カテゴリー「昭和二十年の記録」の記事

2014年8月 8日 (金)

白骨でも黒焦でも、屍體でも (『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 昭和20年8月8日)

 

 

 ところで、俺はこの日新しく見たり感じたりしたことを、も少しお前に知らせたいのだ。災後三日目のこの日の焼跡の街は、人の動きがめつきり多くなつていた。いろいろの人たちがいたが、その一つは廣島以外の地から救援にきた人たちだね。勿論羅災した人で無きずや軽傷の人もまじつていたし、兵隊さんもいたけれど、その數の少なかつたことは前にも書いたろう。この人たちは羅災者への物資の配給や道路の整理、屍體の取片づけなどに働いていた。
 各町會の假事務所の立札なども、あちこちに見受けられたよ。そうした人々のはたらきで、路上の屍體は少しは少なくなつていたが、何しろ酷熱の晴天三日目だろう。屍體は腐敗して屍臭はますますはげしくなつていて、それを魚の山のように一ヶ所にまとめたところなどは、目もあてられぬような氣がしたよ。屍體にはところかまわずうじがわいているし、蠅の多いことは實にお話にならぬ有様だつたからね。
 そんなわけだから、屍體は片づけてもそのままにして置けない。それを焼跡の露天でつぎからつぎへと「合同火葬」するのだ。焼けなかつた近郊の小學校や病院や、その他の「救護所」でも、引取人のない死んだ人は、皆そのようにして焼いたのだ。幸にして家族や親戚の人などにさがしだされた屍體は、個人個人で焼いているのもたくさんあつたが、そうでない人の屍體の處理は、實際氣の毒だつたよ。しかし、この場合そうするよりほかに仕方がなかつたのだ。
 どこだつたかわすれたが、道路の四つ辻に、焼残りの柱や板を縄でしばつた縁日の植木屋の棚のようなものができていてね、それに種物屋の店頭のように小さな新聞紙の袋やおひねりが並べてあるのだ。そしてそれに住所氏名などが書いてある。遺骨なのだ。それも姓名のあるのはいい方で、「三十才位の男」「四十才の女」なんて札のついたのも少くなかつたよ。こんなのは最後まで引取人のないのが多かつたわけだが、中にはたずねあぐんだあげく、遭難場所を推定して、こうした遺骨を貰つて歸つた遺族が、俺の知つている中にも何人かある。ところによつては焼くのにも手がまわらず、まとめて埋めてしまつたのも少くなかつた。
 火事の餘燼は大分おさまつていたが、それにかわつて、到るところ屍を焼く煙が立ちはじめたのだから、焼野ヶ原がそのまま「鳥部野」に化したというわけだ。既に家の下敷きになつて、自然に火葬されてしまつた白骨を拾つている人もあるし、焼跡から掘り出した黒焦死體を二つならべて、「誰だろう」と評定しているようなところも見たよ。こうした状態はこの日ばかりでなく、その後も何日かつづいたね。
 だが、白骨でも黒焦でも、屍體でも、「生きた屍」でも、三日か四日で肉親の手に入ったのはまだまだ幸な方なのだ。それがどこにどうしているやらわからず、市内の焼跡ばかりでなく、近在近郷の村々や島々の救護所や心あたりを、喪神したようにつぎからつぎへとさがして歩く人々の群を、この日も随分多く見かけたが、こうした人々は、その後十日も二十日も一ヶ月も、いや二ヶ月、三ヶ月後にもそのあとを絶たなかつた。だから、お前のように無事に逃げおうせても、肉親にめぐりあわずに死んでいった人々も、随分多かつたのだ。
          小倉豊文 『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 中央社 昭和24年(初版は昭和23年) 157~160ページ

 

 

 

 

 広島への原爆投下から三日目、8月8日の話である。

 

 8月7日の夜、府中国民学校で妻の文子との再会を果たした小倉豊文は、その足で再び夜の広島市街の捜索に向かう。息子の恭二の姿を求めて。

 

 

 

 とにかく俺は、前日見た江波線の電車道路の「救護所」に行つて見た。そこには晝間見たと同じように「生きた屍」が行列していた。俺は懐中電灯をつけて、はしからはしまでゆつくり丁寧にしらべて行つた。しかし、恭二らしい姿はやつぱり見當らなかつた。
 俺は家の焼跡に行くのはやめて、己斐への道路を歩きはじめた。焼跡に行つても今更どうにもならないとわかつていたから、地御前の勝山まで行つてみようと決心したのである。
 ――萬一、田川の人たちといつしょに避難しているかも知れない。
     同書 138~39ページ

 

 

 そして、夜も明けた勝山で、恭二との再会を果たすのであった。

 

 

 

  何しろ酷熱の晴天三日目だろう。屍體は腐敗して屍臭はますますはげしくなつていて、それを魚の山のように一ヶ所にまとめたところなどは、目もあてられぬような氣がしたよ。屍體にはところかまわずうじがわいているし、蠅の多いことは實にお話にならぬ有様だつたからね。

 文章を読んでも臭いは伝わらないが、「屍體」の発する臭いであれ、焼跡の焼け焦げた臭いであれ、あるいは炎天下の人々の汗の臭いであれ、ここでは周囲に立ち込める臭いまで読み取らねば、状況を理解したことにはならないわけである。昭和20年8月8日の広島の状況を。

 

 

 翌日の8月9日には長崎にも原爆が投下され、長崎の人々もまた、

  だが、白骨でも黒焦でも、屍體でも、「生きた屍」でも、三日か四日で肉親の手に入ったのはまだまだ幸な方なのだ。それがどこにどうしているやらわからず、市内の焼跡ばかりでなく、近在近郷の村々や島々の救護所や心あたりを、喪神したようにつぎからつぎへとさがして歩く人々の群を、この日も随分多く見かけたが、こうした人々は、その後十日も二十日も一ヶ月も、いや二ヶ月、三ヶ月後にもそのあとを絶たなかつた。

…という日々の中を生き抜くことを強いられることになる。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/08/08 18:02 → http://www.freeml.com/bl/316274/206298/

 

 

 

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2014年8月 7日 (木)

シルウェット-體幹のうねりたしかに妻なり (『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 昭和20年8月7日) 

 

 

 少年工たちに入り口でまつていてもらつて、俺はひとりで講堂の中にはいつた。己斐でのそれと同じように、むせかえるような屍臭がたちこめていて、二、三本ところどころにともしたローソクのうす暗い光の下に、俺には既に見なれた「生きた屍」が並んでいた。己斐の學校よりは、その數が少なくまばらであつた。
 ジッと死んだように動かぬのもあるが、寝たり起きたりうごめいているのもあつた。幸いにうす暗いので一人一人の形相はわからなかつた。それだけに識別するのが困難だつた。俺はふみつけぬように足もとに気をつけながら、腰をかがめて一人一人の顔をのぞきこむようにして、入り口からの順々に見て行つた。なかなか見つからなかつた。最後の一人と思われる人までまわつて行つたが、見つからなかつた。
 俺が顔を近づけると、知らぬ顔に目をつむつている人もあるし、横を向いたまま見かえりもしない人もあつた。時々、うつろな目でうらめしそうに見かえされることがあつた。そのまなざしに胸をえぐられた。この人たちは、昨日から「晒し物」にされているような、こうした經験を何十度となく繰りかえしていたであろう。そして近づけられる顔に、自分の愛する肉親や知人の顔を、待ちわびていたのであろう。だが、その度に期待を裏ぎられ、希望をかきけされていたのであろう。
 かくてこの人たちには、一晝夜がすぎ、二晝夜目の夜も深くなろうとしていたのだ。どの人の枕もとにも、白い炊きだしのお結びが一つ二つころがつていた。だが、この人たちの渇望しているのは、肉體の飢えではなくて魂のかわきにちがいない。肉親の顔を、知人の愛を、求めつづけていたのであろう。しかも、その期待が、その希望が、にべもなく何十度打ち破られていたことか。知らぬ顔の「絶望」も、力ない「怨恨」も、かなしき必然であるといわなければなるまい。
 俺はその「絶望」と「怨恨」に、もう一度ふれるのはたまらない氣がした。しかし、お前が見つからないのだ。俺は今度は、奥の方から入口の方へ向かつて同じしぐさをくりかえした。だが、やつぱりお前は見当たらなかつた。三度目にはお前の名を低く呼びながら一まわりした。そして一番最後まで行つて引きかえしかけた時だつた。俺は足もとでつぶやくような聲をきいた。
 「その方は今さつきまで、ここにおられましたが…」
 目の前に、頭を繃帯して足を投げだした女の人が坐つていた。両脚も繃帯し、胸には子供を抱いている。そして、その隣が一人分ほど空いていて、筵の片隅にお結びが二つころがつている。俺が腰をかがめると、
 「大學の方でしよう?」
と顔をあげた。「そうです」というと、
 「今さつきまでここにおられたのですがね…」とくりかえした。俺はそれをきくなり、あいさつもせず外にとびだした。入口の少年工たちは、擔架を立てかけて地面に足を投げだしてしまつていた。
 「わかりませんか」
 「わからん」
 「あのへんじやないですか」
 年かさらしい少年がそういつて指す方を見ると、校庭の隅の方に、大地に並んだ屍らしいシルウェットが五つ六つ目にうつつた、背後の焚火に照らしだされて―。俺は「死んではいまい」と思つたが、恐る恐るその方に近づいて行つた。シルウェットが一つ一つだんだんハッキリしてくる。
 ――文子だ!
 そのシルウェットの中の一つを、とつさに俺はそう思つた。顔は見えない。だが、肩から腰にかけてうねる肉體の線は、まぎれもなくお前だ。俺は走りよつた。夜なのに蠅がプーンととびたつた。顔、手、足に白い繃帯がしてある。
     顔 手 足  繃帯に蠅が群れておれど 體幹のうねりたしかに妻なり
 これはあとでつくつたその時の俺の歌だ。
 「どうした、文子、俺だぞ」
 俺がそういつても、お前はしばらくなにもいわなかつたね。焚火のあかりで俺の顔は見えたろうのに――。俺は繃帯の間からのぞいているお前の目を、口を、そして鼻を、たしかに見た。だが放心したような目だつた。N君からの豫告で、俺のくるのはわかつていただろうに。何かすつかり絶望しきつているような顔つきだつたよ。のぞきこんだ俺の顔を、ジッとうつろなまなざしでみつめていて、やがてお前はしずかにいつた。
 「ピカッと、とても大きな稲妻が光つたと思つたの。それから、なんにもわからなくなつちやつたの。福屋の前で……」
 「福屋の前で?」
 瞬間、前の日に見た死屍累々たる福屋の前の路上が、電光のように頭の中を走つた。
     小倉豊文 『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 中央社 昭和24年(初版は昭和23年) 126~129ページ

 

 

 

 

 広島への原爆投下の翌日、8月7日の夜のエピソードである。

 

 妻の姿を探して二日目の夜、大学の学生(といっても直接の教え子ではない)から妻文子が府中國民學校に収容されているとの情報を得、ついに小倉豊文は妻を見つけ出した。

 

 それに先立つ、国民学校の講堂での、

  俺が顔を近づけると、知らぬ顔に目をつむつている人もあるし、横を向いたまま見かえりもしない人もあつた。時々、うつろな目でうらめしそうに見かえされることがあつた。そのまなざしに胸をえぐられた。この人たちは、昨日から「晒し物」にされているような、こうした經験を何十度となく繰りかえしていたであろう。そして近づけられる顔に、自分の愛する肉親や知人の顔を、待ちわびていたのであろう。だが、その度に期待を裏ぎられ、希望をかきけされていたのであろう。

…との記述に、身動きも叶わぬほどの深い傷を負いながらも「近づけられる顔に、自分の愛する肉親や知人の顔を、待ちわびていた」人々、そして「その度に期待を裏ぎられ、希望をかきけされ」たままに死んでいったであろう多くの人々の姿を、私は、見出す。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/08/07 23:01 → http://www.freeml.com/bl/316274/206257/

 

 

 

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2014年8月 6日 (水)

何でガンスカノー? (『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 昭和20年8月6日)

 

 

 その時、俺は耳もと近くにせきこむような人聲をきいた。
 「何でガンスカノー?」
 「どこでガンヒョウ?」
 振り向くと中背の六十歳近い男が二人、この近所のお百姓らしい。
 「西練兵場あたりじやないでしようか」
 「そのあたりでガンスノー」
 「やっぱり爆彈でガンヒョウカ」
 「イヤ……」
 俺はうかつなことはいえないと思つて言葉を切つた。お前も知つているようにあの頃の廣島の「流言蜚語」の取締は實にひどかつたからね。尤も、あれも仕方がなかつたかも知れないよ。俺が敗戰後にある軍の参謀から聴いたことだが、あの頃全國の主要都市がみんな片つぱしから爆撃されているのに、廣島がまぎれ彈を二三發見舞われただけで、大規模な爆撃を全然受けていなかつたのは、スパイが多數入り込んでいるからかも知れない、という解釋をしていたというのだからね。
 だが俺は、「何か新兵器ちゆうもんでガンヒョウカ」とたたみかけてきかれると「私は火藥庫の爆發じやないかと思うんですがね」と答えてしまつた。ところが、「やっぱり爆彈を落とされたんでガンヒョウカ」と追及された。俺は軍の過失による爆發と思いこんでいたのだ。だつて飛行機の一臺もこない爆撃なんてナンセンスだものね。そこで「飛行機の来ない爆撃なんてまだ日本にはないでしよう」と皮肉るつもりで答えたのだ。すると意外、二人共殆ど異口同音にきおいこんでいうのだ。
 「きましたぜ、こつちからあつちへ」
 やつぱり二人いつしよに東から西の方を指すのだ。
 「いつ?」
 「ホンさつき――B29でガンス」
     小倉豊文 『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 中央社 昭和24年(初版は昭和23年) 15~16ページ

 

 

 

 

 広島への「原爆」の投下直後の情景である。

 小倉豊文は、この時、爆心から東に4キロ以上離れた地点にいた。

 何が起きたのか、誰にもまだ本当のところは理解されていないのである。米軍による爆撃とは思わず、日本軍の火薬庫の爆発と考えていたことが記されている。

 

 その日一日をかけて市内を横切り(爆心地から500メートルほどの地点を通る―ただし爆心がどこかも知らないままに―想像力の限界を超えたような惨状の続く中を)、最終的に爆心から3キロ西方のかつての家主の住まいで夜を過ごす(家族の所在も安否もわからないままに)。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/08/06 23:41 → http://www.freeml.com/bl/316274/206218/

 

 

 

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2012年9月 1日 (土)

昭和二十年八月三十一日 復員兵の姿

 

三十一日(金) 雨
 〇「巨大な陥没の後の再興の年、それはもろもろの民族のよき成長の年であった。
 敗北に宿る尊き価値を認識するものは、常にただ少数の思慮ある能動的な精神に限られている。しかし、決定力は実にこの少数の精神にある。他の者が享楽し、糾弾し、呪詛し、攪乱し、或いは今後の発展について人類に命令を下しているあいだに、この少数者は静かに未来を準備しつつある。彼らはすべて、すでに没落を感じた者であり、今や規制のものに対して極めて自由な立場にある。のみならず世界審判の暴風は爽やかに彼らの額を吹いている。
 彼らは新しい責任を予感する。あたかも自分達が最後の人間であり、自分の生命を、損なわれた預かり物のように、出来るだけ修復した姿で創造主の手に返そうとしているかのようであった。彼らは大言壮語を口にすまいとかたく誓った。愛、自由、英雄精神、これらの言葉を、彼らはもはや口にすることを悦ばなかった。それらはすべて蛹となって冬の深淵に眠っているものと考え、執拗な呼び声を以て原始の諸力の神聖な祭壇を攪乱することを懼れるのであった。彼らはたとえどんなにささやかなものであろうとも、心の声の示すところを実現しようと欲した。これを以て、彼らは墓の懸燈を潤す油とした。かくて、ただ日常的なもののうちにのみ、時として彼らに、より高き世界が現れるのだった。」(ハンス・カロッサ)
 〇ハンス・カロッサ 『医師ギオン』 読了
 今次の敗戦ドイツは、前大戦後のそれと比を絶する凄惨なものであろう。前大戦に於ては、連合国はドイツ領に一歩も入り得なかったし、政府は残っていたし、航空機の威力も児戯に類するものであった。それに較べると、今度は凄じい、英米ソ軍はほとんど全ドイツを蹂躙し、政府は粉砕され、爆撃は全都市を廃墟と化せしめている。その上前大戦の経験に懲りて、連合軍の弾圧誅求は昔に千倍するであろう。
 しかもその前大戦でさえ――カロッサの描いた敗戦後のドイツ――寒風の吹き荒れる廃墟にボロを着た乞食のごとき民衆が、膝を抱えてうずくまったまま、高い冷たい碧空をじっと見つめているようなドイツの姿――こんな姿は、まだ日本には見られない。(東京の光景はまだ見ない)
 廃墟は廃墟としても、精神的にはここまで叩きのめされてはいないと思う。――しかし、はじまるならばこれからである。あさっての東京湾に於ける降伏調印がその序幕となるのである。
 〇友人続々帰郷。余も明後日帰郷せんとす。
 安西、柳沢を雨中、駅に見送る。待合室内に兵士数名座る。襟章に星一つ。戦闘帽になお徽章あれど、帯革、剣、銃なく丸腰の惨めなる姿なり。ただ背には何やら山のごときものを背負う。解散に際し軍より半ば押しつけられ、半ば掠奪的に運び来るものなるべし。米俵、馬、トラックまで貰いし兵もあるときく。八十年、日本国民が血と涙しぼりて作りあげし大陸軍、大海軍の凄まじき崩壊なり。兵一人一人がこれくらい貰いても不思議にあらず。
 雨に濡れて貨車動く。いずこへゆくにや無蓋の貨車の上にキャタピラ壊れし黄褐色の戦車一台乗れり。この戦車、戦いしか否か。おそらくまだ戦いたることなき戦車ならん。鉄鋼雨に暗く濡れ、さびしく冷たき姿なり。子を背負いたる女、労働者、少年、農夫、光る眼にてこの兵を見、またこの戦車を見る。
     山田風太郎 『新装版 戦中派不戦日記』 講談社文庫 2002  454~465ページ

 

 

 当時は東京医専の学生だった山田風太郎の昭和20年8月31日の日記である。

 ポツダム宣言受諾により、つまり大東亜戦争は負け戦として「終戦」を迎えたわけである。敗戦というそれまで経験しなかった現実を前にして、ハンス・カロッサの書き残した(第一次世界大戦での)敗戦後ドイツの姿を参照しながら、若き山田風太郎は、自らと故国の行く末に思いを馳せているわけである。ここにカロッサが登場するところに、当時の医学生の知的生活の一端を見ることが出来るだろう。

 後半の情景は疎開先の飯田の駅での見聞だ。目につくようになってきた復員兵の姿の中に、「八十年、日本国民が血と涙しぼりて作りあげし大陸軍、大海軍の凄まじき崩壊」を見ているのである。

 

 あらためて気付くことのひとつは、昭和20年と今年の日付と曜日が一緒だということである。平成24(2012)年の今日、8月31日が金曜であるのと同様に、昭和20(1945)年の8月31日も金曜だったのだ。もう少し早く気付いていれば、今年の夏の読書にもより味わいが増したであろうにと思うと、いささか残念なところではある。

 

 

 山田風太郎の日記の後半部の復員兵のエピソードであるが、同じ8月31日の海野十三の日記にも、同様な姿が描かれている。

 

 

〇復員兵が厖大なる物資を担って町に氾らんしている。いやですねえという話。それをきいた私も、大いにいやな気がした。しかし今日町に出て、実際にそれを見たところ、ふしぎにいやな感じがしなかった。しなかったばかりか、気の毒になって涙が出てしようがなかった。十八歳ぐらいの子供のような水兵さん、三十何歳かの青髯のおっさん一等兵、全く御苦労さま、つらいことだったでしょうと肩へ手をかけてあげたい気持がした。
     海野十三 『海野十三敗戦日記』 中公文庫 2005  131ページ

 

 

 若い山田風太郎のどこか他人事めいた視線に対し、40代後半の家族持ちであった海野が復員兵に抱いた共感を含む気持ちの間には、両者の性格の問題とは別に、既に山田の二倍の齢を重ねている海野の人生の時間があるだろう。もちろんそれは、どちらの感懐が正しいのか?という問題ではなく、それぞれの感懐をどのように読み取ろうとするのか?の問題である。

 

 

 

 とりあえず、戦争は終わった。それが「玉音放送」から二週間が過ぎた昭和20年8月31日の実感であろうか?

 

  ――しかし、はじまるならばこれからである。あさっての東京湾に於ける降伏調印がその序幕となるのである。(山田風太郎)

 

 日本人が「戦後」の日々を現実として味わうのは、むしろこれからなのである。

 「終戦後の日々」は、軍が崩壊し戦争が終わった後の日々であり、確かにそこには平和があったが、それは「敗戦後の日々」であり「占領下の日々」を意味するものでもあった。その意味を、戦後の日本人はどこまで深く考えたのか?

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/08/31 21:25 → http://www.freeml.com/bl/316274/195858/

 

 

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2010年11月 8日 (月)

続・笑止、笑殺、黙殺 (原爆投下とソ連対日参戦)

 

 ポツダム宣言をめぐる、昭和20年7月28日の、

  私はあの共同声明はカイロ会談の焼き直しであると考へてゐる、政府としては何等重大な価値あるとは考へない、ただ黙殺するだけである、我々は戰争完遂に飽く迄も邁進するのみである

…という鈴木貫太郎首相の談話(報道されたのは29日あるいは30日の各新聞紙面)にある「黙殺」という語が、

  笑止、對日降伏條件

  帝國政府問題とせず

  帝國政府としてはかかる敵の謀略については全く問題外として笑殺

…という7月28日の第一報紙面での評価に続くものとして、言論統制下の新聞紙上に登場したことは、前回に記した通りである。

 
 

 『ウィキペディア』での「ポツダム宣言」の項では、その間の経緯を、

 

7月27日、日本政府は宣言の存在を論評なしに公表し、翌28日には読売新聞で「笑止、対日降伏條件」、毎日新聞で「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戰飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などと報道された。同日、鈴木貫太郎首相は記者会見で「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し、斷固戰争完遂に邁進する」(毎日新聞、1945年(昭和20年)7月29日)と述べ、翌日朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道された。この「黙殺」は日本の国家代表通信社である同盟通信社では「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳され、またロイターとAP通信では「Reject(拒否)」と訳され報道された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80

 

…と説明している。ここには、

  この「黙殺」は日本の国家代表通信社である同盟通信社では「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳され、

  またロイターとAP通信では「Reject(拒否)」と訳され報道された

…とあるわけだが、

  笑止、笑殺、帝國政府問題とせず

…という国内報道の流れからすれば、「ignore it entirely(全面的に無視)」あるいは「Reject(拒否)」という訳語を「誤訳」として批難することも難しいだろう。

 

 いずれにしても、鈴木首相によるポツダム宣言の「黙殺」は、原爆投下を目指していたトルーマン大統領にはまさに「天佑神助」となったのである。ここでは、『ウィキペディア』の「広島市への原子爆弾投下」の項を読もう。そこには、

 

米国政府の声明 8月7日
6日深夜(米東部標準時。日本時間7日未明)、アメリカ合衆国ワシントンD.C.のホワイトハウスにてハリー・S・トルーマン米大統領の名前で次のような内容の声明を発表した。

16時間前、アメリカの飛行機が日本軍の最重要陸軍基地・広島に一発の爆弾を投下した。この爆弾の威力はTNT2万トンを上回るものである。これまでの戦争の歴史において使用された最大の爆弾、イギリスのグランドスラム爆弾と比べても、2000倍の破壊力がある。(中略)つまり原子爆弾である。
ポツダムで7月26日に最後通告が出されたのは、日本国民を完全な破壊から救うためであった。日本の指導者たちは、この最後通告を即刻拒否した。もし彼らがアメリカの出している条件を受け入れないならば、これまで地球上に一度も実現したことのないような破壊の雨が降りかかるものと思わねばならない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B

 

…という、トルーマン大統領の声明の内容が紹介されている。

 トルーマンは、大日本帝國政府によるポツダム宣言の「黙殺(つまり Reject である)」という取り扱いに対し、 

  ポツダムで7月26日に最後通告が出されたのは、日本国民を完全な破壊から救うためであった。

  日本の指導者たちは、この最後通告を即刻拒否した。

  もし彼らがアメリカの出している条件を受け入れないならば、これまで地球上に一度も実現したことのないような破壊の雨が降りかかるものと思わねばならない。

…と応じたのであった。

 ポツダム宣言黙殺は、原爆投下の正当化に、大いに役立ったのである。

 

 

 

 ポツダム宣言の「黙殺」は、対日参戦を目指していたスターリンにも何よりのプレゼントとなった。ソ連政府による対日宣戦布告は、

 

政府ノ訓令ニヨリソ連政府ノ日本政府ニ對スル左ノ宣言ヲ傳達スヘシ
ヒットラー獨逸ノ壊滅及ヒ降伏後ニオイテハ日本ノミカ引續キ戰争ヲ繼續シツツアル唯一ノ大國トナレリ、日本兵力ノ無條件降伏ニ關スル本年七月二十六日附ノ亜米利加合衆國、英國及ヒ支那三國ノ要求ハ日本ニヨリ拒否セラレタリ、コレカタメ極東戰争ニ關シ日本政府ヨリソ連邦ニ對シナサレタル調停方ノ提案ハ總テノ根據ヲ喪失スルモノナリ
日本カ降伏ヲ拒否セルニ鑑ミ連合國ハ戰争終結ノ時間ヲ短縮シ、犠牲ノ數ヲ減縮シ且ツ全世界ニオケル速カナル平和ノ確立ニ貢獻スルタメソ連政府ニ對シ日本侵略者トノ戰争ニ参加スルヤウ申出テタリ
總テノ同盟ノ義務ニ忠實ナルソ連政府ハ連合國ノ提案ヲ受理シ本年七月二十六日附ノ連合國宣言ニ加入セリ
斯ノ如キソ連政府ノ政策ハ平和ノ到来ヲ早カラシメ今後ノ犠牲及ヒ苦難ヨリ諸國民ヲ解放セシメ且ツ獨逸カ無條件降伏拒否後體驗セル如キ危險ト破壊ヨリ日本國民ヲ免ルルコトヲ得セシムル唯一ノ方法ナリトソ連政府ハ思考スルモノナリ
右ノ次第ナルヲモツテソ連政府ハ明日即八月九日ヨリソ連邦ハ日本ト戰争状態ニアルモノト思考スルコトヲ宣言ス

東郷外務大臣・マリク大使會談録(八月十日午前十一時十五分-十二時四十分)
     (外務省編纂 『日本外交年表竝主要文書』 原書房 1966)

 

…というものであった。ポツダム宣言の「黙殺」は、ソ連政府により、

  日本兵力ノ無條件降伏ニ關スル本年七月二十六日附ノ亜米利加合衆國、英國及ヒ支那三國ノ要求ハ日本ニヨリ拒否セラレタリ

…と解釈され、それまでの日本政府からのソ連政府による和平仲介の希望(調停方ノ提案)は、

  コレカタメ極東戰争ニ關シ日本政府ヨリソ連邦ニ對シナサレタル調停方ノ提案ハ總テノ根據ヲ喪失スルモノナリ

…として処理され、ソ連の対日参戦が、

  斯ノ如キソ連政府ノ政策ハ平和ノ到来ヲ早カラシメ今後ノ犠牲及ヒ苦難ヨリ諸國民ヲ解放セシメ且ツ獨逸カ無條件降伏拒否後體驗セル如キ危險ト破壊ヨリ日本國民ヲ免ルルコトヲ得セシムル唯一ノ方法ナリトソ連政府ハ思考スルモノナリ

…として正当化されたのである。つまり、ポツダム宣言黙殺は、「日ソ中立条約」を一方的に破棄しての対日参戦の口実としても、大いに役立ったのであった。

 

 

 

 戦後間もない日に、ある日本人は、次のような言葉を残した。

 

  御聖断遂に降る

 今から思へばソ聯の参戦といふことがなかったならば、原子爆弾のみでは或ひはこのやうに急速な終戦はやって来なかったかも知れない。この意味では、ソ聯の参戦はその宣戦布告にも云ってゐるやうに、確かに「平和の招来を早からしめた。」ソ聯から宣戦されることによって政治的な唯一の活路をもまた閉ざされた日本は、戦力の点ではこれよりずっと以前に完全に参ってゐたのである。いまはもはや無条件降伏以外に潰滅から免れる方法は残されてゐなかったのである。軍部、殊に陸軍の一部に行はれてゐたやうな無謀極まる自滅戦術――皇国を焦土と化して一億玉砕のゲリラ抗戦を継続するといふ狂気沙汰に興せざる限り政府當路としてここでなすべきことは既に決まっていたのである。

     (大屋久壽 『終戦の前夜』 時事通信社 昭和20年12月15日刊)

 

 

 それは、政治が軍事に従属させられた果ての結末であった。「戦力の点ではこれよりずっと以前に完全に参ってゐた」にもかかわらず、原爆被害とソ連参戦を抜きに、政治的に戦争終結が導かれることはなかったのである。軍人は「完全に参ってゐた」事実を事実として認めようとはしなかったし、政治家にも軍人を説得する力はなかった。そして国民は、既に国家が軍事的に「完全に参ってゐた」にもかかわらず、原爆の「地球上に一度も実現したことのないような破壊の雨」の威力と、ソ連軍の「平和ノ到来ヲ早カラシメ今後ノ犠牲及ヒ苦難ヨリ諸國民ヲ解放セシメ且ツ獨逸カ無條件降伏拒否後體驗セル如キ危險ト破壊ヨリ日本國民ヲ免ルルコトヲ得セシムル唯一ノ方法」のもたらす苦難の犠牲となっていったのである。

 ポツダム宣言受け入れによる戦争終結を促したのは、結局のところ、原爆とソ連軍だったのであり、ポツダム宣言受け入れによる戦争終結を最終的に決定したのは、政治家の理性でも軍人の潔さでもなく、国体存続を望む天皇の意思であった。

 

 

 いずれにせよ、ポツダム宣言の「黙殺」は、トルーマンとスターリンに原爆投下と対日参戦のチャンスを与え、その正当化の論理さえ提供したのである。大東亜戦争の軍事的敗北は、ダメ押し的な外交的敗北と共に訪れていたのであった。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/11/08 22:25 → http://www.freeml.com/bl/316274/151240/

 

 

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2010年11月 7日 (日)

笑止、笑殺、黙殺 (原爆投下とソ連対日参戦)

 

 昭和20年8月7日の高見順の日記には、原爆投下をめぐって、

「大変な話――聞いた?」
 と義兄はいう。
「大変な話?」
 あたりの人をはばかって、義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。人のいないところへと彼は私を引っぱって行って、
「原子爆弾の話――」
「……!」
「広島は原子爆弾でやられて大変らしい。畑俊六も死ぬし……」
「畑閣下――支那にいた……」
「ふっ飛んじまったらしい」
 大塚総監も知事も――広島の全人口の三分の一がやられたという。
「もう戦争はおしまいだ」
 原子爆弾をいちはやく発明した国が勝利を占める。原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ、そういう話はかねて聞いていた。その原子爆弾が遂に出現したというのだ。――衝撃は強烈だった。私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。対日共同宣言に日本が「黙殺」という態度に出たので、それに対する応答だと敵の放送は言っているという。
「黙殺というのは全く手のない話で、黙殺するくらいなら、一国の首相ともあろうものが何も黙殺というようなことをわざわざいう必要はない。それこそほんとうに黙っていればいいのだ。まるで子供が政治をしているみたいだ。――実際、子供の喧嘩だな」
 と私は言った。

     高見順 『敗戦日記〈新装版〉』 (文春文庫 1991)

…と、書かれている。

 ポツダム宣言「黙殺」をめぐっては、既に「現代史のトラウマ」で取上げているのだが(http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-5633.html)、今回はあらためて詳細を追ってみたい。

 

 

 

 まず、国内的な第一報の新聞記事を読もう。『讀賣報知』の昭和20年7月28日の記事には、

 

 

 笑止、對日降伏條件
  トルーマン、チャーチル、蒋連名
     ポツダムより放送す

【チューリヒ特電廿五日發】トルーマン、チャーチルおよび蒋介石は廿五日ポツダムより連名で日本に課すべき最後的條件なるものを放送した、右條件要旨次の如し
 以下の各條項は吾々の課すべき降伏の條件なり、吾々はこの條件を固守するものにして他に選択の余地なし、吾々は今や猶余するところなし
一、世界制服を企つるに至れるものの権威と勢力は永久に芟徐されるべきこと、軍國主義を放逐すること
一、日本領土中聨合國により指定せらるる地点は吾々の目的達成のため占領せらるること
一、カイロ宣言の條項は実施せられるべく日本の主権は本州、北海道、九州、四國およびわれわれの決定すべき小島嶼に限定せらるること 
一、日本兵力は完全に武装解除せらるること
一、戰争犯罪人は厳重に裁判せらるること、日本政府は日本國民に民主主義的傾向を復活すること、日本政府は言論、宗教および思想の自由並びに基本的人権の尊重を確立すべきこと
一、日本に留保を許さるべき産業は日本の経済を維持し且つ物による賠償を支拂得しむる如きものに限られ、戰争のための再軍備を可能ならしむるが如き産業は許さざること、この目的のため原料の輸入は許可せらるること、世界貿易関係に対する日本の参加はいづれ許さるべきこと
一、聨合國の占領兵力は以上の目的が達成され且つ日本國民の自由に表明されたる意志に基づく平和的傾向を有する責任政府の樹立を見たる場合は撤退せらるること
一、日本政府は即刻全日本兵力の無條件降伏に署名し且つ適切なる保証をなすこと、然らざるにおいては直ちに徹底的破壊を齎らさるべきこと

 國内、對日両天秤
  老獪な謀略
   敵宣言の意圖するもの

トルーマン、チャーチルおよび蒋介石の三名は別項特電の通り廿五日のポツダム放送において對日降伏條件なるものを公表したが、右の各條項は何れもカイロ宣言の延長擴大に外ならず、欧洲戰の終末大東亜戰争の最終段階突入の世界情勢を背景として次の如き意圖を織り込んだ多分に謀略的要素を有するものであることはいふまでもない
一、ドイツに對し無條件降伏一点張りでドイツをして最後まで抵抗せしめそれによつて必要以上の損害を受けたことに米國内に非難があるため今回は方針を改めて対日勧告をなし自國民の諒解を求めんとしたこと
一、國内に平和要望の聲が次第に高いため彼らからみて相当緩和した條件を出して、もし日本がこれを肯んぜず戦争を継續せんとするならばあくまで戰はざるを得ずと自國民を納得せしめ戰意の昂揚に資せんとしたこと
一、硫黄島、沖縄における米側の犠牲が多大であつたに鑑み日本がこれを受諾せざる場合は戰争を継續するより他なし、従つて更に大なる犠牲を忍ばねばならぬことを明らかにし自國民の覺悟を促したこと
一、自らの武力の壓倒的に大なることを誇示し日本の敗戰気分を醸成し併せて日本の軍民離間を狙つたこと

 戰争完遂に邁進
   帝國政府問題とせず

敵米英並びに重慶は不逞にも世界に向かつて日本抹殺の對日共同宣言を發表、我に向かつて謀略的屈服案を宣明したが、帝國政府としてはかかる敵の謀略については全く問題外として笑殺、断乎自存自衛のための大東亜戰争完遂に擧國邁進、以て敵の企圖を粉砕する方針である

 敵對日共同宣言内容報告
     定例閣議

廿七日の定例閣議は午後一時から首相官邸に鈴木首相以下各閣僚出席の下に開かれ東郷外相より目下ポツダムに於いて進行中の三頭會談に付随してトルーマン、チャーチル、蒋介石の三者連名により發せられた對日共同宣言の内容につき詳細なる報告あり同五時散會した
 

 

…と書かれている。ここでは、

  笑止、對日降伏條件

  帝國政府問題とせず

  帝國政府としてはかかる敵の謀略については全く問題外として笑殺

…といった文言に注目しておきたい。

 第二報となる7月30日の紙面は、

 

 

 冷静に、軍を信頼し
  待て敵撃滅の好機
    空襲激烈下 生産力は十分
 首相・必勝の穏忍を説く

敵の空襲は愈々激化し機動部隊並に潜艦の本土艦砲射撃また頻々と傳へられ本土決戰の機運愈々濃化しつつある折柄敵米、英、重慶は笑止にもトルーマン、チャーチル、蒋介石三者の名を以て我に降伏を強いる對日共同宣言を廿七日ポツダムより世界に向かつて放送、今次大戰の短期終結を急ぐ自らの焦躁を暴露した、かかる内外の緊迫せる情勢下、鈴木首相は廿八日午後首相官邸において内閣記者團と會見、左の如き一問一答をなしたが、首相は特に
一、敵の空襲並に艦砲射撃に対して軍が本格的遨撃作戦を行つてゐないのは軍獨自の作戰的見地から出てゐるのであつて、國民はあく迄も冷静に軍を信頼し只管敵撃滅の好機を待つべきこと
一、敵の三國共同宣言はカイロ会談の焼き直しで何等価値を認めず政府としてはあく迄必勝の信念の下に大東亜戰争完遂に邁進する決意であること
一、敵の熾烈な空襲にも拘らず我が生産力は地下工場の進捗により決して悲観すべき状態ではなく現在月数千機の航空機生産が可能であること
を言明、國民に必勝の信念に基く穏忍と勤勞意欲の昂揚を要請、満々たる必勝の信念を吐露したことは注目される
(以下「一問一答」の詳細記事が続くが、ポツダム宣言関連事項のみ引用)
問 廿七日の三國共同宣言に〇〇首相の所信如何
答 私はあの共同声明はカイロ会談の焼き直しであると考へてゐる、政府としては何等重大な価値あるとは考へない、ただ黙殺するだけである、我々は戰争完遂に飽く迄も邁進するのみである
(〇〇は判読不能文字〉

 

 

…というものであり、ここに、あの有名な「黙殺」の語が登場するわけである。つまり、

  私はあの共同声明はカイロ会談の焼き直しであると考へてゐる、政府としては何等重大な価値あるとは考へない、ただ黙殺するだけである、我々は戰争完遂に飽く迄も邁進するのみである

…ということなのだ。

 

 ここでの「黙殺」という語のニュアンスが、第一報記事の、

  笑止、對日降伏條件

  帝國政府問題とせず

  帝國政府としてはかかる敵の謀略については全く問題外として笑殺

…との態度の延長として考えられてしまうのは当然のことであろう。

 
 

 参考までに、当時の辞典上での「黙殺」という語の取り扱いを見ておこう。
 

 【黙殺】
 他人の言動に対して是非をいはず、為るがままにしておくこと。
 見のがすこと。見て見ぬふりをすること。
     (平凡社『大辞典』昭和11年初版)

 現在の語感に比べて、若干、穏やかな印象である。これが最近のものだと、

 【黙殺】
 〔「黙」は無の意、「殺」は強めの言葉〕
 〔他人の発言・行動などを〕無視して全く問題にしないこと。
     (三省堂『新明解国語辞典第二版』)

…と、より強いニュアンスに変化している。この変化の背景には、ポツダム宣言「黙殺」の歴史が埋め込まれているのかも知れない。

 ポツダム宣言に対する、

  笑止、笑殺、帝國政府問題とせず

…との日本政府による評価が、国家による言論統制下の新聞紙上で報じられ、その上で、

  私はあの共同声明はカイロ会談の焼き直しであると考へてゐる、政府としては何等重大な価値あるとは考へない、ただ黙殺するだけである

…との首相談話が、ダメ押し的に掲載されたわけである。そこに演じられたのは、まさに、

 〔他人の発言・行動などを〕無視して全く問題にしないこと

…としての「黙殺」という行為であった。

 

 

 その「黙殺」が大日本帝國にもたらしたのが、原爆投下とソ連参戦だった。

 いや、より正確には、原爆投下と対日参戦の正当化の理由までを米ソそれぞれに提供してしまったのが、大日本帝國の首相によるポツダム宣言「黙殺」談話なのであった。
                     (その詳細は次回)

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/11/07 21:37 → http://www.freeml.com/bl/316274/151161/

 

 

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2009年5月 1日 (金)

神の国の軍隊

 

大日本国は神国なり。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝へ給ふ。我国のみこの事あり。異朝にはそのたぐひなし。このゆえに神国と云ふなり。

 

     北畠親房 『神皇正統記』

 
 

…ということなんだな。

 
 

 神の国の住人なのである、この私たちは。

 あまり実感はないかも知れないが、20世紀の前半の日本では常識だったのである。人間が空を飛ぶ道具で戦争をする時代に、しかし、日本は神国でもあったのだ。

 

 
 
 

 あの大東亜戦争は、大日本帝國臣民に向けられた、

天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有眾ニ示ス

という言葉で始まり、

皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有眾ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス

という言葉で終わる昭和天皇の言葉で開始されたのであった。 

 

 まさに、

 大日本国は神国なり。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝へ給ふ。我国のみこの事あり。異朝にはそのたぐひなし。このゆえに神国と云ふなり。

という認識が、国民にとっての現実だったわけだ。

 

 

 

 遂に来た一億待望の一瞬 撃滅へ、無二の関頭

 見よ敵補給限界点割る

 神機到る! 未曾有の戦果の下敵撃滅の神機到る! 陸、海、空の全空間を埋め尽くして死闘相次ぐ沖縄の決戦場、わが特攻隊の猛攻により敵艦船の数は特に著しく減少するが、必死の補給に狂奔する敵はたちまちこれを補充し、否前を凌駕する艦船数を以てすることさ再三であった、然しながら決戦的様相の最高潮に達するやさすがに物量を誇るアメリカの補給もわが必死必中の特攻隊を以てする連日連夜の猛攻の前には漸く頂点をつきここ一両日来全般的には著しくその数を減じ、補給の速度も漸次緩慢化するに至った

     『読売新聞』 昭和20年4月19日

 

 これが当時の新聞紙面である。

 

 「わが特攻隊の猛攻により」とは、つまり、称賛される戦果の陰には、機体の喪失と共にパイロットの死があったことを意味する。

 「神機」とは、すなわち操縦者の積極的な死への期待に支えられたものだった。

 陸海軍の特別攻撃隊にはそれぞれ名称があったのだが、現代社会で自爆攻撃の代名詞となった「カミカゼ」もまた、その特別攻撃隊の一つであった。「カミカゼ」すなわち「神風」である(「しんぷう」と訓むのが本来だったが、当時のニュース映画で既に「かみかぜ」として紹介されていたらしい)。

 ここでは、敵に対する神の風(鎌倉時代の故事のように)となることが、自殺攻撃を志願したパイロットに期待されていた、ということになるのだろう。

 

 

 決 戦 訓

 仇敵撃滅の神機に臨み、特に皇軍将兵に訓ふる所左の如し
一、皇軍将兵は神勅を奉戴し、愈々聖諭の遵守に邁進すべし。
 聖諭の遵守は皇国軍人の生命なり。
 神州不滅の信念に徹し、日夜、聖諭を奉誦して之が服行に精魂を尽くすべし。必勝の根基茲に存す。
二、皇軍将兵は皇土を死守すべし。
 皇土は、天皇在しまし、神霊鎮まり給ふの地なり。誓って外夷の侵襲を撃攘し、斃るるも尚魂魄を留めて之を守護すべし。
三、皇軍将兵は待つ有るを恃むべし。
 備有る者は必ず勝つ。
 必死の訓練を積み、不抜の城塁を築き、闘魂勃々以て滅敵必勝の備を完うすべし。
四、皇軍将兵は体当り精神に徹すべし。
 悠久の大義に生くるは皇国武人の伝統なり。
 挙軍体当り精神に徹し、必死敢闘、皇土を侵犯する者悉く之を殺戮し、一人の生還無からしむべし。
五、皇軍将兵は一億戦友の先駆たるべし。
 一億同胞は総て是皇国護持の戦友なり。
 至厳なる軍紀の下、戦友の情誼に生き、皇軍の真姿を顕現して率先護国の大任を完うすべし。
右の五訓、皇軍将兵は須く是を守し、速かに仇敵を撃滅して宸襟を安んじ奉るべし。

     『読売新聞』 昭和20年4月21日

 

 阿南陸軍大臣の発表した「決戦訓」がこれである。

 

 

 神の国の将兵の体当り精神への期待、つまり兵士への自殺攻撃敢行への期待が込められた大日本帝國陸軍最高首脳の言葉、ということになる。

 近代総力戦の時代、20世紀の大日本帝國の実話である。

 

 

 

 

 しかし、「神国」の神は、本当にそんなことを望んでいたのだろうか?

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/04/30 22:38 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/102780

 

 

   

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2008年11月27日 (木)

昭和二十年八月二十一日 麦酒と燃料不足

 

 八月二十一日〈火〉           快晴 頗暑 六、〇〇 八、三〇
 昨夜殆んど寝なかったので実によく寝た。侍従長の部屋に寝たのだが蚊もゐず鉄扉も上げられるやうになったので風も吹き込み実にいい気持である。所がすっかり朝まで寝て了って一体緒方国務相の拝謁はどうなったのだろうかと思ふ。

     入江相政 『入江相政日記』

 
 蚊と蚤に悩まされた昨夜と違い、ぐっすりと眠れたらしい。
 空襲から解放され、鉄扉に頼る必要もなくなり、風に吹かれながらの熟睡だったのだろう。クーデターの危機も去ったこともあるのかも知れない。

 緒方国務相の拝謁については、前日の記事に、

 
 その時の話にマニラへ行った全権が帰って来たので明払暁二時に緒方国務相の拝謁があるかも知れぬとの事。

 
とある。
 宮中の拝謁は、夜中にも行われることが、入江の日記を読んでいると、そこここに出てくるので、昭和天皇も大変であったと思う。
 その「マニラへ行った全権」とは、河辺虎四郎参謀次長以下17人がマニラの連合軍司令部まで行き、日本進駐に関する打ち合わせ、ミズーリ号上での調印式用の降伏文書の受け取りをし、二十日夜に帰国の予定であったもの。
 全権団の搭乗機は燃料不足(!)のために20日夜に天竜川河口付近に不時着。浜松から陸軍機で21日の朝8時20分に、調布飛行場へたどり着いたという。
 午前中に拝謁は行なわれた。

 終戦〈敗戦〉処理が始まっているのである。
 しかし、全権の搭乗機が燃料不足で不時着するというエピソードが、大日本帝國が昭和20年8月にどれだけ追い詰められた状況にあったかを物語っているように見える。
 状態によっては、降伏文書も失われかねなかったわけである。

 

 
二十一日〈火〉 晴
 ○昨夜十二時まで、首相宮、ラジオにて反復数回、国民に告げらる。国体維持に政府方策を有す。聖断は絶対なり、国民は静粛に治安を保つべしとの意味なりしが如し。雑音多くて明らかに聴く能わず。
「敵にしてわが国体を根本より破壊せんとの意図を有する時は再び開戦す。最後の一人まで蹶起せよ」とでもいわるるにあらずやとみな胸躍らせて待ちしに、絶望悲嘆甚だしきものあり。
 ○各地の防空陣、敵機来るときはいまだ猛烈に応戦す。東京都内にては各所に貼り出されたる降伏のニュース、一夜のうちに、ことごとくはぎとられたりと。またフィリピンの日本軍は総攻撃を開始せりとの噂あり。
 このありさまにては戦意全国に炎のごとく燃え上がり、不穏の状況いちじるしきものあり、かくて首相宮の悲鳴のごとき放送となりたるものならん。みな、この分にては面白くなるぞとよろこぶ。

     山田風太郎 『戦中派不戦日記』

 
 やはり、学生という若さだろうか。敗戦が現実として、あるいは安堵感として受容されてはいないようだ。
 この日から、授業が再開されている。

 

 
 八月二十一日火曜日十三夜。晴。午後出社す。夕帰る。こないだ内から毎日麦酒が飲みたくて困る。大分間があいたからである。麦酒やお酒が無い為の苦痛を随分嘗めたがこの頃は以前程には思わない。世の中の成り行きで止むを得ないと云う諦めも手伝っているが、一つには焼け出された後はそれ迄とお膳の様子がすっかり変って仕舞ったので以前の様に座のまわりの聯想に苦しめられると云う事が無くなった所為もあるだろう。それでも欲しいと思いつめるのはよくよく欲しいのであって我儘だけではなく身体がほしがるのだと思う。それでも無ければ、無い物は仕様がない。

     内田百閒 『東京消盡』

 
 暑い夏にビールが飲めないのである。これもまた敗戦の現実、ということだろうか。
 5月25日の空襲で焼け出された際には、百閒は避難の道中も一升瓶を抱え、道々飲んでいた。酒をめぐる記述、飲めない苦しみ、飲めた時の喜び、様々に書かれているのが百閒の日記の魅力(?)でもある。

 この8月21日の項で、百閒の日記は終えられている。
 戦争の日々の終りを感じたのだろうか。

 
 この数日の新聞記事を読んで今までの様な抵抗感情を覚えなくなった。何しろ済んだ事は仕方がない。「出なおし遣りなおし新規まきなおし」非常な苦難に遭って新らしい日本の芽が新らしく出て来るに違いない。濡れて行く旅人の後から霽るる野路のむらさめで、もうお天気はよくなるだろう。

 

 
 昭和20年8月の日記紹介シリーズも、今回で終了としたい。

 明日からは、夏休みを終えた山田太郎氏が戻って来る、はずだ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/21 23:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/38600/user_id/316274

 

 

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昭和二十年八月二十日 蚤と蚊

 

八月二十日〈月〉          晴 頗暑 六、三〇 一〇、四〇
 昨夜は蚊と蚤に攻められて碌に眠られなかったから非常に気持が悪い。朝から相当の暑さである。入浴。

 
と、入江相政の昭和20年8月20日の日記は始まる。
 昨夜は当直である。つまり、皇居内の当直で、蚊と蚤に攻められて碌に眠れなかったというのである。
 8月16日の内田百閒の日記には、

 
 午後出社す。行きがけに神田駅にてこないだの古本屋の蚊遣線香を又二十把買った。後で使って見ると今度のはこの前のとは口が違うらしい。目方が軽く煙を吸うと咽喉が痛い。

 
という記述がある。
 さかのぼって、6月26日に、

 
 今日も脚のむくみ甚しく目蓋もいくらか腫れている様にて頭重し。夕少し早く帰る。夕また曇る。この小屋に初めの内は蚤がいて寝られなかったが、三匹捕ったらもういなくなった。この二三日は蚊に食われて夜中に目をさます。渦巻の蚊遣線香は去年の使い残りがあと三本ある丈なり。持ち出しの荷物の中にありたるなり。それを倹約しいしい使うので夜しょっちゅう痒くなって目をさます。その序に小便に起きる。

 
と、小屋の蚤と蚊のことが出てくる。この小屋は、5月25日の空襲で焼け出された百鬼園が、松木男爵邸内のかつて爺やの使用していた小屋を仮住まいとして提供され住んでいるものだ。

 
 六月三十日土曜日二十夜。毎晩蚊に食われて眠りを絶たれる。昨夜は十一時に寝たがその時は蚊遣りを焚いておいたのだけれども倹約しいしい使うので途切れる。それですぐに蚊が出て来て十一時半にはもう痒くて目がさめた。又蚊遣りをして寝たが午前一時半に又起された。それから二時半過ぎるまで起きていた。夜半にトタン屋根を敲く雨の音を聞きながらウィスキーを飲み刻み煙草を吹かし中中やれた。更めて寝ようと思って外を見ると東北の雨空が火事の火の手で赤く染まっている。普通の火事は珍しき事なり。牛込納戸町の火事なりし由なり。暫らくしてから消防自動車の行くサイレンの音が聞こえたりした。それから寝てもう一度蚊の為に五時に起された。蚊遣りをして又寝なおして七時起床す。

 
と、蚊には悩まされ続ける。この日は午後出社し、「帰りてウィスキー。尤も夜半も朝も嘗めている」というウィスキー漬けの一日でもあった。

 7月3日に再び、

 
 今夜は眠いから起きないつもりであったが、もういないと思った蚤がいるらしく左の足の先が痒くなったので結局起きた。

 
と、蚤に悩まされる。その後も蚊に悩まされながら、7月7日には、

 
 焼ける少し前に郵船の部屋に持って行っておいた昔の岡山以来の麻蚊帳を持ち帰る。蚊帳を釣る事は好かないが毎晩蚊に食われて閉口致したる也。明晩より釣ろうと思う。

 
と、麻蚊帳を蚊対策に持ち帰っている。
 7月8日に、

 
 夜は八時半頃就眠す。今夜から蚊帳を吊った。六畳の部屋に釣って丁度よい蚊帳を二畳に釣るのだから苦心を要す。午後十一時三十五分警戒警報にて起された。

 
ということで、しばらくは蚊の記述はなくなる。
 7月17日になって、

 
 午後十一時四十五分、丁度蚤がいる様で起きていた時警戒警報鳴る。支度だけして外には出ず。

 そして、

 
 七月十八日水曜日九夜。右の警戒警報にて暫らく起きていたが蚊が食うから洋服を着たなりで蚊帳に這入り寝ていようと云う事にした。その儘ぐっすり寝入っている時警戒警報の音がした。

 七月二十一日土曜日十二夜。夜半より降り始めて朝来雨なり。午頃から時化模様となる。昨夜は九時半に寝て十一時警戒警報で起きた。身支度はしたけれど何事もないらしく兵隊の情報放送の声も聞こえないから洋服を着たなりで蚊帳に這入って寝ようかと云っていると、その警報は既に解除になっていた様で十一時四十五分又新しく警戒警報が鳴った。それで寝るのを延ばしたが結局この辺には何事もない様だから支度をした儘で寝ていると三度目の警戒警報で又目がさめた。暗がりにて時計が見られなかったが、午前一時頃か或はそれより少し前かであったと思う。後で蚤に喰われて起き愚図愚図して三時過ぎてから更めて寝た。

 
 空襲と蚤と蚊で、寝不足の日々が続いていたわけである。
 終戦で、空襲はなくなり、蚤と蚊の日々となった。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/20 23:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/38551/user_id/316274

 

 

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昭和二十年八月十九日 婦女子を大至急避難

 

 八月十九日
 新聞は、今までの新聞の態度に対して、国民にいささかも謝罪するところがない。詫びる一片の記事も掲げない。手の裏を返すような記事をのせながら、態度は依然として訓戒的である。等しく布告的である。政府の御用をつとめている。
 敗戦について新聞は責任なしとしているのだろうか。度し難き厚顔無恥。
 なお「敗戦」の文字が今日はじめて新聞に現れた。今日までは「戦争終結」であった。
 中村光男君の話では今朝、町内会長から呼び出しがあって、婦女子を大至急非難させるようにと言われたという。敵が上陸してきたら、危険だというわけである。
 中央電話交換局などでは、女は危いから故郷のある人はできるだけ早く帰るようにと上司がそう言っている由。
 自分を以て他を推すという奴だ。事実、上陸して来たら危い場合が起るかもしれない。絶対ないとはいえない。しかし、かかることはあり得ないと考える「文明人」的態度を日本人に望みたい。かかることが絶対あり得ると考える日本人の考えを、恥かしいと思う。自らの恥かしい心を暴露しているのだ。あり得ないと考えて万一あった場合非はすべて向うにある。向うが恥かしいのである。
 一部では抗戦を叫び、一部ではひどくおびえている。ともに恥かしい。
 日本はどうなるのか。
 一時はどうなっても、立派になってほしい。立派になる要素は日本民族にあるのだから、立派になってほしい。欠点はいろいろあっても、駄目な民族では決してない。欠点はすべて民族の若さからきている。苦労のたりないところからきているのだ。私は日本人を信ずる。

     高見順 『敗戦日記』

 
 62年過ぎて、日本人は「立派に」なれたのだろうか?

 婦女子を避難させる話。日本軍における婦女暴行の伝統(?)が、国民一般に共有されていたということだろう。
 支那事変当時の、南京攻略戦時の日本陸軍の行動、捕虜殺害とともに、婦女子への暴行殺人は悪名高いものとなっている。
 いわゆる「従軍慰安婦」の存在も、南京攻略戦における日本軍将兵の素行の悪さから、その対策として発案されたことが、陸軍内の文書として残されているくらいだ。
 「自分を以て他を推す」ことからは、米占領軍(進駐軍)兵士による婦女暴行は当然のこととして予測せざるを得ない。
 アジア諸国での、買春行為で日本人が名を揚げたのは戦後のことである。
 日本人男性の性的不品行について、「立派」になったという証拠はまだない。


 8月14日の日記には、

 
「アメリカ軍が入ってきたら、――西洋人というのはジャガイモが好きだから、もこうして食えなくなるんじゃないか」
 米の代用の馬鈴薯だが、その馬鈴薯が取り上げられたら、何を一体食うことになるのだろう。

 
という記述がある。
 これもまた「自分を以て他を推す」一例であろう。
 大日本帝國陸軍の現地調達主義もまた悪名高いものであった。補給を軽視し、物資の現地調達を前提にした作戦行動をとったのである。
 「調達」と「略奪」の間に線は引けない。現地住民からすれば、すべて貴重な食料物資の略奪となる。
 アメリカ占領軍は、基本的に、食料の現地調達は考えなかった。高見順の考えた(心配した)ようには事態は進行しなかったのである。


 ただ、日記を読んでいるとわかるのだが、昭和20年は冷夏であった。農産物の生産量は低く、食糧不足となった。
 その後、米国からの援助物資で、日本人は戦後の食糧難をしのぐことになるのだが、それはまだ先の話である。

 

 
十九日(日) 晴
 ○酷暑つづく。
 爆音聞こえ、日本機一機飛ぶ。どこかへビラでも撒くつもりにや。あの姿、あの日本機の姿。――千機万機仰ぐは未来いつの日ぞ。
 ○夕、徳田氏東京より帰る、都民みな呆然。陸軍機海軍機東京上空を乱舞し、軍は降伏せずと盛んにビラを撒きありとのこと。
 マニラにて休戦協定を結ぶため、山下奉文この役を快諾せりという。山下が普通の意味でこれを「快諾」するはずなし。すべてひっくり返しておじゃんにするつもりなるべし、そうなったら面白くなるぞ、と皆期待す。
 ○夜凄じき雷鳴。青白き閃光きらめきて、轟々たる音につづき、時にどこかに落ちたるがごとき音す。電燈消ゆ。ただし雨一滴もふらず。空鳴りにて秋となるや、こおろぎ鳴く。

     山田風太郎 『戦中派不戦日記』

 
 もう秋も近い。
 しかし、まだ、敗戦にリアリティーがない感じがする長野の飯田の疎開先の一日。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/19 23:35 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/38494/user_id/316274

 

 

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