20世紀、そして21世紀

2009年11月 9日 (月)

壁を築くことの意味

 

 壁を築くこと。

 

 

 

 壁とは、内部と外部を分かつ境界として機能するものだ。

 壁の内部とは、私の部屋であり、我が家であり、そして国境線の内側である。

 そこは私の場所であり、私達の場所である。

 

 外部には異質な世界が広がり、時には危険であるかも知れない。

 

 そんな異質で危険でさえある外部から、壁が、私を、私達を守るというわけだ。

 そのために私達は壁を築く。安全な世界を維持するために。

 

 

 

 そんな壁に対し、内部に築かれる壁というものもある。刑務所の壁であり、精神病院の壁がそれだ。内部の異質さ、そして危険と想定される存在を、内部世界から排除・隔離するための壁である。彼らは内部の内部に閉じ込められる。築かれるのは、内部の内部に閉じ込めるための壁なのである。

 

 

 

 20世紀の前半、ナチスは内部の危険な異質さとしてユダヤ人を指名し、ドイツの国民生活からの排除に着手し、やがて強制収容所のフェンス(つまり壁である)の内に閉じ込め、ガス室の扉の向こうに閉じ込め、最後にはその生命を世界から排除した。

 占領地では、まず、ゲットーの壁の内部にユダヤ人は閉じ込められ、外部から隔離された。壁は外部の生活世界からユダヤ人を隔離し、つまり生産活動からも経済活動からもユダヤ人は切り離され、生活基盤そのものを奪われた状態に置かれることになる。ゲットーの壁はユダヤ人の生を守るものではないのである。

 ゲットーのユダヤ人も、強制収容所あるいは絶滅収容所に順次移送され、その多くは焼却炉の煙となった。

 

 ゲットーや強制収容所の壁により守られたのは、アーリア人の純潔であり、ナチスにとって望ましいドイツの姿であった。

 

 

 

 

 

 20世紀後半のドイツの共産主義者達は、新たな壁を築くことになる。

 1961年、東西ベルリンは壁により分断された。

 この壁の特異性は、これまでにも何度か書いたことだと思うが、繰り返し考察するに値するものだ。

 

 資本主義世界から共産主義世界を守る壁、というのは正確な評価ではないのである。異質で危険な外部の脅威から内部世界を守る壁ではないのだ。内部への外部の流入に対する防波堤ではないのである。

 共産主義者が統治する世界から、資本主義者が統治する世界への国民の移動を阻むための壁なのである。ドイツ民主共和国からドイツ連邦共和国の領域への住民の移動を阻止すること、つまり、内部の外部への流出を阻止するための壁なのである。

 

 ベルリンに築かれた壁で何が何から守られたのか? これは考えておくに値する問題ではないだろうか?

 果たして共産主義世界は、ベルリンの壁で守られていたのだろうか? …という問題である。

 ベルリンの壁で守られたのは、共産主義者の純潔であり、共産主義者にとって望ましいドイツの姿であった、と言い切ることが出来るのか? …という問題なのである。

 

 自らの国民を外部から隔離し、壁の内部に閉じ込めるという選択。その発想に示されているのは、ドイツの東側を統治した共産主義者の弱体ぶりであろう。

 壁により守られたのは、国民ではなく、共産主義者による統治体制の存続であったに過ぎないのである。

 

 

 

 

 

 かつてナチスにより、壁の中に閉じ込められ、ガス室のドアの中に閉じ込められ、生命を奪われた経験を持ったユダヤ人が、自らの民族国家であるイスラエルの建国に成功したのは20世紀後半のことであった。

 国境という壁により外部の脅威から守られることのなかったユダヤ人が、自らの民族国家を獲得し、国境線と国軍により守られる安全な内部空間を確保したのである。

 

 しかし、歴史的に、イスラエル国家の土地はパレスチナ人の土地なのであり、ユダヤ人によるイスラエル国家の建国が意味するのは、パレスチナに対する占領統治なのである。

 ユダヤ人にとっての安全な内部空間は、パレスチナ人にとっては不当な占領状態の空間なのである。安全なはずの内部空間は、最初から不安定なものなのであった。

 イスラエル国家のユダヤ人にとり、パレスチナ人の存在は内部の異質性、内部の不安定要因、内部の危険として理解されることにならざるを得ない。

 

 21世紀のイスラエル国家のユダヤ人の選択は、新たな壁の構築であった。

 新たな壁を築き、パレスチナ人を壁の内部に閉じ込める。ユダヤ人国家内部の安全は、内部に新たに構築される壁により保証されることになる(はず)なのである。

 

 壁は、外部からパレスチナ人を隔離し、パレスチナ人同士を分断し、パレスチナ人による生産活動や経済活動の自由を奪うものとなる。つまり、パレスチナ人からの生活基盤の剥奪を意味するものとなるのである。

 かつてナチスが築いたゲットーの壁と同じ効果をパレスチナ人にもたらすのである。

 

 そのような壁の構築は、果たしてイスラエル国家内部のユダヤ人の安全に、永続的な効果を持ち得るものなのだろうか?

 

 少なくとも、かつてのホロコースト被害者の末裔が、かつてのナチスの似姿を演じていることの意味は、考えておくべきであろう。

 他者への永続的な抑圧が、自らの安全の保証を意味するものだという信念の構築がもたらすのは、当人の道徳的腐敗以外の何物でもないように思われる。

 

 もちろん、ナチスの将校も、ドイツ民主共和国の共産主義者達も、自らの道徳的正しさをこそ確信していたに違いないのであるが…

 

 

 

 

 

 

 

 1989年の11月8日。

 ドイツ民主共和国の共産主義者達は、その社会主義統一党の中央委員会総会を開催していた。

 その時点では、誰も、翌日に起きるいわゆる「ベルリンの壁崩壊」を予測してはいなかったのである。

 そんな20年前の出来事を思いながら、あらためて壁という存在について考えてみたわけだ。

 20世紀と21世紀の歴史の中の「壁」の姿である。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/11/08 18:47 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/121540

 

 

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2009年9月12日 (土)

9月11日 世界は、より安全になったのか?

 

 全体主義と陰謀論。

 どちらも私の嫌いなものだ。

 

 

 

 あの「9 . 11」がブッシュ一味の陰謀であった、という話があることは知っているが、アルカイダによるブッシュ政権(というより米国)への敵対的行為であったと考えても、事実関係に矛盾は生じない。

 ブッシュ政権による陰謀であったという解釈で、事件全体(と、その後の展開)の理解が容易になるとも思えない。

 まぁ、陰謀論の内容を検証しての話ではないので、私に言えるのはそこまでだ。

 

 

 大日本帝國海軍による真珠湾攻撃の成功がルーズベルトの罠だった、と考えることは出来るが、対日宣戦布告とそれに連動しての対独宣戦布告をするためだけに、太平洋艦隊の主力を犠牲にする必要はないだろう。真珠湾で連合艦隊を迎え撃ち、日本海軍の主力を撃滅した上で対日戦に臨む方が合理的である。

…というのが私の判断であり、ルーズベルト陰謀説に与する気にならない理由である。

 

 

 

 アフガン戦争にしても、タリバンによるビンラディン引渡しの可能性は存在したわけだし、戦争は必然ではなかったはずだ。ビンラディンの身柄引渡しが実現していれば、戦争に至ることはなかったのである。

 戦争という帰結は、「9 . 11」から確定的に導き出されるものではなく、あの被害をビンラディン引渡しで埋め合わせても、ブッシュ政権の利益にはならないだろう。陰謀論の描く「ブッシュの利益」は、事後の現実の展開からの解釈としては成立するのかも知れないが、すべての展開が事前のシナリオによるものと考えるには無理があるようにしか思えないのである。

 

 

 対イラク戦争を導き出したのは、アフガンにおける予想を超えた米軍の勝利であろう。対アフガン戦争(現実には対タリバン戦争である)は、いわゆる米軍の「軍事における革命 (RMA; Revolution in Military Affairs)」の成功例として語られることになったが、確かにそのような側面を無視は出来ないにしても、北部同盟として地上戦を現実に遂行した反タリバン勢力の存在なしには、あそこまで迅速な勝利の確保はなかったはずである。

 ラムズフェルドに、そのことを理解する冷静さがあれば、対イラク戦争でのあそこまでの失態はなかったであろう。

 

 

 

 そもそも、アフガンにおけるタリバン支配がなぜ生み出されたのか?

 ソ連によるアフガン侵攻に対し、抵抗したアフガン勢力を支援したのは米国であった。アフガンからのソ連の撤退と、ソ連邦自体の崩壊後の世界において、国際社会(そして米国)は、戦争で荒廃したアフガニスタン国家の復興という課題を放置し、結果として生み出されたのがタリバンによる統治だったのである。そして、ビンラディンは、対ソ抵抗時のイスラム戦士のいわば代表としてタリバンに遇されていたわけだ。

 その歴史的過程を一瞥すれば、アフガン戦争後の最大の課題は、アフガニスタンの国家としての復興の成功であったことを理解するのは容易(なはず)である。

 

 アフガン復興の成功こそは、世界をより安全にする鍵であったはずだ。

 しかし、なぜか、ブッシュ政権には、アフガニスタンの復興支援への関心はなかったようである。

 

 アフガンでの(見かけの)軍事的成功による、国際社会での米国の発言力の強化という実績を前に、米軍の「軍事における革命 (RMA; Revolution in Military Affairs)」の成功の再演による国際社会における絶対的発言権の確保こそが、対イラク戦争の目的であったのだと、私は考える。

 対タリバン戦争という、軍事的には劣弱な勢力を相手にした戦争の成功に続き、湾岸戦争で装備の多くを喪失し、その後の新兵器への更新のない、劣弱になったイラク軍との戦争における勝利は自明のことであり、ブッシュ政権はその機会を捉えたわけだ。

 それにより、国際社会における米国の発言力の絶対的優位が獲得出来るはずだったのである。ブッシュは、米国大統領として、歴史的に称賛されるべき実績が残せたはずなのである。もちろん、ブッシュ一味には戦後のイラクにおける利権からの利益が保証されるというオマケ付きで。

 

 

 

 確かに、米軍は戦闘には勝利したわけだが、戦後統治には失敗し、結果として、ブッシュは史上最低の大統領という評価を得ることになったわけだ。

 第二次世界大戦後の日本占領の経験が、イラクの戦後統治のモデルとして喧伝されていたが、日本占領の成功は、天皇の地位の保証と戦前からの国家行政組織の温存というファクターによる部分が大きく、すべての国家組織を雲散霧消させてのイラクの占領は、まったくの別の事態だったのである。

 困難なのは、戦闘における勝利の獲得ではなく、占領統治の成功であることは、中国大陸における大日本帝国の軍隊が十分に味わったものである。同じ過ちを、ブッシュの軍隊は繰り返した(繰り返す羽目に陥らされた)わけだ。

 皇軍の失敗は、政治を理解しない軍人によるものであったが、米軍の(そして米国民が味わった)悲劇は、軍事の困難を理解しない政治家ラムズフェルド(あくまでも彼は文民である)がもたらしたものであった。

 

 

 

 

 

 この8年の歴史をふり返った時に、私に見えるのはそのような現実であり、そこに「陰謀」というファクターを加えなければ理解出来ない事態は存在しないのである。

 

 

 

 もちろん、「陰謀」が現実のものであったのだとすれば、ブッシュの愚かさは倍化されることになる。

 ブッシュは、結果として何の利益も得ていないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/09/11 22:10 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/115821

 

 

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2009年8月31日 (月)

革命でなくて選挙=粛清でなくて落選

 

 別に革命が起きたわけでもなく、複数政党制の下での自由選挙の結果、有権者からの政権交代要求が明らかになった。

 それだけの話。

 

 英国でも米国でも、独仏伊西蘭、タイ、韓国、台湾、ペルーでもボリビアでも、要するに「民主主義政体」を採用した国では、ごくごく当たり前の話、ってこと。

 
 
 

 世の中には、様々な妄想を抱く人間がいるわけで、「民主党」の主導権がマルクス・レーニン主義者に握られているなんてのもそのひとつらしいが、それは妄想です。

 民主党の支持基盤が組合だから、なんて理由付けもあるらしいが、その類の大きな組合は現状からの受益者なのであって、文字通りの体制変革=革命なんて求めるわけがない。非正規労働者の雇用・利益の確保ではなくて、正規労働者としての自己の地位の維持向上のための組合なんだからね。

 つまり、マルクス・レーニン主義とは関係がない。

…と言いつつも、現実の世界史上のマルクス・レーニン主義者達、彼らにより構成されたマルクス・レーニン主義政党による統治の実態は、自らの党の利益の確保、党員の利益の確保に尽きたわけなので、その意味では、確かに現代日本の大企業・官公庁系の組合組織と同じようなものかも知れない。

 しかし、マルクス・レーニン主義が、プロレタリアートの利益の追求を意味するのであるならば、かつての共産主義国家の党も、現在の日本の組合も、マルクス・レーニン主義とは関係ないということになる。

 

…なんて書いてしまうと、要するに身内の利益、身内であることを表明し恭順の意を示した者達の利益を確保し、身内にその利益を配分することに努力した、現実のマルクス・レーニン主義者達の流儀はなんと呼ぶべきなのだろうか?

 ここはやはり、現実に存在したマルクス・レーニン主義者を名乗った人間達をこそ、マルクス・レーニン主義者と呼ぶべきではないのだろうか?

 つまり、自身の体制への順応者を優遇することを、自身の体制の永続性の基盤として位置付け、体制構築をしていった「共産党」という存在を考えてしまうわけだ。実際、各国共産党はマルクス・レーニン主義の正しさを主張し、自身のマルクス・レーニン主義者としての正統性を主張していたのであるし…

 

…しかし、マルクスやレーニンはそんなことを考えていたのかどうか?

 まぁ、20世紀の現実政治の中で政治的党派の指導者として生きたレーニンと、19世紀に、経済(学)的観点から資本制経済の行く末と労働者の役割を論じたマルクスを一緒にしてしまうこと自体が、かなり乱暴な話ではある。

 しかし、それを一緒くたにしてしまうところが、「マルクス・レーニン主義」という呼称のミソでもあるのだろう。

 レーニンの党派性が、マルクスの普遍主義により隠蔽されるわけだ。 …なぁんてことを言うと粛清されてしまうのが、マルクス・レーニン主義者達による世界の現実だったわけだが…

 しかし、反共主義者にとっても、資本制社会の現実へのマルクスによる批判を回避する上で、レーニンの政治手法・政治理論とマルクスの思想を同一視することは便利な手段ではあったのだろう。

 

 共産主義者も反共主義者も、マルクス・レーニン主義という命名法からは利益を得ていたということになる。

 
 

 ところで、現実のマルクス・レーニン主義者達の振る舞いに関して、

 要するに身内の利益、身内であることを表明し恭順の意を示した者達の利益を確保し、身内にその利益を配分することに努力した、現実のマルクス・レーニン主義者達の流儀

なんて書いてしまったわけであるが、しかしこれ、

 要するに身内の利益、身内であることを表明し恭順の意を示した者達の利益を確保し、身内にその利益を配分することに努力した、戦後政治おける自由民主党の流儀

って書いても、意味が通じてしまう。

 
 

 現実のマルクス・レーニン主義者達が国民にアイソを尽かされたのが、世界史的には1989年の出来事であり、わが国の自由民主党が国民からアイソを尽かされたのが2009年の夏の終わりの出来事であった。

 そこにあるのは、利益誘導の限界という問題だったのではなかろうか?

 
 
 

…なんて文章を読むことで、妄想からの脱出は可能であろうか?

 

 1989年に世界史的使命(と呼ばれたもの)を終えた現実のマルクス・レーニン主義と、2009年に日本史的使命を終えた(というか一段落つけた)自由民主党。

 

…というのは私の妄想なのだろうか?

 
 
 
 
 
 
 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/31 21:19 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/114795

 

 

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2009年8月21日 (金)

無差別爆撃の論理 7 (竹槍と機関銃)

 

 完全武装の両軍の対峙する前線を飛び越し、はるか背後の非武装の敵国民(市民)を標的に爆弾を落とす。

 「戦略爆撃(特に都市無差別爆撃)」とは、そのような行為である。

 

 

 爆撃により、都市住民の生活基盤を破壊し、住民の生命そのものをも標的とし、敵国民の継戦意欲を低下させ、停戦・講和へと導く。

 

 第一次世界大戦における前線兵士の膨大な損耗率、つまり予測をはるかに超えて続くことになった戦争とその予測をはるかに超えた戦死者戦傷者の存在は、参戦したヨーロッパの人々に戦争への忌避感をもたらすものとなった。過酷なヴェルサイユ条約には、敗戦国ドイツに二度と戦争を引き起こすような気を起させぬ効果が期待されていたのだし、戦後の国際連盟の結成、各種軍縮条約の取り組み、そして不戦条約締結への努力には、世界からの戦争の排除という理想が込められていたのである。

 政治家が戦争の回避への努力を課題としていたのに対し、軍人達には、(政治家が)回避に失敗した戦争への対処が新しい課題となっていた。戦争の長期化と戦死者数の抑制が、そこでの課題である。期間を短く、犠牲者数も少なく、という条件の下に勝利を確保することが、第一次世界大戦後の軍事的課題となったのである。

 イタリア軍人ジュリオ・ドゥーエによる1921年の著書『空の支配』は、まさにその課題への答えとして書かれたものだ。

 荒井信一の記述を引こう。

 彼は大戦の経験から、これからの戦争は「もはや兵士と民間人の区別のない」総力戦であり、そこでは空爆によって民衆がパニックを起こし「自己保存の本能に突き動かされ、戦争を終わらせろと要求するようになる」と説き、住民の戦意をくじくテロ効果を強調して無差別爆撃論を提唱した。「戦時国家の最小限の基盤である民間人に決定的な攻撃が向けられるので戦争は長続きしない」、「長期的に見れば流血をすくなくするので、このような未来戦ははるかに人道的だ」とまで述べている。
 ドゥーエは人口密集地の住民への攻撃手段として、高性能爆弾、焼夷弾、毒ガス弾の三つをあげている。三種類の爆弾それぞれの機能を極限にまで高め一体化したものが、後の原子爆弾であるといえよう――大型台風をはるかにうわまわる衝撃波の破壊力、人工の太陽とも言われる熱線のもたらす焼夷力、放射能の毒素力――。アメリカは今でも、原爆の投下は戦争の終結を早め、多くの人命を救ったとして正当化している。それはまさにドゥーエのテーゼの現代版にほかならない。
     『空爆の歴史』 (岩波新書 2008)

 同時代の、ウィリアム・ミッチェル、ヒュー・トレンチャード、そして大西瀧治郎もまたドゥーエ同様に「はるかに人道的な未来戦」への志向を抱いて、それぞれの空軍力の充実への努力を開始したわけである。

 戦争の短期化と、戦死者数の減少の追求というテーマから、軍人の合理的思考が生み出した結論が、住民へのテロ爆撃としての都市無差別爆撃なのである。そこでは、より効果的な、つまり集中的で徹底した都市無差別爆撃の実行者の側が、戦争での人道的な勝利者となるはずであった。

 

 そこには、確かに、戦闘(そして戦争)の勝利のために合理的に振舞う人々、としての軍人の姿を見出すことが出来る、ように思える。

 過去の戦争から学び、総力戦の意味を考え、新たな軍事理論を構築し、戦略を組み直し、新兵器を開発し、軍の編成を新たにする。そのような努力は、精神主義者のものではなく、合理主義者のものであろう。

 

 

 

 第一次世界大戦後に登場した戦略爆撃論者、都市無差別爆撃の主唱者達にとって、学ぶべき過去の戦争とは、言うまでもないだろうが、第一次大戦である。

 

 その第一次世界大戦の膨大な戦死者の存在を抜きに、都市無差別爆撃というアイディアは生まれなかったし、次の戦争でそれが実行に移されることもなかったわけである。

 

 では、その膨大な戦死者を生み出したのは何であったのか?

 そして、その膨大な戦死者を生み出させたのは誰であったのか?

 

 

 新兵器であった機関銃であり、精神主義から抜け出せなかった英軍司令官であり、仏軍司令官であった。

 既に日露戦争で、機関銃はその威力を十分に発揮していた。繰り返される乃木将軍の正面攻撃は、ロシア軍の機関銃を前にして、戦死者の山を築くことしか出来なかったのである。

 第一次世界大戦はそれから10年後の話なのだが、英仏陸軍の司令官達もまた、数年に渡って機関銃座への正面攻撃を繰り返し、戦死者の山を築いていったのであった。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/20 21:42 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113728

 

 

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2008年12月 7日 (日)

21世紀の最初の9月11日

 

 2001年の9月11日は、東京人にとっては、日中の台風の通過が、せいぜい共通の記憶として残るだろうにしても、7年も過ぎれば台風のことなど忘れ去られ、特に記憶すべきこともない、ありふれた9月の一日として思い出すことすらされない日付となっていただろう。

 台風のニュースも見終え、久しぶりに早寝をしようと思っていたところへ、階下から声がかかった。

 呼ばれて階段を降り、指差された先のテレビを見る。

 ニューヨークの高層ビルの中ほどから大量の煙が上がっていた。

 飛行機が衝突したのだと、私を呼んだ、娘の母が言う。

 なんてことだと思いながら画面に見入っていると、何と2機目が隣に並んだビルに激突した。「激突」というか、吸い込まれ、激しい炎と煙へと変った。

 事故ではないぞ、ということは、その時点で推測出来た。

 やがて、他にもハイジャックされた旅客機の存在が明らかとなり、ペンタゴンも標的とされ、別の一機の墜落も確認されていく。

 もっとも、7年前の記憶となってしまった出来事の順番は定かではないが、とにかく、深夜まで、テレビの前から離れられなくなってしまったことを覚えている。

 当時、私は休職し、寝たきり状態となった母の介護を続けていた。一日中、家で過ごしていたのである。

 台風も、家の中で、外を過ぎていく出来事として経験したに過ぎない。

 その日の台風を覚えているのは、母の介護の日々、母の最後の日々を、その日の母の姿を撮影することで、家にこもり続けた一日のアクセントとしていたからだ。同じカメラで、台風の過ぎ行く窓の外を撮影し、そして炎上するツインタワーのテレビ画面も私は撮影していた。

 母の死後、残された写真を整理している中で、同時多発テロの日、東京は台風に襲われていたことは再発見されたのである。

 時期的には介護保険制度の発足と重なり、身体の介護に関しては、訪問看護師と、ヘルパーさんの力を十分に借りることが出来た。

 しかし、衰えゆく家族の傍で過ごす毎日は、思うほど気楽なものではなかった。

 まぁ、そんな一日の重苦しさもある時間の流れの中で、死にゆく老人と介護する家族という関係を、写真家(?)とモデル(…?)の関係へと変換させる時間を持てたのは幸せなことだったと思う。

 煮詰まった日常の時間が、その時だけ別の時空へと変化する。母に寄り添う猫の姿。母の横で漫画を読みふける、まだ小学生の娘の姿。カメラのファインダー越しにそこへ向けられる私の視線も、日常のものではなくなるのだ。

 そんな日々の中に、同時多発テロが飛び込んで来たのだった。

 一日中、家にいるわけだ。衛星放送で、CNN、BBC、ABC、CBS等の映像が視聴出来るようになった時代の話だ。

 母の介護をしながら、毎日、テレビ画面に見入っていたのを思い出す。

 ブッシュ政権は、「テロとの闘い」を名目として、アフガニスタンへの攻撃を選択する。戦争では、テロリストではない多くのアフガニスタン国民が犠牲となった。

 現代の軍隊の装備としては、実に不十分なものしか持たなかったタリバンの兵士に対し、最先端兵器を駆使した米軍の攻撃は、確かに効果を挙げた。

 アフガニスタン内のタリバンへの対抗勢力の軍事力が、地上戦を制した。

 そして、アフガニスタンは、タリバンの支配から「解放」されることになった。

 アフガニスタンに対する攻撃の名目は、同時多発テロの実行グループとしてのアルカイダの存在だった。しかし、対アフガン戦争は、アルカイダを消滅させるような成果には結びつかず、攻撃の目的が達成されたわけではなかった。

 ブッシュ政権は、アフガニスタンの復興という課題には興味を示さず、新たなる敵としてイラクを指名した。

 国内にアルカイダは存在せず、大量破壊兵器も保有していないイラクが、アルカイダの存在と大量破壊兵器の保有を理由に、米軍の攻撃の対象となったのである。

 最先端兵器を装備した米軍は、イラク軍との戦闘でも、圧倒的に優位に立ち、イラク正規軍を崩壊させ、イラク政府を消滅させた。

 しかし、最先端兵器を装備した少数兵力の使用による戦闘の勝利には成功したが、大量の兵力を必要とする軍事的占領と治安の維持への想像力を欠いたために、戦後イラク統治には失敗してしまった。

 第二次世界大戦後の日本占領が、戦後イラク統治のモデルとなるはずだった。しかし、戦後日本には、戦前から継承された正統性に基づく政権が存在し、行政機構が存在し、警察組織が存在し、指揮系統に基づき武装解除する軍隊が存在した。イラクにはそのすべてがなかった。

 大日本帝國政府はポツダム宣言を受諾し、大日本帝国の軍隊は連合軍に対し降伏したのである。しかし、イラクでは、公式には、誰も降伏していないのだ。

 そのイラクの地に、小兵力の米軍は、治安維持能力を欠いた存在でしかなかった。

 宗派や民族を異にする人間によって構成されていた国家であったイラクには、国民の統合の基盤となるはずのイラク人としての共通したアイデンティティーが存在していたわけではない。

 国家による権力的な統治があって初めて、イラク国民の存在があったわけだ。

 そのイラクから、統一的な権力を消失させてしまったのが、ブッシュ政権による戦争の「成果」であった。

 国民としての統合の枠組みは失われ、それぞれの宗派的・民族的アイデンティティーと様々な利害関係の上に国内対立は激化し、同時に占領軍としての米軍へのゲリラ攻撃も恒常化してしまった。

 最新鋭を誇る米軍の装備は、ゲリラ戦には無力である。

 軍需産業は確かに潤いはしただろうが、一方で最新鋭兵器の無力振りをもさらけ出してしまった。

 誰が、利益を得たのだろうか?

 利益を得た者など存在するのだろうか?

 アメリカの威信など、消えてしまった。

 何も達成されず、イラク国民は死の恐怖にさらされ続け、米軍兵士は市民による攻撃の恐怖にさらされ続けている。そして、殺し殺され続けているのである。

 アフガニスタンでは、タリバンは勢力を盛り返し、あの戦争の成果など、誰にとっても存在しないだろう。

 アフガン攻撃に至る日々(母は存命であった)、イラク攻撃に至る日々(これは母の死後の出来事だ)、このような現状は、既に多くの人々によって予測されていたことだ。

 私ですら予測出来たのだから、決して難しい話ではなかったはずだ。

 普通なら、予測が当たることは「うれしい」出来事の一つだろう。しかし、この「予測通り」に実現されてしまった現状を見るのは、実につらいことである。

 21世紀の最初の7年の人類の経験がこんなものとなってしまったことは残念な話だ。別に多くを期待していたわけではないが、ここまで愚かさの中に埋もれた7年となることを望んだこともない。

 そんなことを思う、2008年9月11日の夜である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/09/11 21:51 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/78458/user_id/316274

 

 

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英霊への責任と無責任

 

東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立亦正ニ危殆二瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ

 昭和十六年十二月八日、「宣戦の大詔」では、対米英開戦の理由はこのように説明されていた。「今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ」ということである。

 とは言うものの、米英により、大日本帝國の国境線が侵されていたわけではない。つまり大日本帝國に対する侵略行為への「自存自衛」、という主張がされているわけではない、ということである。

 「自存自衛」の名目で、外交上の問題を、国境線の外部での軍事力行使により解決するという選択に、説得力はあるものだろうか?

 国際連盟が誕生し、不戦条約が国際法の中に位置を占めるという、第一次世界大戦後の世界の中では、いささか時代遅れな発想であったと言えるだろう。

…と言いつつも、まさに第一次世界大戦後の世界秩序の中に登場した、ファシスト・イタリア、ナチス・ドイツ、そして大日本帝國は、軍事力の行使による国境線の拡大を、「世界新秩序」構築の原理として位置付けてもいたわけだ。

 外交上の問題の解決に、軍事的手段を用いることを禁止しようという流れの一方で、軍事的解決を当然視する国家群が存在したのが、第一次世界大戦後の世界であり、後者により次なる世界大戦が開始されることになった。

 しかし、ファシスト・イタリアもナチス・ドイツも、そして大日本帝國も、第二次世界大戦と包括的に呼ばれる戦争の勝者となることはなく、戦後世界の秩序設計においては、国境線の侵犯=侵略行為として、国際法上での禁止が再確認された。

 少なくとも、20世紀後半の世界においては、「自存自衛」を名目とした軍事力による国境線侵犯行為は、容認されるものではなくなっていたわけである。

 そのような意味で、戦後世界の常識という観点からすれば、「宣戦の大詔」の文言に説得力はないと言えるだろう。

 しかし、21世紀を迎え、米国によるアフガニスタン侵攻、そしてイラク戦争という、国境線外における、「自衛」を名目とした軍事力の行使が現実の出来事となってしまった。米国の国境線が、アフガニスタンあるいはイラクの軍隊によって侵されたわけではない。その可能性すら存在しなかった。

 しかし、「自衛」を名目とした「先制攻撃」が、ブッシュ政権の論理として採用されてしまったわけである。かつての大日本帝國の対米英「宣戦の大詔」の論理と異なるところのないもの、と言うことも出来るだろう。

 少なくとも20世紀後半の戦後世界(もちろん、その起源は第一次世界大戦後の世界秩序構築の試みに発するわけだが)において、ナンセンスな文言と化していた「宣戦の大詔」の論理は、皮肉にも21世紀のアメリカ合衆国により再発見されることとなったわけだ。

 もちろん現在では周知のことであるが、東條内閣による対米英開戦という選択は、その「帝國の自存自衛」という名目とはまったく逆の、ポツダム宣言受諾による大日本帝國の敗北という帰結をもたらすこととなった。

 結果論から言えば、そして政治的決定の評価には結果論しかないわけだが、東條内閣による対米英開戦の決定はまったくの誤りであったという以外の判断は、不可能である。

 帝國の「自衛」はおろか、「自存」すら侵される結果となったわけである。

 しかもそこには、250万の新たな英霊の犠牲が伴われていたのである。そして交戦国の軍人兵士、数多くの現地住民、そして大日本帝國の多くの民間人の犠牲も顧慮されなければならない。

 帝國の自存自衛の失敗と共に、実に多くの戦争による犠牲者の存在に、東條内閣は責任を負わなければならない。もちろん、誰よりも東條英機その人の責任は大きい。

 戦後の「東京裁判」において、東條英機はA級戦犯として裁かれ、絞首刑となった。しかし、そこで裁かれたのは、交戦国であり戦争の勝者である連合国の視点による、東條英機の責任であったに過ぎない。

 大日本帝國に対する、大日本帝國の天皇に対する、大日本帝國の国民に対する、大日本帝國の兵士として死んでいかざるを得なかった者達の無念に対する責任が問われたわけではないのである。

 大日本帝國の兵士として、戦争の犠牲となった人々を追悼することは当然のことである。

 しかし、同時に、「自存自衛」すら叶わず、国内国外に多くの犠牲者を出してしまった戦争への反省の機会と場を設けることも大事なことだ。後に続く者として当然果たすべき行為であるはずではないか。

 あの戦争を批判することと、戦没兵士への追悼の必要性は分けて考えなければならない。

 大日本帝國の軍事行動の犠牲者となった他国の人々の存在を忘れてはならないことは確かであるが、犠牲となった日本人への追悼も必要なことなのである。

 そして、英霊として靖国神社に祀られることとなった兵士達のことを考えれば、開戦の責任(そして必然としての敗戦をもたらした責任)は問い続けられなければならない、はずだ。

 誰よりもその責任を負わねばならぬのは、東條英機その人である。

 政治家であり、軍人であった人物、首相にして陸軍大臣であり参謀総長であった人物が、その責任を負わねばならぬのは当然のことだ。

 その責任が、追求し続けられなければならぬのもまた当然なことであろう。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/08/17 20:27 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/76095/user_id/316274

  

 

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2008年12月 3日 (水)

ミュンヘンのネズミ

 

 フォトページの方に、今年の年賀状をアップしておいたが、その裏話めいたことを書いておこうというのが、正月も3日目の日記となるはずだ。

 ↑ こんなデザイン

 どこかで、少し触れたことでもあるけれど、ネズミ年ということで、ドレの版画のことを考えたのが、12月中旬くらいだったと思う。

 ↑ ドレのオリジナル

”Conseil tenu par les rats (La Fontaine)" de Gustave DORE

 ギュスターブ・ドレが、ラ・フォンテーヌによるテクストのために作製したものだ。

 ご存知のシーンだと思う。

 暴虐な猫に対抗するために、指導者の求めによって開催されたネズミの集会。そこで、猫の首に鈴を付けることを提案する老賢者ネズミ。

 一同の賛同は得られるが、実行者として誰も名乗り出ない。

 アイディアと実行の間にある深い溝という教訓だろうか。

 集会に参加しているネズミの姿。その陰には、子供たちの世話をする母ネズミの姿もある。

 背景として描き込まれた小道具がネズミのサイズを説明している。光の取り扱いも巧い。

 ファンタジーであるにもかかわらず、リアルな光景に仕立て上げられている。

 その版画をトリミングして、使うことにしたわけだ。

 暴虐な猫と、それに手を出せない政治指導者というメタファーとして考えた時に、1938年の「ミュンヘン会談」と「ミュンヘン協定」が連想された。

 ヒトラーの領土要求に対し、英仏の首脳が妥協的な態度を取り、チェコスロヴァキアの解体を(チェコスロヴァキア代表の意思-それはチェコスロヴァキア国民の意思でもある-を問うことなく)決定したという、ヨーロッパ史の一齣である。

← ヒトラー(左)

            チェンバレン(中右) ダラディエ(右)

 賀状では、

 1938年 ミュンヘン会談

 アドルフ・ヒトラーの首に鈴を付けるものはいなかった。

 その代わりに、チェコスロヴァキアがプレゼントされた…

という記述になっている。

 この、英首相チェンバレンの「宥和政策」は、当時は、ヨーロッパに平和をもたらすもの、戦争の危機を回避する政策として、英国民の歓迎を受けている。

 ← 「宥和政策」の立役者、

             英首相ネヴィル・チェンバレン 

 しかし、実際の歴史の進展は、「宥和政策」がまったく逆の効果を生み出してしまったことを告げている。

 それは、軍事的恫喝の有効性をヒトラーに確信させるものでしかなかったのである。

 同時に、ナチスドイツに対し英仏が軍事的対抗手段を取る可能性の低いことも、ヒトラーに確信させてしまった。

 そのことが、翌年のナチスドイツによるポーランド侵攻に始まる、第二次世界大戦への道を用意してしまうことに、結果として、つながってしまったわけだ。

 チェンバレンは、短期的には、ヨーロッパに平和にもたらしたかも知れないが、長期的には(といっても一年にも満たない未来の話なのだが)、第二次世界大戦の惨禍を用意した政治家として評価されることを免れないのである。

 チェンバレンの名誉のために、申し添えておけば、現実的な問題として、当時の英仏の軍事力は、ナチスドイツへ対抗するには非力であったという評価はある。

 しかし、外交的には、「恫喝に屈する」国家として、英仏をヒトラーに評価させてしまったことも確かであろう。

 しかも、小国チェコスロヴァキアの犠牲、チェコスロヴァキア国民の犠牲を無視しての「宥和政策」なのである。

1938――――――――――――2008

という、70年間の歴史の中でのエピソードとして、取り上げてみたわけだ。

 実際の賀状では、2008も斜体ではなかったのだが、「謹賀新年」の文字の左上の2008を斜体でデザインしたのに合わせて、ネット用ヴァージョンでは、賀状の最上部の2008も斜体へと変更してある。

 また、実際の賀状では、本名と共に、住所電話番号も記載してある。

 その分、全体のレイアウトも、若干、変更されているのが、このネットヴァージョンだ。

 デザイン的には、イマイチの完成度というのが正直な自己評価である。

 まぁ、70年前と現在とでは、「戦争」自体が変化しており、当時のような形での、領土獲得を目的とした戦争が先進国間で起きるとは考えにくい。

 しかし、「外交」が、言葉による国家間の勝負であることには変化はない。

 70年前のチェンバレンとヒトラーをめぐるエピソードは、依然として、教訓的ではある。

 現実問題として、軍事力行使への躊躇が生んでしまった戦争の惨禍として、ヨーロッパ諸国では理解されていることも確かだろう。日本における第二次世界大戦の経験が、徹底的な軍事力の否定として語られるようになる「戦後」とは別の戦後がそこにあった。そのことはよく理解されておくべきだとも感じている。

 そんな様々な思いが込められた賀状であるということだ。

 しかし、このところ、毎年毎年、賀状が不吉さを帯びているのは何とかならないものかと思うのだが、やはり、現実が不吉さをたたえたものである以上、いたし方のないことなのであろう。

 こんな賀状、受け取る方はたまったものじゃないだろうなぁ、と思いつつも、こうなってしまうのが、私という人間なのである。

 申し訳ない話だ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/01/03 17:28 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/53643/user_id/316274

 

 

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内戦と国家、そして国民という問題

 

 終わらない戦争について考えてみる。

 

イラクでおこなわれた世論調査によると、イラク国民の約7割は、この6ヶ月間の米軍増派で治安は悪化した、と考えている。

BBCとABC、日本のNHKによってイラク全土2000人を対象に行った調査によると、60%近い者が米軍への攻撃を正当なことと受け止めている。この割合は、シーア派教徒のなかでは50%だったのに比べ、スンニ派教徒のなかでは93%に昇った。


この調査はイラク駐留米軍のペトレイアス司令官が米国議会への報告を準備しているなかで発表された。彼とクロッカー米大使は米軍増派の成果と最近のイラク情勢について、議会で証言することになっている。

BBCが参加したこの種の世論調査は4度目で、過去には2004年2月、2005年11月、2007年2月に実施された。

今回2007年8月の調査では、政治的対話、再建、経済発展の状態について、悪化したと受け止めるイラク人は、それぞれ回答者の67%から70%を占めた。来年には良くなると考える者は、2年前には64%だったのに、今回はわずか29%しかなかった。

有志連合軍の即時撤退を求める者も2月の調査より増えたが、上記の回答傾向とも矛盾して、半数以上(53%)が治安が改善されるまで駐留すべきだと回答した。
(以上、MLコミュニティ「イラク戦争に関する世界情勢のニュース」2007/09/11 14:38 より)

 

 ブッシュ米国大統領による、イラク戦争の戦闘終結宣言以降、4年経過しながら、しかし、戦闘は収まらず犠牲者は増えるばかりだ。

 戦闘終結宣言時、曲がりなりにも、イラクは国民に支えられる国家であった。
 サダム・フセインの強権的独裁政治の下ではあるにしても、スンニ派もシーア派もクルド人もイラク国民であった。フセイン流の分割統治の成功はあっても、そこに国民としての統合は存在していたと考えることは出来る。

 近代的国民国家としてのイラクがそこにあったということだ。


 カンボジアの内戦終結の成功は、やはりカンボジアにおける国家と国民の関係についての合意が、内戦中ではあれ諸派に共有されていたゆえのことだと考えられる。
 あくまでもカンボジアという国家の体制選択の問題であって、国家自体の存在、誰が国民であるかは問われる必要はなかったのである。

 旧ユーゴの内戦においては、すでに旧ユーゴという国家に統合された国民という合意が失われていた。
 旧ユーゴは、それぞれの民族集団にとって、もはや帰属すべき国家ではなく、それぞれの民族固有の国家が希求されてしまっていたことが、あの悲劇を生み出したのである。
 旧ユーゴにおいては共存出来ていた人々が、民族主義イデオロギーの論理に飲み込まれる中、お互いを敵として認識するに至ったのであった。あの短い時間の流れの中で。

 20世紀末の、カンボジアと旧ユーゴ、二つの内戦の姿を見つめておきたい。
 20世紀、第一次世界大戦後に謳われた民族自決原則が生み出した民族国家としての近代国民国家が生み出した二つの内戦である。


 21世紀初頭のイラク戦争がもたらしたもの。
 20世紀の後半に、曲がりなりにも、統合された国民に支えられた国民国家として存在して来たイラクに、国民の分裂、国家の分裂の危機を生じさせてしまったのが、あの戦争の現在の帰結である。

 米軍はフセインのイラク軍には確かに勝利した。
 しかし、あまりにずさんな戦後統治プランが、現在のイラクの状況をもたらしてしまったのである。主導したのは、文民としてのラムズフェルドであり、軍人主導の戦争ではなかったことにも留意しておくべきだろう。

 軍事のプロである軍人には、支那事変における日本の教訓、ヴェトナムの米軍の教訓、アフガンのソ連軍の教訓は理解されていた。
 ナショナリズムに反する形での占領統治の困難という問題である。

 ブッシュ政権は、それを無視して、イラク戦争を強行し、戦後統治に失敗し、現在に至っているわけである。
 戦後統治の失敗が、テロリストの活動の場を保障することになり、宗派対立や民族対立を煽り、イラクにおける国民統合の基盤を突き崩しつつあるのが現状である。
 イラク国民は、米軍の存在を憎みながらも、米軍以外に治安維持に期待出来る政治的・軍事的システムを持ちえていないのである。世論調査の結果は、そのようなイラク国民のおかれた状況の反映として考えなければならない。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/09/15 22:17 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/41873/user_id/316274

 

 

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難民としての生活を考えたりの9月の日曜日

 

 9月も一週間が過ぎてしまいました。

 気付いてみれば、あと二週間で、ここに日記を書き始めてから一年となります。


 神の姿シリーズも、山田太郎氏登場以来、ますますワケノワカラナイ展開となりつつあり、二週間後にどうなっているのか、まったく予想もつきません。
 まぁ、あくまでも私の、平日の夜のお楽しみでございます。


 このところ、金欠更新中で、出かけることもままならず(まぁ、暑さという大敵もありましたし)、美術館もギャラリーも、展覧会とご無沙汰なのが寂しいところですね。
 涼しくなることと、財布が少しは重くなることを願うとしましょう。


 この5月辺りから、仕事のパターンが変り、帰りが遅くなってしまったもので、なかなか皆さんの日記を読む時間の余裕がなくなってしまい、失礼を重ねております。
 自分の日記を書いて、もう少し余力があればと思うのですが、まだ非力ですね。まぁ、慣れれば、時間の作り方も上達するかも知れません(あまり期待出来そうもありませんが)。

 仕事の合間なんかを利用しての読書時間は、逆に以前より確保出来るようになりましたから、日記の内容もこれまで以上に充実させることが出来るでしょう、理論的には。「理論的には」としか言えないところが悲しいところですが…


 そういえば、先週の台風襲来時には、我が家の生垣のピラカンサが、雨と風で道路側に倒れ掛かり、嵐の中、枝落としに励むハメになりました。
 朝6時過ぎに起きて、外へ様子を見に行ったところ、道路を塞ぐところまではいってませんでしたが、放置することも出来ない状態でした。
 2メートルほどの高さに切りそろえているのですが、この夏、剪定をサボっているうちに、さらに2メートル近く枝が伸びてしまっていて、台風シーズンまでには何とかしなければと思っているうちに、台風直撃となってしまったわけです。

 しかし、普段なら脚立なしには届かない、高く上に伸びた枝が、風雨にあおられたせいで手の届く状態になり、何とか必要な枝を落とすことは出来ました。
 しかし、相手はピラカンサ、トゲで傷だらけとなってしまいました。



 昨日の「難民として生きること」についてですが、私の娘が生まれた時に、私の母は80歳(私は母が40代で生んだ子供でしたので)。
 赤ん坊と老人がいる状況での「難民」の姿。
 想像するだに苦しい状況だと思いました。

 難民となるのは、民間人、市民です。自分達を守るべき軍隊が、自分達市民を守ることが出来なくなったが故に、難民として故郷を離れなければならなくなるわけですね。
 記録映画として保存された過去の戦争における難民の歴史的映像の数々に加えて、現在のニュース映像の背後にも、乳飲み子を抱えた母親や、歩くことも困難な老人を支える家族の姿が、必ず、写っています。
 娘が生まれた90年代には、旧ユーゴスラビアが内戦状態に陥り、独立した各民族国家から排除された、異民族としての避難民の姿を、日常的に見ることになりました。
 そこに映し出されているのは、スペイン戦争や、第二次世界大戦の記録フィルムに見ていたのと変らぬ映像です。
 逃げることしか出来ぬ人々の姿。

 そしてまた、難民生活の終りは誰にも保障されていません。占領が続く限り、難民として暮らさざるを得ないのです。
 実際、パレスチナ難民は、イスラエル建国以来、祖国となるべき土地、故郷の地を奪われたまま、60年近い日々を「難民」として過ごすことを強いられています。

 そのような姿がテレビ画面に映し出される度に、老人と赤ん坊という、我が家族の組み合わせを思わずにはいられませんでした。
 私はこの家族を、どこまで守りきることが出来るだろうか、と。
 もちろん、そんな日々が訪れない方がいいに決まってます。しかし、望んで難民生活をしている家族もどこにもいないでしょう。

 戦争が、私たちに何をもたらすのか。
 様々なことが言えるかと思いますが、「難民」という視点もまた、忘れられてはならないように思っています。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/09/09 23:36 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/41189

 

 

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難民として生きること

 

 難民となることについて考えたことがあるだろうか。

 映画と写真は、20世紀の戦争により、難民として日々をくぐり抜けざるを得なくなった多くの人々の姿を、記録として残した。

 第一次世界大戦、ロシア革命、支那事変、第二次世界大戦…、と戦争は続き、パレスチナ難民を生み出したイスラエル建国、ヴェトナム戦争から旧ユーゴの内戦を経て、現在のイラクを逃れざるを得なくなった人々まで。住み慣れた家を捨て、故郷を後にせざるを得なかった人々の姿。
 それを、まさに20世紀のメディアである映画と写真が記録し続けてきた。私たちは、文書記録と共に、映像という20世紀特有の手段によって定着された、難民という生き方を選択せざるを得なかった人々の姿に常に接してきたのだ。
 かつての歴史的映像としてのみならず、日々のニュースは、私たちの食卓にまで、そのような難民の姿を送り続けているのである。

 少ない荷物で、着の身着のまま、住み慣れた世界から離れ、仕事のあてもない世界へと旅立つことを迫られた人々。それを人々に迫る戦争という名の暴力。
 老人も幼児も病人も、難民生活へと追い込まれるのだ。

 大東亜戦争の経験は、日本国内では幸いなことに本土決戦の回避により、難民という状況を国民に強いるところまでは至らなかった。
 しかし、植民地としての満洲に移住し、そこに生活の基盤を築きつつあった人々は、敗戦と共に、いわゆる「引き揚げ」体験を味わうことになったことは忘れてはならないだろう。

 難民となるということは、生きるための選択でありながらも、そこには安全も生き続けることの保障も存在しない場へと追い詰められていくことを意味するものでもある。

 20世紀が生み出した総力戦という戦争の型式、民族国家=国民国家という国家の形態は、それ以前の世紀の戦争に比しても、「難民」というあり方を、より大規模により深刻なものとして人々へと迫るものになったように思われる。



 

 

2007年9月6日 木曜日

我が家を離れて・・・

 2カ月前、私たちはスーツケースに荷物を詰めた。私の一つきりの大きなスーツケースは6週間近くの間、寝室に置きっぱなしだった。着るものや身の回りのものをぎっしりと詰め込んだので、スーツケースを閉じるのに、お隣りの6歳の子とE.に手伝ってもらわないといけなかった。

 このスーツケースに荷物を詰めるほど難しいことは、これまでほとんどやったことがない。まさに「ミッション インポッシブル」。「R君、さて今回の君の任務だが、30年近くの間に君がため込んだ品々を調べ、必要不可欠なものを決定することにある。この任務の困難な点は、選んだ品々を 1メートル×70センチ×40センチ の空間に収めねばならないところだ。このなかには、もちろん、君が今後数カ月着用することになる衣服や、写真、日記、ぬいぐるみ、CDなど、私的な記念品も含まれる」

 荷物を詰めては中身を出すのを4回やった。中身を出すたびに、どうしても必要というわけじゃないものは排除すると自分に誓った。荷物を詰めなおすたびに、前よりたくさんの「がらくた」を付け加えてしまった。一月半経ったところでE.がたまりかねてやってきて、私がしょっちゅう中身を更新したくならないように、かばんをしっかり閉めてしまおうと主張した。
   (バグダード・バーニング/日本語    http://www.geocities.jp/riverbendblog/ より)


 

 イラクを離れざるを得なくなった女性、リバーベンドの手記の抜粋である。

 21世紀の、この数ヶ月の出来事。
 4月に、イラクを離れることを決意し、2ヶ月前にスーツケースに荷物を詰め終え、やっと2日前にシリア国境を越えられたということだ。
 クルマでの移動の危険さゆえに、この2ヶ月間は動きが取れなかったということである。

 スーツケースに荷物を詰めるという作業に、難民となるということの意味の一端が語られているだろう。すべての思い出からの離別である。
 軽い記述のうちに、私たちはそのことを読み取らなければならないだろう。

 

 

…国境ではまわりの車に不安になった。いつ爆発するかわからない多くの車に囲まれているのが嫌だった。…

 
という文中の一節が、現在のイラクの状況を物語っている。


(上記引用は、MLコミュニティ「イラク戦争に関する世界情勢のニュース」による)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/09/08 22:10 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/41015/user_id/316274

 

 

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