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2018年7月30日 (月)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、昭和10年代の多摩(武蔵野)地域が軍産複合地帯化していたことについて、「多摩(武蔵野)地域」の全体を視野に入れつつ、特に(「武蔵野」の名を冠した)武蔵野美術大学の所在地でもある現・小平市に焦点を合わせながら、既に8本のブログ記事としてアップしてきた(記事カテゴリーとしては「多摩武蔵野軍産複合地帯」)。

 小平に設置された軍事施設の特質(「近代総力戦状況」の中でのそれらの施設群の持つ意味)を明らかにする(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」参照)と共に、軍事施設の立地と地勢的条件の関係を、より具体的なものとして理解することに努めてもきた。

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)」では、矢嶋仁吉氏の1939(昭和14)年の論文を読むことで、40年代に本格化する小平地域の軍事化の直前の小平の状況を、地理学者の眼を通して理解・把握することを試みた。

 小平地域の「地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10-15mの深さの地域に属している」のであり、「大地の中央に近くて帯水層の深い本地域附近に於ては、一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する」のであって、居住者にとっての「飲料水問題」の切実さ(飲料水確保の困難)を矢嶋氏は繰り返し指摘していた。

 そのような地勢的条件を前に、「小平地域の軍事施設化の中心となった陸軍(ここでは陸軍が「開発事業主」と位置付けられる)は、それぞれの施設に自前で給水塔を設置」する形で対処したことを示しておいた。

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)」では、再び小平地域での地下水源の確保と給水能力の問題について、住宅営団による戦時期集団住宅として建設が開始された小川地区の中宿住宅の事例を切り口に、より詳しく取り上げてみた。矢嶋論文の指摘するように「10-15m」の地下水面(ただし不圧地下水面である)への到達さえ困難であったのが、近代以前の小平地域での各戸を事業主体とした井戸掘削の状況であった。しかし、昭和10年代の小平に設立された軍事施設では、「深井戸」の掘削による(100メートルを超える深度からの)被圧地下水の確保・供給を実現したのである。

 

 

 

 今回は、あらためて小平地域における「水の確保の困難」の問題を取り上げたい。自ら深井戸を掘削し給水システムを整備した「大きな力」としての戦時期の軍に加え、大正末から宅地開発に関わり簡易水道を整備した民間土地開発事業者の姿について記しておこうと思う。まず取り上げるのは『小平市三〇年史』(1994)の記述である。

 

 

  開拓当初の小平では玉川上水から水を得たが、時がたつにつれて飲用水は個々の井戸から得るようになった。まだ小平が純農村のころの話である。
  大正一四年(一九二五)ごろから分譲が始まった小平学園地区には、分譲元の箱根土地株式会社(昭和一九年国土計画興業株式会社と商号変更)が造った水道があった。水源は深井戸である。終戦後急激に居住者が増え、施設を拡充する必要に迫られ、給水申込には権利金が必要とされるようになった。
  昭和一七年(一九四二)に開所された東部国民勤労訓練所を始めとする公共施設(陸軍経理学校、陸軍兵器補給廠小平分廠など)は大きな力で、それに必要で十分な深井戸による自家水道を設けた。その関係者で地元に住んだ人は、普通農家に間借りしたり、その宅地内に住んだりしたので、とくに水に対する新たな配慮は要らなかった。
  続いて終戦前後相次いで建設された集団住宅はどうであったのか。日本住宅営団による集団住宅は桜上水(二一六戸)、旭ヶ丘(七七戸)および中宿(二一四戸)に建設され、それぞれ昭和一八年(一九四三)、二一年及び二二年に合計五〇七戸が入居した。
  桜上水と旭ヶ丘では四軒に一井の割で井戸が掘られた。桜上水の井戸は水脈に当ったせいか、水の出はまことに良かった。最初は手押しポンプであったが、昭和二四(一九四九)ころからモーターによるポンプと台所までの給水管が設けられ便利となった。一方、旭ヶ丘の井戸は水の出が悪かった。水の不足を訴える家はかなりの数にのぼり、夜間水の出の良い井戸のある家に水をもらいに行ったり、洗濯には近くの玉川上水や新堀用水の水を使ったりしてしのいだ。深い玉川上水に綱のついたバケツを下げてくみ上げるときの苦労を語る女性もいた。小平の地下水は深いところにしかないのを知らない人が掘ったのではないかともいわれた。
  中宿では浅井戸三二井が掘られたが、これも地下水が深くてほとんど使いものにならなかった。いち早く自治会が結成され、対策が練られた結果、隣接する厚生省職業訓練所(前東部国民勤労訓練所・現東京職業能力開発短期大学校)の深井戸から水を運ぶことになった。人手による根気のいる作業だった。その後関係者の好意で中宿住宅の中央部まで一本の給水管が延長されて共同水栓が設置された。しかし、その後も居住者は増える一方で、この共同水栓だけでは賄い切れなくなった。そこで、自治会より広い組織の中宿居住者組合で水対策を検討、坂北の旧兵器補給廠小平分廠の給水施設を利用したらどうかということになった。早速坂北、本町、旭町地区の代表者の賛同を取りつけ、小川中宿居住者組合と坂北生活協同組合の名で大蔵省東京財務局に使用許可の申請がされる。昭和二四年(一九四九)八月に許可が下り、それを受けて各地区の代表者によって給水事業計画が練られた。このとき「小川給水組合」として発足できるよう努力を重ねたが、施設費用などの負担問題で組合の結成には至らず「小川給水組合」の名目で実質経営は各地区代表者(発起人)が当たることとなった。そして昭和二八(一九五三)に関係自治会長を中心に協議した結果、「小川給水組合」を発展的に解消し、新たに「小川水利協会」を結成、翌年一月から新しい機構で運営することになった。(付図は略)
  給水人口は一九九〇人、一日最大給水量五〇〇立方メートルであった。
  しかし水道事業の重要性を考えると、任意団体の運営では住民の福祉向上を図るには困難な点が多い。役員会議でも水道施設を町に移管し、町営水道として経営するのがよいとの意見の一致をみて、その体制の整備を念頭におきながらの経営となった。また小平町のほうでも大蔵省から、水源施設を民間の任意団体に貸与するのは好ましくないので、早く町営にするようにと指摘されていた。
     (大日本印刷株式会社CDC事業部年史センター編 『小平市三〇年史』 1994  329~331ページ)
 

 

 

 「昭和一七年(一九四二)に開所された東部国民勤労訓練所を始めとする公共施設(陸軍経理学校、陸軍兵器補給廠小平分廠など)は大きな力で、それに必要で十分な深井戸による自家水道を設けた」とある。

 「大きな力」を背景として「必要で十分な深井戸による自家水道を設け」ることをなし得た「公共施設」として、東部国民勤労訓練所と陸軍経理学校、陸軍兵器補給廠小平分廠が示されていることになるが、その背後にあった「大きな力」とは厚生省であり帝國陸軍である。そもそも厚生省は陸軍の要求により設置されたものであることを考えれば、ここでの「大きな力」を「軍」として理解することも出来るだろう。

 『小平市三〇年史』には、「大正一四年(一九二五)ごろから分譲が始まった小平学園地区には、分譲元の箱根土地株式会社(昭和一九年国土計画興業株式会社と商号変更)が造った水道があった。水源は深井戸である」との記述があることも見落とさないでおきたい。民間の開発事業者の「力」もまた、「深井戸」を「水源」とした「水道」を実現していた(「小平簡易水道」と呼ばれていた)のである。

 昭和10年代の小平地域には、公的インフラとしての(すなわち村営あるいは町営の)「水道」は存在しなかったが、軍と民間の土地開発業者は、それぞれの「力」で自前の給水システムを構築していたのである(村や町にはそのような「力」はなかった)。

 

 

  市では予想を超える人口増加に伴い、市制施行直後の昭和三七年(一九六二)一一月に全市水道構想を見直し、水道事業変更認可申請を厚生大臣に提出した。すなわち昭和三八年度から実施する給水区域を拡大、市域のうち小平簡易水道区域を除く区域とするもので、昭和四四年度の給水目標人口を六万人と設定、一日最大給水量を一万九二〇〇立方メートルとし、深井戸一三井と浄水場を一か所建設するという計画であった。
  一方、これまで学園西町と学園東町を給水区域として経営してきた小平簡易水道(国土計画株式会社)は、昭和四〇年(一九六五)一月三一日までという期限付で東京都知事の許可を受けて行われたため、当然、期限が来ると市への移管となるべきもので、水道法により公営事業の経営主体は地方公共団体がなすべき事柄であった。
  その上、簡易水道の給水区域の学園西町、学園東町は人口の急増地域でもあり、その施設の老朽化に伴い、住民側から市営統合を望む声が次第に大きくなり、昭和四〇年二月一日市営水道への移管が実現、ここに全市域が市営となった。同年度末の行政人口は一〇万八九四九人、給水人口は三万八五〇四人で、普及率をみると三五・三%であり、今日の一〇〇%と比較すると隔世の感がある。この三八年度から開始された水道拡張事業は、後に第一次拡張事業と名付けられた。
     (『小平市三〇年史』  575ページ)
 

 

 

 小川水利協会の運用した給水施設(そもそもは軍の「大きな力」による施設である)は町営水道に統合され、国土計画株式会社の小平簡易水道(民間土地開発事業者の大きな力による施設である)が市営水道に統合されたのは昭和40年になってのことだったが、その時点での市内の水道普及率は35・5%にとどまっていた。もちろん、そこには戦後の小平地域での人口の急増という背景があることも確かではある。しかしいずれにせよ、昭和10年代の軍関連施設の給水設備が戦後小平の町営水道のルーツとなり、それに先立つものとして箱根土地株式会社による小平学園開発の際の小平簡易水道があった。

 

 

 ところで、矢嶋仁吉氏の論文では、小平学園地区の開発について以下のように記されていた。

 

 

  尚、本地域の南部の一部に、碁盤目状の地割を施した所がある。この地域は同村の一部に過ぎぬもので、前述の如く、商大予科の校舎設定後、土地会社の手によって、区画された地域である。その計画では、商科大学予科の校舎を中心とし、その周囲に住宅地、焦点地域を区画し、国分寺駅より主要道路を設け碁盤型の3間道路を縦横に通じて、田園都市化せんとしたところである。そのため、新田開発当初よりの短冊形の地割は一部崩壊し、従来の畑地に若干文化住宅の建設もあるが、未だ著しい発達を見ない。東京の都心地域より約1時間を以てして到達し得るところでありながら、その発達の見るべきもののない最大の制約は前述の飲料水採取の不便という事実である。かかる例は省線国立駅の南方、商科大学の校舎附近に於ても見るところであって、井然と区画された道路住宅予定地もほとんど省みられぬ有様である。本地域に居住地域を発展せしめんには、先ず第一にかかる不便の除去が必須条件であって、例えば、埼玉県の所沢駅附近に於ける如く、動力による簡易水道の如き施設をなすか、その他の方法によって上水施設の完成を図ることが必要であろう。
     (
矢嶋仁吉 「武藏野小平村に於ける新田聚落の研究」 『地理学評論 11』 1939  24ページ)

 

 

 矢嶋氏は論文執筆当時の小平学園地区について、「従来の畑地に若干文化住宅の建設もあるが、未だ著しい発達を見ない。東京の都心地域より約1時間を以てして到達し得るところでありながら、その発達の見るべきもののない」とその開発状況を記し、その理由として「最大の制約は前述の飲料水採取の不便という事実」だと主張している。同じ箱根土地株式会社による国立の学園都市計画についても「井然と区画された道路住宅予定地もほとんど省みられぬ有様」との評価を示しながら、「本地域に居住地域を発展せしめんには、先ず第一にかかる不便の除去が必須条件であって、例えば、埼玉県の所沢駅附近に於ける如く、動力による簡易水道の如き施設をなすか、その他の方法によって上水施設の完成を図ることが必要」との判断を加えている。

 しかし、実際には小平学園都市計画の下で、「土地会社」は深井戸を水源とする小平簡易水道を用意していたし、国立学園都市においても、その計画の当初から、インフラとしての給水システムの整備は織り込まれていたのである。

 

 小平簡易水道については、「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)」をまとめていた時点で、『水道事業概要 昭和58年』(小平市水道業務課・工務課 1983)中に言及があるのには気付いていた(註:1)。そこで早速、「小平簡易水道」をネット検索したのだが、一件もヒットしない状況であった(言うまでもない話だが、「一件もヒットしない」ことは、ある事実が存在しないことを意味するのではなく、まだ誰もその事実についてネット上にアップしていないことを意味する可能性も考えておかねばならない)。小平市水道業務課・工務課による『水道事業概要』にある以上、その存在を疑う必要は感じなかったが、『水道事業概要』の記述からだけでは、小平簡易水道の設置年代が判然とせず、矢嶋論文執筆時点での給水システムの実状はわからなかった。今回、あらためて『小平市三〇年史』の記述を通して、矢嶋氏の認識に不正確なところがあったことが判明した次第である。

 

 

 箱根土地株式会社(堤康次郎)による学園都市開発については、渡辺彰子 編・執筆による『国立に誕生した大学町―箱根土地(株) 中島 陟 資料集―』(株式会社サトウ 2015)に様々な資料が掲載されている。

 

 ここではまず、「堤康次郎(談)」として掲載された「分譲地の賣價算定に付て」と題された、昭和15年10月19日の文書からの関連事項の抜き書きを示す(ここでは影印に付された現代語表記による書き起こしを用いる)。

 

 
   箱根土地会社は世間の一般的土地売買業者もしくは信託会社など、その性質内容が根本的に異なっておって箱根土地会社においては単なる仲介により法外なる手数料を取るが如き事をなさず、土地の加工施設に重点を置き即ち原料たる土地を仕入れてこれを製品化するというような、いわゆる国土計画に則した住宅地の造成を行っているのである。例えば国立の土地についていうならばそこは太古玉川の流れのあとで、わずかな表土の下は十数尺の砂礫層で農耕地にはもちろん林業を行うにもまったく不適当な土地である。
   …(中略)…
   この意味において会社は国立に停車場を新設し道路、水道、下水等あらゆる文化的施設を加え、そしてこれを住宅地に改造したのである。それでその土地の価格はどうかというに今まで山林として顧みられなかったものが、その加えられた文化的施設によって住宅地としての価値を生じた訳である。
   しからばその山林を買収してからこれに手をかけ、すべて分譲に至るまでの経費は一体どの位かかるか、どの位の割合を要するものかというと国立は地上物は別であるが土地は一反千円で大体全体の七割を買収したが百万坪の土地を権力を用いずしてひとまとめに纏めたのであるから、その困難は到底想像以上で筆舌の尽し得るものではなく中には先祖伝来の土地坪百円でも売らぬと頑張られてついに大連まで出かけて行って坪当たり六十円でようやく買収した数千坪の土地もあったが、平均の買収価格は坪当たり地上物を含んで七円五十銭に当っている。それを道路に一割五分を潰し、道路の工事費に地価の約一割を費し、水道、下水、電燈等の工事費に又一割五分を要し、停車場の工事費、その他測量、設計、監督、舗装、公課に対してかれこれ一割を要している。なおこれに又金利、営業費等を加えると、原価は土地買収価格の約倍額に当るようになる。
     分譲地の売価算定に付て (『国立に誕生した大学町―箱根土地(株) 中島 陟 資料集―』  240~241ページ)

 

 その先では、実際の予算書内容も示されている。

 

  大正十二年国立建設着手当時の計画書による建設費予算書
  一、金一千四百万円也 建設費予算総額
   一、金八十万円也 水道工事費
     但し幹線導水本管埋設 延長二万九千五百六十円 平均間当り金十五円也及び水源工事費、配水槽工事費ならびこれに伴う諸機械および器具費共三十五万六千六百円也を含む
     (同書 242ページ)

 

当初予算の段階で、幹線導水本管埋設 水源工事費、配水槽工事費ならびこれに伴う諸機械および器具費を含む形で「水道工事費」が計上されているのが確かめられる。

 「写真から見る国立大学町誕生の頃」と題された第一章には、「水道源池」の写真が掲載されており、以下の解説が付されている。

 

  水道源池とは、水道を供給するために地下水を汲み上げる施設の場所です。箱根土地の大正14年12月1日から大正15年5月までの国立大学町「起工・庶務概要」に「水源第1号鑿泉(さくせん)を完成せり」とあります。又、大正15年9月発行の分譲区分図に、水道源池の場所がはじめて示され、その説明によると地下水は地下四百尺を掘り抜いて湧いたとされています。場所は中央線北側、国立駅舎より約二五〇m東の高台で、ここより水道管を埋設し線路下の土手をくぐらせて南側の国立大学町へ水道水を供給しました。

 

 「場所は中央線北側、国立駅舎より約二五〇m東の高台」とあるが、この「高台」に連なるのが武蔵野台地の武蔵野段丘(武蔵野面)と呼ばれる段丘面で、小平市もその段丘面上に位置する。「地下水は地下四百尺を掘り抜いて湧いた」とあるが、その深度(400尺=120メートル強)は、まさに小平地域の「深井戸」(被圧地下水)の深度である。国立学園都市が計画されたのは、「高台」の下に位置する、中央線の南側の立川段丘(立川面)上であり、国分寺崖線と呼ばれる段丘崖によって隔てられている。国分寺崖線下の立川面では、不圧地下水までの深度は浅いと考えられ、その利用は困難ではないのではないか(国分寺崖線下には湧水源も多い)。文字通りの「浅井戸」による不圧地下水の汲み上げが可能な地域だと思われる(「井戸の掘削は山麓又は河川の沿岸地域の如く帯水層の比較的浅い所では、左程困難ではない」 矢嶋論文 18ページ)。

 ここであらためて、わざわざ宅地開発域から離れた「高台」としての武蔵野段丘上に深井戸を掘削し(それだけ多くの予算が必要となる)、学園都市への給水システムとして整備した箱根土地の構想力(そして実行力、それらを支えた資本力)には注目しておきたい。「飲料水の確保」を各戸(各個人)による井戸の掘削に期待するのではなく、開発事業者がインフラとして「水道」を用意するというのである(註:2)。

 高い位置(高台上)に水源を確保し、重力を利用して低い位置にある水栓に給水する。国立の学園都市の給水システムの発想は、原理的には小平地域の軍事施設の給水塔設置と重なるものでもある。

 

 

 

 箱根土地(堤康次郎)による学園都市開発についての矢嶋氏の認識―上水道の未整備との指摘―には明らかに誤りがあったが、しかし、「従来の畑地に若干文化住宅の建設もあるが、未だ著しい発達を見ない。東京の都心地域より約1時間を以てして到達し得るところでありながら、その発達の見るべきもののない」、「井然と区画された道路住宅予定地もほとんど省みられぬ有様」は開発後の現実でもあった。実際、売れなかったのである。

 

 

 当初は「国分寺大学都市」として分譲開始されているものだが、

 

  箱根土地は、大泉学園都市とほぼ並行して明治大学を中心とする学園都市の開発を計画した。震災直後の一九二三(大正一二)年一〇月より小平村の土地の買収を開始し
     (『小平市史』 2013  221ページ)

 

  一九二五年一月三日に地鎮祭がおこなわれ、宣伝のために大学都市内の風景を題材とした懸賞写真の募集がおこなわれた。本格的な分譲は三月から開始され、
     (『小平市史』  222ページ)

 

  …、国分寺大学都市―小平学園と変遷してきた箱根土地による住宅地分譲だったが、その売れ行きは昭和恐慌などの影響で芳しいものではなかった。しかし恐慌からの脱出を受けて、一九三五(昭和一〇)年頃から徐々に売れ行きが回復してくるとともに、日中戦争のさなかである一九三八年から四一年にかけて、それまで更地が多かった小平学園の西地区に、ようやく住宅が建ちだしたと言われている(『小平町誌』)。東京の郊外化の更なる進展、および小平を含む多摩の戦時開発の影響が、学園地区にもあらわれてきたのである。
     (『小平市史』  291ページ)

 

  学園の住宅は、その生成時期は東区において最も早く大正一二年ごろで、ついて西地区の昭和の初めであるが、東区の遅々たる建設に対し、西地区は昭和一三~一六年ごろ急速に建設がすすめられ、第二次大戦後は両地区とも建設は速度を増し、特に昭和二七年以降はその傾向がいちじるしい。
     (『小平町誌』 1959  447ページ)

 

 

 つまり、販売開始から10年ほどは、住宅地としての販売は低迷し続けたのである。矢嶋氏にとっての小平学園地区のイメージは、現地調査に通っていたであろうまさにこの時期に刻み付けられたものということになる。しかし、矢嶋氏の論文執筆時(発表が1939年)には、そこに変化の兆しが見出されてもいたのである。

 

 

  一九三八年頃、小平学園の開発地六〇万坪のうち、多摩湖線の線路西側に沿った地区六万坪で「国分寺厚生の家」という建物付きの分譲がおこなわれた。このころ分譲地全体は「国分寺厚生村」とも呼ばれており、小平学園駅と青梅街道駅のあいだに新設された駅は厚生村駅と名付けられた(三九年開設、四五年使用休止、五三年廃止)。なお、一九四〇年の史料には「国分寺学園分譲地」という名称もみられる。
  国分寺厚生の家は、残されている販売用パンフレットによれば、土地百坪と小さなバンガロー風の家屋とをあわせて八〇〇円で販売された物件である。一九二六年に国分寺大学都市として分譲を開始した頃、分譲地の坪単価は九円八〇銭~一二円八〇銭だったのだから、坪単価八円はかなりの特売価格であった。
     (『小平市史』  291~292ページ)

 

 

 先に紹介した『国立に誕生した大学町』に収録されている「販売用パンフレット」の裏面画像には、

 

  設備 道路(幹線五間巾、支線三間巾)、電燈、水道、下水

  此処に今回新たに意匠登録を受けた瀟洒な農園小舎を建て家の周囲に果樹や蔬菜を栽培し一家團欒、土と緑に親しむのであります。戰時體制下の厚生國策に沿ふ、御一家の心身鍛錬場として晴耕雨讀の家庭道場として御所有になることを切にお奨め致します。彼の「農園住宅」や「歓喜力行」の本場とも云ふべきドイツから来たヒツトラー・ユーゲントの見るからに健やかな身體や、溌剌たる風丯に接するときまことに躍進ドイツそのものを見るの感があります。土と緑に育まるる彼等ドイツ青少年□□の幸福を思ひ我等もまた大いに示唆を受けるものがあると存じます。

 

このように記されている(「設備」には「水道」が含まれている点にも留意―矢嶋論文執筆時期の販売広告上では開発地域内の「水道」の存在がアピールされていた事実)。

 『小平市史』は、「つまり、厚生の家とは、定住用の住宅ではなく、週末に農作業を楽しむための家庭農園付きの小屋のことだったのである」と要約している(293ページ)。さらに『小平市史』は次のように論じる。

 

 

  では、厚生の家ないし厚生村という「厚生」を冠した宅地分譲とは、どういう意味だったのだろうか。一九三八年一月、総力戦体制構築を推進する軍部のあと押しをうけながら、国民の健康や体力増進政策、衛生や医療政策、人口政策、労働政策といった戦時社会政策を担当する官庁として、厚生省が発足した。そして同じ年、イタリア・ファシズムのドーポラボーロ(労働の後)運動やナチス・ドイツの歓喜力行団の活動に影響を受けて、日本でも余暇活動の充実と健全娯楽の推進をはかることで国民を統合し、生産力を向上させようとする厚生運動がはじまった。つまりこの時期の「厚生」とは、戦争の遂行に役立つような国民体力の向上や健全な余暇活動を意味していた。したがって厚生の家での「心身鍛錬」「晴耕雨読」とは、まさにそのような意味での「国策」に沿った「厚生」にほかならない。一方で、厚生の家は「一家団欒」「家庭和樂」の場であることが強調され、「子女」の成長にとっても有益であることが謳われているが、それは「家庭」「団欒」の私生活空間と時間を大切にし、「子女」の教育を重視する意識が強かったサラリーマン層の家族に訴求しようとしたからであろう。ただし、「厚生」が冠されているのだから、そこでの私生活は「国策」に役立つ限りでの私生活ということになる。
  厚生の家・厚生村という名付けには、戦時における国策と商業主義の狭間で、郊外の位置づけやそこでの生活の意味付けが微妙に変化を遂げていることを見てとれる。それは戦時開発とはいえないが、平時の郊外住宅地開発としての学園開発が、総力戦体制に順応するなかで変形を遂げたものだといえよう。
     (『小平市史』  293~294ページ)

 

 

 多摩・武蔵野地域の軍事地域化と民間土地開発会社の商業主義が重なった姿を、戦時期の小平学園地区=厚生村に見出すことが出来るだろう。

 また、この「厚生の家・厚生村という名付け」による販売戦略を通して、当時の日本で、ナチス・ドイツの政策が模範的(お手本的)に機能していた状況も見えてこないだろうか。既に、現・東大和市の南街地区の開発モデルとして機能したのが、ナチス・ドイツのジードルング政策であったことに触れておいた(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」参照)が、小平学園地域での「厚生の家・厚生村という名付け」からも、同時代(どちらも1938年)の日本での「躍進ドイツ」への憧憬・傾倒的雰囲気が見える(註:3)。

 ちなみに、この昭和13(1938)年には、ヒトラー・ユーゲントが日本を訪問し、大きな話題となっていた。「販売用パンフレット」は、「昭和13年10月版」とあるので、まさにヒトラー・ユーゲント日本訪問の最中のものということになる。「ヒツトラー・ユーゲントの見るからに健やかな身體や、溌剌たる風丯」を目の当たりにした人々こそが、「販売用パンフレット」のターゲットであった。箱根土地は、「躍進ドイツ」―「農園住宅」や「歓喜力行」の本場―モデルにビジネス・チャンスを見出したのである。

 

 しかし、素敵な厚生村の素敵な厚生の家(実のところ、ホワイトカラー向けのセカンド・ハウスなのである)を手に入れることなど、当時の軍需工場労務者には考えられぬのが大日本帝國の現実であった。

 「日本でも余暇活動の充実と健全娯楽の推進をはかることで国民を統合し、生産力を向上させようとする厚生運動」のまさに同時期の厚生省生活課技師による報告には以下のように記されている。

 

  昭和13年当時の厚生省生活課技師の報告によると、「先般各地軍需工場地帯に於ける労務者の居住状況を視る機会を得て、痛感した事は、労務者殊に農村から見習工として集まって来た人々に住居の欠乏していることである。例えば、4畳半に4人、6畳に6人と云ふ過密状況が各所に見られ、或は15坪以上もある広い部屋を急設して、採光通風等考慮せず、唯寝る場所を与へて押入れもない室内に寝具、荷物を散乱させ、20~30名の新人工が合宿している。所謂万年床は随所にあり、殊に夜勤者が昼間強い日光を浴び乍ら寝苦しさうな様を見て、斯かる状態は長期戦のもとに何時迄も黙過出来ぬことと痛感した。徒に生理的欲求を斥けることなく、疲労恢復に適する最小限の住居と、体力を維持増進するに足る栄養の供給とは、殊に銃後の第一線を守る軍需工場労務者には、確固たる方針を以つて之が万全を期すべきである。
     大本圭野 「戦時住宅政策の展開過程(2)―日本的住宅政策の原型」 (『季刊・社会保障研究』 Vol.19 No.4 1984  433ページ)

 

 

 

【註:1】
  当時(昭和37(1962)年の「第1次拡張事業」をめぐる記述からの引用である)市内の水道施設は、西武国分寺線小川駅周辺を中心とする市営水道と学園地区に給水する民間経営の小平簡易水道があるだけで、その給水能力は併せて16,000人分しかなく、人口的にも、地域的にも一部に過ぎませんでした。
  小平市は、いわゆる「武蔵野台地」にあり、都区内水準よりも約80mの高台にあり、地下水量は豊富と見られていましたが、その水位は予想外に低く、加えて昭和30年代には、宅地化の進行に伴い、家庭用井戸は乱掘の様相をみせ、そのため家庭用井戸の水位は全般的に低下し、とくに渇水期においては水不足が直接市民生活を脅かすに至りました。とりわけ、市の東部に位置する花小金井地区の家庭用井戸は、渇水期において枯渇したものが多く、市はこれに対する緊急給水に追われているという実情でした。
     (『水道事業概要 昭和58年』 小平市水道業務課・工務課 1983  3ページ)
 
  小平簡易水道の給水区域を市営水道の給水区域とするため、第2回計画変更を昭和40年月13日付、厚生大臣に申請しました。
  当時、市内には市営水道のほかに民間会社の経営する小平簡易水道があり、これは当該地区(現在の学園西町、学園東町)開発のために計画されたもので、その施設は古く、区域内の人口増加の状況に照らしてもその能力は、極めて不充分であり、また、一般に水道事業の経営主体は、地方公共団体であることが望ましいという観点から、小平簡易水道は、昭和40年1月31日までの期限付で都知事の許可を受けていました。
  したがって、当該地域の住民も市営水道に統合されることを強く要望しており、市においても市の給水区域として需要に適合した施設の拡充を計る必要を認め、事業変更を行うことになりました。
     (『水道事業概要 昭和58年』  4ページ)

 

【註:2】
 箱根土地による大泉学園都市の分譲販売チラシでは以下のように主張されている。

  表
  ◇大泉公園はその昔武蔵野の少納言久保と云はれた處で翠緑滴るが如き赤松林の大樹が土佐繪のような風趣を添え楢や欅の雑木林が繁つて居ります。ことに鑿井より湧き出ずる水は清冽手を切るようで内務省衛生局の検査によれば完全な地下水として水道以上純良なることを證明されました。
  裏
  ◇郊外の住宅地は大泉學園のように組織的大規模に建設せられて始めて實用價値を生じ實用的價値の存在を前提として始めて投資的價値が存するのであります。
  ◇電燈も道路もない林や畑を工事もせず只土地の價額の少ないことのみをもつて、地價が廉いと云ふことによつて土地をお買いになるのは最も注意すべきことであります。
  ◇分譲地を買入れた方自身がめいめいに道路やその他の工事をせねばならぬとすればそれは如何に煩雑で不経済なことでありませう。結局豫期せざる高價な土地を買入れたと同一になつて仕舞ひます。即ち大泉學園都市の如き工事の完成した大地積の經營に於て始めて徹底的の建設が實現せらるるのであります。
  ◇大泉學園都市は電車停車場、公園、公園道路、乗合自動車、日用品マーケツト、娯楽場等を新設し、一坪十圓内外でお譲り致します。
     (『国立に誕生した大学町―箱根土地(株) 中島 陟 資料集―』  220ページ)

 

【註:3】
   ドイツナチスによるジードルングのユートピア運動というのがある。労働者に職を与えて安定した生活をつくり上げる。労働者は一日の労働に疲れて家に帰り、新鮮な空気を吸い、和やかな家庭的慰楽の生活にひたり、新しい明日への活力を回復するという考えに基いた都市構想、これが「ジードルング」で当時ドイツの企業経営に多く採用されていた。
   ジードルングというのは、つまり、都市郊外に一団として建設される企業を中心とした、集合住宅という意味である。ドイツで昭和七年、住宅法が制定され、特にその政策を工業を主体とする企業が採り入れていた。
          (元日立航空機専務 内山 直 手記)
     (『東大和市史』 2000 337ページ)

 

  「汝の體は國家のものである。」
  「汝は國家に對し健康であるべき義務を持つ。」
  さういふ崇高な標語のもとにヒトラー・ユーゲントは先づ健全な體を養ふことを第一義とする。ここに我々は、個人の健康といふことに於いても個人主義的な考え方が克服されてゐるのを見るのである。その施設のゆきとどいてゐることもさることながら、保健や體育に對する根本的な考え方に學ぶべきところが少なくない。
     (ヤーコプ・ザール 高橋健二 『ヒトラー・ユーゲント』 新潮社 1941  32ページ)

 身体的にも政治的にも「健康」なアーリア人にとってのみ、ナチス・ドイツはユートピアであった(それがユートピアであり得たのは、あくまでも「戦前」の話であるが)。その健康なユートピアが昭和10年代の帝國日本のお手本でもあった姿を、南街の集団住宅計画や小平学園の「厚生の家・厚生村という名付け」を通して確かめることが出来る。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2018/07/30 21:35 → https://www.freeml.com/bl/316274/320440/
 投稿日時 : 2018/07/30 21:37 → https://www.freeml.com/bl/316274/320441/

 

 

 

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2018年6月25日 (月)

「娘の身売り」が支えた「公娼制度」 (昭和期日本の貧困 その5)

 

 

 「貧困層にとっては、人身売買に頼るしかなかった近代日本の現実」を、昭和9年当時の紙面から切り抜かれ、スクラップブックに残された新聞記事を通して読み解いてきた(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」、「廓模様新紅毛情史 (昭和期日本の貧困 その3)」、「十四娘を賣つた金 四十圓の家と化す (昭和期日本の貧困 その4)」参照)。

 

 

 

  小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民は、八年のように空前の豊作を記録した年ですら、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられていた。九年の凶作は、それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった。岩手県では全農家の七七㌫が緊急の救済を必要とした。
  飢饉の影響は、まず子どもたちの上に現れた。欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。とくに大きな問題となったのは、娘の身売りだった。東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、九年一〇月までの一年間で五万人余にのぼった。新聞は連日のように救済を訴え、矯風会や救世軍が身売り防止運動を始めたが、口べらしと借金の返済に迫られた農村の厳しい現実の前では、ほとんど効果はなかった。
     (『昭和 二万日の全記録 第3巻』 講談社 1989  306ページ)

 

 

 現代から振り返れば、このようにまとめられる「近代日本の経験」ということになるが、スクラップブックに貼られた当時の新聞記事を介し、記者の(そして読者の)心情・関心の在処までが、臨場感を伴うものとして甦ったのではないだろうか。

 

 「小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民」が凶作という状況の中で、

 

  娘一人の身代金は年期四年で五百円乃至八百円、然し周旋屋の手数料や着物代や何かを差引かれて実際親の手に渡るのは、せいぜい百五十円位だ、可愛い娘を手放しても、百五十円の金を握りたい、一つの悪風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう
 かうして床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく、淪落の巷を流浪する最上娘の「新庄節」こそ彼女等の望郷の憶ひをこめた哀歌であると共にドン底の農村の悲しむべき生活苦を、まざまざと物語るものでなくて何だらう、然も娘を売つた親達は「凶作で米がないから、年期が明けても村の懐には帰るな」といふのだ農村の窮乏もここに至つて正視するに忍びない
     「東北の凶作地を見る」 (9.10.22 朝日)

 

  吾あ娘売る気あ夢にもなくてあつたども、周旋屋が家のわらし(娘)ど借金の□なみに眼つけで売れ売れつて四十日の間も付き纏ひした、其うちね飯米あなくなるし女房あ妊娠脚気ねなるし借金取りにや責め立てられるし、おまけね、借金の保証が女房の妹だはで、吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて、とうとう売る腹ねなりした
     「十四娘を賣つた金四十圓の家と化す」 (9.12.1 朝日)

 

このような事態に追い込まれる。「借金」の返済のために新たな借金をし、その借金と引き換えに、「娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく」のである。

 記者は、その状況を「娘一人の身代金は年期四年で五百円乃至八百円」と「身代金」という語を用いて表現し、「娘がポツリポツリ…売られて姿を消してゆく」と「売られて」という語を用いて記している。「東北の凶作地を見る」の記事には「賣られる最上娘」との見出しも附されているし、12月1日の記事の見出しは「十四娘を賣つた金四十圓の家と化す」である。その記事中で記者は「これが一人の津軽娘が娼妓に売られた身代金で買はれた家かと思ふと異様な汚感に襲われざるを得なかつた」との感想を記しているが、そこには「津軽娘が娼妓に売られた身代金」との認識が示されている。

 ここではまず「身代金」という語の辞書的な意味を確認しておこう。

 

  【身代金】 人身売買の代金。みのしろ。
          (『精選版 日本国語大辞典』)

  【身の代金】 身売りの代金。また、人身と引きかえに渡す金。
          (『広辞苑』)

  【身の代金】 人身売買の代金。
          (『明鏡国語辞典』)

 

 「人身売買」に関わる用語であることがわかる。ここで記者が「身代金(=人身売買の代金)」という語を使っているが、それは読者にも共有される認識であったはずだ。

 前回記事(「十四娘を賣つた金 四十圓の家と化す (昭和期日本の貧困 その4)」)では、安中進論文(2017)中で紹介されている昭和9年11月17日の朝日新聞記事を引用しておいたが、そこには「身賣 りの一歩手前で救はれた東北娘」、岩手県の「身賣娘を護れ」とのスローガン、「身賣り救済運動」といった表現がある。娘の「身売り」との認識が、広く共有されるものであったことを示すものと言えるだろう(「身売り」という語が示すのは、「娘」が商品として売買される状況、まさに「人身売買」の認識なのである)。

 

 当時の新聞記事の表現を通して、娘の身売り=人身売買との認識が一般に共有されたものであったことが理解されるであろう。

 

 

 

 

 大日本帝國政府は、このような状況にどのように対処していたのであろうか?

 帝國の「公娼制度」の枠組みの中で、娼妓として供給される女性を「人身売買」の犠牲者として位置付けていたのであろうか?

 

 

 まず、ここでは帝國以前、すなわち近代以前の近世遊郭が、西欧的価値観からどのように認識されていたのかを確かめておきたい。

 

 関口すみ子「近代日本における交渉性の政治過程――「新しい男」をめぐる攻防――」(2016)に興味深い記述がある。

 

  注目すべきことに、大英帝国の初代駐日公使オールコックが、『大君の都』(1863)で、日本にこのことを付きつけていた。一八四三年にアモイの領事館に勤務して以来、中国各地のイギリス領事を歴任していたオールコックは、一八五九年に初代駐日総領事・公使として来日し、帰国後、この書を世に問うたのである。
  その中で、日本では「父親が娘に売春させるために売ったり、賃貸ししたりして、しかも法律によって罪を課せられないばかりか、法律の許可と仲介をえているし、そしてなんら隣人の非難もこうむらない」、「日本では人身売買がある程度行われている。なぜなら娘たちは、一定の期間だけではあるが、必要な法律形式をふんで、売買できるからである。少年や男についてもそうであろうと私は信じている」と「人身売買」を批判していた。
  同様に、「合法的な蓄妾制度のある国で、どうして家庭の神聖さを維持できるのかわたしにはわからない。しかもこの神聖さがなければ、国家的成長と威厳や国家的進歩と文明の基礎は、欠けているか侵されているに違いない」と、「蓄妾制度」を批判していた。

 

 これが幕末の日本への、外部からの(自ら「文明」を誇る側からの)視線であった。明治政府は、このような視線への対応を迫られたのである。関口論文では、まず1870(明治3)年の「新律綱領」の条文が示されている。

 

  一八七〇年一二月領布の新律綱領(全一九二条)では、賊盗律中に「略売人」の条が設けられた。それは娼妓に略買する罪から始まる(「凡人ヲ略売シテ娼トスル者ハ、成否ヲ論セズ、皆流二等、妻妾奴婢トスル者ハ徒二年半」)。人をかどわかして娼妓に売り飛ばすことを固く禁じたのである。

 

 続く明治初年における対応については、山中至「藝娼妓契約と判例理論の展開」(1992)から引いておこう(まず取り上げられているのは、「明治五年一〇月二日太政官第二九五號布告」である)。

 

   一人身ヲ賣買致シ、終身又ハ年期ヲ限リ其主人ノ存意ニ任セ虐使致シ候ハ、人倫ニ背キ有マシキ事ニ付古來制禁ノ處、從來年期奉公等種々ノ名目ヲ以テ奉公住爲致、其實賣買同樣ノ所業ニ至リ以ノ外ノ事ニ付、自今可爲嚴禁事
   一農工商ノ所業習熟ノ爲メ弟子奉公爲致候儀ハ勝手ニ候得共、年限滿七年ニ過ク可カラサル事。但雙方和談ヲ以テ更ニ期ヲ延ルハ勝手タルヘキ事。
   一平常ノ奉公人ハ一ヶ年宛タルヘシ、尤奉公取續候者ハ證文可相改事。
   一娼妓藝妓等年季奉公人一切解放可致、右ニ付テノ貸借訴訟總テ不取上候事。
   右之通被定候條屹度可相守事。

  この布告は人身の賣買禁止を確認し、年季奉公に名を借りる賣買同様の所行を禁止する。また娼妓・藝妓等の年期奉公人は一切解放し、これら奉公人と抱主との間の貸借関係は裁判所で取り上げないというものである。一週間後の同月九日にはいわゆる「牛馬きりほどき」と稱された司法省第二二號によって、

   本月二日太政官第二百九十五號ニ而被仰出候次第ニ付、左之件々可心得事。
   一人身ヲ賣買スルハ古來ノ制禁ノ處、年季奉公等種々ノ名目ヲ以テ其實賣買同樣ノ所業ニ至ルニ付、娼妓藝妓等雇入ノ資本金ハ贓金ト看做ス故ニ、右ヨリ苦情ヲ唱フル者ハ取糺ノ上、其金ノ全額ヲ可取揚事。
   一同上ノ娼妓藝妓ハ人身ノ權利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス、人ヨリ牛馬ニ物ノ返辨ヲ求ムルノ理ナシ、故ニ從來同上ノ娼妓藝妓ヘ借ス所ノ金銀並ニ賣掛滯金等ハ一切債ルヘカラサル事。但シ本月二日以來ノ分ハ此限ニアラス。
   一人ノ子女ヲ金談上ヨリ養女ノ名目ニ爲シ、娼妓藝妓ノ所業ヲ爲サシムル者ハ、其實際上則チ人身賣買ニ付、從前今後可及嚴重ノ所置事。

 抱主と奉公人間の金銭貸借關係について、解放した藝娼妓に対する債權は無効であると指示される。

  さらに明治八年八月一四日に太政官は第一二八號布告を以て、借金について人身を抵當とすることを厳禁する。

   金銭貸借ニ付引當物ト致候ハ、賣買又ハ譲渡ニ可相成物件ニ限リ候ハ勿論ニ候處、地方ニ寄リ間ニハ人身ヲ書入致候者モ有之哉ノ趣、右ハ嚴禁ニ候條、此旨布告候事。但期限ヲ定メ工作使役等ノ勞力ヲ以テ負債ヲ償フハ此限ニアラス。

  しかし他方で、政府としては人身賣買を禁止し、藝娼妓を解放しても、賣春を禁じ、遊郭を廃止する意思は毛頭なかったのであり、従来のように遊女屋が遊女を抱えて營業するのではなく、貸座敷業者が自由意思による獨立した娼妓に座敷を貸すという形式に改め、解放令の直後には、各府懸に「遊女營業規則」・「娼妓藝妓席貸規則」・「貸座敷渡世規則」・「娼妓規則」・「藝妓規則」等を定め、藝娼妓渡世については、地方官が管理するところとなった。これは藝娼妓の公認でもあったから、先の藝娼妓解放令と矛盾するものであり、このような矛盾の中で、多くの藝娼妓関係の訴訟が發生したことが當時の判決原本から窺えるのである。

 

 「人身売買」の禁止が布告されはしても、実際のところは「従来のように遊女屋が遊女を抱えて營業するのではなく、貸座敷業者が自由意思による獨立した娼妓に座敷を貸すという形式に改め、解放令の直後には、各府懸に「遊女營業規則」・「娼妓藝妓席貸規則」・「貸座敷渡世規則」・「娼妓規則」・「藝妓規則」等を定め、藝娼妓渡世については、地方官が管理するところとなった」のである。

 クローズアップされたのは娼妓となる者の「自由意思」であり、特に「廃業の自由」の有無であった。

 ここでは、眞杉侑里「「人身売買排除」方針に見る近代公娼制度の様相」(2009)により、問題を整理してみたい。

 

  東京府に於ける「娼妓規則」と内務省令である「娼妓取締規則」とは、制定母体も発布年度も異なるもの(前者は1873(明治6)年東京府令第145号、後者は1900(明治33)年内務省令第44号)であるが、娼妓取締規則以降もその細部については「本令ノ外必要ナル事項ハ庁府県令ヲ以テ之ヲ定ム」ことになっており、両者(地方規則と娼妓取締規則)は共存するものであって、その条項にも共通点を見ることができる。その中でまず注目すべきは娼妓規則第一条に於いて「娼妓渡世本人真意ヨリ出願之者ハ実情取糺シ候上差許シ鑑札可相渡」との記載が為されている点である。これは「娼妓本人の意思による届出」に対して就業許可を与えるという規定であり、娼妓取締規則に於いても「娼妓名簿ノ登録ハ娼妓タラントスル者自ラ警察官署に出頭し(中略)書面ヲ以テ申請スヘシ」とした第3条に明記されている。この条文は、娼妓就業に際してそれが当人の意思によることを明示する事によって娼妓解放令の禁止する人身売買的要素を排斥する為のものであると理解できる。更に娼妓取締規則に於いては「娼妓名簿削除申請ニ関シテハ何人ト雖妨害ヲ為スコトヲ得ス」との条文が定められており、廃業手続きについては「娼妓名簿削除ノ申請ハ書面又ハ口頭ヲ以テスヘシ」と口頭という簡素な手段を含める事によって廃業の自由を確保、「就業の自由意志」の強化が図られている。
  しかしながら、当人の自由意思が確認された場合であってもすべての人に娼妓稼業許可が与えられるものでは無かった。娼妓就業の条件として「個人の自由意志」以前に「十五歳以下之者ヘハ免許不相成候事(娼妓規則第1条)」、或いは「十八歳未満ノ者ハ娼妓タルコトヲ得ス(娼妓取締規則第1条)」という年齢制限が設けられており、これを満たさない場合には就業は適わない。また、就業後であっても「毎度両度ツツ医員之検査ヲ受ケ其指図ニ従フヘシ病ヲ隠シテ客ノ招ニ応シ候儀決シテ不相成候事(娼妓規則第6条)」と毎月の診療が義務付けられており、この規定は娼妓取締規則に於いても「娼妓ハ庁府県令ノ規定ニ従ヒ健康診断ヲ受クヘシ(第9条)」、「警察官署ノ指定シタル医師又ハ病院ニ於テ疾病ニ罹リ稼業ニ堪ヘサル者又ハ伝染性疾患アル者ト判断シタル娼妓ハ治癒ノ上健康診断ヲ受クルニ非サレハ稼業ニ就クコトヲ得ス(第10条)」という条項に引き継がれている。
  以上に挙げた他にも居住制限や罰則事項などの条文を見る事が出来るのであるが、娼妓自体に関する規定は概ね次の3点に集約することが出来る。
  1、娼妓就業は当人の意思によるものであり、登録が義務付けられる
  2、一定年齢以下については就業を認めない(「娼妓規則(東京府)」では十五歳以下、「娼妓取締規則(内務省)」では18歳未満の就業を禁止)
  3、医療検診が義務付けられ、疾患が認められる場合は娼妓稼業の停止する事

 

 これが、「藝娼妓渡世」をめぐる制度的枠組みであった。付け加えれば、

 

  この人身売買の禁止に関しての規範は1898年娼妓解放令が廃止になって以降は民法90条「公ノ秩序又ハ善良ノ風俗ニ反スル事項ヲ目的トスル法律行為ハ無効トス」がこれを引き継ぐ形となる。

 

すなわち、昭和戦前期において、「人身売買」は「公序良俗」に反する所業として位置付けられるものとされてはいたのである。その枠組みの中で、しかし、「娘の身売り」は当時の現実であり続けた。

 

  床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく

 

  借金の保証が女房の妹だはで、吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて、とうとう売る腹ねなりした

 

 

 

 制度的枠組みとしては「人身売買」は排斥されていたはずだが、当時の一般的な理解としては、家族の困窮の中で「娘の身売り」にまで追い込まれる人々が存在していた。当時の新聞記事を読むことで、「身売り」すなわち「人身売買」との認識が一般的には共有されていたことは既に確認し得ているはずだ。

 

 一方で、大日本帝國政府は「公娼制度」の下での「人身売買」を否定し、司法判断の中でもそれは維持されていた。そこに、新聞記事から読み取れる世間一般の認識と政府・司法の認識の乖離が見出せるであろう。なぜ、そのような事態が生まれていたのか?

 まず、当時の政府の認識と司法判断の理路について知る必要がある。

 

 

 近代の「公娼制度」と呼ばれるものは、山中論文に示されているように、「遊女屋が遊女を抱えて營業するのではなく、貸座敷業者が自由意思による獨立した娼妓に座敷を貸すという形式」によるものであった。「独立した娼妓」の「自由意思」は、形式的には娼妓志願者自身による娼妓名簿への登録により確認されることになる。

 しかし、問題は、そこに金銭が(金銭の貸借関係が)どのように介在しているのかにある。金銭の貸借関係が、稼業契約に拘束的に働いていたかどうかが問題となる。

 

  吾あ娘売る気あ夢にもなくてあつたども、周旋屋が家のわらし(娘)ど借金の□なみに眼つけで売れ売れつて四十日の間も付き纏ひした、其うちね飯米あなくなるし女房あ妊娠脚気ねなるし借金取りにや責め立てられるし、おまけね、借金の保証が女房の妹だはで、吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて、とうとう売る腹ねなりした

 

 当時の新聞紙上に残されたこのエピソードについて考えてみよう。

 「娘」の父が受け取る金銭は、周旋屋を介している(「身代金は五ヶ年の契約で四百五十円だつたが、…、周旋料だといつてブローカーに廿二円五十銭」となる構図)が、貸座敷業者との貸借契約により提供されたものであり、父による貸座敷業者への借金(「前借金」と呼ばれる負債である)となる。

 「娘」は、「娼妓取締規則」の枠組みの中で娼妓登録をすることで娼妓として公許され、前借金を提供した貸座敷業者との間に「娼妓稼業契約」をすることで、貸座敷業者の下で娼妓稼業をし、その稼ぎを前借金の返済へ充てるのである。

 公的枠組み(たとえば東京府の娼妓規則であり、内務省の娼妓取締規則である)の中での娼妓登録と、私的関係(娘とその家族に対する貸座敷業者)の中での金銭貸借契約と娼妓稼業契約がある。人身売買問題との関連において、娼妓登録については当人の自由意思が問題となるだろうし、金銭貸借契約と娼妓稼業契約が連動する中での人身売買要素が問題となるであろう。

 

 公娼制度下での人身売買を否定していた当時の政府の認識と司法判断の理路はどのようなものであったのか?

 

 政府の認識は、1920年代から30年代にかけての国際連盟で、国際的な婦女子の人身売買が問題とされた際の対応に表れている(ここでは眞杉論文を参照する)。

 既に1910年の段階で、「醜業ヲ行ハシムル爲ノ婦女子売買禁止ニ関スル国際条約」が締結されており(日本は不参加)、婦女子の人身売買は国際的に関心を持たれる問題となっていた。1921年には国際連盟第2回会議において「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」の締結が決定され、日本も(年齢制限には留保した上で)参加する。

 1923年には国際連盟による国際的婦女売買に関する調査が行われ(南北アメリカ、地中海沿岸地域等の28ヶ国・112都市)、1928年の第9回国際連盟総会では調査地域の東洋への拡大が承諾され、1931年に東洋に於ける婦人児童売買の実情調査が現実のものとなり、日本もその対象地域となった。その際の日本政府の対応が、ここでの焦点となる。

 

  こうして娼妓就業が「個人の自由意志」であると釘を刺し、個人の自由意志であるが故に廃業に関しても娼妓の意思が介在し得る点についても言及されている。

   娼妓となるには貸座敷業者に対し前借金を為すを普通とする。(中略)然し此の前借金即ち金銭の消費貸借と娼妓稼業は別個の問題であって、債権を確保するが為に人の自由を拘束するが如き契約を為したならば、民法九十条により公序良俗に反するものとして無効となるべく、娼妓取締規則に於ても亦第六条で娼妓名簿の削除申請については何人と雖も之を妨害することを禁止して居る(内務省警保局『公娼に関する調査』1931)

  このように、前借金と娼妓稼業が別個の問題である事、債権回収の為に娼妓稼業を強いる事態を違法とする事によって廃業時も個人の自由意志は貫かれ得るものと主張するのである。

 

  しかしながら、この主張の要である「前借金と娼妓稼業の分離」は、前借金を前提とした貸座敷業者―娼妓間の関係を揺るがし得るものであり、どの程度実行可能であったか疑問が残る。この点に関しては国連調査団からも「若し公序良俗に反するの故を以て斯る(前借金完済の為娼妓稼業を強いる)契約が無効と宣告されますと、外国乃至国内の妓楼経営者は前借金を貸せると云ふ事は為なくなるでせう。そうなれば此の種の商売に対する致命傷です。」(「東洋ニ於ケル婦人児童売買実地調査委員」1931)との指摘もなされており、政府は苦しい説明を余儀なくされている。

 

  1932年の報告書に対して日本政府は、意見書を提出し娼妓取締規則の「有効性」と自由廃業の「実行性」を主張し、人身売買要素の否定を繰り返している。だがそれが受け入れられる事は無く、1933年「国際連盟東洋婦人児童売買調査委員会報告書」に於ても矢張り自由廃業の実行性は疑問視されている。無論、前借金が娼妓稼業に対する拘束力を何ら持ち得ないものであるとすれば、それは公娼制度の土台に位置する貸座敷業者に打撃を与える事となり、制度自体の存続が危ぶまれる。

 

 眞杉論文では、このように問題が整理され、日本政府の主張(「公娼制度=非人身売買」論である)の実際と国際連盟調査団による評価がどのようなものであったのかが明らかにされている。

 

 

 続いて、当時の司法判断の理路を確かめておくこととしたい。

 

 戦後になっての最高裁判決(1955年10月7日)では、

 

  酌婦として稼働する契約と、消費貸借名義による前借金の授受は、それぞれ獨立のものではない。それらは對價関係、密接不可分關係にあるから、契約の一部たる酌婦稼働契約が無効であれば、契約全體も、すなわち借金自體も無効となる。
     (山中論文)

 

とされたが、昭和戦前期では異なる取り扱いを受けていた。山中論文によれば、

 

  この最高裁判決がだされるまでの藝娼妓契約についての大審院の支配的見解は、最も簡略化して述べれば、藝娼妓稼業契約は稼業契約と前借金契約のそれぞれ別個獨立の二個の契約からなり、債務辨儕方法としての前者がたとえ公序良俗に反して無効であっても、このことは純然たる金銭消費貸借契約である前借金契約には何らの影響も及ぼさない、というものである。
  この最高裁の判決にある(最高裁の判決文の中で触れられている―引用者)大審院大正一〇年九月二二日判決「貸金幷損害賠償請求ノ件」では、藝妓稼業を強制する部分と前借金に關する部分に分け、藝妓稼業契約は人身の自由を拘束するものであり、民法九〇條(公序良俗)により無効である。前借金については「純然タル消費貸借」である場合は、稼業契約の効力とは無関係に有効だと言っている。しかし前借金の授受が「名義ハ貸借契約ナレドモ、其眞意ハ藝妓稼業ノ實質ヲ構成シ」「藝妓ヲ為サシムル對價」であれば無効である、とも言っている。この判決は大審院の傳統的見解に従って、藝娼妓稼業契約から前借金契約の部分を分離する二元論的構成を採り、前借金を有効にすることができると判示しており、リーディング・ケースと理解されている判例である。また最高裁の判決に擧げられているもう一つの判例である大審院大正七年一〇月一二日判決「損害賠償請求ノ件」は、抱主が藝妓を誘拐した第三者に對して、債權侵害を理由として損害賠償を請求したケースである。大審院は、稼業者本人以外の者(=親)が本人(=娘)の意思に関係なく、藝妓稼業に従事させる契約を締結した場合は、公序良俗に違背し無効である。しかし本人が抱主と藝妓稼業契約をなせば、その契約は有効であり、娘が自己の契約上の債務たる藝妓稼業をなすことにより、親の抱主に對する債務が履行される結果となる。したがって抱主は藝妓稼業より生ずる利益を収得する債權を有する、と論じる。ここでも親が娘を稼業に従事させることを約し前借金を受け取った關係を、前借金の部分と稼業の部分に分離して判断する態度が示されている。

 

このような構図として示されている。「本人が抱主と藝妓稼業契約をなせば、その契約は有効であり、娘が自己の契約上の債務たる藝妓稼業をなすことにより、親の抱主に對する債務が履行される結果となる。したがって抱主は藝妓稼業より生ずる利益を収得する債權を有する」との大審院の認識は、先のエピソード中の娘と父親、そして貸座敷業者(抱主)の関係に重ねられるだろう。ただし、このケースでは娘は14歳であり、「公娼」の枠組みには入らないはずなので、その点に大審院判決とは別の問題も生じていそうである。

 

 いずれにせよ、昭和戦前期の司法判断の枠組みの中では、「藝娼妓稼業契約は稼業契約と前借金契約のそれぞれ別個獨立の二個の契約」とすることで、少なくとも形式的には、「娘の身売り」と呼ばれる事象を「人身売買」としては位置付けずにいたのである。

 しかし、言うまでもない話であるはずだが、冷害による困窮がなければ、この家族が「娘の身売り」にまで追い込まれることはない。「前借金契約」は困窮の果てのことであり、娘の藝娼妓としての「稼業契約」も「前借金契約」に追い込まれての話である。父が貸座敷業者との「前借金契約」にまで追い込まれることがなければ、娘が貸座敷業者との間に「稼業契約」を結ぶことなどない。「酌婦として稼働する契約と、消費貸借名義による前借金の授受は、それぞれ獨立のものではない。それらは對價関係、密接不可分關係にある」との最高裁判断は、実態に基いた当然のものなのであることが、この家族のケースからも明らかであろう。

 「前借金契約」と「稼業契約」は一体のものなのだ。「前借金契約」のないところに「稼業契約」の必要はないのである。

 ちなみに、明治期にも下級審判決においては、前借金契約と娼妓契約に一体性を見出すものがあった。山中論文には以下の判例が紹介されている。

 

  しかし他方では、東京地裁や東京高裁の初期の判決には、娼妓を抵當にしたところの金銭の貸借契約そのものを、明治五年第二九五號布告や同年の司法省第二二號により、無効としている興味深い判例も見出すことができる。
  東京上等裁明治九年一〇月判決「賃金催促ノ件」には、「抑人身賣買ハ古来國家ノ禁制ナルニ、人身ヲ抵當トシ金圓ノ貸借ヲ約シ身代金ヲ以テ償ヲ受ル如キハ、則制禁ニ相觸レ、不可得爲契約ヲ為シタルモノニ付、裁判上採用不相成候事」とある。

 

この他にも東京裁明治一〇年二月二一日判決「賃金催促ノ訴」、東京上等裁明治一〇年五月二九日判決「賃金催促ノ一件」が「賃金契約それ自體を無効とする」判例として挙げられている。

 明治初期には司法判断にも揺れがあったことがわかるだろう。

 

 

 娼妓となる者の「自由意思」、特に「廃業の自由」について、どのような司法判断がされていたのかといえば、眞杉論文にあった娼妓取締規則の枠組み、

 

  更に娼妓取締規則に於いては「娼妓名簿削除申請ニ関シテハ何人ト雖妨害ヲ為スコトヲ得ス」との条文が定められており、廃業手続きについては「娼妓名簿削除ノ申請ハ書面又ハ口頭ヲ以テスヘシ」と口頭という簡素な手段を含める事によって廃業の自由を確保、「就業の自由意志」の強化が図られている。

 

この枠組みに、確かに実行性はあったのである。娼妓名簿削除申請に際して貸座敷側からの妨害があっても、訴訟を起こしさえすれば娼妓側の申請は司法の場で支持されたことが、当時の判例から明らかになっている(山中論文には多くの事例が示されてている)。その意味で、娼妓の「廃業の自由」が司法の場で保障されていたことも確かなのである。

 

 しかし、この点については、マーク・ラムザイヤー「芸娼妓契約 ―性産業における「信じられるコミットメント(credible commitments)」(1993)の指摘を見落とさないでおこう。「司法の場」へのハードルは、貸座敷業者にとってより、娼妓(あるいはその家族)にとっての方が高かったはずである。

 

  ほとんどの抱主は繰り返しプレイヤー(repeat player)であるから、司法機構を扱うのに必要な情報と法的能力に投資することができた。対照的に、娼婦とその親の大部分は教育も知識もなく、単発的プレイヤー(one-shot player)であって、抱主と比較して、法制度をどのように使えばよいかを学習することがコスト面で効率的なことはあまりなかった。

 

21世紀になっての「ブラック企業」あるいは「ブラック労働」の問題においても、訴訟を選択する労働者は少なく、多くは「泣き寝入り」であるのが現実なのである。

 

 貸座敷業者(抱主)と娼妓(娼婦)は対等なプレイヤーではない。娼妓が負っているのは自身のではなく家族の債務なのであり、それだけでハンディとなっていたはずである。

 この点について眞杉論文では、

 

  日本政府は、個人の自由意志を軸として就業・廃業時にそれが発揮される事、或いは自由意志の発揮が阻害される場合にあってはそれを処罰対象と認定する事により「他者の拘束を受けることが無い=人身売買ではない」と近代公娼制度の人身売買的側面を否定してきた。これに対し国連調査団は1932年実地調査報告書に「此の法令(娼妓取締規則第6条)の精神並びに目的は常に必ずしも遵守せられざるものの如く、警察当局が警察署に雇主を出頭せしめ、之と廃業希望者本人又は其の父母家族と協議せしめ、又は本人を壓迫する等の事実は、屡本人をして其の年期満了又は雇主に対する債務完済に至るまで貸座敷に止まらしむるの結果を来たす懼れあり」と日本政府の主張を疑問視する見解を寄せており、前借金と娼妓稼業に関連を見出している。この国連調査団の見解を鑑みるに、「前借金―娼妓稼業」を不可分と認識するのであれば必然的に廃業時の自由意思の発揮は困難なものであり、「非人身売買」主張についてかなり懐疑的である様子が窺われる。

 

このように「警察当局が警察署に雇主を出頭せしめ、之と廃業希望者本人又は其の父母家族と協議せしめ、又は本人を壓迫する等の事実」を国連報告が指摘していたことを明らかにしている。「廃業希望者本人」だけの「自由意志」の問題ではなく、「其の父母家族」の存在も廃業希望者本人には無視し得なかったであろうことにも想像力を持たねばならない。当時の当事者の心情の問題(「ゲーム理論」の中での当事者の理論的関係性の問題―それがラムザイヤー論文の問題意識の骨格となっている―としてではなく)としては、債務者(其の父母家族)は債権者(貸座敷業者)より弱い立場にあると考えられていたのであり、前借金を前提とした稼業契約は、娼妓たる娘に拘束的に機能したはずである。「廃業の自由」が一般的に行使されるものであったなら、「娘の身売り」が社会問題として新聞紙面を占め、読者の関心を集めるようにはならない。

 眞杉論文の指摘を思い出そう。

 

  前借金が娼妓稼業に対する拘束力を何ら持ち得ないものであるとすれば、それは公娼制度の土台に位置する貸座敷業者に打撃を与える事となり、制度自体の存続が危ぶまれる

 

まさに前借金が娼妓稼業に対する拘束力を持っていたからこそ、公娼制度は維持されていたのであり、その現実認識に基づくことで最高裁の判断も導かれたのである。

 

 

 

 問題が「娘の身売り」と表現されることによって、そこが「人身売買」の現場であるとの認識が一般に共有されていたことが、当時の新聞記事を通して、あらためて確認出来た。

 一方で、当時の日本政府も司法判断も、公娼制度が人身売買を排したものであると主張していた。そこでは、「前借金と娼妓稼業の分離」との論理が用いられていたが、現実の問題としては、前借金は娼妓稼業に対する拘束力を持つものとして機能していた。明治初期の司法判断にもその認識があったし、1930年代の国際連盟調査団からも問題として指摘されていた。戦後の最高裁判断は、そのような戦前期から指摘されていた問題を、あらためて司法の場で認めたものと言える。日本の司法は、戦後になってやっと「娘の身売り」を「人身売買」の問題として取り扱うに至ったのである。オールコックの「文明」への遅れての一歩というべきであろうか?

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
  投稿日時 : 2018/06/25 10:57 → https://www.freeml.com/bl/316274/319785/
  投稿日時 : 2018/06/25 11:00 → https://www.freeml.com/bl/316274/319786/

 

 

 

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2018年5月17日 (木)

十四娘を賣つた金 四十圓の家と化す (昭和期日本の貧困 その4)

 

 古書市で入手した昭和9年と10年の新聞切抜き帳(スクラップブック)に貼られた記事を用いて、近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実がどのようなものであったのかについて読み進めてきた。

 

 昭和9年、冷害に襲われた東北地方(冷害による飢餓の実態は「草木に露命をつなぐ (昭和期日本の貧困 その2)」参照)の人々は、「口べらし」のために娘を身売りするまでに追い込まれた(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」参照)。

 

 「娘の身売り」に頼る貧困層の姿(「廓模様新紅毛情史 (昭和期日本の貧困 その3)」参照)。それが、昭和戦前期の日本の現実、近代日本の現実の姿であった。

 

 今回も、当時の紙面から切り抜かれ、スクラップブックに残された新聞記事から、「娘の身売り」の実状に迫ってみたい。

 

 

 

 

スクラップブック(昭和9年~10年) 
     十四娘を賣つた金四十圓の家と化す (9.12.1 朝日)

 

 

 

 今回取り上げるのは、昭和9年12月1日付の朝日新聞記事である。

 

 

 

 

 十四娘を賣つた金
  四十圓の家と化す
    冬籠りの窮農を訪ふ
          東北凶作地にて
          荒垣特派員

 

 村の夜道は真つ暗だつた、村には外灯がなかつた、それは昭和六年の凶作から廃止になつたのだ、凶作は色んな意味で村から『明るさ』を奪つて行く、今度はまた娘を、凶作は村から奪い去らうとしてゐる、もう幾人も奪つて行つてしまつた、私はその標本を青森の新城村に求めた
     ▽   △
 『これがその、娘が化けた四十円の家ですよ』と教へられた窓から洩れる鈍い電灯の光で畑の菜つ葉が真白な霜に萎れてゐるのが見えた、この村としては割合に小綺麗な家だが、これが一人の津軽娘が娼妓に売られた身代金で買はれた家かと思ふと異様な汚感に襲われざるを得なかつた
  入つてみると、七十を越したお婆さんと、身売娘の両親と五つ位の女の児とが、煙に燻ぶる囲炉裏を囲んでゐた、女の子は風邪をひいてギャーギャー泣いてゐた
 姉娘が売られて居なくなつてからこの児も泣虫になつたさうだ、『どうして娘つ子売れしたば?』ときくと、婆さんは泥炭の煙に傷められたトラホームの眼をしばたいて『スミエあ売られて難儀してす、吾あ死んでもいいはで孫達あ楽にさせてやりてい』と赤く瀾れた眼から涙をボロボロこぼした、この佐藤一家は、家を借金のカタに取られて近所の家に同居してゐたが、スミエといふ十四の娘を名古屋市賑町の娼妓屋に売つた金で、此家を買つたのだ、身代金は五ヶ年の契約で四百五十円だつたが、そのうち百円は一本になつたら渡すとの事で、娘の着物代にといつて五十円、周旋料だといつてブローカーに廿二円五十銭、親爺と周旋屋とで娘を名古屋まで送つて行つた汽車賃、宿料、自動車代その他雑費だといつて百廿七円五十銭をとられ、結局手に渡つたのは僅百五十円だつた、そのうちから七十円の借金を支払ひ、四十円で家を買ふと残る四十円も何といふことなしに消えてしまつた
     ▽   △
 父親はいつた
  吾あ娘売る気あ夢にもなくてあつたども、周旋屋が家のわらし(娘)ど借金の□なみに眼つけで売れ売れつて四十日の間も付き纏ひした、其うちね飯米あなくなるし女房あ妊娠脚気ねなるし借金取りにや責め立てられるし、おまけね、借金の保証が女房の妹だはで、吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて、とうとう売る腹ねなりした
 と溜息をついた、母親はまた母親で
  家のわらし(娘)あ、吾あ妊娠脚気で留守の間ね死んだりへば困るはで行きたくねいといつてをれした、取り返せねいもんですべか?
 と今になつて返らぬ愚痴をいつてゐる
     ▽   △
 そして娘からはもうこんな手紙が来るやうになつた
  …私達はシヨウギさんがゐる家にゐるものですから、ほんとうに嫌ひです、主人は、お正月になるとお客さんをとらせるといつてをします、私はシヨウギなんかやるんぢやない、ほんとうにつまらない、しつかりしたことはお正月にでなければ分かりませんが、ほんとうにお客さんをとらせると直ぐ手紙を出します……
 まだ半信半疑でおびえてゐる十四歳の津軽娘の姿!手紙を出すことより外に策を知らぬ可憐さ!
     ▽   △
 いつのまにか出た冷たい冬の月を浴びて、私は次の『娘を売つた家』に行つた、そこには逆睫毛に悩む母親と、小倉の夏服に綿を入れた洋服を着た少年とがゐた、この綿入れの夏服はやはり姉さんが売られた余剰価値だつた、この村には洋服を着てゐる子供は一人もゐないので、松雄少年はこれが得意だつた、そして『姉さまのお蔭で……とお礼状を出した、すると身売娘からはこんな返事がきた
  松雄は私のお蔭で立派な服をきたと書いてをりますが、私のお蔭ではありません、父上様や母上様のお蔭です……
 いはば自分を売つた非道の親、それを微塵も怨まぬ心はいぢらしい限りだ
     ▽   △
 この娘の母は娘の身代金で逆睫毛の目を手術する事になつてゐた、ところが結局そんな金は余らずいまだに逆睫毛で悩んでゐるとの知らせに娘はビツクリしてゐる、そして自分が家にゐる時は、いつも母の逆睫毛を抜いてやつたのだが、今はどうしてをられるだらうかと『逆睫毛は今誰にとつてもらつてをりますか、知らせて下さい』と涙の筆を綴つてゐる
  私は夜外に出て家の方を見て、家の者が達者にゐますやうにとお月様に祈つてゐます

 

 

 

 記事は「娘の身売り」による解決を望ましいものとして取り扱っているわけではないが、それ以外に手段を持たぬ東北農民の現実を伝えるものとなっている。描かれているのは、冷害に付け込んで実直な東北農民を「娘の身売り」にまで追い込む周旋屋の姿であり、周旋屋を前にしてなす術のない農民の姿である。

 記事の見出しには、

  十四娘を賣つた金 四十圓の家と化す

とあるが、父親は家欲しさに娘を売ったわけではない。

  吾あ娘売る気あ夢にもなくてあつたども、周旋屋が家のわらし(娘)ど借金の□なみに眼つけで売れ売れつて四十日の間も付き纏ひした、其うちね飯米あなくなるし女房あ妊娠脚気ねなるし借金取りにや責め立てられるし、おまけね、借金の保証が女房の妹だはで、吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて、とうとう売る腹ねなりした

この言葉を疑う必要を(私は)感じない。

 貧困の果てに、

  吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて
  とうとう売る腹ねなりした

ここにまで追い込まれたのである。

 解決の手段が「娘の身売り」以外にない状況。

 記者は取材に先立って、

  これが一人の津軽娘が娼妓に売られた身代金で買はれた家かと思ふと異様な汚感に襲われざるを得なかつた

このように心情を吐露し、母親の言葉に対しては、

  今になつて返らぬ愚痴をいつてゐる

と非難めいた感想を漏らすものの、

 貧困→娘の身売り

これ以外に手段を持たぬ現実に、傍観者であるしかなかった。

 

 記事にあるのは決して例外的状況などではなく、冷害による凶作下での一般的状況なのである。以下に示すのは、昭和6年の事例である。

 

  昭和六年、農業恐慌にあえぐ東北、北海道の農村を冷害による凶作が襲った。同年一〇月三一日付の『東京朝日新聞』は「未曾有の凶作で、北海道、青森に飢饉来 雪近く不安つのる」と、その惨状を報じた。
  この年の東北地方は、四月から七月にかけて異常低温に見舞われ、特に七月の平均気温は盛岡で一八・四度という低さだった。加えて六月の多雨日照不足で、稲の苗代での発育不良、移植期の遅れ、田植え後の活着障害、生育の障害という状態におちいった。
  被害のもっともひどい青森県では、米価下落で「豊作貧乏」といわれた五年の一三〇万石に対し、六年の収穫は半分以下の六〇万八〇〇〇石、北海道も稲作は平年の三六㌫強、畑作六一㌫という大減収だった。作家の下村千秋は、岩手県北部から青森県へと「飢餓地帯」を歩き、「餓死線上」の農民は「岩手県下に三万人、青森県下に十五万人、秋田県下に一万五千人、そうして北海道全道には二十五万人」(『中央公論』昭和七年二月号)と書き、青森県の寒村では「どうせ飢え死ぬなら、せめて一度でも、米のめしがげんなりするほど喰つて見てえ」(『前出』)と老人が語るのを聞いた。
  農民は米不足のため、粟、ひえなどの雑穀、だいこん雑炊、それに木の芽や草の葉を混ぜた薄いかゆなどを食べた。学校へ弁当を持って行けないいわゆる欠食児童は、北海道一万八九八人、青森県六一〇七人、秋田県九九六人、岩手県三五三九人、全国では二〇万人を超すと推定された(昭和七年七月文部省調べ)。
  北海道庁の調査では、七年上半期に六〇六件の人身売買があり、平均一〇六円で多くは都市に売られた。また、内務省社会局の調べでは、青森、山形、秋田、福島、新潟の各県でも、六年一月から七年六月までの間に計一万六〇四人の若い女性が、家族を支えるために「身売り」をした。
  廃娼連盟は六年一一月、他県への「娼妓移出地」といわれる山形県最上郡西小国村の実状を調査し、報告書『農村疲弊と子女売買問題』(松宮一也、橋本成行共著)をまとめた。それによると同村の出稼ぎ娼妓は五七人で、その数は村の一五歳~二五歳の女子四一七人の約一四㌫にあたった。現金収入がなく、負債を返却するには、定期的に村を回る紹介業者に娘を売るしか方途がなかった。
  この惨状が報道されると、東京では学生や無産党系、キリスト教系の諸団体が救援活動を始め、報道も詳細になった。東北・北海道の冷害は、農村不況を克服しようという世論形成の契機になったのである。
     (『昭和 二万日の全記録 第2巻』 講談社 1989  307ページ)

 

 

 ここに紹介された「廃娼連盟」による報告書にある山形県最上郡西小国村は、まさに「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」の記事の舞台となった地域でもある。廃娼連盟による昭和6年の調査で明らかになったのは、

  同村の出稼ぎ娼妓は五七人で、その数は村の一五歳~二五歳の女子四一七人の約一四㌫にあたった。現金収入がなく、負債を返却するには、定期的に村を回る紹介業者に娘を売るしか方途がなかった。

という悲惨な現実であった。

 

 朝日新聞記事には「まだ半信半疑でおびえてゐる十四歳の津軽娘の姿」とあったが、当時の公娼制度下でも年齢制限はあり、本来なら「十四歳の津軽娘」が人身売買の対象となることはないはずなのだが、しかし、そこには抜け道があった。元森論文には以下のようにある。

 
  公娼のみを調べた場合,18歳未満は登録できないというタテマエが守られているためそれ以下の者はいないが,私娼には18歳未満もしばしば含まれていることが報告されている。たとえば,上村行彰『売られゆく女』(大正7年,集成2:209)では,娼妓が「異性に触れた当時の職業」として,「家事手伝い」,「女工」に次いで「芸妓酌婦稼業中」が2割1分と多いと述べ,16歳以下の3分の1は芸妓酌婦稼業中に性行為を行っていたことを明らかにしている。「東北凶作を契機とせる女子の貞操問題」として東北の芸娼妓を調べた調査では,12歳7人,9歳1人を含む14歳未満の女子が60人いたことが報告され,「多分口減らしと,之に依つて幾等かの生計費を得て家族の食餌に資せんとしたものであらう」と述べられている(三浦精翁『売られ行く娘の問題』昭和10年,集成5:308-309)。
  帝国議会でも,芸妓の「約半分位は十三で客に接することを強いられて居ると云う記事が(引用者注:前日の新聞に)出ております」(土屋清三郎,第56回帝国議会衆議院未成年者飲酒禁止法中改正法律案外一件委員会第6回速記録,昭和4年,p.24)と問題視されたり,「私娼窟」における低年齢層の売春問題が報告されている。
     (元森,絵里子「自由意志なき性的な身体―戦前期日本の公娼制問題における「子ども」論の欠如―」 『明治学院大学社会学・社会福祉学研究(139)』 2013)

 

 当時から「低年齢層の売春問題」は深刻なものとして注目を集めてはいたのである。「まだ半信半疑でおびえてゐる十四歳の津軽娘の姿」は、決して特異な事例ではなかった。

 元森論文には以下の事例(どちらも昭和4年の事例である)も紹介されている。

 

  現在公娼に於きましては,十八歳以上の女でなければ営業に従事することが出来ないのでありまするが,寺島,亀戸のやうな,いわゆる淫売窟に居りまする所の女と云ふものは,十五歳,十六歳,甚しきは十三歳,十四歳と云ふ風な,殆ど吾々言ふに忍びないやうな少女が,何れも売淫行為を行って居るのであります,是等の年少な少女と云ふよりも,寧ろ幼女に近い婦人と云ふものは,何れも自分の意思に反して ,或いは親の犠牲となり ,若しくは暴行脅迫 ,中には傷害迄受けて ,斯る魔窟に拉し去られて醜業に従事して居るのであります(川島正次郎,第56回帝国議会衆議院請願委員会議録(速記)第9回,昭和4年,pp.2-3) 

 

  最近二万八千二百三十四人の娼妓に就いて取調べた処によれば,内尋常小学の中途退学者が二万〇〇五十八人(即ち七割一分強),まったく尋常小学にさへ登らなかつた者が四千四百六十五人(即ち一割五分強)で,つまり全数の計八割六分以上は,尋常小学に入らないか入つても卒業しないで退学した者共であります。彼等は全く無教育無知である。之に義務教育完了の機会さへ与へず ,之を娼妓などにならせて置くと云ふは ,誰の責任であるか。此の点に於て,日本の国家はその臣民に対する当然の務めを行うて居ないものと言はれても,致方はありますまい。(山室軍平『公娼制度の批判』昭和4年,集成3:125)

 

 川島正次郎の言葉には、「十五歳、十六歳、甚しきは十三歳、十四歳と云ふ風な、殆ど吾々言ふに忍びないやうな少女」が、「何れも自分の意思に反して 、或いは親の犠牲となり 、若しくは暴行脅迫 、中には傷害迄受けて 、斯る魔窟に拉し去られて醜業に従事して居」たことが示されている。

 

 

 悪質な周旋屋の実態については、安中論文に当時の新聞記事を用いた事例紹介がある(安中 進「娘の身売り」の要因と鉄道敷設 現代政治経済研究所(Waseda INstitute of Political EConomy) 早稲田大学 WINPEC Working Paper Series No. J1702 October 2017)。こちらは昭和6年と8年の事例だ。

 

  打続く農村不況に加へて大凶作に見舞はれた青森縣下の農民は ,既に売る物は皆尽して食料に代へ現金は全く農村から姿を消すに至つたが ,暮れを控へて農民の逼迫につけ込む悪徳周旋業者が最近横行し ,純ぼくな農村の娘さん達を「給金高い東京お屋敷へ世話をする」などと言葉巧みに欺き ,東京方面の魔くつに賣飛ばしてゐる,もつとも被害の甚しいのは上北 ,下北 ,三戸地方の収穫皆無地で ,青森発上野行列車などには手付金二 ,三圓といふ安い直段で取引された純な農村の乙女一團が周旋人に連れられて二組か三組は必ず乗込んでゐる有様で,警察方面でも人買ひの取締りに躍起となってゐる。
     「凶作につけ込む娘買ひの悪周旋屋  青森地方では二三圓の手付けで」『東京朝日新聞』 1931 年 12 月 26 日

 

  「寺島署では向島区寺島町七ノ六〇前科二犯無職諸岡ひで(三二)同町七ノ七前科一犯松井幸太郎(三六)同町六の一三四無職小林武(三三)足立区竹塚五十嵐丑蔵八もぐり 六)(足立区竹塚五十嵐丑蔵八もぐり 六)同町の一三四無職小林武(三三)足立区竹塚町四一四五十嵐丑蔵(三八)のもぐり周旋屋一味を留置取調べてゐるが同人らは諸岡ひで総指揮官とし玉の井根城玉の井根城秋田 ,山形 ,北海道等凶作地の婦女を甘言もつて連れだし八十圓から三百五位で玉北海道等凶作地の婦女を甘言もつて連れだし八十圓から三百五位で玉井,亀戸等の魔窟に賣り飛ばし手数料を身代金半分以 上取つてゐたもので被害者は秋田縣生れ影澤あき( 二一)外十八名の多数に上り係官もそ悪辣な手段驚いてゐる」
     「モグリ周旋団 凶作地の子女へ魔手 」,『読売新聞』 , 1933 年 1月 31 日)

 

 

 先に紹介した朝日新聞記事には、記者に「いはば自分を売つた非道の親、それを微塵も怨まぬ心はいぢらしい限りだ」との感懐を抱かしめた「身売り娘」のエピソードが載せられているが、このような事例が決して珍しいものではなかったらしいことも、安中論文の紹介する新聞記事から読み取れる。

 

  十六日朝 ,岩手県警察部からの至急配で危うく身賣 りの一歩手前で救はれた東北娘がある。岩手県稗貫郡石鳥谷町大字北寺林の貧農似内櫻香長女くりさん(二七)永年の間,婚期も忘れて女中奉公に出た仕送りで老父と三人弟妹の一家を養つて来たが ,父子五人が木の實も食へぬ赤貧から青春を汗のために失つた女には身賣り四年間がタツタ三百圓にしか値なかつた ,しかし大金を握らされた一家にとつては桂庵の姿が神にさへ見えたといふ ,この くりさんがいよ洲崎遊郭の春賣樓に売られて娼妓登録の許可申請から縣警察部への照會となり「身賣娘を護れ」スローガン下に奔命してゐる同縣からのS・O・Sで危なく救ひ出された。さてここに喜ばないのは當のくりさん「私を救つて下すつた事は有りがたい事です,けれどもどうして私がこのまま國許へ帰れませうまとまつた金が無ければ父子五人が野垂死をしなければなりません,私一人が死んだ気になれば父や弟妹達が救はれますどうぞ私を娼妓にして下さい」といふ ,警視廳でも「身賣り救済運動」の将来に投げかけられた切實な問題として,早速くりさんを愛國婦人會の手を借りてどこか前借出来る女中奉公口を探してやることになつた
    「『私が犠牲になれば』 救われて浮かぬ娘 凶作地の『血の記録』」 ,『東京朝日新聞』 ,1934 年 11 月 17 日

 

 「私を救つて下すつた事は有りがたい事です、けれどもどうして私がこのまま國許へ帰れませうまとまつた金が無ければ父子五人が野垂死をしなければなりません、私一人が死んだ気になれば父や弟妹達が救はれますどうぞ私を娼妓にして下さい」という「身賣娘」の言葉。この、くりさんの「自分の意思」を「美談」として位置付けることを是認することは正しいのか? 確かに近代日本には、そのような「自分の意思」を示した「身賣娘」の姿に「美談」を感じ取る土壌があった。だからこそ、記者は「いはば自分を売つた非道の親、それを微塵も怨まぬ心はいぢらしい限りだ」との心情を吐露したのであるし、くりさんは「どうぞ私を娼妓にして下さい」との言葉を発したのである。

 その近代日本の現実の中で「身賣り救済運動」に奔走した人々も確かに存在した。しかし、その救済策は「どこか前借出来る女中奉公口を探してやること」でしかなかった。

 

 これが、昭和戦前期の貧困層が置かれた現実であった。そして、昭和12年には大日本帝國は「支那事変」という名称の下での中国との実質的戦争状態に陥る。昭和も戦時期(戦中)となるのである。

 戦時期昭和には、貧困層の娘たちは、いわゆる従軍慰安婦の供給源となる。かつての公娼制度の枠組みの上に、慰安婦の供給システムが構築される。貧困と「娘の身売り」の構図が、軍の存在によって維持される時代となっていくのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 :  2018/05/16 21:07 → https://www.freeml.com/bl/316274/319007/

 

 

 

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2018年4月 1日 (日)

2018年4月1日:再び「フェイクニュース」の果てに

 

 

 

Grab 'em by the Venus, @GingerPower
 https://www.forbes.com/sites/davidalm/2017/01/27/masterpieces-re-imagined-to-humiliate-trump/#40ea6119362d

 

 

 

 ドナルド・トランプ大統領の治世二年目の4月1日である。本来なら「エープリルフール」ということで、ネタを考えなくちゃいけないんだが、私にはトランプを超える想像力がない。

 

 昨年(「2017年4月1日:「フェイクニュース」の果てに」)に引き続いて、今年もホントの話である。

 

 

 

 

  【AFP=時事】全米でセクシュアルハラスメント(性的嫌がらせ)問題の議論が行われる中、自身も性的不品行を繰り返し非難されてきたドナルド・トランプ(Donald Trump)大統領は30日、2018年4月を「全米性犯罪啓発予防月間(National Sexual Assault Awareness and Prevention Month)」にすると布告した。
  
  ホワイトハウス(White House)が発表したトランプ大統領の布告は「悲しいことにわが国の社会において性犯罪はいまだに横行しており、加害者が責任を免れることがあまりにも多すぎる」「こうした許しがたい犯罪は親密な関係のなかで、公共の場で、そして職場で見境なく行われている」としている。
  「しかし被害者が沈黙を守っているケースが多すぎる。加害者からの報復を恐れていたり、司法制度を信じられなかったり、トラウマになるような経験による痛みと向き合うことが難しかったりするのだろう」
  「わが政権は性犯罪を啓発し、被害者が加害者を特定し、責任を取らせることができるよう取り組んでいく」
  少なくとも20人の女性が、大統領になる前のトランプ氏から性的暴行またはセクハラを受けたとしてトランプ氏を非難している。ホワイトハウスはこうした女性たちはうそをついているとの立場を維持している。【翻訳編集】 AFPBB News
     (AFP=時事 2018/03/31 10:43)

 

 大統領が「全米性犯罪啓発予防月間(National Sexual Assault Awareness and Prevention Month)」と布告したのは3月30日だが、「全米性犯罪啓発予防月間」は本日、まさに「エープリルフール」であるはずの日がスタートである。

 「わが政権は性犯罪を啓発し、被害者が加害者を特定し、責任を取らせることができるよう取り組んでいく」って、これがセクハラ大統領トランプのセリフなのだ。大爆笑的ネタとしか思えない。

 

 昨年の関連報道を思い出してみよう。

 

  トランプ氏は女性蔑視発言でたびたび物議を醸し、過去に「女はやらせる。何だってできる。プッシー(女性器を指す俗語)をまさぐってな」と語っていたことも明らかになっている。
     (AFP=時事 2017/01/18 09:36)

 

 このエピソード、ちゃんと録音が残されているのだ。しかし、もちろん、ホワイトハウス的には、それでも「フェイクニュース」に過ぎないということになるのだろう。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 :  2018/04/01 17:43 → https://www.freeml.com/bl/316274/318049/

 

 

 

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2018年3月29日 (木)

廓模様新紅毛情史 (昭和期日本の貧困 その3)

 

 たまたま古書市で手に入れた、昭和9年~10年の新聞の切り抜き帳(スクラップブック)に貼られた記事を読むことで、「近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実」に触れてきた(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」及び「草木に露命をつなぐ (昭和期日本の貧困 その2)」)。

 

 冷害による大凶作の中で、

 

    稗飯を食へるものがめぐまれた最上流の農家で、学童の大半はあざみの葉、山ごぼうの葉椎の実、やどり木の葉を貪り食つてははかない露命をつないでゐる、大根の葉、そばの粉などが食へたら中流以上の家庭で、甚だしい地方――主として岩手県の郡部から津軽方面――では藁を粉にして水とともにすすりこんだり団栗をかじつたり『生きんがため』『食はんがため』の悲惨な社会実話がくり返されてゐる
     (東京日日新聞 昭和9(1934)年10月17日)

 

このような食糧事情に追い込まれ、

 

  娘一人の身代金は年期四年で五百円乃至八百円、然し周旋屋の手数料や着物代や何かを差引かれて実際親の手に渡るのは、せいぜい百五十円位だ、可愛い娘を手放しても、百五十円の金を握りたい、一つの悪風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう
  かうして床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく、淪落の巷を流浪する最上娘の「新庄節」こそ彼女等の望郷の憶ひをこめた哀歌であると共にドン底の農村の悲しむべき生活苦を、まざまざと物語るものでなくて何だらう、然も娘を売つた親達は「凶作で米がないから、年期が明けても村の懐には帰るな」といふのだ農村の窮乏もここに至つて正視するに忍びない
     (朝日新聞 昭和9(1934)年10月22日)

 

「口べらし」のために娘を身売りするまでに追い込まれる。しかも「凶作で米がないから、年期が明けても村の懐には帰るな」との言葉が出るところまで追い詰められていたのである。

 

 

 

 今回も、スクラップブックに切り貼りされた新聞記事から、再び「娘の身売り」の現実、人身売買に頼るしかなかった「近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実」に迫ってみたい。

 

 

 

 取り上げるのは昭和9(1934)年12月10日の朝日新聞記事である。タイトルは「廓模様新紅毛情史」、枠付きの大見出しとなっている。

 歌舞伎の名題を思わせる大見出しだが、実際、「芝居じみた」という語がふさわしいような気さえしてしまうエピソード(実際、記者自身が「まるで劇の筋書でも読む様な」と書いている)である。

 

 

 

スクラップブック(昭和9年~10年) 
     廓模様新紅毛情史 (9.12.10 朝日)

 

 

 

 (原則として、見出しの表記は原文のまま―変換可能な限り―とし、本文は「かなづかい」は原文通りだが、旧字体は新字体にあらため、本文中の大きな活字は太字で表記)

 

 

 廓模様新紅毛情史

 吉原遊郭へ飄然遊んだ一外人が、その遊女の優しいもてなしと、余りにも可哀相な身の上話しに同情、約二千円を投げ出して身請から落籍祝ひまでし更に同女に小遣ひ五百円を渡して母の許に帰し母娘の喜ぶ様を見てほつと安心、浅かつた三日間のなじみの絆を絶つてその夜十時横浜出帆のプレジデント・フーヴア号に乗船、アメリカへの孤独の旅に上って行った、吉原遊女と旅の一外人――まるで劇の筋書でも読む様な新しい紅毛情史である【写真は十六夜こと細屋みよ子】

 身請に大枚の金
  絆を切り船出
    夢かと許り喜ぶ彼女と親
      提供の主 和蘭の旅人

 浅草区新吉原京町一ノ一七長金楼事中村彌一方へ去る四日夕刻日本人ガイドに案内された一外人が登楼した、『オランダ人、ヤン・シー・フオツク(二八)』と署名し娼妓十六夜(二〇)を相手に約一時間遊興して帰ったが更に六日夜八時再び登楼同夜は宿泊した七日午前一時半頃の事である、突然ガイドを通じて主人に会いたいといふので主人が会ふと『借金はいくら位ある?』といふ『千五百円位だらう』と大ざつぱの返事をすると、『それでは身請して自由にしてやりたい、金は一度帰つて持つて来る』と非常な乗気である、同楼ではよくあるお客さんの気まぐれと別に気にもしなゐでゐると、その朝五時半語呂帰つたその外人がその日(七日)午後三時頃三度び現れ札束を積んで『すぐ身請する』といふ、眼の前の札束を見せられて始めて楼主はびつくり、先づこの喜びを親許に知らせねばなるまいと「十六夜」の母、深川区三好町二ノ一四、細屋ふみ(五三)を円タクで迎へにやると、ふみはびつくりして現れ、娘の手を取つて喜びの泣き笑ひである、母娘の喜びを眺めていたこの外人、それから間もなく廓の芸者数名に、同家の娼妓十三名その他雇人全部を大広間に集め一人五円の総花をまいた上「十六夜」から改めて本名に返つた細屋みよのため杯を挙げてその前途を祝福した上、持って来た珊瑚の指輪を彼女の指にはめ更に自分の首に巻てゐた真紅な襟巻を彼女の肩にかけてやりながら
  自分は今夜十時出帆の船でアメリカへの旅に上って行く、もう再び会ふ機会もあるまいが、あなたは結婚して幸福な生活に入つて下さい、若し家庭に子供でも生まれたら、せめてその子供の写真を送つてもらひたい
 といふ、更に並ゐる朋輩衆に向かひ
  もし私にお金がどつさりあつたらあなた方全部も身請けしてやりたいが、もう私には金がない今夜立つ船では一等に乗る積りだつたが、もう金がないので二等の旅しか出来ないのです、それでは皆さん御機嫌よう、サヨナラ
 この意味が日本人ガイドを通じて語られると大広間の酒席もしんみりとなつて泣き出す始末、その日の夕刻、この喜びの細屋母娘はこの外人に軒先まで送られて自宅に引き取つて行つたが、その後姿を見送つた彼はガイドを連れそのまま夜の街に姿を消した、同夜十時横浜出帆のプレジデント・フーヴア号二等船客の中には『アムステルダム、二八歳、旅行家Y・C・FOCK』と署名した一外人の淋しい姿があつたといはれる

 苦界の姉も
  救ひに
   貰つた小遣で

 たつた三日の間に夢のやうな境遇の激変にあつた細屋みよは千葉県長生郡八積村生れ、職人をしてゐた父大西徳次郎に連れられその後深川区月島に住んでゐたが、震災で父が行方不明になつてから、母ふみが八人の子供を抱へて女土方となつて育ててゐたが、遂にどん底に落ちて
  姉一人は栃木県に売られ彼女も昨年八王子で芸者となり、ついて今春五月、千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつたもの、その際母の手には僅か百円が渡つただけらしく、おとなしい女として長金楼でも大事がられてゐた
 九日夜みよはフオツク氏から贈られた小遣五百円余の中から、栃木県の苦界に身を沈めてゐる実姉を救ひたいと、実兄と共に、同夜上野駅発の列車で栃木県下に向ひ、深川三好町の長屋には母のふみさんがどん底から蘇る一家の喜びに目を泣きはらしてゐる

 『籠釣瓶』が動機
  純情に感銘
    本國に打電して金策

 【神戸電話】 この外人の身許はガイドをつとめた神戸市加納町一丁目互明荘アパート止宿通訳バチェラー・オブ・アーツ中村三郎君によつてオランダの青年実業家Y・C・フオツク氏(二八)と判つた同君の話によるとフオツク氏は日本観光中東京の歌舞伎座で左団次、松蔦一座の籠釣瓶を見物、日本の花魁に興味を感じ一夜吉原の長金楼に遊び敵娼をつとめた十六夜の真情にほだされ翌日日光観光に赴いたが、ホテルでも溜息ばかりついて深く物を思ひつめて居た
  あの花魁は別れるときに私が五円をチップに与へたが遠い外国から来た人に要らぬお金を使はすのは勿体ないとどうしても取らなかつた、何といふ純な気持であらう、僅か数時間の対面ではあつたがあの子の起居振舞総て優美でしとやかでどうしても商売女とは思へないあんな正直な女を籠の鳥にしておくのは自分の良心に恥ぢる
 といひこの女に邂逅しただけで世界観光の徒事でなかつたことを喜んでゐた、中村君の骨折りで直に本国に打電金策した結果、フーヴア号が横浜出帆「七日午後十時」の直前に二千円の為替が届き劇的な情景の裡にぽんと彼女のために投出し、彼女のしごき一本を後生大事に貰つて行つた
  フオツク氏は若年ながらオランダで新聞を経営し既に妻子がありもし独身ならば勿論彼の女を連れて帰国するといつてゐたといふ

 

 

 新聞経営の28歳のオランダ人青年実業家が、吉原で出会った遊女(身売り=人身売買の犠牲者―そして貧困の犠牲者である)の「真情にほだされ」て、その場で「身請け」を決意し実行してしまう。まるで芝居の筋書であるが、昭和9年12月の新吉原遊郭での実話・美談として報道されているのである。

 

 まず、広辞苑にある「身請け」の項を確認しておこう。

 

 み-うけ【身請け】 年季を定めて身を売った芸妓・娼妓などの身代金(みのしろきん)を払って、その商売から身をひかせること。うけだすこと。落籍。

 

 初めて日本の遊郭を訪れたオランダ人青年実業家が、初対面の遊女の「真情にほだされ」て、その「身請け」を実行してしまった顛末である。

 オランダ人フォック氏に身請けされた「十六夜」(細谷みよ)は、東北の農家出身者ではない。

 

  細屋みよは千葉県長生郡八積村生れ、職人をしてゐた父大西徳次郎に連れられその後深川区月島に住んでゐたが、震災で父が行方不明になつてから、母ふみが八人の子供を抱へて女土方となつて育ててゐたが、遂にどん底に落ちて
  姉一人は栃木県に売られ彼女も昨年八王子で芸者となり、ついて今春五月、千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつたもの

 

 千葉に生まれ東京で育ったが、「震災で父が行方不明」になったことから家族は零落し、「遂にどん底に落ちて」、「千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつた」のであった。貧困層の最底辺ともなれば「口べらしと借金の返済」は切実な問題であり、実際、「娘の身売り」は東北六県だけの問題ではなかったことが、十六夜(細屋みよ)一家のエピソードを通して理解し得るであろう。

 しかし、「千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつたもの、その際母の手には僅か百円が渡つただけ」というのが実態であったし、「四年の年期」にしても、

 

  客から十円の収入があれば、実に七割五分を楼主に取られてしまい、二割五分だけが玉割と称して娼妓の取り分となる。しかも、その中の一割五分が借金返済のための天引きされてしまうので、娼妓は残りの僅か一割だけで生活しなければならないという仕組みなのである。彼女の稼ぎ高は月に三百円程度の箏が多かったので、手元に残るのは三十円程度にすぎなかった。これに対して呉服代から化粧代、洗濯代、電話代、客用の茶菓代、さては湯銭や病気のさいの治療費にいたるまで、諸掛一切が娼妓の負担となっており、これが月に四十円をくだらないので、いきおい楼主から追借をせざるを得ない。
  正月の三が日、七草、および十五、六日は「しまい日」と称し、客に「しまい玉」(または玉ぬき)という特別料金を請求するように仕向ける。揚代金は一時間二円、全夜(オールナイト)十二円を取ったが、「しまい日」には客に全夜の玉を倍の二十四円請求し、そのうえ遣手婆にも普段より多くの祝儀(五円)を出させる。無論、かなりの馴染み客でない限り応じるわけもないが、しまい玉が取れない娼妓に対しては一日二円の罰金が科せられるので、売れっ子以外は戦々兢々とならざるをえない。そのような客のないものは花魁の恥とされるからでもある。

  しまい日は正月ばかりでなく、三月三日、五月五日にも適用される。そのほかに「移り替」といって六月と十月の衣替えにも同様の“行事”がある。とにかく、あらゆる機会をとらえて搾り取る仕組み
     (紀田順一郎 『東京の下層社会』 ちくま学芸文庫 2000)

 

の中での話なのである。

 

 フォック氏との出会いが、十六夜(細屋みよ)にとってどれだけ僥倖であったことか。

 

 

 「戯作者と傾城は虚が真で真が虚なり」との言い回しがあるが、記事の伝える経緯(背景)による限り、フォック氏が「ほだされ」た十六夜の「真情」に偽りを感じる必要はないだろうし、当のフォック氏だって、「飾り窓の女」として有名な売春街を擁するオランダが故国なのである。未経験な若者が遊女の口先に騙された、という話ではないであろう。

 

 

 昭和9(1934)年のエピソードということは、3年後には支那事変、5年後にはヒトラーによるヨーロッパでの戦争(オランダが占領されるのは1940年)である。細屋みよの家族、フォック氏はいかなる運命に翻弄されることになったであろうか?

 美談の先にあるのは、そんな惨禍に満ちた歴史でもある。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/03/29 20:52 → https://www.freeml.com/bl/316274/317986/

 

 

 

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2018年3月27日 (火)

草木に露命をつなぐ (昭和期日本の貧困 その2)

 

 前回は、近代日本の(それも昭和期の)「人身売買」の実状について、昭和9年と10年の新聞スクラップブックに切り抜きとして残された朝日新聞記事を読んだ(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」)。昭和9年の冷害による大凶作の中での、「口べらしと借金の返済」の手段としての「娘の身売り」である。

 

 

 紹介した新聞記事には、

 

  一つの悪風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう

 

とあった。望ましいものではないとのニュアンスに伴われながらも、社会に容認されたものとして「人身売買」という解決法が取り扱われているのである。その規模は以下の通り。

 

  東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、九年一〇月までの一年間で五万人余にのぼった。新聞は連日のように救済を訴え、矯風会や救世軍が身売り防止運動を始めたが、口べらしと借金の返済に迫られた農村の厳しい現実の前では、ほとんど効果はなかった。
     (『昭和 二万日の全記録 第3巻』 講談社 1989  306ページ)

 

「一年間で五万人余」という数字には「東北六県で」との限定が付けられていることも見逃すべきではないであろう(他の地域の貧困層にとっても「口べらしと借金の返済」は切実であり、「娘の身売り」は東北六県だけの問題ではなかった―近代日本の病理というべきか)。しかし、もちろん、冷害がなければ、「東北六県」での「娘の身売り」が「一年間で五万人余」とまではならなかったのでもあるが。

 

 「口べらし」が特に切実な問題となったのは、まさにそこに冷害による大凶作があったからであり、「飢饉」と呼ぶべき状況がもたらされていたからである。

 

  小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民は、八年のように空前の豊作を記録した年ですら、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられていた。九年の凶作は、それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった。岩手県では全農家の七七㌫が緊急の救済を必要とした。
  飢饉の影響は、まず子どもたちの上に現れた。欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。
     (『昭和 二万日の全記録 第3巻』 講談社 1989  306ページ)

 

 

 今回も、前回に用いた昭和9年と10年の新聞記事のスクラップブックから、当時の報道の実際を読んでみたい。「それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった。岩手県では全農家の七七㌫が緊急の救済を必要とした」実状である(取り上げる記事は、その岩手県の惨状を伝えるものだ)。

 用いるのは、昭和9(1934)年10月17日の東京日日新聞記事である(時系列的には、前回記事で用いた朝日新聞記事より前のものということになるが、スクラップブック上では後のページに貼られている―スクラップブックの掲載順ということでご理解願いたい)。

 

 

 

スクラップブック(昭和9年~10年) 
     榮養價ゼロでも食べねばならぬ (9.10.17 東京日日新聞)

 

 

 (見出しの表記は原文のままとし、本文は「かなづかい」は原文通りだが、旧字体は新字体にあらため、本文中の大きな活字は太字で表記)

 

 

 喘ぐ東北
  榮養價ゼロでも
   食べねばならぬ
     草木に露命をつなぐ
          この世の地獄-冷寒地

 東北地方、わけても岩手県下を汽車で通過すると冷害に荒んだ山野にションボリと「をぢさん、残りの弁当を放つて頂戴!」と叫ぶ学童たちの悲痛な声を耳にするだらうここ数十年来みたことのない大飢饉に虐げられた食へない人達のノドをついて出る真の叫びだ、何百万人かにのぼるであらうこれら哀れな罹災者をどうして救ふか、廿万人と算される欠食児童の救済さへ手につかぬ惨状は中央都会人の想像だに及ばないほど深刻化されてゐる、本社が西野入、手島両慰問使を取敢へず派遣したのも苦難のどん底にあへぐ人々への心からなる隣人愛である

 稗飯は最上等
     悲惨な學童のお弁當

 本社盛岡支局では冷害が最も深刻な岩手県下二戸郡奥中山村小学校の児童達がもつて来る弁当を四階級に分けて本社に送り届けてきた
  茶わん一ぱい分ばかりの稗飯と馬蔓芋四個ほど
  精白しない稗の飯とキヤベツ二切れほど
  稗の餅、ガンモドキほどのもの一個
  稗さへ食へず、楢の実十五個ばかりを紙片にくるんだもの
 どれにも砂糖気もなければ醤油の色もついていない、馬蔓餅もキヤベツも少しばかりの塩分をふくんでゐるばかり
 都会人には想像も及ばぬお粗末な弁当だが、冷害地にとつては稗飯を食へるものがめぐまれた最上流の農家で、学童の大半はあざみの葉、山ごぼうの葉椎の実、やどり木の葉を貪り食つてははかない露命をつないでゐる、大根の葉、そばの粉などが食へたら中流以上の家庭で、甚だしい地方――主として岩手県の郡部から津軽方面――では藁を粉にして水とともにすすりこんだり団栗をかじつたり『生きんがため』『食はんがため』の悲惨な社会実話がくり返されてゐるが、送り届けられた前記四種の弁当について内務省栄養研究所原博士の検定を求めると
  最上流といはれる甲の弁当にしても含水炭素のみで蛋白質に乏しくヴイタミンAを欠いてゐるためにこれを常食としたら極端な栄養不良に陥り、老人、子供の場合には視力減退、鳥目となり妊産婦は分娩困難、乳児の保育はできないだらう、丙、丁に至つては議論のほかだとのこと―
 何十万かの農民はその丙、丁にさへありつけないのだ

 人間らしく
  身體が保てぬ
     せめて鰯か豆を…

 内務省栄養研究所の佐伯所長、栄養学の権威原博士はこもごも語る――
 昨年の飢饉当時には出張して現地で詳細調査したが、岩手県と青森県下は特に驚くべき惨状で、ま冬には土を掘つて地中の植物の根をかじつて露命をつないだものさへあつた、今年はそれ以上だといふから惨状推して知るべしで、この弁当をもつて学校へゆけるものはごく少数の農家に限られてゐるのだ、栄養上どうか、カロリーはどれくらゐか、などの質問をうけても数字の上や統計の上で返事はできない、せめて鰯や豆類でも摂ることが出来たら、人間らしい身体を保てやうが、こんなものでは科学的に説明し得ない、一度伝染病でも流行したらそれこそ一大事で、飢饉にたたきのめされた罹災民にはただ涙あるのみだ

 

 

 掲載された学童の弁当の写真のキャプションも収録しておく(写真もよく見て欲しい―「インスタ映え」からは遠い世界である)。

 

 これでもお弁當
   黒いのは團栗、 上方の白い部分は馬鈴薯、ほかは稗

 

 「都会人には想像も及ばぬお粗末な弁当だが、冷害地にとつては稗飯を食へるものがめぐまれた最上流の農家で、学童の大半はあざみの葉、山ごぼうの葉椎の実、やどり木の葉を貪り食つてははかない露命をつないでゐる、大根の葉、そばの粉などが食へたら中流以上の家庭で、甚だしい地方――主として岩手県の郡部から津軽方面――では藁を粉にして水とともにすすりこんだり団栗をかじつたり『生きんがため』『食はんがため』の悲惨な社会実話がくり返されてゐる」のであり、しかし「この弁当をもつて学校へゆけるものはごく少数の農家に限られてゐる」のであった。栄養学的観点からは「最上流といはれる甲の弁当にしても含水炭素のみで蛋白質に乏しくヴイタミンAを欠いてゐるためにこれを常食としたら極端な栄養不良に陥り、老人、子供の場合には視力減退、鳥目となり妊産婦は分娩困難、乳児の保育はできないだらう、丙、丁に至つては議論のほかだと」いうのであり、しかも「何十万かの農民はその丙、丁にさへありつけないのだ」というのである。

 

 

 かつて松原岩五郎が記録したのは、明治20年代の都市最貧困層が残飯に命をつなぐ姿であった(「残飯に命をつなぐ(明治期日本の貧困)」参照)。しかし東北の農村部には「残飯」は存在しない(「残飯」は都市のものなのである)。

 

 内務省栄養研究所の佐伯所長、栄養学の権威原博士が伝えるのは、

 

  ま冬には土を掘つて地中の植物の根をかじつて露命をつないだものさへあつた、今年はそれ以上だといふから惨状推して知るべし

 

このような「惨状」である。記事の見出しには「草木に露命をつなぐ」とあるが、それが比喩などではなく文字通りの現実だったのである。

 

 

 

 スクラップブックに戻ると、前回に紹介した昭和9年10月22日付の朝日新聞記事の左には、掲載紙名は不明だが同年11月14日付の新聞記事が貼られている(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」画像参照)。岩手県知事による救済策を伝えるものだ。

 

 六萬余の窮民に
  衣類足袋を配給
    懸費で購ひ無料で・・・
      石黒岩手知事さらに英斷

 【盛岡発】全国民の絶賛裡に施米を断行した石黒岩手県知事は第二の巨弾として十二日塩、味噌、鰯の施給を声明し十三日朝から関係課長など集合して施給方針について協議の結果、更に栄養不良のため痩せ衰へて行く凶作民に栄養を与えるべく五万貫の昆布を県費で購入施給することに決定した、また白魔襲来して寒空に震へてゐる窮民に対し衣類、足袋類等を同じく県費で五十四万の凶作民中特に救済を要する六万七千名に対しこれを今月末日までに全部一名の漏れもなく配給することとなつた、しかして今月上旬から一斉に開始された救農土木事業の賃金は十日目毎に支払ふことになつてゐたが、これでは救済の意味をなさぬといふので隔日支払いにすることになり、十三日各町村一斉に通牒を発した、今や石黒知事の善政は凶作民等から随喜の涙で迎へられてゐる

 

 石黒岩手県知事が、「栄養不良のため痩せ衰へて行く凶作民に栄養を与えるべく」、米、塩、味噌、鰯、昆布の「施給」と、「寒空に震へてゐる窮民に対し衣類、足袋類等」の「配給」を「決定」したこと等を伝える記事だが、「英断」、「善政」といった評価が示されている。

 大凶作による困窮者の救済は、行政として当然のことと理解されているのではなく、「英断」や「善政」としてやっと実現され得るものと位置付けられていることも読み取れる。前回にも引用した『昭和 二万日の全記録 第3巻』の記事には、

 

  十二月六日、衆議院は農林省提出の「凶作地に対する政府所有米穀の臨時交付に関する法律案」を可決し、政府所有米のうち五〇万石が、東北六県の町村に交付されることになった。

 

とあった。すなわち、12月になってやっと国家による救済策が打ち出された、ということだ。

 しかし、「身売り」された「娘」が国家により救済されることはなかったのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/03/27 22:01 → https://www.freeml.com/bl/316274/317952/

 

 

 

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2018年3月24日 (土)

賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)

 

 近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実がどのようなものであったのか?

 

 「残飯に命をつなぐ(明治期日本の貧困)」では、松原岩五郎の『最暗黒の東京』(1893)を通して、明治20年代半ばの東京のスラム街住民の姿、食料としての残飯の販売がビジネスとして成り立ち、商品として流通する残飯を食べて生き延びる明治20年代の都市最貧困層の実情を明らかにした。

 「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々(続・明治期日本の貧困)」では、イザべラ・バードの『日本奥地紀行』(1885)に記録された、明治10年代初頭の北関東から東北にかけての農民の姿を取り上げた。

 ノミやシラミだらけの環境の中で、「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々が、いまだ近代医学の恩恵から遠い世界で暮らしている姿である。「着たきり雀の風呂へも入らない人々」は、当時の農村部の貧困層の姿であっただけでなく、都市最貧困層も同様であったことも松原岩五郎によって記録されていた。

 

 記事の最後では、

 

  近代日本の(国体の精華たる?)「公娼制度」は(そして昭和期の皇軍の「慰安婦」もまた)「人身売買」に支えられたものであったが、その背景には、このような最底辺の帝國臣民の貧困の現実があったことも覚えておいてよいだろう。

 

このような指摘を加えておいた。

 

 

 今回は、貧困層の困窮が生み出す「身売り」、すなわち人身売買の問題に焦点を合せてみたい。取り上げるのは明治期ではなく、昭和戦前期の日本の現実、近代日本の現実である。

 

 

 昭和9年から10年(1934~1935)にかけて、日本が直面していた問題の一つが「凶作」であった。実状は以下の通りである。

 

 

  昭和九年は、日本各地に自然災害がおこり、農作物が大きな被害を受けた。九州・四国の干害、北陸・山陰の冷雪害、関西・中国の室戸台風による風水害と続いたが、冷害に見舞われた東北の被害は甚大で、明治三八年(1905)以来の大凶作となり、多くの農山村が飢餓線上をさまよった。十二月六日、衆議院は農林省提出の「凶作地に対する政府所有米穀の臨時交付に関する法律案」を可決し、政府所有米のうち五〇万石が、東北六県の町村に交付されることになった。
 
  小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民は、八年のように空前の豊作を記録した年ですら、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられていた。九年の凶作は、それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった。岩手県では全農家の七七㌫が緊急の救済を必要とした。
  飢饉の影響は、まず子どもたちの上に現れた。欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。とくに大きな問題となったのは、娘の身売りだった。東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、九年一〇月までの一年間で五万人余にのぼった。新聞は連日のように救済を訴え、矯風会や救世軍が身売り防止運動を始めたが、口べらしと借金の返済に迫られた農村の厳しい現実の前では、ほとんど効果はなかった。
     (『昭和 二万日の全記録 第3巻』 講談社 1989  306ページ)

 

 

 まず、ここで押さえておかなくてはならないのは「小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民は、八年のように空前の豊作を記録した年ですら、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられていた」との記述である。豊作の年ですら、生産者であるはずの農民の口に米は入らず、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食としていたというのである。その背後にあったのが「小作料と年間収入を超えた額の借金」であった(「豊作」であろうが「貧困」が現実であった)。

 そこに「明治三八年(1905)以来の大凶作」が襲う。もたらされたのは「それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった」ような深刻な「飢餓」であった。

 その「飢餓」からの脱出手段の一つが「娘の身売り」なのである。

 

  欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。とくに大きな問題となったのは、娘の身売りだった。東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、九年一〇月までの一年間で五万人余にのぼった。

 

 貧困層にとっては、人身売買に頼るしかなかった近代日本の現実がそこにある。

 

 

 

 以下、当時の新聞記事を読んでみたい(2015年の4月に、立川の中武デパートの古書市で手に入れた昭和9年と10年の新聞記事のスクラップブックによる)。取り上げるのは、昭和9(1934)年10月22日の朝日新聞記事である。

 

 

 


スクラップブック(昭和9年~10年) 
     東北の凶作地を見る (9.10.22 朝日) 1

 


スクラップブック(昭和9年~10年) 
     東北の凶作地を見る (9.10.22 朝日) 2

 

 

 (見出しの表記は原文のままとし、本文は「かなづかい」は原文通りだが、旧字体は新字体にあらため、本文中の大きな活字は太字で表記)

 

 

 東北の凶作地を見る
 賣られる最上娘
  哀切・新庄節
   「年期明けても歸つてくれるな」
    親達の悲痛な言葉
          山形懸新庄にて
          飯島特派員

 他郷の人の手に売られて哀切な『新庄節』に故郷の山河をしのぶ女の数は決して少なくない、山形県最上郡はその娘地獄の本場だがここは県下でも一の凶作地、ならして七割の減収、一かたまりになつてゐる三十五町歩の田が稲熱(ゐもち)病で全滅してしまつたところもある、飯米は至るところ不足で、西小国村の野頭部落では
  一人でも口を減らさうと思つてゐるのに売つた娘の年が明けて帰つて来られてはそれこそえらいことだ、何とかして娘の年期明けを延ばすことにしよう
 といふ申合わせさへやつたといふ、県ではこの凶作で一層娘の身売りが増えるだらうといふので、身売防止の方策を樹て新庄警察署が主になつて、先頃村村で「娘を売るな」と座談会をやつて歩いた
  娘一人の身代金は年期四年で五百円乃至八百円、然し周旋屋の手数料や着物代や何かを差引かれて実際親の手に渡るのは、せいぜい百五十円位だ、可愛い娘を手放しても、百五十円の金を握りたい、一つの悪風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう
 かうして床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく、淪落の巷を流浪する最上娘の「新庄節」こそ彼女等の望郷の憶ひをこめた哀歌であると共にドン底の農村の悲しむべき生活苦を、まざまざと物語るものでなくて何だらう、然も娘を売つた親達は「凶作で米がないから、年期が明けても村の懐には帰るな」といふのだ農村の窮乏もここに至つて正視するに忍びない
     ▽……△
 娘地獄のこの地方は馬の産地で「子供の出産より馬の出産が大事だ」とまでいはれる位、馬を売るために毎年秋に馬市がたつ、記者は折よく東小国村へ行つて、この馬市を見ることが出来た
  この付近では東小国に八百頭、西小国に五百頭位の馬がゐるさうだが、三日間の馬市に百二十一頭の馬が売りに出た、みんな二歳駒の威勢のいい奴ばかり、馬買ひの博労は遠く青森、秋田岩手の方からもやつて来る、馬市をのぞいて見ると、博労達が人垣の輪を作つて、その輪の中を、農家の若衆が売り馬の口をとつて、ぐるぐる円を書いて歩く「おうい、いひ値が二十円」「一円買つた」「もう三円!」かうやつてせり上げて、相当の値だと思ふと、世話人がポンと手を叩いて売買が決まる、見てゐるうちに、四頭の馬が売れた、一年半も手塩にかけた馬が三十五円、四十六円、四十七円最後の馬はたつた十七円であつた、しかも、この中から産業組合に一割五分の手数料を出さねばならぬ
 馬が安値に売られるたびに見物の百姓達までホツと肩で息をして「話にもならない値だなあ」とガツカリしてしまふ
 馬市の表の道の奥にはづらりと露店が並んでゐる、鍋、釜、古着、雑貨、食料品何でもある、つまり馬を売つてから、ここで一年分の必要品を買ひ込むといふ習慣になつてゐるのだが、今年はそれがひどい寂れ方だといふ、西小国村では凶作のため「馬市には馬一頭につき一人以上付いて行くな」といふ決議をした。人がわいわい多勢ゆけば買物も自然多くなるから、今までのやうにゾロゾロ馬にくつついて行つてはいけないといふのである、田舎廻りのサーカスの小屋がかかつてゐて、客を呼んでゐるが、人々はただ泥絵具の看板をポカンと眺めてゐるだけで、ガマ口を開けようともしない、収穫のない田圃、その田圃の中の小さい宿場、馬のせり市、さびれた露店、サーカスの荒んだ楽隊――凶作地のうら淋しい晩秋の風景は記者の心を徒らに傷ましむるのみだ
      ▽……△
 飯米不足でどこの村々でも濡米の払下げを申請してゐるがとうとう山から栃の実を拾つて米の代用に食ひ始めた、栃の木はパリの街路樹マロニエに似た木で実は栗のやうな格好をしてゐるが苦みと渋味があるので各村役場では「苦みをとつて粉にしてそれから餅にする迄の加工法」をガリ版に刷つて戸毎に配り学校の先生のきも入りで内儀さん、処女会員を集めて講習会なども開かれてゐる
  栃の実のほかにワラビの根、山葡萄の葉や山牛蒡の葉なども食ふ、学校にゆけば鼻をたらした「干松」が居り、村落の掘立小屋にひとしい家々には、米を作って米の食へない「伯夷叔斉」が青い顔をしてゐる、芋、大根、茄子みんな不出来で、きうりや茄子の漬物もない
 小学校の実習で作った大根が幾らか残つてゐるといふので、百姓が銅貨を握つて小学校へ大根を買ひに来る、細いのが三本五銭でこれが大した御馳走だ、村落を歩いて農家の軒先の蓆の上に並べて乾てある栃の実を貰つて五銭白銅を一枚子供に渡したら「やあ、この銭ア光つてるぞ」と大喜びだ帰りがけにまたその家の前を通つたら、さつきの子が出て来て「平シヤボテンもあるんだがなあ」と呼びかけた、記者はぐつと胸のつまる思ひをした、豊田村では一村禁酒、電燈減燭の決議をして、違反者には私刑を加へるといふ罰則を作つた、最上一帯は全く光を失つた村々の集団だ、米を作る農民の「飯米を与へよ」の声こそ悲痛である 

 

 

 「床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく」という「人身売買」の現実。

 それだけでは終わらず、「人でも口を減らさうと思つてゐるのに売つた娘の年が明けて帰つて来られてはそれこそえらいことだ、何とかして娘の年期明けを延ばすことにしよう」との「申し合わせ」をするまでに追い込まれているのである。

 

 ただし、当時の「公娼制度」のシステムの下では、「娘の年期明け」への心配は無用であったかも知れない。

 

  このように決死の思いでつけられた日記の中で、最も頻繁に出てくるのは搾取システムの実態である。元元彼女は三百円の借金で首が回らない実家を救おうと、千三百五十円で身を売ったのであるが、十分余裕ができると期待したのも束の間、周旋人に二百五十円も取られ、さらに借金を返してしまうと、家には差引八百円しか入らなかった。それでも六年間の年季の間に千三百五十円を返済するのは比較的容易に見えたが、朋輩の多くが長年月つとめながら一向に足を洗うことができない様子をみて、不審の念をいだいた。
  その謎はすぐに判明した。客から十円の収入があれば、実に七割五分を楼主に取られてしまい、二割五分だけが玉割と称して娼妓の取り分となる。しかも、その中の一割五分が借金返済のための天引きされてしまうので、娼妓は残りの僅か一割だけで生活しなければならないという仕組みなのである。彼女の稼ぎ高は月に三百円程度の箏が多かったので、手元に残るのは三十円程度にすぎなかった。これに対して呉服代から化粧代、洗濯代、電話代、客用の茶菓代、さては湯銭や病気のさいの治療費にいたるまで、諸掛一切が娼妓の負担となっており、これが月に四十円をくだらないので、いきおい楼主から追借をせざるを得ない。
  問題がこれだけでないことを、彼女は正月になってから知った。正月の三が日、七草、および十五、六日は「しまい日」と称し、客に「しまい玉」(または玉ぬき)という特別料金を請求するように仕向ける。揚代金は一時間二円、全夜(オールナイト)十二円を取ったが、「しまい日」には客に全夜の玉を倍の二十四円請求し、そのうえ遣手婆にも普段より多くの祝儀(五円)を出させる。無論、かなりの馴染み客でない限り応じるわけもないが、しまい玉が取れない娼妓に対しては一日二円の罰金が科せられるので、売れっ子以外は戦々兢々とならざるをえない。そのような客のないものは花魁の恥とされるからでもある。
  しまい日は正月ばかりでなく、三月三日、五月五日にも適用される。そのほかに「移り替」といって六月と十月の衣替えにも同様の“行事”がある。とにかく、あらゆる機会をとらえて搾り取る仕組みだが、不器用な彼女にはどうしても玉ぬきができない。最初の月だけで十円の罰金をとられ、主人から「いくら初見世でも、一人位玉ぬきができそうなものだ。もういく日になるんだ」と小言をいわれる。チップで生計を立てている遣手からもいやがらせをされるようになる。
     (紀田順一郎 『東京の下層社会』 ちくま学芸文庫 2000  167~170ページ)

 

 

 ここで紹介されている「日記」とは、「大正十三年(一九二四)の師走、群馬県高崎市に育った十九歳の女性が周旋人に案内されて新吉原の門をくぐった。森光子というこの女性は、その後の約一年間、娼妓として辛酸をなめ、ついに死を賭しての脱出に成功、翌十四年に『光明に芽ぐむ日々』という告発の手記」のことである(「賣られる最上娘」の記事の10年前の、人身売買の当事者による告発である―この10年間で、公娼制度の制度的枠組みが変化したという話は聞かない)。「朋輩の多くが長年月つとめながら一向に足を洗うことができない」のが実情であった。しかも紀田順一郎氏の文章は、「新吉原以外の公娼地帯では一層ひどい状況が見られた」と続いているのである。

 「賣られる最上娘」を待ち受けていたのが、どのような悲惨であったのか。切抜きとして残された新聞記事に書かれた以上の過酷な現実であったことは、想像しておいた方がよいだろう。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/03/24 14:01 → https://www.freeml.com/bl/316274/317854/

 

 

 

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2018年2月20日 (火)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (8)

 

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して(記事カテゴリーとしては「多摩武蔵野軍産複合地帯」)、昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合地帯化状況を追って来た。

 その際にまず参考としたのは、星野朗氏の論考「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学』 第105号 1998)であり(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)」及び「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)」参照)、小平地域の軍事施設設置状況の詳細については主に『小平市史』(2013)を用いた(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」参照)。

 

 ここであらためて、昭和10年代の(北多摩を中心とした)多摩武蔵野地域の軍産複合地帯化状況の全体像を、国分寺市・国分寺市教育委員会『市制施行50周年記念 国分寺市の今昔』(2015)巻末の資料編にある「北多摩地域を中心とする軍事関係工場」と題された施設一覧(地図も付属)を用いて確認しておきたい。

 

 「北多摩地域を中心とする軍事関係工場」には、「北多摩地域と軍事関係工場の位置図」と題された地図上の番号(1~40)に対応する40施設が一覧表形式で示されている(ただし「位置図」上には番号の附されていない―従って一覧表に掲載されていない―施設も複数存在する)。また一覧表にも地図にも「軍事関係工場」とあるが、実際には「工場」(軍需生産施設―「産」の施設)だけではなく陸軍飛行場や経理学校、補給廠等の様々な軍事施設(「軍」の施設)も多く含まれており、その意味でも「北多摩地域を中心とする」当時の「軍産複合地帯化状況」をあらためて概観する上で都合がよい資料である。

 また、一覧表は番号と共に「施設名」、「沿革」(施設の設置年度)、「内容」(何に用いられた施設であったか)、「所在地」(現在の行政区分名)、「現在跡地に所在する主な施設」(施設跡地の現在の利用状況)が掲載されており、「現在跡地に所在する主な施設」を確認することで、ある程度の(現在の)土地勘を持ってさえいれば、かつての施設の立地区域の把握も容易である(各施設の「跡地に所在する主な施設」は星野論文執筆時から大きく変化しており―工場用地としての利用から大規模集合住宅、あるいは大規模商業施設への転換等、土地利用状況は変化している―『国分寺市の今昔』には2015年作成のまだ新しい「資料」であることの強み―最新状況の反映―がある)。

  一覧にある「現在跡地に所在する主な施設」(現在の跡地利用状況)の項からも、それぞれの敷地の本来の広大さ(すなわち当時の多摩武蔵野地域で「軍」と「産」の施設の占めた地位)が明らかになるだろう。

 「軍」の施設である「陸軍経理学校・練兵場」で言えば、その「現在跡地に所在する主な施設」として「陸上自衛隊小平駐屯地・国土交通大学校・関東管区警察学校・小平団地・防衛省官舎・小平第九小学校・グランスクエア一橋学園・むさしが丘学園・あけぼのパン工場」が挙げられている。現在の個々の施設もそれぞれに十分に広い敷地を必要とするもの(自衛隊駐屯地、各種の学校、大規模集合住宅、工場)であることからも、かつての「陸軍経理学校・練兵場」の敷地の広大さは明らかとなるであろう。

 「産」の施設を中島飛行機関連で見れば、「中島航空金属」の「現在跡地に所在する主な施設」は「ひばりが丘運動場・せせらぎ公園・谷戸第二小学校・市立中原小学校・市立南中学校・公団ひばりが丘団地・住友重工田無製造所・ジャパンエナジー中央研修所」であり、「中島飛行機武蔵製作所」の「現在跡地に所在する主な施設」は「武蔵野中央公園・武蔵野市役所・武蔵野東小学校・NTT開発センター」であり、「中島飛行機三鷹研究所」の「現在跡地に所在する主な施設」が「都立野川公園・国際基督教大学・東京神学大学・ルーテル学院大学・アメリカンスクール・富士重工」となっている。それぞれの敷地の広大さは明らかであろう。

 

 以下、『国分寺市の今昔』にある一覧からの引用である(「」を用いた註釈は引用者によるものである)。

 

 

 

1 中島航空金属

  沿革-1938(昭和13)年中島飛行機武蔵製作所の分工場の田無鋳造工場設置→1939(昭和14)中島航空金属
  内容-武蔵製作所作成エンジンのテスト
  所在地-西東京市・武蔵野市
  現在跡地に所在する主な施設-ひばりが丘運動場・せせらぎ公園・谷戸第二小学校・市立中原小学校・市立南中学校・公団ひばりが丘団地・住友重工田無製造所・ジャパンエナジー中央研修所

 

2 中島飛行機武蔵製作所

  沿革-1938(昭和13)年武蔵製作所設置・1941(昭和16)年多摩製作所設置〔西半分〕→1943年合併武蔵製作所
  内容-武蔵製作所:陸軍機エンジン、多摩製作所:海軍機エンジン
  所在地-西東京市・武蔵野市
  現在跡地に所在する主な施設-武蔵野中央公園・武蔵野市役所・武蔵野東小学校・NTT開発センター

 

3 横河電機製作所吉祥寺工場

  沿革-1930(昭和5)年設置
  内容-航空計器・航空機用磁石発電機の製造
  所在地-武蔵野市
  現在跡地に所在する主な施設-横河電機工場
 

4 日本無線電信電話

  沿革-1937(昭和12)年設置
  内容-航空機用無線・レーダーの製造
  所在地-三鷹市
  現在跡地に所在する主な施設-日本無線

 

5 三鷹航空工業

  沿革-1933(昭和8)年設置
  内容-航空機エンジンの製造
  所在地-三鷹市
  現在跡地に所在する主な施設-井の頭公園西園(旧日産厚生園・下連雀1丁目付近)

 

6 正田飛行機製作所

  沿革-1933(昭和8)年渋谷から移転
  内容-航空機エンジンの製造
  所在地-三鷹市
  現在跡地に所在する主な施設-日産自動車三鷹工場(下連雀5丁目付近)

 

7 中島飛行機三鷹研究所

  沿革-1943(昭和18)年設置
  内容-航空機の設計
  所在地-三鷹市
  現在跡地に所在する主な施設-都立野川公園・国際基督教大学・東京神学大学・ルーテル学院大学・アメリカンスクール・富士重工

 

8 中央航空研究所

  沿革-1939(昭和14)年設置
  内容-航空機の開発
  所在地-調布市・三鷹市
  現在跡地に所在する主な施設-宇宙航空研究開発機構航空宇宙センター・交通安全環境研究所・電子航法研究所海上技術安全研究所・杏林大学・消防研究所・消防大学校

 

9 調布陸軍飛行場

  沿革-1941(昭和16)年設置
  内容-陸軍機の訓練・防空基地
  所在地-調布市・三鷹市・府中市
  現在跡地に所在する主な施設-調布飛行場・武蔵野の森公園・東京外国語大学・警察大学校・大沢総合グラウンド

 

10 傷痍軍人東京療養所

  沿革-1939(昭和14)年設置
  内容-軍人療養施設
  所在地-清瀬市
  現在跡地に所在する主な施設-日本社会事業大学・国立病院機構東京病院

   *: 結核罹患軍人の療養施設

 

11 傷痍軍人武蔵療養所

  沿革-1940(昭和15)年設置
  内容-軍人療養施設
  所在地-小平市
  現在跡地に所在する主な施設-国立精神・神経医療センター・萩山グラウンド

   *: 1931年の満州事変から足掛け15年にわたる戦争でこれまでにない規模の人々が戦地へと動員される中で、心理的な原因で精神疾患になったと考えられた人々は当時「戦争神経症」「戦時神経症」と呼ばれ、軍部や国家の関心事となった。その中で、1938年、国府台陸軍病院が精神神経疾患となった軍人の専門治療機関となり、1940年に精神障がいを対象にした傷痍軍人武蔵療養所が設立された。
     中村江里 「往還する〈戦時〉と〈現在〉:日本帝國陸軍における「戦争神経症」」 (博士論文要約 2015)

 

12 陸軍兵器補給廠小平分廠

  沿革-1940(昭和15)年設置
  内容-兵器・燃料の保管・補給
  所在地-小平市
  現在跡地に所在する主な施設-ブリジストン東京工場・小平第六小学校・小平第二中学校・松見病院

   *: 2015年時点の記述であり、2018年現在では工場施設は小平市から撤退し、研究施設のみとなっている(ブリジストン関係者の話による)

 

13 陸軍経理学校・練兵場

  沿革-1890(明治23)年設置**
  内容-将校の経理養成***
  所在地-小金井市****
  現在跡地に所在する主な施設-陸上自衛隊小平駐屯地・国土交通大学校・関東管区警察学校・小平団地・防衛省官舎・小平第九小学校・グランスクエア一橋学園・むさしが丘学園・あけぼのパン工場

   *: 陸軍経理学校とは、軍隊組織の財政管理・会計実務、軍施設の建設や維持、軍服や糧食などの調達、軍需工場の監督といった軍隊組織の管理運営全般と物資の補給実務を担当する学校で、創立は一八九〇(明治二三)年であった(麹町富士見町)。東京牛込区若松町の校舎(通称若松台)で長く教育にあたっていたが、満州事変の頃から校舎移転の議論が起こり、一九四〇年頃になって「教育の拡充」の必要性から小平村への移転が決定されたのであった。つまりこの移転は、総力戦の時代になって、軍隊組織の管理を担当する将校が質・量ともにそれまで以上に求められるようになったことを示す。
     (『小平市史』 227ページ)

   **: 上記『小平市史』にある通りで、1890(明治23)年は麹町富士見町での創立年。小平への移転・開校は昭和17(1942)年

   ***: 「将校の経理養成」というよりは「経理将校の養成」であろう

   ****: 『小平市史』にある通りで、所在地は現・小金井市ではなく、現・小平市内である

 

14 多摩陸軍技術研究所

  沿革-1942(昭和17)年設置
  内容-銃器・火砲の研究施設
  所在地-小金井市**
  現在跡地に所在する主な施設-東京学芸大学・東京学芸大学附属中学校・東京学芸大学附属小学校・サレジオ中学校・サレジオ小学校・市西部浄水所・つつじ

   *: 陸軍技術研究所 昭和17(1942)年移転
       第二技術研究所(観測・測量・指揮連絡用兵器など)と第五技術研究所(通信機材・整備機材・電波兵器)の敷地が小平
       第一(鉄砲・弾薬・馬具)、第三(爆破用火薬・工兵器材など)、第八技術研究所(兵器材料・化学工芸など)の敷地は小金井
        第1研究所/銃器、火砲、馬具、弾薬等に関係する部署
        第2研究所/測量器、照準器、眼鏡などに関係する部署
        第3研究所/渡河、鉄道、架橋、道路、爆破器材および一般工兵器材などに関わる部署
        第5研究所/電波、通信機材関係の部署
        第7研究所/物理的兵器関係の部署
        第8研究所/兵器の基礎研究に関する部署
      陸軍多摩技術研究所 昭和18(1943)年新設
       第五、第七、第九技術研究所の電波兵器関連研究開発機能を統合
     (『小平市史』及び板倉真也「市内の戦跡保存の取り組みに向けて」(2002/11/24)による)

   **: 上記の通りで、施設所在地は現・小金井市内と現・小平市内にまたがるものであった(施設名称をはじめ、沿革、内容の項にも他資料との異同がある)

 

15 中央工業南部工場

  沿革-1936(昭和11)年設置
  内容-銃器・火砲の製造
  所在地-国分寺市
  現在跡地に所在する主な施設-早稲田実業・東京経済大学

 

16 小林理学研究所

  沿革-1940(昭和15)年設置
  内容-陸海軍水測音波兵器の開発製造
  所在地-国分寺市
  現在跡地に所在する主な施設-リオン

 

17  日立中央研究所

  沿革-1942(昭和17)年設置
  内容-航空機用消化装置・スプリングなどの製造
  所在地-国分寺市
  現在跡地に所在する主な施設-日立中央研究所

   *: 『国分寺の今昔』の表記が「航空機用“消化”装置」となっている

 

18 東洋酸素

  沿革-1943(昭和18)年設置
  内容-高圧酸素・窒素・プロパンガスの製造
  所在地-国分寺市
  現在跡地に所在する主な施設-ドンキホーテホームセンター恋ヶ窪店・サミットストア恋ヶ窪店・東恋ヶ窪くぬぎ公園

 

19 東京碍子

  沿革-1944(昭和19)年設置
  内容-送電・電柱の付属機器製造
  所在地-国分寺市
  現在跡地に所在する主な施設-(東恋ヶ窪4丁目)

 

20 陸軍燃料廠

  沿革-1938(昭和13)年設置
  内容-陸軍用石油代替燃料の研究開発
  所在地-府中市
  現在跡地に所在する主な施設-府中の森公園・府中の森芸術劇場・府中市美術館・航空自衛隊航空総隊司令部・市立浅間中学校

 

21 東京芝浦電機府中工場

  沿革-1939(昭和14)年設置
  内容-軍用機用電波系機器の生産
  所在地-府中市
  現在跡地に所在する主な施設-東芝府中工場

   *: 小平図書館作成の「小平周辺戦争当時軍事施設・軍需工場マップ」(註:1)には以下のようにある(施設名が異なり、製造品も異なっているように見える)。

     日本製鋼所武蔵製作所
     はじめのころ戦車を、のち高射砲をつくっていた。
     東芝車輌製作所
     (今の日本製鋼所、東芝府中工場があるところ)

 

22 日本製鋼所武蔵製作所

  沿革-1938(昭和13)年設置
  内容-海軍用鋳鍛鋼品の製造
  所在地-府中市
  現在跡地に所在する主な施設-すずかけ公園・日銀府中分館・インテリジェントパーク(日鋼町)

   *: 小平図書館作成の「小平周辺戦争当時軍事施設・軍需工場マップ」(註:1)には以下のようにある(製造品が異なっている)。

     日本製鋼所武蔵製作所
     はじめのころ戦車を、のち高射砲をつくっていた。
     東芝車輌製作所
     (今の日本製鋼所、東芝府中工場があるところ)

 

23 村山陸軍病院

  沿革-1941(昭和16)年設置
  内容-陸軍の病院、地域病院としても機能
  所在地-武蔵村山市
  現在跡地に所在する主な施設-東京経済大学武蔵村山キャンパス(グラウンド・野球場・テニスコート)
 

24 所沢陸軍整備学校立川教育隊

  沿革-1943(昭和18)年設置
  内容-陸軍航空技術学校修了者を教育
  所在地-武蔵村山市
  現在跡地に所在する主な施設-村山医療センター・東京小児療育病院・村山特別支援学校・国立感染症研究所・雷塚公園・雷塚小学校・市民総合センター

 

25 東京陸軍航空学校(東京陸軍少年飛行兵学校)

  沿革-1938(昭和13)年熊谷から移転
  内容-陸軍少年飛行兵の基礎教育
  所在地-武蔵村山市
  現在跡地に所在する主な施設-大南公園・菖蒲園・湖南衛生組合・第七小学校・第四中学校

 

26 日立航空機立川工場

  沿革-1938(昭和13)年東京瓦斯電気工業立川工場→1939(昭和14)年日立航空機工場
  内容-陸軍航空機エンジン製作
  所在地-東大和市
  現在跡地に所在する主な施設-東大和南公園・東大和南高校・都立東大和療育センター・北多摩看護専門学校・東大和市民体育館・市民プール

 

27 陸軍獣医資材廠

  沿革-1938(昭和13)年世田谷から移転
  内容-軍馬の管理
  所在地-立川市・国立市
  現在跡地に所在する主な施設-陸上自衛隊東立川駐屯地・立川第二中学校・北多摩高校
 

28 陸軍立川飛行場

  沿革-1922(大正11)年設置、陸軍航空第5大隊を岐阜県各務ヶ原から立川に移転→1924(大正13)年陸軍飛行第5連隊→1929(昭和4)年民間航空機航路導入→1933(昭和8)年陸軍機専用になる
  内容-陸軍機の飛行場
  所在地-立川市・昭島市
  現在跡地に所在する主な施設-陸上自衛隊立川駐屯地・警視庁多摩総合庁舎・自治大学校・立川警察署・立川防災合同庁舎・立川消防署・立川市役所・多摩モノレール基地・国文学研究資料館・南極北極科学館・国立国語研究所

 

29 立川飛行機立川工場

  沿革-1930(昭和5)年石川島飛行機製作所
  内容-陸軍機の製造
  所在地-立川市
  現在跡地に所在する主な施設-新立川航空機

 

30 立川飛行機砂川工場

  沿革-1930(昭和15)年石川島飛行機製作所
  内容-陸軍機の製造
  所在地-立川市
  現在跡地に所在する主な施設-立飛企業立川製造所・砂川高校・立川第六中学校・タチヒゴルフ練習所・新立川航空機・横河エンジニアリングサービス
 

31 東京第二陸軍共済病院

  沿革-1944(昭和19)年設置
  内容-陸軍の病院、地域病院としても機能
  所在地-立川市
  現在跡地に所在する主な施設-立川病院

 

32 陸軍航空技術学校

  沿革-1935(昭和10)年設置
  内容-少年航空兵・少年飛行兵の教育、総合教育
  所在地-立川市
  現在跡地に所在する主な施設-緑町公園・立川市中央図書館・パークアベニュー・高島屋立川店・シネマツー
 

33 立川陸軍病院

  沿革-1922(大正11)年陸軍航空部隊付属医療機関創設→1923(大正12)年立川陸軍病院
  内容-陸軍の病院、地域病院として機能
  所在地-立川市
  現在跡地に所在する主な施設-災害医療センター

 

34 陸軍航空技術研究所

  沿革-1928(昭和3)年所沢より移転
  内容-陸軍機の研究開発
  所在地-立川市・昭島市
  現在跡地に所在する主な施設-国営昭和記念公園(北側)

 

35 陸軍航空廠立川支廠

  沿革-1935(昭和10)年設置
  内容-燃料・弾薬の補給、整備・修理
  所在地-立川市・昭島市
  現在跡地に所在する主な施設-国営昭和記念公園(南側)
 

36 陸軍航空工廠

  沿革-1940(昭和15)年設置
  内容-飛行機の設計・製造する工場
  所在地-昭島市
  現在跡地に所在する主な施設-関東財務局所有地(築地町・福島町)

 

37 昭和飛行機東京製作所

  沿革-1937(昭和12)年設置
  内容-零式輸送機(DC-3)・艦上爆撃機を生産
  所在地-昭島市
  現在跡地に所在する主な施設-昭和飛行機工場・東京システム運輸物流センター・昭和の森ゴルフコース・昭和の森スポーツセンター・上水公園・拝島第二小学校・三井造船工場・三井造船研究所・つつじが丘北小学校・瑞雲中学校・つつじが丘公園・つつじが丘南小学校・昭島市民会館・市民会館公園

 

38 陸軍航空整備学校

  沿革-1943(昭和18)年設置
  内容-将校への整備教育
  所在地-福生市
  現在跡地に所在する主な施設-横田基地

 

39 陸軍多摩飛行場

  沿革-1940(昭和15)年設置
  内容-陸軍立川飛行場の付属飛行場
  所在地-福生市
  現在跡地に所在する主な施設-横田基地

 

40 陸軍航空審査部

  沿革-1940(昭和15)年設置
  内容-航空機関係機器のテスト
  所在地-福生市
  現在跡地に所在する主な施設-横田基地

 

 

 

 これまで参照した資料に、「北多摩地域を中心とする軍事関係工場」の記述内容を加えることで、昭和10年代における多摩武蔵野地域への軍事・軍需関連施設(「軍」と「産」の施設である)の集中の実態の理解が、より深まったたものと思う。一方で、資料間の記述には異同があることも確かであり、解明すべき課題が残されている。

 ちなみに『国分寺市の今昔』の裏表紙見返しには、昭和22(1947)年撮影の「国分寺町周辺航空写真」(国土地理院提供)と、それに鉄道路線名、道路名、施設名等の注記を加えたものが並べて掲載されており(現在の国分寺市、国立市、小金井市、府中市、小平市南部を含む)、当時の土地利用状況を「目の当り」にすることが出来る。優れた試みだと思う。

 

     (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)」に続く)

 

 

 

【註:1】
 参照→ http://library.kodaira.ed.jp/local/tkk/tkk10/tkk10_09.html
 児童向けの解説ではあるが、小平市周辺(にとどまらず西多摩地域・南多摩地域の一部も含む)軍事施設・軍需工場が地図上に示されているので参考になる(ただし、跡地利用状況はマップ作成当時とは変化しているので注意が必要である―たとえば、陸軍経理学校の跡地利用施設の中に「シルバー精工」が示されているが、現在では売却後の跡地に大規模集合住宅としての「グランスクエア一橋学園」の建物群が立ち並んでいる)。

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(オリジナルは、投稿日時 : 2018/02/20 15:18 → https://www.freeml.com/bl/316274/317153/

 

 

 

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2018年1月30日 (火)

「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々(続・明治期日本の貧困)

 

 「残飯に命をつなぐ(明治期日本の貧困)」と題して、松原岩五郎によるルポルタージュ(『最暗黒の東京』)を通して、明治20年代半ばの大日本帝國臣民の最底辺の姿を取り上げてから一月が過ぎてしまった。

 そこに記録されていたのは、残飯に支えられて生きる、東京の貧民街の最貧困層の姿であった。

 

 

 今回はあらためて、まず明治10年代初頭の農村部の「臣民」の姿を、民俗学者の宮本常一による『イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む』(平凡社ライブラリー 2002  引用は92~97ページ)を読むことを通して確かめておくことから始めたい。

 イザべラ・バードの記述に宮本常一が解説を加える形で進められている(ここでは、バード自身による記述は太字にしてある)

 

 

 

  きびしい労働 貧しいくらし

  それから小佐越というところで当時の山中の村の貧しかったことがでてきます。
 
   ここはたいそう貧しいところで、みじめな家屋があり、子供たちはとても汚く、ひどい皮膚病にかかっていた。女たちは顔色もすぐれず、酷い労働と焚火のひどい煙のために顔もゆがんで全く醜くなっていた。その姿は彫像そのもののように見えた。(第十一信)
 
  それほど汚れていたのです。それは風呂へも入らないということでもあったのです。同じようなことが栃木県の横川というところを通るときに出て来ます。
 
   五十里から横川まで、美しい景色の中を進んで行った。そして横川の街路の中で昼食をとった。茶屋では無数の蚤が出てくるので、それを避けたかったからである。(第十二信)
 
  何度もいうように、日本にはすごいほど蚤がいて、実は茶屋だけではなくて、地面の上にもいたらしいのです。日本の国土全体の上に、かつて充満していたようなのです。
 
   すると、私のまわりに村の人たちのほとんど全部が集まってきた。はじめのうち子どもたちは、大きい子も小さい子も、びっくりして逃げだしたが、やがて少しずつ、親の裾につかまりながら《裾といっても、この場合は譬喩的表現だが》〔腰にまとわりつきながらということでしょう〕、おずおずと戻ってきた。しかし私が顔を向けるたびに、またも逃げだすのであった。群衆は言いようもないほど不潔でむさくるしかった。ここに群がる子どもたちは、きびしい労働の運命をうけついで世に生まれ、親たちと同じように虫に喰われ、税金のために貧窮の生活を送るであろう。(第十二信)
 
 
  薬のききめと病人たち

  また同じような場面があります。
 
   宿の亭主の小さな男の子は、とてもひどい咳で苦しんでいた。そこで私はクロロダインを数粒この子に飲ませたら、すべて苦しみが和らいだ。治療の話が翌朝早くから近所に広まり、五時ごろまでには、ほとんど村中の人たちが、私の部屋の外に集まってきた。(第十二信)
 
  日本の医療がどんなものであったかが、これで非常によくわかるのです。村の医者ではどうしようもなかったが、新しい化学薬品に会うと実にきれいになおるのです。
 
   ささやく音、はだしの足を引きずる音がだんだん大きくなり、窓の障子の多くの穴に眼をあてていた(障子に穴を開けてのぞくのは、日本のひとつの習俗ですね〕。私は障子を開けてみて、眼前に現れた痛ましいばかりの光景にどぎまぎしてしまった。人々は押しあいへしあいしていた。父親や母親たちは、いっぱい皮膚病にかかっている子、やけど頭の子、たむしのできている子を裸のまま抱きかかえており、娘たちはほとんど眼の見えなくなった母親の手をひき、男たちはひどい腫れ物を露出させていた。子どもたちは、虫に刺され、眼炎で半ば閉じている眼をしばたいていた。病気の者も、健康な者も、すべてがむさくるしい着物を着ていた。それも、嘆かわしいほど汚くて、しらみがたかっている。病人は薬を求め、健康なものは、病人を連れてくるか、あるいは冷淡に好奇心を満足させるためであった。私は悲しい気持ちになって、私には、彼らの数多くの病気や苦しみを治してあげる力がないこと、たとえあったとしても、薬の蓄えがないこと、私の国では絶えず着物を洗濯すること。絶えず皮膚を水で洗って、清潔な布で摩擦すること。これらは同じような皮膚病を治療したり予防したりするときに医者のすすめる方法である、と彼らに話してやった。(第十二信)
 
 
  着たきり雀の生活

  これは栃木県から福島県へ越えようとする山中での話なのですが、いかに不潔であったか、ということです。また次に、
 
   この人たちはリンネル製品を着ない。彼らはめったに着物を洗濯することはなく、着物がどうやらもつまで、夜となく昼となく同じものをいつも着ている。(第十二信)
 
  これはこのとおりだったと思うのです。これは先ほどの裸でいるということと関係があって、着物をできるだけ汚さないようにする。それは洗濯すると痛んで早く破れるからで、着物の補給がつかなくなるのです。それでもだいたい一年に一枚くらいの割合で着破ったと考えられるのです。その着物というのは、この山中だと麻か籐布が多かったと思います。すると家族が五人いるとして、五人分の麻を作るか、あるいは山に行って藤をとってきて、その繊維をあく出しして細かくさいて紡いで糸にし、それを機にかけて織る、ということになると、着物一人分の一反を織るのにだいたい一ヵ月かかると見なければならない。五人分なら五ヵ月で、それを、働いている上にそれだけのことをしなければならないのです。
  着物を買えば簡単ですが、買わない生活をしてとなると非常に自給がむずかしかったわけです。これが生糸になると、まゆを煮さえすれば繊維の長いのが続いているから、うんと能率も上がってくることになります。植物の皮の繊維をとって着物を織ることがどのくらい苦労の多いものであったかがわかるのです。汚ない生活をせざるを得なかったということは、こういうことにあると思うのです。
  『おあむ物語』の中のおあん様がまだ妙齢の娘だった頃に、腰までの着物一枚しか持っていなかったというのです。それでもお父さんは立派な医者で、大名に仕えて高三百石というのですから、当時武士の中でも中流以上の生活をしていた人だと見て良いのですが、それでそのくらいの状態だったのです。それほど衣服というのは得られにくいものだったのです。今(一九七六年)『平将門』をNHKテレビでやっているけれど、あんなきれいな着物を着ていたなんてとんでもないことで、実際に当時の服装で出て来たら、これはたいへんなものだったろうと思うのです。それでは綿がなかったのかというと、あったのですが非常に貴重なものだったのです。

 

 

 

 ここに描かれているのは明治10年代初頭の北関東から東北にかけての農民の姿である(そこには時代的限定と地域的限定と階層的限定がある)。

 

 ノミやシラミだらけの環境の中で、「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々が、いまだ近代医学の恩恵から遠い世界で暮らしている姿。このような「姿」を、どこまで当時の日本列島全体に一般化することが妥当なのか? その点には慎重でありたいが、しかし、バードが記録した明治11年の農村部に生きる臣民の姿もまた、日本の近代史の「事実」の一端を伝えるものであることは直視しておきたい。

 

 再び松原岩五郎の記録した明治20年代半ばの東京の(すなわち都市部の)最貧困層の姿に戻ろう。

 やはりそこにも、ノミやシラミだらけの環境の中で、「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々の姿がある。

 

 

 

  新賓客なる余は右側の小暗き処に座を取りしが、そこには数多積重ねたる夜具類ありて、垢に塗れたる布団の襟より一種得ならぬ臭気を放ち、坐ろに木賃的の不潔を懐わせたるのみならず、予の隣に坐せる老漢はいわゆる子供たらしの文久的飴売りなるが、その煮しめたる如き着物より紛々と悪臭を漲らし、頸筋または腋の下辺を荐に掻き捜しつつ所在なき徒然に彼の小虫を噛み殺しつつあるありしを見て、予は殆んど坐に堪えがたく、機会を見て何処かへか場所を転ぜんと思い居るうち、また四、五人の客どやどやと入り込み来れり。
     (松原岩五郎 「二 木賃宿」 『最暗黒の東京』 岩波文庫 1998  22ページ)

 

 

  その内にまた幾人か帰り来り、宿の主婦来って床を伸かんというに、おのおの立上りて手伝をなせしが、一畳一人の割なれば随分究屈を感ずるならんと思い居りしに、事実はそれをも許さで、一帳の幮に十人以上の諸込みなれば、何かは以て耐るべき。蒸さるる如き空気の裡に労働的の体臭を醞醸し、時々呼吸も塞がんばかりなるに加えて蚤の進撃あり。蚊帳は裾より壊れたれば蚊軍は自由に入るべく、この境界にあってもなお予は彼の捫虱的飴屋の傍に近かざらん事を祈り居りしが、命なる哉、いつしか既に伝染せし事と見えて膝のあたり不思議にむず癢くなりしを以て、指頭を入れて模索見しに果して彼の因循的小虫なり。彼が垢膩を啖い血を喰い飽きて麦粒の如くに肥りたるものなれば、余りの事に予が手を以て潰すことも得ならざりし。ああ偽なる哉、偽なる哉、予は曩日かかる暗黒界に入るべき準備として数日間の飢を試験し、幾夜の野宿を修業し、かつ殊更に堕落せる行為をなして以て彼ら貧者に臆面なく接着すべしと心密かに期し居たりしに、これが実際の世界を見るに及んで忽ち戦慄し、彼の微虫一疋の始末だになすことを得ざりしは、我れながら実に不甲斐なき事なりき。ああ想像は忝なく癩乞丐の介抱をもなし得べし。しかれども実際は困難なり、虱を捫る翁の傍にも居がたし。
     (松原岩五郎 「二 木賃宿」 前掲書  23~24ページ)

 

 

  たとえ、よもすがら池をめぐりて名月のあざやかさを見るとも常に我が庵なく我が臥床なくして奚ぞ美景の懐に入るべき。西行も三日露宿すれば坐に木銭宿を慕うべく、芭蕉も三晩続けて月に明さば必ずや蚊軍、蚤虱の宿も厭わざるに至るべし。ああ木賃なる哉、木賃なる哉、木賃は実に彼ら、日雇取、土方、立坊的労働者を始めとして貧窟の各独身者輩が三日の西行、三夜の芭蕉を経験して、しかして後慕い来る最後の安眠所にして、蚤、シラミ元より厭う処にあらず、苦熱悪臭また以て意となすに足らず、彼の一畳一人の諸込部屋も五、六人の破れ幮に十人逐込の動物的待遇も彼らのためには実に貴重なる瑶の台にして、茲に体を伸べ茲に身を胖くして身体の疲労を恢復し、以て明日の健康を養い、以て百年の寿命を量るにあれば、破れ布団も錦繍の衾にして、截り落しの枕もこれ、邯鄲の製作なりと知るべし。
     (松原岩五郎 「三 天然の臥床と木賃宿」 前掲書  27ページ)

 

 

  日済に続いて危急なるは損料屋なり。貸し衣装、貸布団、貸車。貸布団は一枚八厘より二銭まであり、尤も絹布上下三枚襲ねて一夜三十銭より五、六十銭に登る損料物もあれども、これらはもっぱら贅沢社会の需用にして寒を凌ぐために供給する貧街の談にあらざれば、茲にこれを多く語るを要せず。貸衣装また同じく一枚三銭より五、六銭位までのもの、多くは下等芸人一日の晴衣に向ッて用立ツ。中には股引法被、また布子〔木綿の綿入れ〕を貸す内あり。これ車夫的労働者の必要に向ッて供えたるもの、大抵は貸車業者においてこれを兼業す。なかんずく貧街において繁昌するは貸布団にして、冬の十二月より翌年三月まで厳冬四ヶ月間の戦争、いわゆる飢寒窟の勁敵に向ッて供給するものなれば、その時節に至れば貧街の営業中何ものかよくこの商法の劇しきに及ぶものあらん。細民の生計として夏より秋に移る際ただの一枚の着物すらも着替ゆる事能わざるほどなるもの、まして夜具布団の穿鑿、到底出来る事にあらず。凌げるだけは日光の縕袍に依頼して凌ぐも、十二月の月に入っては日光最早頼むべからず。是に至ッて一枚の布団用意せんと欲するも俄かに作る事能わざるを以て余儀なく損料に依頼せざるを得ず。
     (松原岩五郎 「十二 融通」 前掲書  71~72ページ)

 

 

  殊にその物品たるや、煎餅の如き薄縁のものにあらざれば雑巾の如くに側を綴ぎ集めたるもの、これを借用して一夜一銭ずつの損料を払うものは、いずれも皆よくよくの貧家にして、見るさい憐れなる母子三人裸体を抱き合いて身を縮め、慄いかつ戦きて辛うじて危寒を禦ぐ。この場合においても料銭の延滞するに至れば直ちに寝所へ踏込んで剥ぎ取らざるを得ず。実に涙あっては出来ぬ商法、無慈非道と見らるるも余儀なし。
     (松原岩五郎 「十二 融通」 前掲書  72~73ページ)

 

 

 

 

 これもまた近代日本の現実であった。

 木賃宿の宿泊者も長屋の住人も、「細民の生計として夏より秋に移る際ただの一枚の着物すらも着替ゆる事能わざるほどなる」が故の「着たきり雀」の日常において、「煮しめたる如き着物より紛々と悪臭を漲ら」すのであり、「煎餅の如き薄縁のものにあらざれば雑巾の如くに側を綴ぎ集めたる」と表現される「垢に塗れたる布団」は、その「襟より一種得ならぬ臭気を放」っていたのである。バードは「彼らはめったに着物を洗濯することはなく、着物がどうやらもつまで、夜となく昼となく同じものをいつも着ている」と観察しているが、「煮しめたる如き」とはまさに「洗濯」されることのない「着物」の視覚的表現である。松原岩五郎のルポルタージュの背後にあるのは、すなわち岩五郎が体験したのは、現実としての「臭気」であり「悪臭」だったのである(文字を通して、当時の嗅覚的経験まで読み取っておくべき―あるいは嗅ぎ取っておくべき―記録である)。

 

 もちろん、このイザベラ・バードや松原岩五郎によるルポルタージュを読んで、一気に「日本がどうだこうだ」という話にするのは避けるべきである(註:1)。他の地方の状況や、階層による生活の違いの可能性も考え併せ、あくまでも明治10年代初頭の北関東から東北での農村部の生活の詳細の観察として、あるいは明治20年代半ばの都市部の最貧困層の暮らしの詳細の観察として位置付けることが必要である。

 しかし、同時に、以下の構図の存在も忘れずにおきたい。

 近代日本の(国体の精華たる?)「公娼制度」は(そして昭和期の皇軍の「慰安婦」もまた)「人身売買」に支えられたものであったが、その背景には、このような最底辺の帝國臣民の貧困の現実があったことも覚えておいてよいだろう。

 

 

 

【註:1】
 イザべラ・バードによるノミをめぐる記述について、宮本常一は、

  何度もいうように、日本にはすごいほど蚤がいて、実は茶屋だけではなくて、地面の上にもいたらしいのです。日本の国土全体の上に、かつて充満していたようなのです。

このように説明している。
 確かに松原岩五郎も木賃宿でのノミやシラミの猛威を記録している。しかし、松原にとって木賃宿でのノミ・シラミ体験は、それまでの想像力を超えた新鮮なものとして描かれてもいる。つまり、それまでの松原岩五郎は、同じ都市に住みながら、それほどにはノミやシラミに悩ませられることなく過ごしていたようにも見える。
 農村部と都市部には差異があり、都市部の中にも居住地区(階層の反映でもある)による差異があったということであろう。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/01/30 20:50 → https://www.freeml.com/bl/316274/316621/

 

 

 

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2017年12月28日 (木)

残飯に命をつなぐ(明治期日本の貧困)

 

 

  ああ残飯屋、残飯とはいかなるものか、これ大厨房の残物なるのみ。諸君試みに貧民を形容するに元といかなる文字がよく適当なりと見る。飢寒、襤褸、廃屋、喪貌、しかしどれも予はこれが残飯または残菜なる二字のもっとも痛快に最も適切なるを覚わずんばあらず。しかして今、予はこの貧民を形容するに適切なる残飯もしくは残菜を実にしたる残飯屋を目前に控えたり、予は往かざらんと欲するも得べからず、予は飛んで往きぬ。
  まず見る貧窟残飯屋の光景、西より入れば窟の入口にして少しく引込みたる家なりしが、やや広き表の空地には五、六枚の筵を舗きて残飯の饐れたるを麹の如く日に乾したるものありしが、これ一時に売切れざりし飯の残りを糒となして他日売るものにやあらん。彼らのためには即ちこれが彼の凶荒備蓄的の物ならんかと想像せしめたり。家は傾斜して殆んど転覆せんとすするばかりなるを突かい棒もて、これを支え、軒は古く朽て屋根一面に蘚苔を生し、庇檐は腐れて疎らに抜けたるところより出入する人々の襟に土塊の落ちんかを殆ぶむほどの家なりしが、家内は田舎的の住居にして坐舗よりも庭広く殆ど全家の三分の二を占めたる処に数多の土取笊、半切桶、醤油樽、大なる壺、粗き瓶そのほか残飯残菜を容るるに適当なる器具の悉く不潔を帯びて不整列に並ばり居るを見たりき。しかるに何ぞ図らん、この不潔なる廃屋こそ実に予が貧民的生活のあらゆる境界を実見して飢寒窟の消息を感得したる無類の(材料蒐集に都合よき)大博物館なりしならんとは。
     (松原岩五郎 『最暗黒の東京』 岩波文庫 1988 39~40ページ)

 

 

 

 松原岩五郎の『最暗黒の東京』が出版されたのは明治26(1893)年であった。既に大日本帝國憲法は発布されていたが(1889年)、本格的対外戦争である日清戦争(1894)には先立つ時期の、東京のスラム街の実情のルポルタージュということになる。日本の工業社会化以前の段階であり、工場労働者が貧困層として登場するに先立つ時代の話である(底辺の男たちが担ったのは人力車夫であった)。

 密集する廃屋的な長屋と木賃宿が彼らの住居であった。長屋の住民の食生活を支えていたのが残飯。これが松原岩五郎が見出し、記録にとどめた当時の都市最貧困層の現実だったのである。

 

 

  弥兵衛氏の周旋を以てその日より予は残飯屋の下男となり、毎日、朝は八時、午は十二時半、夕は同じく午後の八時頃より大八車にて鉄砲笊と唱えたる径一尺あまりの大笊、担い桶、または半切、醤油樽等を積みて相棒二人と共に士官学校の裏門より入り、三度の食事の剰り物を仕入れて帰る事なるが、何をいうにも元来箸よりほかに重き物を持たる事のなき身が、俄かにかかる荒働きの仲間に入りたる事なれば、その労苦は実に容易の事にあらず、力は無理をしても出すべきなれど、労働の呼吸に不案内なるより毎々小児の如き失策を重ねて主人の不機嫌を買う事一方ならざりし。されど、これもまた貧大学の前期課程なれば茲の我慢が肝要なりとジッと辛棒する内、日ならずして、その呼吸も覚わり、後には最寄の怪人種より番頭々々と尊称されるに至りき。さるほどにこの残飯は貧人の間にあッてすこぶる関係深く、彼らはこれを兵隊飯と唱えて旧くより鎮台営所の残り飯を意味するものなるが、当家にて売捌くは即ちその士官学校より出づる物にて一ト笊(飯量およそ十五貫目)五十銭にて引取り、これを一貫目およそ五、六銭位に鬻ぐ。尤もこれに属する残菜はその役得として無代価にて払下ぐるものなるが、何がさて、学校の生徒始め教官諸人数、千有余人を賄う大庖厨の残物なれば、或る時は彼の鉄砲笊に三本より五、六本位出る事ありて、汁菜これに準じ沢庵漬の截片より食麺包の屑、ないし魚の骸、焦飯等皆それぞれの器にまとめて荷造りすれば殆んどこれ一小隊の輜重ほどありて、朝夕三度の運搬は実に我々人夫の労とする所にてありき。しかして、この残物を買う者如何と見渡せば、皆その界隈の貧窟の人々にして、これを珍重する事、実に熊掌鳳髄もただならずというべく、我らが荷車を輾きて往来を通れば、彼らは実に乗輿を拝するが如く、老若男女の貧人ら皆々手ごとに笊、面桶〔一人盛りの食器〕、重箱、飯櫃、小桶、あるいは丼、岡持などいえる手頃の器什を用意しつつ路の両側に待設けて、今退たり、今日は沢山にあるべし、早く往かばやなどと銘々に咡きつつ荷車の後を尾て来るかと思えば、店前には黒山の如く待構えて、車の影を見ると等しくサザメキ立ちて宛然福島中佐の歓迎とも言うべく颯と道を拓きて通すや否や、我れ先にと笊、岡持を差し出し、二銭下さい、三銭おくれ、これ一貫目、茲へも五百目と肩越に面通を出し脇下より銭を投ぐる様は何に譬えん、大根河岸、魚河岸の朝市に似て、その混雑なお一層奇態の光景を呈せり。そのお菜の如き漬物の如き、煮シメ、沢庵等は皆手攫みにて売り、汁は濁醪の如く桶より汲みて与え、飯は秤量に掛くるなれど、もし面倒なる時はおのおの目分量と手加減を以てす。饌の剰り、菜の残り元来払下の節においては普通一般的施与的の物品なれど、一旦茲へ引取ッて売鬻げば、またこれ一廉の商品なり。あるいは虎の皮、土竈、アライ、株切などと残物の上に種々な異名を附けて賞翫するはなかなかに可笑し。株切とは漬物の異名にして菜漬、沢庵のごときまたは胡瓜茄子の如き、蒂もしくは株の付たる頭尾の切片をいい、アライとは釜底の洗い流しにして飯のあざれたるを意味するものにして、土竈とは麺包の切片なり。これその中身を抉りたる食麺包の宛然竈の如き形なせるより、かくは異名したるものとぞ。さて虎の皮とは如何、これ怪人種等の調諧にして実に焦飯を異名したるものなり。巨大なる釜にて炊く飯は是非とも多少焦塩梅に焚かざれば上出来とならざるより、釜の底に祀られし飯が一面に附着して宛然虎豹の皮か何ぞの如く斑に焦たる故にかくは名付けたるものならん。さて譬え虎の皮にせよ土竈にせよ、既に残飯とあれば、これ貧窟の尊き商品にして怪人種等の争うて購求する所なり。世に桂を焚き珠を炊ぐとて富豪者の奢侈を意味する事なるが、実際これをなすものは富豪者にあらずしてかえって貧民、しかも極貧饑寒の境にあるものこそ真に珠を炊ぎ桂を焚くものなり。試みに見よ、彼の貧民輩が常例として買う一銭二銭ずつの炭、薪、漬物のいかに高値なるよ、しかしてまた彼らの五合七合ずつなる米、割麦のいかに少量なるよ。十人二十人を賄う大庖厨の経済には平常、米、薪の特用買という事あれば、実際珠桂の如き材料も会計上薪炭の値段となるなり。これに反して貧民の庖所においては毎日の材料一銭的の小買を以て便ずるにあれば、尋常の薪炭も計算上においては実に珠玉の値となるを免かれず。銭稀なる貧窟の人、いかでこの珠玉を炊いで生活し得べけんや。残飯残菜は実にこの一銭的庖厨の惨状を救う慈悲の神とも言うべく、彼ら五人の家族にて飯二貫目、残菜二銭、漬物一銭、総計十四、五銭位にて一日の食料十分なるなり。もし強て一銭的材料を以てこれを充さんとせば、彼らは日に三十銭を費やさざるを得ず。是を以て残飯屋の繁昌は、常に最下層の生活談における、図画的光景の一に数えらるるにありき。
     (同書 41~45ページ)

 

 

 以上は、「七 残飯屋」の全文であるが、士官学校の残飯が貧民の食事を支えていた事実が示されている。残飯が貧民の(それも大日本帝國臣民の)生活を支える商品として流通していた事実、しかも商品として流通するに足る残飯の量に驚かされるが(明治20年代半ばの士官学校の食生活は倹約的ではなかった!?)、明治期の都市貧困層の最底辺と軍隊の残飯の結びつきは記憶しておくに値するだろう。

 

 

 

  貧民の群がいかに残飯を喜びしよ、しかして、これを運搬する予がいかに彼らに歓迎されしよ。予は常に彼らのこの歓迎に酬ゆべく、あらゆる手段を旋らして庖厨を捜し、なるべく多くを運びて彼らに分配せん事を務めたりき。しかれどもまた哀しかりき、或る朝そこに(士官学校の庖厨)運搬すべき残物の何もがあらざりし時に。しかれどもまた嬉しかりき、或夕そこに飯および菜を以て剰されたる新しき残物が、三輌の荷車に余るべく積まれし時に。しかして予は常もこれらの潤沢を表する時にこれを「豊年」と呼び、常もこれらの払底を表する時に予が「饑饉」と呼びて、食物について渇望したる彼らに向ッて前触をするにありき。
  或る朝、――それは三日間一磅の飯をも運ぶ事能わざりし事程左様に哀れなる飢饉の打続きし或朝――庖厨を捜して運ぶべく何物があらざりし時に予が大いなる失望を以て立ちし、いかに貧民の嘆きを見せしむるよ。しかれども予は空しく帰らざりし。予は些かの食物を争うべく賄方に向ッて嘆願を始めし。「今日に限ッては貧民を飢せしめざる部屋頭閣下、冀くば彼の麺包の屑にても」。しかる時に彼が言いし、「もし汝がさほどに乞うならば、そこに豕の食うべき餡殻に畠を肥やすべく適当なる馬鈴薯の屑が後刻に来るべく塵芥屋を待ちつつある」と。それは薯類を以て製せられたる餡のやや腐敗して酸味を帯びたるものと、洗いたる釜底の飯とおよび搾りたる味噌汁の滓にてありき。たとえこれが人に向ッて食すべき物にあらぬとはいえ、数日間の飢に向ッては、これが多少の饗応となるべく注意を以てそこにありし総てを運び去りし。
  かくして、予が帰りし時に飢たる人々は非常なる歓娯を以て迎えし。「飢饉」と予が一言前触れをせし時に彼らの顔色が皆失望に包まれし。「オオいかに、夥しき食物がそこにあるよ」と荷車を見て一人が叫びし時に店の主が探奇の眼を注ぎし。「飯ならば早く分配せよ、我々はただ菜のみにてもよし}と催促が始まりし時に、荷は解かれし、しかしてそこに陳べられし。人々は彼らが三日間の飢饉からそこにいかなる豊年の美食が湧きしかを疑うべく伺きし。腐れたる餡を名称べく予がそれを「キントン」と呼びし時に、店の主人がいかに効果なる珍菜であるかを聞糺せし、そうしてそれが一椀五厘にて売られし。味噌の糟がなお多く需用者をもちし。饐たる飯が売るべく足らざりし。
     (同書 46~48ページ)

 

 

 本来であれば豚のエサとなり、畠の肥やしとなるべき種類の残飯が、最底辺の貧民層には喜びをもって迎えられる現実があった。

 

 

 

 紀田順一郎氏は『東京の下層社会』の中で、以下のように問題を整理している。

 

 

  明治半ばごろの東京の地図を見ると、中央の広大な面積が皇居と諸官庁によって占められ、その周辺に市街地がへばりつくように、急速な膨張をとげつつあることがわかる。たまに広いスペースがあるかと思えば、陸軍省や海軍省の用地ときまっている。
  その地図の上で当時の三大スラム街といわれた地区を確認してみると、いずれも市域の周辺部で、まず北東に浅草万年町、ついで西方に四谷鮫ヶ橋、南方には芝新網町といったところが目につく。この場合、浅草は市中随一の繁華街である浅草寺界隈や上野駅に隣接していたので、車夫などの生活に便利だったことは想像し得るが、それでは四谷や芝はどのようなメリットがあったのだろうか。
  理由は簡単、鮫ヶ橋が陸軍士官学校の付近にあり、芝新網町が海軍兵学校に近接していたということだ。そこに”残飯”があったからだ。軍隊の残飯、すなわち鎮台飯は良質の上、好不況に無関係な安定的供給源だったので、軍隊から味噌汁の冷めない距離を保つことは、福祉なき時代の極貧階級にとって生存のための必要条件だったのである。帝国陸海軍の廃棄物によって、社会の底辺が支えられていたというのは皮肉というほかはないが、当時は軍隊側も残飯の処理に窮していたので、払下げに協力的だったという。
  ところが、日清戦争以後、産業構造の大きな変化によって細民の数が激増すると、とても軍隊だけでは追いつかなくなってきた。彼らは工場や大学など、残飯の新たな供給源を求めて奔走しなければならなくなる。残飯源の拡大と多様化が、即明治社会の発展にほかならないというのも、やはり皮肉というほかないであろう。
     (紀田順一郎 『東京の下層社会』 ちくま学芸文庫 2000 67~68ページ)
 

 

 

 

 フィリピンのスモーキー・マウンテンと呼ばれるスラム街の映像などを前にしても、どこか遠くの他人の話として理解してしまうのではなく、100年ちょっと前の日本の都市風景と重ね得る想像力を用意しておきたいと思う。

 スモーキー・マウンテンの貧困を通して100年前の大日本帝國臣民の最底辺が置かれていた状況を思い、明治期の大日本帝國臣民の貧困の実情を通してスモーキー・マウンテンの悲惨を他人事としてではなく理解する。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/12/28 16:13 → https://www.freeml.com/bl/316274/315474/

 

 

 

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