カテゴリー「マイノリティーとマジョリティーの間」の記事

2013年4月22日 (月)

聞こえない木下さんと屠場の人の声

 

 想像力の及んでいない領域が存在することを、映像作品との出会いを通して知る。

 百瀬文さんの『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』、そして久保田智咲さんの『屠場を巡る恋文』。

 

 どちらも「武蔵美優秀展(平成24年度 武蔵野美術大学 造形学部卒業制作・大学院修了制作 優秀作品展)」で出会った映像作品である。

 

 

 

 

 百瀬さんの作品の「聞こえない木下さん」とは木下知威さんのことで、若手の建築史・視覚文化研究者として紹介されていた。「聞こえない」というのは、彼は、実際に(生まれつきまったく)耳が聞こえないからである。

 その木下さんとの「対談」の映像記録として作品は作られている。

 生まれつきまったく耳の聞こえなかった木下さんは、「口話」という手段で、相手の発言を把握する。口の動きから発せられた音声を判断し、言葉として再構成し理解する。そのことも、「対談」を通して明らかにされる。

 木下さん自身は、自身の音声で相手の問いかけに答える。自然でなめらかな発声とは言い難いが、何を言っているかを理解することは難しくはない(それに、「対談」する二人の言葉にはすべて字幕がつけられている)。

 

 聞こえないということは、そして口の動きで音声を判断するということは、似た口の動きの音を弁別することの困難であることも意味する(ということも対談の過程で明らかにされる)。たとえば、バとパとマ、アとカとハの違いを口の動きだけから判別することは難しい。

 そこで重要となるのは前後の文脈である。もちろん、耳の聞こえる人間でも、相手の発音がはっきりしなかった場合、語を聞き落とした場合、同音異義語を判断する場合など、前後の文脈を参照することで、正確な把握を目指す。

 しかし、「聞こえない木下さん」の場合は、会話の全体にわたってそれが必要とされるような条件下にある、ということなのだ。

 

 百瀬さんの映像作品では、さらに絶妙な仕掛けを用いることで(作品の構成上、この仕掛けについてここで語ることは出来ないが、字幕の存在が大きく意味を持つことにもなる「仕掛け」であった)、音声情報による対面的コミュニケーションの限界と可能性を露わにして見せる(聞こえる者にとっての限界が聞こえない者にとっての可能性となる瞬間!)。

 「暴力的」という言い方も可能な「仕掛け」ではあるが、しかし、「聞こえない木下さん」の側も、聞こえる側の思いもよらない視点で相手を見取っていることが明らかにもされる(本人の意図しない所で引き起こされた「仕掛け」への「反撃」にさえ見える)。

 

 30分に満たない作品であるが、多くのことを考えさせられる(その詳細は「追記」を参照)ことになるのだ(百瀬さんは油絵コースの院生、学部の卒制時にも優秀作品に選ばれていたような記憶がある)。

 

 

 

 

 『屠場を巡る恋文』の「屠場」とは、まさに家畜を食肉として処理するための場所(屠畜の場)である。その「屠場」を巡るドキュメンタリー作品だ。

 

 生きていた家畜が殺され解体され、肉と皮と内臓と血液に分けられる。その肉を食べるのは我々である。いわば、現代社会に欠くことの出来ぬ装置である。

 

 主人公は屠場の労働者であり、屠場そのものである。

 

 屠場で働くのは解体のプロである。刃物による作業では怪我もする。保育園に子供を迎えに行く際に、怪我の原因について聞かれる。あるいは、子供のお父さんの仕事を問われる。そこで「屠場で仕事してます」と答えても、しかし「トジョー」という語は日常会話での理解の対象ではない。「トジョー」という音が「屠場」という語に変換され、職業として把握されないのである。

 つまり、肉を食べている我々の想像力の外部に「屠場」は存在するということだ。

 それは聞こえのよい言い方であって、屠場での労働は差別意識の対象となっているのが現実というものである。

 

 近世以来の、部落差別の「伝統」は、現在でも「屠場」の存在を見えないものとしているのである。

 

 屠場で働く人々へのインタビューと、屠場での取材を通して、その「現実」を明るみに出していく。明らかになるのは、伝統的な差別の問題に加えて、「他者の死に依存しているところに生命体の本質がある」あるいは「お互いが生きていくためには死が必要である」との言い回しで以前に友人が見事に要約してみせた、(日常的意識からは排除されている)生き物としての「生存」にまつわる原理的問題である。病院の遍在により、日常生活から人の死が排除され、屠畜・解体作業を屠場に閉じ込めることにより、日常生活には食肉だけが残り、動物の死への想像力は排除される。

 映像は、屠場を見えないものとしていく伝統的差別意識、そして死の事実を排除していこうとする現代的な意識構造に対する告発であると同時に、あるいはそれ以上に、屠場で働くプロフェッショナルたちへの「恋文」として仕上がっている。

 

 屠場という知らない世界へ分け入って行くという意味でも、我々が現に生きる社会の問題を屠場の存在を通して可視化したという意味においても、その屠場の現場で出会ってしまった人々の魅力を伝えるという意味においても、ドキュメンタリー作品として見事である(久保田さんは映像学科の卒業生)。

 

 

 

[追記](映像作品を作品として楽しみたい人は、作品を見る前には読まない方が良いかも知ない)

 

《音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と…》

 一つの映像作品がある。

 そこでは、生まれつき耳の聞こえない若い男性と、耳に問題はない若い女性が対談をしている。

 対談は、音声による会話として成立している。

 つまり、両者は共に、言葉を声に出して語りかけ、言葉を声に出して応じている。

 そこでは、音声情報による双方向のコミュニケーションが成立しているように見える。

 しかし、若い男性は耳が聞こえず、若い女性の語る声を聞き取ることは出来ない。

 つまり、若い女性の語る言葉を音声情報として受け取ることは出来ない。

 耳の聞こえない若い男性は、「口話」という手法を用いて、若い女性の言葉を理解している。

 「口話」とは、口の開き方と音声の間にある対応関係に基づいて、口の開き方という視覚情報を用いて音声情報を理解可能にする技術である。

 そこでは、口の開き方という視覚情報により、音声情報としての言葉が理解されることになる。

 対談は映像を前にした第三者から見て成立しており、その意味で双方向のコミュニケーションとして成立していると判断される。

 しかし、既に明らかになっているように、そこで成立しているのは音声情報による双方向のコミュニケーションではない。

 若い女性の言葉は音声情報として発せられているが、その言葉は視覚情報として若い男性に処理され、言葉として理解されているのである。

 若い男性の言葉は音声情報として発せられ、若い女性は若い男性の言葉を音声情報として受け取っているが、若い男性自身は自分の発する言葉を音声情報として聴き取ることは出来ない。

 「口話」の限界は、相手の口元が視覚情報として確保されなければ成立しない点と、視覚的に同型の口元に異なる音声情報が対応してしまうという点にある。

 後者の例としては、「ア」と「カ」と「ハ」、「パ」と「バ」と「マ」のケースなどがあり、文脈の参照という助けなしには、音声の推定は困難である。

 もちろん、耳の聞こえる人間にとっても、よく聞こえなかった言葉や聞き落とした言葉、同音異義語からの絞り込みなどの際には、文脈を参照することは必要なものとなっている。

 耳の聞こえない人間にとっては、それが会話の全体となる。

 

百瀬文さんの『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』は、そのような枠組みに条件づけられた二人の対談の映像記録となっている。

音声情報を視覚情報として理解するのが「口話」ということになるが、耳が聞こえる人間にとっては視覚情報による言葉とは、通常、文字情報を意味する。

木下さんの場合、視覚情報に変換された音声情報としての言葉と、文字情報として表現された視覚情報としての言葉とは重なるものなのだろうか? それともそれぞれに別のものとして存在するのだろうか?

視覚情報に変換された音声情報としての言葉は文字情報として理解されていると考えてよいのだろうか?

そんなところが気になる。

(2013/04/25 21:50)

 

 

《音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と… 2》

百瀬文さんの映像作品『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』をめぐって考える中で、

音声情報を視覚情報として理解するのが「口話」ということになるが、耳が聞こえる人間にとっては視覚情報による言葉とは、通常、文字情報を意味する。

木下さんの場合、視覚情報に変換された音声情報としての言葉と、文字情報として表現された視覚情報としての言葉とは重なるものなのだろうか? それともそれぞれに別のものとして存在するのだろうか?

視覚情報に変換された音声情報としての言葉は文字情報として理解されていると考えてよいのだろうか?

…などという話を書いたわけだが、耳が聞こえる人間がどのように会話の言葉を理解しているかと言えば、通常は音声情報として聴き取り、音声情報として発話しているということになりそうである。

同音異義語の解釈の必要な局面では、聴き取られた音声情報から文字情報への変換による同音異義語の参照がされるにせよ、日常会話のレベルでは、音声情報として聴き取り、そこでは音声情報のままに言葉を理解し、音声情報として自らの言葉を発する。

そもそも文字情報としての言葉に先立つものとして音声情報としての言語の長い歴史があり、言語の文字情報化は歴史的には新しい話だし、音声言語は人類に普遍的なものだが、文字言語はそうではない。

言語を支えていたのは基本的に聴覚であった事実は、たとえば、

 すでに見たように、言語記号は二つのまことに異なった事象の間に精神が樹立する結合であるが、それらの事象は二つとも心的なものであり主体の中に存在する。一つの聴覚映像が一つの概念に結合されているのである。

…というソシュールの表現にも反映されている。ここで丸山圭三郎は、ソシュールの用いた”image acoustique”という語を「聴覚映像」と訳しているわけだが(丸山圭三郎 『ソシュールを読む』 講談社学術文庫 2012 205ページ)、そこには基本的に言語が音声情報であるという事実と同時に、ソシュール自身が”image”という語を用い、そのソシュールの用語を「image=映像」として取り扱わざるを得なかった事実もまた興味を引く。「映像」という「視覚」に関わる語を用いている事実に、である。

丸山はソシュールの思想の成立過程と関連させて上記の一節を示しており、この「聴覚映像」と「概念」は後に「シニフィアン」と「シニフィエ」としてソシュールの言語論の核心を示す語へと洗練されていくものであることも記されている。

単純化すれば、記号としての音(シニフィアン)と、(記号としての音の志向対象としての)概念(シニフィエ)の結合として語が説明されることになるわけだ。文字情報は、音声情報の視覚情報化の産物として説明可能であろう。記号としての音(聴覚映像)ではなく視覚的記号としての文字を人類が獲得したことを示す。

音声情報の視覚化の問題として考えれば、音声と文字の関係も恣意的なものであることを付言しておこう(音としての「ア」を「あ」と表記するか「阿」と表記するのか「a」と表記するのかは本質的問題ではないという意味で)。いずれにしても、そこに存在するのは、文字情報として視覚化された音声情報=シニフィアンとなる構図である。

そのような関係を確認した上で、当初の問いに戻る。「問い」を次のように書き改めることが出来るだろう。

聴覚に支障がなければ、音声言語による会話は音声情報のやり取りとしてそのまま成立し、文字情報への変換は常に必要なものではない。

聴覚に障害があり「口話」を会話の手段とする場合、相手の発話は音声情報であっても、口の開き方という視覚情報によってのみ把握が可能になるわけだ。口の開き方という視覚情報は、常に文字情報への変換による理解を必要とするものなのであろうか? 口の開き方という視覚情報がそのまま「言葉」として理解されることはないのであろうか?

(2013/04/27 21:29)

 

 

《音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と… 3》

百瀬文さんの映像作品『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』をめぐって考えているわけだが、前回は、

 聴覚に支障がなければ、音声言語による会話は音声情報のやり取りとしてそのまま成立し、文字情報への変換は常に必要なものではない。

 聴覚に障害があり「口話」を会話の手段とする場合、相手の発話は音声情報であっても、口の開き方という視覚情報によってのみ把握が可能になるわけだ。口の開き方という視覚情報は、常に文字情報への変換による理解を必要とするものなのであろうか? 口の開き方という視覚情報がそのまま「言葉」として理解されることはないのであろうか?

…という形で、私にとっての問題の構図がどのようなものであるのかについて表現してみた。

もちろん、当人の話を聞けば済む話ではあるのだが、ここでは「話を聞くとはどういうことなのか?」という問題を耳の聞こえる側がどのように取り扱えるのかを、想像力の中だけで、もう少し考えておきたい。

想像力の中で考えるという方向ではなく、脳内過程の問題(「脳科学」の対象)として取り扱えば、当人の話を聞くのとは別の形で、実際のメカニズムは明らかになるであろうが、それは私の力の及ぶところではない。

聞こえない状態、聴覚のない状態を想像することは、一見したところ、それほど難しいものとは思えない。

しかし、聞こえる側の人間にとって、聞こえない現実は想像力を超えたところにある。

視覚の場合、眼が顔の前面についているために、視界は顔の向きに規定される。要するに視界は前方に限られ、視覚情報から後方は常に除外されているのである。

それに対し聴覚の場合は、(前方に優位性があることは確かであるが、それでも)全方向が対象となる。後方は聴覚情報からは除外されていないのである。

つまり、視覚の喪失は前方情報の喪失を意味する(後方情報は最初から存在しない)が、聴覚の喪失は全方向にわたる情報の喪失を意味するのである。
耳が聞こえないということは、視覚が確保されていれば前方の外界情報は得られても、それ以外の方向の外界情報を持たないということを意味する。

「口話」の問題に戻れば、「口話」が可能になるのは、相手が前方に位置し、しかも口元が見える場合のみなのである。耳の聞こえない人間にとっての音声情報の取得は、「口話」を通してであれ(「手話」による「翻訳」を通してであれ)視覚に依存せざるを得ないのであり、それは当人の前方に提示されない限り、存在しないのと同じなのである。逆に言えば、耳の聞こえる人間にとっては、音声情報は、前方に限定されることはなく、遍在するものなのである。


耳が聞こえるということは、音声言語に(つまり言葉に)周囲を囲まれた状態にあることを意味するが、耳が聞こえないということは、外部の言葉が前方にしか存在しない状態にあることを意味するはずである。

文字言語もまた視覚的言語であり、身体の後方に示された文字を読むことは出来ないのである。

しかし、耳が聞こえないという状況にあっても、人が言葉を用いて考えをめぐらしていることは確かであり、そこでは身体の方向に拘束されることはないはずである。

その際、言葉はどのように存在しているのであろうか。

(2013/04/30 21:04)

 

 

《音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と… 4》

百瀬文さんの映像作品『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』をめぐって考えながら、シリーズの前回では、

 耳が聞こえるということは、音声言語に(つまり言葉に)周囲を囲まれた状態にあることを意味するが、耳が聞こえないということは、外部の言葉が前方にしか存在しない状態にあることを意味するはずである。

 文字言語もまた視覚的言語であり、身体の後方に示された文字を読むことは出来ないのである。

 しかし、耳が聞こえないという状況にあっても、人が言葉を用いて考えをめぐらしていることは確かであり、そこでは身体の方向に拘束されることはないはずである。

 その際、言葉はどのように存在しているのであろうか。

…なんて書いたわけだが、これは言うまでもなく文字による言語表現として「書いた」ものである。

しかし、別の言い方も可能で、通常は、

 私の考えを文章として書いてみた

…などと表現されたりする行為である。

ここには「言語と思考」というテーマが隠されており、その核心は、

 言語という形式に拠らずして思考は可能なのであろうか?

…と表現される。で、当初の、

 しかし、耳が聞こえないという状況にあっても、人が言葉を用いて考えをめぐらしていることは確かであり、そこでは身体の方向に拘束されることはないはずである。

…という言明に戻れば、ここでは「思考が言語という形式により可能になっている」との認識が(「人が言葉を用いて考えをめぐらしている」との言い回しの裡に)表明されていると言えるだろう。

その際に、文字による表現が採用され(文字により記述され)、そのことにより、私の思考は私の内部に閉じ込められることなく、ネットを介して私の外部でも共有可能なものとなっているわけである。

音声による思考の表明も可能であるが、その場にいた者以外には伝達不可能であるし、その場にいても話を聞いていなかった者には伝わることもなく消えてしまう。何より再参照が不可能なのである。もちろん現在では録音という手段もあるにせよ、録音をそのまま再生するだけでは、耳の聞こえない人には音声情報の伝達は不可能事である。

文字言語が可能にしているのは、思考内容の繰り返しの参照可能性の確保であり、それを自他の両者に可能にしているところに、音声言語からの絶対的な隔絶がある。

思考とは言葉を選び確定する過程、そのように言うことも出来るだろう。

そこには、選び確定された言葉を(音声として)発話するか(文字として)記述するかという違いがあるにせよ、思考は表明されることなくしては「言葉を選び確定する過程」として完了しないという、「言語と思考」問題の原理的構図の存在もある(思考を対象化可能にするという意味で「完了」していないのである)
音声として発話するのか文字として記述するのか、そのいずれであるにせよ、発話(あるいは記述)行為により、音声(あるいは文字)情報としての言葉が確定したものとして世界の中に生まれる。その際に言葉として確定されるのは思考である。

発話以前・記述以前の、言葉を選び確定させようとする過程において、言葉とはどのように存在するものであるのか?
その過程において、耳の聞こえないことは何らかの影響を与え、何らかの相異をもたらすものなのであろうか?

(2013/05/02 22:26)

 

 音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と…
 http://www.freeml.com/bl/316274/202847/

 音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と… 2
 http://www.freeml.com/bl/316274/202886/

 音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と… 3
 http://www.freeml.com/bl/316274/202959/

 音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と… 4
 http://www.freeml.com/bl/316274/203002/

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/04/21 20:40 → http://www.freeml.com/bl/316274/202736/

 

 

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2009年11月 9日 (月)

老眼と自己決定 (32) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 番外編

 

 グーグルで「エホバ 全体主義」というキーワードで検索すると、1ページ目の2番目に「現代史のトラウマ」の「カテゴリー:エホバの証人」が登場する。

 

 ココログの「アクセス解析」に、たまたまそんなキーワードでのアクセス記録が残されていたので、グーグルの画面をチェックしたら、上記の状態だった。

 

 表示を見ると、「現代史のトラウマ」の記事以外は、「エホバの証人」自体を全体主義的集団として記述しようとするものばかりである。

 

 多分、検索者もそのような記事がお目当てだったのではないだろうか?

 

 

 

 

  • ニュース:エホバの証人側がモスクワの裁判所で宗教活動の自由を認め ...

    ロシア語と英語訳とがありますが、それをよく読んでみると、モスクワの検察当局はその訴えにおいておおむねエホバの証人が世界に引き起こしている問題を的確に把握しています。ここではエホバの証人は「破壊的カルト」、「全体主義的組織」と規定され、 ...
    www.jwic.info/n030801.htm - キャッシュ - 類似ページ
  • 現代史のトラウマ: エホバの証人

    エホバの証人」は、1870年代に米国で生まれた教派であるが、当然のことながら、当初から「輸血拒否」を信仰の一部 ..... 5日 (水) ウヨク、サヨク、そしてリベラル, エホバの証人, マイノリティーとマジョリティーの間, ユートピアとしての全体主義 ...
    uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/.../index.html - キャッシュ - 類似ページ
  • カルトについて(全体主義的セクト)

    しかし、その組織は<totalitaire>と<sectaire>であることは間違いないのです。このニュースNo10の中でのアメリカ人の元エホバの証人の証言を読むと、この全体主義的システムについて理解できると思います。
    www2.ocn.ne.jp/~mind123c/sub4-3.htm - キャッシュ - 類似ページ
  • エホバの証人とShiah派... - 資本主義から価値主義へ.幸せな未来に向け ...

    資本主義から価値主義へ.幸せな未来に向けて.. KUMO ... 1%のエホバの証人がキリスト教全体の代わりをすることはできない.. だがイスラム宗教は1%の極端な分派が全体のイスラムを代っていたりもする.. ハリウッド映画でしばしば登場するイスラム ...
    tag.rakuten.co.jp/redirect.phtml?cid=1448194&ch... - 類似ページ
  • フランスとイタリアのエホバの証人が決議を採択

    エホバの証人が熱心に聖書伝道に励むことは、全体主義宗教における隷従の結果であると見なされます。エホバの証人が現代の道徳規準を退け、聖書の道徳規準に従う立場を守っていることは、信者の私生活に対する不当な干渉が行われているためであると見 ...
    jwpc.milkcafe.to/news2001-08a.html - キャッシュ - 類似ページ
  • カルト宗教 エホバの証人(ものみの塔)の被害を乗り越えて:トラウマ ...

    一人だけ例外というのも許されない。(日本は全体主義国家だっけ?) で、いちおう先生と相談し、白紙投票することにした。 さて、選挙演説会。 これも参加しないわけにはいかない。 しかし演説の度にする拍手は拒否した。エホバの教えに反するから。 ...
    blog.livedoor.jp/crying_soul/.../cat_10006392.html - キャッシュ - 類似ページ
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    たとえばエホバの証人の場合、彼らの礼儀正しさや面倒見の良さ、あるいは良く躾られた子どもを見て感心し、いい人たちだというよう好感を .... 現代社会で希薄な、人のぬくもり、友情、 全体主義的一体感〈侵略戦争中の日本軍のような〉が、彼らを包む。 ...
    www.geocities.jp/sonomama_da/ehb.html - キャッシュ - 類似ページ
  • エホバの証人の考え方について。 過去の見解が間違っていた時、エホバの ...

    2009年9月26日 ... 過去の見解が間違っていた時、エホバの証人は、預言の言葉は徐々に明らかにされていくものだと語りますが… ... 全体主義の弱点の最たる例)。が、基本的な教えは変わっていない。これは私見ですが、協会側ももうおそらく年を断定することは ...
    detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/.../q1231050387 - キャッシュ - 類似ページ
  • news

    エホバの証人、北朝鮮、全体主義」 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです-イエス・キリスト」 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい-イエス・キリスト」 私たちの前を通り過ぎるエホバの証人の反応は多種 ...
    www.jesuscom.org/helpcult/news22.htm - キャッシュ - 類似ページ
  • 私のこれまでの経験(前編) - 元エホバの証人2世のメモ

    聖書は神の言葉であり、それを正しく解釈している組織の教理を疑うことなく信じなければならない(思考停止、全体主義)。疑えば「背教者」となり復活の希望がなくなる。 もうすぐハルマゲドンが来て世界は滅び、エホバの証人のみが生き残る(終末思想) ...
    yosh.exjw.org/experience.html - キャッシュ - 類似ページ

     

     

     

     

     そんな中に、「エホバの証人」をめぐる歴史的事実として、ナチス・ドイツの「全体主義的体制」に対し徹底的に非同調的であり、そのために強制収容所収容者中の独立したカテゴリーまで与えられた集団としての彼らの姿を伝えるブログが見事に入り込んだわけだ。全体主義的体制に対し、死をもいとわず、徹底的に非妥協的に振舞った「エホバの証人」の姿、である。

     別に「エホバの証人」を称揚する気などさらさらないのだが、異なる観点の存在を、信頼性の高い資料に基づくことにより紹介・提示することが出来たことは、正直に言って、うれしいことだ。

     

     

     信仰に生きるということは、その社会の多数者への適合を、当面の生の目標からはずすことを意味することがあるのである。

     多数者にとっての「社会常識」からの離間をもって、その信仰を批判するとすれば、それは人間にとっての「信仰」というもののありかた、人間にとっての宗教的生き方の本質的側面というものへの理解を欠いた態度であると、私は思う。

     

     初期キリスト教徒であれ、原始仏教の信徒であれ、その反社会性をこそ、当時の社会から非難されていたのではなかったか、ということだ。

     当時の社会的期待・現世内的評価に背を向け、家族を捨てることから、彼らの信仰生活は始められていたはずなのである。そのような過激さにこそ、信仰というもの、人間にとっての宗教生活というものの発生地点があるのである。

     

     そこを忘れたような議論に対しては、「宗教を甘く見るんじゃない!」と一喝したい気分に襲われる。多数派で構成される社会の多数派に受け入れられるような(つまり迎合的な)価値の追求を、宗教者に求めることは、本質的に誤りなのである。

     

     

     

     検索ページに並んだ、他の記事の概要を読みながら、ついそんなことを思ってしまった。

     

     

     

     

     

     

     アウトサイダー型人間の呟きである。

     

     

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/22 21:54 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/119911

     

     

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    2009年10月22日 (木)

    老眼と自己決定 (31) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 7

     

     今回も、ナチス体制下の「エホバの証人」についての話題である。

     

     

     

     

     1933年のナチスの政権掌握後、様々な形で示された「エホバの証人」信者のナチス体制への非同調的態度が、彼らにもたらした社会的苦難については既にご紹介した通りである。ナチス国家による信者への公的な「迫害」行為であったと考えるべきだろう。

     1935年に至り、ドイツの再軍備に伴う一般徴兵制の復活に際し、「エホバの証人」は「徴兵拒否」で応じた。その結果、「しだいに多くのものが刑務所や強制収容所へ拘留されることになった」(シビル・ミルトン)わけである。

     

     

     徴兵拒否により、「エホバの証人」は、それまでの雇用機会の剥奪や社会的福祉からの除外といったドイツ社会内からの間接的排除とでも言うべき段階から、刑務所や強制収容所への拘留という、国民社会からの直接的な排除という段階へと進んだナチス体制の対応に直面することになったわけだ。「迫害」の新たな段階と言うことが出来るだろう。

     

     強制収容所内での「エホバの証人」の姿について、高橋三郎が、

      「エホバの証人」ともよばれるこのグループは、エホバにたいする信仰から兵役を拒否して、ナチスが政権を獲得した直後から弾圧されていた。しかし、強制収容所の内部ではやや特異な地位を占めていた。彼らは信仰の放棄書に署名さえすれば、いつでも完全に自由の身になることができたのである。また、すすんで勤勉に仕事を果たしたから、SSからもある種の敬意をうけ、比較的楽な仕事やSS隊員の家事に使われた。だが他方、SSは、ドイツ人でありながらかたくなな信仰の故にナチス・ドイツに協調しようとしない「紫」に強い憎しみを抱くことがあった。

    …と書いていたことは既に紹介したが、今回はシビル・ミルトンの記述により、より詳細な状況を把握しておきたい。

     ミルトンによれば、

      証人たちはダッハウで隔離され、特別な懲罰隊に編成され、ダッハウのほか、マウトハウゼン、ザクセンブルク、そしてザクセンハウゼンで強制労働に割り当てられた。フロッセンブルクでは火葬場で働く仕事が割り当てられた。エスターヴェーゲンでは便所清掃の仕事が割り当てられた。証人たちはしばしば日曜労働を要求された。それは彼らの宗教的な信念を侵害するものだった。モーリンゲン、リヒテンブルク、そしてラーヴェンスブリュックの女性収容所に拘留された証人たちは強制労働に服し、栄養不良、さらし刑、体罰、そして隔離の刑にさらされた。彼らの「どんな他の集団にも見られないような反対と殉教の非妥協的精神」は、1930年代に亡命社会主義者によって配布された『ドイツ報告』の報告でとりわけ注目された。1938年10月、リヒテンブルクについてのそんなひとつの報告では、エホバの証人の囚人たちが収容所全体に放送されたヒトラーの演説を聴くのを拒否したことが記録されている。「親衛隊員はエホバの証人たちにホースで水をかけ、彼らを殴打し、総統が演説している間、一時間以上、彼らをずぶ濡れで立たせていた。10月下旬で、ひどく寒かった。その後、彼らの誰も治療を受けなかった。食物は2日か3日間、与えないで放置された」。

    …いうことだ。

     高橋三郎の紹介した「信仰の放棄書」について、ミルトンは、

      ほとんどの証人たちはそんな宣言書にサインしなかった。彼らが拒否した結果、ザクセンハウゼンでは40人以上の証人たちに死刑が執行された。

    …と書いている。宣言拒否が死刑執行を意味しても、彼らは非妥協的であり続けたわけである。

     「エホバの証人」は、「徴兵拒否」にとどまらず広範な「戦争関係業務拒否」も貫いた。再びミルトンによれば、強制収容所内でも、

      証人たちは軍務を嫌悪した。そのため、毛皮が軍服に使われるというのでウサギの番さえ拒否することも起きた。その結果、何人かの女性囚は、ラーヴェンスブリュックとアウシュヴィッツ(オシフィエンチム)で反逆罪により死刑を執行された。

    …ということになるのである。

     

     最終的には、「軍務拒否」により、

      1938年以降、250人以上のエホバの証人がドイツの軍隊に仕えることを拒否して、死刑判決を受け執行された。その罪状はドイツや併合されたオーストリアでの防衛力破壊だった。エホバの証人は「強情なイデオロギー的な犯罪者たち」と見なされた。彼らは39年8月26日の特別軍事犯罪法典に公布された規定によって死刑判決を受けた。

    …という取り扱いを、「エホバの証人」は受けることになるのであった。

     軍務の拒否が死刑執行を意味しようとも、彼らが態度変更することはなかったのである。

     

     直接の死刑執行以外に、強制収容の対象となった1万人の「エホバの証人」のうち、約2500人が(虐待の結果、ということであろう)収容所内で死亡しているということだ。

     

     

     

     

     

     今回は、「エホバの証人」の「徴兵拒否・軍務拒否」が彼らに何をもたらしたのか、そしてそれに彼らがどのように対応したのかについて、『ホロコースト大事典』中のシビル・ミルトンの記述を参考に書いてみた。

     

     

     「死罪」にもひるむことなく、信仰上の要求を守り続ける彼らの姿がそこにある。

     「出血多量による死」の可能性を受け入れ、「輸血拒否」という信仰上の要求を守ろうとする「エホバの証人」の姿は、かつてのナチス体制を前にしての彼らの姿と、実によく重なるように思える。

     生の存続が持つ価値は、信仰上の要求に従うことより大きなものではない。

     それが、ナチス体制を前にした彼らを支え、輸血拒否を宣言する彼らを支える、彼らの信仰が彼らにもたらした彼らの価値観なのである。

     そのように私は考える。

     

     

     

      

     「輸血拒否」の話題とは別に、私の「エホバの証人」への興味の原点であったナチス体制下での彼らの姿を確認しておくつもりで書き始めたのであったが、書き進めた結果、両者は「別の話題」ではまったくないことに気付くことが出来た。

     思いもよらぬことであったが、個人的には大きな収穫であったと感じている。

     

     

     

     

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/21 22:20 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/119831

     

     

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    老眼と自己決定 (30) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 6

     

     「エホバの証人」とナチスというテーマが続いている。

     

     

     「エホバの証人」が、ナチスの強制収容所の中で、他の収容者から独立したカテゴリーを与えられていたことに着目して、これまでの稿を進めてきたわけである。

     

     

     

     しかし、昨日ご紹介した、『ホロコースト大事典』中のシビル・ミルトンによる「エホバの証人」の項を注意深く読めば、ナチス体制が当初から「エホバの証人」を強制収容所収容者として取り扱っていたわけでもないことがわかる。

     ミルトンによれば、

      35年の強制兵役の導入により、彼らの徴兵拒否や戦争関係業務拒否の結果、しだいに多くのものが刑務所や強制収容所に拘留されることとなった。

    …ということなのである。

     

     1935年1月のナチスの政権掌握後に、「ハイル・ヒトラー」の敬礼を拒否し、選挙・国民投票への投票を拒否し、ナチ党組織への参加を拒否するといった「エホバの証人」の振る舞いは、就業機会の喪失、資産の没収、社会保証制度からの排除等の、彼らからの社会的基盤の剥奪という事態を生み出した。

     彼らの子供も、ナチスの標的とされることを免れ得ない。再びミルトンによれば、

      エホバの証人の子どもたちは、学校で侮辱と宣伝のはてしない集中砲火を浴びることになった。また同級生や教師による身体的な暴力の散発的な標的にもなった。ナチ国家の抑圧的装置はエホバの証人の家族生活や育児の領域にも拡がった。子どもはナチ教育の規範に従わないということで排斥された。彼らはヒトラー・ユーゲントに加入する意思がないことを理由に、しばしば非行少年と宣告され、矯正施設に監禁された。両親の保護監督権も奪われた。そのもっともらしい理由は、ドイツ民法1666条によるものであった。エホバの証人の親たちは子どもを「国家社会主義の精神におけるドイツ的方法から遠ざけることによって、子どもの福利厚生を危険にさらした」というわけである。38年までに、エホバの証人の860以上の家族から、子どもが矯正施設、感化院、そしてナチスの家庭に移されていった。38年12月27日、帝国内務大臣はすべての青少年局や市町村の監督当局に宛てて回状を出し、「政治的に信頼できない家族」から子どもを引き離しナチスの家庭へ移すことを命じた。さらにナチ国家はまた、エホバの証人の両親には追加的な児童手当の支払いを拒否した。

    …という事態が、エホバの証人の家族を襲うのである。

     しかし、彼らが反ナチの政治活動をしたというわけではない。そもそも、彼ら自身の意識の中では、彼らはナチス体制への政治的敵対者ではないのである。あくまでも、

      われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

    …という、彼らの信仰に基づく、彼らの信仰が彼らに求める振る舞いを続けただけなのだ。

     それがナチス体制に、徹頭徹尾、適合的ではなかったということなのである。

     

     

     現在の「エホバの証人」に関して、彼らの特異性の凝集点として周囲の社会から取り扱われることの多い「輸血拒否」もまた、同様の構図の下にあることが指摘出来るように思う。

     彼らは決して、社会的多数者(マジョリティー)の常識に対する反抗を目的として、「輸血拒否」の意思表明をしているわけではない。

     医療という場において、彼らが彼らの信仰に基づく、彼らの信仰が彼らに求める振る舞いを続けているだけのことなのである。

     ナチス体制下の「エホバの証人」にとり、ナチ体制への非同調は、彼らの信仰の維持の上で切実な問題であったが、ナチ体制への反抗を信者以外の人々に求めるものではなかった。同様に、現在の「エホバの証人」にとって、「輸血拒否」はあくまでも彼ら自身の信仰上の切実な問題なのであって、「輸血拒否」を信者以外の人々にまで求めようとするものではない。

     私も含め、(「輸血」をめぐる問題において)マジョリティーに属する側にいる人間には、その構図に自覚的になっておく必要があるように思う。

     

     

     「エホバの証人」による「輸血拒否」に関しては、彼らの子どもの取り扱いが焦点の一つとなっているわけだが、ナチス体制下でのエホバの証人の家族(彼らの子ども)の運命、その際の彼ら(親達)の態度を振り返ると、ここにも構図の同型性を指摘出来るようにも思う。

     ナチスによる、彼らの子ども達への過酷な取り扱いが、彼らのナチス体制への態度を変化させることはなかったのである。

     あくまでも、

      われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

    …ということなのだ。「キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる」以上、現世内での彼ら自身が、そして彼らの子どもが味わう苦痛・苦難が、彼らの信仰上の態度決定に影響するようなことは、あり得ないこととして考えなければならないのである。

     

     

     

     

     そして、1935年、ドイツの再軍備と共に兵役が義務化された際にも、彼らは徴兵拒否の態度を貫き、結果として強制収容所の収容者の独立したカテゴリーを構成することになるのであった。

     

     

     彼らは、あくまでも、

      われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

    …という態度、信仰者としての態度をもって、現世に臨んでいるだけなのである。

     

     

     

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/20 23:02 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/119724

     

     

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    2009年10月21日 (水)

    老眼と自己決定 (29) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 5

     

     「エホバの証人」とナチスをめぐる話題の続きである。

     

     

     

     「エホバの証人」のメンバー(信徒と書くべきか?)が、ナチスから敵対的な取り扱いを受け、強制収容所の収容者の独立したカテゴリーまで与えられていたことは、既に書いた。

     前回ご紹介したように、彼らの振る舞いは、ナチス体制への徹底した非同調性、その非妥協的な態度に特徴付けられるのだが、それをナチス体制への「抵抗」として性格付けてしまうことは、いささか的外れに思える。

     

     「この世の政治」への不参加という彼らの信仰の要求する態度が、国民の政治参加の義務化とでも言うべきナチスの全体主義体制の要求からは、敵対的なものとしてしか評価され得なかったというのが現実であろう。

     「エホバの証人」の徹底した「非政治的姿勢」が、その「非政治的姿勢」の徹底性の故に、現世的現実政治の要求に対し対立的な振る舞いとしてしか実践し得ないものとなってしまうのである。「非政治的姿勢」の表現が、現実政治の場において、敵対的な「政治的姿勢」として意味付けられてしまうのである。

     「エホバの証人」は、その「非政治性」において、決してナチス体制への政治的敵対者、政治的抵抗者ではあり得ない。しかし、その信仰が要求する「非政治的姿勢」の故に、ナチス体制の政治的要求を徹底的に無視する以外の選択肢を持たず、それが結果としてナチスの側からの政治的敵対者としての高い評価を生み出してしまったわけである。

     

     

     「エホバの証人」の信仰が信徒に求めたのは、ナチス体制への政治的抵抗ではなく、ナチス体制への不参加であったに過ぎない。より正確に言えば、彼らの信仰は、現世的政治体制すべてへの不参加を求めているのであって、ナチス体制が特異的な対象であったわけではない。

     第二次世界大戦下のアメリカ合衆国では、国旗への敬礼への拒否として表現された彼らの信仰に基づく振る舞いは容認されるものとなったが、ナチス体制の下では、彼らの信仰には強制収容所がふさわしいと判断されたのである。

     

     

     シビル・ミルトンによる『ホロコースト大事典』の記述によれば、

      1934年10月7日、ドイツのエホバの証人の集会はドイツ政府に、ナチ国家の権威に対する全面的な抵抗を肯定する諸原則の公式声明を送った。それは目覚しいものだった。「過去に神の法に反して、、またわれわれの諸権利を侵害して、あなたがたはわれわれがエホバの証人として神の言葉を学ぶために集まり、神を崇め、神に仕えることを禁止した……。それゆえに、ここに次のことを通告する。われわれはどんな犠牲を払っても神の掟に従うだろうし、神が命じるように神を崇め仕えるだろう。もしあなたがたの政府や官庁が、われわれが神に従っていることを理由にわれわれに暴力を加えるならば、そのときわれわれの血はあなたがたの上にふりそそぐことだろう。あなたがたは全能なる神の問いに答えることになろう。われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。われわれは誰に対してであれ傷つけたり、害を与えるつもりはない。われわれは平和に生活し、機会があればすべての人々に善をなすことを喜ぶ。しかし、あなたがたの政府と官庁がわれわれに宇宙の最高の法に背くよう強制しようとしつづけているので、われわれは今やあなたがたに、われわれが神の恩恵によりエホバの神に従うこと、神がわれわれをすべての圧制と迫害から解放することを完璧に信じていることを通告せざるをえなくなった」と。35年4月1日に、ドイツ帝国とプロイセンの内務大臣はエホバの証人の国内でのすべての宗教活動と出版を禁止した。

    …ということになる。

     ここでミルトンは「ナチ国家の権威に対する全面的な抵抗を肯定する諸原則の公式声明」と、「抵抗」という語を用いて書いているが、声明の内容を見れば明らかなように、その「抵抗」は決して政治的なものではない。

     彼らの態度の核心にあるのは、

      われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

    …という認識なのである。あくまでも。

     
     
     

     ミルトンの記述に戻れば、

      ナチ支配のはじめの二年間に、エホバの証人たちは公務員や私企業従業員としての彼らの職を失ってしまった。彼らが労働戦線に加わることや「ハイル・ヒトラー」の敬礼を使うこと、あるいは選挙で投票することを拒否したからだった。1935年1月23日、ドイツ帝国とプロイセンの内相はドイツの「ハイル・ヒトラー」のあいさつを使わないと、官庁や民間企業から解雇されることになると布告した。36年2月2日、ドイツ帝国とプロイセンの労働大臣はエホバの証人にはすべての失業手当や年金が留保されることがありうると布告した。さらに、彼らの個人的な財産や事業の財産も、破壊分子と敵の財産没収法を適用して没収できるとされた。この没収法はもともとは、追放され国籍を奪われた政治的な敵の資産を取り上げるために使われたものだった。エホバの証人はまた人種法に従うことも拒否した、なぜならば、彼らは「すべての人間は神の目には平等である」と信じたからである。彼らの失業手当、福祉手当、年金手当はしばしば否定された。35年の強制兵役の導入により、彼らの徴兵拒否や戦争関係業務拒否の結果、しだいに多くのものが刑務所や強制収容所に拘留されることとなった。35年初め、エホバの証人の逮捕や保護検束を命じるゲシュタポの規則は、以前より体系的になった。

    …ということになる。

     つまり、

      われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

    …という彼らの信仰の求める態度の帰結として、完全な失業、福祉・社会保障制度からの排除、財産の没収といった、生活の根幹を奪われるという事態が彼ら「エホバの証人」の上に降りかかるのである。

     そして、

      35年の強制兵役の導入により、彼らの徴兵拒否や戦争関係業務拒否の結果、しだいに多くのものが刑務所や強制収容所に拘留されることとなった。

    …とあるように、彼らの信仰が求める「兵役拒否」は、彼らをより過酷な状況に導くものとなるのである。

     

     「兵役拒否」についての詳細は、稿をあらためて、次回の話題としたい。

     
     
     
     
     
     
     
     
     
     

    (オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/19 22:33 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/119612/user_id/316274

     

     

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    老眼と自己決定 (28) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 4

     

     前回の続きとして、ナチス体制の中での「エホバの証人」について書いておきたい。

     

     

     

     

     ウォルター・ラカー編の『ホロコースト大事典』(柏書房 2003)に、シビル・ミルトンの執筆した「エホバの証人」の項がある。

     

     ナチスの強制収容所における「紫」カテゴリー(すなわち「エホバの証人」である)の収容者の比率の、収容者全体に占める高さにまず驚かされるだろう。

     ミルトンによれば、

      1935年から39年にかけて、エホバの証人はしばしば刑務所内の保護拘束から強制収容所における無期限拘留に移された。35年以降、強制収容所の囚人数が増加する中で、エホバの証人はかなりの割合を占め、大戦前には、強制収容所の全囚人の10%以上にのぼっていた。39年までに7000人近くのエホバの証人が強制収容所に拘留された。彼らはドイツ、編入されたオーストリア、チェコスロヴァキアの出身だった。38年5月、ブーヘンヴァルトの全囚人の12%がエホバの証人だった。38年に、リヒテンブルクの女性収容所には260人のエホバの証人がいた。それは囚人たちのおよそ18%であった。
      1940年以降、占領されたヨーロッパからやって来るあらゆる種類の囚人で収容所の人口は増大した。その数は、ドイツやオーストリアからのそれ以前の囚人たちよりも多かった。その結果、すべての収容所でエホバの証人の比率は減少した。40年の終り頃、強制収容所には一万人のドイツやオーストリーのエホバの証人に加え、小数のベルギー、チェコ、オランダ、ノルウェー、そしてポーランドのエホバの証人が閉じ込められていた。

    …ということになる。

     つまり、第二次世界大戦の開始後は、占領地からの強制収容所収容者数の増大により全収容者中のエホバの証人の比率が低下したわけだが、戦争開始以前のドイツ帝国のドイツ人(ユダヤ人、ジプシーも含む)を対象とした強制収容所であった時代には、エホバの証人の全収容者に占めた比率は高いものであった、ということだ。

     ひとつの宗教的信仰集団が、ナチス体制への非同調者として、ナチス体制から単に名指されていたのみならず、強制収容所収容者の独立したカテゴリーを与えられ、実際に全収容者中に高い比率を占めていたことを、まず事実として認識しなければならない。

     

     

     彼らの信仰が、信仰自体が、ナチス体制への同調を不可能にしていたのである。

     戦後の彼らの信仰が、輸血拒否という態度を生み出すものとなったと同様に、戦前戦中のドイツにおける彼らの信仰が、ナチス体制への非同調という彼らの態度を生み出したのであった。

     

     

     ミルトンの記述に従えば、

      ナチスが1933年1月に権力を握った後、エホバの証人への攻撃はほとんどすぐにエスカレートした。それは彼らの信仰や行動のためだったが、とくにナチ国家に敬意を表することを拒否し、あるいは何らかのナチ党付属組織に加わることを拒絶したことによるものだった。…(中略)…つまり、エホバの証人は「ハイル・ヒトラー」の敬礼で腕を上げることを拒否し、鉤十字章の旗を掲揚しようとせず、ナチスの選挙や国民投票で投票しなかった。ドイツ労働戦線に参加せず、冬期救済事業に献金しようとしなかった。子どもたちがヒトラー・ユーゲントに加わることも許さなかった。エホバの証人はしばしば拘留され、殴打された。彼らの事務所は捜索されそして破壊され、彼らの資金は没収され、彼らの定期刊行物や出版物は検閲され、禁止された。何百人ものエホバの証人たちが、いわゆる保護政策(シュッツハット)で刑務所や強制収容所に抑留された。33年4月にエホバの証人の団体と印刷物が帝国全域で禁止された。…(後略)

    …ということなのである。

     ただし、「ナチスの選挙や国民投票で投票しなかった」とあるが、

      神の王国への支持を表明するため、政治への参加(投票など)をしない。 - ヨハネ 18:36

    …という『ウィキペディア』の「エホバの証人」の項の記述にあるように、彼らの「この世」での政治への不参加はナチス体制に対するものには限らない。

     また、国旗への敬礼の拒否、国歌斉唱の忌避も、ナチス統治時代に限定されるものではなく、ナチス・ドイツという国家領域に限定されるものでもない。まさに第二次世界大戦中のアメリカ合衆国において、国旗への敬礼の拒否を貫き、連邦最高裁判決でその行為を容認されたのも、彼ら「エホバの証人」の信仰が生み出した歴史的事態なのである。

     

     

     この世の政治への不参加という彼らの信仰の根幹が、特にナチス体制と相容れないものとしての、ナチスによる「エホバの証人」への敵対的な評価となった、ということになるだろう。

     

     

     

     エホバの証人による「兵役拒否」をめぐる問題については、今回は触れることが出来なかった。

     次回の課題としたい。

     

     

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/18 19:45 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/119511/user_id/316274

     

     

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    老眼と自己決定 (27) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 3

     

     この話題の前回は、「エホバの証人」の信仰を論じる場合、「輸血拒否」は、本来、中心となるべき話題ではないだろう、という書き出しで始まっていた。

     

     その上で、彼らの示す、

      自分の信仰を家族(特にこども)にも強制する

    という態度の結果、彼らの子供までが「輸血拒否」の対象とされてしまい、出血多量で死亡する事例について取り上げることを予告してしまっていた。

     しかし、今回は、その問題の検討に入るのではなく、私の「エホバの証人」の存在への関心の核心にある、ナチスとの関係について書いておきたい。

     

     

     

     高橋三郎氏の名著(と私は考えるが)、『強制収容所における「生」』(二月社 1974)に、強制収容所の収容者に対するナチスによる「分類」についての解説があった。

     同書によれば、人種・国籍による分類(が形成するヒエラルキー)が大きな柱となる一方で、

      もうひとつの抑留者の分類は拘禁理由によるもので、政治犯、刑事犯、聖書研究会員、反社会的分子、同性愛者、亡命者といったカテゴリーである。抑留者はカテゴリーを示す色の逆三角形の布を左胸と右足に縫い付けさせられていた。基本的な色(カテゴリー)は次のようなものであった。
     「赤」=政治犯
      (この項の詳細説明の引用は略)
     「緑」=刑事犯
      (この項の詳細説明の引用も略)
     「黒」=反社会的分子
      (この項の詳細説明の引用も略)
     「桃色」=同性愛者
      (この項の詳細説明の引用も略)
     「紫」=聖書研究会員
      「エホバの証人」ともよばれるこのグループは、エホバにたいする信仰から兵役を拒否して、ナチスが政権を獲得した直後から弾圧されていた。しかし、強制収容所の内部ではやや特異な地位を占めていた。彼らは信仰の放棄書に署名さえすれば、いつでも完全に自由の身になることができたのである。また、すすんで勤勉に仕事を果たしたから、SSからもある種の敬意をうけ、比較的楽な仕事やSS隊員の家事に使われた。だが他方、SSは、ドイツ人でありながらかたくなな信仰の故にナチス・ドイツに協調しようとしない「紫」に強い憎しみを抱くことがあった。
      良心的兵役拒否者は、時により「黒」にも「紫」にも分類された。
     「青」=亡命者
      (この項の詳細説明の引用も略)
     「黄」=ユダヤ人
      (この項の詳細説明の引用も略)

    …として、「拘禁理由」による、ナチス強制収容所の抑留者の分類の実際が紹介されていた。それを読んで以来、「エホバの証人」に関して、ナチス強制収容所の収容者の独立したカテゴリーを形成した人々という強い印象が私のものとなった。ナチスへの非同調者としての「エホバの証人」、ということになる。

     紫の標章を与えられ、つまり強制収容所において「独立したカテゴリー」を形成すべき集団としてナチスから評価されていたということの意味は大きい。裏返しの形ではあるが、そこにナチスによる、「エホバの証人」に対するナチス体制への非同調者としての高い評価を見出すことが出来るからだ。

     

     『強制収容所における「生」』を読んだのは20年以上前の話だが、そこに「聖書研究会員」として登場した「エホバの証人」の印象は、強く私の中に刻印されたのである。

     前後して読んだ、L=F・セリーヌの小説(多分『北』、あるいは『リゴードン』だったか?)中に、北ドイツの荒涼とした光景の中で黙々と作業をする「聖書研究会員」の姿が描かれていたことも、私の印象を強化したように思う。

     

     

     

     以来、我が家を訪れる「エホバの証人」の人々に対して、あのナチスへの非同調者の末裔への敬意の混じった視線が(少しだけ)注がれることになったのである。

     もっとも、その後、戦時期日本の灯台社と明石順三の事跡と、戦後の「エホバの証人本部」との関係の顛末を知るに及び、視線には若干の冷ややかさが加わることになったのではあるが…

     

     

         (ナチス体制と「エホバの証人」の関係の歴史的詳細は次回としたい)

     

     

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/16 22:21 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/119328

     

     

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    2009年8月13日 (木)

    老眼と自己決定 (26) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 2

     

     「エホバの証人」の信仰を論じる場合、「輸血拒否」は、本来、中心となるべき話題ではないだろう。「輸血拒否」は彼らにとって、彼ら自身の信仰・教義体系から生み出された態度の一つではあっても、彼らの信仰の焦点などではないはずだ。

     

     ただ、現代のいわゆる先進国において、「輸血」という医療行為に対し社会のマジョリティが示す態度と彼らのそれとの隔たりの大きさが、マジョリティに違和感を抱かせてしまうことにより、彼ら自身の意図を超えて、マジョリティにより構成される社会からの問題視として帰結しまっているのだと思える。

     

     前回(http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-1cec.html)にも指摘したように、「輸血」という医療技術自体が、第二次世界大戦期前夜に確立し、第二次世界大戦での負傷者の治療と共に普及へと向かったものなのである。

     前回は、とりあえずの思いつきで、20世紀生まれの高度医療技術の一つとしての「輸血」と、患者による医療内容の選択としての「輸血拒否」という構図で、問題を整理してみたのだが、そのような形での議論が既になされていることがわかった。高度医療技術と、医療内容に対する患者の自己決定権の組み合わせという構図である。

     

     

     

     文化人類学者の星野晋によれば、

      協会(ものみの塔聖書冊子協会-引用者)が輸血を受け入れないという立場を示したのは1945年のことである。
      (「輸血拒否の主体は誰か-文化人類学的視点から見た輸血拒否-」 日本臨床麻酔学会誌 26巻3号 2006年3月)

    …ということだ。「エホバの証人」は、1870年代に米国で生まれた教派であるが、当然のことながら、当初から「輸血拒否」を信仰の一部としていたわけではない。「輸血」という医療技術の出現への対応として、1945年になって初めて、「輸血拒否」という態度が彼らのものとなったのである。

     

     

     「エホバの証人の輸血をめぐる問題」と題された、麻酔科医師による論文によれば、

      実際には専門以外の分野を看板に書く医師はほとんどいないが、法的には医学部を卒業して医師免許を取得した者であれば、誰でも「内科」とか「外科」という看板を勝手に掲げることが可能である。
      しかし、「麻酔科」だけは例外である。麻酔は非常に専門性の高い技術であり、一歩間違えれば生命に直結する手技であるため、決められた病院で通 常2年以上の研修を受け、厚生省の医道審議会である「麻酔科標榜資格審査会」で認められた者しか「麻酔科」の看板を掲げることはできない。この資格を「麻酔科標榜医」という。医師には麻酔も含めて治療上必要な処置を行うことが許されているが、麻酔科を正式に名乗るためには麻酔科標榜医である必要がある。
      麻酔科医の役割は多岐にわたるが、手術室での業務は麻酔を施行し、手術中、患者の管理の責任者となることである。薬品や輸液、血液の使用は麻酔科医にすべて任されている。術者は手術に集中し、とてもその他のことを配慮する余裕がないからである。

    …ということになる。

     つまり、「非常に専門性の高い技術」を要求される麻酔科医の「手術室での業務」に、「薬品や輸液、血液の使用」も含まれているわけである。この<事実>の背後にも、「輸血」という医療技術の「高度医療」としての側面を見出すことが出来るように思える。

     

     

     

     前掲論文では、麻酔科医師の直面させられる問題として、

      信教の自由は最大限尊重されなければならないが、医療を受けるにあたっては医療従事者との接触は不可避である。同じ宗教を信じる医療従事者のみが関与するのであればそれほど問題にはならないのかも知れないが、そのような病院は現在存在しない。「エホバの証人」患者を診療するにあたって、私達が納得できない教義の問題点を以下列挙する。
    ① 自分の信仰を家族(特にこども)にも強制する。
     これにより聖マリアンナ大学で輸血拒否小児死亡事件がおこった。これについては後述する。
    ② 赤血球輸血のみを拒否する理由が非合理である。 
     これについての詳細も後述する。
    ③ 医師の良心を苦しめる
     「死んでも良いから輸血しないでくれ」というのは医師の職業倫理を否定することになる。いくら「免責書」をもらっても、良心のうずきが癒されるわけではない。

    …という3点が示されている。

     ② に関しては、

      「エホバの証人」の多くは、人工心肺、臓器移植、赤血球を含まない血液製剤の輸血は受け入れている。臓器移植には白血病の治療である骨髄移植も含まれているのであるが、骨髄には当然ながら赤血球を作り出す細胞が含まれており、出来たての赤血球も存在しているわけである。骨髄移植が許されるのに赤血球輸血が許されないとする理屈が全く非論理的である。
      1996年以来、医療機関連絡委員の一部を含むエホバの証人たちが、匿名で現在の輸血拒否の方針に疑問を表明し、その数は増加している。彼らは「血液拒否改革エホバの証人連合」を形成し、彼らの言葉によれば、矛盾と一貫性に欠ける複雑な規則に縛られた輸血拒否の方針が、聖書の根拠も明らかにされないままに厳しく施行されている状態に対して、内部からの改革を提唱している。
      事実としてエホバの証人は過去において、ワクチンを輸血と全く同じ理由(すなわち「血の神聖を犯す」という理由)によって、忌避すべきことを信者に教えたが、三十余年後には同じ機関紙の紙面に正反対の主張をし、現在は認めているのである。輸血についても同様に今後、方針が変更になる可能性は十分にあると考えられる。

    …と、その詳細が示されている。

     

     これまで私は、エホバの証人による輸血拒否について、「自己決定権」という側面から論じて来たわけであるが、現場で直接に対応に当たる麻酔科医の言葉として、

      私の経験からすると、手術の前に、最大限尊重はするがやむをえない場合には輸血をする方針であることを話してその場では納得された患者でも、あとで知人と称する人達に説得されて、輸血は絶対しない旨の承諾書にサインしなければ手術を受けないと翻意された例を何度も見ており、多くの信者は本心からではなく、やむを得ず輸血拒否を表明させられているのではないかと感じている。

    …という経験と推測があることを無視することは出来ない。最終的決断は、確かに患者当人のものであるにせよ、「自己決定」に積極的に介入する他者の存在があることも見逃せない。ただし、この場合、患者に「輸血」の受け入れを求め続けることもまた、「自己決定」への「他者の介入」となってしまうわけである。

     

     

     

     

       自分の信仰を家族(特にこども)にも強制する

    …という ① として示された問題点については、前回の私の観点とも一致するものであり、次回、あらためて考えてみたい。
     

     

     

     

     

     

     

    「輸血拒否の主体は誰か-文化人類学的視点から見た輸血拒否-」
     → http://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsca/26/3/296/_pdf/-char/ja/
    「エホバの証人の輸血をめぐる問題」
     → http://www.hbs.ne.jp/home/kterasa/sotsuron.htm
     

     

     

     

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/13 20:47 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113040

     

     

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    2009年8月10日 (月)

    老眼と自己決定 (25) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理

     

     どうも、調べてみると、「輸血」という医療技術が本格的に用いられるようになる時期は、第二次世界大戦と重なるようである。

     

     「輸血」による治療の試みは20世紀以前に遡るようだが、「血液型」が発見されるのが1900年、そして血液の「抗凝固剤」が発明されたのが1914年であり、それぞれの発見と技術なしには、「輸血」が医療技術として確立・普及することはあり得なかったわけだ。

     そして最初の「血液銀行」設立が1937年(「盧溝橋」の年)となっている。

     

     つまり、第二次世界大戦前夜に、技術的な基盤が確立し、第二次世界大戦では、その輸血技術が多くの負傷兵の命を救ったわけである。
     (→ http://www.wanonaka.jp/sub10.htm

     

     平和であっても輸血技術は普及したに違いないにしても、戦争が大きく後押しをしたこともまた<事実>ということになりそうである。

     

     

     

     もう一つの20世紀になっての医療技術である「人工呼吸器」は、その本格的使用が朝鮮戦争の時期と重なるようだ。

      先にも述べたように、脳死は人工呼吸器なしには発生しない。そして、人工呼吸器が発達したのは、 1950年代に入ってから、朝鮮戦争を契機としてなのである。50年代後半に、朝鮮戦争で急激に発達した 人工呼吸器が一般の医療現場にも積極的に導入されるようになったとき、人工呼吸器を使用している重篤な患者の中に、たしかに心臓は動いているが、どう見ても生きている徴候が全く見られない患者が観察されるようになった。そういった症状に対して、'coma depasse'(行きすぎた昏睡、超過昏睡)とか、卑俗には『力強く脈打つ死体』といった表現が用いられるようになった。
     立花隆 『脳死』(中公文庫 1988)

    …ということなので、「人工呼吸器」に関しても、その技術的発展の後ろには戦争があったということになる。

     
     
     

     もともとの「脳死」の問題への関心から、人工呼吸器という20世紀の「高度」と言ってよい医療技術、その後のより高度の医療技術の基礎となったものとしての、そして脳死状態を準備した技術としての、「人工呼吸器」の存在は、私には、しばらく前から気になるものであった。

     つまり、「脳死状態」を生み出すのは、実は、その「高度医療技術」なのだから。

     

     
     

      

     今回、あるML上での「エホバの証人」をめぐるやり取りを通して、彼らが異端視される要因となる「輸血拒否」の問題を考えることになった。

     

     ML上では、ナチス時代のドイツにおけるナチスへのキリスト教徒の態度、という問題が論じられていたのだが、強制収容所収容者の一カテゴリーを形成(紫の標章で、他の収容者から区別された)するに至る「エホバの証人」の存在に関する私の言及が、正統的クリスチャンを任ずるらしい他のメンバーからの大きな反発を招いたのである。彼らの教義は、キリスト教徒のものではない、と言うのである。

     私自身は、信仰の外部の人間なので、彼ら「エホバの証人」の信仰をキリスト教内部のものとして評価することの妥当性の判断を、信仰上の問題として論じることは出来ない。そのことを述べた上で、以後は「エホバの証人」については「聖書の文言に基づく信仰を抱く人々」として言及することにした。系譜論的には、「オウム真理教」の教義を仏教教義の一支流として論じることが出来るのと同様に、「エホバの証人」の教義をキリスト教の歴史が生み出したものとして論じることは可能だと考えているが、ここでは「正統派クリスチャン」氏の<情>に配慮したわけである(しかし「正統派クリスチャン」氏の疾走する<情>は、この配慮を理解しなかったのであるが、まぁ、その話はここでは関係ない)。

     

     話を戻せば、確かに、「エホバの証人」の信仰が要求する「輸血拒否」というのは異様な感じを受ける行為である。

     しかし、一方で「輸血」という医療を考えれば、今でこそ普及してはいるが、上記のように、基本的に20世紀になっての「高度医療」に属するものなのであり、「人工呼吸器」同様に、現代のより高度の医療の基底をなしているわけである。

     
     逆に言えば、いわゆる第三世界には、まだまだその恩恵に与ることの出来ぬ人々の存在するタイプの医療、ということになる。

     つまり、現在でも地球レベルでは、必ずしも普遍性ある医療技術ではないということになるわけだ(アフガンやイラクの病院の状態を想像すること)。

     
     高度医療技術としての「輸血」という観点からは、「輸血拒否」を、インフォームドコンセントの延長としての、患者による医療内容の選択という領域の問題と考えることが出来るように思える。医療内容の選択、つまり患者の自己決定権の行使である。

     ここでは「輸血拒否」は、高度医療継続の拒否なのであり、いわゆる「尊厳死」の問題につながるものとして、その一見しての異様な印象とは別に理解することへの可能性が開かれるのではないだろうか。もちろん、あくまでも、彼らの聖書解釈の妥当性という信仰の文脈とは独立して考えることが必要となる。

     

     ここで問題があるとすれば、成人なら確かに本人の自己決定の問題となるが、未成年者の場合の取り扱いであろう。

     自分の子供への輸血拒否は許容されるのかどうか?ということである。つまり、親が子供への輸血拒否をすることの当否、という問題である。

     
     ここで、「脳死」の問題が大きくリンクしてくる。

     先般の臓器移植法の「改正」では、脳死状態に陥った15歳未満の子供からの臓器移植が、その親の同意を要件とすることにより、合法性を備えたものとして可能となった。つまり、子供自身の事前の意思確認なしに、親の同意のみで、脳死臓器移植が可能とされたのである。

     子供自身による自己決定権の尊重という姿勢は失われてしまったのである。

     もちろん、現実には、これまでは、自己決定能力の未完成を理由に、15歳未満の子供からの臓器提供は禁じられていたわけだ。未成熟な責任能力という観点から、15歳未満の子供への意思確認の妥当性自体が否定されていたのである。

     今回の「改正」では、子供の自己決定能力の有無が問われることはなくなり、親の同意のみで子供からの脳死臓器提供が可能となってしまった、ということなのである。

     

    …ということは、論理的には、「エホバの証人」による自分の子供への輸血拒否は尊重されねばならない、ということになってしまうはずである。

     子供の受ける医療内容への最終的決定権が、その子供の親にあるというのが、今回の臓器移植法改正の眼目なのだから。

     

     

     まぁ、私自身には、成年者本人はともかく、親の意思による子供への輸血拒否を支持することは出来ないし、そもそも今回の臓器移植法「改正」も支持出来ないわけであるが…

     

     
     

     
     そう言えば、イラク戦争では、ヘルメットの改良により防護能力が高まった結果、逆に、これまでに見られなかったタイプの脳損傷に見舞われた兵士が多く見られるということである。そして、その対処・治療法の確立が問題になり始めているわけだ。

     

     これもまた、戦争と医療の関係の新たな一断面ということになりそうである。

     
     
     
     
     

    註 : 「老眼と自己決定 (番外編) 輸血と人工呼吸器、そしてイラクのヘルメット」(2009/08/01 23:38 )のリライト
     (→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/111867/user_id/316274

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/10 12:39 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/112664

     

     

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    2009年8月 5日 (水)

    彼らが最初共産主義者を攻撃したとき

     

     

    ナチスが共産主義者を攻撃したとき、自分はすこし不安であったが、とにかく自分は共産主義者でなかった。だからなにも行動にでなかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者でなかったから何も行動にでなかった。それからナチスは学校、新聞、障害者、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、そのたびに不安は増したが、それでもなお行動にでることはなかった。そしてナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であったから行動にでた。しかし、そのとき自分のために声を上げてくれる者はいなかった。
    (マルティン・ニーメラー/ナチスに抵抗したルター派牧師)

     

    上記は自由と民主主義を語る上で有名な牧師の言葉です。労組などの組織的支援があり、行政に深く食い込み、豊富な資金力と動員力を持つ左翼団体こそ現在のナチスと言えるでしょう(左翼をナチスと呼ぶのが適切であるかどうかは別として)。
    6.13デモを数と力で押しつぶそうとする左翼サイトにも同じ文章が引用されていますが、現在の状況からすれば悪意ある誤用とでも見るべきですね。
     (http://www.zaitokukai.com/modules/wordpress/index.php?p=103

     

     

    …というお話は興味深い。

     コメントからわかる通り、「左翼」に敵対する皆さんの運営するサイトで見つけたお話だ。

     

     

     ニーメラーの言葉を歴史的事実として説明すれば、ナチスの攻撃対象は、

    1) 政治的に、ナチスに敵対していたからこそ、共産主義者や社会主義者はナチスから攻撃された。

    2) ナチスへの非同調者とみなされ、ナチスに攻撃された学校・新聞はあったが、ナチス体制に同調し、組み込まれていった学校・新聞もあったことは言うまでもない。

    3) 健康なアーリア人のユートピアであるナチス国家にふさわしくないとして、障害者とユダヤ人は排除・抹殺された。

    という3つのカテゴリーに分けることが出来る。

     

     

      そしてナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であったから行動にでた。
      しかし、そのとき自分のために声を上げてくれる者はいなかった。
     

    というニーメラーの言葉を言葉通りに受け取るべきでもない。1)2)3)の進行する過程に並行し、1934年の段階で(つまりナチスの政権掌握の翌年には)、ニーメラーはナチス体制への非同調者としての「告白教会」の設立者の一人となっている(設立に向けた活動は、既に1933年に始まっている)。つまり、事態は同時進行していたのだ。「非同調」がやがて「抵抗」を意味するものとなっていくのである。

     しかし、「自分のために声を上げてくれる者はいなかった」という点で、このニーメラーの表現は歴史的事実に反するものということにもならない。

     

     まず、この言葉が、戦後ドイツという条件を背景に発せられたものであるという点を理解しておかなければならないだろう。

     ナチス体制の実質的共犯者としてのドイツ国民という反省的認識が、そこに込められているのである。

     教会=牧師は、ナチスへの抵抗者であり犠牲者であると共に、共産主義者、社会主義者、ユダヤ人へのナチスの攻撃を他人事として見過ごしたという意味で、国民と同様の共犯者でもあったという両義的な意味を読み出す必要を感じる。ここでは、告白教会の非力と共に、ナチ体制への同調者を含む教会全体としての責任が問われていると考えられるわけだ。

     

     

     

     

     さて、この言葉が、ここでは「左翼」批判のために引用されているところが注目点である。「左翼」がナチス同様である、という論理だ。

     つまり、ここでは否定的な存在としてナチスが登場させられていることになる。

     そして否定されるべきは、ナチス同様の左翼なのである。

     それは自由と民主主義に反する存在であるから、ということになるのであろう。

     我々の社会では、伝統的には、ナチスに政治的に敵対していた共産主義者や社会主義者のことを「左翼」と呼んできたわけだ。実際に、それゆえにナチスの最初の攻撃対象が共産主義者だったのであり、社会主義者だったのである。そういう意味で、ナチスからすれば、なんとも不本意な非難のされ方であるに違いない。もちろん、正統的な「左翼」である共産主義者や社会主義者たちにとっても、だ。

     

     

     ニーメラー牧師の言葉を引用した皆さんは、左翼を敵とみなし、「反日」勢力との闘いに心血を注いでいる方々である。

     ところで、ここで、大日本帝國の歴史を思い出しておきたい。

     第2次世界大戦と呼ばれる「あの戦争」で、大日本帝國はナチスドイツと同盟関係にあったことを。日独は、枢軸国として、米英の世界支配に対し共に戦った関係にあったのだ。もちろん、ナチスとの同盟関係はコミンテルンの陰謀によるものなどではなく、大日本帝國政府が国策として主体的に採用したものである。

     論理的には、ナチスを否定の対象とし、現在の「左翼」に対し、ナチス同様であるという言葉を以て非難する以上、体制的共感に基づくナチスの同盟者であった大日本帝國もまた、自由と民主主義の敵として非難されるべきことになる。

     多分、大日本帝國も反日的国家であったに違いない。

     

     

     

     

     ところで、今回あらためて、ニーメラー牧師の「言葉」の出典・初出を調べてみたのだが、文書の文言として流通している確定したテキストとしては、米国人ミルトン・マイヤーの著作『they thought they were free』(『彼らは自由だと思っていた――元ナチ党員10人の思想と行動』 1955年)に収録されたものが初出、ということになるらしい。ただし、ニーメラー自身は、繰り返し同趣旨の言葉を語っていたようで、研究者によれば、時期的にはもっと遡ることが出来るようである。

     また、発言の度、引用の度に、ナチスの攻撃対象として例示される集団も変化しており、巷間ニーメラーの言葉として流通しているものには複数のヴァージョンが存在するということだ。

     

     例えば、1976年ヴァージョンでは、

      彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、
       (ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、)
      私は共産主義者ではなかったから。

      社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、
      私は社会民主主義ではなかったから。

      彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、
      私は労働組合員ではなかったから。

      彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、
      私はユダヤ人などではなかったから。

      そして、彼らが私を攻撃したとき、
      私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。

     

    となっている。冒頭に掲げた言葉とは、かなり異同があることがわかるだろう。
     

     戦後最初期(1946年)のもの(実際のスピーチ)では、ナチスの犠牲者(被攻撃対象)として並べられているのは、

     共産主義者
     障害者
     ユダヤ人 あるいは エホバの証人
     ナチス占領下の人々

    であったという話だ。

     「現代史のトラウマ」シリーズの観点からすれば、障害者(不治の病者)への言及に注目してしまうところだし、このところ関わってしまった議論からは、ここに「エホバの証人」の名が登場するところに感慨を持つ。

     障害者はナチス国家から排除・抹殺の対象とされ、「エホバの証人」はその信仰を理由とした不服従ゆえに、強制収容所における収容者の一カテゴリーを形成する集団となったのである。

     

     

     

     ある定義によれば、

      日本固有のウヨクってのは、いつも<情>が疾走して<知>を無視します

    ということになるらしい。確かに田母神氏の「論文」など、史的事実の究明とは関係なく、論理的分析への配慮も欠落した、ただただ「お気持ち」だけで書かれた文章であった。

     

     今回ご紹介した、反日勢力との闘いを使命としているらしい団体にしても、「左翼」批判のためにナチスを利用しているわけだ。ナチス=自由と民主主義への敵対者=「左翼」という構図を描くことによって。

     そのような前提の結果として、大日本帝國の国策が自由と民主主義に敵対する勢力(つまりナチス・ドイツ)との同盟の構築であったという歴史的事実の位置付けが問題として浮上してしまうことになる。

     つまり、大日本帝國を自由と民主主義への敵対者との同盟者として認識せざるを得なくなるわけで、彼らの「左翼」批判の論理は大日本帝國批判の論理として帰結してしまうことになるのである。

     

     もちろん、これは彼らも<知>を重視することが出来ればの話であることは言うまでもない。

     彼らにこの論理的問題点は理解出来るだろうか?

     何よりも問題の焦点はそこにある、ように思われる。

     

     

     

     最後にもう一つ。彼らは、特定民族出身者に対する排外主義的運動を、その活動の中心に据えている団体である(在特会=在日特権を許さない市民の会)。言うまでもなく、ナチスこそは、アーリア人の国家からのユダヤ人の民族的排除を運動の中心に据えていた団体であった。

     ニーメラー牧師の言葉を思い出そう。

     彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、
     私はユダヤ人などではなかったから。
                          (1976年版)

     ここでは、ユダヤ人がナチスの犠牲者としての独立したカテゴリーを形成しているのである。

     「在特会」の皆さんが、左翼団体を「現在のナチス」と呼ぶこともご自由ではあるが(<情>の表現として)、その前に、自らがその民族的排外主義において、十分にナチスの似姿であることにも(少しは<知>を発動させて)気付いておいて欲しいところである。

     

     

        …そして、彼らが私を攻撃したとき、
                  私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった…

     

     

     

     

     

    参照

    彼らが最初共産主義者を攻撃したとき
     → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%BC%E3%82%89%E3%81%8C%E6%9C%80%E5%88%9D%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E3%82%92%E6%94%BB%E6%92%83%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%8D

    First they came...
     → http://en.wikipedia.org/wiki/First_they_came...

    在日特権を許さない市民の会=在特会
     → http://www.zaitokukai.com/

     

     

     

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/04 22:28 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/112142/user_id/316274

     

     

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