カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

2009年12月28日 (月)

歴史的事実、あるいは共有され構成される経験

 

 「歴史的事実」について考えておきたい。

 
 
 

 言うまでもないことだが、「歴史」も「事実」も、どこかにモノとして存在しているのではない。つまり、見ることも出来なければ、触って確かめることも出来ない。

 行為し、経験し、認識し、記憶し、それを語る。そのような人間の営みを抜きに、つまり人間という存在とは別に、「歴史」や「事実」と呼ばれる事象はこの宇宙には存在しないのである。

 そのような人間のあり方を支えているのが言語である。言語により、行為や経験が対象化され、言葉として認識され記憶されることになる。

 日々の様々な行為や経験の内で、言語化され認識の対象となるのはその一部に過ぎないのであり、ましてや記憶されるまでに至る行為や経験は更にその一部に過ぎない。

 

 「更にその一部」となっていくのは、時系列の中で、自らの現在を説明するに有意だと思われる過去の経験、現状を説明し得るものとして因果的に把握される出来事の連鎖であろう。それが自らの来歴を形成し、自らにとっての事実となり、自らの歴史として記憶され、自身と他者に向けて説明されることになる自分という存在を構成するのである。つまり、過去は現在によって構成される。

  

 もちろん、言語とは個人により行使されるもの(個人抜きに行使され得ないものでもある)であると同時に、社会的に共有されたものでもある。つまり、個人の行使する言語には社会が組み込まれてもいるのである。結果として、言語によって構成される個人の記憶にも、最初から社会が埋め込まれているということになる。つまり、経験そして記憶は使用言語の拘束を受けるという側面を持ってしまうのである。色彩に関する語彙が少ない言語体系に属する個人は、7色の虹を経験することが出来ないのである。

 

 そのような個人による記憶の上に、家族に共有される記憶、地域に共有される記憶、共同体に記憶される記憶、社会に共有される記憶、国家に共有される記憶が成立し、それを総称して歴史と呼ぶのである。

 ここでは「共有の可能性」が焦点となる。つまり、同一の出来事に遭遇しようとも、私とあなたでは経験として認識され記憶として残される内容は異なり得るのだ(このことは、それぞれの実際の日常的経験から容易に理解出来ることであろう)。

 

 そこでは、互いの記憶内容をつき合わせ、出来ればより多くの遭遇者の記憶をつき合わせることにより、社会的に共有可能な「事実」が浮かび上がって来ることになる。

 証言内容の一致が、共有可能な事実を構成するのである。

 記録内容の一致が、共有可能な過去の歴史であることを保証することになる。

 
 

 ここで重要なことは、時系列での出来事の確定と、時系列での出来事へのその都度の当事者の推測や感想等を峻別することである。また、時系列での出来事の確定の作業に際しては、価値判断を混入させないことが重要になる。事実としての出来事の確定と、出来事への評価は、まず峻別しておくことが必要なのである。

 広範囲で共有可能な「歴史的事実」を求めるならば、まず時系列での出来事の確定が焦点とされるべきなのだ。

 
 

 たとえば神風特攻隊について、まず歴史的事実として求められるべきは、その発案者の氏名であり、発案の時期であり、作戦として採用される過程であり、その過程に関与した者の氏名であり、作戦の責任者と命令系統の詳細であり、作戦の発動日時であり、搭乗員の氏名であり、その都度の作戦命令の詳細であり、攻撃の結果である。

 現在の視点からの特攻作戦の効果の判定は、それらの事実関係の認定(つまり歴史的事実の確定)をベースとした上でなされる「評価」という行為なのである。歴史的事実の確定とは一つ次元を異にした行為として考えられなければならない。

 自殺攻撃としての特攻作戦で戦死した搭乗者に関し、その死を栄光化し賛美するのか犬死として悼もうとするのかは、価値判断の領域に属する行為なのであり、それもまた歴史的事実の認定とは次元を異にするものであることを深く認識しておくべきである。

 
 

 まず、出来事の評価あるいは価値判断を排除し、推測と経験を峻別し、出来事そのものに肉薄すること。そこに歴史的事実と呼び得る何かを見出す手段がある。

 
 

 そのような歴史的経験に関する時系列での出来事の経過(すなわち「歴史的事実」)を、まず「歴史認識」の骨格としてつかみ取ることが必要なのである。

 その上で、搭乗員と、作戦指揮官と、整備員と、特攻攻撃の対象となった艦船の搭乗員と、それぞれの家族が、どのような心情的経験として特攻を認識し記憶したのか(もちろん搭乗員には既に記憶を残す機会はないわけだが)、そのことを繊細さをもって記録することも、次の段階として必要なことなのである。

 しかし、あくまでも両者を峻別することが、まず歴史を記述するものには求められるのだと思う。

 
 
 
 
 
 
 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/07/30 23:12 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/111654/user_id/316274

 

 

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2009年12月27日 (日)

雄山荘焼失を惜しむ

 

     太宰治「斜陽」の舞台、小田原の別荘全焼

…と、ニュースのタイトルにあった(12月26日10時16分配信 読売新聞)。

 

 

 記事の内容は、

 26日午前4時過ぎ、神奈川県小田原市曽我谷津の別荘「雄山荘」から出火。木造2階住宅約100平方メートルを全焼し、約2時間15分後に鎮火した。
 けが人はなかった。
 別荘は、太宰治の小説「斜陽」の舞台として知られる。小田原署が原因を調べている。
 同署などによると、近くを通りかかった男性(49)が火災に気付き、「オレンジ色の炎が上がっている」と119番した。建物は近くの農業男性(63)の所有で、10年ほど前から空き家だったという。

…となっている。

  遅い目覚めの後に、PCの電源を入れ、ネットに接続すると、そんなニュース記事が目に入った。

 

 

 他にも、

 26日午前4時ごろ、神奈川県小田原市曽我谷津にある作家・太宰治ゆかりの旧別荘「雄山(ゆうざん)荘」から出火、木造平屋約140平方メートルを全焼した。建物は空き家で、けが人はなかった。小田原署は不審火と見て出火原因を調べている。
 雄山荘は昭和初期に小田原出身の実業家の別荘として建てられた。太宰は戦後間もない1947年に訪れ、1週間滞在し「斜陽」を書いたとされる。37年には俳人・高浜虚子が訪れ、下曽我を紹介した句も残している。
 近くの住民によると、同荘は92年ごろから空き家になっていた。【澤晴夫】

という記事(毎日新聞 12月26日9時59分配信)があった。タイトルは、「火災 太宰ゆかりの「雄山荘」全焼、不審火か 神奈川」である。

 

太宰治「斜陽」の舞台、小田原の別荘全焼
火災 太宰ゆかりの「雄山荘」全焼、不審火か 神奈川

写真は、読売新聞(上)、毎日新聞(中)、産経新聞(下)

雄山荘焼失「寂しいが一つの区切り…」 太宰の娘、太田治子さん

 

 

 

 個人的に、心痛むニュースであった。

 

 太宰文学ファンではまったくないのだが、この話、他人事ではないのである。

 これまでも、太田静子(近代文学史的には太宰治の「愛人」ということになる)の『斜陽日記』の方は、何度か「現代史のトラウマ」で引用させてもらっている。

 たとえば、「国体の精華としての、特攻、玉砕、本土決戦、そして特殊慰安施設協会」では、その『斜陽日記』からの引用に加えて、

 太田静子自身は、8月12日に訪れた加来氏から、「無条件降伏に決まったことを教え」られていたのだが、そのこと(御前会議でのポツダム宣言受諾決定)を知らぬ「兄上」にとっては、戦争はまだまだ終わらず「本土決戦」へと続くものだったわけである。

と、前後の事情の説明を試みていたわけだ(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-4147.html)。

 

 この際だから告白してしまうが、この「加来氏」として登場する人物は、私の祖父に当たる人物(加来金升)なのである。

 そして、「毎日新聞」の記事にある、「雄山荘は昭和初期に小田原出身の実業家の別荘として建てられた」という一文の、「実業家」の正体が私の祖父という関係になるのだ。ただし、「小田原出身」というのは誤りであるが…

 

 「産経新聞」の記事(12月26日19時28分配信)では、

 「雄山荘」は昭和初期、東京の印刷会社社長が接客用の別荘として建てた。昭和22年2月に太宰治が数日間滞在。その後、没落する華族の姿を描いた名作「斜陽」を書いた。太宰の生誕100年の年に、ゆかりの建物が失われた。
 太宰の娘で作家の太田治子さん(62)によると、太田さんの母で「斜陽」の主人公のモデルとされる静子さん(故人)が戦時中に疎開し26年まで暮らした。太田さんは3歳まで暮らし、「かやぶき屋根の数寄屋造りながら、2階に中国風の間とスペイン風の寝室があり、風流で落ち着いた雰囲気の家でした」と振り返る。
 太宰は愛人だった静子さんに「ここはいいところだ」と繰り返していたという。太田さんは「小説のイメージ通りの舞台を見つけ、太宰は喜んだと思う。母もうれしかったでしょうが、愛人の立場として永続できない悲しみもあったはずです」。
 太宰は静子さんの日記を下敷きに22年6月、「斜陽」を書き上げ、翌23年6月、別の愛人と東京都三鷹市の玉川上水に入水した。
 今年9月、太田さんは雄山荘を舞台に、父母についてつづった著書「明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子」を出版した。「寂しいけれど、家が朽ちていくのを見るのもつらい。これが一つの区切りかなとも思う」と話した。

となっている。記事には、

 「雄山荘」は昭和初期、東京の印刷会社社長が接客用の別荘として建てた。

とあるが、祖父は確かに「東京の印刷会社社長」ではあった(美術印刷専門であったらしい)が、「接客用の別荘として建てた」というのは事実ではない。

 先が長くないと診断された祖父の母の療養の場として、温暖で景色のよい(富士山がよく見えるらしい)地を選び、「別荘」としたのである。しかし、完成した時には既に祖父の母は他界しており、自分の占有の「別荘」としてではなく知人にも広く利用を呼びかけたというのが、事の真相である。

 ちなみに、オリジナルのネーミングは「大雄山荘」である。「大雄山」という附近の山の名に因んだ命名であったが、後にお住まいになった方が「大」という(ある意味オーゲサな)字への抵抗感から「雄山荘」とし、それが通用名となったということのようだ(どことなく気持ちはわかる気がする)。

 参考までに、祖父自身が作成した「大雄山荘」の冊子の写真を掲げておこう(内容は、小学館文庫の『斜陽日記』の巻末にも紹介されている)。

「大雄山莊公開に就て」と題された文中には、

 不肖平素聊か考ふる所あり、これを獨り專用し
て晏如たる能はず。拠つて之を公開し、母に盡さ
んとしたる志を轉じて辱知諸賢に奉仕せんとす。

という言葉がある。

 

 

 

 

 

 

 

 「10年ほど前から空き家だった」あるいは「同荘は92年ごろから空き家になっていた」ということだが、別の記事(カナロコ (神奈川新聞) 12月26日19時0分配信)によれば、

 最後の借家人が去った93年、太宰ファンや市民が雄山荘の保存を求める要望書を市に提出。市は数年前まで所有者と交渉していたが、所有者側の意向で決裂し、老朽化が進んでいた。

ということである。

 結果として、文化財としての保存は叶うことなく、太宰生誕100年の年の暮れに焼失してしまったわけだ。

 

 所有者として建物を持ちきれなかった建築主の親族としては、言うまでもなく建物の保存は望むが、しかし金銭的援助も出来ぬままに保存運動に名を連ねるということもまた下品な話に思えて、手をこまねいているうちに雄山荘自体が焼失してしまったのである。

 

 

 

 

 「寂しいけれど、家が朽ちていくのを見るのもつらい。これが一つの区切りかなとも思う」と話した。

という太田治子さんの言葉に、寂しいことではあるが、頷くことしか出来ない。
 

 

 

 ところで、

 37年には俳人・高浜虚子が訪れ、下曽我を紹介した句も残している。

という句会の際に、虚子一行の接待をしたのが、祖父の娘であり後に私の母となる加来都であった。

 彼女は先日の写真展の主人公でもある。私の撮影した母の最後の日々に加えて、祖父の撮影した(1913年)、誕生直後の母の写真を添えて展示プランとしたばかりである。なんというタイミングであろうか…
 (写真展については
     → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/lachrimae-7864.html
     → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/122197

 写真展準備の中で、あらためて雄山荘に関する記事を読んだりしていたことを思い出す。そもそもの祖父にとっての雄山荘の建築動機が、その母の介護であったことを知り、どことなく因縁まで感じたものである。

 その「別荘」が焼け落ちてしまった。

 ダミニストを自称する孫は、祖父と異なり非行動的であった。「出不精」なのである。これまで「雄山荘」を訪れたこともなかった。

 「黒色すみれ」(今年公開の太宰映画の音楽担当)のファンである娘(祖父にとっては曾孫である)とは、「今度、行ってみよう」と話をしていたのに、実現する前に焼け落ちてしまったのである。

 年末の悲しいニュースであった。

 

 

 

 

 

 

雄山荘については、

 → http://oota-shizuko.seesaa.net/category/1257220-1.html

 → http://www.archi-nishijima.co.jp/portfolio/ronbun/ronbun.htm

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/12/26 23:06 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/125862) 

 

 

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2009年12月26日 (土)

ノーズアートの新たな展開 (支那の空を飛ぶ虎の姿)

 

 年末である。

 

 しかも、クリスマス・イヴ、なのだった。

 

 買い物ついでに、娘と娘の母へのプレゼントを購入。

 結果は好評であった。

 

 何を買ったかというと、本だ。

 

 娘用が、

 マーティン・J・ドアティ 『図説 世界の「最悪」兵器大全』 (原書房 2008)

 娘の母用が、

 加藤浩 『神雷部隊始末記 人間爆弾「桜花」特攻全記録』 (学研 2009)

である。いったい、どんな家族だ?

 

 

 ドアティの本には、敵を殺すより使用する兵士の命を奪う類の、数々の兵器が掲載されている。実戦で使用されていたものも多い。

 書中から一例だけ、ドイツ(第二次世界大戦)の超重戦車を紹介しておこう。

 超重戦車マウス

  1943年ドイツ

 マウスは重すぎて時速20kmの設計上最大速度を出せず、また当時存在していたいかなる橋も渡れなかった。平地では時速13kmほどでのろのろと進んだ。128mm砲と75mm砲を同軸装備したマウスは、防御用兵器として、あるいは低速前進する砲台としては恐るべき兵器だったかもしれないが、装甲戦闘車輌としてはまったくの駄作だった。

 1944年に開発は中止された。だが試作車輌の制作はそのまま続けられ、第2次世界大戦末期には2輌が完成した。

…というのだが、添えられた図版には、

巨大な砲を搭載するには巨大な砲塔が必要で、巨大な砲塔を搭載するには巨大な車体と大規模な動力装置が必要だった。その結果できあがったのが、ほとんど動けない巨大な車輌だった。

マウスの重量は大変なもので、これに耐えられる橋はドイツ国内になかった。

なんてキャプションが付けられている。

 

 

 『神雷部隊始末記』の方は、娘の母が、このところ自衛隊グッズ(!)として売られていたという回天キューピーストラップとか桜花キューピーストラップの存在の話に熱中(?)していたので、歴史的事実関係探求の参考にとプレゼント。

 無神経な商品化の見本というのが、我が家の見解。

 

 

 

 

 だいたい、何でそんな本を家族のクリスマスプレゼントに…、という話をすれば、その手の本の専門書店(ミリヲタ御用達)に買い物に出かけていたのだ。要するに、自分用資料の入手が目的。

 カーチスP-40という、第2次世界大戦当時の米国製戦闘機の資料が欲しかったのである。

 購入したのは、

 世界の傑作機 『カーチスP-40ウォーホーク』 (文林堂 1993)

 オスプレイ・ミリタリー・シリーズ 『太平洋戦線のP-40ウォーホークエース』 (大日本絵画 2002)

の2冊。

 

 この年末に、なぜこれを?

 

 お察しのよいミリヲタの皆様は、既にお気づきのことでありましょうが、来年が寅年であることに、大いに関係がある選択なのである。
       (来年の賀状のネタバレ状態)

          ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Flying Tigers

 

 

 

 このディズニーデザインのマークで知られた「フライングタイガース」こそは、中華民国に対する日本軍の侵攻(「支那事変」というヤツだ)に対し、中国支援のために当時の中立国アメリカの血の気の多い飛行機乗りにより結成された義勇航空隊なのである(「反日」の虎?←確かに「反日本帝国主義」的行動と評することは出来る)。

 今回は、その詳しい話には深入りせずにおきたいので、以前の記事(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-7451.html)をご紹介するにとどめる。

 

 

 

 で、賀状に使用する「フライングタイガース」の画像をどうしようか、というのが問題だったわけだ。

 最初は、購入資料中の画像利用を考えていたのだが、ハガキサイズの中の画像としてインパクトがあるものがない。

 そこで、「flying tigers」で、グーグルの画像検索実行!

 そうして見つけたのが、上掲のものだ。

 
 

 ネタ元をチェックしてビックリ。
→ http://www.noseart.ch/cartoonsandanimals.htm

 

 これ、1972年生まれのスイス人の仕業だったのである。

 彼がスイス山中で発見した、戦時中に墜落したB-17の残骸が、いわば彼のカンバスとなり、戦中の米軍機の「ノーズアート」が復元されていったということらしい。

 

 つまり、B-17の残骸の一部を利用して、新たにフライングタイガースのマーキングをペイントして出来上がったのが、今回ご紹介した画像なのだ。60年以上の時を隔てて大戦中の墜落機の残骸が、彼の手で当時の「ノーズアート」を施され、蘇るのである。

 日本人感覚でいえば、一種の「供養」の形にも思える。

 売り物でもあるらしいが、確かにそこに作品としての性格を考えることも可能だろう。

 行為そのものを、一種のアートとして考えるわけだ。山中に墜落機の残骸を発見し、それをカンバスとし、「ノーズアート」の再現を通して、当時の視覚的世界にアクセスする。そのような一連の行為を、である。

 
 
 

 回天キューピーストラップ、桜花キューピーストラップからは、安易な商売感覚(批判されれば販売中止ですからね)しか伝わって来ないが、本業が薬剤師というスイス人の、

 With my Art I try to give these pieces of history a "second life", as hobby and passion.

という言葉には、共感出来るように思える。

 
 
 
 

 

参照 : 回天キューピーストラップ、桜花キューピーストラップ
 → http://d.hatena.ne.jp/notlandung320/20091218
 → http://d.hatena.ne.jp/tadanorih/20091217/1261029503
 → http://d.hatena.ne.jp/sionsuzukaze/20091217/1261063707

 

 

 
 
 
 
 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/12/24 23:53 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/125670

 

 

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2009年10月21日 (水)

秋の空の下、アウトサイダー作家の誕生?

 

 さすがに、10月もここまで来ると、夏の名残もない。

 
 

 夏の初めに、学生の企みに乗せられて写真展を…、というような話を書いた。
  (→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/lachrimae-7864.html

 
 

 メールのやり取りの結果、11月24日~12月5日という会期での開催が決定。

 そろそろ準備も本格的に始めなければならない。

 
 
 
 

 ところで、学生の作った企画書の「作家紹介」が、家族的にウケた。

 その最後が、

 正規のアート教育を受けていないアウトサイダー作家である。

という言葉で結ばれているのだった。

 

 「アウトサイダー・アート」と呼ばれるジャンルがあるのだ。近年注目の対象となっているジャンルである。
  (→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%88%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88

 『ウィキペディア』の記述中にもある、世田谷美術館の「パラレル・ヴィジョン」展には、私も足を運んだものだ。そして『ウィキペディア』の記述中にもある通り、展示作品の中での精神障害者の作品の比率は高い。

 
 

 特に、子どもや、正式な美術教育を受けずに発表する当てもないまま独自に
 作品を制作しつづけている者などの芸術も含む。なお、デュビュッフェの作品を
 アール・ブリュットに含める場合もある。

 

という意味では、私の写真は仕事ではないし、「作品」として人に見せることを考えたものではないし…と考えれば、「アウトサイダー・アート」と呼ぶことも出来るのだろう。

 しかし、そもそも私の撮った写真は「芸術」なのか?

 そんな意図すらないのである。まぁ、他人が決めることなんだろうけれど…

 しかし、やっぱり「アート・芸術」というものが、そもそもよくわからないものではないか、と言わざるを得ないわけだ。誰がそれを決めるのか?つまり、誰が対象となる何かを「アート・芸術」として認定するのか?誰にその資格があるのか?

…と考え出すと(ここでそれを考え始めてしまうところがいかにも「私」なわけだが)、何を「作品」と呼び「アート・芸術」と認めるのか、というのは簡単な問題ではないことが理解出来るだろう。

 

…というメンドーな話はこのくらいにして、「アウトサイダー作家」と呼ばれてしまったことは、個人的には(そして家族的には)面白いことなのであった。

 「作家」であるかどうかは別として、「アウトサイダー」であることは、確かに自分の人生での選択であったという意識があるからだ。要するに、オレは日本の世間には参加しないよ、というのが若き日の我が決意であったわけである。

 そういう意味で、確かに「アウトサイダー」であることは、自明のことだったわけだ。

 

 その「アウトサイダー」としての私が、カメラを手にしシャッターを切ることを生活の一部としていた、ということなのであった。カメラにフィルムあるいはメモリー・カードが入っていれば、シャッターを切った後には写真が残されるのである。

 それがギャラリーという場で展示されることによって「作品」と呼ばれ、結果として撮影者が「作家」と呼ばれることになる、というのが理解としては妥当なことなのかも知れない。

 
 
 
 

…と、まぁ、書き出したら長くなってしまったが、古本購入記を書いておくのが今夜の日記の予定であった。

 で、今からそれを始める。

 家族総出で、家の本(私のではない本)の処分のために、駅の向こうの古書店(チェーン店)まで出かけたわけだ。そこで買ってしまった本、というわけである(毎度の話だが)。

 
 

 ジョアン・フォンクベルタ + スプートニク協会 『スプートニク』 (筑摩書房 1999) 2600円→1300円
 松本昭夫 『精神病棟の二十年』 (新潮文庫 2001) 400円→200円
 井上嘉大&D.T.Wプロジェクト 『忘れられた大日本帝国 1936』 (英知出版 2005) 2667円→1250円
 加藤恭子 『昭和天皇と田島道治と吉田茂  初代宮内庁長官の「日記」と「文書」から』 (人文書院 2006) 2500円→1050円
 田中孝彦 青木人志 編 『〈戦争〉のあとに ヨーロッパの和解と寛容』 (勁草書房 2008) 2800円→1550円

 

 ここまでが古本。

 その後で駅上の書店で新刊本として、

 ロベルト・エスポジット 『近代政治の脱構築 共同体・免疫・生政治』 (講談社選書メチエ 2009) 1800円

も買ってしまった。ナチスの安楽死計画への言及があるにとどまらず、全体として私のテーマと重なる内容となっているようだ。

 
 

 古書中の『スプートニク』は、帰宅してからあらためて見たら、

 本書「スプートニク」は、解説を除き、すべて作者ジョアン・フォンクベルタ氏によるフィクションです。

と書いてあった。その解説の執筆者は荒俣宏氏であった。

 ウマシカ氏による「陸軍冬期戦研究所」バナシの大掛かりなものなのであった。感動した!!

 

 『精神病棟の二十年』は、

 私は昭和三十一年、21歳の時に精神分裂病に罹患した。当時私は大学受験を控え、東京目黒の下宿で、勉強にうちこんでいた。
 以来七回、前後約六年間にわたり、東京、札幌、旭川の精神病院に入退院をくり返してきた。旭川のT精神病院を最後に退院したのが、昭和五十年九月、その日から五年が過ぎた。
 精神病院の一日一日は、私にとってすべてが空しく、無意味で、苦々しい時間であった。
 その失われた歳月はたとえようもなく惜しいが、もはや返ってはこない。
 私はいま四十五歳である。生地に近い旭川市の小さな出版社に勤め、営業マンとして働いている。一度離婚して以来、約十年ほど独身生活をしていたが、最近再婚もした。
 これから後、自分の病気が決して再発することがないことを希っている。信じている。祈っている。
 私ぐらい愛について魯鈍な者もいなかったのではないだろうか。私は愛を受け取ることばかりに長じていて、愛を与えることはまるで幼児より下手だった。…

という文章で始まる、松本昭夫氏による自身の記録である。

 これから後、自分の病気が決して再発することがないことを希っている。信じている。祈っている。

という、「希っている。信じている。祈っている」と重ねられた表現に、ご自身の年月が集約されているように思える。

 

 『忘れられた大日本帝国 1936』はDVD2枚付きの資料集として、『昭和天皇と田島道治と吉田茂』はタイトルが内容を語っているだろう。

 『〈戦争〉のあとに ヨーロッパの和解と寛容』は、第一次世界大戦後、第二次世界大戦後、冷戦終結後、という三度の「戦後」をテーマとした論文集。頭の整理に。

 
 
 
 

で、話は冒頭に戻る。

 帰宅後に、これを書くためにココログの記事を久しぶりにチェックした際に、文中でサヴァールの演奏の紹介をしていたことに気付いた。

Jordi Savall, Hespèrion XXI - Lacrimae Pavan, J.Dowland (1563-1626)
 → http://www.youtube.com/watch?v=g2uA4msplTg&feature=related

 

 写真展を企画した学生によれば、サヴァールの姿はウマシカ氏に似ているらしい。

 鼻の形が違うような気がするが、ヒゲ、メガネ、マユゲ、ヘアスタイルについては、確かに似ているようにも思えた。

 で、最後に、サヴァールの演奏のオマケ。

 

Diego Ortiz: Recercada quarta sobre la folia / Jordi Savall
 → http://www.youtube.com/watch?v=egQ5TtE7E9I&feature=related
Anonymous: La Folia ( XV century ) / Jordi Savall
 → http://www.youtube.com/watch?v=uUeLAF54m_U&feature=related

 
 
 
 
 
 

 

 
 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/12 19:28 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/118924

 

 

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2009年8月19日 (水)

真昼の百鬼夜行

 

 「百鬼夜行」とは字の通りで、夜中の話のはずなんだが、真昼に「百鬼夜行」に出会ってしまった。

 

 

 東京は立川市での話(オケガワは関係ない)。

 

 

 立川から多摩都市モノレールに乗って(妖怪の世界というよりSF的乗り物だ)、次の「高松」駅で下車。(地図によれば)7分ほど歩くと、国文学研究資料館に着く。

 都市計画現実化中、というか都市計画途上というか、草が伸びる空き地が残る広い空間に格子状の広い道路、そして中層(「高層」とまではいかない感じ)の現代的ビルが立ち並ぶところまではいっていないが、やがて立ち並ぶんだろう的世界。完成したら、「鉄腕アトム」的イメージの世界になるんだろうなぁ…

…という区画にある、これもデカめのガラスとコンクリート建築。

 入り口を入ると、広い吹き抜けの空間で左右に分けられている。左が「大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館」のエリア。右側は、南極観測関係のナントカ法人だかナントカ機構だかが占領していた。

 

 このあたり一帯は、東京都心が地震で壊滅した時に国家の中枢機能を移転させる、という構想で整備されているらしいのだが、「立川断層」の真上に位置しているというウワサもあったりする場所だ。地震でどうなるのかは知らないが、基本がSF的「近未来」空間…と言ったって、とっくに21世紀なんだけどね。

 

 

 で、国文学研究資料館で開催されているのが「人間文化研究機構連携展示 百鬼夜行の世界」展なのだ。

 久しぶりに家族全員揃う時間が出来たので、観に行ったわけ。と言っても、夕方から仕事が入っていたので、規模の大きな展示ではないだろうという予測があればこその展観だった(会場はここだけではなくて、国立歴史民俗博物館でも連携展示をしているというスタイルだし)。

 

 

 実際、広い会場ではない(展示会場は、国文学研究資料館全体のほんの一部なのだ)ので、展示点数も多くはなかったけれど、中身は充実していた。あらためて会場で配布されていた「出品目録」でチェックすると(「図録」の方だと、2会場の両方が記載されているので)、展示総数は36点。江戸期を中心に、絵巻もあれば刊本もありの、各種の「百鬼夜行図」に出会うことが出来る。元ネタがコピーを通して展開していく姿も面白い。

 

 「freeml」的(?)には、京都市立芸術大学芸術資料館蔵の、江戸時代後期の『付喪神絵詞(つくもがみえことば)』が興味深い。行列の中に、タヌキだのイタチだのの姿を発見出来るのだ。

 展示品の中に、寛永20(1643)年刊の『仏頂尊勝陀羅尼』があって、この中に「妖怪」除け(?)の呪文が紹介されていたのだが、出品目録では「参考品」となっていて「図録」への掲載がない(会場となった「国文学研究資料館」の所蔵品だった)。なので、ここで再現出来ないのだ。残念な話である。

 それでも「図録」には、「百鬼夜行」を避ける歌の紹介はある。藤原清輔の『袋草紙』によれば、

  堅石やつかせせくりにくめるさけ 手て酔ひ足酔ひわれ酔ひにけり

というのだが、効果の程は…

 

 まぁ、いずれにしても、夜中でも街頭が道を明るく照らす世界では、「百鬼夜行」は出来ませんなぁ…

 真昼の妖狸には悩まされるけれど…

 

 

 

 駅近くに戻り、小さなビルの小さなフレンチの店でランチ。そのビルのほとんど隣が、オタクの殿堂の「フロム中武」。

 寄ると散財するので、駅上の「山野楽器」まで我慢してCDコーナーで散財、のつもりだったのだけど、アニメ関係ショップ狙いの娘について、「フロム中武」の中へ…

 こちらは古銭・コインの店狙い。

  大正2(1913)年 大日本 10銭

  1961-1971 タンザニア 5シリンギ

  1974-1977 アルジェリア 5(ディナール?)

  1975年 パナマ 10(センティノス?)

  昭和51(1976)年 日本国 100円(天皇陛下御在位50年)

  1993年 チェコ 2コルナ

 大正2年は、母の生年。1993年は、娘の生年。家族の生年の各国コインの収集、というのがコレクションの基本(カネがかからない)。

 もう一つが、今はない国、あるいは国家体制、権力者が変る前のコイン(これも、カネがかからない)。

 今回は記念硬貨らしきものが3種(タンザニア、アルジェリア、日本国)。タンザニアは独立10年。アルジェリアは(今のところ)内容・意味不明。日本は読んでの通り(ケース内に記念切手も付属していた)。  

 

 同じフロアで、なんと「古書市」開催中。

 会場内に入ってはいけない、と思いながら、会場の外の台上の本を…

 うわっ! 戦前の岩波新書が…

  小堀杏奴編 森鴎外 『妻への手紙』 (岩波新書17 昭和十三年十一月 ただし昭和十六年六月の6刷) 50銭 250円

  B・M・チェムバレン 『鼠はまだ生きている』 (岩波新書32 昭和十四年四月) 50銭 300円

  笠間杲雄 『回教徒』 (岩波新書33 昭和十四年四月) 50銭 300円

  天野貞祐 『学生に輿ふる書』 (岩波新書45 昭和十四年八月 ただし同年十月の2刷) 50銭 購入額不明(値札脱落 - 以下、同じ理由による))

  山本有三 『戦争と二人の婦人』 (岩波新書47 昭和十四年九月 ただし昭和十五年十一月の3刷) 50銭 250円

  芦田均 『バルカン』 (岩波新書55 昭和十四年十二月) 50銭 購入額不明

  安田徳太郎 『世紀の狂人』 (岩波新書58 昭和十五年三月) 50銭 250円

  西田幾多郎 『日本文化の問題』 (岩波新書60 昭和十五年三月) 50銭 350円

  J・ハックスリ A・ハッドン 『人種の問題』 (岩波新書69 昭和十五年七月 50銭 300円

  許広平 『暗い夜の記録』 (岩波新書215 昭和30年9月) 100円 購入額不明

  A・L・ストロング 『チベット日記』 (岩波新書416 1961年5月) 130円 300円

  ジュール・ロワ 『アルジェリア戦争』 (岩波新書421 1961年6月) 100円 150円

  何長工 『フランス勤工倹学の回想』 (岩波新書956 1976年2月) 230円 100円

  村上重良 『天皇の祭祀』 (岩波新書993 1977年2月) 280円 150円

…を買ってしまう。3000円ちょっとだ。
 

 『妻への手紙』の巻末には、「岩波新書を刊行するに際して」と題された岩波茂雄の有名な(?)言葉は載せられていない。『鼠はまだ生きている』の方には掲載されているのだが、あらためて読んでみるとビックリ、

  天地の義を輔相して人類に平和を輿へ王道楽土を建設することは東洋精神の発露にして、東亜民族の指導者を以て任ずる日本に課せられた世界的義務である。…

…なんて言葉で始まっているのだった。

 そして末尾は、

     昭和十三年十月靖国神社大祭の日

となっているのだ。あの「岩波新書」と「靖国神社大祭の日」の組み合わせである。

 

 やはりオリジナルには価値がある。

 本や論文に、当時の岩波新書からの引用があっても、この巻末の岩波茂雄の言葉を読む機会はない。

 

 値段の変化、出版年の表記が元号から西暦へ変った事実。本文以外のところも、なかなかに見所がある。

 

 

 結局、古銭と古本で5000円ほどの散財。

 まぁ、お安いお楽しみである。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/18 21:43 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113552

 

 

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2009年8月 9日 (日)

リベラルはサヨク、なのか? 自由主義者としての吉田茂

 

 日々、果敢な闘いを展開していらっしゃるウヨクの皆様によれば、リベラルはサヨク、民主党はリベラルだからサヨク、ということになるらしい。

 もちろん、その闘いの当面の目標は、自由民主党政権を擁護し、「リベラル」な民主党政権成立を阻止することだ。

 

 

 まぁ、以前にも指摘したことがあるけれど、自由民主党は、英語圏に向けては「リベラル・デモクラティック・パーティー(Liberal Democratic Party=LDP)」と名乗っている政党である。自由民主党をこそ、正統派のリベラルと考えねばならない、のではないだろうか?

 実際問題としても、自由民主党に結集した政治家の皆さんが、自らの集団を「自由民主党=Liberal Democratic Party」と呼ぶことにしているのは、コミンテルンの陰謀ではなく、自由党と日本民主党を母体に持つ、その歴史によるものだ。1955年11月に、自由党と日本民主党の合体(いわゆる「保守合同」)により発足したのが、現在に至る自由民主党なのである。

 どう考えても、リベラルの名は(「実」はともかくも)、民主党ではなく自由民主党にこそふさわしい。

 

 

 その自由民主党のルーツとなる、そのものずばりの「自由党」は、戦前の2大政党の一つであった「立憲民政党」系の政治家によって、敗戦後の日本で結成されている。

 1946年の衆議院議員選挙で第一党となり、総裁である鳩山一郎の首相就任が確実となったのだが、当の鳩山が、占領軍による公職追放により、政界から排除(パージ)されてしまう。そこで鳩山に代って登場したのが、あの吉田茂なのである。

 

 吉田茂こそは、戦前・戦中より、リベラル=自由主義者として、当時の米国駐日大使ジョセフ・グルーにより、高く評価されていた日本人なのである。

 吉田茂は、西園寺公望、牧野伸顕、樺山愛輔と並んで、親英米派の自由主義者として、グルーから大きな信頼を得ていたのであった。

 

 この親英米派の「自由主義者」達は、同時に「宮中グループ」とも呼ばれる昭和天皇の側近でもあった。

 (敗戦後の天皇自身の言葉によれば)戦前・戦中は立憲君主として振舞うことを何よりも心がけていたという天皇から誰よりも信頼されていたのが、彼ら「宮中グループ」であったということも忘れてはならないだろう。立憲君主としての立場上、自身の意思を表明することは叶わなかったにしても、昭和天皇の信頼は「軍国主義者」の上に注がれていたのではなく、彼ら「自由主義者」のものであったのである。

 つまり、昭和天皇もまた「自由主義」の側の人間として、少なくとも駐日大使グルーには理解されていたのである。そしてその「理解」があったからこそ、敗戦後の日本においても「象徴」という形で、天皇の地位は保たれることになったということも、この国の「自由主義=リベラル」の伝統を考える上で忘れられるべきではない。

 

 戦前・戦中の、いわゆる軍国主義に抗したグループを大別すれば、共産主義者と自由主義者ということになるであろう。共産主義者達は治安維持法下、刑務所に収容されていたわけで、実質的に(それが成功しなかったにせよ)軍国主義に立ち向かったのは自由主義者達であった。その傍らには昭和天皇の姿もある。

 それが敗戦に至るこの国の歴史の<事実>である。ウヨク流(あるいは田母神氏流?)の表現をすれば「近代史の真実」ということになろう。

 

 

 その上で、戦後の彼らの軌跡を振り返ってみよう。戦前・戦中の反軍国主義者としての「リベラル」の戦後は、反共産主義者としての戦後であったのである。冷戦構造の中、吉田茂は、政治家としてその反共主義を貫くことになる。

 そもそもリベラリズムは、経済思想としても政治思想としても、共産主義(サヨク正統派!)に対峙する思想なのである。

 

 ここにこそ、我が国のリベラリズムの伝統があると考えるべきであろう。

 この国と歴史の伝統を、少しでも大事にする気があるならば、リベラリズムをこそ擁護せよ!と言うべきなのである。

 

 

 

 戦前・戦中・戦後と、その日本の「リベラル」を体現していた人物の孫が、現在の自由民主党(Liberal Democratic Party)の総裁なのだ。

 「リベラル」を攻撃することによって、麻生太郎氏の率いる自由民主党を擁護しようという発想は、とんでもなくナンセンスなものなのである。この国の歴史と伝統を尊重する気があるのなら、このことをまず理解しなければならない、はずだ。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/08 22:10 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/112525

 

 

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2009年7月21日 (火)

「文明賛歌」と「たぬき汁」

 

 まずは小田急線の「成城学園前」駅に向かう、というのが本日のスタート(まぁ、午前中はウダウダしていたので、正午過ぎての「スタート」ではあったが)。

 世田谷美術館分室清川泰次記念ギャラリーで開催中の展覧会「文明賛歌 清川泰次が写したマシーン・エイジ」を観るのが目的。

 

 娘と成城学園前の駅に着いたのは既に午後2時近い時間。まずは昼食をということで、途中のケーキ屋さんらしき店に立ち寄る。キッシュにクロックムッシュで、とりあえずのお昼ごはん。ギャラリーは、そのちょっと先の路地を入って行った所にあった。

 清川氏がご自身の住居兼アトリエとして使用していた建物の内部に、区民ギャラリーと清川氏の作品展示室が作られている。

 

 

 

 

 今回の展示は、案内の文章に、

 輝かしい未来が機械文明と共にあると信じられた時代へ捧げられた、青年からの賛歌

とある通りの、1930年代日本の鉄橋や機関車や街並みの写真で構成されている。学生時代の清川氏が趣味として撮影したものが中心となっている。

 つまりアマチュア写真ということになるのだろうが、それが、まさに時代の写真なのだ。マーガレット・バーク・ホワイトだったりロドチェンコだったりの作品を思い浮かべて欲しい。まさにあの世界が、1919年生まれの慶応ボーイにより残されているのである。

 もっとも、その輝かしい世界は、1940年代の戦争により、日本では灰燼に帰するわけだ。1945年に撮影されたとおぼしき焼けた街並みと駅舎の写真が、その後の日本が辿った歴史を物語っている(後で受付の方に確認したところでは、撮影データが不明で、残念ながらどこの駅なのかはわからない、ということであった)。

 

 展示法が面白いというか見事だった。10枚くらいずつの写真を、当時のグラフ雑誌の誌面のようにレイアウトして、壁面にピン止めしているのだ。90センチ×120センチくらいで一つの画面としたものが、8(あるいは7)画面。ピン止めだけという安価な方法でありながら、レイアウトの構成で、空間の緊張感が作り出されている。

 

 

 

 

 
 

 3時過ぎにギャラリーを辞して、駅の反対側にある母の実家に向かう。10数年ぶりのはずだ。娘はまだ訪れたことがない。

 今回は訪問が目的なのではなく、娘の祖母が若い日々を過ごした家の所在を覚えてもらおうと思ったからだ。

 別に親戚同士、仲が悪いというわけじゃぁない。室内の片付けという作業をしていないに違いないことを承知しているので、突然の訪問は遠慮するのである。

 道を間違えて、20分もかからないはずの道のりに、小1時間もかけてしまったが、暑さがそれほどひどくもなかったので助かった。

 到着後は、玄関先の母の旧姓が書かれているポストの前で娘の姿を撮影。まぁ、夏の街を1時間近く歩かされた後なので、表情がひどい。結果として20分ほどかけての撮影ということになる。今後は演技力を身に着けて欲しい(と注文をつける身勝手な父)。

 

 とりあえずこれで、母(娘にっとっては祖母)の住んでいた家も見たし(といっても建物は改築されていたけど)、ということで駅へと向かう(それが4時半過ぎ)。

 しかし、祖父母(娘にとっては曽祖父母)が存命だった頃とはまったく違う街並みとなってしまっている。相続税の関係だろうが、複雑な思いがする。バカ息子が親の相続財産の広い屋敷で安楽な生活をするというのも実に問題だと思うのだが、相続税対策の結果としてゆとりある街並みが壊れていくというのも、なんとも文化として貧困なものだと思う。

 

 駅近くなって、「キヌタ文庫」という古書店を発見。以前にも一度訪れ、収穫を抱えて帰った記憶がある。娘も、喜んで立ち寄りましょうモード。

 購入本は、

 佐々木輜重兵大佐 『兵站勤務の研究』 偕行社 昭和7(1932)年  2000円

 佐藤垢石 『随筆 たぬき汁』 墨水書房 昭和17(1942)年  700円

 カール・ヤスペルス 著 森 昭 訳 『独逸的精神 マクス・ウェーバー』 弘文堂 昭和17(1942)年  200円

 総合インド研究室 編 『印度の民族運動』 総合インド研究室 昭和18(1943)年  500円

 木村喜久弥 『ネコ その歴史・習性・人間との関係』 法政大学出版局 昭和33(1958)年  400円

 高群逸枝 『日本婚姻史』 至文堂 昭和38(1963)年 200円

 細川護貞 『細川日記 上下』 中公文庫 1979年(ただし1991年の3版)  480円

 藤岡明義 『敗残の記 玉砕地ホロ島の記録』 中公文庫 1991年 300円

 エマニュエル・ウォーラーステイン 『アフター・リベラリズム』 藤原書店 1997年  1300円

 『MUSICAL INSTRUMENTS OF THE WORLD』 PADDINGTON PRESS LTD 1976年  1800円

 『中国楽器図誌』 (中国の書籍で、出版社名が簡体字なので表示不能) 1987年  800円

 

 

 『随筆 たぬき汁』は、かつてネット上から引用した文章の原本(→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/91911/)。こんなところでめぐり合おうとは!!

 『兵站勤務の研究』の表紙には、「日本将校ノ外閲覧ヲ禁ス」と書いてある。

 他に娘の欲しがった文庫本を合わせて9800円の散財。

 娘は、昨日は一人で近所の大型古書店(例のチェーン)を2つめぐったらしいが、品揃えの違いに大喜びであった。これぞ正しい古本屋の姿であろう(値段に関しても、ウォーラーステインなんかチェーン店だと定価の半額というパターンで2400円のはずだ)。

 

 駅近くのコーヒーショップで一服。娘の母(仕事である)と連絡を取り、地元の駅で合流することに決定。

 7時半近くに地元駅到着。駅上の書店で合流。ここでまた余計な本を買ってしまった。

 『現代思想 7 (特集 人間/動物の分割線)』 青土社 2009 
 田中克彦 『ノモンハン戦争  モンゴルと満州国』 岩波新書 2009

 そんな荷物を増やして(家族それぞれに、だ)、階上のレストラン街で食事。自宅に帰り着いたのは9時近く。

 
 
 

 暑い中、充実した一日だった、ように思う。

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/07/20 21:30 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/110606

 

 

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2009年7月13日 (月)

LACHRIMAE 介護のエンディング (老眼と自己決定 番外編)

 

          LACHRIMAE

 

 ラテン語で「涙」を意味する、はずである。

 

 

 母を亡くしていることは、何度か書いたと思う。

 

 彼女は、88歳の日々を、肺癌患者として、寝たきり状態で過ごすことになった。

 往診に訪れたかかりつけの医師から、「余命数週間」との診断を伝えられたのが2001年の1月29日のことだった。

 医師が帰った後、母のポートレートを撮影した。「遺影」用に、である。

 前年の10月の検査入院の際に、癌の部位が心臓に接していて「かなり危険」なことを病院の当直医から聞かされ、退院後は毎日、母の姿を撮影するようにはなっていた。話が前後するが、1999年の後半から微熱が続くなどの体調変化に見舞われ、癌の診断を受けたのは、その年の暮れか翌年の正月のことだ。そのことは本人にも伝えてある上での、その後の出来事である。

 

 やがて訪れる死を前提にして、毎日、母(と家族の姿)を撮影する。そんな日々の中で、往診の医師からの「余命数週間」という言葉は、「やがて訪れる死」という言葉の切迫度を高めるものとなったわけだ。

 

 丁度、私の仕事が春休みに入ることもあり、母を入院させるのではなく、自宅での介護という選択をした。4月にはすべてが終わっている、と思ってのことである。桜の咲き誇る下での葬儀となれば上等だなどと考えていたくらいだ。

 そして、新学期からは仕事に復帰する。

 

 そう考えていたのだが、介護の成果なのか、4月に入っても母は存命であった。以後、仕事を休んでの介護の日々が始まる。

 介護保険の発足と重なり、それ以前の家族介護が置かれたであろう状況に比べれば、かなり恵まれたものとはなったはずだ。しかし、相手は回復の可能性の存在しない家族である。嚥下困難により、食事の楽しみさえ失ってのことだ。

 彼女の生の存続は、もちろん息子としての私、そして私の家族の喜びである。しかし、寝たきり状態という当人にとってもつらい状況での生の存続でもある。88歳ということは、十分に老人であることを意味し、その上での肺癌は、回復というエンディングへの希望を断つものなのである。

 エンディングは彼女の死以外になく、それは彼女の苦しみからの解放の時でもある。それは、つらい状況の終了ではあるが、しかし、彼女と家族が共に過ごせる日々が断たれる時をも意味するのだ。

 しかし、しかしその上に、終わりの見えぬ介護というつらい日々からの解放を、私には意味することにもなる。そこでは介護の日々からの解放をもたらすのは、彼女の死なのである。

 

 心理的には、少なくとも私の心理の問題としては、ハッピーエンドへの希望を持ちえない日々だったように思える。

 彼女の死は望まない。しかし、彼女の死がすべての問題を解決する、という考えを否定することも出来ない。

 私自身にとって、うれしい認識ではない。

 付け加えれば、介護のために仕事を休んでいるということは、その間の収入がないことを意味するし、介護には金がかかるのである。介護の継続は、経済状況の絶対的な悪化も意味するのだ。

 

 

 そんな毎日ではあったが、その中で、必ずその日の母の姿を撮影することは続けていた。

 3月に彼女は88歳の誕生日を迎える。当然、その日の姿を撮影した。その1ヵ月後(4月)には、3月の誕生日の写真と彼女を1枚に収めた。その1ヵ月後(5月)には、4月に撮影した3月の誕生日の写真と並ぶ彼女の姿を撮影する。それを一ヵ月ごとに繰り返す。彼女の生の存続の証しである。「余命数週間」が一ヶ月ずつ延びていく様が、一枚の写真に収められるのだ。

 まぁ、そんな楽しみ(?)も交えながら、毎日、肺癌で寝たきりとなった老人の姿を撮り続けた。

 

 介護の日々の心理的にストレスフルな状況については、先に書いた通りだが、撮影用のライトをセットし、カメラを構え、彼女と向き合う時間。それは「介護の時間」とは別の時間の流れを、私と母の間にもたらすものとなった。その間だけ、私たちは写真家とモデルになるのだ。

 カメラを持つ習慣、シャッターを切る習慣も捨てたものではない。介護という関係性は、その時だけは、私たちの間からは消えたのである。

 

 

 

 2002年1月3日に突然訪れる彼女の死までに、数千枚の写真が残されることになる。

 

 

 その中から48枚を選び、2冊のアルバムにまとめた。彼女の友人・親戚も、彼女同様の老人であり、見舞いにも来られなければ葬儀にも立ち会えなかった方々がほとんどだ。彼女の最後の日々を、写真を通して共に過ごしてもらえればという思いでセレクトした48枚であった(枚数はアルバムのフォーマットに規定されている)。

 彼女の親戚・友人達へ届けるためのアルバムのタイトルとして選んだのが「ラクリメ LACHRIMAE」である。

 1604年に出版されたジョン・ダウランドの曲集のタイトルにちなんだものだ。介護の日々、私の中を流れていた音楽。

 

 

 

 

 書き始めたら長くなってしまった。仕事先で私を見知っていた学生から、私をネタに展覧会をしたいという話があり、かつての母の写真を見せたら「それで行きましょう」的展開になってしまったのが、今夜のお話の発端。

 学生にタイトルの由来である「LACHRIMAE」の実際の演奏を紹介しようと思って、「YOUTUBE」を利用して見つけた画像を紹介するだけで終えるつもりが、説明を始めたら長い話となってしまったというのが事の真相である。

 さて、学生にメールで紹介したのは、

J. SAVALL · Hespérion XX · "Lachrimae Antiquae" · Dowland
 → http://www.youtube.com/watch?v=LCfhqh0u20c

STING & EDIN KARAMAZOV (LUTE) - ST LUKES CONCERETTE PART 1
 → http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=ljQDTLUDWC0&feature=related

の2つだったのだが、後になってから、

Jordi Savall, Hespèrion XXI - Lacrimae Pavan, J.Dowland (1563-1626)
 → http://www.youtube.com/watch?v=g2uA4msplTg&feature=related

を発見。サヴァールのライヴ映像だ。

 スティングのヴォーカルによる「Flow my Tears」も好きだけど、

Alfred Deller performs Dowland's 'Flow my Tears'.
 → http://www.youtube.com/watch?v=85C1jX0P28k&feature=related

このデラーも名演だと、久しぶりに聴いてあらためて思った。これ、LPは持っていたはずなんだけど…

 最後に、

Flow My Tears - Jim Moray
 → http://www.youtube.com/watch?v=40bv3m9I7dM&feature=related

やるじゃありませんか…

 

 

 

註 : 私自身の死生観の背景の理解につながると思い、「老眼と自己決定」の「番外編」として、ここに収録することにした。

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/07/12 22:07 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/109862

 

 

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2009年6月16日 (火)

今日は靖国

 

     (2009年5月31日の話である)

 昨日の予告通り、靖国神社まで出かけて来た。

 


 

 知人の主催するフィールドワークへ、家族ぐるみで参加(総勢数十人)。

 

 「九段下」の駅に集合。

 最初の目的地は「しょうけい館(戦傷病者史料館)」。「戦傷病者とその家族の労苦を伝える」ことを目的とした史料館である。

 撮影禁止ではあったけれど、受付に申し出て、学芸員さんの許可をいただき、見学風景を撮影しながら、知人の案内で自分も見学。

 次回、あらためてゆっくり時間をかけて見学しようと思う。

 徹底的に「兵隊」の視線で構成された史料館であった。

 

 それから靖国神社へと向かう(コンビニで水分確保してから)。

 

 まずは九段坂の左側(牛ヶ淵沿い)を上り、「高燈篭」や品川弥次郎の銅像等を見ながら、靖国神社創設以前の九段の地誌などを、ガイドをする知人の説明で聞く。要するに、それなりに人の集まる場所であったらしい。

 

 それからあらためて道路を渡り、靖国神社参道へ向かう。

 社号碑(「別格官幣社」の文字が切り取られている)から始めて、それぞれの鳥居、狛犬、様々な記念碑を見学(雨が降り出す中を)。

 続いて本殿左側の「鎮霊社(元宮)」や、当初の招魂斎庭を見る。

 再び本殿前を横切り、右奥の「招魂斎庭」(1938~)へと向かう。しかし、現在は貸し駐車場になっているのだった。つまり、新たな戦死者の発生を、靖国神社自体は想定していないということになる。あるいは、とにかく現金収入の確保を考えている、ということだろうか?

 

 そして、付属の戦争博物館である「遊就館」へ。

 入る前に(一人で)、ガラス壁の外からゼロ戦を撮り、その先にある特攻隊員の像も撮影。そう言えば、その前に、軍馬や軍犬、軍用鳩の記念碑も撮った。

 さて、館内のレストランで「海軍カレー」で昼食(ガイド氏のオススメ)。

 以前にもここで「海軍カレー」は食べたことがあり、家族には「不味いぞ」と伝えてあったのだが、食べてみたら思ったほど不味くもない。どういうことなんだ、と思っていたら、後になってのガイド氏との会話から、以前と味に変化があるという結論に。かつてほど不味くなくなっているのだ。海軍オリジナルレシピが売りなはずなのに、これも「商売」なのだろうか?

 ガイド氏の目論見は、不味い海軍カレーを参加者に味わってもらうことだったらしく、二人で不平を漏らす。

 

 食事の後は、館内の展示見学。

 「遊就館」の「図録」の愛読者であることは、これまでにも書いたと思うが、ご都合主義的記述の魅力は、もちろん展示のキャプションで味わうことが出来る。

 ガイドもそれが目的で、突っ込みどころ満載のキャプションから(時間の関係で)特にセレクトしたものを解説していただく。

 つまるところ、時間の関係で急ぎ足で館内を一周という状態だったのだが、それでも既に4時である(駅前に集合したのが午前10時)。それだけ境内(そして遊就館内も)は広いのだ。

 

 最後に、企画展示室の特別展示「矢弾丸尽きるとも -我レ生還ヲ期セズ-」を見るが、見ているうちに腹が立ってくる。

 昭和19年7月の、いわゆる「絶対国防圏」を破られた後の戦死者(英霊)の記録資料の展示だったのだが、戦闘が勝つことではなく、降伏を表明しないことのみが目的となってしまった状況下での、しかも無謀・杜撰な作戦での犠牲者の遺品なのだ。

 この戦死者達は、無能で無責任な大日本帝國の政治的軍事的指導者の犠牲になった者達なのである。

 その責任を問おうとしない自称愛国者達への怒りも加わり、不愉快の頂点で、遊就館の展示見学を終えたのだった。

 

 ミュージアムショップで「図録」(昨年度の改定新版である)と、『これだけは知っておきたい大東亜戦争 20の最新基礎知識』、『いわゆる「A級戦犯」合祀と靖国問題について』というパンフレットを購入。ご都合主義の論理学のお勉強用である。家族は家族でなにやら購入していた模様。

 
 

 フィールドワークの予定はそれで終了。

 

 雨の靖国神社を後にする。

 わが家族は「抜刀隊(陸軍分列行進曲)」を口ずさみながら(「抜刀隊」→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-f933.html)、である。映画『靖国』の夜の雨中の映像と、『学徒出陣』の雨の神宮競技場のシーンを思い浮かべながら、だ。

 
 
 

 その後は、参加者の一部で喫茶店でおしゃべり。

 遺族の亡くなっていく中での靖国神社の維持の問題などを話題に、2時間くらい話し込んでしまった。

 
 
 
 
 
 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/05/31 22:29 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/105782

 

 

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きたないはきれいだし、リベラルはサヨクである

 

  とにかく「私」は潔癖だ。例え風呂に数年入っていなくとも、潔癖だ。

                (たぬき男いたち男 2009/05/25 18:28 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/105084) 

 まぁ、「真実」とはそういうものなのだろう。

 

 「ジョーシキ」に対する説得力は皆無だが、人間というイキモノの「真実」を感じてしまう。

 ジョーシキなんかクソ喰らえ、という気分になる言葉だ。

 
 

 かつて、アメリカのブッシュ政権は「中絶反対」を掲げていたわけだが、つまり、その「生命尊重」の精神が中絶への反対を掲げさせたのであろうが、アフガニスタンやイラクの市民の生命を尊重する必要はまったく感じていなかったらしい。

 まぁ、唐突だが、そんなことを思い出してしまった。

 
 

 そう言えば、「ネトウヨ」の皆さんは、「サヨク」がお嫌いらしいが、そしてなんと「リベラル」であることも「サヨク」的なことなのだそうなのだが、その「ネトウヨ」の皆さんの絶対的支持を集める「自由民主党」は、LDP(Liberal Democratic Party)と自称している政党なんだけど、いったいどうなっているのだろうか?

 もっとも、現在の社民党(つまり旧社会党)の政治家が、「社会主義リベラル」という言い方をしていたのも思い出す。リベラリズムとソーシャリズムは対立的な思想だと思うのだが、いったいどうなっていたのだろうか?

 

 要するに、世の中の「真実」というのはそういうものなのだろう。

 
 

WAR IS PEACE

FREEDOM IS SLAVERY

IGNORANCE IS STRENGTH

                    戦争は平和である

                    自由は屈従である

                    無知は力である

 まさに、そういうことだ。

 
 

 論理の問題、リクツの問題、語の意味の厳密性の問題ではない、というわけだろう。

 要するに、「お気持ち」の問題なのだ。

 

 命の大切さを説きながら、戦争が出来てしまう。

 自衛のために、隣国への軍事侵攻が出来てしまう(イラクは米国の「隣国」ではなかったが、中華民国は大日本帝國の「隣国」であった)。

 リベラルも「サヨク」だからダメだと言いながら、リベラル・デモクラティック・パーティーは政治的に正しい政党であるので躊躇なく支持出来てしまう。

 
 

 しかし、

  リベラルはサヨクである

って言うのと、

  戦争は平和である

っていうスローガンの根底には、ほとんど同じ精神を感じる。

 何も考えちゃいない、ってことだろう、要するに。考えることではなく信じること、だ。

 世界を「敵 or 味方」の二分法でしか捉えることが出来なくなると、人は考えることをやめてしまう(つまり、進んで騙されるようになる)。敵と名指されたものは憎め、それが二分法的精神だ。ブッシュの精神であり、ネトウヨの精神であり、新・旧左翼の精神であり、金正日体制の精神でもある。

 
 

 まぁ、

  ネトウヨは北朝鮮である

と言ってしまえば、理解は容易かも知れない。

 「リベラルはサヨクである」はメチャクチャだが、「ネトウヨは北朝鮮である」の方には「真実」が含まれているような気もする。

 
 

 屈従は自由ではない。そこがスタートだろう。

 そして、

  とにかく「私」は潔癖だ。例え風呂に数年入っていなくとも、潔癖だ。

という気持ちは理解したから、まずシャワーを浴びて欲しい。

 シャワーは自由への道である。

 
 
 
 
 

 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/05/26 00:11 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/105179

 

 

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