カテゴリー「無差別爆撃の論理」の記事

2016年12月31日 (土)

フォードの爆撃機、あるいはロージーのリベレーター

 

 いわゆる「先の大戦」で日本は米国に戦いを挑み、そして敗れた(日本にとっては「大東亜戦争」、すなわちアジアでの戦争であったが、米国にとっては「第二次世界大戦」であり、アジアとヨーロッパの二正面での、まさに世界戦争であった)。ヨーロッパとアジアの二正面の戦争での米国の圧倒的な勝利を支えた米国の国力、その圧倒的な生産力については、これまでにも当時の映像を通して考えてきた。

 クライスラー社の広報用フィルム(『Assembly Lines Of Defense』)に記録されていたのは、(米国参戦前の)準戦時体制の下で、民間の自動車メーカーが大規模な戦車工場を設計し建造すると同時に戦車の設計を進行させ製造ラインを構築し、実際に製造ラインを稼働させることで戦車の大量生産を実現してしまう姿であった(「クライスラーの戦車」)。

 ボーイング社設計の新鋭四発重爆撃機B-29の生産を担当した航空機メーカーであるベル・エアクラフト社の広報用フィルム(『B-29s Over Dixie』)には、B-29生産のために新たに建設したマリエッタ工場での、人種、経歴、性別、年齢、障害の有無を問わずに団結して生産に集中する米国の総力戦状況、そして近代的な生産ラインの詳細に加え、工場の福利厚生の充実ぶりまでが記録されていた(「B-29 (物量としての米国の生産力)」)。

 

 

 

 今回は、コンソリ―デッド社の設計による四発重爆撃機B-24リベレーターの生産を請け負った自動車メーカー、フォード社の広報用フィルムを通して、四発重爆撃機の製造に際して自動車並みの大量生産を成し遂げてしまった米国の自動車メーカーの底力と、フォード社のウィローラン工場の生産力を支えた女性労働者の存在に焦点を当ててみたい。

 

 

 B-24の生産に際して、フォード社の果たした役割については、まず牧英雄氏の論考を読むことで、その驚異的生産力の概略を把握しておこう。

 

  各社が揃って生産に入ったB-24D系列(E/C型を含む)の機体を見ると、コ社(=コンソリ―デッド社:引用者註)のサンディエゴ工場が1942年1月、フォートワース工場が5月、ダグラスのタルサ工場が1942年8月、フォードのウィローラン工場が9月、最後に少し遅れて翌42(ママ)年4月にノースアメリカンのダラス工場が、それぞれ最初の機体を送り出している。
  このうち、注目すべきはフォード社であった。優秀な特定の機体を、直接航空機と関係のない企業を含むいくつかのメーカーで生産する体制は、当時アメリカで広く行われたことであるが、とくに威力を発揮したのが自動車メーカーで、その生産能力において航空機メーカーの比ではなかった。ジェネラル・モーターズなどは、各工場をイースタン部門として統合、ついには自ら開発を行なうまでになった。
  フォード社も、ミシガン州ウィローランに急遽工場を新設、製作図面を量産向けに書き直したうえ、生産設備も自動車並みに変更して大量生産に入った。
  当初は部品のみを月産100機分の予定であったが、計画を大幅に拡大、機体200機、部品150機分を月産、半ば以降はB-24生産の中心的存在となった。
  最高精密機械の航空機といえども、充分マスプロが可能なことを知らしめたのである。
  こうしたことから、最初XB-24の開発に$2.880.000、YB-24では$360.000もした価格は、1941年には平均$269.805、42年末には$137.000にまでなった。これはP-38(一人乗りの双発戦闘機である:引用者註)よりわずか1万ドル高いだけであった。 
  最大の生産がなされたB-24だが、やはり他の機体同様終戦によりPB4Y(海軍で使用されたタイプ:引用者註)と合わせ5.700機ほどがキャンセルされており、1945年5月31日に最後の機体(YB-24Nとされる)がウィローラン工場をロールアウト、10月にはプライバティア(海軍用の単尾翼タイプの機体:引用者註)の最終機も完成し、その生産は完全に幕を閉じた。
     (牧英雄 「B-24 技術的解剖と開発、各型」 『世界の傑作機No.24 B-24リベレーター』 文林堂 1995  12ページ)

 

 

 B-24の全生産機数は最終的に18000機を超える(B-24の主戦場となったのは北アフリカ及び地中海方面を含むヨーロッパ戦域だが、日本本土空襲の主力とはならなかったとはいえ、アジア太平洋戦域に展開する日本軍へはダメージを与えているのも事実である)のだが、その半数に近い8685機をフォード社が生産しているのである。B-24を開発した航空機メーカーであるコンソリーデッド社の二つの工場に加え、やはり航空機メーカーであるダグラス社とノースアメリカン社の生産機数の合計(これが航空機専業メーカの実績、ということだ)に匹敵する生産量を、自動車メーカーであるフォード社一社で達成しているのだ。

 ちなみに、日本は四発重爆撃機を開発・保有し得るだけの国力を持たなかったし、双発爆撃機の生産機数だけで比較しても日本の双発爆撃機(陸海軍機合計して)の全生産機数は9558機に過ぎず、それに対して米国は双発爆撃機5機種を保有するだけでなく、その中のB-25一機種だけで9793機と日本の全双発爆撃機生産数を凌駕していたのが、日米の生産力に関する事実である。

 四発重爆撃機であるB-24は、その双発のB-25の二倍近い生産機数であり、その半数、すなわち日本の全双発爆撃機の生産機数に匹敵する機数のB-24をフォード社一社で生産してしまっていたことになる。

 近代戦争における「物量」の問題については、圧倒的な(軍需品)生産力=供給量における絶対的優位を意味することはもちろんだが、牧氏の論考にあるように生産コストの視点も重要である。フォード社は流れ作業の導入による自動車の大量生産に成功し(=生産コストの低減)、高価であった自動車の低価格化を成し遂げ、自動車を大衆のものとした。その大量生産システムを航空機、それも軍事的に大量な供給が必要とされた重爆撃機に応用し、単に問題の量的側面を解決しただけでなく、国費の消尽としての戦争において、コストの大幅な削減にも成功していたということなのである。近代総力戦がマネジメント能力の戦争でもあったことを思い知らされるエピソードであろう(註:1)。

 

 

 そのフォード社が1943年に制作したのが、『Women on the Warpath』である。10分ほどの広報用フィルムだが、全編がカラーであるところにも、当時の日本と隔絶した米国の国力を見ることが出来るだろう(既に「昭和11年のシンデレラ(シボレーのシンデレラ)」でも示したように、自社のコマーシャルフィルムをカラーで制作してしまうのが米国の自動車メーカーの戦前以来の実力なのであった)。

 

 

Ford Willow Run Plant in World War II: "Women on the Warpath" 1943 Ford (B-24 Liberator Mfg)
     https://www.youtube.com/watch?v=Y0P6UiKPrlI 

 

 

 タイトルに『Women on the Warpath』(戦いに臨む女たち)とあるように、中心に描かれるのは女性たちの姿である。

 映像はウィローラン工場の紹介から始まるが、そこでは一時間当たり一機のB-24の生産が期待されていることが説明されると同時に、男性だけではそれが達成困難であることも語られる。加えて、既に陸海軍の婦人部隊(WAC及びWAVES)で活躍する女性たちの姿、そしてガソリンスタンドで働く女性の姿が示される一方で、まだウィンドーショッピングやゴルフに時間を費やす女性、そして家庭内で家事にいそしむ女性の姿が映し出される。彼女たちに向けて、軍需工場での労働への参加が呼びかけられるのである。

 続いて、その呼びかけに応えた女性たちの姿が映し出されるのであるが、彼女らの通勤の手段は既に自家用車なのである(それが当然のこととして描かれている)。

 洗濯物を干しながら上空のB-24を見上げていた主婦が、B-24を生産する工場の労働者となる。様々な工程が既に女性労働者によって置換されていることが示され、(その前提となる)充実した職業訓練・教育の模様が映し出される。そして当時のヒット曲『Rosie, The Riveter』(ロージー・ザ・リベッター、「リベット打ちのロージー」とでも訳すか?)のメロディーを背景に、まさにリベット打ちの作業に携わる女性労働者たちの姿が続く。

 キャンパスの女子学生も工場でのリベット打ちへと転身する(リベット打ち機の音は、文化的で民主的な生活を守る機関銃の発射音に擬せられる―リベット打ち機の連続音は『Rosie, The Riveter』の歌詞にも反映されている)。

 工場のすべての部品製造が女性労働に担われていることが強調され(プレキシガラスの成型シーンは『B-29s Over Dixie』にも登場していた―実際、見ていて面白い)、ブルーの作業服にバンダナ姿の女性労働者の姿は、ノーマン・ロックウェルの描くところの『Rosie, The Riveter』に重ねてイメージされる。

 工場の食堂や付属職業訓練校の図書室の映像は、ベル社のマリエッタ工場の福利厚生面での充実ぶりを思い出させる。

 製造ラインと組み立てラインは女性たちに支えられており、彼女たちは既に戦場の男たちの帰りを待つだけでの存在はないのだ。

 完成したオリーブドラブ塗装仕様のB-24Eは、工場に付設されたウィローラン飛行場へと移され、国民の希望と敵の恐怖の象徴として、自由な空を愛国的メロディーの合唱に伴われながら星条旗を背景に飛行し、盛り上がったところでエンドマークとなる。

 

 

 ただし『Wikipedia』(英語版)の「Willow Run」の項目等を読むと、ヘンリー・フォード自身は、当初は工場労働者としての女性の雇用には否定的であったし、工場の完成から本格的稼働(一時間に一機の生産達成)までには時間を要しているのが実情のようである(実際、ウィローラン工場については、当初はヘンリーの息子のエドセルがフォード社長としてB-24生産体制確立への指揮を執っていたが、1943年に胃癌で死去している―ウィローラン工場問題のストレスのためと言われている)。

 自家用車による通勤にしてもデトロイトからは一時間を要し、ガソリン供給に制限のあった時期の労働者にとっては決して利便な勤務地ではなく、しかも工場近郊での住宅供給は遅れ、労働者の定着率の低さに悩まされていたのが工場稼働の初期段階(労働者のストライキさえあったという)の現実でもあったらしい。

 しかし、最終的には一時間に一機のペースでの製造には成功し、最盛期には月産650機を記録するところまで到達している。

 

 いずれにせよ、ヘンリー・フォードが工場労働者としての女性の雇用に否定的であろうが、多くの男性が兵士として前線へと送られる状況の中では女性の積極的雇用にしか選択の余地はない。それが「近代総力戦」の現実であった。そして、実際に多くの女性が、それまで「男の仕事」とされていた職務を男性に遜色なくこなしたのであった。

 

 

 

 せっかくの機会なので、あらためて『Rosie, The Riveter』がどんな曲であるのかを確かめておこう。

 

 

Rosie, The Riveter ~ Allen Miller & His Orchestra (1943)
     https://www.youtube.com/watch?v=XJxe3vQRMuY

 

 レッド・エヴァンスとジョン・ジャコブ・ローブによる1942年の曲で、様々なレコーディングが残されているらしい。

 

 歌詞は、

 All the day long, whether
 rain or shine
 She's a part of the
 assembly line
 She's making history,
 working for victory--
 Rosie, brrrrrr, the riveter.

 Keeps a sharp lookout
 for sabotage
 Sitting up there on
 the fuselage.
 That little frail can do more
 than a male can do--
 Rosie, brrrrrr, the riveter.

 Rosie's got a
 boyfriend, Charlie.

 Charlie, he's a
 Marine.

 Rosie is protecting
 Charlie, workin'
 overtime on the
 riveting machine.

 When they gave her
 a production "E,"
 she was as proud
 as a girl could be!

 There's something
 true about--red,
 white, and blue
 about--Rosie,
 brrrr, the riveter.

 

 リフレインされる「Rosie, brrrrrr, the riveter.」、この「brrrrrr」の部分がリベット打ち機の作動音(擬音)として非常に効果的に用いられているのが録音を通して伝わるだろう。「Rosie is protecting Charlie, workin' overtime on the riveting machine.」とはつまり、戦場の恋人チャーリーを守るのが、雨にも負けず風にも負けずに一日中(All the day long, whether rain or shine)工場で生産に励むロージーのリベッティングマシーンだというレトリックである(戦場の男は、工場の女に守られる存在だ!というのである)。

 

 

 図像的には、1942年にJ・ハワード・ミラーによってウェスティングハウス社のためにデザインされたポスター(ミラーがウェスティングハウス社のためのポスターシリーズのデザイン契約をしたのが1942年で、当該のポスターは1943年2月にウェスティングハウスの工場内に掲示されたものである:2017/01/26追記)と、1943年に「サタデー・イブニング・ポスト」誌の表紙としてノーマン・ロックウェルが描いたものが、リベット打ち(リベット工)ロージーの視覚的イメージを代表するものとなっている(註:2)。

 動画で歌の背景に用いられている当時の女性労働者の画像も興味深いし、『Women on the Warpath』に実際に登場するブルーの作業服にバンダナの女性の被写体としての選択にも、ミラーやロックウェルのイメージが反映されているように感じられる。

 

 

 "We Can Do It!" by J. Howard Miller
 (https://en.wikipedia.org/wiki/Rosie_the_Riveter#/media/File:We_Can_Do_It!.jpg

 

 Norman Rockwell's Saturday Evening Post cover
 https://en.wikipedia.org/wiki/Rosie_the_Riveter#/media/File:RosieTheRiveter.jpg 

 

 

 ミラーとロックウェルは、若い女性の姿としてロージーを描いているように見えるが、先の『Women on the Warpath』では家庭内の主婦(ミセス)もまたロージーとなり得ることが示唆されている(むしろ主婦に対し、家庭内から外へ出て働くことが積極的に推奨されている)。

 夫は戦場にあり、(夫に対しての)家事労働の必要は減少していたにせよ、主婦の守るべき家庭には子どもという存在がある。育児の問題を解決せずして、子育ての渦中にある女性の工場労働者としての身分は不安定なままである。保育所の確保は、当時の米国女性(そして行政)にとっても課題であったが、保育への公的支援の枠組みが一般的なものとして構築される前に戦争は終わってしまった(たとえば松本園子「第二次世界大戦期アメリカ合衆国における保育問題」2005 が参考になる→ http://ci.nii.ac.jp/naid/110004475970)。公的な保育所の整備の必要は女性労働者の確保(要するに「戦時動員」である)の上でも切実なものであったが、社会が戦時から平和へと移行するに伴い、行政上の関心は失われてしまったのである(註:3)。

 戦時の産物が戦後に一般的になったものとして、インスタント食品の普及が指摘されるが、女性が外で働く上で、インスタント食品の果たした役割も無視し得ない(柏木博 『家事の政治学』 青土社 1995)。インスタント食品は軍の糧食としても役立ったが、家庭の外で働くことを選んだ女性たちの支えにもなったのである。

 

 

 

 最後に再びフォード社の広報用フィルムを見ておこう。『STORY OF WILLOW RUN』は、戦前のまだ田園地帯であったウィローラン地域の映像から始まる。

 そこにフォード社は、世界最大規模の爆撃機生産工場を建設し、工場のための飛行場まで自身の手で開設してしまうのである。

 

 

" STORY OF WILLOW RUN "
Save the Willow Run Bomber Plant landmark - Amazing Local History in WW II effort

     https://www.youtube.com/watch?v=77_6MExOp8g&t=22s  

 

 

 映像はヤンキー航空博物館(Yankee Air Museum)の提供によるもの(ただしモノクロの不鮮明な映像なのが残念)のようだが、この航空博物館こそは、かつてのウィローランの記憶を伝えるために、現在のウィローランで設立・運営されているものなのである。

 戦前、1930年代のウィローランは、ヘンリー・フォードの農場であった。フォードは青年教育の場として農場を位置付け、都市部の青少年の体験の場としたのである(都会っ子が田園生活と農場労働を体験し、自立心を涵養し、やがては良き労働者となる)。

 1930年代にはナチスが台頭し、1939年にはヨーロッパでの戦争が現実化する。米国でも、四発重爆撃機の開発・配備が課題として意識されるようになる。B-24も、その中でコンソリ―デッド社によって生み出された機体である。そして牧英雄氏の論考にあるように、「優秀な特定の機体を、直接航空機と関係のない企業を含むいくつかのメーカーで生産する体制は、当時アメリカで広く行われたことであるが、とくに威力を発揮したのが自動車メーカーで、その生産能力において航空機メーカーの比ではなかった」という状況の下で、ウィローランのフォード農場は、四発重爆撃機製造工場と付設飛行場として再出発することになる。

 映像で強調されるのは、大量生産を得意とする自動車メーカーによる、一時間に一機という生産ペースへの期待と達成である(航空機専業メーカーでは一日に一機がやっとなのが実情であった)。

 まずは大規模プラントの建設である。設計を担当したのは、クライスラー社の戦車工場(デトロイト工廠)の設計者でもあったアルバート・カーンであった(1942年に死去したカーンの最後の作品と言われる)。

 併設された飛行場へ着陸するB-24の姿に続くのは、広い駐機場にずらりと並ぶ重爆撃機の威容であり、そこに見出されるのは米国の国力であり、フォードの生産力である。

 このフィルムにも自家用車で通勤する労働者の姿が記録され、続いて行き届いた職業教育訓練の模様が映し出される。

 部品の製造から組み立て完成まで、そのすべてが工場内で果たされる。大規模な、そして精密な工作機械が製品―すなわち四発重爆撃機―の完成度を保証するのだ(精度の確保は工業生産品としての互換性の確保を意味する)。大量の訓練された労働者が、その生産を可能にする(トヨタ的には、労働者の動きは緩慢に見えるだろうが)。映像の9分付近ではリベット製造工程が記録されているのも興味深い。

 やがて生産現場での女性労働者の存在が明確に描かれるが、そのすべてが白人であるところが、ベル社のマリエッタ工場の記録フィルムとは大きく異なる点ではある。

 そして自動車メーカーとしての大量生産の経験と爆撃機製造ラインでの高い生産能力の連続性が語られる。組み立てラインでは、機体はまず6区画に分割製造され、それが一体化される。

 技術を要求される溶接工もリベット打ちも女性がこなし、ここでもプレキシガラスの成型シーンが登場する(効率的ではあるが手作業に依存していることもわかる―つまり訓練が必要な労働ということでもある)。

 組み立て工程でも自動車大量生産の経験が反映されていることが繰り返し強調される。

 外翼部と中央部の接合に際して活躍するのは、小人の男性である(差別の対象ともなる身体特徴が利点となる)。この映像には、正直なところ驚かされた。

 最終的に分割製造された機体を組み上げる工程が描かれるわけだが、その背景となっている工場の規模の巨大さ(組み上げのために機体各区画の効率的移動を保証するのは工場の天井高の余裕である)にも気付いておきたい。

 工場建屋内に列をなす完成されたB-24を背景にナレーションが誇らしげに語るのは、ウィローラン工場開設の1941年当時には不可能と見做されていた毎時一機の重爆撃機生産を、実際に達成してしまったフォード社の「ミラクル」な能力である。

 完成したB-24は工場内から飛行場へと移され、作動テストが始められる。機銃の試射が行なわれ、模擬爆弾が搭載された爆撃機にはクルーが乗り組み、飛行試験が行われ、模擬爆弾の投下も含め様々な機器がチェックされる。

 無塗装のB-24が、まさに銀翼を輝かせ飛行する姿は印象的である(註:4)。

 

 

 

 フォード社の桁違いな航空機生産能力を見せつける(ための?)フィルムだと思うが、もちろん、フォード社の本業は自動車の大量生産であり、フォード社は大量の車両も供給している。戦時期を代表する軍用車両であるジープについてだけ見ても、総数64万台のうちフォード社は27万8千台近くを生産・供給しているのである(残りの36万台はウィリス社が生産)。米国の二正面での戦争の勝利は、このような民間企業の生産力に支えられていたことを、この機会に再確認しておきたい。

 

 

 

【註:1】
 戦時期に陸軍の統計管理局でそのマネジメント能力を発揮したハーバード・ビジネススクール出身者の一人であるロバート・マクナマラは、戦後にフォード社の一員となり、最終的にはフォード社の社長の地位を得る。更にケネディー政権の国防長官に就任するが、マクナマラを中心とした「ベスト・アンド・ブライテスト」は、そのマネジメント能力をフルに発揮することによって、米国をベトナム戦争の泥沼へと導くこととなった。

【註:2】
 ロックウェルのロージーは当時を代表する雑誌の表紙絵として、確かに戦時期米国の女性労働者のイメージ形成に影響力を持ったであろうが、ミラーのポスターはウェスティングハウスの社内用で当時から知名度が高かったわけではないし、そもそもリベット工の女性を描いたものではなかった(1980年代のフェミニズム運動の中で図像が「再発見」され、現在では非常に影響力ある視覚イメージとして流通しているが)。

 現在ではモデルも特定されている。
  J・ハワード・ミラーの「We Can Do It!」のモデルのナオミ・パーカー
   → http://www.naomiparkerfraley.com/we_can__do_it1pose.jpg
    (→ http://www.naomiparkerfraley.com/
  ノーマン・ロックウェルの「Rosie, The Riveter」のモデルのマリー・ドイル
   → http://www.trbimg.com/img-55381803/turbine/os-mary-doyle-keefe-20150422
    (→ http://www.huffingtonpost.com/2015/04/23/rosie-the-riveter-dead_n_7126782.html
  米国の国民的アイコンとして、様々なパロディーの供給源ともなっている。
   → http://www.shoptv.com/imgcache/product/resized/000/981/134/catl/donald-trump-rosie-the-riveter-2016-build-a-wall-t-shirt-945_1500.jpg?k=32094d60&pid=981134&s=catl&sn=shoptv

【註:3】
 『MANPOWER』と題された1943年の米国政府の公式フィルム(戦争情報局制作)には、保育の問題も取り上げられている(https://www.youtube.com/watch?v=eKrHfTGWxQ4)。このフィルムでは、恐慌以来の失業者、(これまで多くの職業から閉め出されていた)有色人種、女性、そして障害者が戦時下での新たな労働者として取り扱われており、それはまさにB-29の生産を担当した航空機メーカーであるベル・エアクラフト社の広報用フィルム、『B-29s Over Dixie』に登場する人々と共通する。
 松本園子氏の論文にも、戦時期になって保育所の入所申込用紙の「申込み理由」欄に「共働き(both working)」の項目が新設されたことが記されているが、フィルム中でも軍需産業での「共働き」と「保育の保障」の密接な関係が描かれている(しかも性別による区別のない同一労働同一賃金の原則が強調されている点も見逃せない)。戦時動員のプロパガンダの主体としての戦争情報局(Office of War Information)の認識が反映されてのこと―保育施設設置は「ランハム法」に基づき連邦職業庁(Federal Works Agency)が管轄した―であろうが、連邦社会保障庁(Federal Security Agency)児童局が保育所拡充に消極的であったこと(一枚岩の体制とはなっていなかったこと)も松本氏の論文には記されている。保育所の問題については、連邦としての(つまり「国策」としての)一枚岩の戦時体制が構築される前に戦争は終結したということのようである。

【註:4】
 『Women on the Warpath』の時点、すなわち1943年の生産機種であるB-24Eはオリーブドラブに塗られていたが、『STORY OF WILLOW RUN』に登場するのは無塗装の機体である。
 無塗装が採用されたのはB-24H-10-FO以降だとされるが、機体の形状からはB-24J及びMとの判別は難しい。
 『Women on the Warpath』に登場するB-24Eには1942年5月から1943年6月まで用いられた国籍マークが記され、『STORY OF WILLOW RUN』に登場する機体に記されているのは1943年9月以降に用いられたものだと思われる(http://www.bowersflybaby.com/stories/army_paint.html)。
 ちなみに、『Women on the Warpath』については1943年のフィルムとされているが、『STORY OF WILLOW RUN』については明確ではない。
 この『STORY OF WILLOW RUN』のナレーションでは、フォード社の総生産機数を「8685」と明言しており、(撮影時期はともかくとして)生産の終了した1945年6月以降の編集である可能性はある。一方でこれからも繰り返し出撃することが語られていることからすれば、戦争終結以前に編集されたフィルムであることも言えそうである。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2016/12/31 11:39 → http://www.freeml.com/bl/316274/292629/

 

 

 

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2016年10月25日 (火)

B-29 (物量としての米国の生産力)

 

 以前に「クライスラーの戦車」と題して、米国の準戦時体制下で、民間の自動車メーカー(クライスラー社)が短期間で、戦車の設計から大量生産にまでを達成してしまうまでの記録フィルム(クライスラー社の広報用である)を紹介した。そこには、詳細な設計の進行と同時に、戦車生産のために新たな工場を建設してしまう米国の自動車メーカーの底力が記録されていた。

 

 

 

 今回は、日本国民にとって、あの「先の大戦(大東亜戦争)」における米国の圧倒的な軍事力の象徴とも位置付けられる四発重爆撃機、あの憎っくきB-29の生産工場をめぐる記録フィルムを紹介しておきたい。

 

 

 

 まず、陸軍省による『Birth Of The B-29 』である。

 

Birth Of The B-29 (1945)
     https://www.youtube.com/watch?v=L5Ny77UgplU

 

 

 動画サイトのデータ(米国版のウィキペディア記事からの引用だが)によれば、1945年制作であるらしい。ただし、内容からして、日本降伏以前のものと思われる。

 フィルムの冒頭では、当時の日本が、オリエンタリズム的視点に戦時プロパガンダを重ねたような切り口で紹介される。そこでは、日本が欧米の「コピー」による近代化を成し遂げたことが語られ、英語圏諸国向けの工業製品に刻印された「Made in JAPAN」の文字が強調されると同時に、その輸出品の収益が軍事力強化に用いられ、中国大陸での軍事的進出の基盤となっていることが主張される。

 その日本による対米開戦後の米国による日本本土初空襲の際の映像に重ねて、それが「Made in America」によるものであることが強調される流れとなり、続いて日本本土攻撃の最新鋭兵器としてのB-29の工場に焦点が合わされ、米国の高い技術力と生産力の実情が視覚的に明らかにされる。

 そこで描かれるのは、工場の圧倒的な巨大さ(建屋内に、あの「重」爆撃機B-29が並んでいるのだ!)や、最新鋭の生産設備の充実ぶりと同時に、生産にあたる工場労働者の姿である。強調されるのは、肌の色の違い、経歴の違い、性別の違い、年齢の違いを超えて(それどころか障害を持つ人までもが)一丸となって生産に励む姿である。すなわち米国にとっての「総力戦」の内実である。「人種」の区別なく(その待遇に区別がなかったかどうかは疑わしいが)、男も女も、老いも若きも、障害の有無を問うことなく、団結して生産に励む姿が、陸軍省による戦時プロパガンダフィルムに記録されているのである。

 フィルムの最後の方では、そんな労働者たちの上をフライトするB-29の姿(オリーブ・ドラブの塗装が施された最初期の機体である―本格的に生産される頃には、あの銀色に輝く無塗装が標準化された)が印象的な爆音と共に映し出され、中国大陸での中国人労働者の人海戦術による飛行場建設の模様と、そこから離陸するB-29の姿でエンド・マークとなる。

 

 

 

 この陸軍省による戦時プロパガンダフィルムにも登場するベル航空機のB‐29生産ラインの詳細と周辺状況が、ベル社自身の広報用フィルムにも描かれている。

 

B-29s Over Dixie: Building the Superfortress - 1944
     https://www.youtube.com/watch?v=ybGGmjm9JZ4

 

 

 B‐29は、ボーイング社の設計になる米国の四発重爆撃機だが、その生産はボーイング社(シアトル工場、ウィチタ工場、レントン工場)だけではなく、ベル社のマリエッタ工場、マーチン社のオマハ工場でも行われており、そのマリエッタのベル社工場にまつわる記録フィルムである。

 こちらも、陸軍省版と同様に、人種、経歴、性別、年齢、障害の有無を問わずに団結して生産に集中する米国の総力戦状況、そして近代的な生産ラインの詳細が記録されているが、興味深いのは工場の福利厚生の充実ぶりまでが記録されている点である。

 充実した工場内食堂(現代からすればかなりカロリーが高そうなメニューだが―戦時下の大日本帝國臣民には夢物語である)の光景だけでなく、労働者用の運動施設、娯楽施設、電化されたキッチンまで備えた工員用住宅…とその福利厚生面での充実ぶりにはうならざるを得ない。しかも、労働者が自家用車で通勤する様子までが(当たり前のように)記録されているのである。

 米国の圧倒的な国力が、最新設備を備えた巨大な生産ラインからだけではなく、福利厚生面での労働者の待遇を通して実感されるはずである。

 ピープル・オブ・デモクラシーによるパワフル・ウェポン・オブ・デモクラシー(どちらもフィルムのナレーションにある表現)の生産ラインとその周辺状況の記録が、民間企業の広報用フィルムとして残されたわけである。

 

 

 この二本は、既に戦時下となった米国の爆撃機生産ラインの記録であるが、対比のために、参戦前(日本による対米開戦以前)の爆撃機生産ラインを記録したフィルムを紹介しておこう。

 

Building a Bomber: The Martin B-26 Marauder 1945
     https://www.youtube.com/watch?v=vnb0Ib5F9GU

 

 

 こちらは米国の「Office for Emergency Management」(「非常時緊急対策局」などと訳されるらしいが、「アメリカ合衆国大統領行政府」の所属機関である)制作による、双発爆撃機B-26の生産ラインの記録である。動画サイトの表題には「1945」とあるが、内容からして米国の参戦前に撮影・編集されたものと推測される。

 冒頭のキャプションやナレーションで強調されるのは、国家の防衛、そしてデモクラシーの擁護の重要性である。全体を通しても、戦時下であれば強調されるはずの爆撃機としての攻撃力への言及は控えめであり、プロパガンダ要素はあっても、具体的な敵への言及はない(ヨーロッパがヒトラー支配下にあることは指摘されてはいるが)。また、飛行シーンに登場する機体の国籍マークも1942年5月までしか使用されていないものであり、撮影時期は当然それ以前でなければならない。

 工場内の情景を見ても、労働者は男性のみであり、しかも若い男性工員の姿が目立つ。ここに参戦後の総力戦状況での工場(先に紹介したB-29の工場の労働者の構成)との著しい相異が見出されるように思う。このフィルムを先の二本の記録フィルムと対比することで、参戦前(ほぼ白人男性のみで、しかも多くの青年労働者を含む―つまり、まだ大量の兵士となるべき若い男性が必要とされていない状況)と参戦後(人種や性別や年齢を問わない)の労働事情の変化が、まさに「目の当たり、あるいは一目瞭然」的に理解されるだろう。そして、視覚的記録の重要性、ということも。

 

 

 

 最後に紹介するのは英国の総力戦状況が伝わる記録フィルムである。

 

Why We Fight: The Battle of Britain (Frank Capra)
     https://www.youtube.com/watch?v=cSZnFo7JORo

 

 

 米国陸軍省による「Why We Fight」と題されたシリーズの一本である。このシリーズは、当時の米国を代表する映画監督が参加しているところに特質があり、このフィルム『Why We Fight: The Battle of Britain 』の監督は、いわばアメリカン・デモクラシーの伝道者とでもいうべき、あのフランク・キャプラである。

 キャプラにより、1940年の英国の状況(まだ米国の参戦前であり、ナチスによる占領をかろうじて免れたものの、ヨーロッパで孤立した戦争を強いられていた時期)、英国がナチス・ドイツによる対英侵攻作戦の撃退に成功するまでの状況に焦点を合わせたドキュメンタリー映像である。

 これを特にここで紹介しようと思ったのには理由がある。このフィルムの7分台から9分台にかけての部分に、英国の総力戦状況が記録されているからである。ここでも、あらゆる年齢層・経歴の男達が軍事訓練に参加し、英国の防衛を志す姿に加え、軍服に身を包み様々な軍務をも担当する女性の姿が描かれるだけではなく、生産ラインでの性別を問わず年齢を問わない工場労働の情景が記録されているのである。

 特に興味深く感じたのは、当初は労働時間の延長による生産の達成が、当然のこととして実行されていたのに対し(最終的には週70時間労働までになったというが、それが現代日本の「ブラック企業」並みなところが何ともな話ではある)、その後の経験により、生産性の観点から政府の政策として長時間労働が否定されるようになったとのエピソードである。「滅私奉公」の「長時間労働」だけにしか活路を見い出せなかった(出そうとしかしなかった)戦時日本との断絶は大きい。英国人は、滅私奉公の長時間労働が生産性向上につながらず、むしろ阻害要因となることを理解し、そこに活路を求めようとはしなかった、ということなのである。

 

 

 

 米国の「物量」、そして総力戦状況の実際(中でも民間企業の福利厚生面でのあまりの充実ぶり!)。参戦前と参戦後の相異。英国の総力戦状況下での長時間労働の否定。

 記録フィルムを通して、「目の当り」にすることが可能になるというお話。

 

 

 

《背景》
 タイトルを「物量としての米国の生産力」としておきながら、本文では、その数量的側面に触れぬままになってしまったので、大内健二氏の『ドイツ本土戦略爆撃』にある「第二次大戦中の各国機種別爆撃機生産量」と題された表から、日米の爆撃機生産量の隔絶ぶりを確認しておきたい。

第二次大戦中の各国機種別爆撃機生産量(単位・機)

アメリカ
四発重爆撃機
ボーイングB17
     12677
コンソリーデッドB24
     18181
ボーイングB29
      3970
コンヴェアB32
       115
双発爆撃機
ノースアメリカンB25
      9793
マーチンB26
      5157
ダグラスA20
      7478
ダグラスA26
      1909
マーチンA30
      1575
 合計  60855

日本
双発軽爆撃機
九九式双発軽爆撃機
      1977
双発爆撃機
九七式重爆撃機
       713
百式重爆撃機「呑龍」
       796
四式重爆撃機「飛龍」
       606
九六式陸上攻撃機
      1048
一式陸上攻撃機
      2416
陸上爆撃機「銀河」
      1002
 合計   9558
大内健二 『ドイツ本土戦略爆撃』 光人社NF文庫 2006 331ページ 第15表より抜粋

 まず日本は四発重爆撃機を保有していなかった。その上で双発爆撃機の生産機数だけで比較しても、日本の双発爆撃機(陸海軍機合計して)の全生産機数は9558機。
 それに対して米国は双発爆撃機5機種を保有するだけでなく、その中のB25だけで9793機と日本の全生産機数を凌駕しているのである。
 B29は3970機と少ないように感じられるかも知れないが、それは単にその時点で戦争が終結してしまったからに過ぎない。それ以上生産する必要がなくなった、ということなのである。
 生産機数12677のB17は日本本土爆撃には用いられていないし、18181のB24も同様である(太平洋戦域での作戦活動はしているが)。
 必要であれば、つまり日本の降伏が遅れれば、より多数のB29が生産され、本土爆撃に用いられた。そう考えればわかりやすいだろう。
 もっとも、ポツダム宣言の時点で、既に日本国内の主要都市は焼け野原となっていたのも事実であり、米国が、より以上のB29を必要と考えたかどうかはわからないが、既にヨーロッパでの戦争に勝利していた米国にとって、ヨーロッパ戦域での主要重爆撃機であったB17とB24の追加生産を必要としなくなった米国にとって、生産能力には十二分な余力があったことも確かなのである。
 上の表にある生産機数に各爆撃機の爆弾搭載能力を加味すると、投下爆弾量の日米差は絶対的なものとなるだろう。

 ちなみに、英国の爆撃機生産機数の合計は36608機である。
 しかも、そのうちの四発重爆撃機だけで、

ショート・スターリング
      2371
ハンドレページ・ハリファックス
      6176
アブロ・ランカスター
      7336

 合計で15883機である。
 この圧倒的な爆弾搭載能力を備えた一万五千を超える重爆撃機群が、ドイツ本土爆撃に用いられたのである。もちろん、それに加えて米軍の四発重爆撃機も、ドイツ本土爆撃作戦を遂行していたのであり、それを考えれば、ドイツ人の空襲体験はどれだけ過酷なものであったか。
 そのドイツの降伏は、アメリカに生産余力をもたらしたのである。

 その生産余力を支えた爆撃機工場労働者が、自宅では既に電化された近代的キッチンで料理をし、自家用車で通勤していた。米国の圧倒的国力、日本との国力差、かみしめておくべきであろう。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2016/10/25 17:18 → http://www.freeml.com/bl/316274/288048/

 

 

 

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2015年12月30日 (水)

何度目かの東京大空襲・戦災資料センター

 

 戦争体験の聞き書き作業を続けているグループからのお誘いに乗って、娘を伴い、久しぶりに東京大空襲・戦災資料センターを訪れた(初めて訪れた際―2007年―には「東京大空襲・戦災資料センター 鈴木賢士写真展「東京大空襲の生き証人」」及び「東京大空襲・戦災資料センター 鈴木賢士写真展「東京大空襲の生き証人」 (続き)」を書いたが、当時は小学生だった娘も現在では大学卒業目前である―もっとも、その後も共に何度か訪問しており、今回が8年ぶりというわけではない)。

 これまでは錦糸町駅からタクシーかバス(ただしバス停からセンターまで、徒歩で10分以上かかってしまう)利用が主であったが、今回は秋葉原からのバスであった。こちらは乗っている時間は長いが、目的地のセンターに近い場所に停留所があるので、高齢者が多いグループには有利であった。

 

 

 

 今回は十数人のグループでの訪問企画ということで(これまでの前触れなしでの個人的な訪問の際とは異なり)、センターの女性(実際の大空襲を7歳で体験したお一人でもある)によるレクチャー的な時間も用意され、1978年NHK製作のドキュメンタリー(ただしダイジェスト版であったが)の上映なども交えて、歴史的事実としての昭和20年3月10日の「東京大空襲」の基本知識を復習することから見学が始まった。

 更にもうお一方から、ご自身の3月10日の体験の詳細を伺うことで、「大空襲」を単なる歴史知識としてではなく、町場の一人一人の人間の身に降りかかった災厄(それも大災厄である)として理解する機会となったように思う。個人の体験に耳を傾けることを通して、70年前の「大空襲」が、他人事としての(知識としての)歴史的事実の問題から、当事者の味わった苦難(身体全体で経験された苦難)へと変容して、私にも(頭の中の知識に加え身体の感覚としても)伝わるのである。

 

 今回は、12歳で「大空襲」を体験された女性による、空襲前夜から翌朝、そして家族との再会と親戚の住む阿佐ヶ谷までの避難の道のりの詳細を伺う流れとなった。避難した両国高校での家族全員の無事が確認されるまでの不安な時間があり、焼き尽くされ廃墟となった街を電車の通じている区域まで遺体と化した人々の上を歩き通し、どうにか阿佐ヶ谷の親戚の家に着くまでの実に長い一日なのであった。焼夷弾の中を生き抜き、時間の経過と共に家族の一人一人の無事が確認され、最後に全員の無事が確かめられた際には、お話を伺う側としての私たちも他人事としてではない喜びを感じたように思う。

 普段から「戦争体験」に耳を傾けることを心がける中で、家族を失う悲しみ、家族に限らず親密な人を失うことの悲しみを通して、戦争の悲惨であることを実感させられる機会は多いし、(家族や親友が無残に殺された一方で)自分だけが生き残ってしまったことを率直に喜べない心情に接する経験もするが(たとえば「生き残るということの意味」参照)、今回は、当人自身が無事(ひどい火傷は負ってしまっているが)であっただけではなく、家族全員の無事が確かめられていく過程が当人の口から伝えられる中で、「大空襲」をくぐり抜けてもなお生きてあることの喜びが、話を伺う側にも深く実感されたのであった。同時に、この「喜び」との対比の中に、「戦争の悲惨」があらためて強く感じられもしたのである。

 

 せっかくの機会なので、レクチャー的な時間を受け持った方から伺った話の中で印象に残ったことも記しておきたい。

 戦災資料センターの見学者として様々な経歴・職業を持った人物が訪れるのだと思われるが、そして様々な視点で見学の時間を過ごしていくのだろうが、ある医療関係者のグループの視点が私の想像力の及ばぬ、しかし焦土と化した光景の過酷な現実の一面を明らかにするものであった。

 「焦土と化した街」の光景は写真として記録もされており、そこには黒焦げとなった累々たる死者の姿も残されている。その遺体の状況について医師の経験に基づく判断によれば、確かに黒焦げではあっても(つまり、皮膚や筋肉は焼け焦げていても)内臓にまでは及んでいない(内臓まで焼けていなければ「火葬」に付した状態とはならず、焼け残ってしまった内臓は腐敗するのである)。だからこそ、空襲直後の早急な仮埋葬措置も必要となる、ということなのだ。

 「焦土と化した街」について考えようとすると、(個人的な話だが)近所で放火のために数棟が焼失した事件があった際に、一週間を過ぎても焼跡周辺からは焦げた臭いが消えなかったことを思い出す。それ以来、「大空襲」後の焼跡もまた濃密な「焦げ臭さ」に覆われていたのではないかと想像してきたが、仮埋葬が間に合わない遺体の内部で腐敗し始める内臓の存在にまでは考えが及ばなかった。

 写真に残されるのは視覚的情景だけだが、実際には辺りに立ちこめる臭いも含めての(五感すべてが動員されての)「焼跡」なのである。嗅覚的情景は写真からは(前述の医師のような場合を除いて)伝わらないし、通常は体験者から語られることもない(今回の訪問は、少なくとも私には、そんなことを再確認させられる機会ともなった―「註:1」と「註:2」として、清沢洌の日記と山田風太郎の日記から、体感としての「焼跡」が描かれた下りを引用しておいたので参考にしていただきたい)。

 

 最後にもう一点、今回の訪問で気付いたことを記しておきたい(これまで訪れた際には気付けなかったことである)。

 展示品には、大空襲後に発行された「罹災証明書」が多く含まれている。その「証明書」が多様なのである。文言は(公的な証明書として)ほぼ定型文なのだが、定型の文言が活字で印刷され必要箇所(住所氏名罹災日時等)が手書きのもの、定型の文言がガリ版刷りのもの、定型の文言すら手書きのものの三類型があるのだ。罹災証明書を発行する行政の窓口も空襲で焼けてしまえば、窓口に用意されていた証明書用紙類もすべて焼けてしまうわけで、証明書は手書き以外に発行する手段がないのである。すべてが焼けた中で、全文手書きでも罹災証明を発行し続けた人物(当人だって罹災者の一人であるはずだ)の姿を、展示された「罹災証明書」のバリエーションを通して見る思いがしたのである(こちらも「註:1」と「註:2」として抜き書きした清沢洌と山田風太郎の日記に、関連した記述がある―特に山田風太郎の日記には、「罹災証明書」を発行する町会の事務所の被災状況が記録されている)。

 

 

 

【註:1】 東京大空襲罹災者の姿 (清沢洌 『暗黒日記』より)

  三月十日(土)
  …
  朝、国民学術協会に出席のため都心に出る。電車は品川しか行かないというのが、浜松町まで行けた。蒲田駅で、眼を真っ赤にし、どろまみれになった夫婦者あり。聞くと浅草方面は焼け、観音様も燃えてしまったという。東京に近づくにしたがって、布団につつまった人が多くなる。浜松町からは、鉄道を、群衆が歩くところ、ちょうど昔の震災の時と同じだ。新橋駅近くの左右が燃えている。ことに汐止駅が、まだ盛んに火を吹いている。ここは東京最大の運輸駅であり、二三丁四方にうずたかく物資をつんであったはずだ。それが灰燼に帰したのである。しかも驚くべきことは、きわめて正確に荷物置き場だけがやられて居り、その投弾の正確なること驚くばかりだ。
  銀座三丁目辺りから一丁目にかけ焼く。日本橋の白木屋にも火が這入っている。いつも行く明治堂古本屋が焼けてしまった。もくようびに予は本を買って、取りに行く筈であった。丸善だけは無事。三菱銀行支店だけがどこに行っても立っているのは、同銀行の信用を語るものか。見るにたえないのは、老婦人や病人などが、他にささえられながら、どこかに行くものが多いことだ。燃え残った夜具を片手に持っている者、やけただれたバケツを提げる者。それが銀座通りをトボトボと歩いて行く。彼等の目はいずれも真赤になっている。煙と炎の故であろう。
  板橋君に逢うと石橋家が丸焼けになって、奥さんが「東洋経済」に行っているという。見舞うために行くと、奥さんが疲れた姿でいる。昨夜、石橋君は鎌倉に行き、奥さんと女中だけが罹災。全然何も出さず。丸焼けだとのことだ。この戦争反対者は先には和彦君を失い、今は家を焼く。何たる犠牲。
  浅草、本所、深川はほとんど焼けてしまったそうだ。しかも烈風のため、ある者は水に入って溺死し、ある者は防空壕で煙にあおられて死に、死骸が道にゴロゴロしているとのこと。惨状まことに見るにたえぬものあり。吉原も焼けてしまったと。
     清沢洌 『暗黒日記 3』 ちくま学芸文庫 2002  126~128ページ

 

 3月10日の「東京大空襲」直後のエピソードである。清沢洌が実際に出会った罹災者の姿が記録されている。

 清沢は「眼を真っ赤にし、どろまみれになった夫婦者」から話を聞き、「東京に近づくにしたがって、布団につつまった人が多くなる」のを見る。そして銀座では「見るにたえないのは、老婦人や病人などが、他にささえられながら、どこかに行くものが多いことだ。燃え残った夜具を片手に持っている者、やけただれたバケツを提げる者。それが銀座通りをトボトボと歩いて行く」姿を記録している。そして、「彼等の目はいずれも真赤になっている。煙と炎の故であろう」と、罹災者の「真赤な目」に再度言及している。モノクロの記録写真からは伝わらない「姿」である。

 

  三月十二日(月)
  …
  本所、深川方面では、空爆三日の後、まだ死骸が道路に転がっているそうで、警防団がトラックで運んでいるそうだ。火事のため毛も顔も原形をとどめず、黒い焼け杭のようになっており、男女の別も分からなくなっているという。
  甥の笠原貞夫は出征して居り、その妻が三人の子供をかかえて焼け出されたのは、さきに書いたが、修司が区役所に行くと、「縁故疎開の外はどうにもならぬ」と、一向受けつけない。貰ったのが五日分の食料切符と汽車無賃乗車券のみである。仕方がないから丸ビルの地下室に連れてきて、信州に送るという。布団二枚を自転車につんで連れてきた。国家の罹災者救助というのは五日分の米と醤油だけだ。
     同書 164~165ページ

 

 「空爆三日の後」になっても遺体の処理に追われているのである。
 そして、「国家の罹災者救助というのは五日分の米と醤油だけ」との、罹災者を待ち受ける現実が記録されている。

 

【註:2】 空襲と罹災証明書発行事務 (山田風太郎 『戦中派不戦日記』より)

  (五月)二十四日
  …
  〇午後、シャベルを持って、高須さん、高輪螺子のおやじさん、そこの工員の唖男、自分と、四人で焼跡へゆく。
  目黒の空は煙にまだ暗く、まるで煤ガラスをかざしてのぞいたように、太陽が血色にまるくはっきり見える。空はどんよりとして、雨でも頬に落ちそうな曇りである。
  焼跡は、今までよそで見たのと同じく。赤茶けたトタン板と瓦の海と化していた。なお余燼が至るところに立ち昇り、大地は靴を通して炎の上を歩くように熱い。熱風が吹く。
  遠くからこの下目黒三丁目を眺めたときは奇妙な笑いがニヤニヤと浮かんでいたが、現場について焼土と化したこの跡を見ると、さすが万感が胸に充ちて哀愁の念にとらわれざるを得ない。
  サンルームのように日当たりのよかった二階や、毎日食事をとった六畳や、ラジオを置いてあった三畳や、米をといだ台所や、そして自分が寝起きし、勉強した四畳半の部屋や……この想い出と、いま熱い瓦礫に埋まった大地をくらべると、何とも名状しがたい悲愁の感が全身を揺する。
  防空壕の口は、赤い炭みたいにオコった瓦で埋まっていた。完全にふさぐことができなかった酬いだ。掘り返してゆくと、焼け焦げて、切れ切れになった布団が出て来た。地面へ出しておくと、またポッポと燃え出して、覗きに来た隣の遠藤さんが、どんな切り端からでも綿がとれる、それで座布団も作れる、早く消せといったが、水をいくらかけても消えない。くすぶりつづけて、一寸ほかのことをやっていると、またすぐに炎をあげている。遠い井戸から水を運んでは、ぶっかけ、足で踏んでいるうち泥んこになってしまい、はては馬鹿々々しくなって、燃えるなら燃えちまえとみな放り出してしまった。
  鍋、お釜、茶碗、米櫃、それからずっと前に入れて土をかけて置いた瀬戸物、そして風呂敷に包んだ自分のノート類など、これは狐色に焦げて、これだけ出て来て、あとはみな燃えていた。防空壕内部の横穴の方へ大部分の家財を入れておいたのだが、何しろ恐ろしい熱気と煙なので手もつけられず、あきらめて夕刻帰る。
  町会も焼けたので、わずかに焼け残った近くの一軒家を借りて事務をとっていたが、「罹災証明書」は出しつくして明日区役所からもらって来るまで待ってくれと書いた紙が塀に貼ってあった。
     山田風太郎 『戦中派不戦日記』 講談社文庫 2002  240~242ページ

 

 山田風太郎自身が当事者として経験した、3月10日ではなく、5月24日の目黒方面の空襲の「罹災」の実状である。

  焼跡は、今までよそで見たのと同じく。赤茶けたトタン板と瓦の海と化していた。なお余燼が至るところに立ち昇り、大地は靴を通して炎の上を歩くように熱い。熱風が吹く。

 山田不太郎は視覚的光景としてだけでなく、「大地は靴を通して炎の上を歩くように熱い。熱風が吹く」と、自身の足裏を通して伝わる、肌を通して感じられる熱気としても、自らの空襲罹災者としての経験を書き記した。

  町会も焼けたので、わずかに焼け残った近くの一軒家を借りて事務をとっていたが、「罹災証明書」は出しつくして明日区役所からもらって来るまで待ってくれと書いた紙が塀に貼ってあった。

 空襲を生き延びた人々に、まず必要になるのが「罹災証明書」なのである。

 

  二十五日
  〇朝、また焼跡にいって見ると、驚いたことに昨日半分掘りかけた防空壕の入り口が、また新しい瓦礫でぎっしり埋まっている。きくと隣家の遠藤さんの娘の節ちゃんが、昨夜八時までかかって埋めたのだそうだ。
  むろん遠藤さんの家もないが、ここは防空壕がちゃんとしているので、当分そこに住むことにしたらしく、こちらの防空壕の口から火と煙がたち昇り、見ていて不安だったのと、もう何もだめだろうと思って埋めたのだという。
  しかし、こちらにして見れば、掘って見ればまだ何が残っているかも知れない。お節介なことをすると、高須さん大いに怒り、もう一度昨日の通りに掘り返してもらおう、とどなりつけて会社へ出かけていった。
  遠藤家でまた掘り返すからというので、自分も町会へ出かけてゆき、ひるまで行列して罹災証明書をもらった。
  警報は二、三度鳴ったが、無一物になった者にとっては、もう戦々兢々としている必要は何もない。しかしそのうちにまた空襲警報になってしまった。五、六十機の小型機が侵入中だという。
  小型機は銃撃する。白いものを身につけている者はどこかにいってくれ、という叫び声がする。しかしみんな動かない。罹災証明書をもらわねば、何も買えず、どこへも汽車でゆけないからである。
  その罹災証明書をもらうには、一日でも駄目、二日目に半日も並ばせるとは何事だと怒り出す者もある。ところが町会事務所では、老人が一人、女が二人キリキリ舞いをしていて、私達も焼け出されたんだ、その焼跡整理も出来ないんだと悲しげにつぶやいているのである。
     同書 243~245ページ

 

 こうして、山田風太郎は罹災証明書を手に入れることが出来たのであった。「罹災証明書をもらわねば、何も買えず、どこへも汽車でゆけないから」、空襲警報が鳴る中でも列に(一日でも駄目、二日目に半日も)並び続ける人々の姿。

  ところが町会事務所では、老人が一人、女が二人キリキリ舞いをしていて、私達も焼け出されたんだ、その焼跡整理も出来ないんだと悲しげにつぶやいているのである。

 罹災証明書を発行するのも罹災者なのである。しかも、発行事務のために自身の「焼跡整理も出来ない」のである。

 その夜、再び目黒は空襲を受ける。

 

  この一夜に出現した荒野は、まだ煙と残火に燃えくすぶっている。津雲邸はなお巨大な赤い柱のピラミッドを虚空に組み立てていた。電車が数台、半分焼けたまま線路の上に放置され、罹災民がその中に眠っていた。負傷者が担架に乗せられてしきりに通る。炊き出し隊の前には何百人かの人々がバケツを持って並んでいる。米屋の焼跡には黒焦げになった豆の山が残り、女子供が餓鬼のようにバケツにすくい入れている。
  下目黒の方へいってみると、二十四日焼け残った部分が、この朝きれいに掃除されたように焼き払われていた。町会はまた焼かれて、さらにどこかへ引っ越していた。
     同書 255ページ

 

  町会はまた焼かれて、さらにどこかへ引っ越していた。

 容赦なく空襲は続いたのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2015/11/29 23:11 → http://www.freeml.com/bl/316274/261426/
 投稿日時 : 2015/12/22 22:30 → http://www.freeml.com/bl/316274/263294/
 投稿日時 : 2015/12/23 09:06 → http://www.freeml.com/bl/316274/263359/

 

 

 

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2012年3月 7日 (水)

プロパガンダと記録(東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃)

 

 本日(2012年2月18日)は午前中に家を出て、

 

 東京大空襲・戦災資料センター 開館10周年記念特別展
 東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃
 会期:2012年2月18日(土)~4月8日(日)
 会場:東京大空襲・戦災資料センター2階会議室

 

…を目指して、まずは錦糸町まで。そこから東京駅まで行くバスに乗って「扇町二丁目」停留所で降りて徒歩十分。初日の今日は特に、

 

 オープニング講演会
 日時:2月18日(土)午後1時から4時(開場12時)
 会場:東京大空襲・戦災資料センター2階会議室
 講師:井上祐子(京都外国語大学非常勤講師)
     山辺昌彦(東京大空襲・戦災資料センター主任研究員・学芸員)
     小山亮(明治大学文学部専任助手)
 司会:石橋星志(明治大学大学院博士後期課程)

 

…ということになっていて、ギリギリの時間に到着。いろいろと興味深く話を聴く。

 

 

 

 この「東方社」というのは戦中の海外向けプロパガンダ誌として名高い『FRONT』の出版元で、原弘や多川精一のグラフィックデザインによる誌面のクオリティーの高さには、誰しも頭を下げざるを得ないだろう。

 その「東方社」のカメラマンたちが残したネガフィルムが、昨年になって東京大空襲・戦災資料センターに寄贈されたのだという。今回はその約17000枚(註:1)のうち、空襲下の東京を撮影したものが整理公開され、その紹介のための講演会が企画されたわけである。

 

 

 公開された650枚超(註:2)の写真群は、昭和19(1944)年11月24日に撮影された荏原の空襲後の情景から始まる。

 まさにその11月24日から、B-29による東京への空襲が開始されたわけだが、作戦上は市街地が目標とされていたわけではなく、中島飛行機武蔵野工場が本来の爆撃目標であった。ノルデン照準器を用いた高高度精密爆撃による軍需産業の破壊を目的としていたにもかかわらず、工場上空の天候不良(ノルデン照準器がその高性能を発揮しない)のために工場への投弾を果たせなかった機により、航路上の東京市街が投弾地点とされ、それがたまたま荏原区であったということのようである(つまり荏原は本来の爆撃目標であったわけではない)。

 それが初のB-29による東京空襲の背景であったが、以後、同様な経緯での東京の市街地への高高度爆撃が続き、翌年3月10日には低高度からの侵入による市街地無差別爆撃(いわゆる「東京大空襲」である)へと転換され、米軍戦略爆撃機による都市無差別爆撃の手法が確立されるに至る。

 

 東方社写真部撮影による昭和19年11月24日の空襲の写真は、まさにその最初の空襲による被害の視覚的記録なのである。

 

 

 研究成果報告書(註:3)にある小山亮氏作成の「東方社写真部撮影空襲被害関係写真リスト」によれば、「荏原区の民家」としてまとめられた関口満紀氏撮影の54枚の写真が、東方社写真部による11月24日の空襲の記録ということになる。

 小山氏による「概要」では、その54枚は「両手に空襲被害にあった物を持つ人物」(4点)、「荏原区/民家の空襲被害」(33点)、「荏原区/工場の空襲被害」(6点)、「荏原区/爆弾投下によってできた穴」(7点)、「荏原区/電柱の空襲被害」(1点)、「荏原区/燃えさしに集る軍人ら」(2点)、「荏原区/穴掘り作業・見守る軍人ら」(1点)として分類されている。

 ちなみに、当日の光景には日本写真公社国防写真隊によって撮影されたものがあり、既に東京大空襲戦災資料センターに収蔵されている。研究成果報告書(註:3)にある石橋星志氏作成の「日本写真公社 国防写真隊撮影写真リスト」によれば、深尾晃三、豊島正喜、久米茂、内山林之助各氏の撮影による40枚が、11月24日のものだ。ただし、こちらの撮影地は神田(日本写真公社所在地)であり、荏原の投弾地点を撮影したものではない。

 その意味で、今回発見された東方社写真部撮影による写真群は、荏原の現地で爆撃直後に撮影された貴重なものなのである。

 

 

 11月24日の空襲については、何よりも私の場合、山田風太郎の日記の記述(註:4)を思い浮かべるが、他にも当日の空襲に言及した日記は多い。ただ、山田風太郎が現場に立ち会った工員の体験談を直接聞き、それを記録として残したのに対し、私がこれまでに目を通したものは、より遠い場所で過ごしていた人物によるものであり、空襲が臨場感のない他人事にとどまっている印象を受ける。

 そのような意味で、つまり臨場感を伴った空襲体験の初の記録という意味で、山田風太郎の日記が光を放つわけである。

 しかし、逆に言えば、荏原を遠く離れれば同じ東京でもまったくの他人事として日記に書き記されているのだということであり、その構図を自覚することで、歴史上の証言記録の取り扱い方への繊細さを獲得することが出来るのだと思われる。山田風太郎の日記は確かに荏原の惨状の一端を伝えるが、そしてそのことは大きな価値を持つが、他の日記類の価値を低いものとして考えてはならないのである(註:5)。すべての日記が、11月24日の東京の姿としての事実を伝えているのである。東京内でも場所が異なれば経験は異なるということなのである。

 

 

 さて、そのことを確認した上で日本写真公社撮影の神田の情景を振り返れば、そこに残されているのは空襲の惨状そのものではない。神田に投弾はされていないのである。しかし写されているのは「空襲下の街路 神田神田橋電停付近 敵機上空通過当時の路上退避状況」であり、「負傷者 (高射砲不発弾による) 神田区司町1-10-2 小林外科医院」のような、空襲に伴う東京の神田の表情なのであり、それは実際のその日その時の神田の光景なのだ。

 そして、それに加えて今回発見された東方社写真部撮影写真により、その日の荏原の実際の状況の一端が我々の前に明らかになったわけである。そこには山田風太郎に自らの体験を語った工員たちが目にしていたであろう、空襲による負傷者の姿も死者の姿もない。しかし、東方社写真部の記録に死者が写し出されていないことを、空襲による死者がいなかったことを意味するものとして考えてはならないのである。

 

 

 

 陸軍参謀本部の対外宣伝出版物制作を業務とした東方社が、どのような経緯で空襲下の東京の記録写真を撮影したのかという問題から解明されないと、残された写真の性格(どこで何を撮影するのかに参謀本部の意向が介在していたと考える方が自然である)も明確にし難いところがある。そういったことを含めて、研究すべき課題は多いにしても、まず空襲記録としての価値の大きさは誰しも認めるものだろう。

 

 デザイナーや編集者の仕事となると、まさにプロパガンダ誌面としてのクオリティーの向上が目標となり、ある意味で「戦争協力」そのものになるわけだが、記録者としてのカメラマンの仕事には、別の側面が見出せるように思われる。

 もっとも、「戦争協力批判」というものは「敗戦」の事実がもたらすものであり、絶対化されるべき視点とするつもりはないが、しかし敗戦に至る戦争遂行の一端を彼らが積極的に担ったという事実から眼を逸らすこともしたくない。デザイナーや編集者が彼らの職業的能力の最高のものを、陸軍参謀本部の求めに応じ、つまり戦争に捧げることで果たそうとしたことも事実なのである。そして、その誌面のクオリティーの高さに、現在の我々も瞠目せざるを得ないのである。

 

 『FRONT』の誌面が伝えるのは、いわば「リッチな日本」であり「リッチな大東亜共栄圏」である。

 垢抜けたレイアウトに上質な紙に上質な印刷製本技術。そこに「リッチさ」が宿り、日本が、大東亜共栄圏が海外に売り込まれるのである。

 しかし、まさにそこに宣伝技術の粋が見出されるのであり、事情を知る者の目には戦時日本の実際の出版物との大きな落差が見出されてしまうのである。紙質が悪化し、ページ数が減少し、カラーページがなくなる。それが戦時日本の出版事情の現実だったのであり、その現実との落差に、『FRONT』誌面に反映されたかつての商業宣伝美術関係者の技術の粋が見出されるのである。

 そしてその背後に、つまり東方社の背後には、潤沢な資金と資材の供給(特配)元であった陸軍参謀本部がある。

 それが贅沢なプロパガンダ誌を支えた構造なのである。

 東方社に結集した才能と同様に、我々は、名取洋之助の下に集った日本工房関係者による当時の対外宣伝出版物のクオリティーにも敬意を払うことになるわけだが、彼らの職能の最高度の発揮の場が国策プロパガンダ制作の場以外に残されていなかったのが、「戦時」という状況なのでもあった。本来の彼らの活躍の場であった商業宣伝美術は、戦時下の日本には既に存在し得ないものとなっていたのである。「ぜいたくは敵だ!」というスローガンの下には、商業宣伝技術者に生きる場所はない(そのスローガンを考案したのも彼らなのではあったが)。

 

 そのような意味で、写真家(カメラマン)の位置は、グラフィックデザイナーや編集者のものとは異なった性格を帯びる。もちろん、商業広告写真を考えれば、そこに必要なのは現実をより魅力的なものとして見せる技術である。写真は必ずしもミモフタモナイ現実をそのまま記録するものではない。しかし、ミモフタモナイ現実を前にして、ミモフタモナイ現実をミモフタモナイ現実として記録することもまた、写真家(カメラマン)には可能なのである。

 

 残された17000枚の写真がどのような意図で撮影されたのかという問題はもちろん解明されねばならないが、しかし、そこに空襲下の東京のミモフタモナイ現実も、確かなものとして、既に彼らの手により記録されていたのである。

 

 

 

【註:1】
 この17000枚が、東方社により戦時に撮影された写真の全てということではなく、基本的にネガは戦後に撮影者に返却されており、撮影者に引き取られることなく現在まで残されていたものが、今回の発見資料なのだという。

【註:2】
 今回は空襲関連写真として656枚が公開されたが、そのうち67枚の撮影地は中国の桂林と香港であり、撮影地が東京及びその周辺であるものは589枚である。その内訳は以下の通りで、日付は撮影日である(研究成果報告書による)。
 荏原区の民家(1944年11月24日/54点)
 原宿駅付近・海軍館・東郷神社(1944年11月27日/64点)
 荻窪陸橋・高井戸第四国民学校(1944年12月3日~4日/109点)
 銀座(1945年1月27日/77点)
 千葉県印旛郡酒々井町へのアメリカ軍機墜落(1945年1月28日~29日頃/52点)
 日本医科大学・根津神社(1945年1月30日/23点)
 東京西多摩郡吉野村柚木へのアメリカ軍機墜落(1945年4月2日頃/30点)
 雙葉高等女学校・上智大学(1945年4月14日以降/16点)
 夜間空襲・麹町区九段から神田区須田町にかけて(1945年5月26日~6月8日以降/58点)
 慶應義塾大学・泉岳寺・芝区本芝のバラック・工場(1945年5月~6月頃/86点)
 中国桂林空襲・戦災(1944年11月頃/13点)
 中国香港空襲(1945年1月/54点)

【註:3】
『アメリカ軍無差別爆撃の写真記録-東方社と国防写真隊』 東京大空襲・戦災資料センター 2012

【註:4】

 ついウトウトと眠ってしまった。ふと眼を醒ますと、拡声器が、
「空襲警報発令! 空襲警報発令!」
と叫び出したので愕然となる。横浜駅であった。プラットフォームも車内もいっせいに騒然となり出した。
「なつかしの東京に、とんでもないことが待っていたなあ」
と、だれもが笑う。みな生き生きと嬉しげな顔になる。
 ただちに武装し、車窓の青幕を引いてそのまま発車する。
 川崎駅に入るや、全員退避の命令が下った。自分達も一般乗客も、デッキから構内へばらばらと飛び下りて、駅前の広場へ逃げ走る。プラットフォームではないので、一メートル余りの高さを飛び下りる女の中には、足を挫いて倒れる者もある。
     山田風太郎 『戦中派虫けら日記』 ちくま文庫 1998  535ページ

 

 これが当時、東京医学専門学校の学生であった山田風太郎の昭和19年11月24日の日記である。
 11月21日から富士山の裾野での軍事演習に参加した医学生達が東京へ到着しようとする時に、空襲警報の発令にあい、川崎駅で下車して駅近くの防空壕で警報解除までの時間を過ごす。そして…

 

 一時間半もたって、ようやく入口から這い出すことを許された。空は灰色の雲に覆われ、もう砲声も爆音も聞えない。
 満員電車に乗ってやっと品川に着き、山ノ手線で新宿に帰る。空襲警報は解除になったが、乗客はむろん何となく殺気立っている。がやがやと話し声は聞えるが、べつに今の空襲について話しているわけではないらしい。無意味なる騒音、沈痛なる動揺――といった態である。
 すると、五反田から乗り込んできた二十二、三歳の工員風の男が二人、突然溜息を吐いて、
「おい、凄かったなあ、おれ、飯が食えねえや!」
と、叫んだ。みなふりむいた。一人の紳士が、おずおずと、
「――何か――見て来たんですか?」
と、たずねた。工員は待っていたように、カン高い声でしゃべり出した。
 二人は荏原を通って来たのだそうで、そこの防空壕に入っていると、突然しゅうっという実にいやな音が聞え、つづいて、ゴーっという凄まじい地響きがした。しばらくたって這い出してみると、二、三百メートル向こうに黒煙が見えた。いってみると三十メートルくらいの大穴が地にひらいて――「五十メートルはあったよ」と一人が訂正する――家は吹き飛ばされ、なぎ倒され、崩れおち、近傍の屋根瓦や戸障子やガラスなどが恐ろしい惨状をえがき出して――人はむろん死んでいた。防空壕の中で十数人全員即死したものもあり、身体の表面に傷は見えないのに真っ白になって死んでいるのもあり、幼児など石垣に叩きつけられてペシャンコになり、――
「病院へもいってみましたが、実に何ともむごたらしいかぎりでさあ。おら、腰がぬけちまった。顔の半分なくなったのが、口をあけてうなってるんですからね。たいてい女です。子供はわあわあ泣いている。――工場に主人の出た留守、一家全滅したのもあるそうです……おれ、今夜飯が食えねえや、……」
 一人がはっと気づいて眼で知らせながら、
「おい、あんまりしゃべらねえ方がいいぜ」
と注意した。
 二人は急に沈黙したが、また昂奮を抑えきれないらしく、蒼いカン走った声で「おら、飯が食えねえや」を繰り返しはじめる。――
 ○五時前に帰校。ただちに解散。
 下宿に帰ると、部屋のガラス窓はみななずされ、まるで暴風の一過したあとのようだ。しかし、こちらは全然何事もなかったということであった。やがて警戒警報解除となる。
 夜のラジオによれば、本日帝都周辺に来襲した敵機は、マリアナよりの七十機。主として荏原附近に投弾したらしい。
          (539~541ページ)

 

 B-29による東京への初空襲を、山田風太郎は、このように体験したのであった。

【註:5】
 山田風太郎の日記を含め、空襲下で記された日記類のほとんどにおいて、「来るべきものが来た」という種類の感想は語られてはいても、都市無差別爆撃の不法性の指摘がされていない印象がある。つまり都市無差別爆撃という手法が、当時の日本人の間で当然視されていたように思われるのだ。
 そのような当時の日本人の感想のあり方の背後に、近代戦争における都市無差別爆撃の先駆者である日本の姿が、透かし見えるようにも感じられる。
 空襲を前提とした町内会レベルの消火訓練で、焼夷弾への対応が当然視されていた事実の影には、中国の都市への焼夷弾攻撃を実行していた日本軍の存在がある。
 ヨーロッパでの独英双方による都市空襲の現実も反映してはいるのだろうが、講演会場での質疑応答時の参加者からの指摘にもあったように、既に昭和13年の『写真週報』において焼夷弾による都市爆撃への対処の必要性が語られていたのも事実であり、日本における都市無差別爆撃の当然視は、ヨーロッパでの戦争に先立つものなのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/02/18 22:04 → http://www.freeml.com/bl/316274/182716/

 

 

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2009年8月21日 (金)

無差別爆撃の論理 7 (竹槍と機関銃)

 

 完全武装の両軍の対峙する前線を飛び越し、はるか背後の非武装の敵国民(市民)を標的に爆弾を落とす。

 「戦略爆撃(特に都市無差別爆撃)」とは、そのような行為である。

 

 

 爆撃により、都市住民の生活基盤を破壊し、住民の生命そのものをも標的とし、敵国民の継戦意欲を低下させ、停戦・講和へと導く。

 

 第一次世界大戦における前線兵士の膨大な損耗率、つまり予測をはるかに超えて続くことになった戦争とその予測をはるかに超えた戦死者戦傷者の存在は、参戦したヨーロッパの人々に戦争への忌避感をもたらすものとなった。過酷なヴェルサイユ条約には、敗戦国ドイツに二度と戦争を引き起こすような気を起させぬ効果が期待されていたのだし、戦後の国際連盟の結成、各種軍縮条約の取り組み、そして不戦条約締結への努力には、世界からの戦争の排除という理想が込められていたのである。

 政治家が戦争の回避への努力を課題としていたのに対し、軍人達には、(政治家が)回避に失敗した戦争への対処が新しい課題となっていた。戦争の長期化と戦死者数の抑制が、そこでの課題である。期間を短く、犠牲者数も少なく、という条件の下に勝利を確保することが、第一次世界大戦後の軍事的課題となったのである。

 イタリア軍人ジュリオ・ドゥーエによる1921年の著書『空の支配』は、まさにその課題への答えとして書かれたものだ。

 荒井信一の記述を引こう。

 彼は大戦の経験から、これからの戦争は「もはや兵士と民間人の区別のない」総力戦であり、そこでは空爆によって民衆がパニックを起こし「自己保存の本能に突き動かされ、戦争を終わらせろと要求するようになる」と説き、住民の戦意をくじくテロ効果を強調して無差別爆撃論を提唱した。「戦時国家の最小限の基盤である民間人に決定的な攻撃が向けられるので戦争は長続きしない」、「長期的に見れば流血をすくなくするので、このような未来戦ははるかに人道的だ」とまで述べている。
 ドゥーエは人口密集地の住民への攻撃手段として、高性能爆弾、焼夷弾、毒ガス弾の三つをあげている。三種類の爆弾それぞれの機能を極限にまで高め一体化したものが、後の原子爆弾であるといえよう――大型台風をはるかにうわまわる衝撃波の破壊力、人工の太陽とも言われる熱線のもたらす焼夷力、放射能の毒素力――。アメリカは今でも、原爆の投下は戦争の終結を早め、多くの人命を救ったとして正当化している。それはまさにドゥーエのテーゼの現代版にほかならない。
     『空爆の歴史』 (岩波新書 2008)

 同時代の、ウィリアム・ミッチェル、ヒュー・トレンチャード、そして大西瀧治郎もまたドゥーエ同様に「はるかに人道的な未来戦」への志向を抱いて、それぞれの空軍力の充実への努力を開始したわけである。

 戦争の短期化と、戦死者数の減少の追求というテーマから、軍人の合理的思考が生み出した結論が、住民へのテロ爆撃としての都市無差別爆撃なのである。そこでは、より効果的な、つまり集中的で徹底した都市無差別爆撃の実行者の側が、戦争での人道的な勝利者となるはずであった。

 

 そこには、確かに、戦闘(そして戦争)の勝利のために合理的に振舞う人々、としての軍人の姿を見出すことが出来る、ように思える。

 過去の戦争から学び、総力戦の意味を考え、新たな軍事理論を構築し、戦略を組み直し、新兵器を開発し、軍の編成を新たにする。そのような努力は、精神主義者のものではなく、合理主義者のものであろう。

 

 

 

 第一次世界大戦後に登場した戦略爆撃論者、都市無差別爆撃の主唱者達にとって、学ぶべき過去の戦争とは、言うまでもないだろうが、第一次大戦である。

 

 その第一次世界大戦の膨大な戦死者の存在を抜きに、都市無差別爆撃というアイディアは生まれなかったし、次の戦争でそれが実行に移されることもなかったわけである。

 

 では、その膨大な戦死者を生み出したのは何であったのか?

 そして、その膨大な戦死者を生み出させたのは誰であったのか?

 

 

 新兵器であった機関銃であり、精神主義から抜け出せなかった英軍司令官であり、仏軍司令官であった。

 既に日露戦争で、機関銃はその威力を十分に発揮していた。繰り返される乃木将軍の正面攻撃は、ロシア軍の機関銃を前にして、戦死者の山を築くことしか出来なかったのである。

 第一次世界大戦はそれから10年後の話なのだが、英仏陸軍の司令官達もまた、数年に渡って機関銃座への正面攻撃を繰り返し、戦死者の山を築いていったのであった。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/20 21:42 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113728

 

 

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2009年8月18日 (火)

無差別爆撃の論理 6 (竹槍 vs 戦略爆撃)

  

 戦闘(そして戦争)の勝利のために合理的に振舞う人々、という軍人像には、どこか誤りがありそうなのである。

 

と、書いたわけだが(昨日の話)、もちろん、非合理主義に徹し、組織的に敗北を重ねて行ったようにしか見えない大日本帝國陸海軍の存在を忘れたわけではない。

 実際、その非合理的精神主義が大日本帝國を滅ぼした、という印象が間違っているとは思えないのである。

 

 敵の戦法に対してわれらの戦法を対抗せしめねばならない。敵が飛行機で攻めて来るのに、竹槍を持っては戦い得ないのだ。問題は戦力の結集である。
     毎日新聞 昭和19年2月23日朝刊

という記事を、時の東條首相が発禁処分にした(ただし、指示は朝刊の配達後だった)のは有名な話だろう(記事を書いた記者は、後に懲罰的召集の対象となった)。つまり、竹槍で敵の飛行機と戦え、それが東條首相の発想ということになる。国民は、その後の空襲激化の下で、B-29に竹槍で立ち向かうことを求められるわけだ。

 同日の毎日新聞には、

 大東亜戦争は太平洋戦争であり、海洋戦である。われらの最大の敵は太平洋より来寇しつつあるのだ。海洋戦の攻防は海上にて決せられることはいうまでもない。しかも太平洋の攻防の決戦は日本の本土沿岸にて決せられるものではなくして、数千海里を隔てた基地の争奪をめぐって戦われるのである。本土沿岸に敵が侵攻し来るにおいては最早万事休すである。

という記事も掲載されていた。しかし、その後の戦争の経過は、「絶対国防圏」を破られ「本土沿岸に敵が侵攻し来る」ところまで進行してしまう。その過程で、「玉砕」が相次ぎ、「特攻」が始まるのである。

 しかし、「万事休す」とは考えられず、むしろ、竹槍での「本土決戦」にこそ希望が見出されるのだと主張されるという事態に陥るのである。

 その意味で、「竹槍精神」は、非合理的精神主義の代名詞と言えるだろう。

 

 しかし、言うまでもないことであるが、竹槍では、最新鋭の重爆撃機B-29による戦略爆撃に対抗することは出来ないのである。3月10日の東京大空襲に、「竹槍精神」は無力であった。

 

 

 

 

 さて、これまで、軍事思想としての「戦略爆撃」を対象として、その「論理」について考えてきたわけだ。

 

 第一次世界大戦での、当初の予想をはるかに超える膨大な犠牲者の存在が、戦略爆撃というアイディアの背後にあることは、既に説明し終えたものと思う。

 地上戦における、あまりに多過ぎる戦死者の数が、戦争に対する忌避感をもたらし、国際連盟の成立や数々の軍縮の試み、そして不戦条約が成立したのも、第一次世界大戦後の時代である。もっとも、戦争回避を重視するあまり、ミュンヘン会談でのヒトラーへの譲歩も生じたわけである。実際、ミュンヘン会談の「成果」は、英仏国民にも歓迎されたのである(結果的には第二次世界大戦への呼び水となってしまったのだが)。

 軍縮や不戦条約が、戦争そのものの回避への努力だとすれば、「戦略爆撃」という発想は、戦争の早期終結の可能性追求の論理として生じたものなのである。

 

 当事者である軍人にとっても、第一次世界大戦の経験は、耐え難いものであった、ということだ。前線兵士の膨大な犠牲を回避することが、民間人への直接攻撃により達成されるという予測は、実際には誤りであった(悲劇的な誤りであったが)。しかし、理念としては、戦略爆撃の効果として、銃後の国民の継戦意思の低下がもたらされ、戦争の早期終結となり、総計での戦争による死者数の減少が期待されていたのである。

 少なくとも、戦略爆撃思想の背後にあったのは軍関係者の合理主義的精神であった、ということは言えそうである。基本的に、軍人とは戦争の回避ではなく、現実化した戦争への対処がその任務なのである。戦争の回避は、まずは政治家の任務である。

 

 

 では、第一次世界大戦における膨大な犠牲者を生み出したメカニズムはどのようなものであったのだろうか。

 

 第一次世界大戦とは、様々な近代兵器が登場した戦争であった。

 その新兵器に、軍司令官達はどのように対応していたのか?

 軍人に合理主義を期待することの当否が、次回のテーマとなる、はずである。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/17 22:23 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113443

 

 

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2009年8月16日 (日)

無差別爆撃の論理 5 (軍事的合理と不合理)

 

 「特攻」の指揮官としての大西瀧治郎。

 「徹底抗戦論者」として、ポツダム宣言の受諾阻止に奮闘した大西瀧治郎。

 8月15日に遺書を書き、翌16日未明には自決を果たした大西瀧治郎。

 

 非合理的な精神主義者の姿を思い浮かべてしまうエピソードである。

 しかし、大西は日本海軍の軍人として、海軍伝統の大艦巨砲主義を受け継ぐことなく、航空戦力を主体とする新たな時代の軍事思想を理解・主唱していた人物であった。つまり、第一次世界大戦に登場した新兵器の一つとしての航空機の持つ軍事的可能性に着目し、戦争における「戦略爆撃」の実行者としての空軍力の育成の重要性に気付き、まず対中戦争において実行して見せた当の人物が大西なのである。航空機により米国太平洋艦隊とその基地を攻撃するという、真珠湾攻撃の基本プランもまた、大西によるものであったわけで、近代戦のあり方をよく理解していた軍事的合理主義者としての姿をそこに見出すことが出来る。

 

 その大西が、特攻の指揮を執り、徹底抗戦を主張し、「ハラキリ」という最期を遂げる。

 そこにあるのが大日本帝國の限界なのか、大日本帝國海軍軍人の限界なのか、大西という一個人の限界なのか、ここでは、それを問うことはしない。

 

 

 私達が戦争を考え、戦争における軍隊という存在、軍隊を構成する軍人という存在について考える時、戦闘における勝利の確保のために合理的に振舞う人々という想定をしてしまいがちである。しかし、大西の軌跡を振り返る時、大西の所属していた日本海軍の主流は、大艦巨砲主義・艦隊決戦思想に囚われ続けていたという事実が浮かび上がる。

 近代とは、大いなる技術革新と生産力の組み合わせの下に、人間が自身の手により自身の新たな環境条件を日々作り出していく時代であり、軍事的には、新兵器の登場が戦場のあり方自体を変化させてしまうという、そんな世界なのである。しかし、そのことを日本海軍の主流は理解しなかった。

 もちろん、巨大戦艦である大和も武蔵も「最新兵器」ではある。しかし、航空戦力が戦争の勝敗を決する時代の現実からすれば、時代遅れの旧兵器なのである。

 つまり「新兵器」とはモノの問題ではなく、背後にある思想の問題であり、思想に基づく適切な使用の問題なのだ、ということになる。

 巨大戦艦大和と武蔵が、「艦隊決戦」で主役を演じることなしに、巨大「特攻」兵器として出撃させられ、航空機による攻撃で撃沈されたという事実の意味は、熟考に値すると思う。

 

 

 

 

 「戦略爆撃」の思想は、第一次世界大戦の経験をもとに、1920年代にイタリアのジュリオ・ドゥーエ、アメリカのウィリアム・ミッチェル、イギリスのヒュー・トレンチャードらによって提唱されている。「戦略爆撃」が「無差別爆撃」という様相をとって現実化することに関しては、その背後に、植民地における航空機による「効率的な」住民殺戮の経験があることも指摘されている。

 「戦略爆撃」については、第一次世界大戦と植民地支配の経験をもとに、まず思想が先行し、モノである兵器の生産が後を追い、軍の作戦として現実化する過程として描くことが出来る。

 航続距離が長く、爆弾搭載量の多い重爆撃機の生産と、そこに搭載される焼夷弾の開発がなくては、「戦略爆撃(ここでは特に都市無差別爆撃)」が現実化することはない。その意味では、重爆撃機の生産確保に成功した英米のみが、思想としての「戦略爆撃(都市無差別爆撃としての)」の完全な実行者であった、と言うことは出来る。

 もちろん、ナチスドイツ空軍は1937年、ゲルニカにおいて無差別爆撃の実行者として名乗りを上げていた。焼夷弾の使用の事実一つを取ってみても、それが軍事目標主義による爆撃ではなく、無差別爆撃であったことは明らかである。

 大日本帝國海軍も、1938年の段階で南京への渡洋爆撃を都市爆撃として行い、国際連盟から「無防備都市の空中爆撃の問題」として「かかる爆撃の結果として多数の子女を含む無辜の人民に与えられたる生命の損失」の実行者として非難されているのであって、日独が「戦略爆撃(都市無差別爆撃としての)」の初期の実行者であり、それが世界史的出発点であったことは確かなことなのである。

 それに対し、ここでは、モノとしての重爆撃機の保有が「戦略爆撃思想」の到達地点であることを確認しておきたい。

 その意味で、戦略爆撃の思想を現実化・完成させたのは英米なのであり、その完成された「戦略爆撃思想」の効果を実際に味わうことになったのが、日独国民だったのである。

 

 

 

 

 ところで、「戦略爆撃思想」の基底にあるのは第一次世界大戦の経験であった。

 戦場における陸軍兵士の損耗率の高さ、つまり犠牲者数の事前の想像をはるかに超えた大きさが、参戦したヨーロッパ諸国に、新たな戦争の時代の深刻な脅威として意識されることになる。

 その第一次世界大戦は兵器としての航空機の登場の時でもあった。

 その両者が結びついたところに、戦場の背後の敵国の政治的経済的軍事的中枢及び国民(兵士ではなく市民としての)そのものを標的とした航空機による攻撃の有効性という発想が生み出されたわけである。戦争の勝敗を戦場で決するのではなく、戦略爆撃(特に都市無差別爆撃)により敵国民の戦意喪失を目指すことで、前線兵士の犠牲を最小限にとどめ、戦争の早期終結が可能となる(はずだ)というのが、その論理であった。

 

 しかし、現実には、都市無差別爆撃の実行は、敵国都市民の敵愾心をむしろ高揚させる結果となり、戦争の早期終結には成功していないのである。

 そしてそのことは、既に英国がドイツ空軍による都市爆撃の対象となった1940年の時点で、英国民には自身の経験として理解されている。しかし、その英国が、ドイツへの夜間都市無差別爆撃を推進していくのは、その後のことなのである。ここには、ドイツ市民に対する「報復感情」という後押しを見出すべきであろうか?

 

 いずれにしても、軍事理論としての「戦略爆撃(特に都市無差別爆撃)」を評価するならば、第二次世界大戦の経験から、その無効性こそが導き出されていなければならない(はずだ)。

 しかし、ヴェトナム戦争での米戦略空軍による「北爆」の実施は、依然としてドゥーエの理論が軍人達の中に生き残っていたことを示しているものであろう。

 

 戦闘(そして戦争)の勝利のために合理的に振舞う人々、という軍人像には、どこか誤りがありそうなのである。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/16 18:49 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113320

 

 

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無差別爆撃の論理 4 (特攻と戦略爆撃)

 

 「あの戦争」について語る時、「特攻」の問題を避けて通ることは出来ないだろう。

 

 

 特攻による戦死者を、崇高な精神の発揮者として賛美するか、無謀な戦争の果ての無責任な作戦の犠牲者として悼むのか、いずれにせよ、そこにあるのは軍の作戦としての自殺攻撃という手法なのである。

 近代における技術と生産力の発展という条件の下に、人類は二度にわたる「世界大戦」を経験することになった。技術革新と新たな兵器の登場。それが20世紀の戦争を語るに際し、あの時代の戦争の特徴的な姿として、私達に共有されているように思える。

 

 近代戦争、近代総力戦と呼ばれる戦争の形の背後には、技術革新と生産力の結合がある。そこからは、戦争遂行者としての軍隊が、技術革新の集約的産物である最新兵器を最後まで駆使し得るかに戦争の勝敗の帰趨がかかっている、という認識が生まれるだろう。

 「あの戦争」において大日本帝國の軍隊が追い込まれたのは、技術革新と工業的生産力に基づく戦争遂行という条件における無能力さという現実であり、特別攻撃という名の自殺攻撃の採用であった。そこには、兵器の操作者としての軍人・兵士の存在は既になく、人間の命そのものが攻撃兵器として「作戦」に使用されるという状況のみが残されていた。

 

 特攻による戦死者を賛美するにせよ、犬死として悼むにせよ、そこには近代戦争としては異様な用兵・作戦の存在があったことが、前提として理解・共有されているものと言い得るだろう。

 

 

 

 大西瀧治郎の名は、その特攻攻撃の組織者あるいは責任者の名として理解されている。近代戦争における非近代的な用兵・作戦の実行者、ということになるだろう。昭和19年10月に大西が第一航空艦隊司令長官として、特攻作戦の指揮を執ったことは事実である。

 しかし、大西の軍人としての生涯を見渡せば、彼自身はそのような非近代的用兵・作戦の発想から最も遠い場に身を置いていたことがわかる。

 第一次世界大戦後の世界に軍人として身を置いた彼は、戦争における航空力の優位を主張していた人物として、日本海軍で頭角を現すのである。戦艦の建艦能力と保有量が海軍の戦力を決するという当時の認識の中で、第一次世界大戦後の世界、第一次世界大戦後の戦争のあり方を、つまり近代戦争の現実を正確に理解していたのが大西瀧治郎その人、ということなのだ。

 

 

 

 たとえば荒井信一は、1936年の陸軍航空本部作成の『航空部隊用法』中の「政略攻撃」の項を、当時の日本陸軍における「戦略爆撃」思想の例として紹介した上で、

 一方、海軍では1937年7月、航空本部の意見パンフレットとして『航空軍備に関する研究』が関係者に配布された。起案者は、当時航空本部教育部長であり、のちに特攻作戦の発案者となる大西瀧治郎大佐であった。陸海軍の作戦への協力以外に戦略爆撃を実施する独自の戦力として空軍(純正空軍)の独立を説き、「純正空軍式航空兵力の用途は、陸方面においては、政略的見地より敵国政治経済の中枢都市を、また戦略的見地より軍需工業の中枢を、また航空戦術見地より敵純正空軍基地を空襲する等、純正空軍独特の作戦を実施するほか、要する場合は敵陸軍の後方兵站線、重要施設、航空基地を攻撃し陸軍作戦に協同するにある」と述べ、「純正空軍式の戦備」の急速な整備を急務と説いた(戦史叢書『海軍航空概史』)。
 …
 しかし、海軍ではパンフレットは部内の統制を混乱させるとして、回収を命じられた。海軍の主流にとっての関心事が、海上決戦の主力である主力艦を戦艦にすべきか航空母艦とすべきかという時代錯誤的な論争にあったからであろう。
     荒井信一 『空爆の歴史』 (岩波新書 2008)

と、海軍における戦略爆撃思想の理解者・主唱者として、大西瀧治郎の名を提示しているのである。

 

 支那事変の進展に伴い、

 海軍は陸軍の要請に応え、航空隊の主力を支那方面艦隊の指揮下に移し、第一・第二連合航空隊(司令部漢口)に配備していた。海軍きっての戦略爆撃論者大西瀧治郎は、1939年末に第二連合航空艦隊司令官に任じられ、奥地爆撃の強化に当たる。翌年4月10日付で各艦隊司令官などに配布された『海軍要務令(航空戦之部)』は、「要地攻撃」を「軍事政治経済の中枢機関、重要資源、主要交通線等敵国要地に対する空中攻撃」と定義している。作戦実施要領の骨子は、37年に大西が起案し「怪文書」として没収されたパンフレットの内容そのままである。「要地攻撃」の最大目標として重慶爆撃が本格化するのは39年5月からである。

という形で、近代戦における航空機の優位と戦略爆撃の有効性の論理を理解し、部隊司令官として攻撃を実行した人物としての大西瀧治郎の姿が、荒井により描かれている。

 

 

 

 しかし、海軍では艦隊決戦論者の下に戦艦大和・武蔵の建造が優先され、航空母艦及び航空兵力の充実は後回しにされることになる。真珠湾攻撃(大西の基本計画に基づく)の成功は、実戦での航空力の優位を証明するものであったにもかかわらず、そのことへの理解が得られたようにも見えない。

 そのような状況下で、米国の圧倒的な工業生産力との闘いとして大東亜戦争は進行し、生産力の絶対的劣位の中で大日本帝國は敗退していくのである。

 

 軍人として近代戦争を誰よりも理解していた人物が、航空本部教育部長としてパイロット養成の困難を誰よりも理解していたはずの人物が、「特攻」という「統帥の(統率の)外道」の作戦指揮を執る事態に陥るに至る軌跡は、この国の歴史の一断面として、「あの戦争」の現実を語る際に忘れずにいたいことの一つである。

 

 

 軍事理論としての「戦略爆撃」思想の先駆的理解者の一人が大西瀧治郎であったのであり、中国大陸における「要地爆撃」を実施する「戦略爆撃」の先駆的実行者の一人が大西瀧治郎であった。

 大東亜戦争の戦局の悪化の中で、その大西が「特攻」を指揮し、その祖国が容赦のない戦略爆撃の対象となっていく。空襲により荒廃した東京で、ポツダム宣言受諾に反対し、徹底抗戦を叫び続けたのも同じ軍令部次長としての大西瀧治郎であった。

 昭和20年8月15日、大西は渋谷の軍令部次長邸で自決する(靖国神社『遊就館 図録』によれば自決の日付は15日であるが、『ウィキペディア』によれば8月16日である)。

 

 

 

 

 

【大西瀧治郎】
 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E7%80%A7%E6%B2%BB%E9%83%8E
【無差別爆撃の論理】
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/cat33391635/index.html

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/15 20:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113240

 

 

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2009年7月30日 (木)

「無差別爆撃」の転回点 (2)

 

 昨日に続き、「第3回無差別爆撃シンポジウム」の参加報告である。

 

 

 

 

 昨日は、中山伊佐男氏(元 麻布高校教諭)による「日本への住民選別爆撃の実相-米軍研究資料から」と題された報告のご紹介をした。

 

 米軍資料自身に語らせることにより、米軍による日本本土都市空襲の実態が、目標を特定しないという意味での「無差別爆撃」と言うよりは、目標を都市住民とした「住民選別爆撃」と言うべきものであったことを、中山氏は明らかにしたのである。

 東京大空襲の資料を中心に据えながらも、富山や青森の事例も盛り込まれた説得力ある報告であった。

 

 中山氏は、あと2ヶ月で80歳となる79歳。ご自身も東京大空襲を体験し、疎開先の富山の空襲では母上を失っている。まさに戦災当事者による研究ということになる。

 

 

 

 続いての発表は、木戸衛一氏(大阪大学大学院准教授)による「ドイツにおける空襲研究をめぐって」であった。

 司会役の大岡氏による問題提起中の、

 2. 〈空襲・戦災の比較史〉-共通の歴史理解のために
 3. 空襲記憶のゆくえ-〈「空襲後」史〉の国際比較

に応えるものと言うことが出来るだろう。

 

 前回のシンポジウム「世界の被災都市は空襲をどう伝えてきたのか - ゲルニカ・重慶・東京の博物館における展示/記憶継承活動の現在」でも焦点となったことであるが、戦後(空襲後)の政治的環境が空襲体験の継承の仕方に大きな影響を与えてしまうという事実がある。フランコ政権に敵対していた都市であるゲルニカへの無差別爆撃に関して、当地で言及することが出来るようになったのはフランコ政権崩壊後のことであったし、蒋介石の国民政府の首都であった重慶に対する日本軍の無差別爆撃に関しても、共産党支配下の中華人民共和国では話題となりにくいものであったということが、昨年のシンポジウムではそれぞれの当事者によって語られていたのである(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-5976.html)。

 そのもう一つの具体例として、戦後ドイツの経験があるということが、木戸氏による報告では明らかにされたわけだ。

 

 戦後のドイツとは、東西に分断されたドイツである。共産主義者の世界と資本主義下の世界。ソ連に主導された世界(ドイツ民主共和国=東独)と米英をパトロンとした世界(ドイツ連邦共和国=西独)、ということだ。

 ドレスデンを領域に抱えた東独では、あの戦争における被害体験とは、米英による無差別爆撃によるものに他ならない。ソ連による国境線の移動に伴う東方地域からの追放者の被った悲惨な運命こそが、戦後の西独における戦争被害体験の語りの中心となった。つまり、そえぞれに語りうる戦争における被害体験の背後には冷戦構造があった、ということなのである。

 しかし、東独の吸収という形となった東西ドイツの統一は、統一後のドイツにおける東独時代の研究業績の軽視を生み出すことにもなり、その一例として東独の軍事史家グレーラーによる『ドイツに対する爆撃戦争』(1990)が紹介されていた。

 全体として、1960年代に始まり現在に至るドイツにおける空襲研究の展開が、大岡氏による問題提起を踏まえながら、木戸氏により手際よく示された報告であった。

 

 

 日本とドイツの共通の事象として、あの戦争における被害者としての側面と共に加害性という大きな問題がある。空襲の被害を強調し語ることが、時に、加害性の隠蔽として作用してしまうのである。それが意図的に行われることさえあるだろう。

 その意味で、「無差別爆撃」という軍事的手法を世界に先駆けて組織的に採用したのが日本(南京そして重慶で)とドイツ(まずはゲルニカで)の爆撃機部隊であったという事実は、常に思い起こしておきたい。その上でこそ、米英の実行した「無差別爆撃」の問題性は語られるべきだろう。日独の採用した軍事的手法の延長に、米英により実行された無慈悲な無差別爆撃が存在するのである。

 同時に、被害者の姿の見えないところで、つまり加害の事実から遠く引き離されたところで実行される「爆撃」という手法は、21世紀のイラク戦争まで続いていることも忘れずにおきたい。

 シンポジウム参加者が、大岡氏による、

 1. 〈空爆の世界史〉における東京大空襲の位置-第二次大戦後を見据えて
 2. 〈空襲・戦災の比較史〉-共通の歴史理解のために
 3. 空襲記憶のゆくえ-〈「空襲後」史〉の国際比較

という問題提起を念頭に据えた上で、それぞれの報告に接していたことを考えれば、上記の私の認識も広く共有されていたものに思える。

 

 

 

 最後の質疑において、「無差別爆撃」推進の論理を支えていた、

   その効果としての銃後の敵国民の戦意の喪失

は実際に達成されたのかどうかという問題が論じられたが、日独共に、無差別爆撃による被害が戦争終結(降伏)をもたらすことはなかったという事実こそが、その答えとなるのであろう。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/07/29 21:55 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/111554

 

 

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2009年7月29日 (水)

「無差別爆撃」の転回点 (1)

 

 昨日、つまり2009年7月27日、御茶ノ水の明治大学に出かけ、「第3回無差別爆撃シンポジウム」に参加して来た。

 

 

 一昨年が、「無差別爆撃の源流 ― ゲルニカ・中国都市爆撃を検証する」(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-156e.html)というタイトル、昨年のシンポジウムは、「世界の被災都市は空襲をどう伝えてきたのか - ゲルニカ・重慶・東京の博物館における展示/記憶継承活動の現在」(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-5976.html)というタイトルで開催されている。今年は、「「無差別爆撃」の転回点 -ドイツ、日本都市空襲の位置付けを問う」というタイトルでの開催であった。

 

 

 

 開始時間である14時になり、まず、司会役の大岡聡氏による問題提起という形で今回のシンポジウムの焦点が説明された。

 レジメの文言を引用すれば、

 1. 〈空爆の世界史〉における東京大空襲の位置-第二次大戦後を見据えて

 2. 〈空襲・戦災の比較史〉-共通の歴史理解のために

 3. 空襲記憶のゆくえ-〈「空襲後」史〉の国際比較

ということになるが、これまでのシンポジウムで論じられた、歴史的時間軸と空間的拡がりの両面からの、「戦略爆撃」としての「都市無差別爆撃」という軍事的手法の展開を、前記3つのテーマに視点を据えてあらためて検証するということである。

 一昨年のシンポジウムでは、ゲルニカ・重慶に加え、それに先立つスペイン領モロッコでの空爆の実態等が取り上げられ、「東京大空襲」に至る「無差別爆撃」という軍事的手法の歴史的展開が、植民地主義との関連と共に報告されていた。

 昨年のシンポジウムでは、ゲルニカ、重慶及び東京の「空襲記録展示施設」の関係者の出席により、空襲記録の保存・記憶の継承という問題が、博物館展示という側面から語られていた。

 今回はそれを受けてのテーマ設定ということになるだろう。

 実際の報告及び議論は、時間的制約もあり、目論見のすべてを達成するところまではいけなかったようにも思うが、少なくとも大岡氏による問題提起により、参加者はイラク戦争までも視界内に想定した上で、それぞれの報告を聞き、質疑に参加したわけである。

 

 

 2人の報告者と、1名の論文参加者により、前記のテーマが具体的に論じられ、その上でコメント提供と質疑・討論という形でシンポジウムは進められた。

 

 

 

 まず、中山伊佐男氏(元 麻布高校教諭)による報告。タイトルは「日本への住民選別爆撃の実相-米軍研究資料から」である。

 

 「米軍研究資料」というのは、「米国戦略爆撃調査団報告書」を中心とした米国側の詳細な記録のことだ。1972年の大統領命令第11652号により機密指定が解除され、参照可能となったものである。つまり、東京大空襲を始めとした日本本土都市無差別爆撃の実行者自身による作戦計画と事後報告資料であり、極めて信頼性が高いと評価されているものなのである。

 

 中山氏は、まず、1945年3月10日のいわゆる東京大空襲=作戦任務40号の「作戦任務報告書」に付された「前書き(Foreword)」部分に注目する。

 そこには、東京・名古屋・大阪・神戸の市街地を目標と指定した上で、

 これらの攻撃の目的が、都市の市民を無差別に爆撃する(bomb indiscriminately civilian populations)ことではなかったということは注目すべきことである。目的は、これらの四つの重要な日本の都市の市街地に集中している工業的、戦略的な諸目標を破壊することであった。

と書かれているのである。

 中山氏はその報告で、目標情報票を始めとした実際の米軍側作戦計画の詳細資料を検証することにより、「前書き」の文言にある攻撃目的である「工業的・戦略的諸目標の破壊」が、空襲の実態と乖離していることを明らかにしてみせるのだ。

 米軍資料で「 Zone Ⅰ(焼夷地区1号)」として表示されている地域は正式には「Zone R1」なのだというのである。この「R」は(Residential)の略号なのであり、つまり住宅区域であることを示しているというのだ。つまり、米軍は事前の周到な情報収集により、住宅区域としての地域特性を掌握した上で、爆撃目標としての設定をしている事実が、米軍資料を活用することにより明らかにされているのである。

 中山氏の言葉を引用すれば、

 住居と工場が混在する地域である Zone X (Mixed Industrial Residential Zone)を攻撃目標とした爆撃であるのであれば、無差別爆撃といってもよかろう。しかし、3月10日の東京大空襲を始めとして、多くの都市の空襲は、住民を攻撃目標とした爆撃であると断ぜざるを得ないので、『住民標的爆撃』、『住民選別爆撃』というのが実相を示す表現である…

ということになるのである。

 「無差別爆撃」という用語が、特定の目標を対象とした「精密爆撃」との対比で用いられるものであるのに対し、実際には都市住民そのものをターゲットにしている(つまり目標として特定している)という意味で、米軍による日本の都市爆撃を「住民標的爆撃」あるいは「住民選別爆撃」として再定義することへの提案、と言えばよいだろうか?

 

 

          (続く)

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/07/28 22:03 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/111462

 

 

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