日記・コラム・つぶやき

2009年10月21日 (水)

秋の空の下、アウトサイダー作家の誕生?

 

 さすがに、10月もここまで来ると、夏の名残もない。

 
 

 夏の初めに、学生の企みに乗せられて写真展を…、というような話を書いた。
  (→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/lachrimae-7864.html

 
 

 メールのやり取りの結果、11月24日~12月5日という会期での開催が決定。

 そろそろ準備も本格的に始めなければならない。

 
 
 
 

 ところで、学生の作った企画書の「作家紹介」が、家族的にウケた。

 その最後が、

 正規のアート教育を受けていないアウトサイダー作家である。

という言葉で結ばれているのだった。

 

 「アウトサイダー・アート」と呼ばれるジャンルがあるのだ。近年注目の対象となっているジャンルである。
  (→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%88%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88

 『ウィキペディア』の記述中にもある、世田谷美術館の「パラレル・ヴィジョン」展には、私も足を運んだものだ。そして『ウィキペディア』の記述中にもある通り、展示作品の中での精神障害者の作品の比率は高い。

 
 

 特に、子どもや、正式な美術教育を受けずに発表する当てもないまま独自に
 作品を制作しつづけている者などの芸術も含む。なお、デュビュッフェの作品を
 アール・ブリュットに含める場合もある。

 

という意味では、私の写真は仕事ではないし、「作品」として人に見せることを考えたものではないし…と考えれば、「アウトサイダー・アート」と呼ぶことも出来るのだろう。

 しかし、そもそも私の撮った写真は「芸術」なのか?

 そんな意図すらないのである。まぁ、他人が決めることなんだろうけれど…

 しかし、やっぱり「アート・芸術」というものが、そもそもよくわからないものではないか、と言わざるを得ないわけだ。誰がそれを決めるのか?つまり、誰が対象となる何かを「アート・芸術」として認定するのか?誰にその資格があるのか?

…と考え出すと(ここでそれを考え始めてしまうところがいかにも「私」なわけだが)、何を「作品」と呼び「アート・芸術」と認めるのか、というのは簡単な問題ではないことが理解出来るだろう。

 

…というメンドーな話はこのくらいにして、「アウトサイダー作家」と呼ばれてしまったことは、個人的には(そして家族的には)面白いことなのであった。

 「作家」であるかどうかは別として、「アウトサイダー」であることは、確かに自分の人生での選択であったという意識があるからだ。要するに、オレは日本の世間には参加しないよ、というのが若き日の我が決意であったわけである。

 そういう意味で、確かに「アウトサイダー」であることは、自明のことだったわけだ。

 

 その「アウトサイダー」としての私が、カメラを手にしシャッターを切ることを生活の一部としていた、ということなのであった。カメラにフィルムあるいはメモリー・カードが入っていれば、シャッターを切った後には写真が残されるのである。

 それがギャラリーという場で展示されることによって「作品」と呼ばれ、結果として撮影者が「作家」と呼ばれることになる、というのが理解としては妥当なことなのかも知れない。

 
 
 
 

…と、まぁ、書き出したら長くなってしまったが、古本購入記を書いておくのが今夜の日記の予定であった。

 で、今からそれを始める。

 家族総出で、家の本(私のではない本)の処分のために、駅の向こうの古書店(チェーン店)まで出かけたわけだ。そこで買ってしまった本、というわけである(毎度の話だが)。

 
 

 ジョアン・フォンクベルタ + スプートニク協会 『スプートニク』 (筑摩書房 1999) 2600円→1300円
 松本昭夫 『精神病棟の二十年』 (新潮文庫 2001) 400円→200円
 井上嘉大&D.T.Wプロジェクト 『忘れられた大日本帝国 1936』 (英知出版 2005) 2667円→1250円
 加藤恭子 『昭和天皇と田島道治と吉田茂  初代宮内庁長官の「日記」と「文書」から』 (人文書院 2006) 2500円→1050円
 田中孝彦 青木人志 編 『〈戦争〉のあとに ヨーロッパの和解と寛容』 (勁草書房 2008) 2800円→1550円

 

 ここまでが古本。

 その後で駅上の書店で新刊本として、

 ロベルト・エスポジット 『近代政治の脱構築 共同体・免疫・生政治』 (講談社選書メチエ 2009) 1800円

も買ってしまった。ナチスの安楽死計画への言及があるにとどまらず、全体として私のテーマと重なる内容となっているようだ。

 
 

 古書中の『スプートニク』は、帰宅してからあらためて見たら、

 本書「スプートニク」は、解説を除き、すべて作者ジョアン・フォンクベルタ氏によるフィクションです。

と書いてあった。その解説の執筆者は荒俣宏氏であった。

 ウマシカ氏による「陸軍冬期戦研究所」バナシの大掛かりなものなのであった。感動した!!

 

 『精神病棟の二十年』は、

 私は昭和三十一年、21歳の時に精神分裂病に罹患した。当時私は大学受験を控え、東京目黒の下宿で、勉強にうちこんでいた。
 以来七回、前後約六年間にわたり、東京、札幌、旭川の精神病院に入退院をくり返してきた。旭川のT精神病院を最後に退院したのが、昭和五十年九月、その日から五年が過ぎた。
 精神病院の一日一日は、私にとってすべてが空しく、無意味で、苦々しい時間であった。
 その失われた歳月はたとえようもなく惜しいが、もはや返ってはこない。
 私はいま四十五歳である。生地に近い旭川市の小さな出版社に勤め、営業マンとして働いている。一度離婚して以来、約十年ほど独身生活をしていたが、最近再婚もした。
 これから後、自分の病気が決して再発することがないことを希っている。信じている。祈っている。
 私ぐらい愛について魯鈍な者もいなかったのではないだろうか。私は愛を受け取ることばかりに長じていて、愛を与えることはまるで幼児より下手だった。…

という文章で始まる、松本昭夫氏による自身の記録である。

 これから後、自分の病気が決して再発することがないことを希っている。信じている。祈っている。

という、「希っている。信じている。祈っている」と重ねられた表現に、ご自身の年月が集約されているように思える。

 

 『忘れられた大日本帝国 1936』はDVD2枚付きの資料集として、『昭和天皇と田島道治と吉田茂』はタイトルが内容を語っているだろう。

 『〈戦争〉のあとに ヨーロッパの和解と寛容』は、第一次世界大戦後、第二次世界大戦後、冷戦終結後、という三度の「戦後」をテーマとした論文集。頭の整理に。

 
 
 
 

で、話は冒頭に戻る。

 帰宅後に、これを書くためにココログの記事を久しぶりにチェックした際に、文中でサヴァールの演奏の紹介をしていたことに気付いた。

Jordi Savall, Hespèrion XXI - Lacrimae Pavan, J.Dowland (1563-1626)
 → http://www.youtube.com/watch?v=g2uA4msplTg&feature=related

 

 写真展を企画した学生によれば、サヴァールの姿はウマシカ氏に似ているらしい。

 鼻の形が違うような気がするが、ヒゲ、メガネ、マユゲ、ヘアスタイルについては、確かに似ているようにも思えた。

 で、最後に、サヴァールの演奏のオマケ。

 

Diego Ortiz: Recercada quarta sobre la folia / Jordi Savall
 → http://www.youtube.com/watch?v=egQ5TtE7E9I&feature=related
Anonymous: La Folia ( XV century ) / Jordi Savall
 → http://www.youtube.com/watch?v=uUeLAF54m_U&feature=related

 
 
 
 
 
 

 

 
 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/12 19:28 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/118924

 

 

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2009年8月19日 (水)

真昼の百鬼夜行

 

 「百鬼夜行」とは字の通りで、夜中の話のはずなんだが、真昼に「百鬼夜行」に出会ってしまった。

 

 

 東京は立川市での話(オケガワは関係ない)。

 

 

 立川から多摩都市モノレールに乗って(妖怪の世界というよりSF的乗り物だ)、次の「高松」駅で下車。(地図によれば)7分ほど歩くと、国文学研究資料館に着く。

 都市計画現実化中、というか都市計画途上というか、草が伸びる空き地が残る広い空間に格子状の広い道路、そして中層(「高層」とまではいかない感じ)の現代的ビルが立ち並ぶところまではいっていないが、やがて立ち並ぶんだろう的世界。完成したら、「鉄腕アトム」的イメージの世界になるんだろうなぁ…

…という区画にある、これもデカめのガラスとコンクリート建築。

 入り口を入ると、広い吹き抜けの空間で左右に分けられている。左が「大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館」のエリア。右側は、南極観測関係のナントカ法人だかナントカ機構だかが占領していた。

 

 このあたり一帯は、東京都心が地震で壊滅した時に国家の中枢機能を移転させる、という構想で整備されているらしいのだが、「立川断層」の真上に位置しているというウワサもあったりする場所だ。地震でどうなるのかは知らないが、基本がSF的「近未来」空間…と言ったって、とっくに21世紀なんだけどね。

 

 

 で、国文学研究資料館で開催されているのが「人間文化研究機構連携展示 百鬼夜行の世界」展なのだ。

 久しぶりに家族全員揃う時間が出来たので、観に行ったわけ。と言っても、夕方から仕事が入っていたので、規模の大きな展示ではないだろうという予測があればこその展観だった(会場はここだけではなくて、国立歴史民俗博物館でも連携展示をしているというスタイルだし)。

 

 

 実際、広い会場ではない(展示会場は、国文学研究資料館全体のほんの一部なのだ)ので、展示点数も多くはなかったけれど、中身は充実していた。あらためて会場で配布されていた「出品目録」でチェックすると(「図録」の方だと、2会場の両方が記載されているので)、展示総数は36点。江戸期を中心に、絵巻もあれば刊本もありの、各種の「百鬼夜行図」に出会うことが出来る。元ネタがコピーを通して展開していく姿も面白い。

 

 「freeml」的(?)には、京都市立芸術大学芸術資料館蔵の、江戸時代後期の『付喪神絵詞(つくもがみえことば)』が興味深い。行列の中に、タヌキだのイタチだのの姿を発見出来るのだ。

 展示品の中に、寛永20(1643)年刊の『仏頂尊勝陀羅尼』があって、この中に「妖怪」除け(?)の呪文が紹介されていたのだが、出品目録では「参考品」となっていて「図録」への掲載がない(会場となった「国文学研究資料館」の所蔵品だった)。なので、ここで再現出来ないのだ。残念な話である。

 それでも「図録」には、「百鬼夜行」を避ける歌の紹介はある。藤原清輔の『袋草紙』によれば、

  堅石やつかせせくりにくめるさけ 手て酔ひ足酔ひわれ酔ひにけり

というのだが、効果の程は…

 

 まぁ、いずれにしても、夜中でも街頭が道を明るく照らす世界では、「百鬼夜行」は出来ませんなぁ…

 真昼の妖狸には悩まされるけれど…

 

 

 

 駅近くに戻り、小さなビルの小さなフレンチの店でランチ。そのビルのほとんど隣が、オタクの殿堂の「フロム中武」。

 寄ると散財するので、駅上の「山野楽器」まで我慢してCDコーナーで散財、のつもりだったのだけど、アニメ関係ショップ狙いの娘について、「フロム中武」の中へ…

 こちらは古銭・コインの店狙い。

  大正2(1913)年 大日本 10銭

  1961-1971 タンザニア 5シリンギ

  1974-1977 アルジェリア 5(ディナール?)

  1975年 パナマ 10(センティノス?)

  昭和51(1976)年 日本国 100円(天皇陛下御在位50年)

  1993年 チェコ 2コルナ

 大正2年は、母の生年。1993年は、娘の生年。家族の生年の各国コインの収集、というのがコレクションの基本(カネがかからない)。

 もう一つが、今はない国、あるいは国家体制、権力者が変る前のコイン(これも、カネがかからない)。

 今回は記念硬貨らしきものが3種(タンザニア、アルジェリア、日本国)。タンザニアは独立10年。アルジェリアは(今のところ)内容・意味不明。日本は読んでの通り(ケース内に記念切手も付属していた)。  

 

 同じフロアで、なんと「古書市」開催中。

 会場内に入ってはいけない、と思いながら、会場の外の台上の本を…

 うわっ! 戦前の岩波新書が…

  小堀杏奴編 森鴎外 『妻への手紙』 (岩波新書17 昭和十三年十一月 ただし昭和十六年六月の6刷) 50銭 250円

  B・M・チェムバレン 『鼠はまだ生きている』 (岩波新書32 昭和十四年四月) 50銭 300円

  笠間杲雄 『回教徒』 (岩波新書33 昭和十四年四月) 50銭 300円

  天野貞祐 『学生に輿ふる書』 (岩波新書45 昭和十四年八月 ただし同年十月の2刷) 50銭 購入額不明(値札脱落 - 以下、同じ理由による))

  山本有三 『戦争と二人の婦人』 (岩波新書47 昭和十四年九月 ただし昭和十五年十一月の3刷) 50銭 250円

  芦田均 『バルカン』 (岩波新書55 昭和十四年十二月) 50銭 購入額不明

  安田徳太郎 『世紀の狂人』 (岩波新書58 昭和十五年三月) 50銭 250円

  西田幾多郎 『日本文化の問題』 (岩波新書60 昭和十五年三月) 50銭 350円

  J・ハックスリ A・ハッドン 『人種の問題』 (岩波新書69 昭和十五年七月 50銭 300円

  許広平 『暗い夜の記録』 (岩波新書215 昭和30年9月) 100円 購入額不明

  A・L・ストロング 『チベット日記』 (岩波新書416 1961年5月) 130円 300円

  ジュール・ロワ 『アルジェリア戦争』 (岩波新書421 1961年6月) 100円 150円

  何長工 『フランス勤工倹学の回想』 (岩波新書956 1976年2月) 230円 100円

  村上重良 『天皇の祭祀』 (岩波新書993 1977年2月) 280円 150円

…を買ってしまう。3000円ちょっとだ。
 

 『妻への手紙』の巻末には、「岩波新書を刊行するに際して」と題された岩波茂雄の有名な(?)言葉は載せられていない。『鼠はまだ生きている』の方には掲載されているのだが、あらためて読んでみるとビックリ、

  天地の義を輔相して人類に平和を輿へ王道楽土を建設することは東洋精神の発露にして、東亜民族の指導者を以て任ずる日本に課せられた世界的義務である。…

…なんて言葉で始まっているのだった。

 そして末尾は、

     昭和十三年十月靖国神社大祭の日

となっているのだ。あの「岩波新書」と「靖国神社大祭の日」の組み合わせである。

 

 やはりオリジナルには価値がある。

 本や論文に、当時の岩波新書からの引用があっても、この巻末の岩波茂雄の言葉を読む機会はない。

 

 値段の変化、出版年の表記が元号から西暦へ変った事実。本文以外のところも、なかなかに見所がある。

 

 

 結局、古銭と古本で5000円ほどの散財。

 まぁ、お安いお楽しみである。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/18 21:43 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113552

 

 

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2009年8月 9日 (日)

リベラルはサヨク、なのか? 自由主義者としての吉田茂

 

 日々、果敢な闘いを展開していらっしゃるウヨクの皆様によれば、リベラルはサヨク、民主党はリベラルだからサヨク、ということになるらしい。

 もちろん、その闘いの当面の目標は、自由民主党政権を擁護し、「リベラル」な民主党政権成立を阻止することだ。

 

 

 まぁ、以前にも指摘したことがあるけれど、自由民主党は、英語圏に向けては「リベラル・デモクラティック・パーティー(Liberal Democratic Party=LDP)」と名乗っている政党である。自由民主党をこそ、正統派のリベラルと考えねばならない、のではないだろうか?

 実際問題としても、自由民主党に結集した政治家の皆さんが、自らの集団を「自由民主党=Liberal Democratic Party」と呼ぶことにしているのは、コミンテルンの陰謀ではなく、自由党と日本民主党を母体に持つ、その歴史によるものだ。1955年11月に、自由党と日本民主党の合体(いわゆる「保守合同」)により発足したのが、現在に至る自由民主党なのである。

 どう考えても、リベラルの名は(「実」はともかくも)、民主党ではなく自由民主党にこそふさわしい。

 

 

 その自由民主党のルーツとなる、そのものずばりの「自由党」は、戦前の2大政党の一つであった「立憲民政党」系の政治家によって、敗戦後の日本で結成されている。

 1946年の衆議院議員選挙で第一党となり、総裁である鳩山一郎の首相就任が確実となったのだが、当の鳩山が、占領軍による公職追放により、政界から排除(パージ)されてしまう。そこで鳩山に代って登場したのが、あの吉田茂なのである。

 

 吉田茂こそは、戦前・戦中より、リベラル=自由主義者として、当時の米国駐日大使ジョセフ・グルーにより、高く評価されていた日本人なのである。

 吉田茂は、西園寺公望、牧野伸顕、樺山愛輔と並んで、親英米派の自由主義者として、グルーから大きな信頼を得ていたのであった。

 

 この親英米派の「自由主義者」達は、同時に「宮中グループ」とも呼ばれる昭和天皇の側近でもあった。

 (敗戦後の天皇自身の言葉によれば)戦前・戦中は立憲君主として振舞うことを何よりも心がけていたという天皇から誰よりも信頼されていたのが、彼ら「宮中グループ」であったということも忘れてはならないだろう。立憲君主としての立場上、自身の意思を表明することは叶わなかったにしても、昭和天皇の信頼は「軍国主義者」の上に注がれていたのではなく、彼ら「自由主義者」のものであったのである。

 つまり、昭和天皇もまた「自由主義」の側の人間として、少なくとも駐日大使グルーには理解されていたのである。そしてその「理解」があったからこそ、敗戦後の日本においても「象徴」という形で、天皇の地位は保たれることになったということも、この国の「自由主義=リベラル」の伝統を考える上で忘れられるべきではない。

 

 戦前・戦中の、いわゆる軍国主義に抗したグループを大別すれば、共産主義者と自由主義者ということになるであろう。共産主義者達は治安維持法下、刑務所に収容されていたわけで、実質的に(それが成功しなかったにせよ)軍国主義に立ち向かったのは自由主義者達であった。その傍らには昭和天皇の姿もある。

 それが敗戦に至るこの国の歴史の<事実>である。ウヨク流(あるいは田母神氏流?)の表現をすれば「近代史の真実」ということになろう。

 

 

 その上で、戦後の彼らの軌跡を振り返ってみよう。戦前・戦中の反軍国主義者としての「リベラル」の戦後は、反共産主義者としての戦後であったのである。冷戦構造の中、吉田茂は、政治家としてその反共主義を貫くことになる。

 そもそもリベラリズムは、経済思想としても政治思想としても、共産主義(サヨク正統派!)に対峙する思想なのである。

 

 ここにこそ、我が国のリベラリズムの伝統があると考えるべきであろう。

 この国と歴史の伝統を、少しでも大事にする気があるならば、リベラリズムをこそ擁護せよ!と言うべきなのである。

 

 

 

 戦前・戦中・戦後と、その日本の「リベラル」を体現していた人物の孫が、現在の自由民主党(Liberal Democratic Party)の総裁なのだ。

 「リベラル」を攻撃することによって、麻生太郎氏の率いる自由民主党を擁護しようという発想は、とんでもなくナンセンスなものなのである。この国の歴史と伝統を尊重する気があるのなら、このことをまず理解しなければならない、はずだ。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/08 22:10 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/112525

 

 

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2009年7月21日 (火)

「文明賛歌」と「たぬき汁」

 

 まずは小田急線の「成城学園前」駅に向かう、というのが本日のスタート(まぁ、午前中はウダウダしていたので、正午過ぎての「スタート」ではあったが)。

 世田谷美術館分室清川泰次記念ギャラリーで開催中の展覧会「文明賛歌 清川泰次が写したマシーン・エイジ」を観るのが目的。

 

 娘と成城学園前の駅に着いたのは既に午後2時近い時間。まずは昼食をということで、途中のケーキ屋さんらしき店に立ち寄る。キッシュにクロックムッシュで、とりあえずのお昼ごはん。ギャラリーは、そのちょっと先の路地を入って行った所にあった。

 清川氏がご自身の住居兼アトリエとして使用していた建物の内部に、区民ギャラリーと清川氏の作品展示室が作られている。

 

 

 

 

 今回の展示は、案内の文章に、

 輝かしい未来が機械文明と共にあると信じられた時代へ捧げられた、青年からの賛歌

とある通りの、1930年代日本の鉄橋や機関車や街並みの写真で構成されている。学生時代の清川氏が趣味として撮影したものが中心となっている。

 つまりアマチュア写真ということになるのだろうが、それが、まさに時代の写真なのだ。マーガレット・バーク・ホワイトだったりロドチェンコだったりの作品を思い浮かべて欲しい。まさにあの世界が、1919年生まれの慶応ボーイにより残されているのである。

 もっとも、その輝かしい世界は、1940年代の戦争により、日本では灰燼に帰するわけだ。1945年に撮影されたとおぼしき焼けた街並みと駅舎の写真が、その後の日本が辿った歴史を物語っている(後で受付の方に確認したところでは、撮影データが不明で、残念ながらどこの駅なのかはわからない、ということであった)。

 

 展示法が面白いというか見事だった。10枚くらいずつの写真を、当時のグラフ雑誌の誌面のようにレイアウトして、壁面にピン止めしているのだ。90センチ×120センチくらいで一つの画面としたものが、8(あるいは7)画面。ピン止めだけという安価な方法でありながら、レイアウトの構成で、空間の緊張感が作り出されている。

 

 

 

 

 
 

 3時過ぎにギャラリーを辞して、駅の反対側にある母の実家に向かう。10数年ぶりのはずだ。娘はまだ訪れたことがない。

 今回は訪問が目的なのではなく、娘の祖母が若い日々を過ごした家の所在を覚えてもらおうと思ったからだ。

 別に親戚同士、仲が悪いというわけじゃぁない。室内の片付けという作業をしていないに違いないことを承知しているので、突然の訪問は遠慮するのである。

 道を間違えて、20分もかからないはずの道のりに、小1時間もかけてしまったが、暑さがそれほどひどくもなかったので助かった。

 到着後は、玄関先の母の旧姓が書かれているポストの前で娘の姿を撮影。まぁ、夏の街を1時間近く歩かされた後なので、表情がひどい。結果として20分ほどかけての撮影ということになる。今後は演技力を身に着けて欲しい(と注文をつける身勝手な父)。

 

 とりあえずこれで、母(娘にっとっては祖母)の住んでいた家も見たし(といっても建物は改築されていたけど)、ということで駅へと向かう(それが4時半過ぎ)。

 しかし、祖父母(娘にとっては曽祖父母)が存命だった頃とはまったく違う街並みとなってしまっている。相続税の関係だろうが、複雑な思いがする。バカ息子が親の相続財産の広い屋敷で安楽な生活をするというのも実に問題だと思うのだが、相続税対策の結果としてゆとりある街並みが壊れていくというのも、なんとも文化として貧困なものだと思う。

 

 駅近くなって、「キヌタ文庫」という古書店を発見。以前にも一度訪れ、収穫を抱えて帰った記憶がある。娘も、喜んで立ち寄りましょうモード。

 購入本は、

 佐々木輜重兵大佐 『兵站勤務の研究』 偕行社 昭和7(1932)年  2000円

 佐藤垢石 『随筆 たぬき汁』 墨水書房 昭和17(1942)年  700円

 カール・ヤスペルス 著 森 昭 訳 『独逸的精神 マクス・ウェーバー』 弘文堂 昭和17(1942)年  200円

 総合インド研究室 編 『印度の民族運動』 総合インド研究室 昭和18(1943)年  500円

 木村喜久弥 『ネコ その歴史・習性・人間との関係』 法政大学出版局 昭和33(1958)年  400円

 高群逸枝 『日本婚姻史』 至文堂 昭和38(1963)年 200円

 細川護貞 『細川日記 上下』 中公文庫 1979年(ただし1991年の3版)  480円

 藤岡明義 『敗残の記 玉砕地ホロ島の記録』 中公文庫 1991年 300円

 エマニュエル・ウォーラーステイン 『アフター・リベラリズム』 藤原書店 1997年  1300円

 『MUSICAL INSTRUMENTS OF THE WORLD』 PADDINGTON PRESS LTD 1976年  1800円

 『中国楽器図誌』 (中国の書籍で、出版社名が簡体字なので表示不能) 1987年  800円

 

 

 『随筆 たぬき汁』は、かつてネット上から引用した文章の原本(→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/91911/)。こんなところでめぐり合おうとは!!

 『兵站勤務の研究』の表紙には、「日本将校ノ外閲覧ヲ禁ス」と書いてある。

 他に娘の欲しがった文庫本を合わせて9800円の散財。

 娘は、昨日は一人で近所の大型古書店(例のチェーン)を2つめぐったらしいが、品揃えの違いに大喜びであった。これぞ正しい古本屋の姿であろう(値段に関しても、ウォーラーステインなんかチェーン店だと定価の半額というパターンで2400円のはずだ)。

 

 駅近くのコーヒーショップで一服。娘の母(仕事である)と連絡を取り、地元の駅で合流することに決定。

 7時半近くに地元駅到着。駅上の書店で合流。ここでまた余計な本を買ってしまった。

 『現代思想 7 (特集 人間/動物の分割線)』 青土社 2009 
 田中克彦 『ノモンハン戦争  モンゴルと満州国』 岩波新書 2009

 そんな荷物を増やして(家族それぞれに、だ)、階上のレストラン街で食事。自宅に帰り着いたのは9時近く。

 
 
 

 暑い中、充実した一日だった、ように思う。

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/07/20 21:30 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/110606

 

 

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2009年7月13日 (月)

LACHRIMAE 介護のエンディング (老眼と自己決定 番外編)

 

          LACHRIMAE

 

 ラテン語で「涙」を意味する、はずである。

 

 

 母を亡くしていることは、何度か書いたと思う。

 

 彼女は、88歳の日々を、肺癌患者として、寝たきり状態で過ごすことになった。

 往診に訪れたかかりつけの医師から、「余命数週間」との診断を伝えられたのが2001年の1月29日のことだった。

 医師が帰った後、母のポートレートを撮影した。「遺影」用に、である。

 前年の10月の検査入院の際に、癌の部位が心臓に接していて「かなり危険」なことを病院の当直医から聞かされ、退院後は毎日、母の姿を撮影するようにはなっていた。話が前後するが、1999年の後半から微熱が続くなどの体調変化に見舞われ、癌の診断を受けたのは、その年の暮れか翌年の正月のことだ。そのことは本人にも伝えてある上での、その後の出来事である。

 

 やがて訪れる死を前提にして、毎日、母(と家族の姿)を撮影する。そんな日々の中で、往診の医師からの「余命数週間」という言葉は、「やがて訪れる死」という言葉の切迫度を高めるものとなったわけだ。

 

 丁度、私の仕事が春休みに入ることもあり、母を入院させるのではなく、自宅での介護という選択をした。4月にはすべてが終わっている、と思ってのことである。桜の咲き誇る下での葬儀となれば上等だなどと考えていたくらいだ。

 そして、新学期からは仕事に復帰する。

 

 そう考えていたのだが、介護の成果なのか、4月に入っても母は存命であった。以後、仕事を休んでの介護の日々が始まる。

 介護保険の発足と重なり、それ以前の家族介護が置かれたであろう状況に比べれば、かなり恵まれたものとはなったはずだ。しかし、相手は回復の可能性の存在しない家族である。嚥下困難により、食事の楽しみさえ失ってのことだ。

 彼女の生の存続は、もちろん息子としての私、そして私の家族の喜びである。しかし、寝たきり状態という当人にとってもつらい状況での生の存続でもある。88歳ということは、十分に老人であることを意味し、その上での肺癌は、回復というエンディングへの希望を断つものなのである。

 エンディングは彼女の死以外になく、それは彼女の苦しみからの解放の時でもある。それは、つらい状況の終了ではあるが、しかし、彼女と家族が共に過ごせる日々が断たれる時をも意味するのだ。

 しかし、しかしその上に、終わりの見えぬ介護というつらい日々からの解放を、私には意味することにもなる。そこでは介護の日々からの解放をもたらすのは、彼女の死なのである。

 

 心理的には、少なくとも私の心理の問題としては、ハッピーエンドへの希望を持ちえない日々だったように思える。

 彼女の死は望まない。しかし、彼女の死がすべての問題を解決する、という考えを否定することも出来ない。

 私自身にとって、うれしい認識ではない。

 付け加えれば、介護のために仕事を休んでいるということは、その間の収入がないことを意味するし、介護には金がかかるのである。介護の継続は、経済状況の絶対的な悪化も意味するのだ。

 

 

 そんな毎日ではあったが、その中で、必ずその日の母の姿を撮影することは続けていた。

 3月に彼女は88歳の誕生日を迎える。当然、その日の姿を撮影した。その1ヵ月後(4月)には、3月の誕生日の写真と彼女を1枚に収めた。その1ヵ月後(5月)には、4月に撮影した3月の誕生日の写真と並ぶ彼女の姿を撮影する。それを一ヵ月ごとに繰り返す。彼女の生の存続の証しである。「余命数週間」が一ヶ月ずつ延びていく様が、一枚の写真に収められるのだ。

 まぁ、そんな楽しみ(?)も交えながら、毎日、肺癌で寝たきりとなった老人の姿を撮り続けた。

 

 介護の日々の心理的にストレスフルな状況については、先に書いた通りだが、撮影用のライトをセットし、カメラを構え、彼女と向き合う時間。それは「介護の時間」とは別の時間の流れを、私と母の間にもたらすものとなった。その間だけ、私たちは写真家とモデルになるのだ。

 カメラを持つ習慣、シャッターを切る習慣も捨てたものではない。介護という関係性は、その時だけは、私たちの間からは消えたのである。

 

 

 

 2002年1月3日に突然訪れる彼女の死までに、数千枚の写真が残されることになる。

 

 

 その中から48枚を選び、2冊のアルバムにまとめた。彼女の友人・親戚も、彼女同様の老人であり、見舞いにも来られなければ葬儀にも立ち会えなかった方々がほとんどだ。彼女の最後の日々を、写真を通して共に過ごしてもらえればという思いでセレクトした48枚であった(枚数はアルバムのフォーマットに規定されている)。

 彼女の親戚・友人達へ届けるためのアルバムのタイトルとして選んだのが「ラクリメ LACHRIMAE」である。

 1604年に出版されたジョン・ダウランドの曲集のタイトルにちなんだものだ。介護の日々、私の中を流れていた音楽。

 

 

 

 

 書き始めたら長くなってしまった。仕事先で私を見知っていた学生から、私をネタに展覧会をしたいという話があり、かつての母の写真を見せたら「それで行きましょう」的展開になってしまったのが、今夜のお話の発端。

 学生にタイトルの由来である「LACHRIMAE」の実際の演奏を紹介しようと思って、「YOUTUBE」を利用して見つけた画像を紹介するだけで終えるつもりが、説明を始めたら長い話となってしまったというのが事の真相である。

 さて、学生にメールで紹介したのは、

J. SAVALL · Hespérion XX · "Lachrimae Antiquae" · Dowland
 → http://www.youtube.com/watch?v=LCfhqh0u20c

STING & EDIN KARAMAZOV (LUTE) - ST LUKES CONCERETTE PART 1
 → http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=ljQDTLUDWC0&feature=related

の2つだったのだが、後になってから、

Jordi Savall, Hespèrion XXI - Lacrimae Pavan, J.Dowland (1563-1626)
 → http://www.youtube.com/watch?v=g2uA4msplTg&feature=related

を発見。サヴァールのライヴ映像だ。

 スティングのヴォーカルによる「Flow my Tears」も好きだけど、

Alfred Deller performs Dowland's 'Flow my Tears'.
 → http://www.youtube.com/watch?v=85C1jX0P28k&feature=related

このデラーも名演だと、久しぶりに聴いてあらためて思った。これ、LPは持っていたはずなんだけど…

 最後に、

Flow My Tears - Jim Moray
 → http://www.youtube.com/watch?v=40bv3m9I7dM&feature=related

やるじゃありませんか…

 

 

 

註 : 私自身の死生観の背景の理解につながると思い、「老眼と自己決定」の「番外編」として、ここに収録することにした。

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/07/12 22:07 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/109862

 

 

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2009年6月16日 (火)

今日は靖国

 

     (2009年5月31日の話である)

 昨日の予告通り、靖国神社まで出かけて来た。

 


 

 知人の主催するフィールドワークへ、家族ぐるみで参加(総勢数十人)。

 

 「九段下」の駅に集合。

 最初の目的地は「しょうけい館(戦傷病者史料館)」。「戦傷病者とその家族の労苦を伝える」ことを目的とした史料館である。

 撮影禁止ではあったけれど、受付に申し出て、学芸員さんの許可をいただき、見学風景を撮影しながら、知人の案内で自分も見学。

 次回、あらためてゆっくり時間をかけて見学しようと思う。

 徹底的に「兵隊」の視線で構成された史料館であった。

 

 それから靖国神社へと向かう(コンビニで水分確保してから)。

 

 まずは九段坂の左側(牛ヶ淵沿い)を上り、「高燈篭」や品川弥次郎の銅像等を見ながら、靖国神社創設以前の九段の地誌などを、ガイドをする知人の説明で聞く。要するに、それなりに人の集まる場所であったらしい。

 

 それからあらためて道路を渡り、靖国神社参道へ向かう。

 社号碑(「別格官幣社」の文字が切り取られている)から始めて、それぞれの鳥居、狛犬、様々な記念碑を見学(雨が降り出す中を)。

 続いて本殿左側の「鎮霊社(元宮)」や、当初の招魂斎庭を見る。

 再び本殿前を横切り、右奥の「招魂斎庭」(1938~)へと向かう。しかし、現在は貸し駐車場になっているのだった。つまり、新たな戦死者の発生を、靖国神社自体は想定していないということになる。あるいは、とにかく現金収入の確保を考えている、ということだろうか?

 

 そして、付属の戦争博物館である「遊就館」へ。

 入る前に(一人で)、ガラス壁の外からゼロ戦を撮り、その先にある特攻隊員の像も撮影。そう言えば、その前に、軍馬や軍犬、軍用鳩の記念碑も撮った。

 さて、館内のレストランで「海軍カレー」で昼食(ガイド氏のオススメ)。

 以前にもここで「海軍カレー」は食べたことがあり、家族には「不味いぞ」と伝えてあったのだが、食べてみたら思ったほど不味くもない。どういうことなんだ、と思っていたら、後になってのガイド氏との会話から、以前と味に変化があるという結論に。かつてほど不味くなくなっているのだ。海軍オリジナルレシピが売りなはずなのに、これも「商売」なのだろうか?

 ガイド氏の目論見は、不味い海軍カレーを参加者に味わってもらうことだったらしく、二人で不平を漏らす。

 

 食事の後は、館内の展示見学。

 「遊就館」の「図録」の愛読者であることは、これまでにも書いたと思うが、ご都合主義的記述の魅力は、もちろん展示のキャプションで味わうことが出来る。

 ガイドもそれが目的で、突っ込みどころ満載のキャプションから(時間の関係で)特にセレクトしたものを解説していただく。

 つまるところ、時間の関係で急ぎ足で館内を一周という状態だったのだが、それでも既に4時である(駅前に集合したのが午前10時)。それだけ境内(そして遊就館内も)は広いのだ。

 

 最後に、企画展示室の特別展示「矢弾丸尽きるとも -我レ生還ヲ期セズ-」を見るが、見ているうちに腹が立ってくる。

 昭和19年7月の、いわゆる「絶対国防圏」を破られた後の戦死者(英霊)の記録資料の展示だったのだが、戦闘が勝つことではなく、降伏を表明しないことのみが目的となってしまった状況下での、しかも無謀・杜撰な作戦での犠牲者の遺品なのだ。

 この戦死者達は、無能で無責任な大日本帝國の政治的軍事的指導者の犠牲になった者達なのである。

 その責任を問おうとしない自称愛国者達への怒りも加わり、不愉快の頂点で、遊就館の展示見学を終えたのだった。

 

 ミュージアムショップで「図録」(昨年度の改定新版である)と、『これだけは知っておきたい大東亜戦争 20の最新基礎知識』、『いわゆる「A級戦犯」合祀と靖国問題について』というパンフレットを購入。ご都合主義の論理学のお勉強用である。家族は家族でなにやら購入していた模様。

 
 

 フィールドワークの予定はそれで終了。

 

 雨の靖国神社を後にする。

 わが家族は「抜刀隊(陸軍分列行進曲)」を口ずさみながら(「抜刀隊」→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-f933.html)、である。映画『靖国』の夜の雨中の映像と、『学徒出陣』の雨の神宮競技場のシーンを思い浮かべながら、だ。

 
 
 

 その後は、参加者の一部で喫茶店でおしゃべり。

 遺族の亡くなっていく中での靖国神社の維持の問題などを話題に、2時間くらい話し込んでしまった。

 
 
 
 
 
 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/05/31 22:29 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/105782

 

 

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きたないはきれいだし、リベラルはサヨクである

 

  とにかく「私」は潔癖だ。例え風呂に数年入っていなくとも、潔癖だ。

                (たぬき男いたち男 2009/05/25 18:28 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/105084) 

 まぁ、「真実」とはそういうものなのだろう。

 

 「ジョーシキ」に対する説得力は皆無だが、人間というイキモノの「真実」を感じてしまう。

 ジョーシキなんかクソ喰らえ、という気分になる言葉だ。

 
 

 かつて、アメリカのブッシュ政権は「中絶反対」を掲げていたわけだが、つまり、その「生命尊重」の精神が中絶への反対を掲げさせたのであろうが、アフガニスタンやイラクの市民の生命を尊重する必要はまったく感じていなかったらしい。

 まぁ、唐突だが、そんなことを思い出してしまった。

 
 

 そう言えば、「ネトウヨ」の皆さんは、「サヨク」がお嫌いらしいが、そしてなんと「リベラル」であることも「サヨク」的なことなのだそうなのだが、その「ネトウヨ」の皆さんの絶対的支持を集める「自由民主党」は、LDP(Liberal Democratic Party)と自称している政党なんだけど、いったいどうなっているのだろうか?

 もっとも、現在の社民党(つまり旧社会党)の政治家が、「社会主義リベラル」という言い方をしていたのも思い出す。リベラリズムとソーシャリズムは対立的な思想だと思うのだが、いったいどうなっていたのだろうか?

 

 要するに、世の中の「真実」というのはそういうものなのだろう。

 
 

WAR IS PEACE

FREEDOM IS SLAVERY

IGNORANCE IS STRENGTH

                    戦争は平和である

                    自由は屈従である

                    無知は力である

 まさに、そういうことだ。

 
 

 論理の問題、リクツの問題、語の意味の厳密性の問題ではない、というわけだろう。

 要するに、「お気持ち」の問題なのだ。

 

 命の大切さを説きながら、戦争が出来てしまう。

 自衛のために、隣国への軍事侵攻が出来てしまう(イラクは米国の「隣国」ではなかったが、中華民国は大日本帝國の「隣国」であった)。

 リベラルも「サヨク」だからダメだと言いながら、リベラル・デモクラティック・パーティーは政治的に正しい政党であるので躊躇なく支持出来てしまう。

 
 

 しかし、

  リベラルはサヨクである

って言うのと、

  戦争は平和である

っていうスローガンの根底には、ほとんど同じ精神を感じる。

 何も考えちゃいない、ってことだろう、要するに。考えることではなく信じること、だ。

 世界を「敵 or 味方」の二分法でしか捉えることが出来なくなると、人は考えることをやめてしまう(つまり、進んで騙されるようになる)。敵と名指されたものは憎め、それが二分法的精神だ。ブッシュの精神であり、ネトウヨの精神であり、新・旧左翼の精神であり、金正日体制の精神でもある。

 
 

 まぁ、

  ネトウヨは北朝鮮である

と言ってしまえば、理解は容易かも知れない。

 「リベラルはサヨクである」はメチャクチャだが、「ネトウヨは北朝鮮である」の方には「真実」が含まれているような気もする。

 
 

 屈従は自由ではない。そこがスタートだろう。

 そして、

  とにかく「私」は潔癖だ。例え風呂に数年入っていなくとも、潔癖だ。

という気持ちは理解したから、まずシャワーを浴びて欲しい。

 シャワーは自由への道である。

 
 
 
 
 

 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/05/26 00:11 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/105179

 

 

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2009年5月19日 (火)

「老衰」との距離感(死における理不尽の所在)

 
 寝転んでいる「ダミニスト」…が最後の「くつろぎ」を迎えて「死」に臨む。

 確かにこれは自然体の「ニヒリスト」の一種に違いあるまい。

 「死」を超越する事で「死」を克服する者。それが「仏」の有様と云うもの。

…というお言葉。(「ホトケノザに座る男」 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/101296 「Comment 3」参照)

 

 実際問題として、死を予期し、その回避を続ける望みがないと思われる状況を想定した時に、自分がそこで何を思うのかと考えてみるのだが、

  なってみなければわからない

という言葉しか思いつけないのであった。

 

 確実に、回避不能な出来事として、死を想定しているわけだが、しかし一方で、まだ先の話という評価もしてしまっているわけだ。まだ、それほど切実に感じられる問題ではない。

 しかし、数年前の事故を思い起こせば、転倒位置が10センチずれていれば、この私も既に「遺骨」となっていたかも知れないのである。死は実に身近なところに隠れている。

 

 まぁ、要するに、生き物である限り、死は回避不能な事態だ。それが明日のことであるか、まだ数十年先のことであるのか? その程度の違いに過ぎない。

…なんてことは常日頃考えているわけだが、しかし、医師から「余命6ヶ月」と宣告された時に、自分が陥る心理状態の予測は、どうも想像力の外である。ジタバタするのだろうか?

 まぁ、私の友人の場合、ジタバタした末に、宣告後2年半を生きて過ごした、というのも実話である。「ジタバタ」の力が、彼女を生かしたのだろう。

 どうも、私の場合だと、素直に医師の宣告を受け入れ、そのまま半年後に死を迎えるというストーリーになっていたに違いない。

 
 
 

 「老衰」による「死」が理想なのだろうか?

 どうも、それもよくわからない。「戦死」は歓迎しない。「戦病死」はもっと歓迎しない。戦場での「餓死」と「戦病死」では、どっちがマシだろうか?

 「事故死」は仕方がないが、酒酔い運転の犠牲になるのは歓迎しない。見ず知らずの人間に路上で刺される、なんてのも御免蒙りたい。

 どっかの誰かの悪意や不注意による死。それは歓迎出来ない、という感情があるようだ。

 自分の不注意による死に関しては、黙って受け入れるしかないだろう。「甘受」というヤツだ。

 

…という感情のあり方が、どうも私の「反戦的」心情を生み出しているらしいことに気付く。

 

 結局、こちらの都合で見ず知らずの誰かの命を奪う。それが戦争遂行上、不可欠な行為なのである。ジョーダンじゃない。

 見知っている人間が、普段の私の言動に対し正当な恨みを抱き、殺害を決意する、というのは理解出来る話であり、歓迎はしないが甘受すべき状況に至ることも想像出来る。もちろん、ここには「逆恨み」は含まれない。

 それに対し、戦争状態の意味するところは、敵国民からそれぞれ異なる個人という属性を奪い、一様な「敵」としてカテゴライズしてしまうことなのだ。その上で、正当な殺害対象として位置付けるのである。

 要するに、私が誰であるのか? それが問われることなく遂行される私の殺害に対する抵抗感なのだろう。

 見ず知らずの誰かの都合でもたらされる死。それは理不尽なものなのである。

 
 
 

 生き物である以上、生の終着点として死が設定されていることに関しては受け入れることが出来る。生き物であることを望んだことなど一度もない、と考えれば、生そのものが「理不尽」なものとなるが、「生」を所与の条件と考えてしまえば、死そのものは理不尽なものではない、ということだ。

 つまるところ、「老衰」は理不尽さの最小形態による死、ということになるのだろう。

 
 

…と椅子に座って私は考える、のであった。

 
 
 
 
 

 
 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/04/16 22:33 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/101395

 

 

 

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2009年5月13日 (水)

歴史の事実と論理

 

 毎度云うが「目に見えたもの…これすなはち真実ではないのです」だ。

 「論理」で世界を割り切ろうと試みた場合「原子爆弾」が結果される。

 それを、無実無関係な人々の頭上に落とす事が「はっきり見る」事に

 なるのかい。「冷たい方程式」って奴だな。そんな結果を回避する為

 にこそ「はっきり見る」必要がありそうなもんだが「ウマシカ」式の

 論理では「説明」は出来ても「説明しかねる」事は語れないだろう…。

(→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/103812 「Comment 11」参照)

 

 

 まぁ、何を言っているのか、何を言いたいのかはさて置いて・・・

 

 

 

 経験される現実自体が、論理的構造や、論理的根拠をもって、私たちの上に降りかかってくるわけではない。

 

 理不尽であり不条理。それが現実というものだろう。

 

 しかし、私たちに経験されるそれぞれの行為は、それぞれの論理の背景を備えていることも多い。行為の当事者にとっては、自身の行為の多くには理由があると考えられているものだ。やられた方にとっては、理由のわからぬ理不尽な暴力であっても、やった方には理由ある当然の行為であり得るのだ。

 

 

 行為の理由となるのは、先立つ何らかの行為の結果であろう。あいつに無視されたから、オレは仕返しに殴ってやった、みたいな。

 しかし、「あいつ」が本当に「オレ」を無視していたのかどうか? 実はそこからして怪しかったりする。別のことに気をとられていて気付かなかっただけのこと、というのはよくある話だ。

 気付かないことと、無視することは、別の事柄である。気付かれなかったことと、無視されたことも、別の事柄である。

 視点が異なれば解釈も異なるし、文脈が異なれば行為としては同一であっても意味は異なるものとなる。気付かないこと or 無視すること あるいは、気付かれないこと or 無視されたこと。「or」を挟んで対立しているのは「文脈の違い」であり、「あるいは」を挟んで対立しているいるのは「視点の違い」だ。

 

 「事実」とは「視点」に依存し、「文脈」に依存して経験されるものなのである。「被害」と「加害」の関係を考えてみれば理解しやすいだろうか?

 

 「目に見えたもの…これすなはち真実ではないのです」になぞらえれば、感じられたこと…これすなわち事実ではないのです、と言うことが出来るだろうか?

 

 

 

 しかし、経験された出来事を、広範囲の他者との共有可能性に配慮しながら記述することは出来る(少なくともそのための努力は)。

 自身の視点を相対化し、その都度の自身の文脈に自覚的になることが出来れば、ある程度は実現可能なはずだ。「歴史学」の根底を支えるのはそのような認識だろう。

 もちろん、一方で、歴史の記述は、自身の視点及び文脈の絶対化として現実化されることも多い。自己礼賛的な歴史記述、あるいは自虐的な(と言われる)歴史記述とはそのようなものだ(「自虐的」として批判される歴史記述の多くは、単に自省的であるに過ぎないと思うが)。

 

 その際、特定の視点、特定の文脈の絶対化は、同時に特定の論理の(排他的な)選択でもある。ゆえに、そこでの論理展開の整合性や一貫性を問われることになるのだ。

 

 近代史において、「侵略的」とも評される大日本帝國の膨張主義的政策を、それに先立つ西欧列強による植民地獲得競争の模倣行為として正当化することは、確かに論理として可能である。しかし、その正当化は、大日本帝國による大東亜戦争の遂行を、「アジア解放の闘い」として正当化することを論理的に阻むものとなる。

 私が歴史を語る上での論理的整合性・論理的一貫性を問題にするのは、そのような局面においてなのである。

 

 

 歴史自体が論理的一貫性や整合性をもって展開するものだと主張するようなことは、私にはまったく無縁な態度である。

 

 

 人は、自身の視点、自身の文脈から自由になることは出来ない。しかし、そのことを意識することにより、他者との間に起こる悲劇、自身が自らの身の上に引き起こす悲劇の機会を抑制する可能性は、少しだけ増えるだろう。

 たいした希望にはつながらないが、完全な絶望からは少しだけ救われる考え方だと思っている。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/05/12 22:27 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/103887

 

 

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2009年4月30日 (木)

ダミニスト古本購入記

 

 世の中はゴールデンウィークということになっている。

 
 

 今日は休みを利用して、家族で展覧会めぐりの予定だったのだけれど、娘の体調がイマイチだったので、ご近所散歩の午後に変更。

 

 五月間近の陽射しの下、ブラブラと歩き出した。

 まずはケーキ屋さんでケーキとコーヒーを楽しみ、そのまま駅の方向を歩くと古本屋さんがある。

 祝日だというのに、幸か不幸か、店は開いていた。店内に入り、いろいろと買い込んでしまう。

 
 
 

  『第三十四回海軍記念日を迎へて』 (海軍省海軍軍事普及部 1939) 1000円

 

  倉田一郎 『國語と民俗學』 (青磁社 1942) 500円

 

  尾形半 『暗い廊下 -裏から見たソ連-』 (立花書房 1957) 400円

 

  アレクサンドル・コイレ 『閉じた宇宙から無限宇宙へ』 (みすず書房 1973) 600円

 

  『銃後の人々 祈りと暮らし』 (石川県立歴史博物館 1995) 800円

 

  山田規畝子 『壊れた脳 生存する知』 (講談社 2004) 300円

 
 

 以上6冊購入。店頭の紙袋の中にあった、

 

  ダンテ 『神曲 新生』 (筑摩書房 世界文学大系6 1962) 

 

  地引嘉博 『東欧の社会 ドイツとロシアの間で』 (サイマル出版会 1987)

 

の2冊は処分品ということで、なんと無料でいただいて来てしまった。

 

 母娘もなにやら買い込んでいた。展覧会めぐりの出費に比べればお安いもの、というリクツ。

 
 

 古着屋さんが開店(昨日開店らしい)していたので立ち寄る(娘が主体)。

 駅を超えて、大型古書店へと向かう。

 こちらでは、

 

  川崎浹 『権力とユートピア ロシア知識人の肉声』 (岩波同時代ライブラリー 1995) 550円

 

  安島太佳由 『訪ねて見よう! 日本の戦争遺産』 (角川SSC選書 2009) 550円

 

を購入。

 娘の母は、私の発見した、

 

  「シネマ101 第2号 特集 リュミエール」 (映像文化連絡協議会 八潮出版社 1996) 750円

 

を購入(欲しくなったらしい)。

 
 

 家路は別の道を歩き、いつの間にか出来ていた小さなギャラリー「MOGRAG(mograg …?)」で山口昌弘さんの「逝来手!展」に出くわす。帰宅してから、いただいたチラシを見たら、1986年5月1日生まれで2007年没という経歴。パワーあふれる落書き群に出会ったのだった。画面を埋め尽くすことへのエネルギーに、ある種のアウトサイダーアートを思い浮かべたりする。

 明後日が誕生日。生きていれば23歳。ああ。

 展覧会めぐりをあきらめてのお散歩が、しかし、今はなき山口昌弘さんとの出会いにつながったのだった。

 

 並びのたい焼き屋さんでたい焼き購入し、歩き食い。

 近所の大型店で、娘の靴にキャットフード、そして人間用食材を購入し、無事に帰宅。

 
 
 

 そう言えば、日曜日も似たような展開だった。昼食をチェーン店ではないハンバーガーショップで食べ(美味い)、駅の向こうの大型古書店で散在。

 購入本は、

 

  P・マルヴェッリ G・ピレッリ編 『イタリア抵抗運動の遺書』 (冨山房百科文庫 1983) 750円

 

  松本弥 『図説 古代エジプト文字練習帳』 (弥呂久 1994) 850円

 

  NHK取材班編 『プロパガンダ映画のたどった道』 (角川文庫 1995) 100円

 

  藤澤房俊 『大理石の祖国 近代イタリアの国民形成』 (筑摩書房 1997) 1500円

 

  イアン・ブルマ 『イアン・ブルマの日本探訪 村上春樹からヒロシマまで』 (TBSブリタニカ 1998) 800円

 

  内田百閒 池内紀 編 『百閒随筆Ⅱ』 (講談社文芸文庫 2002) 600円

 

  京極夏彦 『対談集 妖怪大談義』 (角川書店 2005) 650円

 

  小沢朝江 『明治の皇室建築 国家が求めた〈和風〉像』 (吉川弘文館 2008) 950円

 

 

 

 

 

 しかし、一体、いつ読むんでしょうかねぇ…

 
 
 
 
 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/04/29 21:02 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/102657

 

 

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2009年4月11日 (土)

「卒業制作優秀作品展」を観る

 

 4月6日から、「平成20年度 武蔵野美術大学 造形学部卒業制作 大学院修了制作 優秀作品展」が開催されている。

 
 

 先日、娘と共に楽しんで来た。

 
 

 「卒業制作展」リポート(?)にも書いたことだけど、そもそも、美術大学の「卒業制作」自体が面白い。絵画・彫刻だけが「美術大学教育」の対象ではないのである。

→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/92750

→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/92855

→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/92935

→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/93031

 

 その中の「優秀作品」展だ。つまらないわけはない。

 

 「卒業制作展」の時点で強く印象に残った作品が、やはり「優秀作品」として選ばれている姿に出会うのは、(なぜか、どこか)うれしい感じだ。「衆目の一致するところ」というものはある、ということだろう。

 しかし、未見の作品も多いのだ。それだけ大量の作品が、卒業制作として作られるわけだ。ちなみに清掃担当者から聞いた話では、「芸祭」の時期と「卒業制作展」前後が、ゴミの量ではトップを争う状態だそうだ。創作とゴミ。「寓話」が潜んでいそうである。

 
 
 

 展示会場も、美術資料図書館展示室、12号館地下展示室、9号館地下展示室の3ヶ所がメイン会場となっている。スタンプラリー形式のパンフレットになっていて、スタンプを3つ集めると、特製のエコバッグがもらえる仕組みだ。見落としを防ぐための工夫? もちろん、父娘共にエコバッグをゲットしたことは言うまでもない。

 
 
 

 父娘共にお気に入りだったのが、視覚伝達デザイン学科の保田卓也さんの作品だった。

 「プロパガンダの解剖」というタイトルのパネルと本。「レッツ・プロパガンダ」というタイトルのアニメーション。

 アニメのナレーションが、娘の好きなムサビ演劇関係の佐野淳子さんという関係で(?)娘はアニメ、父はよく造り込まれた冊子に夢中。

 戦時日本、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリア、社会主義のソ連、戦時アメリカ、戦時イギリスと、それぞれのプロパガンダポスターの事例を集めた冊子(それぞれに1冊が宛てられている)には、「現代史のトラウマ」関係者(?)としては惹きつけられざるを得ない。血沸き肉踊るステロタイプな世界だ。

 冊子が美しくプリント・レイアウトされた事例集であるのに対し、アニメの方はプロパガンダ作成マニュアル的な構成だったらしい(娘の話による)。なかなかに皮肉の効いたアニメだったようで、娘にオオウケであった(アニメの方は、後日、機会を作って自分の目でも観たいと思っている)。

 

 「現代史のトラウマ」系作品(?)としては、やはり視覚伝達デザインコースの大学院修了制作、パク・ジフンさんの「近代東南アジアにおける文字政策の研究」が興味深かった。

 タイトルは「東南アジア」となっているが、対象となっているのは、日本、朝鮮半島、中国大陸、台湾なので、実際は「東アジアにおける…」であろうけれど。

 それぞれの近代国家としての成立過程と、文字政策(正書法と字体の確定)が考察の中心となっているのだが、朝鮮半島、満洲、台湾の事例は、日本による統治という共通の時期を抱えている。それぞれの教科書が事例として展示されているのだが、日本統治下では、教育されるのは日本語なのである。それぞれの地域の固有言語への配慮はない。そんなことが一目瞭然なのである。これも、もう一度、ゆっくり読み込んでおきたい作品だと思った。

 

 これも、視覚伝達デザイン学科の卒業制作作品だが、川瀬康子さんの「しいたスタイル ~自閉っ子のための玩具~」も見落としたくない。

 彼女が教育実習先で出会った自閉症の小学生達。その中の一人である「しいた」君。その、しいた君の特性(自閉症児としてのキャラクター、つまり、こだわり等の特徴)を把握した上で、彼の興味関心に沿った玩具を開発する。その際、彼の興味関心のあり方の特徴を絞り込むことにより、逆に人間の認知を支える基本特性が見えて来る。結果として彼の興味関心に的を絞ったはずの玩具は、汎用性を持った玩具として完成することとなった。カラフルな木とアクリルのゲーム形式の玩具である。

 

 父娘推薦作品としてもう一つ、田村陽菜さんの作品「グルーミング・アート 1」及び「グルーミング・アート 2」は落とせない。油絵学科の卒業制作ではあるけれど「本」が二冊。

 それも文章で勝負!な、本なのだ。

 美術作家を目指すぞ!という気負いを欠いて、しかし楽しげに制作を続ける一群の学生の存在。そこにある謎(?)に挑んだ作品(?)、という感じだろうか。毛づくろい(グルーミング)をするネコを眺める心地よさと、気負いのない作者達を前にしての感覚の親近性がタイトルの由来らしい。

 実は、田村陽菜さんは、例の「うそ新聞」の作者である。この卒制「グルーミング・アート」も、昨年の芸祭の時点で予告されていたものだ(「うそ」ではなかった→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Photo/node/PhotoEntryFront/user_id/316274/file_id/52295 2007年の「うそニュース画像 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Photo/node/PhotoEntryFront/user_id/316274/file_id/35589)。

 「1」に基本的コンセプト、「2」は、そのテーマを深めるためのインタビュー集という構成である。「うそ新聞」の作者であるから、辛辣さをユーモアで包みながらの展開となっており、大いにウケながら読み終えてしまった。

 この「グルーミング・アート」、岡田斗司夫氏が近年提唱(?)している、「プチクリ」というコンセプトが近い感じである。

 
 
 

…と、まぁ、紹介したのは絵画でも彫刻でもない作品だけど、もちろん、絵画彫刻も観ておくに値する作品が揃っている。

 

 それに、作品によっては、卒業制作展時からヴァージョン・アップされていたりするのだ。

 

 不便な場所だけど、出かけるに値すると思う。

 
 

   (武蔵野美術大学にて、4月22日まで開催。ただし日曜日は休館)

 
 
 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/04/09 20:45 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/100689

 

 

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2009年4月 1日 (水)

ダミニストによる日本経済へのささやか~な貢献

 

 また浪費、ではなくて日本経済へのささやかな貢献である。

 
 

 仕事が休みだったので、昼間から家族と出かけた。

 娘もついに中学卒業というわけで、進学先への提出書類を、先週に卒業式を終えたばかりの中学校まで受け取りに行った。

 そのまま駅へと雨の中を歩き、改札口へ。

 立川に到着。エキナカで食事(先日、娘と見つけた本屋の奥の喫茶店である〉。

 その書店スペースで、本を買う。

 今日は新刊本だ。室内事情のため、新書サイズにおさえる。

 
 

  雨宮処凛 『排除の空気に唾を吐け』 (講談社現代新書 2009)

  佐谷眞木人 『日清戦争 「国民」の誕生』 (講談社現代新書 2009)

  茂木健一郎 『化粧する脳』 (集英社新書 2009)

  福間良明 『「戦争体験」の戦後史 世代・教養・イデオロギー』 (中公新書 2009)

 

 雨宮処凛は、私というよりは娘(とその母)用である。読書は図書館利用にシフトと言う娘の母に対し、これは著者のために買わなきゃ、という理屈で購入。

 『日清戦争』は、「国民の誕生」というサブ・タイトルに惹かれての購入。

 『化粧する脳』の著者は、例の饒舌氏との議論の舞台となっているMLの主宰者でもある。著書もたまには読まないと…

 『「戦争体験」の戦後史』の著者の関心対象は、高田恵理子に重なるところがあるという印象だ。こちらはどのように料理して見せてくれるのか、まずはお手並みを拝見。

 実はもう一冊。これは既に娘の手元にある『聖☆おにいさん』。立川が舞台、なので新刊を立川でゲット。これが本日のお出かけの目的…??

 
 
 
 

 銀行で口座の状態を確認し、中央線を(というか立川を)代表するオタクデパートのフロム中武へ。

 切手だの古銭だのの店が目標。

 余計なものを買い込む。

 
 

  1241年 南宋銭 「淳祐元宝」 600円

  康徳10年 満洲帝國 1分 700円

  康徳10年 満洲帝國 5分 735円

  1974年 ニカラグア 10(単位がわからない) 200円

  1978年 アフガニスタン 単位不明 2000円

  1977年 ソ連 1ルーブル 300円

  1978年 ソ連 1ルーブル 300円

  1979年 ソ連 1ルーブル 300円

  1980年 ソ連 1ルーブル 300円

  1980年 ソ連 1ルーブル 300円

  戦前の記念メダルのセット(国内) 500円

 
 

 基本的に、今は存在しない国の貨幣がコレクション(?)のターゲットだ。

 1241年の南宋銭は、ウチで一番古い年代のものとなった。鎌倉時代、日本における貨幣経済浸透の立役者(?)の一枚である。

 満洲帝國の貨幣も、最近の狙いどころ。

 1974年のニカラグアはソモサ政権時代。その後サンディニスタが政権獲得。米国の干渉により、ニカラグアは内戦へと突入していくことになる。

 1978年のアフガニスタンは、ソ連侵攻の前。クーデターはあっても、国民は戦争を知らない。

 1977~1980年のソ連の1ルーブルは、モスクワ・オリンピックの記念硬貨としてデザインされたもの。年号の入った面のデザインが、それぞれに異なる。言うまでもなく、1979年のアフガニスタン侵攻により、当のモスクワ・オリンピックは、西側諸国の不参加により名を知られる「歴史的」大会となってしまった。

 戦前のメダルは、赤十字だったり、大学生のスポーツ大会だったり、なんかの行事の記念品として作られたものが10種類ほど(1920年という年号が刻まれていたりする〉。娘のアクセサリー転用も考えれば、実用品かも知れない。

 

 集めてどうするんだ? と聞かれても困る。

 歴史をモノを通して感じることが出来るような気がする、くらいのところだろうか?

 
 
 
 

 南口のモノレール駅そばの書店に移動。

 こちらでは、財布の紐を固くして我慢。この書店、棚を見るだけで楽しい。センスを信頼しているのだ。ここでの本との出会いは、立川散策のお楽しみの一つ。

 駅ビルの上の喫茶店で一休みし、中華街で食材ゲット。

 山野楽器でのCD、DVDチェックは我慢。

 

 これで、本日のお出かけスケジュールは終了。

 一家は、日本経済へのささやか~な貢献を果たしたのだった。

 
 
 
 
 
 

 
 

(オリジナルは、投稿日時:2009/03/25 22:31→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/99227

 

 

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2009年3月24日 (火)

老眼鏡&古書 購入記

 

 ついに私も観念したのだった。

 
 

 眼鏡屋に行き、老眼鏡(!)を注文したのである。

 フレーム選びに、予想以上に時間がかかってしまった。メガネというものは、実際にかけてみないと、よしあしがわからない。

 見た目のデザインはいいのだが、かけてみると顔の中でのバランスがしっくりしない、なんてのが続々。

 老眼鏡ついでに(せっかく意を決して眼鏡屋に足を運んだのだから)、近視用のメガネも作っておくことにした。どうせなら、イメージ(微)チェンジを狙おうという気になってしまう。色を変える、デザインを違うものにする、といった選択肢がいろいろ。

 で、余計に時間がかかる。同行させた娘に、こちらのセレクトから選んでもらった。鏡の姿だけでは、もう一つ、バランスがつかめないからだ。

 レンズの関係で、出来上がりは数日後。

 本も読みやすくなるはずだ。

 
 

 で、コーヒーとケーキで一服の後に、古書チェーン店に立ち寄る。

 
 
 

 鈴木健二 『在外武官物語』 (芙蓉書房 1979) 900円

 

 J.プラシケ編著 『ドイツにおける周辺資本主義論争-〈世界システム〉論と世界経済論・軍事史・経済史の視角-』 (啓文社 1991) 500円

 

 岩渕潤子 『美術館の誕生』 (中公新書 1995) 300円

 

 エリック・ウィリアムズ 『資本主義と奴隷制 経済史から見た黒人奴隷制の発生と崩壊』 (世界歴史叢書 明石書店 2004) 2400円

 

 以上4冊を購入。

 

 
 

 『在外武官物語』の本文は、

 

在外武官とは公務のために外国に駐在している軍人、すなわち鎧を着た外交官である。外交官としての待遇を受け、儀式などにはその軍を代表して出席する一方、駐在国の軍情などを調査することをその任務としている。軍事機密をタテに、自国民に対してすら閉鎖的で秘密主義の軍事組織が、外国に対し窓を開き、各国相互間の交流のチャンネルをつくっているのが、この武官制度である。一体武官という制度はいつごろ確立したのだろうか。

 

という記述で始まる。

 外交と軍事が一体化した官職ということだろうか。

 親戚の誰だかが、ヒトラー時代のベルリン駐在武官だったという話を聞いた覚えがあるので、そんなところからの興味もある。

 

 

 『ドイツにおける周辺資本主義論争』は、副題通りの内容。原著の出版は、1983年なので、冷戦下での議論ということになる。そういう意味では、「論争」自体が歴史的な様相を帯びたものとなっているかも知れない。

 

 

 『美術館の誕生』は、カバーの紹介文の一節によれば、

 

民主主義の発生と公共の美術館という概念の誕生をめぐる野心的考察。

 

ということになる。公共施設としての「美術館」という視角から見た「近代史」の一断面。

 

 

 『資本主義と奴隷制』は、先日の「酒パーティー」の際に、「近世初期風俗画 躍動と悦楽」展の図録にある「南蛮人」一行のひとりに黒人がいるという話から、ボッシュの絵画作品中の黒人の姿にまで話が及び、白人と黒人の関係が上下関係として描かれていないように見えることが、最後まで残っていた学生との話題となったもので、気にかかっていたテーマであった。参考になりそうなので、購入決定。

 
 
 

 老眼鏡をわがものにすれば、どんどん読み進められる、はずである。

 
 
 
 
 
〔追記〕

 

 ブックセンター某のレシートを見ると、

 

『在外武官物語』は「小説」

『ドイツにおける周辺資本主義論争』、『美術館の誕生』、『資本主義と奴隷制』は「実用書」

 

という分類になっていた。

 

 以前に、同じ書店で、リリー・フランキーの小説が「外国文学」の棚に並んでいるのを目撃した覚えがある。

 

 まさに、資本主義最前線の古書店の姿だろう。

 
 
 
 
 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/03/23 22:42→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/99038

 

 

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2009年2月11日 (水)

建物のカケラ

 

 「建物のカケラ」と題された展覧会に出かけた。

 サブタイトルに「一木努コレクション」とある通り、一木努氏による個人コレクションの展示である。内容は、タイトル通り、解体された建物の「カケラ」のコレクションだ。

 展覧会図録にある主催者による「ごあいさつ」の文章には、

建物にとっていちばん幸福な姿とは、建物がその場所に存在し、人々や土地の記憶の中で生き続けること(現地保存)であると私達は考えます。しかし建物は、時が経てばその多くが解体される運命にあります。思い出の建物、風景の一部であった建物は、大小無数のカケラをのこして姿を消すのです。

本展覧会で皆様にご紹介する約700点にもおよぶ建物のカケラたちは、現役の歯科医師でもある一木努氏が、約900箇所の解体現場に通い、40年の長きにわたり収集してきた個人コレクションの一部です。…

…とある。

 開催場所が、「江戸東京たてもの園」(東京都小金井市)であることが、冒頭の「建物にとっていちばん幸福な姿とは、建物がその場所に存在し、人々や土地の記憶の中で生き続けること(現地保存)であると私達は考えます」という言葉に反映されているように思える。「江戸東京たてもの園」とは、現地保存の叶わなくなった建物を移転保存するための施設なのである。

 もちろん、移転保存も叶わない建物、解体され姿を消してしまう建物のほうが圧倒的に多い。「江戸東京たてもの園」の関係者にとっても、実に悲しく歯がゆい事態であるに違いない。

 「江戸東京たてもの園」の学芸員氏が書いたのであろう「ごあいさつ」の文章の後ろには、そんな日々の経験が隠されているように思えるわけだ。

 

 下館市の歯科医師、一木努氏は、現地保存が叶わず、移転保存も出来ずに解体され姿を消していく建物のカケラを解体現場から救い出すことで、その建物のかつてあった徴を保存するという行為を続けて来た方なのだ。

 
 

 図録から、一木氏自身の文章を紹介しよう。

どんな名建築でも取り壊しとなれば、美しい壁もはがされ、立派な柱も倒され、つぶし砕かれて、建築廃棄物となってしまう。つまり、廃材というか、ゴミ。でも、捨てられてしまうそのゴミの一部(カケラ)を集めるとなると、それなりの努力がいる。ゴミといっても、通りの集積場に出してあるわけではない。解体現場の仮囲いの中で、廃棄物となった建物のカケラは、ダンプに積まれ、人目に触れることもなく、そのまま処分場に運ばれてしまう。

建物のカケラを手に入れるには、解体中に、その仮囲いの中に入って、取り外すか、拾い上げるしかない。後から入手するのはほとんど不可能だし、解体前も難しい。

そのため、解体の日程を把握し、現場を巡回しながら頃合いをみて交渉。承諾を得て、現場に入り、選択、最終、運搬という手順になる。

つまり、このコレクションは、建物の持ち主や現場作業員の理解と協力がなければ、成り立たなかった。現場では、解体作業中に、部外者から廃材をねだられるのだから、かなり迷惑だったに違いない。にもかかわらず、どこでも本当に親切にしていただいた。その好意に報いることができるとすれば、現場から救い出したカケラを、少しでも多くの人に、見ていただくことしかないだろう。

 

…と、その収集の方法が明かされているわけだが、その第一号は、1966年、一木氏17歳の夏に始まる。もちろん、その時のカケラ(常陽製菓煙突レンガ)も展示会場にある、というか展示自体もそこから始まるのである。

 

 公共建築もあれば、個人住宅もあるし、ありとあらゆる種類の「建物のカケラ」が集められていることに驚く。

 たとえば、図録中の素材別のコーナーの「石」の項目には、渋谷区神宮前の社会事業大学(旧海軍館)、岡山県岡山市の「中国銀行本店」、千代田区丸の内の「白石ビル」、大阪市南区心斎橋筋の「戎橋キリン会館」、港区海岸の「芝浦石畳」、台東区上野の「本牧亭」、港区芝大門の「昭和電工(旧不動貯蓄銀行本店)」…といった具合である。

 中には、1968年の国際反戦デーに新宿駅での投石に使われた石、なんてものまである。

…と、石もあれば金属金物もあり、タイルのカケラから装飾のレリーフ、そして「キャッツシアター(大阪)」のテント地まで、素材も様々なら、大きさも様々である。

 すべて解体され、建物は現存しないのである。写真でかつての姿を見ることは出来るわけだが、しかし、その建物の一部の実物の持つ存在感は、また格別のものなのだ。

 

 一木氏の営為を讃えないわけにはいかない。

 

 しかし、すべて廃材、ゴミである。そのようなもののコレクションに、家族の理解は得られているのだろうか?と、誰しも不安になるところであろう。

 しかし、ここにもまた驚くべきストーリーが展開するのであった。

 

 展示品に、渋谷区千駄ヶ谷の「藤井邸」のカケラがあった。それには次のようなキャプションが付けられていたのだ。

こののち、結婚することになった女性からもらった初めてのプレゼント。実は、彼女も建物のカケラを中学校時代に収集していたことが判明。

 

 一木氏の伴侶となった女性をも、ここで讃えなければならないのである。

   (これは、同行した家族全員が感動したエピソードである)

 

 

 

なお、「建物のカケラ」展は、江戸東京たてもの園(東京都小金井市)にて、3月1日まで開催。

  

 
 

(オリジナルは、投稿日時:2009/02/11 20:23→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/94803

 

 

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ダミニストの日曜日、あるいは古本屋のダブニスト

 

 また古書店での浪費である。

 
 

 午前中は、娘は美術系予備校通い。

 こちらは、某MLの饒舌氏への「アドバイス」を書いて過ごしていた。

 

 昼食を駅近くのステーキハウスで、という話だったので、娘の母と出かける。

 合流し、レアのロースで昼食。店のオーナーが、60代突入を機会に引退→閉店ということなので、この店で食べられるのも今のうちなのだ。

 食後には、向かいの果実店のケーキを購入し、帰宅後のお楽しみとする。

 

 家路の途中に古書店がある。

 銀行に寄り、手持ち資金に余裕があったもので、店内突入。

 
 
 

加藤典洋 『敗戦後論』 (講談社 1997) 100円

川上弘美 『ニシノユキヒコの恋と冒険』 (新潮社 2003) 100円

西川長夫・姜尚中・西成彦編著 『20世紀をいかに越えるか』 (平凡社 2000) 1800円

I.I.ゴッデスマン 『分裂病の起源』 (日本評論社 1992) 500円

折原浩 『大学の頽廃の淵にて』 (筑摩書房 1969) 350円

石澤吉麿 『家事新教科書 上巻』 (東京集成堂 昭和3年訂正13版) 1000円

 

 結局、以上の6冊を購入してしまった。

 

 加藤典洋の『敗戦後論』は、とっくに読んでおいていいはずの本なのだが、未読であった。増補版が文庫になってるはずだが、今回はあえて当初のハードカバーで購入。

 前の持ち主の「1997・10・21」という書き込みと、朝日新聞に掲載された赤坂憲雄の書評、「H・9・12・8」という書き込みのある『天声人語』の貼付というオマケ付き。

 

 川上弘美は、娘のために購入。

 

 『20世紀をいかに越えるか』には、編者3人を入れて15人の論文が収められており、「多言語・多文化主義を手がかりにして」というサブタイトルが付けられている。

 読んどかなきゃね、な内容だ。

 

 『分裂病の起源』の方は、分裂病=統合失調症に関して、近代化との関連での論考をかつて読んだのだが、その妥当性の確認が主目的である。

 

 折原浩は、かつての紛争時に、大学当局に対する批判者として名を残した人物である。その批判の内実を、当人の文章で読む。それが購入の目的。

 後に、教官への中沢新一採用をめぐり、西部邁と対立し、西部の辞任の因となった人物でもある。

 30代の折原浩の姿を再確認しておきたくなるわけだ。

 

 『家事新教科書 上巻』は、「昭和四年一月十一日 文部省検定済」の、「高等女学校師範学校家事用教科書」である。

 いわゆる「主婦」の登場する時代の、主婦予備軍のための教科書、ということになる。戦前の中・上層家庭の中における、母にして妻となるべく定められた少女達へ向けて書かれているわけだ。戦前の都会生活が反映されたものでもあるだろう。様々な文脈での読みが可能であるはずだ。

 
 
 

…というのが私の購入本。

 娘及び娘の母もそれぞれに購入していたので、本日も、我が家の中は、より狭くなったのであった。

 
 
 

 大型店で、キャットフードと、人間の食材を購入し帰宅。

 ケーキで一服した。お値段も上等だったが、味も値段に見合う上等なものだった。手を抜かないことって大事だよなぁ、とつくづく思ってしまった。

 
 

 さて、後は夕食だ。

 
 
 

 
 

 
(オリジナルは、投稿日時:2009/02/08 17:20→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/94453

 

 

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2009年1月18日 (日)

ダミニストによる日本経済への貢献

 

 浪費の日曜日となってしまった。

 いや、日本経済活性化へ貢献した日曜日、だ。

 久しぶりに、家族と出かけたのだった。

 予備校通いで、朝から先に出ていた娘と、忘れ物を取りに途中で引き返した娘の母と、駅ビルの書店で合流。待ち合わせは本屋というのが(つぶす時間に困ることがないので)、我が家のいつものパターンである。

 問題点は、相手が来るまでの時間に、本を買ってしまうことだろう。

 本日も、もちろん(?)購入してしまった。

 カレル・チャペック 『山椒魚戦争』 (岩波文庫 1978)

 シェイクスピア 『リア王』 (光文社古典新訳文庫 2006)

 シェイクスピア 『マクベス』 (光文社古典新訳文庫 2006)

 ジョン・エリス 『機関銃の社会史』 (平凡社ライブラリー 2008)

 チャペックの『山椒魚戦争』は、たぬき男いたち男氏のオススメ本である。普段、まったく文学書を読まないので、当然、今回、初めて読むことになる。

 シェイクスピアは、『マクベス』のセリフを先日の日記のネタにしたところ(http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/91617)なので、新訳で読んでみる気になったわけだ。店頭でパラパラとめくって読んでみたら、言葉としてこなれた良い訳という印象だったので、購入を思いついた。

 ジョン・エリスの『機関銃の社会史』は、兵器の「進歩」と戦争形態の変化の問題という「現代史のトラウマ」的テーマの参考にと購入。エドワード・クリントン・エゼルによる「1986年版への序文」には、

 ある書評家はこう記している。「なんとも不思議なことに、機関銃は一人のアメリカ人、リチャード・ガトリングによって発明された。彼のよく知られた願いは、自分の武器が強いる莫大な損傷に人々が気づいたときに、戦争は阻止されるというものだった。軍拡競争を開始させ、ガトリングを金持ちにしたのは、そういった類の論理だった」。軍拡競争と武器製造からの利益は、これからも現実のものでありつづけるだろう。エリスの『機関銃の社会史』は、軍事技術の過去と現在の社会史についてもっとよく理解したいと願う心ある人々にとって、すぐれた入門書であり、これからもそうでありつづけるであろう。

と書かれている。

 そんな、軽い散財の後に、駅近くで昼食。中央線に乗り、ヲタクシティ立川へと向かう。

 ビックカメラで、オーディオ製品カタログを収集。現在この文章を書いている、このパソコンは、26インチの液晶テレビをモニターにし、小型のパワーアンプと小型のJBLスピーカーに接続されている。それにプラスする、独立したDVDプレイヤーの購入を目論んでいるのである(以前に買った中国ブランド製品は半年持たなかった)。小型のユニバーサルプレイヤーを想定中なのだけれど、どうなりますことやら。

 駅から離れたHMVの上階にある大型書店が次の目標。これは娘の希望で、彼女は、そこで、べつやくれいさんのサイン入り本をゲット。

 そのお次は、ヲタクデパート(?)の第一デパートにある書店に向かう。ここでは私が、ミリヲタ本を購入するのである。

 購入本は、

 世界の傑作機スペシャルエディション vol.4 『ボーイングB-17フライングフォートレス』 (文林堂 2007)

 世界の傑作機 vol.54 『B-24リベレーター』 (文林堂 1995)

 世界の傑作機 vol.125 『コンベアB-36ピースメイカー』 (文林堂 2008)

 ジェリー・スカッツ 『第8航空軍のP-47サンダーボルトエース』 (大日本絵画 2001)

 ジェリー・スカッツ 『第8航空軍のP-51マスタングエース』 (大日本絵画 2002)

 ジョン・スタナウェイ 『太平洋戦線のP-51マスタングとP-47サンダーボルトエース』 (大日本絵画 2002)

 ロベルト・グレツィンゲル&ヴォイテック・マトゥシャック 『第二次大戦のポーランド人戦闘機エース』 (大日本絵画 2001)

の6冊となった。

 「現代史のトラウマ」シリーズの資料用である。B-17、B-24、そしてB-36は、戦中と戦後の米国の重爆撃機である。「無差別爆撃の論理」をテーマとして書き続ける中で、航続距離の問題が焦点の一つとなりつつあるので、正確なデータが欲しくなったのだ。

 B-36は、B-52の登場までの冷戦期の前半に、米戦略空軍の主力となった、レシプロエンジン6発装備の巨大爆撃機である。B-36の登場で、あのB-29が中型爆撃機と呼ばれるようになってしまうのだから、その巨大さも想像がつくことだろう。しかし、その名称が「ピースメイカー」というのも皮肉な話である。核爆弾を搭載した都市攻撃が任務なのだから…

 重爆撃機の航続距離と同等の航続距離を持つ戦闘機を持たなかった米(英)航空軍は、実際の作戦行動において護衛戦闘機の随伴を確保出来ず、敵迎撃戦闘機による損耗に悩まされることになる。P-47とP-51の登場は、米航空軍が、長航続距離の戦闘機を入手し、護衛戦闘機を伴った作戦行動を可能としたことを意味するわけだ。。ちなみに、P-47の開発・生産メーカーの経営者こそが、あの「Victory Through Airpower」の著者セバスキーである。

 護衛戦闘機を伴わない、爆撃機単独での作戦行動の結果もたらされる損耗率の高さという問題を史上最初に経験したのは、実は大日本帝國であった。支那事変当時、南京への渡洋爆撃を実行した海軍航空隊は、敵迎撃戦闘機の存在がもたらす損耗率の高さに直面したのである。その解決策として登場したのが、長航続距離戦闘機である、いわゆるゼロ戦なのだ。

 無差別爆撃先進国であった大日本帝國は、爆撃機単独での無差別爆撃作戦実行上の問題点をいち早く理解し、長距離戦闘機の開発においても先進国であった、ということになる。

 まぁ、そんな話を、「無差別爆撃の論理」シリーズで展開していこうと目論んでいるわけで、今回購入したのは、そのための資料群なのだ。

 『第二次大戦のポーランド人エース』の方は、別の問題意識からの購入である。

 この本は、オスプレイ・ミリタリー・シリーズ「世界の戦闘機エース」中の1冊だ。このシリーズには、フィンランド空軍、ハンガリー空軍、クロアチア空軍、ルーマニア空軍の「戦闘機エース」も、それぞれに取り上げられている。そこに共通するのは、それぞれが第一次世界大戦後に独立・登場した新興の小国家における空軍パイロットであるということだろう。戦間期の政治、そして第二次世界大戦下での国家の運命が、彼らの運命に直結しているのである。彼らの背後には、第一次世界大戦後のナショナリズムの問題が横たわっているのだ。

 そのような意味で、文中から実に興味深い記述を見つけ出すことが出来るのが、このシリーズの魅力なのである。

 次は駅ビル最上階に移動。コーヒーで一服。

 下の階の山野楽器で、CD&DVDを物色。娘は『魔笛』のDVDをゲット。私は輸入版コーナーで、フェラボスコのコンソートミュージック集(16~17世紀のイギリス音楽)、ホセ・ミゲル・モレノとエリジオ・クインテロによるダウランドのリュート曲集(これも17世紀のイギリス音楽)、『ウェストファリアの平和のための音楽』と題された30年戦争前後の作品集(1998年のリリースで、これは1648年のウェストファリア条約締結から350年を記念してのものだ)。

 そしてもう一枚は、一挙に20世紀へ飛んでショスタコーヴィッチである。映画のための音楽として書かれた曲が収録されている。ベルリン陥落を描いた1949年の映画と、革命直後が舞台らしい1951年の映画。店頭の30パーセント割引の山から発見。二度と手に入らないかも知れないと思うと、買わずに帰ることは出来ない。

 レンタルのDVDの返却に付き合って別の店へ移動。そこで娘の母と別れ、店を出た父娘は、駅中のコーヒーショップで一服(くつろげる良い店だった)。

…そして、わが浪費の一日、いや日本経済活性化貢献の一日は終わったのであった。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/01/18 20:40 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/92177

 

 

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2009年1月 5日 (月)

元青年は街へ出て書を増やす

 

 一応、今日までは正月休み、ということになっている(私の場合)。昨年末の発熱以来の体調も、かなりの程度回復した(しかし長くかかったものだ)。

 

 今日の午後は、娘を伴って外出した。一人で出かけるにはまだ心もとないので、お供(あるいは付き添い)である。

 駅まで歩いたのだが、低速歩行しか出来ない。まぁ、何とも情けない状態だった。

 銀行に寄って、口座の状態をチェックし、小遣い銭を下ろす。駅ビル内の本屋で、早速消費行動。

 

 

森まり子 『シオニズムとアラブ ジャボティンスキーとイスラエル右派 1880~2005年』 (講談社選書メチエ 2008)

グナル・ハインゾーン 『自爆する若者たち 人口学が警告する驚愕の未来』 (新潮選書 2008)

高橋紘 『昭和天皇 1945-1948』 (岩波現代文庫 2008)

坂井克之 『心の脳科学 「わたし」は脳から生まれる』 (中公新書 2008)

以上の4冊を購入。

 

 

 『シオニズムとアラブ』は、現実に原理主義としての機能を強めつつあるように見えるシオニズムの一潮流の歴史的展望について、参考になりそうなので購入。

 民族主義、民族自決原則という20世紀のパラダイムと、シオニズムは相関関係にある。そもそもはシオニズムの前面には宗教的イデオロギーは打ち出されていなかったはずだ。

 20世紀の終わりに、シオニズムの中の宗教的原理主義要素がシャロンの権力拡大に利用されてしまった。結果として、パレスチナ側の主導権も、世俗的民族主義からハマスのような原理主義要素の強い勢力へとシフトしてしまった。

 本来は世俗的民族主義同士の抗争であった、イスラエル・パレスチナ関係が、宗教的原理主義の抗争の場へとなりつつある、ように思える。政治的解決はより困難になりつつあるということだ。

…というような見通しの下で、イスラエルによるガザ空爆から地上軍による侵攻という現状と、その解決の困難さを憂慮している。

 その「見通し」が果たして妥当なものであるのかどうか?それを考えるために購入したわけである。

 

 

 『自爆する若者たち』については、いわゆるイスラム原理主義のテロリズムと人口動態を関連付けて論じた本として購入した。

 パレスチナや、アフガニスタン、イラクにおける、ローカルなレジスタンスとしてのテロリズムと、いわゆるイスラム原理主義によるグローバルな(インターナショナルな、と言うべきか)テロリズムは峻別されるべきと考えて来た。

 9・11の同時多発テロを見て、「イスラムの新左翼」という印象を得たことを覚えている。アル・カイダの行為が、ローカルな具体的な敵へのテロリズムではなく、インターナショナルなそして不特定の敵への無差別テロという、テロリズムの様態を示していることから、そのように考えたわけだ。

 1970年前後の先進諸国における人口動態と、かつての新左翼によるテロリズムの発現は、現在のイスラム諸国における人口動態とイスラム原理主義テロリズムの発現に相似形ではないのか、という問題意識が、私にはある。その問題意識は果たして妥当なものであるのかどうか?それを考えるための購入本である。

 

 

 『昭和天皇』は、占領と天皇、そして憲法という問題の参考書となるだろう。先日の豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫 2008)と共に気になっていた一冊だ。

 

 

 『心の脳科学』は、某MLで、饒舌氏(久しぶりの投稿だ)が推薦していた上に、信頼出来る参加者のオススメの投稿もあり購入。

 饒舌氏の投稿内容は、具体的な議論を志向すると言いながらも、相変わらず上滑りになり気味な印象を受けるが、まぁ、どちらにしても、こちらの新書は読んでおく価値はあるだろう。

 

 

 明日からの読書は、まずこの4冊から、ということになるのだろうか。

 

 いよいよ、日常生活が戻って来る。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/01/05 17:34 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/90816

 

 

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2008年12月 7日 (日)

日常化した死の前にダミニストが考えること

 

     長期的に考えれば、人は皆死んでしまう。

のは真実ではあるが、普通、人は、次の瞬間も、次の次の瞬間も、5分後も、一時間後にも、明日も明後日も、とにかく当面は生きているであろうことを前提として、現在を生きているものだ。

 惰眠をむさぼっている間に、次の目覚めは訪れず、永遠の眠りについてしまうことになってしまうかも知れないのだが、だからと言って、死ぬまで目覚めていようとは、ダミニストならずとも思わないものだろう。

 恋愛の高揚の中で迎える死と、惰眠最中の死。

 ドラマ化を考えるなら、当然、前者だろう。

 惰眠最中の死。どうにもしまりのない話である。

 いずれにしても、この世に生まれた瞬間から、人間は死というゴールに向かうべく運命付けられてしまう。

 死ぬのがいやなら生まれるな、ということだ。

 実際問題としては、自分の意思で生まれることは出来ないし、やがて必ず訪れる死を拒絶することも出来ない。

 「死にかけている」状態こそが、人間にとって基本的な生のありようなのだ。

 けれど、普段、そんなことを考えて生きていることは、普通は、ないだろう。

 少なくとも、私の知りうる限りの周囲の人間は、そんなことを意識の中心に据えて生きているようには見えない。

 だからこそ、冒頭のケインズの言葉には効き目があるわけだ。

 そこに、あまりに当たり前な事実が提示されているということが、「効き目」の核心にある。

 あまりに当たり前なことを、普段まったく考えることなく生きているという、自分自身の事実に直面させられるわけである。

 もっとも、「大東亜戦争」と呼ばれた戦争の時代、多くの日本人からは、当面の間は自分が生きているという保証の感覚は失われていたような印象を受ける。

 少なくとも、若者から、自分の人生の未来への展望を持つという感覚が失われてしまっていた。

 若さの中での戦死。自分の人生の展望は、そこまでである。

 やがて、若者だけの問題ではなくなる。本土空襲が日常化してしまえば、都市住民にとっては、もう、明日の人生の保証も失われていくばかりだ。

 前線での戦死は、兵士として動員される若者の身の上に起きることだが、空襲下での死には、年齢・性別による制限はない。

 長期的に考えずとも人が死んでしまう時代があった、ということだ。

 いや、昔の話ではない。バグダッドの街角では、そんな感覚の中で生きることを強いられている人々が、今も、この瞬間をとりあえずは生き抜いているのである。


 ケインズの言葉が意味を持つのは、死が日常化している世界においてではない。

 人の死が日常化し、愛する者の死が日常化し、自分自身の死の可能性が必然性をもって日常的に意識されざるをえない世界。長期的に考えずとも、人が死んでいく世界。

 人間の行為の一つとしての戦争がもたらすのは、そのような世界である。

 私としては、うれしい世界のあり方ではない。

 そういう意味では、ケインズの言葉が意味を持ってしまう世界は、望ましい世界のあり方である、と考えることも可能である。

 しかし、その中で感覚が鈍磨し、人が死すべき存在であることを忘れ去ってしまうとすれば、この瞬間に自分が生きているという奇跡的な事実に無感覚になってしまうに違いない。

 まぁ、それは、幸せな話であることは確かだ。鈍さのもたらす幸せ。

 どちらかを選べと言われれば、もちろん、愛する者の死が日常化していない世界を選ぶ。

 その上で、ケインズの発した言葉を日常的に自らの想像力の内に保つこと。

 その時初めて、愛する者の死の日常化していない世界の価値の大きさを、深さをもって理解出来ることになる、はずだ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/08/06 22:39 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/75058/user_id/316274

 

 

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相互理解への航海(あるいは漂流)

 

 気付いた時には、日曜の夜も終わりだ。

 たぬき男いたち男氏は、有意義な暇潰しの一日を過ごすことが出来たのだろうか?

 こちらは少しだけ、写真の整理をしたのだが、残量の方が遥かに大きい。

 「遥かに大きい」という表記はどうなんだろうか、「遥かに多い」と書くべきなんでは、と思い悩みながらの進行である。

 結論を出さないままに、先へ進む。

 たぬき男いたち男氏のコミュニティ、「希望同盟」のアシスタントを務めるようになって以来、月日も過ぎた。

 いつからだったかは記憶にないくらいだ。

 たぬき男いたち男氏は、当人も公言しているように、統合失調症で通院中の身の上である。

 日常のコミュニケーションでも苦労しているに違いない、という推測は、ネット上のお付き合いをしている私からも、容易に出来る。

 ネット上のコミュニケーションのお相手をしている身である私にとっても、互いの意思の疎通に、思いもかけぬ苦労を感じることも多い。

 もちろん、これは相互的な問題なのであって、たぬき男いたち男氏にとっても、当人にとって当然のことが、相手からはまったく理解されないという状況であることは確かだろう。

 人間同士のコミュニケーションの多くは、言葉に依存している。

 そのように言い切ることは、必ずしも適切ではない、と言うべき側面ももちろん存在する。

 対面的なコミュニケーションの場では、言葉の意味そのもの以上に、口調や、身振りや視線のあり方等の様々な身体表現が、多くの意味を相手に伝えることになる。

 相手との関係の親密さが増すほどに、言語外の表現は、コミュニケーション上の比重を増すものだ。

 逆に言えば、相手との距離が増すほどに、言葉そのものの意味に依存したコミュニケーション能力が必要となる。

 そこでは、自身の表現力と、相手の理解力の相互関係に、コミュニケーションの成否がかかることになる。

 相手の理解力を無視した表現は無効となるのだ。

 相手の未熟な表現力を無視した、表面的、あるいは一面的な理解もまた、コミュニケーションの成立を阻むことになる。

 自分の意図を相手が理解出来ないのは、相手の理解力の問題なのか、自分自身の表現力の未熟さの問題なのか、そこから考えておく必要がある。

 日常のコミュニケーションであれ、ネット上のコミュニケーションであれ、基本的な構図に変わりはない。

…という話は、あまりに当たり前なことに過ぎないと思うのだが、現実の人間関係でのトラブル、ネット上のコミュニケーション上での多くのトラブルを振り返ってみれば、あまり当たり前のこととして理解されているようにも見えない。

 通常の社会生活能力のある人間同士のコミュニケーション上でのトラブルの多くが、実際には、相互の表現力と理解力の非対称性への想像力を欠いたところから生じているように思えるのである。

 同じテーマ、同じ対象を論じているように思えても、相互の興味関心の焦点にはズレがあって当然である。

 まず、そのことへの想像力が必要だろう。

 その上で、常に自らの表現力及び理解力の限界に自覚的になりながら、対話なり論争なりを進めることが大事なのだと思う。

 ネット上におけるコミュニケーション・トラブルの問題を主題としながらでも、人は時として、そのことへの自覚を欠いたり、配慮を失っている自分に気付くことなくエキサイトすることが出来てしまうのだ。道は遠いのである。

…と、普段の実生活であれ、ネット上生活であれ、人と人とが出会い、互いに理解し合うことは、思うほど簡単なことではない。

 現実には、相互理解への努力よりは、細かいことは気にしないという態度により、トラブルは未然に防がれているようにさえ見える。

 少なくとも、自分自身がどれだけ他者の思いを理解出来ているのかを問うてみれば、他人に対して、自分への十二分な理解を求めることの不当さには気付くことが出来るはずだ。

 自分への十分な理解を他者に要求することは、相当に自己本位な、他者という存在のあり方への想像力を欠いた態度であるという側面に気付くことが出来るかどうか?

 ここで私の言っているのは、相互理解への努力の放棄ということではない。

 相互理解への努力へのスタート地点がどのような場であるのか、その点についての現実的認識に関してなのだ。

…というのは、少なくとも通常の社会生活の上で支障のないということになっている人間同士の関係、精神科の診断名とは無縁であると当人同士が考えている中でのコミュニケーション上のトラブルについての一考察であった。

 先に書いたように、たぬき男いたち男氏は、精神科の診断名と共に生きて来た存在である。

 実際問題として、コミュニケーション上の障害はより大きいような気がしてしまうことも確かである。「実際問題として」、それは何より経験上の出来事でもあった。

 しかし、相互に他者である存在という意味では、精神科の診断名は、それほどに大きなものなのだろうか?

 正直なところ、そこはよくわからない。

 精神科の診断名とは無縁であるはずの人間同士の間に生じるコミュニケーション・ギャップの大きさも、時として、越え難く感じられるものだ。

 まぁ、いずれにせよ、相互理解への努力を放棄することは、当面はないだろう。

 「希望同盟」という泥舟の航海(漂流)は、まだしばらくは続きそうである。

     「希望同盟」 → (http://www.freeml.com/epsilon_delta_25

(「希望同盟」は、その後、オーナーであるたぬき男いたち男によって、突然、ネット上から削除された → 現在は存在しない 2008年12月7日記)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/07/14 01:08 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/72763/user_id/316274

 

 

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自己栄光化の自由…?

 

 過去の行状、というのは、普通、恥ずかしい記憶ではないだろうか?

 栄光の過去、それも結構なことだが、過去の記憶は捏造可能なものでもある。

 自身を栄光化する衝動もまた、普通のことなのかも知れない。

 たいしたことのない自分よりも、誇りうる自分を求める。

 自分がたいしたものではないことを受け入れることが出来てしまえば、たいしたことのない自分で十分なものなのだが、なかなかに難しいものではあるらしい。

 そこに、現実にはたいしたことのない存在である自分をたいした存在である自分へと仕立て上げるという課題が生まれる。

 どうも、このような欲求は、人類普遍の衝動であるようにも思う一方で、近代特有の感情ではないかとも思わせられる。

 たいした存在である自分の誇示は、確かに、神話的な起源を持つものではあるだろう。

 しかし、一方で、近代以前の人間関係、共同体的世界における人間関係を考えてしまうわけだ。

 そこでは、互いに、生まれた時から死ぬ時まで、同じ顔ぶれの人間関係が続くことになる。

 互いに、それぞれの、過去の行状は、誤魔化しが効かないものとして、共同体的に共有されてしまっているのだ。

 自分が何者であるか、それは既に世間が十分にご存知なことなのである。

 そこで、自身の栄光化物語を語ろうとも、お里は知れてしまっているわけだ。まさに「お里」の只中での話なのである。

 まぁ、「ほら吹き」として認定され、それなりに愛されて生涯を送ることになるだろう。当人の現実は、共同体の全員が、既にご存知の事柄なのだから、騙されるという事態が起きる心配さえない。

 「ほら話」は「ほら話」として楽しまれることになるだろう。

 近代化とは、人口の流動化、都市化、産業構造の変化、工業化、民族国家としての国民国家の成立…、といった様々な側面から語られるものだ。

 すべての前提として(あるいは結果として)、それまでの人間関係の基底に存在した共同体の解体の進行を考えなければならない。

 共同体の一員から都市住民へと、自分自身の位置付けは変貌を遂げることになる。

 その意味するところは大きい。

 都市へ出た人間は、自身が何者であるのか、そこでは誰も知らないという現実に直面するのである。

 共同体的世界とは、自身が何者であるのかについて、説明不要の世界であった。そこでは、生まれてからの履歴が、既に知られてしまっているのである。

 「郷土」とは、そのような世界として考えておく必要がある。

 「郷土」を後にして「都市」へと向かうことは、常に自身が何者であるかを説明し続ける必要に迫られる世界への移動であった。

 少なくとも「郷土」においては、履歴ある既知の存在として取り扱われて来た一人の人間が、「都市」では履歴不明の「大勢」に括り入れられてしまう。

 誰であるかが知られていた世界から、誰も誰であるかを知る者のいない世界への編入である。

 自分が何者であるかを説明し、自身の有用性を認めさせること、それが都市生活スタートにおける課題となる。

 たいしたことのない自分であることは難しいのである。

 近代化過程で顕著になる民族主義は、まさに、自分が何者であり、民族の一員として有用な存在であるのかを説明する、便利な論理を提供するものとなった。

 一方に帰属地としての「郷土」の喪失があり、その一方で、帰属出来る場としての「民族」のイメージが提供される。

 自身がたいした存在ではなかろうとも、自身の属する民族はたいした存在なのである。

 自身の属する民族がたいした存在であることは、自身もたいした存在の一員であることを保証することになる。そして、そこから、たいした存在としての自身を見出すことが果たされる。

 もちろん、そこでは、たいした存在ではない他の民族が必要とされる。

 自身の栄光化に必要なのは、見下すべき他者の発見である。この場合の「発見」とは、既に存在するものを見つけ出すこととしてではなく、創り出すこととして考えられるべき事態である。

 他者を貶めることによって果たされる自己の栄光化という事態が、そこに現出するのである。

 ネット上もまた、そういう意味で、近代化の現在形そのものであろう。

 そこでは、互いに誰も知らない、互いに誰であるかを知らない、という事実が出発点である。

 説明しない限り、誰であるかは誰の知るところにもならないのである。

 そして、当面は、説明した内容が、自身が誰であるかの内容となるのである。

 しかし、一方で、説明自体は記録として残されてしまう。削除も可能だが、コピーによる保存も容易なのだ。

 自身の「過去の行状」が、世界的に共有されているわけだ。

 ネットに接続しさえすれば、どこでも読めてしまうのである。

 過去の栄光化も簡単に出来るが、メッキも瞬時に剥がされてしまうということになる。

 もちろん、ネット上で、沈黙は金であるかも知れないが、黙っている者は存在しないのと同義となってしまうのも、ネットという世界の現実である。

 しかし、他人を貶めることによって、自己の存在をアピールすることに積極的な意味はあるのだろうか?

 恥ずかしい過去の行状が蓄積されるだけ、のような気がしてしまうのである。

 もちろん、恥をさらす自由もまた尊重されるべきではあろうけれど。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/06/29 15:02 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/71377/user_id/316274

 

 

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2008年12月 4日 (木)

日曜の夜の地球人

 

 今日も、少なくとも今のところは、火星人の襲来もなく、地球規模では平和であった。

 もちろん、それぞれの地域で考えれば、地球人同士の殺し合いは続いている。

 平和なんか、ありはしない。

 人間は、常に自分の都合に合わせてものを考え、世界を解釈する存在である。

 チベットの人間からすれば「侵略」である出来事も、中国共産党の見解では「解放」である、なんてのはその一例。

 中国大陸の住人からすれば「侵略」である出来事も、アジア解放のための行動の一環と説明して恥じることはない例には、わが国では事欠かない。

 アジア解放のために、中国で人を殺し続けたのが大日本帝國だったわけだが、それを「アジア解放」のための正当な行為であったと主張する同じ人物が、なぜか中国共産党によるチベット解放の説明を受け入れようとはしないのも不思議な話だ。

 私から言わせればどっちもどっちな話だ。

 軍事力による国境線変更の試みであったことに違いはない。

 軍事力による国境線変更の試みへの否認が、第一次世界大戦後の国際法上の努力であったことは常識であろう。

 そのような努力への、軍事的強者による挑戦であったことにおいて、両者に違いはない。

 違いがあるとすれば、大日本帝國はその試みに失敗し、中国共産党は成功した。それだけの話だ。

 国境線変更の試みであることを顕在化させないために、傀儡政権を用意するのもまた、第一次世界大戦後の、軍事力による国境線変更の試みにおける常套手段であった。

 そのすべてにおいて大日本帝國は成功しなかった。

 それだけの話だ。

 それを事実として見つめうるかどうか、それが問われる。

 大日本帝國の失敗を事実として認めないこと、それを「愛国的行為」と勘違いしている人々が存在する。

 「愛国者」とは、自国のよりよい状態での存続を望む者のことであろう。

 自国の歴史上における失敗の事実から目をそらし、都合のよい歴史解釈を採るための努力は、決して、結果として、自国のよりよい状態での存続には結びつかない。

 私はそのような人々を愛国者とは考えない。

 「愛国」という語を、自らに都合よく用いる人々であるに過ぎない。

 大東亜戦争を、アジア解放のための闘いとして理解しようという努力が存在することは知っている。

 しかし、大東亜戦争とは、まず第一に、大日本帝國の滅亡をもたらした戦争であった。

 国家の滅亡こそは、愛国者の名に値する人間であれば、何より避けなければならない事態ではなかろうか?

 その責任の所在を問うことこそ、愛国者の名に値する人間であろうとするならば、まず考えなくてはならないことであるはずだ。

 実に不思議な事態である。

 国家滅亡の責任の所在を問うことに全く関心を寄せないところから、この現代日本では、自称「愛国者」は出発するのである。

 それは、実に不思議なことではなかろうか?

 しかも、ルーズベルトや蒋介石の策略に乗せられたのが戦争の原因で、大日本帝國はその被害者だ、なんてことを恥ずかしげもなく主張したりするらしい。

 恥ずかしいったらない話だ。

 単に軍事的にも外交的にも、つまり政治的に、大日本帝國の指導者が、ルーズベルトや蒋介石に劣る実力の持ち主であったと主張していることと同じだからだ。それに気付いていないことが二重に恥ずかしい。

 珍しく、「日曜の夜の地球人」というタイトルを先に考えて書いた。

 もちろん昨日の「土曜の午後の、やってこなかった火星人」が元ネタだ。

 書いてみれば、出来上がった文章は「日曜の夜の日本人」ではないか。

 まぁ、火星人の襲来がないからこそ書けた文章ではある。ものは都合よく考えるものなのだった。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/04/13 20:12 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/63813/user_id/316274

 

 

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2008年12月 3日 (水)

戦争を語り継ぐ、ということへの入り口

 

 本日は、参加しているMLコミュニティ「戦争を語り継ごうML」のオフ会に行って来た。

 家族全員で、出かける。娘も一緒。最年少参加者となった。

 私も含めての戦後生まれから、疎開体験世代、東京大空襲体験者、ビルマ戦線従軍体験者、戦闘機隼パイロット等々の、戦争との関係の仕方も参加者それぞれという集まり。最高齢者が確か86歳、ということはウチの娘とはなんと72歳の開きがあることになる。

 話の内容は様々だったので、今日の日記でレポートするには、無理がある。

 しかし、当事者の話を直接伺うことの意味の大きさは、よぉく理解出来た。

 書かれ残された記録をきちんと読むことは大切なことだ。しかし、記録として書かれず、たとえ書かれても残っていないということは、ある出来事が歴史的に存在しないということではない。

 生きた当事者が目の前にいるということの大きさは、対話が可能であるという点に尽きるだろう。記録に書かれていないことを記録に対して問うことは出来ない。しかし、目の前の当事者・体験者には、問うということが出来るのである。

 当人にとって当たり前のことは、わざわざ話さないことがあるものだ。しかし、相手にとっては新鮮な話題であり、問うことが始まり、記録上は存在しないことも新たな語りの対象となりうるのである。

 読書の大事さ、資料の読み込みの重要さと同時に、対話を通して、まだまだ隠れたままになっている出来事の多くを、歴史のフィールドに引き出す作業を続けることの価値を、あらためて実感させられた一日となった。

 とにかく、世代間の差の大きさを考えると、先行する世代にとって当たり前過ぎて問題とならないようなことでも、後続世代は何も知らないというようなことが現実なのだということを、互いに自覚しておかなくてはならない。

 人間自体は決して賢くなどならない(生物としてのヒトとしての変化など無いと考えなければならない)のだから、少なくとも、この数十年の日本人の経験くらいは、自覚的に、自らの視野に取り込んでおくための努力はしておきたいものだと思う。愚かさにおいてはそう変化は無いかも知れないが、それでも、愚かさゆえの過ちが少しだけは減少する可能性が生まれる。

 そういえば、本日の会場は本郷の東大赤門近くの「わだつみのこえ記念館」だった。今回は展示をじっくり見るゆとりがなかったので、また、あらためて、ゆっくりと再訪したいと思っている。

 しかし、昨日は駒場、今日は本郷と、なぜか東大に縁のある休日だったなぁ、と最後に私的な感想を付け加えておくことにしよう。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/12/02 22:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/50144/user_id/316274

 

 

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難民としての生活を考えたりの9月の日曜日

 

 9月も一週間が過ぎてしまいました。

 気付いてみれば、あと二週間で、ここに日記を書き始めてから一年となります。


 神の姿シリーズも、山田太郎氏登場以来、ますますワケノワカラナイ展開となりつつあり、二週間後にどうなっているのか、まったく予想もつきません。
 まぁ、あくまでも私の、平日の夜のお楽しみでございます。


 このところ、金欠更新中で、出かけることもままならず(まぁ、暑さという大敵もありましたし)、美術館もギャラリーも、展覧会とご無沙汰なのが寂しいところですね。
 涼しくなることと、財布が少しは重くなることを願うとしましょう。


 この5月辺りから、仕事のパターンが変り、帰りが遅くなってしまったもので、なかなか皆さんの日記を読む時間の余裕がなくなってしまい、失礼を重ねております。
 自分の日記を書いて、もう少し余力があればと思うのですが、まだ非力ですね。まぁ、慣れれば、時間の作り方も上達するかも知れません(あまり期待出来そうもありませんが)。

 仕事の合間なんかを利用しての読書時間は、逆に以前より確保出来るようになりましたから、日記の内容もこれまで以上に充実させることが出来るでしょう、理論的には。「理論的には」としか言えないところが悲しいところですが…


 そういえば、先週の台風襲来時には、我が家の生垣のピラカンサが、雨と風で道路側に倒れ掛かり、嵐の中、枝落としに励むハメになりました。
 朝6時過ぎに起きて、外へ様子を見に行ったところ、道路を塞ぐところまではいってませんでしたが、放置することも出来ない状態でした。
 2メートルほどの高さに切りそろえているのですが、この夏、剪定をサボっているうちに、さらに2メートル近く枝が伸びてしまっていて、台風シーズンまでには何とかしなければと思っているうちに、台風直撃となってしまったわけです。

 しかし、普段なら脚立なしには届かない、高く上に伸びた枝が、風雨にあおられたせいで手の届く状態になり、何とか必要な枝を落とすことは出来ました。
 しかし、相手はピラカンサ、トゲで傷だらけとなってしまいました。



 昨日の「難民として生きること」についてですが、私の娘が生まれた時に、私の母は80歳(私は母が40代で生んだ子供でしたので)。
 赤ん坊と老人がいる状況での「難民」の姿。
 想像するだに苦しい状況だと思いました。

 難民となるのは、民間人、市民です。自分達を守るべき軍隊が、自分達市民を守ることが出来なくなったが故に、難民として故郷を離れなければならなくなるわけですね。
 記録映画として保存された過去の戦争における難民の歴史的映像の数々に加えて、現在のニュース映像の背後にも、乳飲み子を抱えた母親や、歩くことも困難な老人を支える家族の姿が、必ず、写っています。
 娘が生まれた90年代には、旧ユーゴスラビアが内戦状態に陥り、独立した各民族国家から排除された、異民族としての避難民の姿を、日常的に見ることになりました。
 そこに映し出されているのは、スペイン戦争や、第二次世界大戦の記録フィルムに見ていたのと変らぬ映像です。
 逃げることしか出来ぬ人々の姿。

 そしてまた、難民生活の終りは誰にも保障されていません。占領が続く限り、難民として暮らさざるを得ないのです。
 実際、パレスチナ難民は、イスラエル建国以来、祖国となるべき土地、故郷の地を奪われたまま、60年近い日々を「難民」として過ごすことを強いられています。

 そのような姿がテレビ画面に映し出される度に、老人と赤ん坊という、我が家族の組み合わせを思わずにはいられませんでした。
 私はこの家族を、どこまで守りきることが出来るだろうか、と。
 もちろん、そんな日々が訪れない方がいいに決まってます。しかし、望んで難民生活をしている家族もどこにもいないでしょう。

 戦争が、私たちに何をもたらすのか。
 様々なことが言えるかと思いますが、「難民」という視点もまた、忘れられてはならないように思っています。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/09/09 23:36 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/41189

 

 

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難民として生きること

 

 難民となることについて考えたことがあるだろうか。

 映画と写真は、20世紀の戦争により、難民として日々をくぐり抜けざるを得なくなった多くの人々の姿を、記録として残した。

 第一次世界大戦、ロシア革命、支那事変、第二次世界大戦…、と戦争は続き、パレスチナ難民を生み出したイスラエル建国、ヴェトナム戦争から旧ユーゴの内戦を経て、現在のイラクを逃れざるを得なくなった人々まで。住み慣れた家を捨て、故郷を後にせざるを得なかった人々の姿。
 それを、まさに20世紀のメディアである映画と写真が記録し続けてきた。私たちは、文書記録と共に、映像という20世紀特有の手段によって定着された、難民という生き方を選択せざるを得なかった人々の姿に常に接してきたのだ。
 かつての歴史的映像としてのみならず、日々のニュースは、私たちの食卓にまで、そのような難民の姿を送り続けているのである。

 少ない荷物で、着の身着のまま、住み慣れた世界から離れ、仕事のあてもない世界へと旅立つことを迫られた人々。それを人々に迫る戦争という名の暴力。
 老人も幼児も病人も、難民生活へと追い込まれるのだ。

 大東亜戦争の経験は、日本国内では幸いなことに本土決戦の回避により、難民という状況を国民に強いるところまでは至らなかった。
 しかし、植民地としての満洲に移住し、そこに生活の基盤を築きつつあった人々は、敗戦と共に、いわゆる「引き揚げ」体験を味わうことになったことは忘れてはならないだろう。

 難民となるということは、生きるための選択でありながらも、そこには安全も生き続けることの保障も存在しない場へと追い詰められていくことを意味するものでもある。

 20世紀が生み出した総力戦という戦争の型式、民族国家=国民国家という国家の形態は、それ以前の世紀の戦争に比しても、「難民」というあり方を、より大規模により深刻なものとして人々へと迫るものになったように思われる。



 

 

2007年9月6日 木曜日

我が家を離れて・・・

 2カ月前、私たちはスーツケースに荷物を詰めた。私の一つきりの大きなスーツケースは6週間近くの間、寝室に置きっぱなしだった。着るものや身の回りのものをぎっしりと詰め込んだので、スーツケースを閉じるのに、お隣りの6歳の子とE.に手伝ってもらわないといけなかった。

 このスーツケースに荷物を詰めるほど難しいことは、これまでほとんどやったことがない。まさに「ミッション インポッシブル」。「R君、さて今回の君の任務だが、30年近くの間に君がため込んだ品々を調べ、必要不可欠なものを決定することにある。この任務の困難な点は、選んだ品々を 1メートル×70センチ×40センチ の空間に収めねばならないところだ。このなかには、もちろん、君が今後数カ月着用することになる衣服や、写真、日記、ぬいぐるみ、CDなど、私的な記念品も含まれる」

 荷物を詰めては中身を出すのを4回やった。中身を出すたびに、どうしても必要というわけじゃないものは排除すると自分に誓った。荷物を詰めなおすたびに、前よりたくさんの「がらくた」を付け加えてしまった。一月半経ったところでE.がたまりかねてやってきて、私がしょっちゅう中身を更新したくならないように、かばんをしっかり閉めてしまおうと主張した。
   (バグダード・バーニング/日本語    http://www.geocities.jp/riverbendblog/ より)


 

 イラクを離れざるを得なくなった女性、リバーベンドの手記の抜粋である。

 21世紀の、この数ヶ月の出来事。
 4月に、イラクを離れることを決意し、2ヶ月前にスーツケースに荷物を詰め終え、やっと2日前にシリア国境を越えられたということだ。
 クルマでの移動の危険さゆえに、この2ヶ月間は動きが取れなかったということである。

 スーツケースに荷物を詰めるという作業に、難民となるということの意味の一端が語られているだろう。すべての思い出からの離別である。
 軽い記述のうちに、私たちはそのことを読み取らなければならないだろう。

 

 

…国境ではまわりの車に不安になった。いつ爆発するかわからない多くの車に囲まれているのが嫌だった。…

 
という文中の一節が、現在のイラクの状況を物語っている。


(上記引用は、MLコミュニティ「イラク戦争に関する世界情勢のニュース」による)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/09/08 22:10 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/41015/user_id/316274

 

 

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2008年11月26日 (水)

トラウマを書くウマシカな私

 

 もうそろそろ半年が過ぎることになる。

 毎日毎日、わけのわからない日記を書き続けて、6ヶ月が過ぎようとしているわけだ。

 一回2000字近く。400字詰め原稿用紙5枚分。
 まぁ、最初の頃は字数制限もよくわからず、4枚くらいだったかも知れない。
 今、数えたら、194タイトルあるようだ。
 つまり、少なくとも原稿用紙900枚以上になる。
 驚いた話だ。

 以前にも書いたが、この20年以上、いつか小説を書きたい、そう繰り返している友人がいる。
 その友人のためにコミュニティを作り、解散した。まぁ、それはいいのだが、その友人に、毎日書き続ければ、長編小説だって書けるぜ、ということを見せ付けてやろうという気もあっての、毎日の2000字である。
 まぁ、面白がってやっているので、ウラミツラミはない。

 書いてみて、自分がこんなことを考えるのかと驚く時も多い。知っていることを書く、知識を公開するということには興味がなく、その時々のテーマに対して自分が何を考えられるかを書いてきたつもりだ。それだからこそ続いたのだと思う。

 確かに読み返してみれば、やはり、この私の考えそうなことではある。しかし、ここで書き始めなければ、一生そんなことは考えずに終わってしまったであろうことを考えている自分に出会えるというのは、実に、面白いことだ。
 20年間、小説を書かずにいてくれた友人には感謝すべきだろう。



 先週の「神の姿シリーズ」は、「貴方のために、貴方を管理しますと言われた時のための、神の姿日記」というタイトルの文章で終わっている。
 それと、バインダー設定「現代史のトラウマ」シリーズでの私の基本姿勢には共通の感覚が流れているように思う。

 人間にとっての自由の問題だ。

 書いてみて思い出したのだが、私の10代から20代にかけての思考テーマとなっていたのが、その「自由」という問題だった。
 自分自身が自分自身を評価する時に、「今、私は自由であると思えるかどうか」が私にとっての自己評価の基軸となっていることの自覚、基軸としていくことへの自覚が、当時の(今よりは若き日の)私を形作っていったように思う。

 自分自身が自由に生きているという実感は、どのように得ることが出来るのか、そんなことを考えていたのだろう。実際、時が経ってみれば、そんなことを日常生活の中で考えるようなことはもうない。
 しかし、その頃考えていたことがあればこそ、現在は問題を自覚することなくとも、自由の問題はその都度の私の態度決定の底を支えているように思う。

 あの「現代史のトラウマ」シリーズでは、いわゆる左翼・右翼という分類には収まらないような私自身の政治的位置が表明されていると考えている。
 判断の基準は、人間にとっての自由の問題だ。
 人間は自由に生きるべきだ、とは私は言わない。それは、それぞれが判断すればよいことであって、自由に生きない自由も人間にはあると考える「べきだ」と考えるのが私である。
 しかし、私は自由でありたいと思う。自由でありたいと思う人間のための場所を確保しておくための努力はしておきたいと思うのである。

 他人の自由を制限するための努力には同意出来ない。いかなる口実であれ、人間は自由であることを尊重されるべきだと思う。ここでは不自由を選ぶことも可能であるはずだ。しかし、それは自らの選択の問題としてであって、強制であってはならない。それが私の考えである。


 2人の人間がいれば、そこに支配ー被支配の権力関係が生じる。3人の人間がいれば、敵ー味方の政治的関係が発生する。リアリズムとして、そのことを事実と承認する。
しかし、そこで、人が人を踏みつけにする関係の発生に自覚的になり、その関係の最小化への努力をしていくこと、それを課題としなければならないと思う。

 そんな考え方が、これまでの、そしてこれからの日記の基底に流れ続けることだろう。

 この「自由」をめぐる問題。また機会があったら書いてみたいと思う。



 今日は、ウマシカな私の現在を書いてみた。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/03/18 22:17 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/25438/user_id/316274

 

 

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反革命的な? いつもの長さの、しかし革命を語る日記

 

 現状に満足している者は、革命には無縁である。

 不満があるからこそ、卓袱台はひっくり返される。

 しかし、卓袱台をひっくり返したからといって、現状は改善されない。

 事態は、悪くなるだけだ。空腹は癒されず、せっかくの食事は畳の上だ。茶碗は割れ、味噌汁はこぼれ、と何も良いことなどない。

 考えが足りなかったのだ。

 どこにも、計画性というものがない。卓袱台をひっくり返したら、それで、何が得られるのか、それがまったく考えられてはいなかった。

 では、どのように卓袱台ひっくり返しを計画すればよかったのか、それを考えておくべきだった、と考えるのは、単なる大馬鹿者である。

 自分は何に不満があったのか、何が達成されれば満足出来るのか、それを考えておかなければならない、はずだ。本当に何かを求めていたのなら。

 もっとも、卓袱台をひっくり返しさえすれば、それで目的は達成出来ていたのかも知れない。
 この家で、卓袱台をひっくり返せるのはオレだ、オレだけが卓袱台をひっくり返せるのだ、とアピールすることで。

 しかし、それは、妻子がそれに耐えていてくれる間だけのことだ。妻子に見捨てられた暁には、話にならない。
 つまり、妻子の方が革命を起こしてしまえば、ということだ。



 まぁ、歴史を振り返ってみれば、なんともありふれた話である。

 1989年の終わり。ルーマニアでの出来事を思い出す。

 ニコラ・チャウシェスクは革命の指導者であった。
 ルーマニアの指導者であっただけではない。
 ソ連を盟主としたワルシャワ条約機構に反旗を翻し、成功を収めた数少ない東欧国家の指導者でもあった。
 実際、1968年、春を謳歌したプラハの労働者にとって、チャウシェスクは希望の星であったのだ。

 しかし、時は流れ、チャウシェスクは、東欧の社会主義諸国の中でも悪名高い独裁者として知られるようになる。
 ルーマニアでただ一人、卓袱台をひっくり返すことの出来る人物となったのであった。

 社会主義世界、共産党の支配する世界での最大の問題点の一つは、支配政権、支配政党、そして支配者自身が、労働者の代表と定義されていることだ。
 現実に、その世界に住む労働者の権利・生活がどん底にあろうが、労働者達は反抗の対象を持たないのである。
 自分達の現状をもたらしたのが、現実には、支配政権であり、支配政党であり、支配者達であることは確かであっても、それは労働者の代表なのであり、反抗の対象とはなりえないのである。
 自分達の代表に反抗出来るはずがないのである、論理的には。しかし、自分達を苦しめているのが、まさに自分達の代表なのであったという、何とも不条理きわまる事態!!
 そんな事態の中に、東欧の労働者は置かれ続けてしまったのであった。

 オレはお前達の為を思って卓袱台をひっくり返しているんだ、そんなことを主張するオヤジの下で暮らす妻子の姿、みたいなものだ。

 しかし、1989年12月の終わり、ルーマニアの労働者達は、チャウシェスクに愛想を尽かし、最後には処刑してしまった。
 革命の指導者が新たな革命の対象となってしまったわけだ。

 ルーマニアの労働者達は、チャウシェスクという名の卓袱台をひっくり返したわけだ。

 しかし、現在、ルーマニアの労働者達が満足に値する世界を獲得出来たという話は聞かない。

 いずれにしても、大変なのは、卓袱台をひっくり返した後のこと、そういうことなのだろう。

 

 

  

(オリジナルは、投稿日時:2007/02/25 17:24 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/23282/user_id/316274

 

 

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2008年11月25日 (火)

2007年1月4日 (亡国の徴) 現代史のトラウマ 16

 

 1月4日、仕事始め、だそうです。

 が、私はまだ休みなので、家族で立川まで出かけました。いろいろと寄った末に北口のフロム中武へ。娘はアニメオタクショップ。私は切手と古銭の店へ。

 古銭と切手といっても、元々からの収集癖があったわけではなく、何度かアニメオタクショップ通いに付き合わされるうちに、ヒマつぶして眺めていられる店として覗くようになったもの。
 始めは、家族の生まれ年の各国の硬貨を見つけ、面白がって購入していたわけです。硬貨のすり減り具合も、必ずしも年代の古さを反映していなかったりしますし、故国でそのコインが経て来た運命など想像したりするだけで、結構楽しめたものです。

 そうやって「見切り品」風に、店先の箱の中に入れられているコインを1枚1枚、国や年代を確認しながら選ぶ。なんてことを何度かしている内に、興味も拡がっていきました。もう存在しない国家の発行した硬貨が混ざっていることに気付いたわけです。
 最初に見つけたのは、1915年、革命以前のロシアのコインでした。やがて、1916年のアルジェリア、フランスの植民地であった時の貨幣。1942年のドイツ(ナチス時代)のハーケンクロイツ付きのもの。1945年のスウェーデン(第二次世界大戦では中立国)のコインなど、想像力をくすぐられるものが、ちょっと注意していると見つかることに気付いたわけです。
 そのうちに、今はなき、東欧の社会主義国家のコインにも気付きます。チェコスロバキア、ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、そして東独、ソビエト連邦と、今はまったく別の政治体制の下に置かれている国家群の様々な貨幣。


 本日の成果。社会主義時代のチェコスロバキアのコインセット(1970~80年代のもの)。英連邦時代のニュージーランド。年代不詳のマスカット-オマーン(現オマーン)。年代不詳のイラク(サダム政権下あるいはそれ以前)。フランコ時代のスペイン(フランコの肖像入り)。そして、康徳元年と大同3年の年号の入った、「大満洲國」の1角白銅貨を1枚ずつ。

 例えば、社会主義時代のチェコスロバキア。年代からいって、1968年の「プラハの春」が、ブレジネフの指令下のワルシャワ条約機構軍戦車部隊の侵入により潰され、その後の「正常化」時代、つまり結局のところは国家財政破綻に向かう「正常化」の時代のものですね。丁度、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』の主人公トマーシュと息子の生きた時代のコインということ。
 「社会主義共同体」の危機を救うために投入されたはずの戦車部隊は、結局のところ20年かけて、1989年の社会主義共同体の消滅を用意しただけでした。

 興味深い(?)のは、ネパールやビルマ(ミャンマー)、あるいはイスラエル、そしてイスラム圏の国々の貨幣には、西暦年号が記されていないことです。それぞれの年号がそれぞれの文字で記されているため、現在の私には、前記のイラクやマスカット-オマーンの例のように年代の確定が出来ません。1枚のコインですが、歴史・文化を深く刻印されているわけですね。

 そして、大満洲國の硬貨。関東軍の謀略に起源を持つ国家の発行した硬貨、ですね。日露戦争後に、ロシアから大日本帝国が獲得した権益の防衛のために派遣された、「関東軍」と呼ばれた大日本帝国の軍隊の軍人達の謀略により「建国」された国家の貨幣が、今、ここにあるわけです。
 同じ軍隊の軍人達は、満洲國の「建国」に飽き足らず、やがて盧溝橋事件をきっかけに中華民国正規軍との戦闘状態を拡大し(支那事変)、そのことから米国との外交関係を悪化させ、ついには真珠湾攻撃による対米英戦争の開始(大東亜戦争)に行き着きます。
 しかし、20世紀の戦争を戦い抜くには戦術的にも戦略的にも未熟な上に、兵器のみならず戦略物資の確保も出来ぬまま開戦に踏み切った結果(当然の結果として)、ポツダム宣言の受諾という形での事実上の無条件降伏に至ることになります。
 ここに、大日本帝國は亡国の時を迎え、その出先軍隊の謀略の産物としての満洲國も消滅の時を迎えました。
 満洲國が真に五族協和の国であったなら、その国民自らが国家防衛に当たったことでしょう。現実には、侵入してきたソ連軍に抵抗する満洲人の姿はなく、それどころか満洲防衛を任務としていたはずの関東軍が居留民(日本国内からの移住者)より先に逃亡したのが実態でした。
 以前に、新正卓写真展のところで記した「中国残留孤児」の悲劇、そして「シベリア抑留」もそれに付随する出来事でした。

 1枚のコインから、ある国家の「亡国」の姿までが蘇ります。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/01/04 23:27 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/17322/user_id/316274

 

 

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自虐とプライド、そして歴史 (現代史のトラウマ 14)

 

 自虐史観、という言い方がある。

 もう一つよくわからない話なのである。

 自虐史観。ではその反対は何なんだ、逆は何なんだ、と私が考えてしまうからだろう。

 他虐史観ということなのか?
 それとも自尊史観、自慢史観、自賛史観とでもいうことになるのだろうか。

 どうも私の思考回路は、そんな方向に考えを進めてしまうのである。

 そういうことでは、多分、ないのだろうなぁ、とは思う。

 しかし、自虐でなければ他虐ではないのかなぁ。
 自虐でなければ、やはり、自尊、自慢、自賛ではないのかなぁ、と思ってしまう。

 他虐、つまり、他を貶めることで自らの位置を引き上げる、つまり、自尊、自慢、自賛ということではないのか、と我が思考回路は考えを進めてしまうのである。

 どっか違うのだろうか、考え方が。


 自身にひきつけて考える。
 ミニマムな歴史としての我が人生、これまでの行為とその結果、経験の総体を思い起こす。記憶に残る、我が経験の総体としてのこれまでの人生を思い起こしてみる、わけだ。

 まぁ、お恥ずかしい話ばかりで、他人様に語るようなことはない。

 その中でも、ダメージ体験、自分がヒドイ目にあったと感じられるような出来事を思い起こす。
 大抵は、自ら招いたこと、我が愚かさの報いでしかない。
 いまだに愚かであることには変わりはないので、下手をすれば、二の舞三の舞が待ち受けているだけだ。しかし、少なくとも、原因の一端が自分にある以上、その自覚がある以上、繰り返しを避ける手立てもないわけではない。
 他人のせいにしておけば、自分の愚かさを自覚する必要はなく、利口だと思っていられるのだろう。
 しかし、それでは、同じ過ちを何度でも繰り返すだけのこと。何度でも、何事でも、他人のせいにしておけば済むことなのかも知れないが、それは経験から何も学ばない、学べない自分を永遠に存在させることを意味してしまう(といっても死ぬまでのことに過ぎないわけだが)。
 いずれにせよ、大したことのない自分である。それで十分と思っているのである。他人を貶めて、相対的に自分の位置を高めて、自分の方がエライと思うことの必要を感じない。そんなことは、なんか浅ましくてみっともないことなんじゃないかとさえ思う。

 …とミニマムな歴史としてのこれまでの自分を振り返ってみる。


 自虐史観、問題とされているのは国家の歴史、大きな歴史だ。
 「自存自衛」のための戦争を決断し、戦い、敗北した。大日本帝國は歴史から消えた(自衛出来ず、存在を失った)。開戦を決断し、戦争を指導し、国家を敗北の窮地に立たせた政治的軍事的指導者が占領軍による報復的裁判で死刑に処せられた。
 その一連の過程を、自らの責任として受け入れずして、対戦国のせいにして、何が得られるのかと思う。敗戦を、言葉通り「負け」として受け入れること。敗戦に至る国家の歴史を直視し、その過程を他国のせいにするのではなく、自国の政治的・外交的・軍事的失敗としてしっかり受け止めること。
 必要なのは、歴史に対するそのような態度であると思う。それは自虐ではない。他虐でもなく、自存、自慢、自賛でもなく歴史に向かうこと。
 国家の歴史、大きな歴史を前にしても、未来を開くのはそのような態度であると思う。

 プライドというのは、自分の方がエライと主張すること、自分は決してマチガッテナイと主張することで表現されるのではないのではないか。尊敬されるのは、過ちを犯したら改めることの出来る人間の方なのである。
 別に尊敬されなくてもよいが、私にとって、プライドとは、そのようなものなのである。そういうものではないのだろうか?

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/12/10 21:48 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/14063/user_id/316274

 

 

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ネコとフニャフニャしたお陰で現代史のトラウマにかわり小さな希望が書けたような日記

 

 今日で、freeml 参入47日。日記も47日目となる。

 土日と祝日は、あの「いぢわる日記」(いつの間にやらそう呼ばれるようになってしまっていた)シリーズはお休みにして、「現代史のトラウマ」と題するものを書くか、どうでもいいようなことを書く日とするか、となってからも数週間が過ぎたことになる。

 この3連休も最後の1日、今日くらいはトラウマシリーズと行きたいところだったのだが、もう一つ力がみなぎってこない。

 このところ、忙しい日々が続き(ただし当人比)、その後の一段落フニャフニャの日々も含めて、ニュースに接していなかったのが、その要因のような気もする。
 自分のこと(仕事含む)で忙しかったり、ネコに腕枕してフニャフニャした日を送っていれば、世の中に腹を立てることもなく、その意味では平穏な日々が送れますよ、ということなのだろうか。

 トラウマシリーズの原動力は、腹立ち、怒りだったということですかね。個人的なこと(私的なこと及び仕事上のこと)ではなく、世の中に対する怒り、世界に対する怒り、腹立ち、ということ。
 まっとうに怒ること、を追い求めて来た、のであると自分では思っております。つまり、誰かのせいにするのではなく、自らの問題として事に当たるということ。

 マジョリティーの問題を取り上げてきているのも、自らをマイノリティーの側に位置づけながらも、しかし実際には自分がマジョリティーの側の人間として見られなければならない一人でもあることを自覚すればこそのことでもある。「マイノリティーとマジョリティーの間」(10月22日)でそのことを書いた。
 誰かのせいにはしないこと。自分が常に正しいのではないことをすべての前提とすること。そして、たとえ自分が被害者の側にいようとも、実際に自らが被害者であったとしても、自分の側に正義があるとは思わないこと。
 加害者は、自分に対して不当なことをした(ので加害者と呼ぶ)のは確かなことであるにしても(もっとも、この事実関係さえ検証されていないことも多いが)、自分の側に正義があるのではないのである。正義があるとすれば、被害者・加害者間の不均衡状態、その是正作用・回復作用としてのみ考えなくてはならないと思う。そこを見誤ると、被害者-加害者関係の逆転を正義の実現としてしまうことになる。現実に生ずるのは、被害者が正義の名の下に加害者に転ずるという事態である。実にありふれた事態である。
 ありふれているからと言って、それでよしとするわけにはいかない。人間とはそのような事態をありふれたものとしてしまうものであるということに自覚的になること。そして自らはそのような事態の再現からは距離をとること。これは、このことだけは、自分で出来ること。自分ひとりでも出来ることなのである。そして、それが、この自分に出来ることであるとするならば、他の多くの人にも可能なことという線で想像力を働かせること。あるいは、他の誰かに出来たのなら、自分に出来ないという理由を見つけることに努力するよりは、その誰かに力を貸すことをこそ考えること。

 …と、ネコとフニャフニャした日々を送ったお陰で、怒り・腹立ちではなく、少しは希望の影のある日記が書けた、ような気がする。

 読み返してみて、
 果林さんの日記:13歳犠牲少女「私を先に撃ってください」
          :「汝の敵を愛せ」る?13歳犠牲少女の世界観とは
        を念頭に置きながら書いた部分がありそうです。そちらもお読みになっていただければと思います。 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/11/05 21:43 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/8248/user_id/316274

 

 

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