カテゴリー「教育、そして憲法」の記事

2008年11月26日 (水)

歴史についての「正しい理解」という問題

 

 現在、参院に提出審議中の「改正」学校教育法の条文について考えてみたい。

 取り上げるのは、

  第二章 義務教育

 第二十一条

義務教育として行なわれる普通教育は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)第五条第二項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するように行なわれるものとする。

 一、二は略

 三 わが国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土の歴史を愛する態度を養うとともに、進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 四~九は略


という条文。この三の内容についてである。

 別にこの条文自体に大きな文句は無い。そのように教育がなされることを願うのみだ。
 しかし、問題を感じないわけでもない。歴史における「正しい理解」とはどのようなことであるのか、という点についてである。

 歴史を構成するのは、過去の出来事についての残された記録と記憶である。
 個人の記憶と記録があり、共同体としての記憶と記録があり、国家レベルでの記憶と記録があり、人類規模での記憶と記録も存在する。
 個人史があり、共同体の歴史があり、国家の歴史があり、人類の歴史もある。

 個人レベルで考えてみよう。それは、その個人の視点、個人の経験により形作られた、個人の歴史である。
 他者との関係において、ある部分は共有され、ある部分は相容れないものとなるであろう。個人間の関係は、共同性と共に対立性という相反する性格を持つものであるからだ。
 自分に好意を持っている人間と、自分に敵意を抱いている人間は、同時に存在するが、両者が意見を分かち合う可能性は少ない。対立的な関係にある人間同士の間では、記憶も記録も共有されることは無い。
 被害の記憶は共有されないだろう。被害者に対立するのは加害者であって、加害感情は自覚化されにくく、自覚されたにせよ、被害体験と加害体験はまったく別の記憶を形成し、記録として残されるだろう。
 両者にとって共通の歴史認識は存在し得ないのである。

 同じ時空を共有した、しかし対立する二人の人間には、共通の歴史認識は生じ得ないのである。
 交通事故被害者の家族と加害者の家族にとって、事故の過程は同一であっても、そこで形成される記憶がどれだけ隔たったものとなるか、一度は考えておくべきだろう。
 ここで、警察調書という記録に真実が宿るという観点もありうるだろう。しかし、それすら、その場に立ち会った警察官の視点による記録であるという限界を抱えているのである。

 実際、歴史認識というものが問題化されるのは、警察調書の内容としてではない。そこでの被害者としての記憶なのか、加害者としての(意識化されにくい)記憶であるのか、その両者の溝の間に、歴史認識をめぐる問題は発生するのである。
 そのことに関しては、共同体間のレベルにおいても、国家間の問題としても、構図は同じだ。


 つまり「歴史における正しい理解」とは、歴史を対象化して考える時に、唯一の正当な歴史記述として「正しい理解」が存在するのではないということを「理解」することでなくてはならないだろう。
 国家が歴史記述に介入し、「唯一の正当な歴史記述」を強制しないことこそが、「歴史について、正しい理解に導」く内実とならなければならないのである。

 そのことの実現だけが、「進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の発展と平和に寄与する態度を養うこと」に帰結するのである。



(この文章は、問題意識としては、4月29日に書いた「法と道徳の間(現代史のトラウマ32)」へのコメントのやりとりから発展したものであると共に、昨日の橋爪さんを招いた会での打ち上げで交わされた会話の内容が反映されたものです。日記にコメントいただいた皆さんと、昨日の話し相手となって下さった皆さんに感謝申し上げます)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/05/20 21:56 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/31510/user_id/316274

 

 

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憲法を魂として生きる…?

 

 

 

 「戦前・戦後を生きた平凡な女性の、非凡なる軌跡 ― 憲法を魂として生きる ― 」とタイトルされた集まりに出席して来た。
 他人の話を聞くということが、これだけエキサイティングなことだったのか、そんな時間を過ごした。

 橋爪志津乃さんという方が、『生きていく意味』(文芸社刊)というタイトルの本を出版されたことにちなんでの集まりである。
 編集に当たったのが知人だったので、誘われて出かけたわけだ。

 橋爪さんは、大正7年生まれの女性である。
 教師として国民学校で教えた世代だ。大日本帝國憲法と教育勅語の下に教育があった時代である。教育が国家の強力な統制下にある中で、大東亜戦争完遂(支那事変完遂がスタートである)のための小国民教育を現場で担った一人が、橋爪さんだったわけだ。

 昭和20年8月15日を、国民学校教師として体験し、戦後教育のスタートにも立ち会うことになる。その過程で、いわゆる墨塗り教科書の登場の当事者となる。
 これまで真実として教えてきたことが、墨を塗られ隠蔽される。しかし、そのような教育を推進してきた者、執筆者、文部省自体の謝罪も反省もなかった。
 古い真実は隠蔽され、新しい真実が登場する。責任を取る者がいない。
 そのような事態の中で、教師としての自分自身のけじめをつけるために、教職から身を離した。彼女はそのような形で、敗戦後に真実性を否定され墨を塗られるようなことを教壇から生徒へ説いてきたことへの責任を取ったのである。


 教師となるまでの人生や、戦後のことも、実に面白かったのだが、ここでの紹介は敗戦前後の問題に絞る。


 彼女は、戦後にあらためて大学生として生活をするのだが、そこで「皇国の道は学問でも何でもなかった」という実感を持ったという。そのようなものを教壇の上から「教育」していた自身の責任を彼女は問うのである。
 単なる「皇国の道」ではなく、それは戦争遂行を目標とした教育であった。教え子は、他国へ出かけて人を殺し、殺されたわけだ。
 その責任を自らに問い、教員としての職を辞したのである。誰かのせいにするわけではなく、自分の責任として考え、それを実行したのであった。

 さて、あの戦争において、誰が責任を負うべきかという問題がある。
 政治システムと軍事システムの頂点にいた存在としての、昭和天皇の責任に、彼女は言及する。命令システムの頂点にいた存在としての責任ということである。

 誤解のないように言っておくが、「天皇の戦争責任」という言葉で語られることの内容は限定的ではない。それを語る者によって、問題の立てられ方は異なる。
 戦争を主体的に遂行した者と昭和天皇を断定してしての責任の問い方もあれば、別の側面を問題とするものもある。戦争を主体的に遂行したかどうかは別にして、戦争遂行システムの頂点の存在として、あらゆる命令の権威の源泉となった者としての責任の存在という問題の立て方である。
 彼女が問題とするのは後者の側面である。

 これは彼女自身の生き方と関わって来るだろう。つまり、末端の一教師でありながらも、国民学校教育の一翼を担った者として、自ら職を辞するという途を、自らの責任の取り方として選択した人間としての考え方である。
 自らが負う責任の表明をしていないという一点において、彼女は、昭和天皇に問いを発するのである。

 彼女の話を聞いていて、爽快感が常に付きまとうのは、そのような彼女の生き方が背景にあるからであろう。
 彼女は、自分を被害者として、昭和天皇にいちゃもんをつけているわけではない。
 不適切な教育を施してしまったことへの自らの責任を自覚し、職を辞した者として、昭和天皇自身の責任を問い、その責任の果たし方に疑問を投げかけているのである。

 ここにあるのは、彼女自身の個人としての責任であり、天皇自身の個人としての責任という問題なのである。
 個人としての責任を、常に自分のものとして考え、生きてきた人間としての問いかけなのであるという点に、私は注目するのだ。
 それは、天皇が個人としての責任を問われうる存在で、法的に、あったかどうかとはまったく別の問題だ。


 彼女にとっては、現在に至る戦後の道徳崩壊現象のスタート地点に、個人としての責任を自らに問うことのなかった(あるいは、それを行動として表現することのなかった)昭和天皇の存在がある、ということなのであった。


  (本当はもっともっと書きたいことがあるエキサイティングな会だったのだが、本日はここまででご勘弁を)

 

 

 

(オリジナルは、2007/05/19 22:04 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/31440/user_id/316274

 

 

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憲法9条の賜としての安倍政権という現実

 

 憲法改正について考えてしまったので、書いておくことにする。

 本来なら、連休も終わり、神様の出番なのだが、もう一日お休みを続けてもらおう。


 たまたま、NHKの「クローズアップ現代」で、憲法9条をめぐる話題を取り上げていた。それを見ているうちに思いついたことを書いておきたい。



 結論から言えば、安倍政権は、憲法9条の賜(たまもの)だろうということだ。
 憲法9条がなければ、現在、自民党に政権があったかどうかも疑わしい、そんな問題を取り上げてみる。

 憲法改正をして、9条条文を改変することの目的とされているのは、自衛隊を軍隊として公式に認定することと、国際貢献の名の下に戦闘行為も含めた海外派遣を可能にすることである。

 イラク戦争当時、自民党小泉政権は、自衛隊の海外派遣まではなんとか実現させたものの、その任務は非戦闘地域内の復興支援業務に限定せざるをえなかった。9条の縛りがあったからだ。
 9条改定により、戦闘地域内での戦闘行為にも参加出来るようにすることが可能になるわけだ。
 つまり、戦後復興における、非戦闘地域内限定の復興支援業務だけではなく、開戦当初からの戦闘への参加、つまりイラク戦争への参戦も可能になるということだ。

 9条「改正」の結果もたらされるのは、あのイラク戦争を例にとれば、ブッシュ米国政権主導の「有志連合」の一翼を担い、参戦国としてイラク戦争そのものに関与することが可能になる状態である。

 しかし、幸いなことに、9条の縛りのおかげで、その道は閉ざされていたのである。誰に一番幸いしていたのか。
 安倍晋三氏にである、と私は思う。

 イラク戦争開戦から、参戦国としてイラク国内の戦闘に加わり、占領に関与していたら、日本はどうなっていただろうか。
 終わらぬ戦闘状態と、それに伴う戦死者の増加の中で、イタリアやスペイン同様に政権交代を迎えるか、ブレアやブッシュのように低支持率の中でなんとか政権の延命だけをはかることが出来ているか、いずれにせよ、自らの政権で憲法改正を企てることなど不可能な状態となっていたはずだ。

 9条の縛りを抜きに、自民党政権の下、イラク戦争に直面していたとすれば、有志連合に参加し、交戦国の一員となる以外に選択肢があったようには思えない。
 そして、そのことが国益につながったとは思えない。
 現在、有志連合主要参加国中に、イラク戦争参加が、国家的利益として評価されている国があるだろうか。ありはしない。
 米国内では、いわゆるネオコン連中の利益がかつては語られたが、今では彼らはマヌケの代名詞である。
 イタリア・スペインでは、当時の与党は政権を失い、国家的利益どころか自党の利益さえ損なっている。

 小泉政権の下の総選挙で自民党が勝利を得られたのは、9条の縛りのおかげで、自衛軍ならぬ自衛隊の任務が、非戦闘地域内での復興支援業務に限定されていたればこそのことなのである。
 現在の安倍政権誕生も、その結果を受けてのことであった。


 私自身は、国民主権という原則から考えれば、シビリアンコントロールの下、自衛軍を持つこと自体には、論理的には反対ではない。
 マジョリティーとしての国民を信頼するのであれば、主権者としての国民の下でシビリアンコントロールを機能させることは可能であるはずであり、「自衛」軍として軍事力を持つことから問題が生まれるとは考え難い。

 しかし、イラク戦争をめぐる9条抜きの日本国家の決断をシミュレーションしてみた結果は、上記の通りなのである。
 イラク戦争開戦にあたり、米国を支持した自民党政府の決断がいかに誤りに満ちたものであったのか、それがよぉく理解出来るはずである。そのような政治家によるシビリアンコントロールの危うさを考えざるを得ないだろう。

 9条を保持することが自民党の政権維持にさえ有利に働いていたという現実を、もう少し、直視してみても良いのではないか、そう私は思ったわけだ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/05/07 21:40 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/30496/user_id/316274

 

 

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法と道徳の間 (現代史のトラウマ 32)

 

 中教審会長の山崎正和さんの発言が、最近では面白いニュースだったと思う。



  山崎中教審会長「道徳・歴史教育は不要」

中央教育審議会の山崎正和会長は26日の日本記者クラブ主催の会見で、個人的な意見と断った上で「価値観が多様化する中、倫理的問題は学校になじまない。道徳を学校で教える必要はないと思う」と述べ、道徳教育は不要との考えを示した。歴史教育についても「我が国の歴史はこうだったと国家が決めるのは間違い」と強調した。

政府の教育再生会議は小中学校で道徳を「徳育」として正式教科にすることを検討している。中教審の審議は学校教育のあり方に深くかかわるだけに、発言が波紋を投ずる可能性もある。

山崎会長は「社会の価値観が多様化する中、決着のつかないことが多い倫理的問題は学校になじまない」と指摘。妊娠中絶や、勝者と敗者を生む競争社会など是非をめぐって意見が割れる問題を例に挙げ「点数を付けられるものでもなく、学校で簡単に教えられない。代わりに民法や刑法などの順法精神を教えればいい」と持論を述べた。(23:00)

(NIKKEI NET 4月26日)


というものだ。

 興味を引かれたのは、道徳教育は不要という論と共に、「代わりに民法や刑法などの順応精神を教えればいい」という発言だ。

 「道徳」の教科としての適切性への疑問と共に、「順法精神」教育の必要性が語られている。
 ここでは、「法」が「道徳」に対比されている。

 法とは成文化されたものだ。明文化されたと表現すべきかもしれない。
 誰に対しても、誰の行為に対しても、一義的に(なることを目指して)明文化された法の条文が適用される。
 また、法は、立法府(議会)によって制定・承認されるものであり、少なくとも手続き上は、国民多数の合意に基づくものである。
 また、法は罰則を伴うこともあるが、それも明文化されており、その執行は行政機関にゆだねられる。
 法の執行が個人の恣意によることはあってはならない。

 道徳は、内面的倫理を中心とする、共同体により形成・共有された、行為への価値基準であり、成文化されたものではない。
 たとえ同じ集団に属していても、価値判断の基準は異なり、一義的なものとは言えない。


 中教審の山崎会長の発言は、このような両者の性格を十分に理解した上での見識あるものと、私は思う。特に価値観の多様化した現代において、教科として一義的に道徳教育をすることの問題を見据えての発言と考える。


 政府主導の教育再生会議での、「道徳」の教科化への提言に比べた時に、山崎発言は光る。

 現政府は道徳教育推進には熱心である。その意を受けての教育再生会議での提言であろう。
 しかし、皮肉なことに、私たちはここで、あの「なんとか還元水」をめぐる大臣の発言を思い浮かべざるをえないだろう。
 何より倫理的問題(=道徳的問題である)を問われているにもかかわらず、「法的に問題ない」という弁明で、問題追及をかわしたのである。
 道徳など問題ではない、それが安倍内閣閣僚自らの発言の意味するところなのだ。

 山崎正和氏の道徳教育をめぐる見解は、現内閣に対する皮肉として発せられたものではないと思うが、そのような文脈において眺めてみると、実に味わい深いものだと思う。


 読売新聞によれば、山崎発言には、
 
道徳は教科で教えるべきではなく、教師や親も含めた大人が身をもって教えるべきだ。科目として点数をつけ、教科書を使う教科とすることは無理があると思う。
 
というくだりもある。松岡大臣、身をもって子供たちに何を教えたいのか?

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/04/29 23:46 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/29719/user_id/316274

 

 

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教育勅語の生態学 (現代史のトラウマ 31)

 

敎育ニ關スル勅語

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日

御名御璽


…と、勅語には書かれている。読み通せました?

 明治時代の教養人にとっては、漢文は必須であり、このような表現自体はその延長とも考えられる。
 しかし、こんな言葉遣いで会話をしていたわけではない。
 勅語下付の対象となった国民の多くにとっては、単なる呪文であった。

 いずれにせよ、文章が漢文体で書かれているからといって、その内容に格調があるというわけでもない。世の中には、漢文で書かれたポルノも存在していたわけである。まぁ、それは格調高いポルノなのだ、そう主張することも出来ないわけではないだろうが、内容はポルノである。ポルノにはポルノの存在理由があり、それは、漢文で書かれているかどうかで評価されるものではない。現代人の眼からは、漢文体は古めかしく、格調高く感じられるだけのことに過ぎない。

 ハナシを教育勅語に戻せば、その評価は、文体ではなく、内容で吟味されるべき事柄なのである。そして、時代の流れの中で果たした機能において。

 内容的には、家族間のことから、社会的関係、そして国家との関係にいたる、大日本帝國臣民としての、道徳的目標が書かれている。

 家族間のことでいえば、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ」という文言がある。記録に残されている限りでも、ギリシア悲劇の時代から、人類の課題となっているものであろう。まぁ、普遍性ある道徳的目標と考えることが出来る。

 国家との関係でいえば、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という文言に焦点が当てられるだろうが、これも帝国主義が地球上を覆った時代の相を考えれば理解は可能である。列国によるアジア・アフリカの植民地化の進展の中での、国家的独立の維持は、明治国家にとっても課題であった。
 もちろん一方には、統治の都合という側面もある。反抗的でない国民の養成は、統治者にとって望ましい事柄である。
 両面に眼配りをすることが、正当な評価につながるだろう。


 昭和期になると、大日本帝國憲法における「神聖不可侵」の天皇の地位と、勅語が重ね合わせられ、国民統治の道具としての機能をフルに発揮することになる。
 もはや、大日本帝國は列強による植民地化の対象となりうる存在ではない。自らが植民地的権益の獲得を目標とする存在となっている。軍事力による勢力圏拡大こそが「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼ス」る道として観念されている時代なのである。

 その過程の進行が、大東亜戦争に帰結し、大日本帝國は亡びることとなった。そこでは、臣民の多くの命が失われたのである。対戦国及び戦場となった土地住民の命も失われていることも忘れるべきではない。
 家族に関する普遍的道徳目標が文言として採用されているからといって、教育勅語そのものの復権・評価を目指すような試みには、私は、同意出来ない。

 昭和という時代に、大日本帝國が日本国へと生まれ変わり、大日本帝國憲法から日本国憲法へという変化も経験している。しかし、ここで「国体(國體)」は護持されているという点も忘れてはならないだろう。依然として、天皇の地位は、国家にとって不可欠のものとしてとどまっているということだ。
 教育勅語が天皇の言葉であることで問題視する人々に言いたいことは、日本国憲法も天皇の名により公布されていることを忘れるべきではない、ということである。
 そして、教育勅語賛美を試みる人々に言いたいことは、昭和期の歴史の中で、そのような教育勅語の神聖化が、まさに我が「国体」の危機を招来した事実を直視しろということである。我が亡国の歴史を直視しろ、そういうことだ。

 葉の形だけを見て、樹木を考えない、森林を考えない、そのような試みからは、(森の住民にとっては)、愚かな結果しか得られないだろう。生態学的思考が求められるわけである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/04/22 13:23 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/29016/user_id/316274

 

 

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正義と平和の間の真理

 

 教育基本法について、久しぶりに書いておこうと思う。

 まずは、今日の毎日新聞朝刊2面の「発信箱」欄、編集局の広岩近広氏の署名のある文章を引く。

 

今年の小学1年生は、改正教育基本法のもとで義務教育のスタートをきる。私が懸念をいだくのは平和教育である。
というのも、昨年12月に改正された教育基本法の前文が旧法と異なっているからだ。「人間の育成を期する」につながる記述で、旧法には「真理と平和を希求する」とある。ところが新法では「真理と正義を希求し」に変わった。「平和」がなくなり「正義」が登場したのである。
私は「正義」という言葉にうさんくささを覚える。駆け出し時代には、支局長から「新聞記者は正義の味方・月光仮面になってはいけない」と諭された。一方的な視点で記事を書くなということで、その通りだと戒めている。それだけではない。米国の例を持ち出すまでもなく、他国に軍事介入するときはたいがい「正義の戦い」となる。こうなると「正義」は「平和」の対極に位置するだろう。

 

 次に、新旧教育基本法該当箇所を示す。

 

われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造を目差す教育を普及徹底しなければならない。 (旧教育基本法)
 
我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を追求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造をめざす教育を推進する。 (「改正」教育基本法)

 

 ここでは、「個人の尊厳」、「真理」、「平和」、「正義」、「公共の精神」、「伝統」といった文言にこめられた意味が問題となる。

 それぞれについて論じておきたいところだが、ここでは、問題の「平和」から「正義」への変更がはらむ問題だけに絞って、話を進めておきたい。

 「平和」とは誰でも納得出来る定義のある状態でる。つまり、戦争状態がそこにあってはいけない。国家間の戦争に加え、内戦状態や武力衝突のない状態、広義には治安の安定した状態まで含まれるだろう。武力による支配、暴力による支配の排除された状態だ。具体的内実のある状態、そう述べることが出来るだろう。

 「正義」は、それとは異なる。正義には具体的内実はない。
 不正な状態があり、そこからの補正が「正義」の作用である。固定した正義の立場は存在しない。
 ユダヤ人に対するナチスドイツの迫害から、ユダヤ人を救い出すことへの努力は「正義」に適った行為であろう。この時、「正義」は迫害されたユダヤ人の側にあった。
 しかし、パレスチナの地で、パレスチナ人の人権に対する侵害行為を公然と行なっているイスラエル国家の行為を、「正義」に適った行為と考えることは出来ない。イスラエル国民の側に、つまりイスラエルに住むユダヤ人の側に「正義」があるとは考え難い。
 「正義」に適った行為があるとすれば、イスラエル国家による人権への公然たる侵害からパレスチナ人を保護することにこそあるだろう。

 人間が人間を踏みつけにすること。そのこと自体は、避け難いことである、と私は思う。望ましいことではないが、生じてしまうことであると思わざるをえない。それはリアリストとしての私の認識である。
 しかし、そのような状態に対し敏感になること。そのような状態の発生を感知したら、その是正を目標とすることは出来る。
 その「是正」への努力、そこに「正義」は宿るだろう。人間が人間を踏みつけにしているような事態を放置しないための努力、そう言えばよいだろうか。

 さて、そのように考える私として、先の「改正」教育基本法の文言に、どこまでそのような反省的視点が盛り込まれているのか、大きな疑問を持たざるをえないのである。
 新旧教育基本法の字句の相違、大したことはないとも考えられる。
 しかし、「改正」の経緯、現在までの教育再生会議内での議論のあり方を見る限り、先に紹介した広岩氏の危惧を否定出来るほど楽観的にはなれないのである。


 人間が人間を踏みつけにすること、「正義」という口実の下に人間が人間を公然と踏みつけにすること。
 それは人類の歴史において、実にありふれた出来事であった。
 そのことをこそ、まずは見つめておくべきである。そう言わざるを得ない。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/03/25 21:44 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/26254/user_id/316274

 

 

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続・文部科学大臣の知性という問題 (現代史のトラウマ 27)

 

 文部科学大臣の知性がはらむ問題を考えてきた。

 国家と国民の関係をめぐる、安倍政権のスタンスの問題でもある。

 大きな国家へのノスタルジーと、小さな国家の実現の必要という現実の間で、スタンスが定まっていない印象を受ける。
 大きな国家といっても、社会民主主義的福祉国家ではなく、大日本帝國へのノスタルジーなので、問題は、余計に複雑である。

 前政権以来、「自己責任」をキーワードに、国家による福祉政策の縮小が目指されて来ている。
 一方で、教育基本法「改正」や「教育再生会議」の議論には、教育行政に対する国家関与の増大の意図が見える。予算措置抜きの、法による縛りだけが増えていくのが現状であろう。

 「自己責任」の根幹には、自立した個人の存在が求められる。
 教育行政の方向は、自立した個人の育成ではなく、国家に依存した個人の育成にあるようにしか見えない。

 両立可能であろうか?

 小さい政府を可能にするのは、国家に対する国民の依存度の縮小である。
 国民の国家への依存度の縮小を支えるのは、国民の精神であり、それを形成するのは教育である。

 教育システムの未来像を構想するにあたって、国家への依存度の高い人間育成を目指しながら、国民の国家への依存度の縮小を目指すことが、果たして、可能なのだろうか。

 安倍政権のヴィジョンの支離滅裂さが、まさに、ここにありはしないか。
 このような構想に疑問を持たずにいられる人間の知性は、疑われてしかるべきであろう。


 ここに「人権だけを食べ過ぎれば、日本社会は人権メタボリック症候群になる」という伊吹文科相の発言を重ねてみよう。何が見えてくるか。

 国民への福祉政策の提供を国家の義務からはずそうという方向がまずある。
 国家による福祉政策は、本来的に、人権の充実を目指すものである。
 つまり、国家による福祉政策の縮小の意味するところは、人権への国家の顧慮の縮小なのである。
 そのような政策を推進する途上の内閣の大臣の発言として、問題の伊吹文科相の発言を読み返せば、その含意は明確となる。
 人権のやせ細った国家を目指す者にとっては、人権をめぐる当然の主張も、「食べ過ぎ」に見えてしまうことは、当然のこととして理解出来るのである。

 そのような意味では、大臣の知性は、福祉削減という安倍内閣の方向性とは整合性を保っていると言えるかも知れない。
 しかし、世界史などの未履修問題を監督する官庁のトップとしては、その世界史理解はお粗末と言うよりない。


 世界史だけではない。
 「イラクを例に出し」、日本を「宗教的に自由かっ達な国民が作っている」という発言。
 イラクの現状をもたらした経緯への無理解がそこにある。国際感覚の欠如と言うべきか。世界史と共に地理のお勉強も必要に見える。
 同時に、一向一揆や、比叡山焼き討ち、キリシタン弾圧、島原の乱、明治になってからの廃仏毀釈にキリスト教弾圧、昭和になってからの大本教への大弾圧。そんな、日本史の常識も大臣には思い出して欲しい。

 それに、「大和民族がずっと日本の国を統治してきたのは歴史的に間違いのない事実」とおっしゃいますが、それは確かに、大和民族=日本列島の住民と定義すれば、ということに過ぎない。これは、共産主義国家は労働者の代表により統治されているのでそこに労働問題は存在しない、と主張する共産主義者のレトリックと同型のものである。
 現実には、民族の同質性と異質性には客観的な基準は存在しないのであり、関東人と関西人を、その言語・習慣において異民族と主張することも可能なのである(ヨーロッパの現実を見よ)。民族意識は、同質性の中から異質性を発見すること(異質性の中に同質性を見つけるという方向もある)で見出されることもあることを忘れてはならない。
 伊吹文科大臣の発言は、民族をめぐる問題に対する人類学的、歴史学的蓄積への無理解をも示していることは確かだ。

 大臣、もう少し知性を、そう思わずにはいられない。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/02/28 15:45 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/23590/user_id/316274

 

 

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文部科学大臣の知性という問題 (現代史のトラウマ 26)

 

 文部科学大臣が知的人物であるべきかどうか、どのように考えるべきなのであろうか。
 現文部科学大臣の発言を聞いた時、その知性を疑わざるを得なかった私の抱いた疑問である。

 問題の発言は次の通り。

 
伊吹文部科学相は25日、長崎県長与町で開かれた自民党長与支部大会で「教育再生の現状と展望」と題して講演し、「人権だけを食べ過ぎれば、日本社会は人権メタボリック症候群になる」と発言した。また、「大和民族がずっと日本の国を統治してきたのは歴史的に間違いのない事実。極めて同質的な国」などとも述べた。
伊吹文科相は、人権を「侵すべかざる大切なもの」としたうえで、バターに例えて発言。「権利と自由だけを振り回している社会はいずれだめになる。これが今回の教育基本法改正の一番のポイント」と持論を展開した。
「同質な国」発言の前段では、イラクを例に出し、日本を「宗教的に極めて自由かっ達な国民が作っている」と述べた。
       (中略) 
伊吹文科相は講演でさらに、全国の高校で発覚した履修漏れについて「受験に有利なことだけ教えたっていうのは未履修問題。教育の世界における村上ファンドやライブドアみたいなもの」とも発言した。
                (2月26日 毎日新聞)
 
 
 文部科学大臣、世界史や日本史のお勉強が足りなすぎるのではないか、「未履修」でもあるまいに、そう思わざるを得ない。

 人権というのは歴史的に形成された概念である。
 国家における支配者と被支配者の関係が根底にある。
 そこには、被支配者が支配者への服従をのみ求められる状態から脱し、やがて主権者である国民として、自らが自らの国家の主人としての地位を獲得するに至る歴史があることを忘れてはならない。

 国家が、支配―被支配(命令と服従)の装置である状態の中で、「人権」は、被支配階層が支配階層に対し自らの存在を対置し、国の主権者の位置を獲得する上でのキーワードであった。
 かつては、服従=義務であった。それに対し「人権」を掲げ、自らの権利を主張し戦うことによって、やっと獲得されたものが、国家の主権者としての地位なのである。
 権利は主張されて当たり前の概念なのである。主張のないところに権利は存在しない、それが歴史的教訓なのだ。

 国民主権の国家においては、実は義務もそのような様相を帯びてくる。納税し兵役に就くこと。これは主権者であるからこそ主張出来ることでもあるのだ。
 江戸時代を考えればよい。年貢は税とは異なる。税とは国家および国民の利益向上のために支払われるもの(結局は自らに還るもの)であって、お上の生活を支える年貢ではないのである。主権者であるからこそ、自らが国の主人であるからこそ、武器を手にするのも当然のことなのである。農工商にとって兵役は義務でさえなかったのであることは、文部科学大臣もご存知のことと思うのだが。
 つまり、ここでは義務と権利は相反する概念ではない。しかし、それは、あくまでも主権者としての国民という条件があってのことなのである。
 国民主権が実現されている状態とは、人権の保障が実現されている状態に他ならない。

 人権あっての義務、権利あっての義務なのである。間違えられては困るのだ。

 「権利と自由だけを振り回している社会はいずれだめになる」ことは確かであろう。
 しかし、「権利と自由」の主張の由来、世界史的背景に対する顧慮すら出来ない人物の発言としては問題なのである。

 それが「今回の教育基本法改正の一番のポイント」であっては困るのだ。

 自立した個人の育成こそが、権利と義務の相補性の認識につながるはずだ。
 今回の教育基本法改正で失われた一番のポイントがそこにある。

                                 (続く)

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/02/28 14:38 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/23588/user_id/316274

 

 

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2008年11月25日 (火)

自殺に至るいじめ 個人の尊厳が否定される世界 (現代史のトラウマ その12)

 

 自殺に至るイジメについて考えてきた。

 教育再生会議による「いじめ問題への緊急提言」とは、教育基本法の理念の実現に消極的であった政権政党による内閣により設置された組織による提言なのである。
 特に、現内閣は、「教育基本法改正」を目標として掲げている首相により組織された内閣であることを忘れることは出来ない。
 これまでの、教育基本法の理念の実現に消極的な、むしろ現実に、その理念の実現に反する方向で教育政策・行政を推進してきた者達が、より積極的にその方向を目指すための施策として、「教育基本法改正」を目指しているというのが、現状理解として妥当なところであろう。

 そこでは、現行教育基本法を支える「個人主義的理念」がターゲットとされているのは確かなことである。
 しかし、「見て見ぬふりをする者」から脱すること、傍観者から脱しうる精神を支えるのは、むしろ個人主義、社会に責任ある個人の形成基盤としての個人主義的理念の徹底である、と私は思う。
 引用した教育基本法の文言から読み取れるのは、反社会的な個人とその理念としての反社会的な個人主義ではない。より良い社会を形成するための、社会的責任の自覚を前提とした、社会的責任の実現を視野に置いた個人主義なのである。

 現状での「教育基本法改正」の議論では、まったく、そのような現行教育基本法の文言とその意味する文脈が理解されるどころか、みごとに捻じ曲げられた上で否定されてしまっていると言わざるをえない。

 個人主義的理念の否定の後ろにあるのは、統制感覚である。上から下を見る統治の感覚である。教育現場における、行政的・政治的統制こそが目指されているものである。そのことは、この60年間の、政権政党の政策の反映としての、教育行政の歩みを見れば一目瞭然であろう。

 そのような政権政党による現内閣により設置された教育再生会議の提言、として、あの「緊急提言」が読まれるのは当然のこととなる。


 私もそのように読まざるをえない。

 「個人の尊厳」が尊重された世界(現行教育基本法の理念とする世界)では、そもそも、自殺に至るイジメは、決して、放置されるものではないだろう。すなわち、現状は(既に)そのような世界ではない、ということだ。
 その上で、「教育基本法改正」で目指されているのは、「個人の尊厳」を縮小解釈することであることは確かなことである。
 究極、目指されているのは、命令と服従を基本とする世界なのである(あくまでも究極の理念としては、だが)。

 命令と服従を理念とする世界。それこそは旧軍隊内で最高度に現実化されていたことは言うまでもない。
 そして、1989年のベルリンの壁崩壊以前の共産主義国家内で実現していた世界も、まさにそのようなものであった。
 そのような世界でも、傍観者であることは、決して、許されることではなかった。
 密告の奨励されていた社会がそこにある。無実の隣人を、反国家的人間として、資本主義国家のスパイとして告発することが当たり前となる世界。

 個人主義の否定の上での、傍観者であることの否定がはらむ問題がそこにある。イジメの解決がもたらされるのではなく、果てしなく、お互いがお互いを監視し密告する世界が実現するのである。お互いがお互いをイジメ抜く世界、ということだ。


 そもそも、現行の近代的教育システムは、単純作業の工場労働者と徴兵制の軍隊の兵員養成のためのシステムであった。産業構造が変わり、戦争のスタイルが変化した現在、システムの前提自体が破綻しているのである。
 そのことの認識を抜きになされる、命令と服従システムの再現という最終的イメージの下での「教育再生」から、自殺に至るイジメの問題の解決を望むことは困難であると言うことしか、私には、出来ないのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/12/03 18:52 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/13116/user_id/316274

 

 

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自殺に至るいじめ 教育再生会議そして教育基本法 (現代史のトラウマ その11)

 

 さて、政府の教育再生会議有識者委員による「いじめ問題への緊急提言」について。

 報道(毎日新聞11月29日夕刊)によれば、その一項目目は

①学校は、子どもに対し、いじめは反社会的な行為として絶対許されないことであり、かつ、いじめを見て見ぬふりをする者も加害者であることを徹底して指導する。<学校に、いじめを訴えやすい場所や仕組みを設けるなどの工夫を><徹底的に調査を行い、いじめを絶対に許さない姿勢を学校全体に示す>

という文言となっている。傍観者の罪、という認識自体は正しい。傍観者の共同責任という考え方は正しいものであることに、私も同意する。

 第二次世界大戦の経験が、特に戦後ドイツにおいて、もたらした認識でもある。抑圧的な体制の形成、抑圧的な体制の維持、抑圧的な体制による犯罪行為への加担のみでなく傍観自体が罪なのであるという認識がそこにある。


 ところで、教育システムの現状である。
 教育再生会議とは何なのか。
 教育行政の責任は文部科学省にある。教育システムの現状に一義的に責任を負わなくてはならないのは文部科学省なのである。
 一方で、戦後日本の政治の中枢を継続して担い続けてきたのは自由民主党である。教育再生会議とは、現在も政権担当政党である自由民主党の政府官邸主導により設けられた組織である。これまでの教育行政を、政治的に主導してきた政党による内閣により設置されたということだ。
 一方に行政責任を負うべき文部科学省があり、一方に政治責任を負うべき自由民主党とその政府がある。日教組が果たした役割など小さなものだ(ブレーキ役としての存在を過小評価するべきではないと思いはするが)。
 教育システムの現状とは、文部科学省と自由民主党政府が一体となって戦後の60年間をかけて達成されたその「成果」と考えなければならない。
 そして、それを支え続けてきたのは、複数政党制による普通選挙を保障されてきた国民の選択である。
 教育システムの現状について、国民もまた、政治的に、共犯者であることは免れないということだ。

 教育基本法の文言を見る。

前文から
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
第一条から
 教育は、人格の完成をめざし、平和な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。
第二条から
 この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めねばならない。

 現状の教育システムが抱え込んでしまった問題。果たして、教育基本法の理念の実現の結果なのであろうか。
 教育基本法の理念を放置し、逆方向を目指した政策・行政の存在こそが、この60年間の現実ではないのか。
 教育システムの現状の象徴のようになってしまっている、自殺に至るいじめの問題。それは、決して教育基本法の理念が生み出したものではなく、一貫して教育基本法の理念に反した方向を向いた、政治と行政の責任と考えなければならないのである。そして、傍観者どころか、積極的に投票行動により現状を支えてきた国民の責任もそこにある、ということだ。

           続く

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/12/03 17:31 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/13104/user_id/316274

 

 

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