無差別爆撃の論理

2009年8月21日 (金)

無差別爆撃の論理 7 (竹槍と機関銃)

 

 完全武装の両軍の対峙する前線を飛び越し、はるか背後の非武装の敵国民(市民)を標的に爆弾を落とす。

 「戦略爆撃(特に都市無差別爆撃)」とは、そのような行為である。

 

 

 爆撃により、都市住民の生活基盤を破壊し、住民の生命そのものをも標的とし、敵国民の継戦意欲を低下させ、停戦・講和へと導く。

 

 第一次世界大戦における前線兵士の膨大な損耗率、つまり予測をはるかに超えて続くことになった戦争とその予測をはるかに超えた戦死者戦傷者の存在は、参戦したヨーロッパの人々に戦争への忌避感をもたらすものとなった。過酷なヴェルサイユ条約には、敗戦国ドイツに二度と戦争を引き起こすような気を起させぬ効果が期待されていたのだし、戦後の国際連盟の結成、各種軍縮条約の取り組み、そして不戦条約締結への努力には、世界からの戦争の排除という理想が込められていたのである。

 政治家が戦争の回避への努力を課題としていたのに対し、軍人達には、(政治家が)回避に失敗した戦争への対処が新しい課題となっていた。戦争の長期化と戦死者数の抑制が、そこでの課題である。期間を短く、犠牲者数も少なく、という条件の下に勝利を確保することが、第一次世界大戦後の軍事的課題となったのである。

 イタリア軍人ジュリオ・ドゥーエによる1921年の著書『空の支配』は、まさにその課題への答えとして書かれたものだ。

 荒井信一の記述を引こう。

 彼は大戦の経験から、これからの戦争は「もはや兵士と民間人の区別のない」総力戦であり、そこでは空爆によって民衆がパニックを起こし「自己保存の本能に突き動かされ、戦争を終わらせろと要求するようになる」と説き、住民の戦意をくじくテロ効果を強調して無差別爆撃論を提唱した。「戦時国家の最小限の基盤である民間人に決定的な攻撃が向けられるので戦争は長続きしない」、「長期的に見れば流血をすくなくするので、このような未来戦ははるかに人道的だ」とまで述べている。
 ドゥーエは人口密集地の住民への攻撃手段として、高性能爆弾、焼夷弾、毒ガス弾の三つをあげている。三種類の爆弾それぞれの機能を極限にまで高め一体化したものが、後の原子爆弾であるといえよう――大型台風をはるかにうわまわる衝撃波の破壊力、人工の太陽とも言われる熱線のもたらす焼夷力、放射能の毒素力――。アメリカは今でも、原爆の投下は戦争の終結を早め、多くの人命を救ったとして正当化している。それはまさにドゥーエのテーゼの現代版にほかならない。
     『空爆の歴史』 (岩波新書 2008)

 同時代の、ウィリアム・ミッチェル、ヒュー・トレンチャード、そして大西瀧治郎もまたドゥーエ同様に「はるかに人道的な未来戦」への志向を抱いて、それぞれの空軍力の充実への努力を開始したわけである。

 戦争の短期化と、戦死者数の減少の追求というテーマから、軍人の合理的思考が生み出した結論が、住民へのテロ爆撃としての都市無差別爆撃なのである。そこでは、より効果的な、つまり集中的で徹底した都市無差別爆撃の実行者の側が、戦争での人道的な勝利者となるはずであった。

 

 そこには、確かに、戦闘(そして戦争)の勝利のために合理的に振舞う人々、としての軍人の姿を見出すことが出来る、ように思える。

 過去の戦争から学び、総力戦の意味を考え、新たな軍事理論を構築し、戦略を組み直し、新兵器を開発し、軍の編成を新たにする。そのような努力は、精神主義者のものではなく、合理主義者のものであろう。

 

 

 

 第一次世界大戦後に登場した戦略爆撃論者、都市無差別爆撃の主唱者達にとって、学ぶべき過去の戦争とは、言うまでもないだろうが、第一次大戦である。

 

 その第一次世界大戦の膨大な戦死者の存在を抜きに、都市無差別爆撃というアイディアは生まれなかったし、次の戦争でそれが実行に移されることもなかったわけである。

 

 では、その膨大な戦死者を生み出したのは何であったのか?

 そして、その膨大な戦死者を生み出させたのは誰であったのか?

 

 

 新兵器であった機関銃であり、精神主義から抜け出せなかった英軍司令官であり、仏軍司令官であった。

 既に日露戦争で、機関銃はその威力を十分に発揮していた。繰り返される乃木将軍の正面攻撃は、ロシア軍の機関銃を前にして、戦死者の山を築くことしか出来なかったのである。

 第一次世界大戦はそれから10年後の話なのだが、英仏陸軍の司令官達もまた、数年に渡って機関銃座への正面攻撃を繰り返し、戦死者の山を築いていったのであった。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/20 21:42 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113728

 

 

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2009年8月18日 (火)

無差別爆撃の論理 6 (竹槍 vs 戦略爆撃)

  

 戦闘(そして戦争)の勝利のために合理的に振舞う人々、という軍人像には、どこか誤りがありそうなのである。

 

と、書いたわけだが(昨日の話)、もちろん、非合理主義に徹し、組織的に敗北を重ねて行ったようにしか見えない大日本帝國陸海軍の存在を忘れたわけではない。

 実際、その非合理的精神主義が大日本帝國を滅ぼした、という印象が間違っているとは思えないのである。

 

 敵の戦法に対してわれらの戦法を対抗せしめねばならない。敵が飛行機で攻めて来るのに、竹槍を持っては戦い得ないのだ。問題は戦力の結集である。
     毎日新聞 昭和19年2月23日朝刊

という記事を、時の東條首相が発禁処分にした(ただし、指示は朝刊の配達後だった)のは有名な話だろう(記事を書いた記者は、後に懲罰的召集の対象となった)。つまり、竹槍で敵の飛行機と戦え、それが東條首相の発想ということになる。国民は、その後の空襲激化の下で、B-29に竹槍で立ち向かうことを求められるわけだ。

 同日の毎日新聞には、

 大東亜戦争は太平洋戦争であり、海洋戦である。われらの最大の敵は太平洋より来寇しつつあるのだ。海洋戦の攻防は海上にて決せられることはいうまでもない。しかも太平洋の攻防の決戦は日本の本土沿岸にて決せられるものではなくして、数千海里を隔てた基地の争奪をめぐって戦われるのである。本土沿岸に敵が侵攻し来るにおいては最早万事休すである。

という記事も掲載されていた。しかし、その後の戦争の経過は、「絶対国防圏」を破られ「本土沿岸に敵が侵攻し来る」ところまで進行してしまう。その過程で、「玉砕」が相次ぎ、「特攻」が始まるのである。

 しかし、「万事休す」とは考えられず、むしろ、竹槍での「本土決戦」にこそ希望が見出されるのだと主張されるという事態に陥るのである。

 その意味で、「竹槍精神」は、非合理的精神主義の代名詞と言えるだろう。

 

 しかし、言うまでもないことであるが、竹槍では、最新鋭の重爆撃機B-29による戦略爆撃に対抗することは出来ないのである。3月10日の東京大空襲に、「竹槍精神」は無力であった。

 

 

 

 

 さて、これまで、軍事思想としての「戦略爆撃」を対象として、その「論理」について考えてきたわけだ。

 

 第一次世界大戦での、当初の予想をはるかに超える膨大な犠牲者の存在が、戦略爆撃というアイディアの背後にあることは、既に説明し終えたものと思う。

 地上戦における、あまりに多過ぎる戦死者の数が、戦争に対する忌避感をもたらし、国際連盟の成立や数々の軍縮の試み、そして不戦条約が成立したのも、第一次世界大戦後の時代である。もっとも、戦争回避を重視するあまり、ミュンヘン会談でのヒトラーへの譲歩も生じたわけである。実際、ミュンヘン会談の「成果」は、英仏国民にも歓迎されたのである(結果的には第二次世界大戦への呼び水となってしまったのだが)。

 軍縮や不戦条約が、戦争そのものの回避への努力だとすれば、「戦略爆撃」という発想は、戦争の早期終結の可能性追求の論理として生じたものなのである。

 

 当事者である軍人にとっても、第一次世界大戦の経験は、耐え難いものであった、ということだ。前線兵士の膨大な犠牲を回避することが、民間人への直接攻撃により達成されるという予測は、実際には誤りであった(悲劇的な誤りであったが)。しかし、理念としては、戦略爆撃の効果として、銃後の国民の継戦意思の低下がもたらされ、戦争の早期終結となり、総計での戦争による死者数の減少が期待されていたのである。

 少なくとも、戦略爆撃思想の背後にあったのは軍関係者の合理主義的精神であった、ということは言えそうである。基本的に、軍人とは戦争の回避ではなく、現実化した戦争への対処がその任務なのである。戦争の回避は、まずは政治家の任務である。

 

 

 では、第一次世界大戦における膨大な犠牲者を生み出したメカニズムはどのようなものであったのだろうか。

 

 第一次世界大戦とは、様々な近代兵器が登場した戦争であった。

 その新兵器に、軍司令官達はどのように対応していたのか?

 軍人に合理主義を期待することの当否が、次回のテーマとなる、はずである。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/17 22:23 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113443

 

 

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2009年8月16日 (日)

無差別爆撃の論理 5 (軍事的合理と不合理)

 

 「特攻」の指揮官としての大西瀧治郎。

 「徹底抗戦論者」として、ポツダム宣言の受諾阻止に奮闘した大西瀧治郎。

 8月15日に遺書を書き、翌16日未明には自決を果たした大西瀧治郎。

 

 非合理的な精神主義者の姿を思い浮かべてしまうエピソードである。

 しかし、大西は日本海軍の軍人として、海軍伝統の大艦巨砲主義を受け継ぐことなく、航空戦力を主体とする新たな時代の軍事思想を理解・主唱していた人物であった。つまり、第一次世界大戦に登場した新兵器の一つとしての航空機の持つ軍事的可能性に着目し、戦争における「戦略爆撃」の実行者としての空軍力の育成の重要性に気付き、まず対中戦争において実行して見せた当の人物が大西なのである。航空機により米国太平洋艦隊とその基地を攻撃するという、真珠湾攻撃の基本プランもまた、大西によるものであったわけで、近代戦のあり方をよく理解していた軍事的合理主義者としての姿をそこに見出すことが出来る。

 

 その大西が、特攻の指揮を執り、徹底抗戦を主張し、「ハラキリ」という最期を遂げる。

 そこにあるのが大日本帝國の限界なのか、大日本帝國海軍軍人の限界なのか、大西という一個人の限界なのか、ここでは、それを問うことはしない。

 

 

 私達が戦争を考え、戦争における軍隊という存在、軍隊を構成する軍人という存在について考える時、戦闘における勝利の確保のために合理的に振舞う人々という想定をしてしまいがちである。しかし、大西の軌跡を振り返る時、大西の所属していた日本海軍の主流は、大艦巨砲主義・艦隊決戦思想に囚われ続けていたという事実が浮かび上がる。

 近代とは、大いなる技術革新と生産力の組み合わせの下に、人間が自身の手により自身の新たな環境条件を日々作り出していく時代であり、軍事的には、新兵器の登場が戦場のあり方自体を変化させてしまうという、そんな世界なのである。しかし、そのことを日本海軍の主流は理解しなかった。

 もちろん、巨大戦艦である大和も武蔵も「最新兵器」ではある。しかし、航空戦力が戦争の勝敗を決する時代の現実からすれば、時代遅れの旧兵器なのである。

 つまり「新兵器」とはモノの問題ではなく、背後にある思想の問題であり、思想に基づく適切な使用の問題なのだ、ということになる。

 巨大戦艦大和と武蔵が、「艦隊決戦」で主役を演じることなしに、巨大「特攻」兵器として出撃させられ、航空機による攻撃で撃沈されたという事実の意味は、熟考に値すると思う。

 

 

 

 

 「戦略爆撃」の思想は、第一次世界大戦の経験をもとに、1920年代にイタリアのジュリオ・ドゥーエ、アメリカのウィリアム・ミッチェル、イギリスのヒュー・トレンチャードらによって提唱されている。「戦略爆撃」が「無差別爆撃」という様相をとって現実化することに関しては、その背後に、植民地における航空機による「効率的な」住民殺戮の経験があることも指摘されている。

 「戦略爆撃」については、第一次世界大戦と植民地支配の経験をもとに、まず思想が先行し、モノである兵器の生産が後を追い、軍の作戦として現実化する過程として描くことが出来る。

 航続距離が長く、爆弾搭載量の多い重爆撃機の生産と、そこに搭載される焼夷弾の開発がなくては、「戦略爆撃(ここでは特に都市無差別爆撃)」が現実化することはない。その意味では、重爆撃機の生産確保に成功した英米のみが、思想としての「戦略爆撃(都市無差別爆撃としての)」の完全な実行者であった、と言うことは出来る。

 もちろん、ナチスドイツ空軍は1937年、ゲルニカにおいて無差別爆撃の実行者として名乗りを上げていた。焼夷弾の使用の事実一つを取ってみても、それが軍事目標主義による爆撃ではなく、無差別爆撃であったことは明らかである。

 大日本帝國海軍も、1938年の段階で南京への渡洋爆撃を都市爆撃として行い、国際連盟から「無防備都市の空中爆撃の問題」として「かかる爆撃の結果として多数の子女を含む無辜の人民に与えられたる生命の損失」の実行者として非難されているのであって、日独が「戦略爆撃(都市無差別爆撃としての)」の初期の実行者であり、それが世界史的出発点であったことは確かなことなのである。

 それに対し、ここでは、モノとしての重爆撃機の保有が「戦略爆撃思想」の到達地点であることを確認しておきたい。

 その意味で、戦略爆撃の思想を現実化・完成させたのは英米なのであり、その完成された「戦略爆撃思想」の効果を実際に味わうことになったのが、日独国民だったのである。

 

 

 

 

 ところで、「戦略爆撃思想」の基底にあるのは第一次世界大戦の経験であった。

 戦場における陸軍兵士の損耗率の高さ、つまり犠牲者数の事前の想像をはるかに超えた大きさが、参戦したヨーロッパ諸国に、新たな戦争の時代の深刻な脅威として意識されることになる。

 その第一次世界大戦は兵器としての航空機の登場の時でもあった。

 その両者が結びついたところに、戦場の背後の敵国の政治的経済的軍事的中枢及び国民(兵士ではなく市民としての)そのものを標的とした航空機による攻撃の有効性という発想が生み出されたわけである。戦争の勝敗を戦場で決するのではなく、戦略爆撃(特に都市無差別爆撃)により敵国民の戦意喪失を目指すことで、前線兵士の犠牲を最小限にとどめ、戦争の早期終結が可能となる(はずだ)というのが、その論理であった。

 

 しかし、現実には、都市無差別爆撃の実行は、敵国都市民の敵愾心をむしろ高揚させる結果となり、戦争の早期終結には成功していないのである。

 そしてそのことは、既に英国がドイツ空軍による都市爆撃の対象となった1940年の時点で、英国民には自身の経験として理解されている。しかし、その英国が、ドイツへの夜間都市無差別爆撃を推進していくのは、その後のことなのである。ここには、ドイツ市民に対する「報復感情」という後押しを見出すべきであろうか?

 

 いずれにしても、軍事理論としての「戦略爆撃(特に都市無差別爆撃)」を評価するならば、第二次世界大戦の経験から、その無効性こそが導き出されていなければならない(はずだ)。

 しかし、ヴェトナム戦争での米戦略空軍による「北爆」の実施は、依然としてドゥーエの理論が軍人達の中に生き残っていたことを示しているものであろう。

 

 戦闘(そして戦争)の勝利のために合理的に振舞う人々、という軍人像には、どこか誤りがありそうなのである。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/16 18:49 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113320

 

 

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無差別爆撃の論理 4 (特攻と戦略爆撃)

 

 「あの戦争」について語る時、「特攻」の問題を避けて通ることは出来ないだろう。

 

 

 特攻による戦死者を、崇高な精神の発揮者として賛美するか、無謀な戦争の果ての無責任な作戦の犠牲者として悼むのか、いずれにせよ、そこにあるのは軍の作戦としての自殺攻撃という手法なのである。

 近代における技術と生産力の発展という条件の下に、人類は二度にわたる「世界大戦」を経験することになった。技術革新と新たな兵器の登場。それが20世紀の戦争を語るに際し、あの時代の戦争の特徴的な姿として、私達に共有されているように思える。

 

 近代戦争、近代総力戦と呼ばれる戦争の形の背後には、技術革新と生産力の結合がある。そこからは、戦争遂行者としての軍隊が、技術革新の集約的産物である最新兵器を最後まで駆使し得るかに戦争の勝敗の帰趨がかかっている、という認識が生まれるだろう。

 「あの戦争」において大日本帝國の軍隊が追い込まれたのは、技術革新と工業的生産力に基づく戦争遂行という条件における無能力さという現実であり、特別攻撃という名の自殺攻撃の採用であった。そこには、兵器の操作者としての軍人・兵士の存在は既になく、人間の命そのものが攻撃兵器として「作戦」に使用されるという状況のみが残されていた。

 

 特攻による戦死者を賛美するにせよ、犬死として悼むにせよ、そこには近代戦争としては異様な用兵・作戦の存在があったことが、前提として理解・共有されているものと言い得るだろう。

 

 

 

 大西瀧治郎の名は、その特攻攻撃の組織者あるいは責任者の名として理解されている。近代戦争における非近代的な用兵・作戦の実行者、ということになるだろう。昭和19年10月に大西が第一航空艦隊司令長官として、特攻作戦の指揮を執ったことは事実である。

 しかし、大西の軍人としての生涯を見渡せば、彼自身はそのような非近代的用兵・作戦の発想から最も遠い場に身を置いていたことがわかる。

 第一次世界大戦後の世界に軍人として身を置いた彼は、戦争における航空力の優位を主張していた人物として、日本海軍で頭角を現すのである。戦艦の建艦能力と保有量が海軍の戦力を決するという当時の認識の中で、第一次世界大戦後の世界、第一次世界大戦後の戦争のあり方を、つまり近代戦争の現実を正確に理解していたのが大西瀧治郎その人、ということなのだ。

 

 

 

 たとえば荒井信一は、1936年の陸軍航空本部作成の『航空部隊用法』中の「政略攻撃」の項を、当時の日本陸軍における「戦略爆撃」思想の例として紹介した上で、

 一方、海軍では1937年7月、航空本部の意見パンフレットとして『航空軍備に関する研究』が関係者に配布された。起案者は、当時航空本部教育部長であり、のちに特攻作戦の発案者となる大西瀧治郎大佐であった。陸海軍の作戦への協力以外に戦略爆撃を実施する独自の戦力として空軍(純正空軍)の独立を説き、「純正空軍式航空兵力の用途は、陸方面においては、政略的見地より敵国政治経済の中枢都市を、また戦略的見地より軍需工業の中枢を、また航空戦術見地より敵純正空軍基地を空襲する等、純正空軍独特の作戦を実施するほか、要する場合は敵陸軍の後方兵站線、重要施設、航空基地を攻撃し陸軍作戦に協同するにある」と述べ、「純正空軍式の戦備」の急速な整備を急務と説いた(戦史叢書『海軍航空概史』)。
 …
 しかし、海軍ではパンフレットは部内の統制を混乱させるとして、回収を命じられた。海軍の主流にとっての関心事が、海上決戦の主力である主力艦を戦艦にすべきか航空母艦とすべきかという時代錯誤的な論争にあったからであろう。
     荒井信一 『空爆の歴史』 (岩波新書 2008)

と、海軍における戦略爆撃思想の理解者・主唱者として、大西瀧治郎の名を提示しているのである。

 

 支那事変の進展に伴い、

 海軍は陸軍の要請に応え、航空隊の主力を支那方面艦隊の指揮下に移し、第一・第二連合航空隊(司令部漢口)に配備していた。海軍きっての戦略爆撃論者大西瀧治郎は、1939年末に第二連合航空艦隊司令官に任じられ、奥地爆撃の強化に当たる。翌年4月10日付で各艦隊司令官などに配布された『海軍要務令(航空戦之部)』は、「要地攻撃」を「軍事政治経済の中枢機関、重要資源、主要交通線等敵国要地に対する空中攻撃」と定義している。作戦実施要領の骨子は、37年に大西が起案し「怪文書」として没収されたパンフレットの内容そのままである。「要地攻撃」の最大目標として重慶爆撃が本格化するのは39年5月からである。

という形で、近代戦における航空機の優位と戦略爆撃の有効性の論理を理解し、部隊司令官として攻撃を実行した人物としての大西瀧治郎の姿が、荒井により描かれている。

 

 

 

 しかし、海軍では艦隊決戦論者の下に戦艦大和・武蔵の建造が優先され、航空母艦及び航空兵力の充実は後回しにされることになる。真珠湾攻撃(大西の基本計画に基づく)の成功は、実戦での航空力の優位を証明するものであったにもかかわらず、そのことへの理解が得られたようにも見えない。

 そのような状況下で、米国の圧倒的な工業生産力との闘いとして大東亜戦争は進行し、生産力の絶対的劣位の中で大日本帝國は敗退していくのである。

 

 軍人として近代戦争を誰よりも理解していた人物が、航空本部教育部長としてパイロット養成の困難を誰よりも理解していたはずの人物が、「特攻」という「統帥の(統率の)外道」の作戦指揮を執る事態に陥るに至る軌跡は、この国の歴史の一断面として、「あの戦争」の現実を語る際に忘れずにいたいことの一つである。

 

 

 軍事理論としての「戦略爆撃」思想の先駆的理解者の一人が大西瀧治郎であったのであり、中国大陸における「要地爆撃」を実施する「戦略爆撃」の先駆的実行者の一人が大西瀧治郎であった。

 大東亜戦争の戦局の悪化の中で、その大西が「特攻」を指揮し、その祖国が容赦のない戦略爆撃の対象となっていく。空襲により荒廃した東京で、ポツダム宣言受諾に反対し、徹底抗戦を叫び続けたのも同じ軍令部次長としての大西瀧治郎であった。

 昭和20年8月15日、大西は渋谷の軍令部次長邸で自決する(靖国神社『遊就館 図録』によれば自決の日付は15日であるが、『ウィキペディア』によれば8月16日である)。

 

 

 

 

 

【大西瀧治郎】
 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E7%80%A7%E6%B2%BB%E9%83%8E
【無差別爆撃の論理】
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/cat33391635/index.html

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/15 20:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113240

 

 

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2009年7月30日 (木)

「無差別爆撃」の転回点 (2)

 

 昨日に続き、「第3回無差別爆撃シンポジウム」の参加報告である。

 

 

 

 

 昨日は、中山伊佐男氏(元 麻布高校教諭)による「日本への住民選別爆撃の実相-米軍研究資料から」と題された報告のご紹介をした。

 

 米軍資料自身に語らせることにより、米軍による日本本土都市空襲の実態が、目標を特定しないという意味での「無差別爆撃」と言うよりは、目標を都市住民とした「住民選別爆撃」と言うべきものであったことを、中山氏は明らかにしたのである。

 東京大空襲の資料を中心に据えながらも、富山や青森の事例も盛り込まれた説得力ある報告であった。

 

 中山氏は、あと2ヶ月で80歳となる79歳。ご自身も東京大空襲を体験し、疎開先の富山の空襲では母上を失っている。まさに戦災当事者による研究ということになる。

 

 

 

 続いての発表は、木戸衛一氏(大阪大学大学院准教授)による「ドイツにおける空襲研究をめぐって」であった。

 司会役の大岡氏による問題提起中の、

 2. 〈空襲・戦災の比較史〉-共通の歴史理解のために
 3. 空襲記憶のゆくえ-〈「空襲後」史〉の国際比較

に応えるものと言うことが出来るだろう。

 

 前回のシンポジウム「世界の被災都市は空襲をどう伝えてきたのか - ゲルニカ・重慶・東京の博物館における展示/記憶継承活動の現在」でも焦点となったことであるが、戦後(空襲後)の政治的環境が空襲体験の継承の仕方に大きな影響を与えてしまうという事実がある。フランコ政権に敵対していた都市であるゲルニカへの無差別爆撃に関して、当地で言及することが出来るようになったのはフランコ政権崩壊後のことであったし、蒋介石の国民政府の首都であった重慶に対する日本軍の無差別爆撃に関しても、共産党支配下の中華人民共和国では話題となりにくいものであったということが、昨年のシンポジウムではそれぞれの当事者によって語られていたのである(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-5976.html)。

 そのもう一つの具体例として、戦後ドイツの経験があるということが、木戸氏による報告では明らかにされたわけだ。

 

 戦後のドイツとは、東西に分断されたドイツである。共産主義者の世界と資本主義下の世界。ソ連に主導された世界(ドイツ民主共和国=東独)と米英をパトロンとした世界(ドイツ連邦共和国=西独)、ということだ。

 ドレスデンを領域に抱えた東独では、あの戦争における被害体験とは、米英による無差別爆撃によるものに他ならない。ソ連による国境線の移動に伴う東方地域からの追放者の被った悲惨な運命こそが、戦後の西独における戦争被害体験の語りの中心となった。つまり、そえぞれに語りうる戦争における被害体験の背後には冷戦構造があった、ということなのである。

 しかし、東独の吸収という形となった東西ドイツの統一は、統一後のドイツにおける東独時代の研究業績の軽視を生み出すことにもなり、その一例として東独の軍事史家グレーラーによる『ドイツに対する爆撃戦争』(1990)が紹介されていた。

 全体として、1960年代に始まり現在に至るドイツにおける空襲研究の展開が、大岡氏による問題提起を踏まえながら、木戸氏により手際よく示された報告であった。

 

 

 日本とドイツの共通の事象として、あの戦争における被害者としての側面と共に加害性という大きな問題がある。空襲の被害を強調し語ることが、時に、加害性の隠蔽として作用してしまうのである。それが意図的に行われることさえあるだろう。

 その意味で、「無差別爆撃」という軍事的手法を世界に先駆けて組織的に採用したのが日本(南京そして重慶で)とドイツ(まずはゲルニカで)の爆撃機部隊であったという事実は、常に思い起こしておきたい。その上でこそ、米英の実行した「無差別爆撃」の問題性は語られるべきだろう。日独の採用した軍事的手法の延長に、米英により実行された無慈悲な無差別爆撃が存在するのである。

 同時に、被害者の姿の見えないところで、つまり加害の事実から遠く引き離されたところで実行される「爆撃」という手法は、21世紀のイラク戦争まで続いていることも忘れずにおきたい。

 シンポジウム参加者が、大岡氏による、

 1. 〈空爆の世界史〉における東京大空襲の位置-第二次大戦後を見据えて
 2. 〈空襲・戦災の比較史〉-共通の歴史理解のために
 3. 空襲記憶のゆくえ-〈「空襲後」史〉の国際比較

という問題提起を念頭に据えた上で、それぞれの報告に接していたことを考えれば、上記の私の認識も広く共有されていたものに思える。

 

 

 

 最後の質疑において、「無差別爆撃」推進の論理を支えていた、

   その効果としての銃後の敵国民の戦意の喪失

は実際に達成されたのかどうかという問題が論じられたが、日独共に、無差別爆撃による被害が戦争終結(降伏)をもたらすことはなかったという事実こそが、その答えとなるのであろう。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/07/29 21:55 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/111554

 

 

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2009年7月29日 (水)

「無差別爆撃」の転回点 (1)

 

 昨日、つまり2009年7月27日、御茶ノ水の明治大学に出かけ、「第3回無差別爆撃シンポジウム」に参加して来た。

 

 

 一昨年が、「無差別爆撃の源流 ― ゲルニカ・中国都市爆撃を検証する」(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-156e.html)というタイトル、昨年のシンポジウムは、「世界の被災都市は空襲をどう伝えてきたのか - ゲルニカ・重慶・東京の博物館における展示/記憶継承活動の現在」(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-5976.html)というタイトルで開催されている。今年は、「「無差別爆撃」の転回点 -ドイツ、日本都市空襲の位置付けを問う」というタイトルでの開催であった。

 

 

 

 開始時間である14時になり、まず、司会役の大岡聡氏による問題提起という形で今回のシンポジウムの焦点が説明された。

 レジメの文言を引用すれば、

 1. 〈空爆の世界史〉における東京大空襲の位置-第二次大戦後を見据えて

 2. 〈空襲・戦災の比較史〉-共通の歴史理解のために

 3. 空襲記憶のゆくえ-〈「空襲後」史〉の国際比較

ということになるが、これまでのシンポジウムで論じられた、歴史的時間軸と空間的拡がりの両面からの、「戦略爆撃」としての「都市無差別爆撃」という軍事的手法の展開を、前記3つのテーマに視点を据えてあらためて検証するということである。

 一昨年のシンポジウムでは、ゲルニカ・重慶に加え、それに先立つスペイン領モロッコでの空爆の実態等が取り上げられ、「東京大空襲」に至る「無差別爆撃」という軍事的手法の歴史的展開が、植民地主義との関連と共に報告されていた。

 昨年のシンポジウムでは、ゲルニカ、重慶及び東京の「空襲記録展示施設」の関係者の出席により、空襲記録の保存・記憶の継承という問題が、博物館展示という側面から語られていた。

 今回はそれを受けてのテーマ設定ということになるだろう。

 実際の報告及び議論は、時間的制約もあり、目論見のすべてを達成するところまではいけなかったようにも思うが、少なくとも大岡氏による問題提起により、参加者はイラク戦争までも視界内に想定した上で、それぞれの報告を聞き、質疑に参加したわけである。

 

 

 2人の報告者と、1名の論文参加者により、前記のテーマが具体的に論じられ、その上でコメント提供と質疑・討論という形でシンポジウムは進められた。

 

 

 

 まず、中山伊佐男氏(元 麻布高校教諭)による報告。タイトルは「日本への住民選別爆撃の実相-米軍研究資料から」である。

 

 「米軍研究資料」というのは、「米国戦略爆撃調査団報告書」を中心とした米国側の詳細な記録のことだ。1972年の大統領命令第11652号により機密指定が解除され、参照可能となったものである。つまり、東京大空襲を始めとした日本本土都市無差別爆撃の実行者自身による作戦計画と事後報告資料であり、極めて信頼性が高いと評価されているものなのである。

 

 中山氏は、まず、1945年3月10日のいわゆる東京大空襲=作戦任務40号の「作戦任務報告書」に付された「前書き(Foreword)」部分に注目する。

 そこには、東京・名古屋・大阪・神戸の市街地を目標と指定した上で、

 これらの攻撃の目的が、都市の市民を無差別に爆撃する(bomb indiscriminately civilian populations)ことではなかったということは注目すべきことである。目的は、これらの四つの重要な日本の都市の市街地に集中している工業的、戦略的な諸目標を破壊することであった。

と書かれているのである。

 中山氏はその報告で、目標情報票を始めとした実際の米軍側作戦計画の詳細資料を検証することにより、「前書き」の文言にある攻撃目的である「工業的・戦略的諸目標の破壊」が、空襲の実態と乖離していることを明らかにしてみせるのだ。

 米軍資料で「 Zone Ⅰ(焼夷地区1号)」として表示されている地域は正式には「Zone R1」なのだというのである。この「R」は(Residential)の略号なのであり、つまり住宅区域であることを示しているというのだ。つまり、米軍は事前の周到な情報収集により、住宅区域としての地域特性を掌握した上で、爆撃目標としての設定をしている事実が、米軍資料を活用することにより明らかにされているのである。

 中山氏の言葉を引用すれば、

 住居と工場が混在する地域である Zone X (Mixed Industrial Residential Zone)を攻撃目標とした爆撃であるのであれば、無差別爆撃といってもよかろう。しかし、3月10日の東京大空襲を始めとして、多くの都市の空襲は、住民を攻撃目標とした爆撃であると断ぜざるを得ないので、『住民標的爆撃』、『住民選別爆撃』というのが実相を示す表現である…

ということになるのである。

 「無差別爆撃」という用語が、特定の目標を対象とした「精密爆撃」との対比で用いられるものであるのに対し、実際には都市住民そのものをターゲットにしている(つまり目標として特定している)という意味で、米軍による日本の都市爆撃を「住民標的爆撃」あるいは「住民選別爆撃」として再定義することへの提案、と言えばよいだろうか?

 

 

          (続く)

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/07/28 22:03 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/111462

 

 

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2008年12月26日 (金)

無差別爆撃の論理 3

 

 「無差別爆撃」という問題には、当然のことながら、様々な切り口が存在するだろう。

…という書き出しで、2回ほど、「無差別爆撃の論理」のタイトルで「問題」を考えて来た。

「無差別爆撃の論理 1」 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-d699.html

「無差別爆撃の論理 2」 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-ca7d.html

 今回は、その3回目として、アニメを切り口に「無差別爆撃の論理」へと迫ってみたい。

 取り上げるのは、ウォルト・ディズニーの1943年の作品、「 Victory Through Airpower (空軍力の勝利)」である。

 Alexander Procofieff de Seversky 少佐(「セバスキー」と読むらしい)の、1942年の同名の著作(ベスト・セラーとなったという)のアニメ化ということだ。商業的な成功を狙ったものではなく、戦争の展開の中で、啓蒙的な意図の下にアメリカ国民へ向けて制作された、ディズニー自身の企画による自主企画作品である。

 まずは、予告編の画像をご紹介しよう。

Victory Through Airpower Trailer (1943)
 → http://jp.youtube.com/watch?v=PFvc46nMNcw

 アニメ中にも、原作となった著書が登場している。

 セバスキー少佐は、1894年のロシア生まれ、第一次世界大戦中はロシア海軍のパイロットとして従軍。戦闘による負傷で片足(膝下)を失うが、義足で戦線に復帰し、6機(日本版ウィキペディアによれば13機)撃墜の「功績」を上げている。革命後にアメリカに亡命。

 陸軍航空隊のウィリアム(ビリー)・ミッチェルの下で、テスト・パイロットそして技術的アドヴァイザーを務める。

 1931年に、航空機メーカー、「セバスキー社」を設立。社は、1936年に「リパブリック社」へと改名。第二次世界大戦中の米軍の主力戦闘機となる、P-47サンダーボルトの開発・生産に当たることになる。

 「無差別爆撃の論理」という観点から興味深いのが、セバスキーとビリー・ミッチェルとの関係だろう。ミッチェルは、第一次世界大戦後に、独立した空軍の設立を主張したことで有名となった人物である。

 第一次世界大戦後の軍事的世界における空軍力の優位を主張しながら、当時の軍から排除されたことでも有名であろう。現実には、陸軍では戦場における大部隊同士の決戦、海軍においては戦艦同士による艦隊決戦こそが戦争の帰趨を決めるという観念が、当時の軍事理論を支配していたわけである。

 ミッチェルは、自身の主張の証明のために、捕獲したドイツの「不沈戦艦」オストフリーラントを、航空機から投下した爆弾6発で沈めてみせるというパフォーマンスまでしてみせたのだが、1921年7月のその「実験」を背後で支えていたのがセバスキーなのである。

 つまり、第一次世界大戦後のアメリカで、空軍力の優位を主張した将官に仕えていたのが、このセバスキーということなのだ。

…と原作者セバスキーを理解した上で、「予告編」をもう一度見て欲しい。

 セバスキーが、そしてディズニーがアニメ上で、アメリカ国民に対して主張しているのは、長距離爆撃機による都市無差別爆撃(citys and homes to be bombed)の実行による、戦争の「早期終結」である。

 アメリカ本土から発進し、無着陸で日本を攻撃可能な長距離爆撃機の開発が主張されている点に注目したい。アニメでも描かれているように、既に、ドイツ本土は米英空軍保有爆撃機の爆撃対象であったが、日本本土を爆撃対象としうる長距離爆撃機は、量産機としては存在していなかったのである。

 アニメ上で構想されたような長距離爆撃機の保有は、第二次世界大戦中には実現することはなかったが、冷戦期に「活躍」するB-52の空中給油システムに支えられた長航続距離は、まさにその構想の現実化したものと考えられるだろう。そのB-52が、やがて、北ベトナムへの無差別爆撃の実行者となっていくわけだ。その意味で、アニメに描かれた構想は第二次世界大戦を飛び越え現在へと直結している。1999年、コソヴォ紛争に際し、米空軍のステルス爆撃機B-2は、米国本土の基地から発進し、目標爆撃後は、そのまま(無着陸で)米国本土基地へ帰還しているわけである。

 もう一つの注目点は、これまでの「無差別爆撃の論理 1~2」でも述べた通り、都市への無差別爆撃の実行が、人命の損失の減少(saving human-life)をもたらすものとして位置付けられているところだろう。第一次世界大戦で経験されたような、前線兵士の膨大な犠牲に比べ、より少ない民間人の犠牲が国民の間に厭戦気分を生み出し、早期の戦争終結に結びつくだろうという期待に支えられている「論理」である。

 主張されてるのは、軍事的報復としての、無慈悲な市民への攻撃の必要性ではない。最小限の犠牲者の上に成り立つ(はずの)戦争終結の可能性であり、その手段としての都市無差別爆撃なのである。

 「 Victory Through Airpower (空軍力の勝利)」は、まさにその「論理」で展開されているアニメなのだ。

 当時の文脈の中での「無差別爆撃の論理」を理解する上で、このアニメは、歴史的に重要な資料の一つとして考えられるべきものであると思う。

セバスキー

 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

Alexander Procofieff de Seversky

 → http://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Procofieff_de_Seversky

 → http://www.theaerodrome.com/aces/russia/deseversky.php

Victory Through Airpower (ウォルト・ディズニーの項目中に記述がある)

 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%8B%E3%83%BC

ウィリアム・ミッチェル

 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/12/26 17:30 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/89746

 

 

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2008年12月 7日 (日)

無差別爆撃の論理 2

 

 「無差別爆撃」という問題には、当然のことながら、様々な切り口が存在するだろう。

 

 
 

…という言葉から、昨日はスタートしたわけだが、今日は、戦争における民間人への攻撃という側面から問題を見ていこう。

 
 

 荒井信一 『空爆の歴史』(岩波新書 2008) には、

 20世紀の戦争は、国のすべてをあげた総力戦であった。戦争の死者のうち民間人の割合は第一次世界大戦では6%であったが、第二次大戦までに60%に達した。飛行機と空爆テクノロジーの発達により、戦線から遠く離れた後方でも国民の生活は安全ではなくなった。

という記述がある。

 

 総力戦としての近代戦争が、その姿を現したのは第一次世界大戦であったが、それでも民間人の死者が戦争の死者の6%にとどまっていた、というその背景は、昨日も書いたように、航空機そのものの誕生から間もない時期であったことに求められるだろう。航空機は、大量の爆弾を運ぶにはまだ小さく、戦線から遠く離れた後方を攻撃するに足る航続距離も持ち合わせていなかった。

 航空機用の爆弾の開発も、これからの話であるし、もちろん精度の高い爆撃用の照準装置の開発は、もっと後の話である。

 しかし、同時に、対空兵器の開発も、これからの話であるわけで、地上の人間にとって、航空機の存在が脅威であったことも確かなのである。

 

 6%という、民間人の死者をめぐる数値が、60%へと大幅な上昇を遂げる背景には、大型航空機の開発(爆弾搭載量の増大と共に、遠方の都市への爆撃に充分な航続距離も確保される)と、都市攻撃に効果的な爆弾(焼夷弾)の開発があった、ということになる。

 
 
 

 ところで、昨年の、「東京大空襲・戦災資料センター 戦争被害研究室」主催のシンポジウム、「無差別爆撃の源流 ― ゲルニカ・中国都市爆撃を検証する」では、非武装の民間人への航空機による攻撃のルーツは、スペイン軍による1920年代の植民地モロッコでの軍事行動であったとする、深澤安博(以下、文中敬称略)による報告があった。
 (→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-156e.html

 

 今回の、荒井の著書では、より詳細に、

 トルコ領リビア(トリポリ、キレナイカ)の植民地化をめざしたイタリア・トルコ戦争(1911-12年)では開戦(9月23日)とともにイタリア軍が、リビアに9機の飛行機と2機の飛行船を派遣した。イタリア機は10月26日には敵陣に手榴弾を投下した。飛行機による最初の空爆である。その後イタリア機はトルコ・アラブの拠点を空から攻撃し、総計330発の爆弾を投下した。空履きの成果についてイタリア軍参謀本部は「爆撃はアラブに対して驚異的な心理的効果をあげた」(11月6日)と報告している。

 オスマン帝国の旧領の争奪からはじまったバルカン戦争(一次・1912年、二次・1913年)ではブルガリアが22ポンド(約10キロ)爆弾を開発し、本格的な都市爆撃を行った。飛行機の軍事使用が成果をあげたことに各国が注目した。フランスとスペインは1913年から北アフリカの植民地戦争に飛行機を導入した。

 ヨーロッパの帝国が植民地戦争や原住民の反乱を鎮圧するために飛行機を使ったのは偶然ではなかった。帝国主義の時代には、19世紀からの第二次産業革命の結果、重工業(特に機械・化学・電気工業)が発達し、武器に応用され、軍事技術の面で非ヨーロッパ世界との格差が決定的に拡大した。ヨーロッパ中心的な人種主義的世界観が普及したのもこの時代であった。

 その結果生まれた軍事テクノロジーの格差を前提にすれば、植民地での使用がもっとも有効とされ、空爆の軍事的価値が大きく評価された。「未開」側の対空戦力がゼロに近いことを考えれば、攻撃側の人命節約効果も無視できない要素であった。1919年、イギリス空軍参謀長ヒュー・トレンチャードは「植民地の法と秩序は、在来の守備隊よりも機動力の優れた空軍によるほうが安上がりで効果的に維持できる」(大意)と述べて、植民地での使用の経済的効果にも注目した。

という歴史的経緯が説明されていた。

 

 その上に、第一次世界大戦後のスペイン軍による、植民地モロッコでの航空機を活用した軍事行動(リーフ戦争)が存在するのである。

 そこでは非武装の民間人に対する爆撃が恒常化する。しかも毒ガスの躊躇なき使用が特徴的であることは、既に深澤の報告にあった通りである。

  

 荒井の著書からの引用を続けよう。

 「組織的な空爆の成果」としてもっとも深刻なのが、1925年の無防備都市シェシャウェン(シャウエン)空襲である。武器をもつ男子が戦場に出撃していた、この町の空爆では、まったく無防備の女性と子どもが大量に死傷した。モロッコの歴史家ケンビブは、リーフ戦争中の毒ガス弾投下はリーフ人に対する「ゲルニカ」だったと述べたが、そのうえで「実際にはリーフ戦争中の生存破壊戦略の結果は量的にも質的にもゲルニカ爆撃のそれをはるかに凌ぐものだった」と指摘している。モロッコの毒ガス戦でのドイツとスペインの協力(毒ガスを提供したのはドイツであった-引用者)は、やがてスペイン内戦のときのフランコ将軍と、ドイツのコンドル軍団の協力に発展し、ゲルニカでシェシャウェンの悲劇が再現される。

 「まったく無防備の女性と子ども」の大量殺害が、航空機と毒ガスというテクノロジーにより、現実化したのである。

 ヨーロッパ人による、躊躇なき、毒ガスを使用した無差別爆撃は、その植民地において実行されたのである。

 
 

 しかし、リーフ戦争をめぐりドイツ軍将校は、「スペインは主として組織的な空爆の成果と毒ガスの破壊的な効果を頼りにしている」と報告する一方で、(荒井によれば)「しかし、彼らの結論は、住民に対する爆撃は戦争の終結には決定的な役割を果たさなかった」というものでもあった。

  
  

 住民に対する爆撃が戦争の終結に決定的な役割を果たすものなのかどうか?

 

 20世紀の歴史を通しての、非武装の民間人の大量の死をもたらした「無差別爆撃」という手法の起源のひとつは植民地戦争という戦争形態であり、「攻撃側の人命節約効果」への配慮と、植民地住民の人命への無配慮の組み合わせで成り立っているものだったのである。
 
 
 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/10/17 22:27 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/82242/user_id/316274

 

 

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無差別爆撃の論理 1

 

 「無差別爆撃」という問題には、当然のことながら、様々な切り口が存在するだろう。

 昨日書きかけたところから、スタートしよう。

 まぁ、戦争における「無差別爆撃」という手法は、20世紀以前にはあり得なかったものだ。

 航空機の存在なしに、前線のはるか後方の都市の民間人を、爆撃の対象とすることなど不可能なのだ。「爆撃の対象」と書いてしまったが、「爆撃」という語自体が、それまでに存在し得なかったわけである。「砲撃」は出来ても、「爆撃」という攻撃法自体が、航空機の存在に(つまり発明に)依存しているのである。

…と、昨日は書いていたわけだが、英語だと「爆撃」も「砲撃」も「bomb」ということになるようだ。日本限定の話題ではないので、用語の問題にも留意しておく必要がありそうである。

 いずれにしても、空からの攻撃というのは、20世紀(そして21世紀へと継続する)特有の戦争の局面である。

 陸上における戦争とは、陸軍同士の決戦により、勝敗が決まるものであったし、海上における戦争は、艦隊同士の決戦により、その勝敗が決まるものであった。

 航空機の登場は、戦争のあり方を変化させる。

 強大な陸軍も、空からの攻撃には弱点をさらさざるを得ないし、巨大戦艦も航空機による攻撃で沈められてしまう。

 それが20世紀の出来事であった。

 しかし、それはまだ、前線における出来事であった。

 航空機の登場は、前線に展開する陸軍を飛び越え、直接、銃後の市民への攻撃を可能にしたのである。

 第一次世界大戦において、人類は、「総力戦」としての、新たな段階の戦争を経験することになった。戦争が、前線で対峙する軍隊同士の力で決まるものではなくなり、国家が動員可能な生産力の総量が、戦争の帰趨を決定する時代へと変化してしまったのである。

 兵器の近代化は、兵士への殺傷能力を高め、前線における犠牲者数を飛躍的に増大させた。しかも、第一次世界大戦は、長期にわたる塹壕戦という形態に陥り、「決戦」による決着という戦争イメージを変容させたのである。

 ただし、第一次世界大戦段階における航空機は、まだ誕生から間もなく、その大型化及び航続距離において未発達なものであった。

 結果として、各国が大型爆撃機を保有するという状況は訪れることはなく、銃後の市民が恒常的に、爆撃の犠牲となるような事態が生じることはなかった。

 とはいえ、ドイツのツェッペリン(飛行船)によるロンドン空襲は、戦争の新しい時代を示すものではあった。

 戦争における「都市無差別爆撃」というアイディアは、しかし、そのような第一次世界大戦の経験が生み出したものである。

 航空機の大型化と航続距離の増大という条件が一方にあり、他方には、陸軍兵力の多大な犠牲という第一次世界大戦の経験が存在した。

 しかも、それは、戦争がもはや前線の軍隊の問題ではないという、「総力戦」と化した歴史の局面での話なのである。

 前線の軍隊への攻撃ではなく、直接に総力戦を支える銃後を攻撃の対象とする。つまり、民間人への直接攻撃というアイディアなのである。

 戦場の兵士とは異なる民間人への攻撃というアイディアのポイントは、市民への直接攻撃により、銃後の国民の戦意喪失が期待され、戦争の継続という選択肢が支持を失うであろうという予測にあった。

 第一次世界大戦で経験されたような、前線兵士の膨大な犠牲に比べ、より少ない民間人の犠牲が国民の間に厭戦気分を生み出し、早期の戦争終結に結びつくだろうという期待である。

 それが非武装の市民への攻撃を正当化する論理であった、ということのようである。

 もちろん、現実の世界は理論通りには動かないのであるが…

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/10/16 23:11 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/82116/user_id/316274

 

 

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ゲルニカ・重慶・東京  世界の被災都市は空襲をどう伝えてきたのか

 

 昨日は、「東京大空襲・戦災資料センター 戦争災害研究室」主催の「無差別爆撃国際シンポジウム」に参加して来た。

 そのタイトルが、「世界の被災都市は空襲をどう伝えてきたのか - ゲルニカ・重慶・東京の博物館における展示/記憶継承活動の現在」であった。

 前回のシンポジウムは、「無差別爆撃の源流 ― ゲルニカ・中国都市爆撃を検証する」というタイトルで開催されたが(→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/45744/user_id/316274)、その延長として考えられるだろう。

 前回のシンポジウムでは、国内の研究者により、ファシスト空軍によるゲルニカ爆撃、日本軍航空隊による重慶爆撃に関して、現地踏査にも基づく発表がされていた。

 同時に、「無差別爆撃」という軍事行動のルーツを、ゲルニカ・重慶に先立つ、スペイン軍による植民地での作戦行動に求めるという視点が示され、無差別爆撃と植民地主義の関係性が、論点としてクローズアップされる機会でもあった。

 今回のシンポジウムは、ゲルニカ平和博物館館長のイラッチェ・モモイショ(以下、敬称略)、重慶市三峡博物館副研究員の李金栄、そして東京大空種・戦災資料センター主任研究員の山辺昌彦による報告と、沖縄大学客員教授(というより、日本における無差別爆撃研究のパイオニア)の前田哲男のコメント、そして質疑応答という構成で展開された。

 東京大空襲・戦災資料センター館長の早乙女勝元による開会の挨拶で始まり、一橋大学教授であり戦災資料研究室室長でもある吉田裕による司会により、長時間のシンポジウムが進行さるという、10月の午後となった。

 今回は、ゲルニカ、重慶、それぞれ現地の戦争災害展示博物館関係者の参加を得、その報告を直接聞くという、またとない機会となったわけだ。

 ただ、一方で、英語(モモイショ報告)、中国語(李金栄報告)という、「言葉の壁」という障害の存在もあったことは確かである。報告内容は、配布された翻訳に沿ったものであったにしても、同時通訳のない状態での報告には、若干のまだるっこしさを感じさせられてしまったことも、正直なところだ(しかし、同時通訳の予算を考えれば、理解出来るし、内容自体は事前配布された翻訳文によって把握可能である)。

 あらためて、感じさせられたのは、ゲルニカ及び重慶の、それぞれの国内における認知の問題である。

 フランコ体制下では、ゲルニカに対する無差別爆撃は存在しないものであったし、共産党支配の中国においても、国民党の戦時首都であった重慶における戦争被害は研究の対象ではなかったのである。

 手元のメモによれば、ゲルニカでの無差別爆撃被害の検証が開始されたのが1980年代、重慶でのそれは1985年ということだ。爆撃被害から40~50年以上経過してからの出来事なのである。

 どちらも難民の流入した中での、そもそもがその時点での都市人口自体が確定困難な状況での出来事であった。

 ゲルニカは数時間の出来事、重慶は数年に渡る爆撃被害という違いもあるが、ゲルニカは空襲直後にフランコ軍の占領下となり都市閉鎖、重慶は国民政府の戦時首都として、その被害の過小発表という取り扱いを受けたことによる、被害者数確定の困難状況が被害の実相を覆い隠して来たことも報告されていた。

 ここには、都市市民の被害という現実と、国家レベルの政治の乖離という問題も見えるだろう。そして、その点においては、東京大空襲被害者もまた、同様な状況にあると考えられる。

 また、共通の課題として大きく浮上したのが、若い世代への体験の継承の問題であった。

 「無差別爆撃」という軍事行動のあり方は、決して過去の話なのではない。

 精密誘導兵器の導入が喧伝される中で、たとえばクラスター爆弾の使用は、明らかに非武装の非戦闘員たる都市住民の被害を生み出しているのである。

 そのような世界の現状と歴史的経験を、想像力をもって結びつける能力の必要性は明らかだろう。

 質疑応答の中で浮上した問題として、ゲルニカにも重慶にも、東京大空襲の展示、あるいは相互の空襲被害の展示がないという現状があった。

 無差別爆撃という軍事行動を、そしてそれによる被害を、個々に独立したものとして捉えるのではなく、国際的な視野と歴史の枠組みの中で把握し直すこともまた、現在の課題として考えられるべきだろう(もちろん展示スペースの都合という制約もあるわけだが)。

 「無差別爆撃」という軍事行動自体が、ニュルンベルク裁判及び東京裁判の過程で裁かれることはなかった。戦勝国もまた「無差別爆撃」の実行者であったからだ。

 しかし、それは、「無差別爆撃」という軍事行動を、「戦争犯罪」から除外出来るという意味で考えられるべき問題ではないだろう。

 20世紀は、そしてどうやら21世紀も、「無差別爆撃」という発想から逃れることが出来なかったように見える。

 そのような意味で、日本は、無差別爆撃の歴史の初期における組織的実行者であると同時に、徹底的な無差別爆撃の被害者であった歴史を持つ。その二つの経験・視点に加え、国際的な視野・歴史的展望の下で「無差別爆撃」を考えること。

 今回のシンポジウムが残した課題、と言うことが出来るだろうか?

  (本来なら昨日に書くべき内容だったのだが、さすがに疲れ果てていた)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/10/12 15:16 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/81603/user_id/316274

 

 

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不都合な戦争の都合という問題 3

 

 久しぶりの日曜の夜、というのも変な言い方だが、実感ではある。

 やたら暑い(「熱い」と書きたいくらいに暑い)夏だったが、涼しい日が続いている。

 一週間前と比べれば、10度以上、気温が低いわけだ。暑さに弱い人間としては、歓迎ではある。

 ただしこれが続いてしまうと、農産物には悪い影響が出そうだ。暑さに弱い人間の都合ばかり優先するわけにもいかない。まぁ、天候を思い通りにすることは出来ないので、私の責任の問題ではないけれど。

 せっかくの涼しい日曜の夜には、戦争の話題は離れたい。

 と、思うそばから、戦争は個人の都合には関係なく起きるし、涼しい夜にも爆弾は落ちて来るんだぜ、という声が聞こえて来る。

 それは正しいが、戦時下ではない夏の夜に、久しぶりの涼しさをゆっくり味わっておくのも大事なことではないか、という声もまた私のものだ。

 もっとも、戦時下であることと、空襲の脅威に曝されることは、イコールではない。

 二つの世界大戦を通じて、ニューヨークにもワシントンにも、敵国の爆撃機は飛んでは来なかった。

 大東亜戦争(「支那事変」を含む)を振り返っても、最初から東京が空襲下にあったわけでもない。

 昭和12年に始まる、「支那事変」と呼ばれた中国大陸における中華民国の正規軍との戦闘に際しては、爆撃機を使用し中国の都市無差別爆撃を行っていたのは、大日本帝國の側であった。

 大日本帝国の都合により継続されてしまった軍事行動の結果としての、都市無差別爆撃の犠牲となったのは、中国の一般市民であった。犠牲者の都合など、まったく顧慮されることはないのが、戦争(それを事変と呼ぼうが)という出来事における犠牲者にとっての不都合なのである。

 ゆっくり食事をすることすら不可能になるし、運が悪ければ死ぬしかない。

 しかし、その時点で、戦争の犠牲者としての自らの姿を、どれだけの大日本帝國臣民(あるいは国民)が想像していただろうか? 焼夷弾で焼き尽くされる、大日本帝國の都市の姿を。燃え尽きる自らの身体を。

 その時点で、既に、中国の都市には、大日本帝國の陸海軍航空隊所属の爆撃機による無差別爆撃が展開されていたのである。

 そこには、都市無差別爆撃の犠牲者としての、中国の市民が多数存在していたのだ。都市無差別爆撃の被害者として死に、都市無差別爆撃の被害者として家族を失い、都市無差別爆撃の被害者として住む家を失い、都市無差別爆撃の犠牲者としてくつろぎのひと時を奪われる。

 大日本帝國では、既に総力戦が叫ばれ、「国家総動員法」が策定されていったわけだ。つまり、ここでは、大日本帝國は総動員体制にあるのであり、構図としては、国民すべてが中華民国の都市住民に敵対していたことになる。

 個人の思いがどうであろうと、ここでは日本国民は、中華民国国民への都市無差別爆撃に関して、加害者の立場に置かれてしまうのだ。

 空襲の被害に遭うことの悲惨さは、戦後日本社会において、いわば常識であるが如く語られて来た。

 しかし、対米英開戦以前、中国での都市無差別爆撃を続けていた時点に、どれだけの日本人が、空襲の被害に遭うことの悲惨さを常識として考えていただろうか。

 B-29による都市無差別爆撃による被害体験を抜きに、日本社会において、空襲の被害に遭うことの悲惨さが常識となることはなかっただろう。

 もちろん、都市無差別爆撃の実施は、敵国に対して与えるダメージの大きさの想定に基づくものではある。爆撃の結果が悲惨であると想定されるからこそ、都市無差別爆撃が作戦計画に取り入れられるわけでもある。

 しかし、つまるところ、そこにあるのは参謀本部や軍令部の視点、爆撃機基地の作戦司令室の視点、爆撃機搭乗員の視点に過ぎないのである。

 あくまでも爆撃の惨禍は他人事なのだ。

 爆弾の下を逃げまわる、いや爆弾の下を逃げまわることも出来なくなった時に、やっと爆撃の惨禍を自分のこととして、人は理解するようになるのである。

 そして被害の体験を人は忘れないものだ。

 個人的に、それまで日本人と何の関係もなく生きて来た人間が、中華民国国民であるという理由で殺されなければならない。これは、中華民国国民として、被害者となるという体験なのだ。

 殺す側からも、殺される側からも、個人の都合が奪われる。それが戦争という事態である。

 私とあなたの関係は蒸発し、我々と奴等の関係だけが残される。

 戦後生まれの日本人が、あの戦争の責任を問われることは、確かに理不尽である。

 そこに、個人としての責任など存在しようがない、だろう。

 しかし、戦争とは、個人であることを奪われる事態として経験されるものでもある。

 我々と奴等。その関係性の中での被害体験への想像力は、持っているに越したことはない、と思う。個人として殺されたわけではない、個人として被害に遭ったわけではない人々への想像力。戦時下での被害体験のあり方に対する想像力は、努力しても持つに値すると思う(もちろん、殺す側も個人の資格で殺すわけではないが、殺される側からは加害者として位置付けられてしまうのである)。

 そのような想像力を抜きに「平和を祈念する」ことには、私は虚しさを感じてしまうわけだ。

 そして、そのような想像力を持ってしまえば、戦後生まれの日本人からも、あの戦争への責任の感覚が生まれるようにも思う。

 しかし責任をどのように取れるのか?

 想像力を保ち続けること、という責任の取り方を考えてしまうことに問題はあるだろうか?

 日曜の夜、都合のよい結論が出るわけでもない。

 考え続けることしか出来ない。しかし考え続けることだけは出来る。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/08/24 21:47 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/76809/user_id/316274

 

 

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2008年12月 3日 (水)

「無差別爆撃の源流」をめぐって

 

 これ等の空爆を通して、一つの顕著な事実は、日本人が都市爆撃につき、決して米国の無差別爆撃を恨んでも、憤っても居らぬことである。僕が「実に怪しからん」というと、「戦争ですから」というのだ。戦争だから老幼男女を爆撃しても仕方がないと考えている。「戦争だから」という言葉を、僕は電車の中でも聞き、街頭でも聞いた。昨夜も、焼き出されたという男二人が、僕の家に一、二時間も来ていたが、「しもた家が焼かれるのは仕方がないが、戦争なんだから。工場が惜しい」と話していた。日本人の戦争観は、人道的な憤怒が起きないようになっている。

    清沢洌 『暗黒日記』  昭和二十年四月十六日

 

 本日は、「無差別爆撃の源流 ― ゲルニカ・中国都市爆撃を検証する」と題された、「東京大空襲・戦災資料センター 戦争災害研究室」主催のシンポジウムに参加して来た。

 冒頭に紹介した清沢の日記の一節は、会の冒頭で、司会役の吉田裕さんによる問題提起の中で触れられていたものだ。

 当時の日本には、市民に対する攻撃も、「戦争だから」という形で容認する風潮が存在していたことがわかる。

 清沢の日記は、昭和20年になって、日本が受けることになったB29による都市無差別爆撃の経験の最中で書かれている。

 支那事変から大東亜戦争へと続けられた大日本帝國の戦争は、その終末期である昭和20年には、本土の各都市が米軍による無差別爆撃の対象とされる事態を経験していた。

 そして、老幼男女が爆撃の犠牲となることに対して、多くの日本人が「戦争だから仕方がない」という受け止め方をしていたということが、清沢の記述から理解されるのである。

 昭和12年に始まる、いわゆる支那事変の進展と共に、大日本帝國陸海軍航空隊による、中国の都市への無差別爆撃が敢行されていた。陸上戦闘に伴う空軍力の対地支援としての爆撃ではなく、戦闘地域を離れた都市(の民間人)を目標とした爆撃としての「無差別爆撃」は、既に大日本帝國の軍事行動において採用されていたのである。

 昭和20年になって、本土の日本人が味わうことになった無差別爆撃は、それまでの大日本帝國の軍事行動から見る限り、非難の対象とされるべき行為であるとは思われていなかったのだろう。であるからこその「戦争だから仕方がない」という認識であるはずだ。

 問題の、大日本帝國陸海軍航空隊による無差別爆撃として、昭和13年2月に開始される重慶への都市爆撃の研究報告が、シンポジウム後半の二つの報告のテーマだったのだが、前半の報告ではヨーロッパも視野に入れた中で、「無差別爆撃」の問題が取り上げられていた。

 ひとつが、シンポジウムの表題にもあるゲルニカ爆撃であり、「ゲルニカ―無差別爆撃のルーツ」と題した荒井信一さんの報告があった。

 1937年4月26日、フランコによるスペイン共和政府への反乱へ協力するドイツ・イタリアの航空機部隊が、バスクの町ゲルニカを爆撃したのである。

 当時の記録資料から、その日の軍事行動が偶発的なものではなく、事前に無差別爆撃として計画されたものである可能性を立証出来ることが報告されていた。

 木造建築に対する焼夷弾攻撃として、作戦が当初から立案されていたことが窺われるのである。

 私としては、焼夷弾の開発に当たっていたのが、I ・G ファルベン社であるという説明に興味を覚えた。同社工場に労働力を供給するために作られたのがアウシュヴィッツの第三収容所であるからだ。本題からは離れた感想であるが、書きとめておきたい。

 もう一つの報告が、「リーフ戦争からスペイン内戦へ―生存破壊のための空爆とその衝撃・記憶・謝罪―」と題された、深澤安博さんによるものだ。この報告によれば、無差別爆撃は1920年代にスペイン領モロッコで既に行われていたというのである。

 そこでは、スペイン軍航空機により毒ガスも頻繁に使用されていたというのだ。

 そこで出てくる視点が、無差別爆撃という手法と、それに結びついた毒ガス使用のはらむ問題ということになる。

 ここでは、植民地における軍事行動での、非軍事目標に対する躊躇のない毒ガス使用という問題(30年代にエチオピアではイタリアも使用)から、「帝国主義的な人種殺害の所産」としての東京大空襲をはじめとした日本本土の都市への無差別爆撃、という観点が導き出されることになる。この観点は、日本に対する躊躇のない原爆使用の説明として説得力があるだろう。

 もちろん、都市無差別爆撃という問題を、人種差別からのみ説明することは出来ないだろう。

 都市無差別爆撃の無慈悲な実行者は英国空軍であり、対象となったのはドイツだからだ。

 そのために、爆弾搭載量の大きい四発の重爆撃機を開発し、実際に都市無差別爆撃の手段として広範囲に使用したのが英国空軍なのである。

 ただし、記憶によれば、英国空軍爆撃機部隊の司令官として都市無差別爆撃を推進したアーサー・ハリスの経歴には、植民地での勤務があったように思う。その意味では、ハリスの手法の背後には植民地勤務の経験があり(すなわち人種主義的な発想があり)、その経験がドイツに対する都市無差別爆撃という選択に結びついていた可能性を考えることは出来そうである。

 もちろん、都市無差別爆撃には別の重要な側面もあるだろう。近代的総力戦の中での出来事であるという理解である。

 総力戦においては、戦争は前線の戦闘部隊のみの問題ではなくなる。前線の軍隊間の戦争ではなくなり、実際問題として国民同士の戦争になってしまうのである。

 たとえば、昭和19年8月4日、小磯内閣は、

軍官民を問はず一億国民が真に一丸となつて戦闘配置につき,本格的戦争態勢を確立することにこそ現下の急務

との認識の下に、「一億国民総武装」を閣議決定している。「閣議決定」は法的拘束力は持たないにしても、「軍官民を問はず一億国民が真に一丸となつて戦闘配置につき,本格的戦争態勢を確立すること」という文言には、総力戦という近代戦の現実が反映されている。

 支那事変以来の「国家総動員体制」そして「高度国防国家」の形成という国家目標を考えた時に、そこに軍官民の別は消滅してしまう。

 都市無差別爆撃は、国家総動員体制そして高度国防国家という理念に既に含まれていたものではないのか。

 清沢の紹介する空襲犠牲者達の言葉は、そのことを物語っているようにも思えるのである。

(本日の日記、シンポジウム内容の紹介というよりは、私の感想に傾いていることをお断りしておきます←特に後半)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/10/20 22:02 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/45744/user_id/316274

 

 

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国家総動員体制と都市無差別爆撃の論理

 

国家総動員法(昭和13年法律第55号)

第一条 本法ニ於テ国家総動員トハ戦時(戦争ニ準ズベキ事変ノ場合ヲ含ム以下之ニ同ジ)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ

第二条 本法ニ於テ総動員物資トハ左ニ掲グルモノヲ謂フ
 一 兵器、艦艇、弾薬其ノ他ノ軍用物資
 二 国家総動員上必要ナル被服、食糧、飲料及飼料
 三 国家総動員上必要ナル医薬品、医療機械器具其ノ他ノ衛生用物資及家畜衛生用物資
 四 国家総動員上必要ナル船舶、航空機、車両、馬其ノ他ノ輸送用物資
 五 国家総動員上必要ナル通信用物資
 六 国家総動員上必要ナル土木建築用物資及照明用物資
 七 国家総動員上必要ナル燃料及電力
 八 前各号ニ掲グルモノノ生産、修理、配給又ハ保存ニ要スル原料、材料、機械器具、装置其ノ他ノ物資
 九 前各号ニ掲グルモノヲ除クノ外勅令ヲ以テ指定スル国家総動員上必要ナル物資

第三条 本法ニ於テ総動員業務トハ左ニ掲グルモノヲ謂フ
 一 総動員物資ノ生産、修理、配給、輸出、輸入又ハ保管ニ関スル業務
 二 国家総動員上必要ナル運輸又ハ通信ニ関スル業務
 三 国家総動員上必要ナル金融ニ関スル業務
 四 国家総動員上必要ナル衛生、家畜衛生又ハ救護ニ関スル業務
 五 国家総動員上必要ナル教育訓練ニ関スル業務
 六 国家総動員上必要ナル試験研究ニ関スル業務
 七 国家総動員上必要ナル情報又ハ啓発宣伝ニ関スル業務
 八 国家総動員上必要ナル警備ニ関スル業務
 九 前各号ニ掲グルモノヲ除クノ外勅令ヲ以テ指定スル国家総動員上必要ナル業務

第四条 政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝国臣民ヲ徴用シテ総動員業務ニ従事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズ

第五条 政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝国臣民及帝国法人其ノ他ノ団体ヲシテ国、地方公共団体又ハ政府ノ指定スル者ノ行フ総動員業務ニ付協力セシムルコトヲ得

第六条 政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ従業者ノ使用、雇入若ハ解雇、就職、従業若ハ退職又ハ賃金、給料其ノ他ノ従業条件ニ付必要ナル命令ヲ為スコトヲ得

第七条 政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ労働争議ノ予防若ハ解決ニ関シ必要ナル命令ヲ為シ又ハ作業所ノ閉鎖、作業若ハ労務ノ中止其ノ他ノ労働争議ニ関スル行為ノ制限若ハ禁止ヲ為スコトヲ得

第八条 政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ物資ノ生産、修理、配給、譲渡其ノ他ノ処分、使用、消費、所持及移動ニ関シ必要ナル命令ヲ為スコトヲ得


……以下、第五十条まで「国家総動員法」の条文は続く。

 昭和13年4月1日に公布、5月5日より施行の「国家総動員法」により、大日本帝國は、勅令のみで、つまり議会の同意を必要とすることなく、その国民を総力戦体制に組み込むことが可能となったわけである。

 行き着く先に、昭和220年6月21日に公布され、同23日より施行の、


戦時緊急措置法(昭和20年法律第38号)

第一条 大東亜戦争ニ際シ国家ノ危急ヲ克服スル為緊急ノ必要アルトキハ政府ハ他ノ法令ノ規定ニ拘ラズ左ノ各号ニ掲グル事項ニ関シ応機ノ措置ヲ講ズル為必要ナル命令ヲ発シ又ハ処分ヲ為スコトヲ得
 一 軍需生産ノ維持及増強
 二 食糧其ノ他生活必需物資ノ確保
 三 運輸通信ノ維持及増強
 四 防衛ノ強化及秩序ノ維持
 五 税制ノ適正化
 六 戦災ノ善後措置
 七 其ノ他戦力ノ集中発揮ニ必要ナル事項ニシテ勅令ヲ以テ指定スルモノ

の条文がある。


 この間に、昭和19年8月4日、小磯内閣は、

軍官民を問はず一億国民が真に一丸となつて戦闘配置につき,本格的戦争態勢を確立することにこそ現下の急務

との認識の下に、「一億国民総武装」を閣議決定している。


 国家による総力戦としての近代戦争に直面した大日本帝國自身の対応(閣議決定)として、「一億国民総武装」というフレーズが登場しているのである。
 「一億国民が真に一丸となって戦闘配置に」つくということはつまり、一億国民すべてが戦闘員となることを意味する。
 そこには既に、前線と銃後の境界が消滅している。
 無差別都市爆撃の論理も、同じ認識を出発点としているように見えるのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/28 20:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/39281/user_id/316274

 

 

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生き残るということの意味

 

 生き残ることについて考えてみたい。


 自分が生き残ることが、誰かの命と引き換えになってしまうような状況について。


 昨日、「東京大空襲・戦災資料センター」を再訪し、展示品を見ながら、あらためて考えさせられたことだ。

 実はこのところ、過去に録画したドキュメンタリー映像を見直していた。東京大空襲をはじめ、ヨーロッパの無差別爆撃の歴史や、爆撃機のエピソードといった映像である。

 焼夷弾による都市無差別爆撃がもたらす被害には想像を超えているところがある。
 火の勢いは、あまりに強く、1000度を超える熱さとなる。ガラスも融け、人間が燃える。熱風が生じ、嵐のように吹き荒れる。世界が燃える。燃焼により酸素が奪われ無傷のままに窒息死する。

 安全な場所は誰にもわからない。

 熱風は、人が逃げる速度を超えて吹き荒れ、火に追われてきたはずが、火に逃げ道を閉ざされる。
 避難者の列が火の壁となる。燃える人間が道を塞ぐ。


 必死で猛火の下を逃げまどい、結果として生き残っていたことに気付くのである。


 かろうじての安全地帯も収容人数は限られている。入れた者は助かるかも知れないが、すべての者が逃げ込むわけにはいかないのだ。入り口は閉ざされなければならない。入れた者達が生き残るためには。
 生き残った者は、翌朝には、逃げ込むことの叶わなかった者達のおびただしい無残な死体に出会う。
 自分が生き残るために、彼らの死があった。

 安全な防空壕に家族を残し、自分にはもう入る余地がないので炎の中を逃げ、翌朝、防空壕に戻ってみれば、全員が蒸し焼きになっていたという体験者もいる。
 家族の安全を確保し、危険に身を投じたはずの自分が生き残り、家族は炎の犠牲となっていた。結果として、守ろうとした家族を殺したのは自分である。

 安全な場所は誰にもわからない、とはそのような状況なのである。

 プールに逃げた者もいる。後から後から逃げ込む人をかき分け押し戻しながら自分の場所を確保しないと、深みに追いやられ溺死することになる。朝を迎え、溺死した者達の積み重なった死体の上に立っていたことに気付く。死体の中に自分の家族の姿を見つける。自分の家族を踏み台にすることによって生き残ったということになる。


 生きている自分、生き残っている自分について考えざるを得ない。他の者の死が、現在生きている自分を支えているのである。他の者の死と引き換えに、現在、生きている自分が存在するのである。
 他の者が家族であり、愛する者であるという体験を想像出来るだろうか。

 生き残ることが出来た喜びは、同時に愛する者を喪った悲しみであり、しかも愛する者の死に、自分が責任を負っているという感情に伴われるものとなる。


 自分が生きるためには、人を押しのけることを当然と考える者も確かにいるだろう、この世の中には。
 しかし、多くの人間にとって、自分が生き残ったことが、他者を死に追いやったことと引き換えに得られたものだという事実は、簡単には受け入れ難いものとなるだろう。もちろん、その状況に責任があるわけではない。しかし、引き換えとなって死んでいった者達への責任を感じることなく、その後の人生を生きることもまた難しいものとなるのである。


 東京大空襲、あるいは都市無差別爆撃の犠牲者だけの問題ではない。戦争が究極的に個人にもたらすのは、そのような状況なのである。
 中国残留孤児は、家族の犠牲となったのでもあるし、残留孤児となったために他の家族と共に死ぬことを免れていたかも知れないのである。残留させられることも、引き揚げることも、どちらも確実な生きる保障につながるものではなかったということだ。
 最前線の兵士にとっても、強制収容所の被収容者にとっても、生き残るということは、誰かの死と引き換えにもたらされるものとなるのである。


 都市無差別爆撃は、そのような状況を市民に強いるものとなった。

 昭和20年3月10日、2時間の空襲で、被災者100万人、死者10万人だ。夜明けとともに、自分が生き残ったことは理解出来た。しかし、やがてそれは10万人の死と引き換えの生存でもあることに気付かされることになる。
 一晩の空襲の結果、100万人もの市民が、そのような経験に巻き込まれたのだ。10人に一人の死者ということは、誰か遠くの知らない人間の死と引き換えに生き残ったのではなく、自分の命は親しい誰かの命と引き換えに得られたものだという経験として意味付けられることになるのである。

 近代的戦争、総力戦が市民にもたらしたのは、そのような経験であったのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/27 22:55 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/39175/user_id/316274

 

 

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2008年11月26日 (水)

東京大空襲・戦災資料センター 鈴木賢士写真展「東京大空襲の生き証人」 (続き)

 さて、画像でご紹介しているのが、会場の模様だ。
 

 
一番上が、スライド上映風景。
二番目が、鈴木賢士さんの会場案内風景。
三番めが、学芸員さんの解説風景。



 スライドの画像に映っているのは、豊村美恵子さんだ。
 豊村さんは、大空襲の日に、右腕を失った。
 その失ったことを強調したいがために、服を脱いで写真を撮らせた(それがスライドの画像)。

傷害を負った右手を見せてもらいました。ブラウスを脱いで義手をはずす作業が大変です。はずすよりもつけるほうが、時間がかかります。恐る恐る「撮ってもいいですか?」と聞きました。あっさり「いいわよ」という声に、こちらが戸惑うほどでした。これは単に豊村さんが70代後半という、年齢だけのこととは思えません。恥ずかしさなど乗り越えて、自分たちが味わった苦しみを、何とかして後世に伝えたいという熱意が伝わってきました。

と、鈴木さんはその間の事情を著書に記している。

 機銃掃射にあう一週間前に撮影された古い写真では、鈴木さんの右腕は、まるで右腕を撮ることを目的としていたかのように、強調されて写っている。
 右腕なしに、この62年、豊村さんは暮らしてきたのだ。
 その豊村さんと鈴木さんが並んで写っているのが、二番めの画像だ(豊村さんの右腕は義手である)。


 三番目の画像は、ちょうど学芸員さんが、焼夷弾の説明をしているところ。
 ベトナムで使われたナパーム弾。イラクで使用されたクラスター爆弾の構造も、東京大空襲当時の焼夷弾の現在形だ。
 焼夷弾による都市無差別爆撃を最初に実行したのは、中国大陸にいた大日本帝國の軍隊である。支那事変当時、重慶への攻撃に、日本の爆撃機は、焼夷弾を使用した都市無差別爆撃を実行していたのである。
 東京大空襲の軍事的起源は、実は、大日本帝国軍隊にあるのだ。
 これは記憶に留めておくべきことだ。



 ところで、先にも書いた通り、この「東京大空襲・戦災資料センター」は、民間の施設であり、公的施設ではない。
 現実には、公的施設としての、東京大空襲に関する資料館は存在しないのである。

 10万人という犠牲者が出たのが、東京大空襲だ。
 その犠牲者の正確な数さえ、実は、いまだに、確定されていないという。行政として、犠牲者数の確定を試みる努力は、いまだになされていないというのである。戦後62年過ぎるというのに、である。

 また、公的な東京大空襲犠牲者のための慰霊施設も存在しない。10万人という犠牲者数にもかかわらず、だ。

 そして、民間被災者への補償は何もされないまま62年が経過してしまったのである。
 政府によれば、軍人は、国家との雇用関係があるので「手厚い援護」の対象となるが、民間人は雇用関係になく、その被災を補償する責任はない、という理屈らしい。

 しかし、近代戦とは「総力戦」であった。前線も銃後もないのが近代の「総力戦」なのである。であるからこそ「国家総動員法」が制定され、銃後の民間人も国家の統制下に置かれていたのではないか、そう思わざるを得ない。
 植民地出身者が戦後補償からはずされたことは知られているが、「内地」の「帝都」の「国民」の被害に対する補償すら、「民間人」であったという理由で拒んできたのがこの国の現実だ。

 もう62年も過ぎるというのに、それが、この国の現実なのである。



 「戦後レジームからの脱却」どころか、いまだに戦後補償すら実行出来ていないのが、この、美しいはずの国の現実ということになる。


  (画像の使用を快諾いただいた、東京大空襲・戦災資料センターの関係者の皆様に、お礼申し上げます)





追記 : 階下に降りて、資料を購入し、トートバックに詰めようとしていたら、トートバックの中から、昨日購入したインゲンが出てきた。受付にいたご婦人から、「インゲンはその日に茹でなきゃダメじゃないの。お嬢ちゃん(娘に)今日の胡麻和えはかたいわよ」と言われてしまった我がパートナー、でありました。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/07/30 01:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/36873/user_id/316274

 

 

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東京大空襲・戦災資料センター 鈴木賢士写真展「東京大空襲の生き証人」

 

 

 「東京大空襲・戦災資料センター」は、台東区北砂1丁目にあった。

 「東京大空襲の生き証人 鈴木賢士写真展」のギャラリートークの日ということで、急遽、出かけることにした。家族全員出動である。


 チラシの地図もよく確認せず(提案者がやわらかああひるだったので、おまかせ)、錦糸町の駅で降り、タクシーに乗る。
 しかし、運転手さんも場所を知らない。チラシの地図を頼りになんとかたどり着く。ここの前はいつも通っていた、という運転手さん。確かに建物も新しいので、地元知名度もまだなのかも知れない。

 入館し、一服してから、二階でのギャラリートークが始まるまで三階の展示を観る。
 投下された焼夷弾の実物を始めとした62年前を伝える展示物をざっと観る。

 時間になったので、二階へ。今日は、ここの「友の会」の総会も兼ね、満員の会場だった。

 鈴木賢士さんの撮影による、東京大空襲の被災地の現状写真や、被災者の現在の姿を写したモノクロのスライドを、鈴木さんの解説と共に観る。
 続いて、(総会の行事なので)最近の集まりのビデオ上映があり、その後で、鈴木さんの案内で、会場めぐりをする。被写体となった方も会場にいらっしゃり、お話も伺う。

 次に三階の展示を、学芸員さんの案内で観る。今回、新たな展示物が加わったということで、その解説を中心に62年前に残された品々を観た。
 会場の参加者には、実際の体験者が多いので、所々で、学芸員さんに、その表現は足らないとか、そこはこうだとか、注文(?)も付く。しかし、それは、新たな歴史証言でもあり、体験者ならではのものだ。以前の青原さんの広島のドキュメント上映会場と同様だろう。事実はまだまだ眠っているということでもある。

 再び、総会の続きということなので、会員ではない私達は、そこでおいとまをする。
 その時に、この日記用に、撮影した画像の使用許可を願い、快諾をいただいた。ついでに、この「東京大空襲・戦災資料センター」のことを伺い、すべてが民間の志で出来上がったことを聞く。行政はノータッチ。資金のすべてはカンパであり、総会をしていたのは、その資金提供に応じた人々だったのだ。



 ここに集まった人々は、今年3月の「東京大空襲 謝罪及び損害賠償請求裁判」の関係者でもあった。

 会場で伺った話や、購入した資料を読み合わせてみると、「訴訟」は、もう30年以上の様々な活動の末の出来事だということが理解出来る。

 スライドでも紹介されていた清岡美知子さんのエピソードが、問題の所在を物語っている。
 
1965年8月15日。全国戦没者追悼式に招かれ、武道館へ母と出席。軍人遺族代表の「息子は戦死したが、手厚い援護を受けて、この国に生まれた幸福を感じている」との発言を聞いて、煮えくり返る思い、以後出席したくないと慰霊協会に連絡
 
というのが、その日記の一節である。
 「軍人遺族への手厚い援護と比較して、民間被災者には何の補償もないことへの怒りが、ひしひしと伝わります」と、鈴木さんはその著書でコメントしている。

 民間人としての戦災被害に対する補償はないのである、この国では。


 ところで、提訴時に、どこかのブログで、なぜアメリカを訴えずに日本政府を訴えるのかという疑問が書かれているのを読んだことがあった。
 資料として購入した「訴状」にはちゃんとその理由も書かれていた。

 「外交保護義務違反」行為を日本政府がしているからだ、というのがその理由であった。
 つまり、国際法(ハーグ陸戦条約第3条)上は、原告はアメリカ政府に対する請求権を持っている。
 しかし、1951年の「対日平和条約」第19条において、

 
日本国は、戦争から生じ、又は、戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びその国民に対する
日本国及びその国民のすべての請求権を放棄し…
  
…ているのである。原告は、アメリカ政府に対する請求権を、日本政府がアメリカ政府と結んだ条約により否定されていたのである。よって、訴訟の対象は、日本政府とならざるを得ない、わけだ。


            ― 続く―

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/07/29 23:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/36869/user_id/316274

 

 

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