カテゴリー「20世紀、そして21世紀」の記事

2018年10月14日 (日)

グローブマスター機墜落 (軍産複合地域としての昭和十年代多摩 戦後編-1) 

 

 これまで、「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、いわゆる戦前・戦中期の多摩・武蔵野地域の軍産複合地帯化状況について記してきた(カテゴリー「多摩武蔵野軍産複合地帯」の記事参照)。

 

 今回は、あえて戦後(いわゆる「先の大戦」、すなわち大東亜戦争の敗戦後)の小平地域の経験を取り上げてみたい。小平地域ではその一部が自衛隊施設となったのを除き、その広大な土地は様々に転用され、戦時期には軍事施設の集中地帯であった姿は大きく変容を遂げることとなった(註:1)。しかし、一方で、隣接する立川地区の陸軍立川飛行場は米軍に接収され、米軍の立川基地として運用が続けられ、小平地域の上空は、立川基地の米軍用機の飛行コースとされていった。

 

 その中で、朝鮮戦争下の1953年6月18日、当時の最大の軍用輸送機であったC-124グローブマスターが、立川基地離陸直後に小平町内小川地区に墜落した。129人という、当時で最大の犠牲者数をもたらす墜落事故であった(註:2)。

 空軍基地の隣接地域であること、すなわち米軍の軍事施設の隣接地域であることが、地域住民にとってどのような意味を持つのか? 現在の小平地域の住民の多くは、沖縄の米軍基地問題、米軍機事故問題を他人事としてしか考えていないように思われるが、地域の歴史的経験を振り返ることで、現在の沖縄が決して他人の話ではないことを再確認する機会になればと思う。

 

 

 ここでは、まず、グローブマスター機墜落事故の目撃者の証言により構成されたドキュメンタリー動画を紹介することから始めたい。

 中央大学の学生の取材・制作による地域紹介番組シリーズ(「多摩探検隊」)の一本である(ケーブルテレビで放映され、動画サイトにも制作者自身によりアップされている)。

 ちなみに、動画サイトにある内容紹介文には以下のように記されている。

 

  1953年6月18日、米軍立川基地から飛び立った米軍輸送機「C-124グローブマスター機」が小平市に墜落し129人が死亡しました。朝鮮戦争の前線から立川に戻り一時休暇を過ごした米兵を乗せて、再び朝鮮半島に向かう途中でした。
  事故直後に米軍が現場を封鎖し情報統制したため、その詳細は明らかにならないままでした。
  航空機事故としては当時史上最大の死者を出したこの米軍輸送機墜落事故について、目撃者の証言や貴重な写真資料を元に迫ります。

 

 

第102回 多摩探検隊 「グローブマスター機墜落事故」
 https://www.youtube.com/watch?v=_zjOkQC1yjA

 

 

 関係者の証言とナレーションを通して、事故のおおよその全体像は把握し得るものと思う。

 加えてここでは、まず、『小平市史』では墜落事故がどのように描かれているのかを読んでおきたい。

 

 

  一九五三(昭和二八)年六月一八日、立川基地から飛び立った米軍輸送機グローブマスターが、小川の農地に墜落した。乗員一二七名が死亡し、畑は一面の火の海と化した。麦畑やすいか畑で作業していた人びとのなかには、「全身に油を浴び火だるまになった」者もいた。修羅場と化した光景に付近の人びとは全く手の施しようがなく、ただ呆然とするのみであった。かけつけた地元小平町の消防署および消防団の放水では「効果は殆んど見られなかった」。
  急報により立川基地からの消防車や救急車、それに地元消防団、遠くは青梅、五日市、所沢からも数十台の消防車がかけつけた。必死の消火活動にもかかわらず、猛火は一時間以上もおさまらず、乗っていたはずの人影はなかった。
  乗員の生存者皆無、梅雨続きの雨の中、四散した機体が青白く光っていた。巨大な尾翼が地中に突き刺さったままである。やがて「人間かどうか」見分けがつかない「黒焦げ」の遺体が掘り出され、「なきがらを載せた数十台の米軍救援車は前後をMP(憲兵)のジープにまもられ、暗やみの青梅街道を一路立川基地に運ばれた」。
     (『小平市史』 2013  402ページ)

 

 

 事故の凄惨な状況が読み取れるものと思うが、その前に問題となるのは犠牲者数であろう。『小平市史』では犠牲者数を127名としているが、その数値については誤りと考えた方がよさそうである。実際問題として、『小平市史』に掲載されている当時(1953年6月19日)の朝日新聞記事画像でも「百廿九名(全乗員)が即死」との見出しが確認出来る。

 犠牲者数の問題を別とすれば、多摩探検隊の動画にある証言と共に、初動対応の状況を含めて、「何が起きたのか」を明らかにする記述である。ただし、動画の証言にあるように、「麦畑やすいか畑で作業していた人びとのなかには、「全身に油を浴び火だるまになった」者もいた」ということはなく、「軽い火傷」というのが当事者の実情であったようではある(『小平市史』の依拠した「飛行機墜落事故書類」にはそのように記されていたのではあろうが)。また、地上での犠牲者が他になかったのは、墜落地点が農地であったがための話であり、離陸直後の燃料満載状況での事故であったことからすれば、住民にとっても大惨事となる可能性もあったことには留意しておくべきであろう。現在では墜落現場の周囲は宅地化されつつあるし、墜落地点から自転車で数分の距離にある武蔵野美術大学のキャンパスに燃料満載の大型輸送機が墜落炎上することを想像してみれば、事故の重大さを再確認し得るはずである。

 

 ここまでは、事故の重大さを伝えるものであるが、続く『小平市史』の記述を読むと、当時の小平地域住民の経験はそのまま現在の沖縄の状況であり続けている事実に愕然とさせられることとなるはずである。

 

 

  直径約二キロの地区内は米軍のMPが厳重に交通をしゃ断し、すぐさま「ギャラップ・ゴー」の立ち入り禁止の麻縄のロープが張られ、日本側警察、消防団は現場より立ち退きを強いられ、MPが住を突きつけ、住民を追い払った。報道陣も写真を撮ろうとするとピストルで脅され、フィルムを抜き取られる始末であった。その範囲は三街道にもおよんだ。米軍のMP、部隊、AP(空軍憲兵)、救急車、消防車、照明車、クレーン車、トラック、ジープ、ブルドーザーは、付近の公道および私道より畑中を往来し、農作物並びに橋梁、井戸、門柱などに被害をおよぼした。
  このやり方に住民からは「日本の独立は名ばかりだ、行政協定があるのに占領時代と同じではないか、日本の警察官が遠慮して消極的すぎる」などの非難の声があがった。それを受け、衆議院外務委員会で地元選出の代議士並木芳雄が抗議の声をあげた。
  米軍兵士は、米ソ対立の接触点、朝鮮半島の前線に引き返すところであった。原因はエンジンの故障、そのため米軍最大の輸送機グローブマスターの性能までが疑問視された。ガソリンや消火液で畑はギラつき、農作物の被害は小麦、陸稲、じゃがいも、さつまいも、すいか、ごぼう、茶などにもおよび、立木・庭木、医療費などを含めた損害は約一〇〇〇万円に上った。墜落の衝撃で牛の乳量が激減しただけでなく、流産するケースもあった。にもかかわらず、被害を受けた小川住民は、八月四日に遭難現場で米兵慰霊祭を手厚く営んだ。
  半年後のこと、「大火傷をしたが幸い一命をとりとめた」住民は、「飛行機が頭の上を通るとゾッとしますよ。荒らされた畑の賠償問題もまだ解決していないが、今考えると悪夢のような気がしますね」と語った。補償問題は難航した。被害関係者二〇名は、六月二三日連名をもって「米機墜落事故発生並びに今後に対する善処方要望に関する件」を町長の添書きと共に政府(防衛庁東京調達局)に提出した。被害者は農地、農作物、立木、道路などの被害額二二八万九四七四円を損害賠償額として要求したが、調達局は米軍側と折衝の末、大幅に減額し、三分の一あまりの八五万円を提示したに過ぎなかった。
     (『小平市史』 2013  403~404ページ)

 

 

 ここに「日本の独立は名ばかりだ、行政協定があるのに占領時代と同じではないか」とあるのは、現在の沖縄県民の話ではなく、当時の小平地区住民の叫びなのである。被害の補償もお話にならない。この状況は、小平では既に人々の記憶から失われた昔話であろうが、沖縄では現在の問題なのである。

 さらに読み進めると、

 

 

  小平町でも、米軍車輌の通行のための五日市街道沿いの小金井桜の伐採問題、小川新田で七歳男児が米軍乗用車にはねられた交通事故、小川で米兵乗用車によるひき逃げ疑惑事件など、米軍関連の事件が続いた。
     (『小平市史』  406ページ)

 

 

「米軍関連事件」の頻発問題もまた、小平では昔話ではあっても、沖縄では現在の日常である。戦時期の小平地域の軍事化はいわば国内問題であったが、戦後の「米軍関連事件」は占領下、あるいは占領下同然の事態のなかでの問題であったことには気付いておくべきであろう。当時の小平住民の「日本の独立は名ばかりだ、行政協定があるのに占領時代と同じではないか」との言葉は、あらためて噛みしめておくに値する。

 『小平市史』では、立川基地の存在にあらためて焦点を当てる形で、

 

   敗戦は、軍事施設の解体・転用を強いたが、すぐさま軍事施設が消え去ることはなかった。中でも立川飛行場は米軍に接収されて米軍基地に転用され、立川は軍都から基地の町へと変わる。一九五一(昭和二六)年九月には対日講和条約と日米安全保障条約が調印され、翌五十二年四月には足かけ八年の長期にわたる占領をぬけだし、日本は独立した。その一方で、朝鮮戦争では日本は米軍の重要な軍事拠点、そして、兵站基地としての役割を果たした。そのような状況のなかでの一九五三年の米軍輸送機グローブマスターの墜落事故であった。わが国は独立したとはいえ、いまだ米軍の統治が続いているかのような高圧的な米軍の事故対処であった。
  立川基地周辺では、米軍人相手に春をひさぐ「パンパン」と呼ばれた「夜の女」が集まり、最高時の一九五二年には三〇〇〇人にもおよび、府中や福生をはじめとする多摩地区全域では七〇〇〇名ともいわれた。風紀とともに治安は乱れ、事件が多発した。「基地の町はいやです」という中学生の作文が「児童福祉期間」中に展示されたのは、一九五八年五月のことであった。その叫びもとどかず、米軍の駐留は続いた。
     (『小平市史』  406ページ)

 

このように記している。「わが国は独立したとはいえ、いまだ米軍の統治が続いているかのような高圧的な米軍の事故対処であった」というのが、1953年の小平の経験であり、2018年の沖縄の現実なのである。

 

 『小平市史』を読み進めると、

 

  この米軍機墜落事故にいち早く反応したのは、津田塾大学の学生であった。津田塾大学学生自治会は、「全三多摩の学生諸兄姉に訴える」とアピールを発表している。

   私たちの住む小川に米軍将兵をのせた大型輸送機が離陸直後に墜落し〔中略〕百雷が一時に落ちた様な轟音、それと同時に窓ガラスのビリビリという音、すぐ近くの森の向こうからは黒煙がもくもくと立ち、消防サイレンの気味悪い響きをたてた怪自動車が続いてゆきます。寮生の一人が「原爆を積んだ飛行機でなくてよかつたね」と洩らしました。〔中略〕
   今迄何度となく聞かされた平和の危機と朝鮮戦争の残酷さ、そしてその朝鮮戦争とこの三多摩が直結していることが、この事件によって正に自分達のものとして身近に痛い程感じられたのです。日夜夜毎爆音に悩まされ、あのような惨事の恐怖に晒されている私達三多摩の学生として今こそ手をとり合って平和を守る運動に立上がろうではありませんか。

  津田塾大学の学生たちは、今回の事件によって、朝鮮戦争と三多摩が「直結」していることを知り、「平和を守る運動」に立ち上がることを呼びかけている。この呼びかけに対して、一橋大学小平分校の学生たち(小平自治会)は、「津田塾大学のアッピールに応えよう」と全学生に訴え、クラス・サークル・ゼミなどでの討論を喚起した。
     (『小平市史』 405ページ)

 

このような、津田塾の学生による「平和を守る運動」があったことが記されている。事故はまさに「朝鮮戦争とこの三多摩が直結していること」により、小平地域の経験となったのである。「百雷が一時に落ちた様な轟音、それと同時に窓ガラスのビリビリという音、すぐ近くの森の向こうからは黒煙がもくもくと立ち、消防サイレンの気味悪い響きをたてた怪自動車が続いてゆき」とはまさに当事者による証言記録としても読むべき一節であろう。

 ここで指摘しておきたいのは、当時の二十歳前後の津田塾生は戦時期を小学生として経験した人々であるという点である。戦争が昔話ではなく、自身の経験の一部であった世代による「アピール」なのである。同時に、輸送機事故で犠牲となった米軍兵士の多くもまた、その津田塾生と同世代の若者であったことである。学生たちには、どこまで若い米軍兵士の置かれた境遇が「正に自分達のものとして身近に痛い程感じられ」るものとなっていたであろうか?

 

 

 ここまで、1953年6月18日のグローブマスター機墜落事故について、『小平市史』の記述と、「第102回 多摩探検隊」として中央大学の学生により制作された「グローブマスター機墜落事故」の動画の紹介を通して記してきた。

 ここからは、「第169回 多摩探検隊」として制作された、「第102回 多摩探検隊」の後日談となる、「グローブマスター機墜落事故~米国・遺族の証言~」 と題された動画をまず取り上げる。より広い視野で米軍輸送機墜落について考えることを目指したい。

 

 動画サイトにある内容紹介文には、

 

  朝鮮戦争休戦間近の1953年6月18日、立川基地から飛び立った米軍大型輸送機グローブマスターが、現在の小平市に墜落。当時航空機事故史上最大の死者を出しました。多摩探検隊(第102回)で、同事故について取り上げ、番組サイトで配信を開始したところ、いくつかのコメントが寄せられました。コメントを辿っていくと、最終的に、アメリカに住む遺族の方々にたどり着きました。今回は、アメリカでの取材を踏まえ、米軍立川基地グローブマスター機墜落事故を、遺族の視点から見つめ直します。

 

このように記されているが、「グローブマスター機墜落事故」について、前回が日本国民としての小平町小川地区住民の経験(幸いにも命を失うものはなかった)の証言であったのに対し、こちらは実際に犠牲者となった(命を失った)米軍将兵の家族(遺族)による証言である。

 

 

第169回多摩探検隊「グローブマスター機墜落事故~米国・遺族の証言~」
 https://www.youtube.com/watch?v=F9htXcmDrDs

 

 

 「わが国は独立したとはいえ、いまだ米軍の統治が続いているかのような高圧的な米軍の事故対処であった」ことは事実である。しかし、そこで命を失ったのは「高圧的な米軍」ではなく、その一員であるかもしれないが、しかしそれぞれに家族に愛され、家族を愛する一人の人間―誰かの息子であり誰かの父親であり誰かの兄であり誰かの弟―でもあった。

 「第102回 多摩探検隊」で示された日本人の経験からだけでは見えてこない世界がそこにある。129名という犠牲者数が、当時最大の事故であったことを示す数字としてだけではなく、犠牲者129名の一人一人が、それぞれにかけがえのない存在であったことが、遺族の証言を通して伝わってくる。

 ここであらためて、「第102回 多摩探検隊」に登場する、現在でも犠牲者の慰霊のために線香をあげ続ける地元住民の姿―犠牲者の死を他人事と思わない心のあり方―も思い起こされる。

 

 

 ここからは、米国人にとって、あるいは米軍にとって、グローブマスター機墜落事故がどのように経験されたのかについて、少しだけ記してみたい。

 

 ネットで検索すると、2013年6月の『エア・フォース・マガジン(AIR FORCE MAGAZINE)』に掲載されたウォルター・J・ボイン(Walter J. Boyne)氏による「C-124と立川の悲劇(C-124 and Tragedy at Tachikawa)」と題された記事に辿り着く(ちなみに、米国側の資料に依拠して書かれたはずの同記事においても犠牲者数は129人となっている―『小平市史』の犠牲者数には問題があるだろう)。同記事中に記されたいくつかのエピソードにより、事故の全体像をより立体的に描くことができればと思う。

 

 

 「第102回 多摩探検隊」の方でディレクターを務めた曽田健太郎さんは、そこでグローブマスター機墜落事故を取り上げたきっかけについて、

 

  私がこの事故を知ったのは、二〇一一年六月一九日付の読売新聞地方版の記事がきっかけだった。墜落したグローブマスターを操縦していた米国空軍パイロットの親族と、事故を目撃した男性が面会したという内容だった。こんなにも大きな事故が、多摩で起きていた歴史的事実を私は全く知らなかった。

 

このように記している。

 ボイン氏の記事には、グローブマスター機(シリアルナンバーは51-137)のパイロットたちのプロフィールも紹介されている。機長を務めていたのはハーバート・G・ヴォラズ・ジュニア少佐で、当時37歳。飛行時間6000時間を超えるベテランである。年齢からすれば、日米開戦時に25歳、「終戦」の時点で29歳となる。つまり、戦場がどこであったかはわからないが、「先の大戦」(第二次世界大戦)での従軍経験のある人物だということになる。信頼に足る技量が期待される。他に、やはり十分に経験を積んだロバート・D・マコークル少佐、そしてポール・E・ケネディー少佐がパイロットとして搭乗していた。

 読売の記事にある「グローブマスターを操縦していた米国空軍パイロット」がその中の誰であったのかは、現時点ではわからないが、記事後半の記述を読むと、離陸時に機体を操縦し、最後に管制官とのやり取りをしていたのもヴォラズ少佐であったことがわかる。

 

 墜落の原因がエンジントラブルとされているが、離陸前のチェック段階で整備員は問題を感じていたようである。天候も、雲が低く、好条件ではなかった(「第102回 多摩探検隊」動画に登場する証言者も、「6月なんだけど小雨が降っていて比較的寒い感じ」であったとしている)。

 7人のクルー以外は、5日間の休暇(つかの間、命の保障のない戦場を離れてパンパンガールと過ごす時間―思い切りハメを外したであろう彼らの姿の裏には戦場での死の可能性がある―でもあったはずだ)の後、再び朝鮮半島の戦場へと戻される122名の将兵であった。筆者は、それを「いやいやながらの帰還(reluctantly returning)」と表現しているが、実際、約一ヶ月後の7月には休戦協定となる状況下での話であった。そんな戦場へ送り返される途中での墜落事故死であることを考えると、遺族の無念さも、より大きなものとなったであろう。そんな姿を見送った地上要員の証言も残されている。

 

 午後4時31分の離陸後1分で第一エンジンがトラブルに見舞われ、機長のヴォラズはエンジンを切ると同時に立川基地の管制官に着陸誘導管制(GCA)を求めている。航空機関士に対し「もっとパワーをくれ」と叫ぶ中、管制官は高度の維持を求め、それに対し「ラジャー」と返答したのを最後に通信は途絶えた。

 レーダー上の航跡は東北東3・25マイルで消えている。

 ほぼ地表面に垂直に墜落したために、乗員のほとんどは即死であったと考えられている。

 

 ボイン氏は、墜落地のすいか畑について、交通量の多い東京へのハイウェイの近接地と表現している。確かに、青梅街道沿いの土地ではあった(ウィキペディア先生の「立川基地グローブマスター機墜落事故」の記事には「米軍、警察、消防、報道関係等の車両が大量に押し寄せたため、当時は道幅が狭く、所によっては舗装されていなかった青梅街道は大渋滞を起こした」との記述がある)。

 墜落を目撃した軍人もいた。妻とともに東京からのドライブ中であったロバート・D・ヴェス軍曹は、すぐに救援活動に向かった。

 ジョン・H・ジョルダン・ジュニア上等兵―その時点では生きていた―を救出したが、数分で死亡してしまう。燃料タンクに火が移るまでの30分ほど、ヴェス軍曹は救助活動を続けた。その間、右翼のエンジンは稼働し続けていたともいう。

 4時50分には立川の管制は、ジョンソン空軍基地(入間)にも救援要請をし、5時13分には現地にヘリコプターを到着させている。

 『小平市史』にある、

 

  修羅場と化した光景に付近の人びとは全く手の施しようがなく、ただ呆然とするのみであった。かけつけた地元小平町の消防署および消防団の放水では「効果は殆んど見られなかった」。
  急報により立川基地からの消防車や救急車、それに地元消防団、遠くは青梅、五日市、所沢からも数十台の消防車がかけつけた。必死の消火活動にもかかわらず、猛火は一時間以上もおさまらず、乗っていたはずの人影はなかった。

 

この局面での話ということになる。

 さらに従軍牧師や身元確認チーム(遺体の身元確認である)も到着し、臨時の死体安置所も設けられ、『小平市史』にある、

 

  直径約二キロの地区内は米軍のMPが厳重に交通をしゃ断し、すぐさま「ギャラップ・ゴー」の立ち入り禁止の麻縄のロープが張られ、日本側警察、消防団は現場より立ち退きを強いられ、MPが住を突きつけ、住民を追い払った。報道陣も写真を撮ろうとするとピストルで脅され、フィルムを抜き取られる始末であった。その範囲は三街道にもおよんだ。米軍のMP、部隊、AP(空軍憲兵)、救急車、消防車、照明車、クレーン車、トラック、ジープ、ブルドーザーは、付近の公道および私道より畑中を往来し、農作物並びに橋梁、井戸、門柱などに被害をおよぼした。

 

このような状況となっていく。照明車の存在は、夜を徹しての活動であったことの証である。

 墜落は、エンジントラブルに加えて、飛行速度とフラップ操作の連携エラーに起因するものであったとの指摘もされていたことも語られている。

 

 日本側住民に対する態度(「いまだ米軍の統治が続いているかのような高圧的な米軍の事故対処」)の問題とは別に、犠牲者家族のその後の年月―遺族に深く刻まれた悲しみ―について知り、そして米軍内部での墜落事故対応のスピード感と徹底性(そこでは現地住民の利害は無視される)を知ることで、グローブマスター機墜落事故の全体像の理解も深まったように感じられないだろうか?

 

 いずれにせよ、この記事が、沖縄の現状を他人事にしてしまわないためのきっかけになればと願う。

 

 最後に、立川基地が反基地闘争の現場であったことも、多摩探検隊の動画を通して再確認しておきたい。現在の沖縄が決して他人事ではないことに想像力を及ぼすことが出来るだろうか?

 

 

第100回 多摩探検隊 「砂川の記憶─57年目の証言─」
 https://www.youtube.com/watch?v=PbyeWRKRFkg 

 

 

 

【註:1】
 
  戦時中に小平町に設けられた軍の施設は終戦後、民間の施設や住宅地に転用されていった。では具体的にどのように変わったのか、市制施行後の昭和三七年(一九六二)までの変化を記述してみよう(付図は略)。
  東部国民勤労訓練所は東京都多摩公共職業補導所や東京都身体障害者公共職業補導所(ともに後の訓練所)、緑成会付属病院などとなった。
  陸軍兵器補給廠小平分廠は旧地主(農家)や開拓農地として営農の希望者(同廠勤務関係者が多い)へ払下げられ、その後、畑は都営住宅、小平三中、六小、日本タンパク工業株式会社、ブリジストンタイヤ株式会社東京工場、松見病院、緑風荘療養所、一般住宅などに変わった。
  傷痍軍人武蔵療養所は国立武蔵療養所と称されるようになった。
  さらに陸軍経理学校の校舎敷地は建設省建設研修所、陸上自衛隊業務学校、同調査学校、関東管区警察学校に使用され、そして回田道の東側にあった同校練兵場は、終戦後いち早く開墾に従事した人たち(大部分が旧地主)に払下げられ、後にこれらの農地に三栄レコーダー製造、シルバー編機製造、あけぼのパン、ピルマン製造株式会社などが進出した。練兵場の南にあった官舎部分は恵泉女子学園短期大学(園芸科)が使用したり、自衛隊官舎になったりした。陸軍技術研究所と文部省電波物理研究所跡は一部は民間のものとなり、東京サレジオ学園に払下げられたり、旧地主や営農希望者に払下げられた後、文化服装学院グラウンドや沖電気工業株式会社総合グラウンドとなったりした。さらに国の施設としては郵政省電波研究所や東京学芸大学小金井分校などになった。小金井街道沿いの特殊無線通信所跡は住宅となった。
     (『小平市三〇年史』 1994  268~269ページ)

【註:2】
 正確には、「グローブマスター」の名称は戦中に開発着手されたダグラス社のC-74に与えられたもので、戦後に開発・量産されたC-124の愛称は「グローブマスター Ⅱ」であった。
 しかし、1953年に墜落したC-124について「グローブマスター機墜落事故」と呼ぶことが、今回引用した『小平市史』においても「多摩探検隊」においても行われており(ウィキペディア先生も同様)、当記事内でも「グローブマスター」で統一することとした。

 

 

 

《記事一覧》

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  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-511f.html
  1953年の小平町のグローブマスター機墜落事故と沖縄の現在

 

 

 (オリジナルは、
 投稿日時 : 2018/10/14 18:29 →
 https://www.freeml.com/bl/316274/321865/
 
投稿日時 : 2018/10/14 18:33 → https://www.freeml.com/bl/316274/321866/

 

 

 

 

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2018年9月23日 (日)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合地帯化状況について記してきた(カテゴリー「多摩武蔵野軍産複合地帯」記事参照)。

 特に「武蔵野」の名を冠する武蔵野美術大学所在地である小平地域に焦点を当てることで、総力戦下でこその軍施設の様相、軍施設設置がもたらす軍施設関係者のための集団住宅建設の必要性、軍施設及び集団住宅への水源確保に際して機能した「大きな力」としての軍の姿も再確認することが出来た。前回は食糧増産を求められる農家と集団住宅住民の育児支援のための託児所の設置にも触れたが、これもまた総力戦状況が生み出したものであった。

 

 今回は、戦時期の小平地域の景観の変化について記してみたい。もちろん、軍施設の進出、それに伴う集団住宅建設自体、それまでの農地と山林で構成された地域景観を大きく変えるものであった。

 すなわち戦時開発そのものが地域景観に変化をもたらすものであったが、ここでは、「こだいら 水と緑の会」による『用水路 昔語り』と題された聞き書き集(2016)から、特に戦時期における青梅街道の景観の変化―木材供出による欅(ケヤキ)並木の伐採―について確かめることから着手し、その背景を探ることを試みようと思う。小平地域の木材供出の歴史を通して、大日本帝國の総力戦状況(その限界)も明らかになるはずである。

 

 

 まず、関連した証言を(気付いた限りではあるが)抜き書きしてみることから始める(太字化による強調は引用者によるもの)。

 

馬場:草はどうですか、昔はこんなのが生えていたとか。
荒井:大体同じだけど洋物が増えたね。日本タンポポは無くなった。藪、昔は竹藪が沢山あった。真竹が随分あったけど今は殆ど無いね。
馬場:伐採ですか?
荒井:いや、自然に枯れた。「竹は百年に一度花が咲いたら終わり」と言うが、本当に花咲いてそれで終わりだったね。植物が無くなったから環境も悪くなったって言えるよ。だって昔はこの青梅街道は欅のトンネルだったんだよ。竹内さんとこにはちょこっと残ってるけど、もうずーとあんな感じでトンネルだった。子供の頃から戦争中までね。
馬場:燃料として切られたんですか?
荒井:いや船材として全部供出ですよ。大きいのから強制的に切られた。それで無くなっちゃったんだ。それだけだってえらく環境が違っちゃったのよ。子供の頃はクーラーもないから夏は木陰で涼んだもんだが。
馬場:交通量なんかはどうですか?
荒井:昔はめったに車が通らなかった。道路にしゃがんで話していて、車が来たらどくかって感じね。戦後の変り様は凄いね。
馬場:青梅街道の道幅は変わりないですか?
荒井:それは全く変わらない。昔っからこの幅。幹線道路だったけど、舗装されてたのは本の真ん中だけ。周りは砂利で草も生えてた。特に六番、七番の所は広いんです。あそこは馬の継ぎ場だったから。
馬場:馬の中継ぎ場というと何か特別なものがあったんですか?
荒井:青梅から馬で石灰を運んできて、そこで馬を替えるわけですよ。だから道幅が広くて、馬に水飲ませるために真ん中に川が流れていたって聞いてます。多分全て幕府が管理してたんだろうね。
     (『用水路 昔語り』 8~9ページ)
     話し手:荒井利喜夫(昭五生 小川町)  
     聞き手:馬場淑子

 

馬場:青梅街道も随分と変わりましたでしょう。昔は欅のトンネルだったとか。
関根:そうです。欅もだけど、裏にはずーっと竹林があった、真竹のね。一斉に花咲いて全滅ね。「竹は百年に一度花をつけて枯れる。」って言うけど本当ね。林は防風のためでもあった。冬は土埃で空が真っ赤になるくらいだったからね。子供の頃、舗装されたばかりだったかな。
馬場:この辺りは道幅が狭いですよね。
関根:そうね、この少し先の辺りから細いね。
馬場:子供の頃の交通機関は何を?
関根:人は徒歩か、自転車が少し。多摩湖線と西武新宿線はあったよ。でも一時間に一本くらいかな。
     (『用水路 昔語り』 10ページ)
     話し手:関根初男(昭十三生 仲町)

 

馬場:子供の頃は青梅街道沿いに欅もたくさんありましたか?
小柳:欅のトンネルでした。春になると完全にトンネルになってました。保存樹林がその面影をとどめてるけどね。ここから八番まで、踏切のこっちまではそうでした。戦争中に船材として切られたという話は聞いたことがあります。
馬場:竹藪はどうでした?
小柳:竹藪もずっとありましたね。屋敷の裏が竹藪でね。竹藪と畑の間に細い道があるんですよ。そこを通って第一中に通ってました。花咲かせ竹が枯れたという話は聞いた。
 中学の時青梅街道は砂利でね。土埃が凄かった。車が来るともうもうとして辛かったね。逆に雪が降ると膝の所まで積もってね、弟達を学校に行かせるのに雪掻きしたね,三十cmくらいあったかね。
     (『用水路 昔語り』 13ページ)
     話し手:小柳忠男 (昭十二生 小川東)

 

馬場:かなり大きな家ですものね。
田中:大正七年に、屋敷森の欅を切って建てたんですよ。材料は周りの木を切って、大黒柱は欅でね。
馬場:昔の青梅街道は欅のトンネルだったと聞いています。
田中:そうです、欅のトンネルでした。夜はフクロウが鳴いてたし、子供の頃は兎がいたからね。だって大正十四年に一反歩を九百円で売買し油ようとしたら、不景気で五百五十円になったって聞いてます。そういう時代でしたからね。
     (『用水路 昔語り』 21ページ)
     話し手:田中次男(大五生 小川町)

 

馬場:子供の頃この辺りはどんなでした?
浅見:畑ばっか、家は無かったね。道も砂利で真ん中だけアスファルト舗装してあって、側溝が付いてたね。欅はこんもりと繁って緑のトンネルよ。屋敷森があって家があって、畑が玉川上水のとこまであるの。その頃の川は防火用水としての意味合いが強かったね。井戸あったし、幅も今より広くて七十cm位ありましたよ。よく盥を浮かべて舟ごっこして遊んだもの。広かったし水も多かった。
     (『用水路 昔語り』 39ページ)
     話し手:浅見清子(昭六生 小川町)

 

馬場:戦争と言えば、昔は青梅街道は緑のトンネルだったそうですね?
岩淵:そう、もう両脇に欅が聳えていてね、本当にずっと緑のトンネルだった。その下がヒイラギの垣根ね。夜なんか真っ暗。
馬場:その欅が戦時中供出で切られてしまったと聞いてます。
岩淵:枝下のある欅は皆切られたね。それからどこの家にも「伝次丸」って柿の木があったね。何代も前からあったようで、今は家のも無いけどね、新田だった三百年続いてるわけだから、きっとずっと昔に植えたもんだったんだろうね。
 家は皆藁屋根、東向き。うちは昭和三十三年に茅の丸葺きにしたんですが、他の所は藁の上にトタン被せちゃったりしてね、そのうちにはポチポチ建て替えになってね。
     (『用水路 昔語り』 48ページ)
     話し手:岩淵ヨシ子(昭四生 天神町)

   【枝下】 樹木の最も下の枝から地表までの長さ(『広辞苑』)

 

金豊:うちは高台で隣と三尺も違うから、そういうの利用して水車も回したんだろうね。ここは昔から「坂」って呼ばれてました。「坂」って位だから一番高かったんでしょうね。親戚も「坂のうち」ってね。三里四方、四里四方行ったって家の欅見えたから、昔だから高層住宅なんて無かったからね。
馬場:その欅も目立ったでしょうね。
金桃:いっぱいあったんですよ。戦争中全部供出させられて、これ一本きり残ったんです。
金豊:船材にされちゃったんだね。昔はこの青梅街道沿いにずっと欅があったんだけど、陸軍大臣の代理の人が来て、管理して切ったんだよ。
金桃:そしたら持っていかないうちに終戦になっちゃってね。
金豊:みんなデカイ欅でね、それ全部切っちゃったからね、それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ、まったく悲しいよね。
     (『用水路 昔語り』 80ページ)
     話し手:金子豊(大六生 小川町)
          金子桃代(大十生 小川町)

 

馬場:昔は青梅街道は緑のトンネルだったそうですね。
金子:夜は真っ暗になりましてね、街灯ついてなかったし、本当に真っ暗。道の真ん中にアスファルトがあって、あとは砂利でね、掘があって、のどかでしたね。秋になると農家の人が道の所で色々干すんですよ、筵で。大根の切り干しとか、昔は車もそんなに通らないしね、幅は昔からこのままですから。
     (『用水路 昔語り』 98ページ)
     話し手:金子光子(昭十一生 小川町)

 

馬場:青梅街道には昔雨水を流すための側溝がありました?
清水:道路のはじと家の前に少し溝があって、ほんの小さい橋が掛かってましたね。多分細い、何の囲いもないから、そこが崩れていたり、ちょっと澱んでいたりしてましたね。
馬場:その青梅街道は緑のトンネルだったとか?
清水:昔、私が子供の時分には道路の両側から大きな樹が植わってますから、樹が生い茂って、夜なんか本当に真っ暗で、鼻つままれても分からない位でしたよ。特に私の実家はお寺さんが側だから、夜なんて一人で歩くと、駆けると誰か後ろから追っかけて来るような気がして怖かったですよ。ここに来てからも、家の周りにカシの木あったり、隣りにも大きな木あって、庭は真っ暗と言ってもいい位ですね。
馬場:青梅街道には街灯はなかったのですか?
清水:うーん、子供の頃実家からここに用事で行かされた時も、真っ暗な中をとことこ歩いたような記憶しかないですね。昔は今と違うから。自転車の乗り方なんかも青梅街道でやりましたからね。車もめったに来ないから。
     (『用水路 昔語り』 103ページ)
     話し手:清水恵美子(大十五生 小川町)

 

角:欅は大きくなるのが早いですか?
小川:早いですよ。この辺は大きい欅がいっぱいあったんです。防風林になるし、落ち葉は出るし六十年周期で製材所に売ってたんです。船材とか電柱に使ったんです。戦中、終わる頃に供出で全部切られてしまった。
     (『用水路 昔語り』 139ページ)
     話し手:小川善一(大十生 学園東町)
     聞き手:角早桐

 

馬淑:小平の方でも巨木とか雑木林とかありますが・・・。
村野:青梅街道沿いにはずっと欅の並木があったんですよ。ある時ぱっと切っちゃいましたが。当時覚えていますけど、大きな欅の並木があり下にはヒイラギの垣根があったんですよ。道も勿論舗装もしていなくて、いい雰囲気だったんです。
馬淑:ヒイラギを植えるというのは何か意味があった?
村野:別にないけど、まぁ、刺があって垣根代わりになったんじゃないでしょうか。
須賀:結構密集してますよね。
村野:結構丈夫な木なんですよ。
馬政:小平の竹内家の大欅はご存じですか?市の天然記念物ですが。
村野:小平の欅ってのは全国的に有名なんですよ。地に合っていてね、「曲がっている苗木が、ここでは伸びると真っ直ぐになる。」って話あるんです。
馬政:緑のトンネルと言われてますよね、昔の青梅街道はどんな具合でしたか?
村野:家の前に欅伸びてるでしょ、あれが両側にあると思って下さい。
須賀:竹内家の大欅は目印だったって聞いてます。それを見ると、この辺りは小平だって。
村野:そうでしょうね。東村山に行くと万年欅って言うのがありますね。あと有名なのは府中の大国魂神社の欅。八万太郎義家が植えたというやつです。
     (『用水路 昔語り』 159~160ページ)
     話し手:村野啓一郎(昭六生 久留米市柳窪)
     聞き手:馬場淑子
          須賀美佐子
          馬場政孝

 

 

 かつての、「めったに車が通らなかった。道路にしゃがんで話していて、車が来たらどくかって感じ」であった青梅街道の姿。

 あらためて以下の言葉を読むことで、「木材供出による欅並木の伐採」についての全体像もつかめるだろう。

 

 

  青梅街道沿いにはずっと欅の並木があったんですよ。ある時ぱっと切っちゃいましたが。当時覚えていますけど、大きな欅の並木があり下にはヒイラギの垣根があったんですよ。道も勿論舗装もしていなくて、いい雰囲気だったんです。

  この辺は大きい欅がいっぱいあったんです。防風林になるし、落ち葉は出るし六十年周期で製材所に売ってたんです。船材とか電柱に使ったんです。戦中、終わる頃に供出で全部切られてしまった。

  昔はこの青梅街道は欅のトンネルだったんだよ。竹内さんとこにはちょこっと残ってるけど、もうずーとあんな感じでトンネルだった。子供の頃から戦争中までね。

  船材として全部供出ですよ。大きいのから強制的に切られた。それで無くなっちゃったんだ。

  船材にされちゃったんだね。昔はこの青梅街道沿いにずっと欅があったんだけど、陸軍大臣の代理の人が来て、管理して切ったんだよ。

  そしたら持っていかないうちに終戦になっちゃってね。

  みんなデカイ欅でね、それ全部切っちゃったからね、それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ、まったく悲しいよね。

 

 

 「昔はこの青梅街道は欅のトンネルだった」ものが、「戦中、終わる頃に供出で全部切られてしまった」、そしてそれは「船材として全部供出・船材にされちゃった」もので、しかも「それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ」という「まったく悲しい」顛末として、古くからの住民には記憶されていたのである。

 

 

 この聞き書きには「戦中、終わる頃」とあるだけで、年代の詳細はわからない。探せば、当時の関連公文書類も見つかるものと期待するが、今回はそこまでは踏み込まない。

 しかし、「船材として全部供出・船材にされちゃった」とあることから、戦時期の船舶建造政策との対応関係を確認することで、年代の推定も可能ではないかと思う。

 

 

 

 神戸大学附属図書館が電子データ化した「神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 造船業」の中に、「木造船急速増強 きょう建造緊急方策発表」と題された大阪朝日新聞記事がある(1943(昭和18)年1月21日付)。

 

 

 木造船急速増強
 きょう建造緊急方策発表

大東亜戦争の長期化に伴いますます深刻化する船腹戦争の事態に対処し、海上輸送力の積極的増強をはかることは緊急焦眉の国家的課題であり、政府はこれがため夙に鋼船による計画造船と並行して鉄鋼資材関係より簡易な設備をもって、しかも急速に建造され得る木造船の増強をはかるべくかねて木造船戦時標準船型の制定、木造船別の企業合同などの措置をとってきたが時局の緊迫にかんがみ昭和十八年度において木造船の飛躍的増大を目途とする「木造船建造緊急方策要綱」が二十日閣議決定をみた、右要綱中とくに注目すべきは

(一)造船統制会傘下の軍管理以外の主要造船、造機工場および新設工場を逓信省において管理
(二)木船建造促進に関する主要事項の審議機関として木船建造促進委員会(仮称)を逓信省に新設
(三)木材確保のために政府の国有林供出とともに翼賛会等による全国的な木造船用木材供出の国民運動を展開しその運搬についても地元の勤労奉仕を期待する
(四)豊富な木材資源を擁する大東亜地域の木造船工場を全面的に活用する

など時局の新段階を反映した英断的措置を決定した諸点であるが、右のほかすでに実施されつつある措置には

(一)木造貨物船型の五種より三種への整理とともに大型木船の建造促進のため三百トンおよび五百トンの木鉄交造船の試作
(二)造船造機施設の拡充のためには既存施設の統合整備および主として産業設備営団による新設整備のほか現存の不急または遊休産業施設の転換利用のためには例えば自動車工場のごときが造機工場に転換することも可能となる
(三)資材、労務の確保についても物動その他において割当を確保し優先的入手のために各般の措置を講ずる

などであり、本要綱の目標達成のためには政府のみならず関係業者はじめ一般国民の絶大なる理解と協力が要請されねばならぬ

木造船建造緊急方策要綱(情報局発表)

一、建造目標 昭和十八年度における木造船建造目標(外地、満洲、支那および南方諸地域を除く)は昭和十七年度に比し画期的増大を期す
二、船型 (イ)木造貨物船の船型は極力これを整理するとともに大型木船の建造を可能ならしむるごとく措置す
(ロ)戦時標準船型をさらに簡易化するため各般の措置を講ず
三、造船および造機施設の拡充
(イ)既設の造船および造機施設を統合整備するとともに資材、労務などの立地条件を考慮し、所要数の造船および造機工場を新設し所要生産量を確保す
(ロ)造船および造機施設の拡充にあたりては関係各官庁協力のもとに現存施設の転換、利用などの措置を講ず
(ハ)造船、造機施設の整備ならびに新設は必要に応じ産業設備営団をしてこれに当らしむるとともに右施設は営団よりこれを政府の指定するものに譲渡し、貸附または出資せしむるごとく措置す
四、造船および造機施設の管理 主要既設工場(造船統制会に属するもの)にして軍の管理に属せざるものおよび新設工場は逓信省においてこれを管理す
五、資材の確保 木船建造用ならびに施設拡充用の資材、動力、機械、器具類などの割当は物資動員計画および電力動員計画において極力これを確保するとともに、これが優先的入手については関係各庁協力のもとに各般の措置を講ず
六、労務の確保 右計画遂行に必要なる労務者は造船および造機施設の拡充に伴い逐次これが充足を行うものとす
七、大東亜地域における木造船工場の活用 大東亜地域における木材資源豊富なる地の造船工場に機関、□装品などを供給し、かつ技術上の援助を供与し、計画造船の一環としてこれを全面的に活用するため関係各庁協議のうえ速かに具体策を決定し、即時実行に着手す
八、木船建造促進委員会(仮称)の設置 木船建造促進に関する重要事項を審議するため逓信省に木船建造促進委員会(仮称)を設く
九、木船建造促進に対する挙国的協力措置 木船建造の促進に関しては関係各官庁は緊密なる連繋協力のもとにそれぞれその所管事務の迅速処理をはかるとともに政府はとくに国有林材を供出し、かつ大政翼賛会などをして全国的に木船建造用木材供出国民運動を展開せしむるとともに木材その他の資材の搬出、工場の新設などについては青、壮年団、在郷軍人会などをして奉公的協力をなさしむるごとく措置す

 

 

この記事中にある、「(三)木材確保のために政府の国有林供出とともに翼賛会等による全国的な木造船用木材供出の国民運動を展開しその運搬についても地元の勤労奉仕を期待する」、そして「政府はとくに国有林材を供出し、かつ大政翼賛会などをして全国的に木船建造用木材供出国民運動を展開せしむるとともに木材その他の資材の搬出、工場の新設などについては青、壮年団、在郷軍人会などをして奉公的協力をなさしむるごとく措置す」との「木造船建造緊急方策要綱」の方針こそが、戦時期小平地域での青梅街道の欅並木の運命の背景であろう。

 

 

 実際、これは、小平地域だけの問題ではなかった。

 

 

 情報局編輯になる『寫眞週報』(写真週報)の第263号(昭和18年3月17日)には以下の記事がある。

 

 

 寫眞週報 263号 2~3ページ

 

 時の立札
皇土に根ざし
風雪に耐へて二百年三百年を
今日の日のために
生きぬいてきた巨木だ
その命を捧げる日の壮絶さを想へ
我等その心をくみ、その心に應へ
木もて船を造らう
皇國の幸をはこぶ船を
     (表紙裏に位置する2ページ)

 

巨木擧ってお召しに應じよう
     岡山縣
     撮影 入江泰吉
(以下、キャプションは新字体で表記)
岡山県県社木山神社の神木は、国難打開のため軍需資材として応召する。この大樹は同神社の祭神須佐之男大神のおひげが自生したものといはれてゐたものである
     (3ページ)

 

 

 寫眞週報 263号 4~5ページ

 

巨木擧ってお召しに應じよう
 『神木が供出された』『五代にわたつたあそこの欅林も供出された』かうした氏子や篤志家及び団体などによる木材の供出は、いま、広く全国的に行はれてゐます。いふまでもなく、供出された木材は戦局の進展に伴つてますます必要となつてきた兵器や艦船、車両等の資材として、勝つための有力な力となつてお役に立つわけです
 しかし、この供木といふことは、もうわが国には軍需品の資材となる木がないといふわけではなく、それらの用途に向けられる木材の伐採が到底需要に足りないのです。欅や樫などの特殊材は山奥には相当あるのですが、それを刈つて運び出すのには相当の時日が要る上に人手も多くかかり、ソレッといふ間に合ひません
 そこで供木運動も運搬が比較的楽にできる屋敷林や公園、神社仏閣の境内林とか、街道の並木、平地林等を伐採することが対象となつてゐます
 これらは、或ひは父祖伝来のものであつたり、或ひは史跡名勝天然記念物として由緒ある並木であつたり、平時であれば決して伐れないものばかりでありませうが、一人息子さへお国に捧げるときです。戦力を増すためにこの際、進んで供木に応じませう
 勝つためだ、村民の決意は固く岡山県県社木山神社の神木が村民歓呼の声に送られて『応召』しました
(写真キャプション)
 参道の老杉は地響きを打つて倒れた
 参道並木の伐採は境内の森厳をそこなはぬために十分な調査が行はれた
 樹齢三百五十年の樅も村民の斧によつて応召する
 刈り倒された樹齢約三百五十年の老杉この杉の伐積は―直径一メートル八十センチ、高さ四十メートル、重量七千貫である
 神木は悠々と応召する

 

 

 寫眞週報 263号 6~7ページ

 

應召の木材は続々木船に
     ―大阪―
 畏くも天皇陛下には、戦時下における木船の重要性を思召され、木船材を御下賜あらせられました。聖慮の程、まことに畏き極みであります
 このありがたき聖慮に感激、感泣した政府は、勿論木船建造のため各地の国有林をどしどし伐り出してゐますが、さらに全国的に木船用木材供出が国民の盛り上がる力として行はれてゐることはご存じの通りです
 かうして供出された木材は、直ちに造船材に使用され、去る一月に戦時標準型貨物船の第一船が大阪で進水してから、続々と標準船が全国の造船所で造られ、各方面の海域に就航してゐます
 ここ大阪の造船所では木材供出者の意気に感じて、一日でも二日でも早く標準船をつくり上げようと、夜に日をついで造船の斧を振つてゐます。次々と進水する木造船は敵殲滅戦に、或ひは大東亞の建設戦に、堂々日の丸の旗を押し立てて大洋に乗り出してゆきます
(写真キャプション)
 肋骨は次々と組み立てられてゆく
 肋骨に外板をくつつける作業は、寒中もいとはず進められてゐる
 外板のつぎ目から水がはいらないやうに充填物をつめてゐる
 予定より三日も早かつたぞ! 標準型木船は進水した
 天を衝くやうに木船の意気は高く肋骨の組立も終り、一日も早く海洋に出る日を待つてゐる

 

 

 まさに、「木造船建造緊急方策要綱」にある「政府はとくに国有林材を供出し、かつ大政翼賛会などをして全国的に木船建造用木材供出国民運動を展開せしむるとともに木材その他の資材の搬出、工場の新設などについては青、壮年団、在郷軍人会などをして奉公的協力をなさしむるごとく措置す」との方針が全国的に展開され、「祭神須佐之男大神のおひげ」までが、「木船建造用木材供出国民運動」の標的となっていた(『寫眞週報』は、すなわち情報局は、このエピソードを「まったく悲しい」こととしてではなく、木材供出の先進的事例として取り扱っている)。

 昭和18年の時点で、全国的には、木造船建造のために神社の御神木までが伐採される(「風雪に耐へて二百年三百年を今日の日のために生きぬいてきた巨木」が戦時期の国策の都合により伐採される)ようなところにまで追い詰められていたのである。小平地域では青梅街道の並木で済んだという意味では、まだ軽かったのかも知れない。

 

 せっかくの機会なので、「木造船建造緊急方策要綱」に至る、戦時期日本の造船関連の政策の推移について、吉川由美子氏による「アジア・太平洋戦争中の日本の海上輸送力増強策」(2004)と題された博士学位申請論文からの要約(「博士学位申請論文審査報告」2~3ページ)を用いて、確認しておきたい。

 

  1939年11月、造船業を対象とした統制策である「造船事業法」が成立、41年8月には造船の発注統制を強化した「戦時海運管理要綱」が成立し、翌42年1月には造船統制会が設立された。こうして、海運も造船も強力な国家統制下に置かれることになった。
  1942年3月、戦時標準船(以下、戦標船と略す)の建造と計画造船の実施が決定された。しかし、同年12月のガダルカナル島攻防戦による船舶の損失も加わって、43年度は船舶増産の強化が急務となった。そのため43年に入ると、上記船標船とは異なり、急速な増産に重点を置いた第二次戦標船が設計された。その中でも特に重視されたのは、船舶の簡易化と大量生産に適した改E船(第一次戦標船のE型の改良型)であった。改E船の構造は、既造船所以外の新規で簡易に新設された工場、即ち東京造船所・播磨松ノ浦、三菱若松、川南深堀の4造船所で集中的に建造された。これらの造船所は大量生産方式、流れ作業、ブロック建造法、電気溶接(三菱若松)などの新しい生産技術体系を導入したため、簡易工場にもかかわらず、かえって時代の先端を行く工場となった。しかし、これらの工場の労働力の主力は囚人であった。
  1944年に入ると、造船用鋼材の不足が深刻になった。この鋼材不足の対応策として考案されたのが、藤原銀次郎による「雪達磨造船」である。即ち、船舶で鉄鉱石を輸送し、その鋼材で船舶を建造し、その船で鉄鉱石と石炭を再び運ぶという循環構造によって造船量の拡大を図るというものであった。しかしこの「雪達磨造船」は、戦況悪化による国力崩壊を食い止める突破口とはならなかった。
  造船用鋼材不足が対応策としてもう一つ考案されたのは、「雪達磨造船」より前のことになるが、木造船の建設であった。1943年1月の閣議決定「木船建造緊急方策要綱」がそれである。木造船はあくまで鋼船の補完的役割を期待されたが、鋼船と同様、戦時標準型が決められ大量生産がおこなわれた。しかし、急な大量生産のため浸水するものが続発し、木造船建造の目標は烏有に帰した。
  戦争末期には鋼材の入手が激減して新造より修理が優先される一方、鋼材節約のためにベニヤ板を材料とした合板船や、コンクリート船が検討され試作がなされたが、実用化されるには至らなかった。

 

 

 先の『寫眞週報』記事(御神木の伐り倒し)を読んだ後で、そして「みんなデカイ欅でね、それ全部切っちゃったからね、それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ、まったく悲しいよね」との小平のお年寄りの嘆息を共有した後で、「しかし、急な大量生産のため浸水するものが続発し、木造船建造の目標は烏有に帰した」との顛末に眼を通すとき、実際、「まったく悲しい」気持ちを抱くしかない(『函館市史デジタル版』の「造船所の対応と戦時標準船、木造軍艦の建造」の項では、「政府はあらゆる施策を講じて木造貨物船の増産をはかった。しかし、19年の頃は応召による熟練工の不足、戦用金物の入手難などで目標の達成は極めて困難であった」と、当時の実情を記している)。

 

 

 

 再び吉川由美子論文の要約に戻ると、

 

  1942年3月、戦時標準船(以下、戦標船と略す)の建造と計画造船の実施が決定された。しかし、同年12月のガダルカナル島攻防戦による船舶の損失も加わって、43年度は船舶増産の強化が急務となった。そのため43年に入ると、上記船標船とは異なり、急速な増産に重点を置いた第二次戦標船が設計された。その中でも特に重視されたのは、船舶の簡易化と大量生産に適した改E船(第一次戦標船のE型の改良型)であった。改E船の構造は、既造船所以外の新規で簡易に新設された工場、即ち東京造船所・播磨松ノ浦、三菱若松、川南深堀の4造船所で集中的に建造された。これらの造船所は大量生産方式、流れ作業、ブロック建造法、電気溶接(三菱若松)などの新しい生産技術体系を導入したため、簡易工場にもかかわらず、かえって時代の先端を行く工場となった。

 

このように、戦時標準船の先端的側面が示されている。その点について、後藤伸氏の論考にも触れておきたい。後藤氏は戦時標準船について、

 

   統制が始まる以前、平時の商戦の注文はおおむね一隻ごとの個別注文であり、造船所は契約成立ごとに詳細な設計図面を作成し、資材と部品を調達し、それを船台で組み立てていくという、典型的な受注生産を行っていた。このような造船業に対して、昭和14年(1939)9月以降、臨時船舶管理法によって、新造船に際しては事前に逓信省の承認を受けることが規定されたが、これが新造船に関する統制の始まりといえる。この事前承認性は、翌15年2月の海運統制令により逓信大臣の許可制となり、統制が強められた。このように事前の承認や許可が必要とはいえ、建造される船舶についてはなお船主の希望なり裁量の余地が働き、また造船所もそれに対して従来の個別注文的な方法で対処しえた。もっとも、この時期まで、強制ではなかったが、建造される船舶の一定割合は、すでに船型、構造、主要性能などを標準化した船舶によって占められていた。この平時における標準船型は、船舶改善協会が中心となって昭和14年4月に選定したものであるが、後述するとおり、これら船型は戦時標準船(第1次)の原型となった。
     (後藤伸「戦時期日本造船業の生産技術に関する一考察―戦時標準船の建造をめぐって―」1992 『国際経営論集(神奈川大学経営学部)』 3  85~86ページ)

 

  組立産業における大量生産の歴史を顧みると、量産システムの確立のためには、生産種類を限定するとともに、部品を規格化して製品の標準化をはかり、また設計をできる限り簡素化することが必要であった。戦時造船における多量生産は、標準型船の設計とその簡易化という形をとった。ここでいう標準船とは、船体、機関、艤装品などの形状や構造を規格化し、同一資材や部品を使用するよう設計された船舶であり、工期の短縮、工費の低廉をもたらすという意図から発想されたものである。
     (後藤伸 前掲論文  97~98ページ)

 

  このことは、船型の簡易化が使用鋼材料の節約をとおして工数短縮=建造期間の減少をもたらすとともに、それと同等あるいはそれ以上に、建造工程における簡易化(=改善)をとおして工数の減少をもたらしていたことを示唆する。
     (後藤伸 前掲論文  105ページ)

 

  第一に、戦前と戦後の造船技術の連続性について。戦後の造船業の技術革新が溶接ブロック建造法に求められるとすれば、この建造法は戦後日本の造船業にまったく新規の工法であったということはできない。既にみたように、王手の象zsん除では1920年代初頭から溶接技術の導入、開発を手掛け、戦標船の建造では溶接による接合が船体のかなり広い範囲にわたって用いられた。また、ブロック建造についても、自然発生的におこなわれていた部材の小組立程度の段階から、さらには先行艤装方式さえもが意識的に試みられ、そしてそれは大量生産という点ではかなりの成果をおさめることができたのである。
 第二に、戦前と戦後の造船技術の格差について。戦時に試みられたこれら建造方法は、まさに戦時という特殊事情のもとで採用されたものであり、平時での建造方法としてそのままで通用するわけではなかった。たとえば、電気溶接一つ採り上げてみても、これが戦時に急ピッチで採用されたのは、鋼材の節約もさることながら、鋲打ちのための熟練工が不足し、まったくの素人でも扱える接合技術として導入されたという事情は無視できない。しかも、手動ないしせいぜい半自動の溶接機によって接合された船舶は、戦標船という船体構造が極度に簡易化された小型船舶が主であり、戦後展開されるような大型商船の溶接ブロック建造を可能とするには、船舶設計、溶接技術、使用鋼材、運搬設備、工程管理など多方面にわたるいくつもの困難な技術的ハードルを超える必要があった。
     (後藤伸 前掲論文  119~120ページ)

 

このように、戦前期には「契約成立ごとに詳細な設計図面を作成」することから開始される個別の受注生産品であった船舶が、規格化されることによって大量生産を容易にし、戦時の船舶需要の急増への対応が試みられたこと。そして、戦時標準船製造の経験には、戦後の造船業の生産技術への連続的側面があることが主張されている。

 確かに、生産技術の観点からは、そのような評価も可能なのであろう。

 しかし、「船舶の簡易化」すなわち船体構造の極度な簡易化は船体の強度を犠牲にしたものであり、それは洋上で船舶を運航する乗組員を犠牲とするものであった(船員の人命の軽視、ということなのである)。

 

 

 第二次戦時標準船について、大内健二氏は以下のように指摘する。

 

  艦政本部は第二次戦時標準船の設計に際し、徹底した工期短縮を行なうために建造予定の各形式の船について、抜本的な対策としてかなり強引な設計の簡略化、それに伴う強引なまでの工作の簡略化を実施したのである。この抜本的な対策とは次のようになっていた。
  (イ)、早期完成のために量産化に適した構造の船であること。
  (ロ)、材料と工数の徹底した節約と節減。
  (ハ)、(ロ)項の要求から完成した個々の船舶の寿命は短期であっても可とする(戦争期間だけ持てば良い)。
  (ニ)、運用効率の上から一隻当たりの載貨重量は極力大きくする。
  (ホ)、個船には高性能は求めない。従って機関の低馬力と低速力は容認する(量産の利く低価格、低性能の機関の搭載が前提条件)。
  第二次戦時標準船に貫かれた建造方針は、一にも二にも徹底した簡易・簡略構造による建造機関の短縮であった。そして結果的にはこの第二次戦時標準船こそ、後に粗製濫造の見本として周知された、いわゆる「戦標船」なのである。
  第二次戦時標準船に採用された主な簡易・簡略化は次のとおりであった。
  (イ)、全船種からの二重底の廃止。
  (ロ)、船体のシーアやキャンバーの廃止。一部を除き曲面加工の廃止。
  (ハ)、ブロック建造方式の大幅採用。
  (ニ)、電気溶接工法の大幅採用。
  (ホ)、付属装置や機器の簡素化。
     (大内建二 『戦時標準船入門』 光人社NF文庫 2010  75~76ページ)

 

  この徹底した簡易構造の中でもその際たるものは船舶の安全の基本に関わる二重底の廃止であった。二重底とは船底を二重構造に組み上げ、船舶が座礁などしたときに船底の決定的な破損を少しでも軽減し沈没の危機から救うこと、また船体の強度を高めるための基本的な構造として採用されている、船舶の構造上必要不可欠なものである。
  二重底の組み立てはその船が起工され船台上で工事が始まった直後から開始される最重要の工程で、確かに多くの鋼材と多くの作業を要する複雑な工程である。この複雑な工程を排除することは船の建造のスピードアップには確かに極めて効果の大きなものであるが、その反面、船の安全性を根底から否定することでもあり、特に用船者側から見れば信じられない暴挙であった。
  二重底の撤廃に対しては航海の安全が保証されず、任務の遂行も保証できないとして各海運会社等からは、設計主務者である海軍艦政本部に対し厳しい批判と苦言が呈された。しかし艦政本部はこれら全ての批判や苦言を黙殺し二重底撤廃を強行したのである。つまり第二次戦時標準船は大小全ての船が二重底を装備していないという、信じられない構造の船となったのであった。つまり各船の船底は十~二十ミリの鋼板一枚だけであったのである。
  徹底した簡略設計や工作が強行され、また作業工程が簡略化されて完成した船はその後それぞれに多く問題を残すことになった。その代表的な例が水密性の欠陥であった。
  造船所で完成した船が、竣工検査で必ず実施するものに船体の水密性に対する検査があった。これは船体の吃水線以下の船体の漏水の検査で、不良工事は将来的にその船の沈没も招きかねず、事前に徹底的に検査することが決まりであった。ただこの検査は多くの時間を要することになり、不良個所の改修作業も決して容易ではなかった。第二次戦時標準船では完成時のこの検査を極めて簡単な簡易検査だけにとどめてしまったのである。
  このために信じられないことではあるが、完成直後から直ちに輸送任務に投入された各船では、しばらくの間は乗組員による漏水個所の手直し作業が行われるという、異常な状態が続くことが多かったのである。また甲板の鋼材の電気溶接個所も、工作不良により船内に水漏れが生じることは日常的で、就航後は当分の間、乗組員による様々な手直し作業が続くのは当たり前というのもこれらの船の特徴でもあったのである。粗製濫造の極みともいえる状態は確かだったのである。しかしこの混乱は設計だけに原因があるのではなく、後述するように多くの部分が造船作業員の技量の大幅な低下に由来していたのであった。
     (同書 80~82ページ)

 

 ここに、戦時標準船の姿から明らかになる大日本帝國の総力戦状況がある。戦時標準船は、それが鋼船であっても、船員の犠牲を前提にして成り立っていたのである(大日本帝國の戦争における徹底的な人命軽視については「統帥の無責任としての特攻精神 6 (海に沈んだ「陸軍」将兵)」及び「統帥の無責任としての特攻精神 8 (ボンバールと靖國の英霊)」でも、大内氏の論考により論じたことがある)。

 その戦時日本において、鋼船建造能力の限界が生み出したのが「木造船建造緊急方策要綱」による木造船建造であった(「しかし、急な大量生産のため浸水するものが続発し、木造船建造の目標は烏有に帰した」)。

 それこそが、かつては「緑のトンネル」であった欅並木が「大きいのから強制的に切られた。それで無くなっちゃったんだ」という戦時期の小平の経験の背景ということになる。

 

 

 

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  昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(星野朗氏の論考紹介)

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2018年8月31日 (金)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)

 

 

 これまで、「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、昭和10年代(1930年代後半から1940年代前半)の多摩武蔵野地域の軍産複合的状況について記してきた(カテゴリー「多摩武蔵野軍産複合地帯」記事参照)。

 特に、(武蔵野の名を冠した)武蔵野美術大学所在地である小平地域について、総力戦状況下を象徴するような軍施設の集中地区として整理し(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」参照)、加えて住宅営団による軍施設関係者用の集団住宅開発を取り上げ (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」参照)、さらに「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)」及び「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)」では、小平地域の給水問題(地勢的条件による飲料水確保の困難)を通して、「大きな力」としての軍の姿を再確認した。

 

 今回は、総力戦下での女性(と子供)の位置を、津田英学塾(現・津田塾大学)の開設した「津田こどもの家」を通して確かめてみたい。

 まず、『小平市史』と『小平市三〇年史』では、どのように「津田こどもの家」が描かれているのかを読むことから始める。

 

 

   女子英学塾(一九三三年から津田英学塾)は移転してきて以来、小平の地域社会との関係づくりに気を配っており、学生たちによる子どもを対象とした日曜学校や津田英学塾青年会の伝道活動、小平村出征兵士への慰問品送付の活動などに取り組んできた。しかし、モダンな校舎のミッションスクールと農村社会の文化的ギャップは大きく、教職員たちは「なんとなく村人と調和のとれぬ思い」を抱え、「英文学を専攻する学生たちが、象牙の塔に住みなれて、社会、殊にその地域社会から浮き上がつてしまうこと」を恐れていた。
  そうした中塾長の星野あいは、重労働に疲れ果てる農家の女性とその子供たちのために、農村託児所の開設を思い立った。これに賛同した教職員、学生、卒業生たちは、映画会を開いて資金を稼いだり、卒業生から寄付を集めるなど奔走して資金や資材を調達し、校舎と道を隔てた三〇〇坪の校地に、総工費四千六百円、建坪七〇坪の園舎を完成させた。オルガン、テーブル、ラジオから医務室の器具に至るまで、備品はすべて卒業生からの不要品の寄付に依った。また建設作業には全校三百数十名の学生も参加しておこなわれ、そのようすは「テニスンやワーズワースの詩集代わりにスキやクワを握ってその一振り一つきに尊い汗の奉仕を続けてゐる」などと報道された(『朝日新聞』 一九三九年七月二七日)。
  一九三九(昭和一四)年一〇月一日、同窓会と学友会の経営による「津田こどもの家」が無事開所式を迎えた。学齢前の六~七〇名の幼児に対する保育には、専門の教育を受けた保母二名に加え、「お手伝い」の津田塾生が交替であたり、朝七時半から一六時までの保育時間は「お遊戯、お話、手工等を始めとして、お食事、おひるね、おやつ等の嬉しい事もあり、その後は花壇、畠に水をやる」(津田英学塾同窓会『会報』第四九号)といった次第であった。二〇銭の月謝支払日、母親たちは口々に深く感謝の言葉を述べたという。また農閑期に母親を対象に栄養料理講習会が開催されると、これも好評を博した。
  このように津田こどもの家は地域社会に歓迎され、開設まもなくにして「過去八年間どうしても越える事が出来なかつた村の人等と私達の間のギャップが一度にふつとんでしまつた」のであった(津田塾同窓会『会報』第四八号)。津田英学塾と地域社会との信頼関係がこうして確立したのだった。
  当初、幼児の父兄は近隣の農家がほとんどであったが、一九四二年頃になると「だんだん他所から入つて来た人も増え」、今年はじめて朝鮮人の「子供も入つて参りました。そして家庭の職業は農でも父は職工などといふのが可也ある様で、此にも時局の反映が見られる様でございます」と報告された(津田英学塾同窓会『会報』第五三号)。戦時開発にともなう地域社会の変化は、「地付の人」のための農村託児所というもともとの性格を変えていったのである。
  同時に津田こどもの家に対する幼児教育機関としての期待も高まっていった。こどもの家の出身児童は国民学校で模範生であると評判になり、農家の母親のあいだで「良いお坊ちゃんね、大きくなったら商大に入れるのです」「エエ津田子供の家に入れるのですよ、早くそうなってくれれば良いのですが」といった会話が交わされ、「此の辺の御母さん達は託児所に入れることが御自慢であり理想」になったという。農家の母親たちも将来につながるものとしての幼児教育に関心をもちはじめたのである。
  こうして地域社会に定着し、農家の女性の負担軽減と農村生活の改善に貢献した津田こどもの家であったが、頻発する空襲警報にともなう幼児の退避で保育が成立しなくなり、給食の材料も入手困難になったので一九四五年三月に閉鎖することになった。なお一九四四年五月に東京都は戦時託児所を一七〇か所開設することを決め、一九四五年三月、小川一番に都立小平戦時託児所が開設されたが、空襲の激化から戦時託児所制度自体の廃止とともに、同年六月に閉鎖された。小平戦時託児所は戦後、都立小平保育園となった(『私が見てきた保育の歴史』)。
     (『小平市史』 2013  332~335ページ)

 

 

  津田英学塾は昭和一四年(一九三九)一〇月「津田こどもの家」という託児所を開設した。同学は小平移転以来なんとかして小平の地域社会と融合したいという考えを抱いていた。戦争のため働き盛りの若者の多くが応召し、女性の労力を必要とするとき、育児の労を軽くし、これを通して村の人と親密になれたらという願いからであった。
  校内の雑木林三〇〇余坪の林の間に新築された木造平屋五四坪の建物だった。当初の申込者は九〇人を超えた。『津田英学塾四十年史』の中に卒業生の回顧として次のようにある。
  或る子供のおじいさんが子供と託児所にやってきて、お弁当の前に手を洗うのを見て「ははあ、水いたずらをしてしょうがないと思ったら、ここで習ったのか」という。そこで保母さんが、水いたずらではなくて、食事の前には手をきれいにして食事をするのだと説明すると、おじいさんは「そういうものかね」と感心したように聞いていたそうだ。託児所の第一回卒業生は小学校でも非常に評判がよいと星野先生が嬉しそうに話された。
  そして昭和二〇年四月三〇日限り休業のやむなきに至るのである。時局の悪化、空襲の頻発、食料の窮迫に伴い、これ以上危険・困難を冒して児童を預かることができなかったのである。
     (『小平市三〇年史』 1994  202ページ)

 

 

 設立の経緯・背景については、別のニュアンスを伝える証言もある。

 

 

   藤田たきは『社会事業』1941年5月号に於いて、東京市の中心にあった津田英学塾が北多摩郡小平村に移転の後、「津田子どもの家」を建設して女学生の勤労奉仕として保育事業を行ったことを述べている。1938年の文部省通牒により、女学生も長期休業の際、3-5日間勤労奉仕することが義務付けられていた。津田英学塾の女学生も勤労奉仕のため陸軍被服廠に、また宮城外苑整備事業に出かけていた。だが、小平村から東京までの交通費が一人当たり1円はかかったので、寄宿舎の女学生180人が異動すると180円を要することになる。そのように大きな金額では東京まで出かけられない。代りに、そのお金で一つの幼稚園も託児所もない小平村に託児所を建てることにする。
     (金慶玉 「総力戦体制期における「戦時保育」と保育施設の変容」 2015 『アジア地域文化研究』 11  32ページ)

 

 

 『小平市史』や『小平市三〇年史』に示されている「なんとかして小平の地域社会と融合したいという考え」を疑う必要はないだろうし、藤田たきの伝える事情もまた、当時の現実の議論の流れであったろう。

 

 

 まず、当時の託児所(保育施設)をめぐる一般的状況について確認しておきたい。

 

 

   「農繁期託児所」とは、田植えや稲刈りなどの農繁期に子どもの世話をできない農家の事情を鑑み、放置されがちになる乳幼児の保護を目的とした事業である。古木弘造『幼児保育史』(厳松堂書店、1949年)によれば、わが国に於ける農繁期託児所は、「鳥取県気高郡美穂村下味野に於て、筧雄平氏によって明治二十三年に開設されたものが最初のものとされている」という。しかし、その後の発達は遅々たるもので、1920年代初頭から全国に少しずつ設けられはじめていったのが実態である。
   ところが、農繁期託児所は、1930年代後半から1940年代前半における時期に、開設数を飛躍的に増大させていく。これは、1937(昭和12)年7月の日中戦争開始以後、戦時体制がとられ、農村における労働力不足への対応や食料増産を企図して、国及び各道府県が積極的な形で設置を奨励・助成したことによるものである。
     (浅野俊和 「戦時下保育運動における農繁期託児所研究―「保育問題研究会」を中心に」 2007 『中部学院大学短期大学部研究紀要』 8  55ページ)

 

   成人男子出征による「銃後」の労働力不足を補うための女子勤労動員は1939(昭和14)年の国民徴用令の施行に始まる。当初は未婚女子への就職奨励という程度であったが、労働力不足の深刻化に伴い、1943(昭和18)年以降、未婚・既婚を問わず女子の大量動員がかけられる。明治末期から昭和初期にかけて開設された託児所は、主に都市部の貧困層のための救貧対策として設けられていたが、戦時体制下の女子の大量動員はそれまでの貧困家庭のみならず、一般家庭の子どもの託児の必要をも生じさせることになり、名古屋市、福岡県、大阪市、東京市など全国各地に戦時託児所など臨時の簡易保育施設が数多く設置された。さらに1943年以降、福岡県を皮切りに、東京都、愛知県、名古屋市などで、幼稚園を保育施設へ転換する動きが出てくる。
     (矢治夕起 「昭和戦中期の戦時託児所について : 幼稚園から戦時託児所への転換事例 1」 2014 『淑徳短期大学研究紀要』 53  85~86ページ)

 

 

 「津田こどもの家」についていえば、農業が基本であった小平地域において、当初は農繁期託児所的性格の下に開始された事業が、戦時開発による地域社会の変化の中で、戦時託児所的意味も持つようになっていったことがわかるだろう。その点について、『小平市史』は、

 

  当初、幼児の父兄は近隣の農家がほとんどであったが、一九四二年頃になると「だんだん他所から入つて来た人も増え」、今年はじめて朝鮮人の「子供も入つて参りました。そして家庭の職業は農でも父は職工などといふのが可也ある様で、此にも時局の反映が見られる様でございます」と報告された(津田英学塾同窓会『会報』第五三号)。戦時開発にともなう地域社会の変化は、「地付の人」のための農村託児所というもともとの性格を変えていったのである。

 

このように記している。

 津田英学塾の託児所開設時の昭和14(1939)年は、既に支那事変(いわゆる日中戦争)が二年経過し、9月にはナチスドイツのポーランド侵攻によりヨーロッパでの戦争も現実となった時点である。既に支那事変段階で、「成人男子出征による「銃後」の労働力不足」が生じており、昭和16(1941)年の対米英開戦は「労働力不足」問題を深刻化させた。「戦時体制下の女子の大量動員」は、より徹底されることになる。事変の「当初は未婚女子への就職奨励という程度であった」ものが、米国をも相手とした総力戦状況の中で、「未婚・既婚を問わず女子の大量動員がかけられる」状況にまで追い込まれる。子供の保育への公的保障は、既婚者をも対象とする「女子の大量動員」の必須の要件となる。

 

 

 ここで明らかなのは、国家総力戦として展開した「大東亜戦争(政府による定義上、対米英戦だけではなく支那事変段階を含む)」において、大日本帝國は人的資源の資源量、すなわち人口に当初から問題を抱えていたという事実である。「未婚・既婚を問わず女子の大量動員がかけられる」しかなかったのは、人的資源にまったく余裕がなかったことを示す歴史的経過である。

 

 もちろん、戦時体制の構築に際し、政府が人的資源上の問題を認識していなかったわけではない。有効な人口政策の樹立は帝國政府・軍の課題であった。

 

 

   人口問題全国協議会の政府諮問答申案(国立公文書館所蔵文書―本文中に文書作成日付がないものの、論文筆者の増山道康氏は内容から1935~1938年作成のものと位置付けている―文中に「日中戦争の深刻化」とあることからすれば1937年以降となりそうだが:引用者)では、前文冒頭で「人口は国力の根帯にして其の数量並びに資質の如何は直に国運の消長民族の盛衰に関す。」と述べ、人口を資源として明記している。その理由として戦争を根本原因として挙げ、日中戦争の深刻化が人口問題に直結しているとしている。ここに、戦争計画で、人口政策が必要とされる理由がある。戦争遂行には、兵力及び補給力の増強が最も基本的な課題となる。それには一定の人口を確保する必要があるが、満州事変、さらに日中戦争開始以降には、総力戦を戦うには人的資源が不足しているとの認識が政府部内では強くなっていった。
     (増山道康 「戦争計画による社会保障制度形成」 2004 『岐阜経済大学論集』 37-2  32ページ)

 

 

 実際問題として、昭和10年代前半(1930年代後半)の日本では出生率が低下しており、軍の危機意識は強いものであった。1920年の出生率が36.2、1925年が34.9、1930年が32.4、1935年が31.6、1936年が30.0、1937年が30.9、1938年が27.2、1939年が26.6となっており、出生率の低下は明らかであった(一方で死亡率の低下もみられてはいたが)。「総力戦を戦うには人的資源が不足しているとの認識が政府部内では強くなっていった」中で、軍、企画院、厚生省等による人口政策の策定が試みられ、昭和16(1941)年の1月には、「人口政策確立要綱」が閣議決定される(以下の引用に際しては、漢字は現代表記にあらためてある)。

 

 

      人口政策確立要綱 (昭和一六、一、二二 閣議決定)
   第一 趣旨
    東亞共栄圏を建設してその悠久にして健全なる発展を図るは皇国の使命なり、之が達成の為には人口政策を確立して我国人口の急激にして且つ永続的なる発展増殖とその資質の飛躍的なる向上とを図ると共に東亞に於ける指導力を確保する為その配置を適正にすること特に喫緊の要務なり
   第二 目標
    右の趣旨に基き我国の人口政策は内地人口に就きては左の目標を達成することを旨とし差当り昭和三十五年総人口一億を目標とす、外地人人口に就きては別途之を定む
    一、人口の永遠の発展性を確保すること
    二、増殖力及資質に於て他国を凌駕するものとすること
    三、高度国防国家に於ける兵力及労力の必要を確保するjこと
    四、東亞諸民族に対する指導力を確保する為其の適正なる配置をなすこと
   第三 (略)
   第四 人口増加の方策
    人口の増加は永遠の発展を確保する為出生の増加を基調とするものとし併せて死亡の減少を図るものとす
    一、出生増加の方策
    出生の増加は今後の十年間に婚姻年齢を現在に比し概ね三年早むると共に一夫婦の出生数平均五児に達することを目標として計画す
    之が為採るべき方策概ね左の如し
     (イ) 人口増殖の基本的前提として不健全なる思想の排除に努むると共に健全なる家族制度の維持強化を図ること
     (ロ) 団体又は公営の機関等をして積極的に結婚の紹介、斡旋、指導をなさしむること
     (ハ) 結婚費用の徹底的軽減を図ると共に、婚資貸付制度を創設すること
     (ニ) 現行学校制度の改革に就きては特に人口政策との関係を考慮すること
     (ホ) 高等女学校及び女子青年学校等に於ては母性の国家的使命を認識せしめ保育及保健の知識、技術に関する教育を強化徹底して健全なる母性の育成に努むることを旨とすること
     (へ) 女子の被傭者としての就業に就きては二十歳を超ゆる者の就業を可也抑制する方針を採ると共に婚姻を阻害するが如き雇傭及就業条件を緩和又は改善せしむる如く措置すること
     (ト) 扶養家族多き者の負担を軽減すると共に独身者の負担を加重する等租税政策に就き人口政策との関係を考慮すること
     (チ) 家族の医療費、教育費等其の他の扶養費の負担軽減を目的とする家族手当制度を確立すること
         之が為家族負担調整金庫制度(仮称)の創設等を考慮すること
     (リ) 多子家族に対し物資の優先配給、表彰、其の他各種の適切なる優遇の方法を講ずること
     (ヌ) 妊産婦乳児等の保護に関する制度を樹立し産院及乳児院の拡充、出産衛生資材の配給確保、其の他之に必要なる諸方策を講ずること
     (ル) 避妊、堕胎等の人為的産児制限を禁止防遏すると共に、花柳病の絶滅を期すること
    ニ、死亡減少の方策
   (以下略―要綱は第七まで続いている)

 

 

 「出生増加の方策」の根幹として示されているのは、「出生の増加は今後の十年間に婚姻年齢を現在に比し概ね三年早むると共に一夫婦の出生数平均五児に達することを目標として計画す」ということであり、その具体的方策として、今回の託児所問題と関連するものとして、「女子の被傭者としての就業に就きては二十歳を超ゆる者の就業を可也抑制する方針を採ると共に婚姻を阻害するが如き雇傭及就業条件を緩和又は改善せしむる如く措置すること」とあるのが興味深い。「人口政策確立要綱」の精神からすれば、「未婚・既婚を問わず女子の大量動員がかけられる」などあり得ぬ話なのである。「女子の被傭者としての就業に就きては二十歳を超ゆる者の就業を可也抑制」することで婚姻年齢を早め、出産育児に専念させるのが、「人口政策確立要綱」の描いた構図であった。

 言い換えれば、「人口政策確立要綱」が求めたのは、「家庭内の良妻賢母」としての女性の姿であった。「高等女学校及び女子青年学校等」の女子生徒に求められているのは「母性の国家的使命を認識」すること「健全なる母性の育成に努むること」であって、目指されているのは「被傭者」として家庭の外で労働する母となることではないだろう(「出生増加の方策」の中に託児所設置は含まれていない)。しかし、現実の展開の早さが、「人口政策確立要綱」での目論見を根底から突き崩してしまう。「人口政策確立要綱」が閣議決定された昭和16年の末には、同じ政府は対米英開戦を決断してしまう。「人口政策確立要綱」に描かれた「出生増加の方策」は、米国までを相手にした総力戦の現実の展開の中で意味を失っていくのである。

 

 そのような歴史的展開の中での戦時託児所であり、津田英学塾による「津田こどもの家」の存在なのである。

 

 

 

 多くの男性が兵士として前線へと送られる状況の中では女性の積極的雇用にしか選択の余地はない。それが「近代総力戦」の現実であった。

 米国でもその状況にかわりはなく、そして、実際に多くの既婚女性が、保育所に支えられながら、それまで「男の仕事」とされていた職務を男性に遜色なくこなしたのであった。

 ここでは、大戦時の米国の軍需産業の中の女性労働者の姿を取り上げた記事(「フォードの爆撃機、あるいはロージーのリベレーター」)中でも参考にした松本園子氏の論文から、既婚女性の戦時動員と保育の問題にどのように取り組まれたのかについて、同時代の米国の状況を見ておきたい。

 

 

   1941年、ランハム法(Lanham Act)として知られるコミュニティー施設法が成立した。これは軍需生産のために新しく出来た工場地帯において、学校、上下水道、病院、リクリエーションセンターなど公共施設の設置に国費を補助するものであった。
    ランハム法を保育施設設置に適用することは、翌1942年の法修正によって可能となった。この業務を管轄したのは連邦職業庁(FWA、ニューディール政策により設置された職業促進局WPAの後進)であり、FWAはこの法により保育施設設置を促進することを主張した。しかし、社会保障庁、児童局はランハム法のプログラムにより質の低い保育を提供することに反対し、設置に消極的であった。
     (松本園子 「第二次世界大戦期アメリカ合衆国における保育問題」 2005 『淑徳短期大学研究紀要』 44  68ページ)

 

   1941年6月、児童局の後援で「働く母親の子どものための保育に関する会議」が開催された。ここでは、家庭で育児をしている母親こそが本質的な愛国的責務を実行している、という考えのもとに、母親と子供の福祉を考慮する政策を提示することが要求された。
   この会議で承認された総合的なスタンダード集が1942年1月に公刊された。ここには、グループデイケア、フォスターファミリーデイケア、ホームメーカーサービスについてそれぞれの基準が示されたことに加え、次の原則が明らかにされた。
   1、就学前児童の母親に働くことを奨励すべきではない
   2、母親が働きに出る場合は、コミュニティーは子どものケアの計画について親を援助する義務をもつ
   3、乳児は集団保育すべきではない
   4、もし必要ならば、2歳以下の子どもは、自宅でホームメーカーサービスを提供されるか、あるいはフォスターファミリーホームで世話されるべきである
   5、州と地方自治体は、保育の充分な基準を監督し維持する責任がある
     (松本園子 2005  70ページ)

 

   児童局の保育観は、以上のように基本的に母親の労働および、それを奨励する保育所を否定するものであった。そのため、できるだけ働くことを思いとどまらせるよう母親へのカウンセリングが勧められた。また集団保育が否定され、やむを得ず保育する場合は家庭保育に近いフォスターファミリーデイケア(少人数の子供が日中、女性によって彼女自身の家庭でケアされ、ソーシャルワーカーが監督するというシステム)、あるいはホームメーカーサービス(=ホームヘルパー、子供の家庭に出向いて保育する)をすすめた。また特に、2歳以下の子供の母親が働くことを否定し、集団保育を否定した。
   児童局は理想を掲げ戦争の波から子供を護るべく闘ったのであるが、これらは、戦時の社会的要請に合致しなかったのみならず、次章でみるように、働く母親の実態と気持ちにもそぐわぬものであった。ローズは児童局のスタッフは「児童保護の高い基準と、多様なサービスを主張し、保育は長期の問題であることを理解していたのであるが、母親の労働を必要悪とする見解が、彼らが保育の向上に取り組むことを阻んだ。働く母親の子どもが容易く入れる集団保育施設の創設に抵抗することによって、児童局における児童福祉擁護者は状況を現に悪化させることとなった。……保育はかくして、増加する戦争産業の慈悲にゆだねられた」と問題を指摘している。
     (松本園子 2005  71ページ)

 

   戦時労働力委員会は公式には児童局の立場を採用し、幼い子供を持つ母親の雇用に否定的であった。しかし、それは軍需産業側、軍需生産を厳しく求める他の政府機関、そして次章に述べるように、戦時雇用を自分たちの生活とよりよい子育てのチャンスととらえた母親たちのニーズにも衝突した。
   世論も変化した。1936年の調査では、既婚女性の労働に対しては不賛成が82%であったが、1942年のナショナルオピニオンリサーチセンターの調査では、既婚女性も軍需工場で働くべきだという回答が60%であった。
   こうした中で、軍需生産を行う私企業自身が、女性労働者の募集と保持のために保育所を運営する場合もあった。例えば1942年秋、サンタモニカのダグラス飛行機工場は工場の4マイル以内で、しかし「敵の目的の範囲外」に保育所を開く計画を発表した。女性労働者をバッファローの飛行機工場に募集するために、カーチスライト会社は工場ナースリースクールの大きさを二倍にすると発表した。オレゴン州ポートランドのカイザー造船所も保育センターを開いた。
     (松本園子 2005  72ページ)

 

 

 興味深いのは、児童局の一貫した態度であろう(そこに「良妻賢母」イメージを見出し共感あるいは反発するのか、幼児の権利の擁護として位置付けられるものと考えるのかは別として)。いずれにせよ、様々な思惑の交錯する中で、実現した保育システムに支えられながら、既婚女性も労働者として戦時生産に参画していくことになる。松本氏は、エリザベス・ローズの著書に依拠しながら、特に公的な保育の実現事例としてフィラデルフィアの経験に焦点を当てて論じているが、ここでは、女性労働力を必要とした当事者としての私企業の取組事例を引用紹介しておきたい。

 

 

   オレゴン州に大規模な戦時市民住宅団地バンポート・シティーが建築されたが、そこに住み、造船所で働く25,000人の女性労働者のために、カイザーは、二つの大きな保育センターを建てた。所長には、コロンビア大学児童発達研究所前所長ルイス・ミーク・ストールズが就任した。
   建物は「コミュニティーの外ではなく、しかも造船所の入口の前に配置し、仕事の行きかえりの母親の便宜をはかった。1,125人の幼い子ども一人一人に、あるいは一日三交代の375人それぞれに適応するような広さがあり、斬新な舵輪のデザインは、広い芝生の遊び場と、四つの子供用プールと、一五の保育室を囲んでいた。広い保育室の窓から、子供達は母親が働く船を見ることができた。
   各センターには、訓練されたナースのいる診療所、ソーシャルワーカー、充分なスタッフのいる調理室が備えられた。
   子どもたちの食事に加えて、勤務を終わった母親の家族のための持ち帰り食もここで用意された。「ホームサービスフード」と呼ばれたこのプログラムはエレノア・ルーズベルトによって示唆されたものであった。食事は、栄養バランスがとれ、きっちり包装され、「再加熱してサラダと野菜を加えることによって完全なディナーになります」、という注意書が入っていた。一人前50セントで、一食で大人ひとり子どもひとりを満足させた。
   カイザー保育センターにおける入所数は最高時1944年9月に1,005人となった。当初の目標には到達しなかったが、カイザーセンターは、私企業がなしうることの見本とされた。とはいえ、これは純粋に私企業が行なった取り組みではなく、連邦政府が間接的に資金補助を行い、合衆国海運委員会が建設費を負担した。
     (松本園子 2005  72ページ)

 

 

 用意された保育施設のレベルの高さには驚かされるしかない。

 このような国との全面戦争を選択したのが、わが大日本帝國なのである。

 

 

 その日本での戦時託児所開設を支えたのは、以下のような論理であった。

 

 

   戦時保育の第一の特徴は教育と保護の機能が一体化した点である。当時、東京市健民局母子課長を務めてた苅宿俊風(1998-?)は、東京市が推進した戦時託児所という名称につき、「保育所といふことにすると、外来の思想の臭気がするし、託児所といふと、従来の貧困階級のことを思はれて、この度の設置方針が諒解せられないのではないかと憂ひましたが、戦時と託児所と離れてゐるのではなく、一気に一つの概念として戦時託児所」としたと、苦心の跡を述べている。その対象を見ても、

     ここには入つてくる子供は、従来東京市がやつてゐたやうに、生活に余裕のない家庭を対象にしてゐるのでもないし、又従来の幼稚園といふののやり方、それはやはり生活に余裕のある家庭の子弟を見るといふことにあつたやうに思ふが、これでもないのである。(後略)
    (前略)全体を対象として一人の有閑者をも無からしむる施設にして行かうといふ新しい性格を持つているのである。

と所信を披歴している。
     (金慶玉 2015  26~27ページ)

 

   東京市はまず、1943年に既存の方面館などの公立保育施設46ヶ所の名を戦時託児所と替え、一ヶ所につき予算年額8千円を設定して166ヶ所の設置を目標にし、その性格も時局に対応したものとした。戦時託児所の設置方針は次の通りである。

    一、時局の要請に副ふべく、みんな働けるやうに。戰時生産に役立つやうに。
    二、働くと言つても工場だけでなく、種々の職場に於て働く。都市に於ては、知識階級の方面の婦人も大いに働いてゐるから、かういふ方面にも役に立たせるやうに。
    三、大東京の外周には農業を営んでゐる所がかなりあるので、食糧増産といふ方面にも役に立つやうに、季節託児所といふことも都市では考へる。

戦時期「銃後の努め」の完遂を求め、都市と農村を含んだすべての職場において、戦時生産に全力をあげるように、これが設置方針であった。さらに食糧増産のため設けられた季節託児所も戦時託児所と同じ方針の下に、都市に於いても設置が進められていた。
     (金慶玉 2015  30~31ページ)

 

 

 戦時動員として目指されているのが、「時局の要請に副ふべく、みんな働けるやうに」という状況であり、それは「全体を対象として一人の有閑者をも無からしむる」ところまで徹底されなければならない。 

 「人口政策確立要綱」では、「人口増加の方策」として、「女子の被傭者としての就業に就きては二十歳を超ゆる者の就業を可也抑制する方針を採る」ことが明言されていたが、「時局の要請」は、「一人の有閑者をも無からしむる」方針へと転換され、「女子の被傭者としての就業」こそが国策となったのである。そのための戦時託児所なのであった。

 

 

 小平地域について言えば、今回の主役である「津田こどもの家」に加え、『小平市史』には1945年3月に開設された「小平戦時託児所」の存在が記されている。

 

   一九四五年三月、小川一番に都立小平戦時託児所が開設されたが、空襲の激化から戦時託児所制度自体の廃止とともに、同年六月に閉鎖された。小平戦時託児所は戦後、都立小平保育園となった。

 

 この二ヶ所とは別に、小平青年学校が関与した農繁期託児所の存在が、青年学校教諭であった伊藤為次氏の日記に登場する。

 

   五月四日 (木) 農繁期託児所を青年学校で開設するため、女子職員、校長が青梅に行き見学。
   六月十四日 (水) 託児所開設、幼児四十五名が集まる。
     (伊藤為次 『小平戦中日記』 昭和19(1944)年の条 『そのとき小平では Ⅵ』 2008  24~25ページ)

 

内容からすると、例年のものではなく、昭和19年に新規設置されたものに見える。『そのとき小平では Ⅵ』に掲載分では、翌昭和20年の日記には農繁期託児所についての言及がない。しかし、そもそもが抄録なので、現状では昭和20年の託児所設置の有無については結論めいたことは言えない。19年に幼児45名の利用があることからすれば、地域として必要な施設であったようにも見える(状況の悪化により、津田こどもの家が20年3月―『小平市三〇年史』では「昭和二〇年四月三〇日限り」とされているが―に、小平戦時託児所も6月に閉鎖となっていることからすれば、20年6月という時点での農繁期託児所の開設は困難であったのかも知れない)。一方で、開設に先立ち「青梅に行き見学」とあるところからすれば、小平地域には参考となる農繁期託児所の先行事例がなかったことを推測させる。

 いずれにせよ、津田こどもの家、都立の小平戦時託児所、そして小平青年学校の農繁期託児所の存在も確認されたことからすれば、小平地域での託児所には社会的ニーズがあった、とは言えそうである。

 

 

 

 再び、津田こどもの家に戻ろう。

 

 

 「校舎と道を隔てた三〇〇坪の校地に、総工費四千六百円、建坪七〇坪の園舎」(『小平市史』)、「校内の雑木林三〇〇余坪の林の間に新築された木造平屋五四坪の建物(『小平市三〇年史』)」と建物の坪数に異同はあるが、いずれにせよ、昭和14(1939)年に津田こどもの家は完成し、託児所として開設される(ちなみに、『小平市史』『小平市三〇年史』共に「津田こどもの家」表記だが、金慶玉論文では基本的に「津田子供の家」表記が用いられている)。

 金慶玉論文には、

 

   託児所を開所してから一ヶ月が経った1939年10月1日、託児所委員会は、戦時物価高による建築費の高騰を背景とする1939年10月から1949年3月までの「経営費の不足は四、五百円見当と目される」と述べている。
     (金慶玉 
「戦時期における農村託児所の研究―「津田子供の家」を中心にして―」 2017 『アジア地域文化研究』 13  31~32ページ)

 

とあるが、「建築費の高騰」は、事変拡大がもたらしたものであり、戦時動員の帰結でもあった。

 

  日中戦争期における生産力拡充の根本的な制約要因は、外貨不足であった。国際収支改善の観点から輸入制限と配給統制の必要性が生じたが、木造住宅の主要な建築資材の1つである木材については、1938年7月、米松販売取締規則の施行により使用制限が開始された。1940年の「外材ノ輸入ハ前年[1939]ニ比シ著減シ、殊ニ米材ハ外貨節約ノタメソノ輸入ハ昨年ノ約六割ニ減少」した。1940年度の木材需給は「内外地ヲ通ジテ生産ハ需要ヲ賄フ事ヲ得ズ、相当量ノ手持ヲ喰ヒ込ンデ辛ジテ需給ノ均衡ヲ保ツ」状況であり、翌41年度の見通しとしては、「木材ノ需給ハ今年[1940年]以上ニ逼迫ヲ告ゲルニ至ル」ことが想定された。したがって、木材の「配給機構ヲ整備シ不急ノ需要ヲ抑圧スル」ことが求められた。この「不急ノ需要ヲ抑圧スル」手段の1つとしてすでに実施されていた政策が、建築統制であった。
   1939年11月、木造建物建築統制規則が施行された。同規則により、延床面積が30.25坪を超える住宅[共同住宅を除く]を新築する際には、原則として、地方長官の許可が必要となった。この背景にある問題は資材不足、とりわけ主要な建築資材である木材不足の深刻化であった。
     (小野浩 「戦時総動員体制下の住宅供給」 2017 『産業経営研究』36  6ページ)

 

  住宅建設の建築技能者(大工、左官、現場監督者等)は、兵士にとられたり、また賃金の高い軍需産業及び生産力拡充産業に転職する傾向にあり、またそれが容易であったため技能者が減少した。建築技能者の徒弟制度は崩壊しつつあり、技能者が養成されなかった。そのため絶対数の減少は、必然的に建築技能者の賃金の上昇をまねいた。
     大本圭野 「戦時住宅政策の展開過程(2)―日本的住宅政策の原型」 (『季刊・社会保障研究 Vol.19 No.4』 1984  439ページ)

 

 建築資材不足も建築技能者の絶対数の減少も、「事変完遂」の国策が招いたものであった。このような条件下での「津田こどもの家」の建設であり開所であった。金慶玉論文によれば、

 

   ところが、特に目立ったのは東京府からの助成金である。…(金額の詳細は略)…。当時「津田子供の家」の託児所委員であった三上加那於は、「学校の附属といふので特別に奨励便宜」が与えられたと述べている。社会事業法の下で運営された託児所の拠り所として、東京府からの支援が機能していたことがうかがえる。
     (金慶玉 2017  31~32ページ)

 

公的助成金による資金面での支援は重要であった。さらに、

 

   食糧や物資が不十分であった戦時期にも拘らず、「津田子供の家」の子どもの健康が良好で、しかも全国の子どもと比べても優っているのはどういうことであったのか。そこには、配給における便宜が与えられていた点を見逃してはならない。「副食物給与に関しては不自由のない様、村で醤油味噌砂糖特配の便宜をはかつて」くれたと、当時の「津田子供の家」委員長の三上加那於は述べている。さらに、農村という特性もあって、「農家からは野菜、魚屋さんからは魚といふ風に新鮮なものがに入るし、役場の特別臨時配給として醤油味噌砂糖等入要だけ頂けるので今でもちつとも不自由なしでやつて居」り、「おやつは府の社会事業協会から配給されるぱん菓子飴の他甘藷、じやがいも、おにぎりの加工したもの、蒸パン、焼パン、ホツトケーキなど工夫してやつて居」たと保育主任の横澤は説明している。このように食糧配給においても特配という名目で便宜がはかられていたのは、「津田子供の家」が東京府社会課と社会事業協会から持続的に支援されるほどの関係にあったためである。1939年10月の開所式で朝原が述べたように、戦時厚生事業として食糧増産に役立つ託児所の設置が打ち出されていた状況下、一つの託児所もない小平で、全ての施設と人材を備えた女学校が国策に沿って運営されるということは、「表面的には目立たぬ事業であるが、国花桜花の裏をなす梅花の」ようなものだと期待されていた。
     (金慶玉 2017  35~36ページ)

 

様々なルートでの便宜供与による支援があった。地元小平にとっても、支援すべき施設と認識されていたことがわかる。

 

 津田側も、ただ外部からの支援に頼るだけではなかった。

 

   1939年7月10日の学業終了後、生徒は通学生も教師もみな班別に分けられ、寮舎に泊まりながら、夏季集団勤労を実施することになる。

    各生徒は必ず五日間寄宿舎に止宿し、二名乃至四名づつの指導教師監督の下に班長、副班長及び各係を定め、十一より厳粛に勤労生活を始め

ている。生徒たちは、

    朝五時半の起床より夜九時の就床まで、規律正しきプログラムにテニスコートの草取り、託児所の基礎工事(石運び、タコツキ)、硝子洗ひ(五番町で使い古した硝子障子がこんど託児所の戸になります)さては薯掘、食事の用意、舎内外の掃除

などをやっていた。全校三百数十名が参加した当時の状況を『朝日新聞』は、「テニスンやワーズワースの詩集代わりにスキやクワを握ってその一振り一つきに尊い汗の奉仕を続けてゐる」と述べている。
     (金慶玉 2017  36~37ページ)

 

基礎工事の段階から、生徒が積極的に参加していたというのである。

 

 

   津田英学塾は英語専門の女学校だったので、学校のカリキュラムには保姆養成や保育と関連する科目はなかった。文部省は1932年、高等女学校の既設科目から、専門的な知識だけを授け実際生活に適切ではないという理由で「法制」と「経済」を削除し、代わりに公民科を設立した。また1936年からは体錬と教練、家事、裁縫が重視され、1943年には外国語が任意の科目となり、代わりに家政科に主力を注いでいた。こういう時局を背景にして、藤田は1941年の『社会事業』で、津田英学塾が「新学期より児童心理学を新たに教科内容に加へこの託児所を生徒の実験室とする計画をとつてゐる」と述べている。
   実際に1941年の春から学科の変更があり、国語は週一時間、東洋史は週二時間増加し、新たに二年生を対象に児童心理学が週一時間、三年生を対象に科学の時間が設けられ、優生学と遺伝学を教えていた。それは戦時という時局において、銃後部隊としての役割が期待された女学生への教育であった。同時に作業の時間も設けられ、校舎、寮舎内外の掃除と、約千五百坪の畑への種蒔きと除草が女学生に課せられた。1941年3月18日に結成された津田英学塾報国会は、前述のように銃後奉仕部を設けて映画会などを開催し、託児所援助や傷病兵慰問、出征軍人遺家族慰問なども行った。「津田子供の家」は1942年の時点で二人の保姆と一人のお手伝い、そして塾の女学生が交替で手伝っていた。女学生は託児所の建設当初から建設の後まで、勤労奉仕という名目の下、労働力を提供し保育を援助する役割を果たした。また保育報国が唱えられていた時代を反映して、学校の側でも児童心理学の科目が開設され、女学生には託児所がその実験室として提供されていた。
     (金慶玉 2017  37~38ページ)

 

 科目としての児童心理学の追加は、託児所を、学校との関係においても、より実質的なものとしていこうとする方向性を示すものだろう。また、新たに設けられた「科学の時間」の内容が「優生学と遺伝学」であった。先に紹介した「人口政策確立要綱」の「第五 資質増強の方策」の項には、「資質の増強は国防及び勤務に必要なる精神的及肉体的の素質の増強を目標として計画す」とあり、「(ト) 優生思想の普及を図り、国民優生法の強化を期すること」と記されている。まさにそのような国策の下での「科学の時間」であった。

 

 

 戦争の進展の中で(より直截に表現すれば、戦局の逼迫の中で)、津田英学塾も戦時日本の軍産複合状況の中に、より大きく組み込まれることとなる。

 

 

   津田塾の女子学生たちも学徒勤労動員で、軍需生産に携わった。一九四四(昭和一九)年三月から校舎は日本航空機立川工場の分工場となった。ある教員は「厚い板金からのゲーヂ作り、複雑な電纜組立作業、精密を要する諸検査、写図、扨は物理科一年生による合金鋳造部の御仕事。これ程に充実した内容をもつ学校工場は他に存在しないであらう」と「津田塾工場」の充実ぶりを誇っていたが、工場は生産だけでなく管理運営事務もすべて学生たちが担当しており、「マコトに純真な学徒が責任を与えられてする仕事ぶりの素晴らしさには頭が下がる」と語っていた。またある学生は「男子学徒がペンを棄てて敢然壮途に立つを見送って以来、私共も又女性学徒として何か直接お国の役に立つ仕事をしたいとの願ひを長い間抱いてゐた。その日頃からの望みが容れられて学校工場の誕生をみた時私共はどんなに嬉しく張り切った事だらう」と述べている。しかし学業への思いも捨てがたく、学生たちは昼夜三交代制で働きながらも、特に希望をして、一日一、二時間の授業を受けたという(『津田塾六十年史』)。
   以上のように、「女性も労働力に」との国家からの働きかけに応える中で、女性たちは職場で働くことの誇りや喜びを味わい、男女対等の意識を芽生えさせていったが、同時にそのことが戦争を支えることにもつながっていった。
     (『小平市史』  329~331ページ)

 

 

 「工場は生産だけでなく管理運営事務もすべて学生たちが担当して」いたという点は重要であろう。動員による戦時協力は、一方的に強いられただけのものではなく、女子が主体的に社会参加する経験をもたらすものでもあった。

 

 

   小平では戦時開発によって生まれた総力戦関連施設に、女学校や高等小学校を卒業したての女性の就職が増えたほか、小平農業会では最初の女性課長が誕生して新聞の話題となった。戦時の労働力不足が、結果として女性の就業機会を拡げていったのである。
   隣接する田無町で、ある女性が男の仕事とされていた郵便集配人に志願し、立派にその役目を果たしているとして新聞に紹介された。彼女は「男に出来るのに女に出来ないといふことは無いと思ひましてやらしてもらつてゐます。〔中略〕女でも兵隊さんになったつもりで頑張る気ならなんでもないことで、米英相手の長期戦には当然女の仕事の範囲に入るものと信じて毎日を愉快に働いてゐます」と語った。ここからは、男性と同等に働けるという喜びや誇りをもち、あるいは男性同様に国家に貢献しているのだという思いをもって、働いていたことがわかる。
     (『小平市史』  329~331ページ)

 

 

 田無町の女性の、「男に出来るのに女に出来ないといふことは無いと思ひましてやらしてもらつてゐます。〔中略〕女でも兵隊さんになったつもりで頑張る気ならなんでもないことで、米英相手の長期戦には当然女の仕事の範囲に入るものと信じて毎日を愉快に働いてゐます」に込められた自負には注目しておくべきだろう。

 戦時動員は、為政者の思惑を超えて、動員された女性達に、男性と女性である自分が同等であること(それは「男に出来るのに女に出来ないといふことは無い」という言葉に集約される)を経験させてしまったのである。

 

 

 

 戦後フェミニズムの起源は、GHQの占領政策の陰謀的性格にあるのではなく、それ以前の大日本帝國における戦時体験にあるというべきであろうか(註:1)。

 

 

 

   こうした社会状況の中で、津田塾では昭和一九年(一九四四)の三月以降、体育館と生徒控室を工場に充て軍需品生産に当たっていたが、昭和二〇年(一九四五)四月、寮生はすべて東寮に移り、校舎本館の大部分と西寮と運動場の一部を東部第九二部隊に貸与することが決まった。移転を急いだ東部第九二部隊は、契約書も正式に作らないうちに五月六日到着、部隊は津田塾の門標をはずして、部隊の門標を塾の正門両側に麗々しく掲げた。いわゆる門標紛失事件が起きたのはこの夜のことで、塾生四人が軍の門標をはずして玉川上水に流したのである。軍はこの行為を重くとがめて、軍法会議にかけるといきまいた。塾長の星野あいは生徒の不始末の責任者として軍に謝るとともに、軍の門標を片側だけにしてほしい、事件の起こったそもそもの原因は軍が塾の標札を取外したことにあるのだから、と条理を尽くして話した。その結果、軍の上司は塾長の願いを受入れ、四人の処分を学校に委ね、四人は塾長に始末書を書くだけで済んだのである。空襲は相ついだが、幸い塾は無事であった。
     (『小平市三〇年史』  258~259ページ)

 

 

 「反戦的武勇伝」として取り扱うことも出来るだろうが、「男子学徒がペンを棄てて敢然壮途に立つを見送って以来、私共も又女性学徒として何か直接お国の役に立つ仕事をしたいとの願ひを長い間抱いてゐた。その日頃からの望みが容れられて学校工場の誕生をみた時私共はどんなに嬉しく張り切った事だらう」という、国策と共に生きる塾生の姿を見ないふりする必要もないだろう。

 日々、主体的に「何か直接お国の役に立つ仕事」をしている自負があればこそ、「津田塾の門標をはずして、部隊の門標を塾の正門両側に麗々しく掲げた」軍の行為に見ぬふりをするわけには行かなかった。そのようにも見える。

 

 戦時期の津田英学塾(現・津田塾大学)は、託児所(津田こどもの家)の設立、そして軍需工場(日本航空機立川工場の分工場)及び軍部隊(東部第九二部隊)の受け入れと、国策としての戦争に組み込まれていくことで、多摩武蔵野地域の軍産複合状況を経験していたのである。東部第九二部隊は「軍」そのものであり、日本航空機立川工場分工場は軍需産業としての「産」そのものであり、まさに軍産による英学塾への侵入であった。託児所については、根底に地域社会との親密な関係構築への希求があったと同時に、戦時期の食料増産要求を満たすものでもあった。そのような意味で、津田英学塾は、総力戦下の多摩武蔵野地域の軍産複合状況を集約した場でもあった。「総力戦」は当事者の意思など呑み込んでしまう(総力戦に対応すべきはずの「人口政策確立要綱」の構想は、まさに総力戦状況の中で崩壊した)。

 いずれにせよ、当時の軍を相手にして譲ることなく塾生の側に立ち続けた、塾長の星野あいの姿には感銘を受ける。

 

 

 

【註:1】
 松本園子氏の論文の問題意識は、戦後日本の児童福祉法(1948)の先進的な内容、そこに示された公的保育制度の理念への占領軍の影響の有無を明らかにすることであった。

 戦時期の米国に先進的な保育制度が確立されていて、それが占領期に移入された

そのように考えることが正しいのか否か?
 その問題意識に基づき、米国の戦後については、

    戦後のアメリカ合衆国の保育の動向については、同国の研究者が「非制度 (non system)」と表現しているように、保育の公的保障は、貧困層に限定され、一般には営利的保育サービスを利用する以外に無い、という状況にあるという。
     (松本園子 「アメリカ合衆国における保育問題の歴史」 2004 『淑徳短期大学研究紀要』 43  98ページ)

このような状況にあることが確認され、

   まず、保育政策動向については、戦時労働力政策として、連邦の補助金が保育施設して支出され、公立保育施設が各地に誕生し、数十万人の子供が保育を受けた。しかし、この施策は恒久的な制度となることはなく、戦争終結とともに終了した。一部の私企業によってかなり水準の高い保育施設も設置されたが、これはあくまでも戦時の女性労働力吸引策であった。教育行政サイドでも、労働力対策として学校施設を利用した学童保育サービスが行なわれたが戦後への継続はなかった。
   一方、連邦児童局は、家庭と母性重視が児童福祉の根幹であるという強い信念のもとに、戦前から一貫して母親の労働と保育に反対であり、戦時、母親の労働が強く要求されたときも基本的にこの立場を変えなかった。やむを得ぬ場合は保育所の集団保育ではなく、家庭的保育で対応するという方針に終始し、現に必要とされた保育所の改善と充実の努力はしなかった。
   このように、米国における為政者側のどの陣営にも、戦中・戦後期、保育所を通常時に一般的な制度として実施することを支持する考え方は存在しなかった。このような状況では、日本の新しい保育所制度誕生について占領軍の積極的な関与はありえない、といってよいであろう。
   戦時の米国において、保育所利用者側には、伝統的性別役割を乗り越えた「共働き」という言葉に象徴される新しい女性労働観、保育所観の芽生えがあった。CIO女性助力者の保育プログラム案は、そのような新しい保育所観の成果である。しかし、これらは大きなうねりとなって全体の状況を変える力とはならなかった。戦後の継続的運動は、日本の戦後期の盛んな保育運動を思わせる展開があったが、一部の例外的なものにとどまった。これらも、日本の保育所制度誕生に影響があったとは思えない。
   したがって、戦後児童福祉法による保育所制度は、戦後期までの日本の保育の進展と、戦後改革期の時代のエネルギーから生まれた成果であるといえよう。
   なお、戦後日本の保育についてみると、先進的な保育所規定とは裏腹に、消極的で限定的な保育行政が続けられてきた。ここには、米国の児童福祉の色濃い影響が読み取れる。
     (松本園子 2005  81~82ページ)

との認識が示される。あらためて抜き書きすれば、

  米国における為政者側のどの陣営にも、戦中・戦後期、保育所を通常時に一般的な制度として実施することを支持する考え方は存在しなかった。このような状況では、日本の新しい保育所制度誕生について占領軍の積極的な関与はありえない、といってよいであろう

これが松本氏の結論である。
 現在の日本の保育所制度は、GHQの占領政策がもたらしたものと考えるのではなく、戦時日本の遺産として取り扱うのが妥当なようである。

 

 

 

《記事一覧》

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 「多摩武蔵野軍産複合地帯
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  昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(星野朗氏の論考紹介)

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  (1)に続き、多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(特に軍の展開状況)

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  小平地域の軍事関連施設の総力戦期的特質

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  軍産施設の進出に伴う集団住宅建設問題(住宅営団と東京瓦斯電気のジードルング)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)
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  武蔵野台地上での水源確保の困難を営団住宅の給水問題を通して再確認

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  『国分寺市の今昔』(2015)巻末の一覧を用いて軍産施設設置状況を再確認

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  箱根土地の小平学園開発と販売戦略としての小平簡易水道設置とナチス礼賛広告

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  1953年の小平町のグローブマスター機墜落事故と沖縄の現在

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2018/08/31 15:39 → https://www.freeml.com/bl/316274/321011/
 投稿日時 : 2018/08/31 15:43 → https://www.freeml.com/bl/316274/321012/
 投稿日時 : 2018/08/31 15:50 → https://www.freeml.com/bl/316274/321013/

 

 

 

 

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2018年7月30日 (月)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、昭和10年代の多摩(武蔵野)地域が軍産複合地帯化していたことについて、「多摩(武蔵野)地域」の全体を視野に入れつつ、特に(「武蔵野」の名を冠した)武蔵野美術大学の所在地でもある現・小平市に焦点を合わせながら、既に8本のブログ記事としてアップしてきた(記事カテゴリーとしては「多摩武蔵野軍産複合地帯」)。

 小平に設置された軍事施設の特質(「近代総力戦状況」の中でのそれらの施設群の持つ意味)を明らかにする(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」参照)と共に、軍事施設の立地と地勢的条件の関係を、より具体的なものとして理解することに努めてもきた。

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)」では、矢嶋仁吉氏の1939(昭和14)年の論文を読むことで、40年代に本格化する小平地域の軍事化の直前の小平の状況を、地理学者の眼を通して理解・把握することを試みた。

 小平地域の「地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10-15mの深さの地域に属している」のであり、「大地の中央に近くて帯水層の深い本地域附近に於ては、一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する」のであって、居住者にとっての「飲料水問題」の切実さ(飲料水確保の困難)を矢嶋氏は繰り返し指摘していた。

 そのような地勢的条件を前に、「小平地域の軍事施設化の中心となった陸軍(ここでは陸軍が「開発事業主」と位置付けられる)は、それぞれの施設に自前で給水塔を設置」する形で対処したことを示しておいた。

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)」では、再び小平地域での地下水源の確保と給水能力の問題について、住宅営団による戦時期集団住宅として建設が開始された小川地区の中宿住宅の事例を切り口に、より詳しく取り上げてみた。矢嶋論文の指摘するように「10-15m」の地下水面(ただし不圧地下水面である)への到達さえ困難であったのが、近代以前の小平地域での各戸を事業主体とした井戸掘削の状況であった。しかし、昭和10年代の小平に設立された軍事施設では、「深井戸」の掘削による(100メートルを超える深度からの)被圧地下水の確保・供給を実現したのである。

 

 

 

 今回は、あらためて小平地域における「水の確保の困難」の問題を取り上げたい。自ら深井戸を掘削し給水システムを整備した「大きな力」としての戦時期の軍に加え、大正末から宅地開発に関わり簡易水道を整備した民間土地開発事業者の姿について記しておこうと思う。まず取り上げるのは『小平市三〇年史』(1994)の記述である。

 

 

  開拓当初の小平では玉川上水から水を得たが、時がたつにつれて飲用水は個々の井戸から得るようになった。まだ小平が純農村のころの話である。
  大正一四年(一九二五)ごろから分譲が始まった小平学園地区には、分譲元の箱根土地株式会社(昭和一九年国土計画興業株式会社と商号変更)が造った水道があった。水源は深井戸である。終戦後急激に居住者が増え、施設を拡充する必要に迫られ、給水申込には権利金が必要とされるようになった。
  昭和一七年(一九四二)に開所された東部国民勤労訓練所を始めとする公共施設(陸軍経理学校、陸軍兵器補給廠小平分廠など)は大きな力で、それに必要で十分な深井戸による自家水道を設けた。その関係者で地元に住んだ人は、普通農家に間借りしたり、その宅地内に住んだりしたので、とくに水に対する新たな配慮は要らなかった。
  続いて終戦前後相次いで建設された集団住宅はどうであったのか。日本住宅営団による集団住宅は桜上水(二一六戸)、旭ヶ丘(七七戸)および中宿(二一四戸)に建設され、それぞれ昭和一八年(一九四三)、二一年及び二二年に合計五〇七戸が入居した。
  桜上水と旭ヶ丘では四軒に一井の割で井戸が掘られた。桜上水の井戸は水脈に当ったせいか、水の出はまことに良かった。最初は手押しポンプであったが、昭和二四(一九四九)ころからモーターによるポンプと台所までの給水管が設けられ便利となった。一方、旭ヶ丘の井戸は水の出が悪かった。水の不足を訴える家はかなりの数にのぼり、夜間水の出の良い井戸のある家に水をもらいに行ったり、洗濯には近くの玉川上水や新堀用水の水を使ったりしてしのいだ。深い玉川上水に綱のついたバケツを下げてくみ上げるときの苦労を語る女性もいた。小平の地下水は深いところにしかないのを知らない人が掘ったのではないかともいわれた。
  中宿では浅井戸三二井が掘られたが、これも地下水が深くてほとんど使いものにならなかった。いち早く自治会が結成され、対策が練られた結果、隣接する厚生省職業訓練所(前東部国民勤労訓練所・現東京職業能力開発短期大学校)の深井戸から水を運ぶことになった。人手による根気のいる作業だった。その後関係者の好意で中宿住宅の中央部まで一本の給水管が延長されて共同水栓が設置された。しかし、その後も居住者は増える一方で、この共同水栓だけでは賄い切れなくなった。そこで、自治会より広い組織の中宿居住者組合で水対策を検討、坂北の旧兵器補給廠小平分廠の給水施設を利用したらどうかということになった。早速坂北、本町、旭町地区の代表者の賛同を取りつけ、小川中宿居住者組合と坂北生活協同組合の名で大蔵省東京財務局に使用許可の申請がされる。昭和二四年(一九四九)八月に許可が下り、それを受けて各地区の代表者によって給水事業計画が練られた。このとき「小川給水組合」として発足できるよう努力を重ねたが、施設費用などの負担問題で組合の結成には至らず「小川給水組合」の名目で実質経営は各地区代表者(発起人)が当たることとなった。そして昭和二八(一九五三)に関係自治会長を中心に協議した結果、「小川給水組合」を発展的に解消し、新たに「小川水利協会」を結成、翌年一月から新しい機構で運営することになった。(付図は略)
  給水人口は一九九〇人、一日最大給水量五〇〇立方メートルであった。
  しかし水道事業の重要性を考えると、任意団体の運営では住民の福祉向上を図るには困難な点が多い。役員会議でも水道施設を町に移管し、町営水道として経営するのがよいとの意見の一致をみて、その体制の整備を念頭におきながらの経営となった。また小平町のほうでも大蔵省から、水源施設を民間の任意団体に貸与するのは好ましくないので、早く町営にするようにと指摘されていた。
     (大日本印刷株式会社CDC事業部年史センター編 『小平市三〇年史』 1994  329~331ページ)
 

 

 

 「昭和一七年(一九四二)に開所された東部国民勤労訓練所を始めとする公共施設(陸軍経理学校、陸軍兵器補給廠小平分廠など)は大きな力で、それに必要で十分な深井戸による自家水道を設けた」とある。

 「大きな力」を背景として「必要で十分な深井戸による自家水道を設け」ることをなし得た「公共施設」として、東部国民勤労訓練所と陸軍経理学校、陸軍兵器補給廠小平分廠が示されていることになるが、その背後にあった「大きな力」とは厚生省であり帝國陸軍である。そもそも厚生省は陸軍の要求により設置されたものであることを考えれば、ここでの「大きな力」を「軍」として理解することも出来るだろう。

 『小平市三〇年史』には、「大正一四年(一九二五)ごろから分譲が始まった小平学園地区には、分譲元の箱根土地株式会社(昭和一九年国土計画興業株式会社と商号変更)が造った水道があった。水源は深井戸である」との記述があることも見落とさないでおきたい。民間の開発事業者の「力」もまた、「深井戸」を「水源」とした「水道」を実現していた(「小平簡易水道」と呼ばれていた)のである。

 昭和10年代の小平地域には、公的インフラとしての(すなわち村営あるいは町営の)「水道」は存在しなかったが、軍と民間の土地開発業者は、それぞれの「力」で自前の給水システムを構築していたのである(村や町にはそのような「力」はなかった)。

 

 

  市では予想を超える人口増加に伴い、市制施行直後の昭和三七年(一九六二)一一月に全市水道構想を見直し、水道事業変更認可申請を厚生大臣に提出した。すなわち昭和三八年度から実施する給水区域を拡大、市域のうち小平簡易水道区域を除く区域とするもので、昭和四四年度の給水目標人口を六万人と設定、一日最大給水量を一万九二〇〇立方メートルとし、深井戸一三井と浄水場を一か所建設するという計画であった。
  一方、これまで学園西町と学園東町を給水区域として経営してきた小平簡易水道(国土計画株式会社)は、昭和四〇年(一九六五)一月三一日までという期限付で東京都知事の許可を受けて行われたため、当然、期限が来ると市への移管となるべきもので、水道法により公営事業の経営主体は地方公共団体がなすべき事柄であった。
  その上、簡易水道の給水区域の学園西町、学園東町は人口の急増地域でもあり、その施設の老朽化に伴い、住民側から市営統合を望む声が次第に大きくなり、昭和四〇年二月一日市営水道への移管が実現、ここに全市域が市営となった。同年度末の行政人口は一〇万八九四九人、給水人口は三万八五〇四人で、普及率をみると三五・三%であり、今日の一〇〇%と比較すると隔世の感がある。この三八年度から開始された水道拡張事業は、後に第一次拡張事業と名付けられた。
     (『小平市三〇年史』  575ページ)
 

 

 

 小川水利協会の運用した給水施設(そもそもは軍の「大きな力」による施設である)は町営水道に統合され、国土計画株式会社の小平簡易水道(民間土地開発事業者の大きな力による施設である)が市営水道に統合されたのは昭和40年になってのことだったが、その時点での市内の水道普及率は35・5%にとどまっていた。もちろん、そこには戦後の小平地域での人口の急増という背景があることも確かではある。しかしいずれにせよ、昭和10年代の軍関連施設の給水設備が戦後小平の町営水道のルーツとなり、それに先立つものとして箱根土地株式会社による小平学園開発の際の小平簡易水道があった。

 

 

 ところで、矢嶋仁吉氏の論文では、小平学園地区の開発について以下のように記されていた。

 

 

  尚、本地域の南部の一部に、碁盤目状の地割を施した所がある。この地域は同村の一部に過ぎぬもので、前述の如く、商大予科の校舎設定後、土地会社の手によって、区画された地域である。その計画では、商科大学予科の校舎を中心とし、その周囲に住宅地、焦点地域を区画し、国分寺駅より主要道路を設け碁盤型の3間道路を縦横に通じて、田園都市化せんとしたところである。そのため、新田開発当初よりの短冊形の地割は一部崩壊し、従来の畑地に若干文化住宅の建設もあるが、未だ著しい発達を見ない。東京の都心地域より約1時間を以てして到達し得るところでありながら、その発達の見るべきもののない最大の制約は前述の飲料水採取の不便という事実である。かかる例は省線国立駅の南方、商科大学の校舎附近に於ても見るところであって、井然と区画された道路住宅予定地もほとんど省みられぬ有様である。本地域に居住地域を発展せしめんには、先ず第一にかかる不便の除去が必須条件であって、例えば、埼玉県の所沢駅附近に於ける如く、動力による簡易水道の如き施設をなすか、その他の方法によって上水施設の完成を図ることが必要であろう。
     (
矢嶋仁吉 「武藏野小平村に於ける新田聚落の研究」 『地理学評論 11』 1939  24ページ)

 

 

 矢嶋氏は論文執筆当時の小平学園地区について、「従来の畑地に若干文化住宅の建設もあるが、未だ著しい発達を見ない。東京の都心地域より約1時間を以てして到達し得るところでありながら、その発達の見るべきもののない」とその開発状況を記し、その理由として「最大の制約は前述の飲料水採取の不便という事実」だと主張している。同じ箱根土地株式会社による国立の学園都市計画についても「井然と区画された道路住宅予定地もほとんど省みられぬ有様」との評価を示しながら、「本地域に居住地域を発展せしめんには、先ず第一にかかる不便の除去が必須条件であって、例えば、埼玉県の所沢駅附近に於ける如く、動力による簡易水道の如き施設をなすか、その他の方法によって上水施設の完成を図ることが必要」との判断を加えている。

 しかし、実際には小平学園都市計画の下で、「土地会社」は深井戸を水源とする小平簡易水道を用意していたし、国立学園都市においても、その計画の当初から、インフラとしての給水システムの整備は織り込まれていたのである。

 

 小平簡易水道については、「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)」をまとめていた時点で、『水道事業概要 昭和58年』(小平市水道業務課・工務課 1983)中に言及があるのには気付いていた(註:1)。そこで早速、「小平簡易水道」をネット検索したのだが、一件もヒットしない状況であった(言うまでもない話だが、「一件もヒットしない」ことは、ある事実が存在しないことを意味するのではなく、まだ誰もその事実についてネット上にアップしていないことを意味する可能性も考えておかねばならない)。小平市水道業務課・工務課による『水道事業概要』にある以上、その存在を疑う必要は感じなかったが、『水道事業概要』の記述からだけでは、小平簡易水道の設置年代が判然とせず、矢嶋論文執筆時点での給水システムの実状はわからなかった。今回、あらためて『小平市三〇年史』の記述を通して、矢嶋氏の認識に不正確なところがあったことが判明した次第である。

 

 

 箱根土地株式会社(堤康次郎)による学園都市開発については、渡辺彰子 編・執筆による『国立に誕生した大学町―箱根土地(株) 中島 陟 資料集―』(株式会社サトウ 2015)に様々な資料が掲載されている。

 

 ここではまず、「堤康次郎(談)」として掲載された「分譲地の賣價算定に付て」と題された、昭和15年10月19日の文書からの関連事項の抜き書きを示す(ここでは影印に付された現代語表記による書き起こしを用いる)。

 

 
   箱根土地会社は世間の一般的土地売買業者もしくは信託会社など、その性質内容が根本的に異なっておって箱根土地会社においては単なる仲介により法外なる手数料を取るが如き事をなさず、土地の加工施設に重点を置き即ち原料たる土地を仕入れてこれを製品化するというような、いわゆる国土計画に則した住宅地の造成を行っているのである。例えば国立の土地についていうならばそこは太古玉川の流れのあとで、わずかな表土の下は十数尺の砂礫層で農耕地にはもちろん林業を行うにもまったく不適当な土地である。
   …(中略)…
   この意味において会社は国立に停車場を新設し道路、水道、下水等あらゆる文化的施設を加え、そしてこれを住宅地に改造したのである。それでその土地の価格はどうかというに今まで山林として顧みられなかったものが、その加えられた文化的施設によって住宅地としての価値を生じた訳である。
   しからばその山林を買収してからこれに手をかけ、すべて分譲に至るまでの経費は一体どの位かかるか、どの位の割合を要するものかというと国立は地上物は別であるが土地は一反千円で大体全体の七割を買収したが百万坪の土地を権力を用いずしてひとまとめに纏めたのであるから、その困難は到底想像以上で筆舌の尽し得るものではなく中には先祖伝来の土地坪百円でも売らぬと頑張られてついに大連まで出かけて行って坪当たり六十円でようやく買収した数千坪の土地もあったが、平均の買収価格は坪当たり地上物を含んで七円五十銭に当っている。それを道路に一割五分を潰し、道路の工事費に地価の約一割を費し、水道、下水、電燈等の工事費に又一割五分を要し、停車場の工事費、その他測量、設計、監督、舗装、公課に対してかれこれ一割を要している。なおこれに又金利、営業費等を加えると、原価は土地買収価格の約倍額に当るようになる。
     分譲地の売価算定に付て (『国立に誕生した大学町―箱根土地(株) 中島 陟 資料集―』  240~241ページ)

 

 その先では、実際の予算書内容も示されている。

 

  大正十二年国立建設着手当時の計画書による建設費予算書
  一、金一千四百万円也 建設費予算総額
   一、金八十万円也 水道工事費
     但し幹線導水本管埋設 延長二万九千五百六十円 平均間当り金十五円也及び水源工事費、配水槽工事費ならびこれに伴う諸機械および器具費共三十五万六千六百円也を含む
     (同書 242ページ)

 

当初予算の段階で、幹線導水本管埋設 水源工事費、配水槽工事費ならびこれに伴う諸機械および器具費を含む形で「水道工事費」が計上されているのが確かめられる。

 「写真から見る国立大学町誕生の頃」と題された第一章には、「水道源池」の写真が掲載されており、以下の解説が付されている。

 

  水道源池とは、水道を供給するために地下水を汲み上げる施設の場所です。箱根土地の大正14年12月1日から大正15年5月までの国立大学町「起工・庶務概要」に「水源第1号鑿泉(さくせん)を完成せり」とあります。又、大正15年9月発行の分譲区分図に、水道源池の場所がはじめて示され、その説明によると地下水は地下四百尺を掘り抜いて湧いたとされています。場所は中央線北側、国立駅舎より約二五〇m東の高台で、ここより水道管を埋設し線路下の土手をくぐらせて南側の国立大学町へ水道水を供給しました。

 

 「場所は中央線北側、国立駅舎より約二五〇m東の高台」とあるが、この「高台」に連なるのが武蔵野台地の武蔵野段丘(武蔵野面)と呼ばれる段丘面で、小平市もその段丘面上に位置する。「地下水は地下四百尺を掘り抜いて湧いた」とあるが、その深度(400尺=120メートル強)は、まさに小平地域の「深井戸」(被圧地下水)の深度である。国立学園都市が計画されたのは、「高台」の下に位置する、中央線の南側の立川段丘(立川面)上であり、国分寺崖線と呼ばれる段丘崖によって隔てられている。国分寺崖線下の立川面では、不圧地下水までの深度は浅いと考えられ、その利用は困難ではないのではないか(国分寺崖線下には湧水源も多い)。文字通りの「浅井戸」による不圧地下水の汲み上げが可能な地域だと思われる(「井戸の掘削は山麓又は河川の沿岸地域の如く帯水層の比較的浅い所では、左程困難ではない」 矢嶋論文 18ページ)。

 ここであらためて、わざわざ宅地開発域から離れた「高台」としての武蔵野段丘上に深井戸を掘削し(それだけ多くの予算が必要となる)、学園都市への給水システムとして整備した箱根土地の構想力(そして実行力、それらを支えた資本力)には注目しておきたい。「飲料水の確保」を各戸(各個人)による井戸の掘削に期待するのではなく、開発事業者がインフラとして「水道」を用意するというのである(註:2)。

 高い位置(高台上)に水源を確保し、重力を利用して低い位置にある水栓に給水する。国立の学園都市の給水システムの発想は、原理的には小平地域の軍事施設の給水塔設置と重なるものでもある。

 

 

 

 箱根土地(堤康次郎)による学園都市開発についての矢嶋氏の認識―上水道の未整備との指摘―には明らかに誤りがあったが、しかし、「従来の畑地に若干文化住宅の建設もあるが、未だ著しい発達を見ない。東京の都心地域より約1時間を以てして到達し得るところでありながら、その発達の見るべきもののない」、「井然と区画された道路住宅予定地もほとんど省みられぬ有様」は開発後の現実でもあった。実際、売れなかったのである。

 

 

 当初は「国分寺大学都市」として分譲開始されているものだが、

 

  箱根土地は、大泉学園都市とほぼ並行して明治大学を中心とする学園都市の開発を計画した。震災直後の一九二三(大正一二)年一〇月より小平村の土地の買収を開始し
     (『小平市史』 2013  221ページ)

 

  一九二五年一月三日に地鎮祭がおこなわれ、宣伝のために大学都市内の風景を題材とした懸賞写真の募集がおこなわれた。本格的な分譲は三月から開始され、
     (『小平市史』  222ページ)

 

  …、国分寺大学都市―小平学園と変遷してきた箱根土地による住宅地分譲だったが、その売れ行きは昭和恐慌などの影響で芳しいものではなかった。しかし恐慌からの脱出を受けて、一九三五(昭和一〇)年頃から徐々に売れ行きが回復してくるとともに、日中戦争のさなかである一九三八年から四一年にかけて、それまで更地が多かった小平学園の西地区に、ようやく住宅が建ちだしたと言われている(『小平町誌』)。東京の郊外化の更なる進展、および小平を含む多摩の戦時開発の影響が、学園地区にもあらわれてきたのである。
     (『小平市史』  291ページ)

 

  学園の住宅は、その生成時期は東区において最も早く大正一二年ごろで、ついて西地区の昭和の初めであるが、東区の遅々たる建設に対し、西地区は昭和一三~一六年ごろ急速に建設がすすめられ、第二次大戦後は両地区とも建設は速度を増し、特に昭和二七年以降はその傾向がいちじるしい。
     (『小平町誌』 1959  447ページ)

 

 

 つまり、販売開始から10年ほどは、住宅地としての販売は低迷し続けたのである。矢嶋氏にとっての小平学園地区のイメージは、現地調査に通っていたであろうまさにこの時期に刻み付けられたものということになる。しかし、矢嶋氏の論文執筆時(発表が1939年)には、そこに変化の兆しが見出されてもいたのである。

 

 

  一九三八年頃、小平学園の開発地六〇万坪のうち、多摩湖線の線路西側に沿った地区六万坪で「国分寺厚生の家」という建物付きの分譲がおこなわれた。このころ分譲地全体は「国分寺厚生村」とも呼ばれており、小平学園駅と青梅街道駅のあいだに新設された駅は厚生村駅と名付けられた(三九年開設、四五年使用休止、五三年廃止)。なお、一九四〇年の史料には「国分寺学園分譲地」という名称もみられる。
  国分寺厚生の家は、残されている販売用パンフレットによれば、土地百坪と小さなバンガロー風の家屋とをあわせて八〇〇円で販売された物件である。一九二六年に国分寺大学都市として分譲を開始した頃、分譲地の坪単価は九円八〇銭~一二円八〇銭だったのだから、坪単価八円はかなりの特売価格であった。
     (『小平市史』  291~292ページ)

 

 

 先に紹介した『国立に誕生した大学町』に収録されている「販売用パンフレット」の裏面画像には、

 

  設備 道路(幹線五間巾、支線三間巾)、電燈、水道、下水

  此処に今回新たに意匠登録を受けた瀟洒な農園小舎を建て家の周囲に果樹や蔬菜を栽培し一家團欒、土と緑に親しむのであります。戰時體制下の厚生國策に沿ふ、御一家の心身鍛錬場として晴耕雨讀の家庭道場として御所有になることを切にお奨め致します。彼の「農園住宅」や「歓喜力行」の本場とも云ふべきドイツから来たヒツトラー・ユーゲントの見るからに健やかな身體や、溌剌たる風丯に接するときまことに躍進ドイツそのものを見るの感があります。土と緑に育まるる彼等ドイツ青少年□□の幸福を思ひ我等もまた大いに示唆を受けるものがあると存じます。

 

このように記されている(「設備」には「水道」が含まれている点にも留意―矢嶋論文執筆時期の販売広告上では開発地域内の「水道」の存在がアピールされていた事実)。

 『小平市史』は、「つまり、厚生の家とは、定住用の住宅ではなく、週末に農作業を楽しむための家庭農園付きの小屋のことだったのである」と要約している(293ページ)。さらに『小平市史』は次のように論じる。

 

 

  では、厚生の家ないし厚生村という「厚生」を冠した宅地分譲とは、どういう意味だったのだろうか。一九三八年一月、総力戦体制構築を推進する軍部のあと押しをうけながら、国民の健康や体力増進政策、衛生や医療政策、人口政策、労働政策といった戦時社会政策を担当する官庁として、厚生省が発足した。そして同じ年、イタリア・ファシズムのドーポラボーロ(労働の後)運動やナチス・ドイツの歓喜力行団の活動に影響を受けて、日本でも余暇活動の充実と健全娯楽の推進をはかることで国民を統合し、生産力を向上させようとする厚生運動がはじまった。つまりこの時期の「厚生」とは、戦争の遂行に役立つような国民体力の向上や健全な余暇活動を意味していた。したがって厚生の家での「心身鍛錬」「晴耕雨読」とは、まさにそのような意味での「国策」に沿った「厚生」にほかならない。一方で、厚生の家は「一家団欒」「家庭和樂」の場であることが強調され、「子女」の成長にとっても有益であることが謳われているが、それは「家庭」「団欒」の私生活空間と時間を大切にし、「子女」の教育を重視する意識が強かったサラリーマン層の家族に訴求しようとしたからであろう。ただし、「厚生」が冠されているのだから、そこでの私生活は「国策」に役立つ限りでの私生活ということになる。
  厚生の家・厚生村という名付けには、戦時における国策と商業主義の狭間で、郊外の位置づけやそこでの生活の意味付けが微妙に変化を遂げていることを見てとれる。それは戦時開発とはいえないが、平時の郊外住宅地開発としての学園開発が、総力戦体制に順応するなかで変形を遂げたものだといえよう。
     (『小平市史』  293~294ページ)

 

 

 多摩・武蔵野地域の軍事地域化と民間土地開発会社の商業主義が重なった姿を、戦時期の小平学園地区=厚生村に見出すことが出来るだろう。

 また、この「厚生の家・厚生村という名付け」による販売戦略を通して、当時の日本で、ナチス・ドイツの政策が模範的(お手本的)に機能していた状況も見えてこないだろうか。既に、現・東大和市の南街地区の開発モデルとして機能したのが、ナチス・ドイツのジードルング政策であったことに触れておいた(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」参照)が、小平学園地域での「厚生の家・厚生村という名付け」からも、同時代(どちらも1938年)の日本での「躍進ドイツ」への憧憬・傾倒的雰囲気が見える(註:3)。

 ちなみに、この昭和13(1938)年には、ヒトラー・ユーゲントが日本を訪問し、大きな話題となっていた。「販売用パンフレット」は、「昭和13年10月版」とあるので、まさにヒトラー・ユーゲント日本訪問の最中のものということになる。「ヒツトラー・ユーゲントの見るからに健やかな身體や、溌剌たる風丯」を目の当たりにした人々こそが、「販売用パンフレット」のターゲットであった。箱根土地は、「躍進ドイツ」―「農園住宅」や「歓喜力行」の本場―モデルにビジネス・チャンスを見出したのである。

 

 しかし、素敵な厚生村の素敵な厚生の家(実のところ、ホワイトカラー向けのセカンド・ハウスなのである)を手に入れることなど、当時の軍需工場労務者には考えられぬのが大日本帝國の現実であった。

 「日本でも余暇活動の充実と健全娯楽の推進をはかることで国民を統合し、生産力を向上させようとする厚生運動」のまさに同時期の厚生省生活課技師による報告には以下のように記されている。

 

  昭和13年当時の厚生省生活課技師の報告によると、「先般各地軍需工場地帯に於ける労務者の居住状況を視る機会を得て、痛感した事は、労務者殊に農村から見習工として集まって来た人々に住居の欠乏していることである。例えば、4畳半に4人、6畳に6人と云ふ過密状況が各所に見られ、或は15坪以上もある広い部屋を急設して、採光通風等考慮せず、唯寝る場所を与へて押入れもない室内に寝具、荷物を散乱させ、20~30名の新人工が合宿している。所謂万年床は随所にあり、殊に夜勤者が昼間強い日光を浴び乍ら寝苦しさうな様を見て、斯かる状態は長期戦のもとに何時迄も黙過出来ぬことと痛感した。徒に生理的欲求を斥けることなく、疲労恢復に適する最小限の住居と、体力を維持増進するに足る栄養の供給とは、殊に銃後の第一線を守る軍需工場労務者には、確固たる方針を以つて之が万全を期すべきである。
     大本圭野 「戦時住宅政策の展開過程(2)―日本的住宅政策の原型」 (『季刊・社会保障研究』 Vol.19 No.4 1984  433ページ)

 

 

 

【註:1】
  当時(昭和37(1962)年の「第1次拡張事業」をめぐる記述からの引用である)市内の水道施設は、西武国分寺線小川駅周辺を中心とする市営水道と学園地区に給水する民間経営の小平簡易水道があるだけで、その給水能力は併せて16,000人分しかなく、人口的にも、地域的にも一部に過ぎませんでした。
  小平市は、いわゆる「武蔵野台地」にあり、都区内水準よりも約80mの高台にあり、地下水量は豊富と見られていましたが、その水位は予想外に低く、加えて昭和30年代には、宅地化の進行に伴い、家庭用井戸は乱掘の様相をみせ、そのため家庭用井戸の水位は全般的に低下し、とくに渇水期においては水不足が直接市民生活を脅かすに至りました。とりわけ、市の東部に位置する花小金井地区の家庭用井戸は、渇水期において枯渇したものが多く、市はこれに対する緊急給水に追われているという実情でした。
     (『水道事業概要 昭和58年』 小平市水道業務課・工務課 1983  3ページ)
 
  小平簡易水道の給水区域を市営水道の給水区域とするため、第2回計画変更を昭和40年月13日付、厚生大臣に申請しました。
  当時、市内には市営水道のほかに民間会社の経営する小平簡易水道があり、これは当該地区(現在の学園西町、学園東町)開発のために計画されたもので、その施設は古く、区域内の人口増加の状況に照らしてもその能力は、極めて不充分であり、また、一般に水道事業の経営主体は、地方公共団体であることが望ましいという観点から、小平簡易水道は、昭和40年1月31日までの期限付で都知事の許可を受けていました。
  したがって、当該地域の住民も市営水道に統合されることを強く要望しており、市においても市の給水区域として需要に適合した施設の拡充を計る必要を認め、事業変更を行うことになりました。
     (『水道事業概要 昭和58年』  4ページ)

 

【註:2】
 箱根土地による大泉学園都市の分譲販売チラシでは以下のように主張されている。

  表
  ◇大泉公園はその昔武蔵野の少納言久保と云はれた處で翠緑滴るが如き赤松林の大樹が土佐繪のような風趣を添え楢や欅の雑木林が繁つて居ります。ことに鑿井より湧き出ずる水は清冽手を切るようで内務省衛生局の検査によれば完全な地下水として水道以上純良なることを證明されました。
  裏
  ◇郊外の住宅地は大泉學園のように組織的大規模に建設せられて始めて實用價値を生じ實用的價値の存在を前提として始めて投資的價値が存するのであります。
  ◇電燈も道路もない林や畑を工事もせず只土地の價額の少ないことのみをもつて、地價が廉いと云ふことによつて土地をお買いになるのは最も注意すべきことであります。
  ◇分譲地を買入れた方自身がめいめいに道路やその他の工事をせねばならぬとすればそれは如何に煩雑で不経済なことでありませう。結局豫期せざる高價な土地を買入れたと同一になつて仕舞ひます。即ち大泉學園都市の如き工事の完成した大地積の經營に於て始めて徹底的の建設が實現せらるるのであります。
  ◇大泉學園都市は電車停車場、公園、公園道路、乗合自動車、日用品マーケツト、娯楽場等を新設し、一坪十圓内外でお譲り致します。
     (『国立に誕生した大学町―箱根土地(株) 中島 陟 資料集―』  220ページ)

 

【註:3】
   ドイツナチスによるジードルングのユートピア運動というのがある。労働者に職を与えて安定した生活をつくり上げる。労働者は一日の労働に疲れて家に帰り、新鮮な空気を吸い、和やかな家庭的慰楽の生活にひたり、新しい明日への活力を回復するという考えに基いた都市構想、これが「ジードルング」で当時ドイツの企業経営に多く採用されていた。
   ジードルングというのは、つまり、都市郊外に一団として建設される企業を中心とした、集合住宅という意味である。ドイツで昭和七年、住宅法が制定され、特にその政策を工業を主体とする企業が採り入れていた。
          (元日立航空機専務 内山 直 手記)
     (『東大和市史』 2000 337ページ)

 

  「汝の體は國家のものである。」
  「汝は國家に對し健康であるべき義務を持つ。」
  さういふ崇高な標語のもとにヒトラー・ユーゲントは先づ健全な體を養ふことを第一義とする。ここに我々は、個人の健康といふことに於いても個人主義的な考え方が克服されてゐるのを見るのである。その施設のゆきとどいてゐることもさることながら、保健や體育に對する根本的な考え方に學ぶべきところが少なくない。
     (ヤーコプ・ザール 高橋健二 『ヒトラー・ユーゲント』 新潮社 1941  32ページ)

 身体的にも政治的にも「健康」なアーリア人にとってのみ、ナチス・ドイツはユートピアであった(それがユートピアであり得たのは、あくまでも「戦前」の話であるが)。その健康なユートピアが昭和10年代の帝國日本のお手本でもあった姿を、南街の集団住宅計画や小平学園の「厚生の家・厚生村という名付け」を通して確かめることが出来る。

 

 

 

    (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)」に続く)

 

 

 

《記事一覧》

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 「多摩武蔵野軍産複合地帯
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  昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(星野朗氏の論考紹介)

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  軍産施設の進出に伴う集団住宅建設問題(住宅営団と東京瓦斯電気のジードルング)

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  武蔵野台地上での水源確保の困難を営団住宅の給水問題を通して再確認

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  『国分寺市の今昔』(2015)巻末の一覧を用いて軍産施設設置状況を再確認

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)
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  箱根土地の小平学園開発と販売戦略としての小平簡易水道設置とナチス礼賛広告

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  「津田こどもの家」を中心に、総力戦下の女性動員と託児所の役割

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)
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  木材供出で姿を消した青梅街道の欅並木と「木造船建造緊急方策要綱」

 「グローブマスター機墜落 (軍産複合地域としての昭和十年代多摩 戦後編-1)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-511f.html
  1953年の小平町のグローブマスター機墜落事故と沖縄の現在

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2018/07/30 21:35 → https://www.freeml.com/bl/316274/320440/
 投稿日時 : 2018/07/30 21:37 → https://www.freeml.com/bl/316274/320441/

 

 

 

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2018年6月25日 (月)

「娘の身売り」が支えた「公娼制度」 (昭和期日本の貧困 その5)

 

 

 「貧困層にとっては、人身売買に頼るしかなかった近代日本の現実」を、昭和9年当時の紙面から切り抜かれ、スクラップブックに残された新聞記事を通して読み解いてきた(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」、「廓模様新紅毛情史 (昭和期日本の貧困 その3)」、「十四娘を賣つた金 四十圓の家と化す (昭和期日本の貧困 その4)」参照)。

 

 

 

  小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民は、八年のように空前の豊作を記録した年ですら、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられていた。九年の凶作は、それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった。岩手県では全農家の七七㌫が緊急の救済を必要とした。
  飢饉の影響は、まず子どもたちの上に現れた。欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。とくに大きな問題となったのは、娘の身売りだった。東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、九年一〇月までの一年間で五万人余にのぼった。新聞は連日のように救済を訴え、矯風会や救世軍が身売り防止運動を始めたが、口べらしと借金の返済に迫られた農村の厳しい現実の前では、ほとんど効果はなかった。
     (『昭和 二万日の全記録 第3巻』 講談社 1989  306ページ)

 

 

 現代から振り返れば、このようにまとめられる「近代日本の経験」ということになるが、スクラップブックに貼られた当時の新聞記事を介し、記者の(そして読者の)心情・関心の在処までが、臨場感を伴うものとして甦ったのではないだろうか。

 

 「小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民」が凶作という状況の中で、

 

  娘一人の身代金は年期四年で五百円乃至八百円、然し周旋屋の手数料や着物代や何かを差引かれて実際親の手に渡るのは、せいぜい百五十円位だ、可愛い娘を手放しても、百五十円の金を握りたい、一つの悪風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう
 かうして床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく、淪落の巷を流浪する最上娘の「新庄節」こそ彼女等の望郷の憶ひをこめた哀歌であると共にドン底の農村の悲しむべき生活苦を、まざまざと物語るものでなくて何だらう、然も娘を売つた親達は「凶作で米がないから、年期が明けても村の懐には帰るな」といふのだ農村の窮乏もここに至つて正視するに忍びない
     「東北の凶作地を見る」 (9.10.22 朝日)

 

  吾あ娘売る気あ夢にもなくてあつたども、周旋屋が家のわらし(娘)ど借金の□なみに眼つけで売れ売れつて四十日の間も付き纏ひした、其うちね飯米あなくなるし女房あ妊娠脚気ねなるし借金取りにや責め立てられるし、おまけね、借金の保証が女房の妹だはで、吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて、とうとう売る腹ねなりした
     「十四娘を賣つた金四十圓の家と化す」 (9.12.1 朝日)

 

このような事態に追い込まれる。「借金」の返済のために新たな借金をし、その借金と引き換えに、「娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく」のである。

 記者は、その状況を「娘一人の身代金は年期四年で五百円乃至八百円」と「身代金」という語を用いて表現し、「娘がポツリポツリ…売られて姿を消してゆく」と「売られて」という語を用いて記している。「東北の凶作地を見る」の記事には「賣られる最上娘」との見出しも附されているし、12月1日の記事の見出しは「十四娘を賣つた金四十圓の家と化す」である。その記事中で記者は「これが一人の津軽娘が娼妓に売られた身代金で買はれた家かと思ふと異様な汚感に襲われざるを得なかつた」との感想を記しているが、そこには「津軽娘が娼妓に売られた身代金」との認識が示されている。

 ここではまず「身代金」という語の辞書的な意味を確認しておこう。

 

  【身代金】 人身売買の代金。みのしろ。
          (『精選版 日本国語大辞典』)

  【身の代金】 身売りの代金。また、人身と引きかえに渡す金。
          (『広辞苑』)

  【身の代金】 人身売買の代金。
          (『明鏡国語辞典』)

 

 「人身売買」に関わる用語であることがわかる。ここで記者が「身代金(=人身売買の代金)」という語を使っているが、それは読者にも共有される認識であったはずだ。

 前回記事(「十四娘を賣つた金 四十圓の家と化す (昭和期日本の貧困 その4)」)では、安中進論文(2017)中で紹介されている昭和9年11月17日の朝日新聞記事を引用しておいたが、そこには「身賣 りの一歩手前で救はれた東北娘」、岩手県の「身賣娘を護れ」とのスローガン、「身賣り救済運動」といった表現がある。娘の「身売り」との認識が、広く共有されるものであったことを示すものと言えるだろう(「身売り」という語が示すのは、「娘」が商品として売買される状況、まさに「人身売買」の認識なのである)。

 

 当時の新聞記事の表現を通して、娘の身売り=人身売買との認識が一般に共有されたものであったことが理解されるであろう。

 

 

 

 

 大日本帝國政府は、このような状況にどのように対処していたのであろうか?

 帝國の「公娼制度」の枠組みの中で、娼妓として供給される女性を「人身売買」の犠牲者として位置付けていたのであろうか?

 

 

 まず、ここでは帝國以前、すなわち近代以前の近世遊郭が、西欧的価値観からどのように認識されていたのかを確かめておきたい。

 

 関口すみ子「近代日本における交渉性の政治過程――「新しい男」をめぐる攻防――」(2016)に興味深い記述がある。

 

  注目すべきことに、大英帝国の初代駐日公使オールコックが、『大君の都』(1863)で、日本にこのことを付きつけていた。一八四三年にアモイの領事館に勤務して以来、中国各地のイギリス領事を歴任していたオールコックは、一八五九年に初代駐日総領事・公使として来日し、帰国後、この書を世に問うたのである。
  その中で、日本では「父親が娘に売春させるために売ったり、賃貸ししたりして、しかも法律によって罪を課せられないばかりか、法律の許可と仲介をえているし、そしてなんら隣人の非難もこうむらない」、「日本では人身売買がある程度行われている。なぜなら娘たちは、一定の期間だけではあるが、必要な法律形式をふんで、売買できるからである。少年や男についてもそうであろうと私は信じている」と「人身売買」を批判していた。
  同様に、「合法的な蓄妾制度のある国で、どうして家庭の神聖さを維持できるのかわたしにはわからない。しかもこの神聖さがなければ、国家的成長と威厳や国家的進歩と文明の基礎は、欠けているか侵されているに違いない」と、「蓄妾制度」を批判していた。

 

 これが幕末の日本への、外部からの(自ら「文明」を誇る側からの)視線であった。明治政府は、このような視線への対応を迫られたのである。関口論文では、まず1870(明治3)年の「新律綱領」の条文が示されている。

 

  一八七〇年一二月領布の新律綱領(全一九二条)では、賊盗律中に「略売人」の条が設けられた。それは娼妓に略買する罪から始まる(「凡人ヲ略売シテ娼トスル者ハ、成否ヲ論セズ、皆流二等、妻妾奴婢トスル者ハ徒二年半」)。人をかどわかして娼妓に売り飛ばすことを固く禁じたのである。

 

 続く明治初年における対応については、山中至「藝娼妓契約と判例理論の展開」(1992)から引いておこう(まず取り上げられているのは、「明治五年一〇月二日太政官第二九五號布告」である)。

 

   一人身ヲ賣買致シ、終身又ハ年期ヲ限リ其主人ノ存意ニ任セ虐使致シ候ハ、人倫ニ背キ有マシキ事ニ付古來制禁ノ處、從來年期奉公等種々ノ名目ヲ以テ奉公住爲致、其實賣買同樣ノ所業ニ至リ以ノ外ノ事ニ付、自今可爲嚴禁事
   一農工商ノ所業習熟ノ爲メ弟子奉公爲致候儀ハ勝手ニ候得共、年限滿七年ニ過ク可カラサル事。但雙方和談ヲ以テ更ニ期ヲ延ルハ勝手タルヘキ事。
   一平常ノ奉公人ハ一ヶ年宛タルヘシ、尤奉公取續候者ハ證文可相改事。
   一娼妓藝妓等年季奉公人一切解放可致、右ニ付テノ貸借訴訟總テ不取上候事。
   右之通被定候條屹度可相守事。

  この布告は人身の賣買禁止を確認し、年季奉公に名を借りる賣買同様の所行を禁止する。また娼妓・藝妓等の年期奉公人は一切解放し、これら奉公人と抱主との間の貸借関係は裁判所で取り上げないというものである。一週間後の同月九日にはいわゆる「牛馬きりほどき」と稱された司法省第二二號によって、

   本月二日太政官第二百九十五號ニ而被仰出候次第ニ付、左之件々可心得事。
   一人身ヲ賣買スルハ古來ノ制禁ノ處、年季奉公等種々ノ名目ヲ以テ其實賣買同樣ノ所業ニ至ルニ付、娼妓藝妓等雇入ノ資本金ハ贓金ト看做ス故ニ、右ヨリ苦情ヲ唱フル者ハ取糺ノ上、其金ノ全額ヲ可取揚事。
   一同上ノ娼妓藝妓ハ人身ノ權利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス、人ヨリ牛馬ニ物ノ返辨ヲ求ムルノ理ナシ、故ニ從來同上ノ娼妓藝妓ヘ借ス所ノ金銀並ニ賣掛滯金等ハ一切債ルヘカラサル事。但シ本月二日以來ノ分ハ此限ニアラス。
   一人ノ子女ヲ金談上ヨリ養女ノ名目ニ爲シ、娼妓藝妓ノ所業ヲ爲サシムル者ハ、其實際上則チ人身賣買ニ付、從前今後可及嚴重ノ所置事。

 抱主と奉公人間の金銭貸借關係について、解放した藝娼妓に対する債權は無効であると指示される。

  さらに明治八年八月一四日に太政官は第一二八號布告を以て、借金について人身を抵當とすることを厳禁する。

   金銭貸借ニ付引當物ト致候ハ、賣買又ハ譲渡ニ可相成物件ニ限リ候ハ勿論ニ候處、地方ニ寄リ間ニハ人身ヲ書入致候者モ有之哉ノ趣、右ハ嚴禁ニ候條、此旨布告候事。但期限ヲ定メ工作使役等ノ勞力ヲ以テ負債ヲ償フハ此限ニアラス。

  しかし他方で、政府としては人身賣買を禁止し、藝娼妓を解放しても、賣春を禁じ、遊郭を廃止する意思は毛頭なかったのであり、従来のように遊女屋が遊女を抱えて營業するのではなく、貸座敷業者が自由意思による獨立した娼妓に座敷を貸すという形式に改め、解放令の直後には、各府懸に「遊女營業規則」・「娼妓藝妓席貸規則」・「貸座敷渡世規則」・「娼妓規則」・「藝妓規則」等を定め、藝娼妓渡世については、地方官が管理するところとなった。これは藝娼妓の公認でもあったから、先の藝娼妓解放令と矛盾するものであり、このような矛盾の中で、多くの藝娼妓関係の訴訟が發生したことが當時の判決原本から窺えるのである。

 

 「人身売買」の禁止が布告されはしても、実際のところは「従来のように遊女屋が遊女を抱えて營業するのではなく、貸座敷業者が自由意思による獨立した娼妓に座敷を貸すという形式に改め、解放令の直後には、各府懸に「遊女營業規則」・「娼妓藝妓席貸規則」・「貸座敷渡世規則」・「娼妓規則」・「藝妓規則」等を定め、藝娼妓渡世については、地方官が管理するところとなった」のである。

 クローズアップされたのは娼妓となる者の「自由意思」であり、特に「廃業の自由」の有無であった。

 ここでは、眞杉侑里「「人身売買排除」方針に見る近代公娼制度の様相」(2009)により、問題を整理してみたい。

 

  東京府に於ける「娼妓規則」と内務省令である「娼妓取締規則」とは、制定母体も発布年度も異なるもの(前者は1873(明治6)年東京府令第145号、後者は1900(明治33)年内務省令第44号)であるが、娼妓取締規則以降もその細部については「本令ノ外必要ナル事項ハ庁府県令ヲ以テ之ヲ定ム」ことになっており、両者(地方規則と娼妓取締規則)は共存するものであって、その条項にも共通点を見ることができる。その中でまず注目すべきは娼妓規則第一条に於いて「娼妓渡世本人真意ヨリ出願之者ハ実情取糺シ候上差許シ鑑札可相渡」との記載が為されている点である。これは「娼妓本人の意思による届出」に対して就業許可を与えるという規定であり、娼妓取締規則に於いても「娼妓名簿ノ登録ハ娼妓タラントスル者自ラ警察官署に出頭し(中略)書面ヲ以テ申請スヘシ」とした第3条に明記されている。この条文は、娼妓就業に際してそれが当人の意思によることを明示する事によって娼妓解放令の禁止する人身売買的要素を排斥する為のものであると理解できる。更に娼妓取締規則に於いては「娼妓名簿削除申請ニ関シテハ何人ト雖妨害ヲ為スコトヲ得ス」との条文が定められており、廃業手続きについては「娼妓名簿削除ノ申請ハ書面又ハ口頭ヲ以テスヘシ」と口頭という簡素な手段を含める事によって廃業の自由を確保、「就業の自由意志」の強化が図られている。
  しかしながら、当人の自由意思が確認された場合であってもすべての人に娼妓稼業許可が与えられるものでは無かった。娼妓就業の条件として「個人の自由意志」以前に「十五歳以下之者ヘハ免許不相成候事(娼妓規則第1条)」、或いは「十八歳未満ノ者ハ娼妓タルコトヲ得ス(娼妓取締規則第1条)」という年齢制限が設けられており、これを満たさない場合には就業は適わない。また、就業後であっても「毎度両度ツツ医員之検査ヲ受ケ其指図ニ従フヘシ病ヲ隠シテ客ノ招ニ応シ候儀決シテ不相成候事(娼妓規則第6条)」と毎月の診療が義務付けられており、この規定は娼妓取締規則に於いても「娼妓ハ庁府県令ノ規定ニ従ヒ健康診断ヲ受クヘシ(第9条)」、「警察官署ノ指定シタル医師又ハ病院ニ於テ疾病ニ罹リ稼業ニ堪ヘサル者又ハ伝染性疾患アル者ト判断シタル娼妓ハ治癒ノ上健康診断ヲ受クルニ非サレハ稼業ニ就クコトヲ得ス(第10条)」という条項に引き継がれている。
  以上に挙げた他にも居住制限や罰則事項などの条文を見る事が出来るのであるが、娼妓自体に関する規定は概ね次の3点に集約することが出来る。
  1、娼妓就業は当人の意思によるものであり、登録が義務付けられる
  2、一定年齢以下については就業を認めない(「娼妓規則(東京府)」では十五歳以下、「娼妓取締規則(内務省)」では18歳未満の就業を禁止)
  3、医療検診が義務付けられ、疾患が認められる場合は娼妓稼業の停止する事

 

 これが、「藝娼妓渡世」をめぐる制度的枠組みであった。付け加えれば、

 

  この人身売買の禁止に関しての規範は1898年娼妓解放令が廃止になって以降は民法90条「公ノ秩序又ハ善良ノ風俗ニ反スル事項ヲ目的トスル法律行為ハ無効トス」がこれを引き継ぐ形となる。

 

すなわち、昭和戦前期において、「人身売買」は「公序良俗」に反する所業として位置付けられるものとされてはいたのである。その枠組みの中で、しかし、「娘の身売り」は当時の現実であり続けた。

 

  床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく

 

  借金の保証が女房の妹だはで、吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて、とうとう売る腹ねなりした

 

 

 

 制度的枠組みとしては「人身売買」は排斥されていたはずだが、当時の一般的な理解としては、家族の困窮の中で「娘の身売り」にまで追い込まれる人々が存在していた。当時の新聞記事を読むことで、「身売り」すなわち「人身売買」との認識が一般的には共有されていたことは既に確認し得ているはずだ。

 

 一方で、大日本帝國政府は「公娼制度」の下での「人身売買」を否定し、司法判断の中でもそれは維持されていた。そこに、新聞記事から読み取れる世間一般の認識と政府・司法の認識の乖離が見出せるであろう。なぜ、そのような事態が生まれていたのか?

 まず、当時の政府の認識と司法判断の理路について知る必要がある。

 

 

 近代の「公娼制度」と呼ばれるものは、山中論文に示されているように、「遊女屋が遊女を抱えて營業するのではなく、貸座敷業者が自由意思による獨立した娼妓に座敷を貸すという形式」によるものであった。「独立した娼妓」の「自由意思」は、形式的には娼妓志願者自身による娼妓名簿への登録により確認されることになる。

 しかし、問題は、そこに金銭が(金銭の貸借関係が)どのように介在しているのかにある。金銭の貸借関係が、稼業契約に拘束的に働いていたかどうかが問題となる。

 

  吾あ娘売る気あ夢にもなくてあつたども、周旋屋が家のわらし(娘)ど借金の□なみに眼つけで売れ売れつて四十日の間も付き纏ひした、其うちね飯米あなくなるし女房あ妊娠脚気ねなるし借金取りにや責め立てられるし、おまけね、借金の保証が女房の妹だはで、吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて、とうとう売る腹ねなりした

 

 当時の新聞紙上に残されたこのエピソードについて考えてみよう。

 「娘」の父が受け取る金銭は、周旋屋を介している(「身代金は五ヶ年の契約で四百五十円だつたが、…、周旋料だといつてブローカーに廿二円五十銭」となる構図)が、貸座敷業者との貸借契約により提供されたものであり、父による貸座敷業者への借金(「前借金」と呼ばれる負債である)となる。

 「娘」は、「娼妓取締規則」の枠組みの中で娼妓登録をすることで娼妓として公許され、前借金を提供した貸座敷業者との間に「娼妓稼業契約」をすることで、貸座敷業者の下で娼妓稼業をし、その稼ぎを前借金の返済へ充てるのである。

 公的枠組み(たとえば東京府の娼妓規則であり、内務省の娼妓取締規則である)の中での娼妓登録と、私的関係(娘とその家族に対する貸座敷業者)の中での金銭貸借契約と娼妓稼業契約がある。人身売買問題との関連において、娼妓登録については当人の自由意思が問題となるだろうし、金銭貸借契約と娼妓稼業契約が連動する中での人身売買要素が問題となるであろう。

 

 公娼制度下での人身売買を否定していた当時の政府の認識と司法判断の理路はどのようなものであったのか?

 

 政府の認識は、1920年代から30年代にかけての国際連盟で、国際的な婦女子の人身売買が問題とされた際の対応に表れている(ここでは眞杉論文を参照する)。

 既に1910年の段階で、「醜業ヲ行ハシムル爲ノ婦女子売買禁止ニ関スル国際条約」が締結されており(日本は不参加)、婦女子の人身売買は国際的に関心を持たれる問題となっていた。1921年には国際連盟第2回会議において「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」の締結が決定され、日本も(年齢制限には留保した上で)参加する。

 1923年には国際連盟による国際的婦女売買に関する調査が行われ(南北アメリカ、地中海沿岸地域等の28ヶ国・112都市)、1928年の第9回国際連盟総会では調査地域の東洋への拡大が承諾され、1931年に東洋に於ける婦人児童売買の実情調査が現実のものとなり、日本もその対象地域となった。その際の日本政府の対応が、ここでの焦点となる。

 

  こうして娼妓就業が「個人の自由意志」であると釘を刺し、個人の自由意志であるが故に廃業に関しても娼妓の意思が介在し得る点についても言及されている。

   娼妓となるには貸座敷業者に対し前借金を為すを普通とする。(中略)然し此の前借金即ち金銭の消費貸借と娼妓稼業は別個の問題であって、債権を確保するが為に人の自由を拘束するが如き契約を為したならば、民法九十条により公序良俗に反するものとして無効となるべく、娼妓取締規則に於ても亦第六条で娼妓名簿の削除申請については何人と雖も之を妨害することを禁止して居る(内務省警保局『公娼に関する調査』1931)

  このように、前借金と娼妓稼業が別個の問題である事、債権回収の為に娼妓稼業を強いる事態を違法とする事によって廃業時も個人の自由意志は貫かれ得るものと主張するのである。

 

  しかしながら、この主張の要である「前借金と娼妓稼業の分離」は、前借金を前提とした貸座敷業者―娼妓間の関係を揺るがし得るものであり、どの程度実行可能であったか疑問が残る。この点に関しては国連調査団からも「若し公序良俗に反するの故を以て斯る(前借金完済の為娼妓稼業を強いる)契約が無効と宣告されますと、外国乃至国内の妓楼経営者は前借金を貸せると云ふ事は為なくなるでせう。そうなれば此の種の商売に対する致命傷です。」(「東洋ニ於ケル婦人児童売買実地調査委員」1931)との指摘もなされており、政府は苦しい説明を余儀なくされている。

 

  1932年の報告書に対して日本政府は、意見書を提出し娼妓取締規則の「有効性」と自由廃業の「実行性」を主張し、人身売買要素の否定を繰り返している。だがそれが受け入れられる事は無く、1933年「国際連盟東洋婦人児童売買調査委員会報告書」に於ても矢張り自由廃業の実行性は疑問視されている。無論、前借金が娼妓稼業に対する拘束力を何ら持ち得ないものであるとすれば、それは公娼制度の土台に位置する貸座敷業者に打撃を与える事となり、制度自体の存続が危ぶまれる。

 

 眞杉論文では、このように問題が整理され、日本政府の主張(「公娼制度=非人身売買」論である)の実際と国際連盟調査団による評価がどのようなものであったのかが明らかにされている。

 

 

 続いて、当時の司法判断の理路を確かめておくこととしたい。

 

 戦後になっての最高裁判決(1955年10月7日)では、

 

  酌婦として稼働する契約と、消費貸借名義による前借金の授受は、それぞれ獨立のものではない。それらは對價関係、密接不可分關係にあるから、契約の一部たる酌婦稼働契約が無効であれば、契約全體も、すなわち借金自體も無効となる。
     (山中論文)

 

とされたが、昭和戦前期では異なる取り扱いを受けていた。山中論文によれば、

 

  この最高裁判決がだされるまでの藝娼妓契約についての大審院の支配的見解は、最も簡略化して述べれば、藝娼妓稼業契約は稼業契約と前借金契約のそれぞれ別個獨立の二個の契約からなり、債務辨儕方法としての前者がたとえ公序良俗に反して無効であっても、このことは純然たる金銭消費貸借契約である前借金契約には何らの影響も及ぼさない、というものである。
  この最高裁の判決にある(最高裁の判決文の中で触れられている―引用者)大審院大正一〇年九月二二日判決「貸金幷損害賠償請求ノ件」では、藝妓稼業を強制する部分と前借金に關する部分に分け、藝妓稼業契約は人身の自由を拘束するものであり、民法九〇條(公序良俗)により無効である。前借金については「純然タル消費貸借」である場合は、稼業契約の効力とは無関係に有効だと言っている。しかし前借金の授受が「名義ハ貸借契約ナレドモ、其眞意ハ藝妓稼業ノ實質ヲ構成シ」「藝妓ヲ為サシムル對價」であれば無効である、とも言っている。この判決は大審院の傳統的見解に従って、藝娼妓稼業契約から前借金契約の部分を分離する二元論的構成を採り、前借金を有効にすることができると判示しており、リーディング・ケースと理解されている判例である。また最高裁の判決に擧げられているもう一つの判例である大審院大正七年一〇月一二日判決「損害賠償請求ノ件」は、抱主が藝妓を誘拐した第三者に對して、債權侵害を理由として損害賠償を請求したケースである。大審院は、稼業者本人以外の者(=親)が本人(=娘)の意思に関係なく、藝妓稼業に従事させる契約を締結した場合は、公序良俗に違背し無効である。しかし本人が抱主と藝妓稼業契約をなせば、その契約は有効であり、娘が自己の契約上の債務たる藝妓稼業をなすことにより、親の抱主に對する債務が履行される結果となる。したがって抱主は藝妓稼業より生ずる利益を収得する債權を有する、と論じる。ここでも親が娘を稼業に従事させることを約し前借金を受け取った關係を、前借金の部分と稼業の部分に分離して判断する態度が示されている。

 

このような構図として示されている。「本人が抱主と藝妓稼業契約をなせば、その契約は有効であり、娘が自己の契約上の債務たる藝妓稼業をなすことにより、親の抱主に對する債務が履行される結果となる。したがって抱主は藝妓稼業より生ずる利益を収得する債權を有する」との大審院の認識は、先のエピソード中の娘と父親、そして貸座敷業者(抱主)の関係に重ねられるだろう。ただし、このケースでは娘は14歳であり、「公娼」の枠組みには入らないはずなので、その点に大審院判決とは別の問題も生じていそうである。

 

 いずれにせよ、昭和戦前期の司法判断の枠組みの中では、「藝娼妓稼業契約は稼業契約と前借金契約のそれぞれ別個獨立の二個の契約」とすることで、少なくとも形式的には、「娘の身売り」と呼ばれる事象を「人身売買」としては位置付けずにいたのである。

 しかし、言うまでもない話であるはずだが、冷害による困窮がなければ、この家族が「娘の身売り」にまで追い込まれることはない。「前借金契約」は困窮の果てのことであり、娘の藝娼妓としての「稼業契約」も「前借金契約」に追い込まれての話である。父が貸座敷業者との「前借金契約」にまで追い込まれることがなければ、娘が貸座敷業者との間に「稼業契約」を結ぶことなどない。「酌婦として稼働する契約と、消費貸借名義による前借金の授受は、それぞれ獨立のものではない。それらは對價関係、密接不可分關係にある」との最高裁判断は、実態に基いた当然のものなのであることが、この家族のケースからも明らかであろう。

 「前借金契約」と「稼業契約」は一体のものなのだ。「前借金契約」のないところに「稼業契約」の必要はないのである。

 ちなみに、明治期にも下級審判決においては、前借金契約と娼妓契約に一体性を見出すものがあった。山中論文には以下の判例が紹介されている。

 

  しかし他方では、東京地裁や東京高裁の初期の判決には、娼妓を抵當にしたところの金銭の貸借契約そのものを、明治五年第二九五號布告や同年の司法省第二二號により、無効としている興味深い判例も見出すことができる。
  東京上等裁明治九年一〇月判決「賃金催促ノ件」には、「抑人身賣買ハ古来國家ノ禁制ナルニ、人身ヲ抵當トシ金圓ノ貸借ヲ約シ身代金ヲ以テ償ヲ受ル如キハ、則制禁ニ相觸レ、不可得爲契約ヲ為シタルモノニ付、裁判上採用不相成候事」とある。

 

この他にも東京裁明治一〇年二月二一日判決「賃金催促ノ訴」、東京上等裁明治一〇年五月二九日判決「賃金催促ノ一件」が「賃金契約それ自體を無効とする」判例として挙げられている。

 明治初期には司法判断にも揺れがあったことがわかるだろう。

 

 

 娼妓となる者の「自由意思」、特に「廃業の自由」について、どのような司法判断がされていたのかといえば、眞杉論文にあった娼妓取締規則の枠組み、

 

  更に娼妓取締規則に於いては「娼妓名簿削除申請ニ関シテハ何人ト雖妨害ヲ為スコトヲ得ス」との条文が定められており、廃業手続きについては「娼妓名簿削除ノ申請ハ書面又ハ口頭ヲ以テスヘシ」と口頭という簡素な手段を含める事によって廃業の自由を確保、「就業の自由意志」の強化が図られている。

 

この枠組みに、確かに実行性はあったのである。娼妓名簿削除申請に際して貸座敷側からの妨害があっても、訴訟を起こしさえすれば娼妓側の申請は司法の場で支持されたことが、当時の判例から明らかになっている(山中論文には多くの事例が示されてている)。その意味で、娼妓の「廃業の自由」が司法の場で保障されていたことも確かなのである。

 

 しかし、この点については、マーク・ラムザイヤー「芸娼妓契約 ―性産業における「信じられるコミットメント(credible commitments)」(1993)の指摘を見落とさないでおこう。「司法の場」へのハードルは、貸座敷業者にとってより、娼妓(あるいはその家族)にとっての方が高かったはずである。

 

  ほとんどの抱主は繰り返しプレイヤー(repeat player)であるから、司法機構を扱うのに必要な情報と法的能力に投資することができた。対照的に、娼婦とその親の大部分は教育も知識もなく、単発的プレイヤー(one-shot player)であって、抱主と比較して、法制度をどのように使えばよいかを学習することがコスト面で効率的なことはあまりなかった。

 

21世紀になっての「ブラック企業」あるいは「ブラック労働」の問題においても、訴訟を選択する労働者は少なく、多くは「泣き寝入り」であるのが現実なのである。

 

 貸座敷業者(抱主)と娼妓(娼婦)は対等なプレイヤーではない。娼妓が負っているのは自身のではなく家族の債務なのであり、それだけでハンディとなっていたはずである。

 この点について眞杉論文では、

 

  日本政府は、個人の自由意志を軸として就業・廃業時にそれが発揮される事、或いは自由意志の発揮が阻害される場合にあってはそれを処罰対象と認定する事により「他者の拘束を受けることが無い=人身売買ではない」と近代公娼制度の人身売買的側面を否定してきた。これに対し国連調査団は1932年実地調査報告書に「此の法令(娼妓取締規則第6条)の精神並びに目的は常に必ずしも遵守せられざるものの如く、警察当局が警察署に雇主を出頭せしめ、之と廃業希望者本人又は其の父母家族と協議せしめ、又は本人を壓迫する等の事実は、屡本人をして其の年期満了又は雇主に対する債務完済に至るまで貸座敷に止まらしむるの結果を来たす懼れあり」と日本政府の主張を疑問視する見解を寄せており、前借金と娼妓稼業に関連を見出している。この国連調査団の見解を鑑みるに、「前借金―娼妓稼業」を不可分と認識するのであれば必然的に廃業時の自由意思の発揮は困難なものであり、「非人身売買」主張についてかなり懐疑的である様子が窺われる。

 

このように「警察当局が警察署に雇主を出頭せしめ、之と廃業希望者本人又は其の父母家族と協議せしめ、又は本人を壓迫する等の事実」を国連報告が指摘していたことを明らかにしている。「廃業希望者本人」だけの「自由意志」の問題ではなく、「其の父母家族」の存在も廃業希望者本人には無視し得なかったであろうことにも想像力を持たねばならない。当時の当事者の心情の問題(「ゲーム理論」の中での当事者の理論的関係性の問題―それがラムザイヤー論文の問題意識の骨格となっている―としてではなく)としては、債務者(其の父母家族)は債権者(貸座敷業者)より弱い立場にあると考えられていたのであり、前借金を前提とした稼業契約は、娼妓たる娘に拘束的に機能したはずである。「廃業の自由」が一般的に行使されるものであったなら、「娘の身売り」が社会問題として新聞紙面を占め、読者の関心を集めるようにはならない。

 眞杉論文の指摘を思い出そう。

 

  前借金が娼妓稼業に対する拘束力を何ら持ち得ないものであるとすれば、それは公娼制度の土台に位置する貸座敷業者に打撃を与える事となり、制度自体の存続が危ぶまれる

 

まさに前借金が娼妓稼業に対する拘束力を持っていたからこそ、公娼制度は維持されていたのであり、その現実認識に基づくことで最高裁の判断も導かれたのである。

 

 

 

 問題が「娘の身売り」と表現されることによって、そこが「人身売買」の現場であるとの認識が一般に共有されていたことが、当時の新聞記事を通して、あらためて確認出来た。

 一方で、当時の日本政府も司法判断も、公娼制度が人身売買を排したものであると主張していた。そこでは、「前借金と娼妓稼業の分離」との論理が用いられていたが、現実の問題としては、前借金は娼妓稼業に対する拘束力を持つものとして機能していた。明治初期の司法判断にもその認識があったし、1930年代の国際連盟調査団からも問題として指摘されていた。戦後の最高裁判断は、そのような戦前期から指摘されていた問題を、あらためて司法の場で認めたものと言える。日本の司法は、戦後になってやっと「娘の身売り」を「人身売買」の問題として取り扱うに至ったのである。オールコックの「文明」への遅れての一歩というべきであろうか?

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
  投稿日時 : 2018/06/25 10:57 → https://www.freeml.com/bl/316274/319785/
  投稿日時 : 2018/06/25 11:00 → https://www.freeml.com/bl/316274/319786/

 

 

 

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2018年5月17日 (木)

十四娘を賣つた金 四十圓の家と化す (昭和期日本の貧困 その4)

 

 古書市で入手した昭和9年と10年の新聞切抜き帳(スクラップブック)に貼られた記事を用いて、近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実がどのようなものであったのかについて読み進めてきた。

 

 昭和9年、冷害に襲われた東北地方(冷害による飢餓の実態は「草木に露命をつなぐ (昭和期日本の貧困 その2)」参照)の人々は、「口べらし」のために娘を身売りするまでに追い込まれた(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」参照)。

 

 「娘の身売り」に頼る貧困層の姿(「廓模様新紅毛情史 (昭和期日本の貧困 その3)」参照)。それが、昭和戦前期の日本の現実、近代日本の現実の姿であった。

 

 今回も、当時の紙面から切り抜かれ、スクラップブックに残された新聞記事から、「娘の身売り」の実状に迫ってみたい。

 

 

 

 

スクラップブック(昭和9年~10年) 
     十四娘を賣つた金四十圓の家と化す (9.12.1 朝日)

 

 

 

 今回取り上げるのは、昭和9年12月1日付の朝日新聞記事である。

 

 

 

 

 十四娘を賣つた金
  四十圓の家と化す
    冬籠りの窮農を訪ふ
          東北凶作地にて
          荒垣特派員

 

 村の夜道は真つ暗だつた、村には外灯がなかつた、それは昭和六年の凶作から廃止になつたのだ、凶作は色んな意味で村から『明るさ』を奪つて行く、今度はまた娘を、凶作は村から奪い去らうとしてゐる、もう幾人も奪つて行つてしまつた、私はその標本を青森の新城村に求めた
     ▽   △
 『これがその、娘が化けた四十円の家ですよ』と教へられた窓から洩れる鈍い電灯の光で畑の菜つ葉が真白な霜に萎れてゐるのが見えた、この村としては割合に小綺麗な家だが、これが一人の津軽娘が娼妓に売られた身代金で買はれた家かと思ふと異様な汚感に襲われざるを得なかつた
  入つてみると、七十を越したお婆さんと、身売娘の両親と五つ位の女の児とが、煙に燻ぶる囲炉裏を囲んでゐた、女の子は風邪をひいてギャーギャー泣いてゐた
 姉娘が売られて居なくなつてからこの児も泣虫になつたさうだ、『どうして娘つ子売れしたば?』ときくと、婆さんは泥炭の煙に傷められたトラホームの眼をしばたいて『スミエあ売られて難儀してす、吾あ死んでもいいはで孫達あ楽にさせてやりてい』と赤く瀾れた眼から涙をボロボロこぼした、この佐藤一家は、家を借金のカタに取られて近所の家に同居してゐたが、スミエといふ十四の娘を名古屋市賑町の娼妓屋に売つた金で、此家を買つたのだ、身代金は五ヶ年の契約で四百五十円だつたが、そのうち百円は一本になつたら渡すとの事で、娘の着物代にといつて五十円、周旋料だといつてブローカーに廿二円五十銭、親爺と周旋屋とで娘を名古屋まで送つて行つた汽車賃、宿料、自動車代その他雑費だといつて百廿七円五十銭をとられ、結局手に渡つたのは僅百五十円だつた、そのうちから七十円の借金を支払ひ、四十円で家を買ふと残る四十円も何といふことなしに消えてしまつた
     ▽   △
 父親はいつた
  吾あ娘売る気あ夢にもなくてあつたども、周旋屋が家のわらし(娘)ど借金の□なみに眼つけで売れ売れつて四十日の間も付き纏ひした、其うちね飯米あなくなるし女房あ妊娠脚気ねなるし借金取りにや責め立てられるし、おまけね、借金の保証が女房の妹だはで、吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて、とうとう売る腹ねなりした
 と溜息をついた、母親はまた母親で
  家のわらし(娘)あ、吾あ妊娠脚気で留守の間ね死んだりへば困るはで行きたくねいといつてをれした、取り返せねいもんですべか?
 と今になつて返らぬ愚痴をいつてゐる
     ▽   △
 そして娘からはもうこんな手紙が来るやうになつた
  …私達はシヨウギさんがゐる家にゐるものですから、ほんとうに嫌ひです、主人は、お正月になるとお客さんをとらせるといつてをします、私はシヨウギなんかやるんぢやない、ほんとうにつまらない、しつかりしたことはお正月にでなければ分かりませんが、ほんとうにお客さんをとらせると直ぐ手紙を出します……
 まだ半信半疑でおびえてゐる十四歳の津軽娘の姿!手紙を出すことより外に策を知らぬ可憐さ!
     ▽   △
 いつのまにか出た冷たい冬の月を浴びて、私は次の『娘を売つた家』に行つた、そこには逆睫毛に悩む母親と、小倉の夏服に綿を入れた洋服を着た少年とがゐた、この綿入れの夏服はやはり姉さんが売られた余剰価値だつた、この村には洋服を着てゐる子供は一人もゐないので、松雄少年はこれが得意だつた、そして『姉さまのお蔭で……とお礼状を出した、すると身売娘からはこんな返事がきた
  松雄は私のお蔭で立派な服をきたと書いてをりますが、私のお蔭ではありません、父上様や母上様のお蔭です……
 いはば自分を売つた非道の親、それを微塵も怨まぬ心はいぢらしい限りだ
     ▽   △
 この娘の母は娘の身代金で逆睫毛の目を手術する事になつてゐた、ところが結局そんな金は余らずいまだに逆睫毛で悩んでゐるとの知らせに娘はビツクリしてゐる、そして自分が家にゐる時は、いつも母の逆睫毛を抜いてやつたのだが、今はどうしてをられるだらうかと『逆睫毛は今誰にとつてもらつてをりますか、知らせて下さい』と涙の筆を綴つてゐる
  私は夜外に出て家の方を見て、家の者が達者にゐますやうにとお月様に祈つてゐます

 

 

 

 記事は「娘の身売り」による解決を望ましいものとして取り扱っているわけではないが、それ以外に手段を持たぬ東北農民の現実を伝えるものとなっている。描かれているのは、冷害に付け込んで実直な東北農民を「娘の身売り」にまで追い込む周旋屋の姿であり、周旋屋を前にしてなす術のない農民の姿である。

 記事の見出しには、

  十四娘を賣つた金 四十圓の家と化す

とあるが、父親は家欲しさに娘を売ったわけではない。

  吾あ娘売る気あ夢にもなくてあつたども、周旋屋が家のわらし(娘)ど借金の□なみに眼つけで売れ売れつて四十日の間も付き纏ひした、其うちね飯米あなくなるし女房あ妊娠脚気ねなるし借金取りにや責め立てられるし、おまけね、借金の保証が女房の妹だはで、吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて、とうとう売る腹ねなりした

この言葉を疑う必要を(私は)感じない。

 貧困の果てに、

  吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて
  とうとう売る腹ねなりした

ここにまで追い込まれたのである。

 解決の手段が「娘の身売り」以外にない状況。

 記者は取材に先立って、

  これが一人の津軽娘が娼妓に売られた身代金で買はれた家かと思ふと異様な汚感に襲われざるを得なかつた

このように心情を吐露し、母親の言葉に対しては、

  今になつて返らぬ愚痴をいつてゐる

と非難めいた感想を漏らすものの、

 貧困→娘の身売り

これ以外に手段を持たぬ現実に、傍観者であるしかなかった。

 

 記事にあるのは決して例外的状況などではなく、冷害による凶作下での一般的状況なのである。以下に示すのは、昭和6年の事例である。

 

  昭和六年、農業恐慌にあえぐ東北、北海道の農村を冷害による凶作が襲った。同年一〇月三一日付の『東京朝日新聞』は「未曾有の凶作で、北海道、青森に飢饉来 雪近く不安つのる」と、その惨状を報じた。
  この年の東北地方は、四月から七月にかけて異常低温に見舞われ、特に七月の平均気温は盛岡で一八・四度という低さだった。加えて六月の多雨日照不足で、稲の苗代での発育不良、移植期の遅れ、田植え後の活着障害、生育の障害という状態におちいった。
  被害のもっともひどい青森県では、米価下落で「豊作貧乏」といわれた五年の一三〇万石に対し、六年の収穫は半分以下の六〇万八〇〇〇石、北海道も稲作は平年の三六㌫強、畑作六一㌫という大減収だった。作家の下村千秋は、岩手県北部から青森県へと「飢餓地帯」を歩き、「餓死線上」の農民は「岩手県下に三万人、青森県下に十五万人、秋田県下に一万五千人、そうして北海道全道には二十五万人」(『中央公論』昭和七年二月号)と書き、青森県の寒村では「どうせ飢え死ぬなら、せめて一度でも、米のめしがげんなりするほど喰つて見てえ」(『前出』)と老人が語るのを聞いた。
  農民は米不足のため、粟、ひえなどの雑穀、だいこん雑炊、それに木の芽や草の葉を混ぜた薄いかゆなどを食べた。学校へ弁当を持って行けないいわゆる欠食児童は、北海道一万八九八人、青森県六一〇七人、秋田県九九六人、岩手県三五三九人、全国では二〇万人を超すと推定された(昭和七年七月文部省調べ)。
  北海道庁の調査では、七年上半期に六〇六件の人身売買があり、平均一〇六円で多くは都市に売られた。また、内務省社会局の調べでは、青森、山形、秋田、福島、新潟の各県でも、六年一月から七年六月までの間に計一万六〇四人の若い女性が、家族を支えるために「身売り」をした。
  廃娼連盟は六年一一月、他県への「娼妓移出地」といわれる山形県最上郡西小国村の実状を調査し、報告書『農村疲弊と子女売買問題』(松宮一也、橋本成行共著)をまとめた。それによると同村の出稼ぎ娼妓は五七人で、その数は村の一五歳~二五歳の女子四一七人の約一四㌫にあたった。現金収入がなく、負債を返却するには、定期的に村を回る紹介業者に娘を売るしか方途がなかった。
  この惨状が報道されると、東京では学生や無産党系、キリスト教系の諸団体が救援活動を始め、報道も詳細になった。東北・北海道の冷害は、農村不況を克服しようという世論形成の契機になったのである。
     (『昭和 二万日の全記録 第2巻』 講談社 1989  307ページ)

 

 

 ここに紹介された「廃娼連盟」による報告書にある山形県最上郡西小国村は、まさに「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」の記事の舞台となった地域でもある。廃娼連盟による昭和6年の調査で明らかになったのは、

  同村の出稼ぎ娼妓は五七人で、その数は村の一五歳~二五歳の女子四一七人の約一四㌫にあたった。現金収入がなく、負債を返却するには、定期的に村を回る紹介業者に娘を売るしか方途がなかった。

という悲惨な現実であった。

 

 朝日新聞記事には「まだ半信半疑でおびえてゐる十四歳の津軽娘の姿」とあったが、当時の公娼制度下でも年齢制限はあり、本来なら「十四歳の津軽娘」が人身売買の対象となることはないはずなのだが、しかし、そこには抜け道があった。元森論文には以下のようにある。

 
  公娼のみを調べた場合,18歳未満は登録できないというタテマエが守られているためそれ以下の者はいないが,私娼には18歳未満もしばしば含まれていることが報告されている。たとえば,上村行彰『売られゆく女』(大正7年,集成2:209)では,娼妓が「異性に触れた当時の職業」として,「家事手伝い」,「女工」に次いで「芸妓酌婦稼業中」が2割1分と多いと述べ,16歳以下の3分の1は芸妓酌婦稼業中に性行為を行っていたことを明らかにしている。「東北凶作を契機とせる女子の貞操問題」として東北の芸娼妓を調べた調査では,12歳7人,9歳1人を含む14歳未満の女子が60人いたことが報告され,「多分口減らしと,之に依つて幾等かの生計費を得て家族の食餌に資せんとしたものであらう」と述べられている(三浦精翁『売られ行く娘の問題』昭和10年,集成5:308-309)。
  帝国議会でも,芸妓の「約半分位は十三で客に接することを強いられて居ると云う記事が(引用者注:前日の新聞に)出ております」(土屋清三郎,第56回帝国議会衆議院未成年者飲酒禁止法中改正法律案外一件委員会第6回速記録,昭和4年,p.24)と問題視されたり,「私娼窟」における低年齢層の売春問題が報告されている。
     (元森,絵里子「自由意志なき性的な身体―戦前期日本の公娼制問題における「子ども」論の欠如―」 『明治学院大学社会学・社会福祉学研究(139)』 2013)

 

 当時から「低年齢層の売春問題」は深刻なものとして注目を集めてはいたのである。「まだ半信半疑でおびえてゐる十四歳の津軽娘の姿」は、決して特異な事例ではなかった。

 元森論文には以下の事例(どちらも昭和4年の事例である)も紹介されている。

 

  現在公娼に於きましては,十八歳以上の女でなければ営業に従事することが出来ないのでありまするが,寺島,亀戸のやうな,いわゆる淫売窟に居りまする所の女と云ふものは,十五歳,十六歳,甚しきは十三歳,十四歳と云ふ風な,殆ど吾々言ふに忍びないやうな少女が,何れも売淫行為を行って居るのであります,是等の年少な少女と云ふよりも,寧ろ幼女に近い婦人と云ふものは,何れも自分の意思に反して ,或いは親の犠牲となり ,若しくは暴行脅迫 ,中には傷害迄受けて ,斯る魔窟に拉し去られて醜業に従事して居るのであります(川島正次郎,第56回帝国議会衆議院請願委員会議録(速記)第9回,昭和4年,pp.2-3) 

 

  最近二万八千二百三十四人の娼妓に就いて取調べた処によれば,内尋常小学の中途退学者が二万〇〇五十八人(即ち七割一分強),まったく尋常小学にさへ登らなかつた者が四千四百六十五人(即ち一割五分強)で,つまり全数の計八割六分以上は,尋常小学に入らないか入つても卒業しないで退学した者共であります。彼等は全く無教育無知である。之に義務教育完了の機会さへ与へず ,之を娼妓などにならせて置くと云ふは ,誰の責任であるか。此の点に於て,日本の国家はその臣民に対する当然の務めを行うて居ないものと言はれても,致方はありますまい。(山室軍平『公娼制度の批判』昭和4年,集成3:125)

 

 川島正次郎の言葉には、「十五歳、十六歳、甚しきは十三歳、十四歳と云ふ風な、殆ど吾々言ふに忍びないやうな少女」が、「何れも自分の意思に反して 、或いは親の犠牲となり 、若しくは暴行脅迫 、中には傷害迄受けて 、斯る魔窟に拉し去られて醜業に従事して居」たことが示されている。

 

 

 悪質な周旋屋の実態については、安中論文に当時の新聞記事を用いた事例紹介がある(安中 進「娘の身売り」の要因と鉄道敷設 現代政治経済研究所(Waseda INstitute of Political EConomy) 早稲田大学 WINPEC Working Paper Series No. J1702 October 2017)。こちらは昭和6年と8年の事例だ。

 

  打続く農村不況に加へて大凶作に見舞はれた青森縣下の農民は ,既に売る物は皆尽して食料に代へ現金は全く農村から姿を消すに至つたが ,暮れを控へて農民の逼迫につけ込む悪徳周旋業者が最近横行し ,純ぼくな農村の娘さん達を「給金高い東京お屋敷へ世話をする」などと言葉巧みに欺き ,東京方面の魔くつに賣飛ばしてゐる,もつとも被害の甚しいのは上北 ,下北 ,三戸地方の収穫皆無地で ,青森発上野行列車などには手付金二 ,三圓といふ安い直段で取引された純な農村の乙女一團が周旋人に連れられて二組か三組は必ず乗込んでゐる有様で,警察方面でも人買ひの取締りに躍起となってゐる。
     「凶作につけ込む娘買ひの悪周旋屋  青森地方では二三圓の手付けで」『東京朝日新聞』 1931 年 12 月 26 日

 

  「寺島署では向島区寺島町七ノ六〇前科二犯無職諸岡ひで(三二)同町七ノ七前科一犯松井幸太郎(三六)同町六の一三四無職小林武(三三)足立区竹塚五十嵐丑蔵八もぐり 六)(足立区竹塚五十嵐丑蔵八もぐり 六)同町の一三四無職小林武(三三)足立区竹塚町四一四五十嵐丑蔵(三八)のもぐり周旋屋一味を留置取調べてゐるが同人らは諸岡ひで総指揮官とし玉の井根城玉の井根城秋田 ,山形 ,北海道等凶作地の婦女を甘言もつて連れだし八十圓から三百五位で玉北海道等凶作地の婦女を甘言もつて連れだし八十圓から三百五位で玉井,亀戸等の魔窟に賣り飛ばし手数料を身代金半分以 上取つてゐたもので被害者は秋田縣生れ影澤あき( 二一)外十八名の多数に上り係官もそ悪辣な手段驚いてゐる」
     「モグリ周旋団 凶作地の子女へ魔手 」,『読売新聞』 , 1933 年 1月 31 日)

 

 

 先に紹介した朝日新聞記事には、記者に「いはば自分を売つた非道の親、それを微塵も怨まぬ心はいぢらしい限りだ」との感懐を抱かしめた「身売り娘」のエピソードが載せられているが、このような事例が決して珍しいものではなかったらしいことも、安中論文の紹介する新聞記事から読み取れる。

 

  十六日朝 ,岩手県警察部からの至急配で危うく身賣 りの一歩手前で救はれた東北娘がある。岩手県稗貫郡石鳥谷町大字北寺林の貧農似内櫻香長女くりさん(二七)永年の間,婚期も忘れて女中奉公に出た仕送りで老父と三人弟妹の一家を養つて来たが ,父子五人が木の實も食へぬ赤貧から青春を汗のために失つた女には身賣り四年間がタツタ三百圓にしか値なかつた ,しかし大金を握らされた一家にとつては桂庵の姿が神にさへ見えたといふ ,この くりさんがいよ洲崎遊郭の春賣樓に売られて娼妓登録の許可申請から縣警察部への照會となり「身賣娘を護れ」スローガン下に奔命してゐる同縣からのS・O・Sで危なく救ひ出された。さてここに喜ばないのは當のくりさん「私を救つて下すつた事は有りがたい事です,けれどもどうして私がこのまま國許へ帰れませうまとまつた金が無ければ父子五人が野垂死をしなければなりません,私一人が死んだ気になれば父や弟妹達が救はれますどうぞ私を娼妓にして下さい」といふ ,警視廳でも「身賣り救済運動」の将来に投げかけられた切實な問題として,早速くりさんを愛國婦人會の手を借りてどこか前借出来る女中奉公口を探してやることになつた
    「『私が犠牲になれば』 救われて浮かぬ娘 凶作地の『血の記録』」 ,『東京朝日新聞』 ,1934 年 11 月 17 日

 

 「私を救つて下すつた事は有りがたい事です、けれどもどうして私がこのまま國許へ帰れませうまとまつた金が無ければ父子五人が野垂死をしなければなりません、私一人が死んだ気になれば父や弟妹達が救はれますどうぞ私を娼妓にして下さい」という「身賣娘」の言葉。この、くりさんの「自分の意思」を「美談」として位置付けることを是認することは正しいのか? 確かに近代日本には、そのような「自分の意思」を示した「身賣娘」の姿に「美談」を感じ取る土壌があった。だからこそ、記者は「いはば自分を売つた非道の親、それを微塵も怨まぬ心はいぢらしい限りだ」との心情を吐露したのであるし、くりさんは「どうぞ私を娼妓にして下さい」との言葉を発したのである。

 その近代日本の現実の中で「身賣り救済運動」に奔走した人々も確かに存在した。しかし、その救済策は「どこか前借出来る女中奉公口を探してやること」でしかなかった。

 

 これが、昭和戦前期の貧困層が置かれた現実であった。そして、昭和12年には大日本帝國は「支那事変」という名称の下での中国との実質的戦争状態に陥る。昭和も戦時期(戦中)となるのである。

 戦時期昭和には、貧困層の娘たちは、いわゆる従軍慰安婦の供給源となる。かつての公娼制度の枠組みの上に、慰安婦の供給システムが構築される。貧困と「娘の身売り」の構図が、軍の存在によって維持される時代となっていくのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 :  2018/05/16 21:07 → https://www.freeml.com/bl/316274/319007/

 

 

 

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2018年4月 1日 (日)

2018年4月1日:再び「フェイクニュース」の果てに

 

 

 

Grab 'em by the Venus, @GingerPower
 https://www.forbes.com/sites/davidalm/2017/01/27/masterpieces-re-imagined-to-humiliate-trump/#40ea6119362d

 

 

 

 ドナルド・トランプ大統領の治世二年目の4月1日である。本来なら「エープリルフール」ということで、ネタを考えなくちゃいけないんだが、私にはトランプを超える想像力がない。

 

 昨年(「2017年4月1日:「フェイクニュース」の果てに」)に引き続いて、今年もホントの話である。

 

 

 

 

  【AFP=時事】全米でセクシュアルハラスメント(性的嫌がらせ)問題の議論が行われる中、自身も性的不品行を繰り返し非難されてきたドナルド・トランプ(Donald Trump)大統領は30日、2018年4月を「全米性犯罪啓発予防月間(National Sexual Assault Awareness and Prevention Month)」にすると布告した。
  
  ホワイトハウス(White House)が発表したトランプ大統領の布告は「悲しいことにわが国の社会において性犯罪はいまだに横行しており、加害者が責任を免れることがあまりにも多すぎる」「こうした許しがたい犯罪は親密な関係のなかで、公共の場で、そして職場で見境なく行われている」としている。
  「しかし被害者が沈黙を守っているケースが多すぎる。加害者からの報復を恐れていたり、司法制度を信じられなかったり、トラウマになるような経験による痛みと向き合うことが難しかったりするのだろう」
  「わが政権は性犯罪を啓発し、被害者が加害者を特定し、責任を取らせることができるよう取り組んでいく」
  少なくとも20人の女性が、大統領になる前のトランプ氏から性的暴行またはセクハラを受けたとしてトランプ氏を非難している。ホワイトハウスはこうした女性たちはうそをついているとの立場を維持している。【翻訳編集】 AFPBB News
     (AFP=時事 2018/03/31 10:43)

 

 大統領が「全米性犯罪啓発予防月間(National Sexual Assault Awareness and Prevention Month)」と布告したのは3月30日だが、「全米性犯罪啓発予防月間」は本日、まさに「エープリルフール」であるはずの日がスタートである。

 「わが政権は性犯罪を啓発し、被害者が加害者を特定し、責任を取らせることができるよう取り組んでいく」って、これがセクハラ大統領トランプのセリフなのだ。大爆笑的ネタとしか思えない。

 

 昨年の関連報道を思い出してみよう。

 

  トランプ氏は女性蔑視発言でたびたび物議を醸し、過去に「女はやらせる。何だってできる。プッシー(女性器を指す俗語)をまさぐってな」と語っていたことも明らかになっている。
     (AFP=時事 2017/01/18 09:36)

 

 このエピソード、ちゃんと録音が残されているのだ。しかし、もちろん、ホワイトハウス的には、それでも「フェイクニュース」に過ぎないということになるのだろう。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 :  2018/04/01 17:43 → https://www.freeml.com/bl/316274/318049/

 

 

 

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2018年3月29日 (木)

廓模様新紅毛情史 (昭和期日本の貧困 その3)

 

 たまたま古書市で手に入れた、昭和9年~10年の新聞の切り抜き帳(スクラップブック)に貼られた記事を読むことで、「近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実」に触れてきた(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」及び「草木に露命をつなぐ (昭和期日本の貧困 その2)」)。

 

 冷害による大凶作の中で、

 

    稗飯を食へるものがめぐまれた最上流の農家で、学童の大半はあざみの葉、山ごぼうの葉椎の実、やどり木の葉を貪り食つてははかない露命をつないでゐる、大根の葉、そばの粉などが食へたら中流以上の家庭で、甚だしい地方――主として岩手県の郡部から津軽方面――では藁を粉にして水とともにすすりこんだり団栗をかじつたり『生きんがため』『食はんがため』の悲惨な社会実話がくり返されてゐる
     (東京日日新聞 昭和9(1934)年10月17日)

 

このような食糧事情に追い込まれ、

 

  娘一人の身代金は年期四年で五百円乃至八百円、然し周旋屋の手数料や着物代や何かを差引かれて実際親の手に渡るのは、せいぜい百五十円位だ、可愛い娘を手放しても、百五十円の金を握りたい、一つの悪風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう
  かうして床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく、淪落の巷を流浪する最上娘の「新庄節」こそ彼女等の望郷の憶ひをこめた哀歌であると共にドン底の農村の悲しむべき生活苦を、まざまざと物語るものでなくて何だらう、然も娘を売つた親達は「凶作で米がないから、年期が明けても村の懐には帰るな」といふのだ農村の窮乏もここに至つて正視するに忍びない
     (朝日新聞 昭和9(1934)年10月22日)

 

「口べらし」のために娘を身売りするまでに追い込まれる。しかも「凶作で米がないから、年期が明けても村の懐には帰るな」との言葉が出るところまで追い詰められていたのである。

 

 

 

 今回も、スクラップブックに切り貼りされた新聞記事から、再び「娘の身売り」の現実、人身売買に頼るしかなかった「近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実」に迫ってみたい。

 

 

 

 取り上げるのは昭和9(1934)年12月10日の朝日新聞記事である。タイトルは「廓模様新紅毛情史」、枠付きの大見出しとなっている。

 歌舞伎の名題を思わせる大見出しだが、実際、「芝居じみた」という語がふさわしいような気さえしてしまうエピソード(実際、記者自身が「まるで劇の筋書でも読む様な」と書いている)である。

 

 

 

スクラップブック(昭和9年~10年) 
     廓模様新紅毛情史 (9.12.10 朝日)

 

 

 

 (原則として、見出しの表記は原文のまま―変換可能な限り―とし、本文は「かなづかい」は原文通りだが、旧字体は新字体にあらため、本文中の大きな活字は太字で表記)

 

 

 廓模様新紅毛情史

 吉原遊郭へ飄然遊んだ一外人が、その遊女の優しいもてなしと、余りにも可哀相な身の上話しに同情、約二千円を投げ出して身請から落籍祝ひまでし更に同女に小遣ひ五百円を渡して母の許に帰し母娘の喜ぶ様を見てほつと安心、浅かつた三日間のなじみの絆を絶つてその夜十時横浜出帆のプレジデント・フーヴア号に乗船、アメリカへの孤独の旅に上って行った、吉原遊女と旅の一外人――まるで劇の筋書でも読む様な新しい紅毛情史である【写真は十六夜こと細屋みよ子】

 身請に大枚の金
  絆を切り船出
    夢かと許り喜ぶ彼女と親
      提供の主 和蘭の旅人

 浅草区新吉原京町一ノ一七長金楼事中村彌一方へ去る四日夕刻日本人ガイドに案内された一外人が登楼した、『オランダ人、ヤン・シー・フオツク(二八)』と署名し娼妓十六夜(二〇)を相手に約一時間遊興して帰ったが更に六日夜八時再び登楼同夜は宿泊した七日午前一時半頃の事である、突然ガイドを通じて主人に会いたいといふので主人が会ふと『借金はいくら位ある?』といふ『千五百円位だらう』と大ざつぱの返事をすると、『それでは身請して自由にしてやりたい、金は一度帰つて持つて来る』と非常な乗気である、同楼ではよくあるお客さんの気まぐれと別に気にもしなゐでゐると、その朝五時半語呂帰つたその外人がその日(七日)午後三時頃三度び現れ札束を積んで『すぐ身請する』といふ、眼の前の札束を見せられて始めて楼主はびつくり、先づこの喜びを親許に知らせねばなるまいと「十六夜」の母、深川区三好町二ノ一四、細屋ふみ(五三)を円タクで迎へにやると、ふみはびつくりして現れ、娘の手を取つて喜びの泣き笑ひである、母娘の喜びを眺めていたこの外人、それから間もなく廓の芸者数名に、同家の娼妓十三名その他雇人全部を大広間に集め一人五円の総花をまいた上「十六夜」から改めて本名に返つた細屋みよのため杯を挙げてその前途を祝福した上、持って来た珊瑚の指輪を彼女の指にはめ更に自分の首に巻てゐた真紅な襟巻を彼女の肩にかけてやりながら
  自分は今夜十時出帆の船でアメリカへの旅に上って行く、もう再び会ふ機会もあるまいが、あなたは結婚して幸福な生活に入つて下さい、若し家庭に子供でも生まれたら、せめてその子供の写真を送つてもらひたい
 といふ、更に並ゐる朋輩衆に向かひ
  もし私にお金がどつさりあつたらあなた方全部も身請けしてやりたいが、もう私には金がない今夜立つ船では一等に乗る積りだつたが、もう金がないので二等の旅しか出来ないのです、それでは皆さん御機嫌よう、サヨナラ
 この意味が日本人ガイドを通じて語られると大広間の酒席もしんみりとなつて泣き出す始末、その日の夕刻、この喜びの細屋母娘はこの外人に軒先まで送られて自宅に引き取つて行つたが、その後姿を見送つた彼はガイドを連れそのまま夜の街に姿を消した、同夜十時横浜出帆のプレジデント・フーヴア号二等船客の中には『アムステルダム、二八歳、旅行家Y・C・FOCK』と署名した一外人の淋しい姿があつたといはれる

 苦界の姉も
  救ひに
   貰つた小遣で

 たつた三日の間に夢のやうな境遇の激変にあつた細屋みよは千葉県長生郡八積村生れ、職人をしてゐた父大西徳次郎に連れられその後深川区月島に住んでゐたが、震災で父が行方不明になつてから、母ふみが八人の子供を抱へて女土方となつて育ててゐたが、遂にどん底に落ちて
  姉一人は栃木県に売られ彼女も昨年八王子で芸者となり、ついて今春五月、千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつたもの、その際母の手には僅か百円が渡つただけらしく、おとなしい女として長金楼でも大事がられてゐた
 九日夜みよはフオツク氏から贈られた小遣五百円余の中から、栃木県の苦界に身を沈めてゐる実姉を救ひたいと、実兄と共に、同夜上野駅発の列車で栃木県下に向ひ、深川三好町の長屋には母のふみさんがどん底から蘇る一家の喜びに目を泣きはらしてゐる

 『籠釣瓶』が動機
  純情に感銘
    本國に打電して金策

 【神戸電話】 この外人の身許はガイドをつとめた神戸市加納町一丁目互明荘アパート止宿通訳バチェラー・オブ・アーツ中村三郎君によつてオランダの青年実業家Y・C・フオツク氏(二八)と判つた同君の話によるとフオツク氏は日本観光中東京の歌舞伎座で左団次、松蔦一座の籠釣瓶を見物、日本の花魁に興味を感じ一夜吉原の長金楼に遊び敵娼をつとめた十六夜の真情にほだされ翌日日光観光に赴いたが、ホテルでも溜息ばかりついて深く物を思ひつめて居た
  あの花魁は別れるときに私が五円をチップに与へたが遠い外国から来た人に要らぬお金を使はすのは勿体ないとどうしても取らなかつた、何といふ純な気持であらう、僅か数時間の対面ではあつたがあの子の起居振舞総て優美でしとやかでどうしても商売女とは思へないあんな正直な女を籠の鳥にしておくのは自分の良心に恥ぢる
 といひこの女に邂逅しただけで世界観光の徒事でなかつたことを喜んでゐた、中村君の骨折りで直に本国に打電金策した結果、フーヴア号が横浜出帆「七日午後十時」の直前に二千円の為替が届き劇的な情景の裡にぽんと彼女のために投出し、彼女のしごき一本を後生大事に貰つて行つた
  フオツク氏は若年ながらオランダで新聞を経営し既に妻子がありもし独身ならば勿論彼の女を連れて帰国するといつてゐたといふ

 

 

 新聞経営の28歳のオランダ人青年実業家が、吉原で出会った遊女(身売り=人身売買の犠牲者―そして貧困の犠牲者である)の「真情にほだされ」て、その場で「身請け」を決意し実行してしまう。まるで芝居の筋書であるが、昭和9年12月の新吉原遊郭での実話・美談として報道されているのである。

 

 まず、広辞苑にある「身請け」の項を確認しておこう。

 

 み-うけ【身請け】 年季を定めて身を売った芸妓・娼妓などの身代金(みのしろきん)を払って、その商売から身をひかせること。うけだすこと。落籍。

 

 初めて日本の遊郭を訪れたオランダ人青年実業家が、初対面の遊女の「真情にほだされ」て、その「身請け」を実行してしまった顛末である。

 オランダ人フォック氏に身請けされた「十六夜」(細谷みよ)は、東北の農家出身者ではない。

 

  細屋みよは千葉県長生郡八積村生れ、職人をしてゐた父大西徳次郎に連れられその後深川区月島に住んでゐたが、震災で父が行方不明になつてから、母ふみが八人の子供を抱へて女土方となつて育ててゐたが、遂にどん底に落ちて
  姉一人は栃木県に売られ彼女も昨年八王子で芸者となり、ついて今春五月、千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつたもの

 

 千葉に生まれ東京で育ったが、「震災で父が行方不明」になったことから家族は零落し、「遂にどん底に落ちて」、「千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつた」のであった。貧困層の最底辺ともなれば「口べらしと借金の返済」は切実な問題であり、実際、「娘の身売り」は東北六県だけの問題ではなかったことが、十六夜(細屋みよ)一家のエピソードを通して理解し得るであろう。

 しかし、「千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつたもの、その際母の手には僅か百円が渡つただけ」というのが実態であったし、「四年の年期」にしても、

 

  客から十円の収入があれば、実に七割五分を楼主に取られてしまい、二割五分だけが玉割と称して娼妓の取り分となる。しかも、その中の一割五分が借金返済のための天引きされてしまうので、娼妓は残りの僅か一割だけで生活しなければならないという仕組みなのである。彼女の稼ぎ高は月に三百円程度の箏が多かったので、手元に残るのは三十円程度にすぎなかった。これに対して呉服代から化粧代、洗濯代、電話代、客用の茶菓代、さては湯銭や病気のさいの治療費にいたるまで、諸掛一切が娼妓の負担となっており、これが月に四十円をくだらないので、いきおい楼主から追借をせざるを得ない。
  正月の三が日、七草、および十五、六日は「しまい日」と称し、客に「しまい玉」(または玉ぬき)という特別料金を請求するように仕向ける。揚代金は一時間二円、全夜(オールナイト)十二円を取ったが、「しまい日」には客に全夜の玉を倍の二十四円請求し、そのうえ遣手婆にも普段より多くの祝儀(五円)を出させる。無論、かなりの馴染み客でない限り応じるわけもないが、しまい玉が取れない娼妓に対しては一日二円の罰金が科せられるので、売れっ子以外は戦々兢々とならざるをえない。そのような客のないものは花魁の恥とされるからでもある。

  しまい日は正月ばかりでなく、三月三日、五月五日にも適用される。そのほかに「移り替」といって六月と十月の衣替えにも同様の“行事”がある。とにかく、あらゆる機会をとらえて搾り取る仕組み
     (紀田順一郎 『東京の下層社会』 ちくま学芸文庫 2000)

 

の中での話なのである。

 

 フォック氏との出会いが、十六夜(細屋みよ)にとってどれだけ僥倖であったことか。

 

 

 「戯作者と傾城は虚が真で真が虚なり」との言い回しがあるが、記事の伝える経緯(背景)による限り、フォック氏が「ほだされ」た十六夜の「真情」に偽りを感じる必要はないだろうし、当のフォック氏だって、「飾り窓の女」として有名な売春街を擁するオランダが故国なのである。未経験な若者が遊女の口先に騙された、という話ではないであろう。

 

 

 昭和9(1934)年のエピソードということは、3年後には支那事変、5年後にはヒトラーによるヨーロッパでの戦争(オランダが占領されるのは1940年)である。細屋みよの家族、フォック氏はいかなる運命に翻弄されることになったであろうか?

 美談の先にあるのは、そんな惨禍に満ちた歴史でもある。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/03/29 20:52 → https://www.freeml.com/bl/316274/317986/

 

 

 

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2018年3月27日 (火)

草木に露命をつなぐ (昭和期日本の貧困 その2)

 

 前回は、近代日本の(それも昭和期の)「人身売買」の実状について、昭和9年と10年の新聞スクラップブックに切り抜きとして残された朝日新聞記事を読んだ(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」)。昭和9年の冷害による大凶作の中での、「口べらしと借金の返済」の手段としての「娘の身売り」である。

 

 

 紹介した新聞記事には、

 

  一つの悪風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう

 

とあった。望ましいものではないとのニュアンスに伴われながらも、社会に容認されたものとして「人身売買」という解決法が取り扱われているのである。その規模は以下の通り。

 

  東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、九年一〇月までの一年間で五万人余にのぼった。新聞は連日のように救済を訴え、矯風会や救世軍が身売り防止運動を始めたが、口べらしと借金の返済に迫られた農村の厳しい現実の前では、ほとんど効果はなかった。
     (『昭和 二万日の全記録 第3巻』 講談社 1989  306ページ)

 

「一年間で五万人余」という数字には「東北六県で」との限定が付けられていることも見逃すべきではないであろう(他の地域の貧困層にとっても「口べらしと借金の返済」は切実であり、「娘の身売り」は東北六県だけの問題ではなかった―近代日本の病理というべきか)。しかし、もちろん、冷害がなければ、「東北六県」での「娘の身売り」が「一年間で五万人余」とまではならなかったのでもあるが。

 

 「口べらし」が特に切実な問題となったのは、まさにそこに冷害による大凶作があったからであり、「飢饉」と呼ぶべき状況がもたらされていたからである。

 

  小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民は、八年のように空前の豊作を記録した年ですら、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられていた。九年の凶作は、それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった。岩手県では全農家の七七㌫が緊急の救済を必要とした。
  飢饉の影響は、まず子どもたちの上に現れた。欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。
     (『昭和 二万日の全記録 第3巻』 講談社 1989  306ページ)

 

 

 今回も、前回に用いた昭和9年と10年の新聞記事のスクラップブックから、当時の報道の実際を読んでみたい。「それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった。岩手県では全農家の七七㌫が緊急の救済を必要とした」実状である(取り上げる記事は、その岩手県の惨状を伝えるものだ)。

 用いるのは、昭和9(1934)年10月17日の東京日日新聞記事である(時系列的には、前回記事で用いた朝日新聞記事より前のものということになるが、スクラップブック上では後のページに貼られている―スクラップブックの掲載順ということでご理解願いたい)。

 

 

 

スクラップブック(昭和9年~10年) 
     榮養價ゼロでも食べねばならぬ (9.10.17 東京日日新聞)

 

 

 (見出しの表記は原文のままとし、本文は「かなづかい」は原文通りだが、旧字体は新字体にあらため、本文中の大きな活字は太字で表記)

 

 

 喘ぐ東北
  榮養價ゼロでも
   食べねばならぬ
     草木に露命をつなぐ
          この世の地獄-冷寒地

 東北地方、わけても岩手県下を汽車で通過すると冷害に荒んだ山野にションボリと「をぢさん、残りの弁当を放つて頂戴!」と叫ぶ学童たちの悲痛な声を耳にするだらうここ数十年来みたことのない大飢饉に虐げられた食へない人達のノドをついて出る真の叫びだ、何百万人かにのぼるであらうこれら哀れな罹災者をどうして救ふか、廿万人と算される欠食児童の救済さへ手につかぬ惨状は中央都会人の想像だに及ばないほど深刻化されてゐる、本社が西野入、手島両慰問使を取敢へず派遣したのも苦難のどん底にあへぐ人々への心からなる隣人愛である

 稗飯は最上等
     悲惨な學童のお弁當

 本社盛岡支局では冷害が最も深刻な岩手県下二戸郡奥中山村小学校の児童達がもつて来る弁当を四階級に分けて本社に送り届けてきた
  茶わん一ぱい分ばかりの稗飯と馬蔓芋四個ほど
  精白しない稗の飯とキヤベツ二切れほど
  稗の餅、ガンモドキほどのもの一個
  稗さへ食へず、楢の実十五個ばかりを紙片にくるんだもの
 どれにも砂糖気もなければ醤油の色もついていない、馬蔓餅もキヤベツも少しばかりの塩分をふくんでゐるばかり
 都会人には想像も及ばぬお粗末な弁当だが、冷害地にとつては稗飯を食へるものがめぐまれた最上流の農家で、学童の大半はあざみの葉、山ごぼうの葉椎の実、やどり木の葉を貪り食つてははかない露命をつないでゐる、大根の葉、そばの粉などが食へたら中流以上の家庭で、甚だしい地方――主として岩手県の郡部から津軽方面――では藁を粉にして水とともにすすりこんだり団栗をかじつたり『生きんがため』『食はんがため』の悲惨な社会実話がくり返されてゐるが、送り届けられた前記四種の弁当について内務省栄養研究所原博士の検定を求めると
  最上流といはれる甲の弁当にしても含水炭素のみで蛋白質に乏しくヴイタミンAを欠いてゐるためにこれを常食としたら極端な栄養不良に陥り、老人、子供の場合には視力減退、鳥目となり妊産婦は分娩困難、乳児の保育はできないだらう、丙、丁に至つては議論のほかだとのこと―
 何十万かの農民はその丙、丁にさへありつけないのだ

 人間らしく
  身體が保てぬ
     せめて鰯か豆を…

 内務省栄養研究所の佐伯所長、栄養学の権威原博士はこもごも語る――
 昨年の飢饉当時には出張して現地で詳細調査したが、岩手県と青森県下は特に驚くべき惨状で、ま冬には土を掘つて地中の植物の根をかじつて露命をつないだものさへあつた、今年はそれ以上だといふから惨状推して知るべしで、この弁当をもつて学校へゆけるものはごく少数の農家に限られてゐるのだ、栄養上どうか、カロリーはどれくらゐか、などの質問をうけても数字の上や統計の上で返事はできない、せめて鰯や豆類でも摂ることが出来たら、人間らしい身体を保てやうが、こんなものでは科学的に説明し得ない、一度伝染病でも流行したらそれこそ一大事で、飢饉にたたきのめされた罹災民にはただ涙あるのみだ

 

 

 掲載された学童の弁当の写真のキャプションも収録しておく(写真もよく見て欲しい―「インスタ映え」からは遠い世界である)。

 

 これでもお弁當
   黒いのは團栗、 上方の白い部分は馬鈴薯、ほかは稗

 

 「都会人には想像も及ばぬお粗末な弁当だが、冷害地にとつては稗飯を食へるものがめぐまれた最上流の農家で、学童の大半はあざみの葉、山ごぼうの葉椎の実、やどり木の葉を貪り食つてははかない露命をつないでゐる、大根の葉、そばの粉などが食へたら中流以上の家庭で、甚だしい地方――主として岩手県の郡部から津軽方面――では藁を粉にして水とともにすすりこんだり団栗をかじつたり『生きんがため』『食はんがため』の悲惨な社会実話がくり返されてゐる」のであり、しかし「この弁当をもつて学校へゆけるものはごく少数の農家に限られてゐる」のであった。栄養学的観点からは「最上流といはれる甲の弁当にしても含水炭素のみで蛋白質に乏しくヴイタミンAを欠いてゐるためにこれを常食としたら極端な栄養不良に陥り、老人、子供の場合には視力減退、鳥目となり妊産婦は分娩困難、乳児の保育はできないだらう、丙、丁に至つては議論のほかだと」いうのであり、しかも「何十万かの農民はその丙、丁にさへありつけないのだ」というのである。

 

 

 かつて松原岩五郎が記録したのは、明治20年代の都市最貧困層が残飯に命をつなぐ姿であった(「残飯に命をつなぐ(明治期日本の貧困)」参照)。しかし東北の農村部には「残飯」は存在しない(「残飯」は都市のものなのである)。

 

 内務省栄養研究所の佐伯所長、栄養学の権威原博士が伝えるのは、

 

  ま冬には土を掘つて地中の植物の根をかじつて露命をつないだものさへあつた、今年はそれ以上だといふから惨状推して知るべし

 

このような「惨状」である。記事の見出しには「草木に露命をつなぐ」とあるが、それが比喩などではなく文字通りの現実だったのである。

 

 

 

 スクラップブックに戻ると、前回に紹介した昭和9年10月22日付の朝日新聞記事の左には、掲載紙名は不明だが同年11月14日付の新聞記事が貼られている(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」画像参照)。岩手県知事による救済策を伝えるものだ。

 

 六萬余の窮民に
  衣類足袋を配給
    懸費で購ひ無料で・・・
      石黒岩手知事さらに英斷

 【盛岡発】全国民の絶賛裡に施米を断行した石黒岩手県知事は第二の巨弾として十二日塩、味噌、鰯の施給を声明し十三日朝から関係課長など集合して施給方針について協議の結果、更に栄養不良のため痩せ衰へて行く凶作民に栄養を与えるべく五万貫の昆布を県費で購入施給することに決定した、また白魔襲来して寒空に震へてゐる窮民に対し衣類、足袋類等を同じく県費で五十四万の凶作民中特に救済を要する六万七千名に対しこれを今月末日までに全部一名の漏れもなく配給することとなつた、しかして今月上旬から一斉に開始された救農土木事業の賃金は十日目毎に支払ふことになつてゐたが、これでは救済の意味をなさぬといふので隔日支払いにすることになり、十三日各町村一斉に通牒を発した、今や石黒知事の善政は凶作民等から随喜の涙で迎へられてゐる

 

 石黒岩手県知事が、「栄養不良のため痩せ衰へて行く凶作民に栄養を与えるべく」、米、塩、味噌、鰯、昆布の「施給」と、「寒空に震へてゐる窮民に対し衣類、足袋類等」の「配給」を「決定」したこと等を伝える記事だが、「英断」、「善政」といった評価が示されている。

 大凶作による困窮者の救済は、行政として当然のことと理解されているのではなく、「英断」や「善政」としてやっと実現され得るものと位置付けられていることも読み取れる。前回にも引用した『昭和 二万日の全記録 第3巻』の記事には、

 

  十二月六日、衆議院は農林省提出の「凶作地に対する政府所有米穀の臨時交付に関する法律案」を可決し、政府所有米のうち五〇万石が、東北六県の町村に交付されることになった。

 

とあった。すなわち、12月になってやっと国家による救済策が打ち出された、ということだ。

 しかし、「身売り」された「娘」が国家により救済されることはなかったのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/03/27 22:01 → https://www.freeml.com/bl/316274/317952/

 

 

 

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2018年3月24日 (土)

賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)

 

 近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実がどのようなものであったのか?

 

 「残飯に命をつなぐ(明治期日本の貧困)」では、松原岩五郎の『最暗黒の東京』(1893)を通して、明治20年代半ばの東京のスラム街住民の姿、食料としての残飯の販売がビジネスとして成り立ち、商品として流通する残飯を食べて生き延びる明治20年代の都市最貧困層の実情を明らかにした。

 「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々(続・明治期日本の貧困)」では、イザべラ・バードの『日本奥地紀行』(1885)に記録された、明治10年代初頭の北関東から東北にかけての農民の姿を取り上げた。

 ノミやシラミだらけの環境の中で、「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々が、いまだ近代医学の恩恵から遠い世界で暮らしている姿である。「着たきり雀の風呂へも入らない人々」は、当時の農村部の貧困層の姿であっただけでなく、都市最貧困層も同様であったことも松原岩五郎によって記録されていた。

 

 記事の最後では、

 

  近代日本の(国体の精華たる?)「公娼制度」は(そして昭和期の皇軍の「慰安婦」もまた)「人身売買」に支えられたものであったが、その背景には、このような最底辺の帝國臣民の貧困の現実があったことも覚えておいてよいだろう。

 

このような指摘を加えておいた。

 

 

 今回は、貧困層の困窮が生み出す「身売り」、すなわち人身売買の問題に焦点を合せてみたい。取り上げるのは明治期ではなく、昭和戦前期の日本の現実、近代日本の現実である。

 

 

 昭和9年から10年(1934~1935)にかけて、日本が直面していた問題の一つが「凶作」であった。実状は以下の通りである。

 

 

  昭和九年は、日本各地に自然災害がおこり、農作物が大きな被害を受けた。九州・四国の干害、北陸・山陰の冷雪害、関西・中国の室戸台風による風水害と続いたが、冷害に見舞われた東北の被害は甚大で、明治三八年(1905)以来の大凶作となり、多くの農山村が飢餓線上をさまよった。十二月六日、衆議院は農林省提出の「凶作地に対する政府所有米穀の臨時交付に関する法律案」を可決し、政府所有米のうち五〇万石が、東北六県の町村に交付されることになった。
 
  小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民は、八年のように空前の豊作を記録した年ですら、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられていた。九年の凶作は、それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった。岩手県では全農家の七七㌫が緊急の救済を必要とした。
  飢饉の影響は、まず子どもたちの上に現れた。欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。とくに大きな問題となったのは、娘の身売りだった。東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、九年一〇月までの一年間で五万人余にのぼった。新聞は連日のように救済を訴え、矯風会や救世軍が身売り防止運動を始めたが、口べらしと借金の返済に迫られた農村の厳しい現実の前では、ほとんど効果はなかった。
     (『昭和 二万日の全記録 第3巻』 講談社 1989  306ページ)

 

 

 まず、ここで押さえておかなくてはならないのは「小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民は、八年のように空前の豊作を記録した年ですら、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられていた」との記述である。豊作の年ですら、生産者であるはずの農民の口に米は入らず、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食としていたというのである。その背後にあったのが「小作料と年間収入を超えた額の借金」であった(「豊作」であろうが「貧困」が現実であった)。

 そこに「明治三八年(1905)以来の大凶作」が襲う。もたらされたのは「それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった」ような深刻な「飢餓」であった。

 その「飢餓」からの脱出手段の一つが「娘の身売り」なのである。

 

  欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。とくに大きな問題となったのは、娘の身売りだった。東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、九年一〇月までの一年間で五万人余にのぼった。

 

 貧困層にとっては、人身売買に頼るしかなかった近代日本の現実がそこにある。

 

 

 

 以下、当時の新聞記事を読んでみたい(2015年の4月に、立川の中武デパートの古書市で手に入れた昭和9年と10年の新聞記事のスクラップブックによる)。取り上げるのは、昭和9(1934)年10月22日の朝日新聞記事である。

 

 

 


スクラップブック(昭和9年~10年) 
     東北の凶作地を見る (9.10.22 朝日) 1

 


スクラップブック(昭和9年~10年) 
     東北の凶作地を見る (9.10.22 朝日) 2

 

 

 (見出しの表記は原文のままとし、本文は「かなづかい」は原文通りだが、旧字体は新字体にあらため、本文中の大きな活字は太字で表記)

 

 

 東北の凶作地を見る
 賣られる最上娘
  哀切・新庄節
   「年期明けても歸つてくれるな」
    親達の悲痛な言葉
          山形懸新庄にて
          飯島特派員

 他郷の人の手に売られて哀切な『新庄節』に故郷の山河をしのぶ女の数は決して少なくない、山形県最上郡はその娘地獄の本場だがここは県下でも一の凶作地、ならして七割の減収、一かたまりになつてゐる三十五町歩の田が稲熱(ゐもち)病で全滅してしまつたところもある、飯米は至るところ不足で、西小国村の野頭部落では
  一人でも口を減らさうと思つてゐるのに売つた娘の年が明けて帰つて来られてはそれこそえらいことだ、何とかして娘の年期明けを延ばすことにしよう
 といふ申合わせさへやつたといふ、県ではこの凶作で一層娘の身売りが増えるだらうといふので、身売防止の方策を樹て新庄警察署が主になつて、先頃村村で「娘を売るな」と座談会をやつて歩いた
  娘一人の身代金は年期四年で五百円乃至八百円、然し周旋屋の手数料や着物代や何かを差引かれて実際親の手に渡るのは、せいぜい百五十円位だ、可愛い娘を手放しても、百五十円の金を握りたい、一つの悪風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう
 かうして床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく、淪落の巷を流浪する最上娘の「新庄節」こそ彼女等の望郷の憶ひをこめた哀歌であると共にドン底の農村の悲しむべき生活苦を、まざまざと物語るものでなくて何だらう、然も娘を売つた親達は「凶作で米がないから、年期が明けても村の懐には帰るな」といふのだ農村の窮乏もここに至つて正視するに忍びない
     ▽……△
 娘地獄のこの地方は馬の産地で「子供の出産より馬の出産が大事だ」とまでいはれる位、馬を売るために毎年秋に馬市がたつ、記者は折よく東小国村へ行つて、この馬市を見ることが出来た
  この付近では東小国に八百頭、西小国に五百頭位の馬がゐるさうだが、三日間の馬市に百二十一頭の馬が売りに出た、みんな二歳駒の威勢のいい奴ばかり、馬買ひの博労は遠く青森、秋田岩手の方からもやつて来る、馬市をのぞいて見ると、博労達が人垣の輪を作つて、その輪の中を、農家の若衆が売り馬の口をとつて、ぐるぐる円を書いて歩く「おうい、いひ値が二十円」「一円買つた」「もう三円!」かうやつてせり上げて、相当の値だと思ふと、世話人がポンと手を叩いて売買が決まる、見てゐるうちに、四頭の馬が売れた、一年半も手塩にかけた馬が三十五円、四十六円、四十七円最後の馬はたつた十七円であつた、しかも、この中から産業組合に一割五分の手数料を出さねばならぬ
 馬が安値に売られるたびに見物の百姓達までホツと肩で息をして「話にもならない値だなあ」とガツカリしてしまふ
 馬市の表の道の奥にはづらりと露店が並んでゐる、鍋、釜、古着、雑貨、食料品何でもある、つまり馬を売つてから、ここで一年分の必要品を買ひ込むといふ習慣になつてゐるのだが、今年はそれがひどい寂れ方だといふ、西小国村では凶作のため「馬市には馬一頭につき一人以上付いて行くな」といふ決議をした。人がわいわい多勢ゆけば買物も自然多くなるから、今までのやうにゾロゾロ馬にくつついて行つてはいけないといふのである、田舎廻りのサーカスの小屋がかかつてゐて、客を呼んでゐるが、人々はただ泥絵具の看板をポカンと眺めてゐるだけで、ガマ口を開けようともしない、収穫のない田圃、その田圃の中の小さい宿場、馬のせり市、さびれた露店、サーカスの荒んだ楽隊――凶作地のうら淋しい晩秋の風景は記者の心を徒らに傷ましむるのみだ
      ▽……△
 飯米不足でどこの村々でも濡米の払下げを申請してゐるがとうとう山から栃の実を拾つて米の代用に食ひ始めた、栃の木はパリの街路樹マロニエに似た木で実は栗のやうな格好をしてゐるが苦みと渋味があるので各村役場では「苦みをとつて粉にしてそれから餅にする迄の加工法」をガリ版に刷つて戸毎に配り学校の先生のきも入りで内儀さん、処女会員を集めて講習会なども開かれてゐる
  栃の実のほかにワラビの根、山葡萄の葉や山牛蒡の葉なども食ふ、学校にゆけば鼻をたらした「干松」が居り、村落の掘立小屋にひとしい家々には、米を作って米の食へない「伯夷叔斉」が青い顔をしてゐる、芋、大根、茄子みんな不出来で、きうりや茄子の漬物もない
 小学校の実習で作った大根が幾らか残つてゐるといふので、百姓が銅貨を握つて小学校へ大根を買ひに来る、細いのが三本五銭でこれが大した御馳走だ、村落を歩いて農家の軒先の蓆の上に並べて乾てある栃の実を貰つて五銭白銅を一枚子供に渡したら「やあ、この銭ア光つてるぞ」と大喜びだ帰りがけにまたその家の前を通つたら、さつきの子が出て来て「平シヤボテンもあるんだがなあ」と呼びかけた、記者はぐつと胸のつまる思ひをした、豊田村では一村禁酒、電燈減燭の決議をして、違反者には私刑を加へるといふ罰則を作つた、最上一帯は全く光を失つた村々の集団だ、米を作る農民の「飯米を与へよ」の声こそ悲痛である 

 

 

 「床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく」という「人身売買」の現実。

 それだけでは終わらず、「人でも口を減らさうと思つてゐるのに売つた娘の年が明けて帰つて来られてはそれこそえらいことだ、何とかして娘の年期明けを延ばすことにしよう」との「申し合わせ」をするまでに追い込まれているのである。

 

 ただし、当時の「公娼制度」のシステムの下では、「娘の年期明け」への心配は無用であったかも知れない。

 

  このように決死の思いでつけられた日記の中で、最も頻繁に出てくるのは搾取システムの実態である。元元彼女は三百円の借金で首が回らない実家を救おうと、千三百五十円で身を売ったのであるが、十分余裕ができると期待したのも束の間、周旋人に二百五十円も取られ、さらに借金を返してしまうと、家には差引八百円しか入らなかった。それでも六年間の年季の間に千三百五十円を返済するのは比較的容易に見えたが、朋輩の多くが長年月つとめながら一向に足を洗うことができない様子をみて、不審の念をいだいた。
  その謎はすぐに判明した。客から十円の収入があれば、実に七割五分を楼主に取られてしまい、二割五分だけが玉割と称して娼妓の取り分となる。しかも、その中の一割五分が借金返済のための天引きされてしまうので、娼妓は残りの僅か一割だけで生活しなければならないという仕組みなのである。彼女の稼ぎ高は月に三百円程度の箏が多かったので、手元に残るのは三十円程度にすぎなかった。これに対して呉服代から化粧代、洗濯代、電話代、客用の茶菓代、さては湯銭や病気のさいの治療費にいたるまで、諸掛一切が娼妓の負担となっており、これが月に四十円をくだらないので、いきおい楼主から追借をせざるを得ない。
  問題がこれだけでないことを、彼女は正月になってから知った。正月の三が日、七草、および十五、六日は「しまい日」と称し、客に「しまい玉」(または玉ぬき)という特別料金を請求するように仕向ける。揚代金は一時間二円、全夜(オールナイト)十二円を取ったが、「しまい日」には客に全夜の玉を倍の二十四円請求し、そのうえ遣手婆にも普段より多くの祝儀(五円)を出させる。無論、かなりの馴染み客でない限り応じるわけもないが、しまい玉が取れない娼妓に対しては一日二円の罰金が科せられるので、売れっ子以外は戦々兢々とならざるをえない。そのような客のないものは花魁の恥とされるからでもある。
  しまい日は正月ばかりでなく、三月三日、五月五日にも適用される。そのほかに「移り替」といって六月と十月の衣替えにも同様の“行事”がある。とにかく、あらゆる機会をとらえて搾り取る仕組みだが、不器用な彼女にはどうしても玉ぬきができない。最初の月だけで十円の罰金をとられ、主人から「いくら初見世でも、一人位玉ぬきができそうなものだ。もういく日になるんだ」と小言をいわれる。チップで生計を立てている遣手からもいやがらせをされるようになる。
     (紀田順一郎 『東京の下層社会』 ちくま学芸文庫 2000  167~170ページ)

 

 

 ここで紹介されている「日記」とは、「大正十三年(一九二四)の師走、群馬県高崎市に育った十九歳の女性が周旋人に案内されて新吉原の門をくぐった。森光子というこの女性は、その後の約一年間、娼妓として辛酸をなめ、ついに死を賭しての脱出に成功、翌十四年に『光明に芽ぐむ日々』という告発の手記」のことである(「賣られる最上娘」の記事の10年前の、人身売買の当事者による告発である―この10年間で、公娼制度の制度的枠組みが変化したという話は聞かない)。「朋輩の多くが長年月つとめながら一向に足を洗うことができない」のが実情であった。しかも紀田順一郎氏の文章は、「新吉原以外の公娼地帯では一層ひどい状況が見られた」と続いているのである。

 「賣られる最上娘」を待ち受けていたのが、どのような悲惨であったのか。切抜きとして残された新聞記事に書かれた以上の過酷な現実であったことは、想像しておいた方がよいだろう。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/03/24 14:01 → https://www.freeml.com/bl/316274/317854/

 

 

 

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