カテゴリー「ユートピアとしての全体主義」の記事

2009年11月 9日 (月)

壁を築くことの意味

 

 壁を築くこと。

 

 

 

 壁とは、内部と外部を分かつ境界として機能するものだ。

 壁の内部とは、私の部屋であり、我が家であり、そして国境線の内側である。

 そこは私の場所であり、私達の場所である。

 

 外部には異質な世界が広がり、時には危険であるかも知れない。

 

 そんな異質で危険でさえある外部から、壁が、私を、私達を守るというわけだ。

 そのために私達は壁を築く。安全な世界を維持するために。

 

 

 

 そんな壁に対し、内部に築かれる壁というものもある。刑務所の壁であり、精神病院の壁がそれだ。内部の異質さ、そして危険と想定される存在を、内部世界から排除・隔離するための壁である。彼らは内部の内部に閉じ込められる。築かれるのは、内部の内部に閉じ込めるための壁なのである。

 

 

 

 20世紀の前半、ナチスは内部の危険な異質さとしてユダヤ人を指名し、ドイツの国民生活からの排除に着手し、やがて強制収容所のフェンス(つまり壁である)の内に閉じ込め、ガス室の扉の向こうに閉じ込め、最後にはその生命を世界から排除した。

 占領地では、まず、ゲットーの壁の内部にユダヤ人は閉じ込められ、外部から隔離された。壁は外部の生活世界からユダヤ人を隔離し、つまり生産活動からも経済活動からもユダヤ人は切り離され、生活基盤そのものを奪われた状態に置かれることになる。ゲットーの壁はユダヤ人の生を守るものではないのである。

 ゲットーのユダヤ人も、強制収容所あるいは絶滅収容所に順次移送され、その多くは焼却炉の煙となった。

 

 ゲットーや強制収容所の壁により守られたのは、アーリア人の純潔であり、ナチスにとって望ましいドイツの姿であった。

 

 

 

 

 

 20世紀後半のドイツの共産主義者達は、新たな壁を築くことになる。

 1961年、東西ベルリンは壁により分断された。

 この壁の特異性は、これまでにも何度か書いたことだと思うが、繰り返し考察するに値するものだ。

 

 資本主義世界から共産主義世界を守る壁、というのは正確な評価ではないのである。異質で危険な外部の脅威から内部世界を守る壁ではないのだ。内部への外部の流入に対する防波堤ではないのである。

 共産主義者が統治する世界から、資本主義者が統治する世界への国民の移動を阻むための壁なのである。ドイツ民主共和国からドイツ連邦共和国の領域への住民の移動を阻止すること、つまり、内部の外部への流出を阻止するための壁なのである。

 

 ベルリンに築かれた壁で何が何から守られたのか? これは考えておくに値する問題ではないだろうか?

 果たして共産主義世界は、ベルリンの壁で守られていたのだろうか? …という問題である。

 ベルリンの壁で守られたのは、共産主義者の純潔であり、共産主義者にとって望ましいドイツの姿であった、と言い切ることが出来るのか? …という問題なのである。

 

 自らの国民を外部から隔離し、壁の内部に閉じ込めるという選択。その発想に示されているのは、ドイツの東側を統治した共産主義者の弱体ぶりであろう。

 壁により守られたのは、国民ではなく、共産主義者による統治体制の存続であったに過ぎないのである。

 

 

 

 

 

 かつてナチスにより、壁の中に閉じ込められ、ガス室のドアの中に閉じ込められ、生命を奪われた経験を持ったユダヤ人が、自らの民族国家であるイスラエルの建国に成功したのは20世紀後半のことであった。

 国境という壁により外部の脅威から守られることのなかったユダヤ人が、自らの民族国家を獲得し、国境線と国軍により守られる安全な内部空間を確保したのである。

 

 しかし、歴史的に、イスラエル国家の土地はパレスチナ人の土地なのであり、ユダヤ人によるイスラエル国家の建国が意味するのは、パレスチナに対する占領統治なのである。

 ユダヤ人にとっての安全な内部空間は、パレスチナ人にとっては不当な占領状態の空間なのである。安全なはずの内部空間は、最初から不安定なものなのであった。

 イスラエル国家のユダヤ人にとり、パレスチナ人の存在は内部の異質性、内部の不安定要因、内部の危険として理解されることにならざるを得ない。

 

 21世紀のイスラエル国家のユダヤ人の選択は、新たな壁の構築であった。

 新たな壁を築き、パレスチナ人を壁の内部に閉じ込める。ユダヤ人国家内部の安全は、内部に新たに構築される壁により保証されることになる(はず)なのである。

 

 壁は、外部からパレスチナ人を隔離し、パレスチナ人同士を分断し、パレスチナ人による生産活動や経済活動の自由を奪うものとなる。つまり、パレスチナ人からの生活基盤の剥奪を意味するものとなるのである。

 かつてナチスが築いたゲットーの壁と同じ効果をパレスチナ人にもたらすのである。

 

 そのような壁の構築は、果たしてイスラエル国家内部のユダヤ人の安全に、永続的な効果を持ち得るものなのだろうか?

 

 少なくとも、かつてのホロコースト被害者の末裔が、かつてのナチスの似姿を演じていることの意味は、考えておくべきであろう。

 他者への永続的な抑圧が、自らの安全の保証を意味するものだという信念の構築がもたらすのは、当人の道徳的腐敗以外の何物でもないように思われる。

 

 もちろん、ナチスの将校も、ドイツ民主共和国の共産主義者達も、自らの道徳的正しさをこそ確信していたに違いないのであるが…

 

 

 

 

 

 

 

 1989年の11月8日。

 ドイツ民主共和国の共産主義者達は、その社会主義統一党の中央委員会総会を開催していた。

 その時点では、誰も、翌日に起きるいわゆる「ベルリンの壁崩壊」を予測してはいなかったのである。

 そんな20年前の出来事を思いながら、あらためて壁という存在について考えてみたわけだ。

 20世紀と21世紀の歴史の中の「壁」の姿である。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/11/08 18:47 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/121540

 

 

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2009年10月22日 (木)

老眼と自己決定 (31) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 7

 

 今回も、ナチス体制下の「エホバの証人」についての話題である。

 

 

 

 

 1933年のナチスの政権掌握後、様々な形で示された「エホバの証人」信者のナチス体制への非同調的態度が、彼らにもたらした社会的苦難については既にご紹介した通りである。ナチス国家による信者への公的な「迫害」行為であったと考えるべきだろう。

 1935年に至り、ドイツの再軍備に伴う一般徴兵制の復活に際し、「エホバの証人」は「徴兵拒否」で応じた。その結果、「しだいに多くのものが刑務所や強制収容所へ拘留されることになった」(シビル・ミルトン)わけである。

 

 

 徴兵拒否により、「エホバの証人」は、それまでの雇用機会の剥奪や社会的福祉からの除外といったドイツ社会内からの間接的排除とでも言うべき段階から、刑務所や強制収容所への拘留という、国民社会からの直接的な排除という段階へと進んだナチス体制の対応に直面することになったわけだ。「迫害」の新たな段階と言うことが出来るだろう。

 

 強制収容所内での「エホバの証人」の姿について、高橋三郎が、

 「エホバの証人」ともよばれるこのグループは、エホバにたいする信仰から兵役を拒否して、ナチスが政権を獲得した直後から弾圧されていた。しかし、強制収容所の内部ではやや特異な地位を占めていた。彼らは信仰の放棄書に署名さえすれば、いつでも完全に自由の身になることができたのである。また、すすんで勤勉に仕事を果たしたから、SSからもある種の敬意をうけ、比較的楽な仕事やSS隊員の家事に使われた。だが他方、SSは、ドイツ人でありながらかたくなな信仰の故にナチス・ドイツに協調しようとしない「紫」に強い憎しみを抱くことがあった。

と書いていたことは既に紹介したが、今回はシビル・ミルトンの記述により、より詳細な状況を把握しておきたい。

 ミルトンによれば、

 証人たちはダッハウで隔離され、特別な懲罰隊に編成され、ダッハウのほか、マウトハウゼン、ザクセンブルク、そしてザクセンハウゼンで強制労働に割り当てられた。フロッセンブルクでは火葬場で働く仕事が割り当てられた。エスターヴェーゲンでは便所清掃の仕事が割り当てられた。証人たちはしばしば日曜労働を要求された。それは彼らの宗教的な信念を侵害するものだった。モーリンゲン、リヒテンブルク、そしてラーヴェンスブリュックの女性収容所に拘留された証人たちは強制労働に服し、栄養不良、さらし刑、体罰、そして隔離の刑にさらされた。彼らの「どんな他の集団にも見られないような反対と殉教の非妥協的精神」は、1930年代に亡命社会主義者によって配布された『ドイツ報告』の報告でとりわけ注目された。1938年10月、リヒテンブルクについてのそんなひとつの報告では、エホバの証人の囚人たちが収容所全体に放送されたヒトラーの演説を聴くのを拒否したことが記録されている。「親衛隊員はエホバの証人たちにホースで水をかけ、彼らを殴打し、総統が演説している間、一時間以上、彼らをずぶ濡れで立たせていた。10月下旬で、ひどく寒かった。その後、彼らの誰も治療を受けなかった。食物は2日か3日間、与えないで放置された」。

ということだ。

 高橋三郎の紹介した「信仰の放棄書」について、ミルトンは、

 ほとんどの証人たちはそんな宣言書にサインしなかった。彼らが拒否した結果、ザクセンハウゼンでは40人以上の証人たちに死刑が執行された。

と書いている。宣言拒否が死刑執行を意味しても、彼らは非妥協的であり続けたわけである。

 「エホバの証人」は、「徴兵拒否」にとどまらず広範な「戦争関係業務拒否」も貫いた。再びミルトンによれば、強制収容所内でも、

 証人たちは軍務を嫌悪した。そのため、毛皮が軍服に使われるというのでウサギの番さえ拒否することも起きた。その結果、何人かの女性囚は、ラーヴェンスブリュックとアウシュヴィッツ(オシフィエンチム)で反逆罪により死刑を執行された。

ということになるのである。

 

 最終的には、「軍務拒否」により、

 1938年以降、250人以上のエホバの証人がドイツの軍隊に仕えることを拒否して、死刑判決を受け執行された。その罪状はドイツや併合されたオーストリアでの防衛力破壊だった。エホバの証人は「強情なイデオロギー的な犯罪者たち」と見なされた。彼らは39年8月26日の特別軍事犯罪法典に公布された規定によって死刑判決を受けた。

という取り扱いを、「エホバの証人」は受けることになるのであった。

 軍務の拒否が死刑執行を意味しようとも、彼らが態度変更することはなかったのである。

 

 直接の死刑執行以外に、強制収容の対象となった1万人の「エホバの証人」のうち、約2500人が(虐待の結果、ということであろう)収容所内で死亡しているということだ。

 

 

 

 

 

 今回は、「エホバの証人」の「徴兵拒否・軍務拒否」が彼らに何をもたらしたのか、そしてそれに彼らがどのように対応したのかについて、『ホロコースト大事典』中のシビル・ミルトンの記述を参考に書いてみた。

 

 

 「死罪」にもひるむことなく、信仰上の要求を守り続ける彼らの姿がそこにある。

 「出血多量による死」の可能性を受け入れ、「輸血拒否」という信仰上の要求を守ろうとする「エホバの証人」の姿は、かつてのナチス体制を前にしての彼らの姿と、実によく重なるように思える。

 生の存続が持つ価値は、信仰上の要求に従うことより大きなものではない。

 それが、ナチス体制を前にした彼らを支え、輸血拒否を宣言する彼らを支える、彼らの信仰が彼らにもたらした彼らの価値観なのである。

 そのように私は考える。

 

 

 

  

 「輸血拒否」の話題とは別に、私の「エホバの証人」への興味の原点であったナチス体制下での彼らの姿を確認しておくつもりで書き始めたのであったが、書き進めた結果、両者は「別の話題」ではまったくないことに気付くことが出来た。

 思いもよらぬことであったが、個人的には大きな収穫であったと感じている。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/21 22:20 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/119831

 

 

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老眼と自己決定 (30) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 6

 

 「エホバの証人」とナチスというテーマが続いている。

 

 

 「エホバの証人」が、ナチスの強制収容所の中で、他の収容者から独立したカテゴリーを与えられていたことに着目して、これまでの稿を進めてきたわけである。

 

 

 

 しかし、昨日ご紹介した、『ホロコースト大事典』中のシビル・ミルトンによる「エホバの証人」の項を注意深く読めば、ナチス体制が当初から「エホバの証人」を強制収容所収容者として取り扱っていたわけでもないことがわかる。

 ミルトンによれば、

 35年の強制兵役の導入により、彼らの徴兵拒否や戦争関係業務拒否の結果、しだいに多くのものが刑務所や強制収容所に拘留されることとなった。

ということなのである。

 

 1935年1月のナチスの政権掌握後に、「ハイル・ヒトラー」の敬礼を拒否し、選挙・国民投票への投票を拒否し、ナチ党組織への参加を拒否するといった「エホバの証人」の振る舞いは、就業機会の喪失、資産の没収、社会保証制度からの排除等の、彼らからの社会的基盤の剥奪という事態を生み出した。

 彼らの子供も、ナチスの標的とされることを免れ得ない。再びミルトンによれば、

 エホバの証人の子どもたちは、学校で侮辱と宣伝のはてしない集中砲火を浴びることになった。また同級生や教師による身体的な暴力の散発的な標的にもなった。ナチ国家の抑圧的装置はエホバの証人の家族生活や育児の領域にも拡がった。子どもはナチ教育の規範に従わないということで排斥された。彼らはヒトラー・ユーゲントに加入する意思がないことを理由に、しばしば非行少年と宣告され、矯正施設に監禁された。両親の保護監督権も奪われた。そのもっともらしい理由は、ドイツ民法1666条によるものであった。エホバの証人の親たちは子どもを「国家社会主義の精神におけるドイツ的方法から遠ざけることによって、子どもの福利厚生を危険にさらした」というわけである。38年までに、エホバの証人の860以上の家族から、子どもが矯正施設、感化院、そしてナチスの家庭に移されていった。38年12月27日、帝国内務大臣はすべての青少年局や市町村の監督当局に宛てて回状を出し、「政治的に信頼できない家族」から子どもを引き離しナチスの家庭へ移すことを命じた。さらにナチ国家はまた、エホバの証人の両親には追加的な児童手当の支払いを拒否した。

という事態が、エホバの証人の家族を襲うのである。

 しかし、彼らが反ナチの政治活動をしたというわけではない。そもそも、彼ら自身の意識の中では、彼らはナチス体制への政治的敵対者ではないのである。あくまでも、

 われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

という、彼らの信仰に基づく、彼らの信仰が彼らに求める振る舞いを続けただけなのだ。

 それがナチス体制に、徹頭徹尾、適合的ではなかったということなのである。

 

 

 現在の「エホバの証人」に関して、彼らの特異性の凝集点として周囲の社会から取り扱われることの多い「輸血拒否」もまた、同様の構図の下にあることが指摘出来るように思う。

 彼らは決して、社会的多数者(マジョリティー)の常識に対する反抗を目的として、「輸血拒否」の意思表明をしているわけではない。

 医療という場において、彼らが彼らの信仰に基づく、彼らの信仰が彼らに求める振る舞いを続けているだけのことなのである。

 ナチス体制下の「エホバの証人」にとり、ナチ体制への非同調は、彼らの信仰の維持の上で切実な問題であったが、ナチ体制への反抗を信者以外の人々に求めるものではなかった。同様に、現在の「エホバの証人」にとって、「輸血拒否」はあくまでも彼ら自身の信仰上の切実な問題なのであって、「輸血拒否」を信者以外の人々にまで求めようとするものではない。

 私も含め、(「輸血」をめぐる問題において)マジョリティーに属する側にいる人間には、その構図に自覚的になっておく必要があるように思う。

 

 

 「エホバの証人」による「輸血拒否」に関しては、彼らの子どもの取り扱いが焦点の一つとなっているわけだが、ナチス体制下でのエホバの証人の家族(彼らの子ども)の運命、その際の彼ら(親達)の態度を振り返ると、ここにも構図の同型性を指摘出来るようにも思う。

 ナチスによる、彼らの子ども達への過酷な取り扱いが、彼らのナチス体制への態度を変化させることはなかったのである。

 あくまでも、

 われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

ということなのだ。「キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる」以上、現世内での彼ら自身が、そして彼らの子どもが味わう苦痛・苦難が、彼らの信仰上の態度決定に影響するようなことは、あり得ないこととして考えなければならないのである。

 

 

 

 

 そして、1935年、ドイツの再軍備と共に兵役が義務化された際にも、彼らは徴兵拒否の態度を貫き、結果として強制収容所の収容者の独立したカテゴリーを構成することになるのであった。

 

 

 彼らは、あくまでも、

 われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

という態度、信仰者としての態度をもって、現世に臨んでいるだけなのである。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/20 23:02 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/119724

 

 

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2009年10月21日 (水)

老眼と自己決定 (29) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 5

 

 「エホバの証人」とナチスをめぐる話題の続きである。

 

 

 

 「エホバの証人」のメンバー(信徒と書くべきか?)が、ナチスから敵対的な取り扱いを受け、強制収容所の収容者の独立したカテゴリーまで与えられていたことは、既に書いた。

 前回ご紹介したように、彼らの振る舞いは、ナチス体制への徹底した非同調性、その非妥協的な態度に特徴付けられるのだが、それをナチス体制への「抵抗」として性格付けてしまうことは、いささか的外れに思える。

 

 「この世の政治」への不参加という彼らの信仰の要求する態度が、国民の政治参加の義務化とでも言うべきナチスの全体主義体制の要求からは、敵対的なものとしてしか評価され得なかったというのが現実であろう。

 「エホバの証人」の徹底した「非政治的姿勢」が、その「非政治的姿勢」の徹底性の故に、現世的現実政治の要求に対し対立的な振る舞いとしてしか実践し得ないものとなってしまうのである。「非政治的姿勢」の表現が、現実政治の場において、敵対的な「政治的姿勢」として意味付けられてしまうのである。

 「エホバの証人」は、その「非政治性」において、決してナチス体制への政治的敵対者、政治的抵抗者ではあり得ない。しかし、その信仰が要求する「非政治的姿勢」の故に、ナチス体制の政治的要求を徹底的に無視する以外の選択肢を持たず、それが結果としてナチスの側からの政治的敵対者としての高い評価を生み出してしまったわけである。

 

 

 「エホバの証人」の信仰が信徒に求めたのは、ナチス体制への政治的抵抗ではなく、ナチス体制への不参加であったに過ぎない。より正確に言えば、彼らの信仰は、現世的政治体制すべてへの不参加を求めているのであって、ナチス体制が特異的な対象であったわけではない。

 第二次世界大戦下のアメリカ合衆国では、国旗への敬礼への拒否として表現された彼らの信仰に基づく振る舞いは容認されるものとなったが、ナチス体制の下では、彼らの信仰には強制収容所がふさわしいと判断されたのである。

 

 

 シビル・ミルトンによる『ホロコースト大事典』の記述によれば、

 1934年10月7日、ドイツのエホバの証人の集会はドイツ政府に、ナチ国家の権威に対する全面的な抵抗を肯定する諸原則の公式声明を送った。それは目覚しいものだった。「過去に神の法に反して、、またわれわれの諸権利を侵害して、あなたがたはわれわれがエホバの証人として神の言葉を学ぶために集まり、神を崇め、神に仕えることを禁止した……。それゆえに、ここに次のことを通告する。われわれはどんな犠牲を払っても神の掟に従うだろうし、神が命じるように神を崇め仕えるだろう。もしあなたがたの政府や官庁が、われわれが神に従っていることを理由にわれわれに暴力を加えるならば、そのときわれわれの血はあなたがたの上にふりそそぐことだろう。あなたがたは全能なる神の問いに答えることになろう。われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。われわれは誰に対してであれ傷つけたり、害を与えるつもりはない。われわれは平和に生活し、機会があればすべての人々に善をなすことを喜ぶ。しかし、あなたがたの政府と官庁がわれわれに宇宙の最高の法に背くよう強制しようとしつづけているので、われわれは今やあなたがたに、われわれが神の恩恵によりエホバの神に従うこと、神がわれわれをすべての圧制と迫害から解放することを完璧に信じていることを通告せざるをえなくなった」と。35年4月1日に、ドイツ帝国とプロイセンの内務大臣はエホバの証人の国内でのすべての宗教活動と出版を禁止した。

ということになる。

 ここでミルトンは「ナチ国家の権威に対する全面的な抵抗を肯定する諸原則の公式声明」と、「抵抗」という語を用いて書いているが、声明の内容を見れば明らかなように、その「抵抗」は決して政治的なものではない。

 彼らの態度の核心にあるのは、

 われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

という認識なのである。あくまでも。

 
 
 

 ミルトンの記述に戻れば、

 ナチ支配のはじめの二年間に、エホバの証人たちは公務員や私企業従業員としての彼らの職を失ってしまった。彼らが労働戦線に加わることや「ハイル・ヒトラー」の敬礼を使うこと、あるいは選挙で投票することを拒否したからだった。1935年1月23日、ドイツ帝国とプロイセンの内相はドイツの「ハイル・ヒトラー」のあいさつを使わないと、官庁や民間企業から解雇されることになると布告した。36年2月2日、ドイツ帝国とプロイセンの労働大臣はエホバの証人にはすべての失業手当や年金が留保されることがありうると布告した。さらに、彼らの個人的な財産や事業の財産も、破壊分子と敵の財産没収法を適用して没収できるとされた。この没収法はもともとは、追放され国籍を奪われた政治的な敵の資産を取り上げるために使われたものだった。エホバの証人はまた人種法に従うことも拒否した、なぜならば、彼らは「すべての人間は神の目には平等である」と信じたからである。彼らの失業手当、福祉手当、年金手当はしばしば否定された。35年の強制兵役の導入により、彼らの徴兵拒否や戦争関係業務拒否の結果、しだいに多くのものが刑務所や強制収容所に拘留されることとなった。35年初め、エホバの証人の逮捕や保護検束を命じるゲシュタポの規則は、以前より体系的になった。

ということになる。

 つまり、

 われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

という彼らの信仰の求める態度の帰結として、完全な失業、福祉・社会保障制度からの排除、財産の没収といった、生活の根幹を奪われるという事態が彼ら「エホバの証人」の上に降りかかるのである。

 そして、

 35年の強制兵役の導入により、彼らの徴兵拒否や戦争関係業務拒否の結果、しだいに多くのものが刑務所や強制収容所に拘留されることとなった。

とあるように、彼らの信仰が求める「兵役拒否」は、彼らをより過酷な状況に導くものとなるのである。

 

 「兵役拒否」についての詳細は、稿をあらためて、次回の話題としたい。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/19 22:33 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/119612/user_id/316274

 

 

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老眼と自己決定 (28) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 4

 

 前回の続きとして、ナチス体制の中での「エホバの証人」について書いておきたい。

 

 

 

 

 ウォルター・ラカー編の『ホロコースト大事典』(柏書房 2003)に、シビル・ミルトンの執筆した「エホバの証人」の項がある。

 

 

 ナチスの強制収容所における「紫」カテゴリー(すなわち「エホバの証人」である)の収容者の比率の、収容者全体に占める高さにまず驚かされるだろう。

 ミルトンによれば、

 1935年から39年にかけて、エホバの証人はしばしば刑務所内の保護拘束から強制収容所における無期限拘留に移された。35年以降、強制収容所の囚人数が増加する中で、エホバの証人はかなりの割合を占め、大戦前には、強制収容所の全囚人の10%以上にのぼっていた。39年までに7000人近くのエホバの証人が強制収容所に拘留された。彼らはドイツ、編入されたオーストリア、チェコスロヴァキアの出身だった。38年5月、ブーヘンヴァルトの全囚人の12%がエホバの証人だった。38年に、リヒテンブルクの女性収容所には260人のエホバの証人がいた。それは囚人たちのおよそ18%であった。
 1940年以降、占領されたヨーロッパからやって来るあらゆる種類の囚人で収容所の人口は増大した。その数は、ドイツやオーストリアからのそれ以前の囚人たちよりも多かった。その結果、すべての収容所でエホバの証人の比率は減少した。40年の終り頃、強制収容所には一万人のドイツやオーストリーのエホバの証人に加え、小数のベルギー、チェコ、オランダ、ノルウェー、そしてポーランドのエホバの証人が閉じ込められていた。

ということになる。

 つまり、第二次世界大戦の開始後は、占領地からの強制収容所収容者数の増大により全収容者中のエホバの証人の比率が低下したわけだが、戦争開始以前のドイツ帝国のドイツ人(ユダヤ人、ジプシーも含む)を対象とした強制収容所であった時代には、エホバの証人の全収容者に占めた比率は高いものであった、ということだ。

 ひとつの宗教的信仰集団が、ナチス体制への非同調者として、ナチス体制から単に名指されていたのみならず、強制収容所収容者の独立したカテゴリーを与えられ、実際に全収容者中に高い比率を占めていたことを、まず事実として認識しなければならない。

 

 

 彼らの信仰が、信仰自体が、ナチス体制への同調を不可能にしていたのである。

 戦後の彼らの信仰が、輸血拒否という態度を生み出すものとなったと同様に、戦前戦中のドイツにおける彼らの信仰が、ナチス体制への非同調という彼らの態度を生み出したのであった。

 

 

 ミルトンの記述に従えば、

 ナチスが1933年1月に権力を握った後、エホバの証人への攻撃はほとんどすぐにエスカレートした。それは彼らの信仰や行動のためだったが、とくにナチ国家に敬意を表することを拒否し、あるいは何らかのナチ党付属組織に加わることを拒絶したことによるものだった。…(中略)…つまり、エホバの証人は「ハイル・ヒトラー」の敬礼で腕を上げることを拒否し、鉤十字章の旗を掲揚しようとせず、ナチスの選挙や国民投票で投票しなかった。ドイツ労働戦線に参加せず、冬期救済事業に献金しようとしなかった。子どもたちがヒトラー・ユーゲントに加わることも許さなかった。エホバの証人はしばしば拘留され、殴打された。彼らの事務所は捜索されそして破壊され、彼らの資金は没収され、彼らの定期刊行物や出版物は検閲され、禁止された。何百人ものエホバの証人たちが、いわゆる保護政策(シュッツハット)で刑務所や強制収容所に抑留された。33年4月にエホバの証人の団体と印刷物が帝国全域で禁止された。…(後略)

ということなのである。

 ただし、「ナチスの選挙や国民投票で投票しなかった」とあるが、

 神の王国への支持を表明するため、政治への参加(投票など)をしない。 - ヨハネ 18:36

という『ウィキペディア』の「エホバの証人」の項の記述にあるように、彼らの「この世」での政治への不参加はナチス体制に対するものには限らない。

 また、国旗への敬礼の拒否、国歌斉唱の忌避も、ナチス統治時代に限定されるものではなく、ナチス・ドイツという国家領域に限定されるものでもない。まさに第二次世界大戦中のアメリカ合衆国において、国旗への敬礼の拒否を貫き、連邦最高裁判決でその行為を容認されたのも、彼ら「エホバの証人」の信仰が生み出した歴史的事態なのである。

 

 

 この世の政治への不参加という彼らの信仰の根幹が、特にナチス体制と相容れないものとしての、ナチスによる「エホバの証人」への敵対的な評価となった、ということになるだろう。

 

 

 

 エホバの証人による「兵役拒否」をめぐる問題については、今回は触れることが出来なかった。

 次回の課題としたい。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/18 19:45 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/119511/user_id/316274

 

 

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老眼と自己決定 (27) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 3

 

 この話題の前回は、「エホバの証人」の信仰を論じる場合、「輸血拒否」は、本来、中心となるべき話題ではないだろう、という書き出しで始まっていた。

 

 

 その上で、彼らの示す、

 自分の信仰を家族(特にこども)にも強制する

という態度の結果、彼らの子供までが「輸血拒否」の対象とされてしまい、出血多量で死亡する事例について取り上げることを予告してしまっていた。

 しかし、今回は、その問題の検討に入るのではなく、私の「エホバの証人」の存在への関心の核心にある、ナチスとの関係について書いておきたい。

 

 

 

 高橋三郎氏の名著(と私は考えるが)、『強制収容所における「生」』(二月社 1974)に、強制収容所の収容者に対するナチスによる「分類」についての解説があった。

 同書によれば、人種・国籍による分類(が形成するヒエラルキー)が大きな柱となる一方で、

 もうひとつの抑留者の分類は拘禁理由によるもので、政治犯、刑事犯、聖書研究会員、反社会的分子、同性愛者、亡命者といったカテゴリーである。抑留者はカテゴリーを示す色の逆三角形の布を左胸と右足に縫い付けさせられていた。基本的な色(カテゴリー)は次のようなものであった。
 「赤」=政治犯
 (この項の詳細説明の引用は略)
 「緑」=刑事犯
 (この項の詳細説明の引用も略)
 「黒」=反社会的分子
 (この項の詳細説明の引用も略)
 「桃色」=同性愛者
 (この項の詳細説明の引用も略)
 「紫」=聖書研究会員
 「エホバの証人」ともよばれるこのグループは、エホバにたいする信仰から兵役を拒否して、ナチスが政権を獲得した直後から弾圧されていた。しかし、強制収容所の内部ではやや特異な地位を占めていた。彼らは信仰の放棄書に署名さえすれば、いつでも完全に自由の身になることができたのである。また、すすんで勤勉に仕事を果たしたから、SSからもある種の敬意をうけ、比較的楽な仕事やSS隊員の家事に使われた。だが他方、SSは、ドイツ人でありながらかたくなな信仰の故にナチス・ドイツに協調しようとしない「紫」に強い憎しみを抱くことがあった。
 良心的兵役拒否者は、時により「黒」にも「紫」にも分類された。
 「青」=亡命者
 (この項の詳細説明の引用も略)
 「黄」=ユダヤ人
 (この項の詳細説明の引用も略)

として、「拘禁理由」による、ナチス強制収容所の抑留者の分類の実際が紹介されていた。それを読んで以来、「エホバの証人」に関して、ナチス強制収容所の収容者の独立したカテゴリーを形成した人々という強い印象が私のものとなった。ナチスへの非同調者としての「エホバの証人」、ということになる。

 紫の標章を与えられ、つまり強制収容所において「独立したカテゴリー」を形成すべき集団としてナチスから評価されていたということの意味は大きい。裏返しの形ではあるが、そこにナチスによる、「エホバの証人」に対するナチス体制への非同調者としての高い評価を見出すことが出来るからだ。

 

 『強制収容所における「生」』を読んだのは20年以上前の話だが、そこに「聖書研究会員」として登場した「エホバの証人」の印象は、強く私の中に刻印されたのである。

 前後して読んだ、L=F・セリーヌの小説(多分『北』、あるいは『リゴードン』だったか?)中に、北ドイツの荒涼とした光景の中で黙々と作業をする「聖書研究会員」の姿が描かれていたことも、私の印象を強化したように思う。

 

 

 

 以来、我が家を訪れる「エホバの証人」の人々に対して、あのナチスへの非同調者の末裔への敬意の混じった視線が(少しだけ)注がれることになったのである。

 もっとも、その後、戦時期日本の灯台社と明石順三の事跡と、戦後の「エホバの証人本部」との関係の顛末を知るに及び、視線には若干の冷ややかさが加わることになったのではあるが…

 

 

     (ナチス体制と「エホバの証人」の関係の歴史的詳細は次回としたい)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/16 22:21 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/119328

 

 

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2009年8月31日 (月)

革命でなくて選挙=粛清でなくて落選

 

 別に革命が起きたわけでもなく、複数政党制の下での自由選挙の結果、有権者からの政権交代要求が明らかになった。

 それだけの話。

 

 英国でも米国でも、独仏伊西蘭、タイ、韓国、台湾、ペルーでもボリビアでも、要するに「民主主義政体」を採用した国では、ごくごく当たり前の話、ってこと。

 
 
 

 世の中には、様々な妄想を抱く人間がいるわけで、「民主党」の主導権がマルクス・レーニン主義者に握られているなんてのもそのひとつらしいが、それは妄想です。

 民主党の支持基盤が組合だから、なんて理由付けもあるらしいが、その類の大きな組合は現状からの受益者なのであって、文字通りの体制変革=革命なんて求めるわけがない。非正規労働者の雇用・利益の確保ではなくて、正規労働者としての自己の地位の維持向上のための組合なんだからね。

 つまり、マルクス・レーニン主義とは関係がない。

…と言いつつも、現実の世界史上のマルクス・レーニン主義者達、彼らにより構成されたマルクス・レーニン主義政党による統治の実態は、自らの党の利益の確保、党員の利益の確保に尽きたわけなので、その意味では、確かに現代日本の大企業・官公庁系の組合組織と同じようなものかも知れない。

 しかし、マルクス・レーニン主義が、プロレタリアートの利益の追求を意味するのであるならば、かつての共産主義国家の党も、現在の日本の組合も、マルクス・レーニン主義とは関係ないということになる。

 

…なんて書いてしまうと、要するに身内の利益、身内であることを表明し恭順の意を示した者達の利益を確保し、身内にその利益を配分することに努力した、現実のマルクス・レーニン主義者達の流儀はなんと呼ぶべきなのだろうか?

 ここはやはり、現実に存在したマルクス・レーニン主義者を名乗った人間達をこそ、マルクス・レーニン主義者と呼ぶべきではないのだろうか?

 つまり、自身の体制への順応者を優遇することを、自身の体制の永続性の基盤として位置付け、体制構築をしていった「共産党」という存在を考えてしまうわけだ。実際、各国共産党はマルクス・レーニン主義の正しさを主張し、自身のマルクス・レーニン主義者としての正統性を主張していたのであるし…

 

…しかし、マルクスやレーニンはそんなことを考えていたのかどうか?

 まぁ、20世紀の現実政治の中で政治的党派の指導者として生きたレーニンと、19世紀に、経済(学)的観点から資本制経済の行く末と労働者の役割を論じたマルクスを一緒にしてしまうこと自体が、かなり乱暴な話ではある。

 しかし、それを一緒くたにしてしまうところが、「マルクス・レーニン主義」という呼称のミソでもあるのだろう。

 レーニンの党派性が、マルクスの普遍主義により隠蔽されるわけだ。 …なぁんてことを言うと粛清されてしまうのが、マルクス・レーニン主義者達による世界の現実だったわけだが…

 しかし、反共主義者にとっても、資本制社会の現実へのマルクスによる批判を回避する上で、レーニンの政治手法・政治理論とマルクスの思想を同一視することは便利な手段ではあったのだろう。

 

 共産主義者も反共主義者も、マルクス・レーニン主義という命名法からは利益を得ていたということになる。

 
 

 ところで、現実のマルクス・レーニン主義者達の振る舞いに関して、

 要するに身内の利益、身内であることを表明し恭順の意を示した者達の利益を確保し、身内にその利益を配分することに努力した、現実のマルクス・レーニン主義者達の流儀

なんて書いてしまったわけであるが、しかしこれ、

 要するに身内の利益、身内であることを表明し恭順の意を示した者達の利益を確保し、身内にその利益を配分することに努力した、戦後政治おける自由民主党の流儀

って書いても、意味が通じてしまう。

 
 

 現実のマルクス・レーニン主義者達が国民にアイソを尽かされたのが、世界史的には1989年の出来事であり、わが国の自由民主党が国民からアイソを尽かされたのが2009年の夏の終わりの出来事であった。

 そこにあるのは、利益誘導の限界という問題だったのではなかろうか?

 
 
 

…なんて文章を読むことで、妄想からの脱出は可能であろうか?

 

 1989年に世界史的使命(と呼ばれたもの)を終えた現実のマルクス・レーニン主義と、2009年に日本史的使命を終えた(というか一段落つけた)自由民主党。

 

…というのは私の妄想なのだろうか?

 
 
 
 
 
 
 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/31 21:19 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/114795

 

 

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2009年8月 5日 (水)

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき

 

 

ナチスが共産主義者を攻撃したとき、自分はすこし不安であったが、とにかく自分は共産主義者でなかった。だからなにも行動にでなかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者でなかったから何も行動にでなかった。それからナチスは学校、新聞、障害者、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、そのたびに不安は増したが、それでもなお行動にでることはなかった。そしてナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であったから行動にでた。しかし、そのとき自分のために声を上げてくれる者はいなかった。
(マルティン・ニーメラー/ナチスに抵抗したルター派牧師)

 

上記は自由と民主主義を語る上で有名な牧師の言葉です。労組などの組織的支援があり、行政に深く食い込み、豊富な資金力と動員力を持つ左翼団体こそ現在のナチスと言えるでしょう(左翼をナチスと呼ぶのが適切であるかどうかは別として)。
6.13デモを数と力で押しつぶそうとする左翼サイトにも同じ文章が引用されていますが、現在の状況からすれば悪意ある誤用とでも見るべきですね。
 (http://www.zaitokukai.com/modules/wordpress/index.php?p=103

 

 

…というお話は興味深い。

 コメントからわかる通り、「左翼」に敵対する皆さんの運営するサイトで見つけたお話だ。

 

 

 ニーメラーの言葉を歴史的事実として説明すれば、ナチスの攻撃対象は、

1) 政治的に、ナチスに敵対していたからこそ、共産主義者や社会主義者はナチスから攻撃された。

2) ナチスへの非同調者とみなされ、ナチスに攻撃された学校・新聞はあったが、ナチス体制に同調し、組み込まれていった学校・新聞もあったことは言うまでもない。

3) 健康なアーリア人のユートピアであるナチス国家にふさわしくないとして、障害者とユダヤ人は排除・抹殺された。

という3つのカテゴリーに分けることが出来る。

 

 

  そしてナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であったから行動にでた。
  しかし、そのとき自分のために声を上げてくれる者はいなかった。
 

というニーメラーの言葉を言葉通りに受け取るべきでもない。1)2)3)の進行する過程に並行し、1934年の段階で(つまりナチスの政権掌握の翌年には)、ニーメラーはナチス体制への非同調者としての「告白教会」の設立者の一人となっている(設立に向けた活動は、既に1933年に始まっている)。つまり、事態は同時進行していたのだ。「非同調」がやがて「抵抗」を意味するものとなっていくのである。

 しかし、「自分のために声を上げてくれる者はいなかった」という点で、このニーメラーの表現は歴史的事実に反するものということにもならない。

 

 まず、この言葉が、戦後ドイツという条件を背景に発せられたものであるという点を理解しておかなければならないだろう。

 ナチス体制の実質的共犯者としてのドイツ国民という反省的認識が、そこに込められているのである。

 教会=牧師は、ナチスへの抵抗者であり犠牲者であると共に、共産主義者、社会主義者、ユダヤ人へのナチスの攻撃を他人事として見過ごしたという意味で、国民と同様の共犯者でもあったという両義的な意味を読み出す必要を感じる。ここでは、告白教会の非力と共に、ナチ体制への同調者を含む教会全体としての責任が問われていると考えられるわけだ。

 

 

 

 

 さて、この言葉が、ここでは「左翼」批判のために引用されているところが注目点である。「左翼」がナチス同様である、という論理だ。

 つまり、ここでは否定的な存在としてナチスが登場させられていることになる。

 そして否定されるべきは、ナチス同様の左翼なのである。

 それは自由と民主主義に反する存在であるから、ということになるのであろう。

 我々の社会では、伝統的には、ナチスに政治的に敵対していた共産主義者や社会主義者のことを「左翼」と呼んできたわけだ。実際に、それゆえにナチスの最初の攻撃対象が共産主義者だったのであり、社会主義者だったのである。そういう意味で、ナチスからすれば、なんとも不本意な非難のされ方であるに違いない。もちろん、正統的な「左翼」である共産主義者や社会主義者たちにとっても、だ。

 

 

 ニーメラー牧師の言葉を引用した皆さんは、左翼を敵とみなし、「反日」勢力との闘いに心血を注いでいる方々である。

 ところで、ここで、大日本帝國の歴史を思い出しておきたい。

 第2次世界大戦と呼ばれる「あの戦争」で、大日本帝國はナチスドイツと同盟関係にあったことを。日独は、枢軸国として、米英の世界支配に対し共に戦った関係にあったのだ。もちろん、ナチスとの同盟関係はコミンテルンの陰謀によるものなどではなく、大日本帝國政府が国策として主体的に採用したものである。

 論理的には、ナチスを否定の対象とし、現在の「左翼」に対し、ナチス同様であるという言葉を以て非難する以上、体制的共感に基づくナチスの同盟者であった大日本帝國もまた、自由と民主主義の敵として非難されるべきことになる。

 多分、大日本帝國も反日的国家であったに違いない。

 

 

 

 

 ところで、今回あらためて、ニーメラー牧師の「言葉」の出典・初出を調べてみたのだが、文書の文言として流通している確定したテキストとしては、米国人ミルトン・マイヤーの著作『they thought they were free』(『彼らは自由だと思っていた――元ナチ党員10人の思想と行動』 1955年)に収録されたものが初出、ということになるらしい。ただし、ニーメラー自身は、繰り返し同趣旨の言葉を語っていたようで、研究者によれば、時期的にはもっと遡ることが出来るようである。

 また、発言の度、引用の度に、ナチスの攻撃対象として例示される集団も変化しており、巷間ニーメラーの言葉として流通しているものには複数のヴァージョンが存在するということだ。

 

 例えば、1976年ヴァージョンでは、

  彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、
   (ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、)
  私は共産主義者ではなかったから。

  社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、
  私は社会民主主義ではなかったから。

  彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、
  私は労働組合員ではなかったから。

  彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、
  私はユダヤ人などではなかったから。

  そして、彼らが私を攻撃したとき、
  私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。

 

となっている。冒頭に掲げた言葉とは、かなり異同があることがわかるだろう。
 

 戦後最初期(1946年)のもの(実際のスピーチ)では、ナチスの犠牲者(被攻撃対象)として並べられているのは、

 共産主義者
 障害者
 ユダヤ人 あるいは エホバの証人
 ナチス占領下の人々

であったという話だ。

 「現代史のトラウマ」シリーズの観点からすれば、障害者(不治の病者)への言及に注目してしまうところだし、このところ関わってしまった議論からは、ここに「エホバの証人」の名が登場するところに感慨を持つ。

 障害者はナチス国家から排除・抹殺の対象とされ、「エホバの証人」はその信仰を理由とした不服従ゆえに、強制収容所における収容者の一カテゴリーを形成する集団となったのである。

 

 

 

 ある定義によれば、

  日本固有のウヨクってのは、いつも<情>が疾走して<知>を無視します

ということになるらしい。確かに田母神氏の「論文」など、史的事実の究明とは関係なく、論理的分析への配慮も欠落した、ただただ「お気持ち」だけで書かれた文章であった。

 

 今回ご紹介した、反日勢力との闘いを使命としているらしい団体にしても、「左翼」批判のためにナチスを利用しているわけだ。ナチス=自由と民主主義への敵対者=「左翼」という構図を描くことによって。

 そのような前提の結果として、大日本帝國の国策が自由と民主主義に敵対する勢力(つまりナチス・ドイツ)との同盟の構築であったという歴史的事実の位置付けが問題として浮上してしまうことになる。

 つまり、大日本帝國を自由と民主主義への敵対者との同盟者として認識せざるを得なくなるわけで、彼らの「左翼」批判の論理は大日本帝國批判の論理として帰結してしまうことになるのである。

 

 もちろん、これは彼らも<知>を重視することが出来ればの話であることは言うまでもない。

 彼らにこの論理的問題点は理解出来るだろうか?

 何よりも問題の焦点はそこにある、ように思われる。

 

 

 

 最後にもう一つ。彼らは、特定民族出身者に対する排外主義的運動を、その活動の中心に据えている団体である(在特会=在日特権を許さない市民の会)。言うまでもなく、ナチスこそは、アーリア人の国家からのユダヤ人の民族的排除を運動の中心に据えていた団体であった。

 ニーメラー牧師の言葉を思い出そう。

 彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、
 私はユダヤ人などではなかったから。
                      (1976年版)

 ここでは、ユダヤ人がナチスの犠牲者としての独立したカテゴリーを形成しているのである。

 「在特会」の皆さんが、左翼団体を「現在のナチス」と呼ぶこともご自由ではあるが(<情>の表現として)、その前に、自らがその民族的排外主義において、十分にナチスの似姿であることにも(少しは<知>を発動させて)気付いておいて欲しいところである。

 

 

    …そして、彼らが私を攻撃したとき、
              私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった…

 

 

 

 

 

参照

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき
 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%BC%E3%82%89%E3%81%8C%E6%9C%80%E5%88%9D%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E3%82%92%E6%94%BB%E6%92%83%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%8D

First they came...
 → http://en.wikipedia.org/wiki/First_they_came...

在日特権を許さない市民の会=在特会
 → http://www.zaitokukai.com/

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/04 22:28 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/112142/user_id/316274

 

 

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2009年6月16日 (火)

人民解放軍の銃口

 

 6月4日という日付は、やはり、「天安門事件」を思い起させるものだ。

 
 

 1989年だから、20年が過ぎたことになる。

 

 人民解放軍の銃口が人民に向けられた日だった。社会主義の軍隊の行為としては、そもそも軍隊の行動としては、珍しいわけではないだろう。

 軍隊とは、必ずしも国民の守護者ではないのである。

 

 しかし、「人民解放軍」という名称の軍隊が、人民に対し発砲する姿は痛ましいものだった。

 
 
 

 国民の存在が国家を生み出すのか?

 あるいは国家があればこそ国民が存在するのか?

…と問うことに意味はあるだろうか?

 

 まぁ、いずれにせよ、国家を否定することは簡単だが、国家に代わる存在を私たちはイメージしえていない。

 つまりここには、治安の保障も人権の保証も、国家という存在を抜きにしては成立しないという問題がある。

 

 国家こそが人権を蹂躙し、国民へ発砲する暴力そのものではないか、と言われればその通りなのであるが、しかし、国家以外に強制力を持ち、人権を保障することの出来る機関も存在しないのである。

 人権の保障自体が、暴力行使の可能性を排除しない強制力としての国家に裏打ちされているのである。

 
 

 もっとも国民に対し人権を保証する国家とは、実に最近の出来事なのであるが…

 「国民」という存在に支えられた「国家」というイメージ自体が、これまた実に最近のものなのである。っていうのは人類の歴史から見て、という話だが…

 
 
 

 今さらのことではあろうが、江戸時代に日本国民は存在しない。

 国とは藩のことであったし、その藩内においても士農工商を一括して国民と考えることはしなかった。

 統治者と被統治者、支配者と被支配者という関係性が貫かれる限り、そこに「国民」は生まれない。統治者、支配者による支配・収奪の対象として位置付けられる限り、国民としての自負は生じないのである。

 どこまでもフィクションであろうとも、国家の主人公であり国家の受益者であるという意識が、国民という自己意識の基盤となるのだ。

 

 法に縛られる存在なのではなく、法を創り出す存在。それでこそ国民なのである。

 軍隊を養い、兵士として参加し使役する国民。他国による侵略を撃退し、国民の安全を守る軍隊。つまり、その軍隊の主人は、あくまでも国民なのである。

 警察力の主人、それが国民なのだ。

 官僚組織の主人、それも国民だ。

 それが近代国民国家における、理念としての国民の位置付けである。

 

 代議制による国民の代表が立法府を構成し、そのことが国民が「法を創り出す存在」であることを保証する。

 であるからこそ、必ずしも暴力的でない形での法的強制力も生じるわけだ。法とは自分のルールなのである。

 
 
 

 もちろん、これまで書いたことは、理念であり、多分にフィクションである。

 

 代議制という手段しか持ちえない以上、法制定への関与は間接的なものでしかありえない。

 国民という括りの中にも、利害の対立する様々な集団が存在するのであり、立法府はその利害の調整装置となるわけだが、当然のことながら民主的運営による限り、どの集団の利益も完全には満たされることはない。

 非民主的すなわち独裁的運営を採用すれば、特定の集団の利益は最大限に満たされるであろうが、他の集団の利益は打ち棄てられることになる。

 
 
 

 1989年の天安門では、人民の利益を代表すると称した中国共産党が、共産党の利害をのみ考えて現実的に振舞ったに過ぎない。

 しかし、人類にとっての実に痛ましい歴史的経験であった。

 
 
 
 
 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/06/04 23:55 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/106145

 

 

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2009年3月15日 (日)

偉大な兄弟の見守る世界

 

 

   偉大な兄弟(ビッグ・ブラザー)はあなたを見ている

 
 

 もちろん、出典はジョージ・オーウェルだ。

 
 
 

 そのオーウェルの『1984年』は、1949年の作品である。

 

 それから60年、というわけで、今年の年賀状デザインには、ビッグ・ブラザーに登場してもらうこととなった(と言っても、昨年末はインフルエンザで寝込んでしまったので、作成したのは、なんと3月になってから)。

 

 

 

 

 

 

     BIG BROTHER IS WACHING YOU

     偉大な兄弟はあなたを見ている、というわけだ。

 
 

 オーウェルの小説では、

 

突き当たりの壁には、屋内の展示用としては大きすぎる色刷りのポスターが画鋲で止めてあった。巨大な顔を描いただけで、幅は一メートル以上もあった。四十五、六歳といった顔立ちである。豊かに黒い口髭をたくわえ、いかついうちにも目鼻の整った造りだ。

 

各階の踊り場では、エレベーターに向かい合う壁から大きな顔のポスターがにらみつけていた。見る者の動きに従って視線も動くような感じを与える例の絵柄だ。「偉大な兄弟(ビッグ・ブラザー)があなたを見守っている」絵の真下には、そんな説明がついていた。

 
 

という設定になっている。

 

 本文を確認しないでデザインしてしまったので、スローガンとビッグ・ブラザーの顔の関係が逆になってしまった。

 まぁ、現実の(って、小説内の現実の話だが)ポスターにも、様々なヴァージョンがあったに違いないので、そんなことは気にしない。

 
 

 言うまでもないことなのかどうかは知らないが、ビッグ・ブラザーのモデルはスターリンである。スターリンの体制=監獄的ユートピアの現実こそが、小説としての(つまりフィクションとしての)『1984』の背景にある。

 そのスターリンの面影が、

 

豊かに黒い口髭をたくわえ、いかついうちにも目鼻の整った造りだ。

 

という記述にも窺えるだろう。

 

 賀状のデザインに借用したのは、偉大なアンサイクロペディア内にある画像(http://ansaikuropedia.org/wiki/Image:Kfcstalinsexiest.JPG)だ。

 「KFC」ならぬ「KGB」の、サンダースおじさんならぬスターリン同志である。

 

 現実の歴史を振り返れば、1949年とは、やがて自ら構築した壁で自国民を閉じ込めるという前代未聞の監獄国家となった、あのドイツ民主共和国(旧東独)の建国の年でもあった。

 

 2009年とは、フィクションとしての『1984年』の成立から60周年であると同時に、ノンフィクションとしてのドイツ民主共和国建国から60年という記念すべき年でもある。

 

 現実の1984年には、ドイツ民主共和国は、建国35周年を祝っていたのであった。当時の東ベルリン市民は、自由に壁の向こうの西ベルリンまで出かけることは出来なかった。ドイツ民主共和国の偉大な兄弟により、壁を越えようとする者に対しては射殺命令が出されていたのである。

 東独の偉大な兄弟は、シュタージと呼ばれる秘密警察を掌握し、国民には密告を奨励していた。

 まさに『1984年』に、フィクションとして描かれていた世界が、ドイツ民主共和国ではノンフィクションとして、現実化していたのである。

 

 そのドイツ民主共和国も、1989年の「ベルリンの壁崩壊」を機に、国家としての終焉を迎えることになる。建国40周年の栄えあるはずの年が、国家終焉への第一年となったわけだ(1990年にドイツ民主共和国は消滅する)。

 つまり、2009年とは、ベルリンの壁崩壊20周年にも当たる、記念すべき(というより記憶すべき)年なのである。

 

 当初の賀状デザインの目論見としては、オーウェルと同時に、旧東独に関する情報も盛り込むつもりだったのだが、欲張るとデザイン的にうるさくなり過ぎるので断念。

 

 そのかわりに、『1984年』に登場する、「二重思考」を象徴する有名なスローガンである、

 

 戦争は平和である

 自由は屈従である

 無知は力である

 

をデザインとして取り込むことにした。

 
 

 そのようにして出来上がったのが、今回ご紹介した賀状、というわけである。

 
 

 『1984年』に描かれた「二重思考(ダブル・シンク)」は、現代の日本でも無縁ではない。

と言うより、秘密警察や収容所の存在なしに、しかし、日本国民の多くは二重思考を自らのものにしてしまっている(ように私は思う)。

 
 
 

 まぁ、そんなことを考えながらデザインしたのが、2009年の挨拶状、ということになる。

 わかる人にはわかる、はずである。

 
 
 
 
 
(スローガンの英語での表記はこちらが参考に
→ http://wikilivres.info/wiki/Nineteen_Eighty-Four/Part_I%2C_Chapter_1

 
 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/03/14 23:34→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/98114

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