カテゴリー「フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛」の記事

2009年3月24日 (火)

フィンランドの「救国の戦犯」と日本の亡国の戦犯をめぐって

 

 「フィンランドで「救国の戦犯」に光」というタイトルの記事が、産経新聞から配信されていた(→ http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090323/erp0903232135001-n1.htm / http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090323/erp0903232135001-n2.htm / http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090323/erp0903232135001-n3.htm)。

 3月23日付、22時2分ということなので、紙面としては24日付になってるのかも知れない。

 

 実は昨夜、「現代史のトラウマ」のアクセス・ログの検索語をチェックしていたら、「フィンランド」や、かつての戦時の大統領名「リュティ」によるものがあった。検索元にアクセスしてみたら、上記の記事があったわけだ。

 

 

 

 

 検索を頼りに、周辺の話題を読むと、かつての戦犯の復権という文脈から、「東京裁判史観批判」にご執心の田母神信者(?)の皆さんが盛り上がっているのが見て取れた。

 私自身、「フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛」シリーズを書いた身である(カテゴリ「フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛」の過去記事参照→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/cat33391329/index.html)。盛り上がる人々に対し、ひとこと言っておきたい。

 

 

 

 その前に、上記の記事を読むと、紹介されているテュートラ博士によるリュティの伝記の出版年は1994年となっており、「復権」の動き自体は新しいもの(つまり「ニュース」)ではない。そもそもが、1956年のリュティの死に際し、その葬儀は「国葬」として執り行われているのである。フィンランド国内におけるリュティの評価がまったく低かったわけではない、ということになるだろう。ただし、対ソ関係の上での配慮も必要であったのである。

 そういう意味では、まさに冷戦後の世界が、伝記出版を可能にしたわけだ。

 上記の記事が、現在のニュースとして書かれる理由があるとすれば、2009年が、「冬戦争」から70周年に当たるということにあるだろう。

 

 

 記事自体にあるように、リスト・リュティは、対ソ戦争時におけるフィンランドの政治指導者であった(首相、そして大統領)。

 「冬戦争」および「継続戦争」という、2度のソ連を相手にした戦争は、どちらもソ連による都市無差別爆撃によって開始されているものだ。あくまでも攻撃側はソ連であり、フィンランドは被侵略国なのである。

 

 「冬戦争」時には、ソ連はナチス・ドイツの同盟国であり、共にポーランドを侵略・分割しており、フィンランド攻撃の結果として、ソ連は「国際連盟」を除名されている。

 「冬戦争」終結後のフィンランドにとり、ソ連の脅威に対する軍事的援助の確保は依然として重要事であった。その時点でそれが可能なのはナチス・ドイツであった。そして、実際にフィンランドは、ナチス・ドイツからの軍事援助を確保するのである。

 しかし、1941年6月22日、ナチス・ドイツはソ連への侵攻を開始する。結果として、ソ連は連合国側の一員となり、フィンランドは枢軸国側に組み入れられてしまうことになる。

 そして戦後世界においては、フィンランドが国際連合の敵国条項の適用対象とされ、リュティが戦争犯罪人として取り扱われることになるのである。そもそもが、フィンランドを主語にして事態を考えれば、不当な話なのである。

 その間の詳細は、「フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛」をお読みいただきたい。

 

 

 いずれにしても、政治指導者としてのリュティの努力はフィンランドの独立の維持に注がれており、その努力は実ったのである。

 フィンランドは、ソ連による軍事侵略の撃退に成功したし、ナチス・ドイツの占領下にもならなかった。後にワルシャワ条約機構に組み込まれることになる東欧諸国にとり、ソ連がナチス・ドイツからの「解放者」であったのに比し、ソ連との休戦後の対独戦争(ラップランド戦争と呼ばれる)をフィンランドは独力で闘い抜いた。

 その過程の背後に存在したのが、軍事的指導者としてのマンネルハイムであり、政治指導者としてのリュティであったのである。

 

 

 

 「産経新聞」の記事にあるように(ここを田母神信者の方々には見落として欲しくないのだが)、戦後の「戦犯裁判」はあくまでもフィンランドの国内法(臨時立法によるものではあるが)によるものであった。「東京裁判」とは、まったく性格が異なるのである。もちろん、その背後には、戦勝国であり軍事大国であるソ連の存在がある。リュティの「戦犯」認定は、あくまでも軍事大国に隣接する小国家という条件の下での政治的なものなのであり、フィンランド人自身にとってのリュティ評価は、その死に際しての「国葬」という待遇に現れていると考えるべきだろう。

 

 

 

 記事中にある、

 

テュートラ博士は「継続戦争の開戦、ナチスとの取引、戦争責任裁判、服役のすべてがリュティにとり祖国への献身だった。ロシアで権威主義が台頭する中、わが国にとり彼の生きようを検証することはさらに重みを増してくる」と語っている。

 

…という言葉の背後には、独立の維持に大きな貢献をした政治家としてのリュティへの評価として、フィンランド人に共有された認識があるはずだ。

 

 

 

 

 さて、「東京裁判」である。

 被告を裁いたのは、日本ではない。日本人により、日本という国家により裁かれたのではない(そこがリュティとは異なる)。

 「東京裁判」の「被告」は、連合国に対する責任を裁かれたのであって、大日本帝國に対する彼らの責任が裁かれたわけではない。

 大日本帝國に対し、彼らに責任があるとすれば、亡国という事態を招いた政治的・軍事的指導の責任ではないだろうか? 大東亜戦争の結果、大日本帝國は、あるいは日本は、国家としての独立を失ったのである。

 リュティのフィンランド国家・国民に対する功績は明らかである。リュティの存在により、フィンランドは困難な状況下での独立の維持を確保し得たのである。

 「東京裁判」の被告はどうであろうか? 大日本帝國に訪れた「亡国」という事態は、彼らの「功績」なのだろうか?

 

 もちろん、、彼らの責任は、日本国民により裁かれなければならない。

 

 

 

〔追記〕

 戦後フィンランドの置かれた政治外交に関する対ソ従属的状況に関し、「フィンランド化」という揶揄的表現が存在するのは事実である。しかし、実際のフィンランドの戦後史を知ることで、戦後日本の主権放棄的対米従属状況とは異なる戦後フィンランドの政治的外交的努力を、その対ソ防衛力構築実現過程を追うことで理解していただきたい(フィンランドの仮想敵国は、戦後も一貫して、あくまでもソ連だったのである)。
 これまでの「フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛」シリーズ全体を読むことで、その歴史的経緯に触れることが出来るはずである。
 ソ連を利用した対ソ軍事力整備(!)の事実と、国連を舞台とした中立外交の成果(国家としての国際的信頼の獲得)は、戦後フィンランドの政治的外交的成功を物語るものであろう。そこにあるのは、軍事的強国としての隣国ソ連の存在という地政学的制約の重圧の一方で、あくまでも独立国家としての実質的な主権の維持を目指したフィンランド国民の努力なのである。
 その歴史を知ることで、「フィンランド化」という表現の安易さに思い至ることも出来るはずである。
                    (2010年11月15日記)

 

 

リスト・リュティ

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%86%E3%82%A3

フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛(カテゴリ)
→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/cat33391329/index.html

 フィンランドの歴史、あるいは軍事力による防衛 (1)
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 フィンランドの歴史、あるいは軍事力による防衛 (2)
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 フィンランドの歴史、あるいは軍事力による防衛 (3)
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 フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (6)
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 フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (7)
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 フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (8)
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 フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (9)
  → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-5027.html

 フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (10)
  → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-b43e.html

 

 

 

 
 

(オリジナルは、投稿日時:2009/03/24 21:24→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/99111

 

 

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2008年12月 4日 (木)

フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (10)

 

 フィンランドの歴史的経験を、国家の独立の維持という側面から見て来た。

 かつてフィンランドを侵略の対象とした、軍事大国としてのソ連という隣国との関係が話題の中心となっている。

 軍事力の整備状況の進展と、その際の軍事戦略のあり方に焦点を当てながら論じて来たが、外交のあり方にも言及して来たつもりだ。

 ソ連の軍事戦略に組み込まれながら、ソ連軍に対抗しうる軍事力を育成すること。それが戦後フィンランドの課題であった。

 1980年代を通じて、フィンランドは、当初からの目標であった軍事力レベルの確保を達成する。

 一方で、フィンランドが組み込まれていた(フィンランドに限ったことではなかったが)東西冷戦状況もまた、1980年代の終わりには変化しつつあった。

 1989年に至り、ついにベルリンの壁は崩壊する。

 1991年にはワルシャワ条約機構は完全に解体され、同年12月には国家としてのソヴィエト連邦自体が消滅してしまった。世界を覆っていた、冷戦という状況は終焉を迎えたのである。

 東西対立の終焉は、国際的に平和と軍縮の可能性の到来を期待させるものであったが、フィンランドの軍備に関する基本政策変更はなかった。

 ロシア帝国の支配から独立し、ロシア帝国の継承国家としてのソ連の侵略と戦い、戦後はソ連の軍事的外交的戦略に組み込まれながらも、ソ連に対抗しうる軍事力の育成を続けてきたのがフィンランドという国家であった。冷戦は終結しても、ソ連の継承国家としてのロシア連邦共和国は依然として強大な軍事力に支えられた隣国であり続けているのである。

 冷戦終結にもかかわらず、強大な軍事力を保有した自国の独立を侵害する可能性ある国家と、長い国境線を共有しているという状況には変化は無いと判断する理由はあると思えるだろう。1990年代に入っても、フィンランドが軍縮という選択をすることはなかった。

 かつてのソ連との友好協力相互援助条約は1992年に破棄されている。

 フィンランド空軍は、米国製F-18戦闘機の購入配備に着手する。

 1992年1月20日に、フィンランドがロシア連邦共和国との間に結んだ新たな条約には、2国間の軍事的協議義務の記述はない。米国製戦闘機購入の障害になるものはないのである。

 冷戦終了は、かつて「フィンランド化」と揶揄されたような状況からフィンランドを救い出した。独立の維持は守り続けられたにせよ、外交的軍事的に、ソ連の意向への配慮の下に政策決定を余儀なくさせられていた時代は過ぎたということだ。

 対等な二国間関係が獲得されたことになる。

 しかし、一方で、ソ連との緊密な関係の終焉が与えるフィンランド経済への影響も無視出来ぬものであった。

 1980年代の高成長経済は、バブル状況を生み出し、1990年代の初めには、銀行の破綻に至る事態になっていたが、ソ連との関係の終焉もまた、ソ連との貿易に依存していたフィンランド経済に打撃を与えるものとなったのである。

 フィンランドは産業構造の改革と、福祉支出の削減を含む政府対応により、21世紀には危機的状況の脱出に成功する。

 ちなみに、現在、評価を高めつつあるフィンランドの教育改革もまたこの時期に起源を持つものだ。1992年に既に教科書検定制度が廃止となっており、教育改革の中心人物として語られることになるヘイノネン教育相の就任は1994年のことである。

 重要なのは、福祉予算の削減も、脱福祉国家を目指すものとしてではなく、福祉国家としての持続のためと理解されているように見える点であろう。

 フィンランドの経験から何を学ぶべきかについて議論する際に見落としたくない側面である。

 また、これまでも繰り返し述べてきた、国際紛争発生に際しての、フィンランドの国連によるPKOへの一貫した協力姿勢と共に、仲介外交に代表される非軍事的努力もまた、一貫して続けられて来たものだ。

 冷戦終了後の特徴は、チェチェン問題へのロシア非難を伴う介入など、これまでのソ連時代では不可能であった対応が出現したことであろう。

 紛争処理に当たってのフィンランドによる非軍事的努力は、冷戦終了後、これまで以上に国際間の信頼を得るものとなっている。

 さて、では、21世紀もなおフィンランドは軍事力の増強を目指しているのだろうか?

 答えはNOである。

 正確には、軍事的脅威への評価の変化に基づく、軍事戦略の変化ということになるだろう。

 それは、在来型の戦争、国家の正規軍同士の戦闘による戦争の可能性の低下という、1990年代以降の紛争のあり方の変化がもたらす、認識の枠組みの変化によるものだ。

 アフリカの内戦状況、そしてテロという非国家的な、しかし国家を対象とした暴力手段の登場は、低強度の不正規戦こそが新たなリアルな脅威であるとの認識をもたらした。

 防衛体制構築の前提も大規模攻撃への対処から、限定的攻撃への対処の比重を大きくしたものへの変更され、動員力より緊急の即応性が重要視されるようになる。

 もちろん、徴兵制度に支えられた防衛縦深が存在意義を失ったわけではない。しかし、紛争形態の変化に対応し、国防力の重点が変更されたことも確かなことなのである。

 具体的には、陸軍兵力の削減として現実化するものだ。それは、兵器の近代化は続けつつも、兵員の削減を進めるという形をとる。

 一方で、海・空軍力規模については現状維持である。

 あくまでも防衛のための軍事力という選択からの帰結であろう。存在するのは、あくまでもリアリズムなのである。

 フィンランドはフィランドであり、日本は日本である。そこにあるのは異なった歴史的経験であり、異なった歴史認識であり、異なった現状認識である。

 しかし、フィンランドの持つリアリズムに学ぶべき点はあると、私は思う。

 日本人の想像力を鍛える上で、日本人のリアリズムを鍛える上で、フィンランドの経験から学べることは多い、と思う。

 フィンランドは日本から何を学ぶのであろうか?

 フィンランドは日本から何を学べるのであろうか?

 いささか気になる点である。まぁ、私にとっての話だが。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/03/11 20:48 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/60702/user_id/316274

 

 

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フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (9)

 

 フィンランドの戦後について書き出してみたが、まだやっと1960年代に差しかかったところだ。にわか勉強の割りに話題が尽きない。

 1930年代から1940年代にかけての「世界大戦」の時代の経験が、まず私たち日本人の想像力を超えていた。そして「戦後」の国際政治の中での生き残り方もまた、私たちの想像力の及ばないあり方を示すものだった。

 そもそも日本人には、強大な軍隊による侵略を受けるという体験はない。

 それ以前に、異民族の統治する「帝国」から、民族国家としての「独立」を達成するという体験自体が存在しない。

 フィンランドにおける「世界大戦」の時代とは、ロシア「帝国」の継承国家であるソ連からの侵略と、それに対する軍事力を用いての阻止、そして独立の維持の成功体験として記述される。

 軍事力は、国家としての独立の維持に不可欠なものとして理解されることになる。そこにあるのは、あくまでも「防衛」のための軍事力である。

 国家領域の拡大のための、国境線の外で行使される軍事力ではなく、国境防衛のために発動される軍事力ということだ。

 大日本帝國の行使した軍事力とは全く性格の異なる軍事力のあり方である。戦後の日本を占領統治し、現在に至るまで外交的に(軍事的にも)依存関係にある米国の保有する軍事力の性格とも異なるものだ。

 日本にもそのような軍事力が必要である、という主張をしようというわけではない。けれど、そのような軍事力のあり方への想像力を持つことは必要だ、と思うわけである。

 さて、1961年に戻る。

 米国ではケネディが大統領に就任し、キューバが社会主義国宣言をし、ベルリンの壁が建設されたのも、この年の出来事である。

 フィンランドでは「ノート危機」と呼ばれる、対ソ関係での問題に直面することになった。

 東西冷戦の緊張状況の中で、ソ連はフィンランドに対し、フィン・ソ友好協力相互援助条約第2条に基づく軍事的協議の開催を求めた。フィンランドは、ソ連との公式の軍事的協議の開催に応じることは、社会主義圏のソ連の同盟国として国際的に認知されてしまうと判断する。結果として、条約上の公式協議としてではない形式の首脳会談(ケッコネンとフルシチョフによる)の設定で、問題を回避することに成功した。

 その首脳会談の際に、フルシチョフにより、フィンランドの空軍力の脆弱性についての不安が伝えられた。

 冷戦が激化する中で、ソ連はフィンランド経由の攻撃を受ける可能性を考慮しなければならない。相互援助条約では、フィンランドに攻撃撃退義務が課せられているのだが、当時のフィンランドの空軍力では攻撃撃退能力に不安を持たざるを得ないというのが、ソ連側の提示した問題のひとつであった。

 つまり、フィンランドは、ソ連から空軍力の充実を求められたのである。

 パリ条約締結時には、ソ連が求めたのは、フィンランドの軽武装化であった。

 それが1961年には、フィンランドの軍事的充実が、ソ連の利益として考えられるようになっていたのである。

 ソ連の軍事戦略上、フィンランドの空軍力の充実が求められたということだ。

 フィンランド側から見れば、フィンランドの独立にとっての脅威は、ソ連の軍事力である。フィンランドの軍事戦略上も、空軍力の充実は、ソ連の軍事的脅威への対抗上、必要なものであった。

 結果として、フィンランドは、ソ連からミグ21超音速ジェット戦闘機を購入することになる。

 ソ連にとり、フィンランド経由のソ連への攻撃に対応するに有効なフィンランドの戦力であり、フィンランドにとっては、軍事大国ソ連の脅威に対応するに有効なフィンランド自身の戦力となるものであった。

 こうしてフィンランドは、空軍力の近代化に成功したのである。

 その後の1960年代は、防衛力強化計画は策定されたものの、政治的支持が弱く、予算不足のままに経過することになる。

 状況が変化するのは、1970年代に入ってからだ。

 1970年に議会国防委員会が設置され、中立監視能力には問題はないが、戦闘用軍事力は不十分とのレポートを提出する。

 70年代前半に、スウェーデンからドラケン戦闘機、ソ連からの沿岸防衛用ミサイル艇の購入に加え、地上軍の各種武器の充実が図られた。

 1976年には、第二次議会国防委員会のレポートが再び防衛力の不足を指摘し、ミグ、ドラケン各ジェット戦闘機の追加購入に加え、各軍の戦力充実が達成される。

 1970年代前半にヴェトナムから米軍は撤退し、1970年代の終わりにソ連はアフガニスタンに侵攻した。1975年7月にはヘルシンキで全欧安全保障会議が開催されている。

 フィンランドは、軍事力の充実と同時に、非軍事的安全保障の追及もしていたということになるだろう。アフガニスタン侵攻という形で、ソ連の軍事的脅威が現実化する時代の出来事として考える必要がある。

 70年代を通して達成された軍備の近代化により、地域防衛システムも完成する。横のラインでの前線で防御するのでなく、あの縦深防御である。

 今や、全国土を防衛縦深として想定し、小部隊によるゲリラ戦と遅滞戦により侵入軍を消耗させ、最終的に撃滅することが可能になったと考えられた。

 「冬戦争」における戦闘スタイルであると同時に、あくまでも防御のための戦略である。

 そこでは、国家としての独立の維持が賭けられているのである。異民族の支配を拒否し、国民の生命と安全を確保することが軍事力保持の最終目標だ。

 一方で、1960年代から1970年代にかけてのフィンランドは、経済発展を重ねると同時に、福祉国家としての国家基盤の整備にも成功していた。

 1960年代には被雇用者年金制度、1970年代には無料医療制度、自営業者・農業者の年金制度、そして労働時間の短縮が実現されているという。

 福祉国家は守られねばならない。

 1980年代を通じて防衛力整備は継続された。

 ソ連がアフガニスタンで軍事力の行使を続けていた時代の出来事である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/03/10 21:16 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/60630/user_id/316274

 

 

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フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (8)

 

 1952年、フィンランドはソ連への賠償支払いを完了した。1952年は、ヘルシンキ・オリンピック開催年でもある。

 ヨーロッパ諸国が、マーシャル・プランによる復興を戦後のスタートと出来たのに対し、冷戦へ向かう国際関係の下で、フィンランドはソ連との関係を重視せざるを得ず、マーシャル・プランへの参加は見送られた。つまり、マーシャル・プランによる、米国の資金に基づいたヨーロッパの戦後経済復興の枠外で、フィンランドはソ連への賠償支払いを完了させ、オリンピックを成功させることが出来たのである。

 1952年は、「敗戦国」としてスタートせざるを得なかったフィンランドの「戦後」にも一区切りがついた年、と言えるかもしれない。

 1950年代のフィンランドは、オリンピック開催に続き、1955年に国連と北欧協議会への加盟を果たし、国際社会への復帰に成功した。

 1955年には、ソ連との関係にも大きな変化があった。

 ソ連に提供させられていた、ヘルシンキ郊外ポルッカラのソ連軍基地が、フィンランドの中立政策へのソ連高官の賛辞の下に返還された。外国の軍事基地が国内に存在する状態が解消されたことになる。フィンランドの「独立」が実のあるものとなっていくための大きな一歩であった。

 1955年は、西独が、米国を中心とした軍事同盟であるNATO(北大西洋条約機構)へ加入した年でもあった。ソ連は、NATOへの対抗策として、東欧諸国による軍事同盟である、ワルシャワ条約機構を設立する。

 フィンランドは、その中立政策により、NATOへの参加はしていなかったが、ワルシャワ条約機構へも参加することなく、冷戦期を生き抜くことになる。両軍事同盟への不参加は、中立政策の帰結であると同時に、国際社会における中立国家としてのフィンランドの認知の基盤ともなるものであっただろう。

 ポルッカラ基地の返還について言えば、フィンランド国内からのソ連軍の撤退であると同時に、ソ連軍がそれまで果たして来たフィンランド湾の防衛義務をフィンランド軍が求められることを意味した。結果として、沿岸防衛用の艦艇の充実が図られることになるなど、フィンランド軍の軍事力の再構築が、ソ連の要求の下に具体化していくことになる。

 1950年代前半の、対空レーダー、英国製バンパイア・ジェット戦闘機の導入(6機)に続き、新たな国産の対戦車火器の採用や、英国製ナット・ジェット戦闘機(12機)が空軍力として加わるのがこの時期である。

 ワルシャワ条約機構諸国におけるソ連に依存した軍事力整備と異なる、英国製ジェット戦闘機の採用もまた、中立政策の反映として理解出来るだろう。もちろん、ソ連の容認獲得を抜きに、英国製戦闘機採用は考えられないことから、ここにもフィンランド外交の成功を推測出来る。

 フィンランド経由でのソ連攻撃の撃退義務に加え、フィンランド湾の防衛というソ連の要求に沿う形での軍事力の充実への流れの一方で、国連加盟後のフィンランドは、国連の平和維持活動(PKO)への積極的参加を開始する。

 1956年の「スエズ危機」に伴う、国連緊急軍(UNEF)への参加(UNEF自体が国連による平和維持活動の最初の試みでもあった))以来、現在に至るまで、フィンランドは国連の平和維持活動の重要なメンバーであり続けている。

 国連の平和維持活動への積極的参加の継続は、フィンランドの中立政策の具体化した姿として、国際社会におけるフィンランドの信頼性の向上に結びつくものとなっている。

 非攻撃的、あるいは非侵略的な軍事力というあり方を、ここに見出すことが出来るように思う。

 日本人の想像力が及んでいない軍事力のあり方ではないだろうか。

 軍事力が支配している現実世界で、軍事力の行使による紛争の抑止のために、対抗しうる軍事力の存在が依然として有効に働き得るという認識は誤りではないだろう。

 もちろん、その認識は、非軍事的介入の意義を否定するものではない。

 そして非軍事的介入もまた、フィンランドが実際に試み続けて来たことでもある。

 日本は、日本人は、その間、何を議論し続けていたのだろうか?

 さて、フィンランドは、パーシキヴィ大統領の時代からケッコネン大統領の時代を迎える。

 パーシキヴィ・ケッコネン路線と、後に呼ばれることになるフィンランド外交の基本は、戦争の経験を反映した徹底した対ソ友好政策であった。ソ連が現実的に友好的な隣人であるかどうかは問題ではない。フィンランド自身が、ソ連にとっての友好的な隣人として振舞い続けることの重要性を認識した結果の政策である。

 パーシキヴィ自身は反共主義者であったし、ケッコネンも「冬戦争」後のモスクワ平和条約締結に反対し、対ソ戦争としての「継続戦争」の支持者でもあった。

 パーシキヴィは、1944年10月にマンネルへイムの下で首相となり、1946年3月には大統領に就任したのだが、その現実主義はソ連との友好を基調とした中立主義を選択する。

 ケッコネンが、当初の対ソ戦争の支持者から、対ソ和解の推進者となるのは1943年のことであったという。1956年の大統領就任後も、その姿勢に変化は無かった。

 ソ連という軍事大国を、長い国境線を共有する隣国として持たざるを得ない小国の、それ以外にはあり得ない選択ではある。しかし、その際に課題とされているのは、あくまでも国家としての独立の維持であったし、その課題は達成されたと、現在の視点から判断出来るだろう。

 1957年には6人の閣僚で構成される国防委員会が設置され、国防計画の作成と助言に携わるようになる。1958年には、市民防衛法の制定、経済防衛準備の開始、防衛調整計画委員会の設置が決定され、1961年には国民に対する防衛計画が開始されることになった。

 この時期のフィンランドにおける軍事力整備の一環としての、空軍における練習機の大量購入は、フィンランドにおける軍事的リアリズムを理解する上で見落とすべきではないだろう。

 既にパリ条約で、実戦機60機という空軍の航空機保有制限が定められていた。それに対し、フィンランド空軍はこの時期、練習機の大量購入を行うのである。スウェーデンからサーブ・サファイア初等練習機30機に加え、フランスからマジステール80機という練習機の購入を果たす。フィンランド空軍の保有するジェット戦闘機が、バンパイア6機ナット12機という時点、実戦ジェット戦闘機わずか18機という時点での話だ。

 対ソ戦争の経験は、パイロットの消耗という実戦の現実と、その後の補充の必要性を強く認識させるものとなった。小規模な空軍であっても(であるからこそ?)、潜在的なパイロット養成が必要とされるということであろう。

 同時に、戦時の空軍力の拡大の必要を見越した、余裕ある空軍基地施設の整備と、戦時に十分に対応しうる装備の用意が進められた。

 その他にも、空軍学校の設立に加え、長距離レーダーシステムが英国から導入されている。

 しかし、実戦機の不足もまた依然として事実であった。

 陸軍戦力としては、野砲、歩兵用携行火器の開発、英国からの戦車購入に加え、ソ連からも戦車、対空戦車等の購入が進められた。

 その結果として、常備軍の装備は国際的水準のものとなったが、予備役50万人分の装備は旧式なままにとどまった。

 そして1961年に至り、空軍力の充実、十分な実戦機の確保に成功するが、これもまたソ連の意向による形を取るものであった。

 そのいきさつもまた、実に興味深いものである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/03/09 14:43 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/60494/user_id/316274

 

 

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フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (7)

 

 大國ソヴエトの周辺にある、人口四百万の小國フィンランドは、みずからの独立をどのように保つかについての、最後の結論をはっきりとつかんだようだ。みずからの独立と、平和とを、誰の手にもよらずみずから守る精神、フィンランドがこの精神を捨てない限り、「カレワラの平和境」は、長く独立を楽しむことができるであろう。

 

 斎藤正躬『独立への苦悶-フィンランドの歴史-』(岩波新書 昭和26年)は、このような言葉で結ばれていた。

 では、実際のところは、どのような歴史的経過を示しているのだろうか? 57年後の視点から振り返ってみよう。

 

 ソ・フィン戦争の折には、モスクワはフィンランドの戦力を、誤算したようだ。だがこんどは、誤算しようにもフィンランドは武力を持っていないのだ。

 

と、斎藤は書いている。

 実際、1947年のパリ条約では、あらためて戦後フィンランドの軍事力に対する制限が明確化されていたが、それは、

第13条 陸海空軍及び要塞の保持は、国内的性格の地域的国境の防衛のための戦闘任務に限定される。前掲に従いフィンランドは以下を越えない範囲で国軍を構成する。

 (a) 陸軍は国境警備隊と対空砲兵も含めて3万4400名とする。

 (b) 海軍は人員4500名、総トン数1万トンとする。

 (c) 空軍はあらゆる航空機及び保管航空機を含めて60機とする。フィンランドは爆弾倉を装備する爆撃機を保有しない。

 

という条文に示された通りの、保有する軍事力の大幅な削減要求であった。そこでは、53万名に及ぶ動員体制から、3万人規模の常備兵力への削減が求められていた。

 しかし、その上で、戦後のフィンランドの選択は、「非武装化」ではなく、制限された軍事力を基礎とした国防戦略の再構築に向けられたのであった。

 手がかりは、パリ条約の文言にあった。条約に規定されているのは、常備軍としての軍の規模であり、動員の禁止は明記されていない。国防軍司令官はその点をパーシキヴィ大統領に指摘し、予備役を基礎とした野戦軍の動員システムの構築を提案したのが、1948年3月であった。提案は採用され、その後の2年間で、小さな常備軍と大きな動員軍という、戦後のフィンランドの国防体制の基礎が確立されることになる。

 その間、1948年2月には、フィン・ソ友好協力相互援助条約が締結されている。あの、「大国間の紛争の局外に立つと共に国連の原則に従って平和を維持したい」というフィンランドの中立政策への希望が条約前文に明記されたものだ。

 そして条文によれば、フィンランドが負うのはフィンランド経由でのソ連への攻撃の撃退義務であって、他の地域におけるソ連への攻撃への共同防衛義務は課せられていない。東欧諸国が、ソ連と一体の軍事行動を義務として課せられたのに比して、独立性の高い内容となっている。

 しかも、自国経由でのソ連への攻撃の撃退義務を負う以上、それを可能にする軍事力の整備は、条約上の義務履行の前提条件となるのである。

 フィンランドにとっての、現実的な国防上の脅威は、2度の戦争の侵略者であった隣の軍事大国、ソ連の存在である。フィンランドの軍事戦略の基本は、ソ連による侵略の可能性への対応に置かれている。端的に言ってしまえば、フィンランド軍の敵はソ連軍なのである。

 しかし、そのフィンランド軍の軍事力の充実を支えたのは、ソ・フィン友好協力援助条約に基づく、ソ連への攻撃に対する撃退の義務であった。

 フィンランドの、ソ連からの攻撃を想定とした防衛戦略を支えたのは、ソ連への攻撃に対する防衛協力義務の存在であった、ということになるわけだ。

 パーシキヴィ大統領時代、1949年3月の防衛研究委員会レポートの内容が興味深い。

 パリ条約とソ・フィン友好協力相互援助条約の制限と義務を基盤とし、自身の戦略的作戦的戦術的経験と経済資源への目配りの必要が指摘される。その上で、防衛力保持の必要性と、徴兵システムの必要性が原則として明示された。

 「大国間の紛争の局外に立つ」ためには、自身が攻撃からの防衛能力を保持しておく必要があるということだ。「中立政策」は、他国からの攻撃に対する防衛力の保有によって支えられるという思想である。フィンランドは、そのことを1930年代から1940年代にかけての戦争の経験から身をもって学んだのである。

 徴兵システムに関しては、1950年9月15日、国家徴兵法が制定され、徴兵期間と予備役の補充訓練日数が明確化された。ただし、実施は資金難により1960年代になってからの事であったという。

 同時期に、国防軍司令部では、防衛戦略の再検討が行われているのだが、その内容も興味深いものだ。

 第二次世界大戦型の、防衛ラインによる戦闘が放棄されることになる。横のラインによる防衛から、縦深の「地域防衛システム」が戦後フィンランドの防衛戦略の基本とされるのである。正規軍同士の正面攻撃による決戦ではなく、深く侵入した敵の軍隊をゲリラ的に漸次撃滅していくという戦略であり、「冬戦争」と「継続戦争」時の実際の戦闘経験からもたらされたものだ。

 あらたな徴兵と予備役訓練のシステムが、「大きな動員軍」の存在を保証することになる。縦深の「地域防衛システム」を支えるのは、軍事的訓練を受けた市民の存在なのである。

 ただし、これもまた資金不足により、現実化していくのは後年のこととなる。

 二度の戦争において、ソ連からの国土の防衛には成功したものの、休戦条約による賠償金の支払い義務と、割譲させられたフィンランド領からの40万人の難民の受け入れが、フィンランド経済を圧迫していたのである。

 もっとも、賠償協定による工業製品の現物による支払い要求は、結果として、フィンランドの工業化をもたらすものとなった。農林業と農産加工品製造に依存していた産業構造からの転換が、1940年代後半から賠償完済の1952年に向けてのフィンランド経済を特徴付けるものとなった。

 復興していく経済と、戦後の国際関係の中で、フィンランドの軍事力も少しずつ充実していくことになる。それが、あくまでも国土防衛のための軍事力であることは、防衛研究委員会レポートや国防軍司令部の防衛戦略に明らかであろう。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/03/08 20:30 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/60412/user_id/316274

 

 

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フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (6)

 

 斎藤正躬『独立への苦悶-フィンランドの歴史-』(岩波新書 昭和26年)の「まえがき」には、

 

 またこの國が、位置からいっても、大きさからいっても、ほとんど世界の関心をひいていないために、手に入る資料は極めて少ない。このことも私の仕事をむずかしくした。

と書かれていた。

 その50年後に執筆された寺岡寛論文(「フィンランド-経済再生をめぐって-」)にも、

 

 ルイスはフィンランドがスカンジナビアの隣人とは異なると述べたが、この典型はフィンランド語であろう。他の諸国の言語、とりわけヨーロッパ言語とは隔絶したフィン・ウゴル語族を形成する。フィンランドの元国連大使のヤコブソンは、この少数言語に言及して、フィンランドと世界との関係を外交官の感覚からつぎのように述べる。

「フィンランドの場合、他国の政策の一機能とならず、自主的な演技者としての独自の条件での容認と理解をうるための難しさは、フィンランド人の生活の最深部を外部の人間に隠している言語の壁で高められている。・・・・フィンランド人の過去と現在をおおざっぱに理解することが必要な場合でも、教科書の片隅で、他国語により紹介されているにすぎない。フィンランドについての外国人向けの情報の大半は古いもので、内容も二級品である。(1998)

 事実、フィンランド語という言語障壁もあり、従来はフィンランドについての知識は孫引き、あるいは古い情報に基づいたものであったことは否定できない。ただし、EUに加盟した1990年半ば以降については、以前はフィンランド語だけで発表されてきた政府文書や資料が英語など翻訳発表されるようになり、現時点での法律、政策、制度についての情報も入手しやすくなった。また、インターネット技術と普及で大きな進展をみせたフィンランドらしく、ウェブサイト上の情報も充実してきた。

 

という記述がある。

 同じ50年の間、日本人の過去と現在をおおざっぱに理解することが必要な場合でも、教科書の片隅で、他国語により紹介されているにすぎないし、日本についての外国人向けの情報の大半は古いもので、内容も二級品であった時代も長かったわけでもある。

 今では、アキバ系文化は世界を席巻し、日本のヲタクの日常が世界標準となってしまっているわけだ。

 『独立への苦悶』を読み進めると、この50年という歳月を実感させられる。

 私たちはソ連邦の崩壊を目にし、「冷戦」終結後の世界に住んでいるのである。著者の斎藤正躬が目撃していたのは、「冷戦」の開始であり、朝鮮戦争であった。

 人権抑圧機構としての社会主義国家の実態は明らかではなかった。いや、むしろ、「冷戦」の進行過程で、社会主義国の人権抑圧体制は整備されていくのである。「人権抑圧機構としての社会主義国家」とは現在からの視点からの言葉でもあることには留意しておくべきだろう。

 著者は、フィンランド独立時の内戦を描くに当たっても、勝者としてその後のフィンランドの政治体制の基礎となった白軍よりも赤軍に共感を寄せている。

 冬戦争を描くに際しても、フィンランド政府よりもソ連の境遇に同情的である。

 時代を感じざるを得ない。

 独ソ不可侵条約の秘密議定書では、当初から、ポーランドの分割と共に、戦後のバルト3国とフィンランドの地位が、ソ連の領域として取り扱われていたことは、現在では周知のことだ。2つの軍事大国間でのヨーロッパ分割の取り決めの一環としての、フィンランドに対するソ連の侵略戦争であったことは、今日では明白である。

 著者は、

 

 第一次ソ・フィン戦争は終わった。それはフィンランドにとっては、全く迷惑なものだったし、恐ろしい悲劇でもあった。だがその悲劇の原因が、この小さなソ連周辺國の中に、独立以来親独、反共の性格が流れていたこと、いいかえれば完全な中立的態度を持っていなかったことにあった点を、見逃すわけにはいかない。しかもこの性格は、独ソ開戦後の第二次ソ・フィン戦争に至って、フィンランドを身動きの取れない立場に追い込むのである。

 

と書いてしまっているが、時代の制約を感じる。

 しかし57年前の話なのである。現在の私たち自身が、現在という時点での「時代の制約」の囚われ人であることもまた忘れられてはならないだろう。

 

 もし一部の人人の判断のように、ソ連の衛星國の政治が、すべてクレムリンの発する指令によっておこなわれるものとするなら、フィンランドは正しくその例外であり、政権の性格からいえば、これは「衛星國」とさえ呼べない國である。

 何がこのソ連周辺の小國、しかもソ連と戦って敗れた國を、このような状態に置いているのだろう? ふたつのソ・フィン戦争に示された、驚異的な戦争能力であろうか? そうではない。パリ条約以後のフィンランド軍は、もはや外國と戦うような力を持たず、その軍事的な要点を、すべてソ連ににぎられている。もしソヴエトが、軍隊を動かしてこの國を占領しようと思うなら、それは一週間もかからない仕事だろう。ソ・フィン戦争の折には、モスクワはフィンランドの戦力を、誤算したようだ。だがこんどは、誤算しようにもフィンランドは武力を持っていないのだ。

 理由は簡単、それはフィンランドが、ソ連のよい隣國として、生きてゆこうとしているからだ。フィンランドの経済は、その大部分をソ連との貿易に依存している。主な産品のパルプ、紙、ニッケルなどをソ連に送り、不足な食糧をソ連に仰いでいる。正直なフィンランドは、賠償を一日も遅らせず、きちんきちんと支拂っている。その上、過去の苦い経験にこりたこの國の指導者たちは、他國の力に頼って、自分の國の安全をかち得ようとはしない。フィンランドは北大西洋条約には加盟せず、北欧諸國とも同盟しようとはしない。これがソ連を刺激せず、その干渉を防いでいる最大の原因ではなかろうか?

 大國ソヴエトの周辺にある、人口四百万の小國フィンランドは、みずからの独立をどのように保つかについての、最後の結論をはっきりとつかんだようだ。みずからの独立と、平和とを、誰の手にもよらずみずから守る精神、フィンランドがこの精神を捨てない限り、「カレワラの平和境」は、長く独立を楽しむことができるであろう。

 

という記述で、斎藤はその著書を結んでいる。

 どこに「時代の制約」を感じ、どこに現在なお生きた言葉を発見するであろうか?

 現在の私たちの視点もまた問われるのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/03/07 21:32 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/60324/user_id/316274

 

 

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フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (5)

 

 フィンランドの「戦後」と日本の「戦後」を、少しだけ、考えたいと思う。

 テキストは、斎藤正躬『独立への苦悶-フィンランドの歴史-』(岩波新書 昭和26年)。当時の定価が100円、古書店での値段が300円だった。

 昭和26年刊行ということは、つまり「戦後」6年という時点での出版物ということになる。1951年ということだ。

 1945年10月に国際連合が発足し、戦後の平和で安定した国際関係の枠組みを規定することになった、と思われた。

 「と思われた」が、それは1946年3月の、チャーチルによる「鉄のカーテン」演説で明らかになったように、米ソ対立に発する「冷戦」時代の幕開けでもあった。

 この間、大日本帝國はポツダム宣言の規定により完全に武装解除され、その上で新生国家としての日本国は、自身の「日本国憲法」を通して非武装国家としての立国を宣言している。それは、大日本帝國の交戦国としての米国、戦後の占領国としての米国の意向であったと共に、戦争の惨禍にうんざりした日本国民自身の希望するところでもあった。

 しかし、「冷戦」の進展は、1950年6月に至り、「朝鮮戦争」という名の「熱い」戦争と化してしまった。

 その結果、米国の意向は、非武装国家としての日本の維持から、再武装要求へと変化していく。

 1950年8月には、日本は「警察予備隊」という名の下に、再軍備を開始する。

 そして、1956年(昭和26年)とは、サンフランシスコ講和条約による日本の独立の回復の時点であると同時に、「日米安全保障条約」調印に始まる、戦後の米国の国益に従属する国家としての日本の出発点でもあった。

 そのような年に書かれたのが、『独立への苦悶』ということになる。

 さて、まず「まえがき」をご紹介しておきたい。

 

 戦後のアジアには、「独立」を旗印にした、民族主義の嵐が、際限もなく吹き荒れている。それは、インドを、パキスタンを、フィリピンを独立させ、中國の革命を呼び、イランに、インドシナに、マライに、熾烈な旧支配者への反抗を生んでいる。長らく眠っていたアジアは、いまこの夜明けを迎えて、ようやく目をさましたのだ。

 十九世紀のなかばから、今世紀のはじめにかけて、ヨーロッパは、ちょうどこれと同じような、ひとつの嵐の時代を持った。嵐はいくつかの「独立」を生み、「革命」を生みながら、大陸を縦横に吹き荒れた。二十世紀のヨーロッパは、この嵐の中から生まれた新しい社会である。

 ふたつの嵐の性格には、西と東の差があろうし、また五十年という時のずれが、つくりだす違いもあるにちがいない。だが、嵐は嵐であり、その内容は決してふたつのものではない。

 嵐は、雪と氷に閉ざされた極北の一小國、フィンランドにも烈しく吹き荒れた。いや、われわれ東の國の人間には、平素はほとんど知られていないこの國の、静かな森と湖のほとりに描かれた「独立の歴史」は、ヨーロッパ史の中でも、もっとも典型的な「民族独立史」の一巻である。

 「独立」はどのようにして芽生えたか? どのように闘われたか? そしてどんな方向に進んだか? 混迷するアジアにとって、フィンランドの歴史は、一本のたいまつとなり、暗くきびしいその行手を、明るくてらしてくれる。

 この本は、そうした考えの故に書かれた。期間にしたらわずか一ヵ月、たった二回しかフィンランドを訪れなかった私が、この國の歴史をあやまりなく傅えることは、もちろん不可能なことだ。またこの國が、位置からいっても、大きさからいっても、ほとんど世界の関心をひいていないために、手に入る資料は極めて少ない。このことも私の仕事をむずかしくした。だから私は、はじめからこの本が完全なものとは思わない。

 にもかかわらず、私がこの本を書いた理由は、今日のアジアにたいして、フィンランドは、かならず何かを教えてくれると思うからだ。

 フィンランドの中で、いちばんわれわれの心をひく部分は、この國がロシア帝國の治下に入ってから、独立を完成するまでの、烈しい「抵抗の時代」であろう。この本は、もちろんその時代を中心にしているのだが、読者の理解を深めるため、その前後の時代にも触れて、一應通史の形をとった。もし退屈したら、その前後、特に第二章の「スエーデン時代」は、飛ばしてもらっても結構だと思う。

     一九五一年六月

                                   斎藤正躬

 

 斎藤正躬(さいとう まさみ)は、1911年生まれのジャーナリスト。1941年から46年まで、同盟通信社欧州特派員として、ストックホルムに駐在し、その間二回フィンランドを旅行。北欧文化協会会員。著書として『北欧通信』『北ヨーロッパの國民』があるという(奥付による)。

 1951年という時代は、まだ多くの地域が西欧諸国の植民地であったことが、斎藤の記述から、あらためて理解出来る。アフリカの諸国家の「独立」は、そのほとんどが1960年代以降のことである。

 そしてその50年前には、ヨーロッパにおいて、新たな国家の独立が目指されていたのだという歴史的事実も、よく理解出来るだろう。

 1930年代の終わりから1945年に至るヨーロッパでの戦争は、そのような新たな独立国家を含む主権国家に対する軍事大国の侵略として開始されたということになる。

 1930年代の初めから1945年に至る、大日本帝國を中心としたアジアの戦争は、別の相を持っている。大日本帝國の戦争は、近代国家としての統一過程にある中国、国際連盟に加盟した主権国家としての中国の国土に対する侵略であったと同時に、東南アジアを植民地化した宗主国への戦争、植民地再分割のための戦争でもあった。

 ヨーロッパにおける軍事大国が、ナチスドイツとソ連であり、極東にける軍事大国は大日本帝國であった。

 アジアにおける植民地の独立をもたらしたのは、大日本帝國の勝利と同時に敗北であったことには留意しておきたい。大日本帝國の敗北により、アジア諸国は、大日本帝國の利害を離れた独立国として存在することが可能になったのである。大日本帝國の勝利がもたらしたものは、「大東亜共栄圏」という名の、大日本帝國のための利益共同体に過ぎなかったと、私は理解している。

 そのような意味で、あの時代の戦争の被侵略国としてのフィンランドの経験は、戦後の日本国民の想像力の外部にあったであろうことは確かなことだろう。

 同時に、アジアの経験もまた、日本人の想像力の外部にあったのではないか、ということも考える。

 57年後の今日にも、その指摘が当てはまりそうなところは、日本国民の一人として、いささか残念な思いを抱かざるを得ない感がある。

 民族の独立とは、国家の独立とはどのような事態であるのか、ということが日本人の想像力の外部にあるのではないか、そのように思わざるを得ない。

 古い岩波新書の「まえがき」を読み、そのようなことを思う。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/03/06 20:40 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/60246/user_id/316274

 

 

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フィンランドの歴史 番外編

 

 フィンランドについての話題が続いてしまったのは、当人にとっても驚きだった。

 フィンランドといえば、カウリスマキの映画に、ユリア・ヴォリの絵本『ぶた』くらいしか思い浮かばない。かつての「モンティ・パイソン」の番組中で、フィンランドをバカにするネタがあったことは覚えているが、詳しくは覚えていない。

…実は、この日記、2度目の挑戦である。

 ほとんど書き上がっていたものを、ミスって消してしまった。

 昭和26年の岩波新書『独立への苦悶-フィンランドの歴史-』を本棚から引っ張り出して来て、本文からの引用紹介などして、旧字体への変換作業中にまさかのミス。

 力が抜けてしまったので、昭和26年のフィンランド観紹介は、残念ながら後日といたします。

 ちなみに、昭和26年の岩波新書の定価は100円。古書店での値段は300円でありました(今確認)。

 今日はその代わりに、画像の紹介をしておきませう。

「冬戦争」時のニュースフィルム。ソ連空軍爆撃機による都市無差別爆撃の状況と、空襲に対応するフィンランド市民の姿が映し出されている。
唄はモンティ・パイソンだけど、画像は勝手につけたヤツ。だけど、この画像がなかなかなので…
…ということで、本日はオシマイ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/03/01 00:13 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/59674/user_id/316274

 

 

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フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (4)

 

 フィンランドの戦後。

 それは敗戦国としての出発でもあった。

 1939年から1940年にかけての「冬戦争」では、フィンランドを攻撃したソ連は、侵略者として国際連盟からの除名処分を受けていた。

 1941年から1944年にかけての「継続戦争」においても、攻撃を仕掛けてきたのはソ連であったが、フィンランドはドイツの同盟国として取り扱われ、枢軸側国家であるとの認識の下に、戦後の新たな国際連合では「旧敵国条項」の対象とされてしまった。

 1944年9月のソ連との休戦協定に続き、1947年締結のパリ条約で、敗戦国としてのフィンランドの取り扱いが確定した。

 休戦協定では、フィンランド領土の割譲に加え、フィンランド軍の動員解除が定められ、53万人体制から一挙に3万7千名への縮小が要求された。常備軍を支えていた民兵組織(常備軍の徴兵・動員や日常の軍事訓練を行う)の解体と共に、ロッタ・スヴァルドと呼ばれた女性による軍事支援組織も、ファシスト組織とされ廃止を求められた。戦犯の処罰も要求され、継続戦時の大統領であったリュティもその対象とされてしまった。

 パリ条約では、あらためて戦後フィンランドの軍事力に対する制限が明確化されている。

第13条 陸海空軍及び要塞の保持は、国内的性格の地域的国境の防衛のための戦闘任務に限定される。前掲に従いフィンランドは以下を越えない範囲で国軍を構成する。

 (a) 陸軍は国境警備隊と対空砲兵も含めて3万4400名とする。

 (b) 海軍は人員4500名、総トン数1万トンとする。

 (c) 空軍はあらゆる航空機及び保管航空機を含めて60機とする。フィンランドは爆弾倉を装備する爆撃機を保有しない。

 これは、保有する軍事力の大幅な削減となる。

 戦後の歴史は、しかし、「冷戦」と呼ばれる新たな時代の開始とも重なっていた。

 米ソの対立による新たな時代の中で、フィンランドは国家の再建に取り組むことになる。

 1300キロに渡って国境を接する、かつての侵略国であるソ連の存在を無視して、フィンランドの国家としての存続はあり得ない。それも、軍事力を削減された中で、巨大軍事国家としてのソ連との関係を構築して行かなければならないというのが戦後フィンランドの課題であった。

 結論から言えば、資本主義的経済体制を基盤とし、多党制に基づく民主主義的政治体制を維持することに、戦後フィンランドは成功したのである。

 1948年の、ソ連との間での友好協力相互援助条約調印により、戦後フィンランドとソ連の関係はスタートする。

 東欧各国も、同様の条約により、ソ連との関係を規定されることになるのだが、フィンランドとソ連の間に結ばれた条約の内容は、東欧各国が受け入れざるを得なかったものとは異なる側面がある。

 条約前文にはフィンランドの「大国間の紛争の局外に立つと共に国連の原則に従って平和を維持したい」という希望が文言として明記された。

 その上で、他の東欧諸国が求められたソ連との一般的な軍事同盟の構築は回避されているのである。ドイツとその同盟国によるソ連への攻撃の際に限り、防衛義務を負うものとされ、軍事的協議も事後的なものとして(つまり有事においても交渉の余地を残すものとして)設定されたのである。しかも、ソ連が他の場所で攻撃を受けた場合には支援の義務はないとされていたことも注目点であろう。

 それでも、ソ連にとっては、フィンランドが他国との軍事同盟を結ぶことを制限出来、フィンランド経由の攻撃をフィンランドの存在により回避出来るという防衛上の利点も確保されているものでもあった。

 戦後のフィンランドの軍事力の充実は、ソ連からの武器購入と英国からの武器購入により開始された。

 フィンランドの「大国間の紛争の局外に立つ」という中立主義の帰結であると共に、防衛力整備における一国への依存度を低下させておくことは、中立の維持の出発点ともなりうる政策であろう。

 一方で、国連加盟と共に、PKO活動への積極的参加を通して、「平和維持」へのフィンランド国家としての姿勢を常に明確に示して来た。

 また、様々な紛争に際して、中立国として積極的な仲介外交を展開して来ている。

 軍事面においても外交面においても、「平和維持」への貢献を国際的に認知されるべく努力を重ねて来ているということである。

 もちろん、その外交政策(現実には内政までもが)は、ソ連の意向を無視しては成立しないものである。国境線を接する軍事大国の意向を無視しては、という意味だ。

 その状態が、西独の政治家の間で「フィンランド化」として揶揄的に用いられることにもなった。我が日本の中曽根首相も、「日本が防衛努力を怠るとフィンランドのようなソ連の属国状態になる」という文脈で「フィンランド化」という語を用いたことがあるが、フィンランドの置かれた歴史的状況と実際の防衛・外交上での努力を考え合わせれば、的外れでありかつ失礼極まりない表現であろう。

 戦後フィンランドの国家としての独立の維持に賭けた外交的軍事的努力の大きさは、戦後日本の米国依存状態とは比べようがないものなのである。

 実際、「フィンランド化」という語は、東欧諸国では憧憬の表現であったという。つまり、そこには、国家的自立の維持の成功が見出されていたのだ。

 日本の戦後は、軍事力の否定という建前の上に築かれたものだ。

 国境線を軍事大国と接する国(それもその大国からの被侵略体験のある国)としてのフィンランドの歴史的経験と、近代における被侵略体験はないが侵略体験を有する海洋に囲まれた国家が歴史的経験として受け取ったものは異なって当然である。

 戦後日本の平和主義には理由があり、その平和主義の成功は確かなことだろう。

 昨今の防衛力増強をめぐる議論の問題点は、つまるところそのリアリティーの欠如ではないかと思う。

 フィンランドの防衛努力は、隣国による被侵略体験に根ざす現実的なものであった。そして国家の独立の維持が常に意識されて来た。あくまでも、国家としての独立の維持を保証するものとしての軍事力なのである。

 外交的軍事的な米国一国依存状態の果てに、米国の軍事戦略に組み込まれるための軍事力増強策でしかないような議論は、フィンランドの戦後史から見ればナンセンスそのものではないだろうか。

 フィンランドの教育システム礼賛の文脈で、フィンランドの徴兵制度がフィンランド人の自立心を生み出しているかの主張が存在する。日本人の自立心も徴兵制度の導入により養成可能であるような議論まで見かけるが、これまたナンセンスの極みと言うべきだろう。

 徴兵された兵士が米国に従属した軍隊の一員となることによって、日本人の自立心が涵養されるわけはないのである。

 20世紀のフィンランドの歴史から学べることは多い。

 しかし、良くも悪くも、日本は日本なのでありフィンランドはフィンランドなのだ、という側面もある。それぞれの歴史的経験を無媒介に結び付けて論じることもまたナンセンスへの道であろう。

(「フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛」シリーズを書くに当たっては、

斎木伸生 『フィンランド軍入門』 イカロス出版 2007

石垣泰司 「戦後欧州情勢の変化とフィンランドの中立政策の変貌」 外務省調査月報 2000/No.2

を、特に参考にしたことを申し添えておきたい)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/02/28 20:09 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/59539/user_id/316274

 

 

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フィンランドの歴史、あるいは軍事力による防衛 (3)

 

 1930年代から1940年代にかけて、フィンランドは3つの戦争を闘った。

 1939年11月30日、国境を越えフィンランドを侵略したのはソ連の軍隊だった。1940年3月12日、両国間の平和条約が調印され、翌3月13日に戦闘は終結した(後に「冬戦争」と呼ばれることになる戦争だ)。

 開戦に先立ち、両国間では領土をめぐり外交的交渉が行われていた。ソ連の要求は、フィンランドにとり不利な内容を含むものであり、フィンランドの政治家は拒絶した。その際、フィンランドの軍事面の指導者であったマンネルへイムは、ソ連の要求に従うことを主張していた。彼の軍人としてのリアリズムは、戦争になればフィンランドに勝ち目のないことを理解していたのである。

 それでも、実際に開戦となった後は、マンネルへイムは軍事指導者としての力量を発揮し、ソ連軍を撃破することは叶わないまでも、フィンランドの防衛力をソ連に認識させた上で休戦に持ち込むことに成功した。

 フィンランドの独立は維持されたのである。

 1941年までに、ソ連はポーランドの東半分とバルト3国を手中に収め、ドイツはポーランドの東半分に加えノルウェーからフランスに至るヨーロッパの占領者となっていた。

 しかし、不可侵条約によって結ばれていた独ソは、1941年6月22日、ドイツの攻撃によって戦争状態に入った。

 かつての侵略国であるソ連に対抗する後ろ盾として、相対的にドイツとの友好関係を選択していたフィンランドは、ドイツの同盟国としてソ連軍の攻撃の対象とされることになる。1941年6月25日、ソ連軍による爆撃により、フィンランド人により「継続戦争」と呼ばれることになる戦争が始まった。

 フィンランド軍は当初、ドイツ軍との共同的作戦行動を取り、ソ連軍を領内から撃退し、冬戦争で失われた国土を回復すると共に、国境線の東側へも軍を進めた。しかし、その後はドイツ軍との共同作戦行動を拒絶し、戦線を膠着状態としたまま1944年を迎えることになる。

 マンネルへイムは1941年12月の時点で、既にソ連との講和を考慮するように政治家に主張していたという。

 1944年6月9日、ソ連軍の攻勢が始まり、フィンランド軍は「冬戦争」後の国境線まで押し戻されることになる。しかし、西部戦線での米英軍のノルマンディー上陸作戦(1944年6月6日)後の進撃は、スターリンに対独戦争での主導権の確保の重要性を思い出させ、対フィンランド戦の外交的解決による終結を選択させることになる。スターリンはフィンランドの占領よりも、ベルリンの占領を選択したわけだ。

 そのような戦後の国際政治までも視野に入れた国際情勢の中で、フィンランドは、1944年9月19日、ソ連との休戦条約に調印した。

 ソ連との休戦条件により、1944年9月2日、フィンランドはドイツと断交し、ドイツを敵とした新たな戦争、ラップランド戦争に突入する。既にフィンランド軍はソ連との戦争で消耗しており、ドイツ軍のフィンランド国境からの駆逐が完了するのは1945年4月25日のことになった。

 これで、フィンランドの戦争は終わった。

 独立は維持された。

 フィンランドの戦後の地位を決定したもののひとつは、1946年7月から開始され、1947年2月10日に調印されたパリ講和条約の条文であろう。イタリア、フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの旧枢軸国と連合国間に結ばれたものだ(サンフランシスコ講和条約が、連合国と日本の間で果たしたのと同様の役割を担うものと考えればよいかも知れない)。

 パリ講和条約の対象となった旧枢軸国に日本とドイツを加えた国々が、国際連合成立時の「旧敵国条項」の対象国と解釈されている(条文には明文的規定はない)。

 ちなみに、ソ連は「冬戦争」時に、フィンランドへの侵略国家として認定され、国際連盟を除名されていた。そのソ連が最終的には連合国側の一員として第二次世界大戦の勝利者となり、国際連合の常任理事国になった結果として、戦後政治の主導的地位に着いたという事実を再確認しておくことは、国際政治の現実への視点を鍛える上で大事なことであろう。

 パリ講和条約の結果、フィンランドは、保有可能な軍事力への大幅な制限を課せられることになる。

 フィンランドの戦後史は、軍事力への制限を受け入れつつも、軍事力の保持を国家的独立の根幹として位置付け、実質的な軍備の拡充を目指すものともなっていった。

 強大な軍事大国であるソ連を隣国とし、その隣国による侵略と撃退の経験は、フィンランド国民に、国家の独立の維持(それはつまり国土の平和と国民の安全の確保を意味するだろう)における軍事的手段の重要性を認識させるものとなったと考えることが出来る。

 1930年代から1940年代の3つの戦争に先立つ経験として、フィンランドは独立の主導権をめぐる内戦も経験していた。その内戦時の一方の後ろ盾となっていたのが、ロシアのボルシェビキ政権であったことも、フィンランド人の歴史意識に大きな影を落としているはずである。

 そのようなロシア=ソ連との歴史的経験が、戦後のフィンランド人の外交や防衛問題への対処の仕方に反映されて来るのは当然のことだろう。

 もちろん、その一方で、ボルシェビキ政権成立後に、いわゆる列強諸国による干渉戦争の対象とされ多大な犠牲者を出すことを強いられた、ソ連という国家の経験についての想像力を忘れてしまっては片手落ちであろう。軍事大国としての国家形成は、自明の必要時であったはずだ。

 その上に独ソ戦による犠牲者の数を考えるならば、戦後ソ連の軍事大国化も理解出来ないものではないだろうう。軍事的侵略を受けることへの強迫観念は大きなものであって当然なのである。その恐怖が軍事大国化として帰結してしまったということだ。

 フィンランドの戦後史は、その強迫観念的な軍事的大国化志向を持った隣国の存在を念頭において自国の外交を構築する以外の選択肢を持ちようがなかった国民が、いかにして独立国家として自国を維持しえたかの記録となっている。戦後の日本人の想像力からは、すっぽり抜け落ちてしまっている思考の経験がそこにあるだろう。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/02/27 20:03 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/59431/user_id/316274

 

 

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