マイノリティーとマジョリティーの間

2009年11月 9日 (月)

老眼と自己決定 (32) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 番外編

 

 グーグルで「エホバ 全体主義」というキーワードで検索すると、1ページ目の2番目に「現代史のトラウマ」の「カテゴリー:エホバの証人」が登場する。

 

 ココログの「アクセス解析」に、たまたまそんなキーワードでのアクセス記録が残されていたので、グーグルの画面をチェックしたら、上記の状態だった。

 

 表示を見ると、「現代史のトラウマ」の記事以外は、「エホバの証人」自体を全体主義的集団として記述しようとするものばかりである。

 

 多分、検索者もそのような記事がお目当てだったのではないだろうか?

 

 

 

 

  • ニュース:エホバの証人側がモスクワの裁判所で宗教活動の自由を認め ...

    ロシア語と英語訳とがありますが、それをよく読んでみると、モスクワの検察当局はその訴えにおいておおむねエホバの証人が世界に引き起こしている問題を的確に把握しています。ここではエホバの証人は「破壊的カルト」、「全体主義的組織」と規定され、 ...
    www.jwic.info/n030801.htm - キャッシュ - 類似ページ
  • 現代史のトラウマ: エホバの証人

    エホバの証人」は、1870年代に米国で生まれた教派であるが、当然のことながら、当初から「輸血拒否」を信仰の一部 ..... 5日 (水) ウヨク、サヨク、そしてリベラル, エホバの証人, マイノリティーとマジョリティーの間, ユートピアとしての全体主義 ...
    uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/.../index.html - キャッシュ - 類似ページ
  • カルトについて(全体主義的セクト)

    しかし、その組織は<totalitaire>と<sectaire>であることは間違いないのです。このニュースNo10の中でのアメリカ人の元エホバの証人の証言を読むと、この全体主義的システムについて理解できると思います。
    www2.ocn.ne.jp/~mind123c/sub4-3.htm - キャッシュ - 類似ページ
  • エホバの証人とShiah派... - 資本主義から価値主義へ.幸せな未来に向け ...

    資本主義から価値主義へ.幸せな未来に向けて.. KUMO ... 1%のエホバの証人がキリスト教全体の代わりをすることはできない.. だがイスラム宗教は1%の極端な分派が全体のイスラムを代っていたりもする.. ハリウッド映画でしばしば登場するイスラム ...
    tag.rakuten.co.jp/redirect.phtml?cid=1448194&ch... - 類似ページ
  • フランスとイタリアのエホバの証人が決議を採択

    エホバの証人が熱心に聖書伝道に励むことは、全体主義宗教における隷従の結果であると見なされます。エホバの証人が現代の道徳規準を退け、聖書の道徳規準に従う立場を守っていることは、信者の私生活に対する不当な干渉が行われているためであると見 ...
    jwpc.milkcafe.to/news2001-08a.html - キャッシュ - 類似ページ
  • カルト宗教 エホバの証人(ものみの塔)の被害を乗り越えて:トラウマ ...

    一人だけ例外というのも許されない。(日本は全体主義国家だっけ?) で、いちおう先生と相談し、白紙投票することにした。 さて、選挙演説会。 これも参加しないわけにはいかない。 しかし演説の度にする拍手は拒否した。エホバの教えに反するから。 ...
    blog.livedoor.jp/crying_soul/.../cat_10006392.html - キャッシュ - 類似ページ
  • 「尊いエホバ」

    たとえばエホバの証人の場合、彼らの礼儀正しさや面倒見の良さ、あるいは良く躾られた子どもを見て感心し、いい人たちだというよう好感を .... 現代社会で希薄な、人のぬくもり、友情、 全体主義的一体感〈侵略戦争中の日本軍のような〉が、彼らを包む。 ...
    www.geocities.jp/sonomama_da/ehb.html - キャッシュ - 類似ページ
  • エホバの証人の考え方について。 過去の見解が間違っていた時、エホバの ...

    2009年9月26日 ... 過去の見解が間違っていた時、エホバの証人は、預言の言葉は徐々に明らかにされていくものだと語りますが… ... 全体主義の弱点の最たる例)。が、基本的な教えは変わっていない。これは私見ですが、協会側ももうおそらく年を断定することは ...
    detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/.../q1231050387 - キャッシュ - 類似ページ
  • news

    エホバの証人、北朝鮮、全体主義」 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです-イエス・キリスト」 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい-イエス・キリスト」 私たちの前を通り過ぎるエホバの証人の反応は多種 ...
    www.jesuscom.org/helpcult/news22.htm - キャッシュ - 類似ページ
  • 私のこれまでの経験(前編) - 元エホバの証人2世のメモ

    聖書は神の言葉であり、それを正しく解釈している組織の教理を疑うことなく信じなければならない(思考停止、全体主義)。疑えば「背教者」となり復活の希望がなくなる。 もうすぐハルマゲドンが来て世界は滅び、エホバの証人のみが生き残る(終末思想) ...
    yosh.exjw.org/experience.html - キャッシュ - 類似ページ

     

     

     

     

     そんな中に、「エホバの証人」をめぐる歴史的事実として、ナチス・ドイツの「全体主義的体制」に対し徹底的に非同調的であり、そのために強制収容所収容者中の独立したカテゴリーまで与えられた集団としての彼らの姿を伝えるブログが見事に入り込んだわけだ。全体主義的体制に対し、死をもいとわず、徹底的に非妥協的に振舞った「エホバの証人」の姿、である。

     別に「エホバの証人」を称揚する気などさらさらないのだが、異なる観点の存在を、信頼性の高い資料に基づくことにより紹介・提示することが出来たことは、正直に言って、うれしいことだ。

     

     

     信仰に生きるということは、その社会の多数者への適合を、当面の生の目標からはずすことを意味することがあるのである。

     多数者にとっての「社会常識」からの離間をもって、その信仰を批判するとすれば、それは人間にとっての「信仰」というもののありかた、人間にとっての宗教的生き方の本質的側面というものへの理解を欠いた態度であると、私は思う。

     

     初期キリスト教徒であれ、原始仏教の信徒であれ、その反社会性をこそ、当時の社会から非難されていたのではなかったか、ということだ。

     当時の社会的期待・現世内的評価に背を向け、家族を捨てることから、彼らの信仰生活は始められていたはずなのである。そのような過激さにこそ、信仰というもの、人間にとっての宗教生活というものの発生地点があるのである。

     

     そこを忘れたような議論に対しては、「宗教を甘く見るんじゃない!」と一喝したい気分に襲われる。多数派で構成される社会の多数派に受け入れられるような(つまり迎合的な)価値の追求を、宗教者に求めることは、本質的に誤りなのである。

     

     

     

     検索ページに並んだ、他の記事の概要を読みながら、ついそんなことを思ってしまった。

     

     

     

     

     

     

     アウトサイダー型人間の呟きである。

     

     

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/22 21:54 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/119911

     

     

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    2009年10月22日 (木)

    老眼と自己決定 (31) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 7

     

     今回も、ナチス体制下の「エホバの証人」についての話題である。

     

     

     

     

     1933年のナチスの政権掌握後、様々な形で示された「エホバの証人」信者のナチス体制への非同調的態度が、彼らにもたらした社会的苦難については既にご紹介した通りである。ナチス国家による信者への公的な「迫害」行為であったと考えるべきだろう。

     1935年に至り、ドイツの再軍備に伴う一般徴兵制の復活に際し、「エホバの証人」は「徴兵拒否」で応じた。その結果、「しだいに多くのものが刑務所や強制収容所へ拘留されることになった」(シビル・ミルトン)わけである。

     

     

     徴兵拒否により、「エホバの証人」は、それまでの雇用機会の剥奪や社会的福祉からの除外といったドイツ社会内からの間接的排除とでも言うべき段階から、刑務所や強制収容所への拘留という、国民社会からの直接的な排除という段階へと進んだナチス体制の対応に直面することになったわけだ。「迫害」の新たな段階と言うことが出来るだろう。

     

     強制収容所内での「エホバの証人」の姿について、高橋三郎が、

     「エホバの証人」ともよばれるこのグループは、エホバにたいする信仰から兵役を拒否して、ナチスが政権を獲得した直後から弾圧されていた。しかし、強制収容所の内部ではやや特異な地位を占めていた。彼らは信仰の放棄書に署名さえすれば、いつでも完全に自由の身になることができたのである。また、すすんで勤勉に仕事を果たしたから、SSからもある種の敬意をうけ、比較的楽な仕事やSS隊員の家事に使われた。だが他方、SSは、ドイツ人でありながらかたくなな信仰の故にナチス・ドイツに協調しようとしない「紫」に強い憎しみを抱くことがあった。

    と書いていたことは既に紹介したが、今回はシビル・ミルトンの記述により、より詳細な状況を把握しておきたい。

     ミルトンによれば、

     証人たちはダッハウで隔離され、特別な懲罰隊に編成され、ダッハウのほか、マウトハウゼン、ザクセンブルク、そしてザクセンハウゼンで強制労働に割り当てられた。フロッセンブルクでは火葬場で働く仕事が割り当てられた。エスターヴェーゲンでは便所清掃の仕事が割り当てられた。証人たちはしばしば日曜労働を要求された。それは彼らの宗教的な信念を侵害するものだった。モーリンゲン、リヒテンブルク、そしてラーヴェンスブリュックの女性収容所に拘留された証人たちは強制労働に服し、栄養不良、さらし刑、体罰、そして隔離の刑にさらされた。彼らの「どんな他の集団にも見られないような反対と殉教の非妥協的精神」は、1930年代に亡命社会主義者によって配布された『ドイツ報告』の報告でとりわけ注目された。1938年10月、リヒテンブルクについてのそんなひとつの報告では、エホバの証人の囚人たちが収容所全体に放送されたヒトラーの演説を聴くのを拒否したことが記録されている。「親衛隊員はエホバの証人たちにホースで水をかけ、彼らを殴打し、総統が演説している間、一時間以上、彼らをずぶ濡れで立たせていた。10月下旬で、ひどく寒かった。その後、彼らの誰も治療を受けなかった。食物は2日か3日間、与えないで放置された」。

    ということだ。

     高橋三郎の紹介した「信仰の放棄書」について、ミルトンは、

     ほとんどの証人たちはそんな宣言書にサインしなかった。彼らが拒否した結果、ザクセンハウゼンでは40人以上の証人たちに死刑が執行された。

    と書いている。宣言拒否が死刑執行を意味しても、彼らは非妥協的であり続けたわけである。

     「エホバの証人」は、「徴兵拒否」にとどまらず広範な「戦争関係業務拒否」も貫いた。再びミルトンによれば、強制収容所内でも、

     証人たちは軍務を嫌悪した。そのため、毛皮が軍服に使われるというのでウサギの番さえ拒否することも起きた。その結果、何人かの女性囚は、ラーヴェンスブリュックとアウシュヴィッツ(オシフィエンチム)で反逆罪により死刑を執行された。

    ということになるのである。

     

     最終的には、「軍務拒否」により、

     1938年以降、250人以上のエホバの証人がドイツの軍隊に仕えることを拒否して、死刑判決を受け執行された。その罪状はドイツや併合されたオーストリアでの防衛力破壊だった。エホバの証人は「強情なイデオロギー的な犯罪者たち」と見なされた。彼らは39年8月26日の特別軍事犯罪法典に公布された規定によって死刑判決を受けた。

    という取り扱いを、「エホバの証人」は受けることになるのであった。

     軍務の拒否が死刑執行を意味しようとも、彼らが態度変更することはなかったのである。

     

     直接の死刑執行以外に、強制収容の対象となった1万人の「エホバの証人」のうち、約2500人が(虐待の結果、ということであろう)収容所内で死亡しているということだ。

     

     

     

     

     

     今回は、「エホバの証人」の「徴兵拒否・軍務拒否」が彼らに何をもたらしたのか、そしてそれに彼らがどのように対応したのかについて、『ホロコースト大事典』中のシビル・ミルトンの記述を参考に書いてみた。

     

     

     「死罪」にもひるむことなく、信仰上の要求を守り続ける彼らの姿がそこにある。

     「出血多量による死」の可能性を受け入れ、「輸血拒否」という信仰上の要求を守ろうとする「エホバの証人」の姿は、かつてのナチス体制を前にしての彼らの姿と、実によく重なるように思える。

     生の存続が持つ価値は、信仰上の要求に従うことより大きなものではない。

     それが、ナチス体制を前にした彼らを支え、輸血拒否を宣言する彼らを支える、彼らの信仰が彼らにもたらした彼らの価値観なのである。

     そのように私は考える。

     

     

     

      

     「輸血拒否」の話題とは別に、私の「エホバの証人」への興味の原点であったナチス体制下での彼らの姿を確認しておくつもりで書き始めたのであったが、書き進めた結果、両者は「別の話題」ではまったくないことに気付くことが出来た。

     思いもよらぬことであったが、個人的には大きな収穫であったと感じている。

     

     

     

     

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/21 22:20 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/119831

     

     

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    老眼と自己決定 (30) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 6

     

     「エホバの証人」とナチスというテーマが続いている。

     

     

     「エホバの証人」が、ナチスの強制収容所の中で、他の収容者から独立したカテゴリーを与えられていたことに着目して、これまでの稿を進めてきたわけである。

     

     

     

     しかし、昨日ご紹介した、『ホロコースト大事典』中のシビル・ミルトンによる「エホバの証人」の項を注意深く読めば、ナチス体制が当初から「エホバの証人」を強制収容所収容者として取り扱っていたわけでもないことがわかる。

     ミルトンによれば、

     35年の強制兵役の導入により、彼らの徴兵拒否や戦争関係業務拒否の結果、しだいに多くのものが刑務所や強制収容所に拘留されることとなった。

    ということなのである。

     

     1935年1月のナチスの政権掌握後に、「ハイル・ヒトラー」の敬礼を拒否し、選挙・国民投票への投票を拒否し、ナチ党組織への参加を拒否するといった「エホバの証人」の振る舞いは、就業機会の喪失、資産の没収、社会保証制度からの排除等の、彼らからの社会的基盤の剥奪という事態を生み出した。

     彼らの子供も、ナチスの標的とされることを免れ得ない。再びミルトンによれば、

     エホバの証人の子どもたちは、学校で侮辱と宣伝のはてしない集中砲火を浴びることになった。また同級生や教師による身体的な暴力の散発的な標的にもなった。ナチ国家の抑圧的装置はエホバの証人の家族生活や育児の領域にも拡がった。子どもはナチ教育の規範に従わないということで排斥された。彼らはヒトラー・ユーゲントに加入する意思がないことを理由に、しばしば非行少年と宣告され、矯正施設に監禁された。両親の保護監督権も奪われた。そのもっともらしい理由は、ドイツ民法1666条によるものであった。エホバの証人の親たちは子どもを「国家社会主義の精神におけるドイツ的方法から遠ざけることによって、子どもの福利厚生を危険にさらした」というわけである。38年までに、エホバの証人の860以上の家族から、子どもが矯正施設、感化院、そしてナチスの家庭に移されていった。38年12月27日、帝国内務大臣はすべての青少年局や市町村の監督当局に宛てて回状を出し、「政治的に信頼できない家族」から子どもを引き離しナチスの家庭へ移すことを命じた。さらにナチ国家はまた、エホバの証人の両親には追加的な児童手当の支払いを拒否した。

    という事態が、エホバの証人の家族を襲うのである。

     しかし、彼らが反ナチの政治活動をしたというわけではない。そもそも、彼ら自身の意識の中では、彼らはナチス体制への政治的敵対者ではないのである。あくまでも、

     われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

    という、彼らの信仰に基づく、彼らの信仰が彼らに求める振る舞いを続けただけなのだ。

     それがナチス体制に、徹頭徹尾、適合的ではなかったということなのである。

     

     

     現在の「エホバの証人」に関して、彼らの特異性の凝集点として周囲の社会から取り扱われることの多い「輸血拒否」もまた、同様の構図の下にあることが指摘出来るように思う。

     彼らは決して、社会的多数者(マジョリティー)の常識に対する反抗を目的として、「輸血拒否」の意思表明をしているわけではない。

     医療という場において、彼らが彼らの信仰に基づく、彼らの信仰が彼らに求める振る舞いを続けているだけのことなのである。

     ナチス体制下の「エホバの証人」にとり、ナチ体制への非同調は、彼らの信仰の維持の上で切実な問題であったが、ナチ体制への反抗を信者以外の人々に求めるものではなかった。同様に、現在の「エホバの証人」にとって、「輸血拒否」はあくまでも彼ら自身の信仰上の切実な問題なのであって、「輸血拒否」を信者以外の人々にまで求めようとするものではない。

     私も含め、(「輸血」をめぐる問題において)マジョリティーに属する側にいる人間には、その構図に自覚的になっておく必要があるように思う。

     

     

     「エホバの証人」による「輸血拒否」に関しては、彼らの子どもの取り扱いが焦点の一つとなっているわけだが、ナチス体制下でのエホバの証人の家族(彼らの子ども)の運命、その際の彼ら(親達)の態度を振り返ると、ここにも構図の同型性を指摘出来るようにも思う。

     ナチスによる、彼らの子ども達への過酷な取り扱いが、彼らのナチス体制への態度を変化させることはなかったのである。

     あくまでも、

     われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

    ということなのだ。「キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる」以上、現世内での彼ら自身が、そして彼らの子どもが味わう苦痛・苦難が、彼らの信仰上の態度決定に影響するようなことは、あり得ないこととして考えなければならないのである。

     

     

     

     

     そして、1935年、ドイツの再軍備と共に兵役が義務化された際にも、彼らは徴兵拒否の態度を貫き、結果として強制収容所の収容者の独立したカテゴリーを構成することになるのであった。

     

     

     彼らは、あくまでも、

     われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

    という態度、信仰者としての態度をもって、現世に臨んでいるだけなのである。

     

     

     

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/20 23:02 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/119724

     

     

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    2009年10月21日 (水)

    老眼と自己決定 (29) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 5

     

     「エホバの証人」とナチスをめぐる話題の続きである。

     

     

     

     「エホバの証人」のメンバー(信徒と書くべきか?)が、ナチスから敵対的な取り扱いを受け、強制収容所の収容者の独立したカテゴリーまで与えられていたことは、既に書いた。

     前回ご紹介したように、彼らの振る舞いは、ナチス体制への徹底した非同調性、その非妥協的な態度に特徴付けられるのだが、それをナチス体制への「抵抗」として性格付けてしまうことは、いささか的外れに思える。

     

     「この世の政治」への不参加という彼らの信仰の要求する態度が、国民の政治参加の義務化とでも言うべきナチスの全体主義体制の要求からは、敵対的なものとしてしか評価され得なかったというのが現実であろう。

     「エホバの証人」の徹底した「非政治的姿勢」が、その「非政治的姿勢」の徹底性の故に、現世的現実政治の要求に対し対立的な振る舞いとしてしか実践し得ないものとなってしまうのである。「非政治的姿勢」の表現が、現実政治の場において、敵対的な「政治的姿勢」として意味付けられてしまうのである。

     「エホバの証人」は、その「非政治性」において、決してナチス体制への政治的敵対者、政治的抵抗者ではあり得ない。しかし、その信仰が要求する「非政治的姿勢」の故に、ナチス体制の政治的要求を徹底的に無視する以外の選択肢を持たず、それが結果としてナチスの側からの政治的敵対者としての高い評価を生み出してしまったわけである。

     

     

     「エホバの証人」の信仰が信徒に求めたのは、ナチス体制への政治的抵抗ではなく、ナチス体制への不参加であったに過ぎない。より正確に言えば、彼らの信仰は、現世的政治体制すべてへの不参加を求めているのであって、ナチス体制が特異的な対象であったわけではない。

     第二次世界大戦下のアメリカ合衆国では、国旗への敬礼への拒否として表現された彼らの信仰に基づく振る舞いは容認されるものとなったが、ナチス体制の下では、彼らの信仰には強制収容所がふさわしいと判断されたのである。

     

     

     シビル・ミルトンによる『ホロコースト大事典』の記述によれば、

     1934年10月7日、ドイツのエホバの証人の集会はドイツ政府に、ナチ国家の権威に対する全面的な抵抗を肯定する諸原則の公式声明を送った。それは目覚しいものだった。「過去に神の法に反して、、またわれわれの諸権利を侵害して、あなたがたはわれわれがエホバの証人として神の言葉を学ぶために集まり、神を崇め、神に仕えることを禁止した……。それゆえに、ここに次のことを通告する。われわれはどんな犠牲を払っても神の掟に従うだろうし、神が命じるように神を崇め仕えるだろう。もしあなたがたの政府や官庁が、われわれが神に従っていることを理由にわれわれに暴力を加えるならば、そのときわれわれの血はあなたがたの上にふりそそぐことだろう。あなたがたは全能なる神の問いに答えることになろう。われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。われわれは誰に対してであれ傷つけたり、害を与えるつもりはない。われわれは平和に生活し、機会があればすべての人々に善をなすことを喜ぶ。しかし、あなたがたの政府と官庁がわれわれに宇宙の最高の法に背くよう強制しようとしつづけているので、われわれは今やあなたがたに、われわれが神の恩恵によりエホバの神に従うこと、神がわれわれをすべての圧制と迫害から解放することを完璧に信じていることを通告せざるをえなくなった」と。35年4月1日に、ドイツ帝国とプロイセンの内務大臣はエホバの証人の国内でのすべての宗教活動と出版を禁止した。

    ということになる。

     ここでミルトンは「ナチ国家の権威に対する全面的な抵抗を肯定する諸原則の公式声明」と、「抵抗」という語を用いて書いているが、声明の内容を見れば明らかなように、その「抵抗」は決して政治的なものではない。

     彼らの態度の核心にあるのは、

     われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

    という認識なのである。あくまでも。

     
     
     

     ミルトンの記述に戻れば、

     ナチ支配のはじめの二年間に、エホバの証人たちは公務員や私企業従業員としての彼らの職を失ってしまった。彼らが労働戦線に加わることや「ハイル・ヒトラー」の敬礼を使うこと、あるいは選挙で投票することを拒否したからだった。1935年1月23日、ドイツ帝国とプロイセンの内相はドイツの「ハイル・ヒトラー」のあいさつを使わないと、官庁や民間企業から解雇されることになると布告した。36年2月2日、ドイツ帝国とプロイセンの労働大臣はエホバの証人にはすべての失業手当や年金が留保されることがありうると布告した。さらに、彼らの個人的な財産や事業の財産も、破壊分子と敵の財産没収法を適用して没収できるとされた。この没収法はもともとは、追放され国籍を奪われた政治的な敵の資産を取り上げるために使われたものだった。エホバの証人はまた人種法に従うことも拒否した、なぜならば、彼らは「すべての人間は神の目には平等である」と信じたからである。彼らの失業手当、福祉手当、年金手当はしばしば否定された。35年の強制兵役の導入により、彼らの徴兵拒否や戦争関係業務拒否の結果、しだいに多くのものが刑務所や強制収容所に拘留されることとなった。35年初め、エホバの証人の逮捕や保護検束を命じるゲシュタポの規則は、以前より体系的になった。

    ということになる。

     つまり、

     われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

    という彼らの信仰の求める態度の帰結として、完全な失業、福祉・社会保障制度からの排除、財産の没収といった、生活の根幹を奪われるという事態が彼ら「エホバの証人」の上に降りかかるのである。

     そして、

     35年の強制兵役の導入により、彼らの徴兵拒否や戦争関係業務拒否の結果、しだいに多くのものが刑務所や強制収容所に拘留されることとなった。

    とあるように、彼らの信仰が求める「兵役拒否」は、彼らをより過酷な状況に導くものとなるのである。

     

     「兵役拒否」についての詳細は、稿をあらためて、次回の話題としたい。

     
     
     
     
     
     
     
     
     
     

    (オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/19 22:33 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/119612/user_id/316274

     

     

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    老眼と自己決定 (28) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 4

     

     前回の続きとして、ナチス体制の中での「エホバの証人」について書いておきたい。

     

     

     

     

     ウォルター・ラカー編の『ホロコースト大事典』(柏書房 2003)に、シビル・ミルトンの執筆した「エホバの証人」の項がある。

     

     

     ナチスの強制収容所における「紫」カテゴリー(すなわち「エホバの証人」である)の収容者の比率の、収容者全体に占める高さにまず驚かされるだろう。

     ミルトンによれば、

     1935年から39年にかけて、エホバの証人はしばしば刑務所内の保護拘束から強制収容所における無期限拘留に移された。35年以降、強制収容所の囚人数が増加する中で、エホバの証人はかなりの割合を占め、大戦前には、強制収容所の全囚人の10%以上にのぼっていた。39年までに7000人近くのエホバの証人が強制収容所に拘留された。彼らはドイツ、編入されたオーストリア、チェコスロヴァキアの出身だった。38年5月、ブーヘンヴァルトの全囚人の12%がエホバの証人だった。38年に、リヒテンブルクの女性収容所には260人のエホバの証人がいた。それは囚人たちのおよそ18%であった。
     1940年以降、占領されたヨーロッパからやって来るあらゆる種類の囚人で収容所の人口は増大した。その数は、ドイツやオーストリアからのそれ以前の囚人たちよりも多かった。その結果、すべての収容所でエホバの証人の比率は減少した。40年の終り頃、強制収容所には一万人のドイツやオーストリーのエホバの証人に加え、小数のベルギー、チェコ、オランダ、ノルウェー、そしてポーランドのエホバの証人が閉じ込められていた。

    ということになる。

     つまり、第二次世界大戦の開始後は、占領地からの強制収容所収容者数の増大により全収容者中のエホバの証人の比率が低下したわけだが、戦争開始以前のドイツ帝国のドイツ人(ユダヤ人、ジプシーも含む)を対象とした強制収容所であった時代には、エホバの証人の全収容者に占めた比率は高いものであった、ということだ。

     ひとつの宗教的信仰集団が、ナチス体制への非同調者として、ナチス体制から単に名指されていたのみならず、強制収容所収容者の独立したカテゴリーを与えられ、実際に全収容者中に高い比率を占めていたことを、まず事実として認識しなければならない。

     

     

     彼らの信仰が、信仰自体が、ナチス体制への同調を不可能にしていたのである。

     戦後の彼らの信仰が、輸血拒否という態度を生み出すものとなったと同様に、戦前戦中のドイツにおける彼らの信仰が、ナチス体制への非同調という彼らの態度を生み出したのであった。

     

     

     ミルトンの記述に従えば、

     ナチスが1933年1月に権力を握った後、エホバの証人への攻撃はほとんどすぐにエスカレートした。それは彼らの信仰や行動のためだったが、とくにナチ国家に敬意を表することを拒否し、あるいは何らかのナチ党付属組織に加わることを拒絶したことによるものだった。…(中略)…つまり、エホバの証人は「ハイル・ヒトラー」の敬礼で腕を上げることを拒否し、鉤十字章の旗を掲揚しようとせず、ナチスの選挙や国民投票で投票しなかった。ドイツ労働戦線に参加せず、冬期救済事業に献金しようとしなかった。子どもたちがヒトラー・ユーゲントに加わることも許さなかった。エホバの証人はしばしば拘留され、殴打された。彼らの事務所は捜索されそして破壊され、彼らの資金は没収され、彼らの定期刊行物や出版物は検閲され、禁止された。何百人ものエホバの証人たちが、いわゆる保護政策(シュッツハット)で刑務所や強制収容所に抑留された。33年4月にエホバの証人の団体と印刷物が帝国全域で禁止された。…(後略)

    ということなのである。

     ただし、「ナチスの選挙や国民投票で投票しなかった」とあるが、

     神の王国への支持を表明するため、政治への参加(投票など)をしない。 - ヨハネ 18:36

    という『ウィキペディア』の「エホバの証人」の項の記述にあるように、彼らの「この世」での政治への不参加はナチス体制に対するものには限らない。

     また、国旗への敬礼の拒否、国歌斉唱の忌避も、ナチス統治時代に限定されるものではなく、ナチス・ドイツという国家領域に限定されるものでもない。まさに第二次世界大戦中のアメリカ合衆国において、国旗への敬礼の拒否を貫き、連邦最高裁判決でその行為を容認されたのも、彼ら「エホバの証人」の信仰が生み出した歴史的事態なのである。

     

     

     この世の政治への不参加という彼らの信仰の根幹が、特にナチス体制と相容れないものとしての、ナチスによる「エホバの証人」への敵対的な評価となった、ということになるだろう。

     

     

     

     エホバの証人による「兵役拒否」をめぐる問題については、今回は触れることが出来なかった。

     次回の課題としたい。

     

     

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/18 19:45 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/119511/user_id/316274

     

     

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    老眼と自己決定 (27) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 3

     

     この話題の前回は、「エホバの証人」の信仰を論じる場合、「輸血拒否」は、本来、中心となるべき話題ではないだろう、という書き出しで始まっていた。

     

     

     その上で、彼らの示す、

     自分の信仰を家族(特にこども)にも強制する

    という態度の結果、彼らの子供までが「輸血拒否」の対象とされてしまい、出血多量で死亡する事例について取り上げることを予告してしまっていた。

     しかし、今回は、その問題の検討に入るのではなく、私の「エホバの証人」の存在への関心の核心にある、ナチスとの関係について書いておきたい。

     

     

     

     高橋三郎氏の名著(と私は考えるが)、『強制収容所における「生」』(二月社 1974)に、強制収容所の収容者に対するナチスによる「分類」についての解説があった。

     同書によれば、人種・国籍による分類(が形成するヒエラルキー)が大きな柱となる一方で、

     もうひとつの抑留者の分類は拘禁理由によるもので、政治犯、刑事犯、聖書研究会員、反社会的分子、同性愛者、亡命者といったカテゴリーである。抑留者はカテゴリーを示す色の逆三角形の布を左胸と右足に縫い付けさせられていた。基本的な色(カテゴリー)は次のようなものであった。
     「赤」=政治犯
     (この項の詳細説明の引用は略)
     「緑」=刑事犯
     (この項の詳細説明の引用も略)
     「黒」=反社会的分子
     (この項の詳細説明の引用も略)
     「桃色」=同性愛者
     (この項の詳細説明の引用も略)
     「紫」=聖書研究会員
     「エホバの証人」ともよばれるこのグループは、エホバにたいする信仰から兵役を拒否して、ナチスが政権を獲得した直後から弾圧されていた。しかし、強制収容所の内部ではやや特異な地位を占めていた。彼らは信仰の放棄書に署名さえすれば、いつでも完全に自由の身になることができたのである。また、すすんで勤勉に仕事を果たしたから、SSからもある種の敬意をうけ、比較的楽な仕事やSS隊員の家事に使われた。だが他方、SSは、ドイツ人でありながらかたくなな信仰の故にナチス・ドイツに協調しようとしない「紫」に強い憎しみを抱くことがあった。
     良心的兵役拒否者は、時により「黒」にも「紫」にも分類された。
     「青」=亡命者
     (この項の詳細説明の引用も略)
     「黄」=ユダヤ人
     (この項の詳細説明の引用も略)

    として、「拘禁理由」による、ナチス強制収容所の抑留者の分類の実際が紹介されていた。それを読んで以来、「エホバの証人」に関して、ナチス強制収容所の収容者の独立したカテゴリーを形成した人々という強い印象が私のものとなった。ナチスへの非同調者としての「エホバの証人」、ということになる。

     紫の標章を与えられ、つまり強制収容所において「独立したカテゴリー」を形成すべき集団としてナチスから評価されていたということの意味は大きい。裏返しの形ではあるが、そこにナチスによる、「エホバの証人」に対するナチス体制への非同調者としての高い評価を見出すことが出来るからだ。

     

     『強制収容所における「生」』を読んだのは20年以上前の話だが、そこに「聖書研究会員」として登場した「エホバの証人」の印象は、強く私の中に刻印されたのである。

     前後して読んだ、L=F・セリーヌの小説(多分『北』、あるいは『リゴードン』だったか?)中に、北ドイツの荒涼とした光景の中で黙々と作業をする「聖書研究会員」の姿が描かれていたことも、私の印象を強化したように思う。

     

     

     

     以来、我が家を訪れる「エホバの証人」の人々に対して、あのナチスへの非同調者の末裔への敬意の混じった視線が(少しだけ)注がれることになったのである。

     もっとも、その後、戦時期日本の灯台社と明石順三の事跡と、戦後の「エホバの証人本部」との関係の顛末を知るに及び、視線には若干の冷ややかさが加わることになったのではあるが…

     

     

         (ナチス体制と「エホバの証人」の関係の歴史的詳細は次回としたい)

     

     

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/16 22:21 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/119328

     

     

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    2009年8月13日 (木)

    老眼と自己決定 (26) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 2

     

     「エホバの証人」の信仰を論じる場合、「輸血拒否」は、本来、中心となるべき話題ではないだろう。「輸血拒否」は彼らにとって、彼ら自身の信仰・教義体系から生み出された態度の一つではあっても、彼らの信仰の焦点などではないはずだ。

     

     ただ、現代のいわゆる先進国において、「輸血」という医療行為に対し社会のマジョリティが示す態度と彼らのそれとの隔たりの大きさが、マジョリティに違和感を抱かせてしまうことにより、彼ら自身の意図を超えて、マジョリティにより構成される社会からの問題視として帰結しまっているのだと思える。

     

     前回(http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-1cec.html)にも指摘したように、「輸血」という医療技術自体が、第二次世界大戦期前夜に確立し、第二次世界大戦での負傷者の治療と共に普及へと向かったものなのである。

     前回は、とりあえずの思いつきで、20世紀生まれの高度医療技術の一つとしての「輸血」と、患者による医療内容の選択としての「輸血拒否」という構図で、問題を整理してみたのだが、そのような形での議論が既になされていることがわかった。高度医療技術と、医療内容に対する患者の自己決定権の組み合わせという構図である。

     

     

     

     文化人類学者の星野晋によれば、

     協会(ものみの塔聖書冊子協会-引用者)が輸血を受け入れないという立場を示したのは1945年のことである。
      (「輸血拒否の主体は誰か-文化人類学的視点から見た輸血拒否-」 日本臨床麻酔学会誌 26巻3号 2006年3月)

    ということだ。「エホバの証人」は、1870年代に米国で生まれた教派であるが、当然のことながら、当初から「輸血拒否」を信仰の一部としていたわけではない。「輸血」という医療技術の出現への対応として、1945年になって初めて、「輸血拒否」という態度が彼らのものとなったのである。

     

     

     「エホバの証人の輸血をめぐる問題」と題された、麻酔科医師による論文によれば、

     実際には専門以外の分野を看板に書く医師はほとんどいないが、法的には医学部を卒業して医師免許を取得した者であれば、誰でも「内科」とか「外科」という看板を勝手に掲げることが可能である。
     しかし、「麻酔科」だけは例外である。麻酔は非常に専門性の高い技術であり、一歩間違えれば生命に直結する手技であるため、決められた病院で通 常2年以上の研修を受け、厚生省の医道審議会である「麻酔科標榜資格審査会」で認められた者しか「麻酔科」の看板を掲げることはできない。この資格を「麻酔科標榜医」という。医師には麻酔も含めて治療上必要な処置を行うことが許されているが、麻酔科を正式に名乗るためには麻酔科標榜医である必要がある。
     麻酔科医の役割は多岐にわたるが、手術室での業務は麻酔を施行し、手術中、患者の管理の責任者となることである。薬品や輸液、血液の使用は麻酔科医にすべて任されている。術者は手術に集中し、とてもその他のことを配慮する余裕がないからである。

    ということになる。

     つまり、「非常に専門性の高い技術」を要求される麻酔科医の「手術室での業務」に、「薬品や輸液、血液の使用」も含まれているわけである。この<事実>の背後にも、「輸血」という医療技術の「高度医療」としての側面を見出すことが出来るように思える。

     

     

     

     前掲論文では、麻酔科医師の直面させられる問題として、

     信教の自由は最大限尊重されなければならないが、医療を受けるにあたっては医療従事者との接触は不可避である。同じ宗教を信じる医療従事者のみが関与するのであればそれほど問題にはならないのかも知れないが、そのような病院は現在存在しない。「エホバの証人」患者を診療するにあたって、私達が納得できない教義の問題点を以下列挙する。
    ① 自分の信仰を家族(特にこども)にも強制する。
     これにより聖マリアンナ大学で輸血拒否小児死亡事件がおこった。これについては後述する。
    ② 赤血球輸血のみを拒否する理由が非合理である。 
     これについての詳細も後述する。
    ③ 医師の良心を苦しめる
     「死んでも良いから輸血しないでくれ」というのは医師の職業倫理を否定することになる。いくら「免責書」をもらっても、良心のうずきが癒されるわけではない。

    という3点が示されている。

     ② に関しては、

     「エホバの証人」の多くは、人工心肺、臓器移植、赤血球を含まない血液製剤の輸血は受け入れている。臓器移植には白血病の治療である骨髄移植も含まれているのであるが、骨髄には当然ながら赤血球を作り出す細胞が含まれており、出来たての赤血球も存在しているわけである。骨髄移植が許されるのに赤血球輸血が許されないとする理屈が全く非論理的である。
     1996年以来、医療機関連絡委員の一部を含むエホバの証人たちが、匿名で現在の輸血拒否の方針に疑問を表明し、その数は増加している。彼らは「血液拒否改革エホバの証人連合」を形成し、彼らの言葉によれば、矛盾と一貫性に欠ける複雑な規則に縛られた輸血拒否の方針が、聖書の根拠も明らかにされないままに厳しく施行されている状態に対して、内部からの改革を提唱している。
     事実としてエホバの証人は過去において、ワクチンを輸血と全く同じ理由(すなわち「血の神聖を犯す」という理由)によって、忌避すべきことを信者に教えたが、三十余年後には同じ機関紙の紙面に正反対の主張をし、現在は認めているのである。輸血についても同様に今後、方針が変更になる可能性は十分にあると考えられる。

    と、その詳細が示されている。

     

     これまで私は、エホバの証人による輸血拒否について、「自己決定権」という側面から論じて来たわけであるが、現場で直接に対応に当たる麻酔科医の言葉として、

     私の経験からすると、手術の前に、最大限尊重はするがやむをえない場合には輸血をする方針であることを話してその場では納得された患者でも、あとで知人と称する人達に説得されて、輸血は絶対しない旨の承諾書にサインしなければ手術を受けないと翻意された例を何度も見ており、多くの信者は本心からではなく、やむを得ず輸血拒否を表明させられているのではないかと感じている。

    という経験と推測があることを無視することは出来ない。最終的決断は、確かに患者当人のものであるにせよ、「自己決定」に積極的に介入する他者の存在があることも見逃せない。ただし、この場合、患者に「輸血」の受け入れを求め続けることもまた、「自己決定」への「他者の介入」となってしまうわけである。

     

     

     

     

       自分の信仰を家族(特にこども)にも強制する

    という ① として示された問題点については、前回の私の観点とも一致するものであり、次回、あらためて考えてみたい。
     

     

     

     

     

     

     

    「輸血拒否の主体は誰か-文化人類学的視点から見た輸血拒否-」
     → http://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsca/26/3/296/_pdf/-char/ja/
    「エホバの証人の輸血をめぐる問題」
     → http://www.hbs.ne.jp/home/kterasa/sotsuron.htm
     

     

     

     

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/13 20:47 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113040

     

     

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    2009年8月10日 (月)

    老眼と自己決定 (25) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理

     

     どうも、調べてみると、「輸血」という医療技術が本格的に用いられるようになる時期は、第二次世界大戦と重なるようである。

     

     「輸血」による治療の試みは20世紀以前に遡るようだが、「血液型」が発見されるのが1900年、そして血液の「抗凝固剤」が発明されたのが1914年であり、それぞれの発見と技術なしには、「輸血」が医療技術として確立・普及することはあり得なかったわけだ。

     そして最初の「血液銀行」設立が1937年(「盧溝橋」の年)となっている。

     

     つまり、第二次世界大戦前夜に、技術的な基盤が確立し、第二次世界大戦では、その輸血技術が多くの負傷兵の命を救ったわけである。

     (→ http://www.wanonaka.jp/sub10.htm

     

     平和であっても輸血技術は普及したに違いないにしても、戦争が大きく後押しをしたこともまた<事実>ということになりそうである。

     

     

     

     もう一つの20世紀になっての医療技術である「人工呼吸器」は、その本格的使用が朝鮮戦争の時期と重なるようだ。
     ↓ ↓

    先にも述べたように、脳死は人工呼吸器なしには発生しない。そして、人工呼吸器が発達したのは、 1950年代に入ってから、朝鮮戦争を契機としてなのである。50年代後半に、朝鮮戦争で急激に発達した 人工呼吸器が一般の医療現場にも積極的に導入されるようになったとき、人工呼吸器を使用している重篤な患者の中に、たしかに心臓は動いているが、どう見ても生きている徴候が全く見られない患者が観察されるようになった。そういった症状に対して、'coma depasse'(行きすぎた昏睡、超過昏睡)とか、卑俗には『力強く脈打つ死体』といった表現が用いられるようになった。
     立花隆 『脳死』(中公文庫 1988)

     ↑ ↑
    ということなので、「人工呼吸器」に関しても、その技術的発展の後ろには戦争があったということになる。

     
     
     

     もともとの「脳死」の問題への関心から、人工呼吸器という20世紀の「高度」と言ってよい医療技術、その後のより高度の医療技術の基礎となったものとしての、そして脳死状態を準備した技術としての、「人工呼吸器」の存在は、私には、しばらく前から気になるものであった。

     つまり、「脳死状態」を生み出すのは、実は、その「高度医療技術」なのだから。

     

     
     

      

     今回、あるML上での「エホバの証人」をめぐるやり取りを通して、彼らが異端視される要因となる「輸血拒否」の問題を考えることになった。

     

     ML上では、ナチス時代のドイツにおけるナチスへのキリスト教徒の態度、という問題が論じられていたのだが、強制収容所収容者の一カテゴリーを形成(紫の標章で、他の収容者から区別された)するに至る「エホバの証人」の存在に関する私の言及が、正統的クリスチャンを任ずるらしい他のメンバーからの大きな反発を招いたのである。彼らの教義は、キリスト教徒のものではない、と言うのである。

     私自身は、信仰の外部の人間なので、彼ら「エホバの証人」の信仰をキリスト教内部のものとして評価することの妥当性の判断を、信仰上の問題として論じることは出来ない。そのことを述べた上で、以後は「エホバの証人」については「聖書の文言に基づく信仰を抱く人々」として言及することにした。系譜論的には、「オウム真理教」の教義を仏教教義の一支流として論じることが出来るのと同様に、「エホバの証人」の教義をキリスト教の歴史が生み出したものとして論じることは可能だと考えているが、ここでは「正統派クリスチャン」氏の<情>に配慮したわけである(しかし「正統派クリスチャン」氏の疾走する<情>は、この配慮を理解しなかったのであるが、まぁ、その話はここでは関係ない)。

     

     話を戻せば、確かに、「エホバの証人」の信仰が要求する「輸血拒否」というのは異様な感じを受ける行為である。
     しかし、一方で「輸血」という医療を考えれば、今でこそ普及してはいるが、上記のように、基本的に20世紀になっての「高度医療」に属するものなのであり、「人工呼吸器」同様に、現代のより高度の医療の基底をなしているわけである。

     
     逆に言えば、いわゆる第三世界には、まだまだその恩恵に与ることの出来ぬ人々の存在するタイプの医療、ということになる。
     つまり、現在でも地球レベルでは、必ずしも普遍性ある医療技術ではないということになるわけだ(アフガンやイラクの病院の状態を想像すること)。

     
     高度医療技術としての「輸血」という観点からは、「輸血拒否」を、インフォームドコンセントの延長としての、患者による医療内容の選択という領域の問題と考えることが出来るように思える。医療内容の選択、つまり患者の自己決定権の行使である。

     ここでは「輸血拒否」は、高度医療継続の拒否なのであり、いわゆる「尊厳死」の問題につながるものとして、その一見しての異様な印象とは別に理解することへの可能性が開かれるのではないだろうか。もちろん、あくまでも、彼らの聖書解釈の妥当性という信仰の文脈とは独立して考えることが必要となる。

     

     ここで問題があるとすれば、成人なら確かに本人の自己決定の問題となるが、未成年者の場合の取り扱いであろう。
     自分の子供への輸血拒否は許容されるのかどうか?ということである。つまり、親が子供への輸血拒否をすることの当否、という問題である。

     
     ここで、「脳死」の問題が大きくリンクしてくる。
     先般の臓器移植法の「改正」では、脳死状態に陥った15歳未満の子供からの臓器移植が、その親の同意を要件とすることにより、合法性を備えたものとして可能となった。つまり、子供自身の事前の意思確認なしに、親の同意のみで、脳死臓器移植が可能とされたのである。

     子供自身による自己決定権の尊重という姿勢は失われてしまったのである。
     もちろん、現実には、これまでは、自己決定能力の未完成を理由に、15歳未満の子供からの臓器提供は禁じられていたわけだ。未成熟な責任能力という観点から、15歳未満の子供への意思確認の妥当性自体が否定されていたのである。

     今回の「改正」では、子供の自己決定能力の有無が問われることはなくなり、親の同意のみで子供からの脳死臓器提供が可能となってしまった、ということなのである。

     

    …ということは、論理的には、「エホバの証人」による自分の子供への輸血拒否は尊重されねばならない、ということになってしまうはずである。

     子供の受ける医療内容への最終的決定権が、その子供の親にあるというのが、今回の臓器移植法改正の眼目なのだから。

     

     

     まぁ、私自身には、成年者本人はともかく、親の意思による子供への輸血拒否を支持することは出来ないし、そもそも今回の臓器移植法「改正」も支持出来ないわけであるが…

     

     
     

     
     そう言えば、イラク戦争では、ヘルメットの改良により防護能力が高まった結果、逆に、これまでに見られなかったタイプの脳損傷に見舞われた兵士が多く見られるということである。そして、その対処・治療法の確立が問題になり始めているわけだ。

     

     これもまた、戦争と医療の関係の新たな一断面ということになりそうである。

     
     
     
     
     

    註 : 「老眼と自己決定 (番外編) 輸血と人工呼吸器、そしてイラクのヘルメット」(2009/08/01 23:38 )のリライト
     (→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/111867/user_id/316274

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/10 12:39 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/112664

     

     

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    2009年8月 5日 (水)

    彼らが最初共産主義者を攻撃したとき

     

     

    ナチスが共産主義者を攻撃したとき、自分はすこし不安であったが、とにかく自分は共産主義者でなかった。だからなにも行動にでなかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者でなかったから何も行動にでなかった。それからナチスは学校、新聞、障害者、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、そのたびに不安は増したが、それでもなお行動にでることはなかった。そしてナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であったから行動にでた。しかし、そのとき自分のために声を上げてくれる者はいなかった。
    (マルティン・ニーメラー/ナチスに抵抗したルター派牧師)

     

    上記は自由と民主主義を語る上で有名な牧師の言葉です。労組などの組織的支援があり、行政に深く食い込み、豊富な資金力と動員力を持つ左翼団体こそ現在のナチスと言えるでしょう(左翼をナチスと呼ぶのが適切であるかどうかは別として)。
    6.13デモを数と力で押しつぶそうとする左翼サイトにも同じ文章が引用されていますが、現在の状況からすれば悪意ある誤用とでも見るべきですね。
     (http://www.zaitokukai.com/modules/wordpress/index.php?p=103

     

     

    …というお話は興味深い。

     コメントからわかる通り、「左翼」に敵対する皆さんの運営するサイトで見つけたお話だ。

     

     

     ニーメラーの言葉を歴史的事実として説明すれば、ナチスの攻撃対象は、

    1) 政治的に、ナチスに敵対していたからこそ、共産主義者や社会主義者はナチスから攻撃された。

    2) ナチスへの非同調者とみなされ、ナチスに攻撃された学校・新聞はあったが、ナチス体制に同調し、組み込まれていった学校・新聞もあったことは言うまでもない。

    3) 健康なアーリア人のユートピアであるナチス国家にふさわしくないとして、障害者とユダヤ人は排除・抹殺された。

    という3つのカテゴリーに分けることが出来る。

     

     

      そしてナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であったから行動にでた。
      しかし、そのとき自分のために声を上げてくれる者はいなかった。
     

    というニーメラーの言葉を言葉通りに受け取るべきでもない。1)2)3)の進行する過程に並行し、1934年の段階で(つまりナチスの政権掌握の翌年には)、ニーメラーはナチス体制への非同調者としての「告白教会」の設立者の一人となっている(設立に向けた活動は、既に1933年に始まっている)。つまり、事態は同時進行していたのだ。「非同調」がやがて「抵抗」を意味するものとなっていくのである。

     しかし、「自分のために声を上げてくれる者はいなかった」という点で、このニーメラーの表現は歴史的事実に反するものということにもならない。

     

     まず、この言葉が、戦後ドイツという条件を背景に発せられたものであるという点を理解しておかなければならないだろう。

     ナチス体制の実質的共犯者としてのドイツ国民という反省的認識が、そこに込められているのである。

     教会=牧師は、ナチスへの抵抗者であり犠牲者であると共に、共産主義者、社会主義者、ユダヤ人へのナチスの攻撃を他人事として見過ごしたという意味で、国民と同様の共犯者でもあったという両義的な意味を読み出す必要を感じる。ここでは、告白教会の非力と共に、ナチ体制への同調者を含む教会全体としての責任が問われていると考えられるわけだ。

     

     

     

     

     さて、この言葉が、ここでは「左翼」批判のために引用されているところが注目点である。「左翼」がナチス同様である、という論理だ。

     つまり、ここでは否定的な存在としてナチスが登場させられていることになる。

     そして否定されるべきは、ナチス同様の左翼なのである。

     それは自由と民主主義に反する存在であるから、ということになるのであろう。

     我々の社会では、伝統的には、ナチスに政治的に敵対していた共産主義者や社会主義者のことを「左翼」と呼んできたわけだ。実際に、それゆえにナチスの最初の攻撃対象が共産主義者だったのであり、社会主義者だったのである。そういう意味で、ナチスからすれば、なんとも不本意な非難のされ方であるに違いない。もちろん、正統的な「左翼」である共産主義者や社会主義者たちにとっても、だ。

     

     

     ニーメラー牧師の言葉を引用した皆さんは、左翼を敵とみなし、「反日」勢力との闘いに心血を注いでいる方々である。

     ところで、ここで、大日本帝國の歴史を思い出しておきたい。

     第2次世界大戦と呼ばれる「あの戦争」で、大日本帝國はナチスドイツと同盟関係にあったことを。日独は、枢軸国として、米英の世界支配に対し共に戦った関係にあったのだ。もちろん、ナチスとの同盟関係はコミンテルンの陰謀によるものなどではなく、大日本帝國政府が国策として主体的に採用したものである。

     論理的には、ナチスを否定の対象とし、現在の「左翼」に対し、ナチス同様であるという言葉を以て非難する以上、体制的共感に基づくナチスの同盟者であった大日本帝國もまた、自由と民主主義の敵として非難されるべきことになる。

     多分、大日本帝國も反日的国家であったに違いない。

     

     

     

     

     ところで、今回あらためて、ニーメラー牧師の「言葉」の出典・初出を調べてみたのだが、文書の文言として流通している確定したテキストとしては、米国人ミルトン・マイヤーの著作『they thought they were free』(『彼らは自由だと思っていた――元ナチ党員10人の思想と行動』 1955年)に収録されたものが初出、ということになるらしい。ただし、ニーメラー自身は、繰り返し同趣旨の言葉を語っていたようで、研究者によれば、時期的にはもっと遡ることが出来るようである。

     また、発言の度、引用の度に、ナチスの攻撃対象として例示される集団も変化しており、巷間ニーメラーの言葉として流通しているものには複数のヴァージョンが存在するということだ。

     

     例えば、1976年ヴァージョンでは、

      彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、
       (ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、)
      私は共産主義者ではなかったから。

      社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、
      私は社会民主主義ではなかったから。

      彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、
      私は労働組合員ではなかったから。

      彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、
      私はユダヤ人などではなかったから。

      そして、彼らが私を攻撃したとき、
      私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。

     

    となっている。冒頭に掲げた言葉とは、かなり異同があることがわかるだろう。
     

     戦後最初期(1946年)のもの(実際のスピーチ)では、ナチスの犠牲者(被攻撃対象)として並べられているのは、

     共産主義者
     障害者
     ユダヤ人 あるいは エホバの証人
     ナチス占領下の人々

    であったという話だ。

     「現代史のトラウマ」シリーズの観点からすれば、障害者(不治の病者)への言及に注目してしまうところだし、このところ関わってしまった議論からは、ここに「エホバの証人」の名が登場するところに感慨を持つ。

     障害者はナチス国家から排除・抹殺の対象とされ、「エホバの証人」はその信仰を理由とした不服従ゆえに、強制収容所における収容者の一カテゴリーを形成する集団となったのである。

     

     

     

     ある定義によれば、

      日本固有のウヨクってのは、いつも<情>が疾走して<知>を無視します

    ということになるらしい。確かに田母神氏の「論文」など、史的事実の究明とは関係なく、論理的分析への配慮も欠落した、ただただ「お気持ち」だけで書かれた文章であった。

     

     今回ご紹介した、反日勢力との闘いを使命としているらしい団体にしても、「左翼」批判のためにナチスを利用しているわけだ。ナチス=自由と民主主義への敵対者=「左翼」という構図を描くことによって。

     そのような前提の結果として、大日本帝國の国策が自由と民主主義に敵対する勢力(つまりナチス・ドイツ)との同盟の構築であったという歴史的事実の位置付けが問題として浮上してしまうことになる。

     つまり、大日本帝國を自由と民主主義への敵対者との同盟者として認識せざるを得なくなるわけで、彼らの「左翼」批判の論理は大日本帝國批判の論理として帰結してしまうことになるのである。

     

     もちろん、これは彼らも<知>を重視することが出来ればの話であることは言うまでもない。

     彼らにこの論理的問題点は理解出来るだろうか?

     何よりも問題の焦点はそこにある、ように思われる。

     

     

     

     最後にもう一つ。彼らは、特定民族出身者に対する排外主義的運動を、その活動の中心に据えている団体である(在特会=在日特権を許さない市民の会)。言うまでもなく、ナチスこそは、アーリア人の国家からのユダヤ人の民族的排除を運動の中心に据えていた団体であった。

     ニーメラー牧師の言葉を思い出そう。

     彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、
     私はユダヤ人などではなかったから。
                          (1976年版)

     ここでは、ユダヤ人がナチスの犠牲者としての独立したカテゴリーを形成しているのである。

     「在特会」の皆さんが、左翼団体を「現在のナチス」と呼ぶこともご自由ではあるが(<情>の表現として)、その前に、自らがその民族的排外主義において、十分にナチスの似姿であることにも(少しは<知>を発動させて)気付いておいて欲しいところである。

     

     

        …そして、彼らが私を攻撃したとき、
                  私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった…

     

     

     

     

     

    参照

    彼らが最初共産主義者を攻撃したとき
     → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%BC%E3%82%89%E3%81%8C%E6%9C%80%E5%88%9D%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E3%82%92%E6%94%BB%E6%92%83%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%8D

    First they came...
     → http://en.wikipedia.org/wiki/First_they_came...

    在日特権を許さない市民の会=在特会
     → http://www.zaitokukai.com/

     

     

     

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/04 22:28 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/112142/user_id/316274

     

     

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    2009年6月21日 (日)

    Inside-Out 1と0の為に

     

     井上廣子さんの、「窓」をテーマにした写真展のタイトルが「Inside-Out 1と0の為に」、である。

     

     武蔵野美術大学内のギャラリー「apmg」で開催中だ(6月26日まで)。先日のオープンキャンパスの際に、パートナーと観たのが最初(昨日も、再度訪れたことは既に書いた)。

     

     

     会場内の照明は、ほとんどない。床にランダムに置かれたライトボックスに、作品が浮かび上がっている。室内から、窓を通して見える外の風景。

     ベッドや洗面所の向こうの窓。カーテン越しの外の光景。室内の光と、外の光のバランスが美しい。

     

     

     窓とは、そもそも、室内と室外の間にあるものだ。壁に窓を穿つことにより、室内は閉鎖空間から、外部へとのつながりある空間へと変貌する。

     寒冷地では、板ガラスの登場・普及以前の窓は小さく、外光あふれる生活は望みえなかった。大きな板ガラスの製造技術が、開放感ある室内をもたらしたのである。

     しかし、窓に鉄格子がはめられていたら?

     

     つまり、井上廣子の写したのは、そのような窓なのである。

     大きな窓のある室内。つまり、外の光景も十分に取り入れられた、外光あふれる室内である。しかし、その部屋は、鉄格子により外部から隔てられているのだ。

     

     

     撮影地は、オットー・ワグナー精神病院、ベーリッツ療養所、県立岡山病院(現・岡山県立精神科医療センター)、ベードブルグ・ハウ精神病院…、と続く。

     精神病院以外にも、老人施設や少年院などの隔離施設が撮影の対象となっている。

     

     窓が存在しながら、外部とのつながり以上に、外部から隔てられた場としての室内であることが、写真を見ているうちに理解されるだろう。

     

     

    …なんて書いているが、すぐに気付いたわけではない。パートナーの方がすぐに気付き、指摘してくれたのだ。ウチのパートナーは精神科関連業界人なのである。

     要するに、私のような素人(?)には、すぐに気付くことは出来ない情景の要素なのだが、プロにはピンと来るということなのだろう。病院や、老人あるいは障害者関連施設の光景であるらしいことまでは、私にも想像がついたのだが、プロの目はその先まで見抜いてしまうようだ。

     

     実際のところ、鉄格子といっても、昔の監獄のイメージからは遠いものだ。大きな窓に、デザインされた細い格子状のフレームが取り付けられている、ようにも見えるのである。

     

     

     いずれにしても、室内の人間を外部から遠く隔ててしまうものが、窓の外のフレームなのだ。

     外部である社会から、室内の人間を護るということである以上に、室内に人を隔離することにより、外部の社会を護るという発想が、そこには存在するだろう。

     しかし、社会は十分に凶暴であり、弱者としての障害者が、その凶暴な外部から護られることも必要事ではある。

     外部には自由があるかも知れないが、必ずしも安全ではない。しかし、隔離され、拘束されることもまた、人間にとって好ましい状態ではないだろう。自由を奪われた場所で保障される安全な生存を人は望むものだろうか?

     

     もっとも、外部である社会に生きる人間達も、それほど自由であるわけでもなく、身の安全のためには行政権力による日常生活への管理・統制を望んでいるようにも見える。

     

     私たちは、本当にあの窓の外部にいるのだろうか?

     

     

     

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時 2009/06/21 20:58 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/107761/user_id/316274

     

     

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    2008年11月26日 (水)

    健康という名のテロリズム

     

     健康とは何なのだろうか?

     このところの、コミュニティ「存在の意味」での、やわらか@テロルさんのトピック「人間の存在様式としての「公共性」の問題」の上での、やわらか@テロルさんの発言に注目している。


     ナチスの政策としての、障害者への「断種」と「安楽死」をめぐる議論である。
     アーリア民族至上主義イデオロギーを現実化するにおいて、民族=人種の「健康」がナチスのテーマとなっていた。

     人種の健康の維持に欠かせないのが、不健康者の排除である。
     至上の人種としてのアーリア人の健康への脅威が、外部のユダヤ人であり、内部の精神障害者であった。

     ナチスの政権獲得と共に、ユダヤ人の排除が現実化する。
     外部からの、アーリア人種の健康への脅威の排除が、その目的であった。

     精神障害者は、それ以前から精神病院に収容され、社会からは隔離されてはいた。
     しかし、福祉の対象として、その生存は国家によって保障されていたのである。

     ナチス特有というよりは時代の産物という側面もある当時の「優生学」思想の結実として、政権獲得の年である1933年7月14日に、第三帝国議会において、「遺伝病の子孫を予防するための法律」が可決される。
     精神薄弱者、精神分裂病者(統合失調症患者)、躁鬱病者、癲癇患者、重症アルコール中毒者、先天性の盲人と聾唖者、重度障害児、小人症、痙性麻痺、筋ジストロフィー、フリードライヒ病、先天性股関節脱臼の患者が、断種処置の対象となったのである。
     アーリア人種から、遺伝的障害の拡散の危険が排除された、と理解されていた処置である。
     アーリア人内部における人種の健康の維持は、これで保障される。


     一方で、ヴァイマール期の悪化した経済状態は、国家による障害者への福祉政策への疑問を生じさせた。
     福祉への支出は、国家財政の損失として、一部の人間から理解され始めるのである。
    障害者への安楽死の妥当性が議論の対象となり始めるのである。
     これは、優生学的問題意識とは別の文脈として理解することが必要のようである。
     法律家カール=ビンディングと医師アルフレート=ホッへの共著になる『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』と題された1920年に出版された本が、その手の議論の嚆矢とされている。

     この書物では、安楽死の対象として3つのカテゴリーが想定されている。
     

    1)助かる見込みのない患者〈末期癌の患者など〉。
    2)治療不能な知的障害者
    3)瀕死の重傷者
     

     この3つのケースが、法律家カール=ビンディングにより、安楽死の対象として想定され検討されるのである。
     そして、2〉のケースが特に精神科の医師アルフレート=ホッへによる考察の対象となっている。

     出版年はナチス結党の年でもあり、同時代性を感じられると共に、しかし異なる文脈の出来事であることにも留意しておく必要はあると思う(ナチスの思想と同書を直接的に結び付けて論じる風潮に、私は、距離をおきたいと思う〉。

     安楽死が実行されるのは、1939年になってからのことであるが、その際は、カール=ビンディングとアルフレート=ホッへの想定を超えた範囲の「精神障害者」が「安楽死」という名の殺人の対象とされることになった。
     T4アクツィオーンとして知られる作戦の開始である。ドイツ国内の何ヶ所かの精神病院内に、安楽死用のガス室と焼却炉が設置される。
     1941年になり、作戦の内実が知られるようになり、教会関係者からの異議がもたらされ、作戦は中止されるが、その時点で7万人以上の精神障害者がガス室での殺人の対象となっていたのである。

     そして、このT4アクツィオーンの中心に位置していた人物が、後のユダヤ人に対する「最終的解決」の一環としての「絶滅収容所」の設置に携わっていくのである。


     アーリア人種の健康の実現は、ユダヤ人の絶滅と、精神障害者の抹殺にかかっていた、そう考えられていたのである。

     ちなみに、アドルフ・ヒトラーは菜食主義者として有名であり、酒もタバコも嫌っていた。
    ナチスの健康な世界の中心にはふさわしい、そう言うことが出来るだろうか。

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時:2007/06/30 23:00 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/34627/user_id/316274

     

     

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    続・政治的対立と宗教的対立、その背後にある出来事(現代史のトラウマ38)

     

     さて、「政治と宗教」について語りだしてしまっていた。


     パレスチナの現状を語る上で、それを宗教対立の問題として考えてしまうことの的外れであることを、まずは書いたはずだ。

     それは政治的な問題である、と。


     しかし、私の「政治的な問題」という表現には、二重の意味が込められている。

     職能としての政治家の関与する政治の世界があり、職能としての宗教家の関与する宗教的世界がある。
     そこには政治的世界と宗教的世界という二つの世界があり、所属する人間集団にそれぞれ別の形で影響力を行使しているのだ、という理解の仕方である。
     パレスチナ問題を語る上で、これまで前提としてきたのは、基本的にはそのような「政治と宗教」をめぐる理解の仕方であった。



     人間存在、社会的存在としての人間は、不可避的に「政治的」ならざるをえない。
     そのような人間理解の仕方を前提として、問題を考えることも出来るし、私は、考えておくべきであると思っている。

     これまでにも何度か書いてはきたことであるが、一個体のヒトが社会を作ることはない。
     社会的関係とは、複数のヒト個体の存在を前提として起きる出来事である。

     さて、ヒトが二個体、というより二人の人間がいれば、そこには強弱の関係が発生し、支配と被支配の関係が生まれてしまう。
     まず、対等な関係は形成されず、どちらかが事態を主導し、残りがそれに従属的になるのが一般的構図である。
     相互関係の承認は、平和的に行なわれることもあれば、暴力的過程を経る場合もある。
     いずれにせよ、そこに権力関係が発生するのである。

     私はそのような事態を肯定しているわけではない。しかし、リアルな人間理解として、その現実を承認しておく必要は感じるのだ。そのような事態の存在を前提にするからこそ、私は、そのような関係の固定化や支配関係の強化を目指すのではなく、支配-従属関係からの自由度の高い社会システムの形成を主張するわけである。
     それは、システムとして固定化されてはならないという主張も、そのような関係は人間の社会的関係そのものから不断に発生するものであるという認識が支えるわけだ。権力関係を発生させることのない社会システムは存在しえないだろうというのが、私にとって、リアルな認識である。


     さて、三人の人間が存在すれば、そこに「政治的」関係が発生する。
     一人にとって、他の二人は、自分の友であるか敵となる。つまり、そこに党派が発生するのである。

     「友と敵」という形で、政治的関係を定式化したのがカール・シュミットである。
     つまり、どのような社会的関係であれ、それが「友か敵か」という言葉で語りうるような関係であれば、それを「政治的」関係として定義するわけだ。

     つまり、ここでの「政治的」関係というのは、職能としての政治家に独占されているような社会的関係ではなく、社会的存在としての人間が、その社会生活の様々な局面で、所属集団内の他者との関係で持たざるをえない社会的関係なのである。
     あるいは、集団間の関係でもあるが、そこにある「友か敵か」という原理は同一である。


     「宗教的対立」について考えてみよう。

     ここでは、教義論上の対立を想定してみよう。経典の解釈をめぐる対立である。
     ある解釈を奉じる集団と、別の解釈を採る集団との対立という構図である。
     教義上の「理論的な」対立では、確かにあるだろう。
     しかし、そこには純粋な理論上の問題のみが存在するのではない。理論的対立は、既に党派性を帯びて、議論の応酬による適切性の問題からは離れ始めてしまうのである。 理論の問題であったものが、もう理論的には解決出来ない事態に至るのである。
     しかも、同じ党派内部でも主導権をめぐる闘争が発生する。これは、宗教の内部に政治が介入するのではなく、人間は社会的存在として「政治的」ならざるをえないという、人間の条件から発生する事態なのだ。

     宗教間対立であれ、事態は同様である。

     求められるのは、宗教的空間が、同時にそのまま政治的空間として存在しているということへの想像力なのである。


     政治と宗教は、人間生活の上では、まったく別の問題であるという側面も確かにある。職能として考える限りそれは正しい。
     しかし、人間の条件としての政治性という問題は、まったく別の、人間としての根源的な事態なのである。

     宗教が、人間にとっての根源的事態であるという側面は、また別に論じられなければならない。

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時:2007/05/27 00:05 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/31993/user_id/316274

     

     

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    政治的対立と宗教的対立、その背後にある出来事(現代史のトラウマ37)

     

     やっと土曜日。
     …にもかかわらず、なんだか忙しい一日だった。

     この一週間、公私共に忙しかった感じもする。自分の日記を書くので精一杯で、皆さんのところを訪問することも出来なかった。


     振り返ってみれば、この二週間ほどは、「神の姿日記」ならぬ「齟齬の姿日記」を書いている。
     まぁ、「神の姿日記」自体、スタート時点では、「いぢわる日記」と呼ばれていたものだ。

     どちらも、いただいたコメント一つで、世界ががらりと変わってしまった。

     自分の考えが、それまでの方向から、思いもよらぬ方向へと転換されてしまった。コメント一つの力、である。

     とはいうものの、「いぢわる日記」の時点での問題意識も「神の姿日記」上での関心のあり方も、そして現在の「齟齬の姿日記」上での議論の展開も、たいして変わっちゃぁいない、ようにも思える。

     私と世界の関係、私と他者の関係、という問題を前に、「いぢわる」の在り処を検証しようとしてみたり、「神」という存在を介在させてみたり、「コミュニケーション」という視覚から眺めてみたりという、異なるアプローチをもって立ち向かってみた記録、と言えるかも知れない。

     結局、私自身の問題意識が軸にある以上、自分にとってのテーマとなるものに、そう変化はないということなのだろうか。


     さて、問題のコメント、齟齬をめぐるコメントをいただいた日記では、その後もコメントのやり取りが進み、最後には「政治と宗教」が問題となってしまっていた。

     宗教的和解を重んじる(という私の理解が正確であるかどうかは別として)心情を述べたコメントに対し、私自身の認識として、現代社会における宗教的対立の問題として一般に流布されている問題の多くは政治的な問題であるという認識を語っておいた。
     ここでは、いただいたコメントへの反論という形ではなく、一般的な問題として、「政治と宗教」の問題、あるいは「宗教的対立」として世の中では理解されてしまっている問題についての私の考えを述べておこうと思う。

     これもまた、「現代史のトラウマ」シリーズに一貫して流れている問題意識そのものであると考えるからだ。

     実際、現在のパレスチナにおける問題は、宗教的対立の現実化した状態として理解されることが多く、そのために解決困難な問題であるという形で受け入れられていることが多い。
     しかし、パレスチナの地における問題は、ユダヤ教とイスラム教の対立ゆえに存在しているものではない。
     (イスラム教徒でもある)アラブ系の人々が住むパレスチナの土地に、(ユダヤ教徒でもある)ユダヤ系の人々により建国されたイスラエル国家が存在し、そこでは入植者として侵入してきたユダヤ系イスラエル国民による、先住のアラブ系パレスチナ人に対する暴力的な占領・抑圧状態が続いていることが、問題の根源にある出来事なのである。
     それは第二次世界大戦後のことなのであり、パレスチナの地へのユダヤ人国家建国という事態が招いた出来事なのである。イスラエル国民(となったユダヤ人)によるパレスチナの占領(に伴うパレスチナ人排除)という事態がなければ、問題は存在しなかったのだ。

     そして、事態の悪化は、イスラエルの政治家にとっては利益であり(国民の利益であるかどうかとは別の話である)、パレスチナの反イスラエル政治組織にとっても勢力拡大のチャンスでもあるのだということは、理解しておいた方がよいだろう。


     いずれにせよ、問題の本質的解決をもたらすのは、宗教的和解ではなく政治的な解決なのである。なぜならば、問題の起源が宗教的対立にあるわけではないのだから。

     もちろん宗教的な相互承認は必要である。宗教は人間を根源的なところで動かしうる力でもあるからだ。そのことを否定するつもりはまったくない。


     しかし、ところで、私にとって「政治と宗教」として語られる問題は、これまで語ってきたこととはまったく異なる側面を主題とするものでもある。


                              続く

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時:2007/05/26 21:20 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/31985/user_id/316274

     

     

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    土日は休養、今日はいぢわるお休みフツー日記 (再録)

     

     睡眠至上主義者であったはずの私が、いったい何をやっているのか、という事態が、もう3週間も続いてしまっている。が、始めてしまったものは、とりあえず、続けてみなければならない、と(多分)遺伝子が命令するので、しばらくは自らの信条に背くようなストレス多き生活が続くことを覚悟せねばならないのかも知れない。と、遺伝子のセイにしてみたりしながら、ストレスが頭髪の減少量増加に結びつくことまでに至らぬようコントロールしつつ、日記は書き継がれていくのでしょう(ちょっと他人事ですね)。

     何せ、いぢわるなアジサイですからね(ミミズの自己実現、あの頃はまだ平和だった)。いったい来週はどんな展開が待ち受けているのか、インチキ予言者の手に余る状況が生まれつつありますね。


     トラウマシリーズも、やたら血圧上がりまくりになってしまうという、はなはだ本人には危険な状況下で書き続けるようなことになるのかも知れず、もう命がけ、睡眠不足どころではないではありませんか、という事態になるやも知れず、という展開になりつつもあり、先が思いやられるのでありました。緋水さんの「怒れる若者」姿は実にカッコいいんですが、こちらもケッコウ、本気で、「怒れるオヤジ」状態になってしまうところが我ながら、どうしたものか、って感じですが、本人もそれなりに楽しんでいるようでもあり、続いていくことなんでしょう、きっと。せいぜい「いかれたオヤジ」状態だけは避けたいと願うのみであります。


     普段感じているのは、とにかく俺はマジョリティーに入れてもらえない人間なんだろうということですね。まぁ、全く入る気もないわけで、それで一向にかまやしないわけではありますが。
     オーゲサにいえば、俺は常にマイノリティーの側にい続けるべき、というか、マジョリティーに魅力を感じないし、どころかマジョリティーのふるまいにハラを立て続けているらしい以上、そっちの側ではない、ということだけは確かなのでしょう。一般的には、多数者に対する弱者としての少数者、という構図があり、外国人、少数民族出身者、被差別部落出身者、ヒバクシャ、同性愛者、…、という形で共通項によりカテゴライズされたマイノリティーが存在するわけですが、そのような分類学的発想とはかかわりなく、マイノリティーとして位置づけられた自分の姿を見出してしまうヒトというのは、確かに存在する、ということがこの場を通じて可視化されつつあるようで、そうとなれば日記は続く、ということなんですかね。

     とにかく、基本的発想としては、マイノリティーに正義があるわけじゃあない、そこんとこを間違えちゃあいけないぜ、ってトコから始めているつもりではありますがね。


     後ろで覗き込んでいた、かああひる(私の娘の母)が、「やっぱり、それじゃあ、アライグマのオヤジ」って言うんだけど、そうかもしれない、って言うしかありませんね。


     ねぇ、やっぱり、いぢわるじゃあありませんよねぇ、この私は。



                        (2006年10月14日の日記の再録です)

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時:2007/05/12 11:41 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/30871/user_id/316274

    (オリジナルのオリジナルは、投稿日時:2006/10/14 22:33 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/3299

     

     

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    正義と平和の間の真理

     

     教育基本法について、久しぶりに書いておこうと思う。

     まずは、今日の毎日新聞朝刊2面の「発信箱」欄、編集局の広岩近広氏の署名のある文章を引く。

     

    今年の小学1年生は、改正教育基本法のもとで義務教育のスタートをきる。私が懸念をいだくのは平和教育である。
    というのも、昨年12月に改正された教育基本法の前文が旧法と異なっているからだ。「人間の育成を期する」につながる記述で、旧法には「真理と平和を希求する」とある。ところが新法では「真理と正義を希求し」に変わった。「平和」がなくなり「正義」が登場したのである。
    私は「正義」という言葉にうさんくささを覚える。駆け出し時代には、支局長から「新聞記者は正義の味方・月光仮面になってはいけない」と諭された。一方的な視点で記事を書くなということで、その通りだと戒めている。それだけではない。米国の例を持ち出すまでもなく、他国に軍事介入するときはたいがい「正義の戦い」となる。こうなると「正義」は「平和」の対極に位置するだろう。

     

     次に、新旧教育基本法該当箇所を示す。

     

    われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造を目差す教育を普及徹底しなければならない。 (旧教育基本法)
     
    我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を追求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造をめざす教育を推進する。 (「改正」教育基本法)

     

     ここでは、「個人の尊厳」、「真理」、「平和」、「正義」、「公共の精神」、「伝統」といった文言にこめられた意味が問題となる。

     それぞれについて論じておきたいところだが、ここでは、問題の「平和」から「正義」への変更がはらむ問題だけに絞って、話を進めておきたい。

     「平和」とは誰でも納得出来る定義のある状態でる。つまり、戦争状態がそこにあってはいけない。国家間の戦争に加え、内戦状態や武力衝突のない状態、広義には治安の安定した状態まで含まれるだろう。武力による支配、暴力による支配の排除された状態だ。具体的内実のある状態、そう述べることが出来るだろう。

     「正義」は、それとは異なる。正義には具体的内実はない。
     不正な状態があり、そこからの補正が「正義」の作用である。固定した正義の立場は存在しない。
     ユダヤ人に対するナチスドイツの迫害から、ユダヤ人を救い出すことへの努力は「正義」に適った行為であろう。この時、「正義」は迫害されたユダヤ人の側にあった。
     しかし、パレスチナの地で、パレスチナ人の人権に対する侵害行為を公然と行なっているイスラエル国家の行為を、「正義」に適った行為と考えることは出来ない。イスラエル国民の側に、つまりイスラエルに住むユダヤ人の側に「正義」があるとは考え難い。
     「正義」に適った行為があるとすれば、イスラエル国家による人権への公然たる侵害からパレスチナ人を保護することにこそあるだろう。

     人間が人間を踏みつけにすること。そのこと自体は、避け難いことである、と私は思う。望ましいことではないが、生じてしまうことであると思わざるをえない。それはリアリストとしての私の認識である。
     しかし、そのような状態に対し敏感になること。そのような状態の発生を感知したら、その是正を目標とすることは出来る。
     その「是正」への努力、そこに「正義」は宿るだろう。人間が人間を踏みつけにしているような事態を放置しないための努力、そう言えばよいだろうか。

     さて、そのように考える私として、先の「改正」教育基本法の文言に、どこまでそのような反省的視点が盛り込まれているのか、大きな疑問を持たざるをえないのである。
     新旧教育基本法の字句の相違、大したことはないとも考えられる。
     しかし、「改正」の経緯、現在までの教育再生会議内での議論のあり方を見る限り、先に紹介した広岩氏の危惧を否定出来るほど楽観的にはなれないのである。


     人間が人間を踏みつけにすること、「正義」という口実の下に人間が人間を公然と踏みつけにすること。
     それは人類の歴史において、実にありふれた出来事であった。
     そのことをこそ、まずは見つめておくべきである。そう言わざるを得ない。

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時:2007/03/25 21:44 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/26254/user_id/316274

     

     

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    2008年11月25日 (火)

    亡国の礎 2 盧溝橋事件 (現代史のトラウマ 18)

     

     今日も、「亡国」の話である。

     1937年、支那事変。
     当初、軍人達は、ちょっと武力行使で脅かせば、中華民国政府は降伏する、そう主張していました。大日本帝国に有利な条件で講和に応じると。

     現実的には、外国の半植民地状態という現状の自覚が、中国の人々に共有され始め、近代的主権国家としての国家建設が目標となりつつあった時代でした。
     排他的な主権領域と中国人が考えていた土地に、満洲国を「建国」し、その上に盧溝橋事件をきっかけに武力行使の拡大を続ける大日本帝国は、当然のこととして第一の排撃の対象となっていました。

     国際連盟にも承認された中華民国政府が統治する主権領域内に軍隊を送り込み、敵対的な軍事行動を続けている以上、排撃の対象となるのは当たり前のことです。
     日本国政府が統治する主権領域内に、他国の軍隊が侵入し、敵対的な軍事力行使を試みるような事態に備え、その排除を目的として、自衛隊→自衛軍は存在しているわけです。1937年に大日本帝国の軍隊が、中国本土で、正統的なものと国際的に認められてた政権に対し、軍事力の行使の拡大をもって、自らの政治的・経済的利益の獲得を要求した以上、排除の対象となったのは当然のことでした。

     「愛国心」というものを日本国民以外の外国国民も所有していると考えるのは当然のことでしょう。歴史的過程の中で、ナショナリズムが浸透しつつあった中国の地で、大日本帝国の行為に対する憤激が一般化していくことの蓋然性を理解出来ないとはどのような事態なのでしょうか。
     中国人には「愛国心」は生じえないという判断は、どのように可能なのでしょうか。

     1937年、明治維新から70年過ぎただけの時点です。維新から、当初の内戦状態(西南戦争を頂点とする)を経て、明治政府が権力の正統性を確立するのに10年を要しています。
     日本が統一国家としての姿を明確にしてから60年ほどしか経ていない時点だ、ということなのです。
     「国民」が、日本を「祖国」と考え、「愛国心」の対象としていくには、更なる年月が必要でした。
     1937年、辛亥革命から26年、中華民国成立から25年が過ぎただけの時点です。広大に中国大陸にようやく統一的な権力が確立されつつある時でした。小さな日本列島で10年、広い大陸で26年、要して当然の時間です。

     大日本帝国の軍事力行使を、大陸に統一的権力が確立していないことを理由に正当化するような試みには、賛成出来ません。
     大陸における、民族自決は当然のことであり、広さゆえに時間のかかるのも当然のことです。混乱状況に乗じて、軍事力行使を進め、自らの政治的・経済的利益の獲得を試みることに道義性は見出されません。

     中国人の抵抗を、当時の日本の新聞雑誌は、「暴戻支那」、「暴支膺懲」などという形容で報じました。そこでは、「愛国心」に基づく支那人の抵抗が、不当な暴力行使として描かれてしまっています。

     これは、現在のイスラエル占領下のパレスチナの人々による、イスラエル国家に対する抵抗を、「テロ」として告発するイスラエルの姿勢に、現在でも共通するものです。

     他国国民のナショナリズムに対する無理解がそこにあります。
     その無理解の上に、戦闘を継続し、講和への可能性を自ら閉ざし、終わりなき戦闘状態を作り出してしまいました。戦線の拡大と共に、占領地の治安の維持は不可能となり、大日本帝国にとり、戦争状態の終結はますます困難となるだけでした。

     現在、米国がイラクで陥っている状況を、70年前の大日本帝国は、既に、味わっていました。

     そして、1941年12月8日、対米英戦の開始に至ります。中国の正統政府との戦闘に勝利出来なかった国家とその軍隊が、ますます戦線を拡大するという判断はどのように可能だったのでしょうか。

     亡国への道、考えておくべきことは、まだまだあります。

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時:2007/01/06 23:56 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/17575/user_id/316274

     

     

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    自殺に至るいじめ 学校と軍隊 (現代史のトラウマ その10)

     

     自殺に至るイジメ、について考える。

     その前に、イジメを生み出す心理的基盤について。

     自己肯定感をもてない者が、他者を踏みつけにすることによって、相対的に自分の位置を引き上げ、自己肯定への途とするような心理のあり方(このことについては、以前に書いた「ありふれた大量虐殺」へのコメント参照)。
     そのような行為を集団ですることによる、集団帰属意識の維持(そのためには、排除される他者を必要とする)。

     上記二項の組み合わせによる行為の増幅過程。集団への帰属=安全地帯であり、安全地帯での自分の場の維持にはイジメ行為への継続的加担が要請される。


     そのようなことをまず考える。もちろん一面をとらえたに過ぎないことは、言うまでもない。


     その上で、現在のイジメの問題、それが自殺に至るものとなってしまっていることの意味について考える。

     自殺に至るイジメ、について考える上で、現在見落とされている事実をまず指摘する。
     近代日本史を見渡した時、自殺に至るいじめの存在が顕著に見出される場がある。歴史的に見出される、自殺に至るイジメである。

     大日本帝国軍隊の新兵教育の中で発生していた、下士官・古参兵による、内務班内の新兵イジメとその果てに起こる兵営内での自殺を、昨今のイジメによる自殺報道を見聞きするうちに、私は、思い起こさずにはいられない。
     手元に、統計的データを持たないので、数量的に論じることは、現状では出来ない、のだが、帝国陸軍に関する回想の多くに、その事実が見出されることは確かなことである。多くの記述が、自殺に至るいじめの存在を「例外的な事件」として描くのではなく、むしろ旧軍内での構造的な症例とでも言うべき文脈で取り上げていることには注目しておく必要があるように思う。

     まず、自殺に至るイジメが、近現代日本史を通して、現在のみの特有な現象として存在しているのではない、ということをここで確認しておきたい。


     しかし、一方で、発生状況の違いも認識されなければならない。

     現在のイジメは、学校のクラス内における、同等のクラスメート同士の間に生じているものである。
     一方で、旧軍隊内のイジメは、軍隊という厳格な階級組織の中で、命令系統を前提に、上位に立つ下士官・古参兵によって実行されたものである。対象は最下位の新兵であった。
     その相違を混同してはならない。しかし、その際に、周囲の者の反応という視点を導入した際に、相似点も明らかとなる。
     自らもまた、イジメの対象とされる可能性を抜きに、目前のイジメに介入することは出来ないのである。そして、介入の帰結は、自らもイジメの対象となり、問題の解決には決して結びつくことがないという認識としてしか想像が出来ない、そのような状況として理解しておく必要があるということだ。

     もちろん、組織が生み出す旧軍内のイジメ、その組織の原理自体が生み出してしまう旧軍隊内のイジメと、現在のクラス内のイジメの相違点にも留意しなければならない。組織の原理ではなく、状況が生み出すイジメ、とりあえずそのようにまとめてみる。
     が、一方で、教育というシステムの現状と不可分なものとしての現在のイジメという視点も、そこに浮上してくるのである。

                    続く

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時:2006/12/03 16:28 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/13100/user_id/316274

     

     

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    ネコとフニャフニャしたお陰で現代史のトラウマにかわり小さな希望が書けたような日記

     

     今日で、freeml 参入47日。日記も47日目となる。

     土日と祝日は、あの「いぢわる日記」(いつの間にやらそう呼ばれるようになってしまっていた)シリーズはお休みにして、「現代史のトラウマ」と題するものを書くか、どうでもいいようなことを書く日とするか、となってからも数週間が過ぎたことになる。

     この3連休も最後の1日、今日くらいはトラウマシリーズと行きたいところだったのだが、もう一つ力がみなぎってこない。

     このところ、忙しい日々が続き(ただし当人比)、その後の一段落フニャフニャの日々も含めて、ニュースに接していなかったのが、その要因のような気もする。
     自分のこと(仕事含む)で忙しかったり、ネコに腕枕してフニャフニャした日を送っていれば、世の中に腹を立てることもなく、その意味では平穏な日々が送れますよ、ということなのだろうか。

     トラウマシリーズの原動力は、腹立ち、怒りだったということですかね。個人的なこと(私的なこと及び仕事上のこと)ではなく、世の中に対する怒り、世界に対する怒り、腹立ち、ということ。
     まっとうに怒ること、を追い求めて来た、のであると自分では思っております。つまり、誰かのせいにするのではなく、自らの問題として事に当たるということ。

     マジョリティーの問題を取り上げてきているのも、自らをマイノリティーの側に位置づけながらも、しかし実際には自分がマジョリティーの側の人間として見られなければならない一人でもあることを自覚すればこそのことでもある。「マイノリティーとマジョリティーの間」(10月22日)でそのことを書いた。
     誰かのせいにはしないこと。自分が常に正しいのではないことをすべての前提とすること。そして、たとえ自分が被害者の側にいようとも、実際に自らが被害者であったとしても、自分の側に正義があるとは思わないこと。
     加害者は、自分に対して不当なことをした(ので加害者と呼ぶ)のは確かなことであるにしても(もっとも、この事実関係さえ検証されていないことも多いが)、自分の側に正義があるのではないのである。正義があるとすれば、被害者・加害者間の不均衡状態、その是正作用・回復作用としてのみ考えなくてはならないと思う。そこを見誤ると、被害者-加害者関係の逆転を正義の実現としてしまうことになる。現実に生ずるのは、被害者が正義の名の下に加害者に転ずるという事態である。実にありふれた事態である。
     ありふれているからと言って、それでよしとするわけにはいかない。人間とはそのような事態をありふれたものとしてしまうものであるということに自覚的になること。そして自らはそのような事態の再現からは距離をとること。これは、このことだけは、自分で出来ること。自分ひとりでも出来ることなのである。そして、それが、この自分に出来ることであるとするならば、他の多くの人にも可能なことという線で想像力を働かせること。あるいは、他の誰かに出来たのなら、自分に出来ないという理由を見つけることに努力するよりは、その誰かに力を貸すことをこそ考えること。

     …と、ネコとフニャフニャした日々を送ったお陰で、怒り・腹立ちではなく、少しは希望の影のある日記が書けた、ような気がする。

     読み返してみて、
     果林さんの日記:13歳犠牲少女「私を先に撃ってください」
              :「汝の敵を愛せ」る?13歳犠牲少女の世界観とは
            を念頭に置きながら書いた部分がありそうです。そちらもお読みになっていただければと思います。 

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時:2006/11/05 21:43 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/8248/user_id/316274

     

     

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    現代史のトラウマ、その7 続マイノリティーとマジョリティーの間

     

     現実に、明治維新の時点で考えれば、日本国民など存在してはいなかった。国とは、藩のことであり、何よりもそこでのマジョリティーは、農・工・商ではあっても、「国民」ではなかった。国=藩は、支配層である士の関心事であっても、そこにマジョリティーである農・工・商が関与することはなかったのである。そのような分権的幕藩体制国家が中央集権的明治国家に編成しなおされる過程を思い起こしてみたい。そこでは、西南戦争という内戦状況をくぐり抜けていることに注目しておく必要がある。幕藩体制に代わる国家が複数誕生している可能性がそこにはあった、ということを想像しておくことは決して無駄なことではない。複数の民族がそこに生まれていたかもしれないのである。実際、当時の口語を考えて欲しい。列島の東と西、北と南の人間が会話を通じてコミュニケーションを図るには大きな困難があったはずだ。単一の「日本語」の存在さえ怪しかったのである。現在のチェコ語とスロバキア語の差異と、当時の薩摩語と津軽語の差異を考えた時、どちらに大きな開きがあるのか、一度は問うてみる必要はあるのではないか。
     「日本民族」、「大和民族」という答えのすわりの悪さにはそのような淵源もあることを忘れるべきではない。
     そのようなことを考えに入れた上で、当初の問題に戻りたい。民族問題に無自覚な多数者・マジョリティーとしての「日本人」、つまりアイヌ民族出身者、朝鮮半島出身者、その他の日本国内在住の少数民族出身者を除いた「日本人」に属する私の問題に、である。
    民族問題に無自覚であるということは、民族的アイデンティティー及びそこから生まれるプライドへの想像力の欠如をもたらす。そのような場にこの国のマジョリティーは立っている、ということなのである。自らを問うこと無しに、しかし、マジョリティーであるという相対的に有利な位置から、現に、少数民族差別が無自覚に行われ続けているのである。
     そして、私の思想・心情とはまったく別のこととして、被差別少数者から見れば、私はマジョリティーの側の人間なのである。
     つまり、ここには個人は存在しないのである。カテゴリーのどこに組み入れられるか、そこで決定されることなのであるから。あるアイヌが差別される時、その個人が問題にされてはいない。カテゴリーが問題なのである。その同型の関係が、私に向けられる、と考えておかなくてはいけないというわけなのである。人間をカテゴライズすることが何を生み出すのか、そのことも考えておくこと。
     そして、たとえば、私がアイヌ差別を語るとすれば、被差別当事者のアイヌではなく、差別当事者のマジョリティーの側に分類されうる人間で私自身がいることを忘れてはいけないということなのである。
     個人を主語に出来れば、そこに問題はないのかも知れない。しかし、現実のこの世界には、個人を主語にして語ることが出来ない、そのような現実もあるということ、なのである。

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時:2006/10/22 22:43 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/5091/user_id/316274

     

     

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    現代史のトラウマ、その6 マイノリティーとマジョリティーの間

     

     先週書いた中に、マジョリティーとマイノリティーの間、というような話題があったはずだ。

     私自身の立ち位置としてのマイノリティーというようなこと。

     しかし、基本的には、私は男性であり、健常者であり、日本国籍を持つ日本国民であり、江戸の昔からの東京(江戸というべきか)在住者の末裔であり、同性愛者というわけでもなく、犯罪歴もなく、失業しているわけでもなく……、強者の側の人間ということにはなる。
     ここで、私は、マジョリティーという言葉と強者という言葉を、ほぼ同意語として用いている。何か一定の共通項によりカテゴライズされた少数者。弱者としての少数者、そのような仮定が一方にある。しかし、高額所得者層も少数者であり、この者たちが、この国の政治・経済・行政の中心に位置している現実を考えれば、少数者=弱者という構図は、それだけでは単純に過ぎる。
     つまり、私の立ち位置としてのマイノリティーという言明には、少数者であるとともに弱者としてこの国を生き抜かざるをえない人々の側にいようとする自分、という含みがあることになる。これは、正義とか、善とかいう観念とは無縁なところでの、私の選択である。
     先に記したように、私自身は、何か一定の共通項によりカテゴライズされた形でのマイノリティーでは、おそらく、ない。しかし、この国のマジョリティーとして日々ふるまい続ける人々に共感できる部分を見出し難く思っている人間である。マジョリティーとしての自信を持ってふるまい続ける人々に対して、精神的に、心情的に、マイノリティーであらざるをえない自分の姿を、何かにつけ見出してしまう。そのような意味でのマイノリティーということなのである。そして、そのような文脈において、私は強者ではない。少なくとも、強者の側の人間ではいられない。
     繰り返すが、弱者の側にいることが正義であるとか、善なる立場であるとか考えてのことではない。弱者に対する、マジョリティーの行為が正義や善という理念に反するものであることが多いことは確かであり、それは正されるべきであると常に考えてはいるが、マイノリティーが正義の側にあるとか、マイノリティーであることは善であるとかいうような「思い」とは私は無縁である。

     これは実際、ビミョ-な立場である。
     たとえば、先住民アイヌ民族に対し、私はマジョリティーの側の人間ということになる。それは、個人的な交流の中での信頼関係や共感とはまったく別のことである。出身民族ということで人間をカテゴライズし、日本国内におけるその布置を考えれば、アイヌ民族出身者は、弱者であり少数者であるマイノリティにカテゴライズされ、私は強者であり多数者である側にカテゴライズされる。
     この際、用語上に、私の立つますますビミョーな位置が現れる。いや、私ではなく、この国におけるマジョリティーの、でもあるのだ、それは。
     少数者であるアイヌに対し、では、私は、何者であるのか? 日本人である、という答えは、答えとしてはすわりが悪すぎるのである。アイヌ民族出身者も日本国籍を持つ日本国民である。日本国籍を持つ日本国民であるということと、日本人である、という言明の間には、イコールで結ぶことの出来ない関係がある、のである。あるいは、アイヌ民族出身者をも日本人として呼ぶとすれば、日本人という語は、民族名称とはズレがあるということを意味してしまう。日本人=日本民族ではない、のである。現実に、この国のマジョリティーに所属民族を尋ねてみるがよい。「日本民族」、「大和民族」、あるいは何と答えるであろうか。いずれにせよ、日常語としてすわりの悪い言葉が返ってくるであろう。民族としてのアイデンティティーに無自覚なマジョリティーの姿がそこにある。ここに、自らを深く問うこと無しになされる、多数者による少数者への差別的取り扱いがあるということを、見失ってはいけない。

                            続く

     

     

     

    (オリジナルは、投稿日時:2006/10/22 22:38 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/5088/user_id/316274

     

     

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