カテゴリー「ユートピアとしての全体主義」の記事

2019年3月24日 (日)

カチンの拳銃弾 4

 
 

 

 一九四三年(昭和十八年)二月の最終の週間に、ソ連領土の奥深く、スモレンスク(ソ連西部の古都、ドニエプル川上流に臨み、中世期以来、通商、交通の中心、当時人口十五万)の西方数マイルの地点に駐屯中の独軍第五三七通信連隊のテレタイプ(印字電信機)は、独軍の野戦警察が、同連隊の露営地区内でポーランド軍将校の多数の死体を発見した、と報告した。彼らはどれくらい多数であるかを正確には知らなかったが、数千名の死体であることは確実であった。
 その死体は皮製のたけの高い長靴をはいて、胸には皮製の弾帯をめぐらし、その多くは功績と武勲を示す勲章をつけていた。各人はその頭部を撃ち抜かれていた。彼らはソ連の土地で、いくつもの集団墓場の中で発見されたが、彼らを射殺した弾丸はドイツ製のものであった。
     (J.K.ザヴォトニー 『カティンの森の夜と霧』 読売新聞社 1963  25ページ)
 
 
 これが、いわゆる「カチンの虐殺」の事実が明らかになる発端であった。
 問題は、集団墓場の中に死体となって発見された数千名のポーランド軍将校は、何時そして誰によって殺害されたのか?である。

 1939年9月1日、対ポーランド戦を開始し、ポーランド国内に西から進撃したのはドイツ軍であった。次いで9月17日にはポーランド国境の東からソ連軍がポーランド攻撃に加わった。当時のドイツとソ連は「独ソ不可侵条約」によって同盟関係にあり、条約の秘密議定書には両国によるポーランド侵攻と領土の分割が、明記されていたのである。ポーランドは9月27日に降伏し、以後、ポーランド領土の西側はドイツの占領下となり、東半分はソ連に占領され、ポーランド軍将兵は、それぞれドイツとソ連の収容所に送られた。
 1941年6月22日、今度はドイツがソ連に侵攻し、ドイツとソ連の同盟関係は終わる。ソ連は連合国の一員となり、最終的に勝利者となった。
 ポーランドの降伏後、ポーランド人は亡命政府をロンドンに設立し、連合国側で故国の占領者であるドイツとソ連との闘いを続けていたが、1941年6月の独ソ戦開始以降は、連合国の一員となったソ連との同盟関係の選択を余儀なくさせられた。
 ソ連国内の収容所に収容されていたポーランド軍将兵も解放され、連合国のソ連と共に対独戦争に参加することとなったが、集合地にはポーランド人将校の姿は、ほとんど現われなかった。消えたポーランド将校団の行方は、ポーランド亡命政府にとっても、もちろん占領下のポーランド人にとっても、追求すべき問題であったわけである。亡命政府当事者は、ソ連国内での捜索努力を続けたが、何も得られぬままに1943年の2月を迎えていたのであった。
 
 
 ドイツ宣伝相ヨージェフ・ゲッベルスの個人的日記の中には、一九四三年(昭和十八年)四月九日の日付の下で、次のような記述が発見されるであろう。
 「ポーランド人の墓の大群がスモレンスク付近で発掘されている。ボルシェヴィキ党員(共産主義者、ソ連軍をさす)が約一万名のポーランド軍捕虜をあっさり射殺してから、穴を掘って墓の中に埋め込んだのだ……」
 おそらく、この身の毛もよだつようなものすごい発見を、ゲッベルス宣伝相の注意を喚起するようにしたのはドイツの従軍記者であろう。一九四三年(昭和十八年)四月十三日午前九時十五分(ニューヨーク時間)に、ドイツのラジオ放送は連合国の団結を打ち砕くことをねらった宣伝をいっせいに電波にのせた。それは全世界に向けて、ポーランド軍将校が大量にソ連軍の手で殺害されたことを発表した。このドイツ側の声明にもとづくと、連合国側の一国の政府が、その同盟国の将校団の約半分を殺してしまったように思われた。
 その翌日、ソ連側の激しい反応は、マスコミのあらゆる可能な手段によってばらまかれた。ソ連政府の情報局は一九四三年(昭和十八年)四月十五日に声明を発表し、「一九四一年(昭和十六年)に、スモレンスク西方で建設工事に従事していたポーランド軍捕虜は、ドイツ・ファシストの死刑執行人の手中に陥った……」ので、その後に処刑されたのであると闡明した。…
     (前掲書 25~26ページ)
 
 
 独ソはそれぞれに、ポーランド将校団殺害の犯行を、相手の行為として断じたのである。
 ところで、問題のカチンの森とはどのような場所であったのか?
 
 
 カティンの森は、スモレンスク市西方約十マイルのところにあった。…(中略)…一九一七年のロシア革命後に、この地区はソ連政治警察の管轄下に置かれていた。
 ドイツとポーランド両国筋によると、一九二九年(昭和四年)ごろに、この森の周辺には「GPU特別地区、許可されない人の立ち入りを禁止す」という標識が立っていた。一九三一年(昭和六年)に、この森の一地区は鉄条網で取り囲まれた。その付近に居住しているソ連市民たちによると「さらに、立ち入り禁止の警告の張り紙が下げられた」といわれる。そして大きな家が、墓の大群の発見された地点より半マイルばかり離れたところに建てられたが、それは政治警察の係り官のための休息所として使用された。一九四〇年(昭和十五年)からソ連軍が撤退するまでの間、この全地域は、警察犬の護衛を伴った政治警察の保安隊員(NKVD)が巡察していた。
     (前掲書 26~27ページ)
 
 
 つまり、独ソ戦開始後にドイツに占領されるまでは、カチンの森はNKVDの管理下にあった土地なのである。ソ連内務人民委員部(あるいは中野五郎訳では政治警察)の管理する土地であったのだ。

 1943年にドイツ軍がポーランド軍将校の多数の死体を発見したのは、そんな性格の土地なのであった。
 
 
 

 

 一般の世論は、ドイツ軍に対し非難の指をさし向けた。発見された死体がドイツ製の弾丸で射殺されていた事実から、ドイツ政府は現地調査を行なうために、独立した国際調査委員会と、ポーランド赤十字委員会、ドイツ特別法医学委員会などを招待することに踏み切った。
     (前掲書  27ページ)
 
 この国際調査委員会とポーランド赤十字委員会のほかに、ドイツ特別法医学委員会も、また調査活動をしていた。この三つの調査委員会の各委員は、その調査期間中に、まったく独立して行動していた。そして独自の立場より結論に達したが、それは三つの個別の最終報告の中に述べられていた。これらの報告書は、そのもっとも重要な詳細な点で一致しているから、カティンの森の調査結果に関する次の記述は、これらのすべての報告と、さらに他の筋より収集した適切な補足にもとづいたものである。
 さてカティンの森では、八つの集団的な墓が発見された。それは深さ六フィートないし十一フィートの中に、死体がいっぱい充満していた。一般に、これらの死体の埋葬には特殊の方式がとられていた。彼らは顔を下にして両手をわきに置くか、または両手を身体の背後でしばられ、両足をまっすぐに伸ばして横たわっていた。しかも死体は一つずつ互いに重なり合って、十段か十二段になって積まれていた。
 その死体は全部、例外なく後頭部を撃ち抜かれていた。たいていの場合、これらの人々は、ただ一回で射殺されていた。しかし二回撃たれていたものもいくらかあったし、ある場合には頭蓋骨を三発の弾丸で粉砕されていた。概して弾丸を撃ち込まれたところは首筋の上であり、その発射方向は上向きで、弾丸は頭蓋骨を貫通して、鼻と頭髪のはえぎわの中間で顔の側面に抜けていた。
 二つの個別の墓が見つかった。その墓の中には、二名の、完全に軍服を着用した将軍の死体が発見されたが、いずれも一発で射殺されていた。赤外線の助けを借りて、その軍服を顕微鏡で分析した結果、この二名の将軍は、その冬外套のエリを立てたところを拳銃で撃たれたか、あるいは直接その頭部を撃たれたかして、処刑されたことが実証された。
 死体の大群の中の多数、とくに士官候補生と青年将校の死体は、その両手をしばられていた。これらの死体の発掘を目撃したある証人は、次の通り報告していた。
 「この第五号の墓より発掘された死体の典型的な特色は、その死体の全部の両手が背中で、白いナワで二重の結びめをつくってしばられていた事実であった。彼らの冬外套を頭部のまわりにかぶせて、しばりつけられていた。この冬外套は、同じ種類のナワで首の高さをしばられていて、時には二番目の結びめが犠牲者の頭上につくられていた。首筋にはただ一つの結びめがあり、そのナワの残部は背中を下方へ通って、しばられた両手のまわりにグルグルと巻きつけられた上、さらに首筋で、もう一度しばりつけてあった」
 「こんな風にして、犠牲者の両手は肩胛骨の高さまで引きつり上げられていた。犠牲者はこのような方法でしばり上げられていたので、いかなる抵抗もすることができなかった。なぜなら両手を動かすたびに、首筋のまわりのナワのくくり結びが堅く締まり、そのために、ノドを絞めつけるからであった。それのみならず、彼らは頭の上から冬外套をおおいかぶされていたために、どんな音を立てることもできなかった。処刑前に犠牲者を、このような風にしばり上げていたことは、死ぬ前に特別にくふうした拷問を加えていたものであった」
 このナワの結びめをつくる技術は、すべての実例で同一であった。そのナワは全部、同じ長さのものであったから、それが計画的に、事前に用意されたことは明白であった。現場でドイツ人の科学者が行なった、そのナワの顕微鏡検査によると、それはソ連製のものであることが判明した。また同じ種類の結びめが、ソ連製の衣服の残りぎれを身に着けていた数名の男女の死体についても発見された。これらの死体もまた、カティンの森の別個の墓穴の中で発見されたものであった。これらの死体を仔細に検視した結果、この人々は五年ないし十年前に同じ方法で殺害されたものであり、それは独軍が、この地方に侵入したときよりも数年以前の出来事であった。
     (前掲書  30~32ページ)
 
 
 この「ソ連製の衣服の残りぎれを身に着けていた数名の男女の死体」こそが、大粛清時に犠牲となったソ連国民の姿なのである。
 これが、カチンの森がNKVD(ソ連内務人民委員部)の管理下にあった土地であることの意味するところなのだ。
 カチンの森の奥でのNKVDの犠牲者は、まずは自国民だったのである。
 
 第二次世界大戦以前に大量の自国民を処刑・殺害してきたのと同じ手法(註:1)が、大戦に際してのポーランド軍将校の殺害においても用いられていたことが、これらの調査報告(ポーランド赤十字委員会には、抵抗運動メンバーも委員として参加しており、報告の信頼性は高い)から判明するわけである。 平時に、自国民の大量処刑・殺害を日常業務として効率的に実行してきた国家機関が、戦時には、他国民の効率的な大量処刑・殺害にその洗練された能力を発揮したのである。
 
 
 

 

【註:1】
 
  その死体は全部、例外なく後頭部を撃ち抜かれていた。たいていの場合、これらの人々は、ただ一回で射殺されていた。しかし二回撃たれていたものもいくらかあったし、ある場合には頭蓋骨を三発の弾丸で粉砕されていた。概して弾丸を撃ち込まれたところは首筋の上であり、その発射方向は上向きで、弾丸は頭蓋骨を貫通して、鼻と頭髪のはえぎわの中間で顔の側面に抜けていた。
     (J.K.ザヴォトニー 『カティンの夜と霧』 読売新聞社 1963  31ページ)
 
  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。
     (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)
 
   ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。
     (ザスラフスキー 『カチンの森』 173ページ 「訳者あとがき」より
 
 (ブローヒンについては「カチンの拳銃弾 3」を参照)
 
 
 
 
 
(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/09/07 21:36 → https://www.freeml.com/bl/316274/170641/
 投稿日時 : 2011/09/12 21:32 → https://www.freeml.com/bl/316274/170949/)
 
 
 

 

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2019年2月 2日 (土)

カチンの拳銃弾 3

 

 

 「カチンの虐殺」として知られる、ソ連という国家によるポーランド人捕虜の大量殺害。その現場には効率的大量殺害に公務として従事した処刑人の姿があった。効率的な処刑には専門性が必要であり、彼らは洗練された大量殺害技術の保持者であった。その専門性と技術は、ポーランドとの戦争に先立つ時期に、ソ連国内でソ連国民を処刑する中で磨かれたものであった。そんなソ連の処刑人を代表する人物と考えられているのが、ポーランド人捕虜殺害の際も活躍したヴァシリー・ブローヒンである(「ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった」)。

 前回、「ブローヒンが従事したのは効率的な処刑=殺人であり、それが彼とその部下にとっての日常業務(「メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまで」)なのであった」と要約したが、あらためて、効率的な処刑=殺人の詳細について確かめておきたい。

 

  カリーニン虐殺はモスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮した。ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参、三人は駅の引込み線に止められた、電話交換機を入れた食堂車に寝泊りした。

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。

  拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた。反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない。大量処刑のカチン事件では、ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた。

  看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。

  監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。

 

ブローヒンの役割・手法について、前回までにこのように紹介した(「カチンの拳銃弾 1」及び「カチンの拳銃弾 2」参照)。さらにザスラフスキーの著作を読み続けてみたい。

 

 すべての解剖報告書は、処刑が執行の専門家によって行われたと証言している。ほとんどの犠牲者は後頭部の正確な個所を狙って一発の弾丸で殺されていた。二発目が発射されたのはきわめてまれである。報告書には、多くの場合に将校たちが抵抗したと記録されている。多くの将校には銃剣創が見られた。またある者は両腕が背中で特別な結び方で縛られたうえで首のまわりに繋がれていた。これだと手を動かせば首が閉って窒息する。射殺はNKDVの特別部隊が実行した。NKDVには数万の「処刑専門家」がいて、殺害と死体隠しの訓練を受けていた。ナチ親衛隊の銃殺執行隊とちがって、NKDVの銃殺執行隊は犠牲者から金歯を抜いたり貴重品を取り去る命令を受けていなかった。だから死体発掘にさいして結婚指輪と金歯がポーランド将校の遺体に残っていたと記録されている。
 検屍記録はあきらかに矛盾する技術的細部を正確に書きとめていた。なかでも拳銃と銃弾はドイツ製でありながら、創傷はソ連軍が使っていた四刃の銃剣による刺殺を示していた。それに、犠牲者を縛っていた縄はソ連製だった。ブルデンコ委員会は銃剣と縄を無視しながら、ドイツ製弾丸が射殺に使われた事実を最大限利用して世論の大きな反響を勝ちえたのだ。以前に国際医学調査委員会が説明したところでは、拳銃はカールスルーエ近くのグスタフ・ゲンショウ社がヴェルサイユ条約後にドイツの兵器需要が激減したため、ソ連、ポーランド、バルト諸国に大量輸出するために製造されたものだったが、この事実は意図的に無視された。今やソ連公文書館の文書によると、NKDV銃殺執行隊がドイツ製拳銃と口径七・六五ミリの弾丸「ゲコ」で装備されていたことが確認されている。
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 126~127ページ)

 

 カチンでの屋外での処刑(「カチンで処刑を統率したのはモスクワから来た処刑人ではなく、スモレンスクNKVD監獄長グリポフ保安中尉、次長グヴォズドフスキー、ステルマハとみられる。これにスモレンスクNKVD監獄の看守、運転手、それにミンスクNKVD本部から派遣された処刑専門家がくわわったという説が有力」)と、カリーニンでの屋内での処刑(「モスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮」)では状況が異なることに留意しておく必要がある。ここに記されているのは、集団として自身の運命が明らかな中で次々に殺害されたカチンでの検証記録(解剖報告書)である。カリーニンでの個室での殺害では、被害者は抵抗を考える以前に、すなわち抵抗し銃剣で傷付けられることなく殺害されていたと考えられる。

 いずれにせよ、「すべての解剖報告書は、処刑が執行の専門家によって行われたと証言している。ほとんどの犠牲者は後頭部の正確な個所を狙って一発の弾丸で殺されていた。二発目が発射されたのはきわめてまれである」とカチンの「解剖報告書」にも記されており、「執行の専門家」の熟練度が窺われる。

 

 根岸隆夫氏による「訳者あとがき」には、カリーニンでNKDV責任者であったトカリェフ(トカリェフは国境警備隊からNKDVに移動したときは大佐だったが、カリーニン虐殺でベリヤに認められ、1954年に少将に昇進した)による1991年3月20日の証言(軍事検察官ヤブロコフ中佐との質疑応答)の紹介がある。

 

 トカリェフ  ブローヒン、シネグボフ、クリヴェンコがモスクワ本部から処刑人として到着したときに拳銃を詰めこんだスーツケースを持ってきました。
 ヤブロコフ  どんな拳銃ですか。
 トカリェフ  ヴァルターですよ。
 ヤブロコフ  弾薬はなんですか。
 トカリェフ  ヴァルター用ですよ。有名な拳銃です。口径は知らないけれどドイツ製です……
 ヤブロコフ  監獄を描写してください。
 トカリェフ  ここが地下室。ここに囚人監房があります。ここが「赤い隅」で、そこから処刑室まで廊下があります。「赤い隅」で本人確認がおこなわれ、そこから廊下を通って処刑室に連れていき銃殺です。小さい部屋です。扉があって中庭に向かって開きます。そこから死体を出して、待ち受けているトラックに載せます。
 ヤブロコフ  監獄から「赤い隅」まで捕虜は一人ずつ連れてこられるのですか。
 トカリェフ  そうです、一人ずつです。「赤い隅」には政治ポスターが何枚か貼ってあります。政治教育に使われていました。だからレーニンの部屋と呼ばれました。
 ヤブロコフ  処刑室にはなにもないのですか。
 トカリェフ  荷台がひとつありました。
 ヤブロコフ  いつもウォッカがあったということでしたが。
 トカリェフ  箱で買いこんでいました。銃殺と埋葬にかかわっただれもが飲めるようにです。モスクワから来たブローヒンたち処刑人はパジャマ姿ですわって飲んでいましたね。かならず銃殺が終わってからで、その前や最中には飲みませんでした。ポーランド人の銃殺が終わると宿にしている引き込み線の食堂車で大宴会でした……
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 172~173ページ 訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

「捕虜は一人ずつ連れてこられる」のであり、処刑室は防音されており(「看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる」)、処刑されることへの予期は持ちにくい(多くの場合、抵抗を考える前に殺害されているはずである)。

 

 

 実際にNKDV(内務人民委員部)で処刑の任務に携わった人物による証言(「カチンの虐殺」への関与は語られていないが、多くのソ連国民を処刑した経験が語られている)が記録されているので読んでおきたい。

 

 「……わしは内務人民委員部の仕事に採用されたとき、ほんとに鼻高々だった。はじめての給料で上等のスーツを買ったんだよ。
 ……あのような仕事は……なんにたとえればいいのだろう。たとえるとしたら、戦争だ。しかし、わしは戦場ではらくだった。ドイツ人を銃殺刑にする、やつはドイツ語でさけぶ。ところが、こいつらときたら……こいつらはロシア語でさけぶんだ。なにやら仲間みたいだ……。リトアニア人やポーランド人を撃つのはもっとらくだった。ところが、こいつらときたらロシア語なんだよ。「でくの坊! 能なし野郎め! さっさと殺れよ!」畜生! わしは全身血まみれ……手のひらを自分の頭髪でぬぐっていた……。たまに皮製の前掛けが支給されることがあった。そういう仕事だった。勤務だ。きみは若いよ……ペレストロイカ! ペレストロイカ! しゃべくり野郎どもの話を真にうけておる。さけばせておくがいい、自由、自由と。広場をちょっと走らせておくがいい……。斧が置かれているんだ……斧はご主人さまがいなくなっても生きつづけるんだよ。覚えておけ。畜生! わしは兵士だ。命令されたから、やった。撃った。命令されたら、やるもんだよ。や・る・ん・だ・よ! わしが殺していたのは敵だ。破壊分子どもだ。正式な書類があった。「極刑に処す……」。国家の判決だ。あんな仕事は、願いさげだ! まだ息のあったやつは、たおれて、豚みたいにキーキーいって……血を吐いておった。けらけらわらってる男を撃つのは、とくに胸くそが悪かった。そいつは気が狂っているか、こっちをさげすんでいるか、どっちかなんだ。あっちからもこっちからも、号泣と汚いことば。あのような仕事の前には食事などできん……。わしは食えなかった……。いつものどがからからだった。水をくれ! 水だ! 酒を飲みすぎたあとのように……。畜生! 勤務時間の終わりにバケツがふたつ持ってこられた。ウォッカのバケツとオーデコロンのバケツ。ウォッカは仕事のあとで持ってきてくれた、仕事の前じゃなかった。どっかで読んだことがあるだと? それそれ、そこなんだよ……。いまではあらん限りのことが書かれている……多くはでっちあげだ……。わしらはオーデコロンで上半身を洗っていた。血は、鼻にツンとくる、一種独特のにおいがして……ちょっと精液のにおいに似ている……。わしの家にはシェパードがいたが、仕事のあとでは、わしによりつこうとしなかった。畜生! なんでだまってんだ。青二才め……未熟者めが……よく聞け! まれに殺すのが好きだという兵士がいたもんだ……そういうやつは銃殺班からよそにとばされた。やつらはあまり好かれていなかった。わしのような農村の出身者がたくさんいた、田舎もんは都会もんよりタフだ。ハラがすわっておる。死というものに慣れている。ある者は家で豚をつぶしたことがあったし、ある者は子牛を殺したことがあったし、ニワトリはだれでもしめたことがあった。死に……慣れさせなくてはいかん……。最初の数日間は連れていって見せる……。兵士たちは死刑に立ち会っていただけ、あるいは既決囚を護送していただけだ。すぐに発狂というケースもあった。耐えられなかったのだ。デリケートな問題だ……。うさぎをひねる、それだって慣れが必要で、だれにでもやれるもんじゃない。畜生! ひざまずかせて、ナガン連発式ピストルの銃口部を左後頭部につきつけて撃つ……左耳あたりに……。勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった。ほかのあらゆる場所のように、わしらにも割当量があった。工場の生産割当量のように。最初のころは、割当量をこなすことができなかった。物理的に遂行できなかったのだ。すると、医師が呼び集められ、立会診察がおこなわれた。その結果、週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった。右手と人差し指のマッサージ。人差し指のマッサージはどうしても必要だ、撃つときにいちばん大きな負荷がかかるんだ。わしに残ったのは、右耳の聞こえが悪くなったことだけだ。右手で撃っていたからだよ。
 ……わしらは「党と政府の特殊任務遂行に対して」表彰状をもらって、そこには「レーニン・スターリンの党の事業に献身的である」と書かれていた。上質紙のこれらの表彰状を、わしは戸棚いっぱい持っておる。年に一度、家族と一緒にりっぱなサナトリウムに行かせてもらった。最高の食事……肉がたっぷり……療養……。妻はわしの仕事のことはなにも知っちゃいなかった。責任重大な極秘の仕事、それだけだ。わしは恋愛結婚だった。
 ……戦時中は弾が節約されていた。もし海が近ければ……。平底船にぎゅうぎゅうに詰めこんだもんだ。船倉からはさけび声ではなく、けものの咆哮「誇り高きわがヴァリャーグ号は敵に屈せず/赦免はだれも望まない……」。一人ひとりの両手は針金で縛られていて、足には石が……。もし天気がおだやかなら……水面はなめらかで……やつらが底に沈んでいくのが長いあいだ見えていた……。なんだ、その目は。乳臭いやつめ! その目はなんだ! 畜生! 酒をつげ! そういう仕事……勤務だ……。きみが理解するために、話してやってるんだ。ソヴィエト政権はわしらにとって高くついた。それを大事にしなくてはならん。守らなくてはならんのだ。夕方、わしらが帰ってみると、平底船はからっぽ。死の静けさ。みんなの頭にあるのはひとつ。わしらが岸辺に出ていけば、わしらもそこで……。畜生! わしは、すぐ持ちだせるように、何年間もベッドの下に木のトランクを置いていた。替えの下着、歯ブラシ、カミソリ。枕の下にはピストル……。自分の額を撃ちぬく覚悟でいた。当時、みんながそんなふうに生きていたんだ。兵士も、元帥も。そこんとこは平等だった。
 ……戦争がはじまった……。わしはすぐ前線に志願した。戦闘で死ぬのはそれほどこわくない。祖国のための死だとわかっているからだ。すべてが簡単明瞭。ポーランドを解放していた、チェコを……。畜生! ベルリンの近くで自分の戦歴を終えた。二個の勲章と記章をもっておる。勝利だ! だが……その後に待っていたのは……。勝利のあと、わしは逮捕された。特務部のやつらがリストを用意していたのだ……。チェキスト〔国家保安機関の勤務員〕には、ふたつの道しかなかった。敵の手にかかって死ぬか、内務人民委員部の手にかかって死ぬか、どちらかだ。七年の刑をくらった。わしは、七年の刑期をまっとうした。いまでも……なあ、きみ……収容所時間で目が覚めるのだ、朝六時に。なんの罪で入っていたのか。なんの罪か、それはおしえてくれなかった。いったいなんの罪があるというのだ。畜生! 」
     (スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ 『セカンドハンドの時代』 岩波書店 2016  357~359ページ)

 

 かつてNKDVに処刑要員として(処刑の専門家として)勤務した人物の証言である。「NKDVには数万の「処刑専門家」がいて、殺害と死体隠しの訓練を受けていた」という中の一人だ。キャリアのスタートは戦前、大粛清の時代である。語られているのはその技術的詳細、処刑現場の状景の生々しさ、処刑要員としての心情。

 

  わしは全身血まみれ……手のひらを自分の頭髪でぬぐっていた……。たまに皮製の前掛けが支給されることがあった。そういう仕事だった。勤務だ。

  わしは兵士だ。命令されたから、やった。撃った。命令されたら、やるもんだよ。や・る・ん・だ・よ! わしが殺していたのは敵だ。破壊分子どもだ。正式な書類があった。「極刑に処す……」。国家の判決だ。

  あっちからもこっちからも、号泣と汚いことば。あのような仕事の前には食事などできん……。わしは食えなかった……。いつものどがからからだった。

  勤務時間の終わりにバケツがふたつ持ってこられた。ウォッカのバケツとオーデコロンのバケツ。ウォッカは仕事のあとで持ってきてくれた、仕事の前じゃなかった。

  わしらはオーデコロンで上半身を洗っていた。血は、鼻にツンとくる、一種独特のにおいがして……ちょっと精液のにおいに似ている……。わしの家にはシェパードがいたが、仕事のあとでは、わしによりつこうとしなかった。

 うさぎをひねる、それだって慣れが必要で、だれにでもやれるもんじゃない。畜生! ひざまずかせて、ナガン連発式ピストルの銃口部を左後頭部につきつけて撃つ……左耳あたりに……。

  勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった。

 ほかのあらゆる場所のように、わしらにも割当量があった。工場の生産割当量のように。最初のころは、割当量をこなすことができなかった。物理的に遂行できなかったのだ。

  すると、医師が呼び集められ、立会診察がおこなわれた。その結果、週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった。右手と人差し指のマッサージ。人差し指のマッサージはどうしても必要だ、撃つときにいちばん大きな負荷がかかるんだ。

 

 確かに「あんな仕事は、願いさげだ!」という言葉もある。自身への呪いの言葉と満足感が同居している。

 ここではドイツ製のワルサーではなく、ソ連製の「ナガン連発式ピストル」を使用していたこと、引き金が引かれたのは「左後頭部」に向けてであったことが語られている。ブローヒンの流儀を過剰に一般化するべきではないということなのだろう。しかし、「ナガン連発式ピストル」使用により「勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった」ために「割当量」を果たすことが困難となり、「週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった」エピソードからは、あらためてブローヒンのワルサーが、「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」との理由で選択されていたことが思い出される。

 

 「あんな仕事は、願いさげだ!」との言葉も吐いたこのチェキストは、しかし「名誉退役軍人」として特権を享受していた。「特別配給食料」としてサラミソーセージ、ブルガリア製のキュウリとトマトのピクルスの瓶詰、外国製の魚の缶詰、ハンガリー製の缶入りハム、グリーンピース、タラのレバーといった「当時、一般の人には手に入らなかったもの」を手にし、「官給の四〇〇平米の土地ではなく、どのくらいの広さだったか、もう正確には覚えていないが、そこには森林の一部も入っていた。古いマツ林だった。高い地位の人には、あのようなダーチャが与えられていたんです。特別な功績に対して。アカデミー会員や作家に」と対話者に語られるような特権的な生活を享受していたのである。公務としての効率的な殺人により得た特権である。

 そのような特権者が存在した国家。それがソ連であり、そのような特権者こそがソ連の国家権力を支えていた。処刑人の凄惨な現場の上に、日々の業務としての処刑の上に、「割当量」を果たそうと格闘する現場の上に、ソ連という国家は築かれていたのである。

 

 

 

 さて、あらためてブローヒンである。

 日本語の『ウィキペディア』をチェックしてみた(「百科事典」としての利用とは別に、ネット空間の中での対象への関心の程度を知る効果もある)が、現状(2011年9月6日、そして2019年2月2日に再確認)では「ブローヒン」の項目はなかった。しかし、「ニコライ・エジョフ」の項に、

 

 1940年2月4日、ニコライ・エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された。

 

という形で、ブローヒンの名が登場する(以下、2011年9月6日時点での記載内容である)。

 「カチンの虐殺」は1940年の4月から5月の話で、その直前の時期に、ブローヒンは、エジョフの処刑の実行者となっていたわけである。ただし、『カチンの森』によれば、その時点でのブローヒンの地位は「保安少佐(モスクワNKVD監獄長)」なのであり、『ウィキペディア』の記述は正確ではないように思われる(2019年2月2日現在でも「1940年2月4日、エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された」との記述のままであった)。

 

 さて、では、ニコライ・エジョフとは何者か? 再び『ウィキペディア』の「エジョフ」の項を参照すると、

 

 ニコライ・イヴァーノヴィチ・エジョフ(ロシア語;Николай Иванович Ежовニカラーイ・イヴァーナヴィチュ・イジョーフ、ラテン文字表記の例:Nikolai Ivanovich Yezhov、1895年5月1日 - 1940年2月4日頃)は、ソビエト連邦の政治家。1936年から1938年まで政治警察・秘密警察であるNKVDの長を務めた。国家保安総委員。ヨシフ・スターリンによる大粛清(大テロル)を実行し、天文学的な数の国民を虐殺したが、のちに自らも粛清対象にされて処刑された。

 エジョフの政治体制は、後世、「エジョフシチナ」(Ежовщинаイジョーフシナ;エジョーフシチナ、エジョフ時代、エジョフ体制の意)としばしば呼称される。

 

として要約される人物である。

  ヨシフ・スターリンによる大粛清(大テロル)を実行し、天文学的な数の国民を虐殺したが、のちに自らも粛清対象にされて処刑された。

とあるように、つまり、あの大粛清のシステムの中心人物であり、やがて当人も粛清の対象とされ、最後にブローヒンの手により処刑されたわけである。

 

 『ウィキペディア』は、エジョフの絶頂期の姿を、

 

 エジョフは、スターリンに対する忠実な支持者であったとことで知られる。1935年、エジョフは政治的反対勢力が暴力とテロリズムと結合して反国家・反革命に結合するに違いないと主張する内容の論文を発表している。これは粛清におけるイデオロギー上の基礎の一部となった。1936年ゲンリフ・ヤゴーダの後任として、9月26日に内務人民委員(内務大臣)、中央執行委員に就任し、翌1937年10月には党中央委員会政治局員候補となった。

 エジョフは粛清の第一段として、まず前任のヤゴーダ派の一掃に着手した。ヤゴーダ派の粛清で生き残った部下を自身の配下に組み入れることで、権力の基盤を磐石にしたのである。1937年3月、将校クラブに招集したNKVDメンバーの前の演説でエジョフは、前任者のヤゴーダが「ファシストのスパイ」として逮捕されたことを述べた上で、「無実の人間を10人犠牲にしてもいいからスパイ1人を逃してはならない。木を切り倒すときは木端が散るものだ」と主張した。また、自身の身長の低さに言及し、「私の身の丈は小さいが、両手は頑丈だ。-スターリンの意思を実行する両手だからだ」と述べた。

 エジョフは、スターリンの大テロルにおける忠実な執行者として君臨した。NKVDとGPUに徹底的な粛清を指揮し、前任者のヤゴーダ、ヴャチェスラフ・メンジンスキーが任命した多くの人員が解任、銃殺されたが、その中にはエジョフ自ら任命した者も含まれていた。エジョフはスターリンから粛清の命令を受けた際には、その一字一句をメモに書き残していたとされる。さらにはNKVDの部署内にさえも、二重・三重の監視網が敷かれた。

 エジョフはかつてレフ・トロツキーを支持していた重工業人民委員部次官ゲオルギー・ピャタコフらを公開裁判(第二次モスクワ裁判)にかけ、銃殺刑を言い渡した。これを皮切りにエジョフ体制下での粛清は猛威を振るい、ソビエト共産党指導者・官僚・軍人の半数、ほかにも数百万人の市民が政府への反抗・政府の転覆活動・反革命の容疑を受けて粛清の対象として逮捕され、容赦ない拷問の結果、処刑・追放・収容所送りに至った。

 1937年12月20日、党はボリショイ劇場において、NKVDの創設20周年を祝う大祝典を催した。会場には、スターリンの巨大な肖像と隣り合ってエジョフの肖像が架けられた。花でうずまるステージにおいて、ダークのコーカサス風のチュニックコートとベルトを締めたアナスタス・ミコヤンが、エジョフの仕事を賞賛し、「同志エジョフから、同志スターリンの方法を学びましょう!ちょうど、同志エジョフ自身が、同志スターリンから学び、これからも学び続けるであろうように!」と述べた。会場にいたある人物は、エジョフの様子を「彼はうつむき加減で、恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。まるで、こんな手放しの賞賛に自分は相応しくないという風だった」と伝えている。スターリンが、このときの様子をプライベートボックスから眺めていた。

 

と記している。

 しかし、その絶頂の翌年、

 

 1938年4月8日、ほかの役職はそのままに、水上交通人民委員を兼任したが、エジョフの役割は徐々に小さくなっていった。これはエジョフの権勢が衰微し、没落する予兆であった。党内で上位にある者を定期的に粛清するスターリンのやり方は、主にそのやり方を組織化する役割を果たしたエジョフも知っていた。同年8月22日、ラヴレンチー・ベリヤが内務人民委員代理に就任する。ベリヤは政治将校の政務のためにエジョフの権力を奪い始め、NKVDの実質的な責任者になった。

 連日のように粛清を繰り返したエジョフは、晩年には疑心暗鬼によって、自身の妻までも粛清している。すでに飲んだくれとなっていたエジョフはアルコール依存症に陥り、絶望的になった。最後の業務の月のエジョフは、陰鬱で、だらしなく、起きている時間はほとんど酒を飲んでおり、勤務のために現れたことは滅多になかったという。

 同年11月11日、スターリンとヴャチェスラフ・モロトフは、エジョフ体制下のNKVDを激しく批判した。エジョフは内務人民委員の解任を自発的に求め、11月25日にはベリヤが内務人民委員に就任した。

 

このように、手にした権力を失っていく。そして、

 

 1939年3月3日、エジョフはソ連共産党中央委員会における全官職を解任された。

 

という形で、スターリン体制における地位のすべてを喪失し、エジョフの立場は完全に逆転することになる。

 

 1939年4月10日、エジョフは逮捕され、スハーノフカ刑務所(en:Sukhanovka)に収容された。拷問に耐えることができなかったエジョフは、奇しくも、自らが多くの人間を処刑したのと同じ理由、すなわち「自分は公式に無能であること、ドイツの諜報機関と結託してスパイ活動を行い、クーデターを計画していた」と自白した。さらにエジョフは、「自分は性的に逸脱しており、男色家で異性愛者である」とも自白した。これはのちに証言によって部分的に補強され、のちの取り調べによってほぼ真実と考えられている。

 1940年2月3日、ソビエトの裁判官ヴァシリー・ウルリヒは、ベリヤの事務室において彼を審理した。エジョフの言い分は支離滅裂であり、前任のヤゴーダのように終始悲嘆に暮れ、スターリンへの敬愛を述べ続けた。エジョフは、ベリヤからスターリン暗殺計画の自白を勧められたが、これを拒否して「どうせこの地上から消え去るなら、高潔な人間として消え去ったほうがましだ」と述べた。エジョフは自身の弁明のためにベリヤの前に跪いて許しを請うが、再三無視された。そしてついに、「スターリンの名を呼んで死ぬ」と誓った。エジョフのスターリン暗殺計画の自白の拒絶は、自身の宣伝目的に役立つことはなかった。

 死刑判決が読まれたとき、エジョフは泣き崩れ、部屋から体ごと運ばれなければならないほどに生気を失った。目撃者によると、ベリヤはエジョフに服を脱ぐよう命令し、エジョフを叩くよう警備員に命令したという。エジョフは体ごと処刑室に運ばれ、しゃっくりし、泣きじゃくった。1940年2月4日、ニコライ・エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された。遺灰は、モスクワのドンスコイ修道院の集団墓地(en:Mass graves in the Soviet Union)に捨てられた。

 

というのが、大粛清システムの中心人物の最後のあさましい姿であった。

 

 しかし、このベリヤもまた、『ウィキペディア』の「ラヴレンチー・ベリヤ」の項によれば、

 

 同年(1953年)12月、ベリヤ、メルクーロフ、コブロフ、セルゲイ・ゴルギーゼ、デカノゾフ、メシク、ヴロジミルスキーの7人は、「英国の諜報機関と結託し、秘密警察を党と国家の上に置いてソヴィエトの権力を掌握しようとしたスパイである」と報道された。ベリヤは特別法廷において、弁護人なし、弁明権なしで、裁判にかけられた。裁判の結果、ベリヤは死刑判決を受けた。モスカレンコによると、死刑判決が下ったとき、ベリヤは膝を突いて泣きながら慈悲を乞い、助命嘆願をしたという。しかし、ベリヤはルビヤンカの地階に連行され、彼と彼の部下は、1953年12月23日にパーヴェル・バチツキーによって銃殺刑に処された。ベリヤの遺体はモスクワの森の周辺で火葬されたのち、埋葬された。

 

という最期を遂げることになるのであった。

 そのような政治体制の中で、「カチンの虐殺」は起きたのである。

 

 

 ちなみに、英語版の『ウィキペディア』には、ブローヒンの項目はあり、その最期についても記述がある。

 

 Blokhin was forcibly retired in 1953 following Stalin's death that March. However, his "irreproachable service" was publicly noted by Beria at the time of his departure.After Beria's fall from power in June of the same year, Blokhin's rank was stripped from him in the de-Stalinization campaigns of Nikita Khrushchev. He reportedly sank into alcoholism and serious mental illness, and died on 3 February 1955, with the official cause of death listed as "suicide".
     (Vasily Blokhin → 
https://en.wikipedia.org/wiki/Vasily_Blokhin

 

 ブローヒンはスターリン批判の中で栄誉を剥奪される。アルコールに溺れる日々を送り、公式には自殺として記録される最期であったらしい。

 そこに大量殺害者としての悔悟があったのであろうか?

 (私には、ブローヒンの悔悟など想像し難いが)

 

 

 

           (「カチンの拳銃弾 4」に続く

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/09/06 21:50 → https://www.freeml.com/bl/316274/170569/
 投稿日時 : 2019/02/01 21:04 → https://www.freeml.com/bl/316274/323553/

 

 

 

 

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2019年1月31日 (木)

カチンの拳銃弾 2

 

 

 ガス室のある収容所は数が限られていたことは、今でも知る人が少ない。もっとも有名なアウシュヴィッツ、トレブリンカ、マイダネクとシュトゥットホーフのほかにはヘウムノ、ソビブル、ベウジェツ、それにシュトゥットホートだけである。
 これに反して、ブッヘンヴァルト、ベルゲン・ベルゼン、シルメック、ノイエンガメ、マウトハウゼン、ラーフェンスブリュック、ザクセン・ハウゼン、フロッセンブルクにガス室はなかった。そこでは、収容者は緩慢な死を迎えるか、拳銃で項を撃たれるか、つるはしで殴り殺されるか、働いている採石場の高い所から突き落とされるか、であった。
     (アルベール・シャンボン 『仏レジスタンスの真実』 河出書房新社 1997 171ページ)

 

これもまた、昨日のルドルフ・へスの証言に加えて、

  後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する

というソ連の手法が、ナチスの強制収容所での収容者殺害においても採用されていた事実への言及(「拳銃で項を撃たれる」)である。

 小銃を構えた銃殺隊による銃殺刑という軍隊的スタイルや、機銃の乱射による大量殺害とは別に、「拳銃で項を撃たれる」殺害法もナチス体制の下で広く行なわれていたのだが、その手法の起源がソ連にあったのではないかというのが今回のテーマのひとつ、ということになろうか。

 

 

 前回記事(「カチンの拳銃弾 1」)で示した通り、「後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する」処刑法は、そもそもは、

 

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。
    (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

とあるように、ソ連秘密警察において愛好され洗練された手法であった。

 あらためて、その詳細について読み進めると、

 

 トカリェフの証言をまとめると、カリーニン虐殺(オスタシュコフ収容所の5291人のポーランド人捕虜は、カリーニンのNKVD本部の地下監房に移送され、別室で殺害された-引用者)はモスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮した。ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参、三人は駅の引込み線に止められた、電話交換機を入れた食堂車に寝泊りした。ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。処刑と埋葬にはNKVDの地方、中央をふくめてあらゆる階級の職員三〇名がたずさわった。看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。ブローヒンでなければカリーニンNKVDの総務部長ルバノフだった。監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。死体から手錠を外すと、中庭で待っている五、六台の無蓋トラックに積みこむ。いっぱいになると覆いをかぶせる。モスクワ=レニングラード街道(当時)にそって三〇キロばかり走ると、トヴェル川にのぞむメドノエ村がある。ブローヒンは村外れの塀のない埋葬地を選んであった。トカリェフの別荘から五〇〇メートル離れた森のはずれだ。一晩でトラックは二往復した。モスクワからブルドーザー二台と運転手が来て墓穴を掘り、死体を埋めた。植樹して隠そうとはしなかった。カチン、ハリコフとちがってカリーニンのドイツ軍占領は短かったので、発見されなかった。
 カリーニンでは合計六三一四人(オスタシュコフ収容所からの移送者以外の犠牲者も含まれる数字?-引用者)が銃殺されたが、一九九〇年に二三の墓穴が掘り返されたときには、死体の司法解剖は不可能だった。遺体は五十年経ち、土に戻っていた。
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 173~174ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

このように記されている。カリーニン虐殺における、ブローヒンの役割と手法の詳細に注目しておきたい。

 

  看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。

  監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。

 

 ブローヒンが従事したのは効率的な処刑=殺人であり、それが彼とその部下にとっての日常業務(「メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまで」)なのであった。

 

 

 ブローヒンの使用していたヴァルター二型拳銃(「ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参」とある)については、ワルサー社の「モデル2」を示すものであるのかどうか、検討の余地が残る。前回記事に引用した「拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた」との記述に示される口径から判断すると、口径6.35ミリの「モデル2」(1909年開発)には該当しない。口径7.65ミリのワルサー社の拳銃ということであれば、いずれも1910年代に開発された「モデル3」あるいは「モデル4」が存在する(註:1)。

 用いられた「後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する」処刑法からすれば、6.35ミリの小口径拳銃でも十分に役に立ちそうである。いずれにせよ、使用されたのはワルサー社の生産した拳銃であり、「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」というのが選択基準であった。「疲れが少ない」拳銃を用いて、効率的な処刑が遂行されたのである。そして、「死体から手錠を外すと、中庭で待っている五、六台の無蓋トラックに積みこむ。いっぱいになると覆いをかぶせる。モスクワ=レニングラード街道(当時)にそって三〇キロばかり走ると、トヴェル川にのぞむメドノエ村がある。ブローヒンは村外れの塀のない埋葬地を選んであった。トカリェフの別荘から五〇〇メートル離れた森のはずれだ。一晩でトラックは二往復した。モスクワからブルドーザー二台と運転手が来て墓穴を掘り、死体を埋めた」とあるように、死体処理も効率よく遂行された。

 日常的処刑業務を効率的に遂行するに際して「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」ことにおいて優位なドイツ製拳銃が、すなわち「ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた」のである。

 

 一方、ナチス・ドイツで愛用されたのは同じワルサー社のワルサーPP、あるいはPPKではないかと思われる。(内容的に妥当と思われるので、入力の手間を省き)『ウィキペディア』記事から引用すると、

 

 ワルサーPP(Walther PP)は、ドイツのカール・ワルサー社が1929年に開発したダブルアクション式セミオートマチック拳銃である。.22口径(5.6mm)、.32ACP口径(7.65mm)、.380ACP口径(9mm)の3種類がある。PPとはPolizeipistole(警察用拳銃)を意味する。

 1929年に開発される。ドイツ警察や再軍備宣言がなされたドイツ軍の将校用標準ピストルとして採用されており、国家社会主義ドイツ労働者党の制式拳銃でもあった。
     (2011/09/05 閲覧時の記述)

 

ということになる。その発展型にワルサーPPKがあるが、

 

 ワルサーPPKは、ドイツのカール・ワルサー社が開発した小型セミオートマチック拳銃である。警察用拳銃として開発されたワルサーPP(Polizeipistole)を私服刑事向けに小型化したもの。名称のKはもともと「刑事 (用)」を意味するクリミナールkriminalの頭文字だが、一般には「短い」を意味するクルツkurzの頭文字だと解釈されることも多い。

 1931年に発売開始。ヒトラーも、愛銃として使用しており、ドイツ警察(ゲシュタポ)や軍隊、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)で制式拳銃とされる。

 

とある通り、どちらもがナチス体制とも縁の深い拳銃である。

 

 

 処刑の効率について、

  屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。

とあったが、ナチス関係のものを読んでも同様の効率性は伝わってくる。しかし、ナチスは、ガス殺というより効率的な手法を開発した点において、ソ連の共産主義者を超えたわけである。

 

 

 いずれにしても、

  ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。

とされるブローヒンの人物像には、ソ連の共産主義の歴史の一面が深く刻印されており、いろいろと興味を引くところがある。

 

 

 

          (「カチンの拳銃弾 3」に続く)

 

 

 

【註:1】

 ワルサー モデル1は、ドイツのワルサー社が1908年に開発した、同社初のポケットピストルである。
 作動方式はシンプルブローバック、トリガーはシングルアクションで発射する。スライドはオープントップデザイン。フレーム左側後部にクロスボルト式のマニュアルセイフティ(シアを固定)を備えている。フロントサイトはあるが、リアサイトはスライド上面の溝を利用するスナッグフリーデザイン。銃身にはテイクダウン用のバレルシュラウドが被せてあり、これを取り外すことで分解するという独特な構造をしている。形状や細かな仕様の違いで、5つのバリエーションが存在する。
 元々は「Selbstlade Pistole Cal.6.35」という名称だったが、後続モデルが登場した際に「モデル1」に改名された。
 1909年には改良モデルの「モデル2」が登場。スライドをフルカバーデザインに変更し、全体的なバランスの見直しを図っている。他にも、内蔵式ハンマーに変更、グリップ底部のマガジンリリースレバーの大型化、マニュアルセイフティをレバー式に変更、などの改良が施されている。初期型には、チャンバーインジケーターを兼ねる可動式リアサイトとマガジンセイフティが備わっていたが、後期型では製造工程とコストを省くため、両機能とも廃止されている。モデル1ではロングタイプだったテイクダウン用のバレルシュラウドは、銃口先端を覆うショートタイプのものに変更された。
 「モデル4~モデル8(モデル5を除く)」になるとサイズが大型化するが、1921年には再び小型モデルの「モデル9」が登場。オープントップスライドでストライカー式という特徴はモデル1と変わらないが、よりオーソドックスなデザインになっている。ただし、マニュアルセイフティの位置はフレーム左側後部ではなく、トリガーガード左側後部に変更された。

モデル
 全長 銃身長 重量 口径 装弾数

モデル1
 112mm 50mm 360g .25 ACP 6+1
モデル2
 113mm 50mm 277g
モデル3
 127mm 67mm 472g .32 ACP 8+1
モデル4
 151mm 88mm 521g
モデル5
 113mm 50mm 269g .25 ACP 6+1
モデル6
 210mm 121mm ?g 9mm×19 8+1
モデル7
 135mm 76mm 360g .25 ACP 8+1
モデル8
 130mm 73mm 364g
モデル9
 99mm 51mm 260g .25 ACP 6+1
     (MEDIAGUN DATABASE→ 
http://mgdb.himitsukichi.com/pukiwiki/index.php?%BC%AB%C6%B0%B7%FD%BD%C6/%A5%EF%A5%EB%A5%B5%A1%BC%20M1

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/09/05 21:18 → https://www.freeml.com/bl/316274/170528/

 

 

 

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2019年1月30日 (水)

カチンの拳銃弾 1

 

 

 これからしばらく、80年前のポーランド人捕虜の運命(1939年の9月1日、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻、同年9月17日にはソ連がポーランドの東側国境から侵攻し、ポーランドは両国により占領された)を振り返るところから始めて、20世紀の全体主義的ユートピアを支えた人間像―特に処刑人とその犠牲者の姿に焦点を当てることになるだろう―について考える機会としたい。

 

 

 コゼルスクから最初の捕虜の一隊を乗せた列車は、四月三日(1940年の話-引用者)の午後に出発した。捕虜は汽車で四時間くらいかけて、スモレンスクを通過して郊外二〇キロばかりの小さな駅に着く。そばをドニエプル川が悠々と流れている。この年の春は遅く、残雪があった。着剣し小銃をもったNKVD(ソ連内務人民委員部)警護・護送部隊が厳重に警戒するなかを、黒塗りの囚人輸送車に押しこまれて、二メートルの金網を周囲にめぐらしたNKVD管理下のカチンの森に入り、三キロ離れた山羊が丘(斜め丘との解釈もある)のある広々とした空き地に連れていかれる。そこには三月はじめに、スモレンスク監獄の囚人を使って八つの矩形の墓穴が掘られていた。深さは二メートルから三メートル。二人の兵隊が捕虜を一人ずつ両脇で腕を抑え、矩形に深く掘られた墓穴の縁で跪かせるか立たせる。後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する。犠牲者は墓穴に倒れこむ。死体は顔を下にして九層から一二層積み重ねられた。
 拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。モスクワNKVD本部は手練れの処刑人一二五人を、ブローヒン少佐を長としてポーランド将校銃殺のために派遣した。しかし、カチンで処刑を統率したのはモスクワから来た処刑人ではなく、スモレンスク
NKVD監獄長グリポフ保安中尉、次長グヴォズドフスキー、ステルマハとみられる。これにスモレンスクNKVD監獄の看守、運転手、それにミンスクNKVD本部から派遣された処刑専門家がくわわったという説が有力だ。しかし資料は十分ではない。ゲシュタポがNKVDに殺人手段で勝るのはガス殺だけだといわれる。拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた。反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない。大量処刑のカチン事件では、ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた。弾丸には、ドイツの弾薬メーカー、ゲンショウを意味するGECOと刻まれていた。ソ連はカチン事件をドイツ軍になすりつける口実にこの弾丸を使ったが、すぐに底が割れてしまう。というのも、第一次大戦後に軍縮で不況をかこったゲンショウ社が、この弾丸をさかんに、ソ連、バルト三国、ポーランドなどに輸出していたのだ。
 いっぱいになった墓穴には土がかけられ、松の苗木が植えられた。その樹齢で埋葬時期が科学的に推定され、ドイツ軍占領以前の一九四〇年春ころが特定され、NKVDの犯行を裏付けた。処刑されることを知って、捕虜が最後の抵抗をしたことは、遺体の状態から想像に難くない。後ろ手を縄で縛られ、それが首にまわされ、暴れると首が絞まるようになっていた。また将校用長外套をまくりあげて頭上で縛ってある遺体も、抵抗したからと推測される。口におが屑やぼろ切れが詰められた遺体もあった。使われた縄はあらかじめ一定の長さに切り揃えてあってソ連製だった。
     (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169~170ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

 

 ここで、私は、軍事裁判と人質処刑のことにふれねばならない。ただし、ここではポーランド人の場合にかぎる。人質は、大方はもう長いこと収容所に入れられていた。彼らが人質だったことは、彼ら自身にも収容所指導部にもわかっていなかった。
 やがて、突然、保安防諜部だか国家保安本部だかからの命令を伝える電報が一通きた。それには、以下の抑留者を人質として、銃殺もしくは絞首刑にせよ、とあった。数時間のうちには、その完了を報告しなければならなかった。該当者は、その作業場から連れもどされ、また点呼によってえらび出され、処刑場に連れて行かれた。
 すでに長らく抑留されていた者たちの多くは、そのときすでにその決定を知り、少なくとも何が彼らを待ちうけているかを予感していた。処刑場で処刑命令が下された。
 初めの時期、一九四〇~四一年ごろには、彼らは部隊の処刑司令部によって、銃殺に処せられた。後になると、絞首刑にされたり、一人ひとり小銃で頭を撃ちぬかれたり、また、病院で寝たきりの病人なら注射で殺されたりした。
     (ルドルフ・へス 『アウシュヴィッツ収容所』 サイマル出版会 1972 108ページ)

 

 

 1939年9月、まずドイツがポーランドに侵攻し、続いてソ連がポーランドの東半分を占領した。独ソ不可侵条約の秘密議定書の取り決めに従い、両国はポーランドを侵略し分割したのであった。

 ドイツによる占領においても、ソ連による占領においても、ポーランド人への取り扱いは過酷を極め、ソ連による「カチンの虐殺」もその一端に過ぎない(註:1)。

 カチンでソ連が用いたのは、

 

  後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する

 

という手法であったが、これは親衛隊あるいはゲシュタポも採用したナチスにとっても重要な殺害手段のひとつであった。

 「ここで、私は、軍事裁判と人質処刑のことにふれねばならない。ただし、ここではポーランド人の場合にかぎる」との限定が付されたアウシュヴィッツ収容所長ヘスの証言にも、「一人ひとり小銃で頭を撃ちぬかれたり」との記述がある通りである(ここで「小銃」と訳されている語は、「拳銃」を意味していたのではないだろうか)。

 また、その手法は、そもそもはソ連における粛清の歴史の中で、国内向けに用いられ洗練されて来たものなのである。再確認すれば、

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。モスクワNKVD本部は手練れの処刑人一二五人を、ブローヒン少佐を長としてポーランド将校銃殺のために派遣した。

との構図(「拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった」)である。引用中に登場するブローヒン少佐は、「一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった」(同書「訳者あとがき」)ような人物であり、ソ連の国民を処刑することにおいて既に豊富な経験を持っていた(そのブローヒンが「手練れの処刑人一二五人」を指揮していたことは、NKVDは既にそれだけ―実際にはそれ以上であろう―の人数の「拳銃による処刑」の専門家を擁していたことを示す)。つまり、ポーランド人は、最初の犠牲者ではない。

 

 

 あらためてソ連の捕虜となったポーランド人の運命について確認しておくと、

 

 三収容所の約一万五五〇〇人の捕虜は、カチンをふくめて後述するように銃殺される。くわえてウクライナ、ベロルシアで七〇〇〇人の将校捕虜が銃殺された。その他に三九年秋にドイツ軍に引き渡されたり、移送途中や、強制労働収容所で死んだ捕虜は一三万三〇〇〇人と推定される。これを合わせると一五万五〇〇〇人のポーランド人捕虜がソ連で犠牲になったと推定されている。
     (『カチンの森』 160ページ)

 この三収容所の収容者は一万四八五六人、そのうち三九五人はなんらかの理由で他の収容所へ移され、その多くが九死に一生を得た。残りの一万四四六一人(一九五九年三月にNKVDの後身KGB議長シェレーピンはフルシチョフに、一万四五五二人とする覚書を送っている。いずれにしても、カチン関連の数字は末尾一桁まで出ているのがいくつもあるが、どれが真実かわからない。ただ真実に近い)とウクライナ、ベロルシアのNKVD監獄に収監されていた約七〇〇〇人の将校たち、合わせて約二万二〇〇〇人が、一九四〇年四月から五月にかけてNKVDによって銃殺された。
     (『カチンの森』 161ページ)

 

つまり、カチン関連でのポーランド人犠牲者数は約2万2000人。全体では15万5000人ということになる。

 

 ザスラフスキーによれば、

 

  一九三九年終わりまでに、ソ連占領地域のポーランド将校は根こそぎ逮捕された。特別命令で、下士官とオサドニツィは将校と同等とみなされ、収容所に拘禁された。逮捕された将校の一部だけが職業軍人で、大多数は予備役だった。かれらはポーランド軍に動員されたばかりでソ連の手に落ちた新聞記者、大学教授、医師、弁護士、技師、芸術家たちである。
     (前掲書 24ページ)

 

とある通り、ポーランドの予備役将校を構成するのは、そのままポーランドの知識人階級であり、カチンでのポーランド将校殺害は、ポーランド知識人の殺害を意味してもいるのである。

 ここでは知識人が、反ソ抵抗運動の中核となることが予期され、その防止策としての殺害が実行されたのである。ザスラフスキーの『カチンの森』の日本語版サブタイトルは「ポーランド指導者階級の抹殺」であり、イタリア語で書かれた原著のタイトルは『階級浄化―カチンの虐殺』である。「虐殺」のターゲットとなったのが特定の階層のポーランド人であった事実を反映した表題である。

 

 その発想はナチスにも共有され、ポーランド知識人はドイツに占領された地域では、アインザッツグルッペン(「特別行動部隊」などと訳される占領地での「敵性分子」の殺害に特化した部隊)による殺害対象の中核とされたのであった。

 ここで(いささかの手抜きではあるが、内容的に妥当と思われるので)『ウィキペデイア』の「アインザッツグルッペン」の項から引用すると、

 

 対ポーランド戦争に際してもポーランド占領をしやすくするためにアインザッツグルッペンが再度組織された。ハイドリヒは1939年9月21日にアインザッツグルッペンの指揮官たちを前に「ポーランドの指導者層・知識人層は絶滅されるべきである」などと訓示している。
 ポーランドのアインザッツグルッペンは、1隊・2隊・3隊・4隊・5隊・6隊・「フォン・ヴォイルシュ」隊の7隊により構成され、それぞれの隊の下にアインザッツコマンドが複数ずつ置かれた。ポーランド戦の際のアインザッツグルッペンの総員は2700名であった。それぞれ陸軍14軍、陸軍10軍、陸軍8軍、陸軍4軍、陸軍3軍、南部軍集団の進撃を後ろから付いて行って銃殺活動を行った。「フォン・ヴォイルシュ」は軍に付随せず、ドイツとポーランドの国境付近において銃殺活動を行った。
 ポーランド戦の際にアインザッツグルッペンの銃殺活動の対象にされたのは主に教員、聖職者、貴族、叙勲者、退役軍人などのポーランド指導者層、またユダヤ人、ロマなどであった。1939年9月1日から10月25日にかけてドイツ占領下のポーランドでは民間人16,000人以上が殺害されたが、そのうち四割がアインザッツグルッペンによるものとされる。
     (2011/09/04 閲覧時の記述)

 

と記されている通りである。ラインハルト・ハイドリヒは「ポーランドの指導者層・知識人層は絶滅されるべきである」と訓示し、部隊はポーランドの指導者層・知識人層の絶滅を実行した。

 

 

 ナチス・ドイツとソ連の両全体主義体制の発想と手法の共通性、そしてその犯罪性を考える際に、この「カチンの虐殺」は一つの象徴的事件と言えるだろう。

 

 米英は、カチンにおけるソ連の行為を知りながら、対枢軸戦争での勝利を優先し、連合国の一員となったソ連(1941年6月、ヒトラーのドイツがソ連との不可侵条約を破棄し対ソ戦争を開始したことにより、ソ連はヒトラーの側から連合国の側へと転換していた)に迎合し、ソ連によるポーランド人将校虐殺を不問にしたのであった。

 ポーランド人は、米英の政治的リアリズムによってもカチンの墓穴深く葬り去られ、忘れ去られようとしたわけである。

 

 

 

          (「カチンの拳銃弾 2」に続く)

 

【註:1】

 ポーランドの戦争補償局の報告(一九四七年)によれば、戦争中の死者は、実に戦前の人口の約五人に一人、六〇二万八〇〇〇人にのぼった。そのうち戦闘行為による戦死者は軍人・民間人を合せて六四万四〇〇〇人で、残りの五三八万四〇〇〇人が根絶政策に従って意図的に虐殺された。
 この中には二七〇万のユダヤ系ポーランド人が含まれている。戦前のユダヤ人人口は三三〇万人であったのだから、死を免れたユダヤ人はわずかに六〇万人ということになる。ユダヤ系ポーランド人を含めてポーランド国民はまさに絶滅の淵に立たされていた。
 一方、赤軍の占領下にあったポーランド人も、決して安全であったわけではない。ヒトラーが「占領者の権利」に基いてポーランドの領土を処置したのに対し、スターリンは、民族自決という一見民主的な手段を講じてほぼカーゾン線から東にあたるこの地域をソ連邦に併合した。つまりソ連政府は、独ソ秘密協定に従って、ヴィルノ地方をリトアニアに割譲したあと、残余の地域に二つの国民会議を創設させ、これにソ連邦への編入を宣言させたのである。ここでもロシア中央部に強制的に移されたポーランド人は一五〇万人にのぼったという。
     (山本俊朗・井内敏夫 『ポーランド民族の歴史』 三省堂選書 1980  187~189ページ)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/09/04 19:11 → https://www.freeml.com/bl/316274/170440/

 

 

 

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2017年2月 3日 (金)

トランプのカード(マッカーシー vs トランプ)

 

 ドナルド・トランプとその取り巻きは「代替的事実(alternative facts)」というカードを切ることで、マッカーシーの時代に「多重虚偽」のために費やされに労力を軽減し、手続きを簡略化した。

 

  マッカーシーが国務省への攻撃を始めて間もない頃、私は『ニューヨーカー』誌の「ワシントン便り」の中で、マッカーシーを取り上げた際、そのもっとも注目すべき新手法の一つを「多重虚偽」と呼び、多くの点でヒトラーの大うそに比すべき技術だと書いた。私は次のように書いた。「「多重虚偽」は特に大きな虚偽である必要はなく、一連の相互に余り関係のない虚偽、あるいは多くの側面を持つ一個の虚偽であったりする。いずれの場合にも、全体が多くの部分で構成されているために、真実を明らかにしたいと思う人は虚偽の全要素を頭の中に入れて置くことが全く不可能ということになってしまう。真実を明らかにしようとしても、人はその中の二、三の言明を取り出して、それがうそだということを証明するかもしれないが、こういうやり方は、取り出された声明だけがうそであって、残りは本当なのだという印象を残すだろう。「多重虚偽」の更に大きな利点は、うそと証明された声明をその後も平然と何べんでもくり返しうるということである。というのは、どの声明が否定され、どれが否定されていないかを誰も覚えていないからである。」……
     R.H.ロービア 『マッカーシズム』 岩波文庫 1984 145~146頁

 

 ローピアはジョセフ・マッカーシー上院議員の用いた手法を「多重虚偽」と名付け、「真実を明らかにしようとしても、人はその中の二、三の言明を取り出して、それがうそだということを証明するかもしれないが、こういうやり方は、取り出された声明だけがうそであって、残りは本当なのだという印象を残すだろう」と問題を整理した(ちなみにドナルド・トランプは、上院でのマッカーシーの最大の協力者であったロイ・コーンの弁護士時代の顧客の一人であったと言われており、マッカーシーとトランプはコーンを通して結ばれていることになる―コーンは弁護士としての非倫理的行為を問われ最終的に法曹資格を剥奪された人物でもある―マッカーシーもコーンも知的誠実さとは無縁な人物であったが、この両者とのトランプの「縁」には、どこか納得させられるものを感じてしまう)。

 マッカーシーに対し「二、三の言明を取り出して、それがうそだということを証明する」ことは可能であるが、マッカーシーは新たな虚偽を一瞬のうちに生産するので、「二、三の言明を取り出して、それがうそだということを証明」しても簡単に無効化されてしまうのである。しかし、それはまだ虚偽の生産が手作業であった二十世紀の手法であって、ドナルド・トランプとその取り巻きは「それがうそだということを証明」されようが、新たな虚偽を思いつく手間をかけることもなく「代替的事実(alternative facts)」の一言で、ジャーナリストによって費やされた事実の検証・証明の努力を一瞬にして無意味なものにしてしまう(しかもどのように精緻な「証明」も「偽ニュース(fake news)」として一瞬で切り捨てられる)。もちろん、虚偽の大量生産についてのトランプとその取り巻きの能力がゲッベルスやマッカーシーに劣るというものではないが、ヒトラーやマッカーシーの時代には「代替的事実(alternative facts)」という無敵のカードの存在は知られていなかった、ということなのだ。

 

  ドナルド・トランプ米大統領の上級顧問を務めるケリーアン・コンウェイ氏は22日に米NBCテレビ「ミート・ザ・プレス」に出演した際、「代替的事実(alternative facts)」という表現を使った。この言葉は米政治が事実を重視しない「脱真実」の新時代にあることを象徴するとの見方もある。
  コンウェイ氏はホワイトハウスのショーン・スパイサー報道官による一連の誤った発言に関して番組内でコメント。報道官がトランプ氏の就任式に集まった人数について事実より多く話した点について、コンウェイ氏は番組司会者のチャック・トッド氏に「あなたはそれをうそだと言うが、われわれの報道官であるショーン・スパイサー氏は代替的事実を述べたにすぎない」と釈明。トッド氏はそれに対し、「代替的事実は事実ではない。誤っている事実だ」と応じた。
  コンウェイ氏は翌日、FOXニュースの番組にも出演。司会のショーン・ハニティ氏は、代替的事実とは単純に「異なる視点」を提供しているだけだと語り、より寛容な受け止め方を示した。だが、時すでに遅し。「代替的事実」はソーシャルメディア(SNS)上で瞬く間に広まり、ツイッターでは「おまわりさん、私は酔っていません。代替的にはしらふです#alternativefacts」といったハッシュタグがつく投稿も見られるなど、冷やかしも拡散している状況だ。
     (ウォール・ストリート・ジャーナル 2017/01/27 13:27)

 

 ドナルド・トランプ大統領の上級顧問を務めるケリーアン・コンウェイ氏の「代替的事実(alternative facts)」という用語法(註:1)に対し、NBCテレビ「ミート・ザ・プレス」番組司会者のチャック・トッド氏は「代替的事実は事実ではない。誤っている事実だ」と指摘したわけだが、(トランプ支持の「視点」に立つであろう)FOXニュースの番組司会者のショーン・ハニティ氏は「代替的事実」を「異なる視点」と位置付けることでコンウェイ氏の用語法の擁護・正当化を試みている(註:2)。しかし、「事実」は「事実」であって「虚偽」ではなく、「虚偽」は「虚偽」であって「事実」に対する「異なる視点」ではない。

 「報道官がトランプ氏の就任式に集まった人数について事実より多く話した」かどうかは「視点」の相異によって判断されるべき問題ではなく、実際に集まった人数=事実の検証によってのみ判断されるべき問題なのである。

 

 「代替的事実」なんてものを通用させてしまえば、

 

  事実を無視する「ポスト真実」、あるいは「オルタナファクト(別の真実)」は、根拠と客観性を重視する科学とは相容れないものだが、まさにこれらが科学者に襲いかかっているといえるだろう。
     榎木英介 (Yahoo!ニュース 個人 2017/01/31 12:00)

 

「科学」はその方法論的基盤を喪失するのである。ドナルド・トランプとその取り巻きの思考法が、女性(あるいは様々なマイノリティーの構成員)だけではなく、科学者にとっても大きな脅威と感じられつつあるのも当然のことであろう。

 

 

 マッカーシーは結局、蒔いた種が芽を出して年貢を納めることになるが、その間、米国の外交政策は大きく停滞することとなった。マッカーシーのターゲットとされたのが国務省だったからである。冷戦初期の米国外交は、マッカーシズムという大きな障害のために、理性的な判断から遠ざけられてしまったのだ。朝鮮戦争の最中にもかかわらず、マッカーシーの関心は、戦争の行方にではなく、国務省内にいるとマッカーシーの主張する共産主義者の排除にのみ向けられていた。マッカーシーは証拠(=事実)を握っていると主張していたが、その証拠(=事実)が提出されることはなかった。しかし、その間、国務省内の人間は、外交の行方を論じることよりは自分が共産主義者ではないことを証明することに没頭させられたのである。

 ヴェトナム戦争へと帰結する冷戦時の米国外交を考える上で、マッカーシズムによる損失の大きさを無視することは出来ない。まさに「多重虚偽」の恐ろしい帰結である。事実と虚偽の判別への努力から人々の関心が失われれば、別の言い方をすれば情報の正確さへの関心が失われれば、最終的に痛い目に遭うのは人々自身であり、個々の私なのである。大日本帝國の対米開戦の判断の背後には情報の軽視があり、ブッシュのイラク戦争を主導した国防総省もまた開戦の正当化に役立つ情報のみを採用し、不利な情報を積極的に無視した。

 

 

 現在、ドナルド・トランプとその取り巻きが示しているのは正確な情報(すなわち「事実」)への関心の無さである。

 実際に、

 

  ドナルド・トランプ(Donald Trump)米大統領は28日、スティーブ・バノン(Steve Bannon)首席戦略官・上級顧問(63)を、国家安全保障会議(NSC)の常任メンバーに加える大統領令に署名した。トランプ氏の最側近の一人として知られるバノン氏はこれにより、政策面でも一段と影響力を強めることになりそうだ。
  トランプ氏は大統領令の一つである「大統領指示書」で、NSCの閣僚級委員会について、バノン氏を常任に引き上げる一方、情報機関を統括する国家情報長官(DNI)と、米軍制服組トップの統合参謀本部議長(Joint Chiefs of Staff)を非常任に格下げした。
     (AFP=時事 2017/01/30 09:32)

 

大統領としてのトランプは、国家安全保障会議(NSC)の常任メンバーから専門家としての国家情報長官(DNI)と統合参謀本部議長(Joint Chiefs of Staff)を排除し、情報と軍事の(そもそもが「政治の」でもあるが)シロートであるバノン氏を重用することで、正確な情報取得への関心の低さを示したのである。

 

 今回の「入国禁止」の大統領令の顛末にも、トランプ政権の正確な情報、情報の正確さへの無関心が示されている(自動車産業をめぐる対日批判もその典型的な事例であろう)。

 

  スパイサー米大統領報道官は31日の記者会見で、トランプ大統領が27日に署名したイスラム圏7カ国の出身者を一時入国禁止にした大統領令について「これは入国禁止ではない。米国の安全を維持する(入国)審査の制度だ」と強弁した。
  スパイサー氏は「『禁止』は人々が入国できないことを意味する。(7カ国以外の)別の国から数十万人が入国しているのは明白だ」と強調。入国禁止の対象となったシリアやイランなど7カ国に関しても「オバマ前政権が入国者の必要な情報が得られない国と特定した」と主張した。
     (時事通信 2017/02/01 07:57)

 

 「入国禁止令」の正式名称は「テロリストの入国からアメリカ合衆国を守る大統領令(Protecting the Nation from Foreign Terrorist Entry into the United States)」だが、一般的には「Trump Bans Travel to U.S. for Citizens of 7 Muslim-Majority Nations」のように理解されている(「ban」は「禁止」を意味する語)。

 しかも、時事通信の記事の続きには、

 

  一方、トランプ大統領は30日、ツイッターに「入国禁止が(実施の)1週間前に告知されていたら、『悪者』がその間、急いで入国していた」と投稿。スパイサー報道官もCNNテレビのインタビューで、大統領令を「入国禁止」と何度も呼んでいた。

 

このように記されている。大統領も報道官も問題の大統領令を実際に「入国禁止」と呼んでいた、ということなのである。当人たちが「入国禁止」という文言を用いていた以上(そのような文言を用いて情報発信をしてしまった以上)、メディアが「入国禁止」として報道したことを非難することは出来ない相談であるし、人々が「入国禁止」の大統領令として理解してしまうことも非難しようがなくなる。で、どうしたかというと、

 

  イスラム圏7カ国からのアメリカ入国を一時的に禁止する大統領令について、トランプ大統領はこれまで「入国禁止令ではない」としていましたが、「好きなように呼べばいい」と改めて正当性を主張しました。
  トランプ大統領は、ツイッターに「大統領令が『入国禁止令』なのかどうかで騒いでいるが、好きなように呼べばいい。悪意を持った悪者を国に入れないためだ」と書き込みました。また、ホワイトハウスでの会合で「私はCNNは見ない、嘘のニュースを見るのは嫌いだ」と述べ、入国禁止を批判しているアメリカのメディアのなかから一部メディアの名前を挙げて非難しました。
     (テレビ朝日系(ANN) 2017/02/02 11:46)

 

 情報発信に際しての不用意さは無視した上で、「好きなように呼べばいい」と居直ったのである。

 

 そもそも「テロリストの入国からアメリカ合衆国を守る」(悪意を持った悪者を国に入れない)ための大統領令について言えば、対象とされた「イスラム圏7カ国」の出身者が米国内でテロを実行した実績はないという問題があり、対象国の選定の適切性からして疑問が持たれているものでもある(示されているのは事前の情報分析の不足である)。

 

  米ジャーナリストや学識関係者が参加するシンクタンク「ニュー・アメリカ財団」によると、イスラム聖戦主義攻撃に関与した、あるいはそうした攻撃の実行者として死亡したテロ犯の米国在住資格は次の通り――。

 ・全体の82%は米国籍か永住権を保有

 ・188人は米国生まれ

 ・83人は米国籍に帰化した市民

 ・43人は永住権を持つ市民

 ・13人は難民

 ・12人は在住資格不明

 ・11人は非移民ビザで入国

 ・8人は不法移民

 ・38人は不明

  近年の米国内で起きた重大な無差別大量殺人事件の犯人はいずれも、入国制限対象の7カ国の市民ではなかった。
     (BBC News 2017/02/01 16:30)

 

 「不法移民」及び「難民」が含まれることも確か(21人)ではあるにせよ、詳細に分析するまでもなく今回の「大統領令」があまり役に立つものとなりそうもないことも確かであろう。

 

 末端の行政の窓口対応の細則の作成という重要な問題を抜きにして、つまり実施に際して起るであろう問題のシミュレーション抜きに、性急に大統領令が発せられたことが無用な混乱を招いてしまった側面もある。加えて、国際的にどのように受け取られてしまうかについてもあまりに準備不足(シミュレーションの不在を示す)であった。「テロリストの入国からアメリカ合衆国を守る大統領令」の実効性が事前に注意深く検討されていた形跡もない。要するにトランプ政権が、行政のシロート、外交のシロートによるものであることを示した「大統領令」であった(註:3)が、しかし「嘘のニュースを見るのは嫌い」なトランプ大統領にとっては、混乱の事実も準備不足の指摘も国内外からの様々な批判も「嘘のニュース」以上のものではなく、意に介す必要など感じていないように見える。

 今回の大統領令を主導したのもスティーブ・バノン首席戦略官・上級顧問とされているが、

 

  国土安全保障省(DHS)高官は当初、大統領令の制限に該当するイスラム圏7カ国の出身であっても米永住権保持者には適用されないという解釈だった。しかし、複数の当局者は、バノン氏と同氏に近いスティーブン・ミラー大統領補佐官がこれを却下したと明かした。
  DHS関係者は、今回の移民政策転換を巡って移民、関税、国境管理の関連機関とホワイトハウスとの協議はほとんどまたは全くなく、それが大統領令適用を巡り混乱拡大につながったと明かす。
  ある政府高官は、大統領令がDHSと国家安全保障会議(NSC)の主要な関係者の目を通り、連邦議会の移民関連職員らも関与したと説明したが、複数の当局者によると、バノン氏が終始作成を主導したという。
     (ロイター 2017/01/31 12:56 最終更新:2/1 15:55)

 

このロイターの記事の後半では、「批評家らはバノン氏を反ユダヤ主義で白人至上主義だと批判する。同氏の保守派ニュースサイト「ブライトバート」は、昨年の大統領選で敗れた民主党のクリントン候補に関する陰謀説を多数掲載した」と紹介されているように、そもそもが「陰謀説を多数掲載した」と指摘されるニュースサイトの代表であった人物である。批判する側からは「陰謀説=嘘のニュース」の生産者との位置付けとなるだろう。バノン首席戦略官・上級顧問に、正確な情報に興味を持ち、情報の正確さを優先する習慣を期待するのは実際的ではない。トランプ政権の「主席戦略間・上級顧問」として、冷静な情報評価ではなく偏見に基づいた政策決定の中心となる可能性を考えておくべきであろう。

 

 

 いずれにせよ、正確な情報の正確な把握が必須となる政治の場において、情報の正確さにまったく重きを置こうとしない人物とその取り巻きに権力が与えられてしまったことだけは確かである。

 米国民にとっても、米国以外の国々の国民にとっても大きな災厄を覚悟しなければならない展開となってしまったことも確かであろう。

 

 

 ちなみに大統領令の対象とされた国々の反応は以下の通り。

 

  トランプ大統領は27日、イスラム教徒が多数を占めるイラン、イラク、リビア、ソマリア、スーダン、シリア、イエメンからの難民と旅行者の入国を一時禁止しビザ(査証)発給を停止する大統領令に署名した。
  これについてザリフ外相はツイッター(Twitter)への投稿のなかで、ハッシュタグ「#MuslimBan(イスラム教徒の入国禁止)」を用いて「過激派とその支持者たちへの偉大な贈り物として歴史に記録されるだろう」と皮肉り、「集団的な差別はテロリストの勧誘活動を支援するものだ。深まる断絶を、支援者らを増やそうとする過激派の扇動家らに悪用されるだろう」と述べた。
     (AFP=時事 2017/01/29 19:37)

 

  イラク連邦議会は30日、米国のトランプ政権がイラクなど7カ国の国民の米入国を一時禁止したことに関して、イラク政府に報復措置をとるよう求める決議を賛成多数で採択した。衛星テレビ局アルアラビーヤが報じた。議会内には米国民の一時入国禁止を求める声もあるが、イラク政府は過激派組織「イスラム国」(IS)掃討作戦で連携する米国との関係悪化を避けたい思惑があり、どの程度の報復措置をとるかは不透明だ。
     (毎日新聞 2017/01/30 22:02)

 

  アメリカの支援を受けてきたシリアの反政府勢力がトランプ大統領によるイスラム圏7カ国からの入国禁止措置を厳しく批判しました。
  30日にモスクワで会見した反政府勢力は、トランプ大統領によるシリア国民らの入国禁止措置について「移民に差別的であり、人権を尊重すべき」だと訴えました。     (テレビ朝日系(ANN) 2017/01/31 5:52)

 

  イエメン外務省スポークスマンは30日、トランプ米大統領による入国規制は世界中で過激主義を助長することになると批判した。
  イエメン人が入国一時禁止の対象になったことから、スポークスマンは「不満を表明する」と強調。「テロに勝つ唯一の手段は対話であり、障壁をつくることではない」と語った。
     (時事通信 2017/01/31 14:26)

 

 

 それぞれに耳を傾けるべき内容だと思われるが、それをドナルド・トランプという人物に求めることは現実的ではない。

 

  「経営不振の偽ニュース、ニューヨーク・タイムズ紙は誰かが買収し、正しく経営するか、廃刊にすべきだ」。
  トランプ米大統領は29日、ツイッターでこうつぶやいた。自身に批判的なメディアへの攻撃をエスカレートさせた形だ。
  タイムズ紙は28日の社説でシリア難民受け入れ停止を柱とする大統領令を「臆病で危険」と非難するなど、大統領への批判を連日続けている。大統領は28日も「タイムズ紙とワシントン・ポスト紙は最初から間違っているのに、方向を変えようとしない。不誠実だ」とツイートした。
     (時事通信 2017/01/30 7:35)

 

 自分にとって都合の悪い情報は無視し、排斥する。それが米国の大統領となってしまった人物の現実への対処法なのである。

 

 

 

 しかも、マジョリティもまた「事実」の追求には興味を失いつつあり、自分にとって都合がよいと感じられる情報にのみアクセスする時代となっている。それぞれに都合よく感じられる「代替的事実(alternative facts)」が、ネットを通して簡単に手に入られる時代となったのである。

 

 「ウォール・ストリート・ジャーナル」のBEN ZIMMER氏の記事の最後は、

 

  コンウェイ氏が使った「代替的事実」は、SNS上で「alt-facts」と省略されるケースも見られる。ニューヨークを拠点とするジャーナリストのアンドレア・チャルパ氏は揚げ物など不健康な食事の写真を撮影し、「この代替サラダを今から楽しむところだ」とツイッター上に投稿している。

 

このように結ばれている。「揚げ物」が「サラダ」ではないことを「事実」と呼ぶのであり、その「事実」が自分にとって都合が良かろうが悪かろうが、その「事実」を「事実」として尊重しようとする態度によってのみ情報の正確さが保たれ、適切な判断が可能になる。これが当たり前でなくなりつつある現実を事実として噛みしめねばならない。代替品など存在しないのである。

 

 

 

【註:1】
 早くも新たな「代替的事実(alternative facts)」が当のコーンウェイ氏によって追加された(追記:2017/02/04)。

  昨年の米大統領選ではトランプ陣営の選対本部長を務めたコンウェー氏は、米ケーブル局MSNBC(MSNBC)の番組に出演し、イスラム圏7か国の市民の入国を一時禁止したトランプ氏の大統領令について、バラク・オバマ(Barack Obama)前大統領が取った策と同様のものであると擁護。
  「イラク人2人がこの国に入国し、過激思想に染まってボーリンググリーン虐殺事件の首謀者になった後、オバマ大統領がイラク難民プログラムを6か月間禁止した事実を、今まで知らなかった人は多いはず。これは報道されなかった」と発言した。
  だが、この「虐殺事件」は実際には存在していなかった。コンウェー氏は後にツイッター(Twitter)への投稿で「ボーリンググリーンのテロリストと言うつもりだった」と釈明している。
  2011年、ケンタッキー(Kentucky)州ボーリンググリーン(Bowling Green)在住のイラク人の男2人が有罪判決を受けたが、罪状は国際テロ組織アルカイダ(Al-Qaeda)に資金と武器の供与を試み、駐イラク米軍の兵士に対し簡易爆弾装置を使用したことだった。2人は長期の禁錮刑を受け、現在も収監されている。
  また米紙ワシントン・ポスト(Washington Post)によると、事件を受けオバマ前大統領はイラク難民の審査手続きの厳格化を指示したが、難民受け入れ中止や禁止を命じた事実はなかった。
     (AFP=時事 2017/02/04 07:49)

【註:2】
 FOXニュースの名誉のために付け加えておくと、キャスターのシェパード・スミス氏が自身のFOXニュース番組内で、以下の発言を通してトランプ大統領による非難からCNNを擁護した事実もある(追記:2017/02/07)。

  「トランプ次期大統領は本日、CNNのジム・アコスタ記者に、お前の社は嘘ニュースだ、と述べました。ロシア関係のCNNの特ダネは、オンラインニュースメディアが(精査することなく)出したメモ類とは、根本的に別物です。我々はフォックスニュースでCNNの報道(の正否を)を確認することはできませんが、我々の見解は以下の通りです。CNNの記者はジャーナリストの規範に従っており、彼らだけでなく、他のどんなジャーナリストも、米国の次期大統領による誹謗中傷に屈してはなりません」
     (江川詔子 Yahoo!ニュース 個人 2017/01/12 19:17)

【註:3】
 大統領令の正当性をめぐる裁判の過程でも、「入国禁止」の対象国選定に際しての事前検討の不十分さと施行に際しての準備不足が明らかになっている(追記:2017/02/09)。

  中東・アフリカ7カ国からの入国を一時禁止する米大統領令の即時停止を命じたシアトル連邦地裁の仮処分を巡り、西部カリフォルニア州サンフランシスコの連邦控訴裁判所は7日、電話による口頭弁論を開いた。控訴裁は今週中に判断を下す見通し。
  各35分の弁論で、3人の判事が原告の西部ワシントン、中西部ミネソタ両州と、被告のトランプ政権側の双方の弁護士から主張を聞いた。
  トランプ大統領はテロリストの入国阻止を大統領令署名の理由に挙げている。しかし、判事が政権側に7カ国とテロを結びつける証拠を尋ねると「裁判の進行が早すぎて準備できなかった」と答えた。判事は「進行が早いと言うが、控訴裁に訴えたのはそちらだ」と追及。政権側はテロに関連するソマリア人がいたなどと述べ、地裁決定の取り消しを求めた。「裁判所を説得できているか自信がない」と政権側弁護士が漏らす場面もあり、政権側の拙速ぶりが浮き彫りになった。
  大統領令については共和党幹部らも1月27日の発令後に初めて知ったとされる。ケリー米国土安全保障長官は7日、米下院委員会で「もう少し遅らせて出すべきだった」と述べ、非を認めた。
     (毎日新聞 2017/02/08 21:24)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2017/01/31 19:47 → http://www.freeml.com/bl/316274/295176/
 投稿日時 : 2017/02/02 19:14 → http://www.freeml.com/bl/316274/295448/

 

 

 

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2011年8月14日 (日)

1961年8月13日(ベルリンにおける公衆衛生学的処置としての「壁」)

 

 1961年8月13日、東西ベルリンの間に壁が築かれた。

 それから50年が過ぎたわけだ。

 

 

 『ウィキペディア』を引用すれば、

 

1961年8月13日0時、東ドイツ政府は東西ベルリン間68の道すべてを閉鎖し、有刺鉄線による最初の「壁」の建設を開始した。6時までに東西間の通行はほとんど不可能になり、有刺鉄線による壁は13時までにほぼ建設が完了した。2日後には石造りの壁の建設が開始された。

東ドイツは当時、この壁は西側からの軍事的な攻撃を防ぐためのものであると主張し、対ファシスト防壁 (antifassistischer Schutzwall) とも呼んでいた。これは名目で、実際には東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出するのを防ぐためのものであり、「封鎖」対象は西ベルリンではなく東ドイツ国民をはじめとした東側陣営に住む人々であった。壁は、後に数度作り変えられ、1975年に完成した最終期のものはコンクリートでできていた。壁の総延長は155kmに達した。

 

…と要約される出来事であった。

 

 ベルリンの壁の特異性については、これまでも度々取上げて来た(註:1)が、伝統的なヨーロッパの都市の城壁が外敵の侵入への防護を目的として築かれてきたのに対し、この『ウィキペディア』記事にあるように、1961年に築かれた「ベルリンの壁」は、

  実際には東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出するのを防ぐためのものであり、「封鎖」対象は西ベルリンではなく東ドイツ国民をはじめとした東側陣営に住む人々であった

…という事実に、そのユニークさが見出される。外敵の侵入(流入)に対する防護ではなく、東ドイツ国民の国外脱出(流出)の阻止を目的として築かれた「壁」なのであった。いわば、国家が自らをゲットーとして位置付けた瞬間である。

 

 その背後には、住民にとって共産主義者の支配が、資本主義者の支配より魅力的ではなかったという現実がある。当時の東ドイツの共産主義者達は、魅力ある共産主義社会の建設を目指すよりも、住民を共産主義社会に閉じ込める方が手っ取り早いと判断したのであろう。ちなみに、1961年当時ベルリンの壁の建設を指揮したのは、そのベルリンの壁が崩壊する1989年に最高指導者(国家評議会議長にして、ドイツ社会主義労働者党書記長)の地位にあったホーネッカーであった。『ウィキペディア』の「エーリッヒ・ホーネッカー」の項には、

  ホーネッカーは中央委員会の国防担当委員として1961年にベルリンの壁の建設を担当した。

…と記されている。

 

 

 

 東ドイツ(ドイツ民主共和国)の国民からすれば、ベルリンの壁に代表される東西ドイツ間の「壁」は、国境線内に国民を閉じ込めるためのものであった。彼らは、実際、閉じ込められたと感じ、壁の外への脱出を夢見ることになる。ある者は成功し、ある者はドイツ民主共和国国境警備隊員の銃弾に斃れることとなった。

 

 しかし、視点を移動させ、ベルリン(特に西ベルリン)に注目すると、東ドイツ国境内に西ベルリン市民を閉じ込めたものとして「壁」を位置付けることも出来る。西ベルリンとは、東独国境線内に存在する資本主義の拠点なのであり、「壁」は(西ベルリン市民をも含む)資本主義的世界を共産主義世界から隔離し閉じ込めるためのものとして位置付けることも可能なのである。

 つまり、こちらも一種のゲットーとして考えることも出来る。

 

 ゲットーとは、ここでも『ウィキペディア』を活用すれば、

  本来は、中世ヨーロッパにおいてユダヤ人が法律によって居住を強制された市街地区を指す言葉であった。

…とあるように、かつてのヨーロッパのユダヤ人隔離地区の総称であった。『ウィキペディア』を読み続けると、

 

13世紀後半以降、まずドイツでユダヤ人の強制隔離が実施されるようになった。こうしてできたユダヤ人の強制隔離居住区は、周囲が壁で囲まれ、出入りが制限され、また黄色の印などユダヤ人であることを示すマークを付けさせられるなどの様々な制限が課せられていた。

14世紀のペスト大流行でペストを持ち込んだとされたユダヤ人への迫害が強まり、ヨーロッパ中でユダヤ人の隔離政策が取られるようになっていき、ユダヤ人隔離居住区は教会から離れた場所に設けられることが一般化した。

フランス革命後、18世紀末以降西ヨーロッパ諸国では、フランス革命ならびに当時の自由主義運動を背にしたナポレオンがユダヤ人解放とともに各地のゲットーを解放した。1870年ごろにはローマのゲットーが、ヨーロッパに残る、法文による最後のゲットーとなっていた。しかし、ナポレオン失脚後、再びユダヤ人の生活には制限がかけられるようになり、アメリカへ移住するユダヤ人が大量に生まれることになった。また、他方でロシアや東欧諸国のゲットーは20世紀にいたるまで存続した。

 

…と、ヨーロッパ史の一部として描かれているユダヤ人の「ゲットー」の姿を見出すことが出来る。19世紀から20世紀初頭にはゲットーからのユダヤ人の解放と、それぞれの国民国家への同化の歴史も存在する。しかし一方で、ナチスに収斂する新たな反ユダヤ主義の流れが始まるのもその時代であった。

 進化論と遺伝学を背景にした優生学的人種差別主義の台頭である。そこでは、ユダヤ人は人種的に(あるいは生物学的に)劣等なものとされ、遺伝的隔離の対象とされる。同時にこの優生学的人種差別は、公衆衛生学的視線とも合体し、感染症における病原菌のイメージがユダヤ人に重ねられることになる。

 本来の優生学的(つまり遺伝学的)視点からは、劣等さの「感染源」としてのユダヤ人というイメージは発生し得ないが、近代とは感染症の病因としての病原菌の発見の時代でもあり、近代科学的知識の大衆化は、優生学的視点と感染症の病理学を合体させ、ユダヤ人は二重の意味で隔離されるべき存在として取扱われていくのである。アーリア人種の清潔な世界からのユダヤ人の排除は、遺伝的隔離としてだけではなく、伝染病患者の隔離と病原菌の消毒という公衆衛生学的イメージの下でも進行することになってしまう。

 やがてヨーロッパはナチスドイツの占領下となり、ポーランドにはゲットーが復活し、各国のユダヤ人も強制収容所に移送隔離され、絶滅施設も稼動し始める。優生学と公衆衛生学の合体したところに、害虫駆除用ガスによるユダヤ人殺害と焼却による死体処理システム(ガス室と焼却炉!)が完成するのである。

 

 

 

 さて、問題は東独である。共産主義者からすれば、資本主義は伝染性の強い悪疫であり、資本主義の感染からの防衛は、国家の衛生上の問題としてイメージされることになる。

 その意味で、西ベルリンを囲む壁は、悪疫の感染源から東ドイツ国民を保護する防壁としてイメージされ得るものとなる。ナチスとユダヤ人の関係が、東独の共産主義者と西ベルリン市民の関係として再現されているわけである。

 

 

 ゲットーとして西ベルリンを考えることで、ナチスから東独の共産主義者に継承された、20世紀に大衆化された近代的科学知識の姿の一端を垣間見ることが出来るようにも思われる。

 

 

 

(註:1)
 たとえば、「壁を築くことの意味」(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-5ea5.html)を参照。

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/08/13 22:29 → http://www.freeml.com/bl/316274/169469/

 

 

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2010年1月 6日 (水)

スバラシイ英国の監視社会の危機を救う日本の企業の姿

 

 複数のMLに参加しているわけだけれど、お遊び関係以外は、近現代史関係だったり、哲学(?)関係だったり、その他も情報獲得か議論が中心の「お堅い」ものが多い。

 自由に参加可能というネット上のMLという場には、当然のことながら様々な人間が参加しているわけで、投稿内容・議論内容も玉石混交となるのは止むを得ないことではある。

 

 

 アラシ系にはそれなりの対処の仕方があるけれど、当人がマジメな参加者として投稿を続けている(つもり)にもかかわらず、表明されるご意見は愚論ばかりという手合いには困るしかない。

 事実関係をあくまでも実証的に論じるか、あるいは問題をどこまで論理的に分析出来るかというスキルが、「お堅い」系のML投稿者には問われるのだと思うが、実証的な事実の提示への努力に配慮せず、論理水準の維持にも無関心に、ただただ「お気持ち」をのみ書き連ねたような「感想文」レベルの投稿を続けるタイプにはうんざりさせられるものだ。

 

 

 

 まぁ、今日もそんな投稿を読まさせられてウンザリしていたわけである。

 

 

 

 日本社会への悪口と英国社会の賛美のセットがお得意な人物が、相変わらずのつまらん話を続けていたわけだ。

 

 旭川の街角に林立する(らしい)警官の人形への文句やら、多過ぎる信号機への文句が書き連ねてあり、それに対し英国では…というお話の構成。警官の人形が不必要であることには同意するし、無駄な信号機に悩まされることも事実ではある。

 しかし、戦争体験の継承を目的としたML上でそんな話を聞かされても迷惑でしかない。実に退屈な話だ。

 

 まぁ、確かに英国はすばらしいよなぁ、先進的な監視社会だもんな、なんて思いながら読んでいたわけ。

 

 で、退屈しのぎに「英国 監視システム」で検索してみたら…

…なかなかに面白い話が出て来るのであった。

 

 

 

 

 「WIRED VISION」というサイトの、Charlie Sorrel 氏による「「全車両の移動を検索可能」:英国や日本の監視カメラ(動画)」(2009年5月28日)という記事から始めよう。
 (→ http://wiredvision.jp/news/200905/2009052821.html

 記事によれば、

 英国警察は、巨大な監視作戦を開始しようとしている。これに比べれば、[ジョージ・オーウェルの小説]『1984年』に登場する、[市民の行動を監視する双方向テレビ]「テレスクリーン」など、近所の店の監視カメラと同じくらい役立たずで善良に思える。

 英国の監視カメラのネットワークには、[街角に設置されたもののほかに、車両向けとして、]1日当たりおよそ1000万枚のナンバープレートを読み取れる『自動ナンバープレート認識』(ANPR)の大量のカメラも含まれる。読み取られたナンバープレートはすぐに中央コンピューターに送信・蓄積され、全国で共有される。[英語版Wikipediaによると、データは5年間に渡って保存。今後は1日あたり1億件のデータを処理できるようにする計画]

という話である。更に、

 このネットワークには、簡単なソフトウェアのアップグレードで、ほとんどすべての「それなりの機能を備えた」カメラを追加できるという。つまり、その数の多さで有名な英国の監視カメラをネットワーク化して、ナンバープレートのデータベースと統合できるのだ。[ロンドンに設置された監視カメラ総数は50万台、英国全体では420万台と推定されている]

 理論的には、全国のすべての車が追跡される可能性がある。あちこちにある監視ネットワークで居所が追跡されるだけでなく、ナンバープレートを検索エンジンに入力するだけで居所がわかるようになる世界だ。

というシステムが構築可能なわけだ。

 その420万台という監視カメラ数は、「WIRED VISION」の別の記事によれば、

 BBCの記事によると、英国では420万台の監視カメラが設置されており、これは14人に1台という割合

という計算になるらしい。
 (→ http://wiredvision.jp/news/200809/2008090221.html

 

 

 何ともスバラシイ監視社会ぶりである。さすがに英国はオーウェルの故国であった。

 

 

 

…なんて感嘆していたわけであるが、検索を続けると更に驚愕の実態が…

 

 

 ご紹介するのは、「CNET Japan」というサイトにある、「「データが膨大で手が回らない」--監視カメラ大国の英国で警察が悲鳴」(2009/05/18 17:19)という Tom Espiner氏の記事である。
 (→ http://japan.cnet.com/news/sec/story/0,2000056024,20393264,00.htm

 同記事によれば、

 英国警察長協会(Association of Chief Police Officers:ACPO)によると、警察は監視カメラが日々生成する大量の情報に手が回らなくなっているという。

 ACPOの犯罪記録局で情報ディレクターを務めるIan Readhead氏は先週、警察は監視カメラからの大量のデータに圧倒されており、警察が監視カメラの1機能である「Automatic Number Plate Recognition System(自動ナンバープレート認識システム)」を使ってリアルタイムで車を追跡できなくなっていることは大きな懸念の1つであると述べた。

というのである。記事は、

 保守党の「影の内閣」で内務相を務めるDominic Grieve氏は、犯罪対策ツールとしての監視カメラの効力は明確ではなく、警察による監視カメラの利用はリソース不足が障害となっていると述べている。

という言葉で結ばれているのであった。

 情報は解析されなければ意味を成さない。あまりに大量の情報に対し、解析作業が追いつかなくなっているというのである。取得された情報が何も生み出さない状況が出現してしまっているわけだ。

 実に皮肉な話である。

 

 

 

 しかし、話はまだ続く。

 

 ブログ「目黒川の畔にて」にある「英国監視カメラ(CCTV)社会の実際」(June 26, 2008)という記事を読もう。
 (→ http://tokyo-nagano.txt-nifty.com/smutai/2008/06/cctv_c5c2.html

 記事は、

 英国では、CCTVという言葉が一般に通用する用語として定着しています。世界に4千万台設置されているとされているCCTVの実に10分の1とも言われる台数が英国に設置されているとも言われています。

 CCTVはClosed-circuit television(有線テレビ)の略称であり、防犯用・監視用に幅広く使われています。英国セコム社長の竹澤稔氏は、1日ロンドンを歩くと、300回くらいはCCTVに撮影されていることになるとおっしゃっておられます。

という解説から始まる。ここでは、英国に設置されている監視カメラの国民14人に1台という台数が、世界中の監視カメラ台数の10分の1が英国に存在するという事実として示されているわけだ。しかし、先の「CNET Japan」の記事同様に、

 最近行われたセキュリティ対策(安全対策)に関する会合で、警察幹部が、CCTV カメラの犯罪抑止効果を否定する発言を行い、物議を醸しています。

 2008 年4 月にロンドン市内で行われたウェブサイト「セキュリティ・ドキュメント・ワールド」12の主催する会合で、ロンドン警視庁の「視覚映像・身元識別・検出局(Visual Images,Identifications and Detections Office; Viido)」の局長であるミック・ネビルし捜査部長が、「CCTV カメラでは、裁判で容疑者を有罪に持ち込むのに十分なほど質の良い映像を撮ることができず、その結果として、犯罪抑止効果をもたらすことにも成功していない。英国におけるCCTV カメラの利用は、膨大な資金の無駄遣いとなっている」との発言を行っています。

という現状を紹介している。

 同記事には、「CCTV カメラの映像の監視を行う警察職員は、より多くの訓練が必要とされており」、「CCTV カメラの映像監視は、退屈な仕事であるとして回避されがちである」というロンドン警視庁捜査部長の言葉も載せられている。確かにウンザリさせられる仕事に違いない。

 

 もっとも、うがった見方をすれば、監視社会化への懸念を逸らすための警察当局者の発言と解釈することも出来そうではある。

 

 しかし、そんな英国への救いの手は、既に差し延べられているのである。「監視カメラ大国の英国で警察が悲鳴」という事態への救いの手は、なんと、日本から差し延べられていたのであった。筆者は続ける。

 さて、一般的にはCCTVの設置台数が異常に多い割には、その機能自体に対しては疑問の声も出ている英国ではありますが、CCTVを実際のサービス向上に生かしている日本の企業が英国にはあります。セコムPLCという英国セコムです。

どういうことかというと、

 このように、英国の警備会社は防犯装置の販売のみを行なうのみであり、後は警察にお任せ、というのが基本であるに対し、セコムは、CCTVでの監視に加え、防犯装置が作動した場合、オーナーへの連絡や、警察の初動対応の下準備のため鍵を持参し現場へ駆けつけるなど、ソフトの防犯サービスを提供していることで競争力をつけてきたようです。 防犯装置の販売だけでなく防犯サービスそのものを提供するというセコム方式は、韓国や台湾等のアジアにおいても取り入れられてきましたが、英国においても、警報器が鳴った際の初動対応は警察が行なうとされてはいるものの、実際には、上述のように警察の対応にも制限があったり、警察の十分な対応は期待できないため、セコム方式の防犯サービスの提供は英国マーケットにおいても歓迎されているということです。

というお話なのである。予想もつかぬ展開であった。

 

 

 

 セコムの活躍とは別次元で、監視カメラ映像の解析プログラムの開発という解析システムの自動化という方向も追求されてはいるわけなので、この問題、まだまだ今後の展開には予断を許さぬところがあるようではある。

 たとえば顔面による個人識別認証システムの開発とか…
 (顔認証システム → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%94%E8%AA%8D%E8%AD%98%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0
 既に最近では、顔認証システムがコンパクトカメラに組み込まれていたりする事例もある。画角内にある既に登録設定された顔をカメラが認識し、撮影時のピントや露出が自動設定されるらしい。

 

 

 

…とまで話が発展してしまったことを思えば、退屈極まりないMLの投稿を読まさせられたのも必ずしも無駄ではなかった、ということであろうか?

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/01/05 23:51 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/126816/user_id/316274

 

 

 

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2009年11月 9日 (月)

壁を築くことの意味

 

 壁を築くこと。

 

 

 

 壁とは、内部と外部を分かつ境界として機能するものだ。

 壁の内部とは、私の部屋であり、我が家であり、そして国境線の内側である。

 そこは私の場所であり、私達の場所である。

 

 外部には異質な世界が広がり、時には危険であるかも知れない。

 

 そんな異質で危険でさえある外部から、壁が、私を、私達を守るというわけだ。

 そのために私達は壁を築く。安全な世界を維持するために。

 

 

 

 そんな壁に対し、内部に築かれる壁というものもある。刑務所の壁であり、精神病院の壁がそれだ。内部の異質さ、そして危険と想定される存在を、内部世界から排除・隔離するための壁である。彼らは内部の内部に閉じ込められる。築かれるのは、内部の内部に閉じ込めるための壁なのである。

 

 

 

 20世紀の前半、ナチスは内部の危険な異質さとしてユダヤ人を指名し、ドイツの国民生活からの排除に着手し、やがて強制収容所のフェンス(つまり壁である)の内に閉じ込め、ガス室の扉の向こうに閉じ込め、最後にはその生命を世界から排除した。

 占領地では、まず、ゲットーの壁の内部にユダヤ人は閉じ込められ、外部から隔離された。壁は外部の生活世界からユダヤ人を隔離し、つまり生産活動からも経済活動からもユダヤ人は切り離され、生活基盤そのものを奪われた状態に置かれることになる。ゲットーの壁はユダヤ人の生を守るものではないのである。

 ゲットーのユダヤ人も、強制収容所あるいは絶滅収容所に順次移送され、その多くは焼却炉の煙となった。

 

 ゲットーや強制収容所の壁により守られたのは、アーリア人の純潔であり、ナチスにとって望ましいドイツの姿であった。

 

 

 

 

 

 20世紀後半のドイツの共産主義者達は、新たな壁を築くことになる。

 1961年、東西ベルリンは壁により分断された。

 この壁の特異性は、これまでにも何度か書いたことだと思うが、繰り返し考察するに値するものだ。

 

 資本主義世界から共産主義世界を守る壁、というのは正確な評価ではないのである。異質で危険な外部の脅威から内部世界を守る壁ではないのだ。内部への外部の流入に対する防波堤ではないのである。

 共産主義者が統治する世界から、資本主義者が統治する世界への国民の移動を阻むための壁なのである。ドイツ民主共和国からドイツ連邦共和国の領域への住民の移動を阻止すること、つまり、内部の外部への流出を阻止するための壁なのである。

 

 ベルリンに築かれた壁で何が何から守られたのか? これは考えておくに値する問題ではないだろうか?

 果たして共産主義世界は、ベルリンの壁で守られていたのだろうか? …という問題である。

 ベルリンの壁で守られたのは、共産主義者の純潔であり、共産主義者にとって望ましいドイツの姿であった、と言い切ることが出来るのか? …という問題なのである。

 

 自らの国民を外部から隔離し、壁の内部に閉じ込めるという選択。その発想に示されているのは、ドイツの東側を統治した共産主義者の弱体ぶりであろう。

 壁により守られたのは、国民ではなく、共産主義者による統治体制の存続であったに過ぎないのである。

 

 

 

 

 

 かつてナチスにより、壁の中に閉じ込められ、ガス室のドアの中に閉じ込められ、生命を奪われた経験を持ったユダヤ人が、自らの民族国家であるイスラエルの建国に成功したのは20世紀後半のことであった。

 国境という壁により外部の脅威から守られることのなかったユダヤ人が、自らの民族国家を獲得し、国境線と国軍により守られる安全な内部空間を確保したのである。

 

 しかし、歴史的に、イスラエル国家の土地はパレスチナ人の土地なのであり、ユダヤ人によるイスラエル国家の建国が意味するのは、パレスチナに対する占領統治なのである。

 ユダヤ人にとっての安全な内部空間は、パレスチナ人にとっては不当な占領状態の空間なのである。安全なはずの内部空間は、最初から不安定なものなのであった。

 イスラエル国家のユダヤ人にとり、パレスチナ人の存在は内部の異質性、内部の不安定要因、内部の危険として理解されることにならざるを得ない。

 

 21世紀のイスラエル国家のユダヤ人の選択は、新たな壁の構築であった。

 新たな壁を築き、パレスチナ人を壁の内部に閉じ込める。ユダヤ人国家内部の安全は、内部に新たに構築される壁により保証されることになる(はず)なのである。

 

 壁は、外部からパレスチナ人を隔離し、パレスチナ人同士を分断し、パレスチナ人による生産活動や経済活動の自由を奪うものとなる。つまり、パレスチナ人からの生活基盤の剥奪を意味するものとなるのである。

 かつてナチスが築いたゲットーの壁と同じ効果をパレスチナ人にもたらすのである。

 

 そのような壁の構築は、果たしてイスラエル国家内部のユダヤ人の安全に、永続的な効果を持ち得るものなのだろうか?

 

 少なくとも、かつてのホロコースト被害者の末裔が、かつてのナチスの似姿を演じていることの意味は、考えておくべきであろう。

 他者への永続的な抑圧が、自らの安全の保証を意味するものだという信念の構築がもたらすのは、当人の道徳的腐敗以外の何物でもないように思われる。

 

 もちろん、ナチスの将校も、ドイツ民主共和国の共産主義者達も、自らの道徳的正しさをこそ確信していたに違いないのであるが…

 

 

 

 

 

 

 

 1989年の11月8日。

 ドイツ民主共和国の共産主義者達は、その社会主義統一党の中央委員会総会を開催していた。

 その時点では、誰も、翌日に起きるいわゆる「ベルリンの壁崩壊」を予測してはいなかったのである。

 そんな20年前の出来事を思いながら、あらためて壁という存在について考えてみたわけだ。

 20世紀と21世紀の歴史の中の「壁」の姿である。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/11/08 18:47 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/121540

 

 

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2009年10月22日 (木)

老眼と自己決定 (31) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 7

 

 今回も、ナチス体制下の「エホバの証人」についての話題である。

 

 

 

 

 1933年のナチスの政権掌握後、様々な形で示された「エホバの証人」信者のナチス体制への非同調的態度が、彼らにもたらした社会的苦難については既にご紹介した通りである。ナチス国家による信者への公的な「迫害」行為であったと考えるべきだろう。

 1935年に至り、ドイツの再軍備に伴う一般徴兵制の復活に際し、「エホバの証人」は「徴兵拒否」で応じた。その結果、「しだいに多くのものが刑務所や強制収容所へ拘留されることになった」(シビル・ミルトン)わけである。

 

 

 徴兵拒否により、「エホバの証人」は、それまでの雇用機会の剥奪や社会的福祉からの除外といったドイツ社会内からの間接的排除とでも言うべき段階から、刑務所や強制収容所への拘留という、国民社会からの直接的な排除という段階へと進んだナチス体制の対応に直面することになったわけだ。「迫害」の新たな段階と言うことが出来るだろう。

 

 強制収容所内での「エホバの証人」の姿について、高橋三郎が、

  「エホバの証人」ともよばれるこのグループは、エホバにたいする信仰から兵役を拒否して、ナチスが政権を獲得した直後から弾圧されていた。しかし、強制収容所の内部ではやや特異な地位を占めていた。彼らは信仰の放棄書に署名さえすれば、いつでも完全に自由の身になることができたのである。また、すすんで勤勉に仕事を果たしたから、SSからもある種の敬意をうけ、比較的楽な仕事やSS隊員の家事に使われた。だが他方、SSは、ドイツ人でありながらかたくなな信仰の故にナチス・ドイツに協調しようとしない「紫」に強い憎しみを抱くことがあった。

…と書いていたことは既に紹介したが、今回はシビル・ミルトンの記述により、より詳細な状況を把握しておきたい。

 ミルトンによれば、

  証人たちはダッハウで隔離され、特別な懲罰隊に編成され、ダッハウのほか、マウトハウゼン、ザクセンブルク、そしてザクセンハウゼンで強制労働に割り当てられた。フロッセンブルクでは火葬場で働く仕事が割り当てられた。エスターヴェーゲンでは便所清掃の仕事が割り当てられた。証人たちはしばしば日曜労働を要求された。それは彼らの宗教的な信念を侵害するものだった。モーリンゲン、リヒテンブルク、そしてラーヴェンスブリュックの女性収容所に拘留された証人たちは強制労働に服し、栄養不良、さらし刑、体罰、そして隔離の刑にさらされた。彼らの「どんな他の集団にも見られないような反対と殉教の非妥協的精神」は、1930年代に亡命社会主義者によって配布された『ドイツ報告』の報告でとりわけ注目された。1938年10月、リヒテンブルクについてのそんなひとつの報告では、エホバの証人の囚人たちが収容所全体に放送されたヒトラーの演説を聴くのを拒否したことが記録されている。「親衛隊員はエホバの証人たちにホースで水をかけ、彼らを殴打し、総統が演説している間、一時間以上、彼らをずぶ濡れで立たせていた。10月下旬で、ひどく寒かった。その後、彼らの誰も治療を受けなかった。食物は2日か3日間、与えないで放置された」。

…いうことだ。

 高橋三郎の紹介した「信仰の放棄書」について、ミルトンは、

  ほとんどの証人たちはそんな宣言書にサインしなかった。彼らが拒否した結果、ザクセンハウゼンでは40人以上の証人たちに死刑が執行された。

…と書いている。宣言拒否が死刑執行を意味しても、彼らは非妥協的であり続けたわけである。

 「エホバの証人」は、「徴兵拒否」にとどまらず広範な「戦争関係業務拒否」も貫いた。再びミルトンによれば、強制収容所内でも、

  証人たちは軍務を嫌悪した。そのため、毛皮が軍服に使われるというのでウサギの番さえ拒否することも起きた。その結果、何人かの女性囚は、ラーヴェンスブリュックとアウシュヴィッツ(オシフィエンチム)で反逆罪により死刑を執行された。

…ということになるのである。

 

 最終的には、「軍務拒否」により、

  1938年以降、250人以上のエホバの証人がドイツの軍隊に仕えることを拒否して、死刑判決を受け執行された。その罪状はドイツや併合されたオーストリアでの防衛力破壊だった。エホバの証人は「強情なイデオロギー的な犯罪者たち」と見なされた。彼らは39年8月26日の特別軍事犯罪法典に公布された規定によって死刑判決を受けた。

…という取り扱いを、「エホバの証人」は受けることになるのであった。

 軍務の拒否が死刑執行を意味しようとも、彼らが態度変更することはなかったのである。

 

 直接の死刑執行以外に、強制収容の対象となった1万人の「エホバの証人」のうち、約2500人が(虐待の結果、ということであろう)収容所内で死亡しているということだ。

 

 

 

 

 

 今回は、「エホバの証人」の「徴兵拒否・軍務拒否」が彼らに何をもたらしたのか、そしてそれに彼らがどのように対応したのかについて、『ホロコースト大事典』中のシビル・ミルトンの記述を参考に書いてみた。

 

 

 「死罪」にもひるむことなく、信仰上の要求を守り続ける彼らの姿がそこにある。

 「出血多量による死」の可能性を受け入れ、「輸血拒否」という信仰上の要求を守ろうとする「エホバの証人」の姿は、かつてのナチス体制を前にしての彼らの姿と、実によく重なるように思える。

 生の存続が持つ価値は、信仰上の要求に従うことより大きなものではない。

 それが、ナチス体制を前にした彼らを支え、輸血拒否を宣言する彼らを支える、彼らの信仰が彼らにもたらした彼らの価値観なのである。

 そのように私は考える。

 

 

 

  

 「輸血拒否」の話題とは別に、私の「エホバの証人」への興味の原点であったナチス体制下での彼らの姿を確認しておくつもりで書き始めたのであったが、書き進めた結果、両者は「別の話題」ではまったくないことに気付くことが出来た。

 思いもよらぬことであったが、個人的には大きな収穫であったと感じている。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/21 22:20 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/119831

 

 

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老眼と自己決定 (30) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 6

 

 「エホバの証人」とナチスというテーマが続いている。

 

 

 「エホバの証人」が、ナチスの強制収容所の中で、他の収容者から独立したカテゴリーを与えられていたことに着目して、これまでの稿を進めてきたわけである。

 

 

 

 しかし、昨日ご紹介した、『ホロコースト大事典』中のシビル・ミルトンによる「エホバの証人」の項を注意深く読めば、ナチス体制が当初から「エホバの証人」を強制収容所収容者として取り扱っていたわけでもないことがわかる。

 ミルトンによれば、

  35年の強制兵役の導入により、彼らの徴兵拒否や戦争関係業務拒否の結果、しだいに多くのものが刑務所や強制収容所に拘留されることとなった。

…ということなのである。

 

 1935年1月のナチスの政権掌握後に、「ハイル・ヒトラー」の敬礼を拒否し、選挙・国民投票への投票を拒否し、ナチ党組織への参加を拒否するといった「エホバの証人」の振る舞いは、就業機会の喪失、資産の没収、社会保証制度からの排除等の、彼らからの社会的基盤の剥奪という事態を生み出した。

 彼らの子供も、ナチスの標的とされることを免れ得ない。再びミルトンによれば、

  エホバの証人の子どもたちは、学校で侮辱と宣伝のはてしない集中砲火を浴びることになった。また同級生や教師による身体的な暴力の散発的な標的にもなった。ナチ国家の抑圧的装置はエホバの証人の家族生活や育児の領域にも拡がった。子どもはナチ教育の規範に従わないということで排斥された。彼らはヒトラー・ユーゲントに加入する意思がないことを理由に、しばしば非行少年と宣告され、矯正施設に監禁された。両親の保護監督権も奪われた。そのもっともらしい理由は、ドイツ民法1666条によるものであった。エホバの証人の親たちは子どもを「国家社会主義の精神におけるドイツ的方法から遠ざけることによって、子どもの福利厚生を危険にさらした」というわけである。38年までに、エホバの証人の860以上の家族から、子どもが矯正施設、感化院、そしてナチスの家庭に移されていった。38年12月27日、帝国内務大臣はすべての青少年局や市町村の監督当局に宛てて回状を出し、「政治的に信頼できない家族」から子どもを引き離しナチスの家庭へ移すことを命じた。さらにナチ国家はまた、エホバの証人の両親には追加的な児童手当の支払いを拒否した。

…という事態が、エホバの証人の家族を襲うのである。

 しかし、彼らが反ナチの政治活動をしたというわけではない。そもそも、彼ら自身の意識の中では、彼らはナチス体制への政治的敵対者ではないのである。あくまでも、

  われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

…という、彼らの信仰に基づく、彼らの信仰が彼らに求める振る舞いを続けただけなのだ。

 それがナチス体制に、徹頭徹尾、適合的ではなかったということなのである。

 

 

 現在の「エホバの証人」に関して、彼らの特異性の凝集点として周囲の社会から取り扱われることの多い「輸血拒否」もまた、同様の構図の下にあることが指摘出来るように思う。

 彼らは決して、社会的多数者(マジョリティー)の常識に対する反抗を目的として、「輸血拒否」の意思表明をしているわけではない。

 医療という場において、彼らが彼らの信仰に基づく、彼らの信仰が彼らに求める振る舞いを続けているだけのことなのである。

 ナチス体制下の「エホバの証人」にとり、ナチ体制への非同調は、彼らの信仰の維持の上で切実な問題であったが、ナチ体制への反抗を信者以外の人々に求めるものではなかった。同様に、現在の「エホバの証人」にとって、「輸血拒否」はあくまでも彼ら自身の信仰上の切実な問題なのであって、「輸血拒否」を信者以外の人々にまで求めようとするものではない。

 私も含め、(「輸血」をめぐる問題において)マジョリティーに属する側にいる人間には、その構図に自覚的になっておく必要があるように思う。

 

 

 「エホバの証人」による「輸血拒否」に関しては、彼らの子どもの取り扱いが焦点の一つとなっているわけだが、ナチス体制下でのエホバの証人の家族(彼らの子ども)の運命、その際の彼ら(親達)の態度を振り返ると、ここにも構図の同型性を指摘出来るようにも思う。

 ナチスによる、彼らの子ども達への過酷な取り扱いが、彼らのナチス体制への態度を変化させることはなかったのである。

 あくまでも、

  われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

…ということなのだ。「キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる」以上、現世内での彼ら自身が、そして彼らの子どもが味わう苦痛・苦難が、彼らの信仰上の態度決定に影響するようなことは、あり得ないこととして考えなければならないのである。

 

 

 

 

 そして、1935年、ドイツの再軍備と共に兵役が義務化された際にも、彼らは徴兵拒否の態度を貫き、結果として強制収容所の収容者の独立したカテゴリーを構成することになるのであった。

 

 

 彼らは、あくまでも、

  われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

…という態度、信仰者としての態度をもって、現世に臨んでいるだけなのである。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/20 23:02 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/119724

 

 

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