまりここには、治安の保障も人権の保証も、国家という存在を抜きにしては成立しないという問題がある。

 

 国家こそが人権を蹂躙し、国民へ発砲する暴力そのものではないか、と言われればその通りなのであるが、しかし、国家以外に強制力を持ち、人権を保障することの出来る機関も存在しないのである。

 人権の保障自体が、暴力行使の可能性を排除しない強制力としての国家に裏打ちされているのである。

 
 

 もっとも国民に対し人権を保証する国家とは、実に最近の出来事なのであるが…

 「国民」という存在に支えられた「国家」というイメージ自体が、これまた実に最近のものなのである。っていうのは人類の歴史から見て、という話だが…

 
 
 

 今さらのことではあろうが、江戸時代に日本国民は存在しない。

 国とは藩のことであったし、その藩内においても士農工商を一括して国民と考えることはしなかった。

 統治者と被統治者、支配者と被支配者という関係性が貫かれる限り、そこに「国民」は生まれない。統治者、支配者による支配・収奪の対象として位置付けられる限り、国民としての自負は生じないのである。

 どこまでもフィクションであろうとも、国家の主人公であり国家の受益者であるという意識が、国民という自己意識の基盤となるのだ。

 

 法に縛られる存在なのではなく、法を創り出す存在。それでこそ国民なのである。

 軍隊を養い、兵士として参加し使役する国民。他国による侵略を撃退し、国民の安全を守る軍隊。つまり、その軍隊の主人は、あくまでも国民なのである。

 警察力の主人、それが国民なのだ。

 官僚組織の主人、それも国民だ。

 それが近代国民国家における、理念としての国民の位置付けである。

 

 代議制による国民の代表が立法府を構成し、そのことが国民が「法を創り出す存在」であることを保証する。

 であるからこそ、必ずしも暴力的でない形での法的強制力も生じるわけだ。法とは自分のルールなのである。

 
 
 

 もちろん、これまで書いたことは、理念であり、多分にフィクションである。

 

 代議制という手段しか持ちえない以上、法制定への関与は間接的なものでしかありえない。

 国民という括りの中にも、利害の対立する様々な集団が存在するのであり、立法府はその利害の調整装置となるわけだが、当然のことながら民主的運営による限り、どの集団の利益も完全には満たされることはない。

 非民主的すなわち独裁的運営を採用すれば、特定の集団の利益は最大限に満たされるであろうが、他の集団の利益は打ち棄てられることになる。

 
 
 

 1989年の天安門では、人民の利益を代表すると称した中国共産党が、共産党の利害をのみ考えて現実的に振舞ったに過ぎない。

 しかし、人類にとっての実に痛ましい歴史的経験であった。

 
 
 
 
 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/06/04 23:55 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/106145

 

 

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2008年12月 9日 (火)

ルーズベルトの真珠湾

 

帝國・米英に宣戰を布告す

 西太平洋に戰闘開始

  布哇米艦隊航空兵力を痛爆

【大本營陸海軍部発表】(12月8日午前6時)帝國陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戰闘状態に入れリ

【大本營海軍部発表=八日午後一時】

一、帝國海軍は本八日未明ハワイ方面の米國艦隊並に航空兵力に對し決死的大空襲を敢行せり

     (朝日新聞 東京版 昭和16年12月8日 夕刊)

…と、1941年12月8日の朝日新聞・夕刊の第一面トップに書かれている(「帝國・米英に宣戰を布告す」は右から左への大活字の横書き)。

 真珠湾に対する攻撃の報の横に並んで、「宣戰の大詔」が掲載され、更に「大本営海軍部発表」の続き、そして「社説」が並ぶ。

 その下段に「我海鷲、ハワイ爆撃」の見出しと共に、戦果が紹介されている(ただし詳細なものではない)。

 実際の戦果はというと、

日本軍の戦果 : 真珠湾在泊の戦艦8隻のうち撃沈4隻(アリゾナ・オクラホマ・ウェストバージニア・カリフォルニア)、大破3隻(ネバダ・メリーランド・テネシー)、小破1隻(ペンシルバニア)。地上基地飛行機の破壊は陸軍機231機・海軍機80。アメリカ軍に与えた人的損害は戦死・行方不明2402人(市民68人を含む)、戦傷1382人(市民35人を含む)。

日本軍の損害 : 喪失29機。戦死55人。

     (『太平洋戦争・主要戦闘辞典』 PHP文庫 2005)

となっている。

 パーフェクトゲームという気がしてしまったのも無理はないだろう。

 しかし、この戦果には空母が含まれていない。米太平洋艦隊所属の空母3隻は、在泊しておらず無傷のままであった。

 また、日本海軍による攻撃も徹底さを欠き、第3次攻撃は見送られてしまう。

 結果として、破壊を免れた乾ドックなどの米海軍施設は、被害を受けた艦船の補修に活躍することになる。戦艦8隻のうち6隻は引き上げられ、補修の上、戦列に復帰してしまうのである。

 結局、現実の戦果(つまり米海軍へのダメージ)は戦艦2隻の撃沈にとどまってしまうことになる。

 また、ワシントンで続けられて来た日米交渉打ち切りの通告も、在米日本大使館の不手際により、真珠湾攻撃の事後のものとなってしまう。

 その結果として、米国民からは「奇襲・騙まし討ち」という評価を与えられ、彼らの復讐感情を大きく刺激することになる。米国民の戦意高揚に貢献してしまったのである。

 ルーズベルトは、ハル・ノートの提示の結果、大日本帝國政府による日米交渉の打ち切りに至るであろうことは予測していたであろうし、暗号文解読の結果として、大日本帝國による先制攻撃のあることも予測していたようである。それを根拠にしての、ルーズベルトの仕掛けた罠だったという、一種の陰謀説も流布しているようだが、私は採用する気にはなれない。

 ルーズベルトあるいは米国政府及び軍当局者が、連合艦隊によるハワイへの攻撃、それも空母からの航空機による攻撃という事態まで予測していたと考えるには無理があるだろう。しかも第3次攻撃が実行され、あるいは別の海域で空母が発見・攻撃されていれば、米海軍は太平洋から姿を消していたのである。

 それが実現しなかったのは、ルーズベルトの陰謀あるいは戦略の結果ではなく、帝國海軍の不徹底さの結果と言うべきだろう。

 米海軍力の壊滅の可能性さえあったのが、帝國海軍による真珠湾攻撃なのであり、そんなチャンスを誰が自ら与えようとすると言うのだろうか? 

 そして、在米日本大使館の不手際まで予測出来なければ、日本軍による卑劣な奇襲という評価の獲得も出来ない。

 私は、陰謀説の採用には批判的にならざるを得ないのである。

 いずれにしても、温存された米空母と修復された艦船、そして新造される艦船と量産される航空機。アメリカの巨大な物量が、「リメンバー・パールハーバー!」の合言葉と共に大日本帝國へと向けられ、昭和20年8月15日の玉音放送という結末に至るのである。

 大本営および帝國政府には、どこまで問題を把握出来ていただろうか?

 赫々たる戦果の陰に生まれていた米国民の戦意の恐ろしさを。その生産力の巨大さを。

 真珠湾攻撃の成功が、その成功こそが、米国の国力のスイッチをオンにしてしまったのである。

 しかし、昭和16年12月8日の夕刊紙面から、誰が玉音放送という帰結を予測出来たであろうか? 

 結果を知っている現在から見れば、敗戦は当然の帰結に過ぎないと思われるが、後知恵による批判もまた空しい。

 昭和16年の今夜、国民の多くは、戦果を歓迎して眠りに就いたはずである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/12/08 22:34 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/87878

 

 

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2008年12月 7日 (日)

21世紀の最初の9月11日

 

 2001年の9月11日は、東京人にとっては、日中の台風の通過が、せいぜい共通の記憶として残るだろうにしても、7年も過ぎれば台風のことなど忘れ去られ、特に記憶すべきこともない、ありふれた9月の一日として思い出すことすらされない日付となっていただろう。

 台風のニュースも見終え、久しぶりに早寝をしようと思っていたところへ、階下から声がかかった。

 呼ばれて階段を降り、指差された先のテレビを見る。

 ニューヨークの高層ビルの中ほどから大量の煙が上がっていた。

 飛行機が衝突したのだと、私を呼んだ、娘の母が言う。

 なんてことだと思いながら画面に見入っていると、何と2機目が隣に並んだビルに激突した。「激突」というか、吸い込まれ、激しい炎と煙へと変った。

 事故ではないぞ、ということは、その時点で推測出来た。

 やがて、他にもハイジャックされた旅客機の存在が明らかとなり、ペンタゴンも標的とされ、別の一機の墜落も確認されていく。

 もっとも、7年前の記憶となってしまった出来事の順番は定かではないが、とにかく、深夜まで、テレビの前から離れられなくなってしまったことを覚えている。

 当時、私は休職し、寝たきり状態となった母の介護を続けていた。一日中、家で過ごしていたのである。

 台風も、家の中で、外を過ぎていく出来事として経験したに過ぎない。

 その日の台風を覚えているのは、母の介護の日々、母の最後の日々を、その日の母の姿を撮影することで、家にこもり続けた一日のアクセントとしていたからだ。同じカメラで、台風の過ぎ行く窓の外を撮影し、そして炎上するツインタワーのテレビ画面も私は撮影していた。

 母の死後、残された写真を整理している中で、同時多発テロの日、東京は台風に襲われていたことは再発見されたのである。

 時期的には介護保険制度の発足と重なり、身体の介護に関しては、訪問看護師と、ヘルパーさんの力を十分に借りることが出来た。

 しかし、衰えゆく家族の傍で過ごす毎日は、思うほど気楽なものではなかった。

 まぁ、そんな一日の重苦しさもある時間の流れの中で、死にゆく老人と介護する家族という関係を、写真家(?)とモデル(…?)の関係へと変換させる時間を持てたのは幸せなことだったと思う。

 煮詰まった日常の時間が、その時だけ別の時空へと変化する。母に寄り添う猫の姿。母の横で漫画を読みふける、まだ小学生の娘の姿。カメラのファインダー越しにそこへ向けられる私の視線も、日常のものではなくなるのだ。

 そんな日々の中に、同時多発テロが飛び込んで来たのだった。

 一日中、家にいるわけだ。衛星放送で、CNN、BBC、ABC、CBS等の映像が視聴出来るようになった時代の話だ。

 母の介護をしながら、毎日、テレビ画面に見入っていたのを思い出す。

 ブッシュ政権は、「テロとの闘い」を名目として、アフガニスタンへの攻撃を選択する。戦争では、テロリストではない多くのアフガニスタン国民が犠牲となった。

 現代の軍隊の装備としては、実に不十分なものしか持たなかったタリバンの兵士に対し、最先端兵器を駆使した米軍の攻撃は、確かに効果を挙げた。

 アフガニスタン内のタリバンへの対抗勢力の軍事力が、地上戦を制した。

 そして、アフガニスタンは、タリバンの支配から「解放」されることになった。

 アフガニスタンに対する攻撃の名目は、同時多発テロの実行グループとしてのアルカイダの存在だった。しかし、対アフガン戦争は、アルカイダを消滅させるような成果には結びつかず、攻撃の目的が達成されたわけではなかった。

 ブッシュ政権は、アフガニスタンの復興という課題には興味を示さず、新たなる敵としてイラクを指名した。

 国内にアルカイダは存在せず、大量破壊兵器も保有していないイラクが、アルカイダの存在と大量破壊兵器の保有を理由に、米軍の攻撃の対象となったのである。

 最先端兵器を装備した米軍は、イラク軍との戦闘でも、圧倒的に優位に立ち、イラク正規軍を崩壊させ、イラク政府を消滅させた。

 しかし、最先端兵器を装備した少数兵力の使用による戦闘の勝利には成功したが、大量の兵力を必要とする軍事的占領と治安の維持への想像力を欠いたために、戦後イラク統治には失敗してしまった。

 第二次世界大戦後の日本占領が、戦後イラク統治のモデルとなるはずだった。しかし、戦後日本には、戦前から継承された正統性に基づく政権が存在し、行政機構が存在し、警察組織が存在し、指揮系統に基づき武装解除する軍隊が存在した。イラクにはそのすべてがなかった。

 大日本帝國政府はポツダム宣言を受諾し、大日本帝国の軍隊は連合軍に対し降伏したのである。しかし、イラクでは、公式には、誰も降伏していないのだ。

 そのイラクの地に、小兵力の米軍は、治安維持能力を欠いた存在でしかなかった。

 宗派や民族を異にする人間によって構成されていた国家であったイラクには、国民の統合の基盤となるはずのイラク人としての共通したアイデンティティーが存在していたわけではない。

 国家による権力的な統治があって初めて、イラク国民の存在があったわけだ。

 そのイラクから、統一的な権力を消失させてしまったのが、ブッシュ政権による戦争の「成果」であった。

 国民としての統合の枠組みは失われ、それぞれの宗派的・民族的アイデンティティーと様々な利害関係の上に国内対立は激化し、同時に占領軍としての米軍へのゲリラ攻撃も恒常化してしまった。

 最新鋭を誇る米軍の装備は、ゲリラ戦には無力である。

 軍需産業は確かに潤いはしただろうが、一方で最新鋭兵器の無力振りをもさらけ出してしまった。

 誰が、利益を得たのだろうか?

 利益を得た者など存在するのだろうか?

 アメリカの威信など、消えてしまった。

 何も達成されず、イラク国民は死の恐怖にさらされ続け、米軍兵士は市民による攻撃の恐怖にさらされ続けている。そして、殺し殺され続けているのである。

 アフガニスタンでは、タリバンは勢力を盛り返し、あの戦争の成果など、誰にとっても存在しないだろう。

 アフガン攻撃に至る日々(母は存命であった)、イラク攻撃に至る日々(これは母の死後の出来事だ)、このような現状は、既に多くの人々によって予測されていたことだ。

 私ですら予測出来たのだから、決して難しい話ではなかったはずだ。

 普通なら、予測が当たることは「うれしい」出来事の一つだろう。しかし、この「予測通り」に実現されてしまった現状を見るのは、実につらいことである。

 21世紀の最初の7年の人類の経験がこんなものとなってしまったことは残念な話だ。別に多くを期待していたわけではないが、ここまで愚かさの中に埋もれた7年となることを望んだこともない。

 そんなことを思う、2008年9月11日の夜である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/09/11 21:51 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/78458/user_id/316274

 

 

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8月15日、天皇はラジオから語りかけた

 

 昭和二十年八月十五日には、前日付けのポツダム宣言の受諾を伝える天皇の言葉が、天皇自身の肉声の録音放送という前代未聞の方法により、ラジオを通じて、日本国民(大日本帝國臣民)のもとへと届けられた。

 その出来事が、後に8月15日が「終戦記念日」として、日本人にとっての特別な日となる基となった。

…ということが確かなことである一方で、しかし、各戦域における実質的な戦闘行為の終了や、国家間における戦争状態の終結が、その日付をもって果たされたわけでもない。

 昨日の日記ではそのことを取り上げたわけだ。

 いわゆる「玉音放送」の日付をもって、「終戦記念日」とすることは、天皇という存在とあの戦争の関係性、大日本帝國という国家と天皇の関係性、天皇という存在の国民(臣民)との関係性等々、かつての「国体」観念を無言の前提として、この国における歴史的出来事を考えることを意味するものだ。

 念のために申し添えておくが、ここにあるのは、いわゆる「天皇の戦争責任」というフレーズとは別の問題である。

 戦後の日々の中で、回顧的に戦争とその終結を語る時、日本人の中で8月15日の「玉音放送」体験がクローズアップされていった事実の中に、国民(旧・臣民)にとっての天皇の位置が見えて来るだろう、ということだ。

 昨日ご紹介した『東アジアの終戦記念日』の中に、作家の正宗白鳥の次の言葉がある。

 

 数ヶ月を隔てた過去の日に於ける感想の記録は、八月十五日当日の実感とはおのづから異なつてゐるであらう。この頃頻繁にあらはれる知名人の回想録、過去の感想談も、眉に唾をつけて見るべきであり聞くべきである。

          (昭和二十年十二月二十三日)

 

 正宗白鳥の指摘には耳を傾けておくべきだろう。現在の、大きく隔てられた歴史の時間の中にいる私達としては、あの戦争をめぐる過去の記録を読み解くに当たって、特に留意すべき点の一つだと思われる。

 つまり、昭和20年8月15日のそれぞれの経験とは別に、戦後の日々の中で、8月15日が日本人の共有する記憶を刻印された特別の日付となっていったということだ。

 歴史とは、出来事の事実関係の問題であると同時に、選択的に共有される記憶により形成されるものでもある。

 「玉音放送」という事実としての出来事が、戦後の日本人の中で、あの戦争の終わり=「終戦」そのものを体現する出来事として再解釈され流通していった。

 そのこと自体の背後に、あの戦争と天皇の存在の不可分な関係が、そのようには意識されることなく示されているのではないだろうか。

 これは現実の政治的軍事的過程における天皇の果たした役割とは、まったく別の問題だ。

 そこに、国民自身にとっての天皇の意味付けを読み取ることが出来るだろう、ということなのだ。

 昨日の日記で取り上げた問題を思い起こしてみよう。

 あの戦争の交戦国では、8月15日という日付は、意味ある特別な日付として取り扱われてはいない。

 あの戦争を語る上で、8月15日という日付が特別に意味を持つのは、この日本(あるいは大日本帝國)での話だからこそなのである。

 朝鮮半島においての8月15日の意味合いは、大日本帝國による植民地であった歴史と不可分ではないだろう。

 同じ大日本帝國の植民地であった台湾における取り扱いが異なるのは、植民地化当時の台湾は独立国家ではなく、多様な民族の居住地であり、しかも居住民の大陸国家への帰属意識も大きなものではなかったという歴史的経緯の違いに起因するものだろう。

 朝鮮半島においては、大日本帝國は、民族意識に支えられた独立国家を植民地化したのである。

 植民地からの解放の第一日としての8月15日という記憶の仕方を選択したのが、朝鮮半島の人々であったとすれば、天皇の「玉音放送」による戦争の終結という記憶のあり方を選択したのが日本の国民であった、ということになるだろう。

 天皇と日本国民を不可分の関係において見るという、日本国民の考え方をそこに見出すことが出来る、というわけだ。

 そういう意味で、「玉音放送」というもの自体が画期的な意味を持つものでもあった。

 それまでの日本人にとっての天皇の存在は、支配の重層的で間接的な関係の究極の向こうの遠くの頂上に位置付けられるものであった。

 それが、ラジオを通しての直接的な関係として経験されたのが、「玉音放送」であったわけだ。

 そう考えてみれば、「玉音放送」とは、日本国民の天皇体験の画期であったと言うことも出来るだろう。

 昨日の日記に頂いたコメントへのお答えにも書いた話ではあるが、昭和14年以来、8月15日は「戦没英霊盂蘭盆会法要」が全国にラジオ中継される日とされていた。

 8月15日は、「お盆」という、日本文化の中での死者追憶の時期と重なる日付でもある。

 様々な角度から論じることが出来る問題として8月15日という日付を取り上げてみること。

 私達の共有物としての歴史理解に必要なのは、排他的な正しさの追及ではなく、他者の経験への想像力ではないかと考えるところに、本日の日記の出発点もある。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/08/16 21:20 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/76010/user_id/316274) 

 

 

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