文化・芸術

2009年8月19日 (水)

真昼の百鬼夜行

 

 「百鬼夜行」とは字の通りで、夜中の話のはずなんだが、真昼に「百鬼夜行」に出会ってしまった。

 

 

 東京は立川市での話(オケガワは関係ない)。

 

 

 立川から多摩都市モノレールに乗って(妖怪の世界というよりSF的乗り物だ)、次の「高松」駅で下車。(地図によれば)7分ほど歩くと、国文学研究資料館に着く。

 都市計画現実化中、というか都市計画途上というか、草が伸びる空き地が残る広い空間に格子状の広い道路、そして中層(「高層」とまではいかない感じ)の現代的ビルが立ち並ぶところまではいっていないが、やがて立ち並ぶんだろう的世界。完成したら、「鉄腕アトム」的イメージの世界になるんだろうなぁ…

…という区画にある、これもデカめのガラスとコンクリート建築。

 入り口を入ると、広い吹き抜けの空間で左右に分けられている。左が「大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館」のエリア。右側は、南極観測関係のナントカ法人だかナントカ機構だかが占領していた。

 

 このあたり一帯は、東京都心が地震で壊滅した時に国家の中枢機能を移転させる、という構想で整備されているらしいのだが、「立川断層」の真上に位置しているというウワサもあったりする場所だ。地震でどうなるのかは知らないが、基本がSF的「近未来」空間…と言ったって、とっくに21世紀なんだけどね。

 

 

 で、国文学研究資料館で開催されているのが「人間文化研究機構連携展示 百鬼夜行の世界」展なのだ。

 久しぶりに家族全員揃う時間が出来たので、観に行ったわけ。と言っても、夕方から仕事が入っていたので、規模の大きな展示ではないだろうという予測があればこその展観だった(会場はここだけではなくて、国立歴史民俗博物館でも連携展示をしているというスタイルだし)。

 

 

 実際、広い会場ではない(展示会場は、国文学研究資料館全体のほんの一部なのだ)ので、展示点数も多くはなかったけれど、中身は充実していた。あらためて会場で配布されていた「出品目録」でチェックすると(「図録」の方だと、2会場の両方が記載されているので)、展示総数は36点。江戸期を中心に、絵巻もあれば刊本もありの、各種の「百鬼夜行図」に出会うことが出来る。元ネタがコピーを通して展開していく姿も面白い。

 

 「freeml」的(?)には、京都市立芸術大学芸術資料館蔵の、江戸時代後期の『付喪神絵詞(つくもがみえことば)』が興味深い。行列の中に、タヌキだのイタチだのの姿を発見出来るのだ。

 展示品の中に、寛永20(1643)年刊の『仏頂尊勝陀羅尼』があって、この中に「妖怪」除け(?)の呪文が紹介されていたのだが、出品目録では「参考品」となっていて「図録」への掲載がない(会場となった「国文学研究資料館」の所蔵品だった)。なので、ここで再現出来ないのだ。残念な話である。

 それでも「図録」には、「百鬼夜行」を避ける歌の紹介はある。藤原清輔の『袋草紙』によれば、

  堅石やつかせせくりにくめるさけ 手て酔ひ足酔ひわれ酔ひにけり

というのだが、効果の程は…

 

 まぁ、いずれにしても、夜中でも街頭が道を明るく照らす世界では、「百鬼夜行」は出来ませんなぁ…

 真昼の妖狸には悩まされるけれど…

 

 

 

 駅近くに戻り、小さなビルの小さなフレンチの店でランチ。そのビルのほとんど隣が、オタクの殿堂の「フロム中武」。

 寄ると散財するので、駅上の「山野楽器」まで我慢してCDコーナーで散財、のつもりだったのだけど、アニメ関係ショップ狙いの娘について、「フロム中武」の中へ…

 こちらは古銭・コインの店狙い。

  大正2(1913)年 大日本 10銭

  1961-1971 タンザニア 5シリンギ

  1974-1977 アルジェリア 5(ディナール?)

  1975年 パナマ 10(センティノス?)

  昭和51(1976)年 日本国 100円(天皇陛下御在位50年)

  1993年 チェコ 2コルナ

 大正2年は、母の生年。1993年は、娘の生年。家族の生年の各国コインの収集、というのがコレクションの基本(カネがかからない)。

 もう一つが、今はない国、あるいは国家体制、権力者が変る前のコイン(これも、カネがかからない)。

 今回は記念硬貨らしきものが3種(タンザニア、アルジェリア、日本国)。タンザニアは独立10年。アルジェリアは(今のところ)内容・意味不明。日本は読んでの通り(ケース内に記念切手も付属していた)。  

 

 同じフロアで、なんと「古書市」開催中。

 会場内に入ってはいけない、と思いながら、会場の外の台上の本を…

 うわっ! 戦前の岩波新書が…

  小堀杏奴編 森鴎外 『妻への手紙』 (岩波新書17 昭和十三年十一月 ただし昭和十六年六月の6刷) 50銭 250円

  B・M・チェムバレン 『鼠はまだ生きている』 (岩波新書32 昭和十四年四月) 50銭 300円

  笠間杲雄 『回教徒』 (岩波新書33 昭和十四年四月) 50銭 300円

  天野貞祐 『学生に輿ふる書』 (岩波新書45 昭和十四年八月 ただし同年十月の2刷) 50銭 購入額不明(値札脱落 - 以下、同じ理由による))

  山本有三 『戦争と二人の婦人』 (岩波新書47 昭和十四年九月 ただし昭和十五年十一月の3刷) 50銭 250円

  芦田均 『バルカン』 (岩波新書55 昭和十四年十二月) 50銭 購入額不明

  安田徳太郎 『世紀の狂人』 (岩波新書58 昭和十五年三月) 50銭 250円

  西田幾多郎 『日本文化の問題』 (岩波新書60 昭和十五年三月) 50銭 350円

  J・ハックスリ A・ハッドン 『人種の問題』 (岩波新書69 昭和十五年七月 50銭 300円

  許広平 『暗い夜の記録』 (岩波新書215 昭和30年9月) 100円 購入額不明

  A・L・ストロング 『チベット日記』 (岩波新書416 1961年5月) 130円 300円

  ジュール・ロワ 『アルジェリア戦争』 (岩波新書421 1961年6月) 100円 150円

  何長工 『フランス勤工倹学の回想』 (岩波新書956 1976年2月) 230円 100円

  村上重良 『天皇の祭祀』 (岩波新書993 1977年2月) 280円 150円

…を買ってしまう。3000円ちょっとだ。
 

 『妻への手紙』の巻末には、「岩波新書を刊行するに際して」と題された岩波茂雄の有名な(?)言葉は載せられていない。『鼠はまだ生きている』の方には掲載されているのだが、あらためて読んでみるとビックリ、

  天地の義を輔相して人類に平和を輿へ王道楽土を建設することは東洋精神の発露にして、東亜民族の指導者を以て任ずる日本に課せられた世界的義務である。…

…なんて言葉で始まっているのだった。

 そして末尾は、

     昭和十三年十月靖国神社大祭の日

となっているのだ。あの「岩波新書」と「靖国神社大祭の日」の組み合わせである。

 

 やはりオリジナルには価値がある。

 本や論文に、当時の岩波新書からの引用があっても、この巻末の岩波茂雄の言葉を読む機会はない。

 

 値段の変化、出版年の表記が元号から西暦へ変った事実。本文以外のところも、なかなかに見所がある。

 

 

 結局、古銭と古本で5000円ほどの散財。

 まぁ、お安いお楽しみである。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/18 21:43 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113552

 

 

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2009年8月11日 (火)

無敵のデリダ 劇団無敵旗揚げ公演潜入記

 

 

 デリダの子供がガタリ。デリダの弟子がドグマ。ドグマの部下がフーコーとバルト。

 
 

…というのは、劇団無敵旗揚げ公演、そのタイトルは『清潔』の中での設定。

 

 「劇団無敵」は、「劇団むさび」の役者にして演出家にして劇作家でもあった金城孝裕が、新たに立ち上げた団体だ。その「旗揚げ公演」が高円寺の明石スタジオであり(今日まで)、家族で楽しんで来た。

 明石スタジオ、20年ぶり(いやそれ以上?)、という感じだ。若干、閉所恐怖症の気味があるので(あくまでも「若干」だが)、小劇場系の公演に、自分から出かけるということはない。つまり、その時々の友人関係(恋人関係?)が、私を小劇場まで引きずり出すのである。今回は、家族関係に引きずり出された、ということになるだろうか? 娘がカネシロファンなのである(これまでにも何度か書いたと思う)。

 
 

 芝居自体について詳しいことを書くのはメンドーなので、とりあえずシチュエーションの中で、こちらに響いた言葉を書き残しておきたい。

 
 

  医学は反自然だ

 

という意味のセリフ。

 つまり「治療」は「反自然的行為」なのである。

 デリダは外科医。ガタリは医学部を目指すデリダの息子。ドグマは、デリダの(不肖の)弟子。 …というシチュエーションの中で、その言葉が、何度か吐かれる。

 これ、「老眼と自己決定」シリーズ(「現代史のトラウマ」の、だ)のテーマとなりつつある問題だ。輸血も人工呼吸も「反自然的行為」なのだ。もちろん、脳死臓器移植は「反自然的行為」の極みだろう。
 (→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-1cec.html

 もっとも、劇中では、医学的な文脈が、天文学的な文脈とシンクロするものとしても描かれている。「反自然」であるはずの「医学」の深奥の秘密は、「自然」である天体の運行に支配されているわけである(あくまでも芝居の中での話だが、それが、動脈、静脈、包帯の赤青白と、月蝕状態の月の赤、地球の青、太陽の白のイメージを用いて説明されていたことは書き残しておこう)

 振り返ってみれば、医学のモチーフの上に進行するストーリーには、もう一つ「人力飛行」という、これまた「反自然」的モチーフが重ねられていたのだった。飛行もまた、反自然ではあるが、自然の原理(物理的原理)に拠ることにより可能になる技術であろう。

 

 「医学」を究めようという欲望に突き動かされ、患者の利益などまったく考えることのないデリダ以下の集団と、「人力飛行」に賭ける仲間が、医師と患者の関係を通して出会ってしまう。そんなシチュエーションが生み出す、非現実的な進行の背後に現実的な問題意識も垣間見せる舞台、という括り方も乱暴ではあるけど、「武蔵野美術大学競技ダンス部」の「協力」も得ての躍動感あるステージに出会えたわけだから、「閉所恐怖症(ただし若干)」を克服(?)して出かけただけの甲斐はあった、と言うことにウソはない。

 
 
 

…と、ここまで書いたのを読み直して、前回の金城作品である『アケオメスト』(劇団むさび公演)のモチーフも、未知を既知へとすることへの努力というか欲望であったことを思い出した。

 「もっと先が見たい・知りたい」という欲望、である。

 今回は、その対象が医学であり、もっと完璧に空を飛びたいという欲求であった。妻が設計した人力飛行具の操縦者として、夫は墜落し、結果として命を失う。墜落した夫の搬送先で、その夫の救命に失敗するのが医師ドグマなのであった。

 

 金城作品のこの先を観たいし、知りたいしという欲望に突き動かされ、小劇場の閉所的空間に足を運ぶことになる。

 どうもそんな未来が待ち受けていそうである。

 
 

 相手は「無敵」なんだから、抵抗はムダなんだろう…

 

 最後になったが、デリダを演じていたのはカネシロ本人であった。

 
 
 
 
 
 
註 : 「反自然的行為」としての「医学」に言及した文章として、ここに採録しておくことにした。

 

 

 

 
 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/09 23:33 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/112628

 

 

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2009年7月21日 (火)

「文明賛歌」と「たぬき汁」

 

 まずは小田急線の「成城学園前」駅に向かう、というのが本日のスタート(まぁ、午前中はウダウダしていたので、正午過ぎての「スタート」ではあったが)。

 世田谷美術館分室清川泰次記念ギャラリーで開催中の展覧会「文明賛歌 清川泰次が写したマシーン・エイジ」を観るのが目的。

 

 娘と成城学園前の駅に着いたのは既に午後2時近い時間。まずは昼食をということで、途中のケーキ屋さんらしき店に立ち寄る。キッシュにクロックムッシュで、とりあえずのお昼ごはん。ギャラリーは、そのちょっと先の路地を入って行った所にあった。

 清川氏がご自身の住居兼アトリエとして使用していた建物の内部に、区民ギャラリーと清川氏の作品展示室が作られている。

 

 

 

 

 今回の展示は、案内の文章に、

 輝かしい未来が機械文明と共にあると信じられた時代へ捧げられた、青年からの賛歌

とある通りの、1930年代日本の鉄橋や機関車や街並みの写真で構成されている。学生時代の清川氏が趣味として撮影したものが中心となっている。

 つまりアマチュア写真ということになるのだろうが、それが、まさに時代の写真なのだ。マーガレット・バーク・ホワイトだったりロドチェンコだったりの作品を思い浮かべて欲しい。まさにあの世界が、1919年生まれの慶応ボーイにより残されているのである。

 もっとも、その輝かしい世界は、1940年代の戦争により、日本では灰燼に帰するわけだ。1945年に撮影されたとおぼしき焼けた街並みと駅舎の写真が、その後の日本が辿った歴史を物語っている(後で受付の方に確認したところでは、撮影データが不明で、残念ながらどこの駅なのかはわからない、ということであった)。

 

 展示法が面白いというか見事だった。10枚くらいずつの写真を、当時のグラフ雑誌の誌面のようにレイアウトして、壁面にピン止めしているのだ。90センチ×120センチくらいで一つの画面としたものが、8(あるいは7)画面。ピン止めだけという安価な方法でありながら、レイアウトの構成で、空間の緊張感が作り出されている。

 

 

 

 

 
 

 3時過ぎにギャラリーを辞して、駅の反対側にある母の実家に向かう。10数年ぶりのはずだ。娘はまだ訪れたことがない。

 今回は訪問が目的なのではなく、娘の祖母が若い日々を過ごした家の所在を覚えてもらおうと思ったからだ。

 別に親戚同士、仲が悪いというわけじゃぁない。室内の片付けという作業をしていないに違いないことを承知しているので、突然の訪問は遠慮するのである。

 道を間違えて、20分もかからないはずの道のりに、小1時間もかけてしまったが、暑さがそれほどひどくもなかったので助かった。

 到着後は、玄関先の母の旧姓が書かれているポストの前で娘の姿を撮影。まぁ、夏の街を1時間近く歩かされた後なので、表情がひどい。結果として20分ほどかけての撮影ということになる。今後は演技力を身に着けて欲しい(と注文をつける身勝手な父)。

 

 とりあえずこれで、母(娘にっとっては祖母)の住んでいた家も見たし(といっても建物は改築されていたけど)、ということで駅へと向かう(それが4時半過ぎ)。

 しかし、祖父母(娘にとっては曽祖父母)が存命だった頃とはまったく違う街並みとなってしまっている。相続税の関係だろうが、複雑な思いがする。バカ息子が親の相続財産の広い屋敷で安楽な生活をするというのも実に問題だと思うのだが、相続税対策の結果としてゆとりある街並みが壊れていくというのも、なんとも文化として貧困なものだと思う。

 

 駅近くなって、「キヌタ文庫」という古書店を発見。以前にも一度訪れ、収穫を抱えて帰った記憶がある。娘も、喜んで立ち寄りましょうモード。

 購入本は、

 佐々木輜重兵大佐 『兵站勤務の研究』 偕行社 昭和7(1932)年  2000円

 佐藤垢石 『随筆 たぬき汁』 墨水書房 昭和17(1942)年  700円

 カール・ヤスペルス 著 森 昭 訳 『独逸的精神 マクス・ウェーバー』 弘文堂 昭和17(1942)年  200円

 総合インド研究室 編 『印度の民族運動』 総合インド研究室 昭和18(1943)年  500円

 木村喜久弥 『ネコ その歴史・習性・人間との関係』 法政大学出版局 昭和33(1958)年  400円

 高群逸枝 『日本婚姻史』 至文堂 昭和38(1963)年 200円

 細川護貞 『細川日記 上下』 中公文庫 1979年(ただし1991年の3版)  480円

 藤岡明義 『敗残の記 玉砕地ホロ島の記録』 中公文庫 1991年 300円

 エマニュエル・ウォーラーステイン 『アフター・リベラリズム』 藤原書店 1997年  1300円

 『MUSICAL INSTRUMENTS OF THE WORLD』 PADDINGTON PRESS LTD 1976年  1800円

 『中国楽器図誌』 (中国の書籍で、出版社名が簡体字なので表示不能) 1987年  800円

 

 

 『随筆 たぬき汁』は、かつてネット上から引用した文章の原本(→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/91911/)。こんなところでめぐり合おうとは!!

 『兵站勤務の研究』の表紙には、「日本将校ノ外閲覧ヲ禁ス」と書いてある。

 他に娘の欲しがった文庫本を合わせて9800円の散財。

 娘は、昨日は一人で近所の大型古書店(例のチェーン)を2つめぐったらしいが、品揃えの違いに大喜びであった。これぞ正しい古本屋の姿であろう(値段に関しても、ウォーラーステインなんかチェーン店だと定価の半額というパターンで2400円のはずだ)。

 

 駅近くのコーヒーショップで一服。娘の母(仕事である)と連絡を取り、地元の駅で合流することに決定。

 7時半近くに地元駅到着。駅上の書店で合流。ここでまた余計な本を買ってしまった。

 『現代思想 7 (特集 人間/動物の分割線)』 青土社 2009 
 田中克彦 『ノモンハン戦争  モンゴルと満州国』 岩波新書 2009

 そんな荷物を増やして(家族それぞれに、だ)、階上のレストラン街で食事。自宅に帰り着いたのは9時近く。

 
 
 

 暑い中、充実した一日だった、ように思う。

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/07/20 21:30 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/110606

 

 

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2009年7月13日 (月)

LACHRIMAE 介護のエンディング (老眼と自己決定 番外編)

 

          LACHRIMAE

 

 ラテン語で「涙」を意味する、はずである。

 

 

 母を亡くしていることは、何度か書いたと思う。

 

 彼女は、88歳の日々を、肺癌患者として、寝たきり状態で過ごすことになった。

 往診に訪れたかかりつけの医師から、「余命数週間」との診断を伝えられたのが2001年の1月29日のことだった。

 医師が帰った後、母のポートレートを撮影した。「遺影」用に、である。

 前年の10月の検査入院の際に、癌の部位が心臓に接していて「かなり危険」なことを病院の当直医から聞かされ、退院後は毎日、母の姿を撮影するようにはなっていた。話が前後するが、1999年の後半から微熱が続くなどの体調変化に見舞われ、癌の診断を受けたのは、その年の暮れか翌年の正月のことだ。そのことは本人にも伝えてある上での、その後の出来事である。

 

 やがて訪れる死を前提にして、毎日、母(と家族の姿)を撮影する。そんな日々の中で、往診の医師からの「余命数週間」という言葉は、「やがて訪れる死」という言葉の切迫度を高めるものとなったわけだ。

 

 丁度、私の仕事が春休みに入ることもあり、母を入院させるのではなく、自宅での介護という選択をした。4月にはすべてが終わっている、と思ってのことである。桜の咲き誇る下での葬儀となれば上等だなどと考えていたくらいだ。

 そして、新学期からは仕事に復帰する。

 

 そう考えていたのだが、介護の成果なのか、4月に入っても母は存命であった。以後、仕事を休んでの介護の日々が始まる。

 介護保険の発足と重なり、それ以前の家族介護が置かれたであろう状況に比べれば、かなり恵まれたものとはなったはずだ。しかし、相手は回復の可能性の存在しない家族である。嚥下困難により、食事の楽しみさえ失ってのことだ。

 彼女の生の存続は、もちろん息子としての私、そして私の家族の喜びである。しかし、寝たきり状態という当人にとってもつらい状況での生の存続でもある。88歳ということは、十分に老人であることを意味し、その上での肺癌は、回復というエンディングへの希望を断つものなのである。

 エンディングは彼女の死以外になく、それは彼女の苦しみからの解放の時でもある。それは、つらい状況の終了ではあるが、しかし、彼女と家族が共に過ごせる日々が断たれる時をも意味するのだ。

 しかし、しかしその上に、終わりの見えぬ介護というつらい日々からの解放を、私には意味することにもなる。そこでは介護の日々からの解放をもたらすのは、彼女の死なのである。

 

 心理的には、少なくとも私の心理の問題としては、ハッピーエンドへの希望を持ちえない日々だったように思える。

 彼女の死は望まない。しかし、彼女の死がすべての問題を解決する、という考えを否定することも出来ない。

 私自身にとって、うれしい認識ではない。

 付け加えれば、介護のために仕事を休んでいるということは、その間の収入がないことを意味するし、介護には金がかかるのである。介護の継続は、経済状況の絶対的な悪化も意味するのだ。

 

 

 そんな毎日ではあったが、その中で、必ずその日の母の姿を撮影することは続けていた。

 3月に彼女は88歳の誕生日を迎える。当然、その日の姿を撮影した。その1ヵ月後(4月)には、3月の誕生日の写真と彼女を1枚に収めた。その1ヵ月後(5月)には、4月に撮影した3月の誕生日の写真と並ぶ彼女の姿を撮影する。それを一ヵ月ごとに繰り返す。彼女の生の存続の証しである。「余命数週間」が一ヶ月ずつ延びていく様が、一枚の写真に収められるのだ。

 まぁ、そんな楽しみ(?)も交えながら、毎日、肺癌で寝たきりとなった老人の姿を撮り続けた。

 

 介護の日々の心理的にストレスフルな状況については、先に書いた通りだが、撮影用のライトをセットし、カメラを構え、彼女と向き合う時間。それは「介護の時間」とは別の時間の流れを、私と母の間にもたらすものとなった。その間だけ、私たちは写真家とモデルになるのだ。

 カメラを持つ習慣、シャッターを切る習慣も捨てたものではない。介護という関係性は、その時だけは、私たちの間からは消えたのである。

 

 

 

 2002年1月3日に突然訪れる彼女の死までに、数千枚の写真が残されることになる。

 

 

 その中から48枚を選び、2冊のアルバムにまとめた。彼女の友人・親戚も、彼女同様の老人であり、見舞いにも来られなければ葬儀にも立ち会えなかった方々がほとんどだ。彼女の最後の日々を、写真を通して共に過ごしてもらえればという思いでセレクトした48枚であった(枚数はアルバムのフォーマットに規定されている)。

 彼女の親戚・友人達へ届けるためのアルバムのタイトルとして選んだのが「ラクリメ LACHRIMAE」である。

 1604年に出版されたジョン・ダウランドの曲集のタイトルにちなんだものだ。介護の日々、私の中を流れていた音楽。

 

 

 

 

 書き始めたら長くなってしまった。仕事先で私を見知っていた学生から、私をネタに展覧会をしたいという話があり、かつての母の写真を見せたら「それで行きましょう」的展開になってしまったのが、今夜のお話の発端。

 学生にタイトルの由来である「LACHRIMAE」の実際の演奏を紹介しようと思って、「YOUTUBE」を利用して見つけた画像を紹介するだけで終えるつもりが、説明を始めたら長い話となってしまったというのが事の真相である。

 さて、学生にメールで紹介したのは、

J. SAVALL · Hespérion XX · "Lachrimae Antiquae" · Dowland
 → http://www.youtube.com/watch?v=LCfhqh0u20c

STING & EDIN KARAMAZOV (LUTE) - ST LUKES CONCERETTE PART 1
 → http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=ljQDTLUDWC0&feature=related

の2つだったのだが、後になってから、

Jordi Savall, Hespèrion XXI - Lacrimae Pavan, J.Dowland (1563-1626)
 → http://www.youtube.com/watch?v=g2uA4msplTg&feature=related

を発見。サヴァールのライヴ映像だ。

 スティングのヴォーカルによる「Flow my Tears」も好きだけど、

Alfred Deller performs Dowland's 'Flow my Tears'.
 → http://www.youtube.com/watch?v=85C1jX0P28k&feature=related

このデラーも名演だと、久しぶりに聴いてあらためて思った。これ、LPは持っていたはずなんだけど…

 最後に、

Flow My Tears - Jim Moray
 → http://www.youtube.com/watch?v=40bv3m9I7dM&feature=related

やるじゃありませんか…

 

 

 

註 : 私自身の死生観の背景の理解につながると思い、「老眼と自己決定」の「番外編」として、ここに収録することにした。

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/07/12 22:07 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/109862

 

 

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2009年6月21日 (日)

Inside-Out 1と0の為に

 

 井上廣子さんの、「窓」をテーマにした写真展のタイトルが「Inside-Out 1と0の為に」、である。

 

 武蔵野美術大学内のギャラリー「apmg」で開催中だ(6月26日まで)。先日のオープンキャンパスの際に、パートナーと観たのが最初(昨日も、再度訪れたことは既に書いた)。

 

 

 会場内の照明は、ほとんどない。床にランダムに置かれたライトボックスに、作品が浮かび上がっている。室内から、窓を通して見える外の風景。

 ベッドや洗面所の向こうの窓。カーテン越しの外の光景。室内の光と、外の光のバランスが美しい。

 

 

 窓とは、そもそも、室内と室外の間にあるものだ。壁に窓を穿つことにより、室内は閉鎖空間から、外部へとのつながりある空間へと変貌する。

 寒冷地では、板ガラスの登場・普及以前の窓は小さく、外光あふれる生活は望みえなかった。大きな板ガラスの製造技術が、開放感ある室内をもたらしたのである。

 しかし、窓に鉄格子がはめられていたら?

 

 つまり、井上廣子の写したのは、そのような窓なのである。

 大きな窓のある室内。つまり、外の光景も十分に取り入れられた、外光あふれる室内である。しかし、その部屋は、鉄格子により外部から隔てられているのだ。

 

 

 撮影地は、オットー・ワグナー精神病院、ベーリッツ療養所、県立岡山病院(現・岡山県立精神科医療センター)、ベードブルグ・ハウ精神病院…、と続く。

 精神病院以外にも、老人施設や少年院などの隔離施設が撮影の対象となっている。

 

 窓が存在しながら、外部とのつながり以上に、外部から隔てられた場としての室内であることが、写真を見ているうちに理解されるだろう。

 

 

…なんて書いているが、すぐに気付いたわけではない。パートナーの方がすぐに気付き、指摘してくれたのだ。ウチのパートナーは精神科関連業界人なのである。

 要するに、私のような素人(?)には、すぐに気付くことは出来ない情景の要素なのだが、プロにはピンと来るということなのだろう。病院や、老人あるいは障害者関連施設の光景であるらしいことまでは、私にも想像がついたのだが、プロの目はその先まで見抜いてしまうようだ。

 

 実際のところ、鉄格子といっても、昔の監獄のイメージからは遠いものだ。大きな窓に、デザインされた細い格子状のフレームが取り付けられている、ようにも見えるのである。

 

 

 いずれにしても、室内の人間を外部から遠く隔ててしまうものが、窓の外のフレームなのだ。

 外部である社会から、室内の人間を護るということである以上に、室内に人を隔離することにより、外部の社会を護るという発想が、そこには存在するだろう。

 しかし、社会は十分に凶暴であり、弱者としての障害者が、その凶暴な外部から護られることも必要事ではある。

 外部には自由があるかも知れないが、必ずしも安全ではない。しかし、隔離され、拘束されることもまた、人間にとって好ましい状態ではないだろう。自由を奪われた場所で保障される安全な生存を人は望むものだろうか?

 

 もっとも、外部である社会に生きる人間達も、それほど自由であるわけでもなく、身の安全のためには行政権力による日常生活への管理・統制を望んでいるようにも見える。

 

 私たちは、本当にあの窓の外部にいるのだろうか?

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/06/21 20:58 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/107761/user_id/316274

 

 

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2009年5月 6日 (水)

やなぎみわ マイ・グランドマザーズ

 

 今夜も、映画『靖国』の話題を続けるつもりだったのだが、それは明日にして、今日のことを書いておきたい。

 
 
 

 体調回復した娘も一緒に、雨の中、東京都写真美術館まで出かけた。

 目的は、

「夜明け前 知られざる日本写真開拓史Ⅱ 中部・近畿・中国地方編」 

「やなぎみわ マイ・グランドマザーズ」

の二つの展覧会。

 

 
 
 

 まず3階展示室の「夜明け前」から。

 

 タイトル通りの内容である。幕末から明治中期くらいまでの写真と撮影具(つまりカメラ)の展示。

 これが面白い。堆朱仕上げのカメラなんて、工芸品である。しかもセッティングのお陰で、カメラボックス内のピント面の画像(もちろん反転している)を見ることが出来る。

 露光に時間がかかるから、撮影とは、写真家にもモデルにも「忍耐」であったろう。

 そんな時代の写真を見て来たわけだ。

 

 肖像写真というジャンルは、そのような写真家とモデルの共同作業の産物なのであった。もっとも、それまでに存在したのは肖像画であり、そもそもモデルは絵描きを前に、じっと我慢を強いられていたわけだ。と言っても、日本に肖像画の伝統があったわけでもない(支配階層のトップ以外に)。

 やはり、カメラの前でじっと時を過ごすというのは、この時代の人間達が初めて経験する時間のあり方だっただろう。しかもその結果、鏡を見る以外に手段のなかった自分の姿との対峙を経験することになる。初期の写真のポーズのぎこちなさを支えているのは、写真家にとってもモデルにとっても未経験の世界であったという事実だろう。

 

 そんな写真を見ながら考えたのは、ここに写されているすべての人間が、老いも若きも、男も女も、みんなとっくに死んでいるのだ、ということだった。

 そこには、赤ん坊もいれば老人もいた。その時点での年齢差も記録されている。しかし、その時点での年齢差を越えて時は流れ、皆が既に亡き人になっているのである。

 実は先日、ジガ・ヴェルトフの1929年のフィルムである『カメラを持った男』のDVDを観ていて、サイレント映像(DVDではマイケル・ナイマンの曲が付けられているが)の中に生き生きとした姿を残した人々の全員が故人となっているのだろうな、なんてことを考えてしまったのだった。

 スチールとムービーの違いはあるが、過ぎ去った出来事が、過ぎ去ってしまった人々の存在が、記録として残されていることの意味、と言うより残されてしまったことが生み出してしまう意味を考えてしまうわけだろう。

 

 残された写真を通して、映画を通して、過去に生きた見ず知らずの人々を、見知ることになるわけだ。写真以前、映画以前の世界では想像もつかぬ経験を、私達はしていることになる。

 

 その上で、おびただしい死者そのものの姿を記録として残したのが20世紀であった。見ず知らずの人々の死体となった姿を見知るという経験。21世紀に、何か変化はあるだろうか、ありうるものだろうか?

 
 

 

 2階展示室の「やなぎみわ マイ・グランドマザーズ」は、作られた写真である。

 

 チラシの文面には、

 

このシリーズは、若い女性が思い描く50年後の自分の姿を作り上げたものです。背景、服装、表情にいたるまで、作家と被写体が対話を繰り返しながら生み出した作品には、現実と想像が織りなす濃密な時間が流れています。本展で初公開となる新作も展示します。様々なグランドマザーとの対話をお楽しみください。 

 

と書かれている。

 被写体(モデル)は、皆、年老いた女性の姿だ。やなぎみわにとっての想像上のグランドマザー、あるいはグランドマザーとなった想像上のやなぎみわ? じゃなくて、モデルそれぞれのグランドマザー、あるいはグランドマザーとしてのモデルだった。

 それぞれの写真自体が力強く、それだけで存在感があるのだが、そこに付けられたキャプションを読むと、それぞれの写真にはストーリーも用意されていることがわかる。それぞれが、ある物語性を秘めた時間を定着したものであることが観る側にも理解される。写真自体の力に加えての物語性。

 その上で、観客としては、それぞれの撮影の状況などまで想像してしまう。

 一枚の写真がそれだけで語ってしまうこと。そこに、写真家側が用意した物語性を重ね、観る側の勝手な想像までが重ねられる。

 写真を見ることとは、そのような出来事であり得るのだ。

 

 ところで、このような完全に作り上げられた写真こそが、写真の歴史の初期を特徴付けるものでもあった。

 まず写真は絵画の代替物として登場したのである。しかも、長時間露光の必要は、現在の写真へのイメージの根底にある「瞬間の切り取り」を不可能事としてしまう。

 やなぎみわによる、写真の最新の姿には、写真の歴史も埋め込まれているのだ(というのももちろん、観る側の勝手の想像の一例であるわけだが)。そんな想像力が、3階と2階の展示を結び付けてしまったわけだ。

 

 いずれにしても、見知らぬグランドマザーが、見知ったグランドマザーへと転換され、やなぎみわの伝える物語は、見た者それぞれの物語へ織り込まれていくのである。

 
 
 
 
 
 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/05/05 22:24 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/103216

 

 

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2009年4月30日 (木)

ダミニスト古本購入記

 

 世の中はゴールデンウィークということになっている。

 
 

 今日は休みを利用して、家族で展覧会めぐりの予定だったのだけれど、娘の体調がイマイチだったので、ご近所散歩の午後に変更。

 

 五月間近の陽射しの下、ブラブラと歩き出した。

 まずはケーキ屋さんでケーキとコーヒーを楽しみ、そのまま駅の方向を歩くと古本屋さんがある。

 祝日だというのに、幸か不幸か、店は開いていた。店内に入り、いろいろと買い込んでしまう。

 
 
 

  『第三十四回海軍記念日を迎へて』 (海軍省海軍軍事普及部 1939) 1000円

 

  倉田一郎 『國語と民俗學』 (青磁社 1942) 500円

 

  尾形半 『暗い廊下 -裏から見たソ連-』 (立花書房 1957) 400円

 

  アレクサンドル・コイレ 『閉じた宇宙から無限宇宙へ』 (みすず書房 1973) 600円

 

  『銃後の人々 祈りと暮らし』 (石川県立歴史博物館 1995) 800円

 

  山田規畝子 『壊れた脳 生存する知』 (講談社 2004) 300円

 
 

 以上6冊購入。店頭の紙袋の中にあった、

 

  ダンテ 『神曲 新生』 (筑摩書房 世界文学大系6 1962) 

 

  地引嘉博 『東欧の社会 ドイツとロシアの間で』 (サイマル出版会 1987)

 

の2冊は処分品ということで、なんと無料でいただいて来てしまった。

 

 母娘もなにやら買い込んでいた。展覧会めぐりの出費に比べればお安いもの、というリクツ。

 
 

 古着屋さんが開店(昨日開店らしい)していたので立ち寄る(娘が主体)。

 駅を超えて、大型古書店へと向かう。

 こちらでは、

 

  川崎浹 『権力とユートピア ロシア知識人の肉声』 (岩波同時代ライブラリー 1995) 550円

 

  安島太佳由 『訪ねて見よう! 日本の戦争遺産』 (角川SSC選書 2009) 550円

 

を購入。

 娘の母は、私の発見した、

 

  「シネマ101 第2号 特集 リュミエール」 (映像文化連絡協議会 八潮出版社 1996) 750円

 

を購入(欲しくなったらしい)。

 
 

 家路は別の道を歩き、いつの間にか出来ていた小さなギャラリー「MOGRAG(mograg …?)」で山口昌弘さんの「逝来手!展」に出くわす。帰宅してから、いただいたチラシを見たら、1986年5月1日生まれで2007年没という経歴。パワーあふれる落書き群に出会ったのだった。画面を埋め尽くすことへのエネルギーに、ある種のアウトサイダーアートを思い浮かべたりする。

 明後日が誕生日。生きていれば23歳。ああ。

 展覧会めぐりをあきらめてのお散歩が、しかし、今はなき山口昌弘さんとの出会いにつながったのだった。

 

 並びのたい焼き屋さんでたい焼き購入し、歩き食い。

 近所の大型店で、娘の靴にキャットフード、そして人間用食材を購入し、無事に帰宅。

 
 
 

 そう言えば、日曜日も似たような展開だった。昼食をチェーン店ではないハンバーガーショップで食べ(美味い)、駅の向こうの大型古書店で散在。

 購入本は、

 

  P・マルヴェッリ G・ピレッリ編 『イタリア抵抗運動の遺書』 (冨山房百科文庫 1983) 750円

 

  松本弥 『図説 古代エジプト文字練習帳』 (弥呂久 1994) 850円

 

  NHK取材班編 『プロパガンダ映画のたどった道』 (角川文庫 1995) 100円

 

  藤澤房俊 『大理石の祖国 近代イタリアの国民形成』 (筑摩書房 1997) 1500円

 

  イアン・ブルマ 『イアン・ブルマの日本探訪 村上春樹からヒロシマまで』 (TBSブリタニカ 1998) 800円

 

  内田百閒 池内紀 編 『百閒随筆Ⅱ』 (講談社文芸文庫 2002) 600円

 

  京極夏彦 『対談集 妖怪大談義』 (角川書店 2005) 650円

 

  小沢朝江 『明治の皇室建築 国家が求めた〈和風〉像』 (吉川弘文館 2008) 950円

 

 

 

 

 

 しかし、一体、いつ読むんでしょうかねぇ…

 
 
 
 
 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/04/29 21:02 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/102657

 

 

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2009年4月15日 (水)

前衛の終焉

 

    前衛派

 

  前衛派は前衛ではない。後衛である。

  元来前衛は派などという衣装をまとってはいないの

 だ。いつだって素っぱだかで孤独なものだ。

  前衛派は前衛の死体から皮をはがして身にまとい、

 それをユニフォームにする。

 

  ナンテ粋ナンデショ!

 
 

と、辻まことは『虫類図譜』に書いた。1964年の出版であるが、草野新平による「序」によれば、

 

 「虫類図譜」が最初に『歴程』誌上に現れたのは十年前の一九五四年だった。

 

ということになるらしい。

 

 「前衛」も「前衛派」も、当時はまだ、「現実」として存在していたわけだ。

 
 

 『虫類図譜』には、「前衛派」に類する虫として「亜流」も蒐集されている。

 
 

    亜流

 

  彼は羽根の能力を知らず、その形で飛ぼうとする。

 そして重力に支配されている鉛のような地上の知慧を

 羽根の形にする。重さにつぶされて歪んだ自分の脚は、

 彼にとってたくましさの自負となる。

  そろそろと渡りましょう。

  フム。俺は今自由に空を飛んでいるのだぞ。

  とても軽々とな。

  皆よく見ろ!

  落っこちたら世間のせいだぞ。

 
 

 「そろそろと」、綱渡りをする虫の姿のイラストが添えられている。

 

 「亜流」は、今でも簡単に観察出来るだろう。

 
 
 

 「前衛」であること、「アヴァンギャルド」であることはカッコイイことであったはずだが、「前衛」なんて、今では何とも古風な印象を与える言葉だ。「プログレッシヴ」だって、昔の話になってしまっている。

 
 
 

 「前衛」という語に死を宣告したのは、私の経験の中では赤瀬川原平氏であった。

 赤瀬川原平氏と言えば、1960年代の「前衛芸術」を代表する一人であろう。現代日本美術史の教科書からは外すことの出来ない人物である。

 

 その赤瀬川原平氏の著書『超芸術・トマソン』(白夜書房 1985 / ちくま文庫 1987)に登場する「純粋階段」こそが、私の中で「前衛」の終焉を告げた存在なのであった(→ http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/e/30fd4e8f7bbb0e6a235dfd503d47ca50 伝説の「四谷階段」参照)。

 
 
 

 「芸術」というジャンルの語に「純粋」という語が重ねられる。

 「純文学」なんて言葉は、今でも命脈を保っているのだろうか?

 そこに求められるのは、あくまでも芸術のための芸術である。排除されねばならないのは、商業主義であり、娯楽的要素であり、時には「政治」であった。そんな雰囲気が込められた語として「純粋」が用いられていたわけだ。「純粋」には、眉間にしわを寄せて対峙しなければならない。

 

 階段であるだけの階段。高低差を解消し目的地に導くという役割を放棄した「純粋」な階段。

 日常的意識からすれば、役立たずな階段であり、無意味な階段である。道中で出会っても、通常なら見過ごしてしまうだろう。

 

 ある日、役立たずで無意味な階段(というか役割を放棄した階段は既に階段ではないのかも知れないが)が「純粋階段」として再発見されたのである。1972年のことであった、らしい。

 それが概念として熟成し、「トマソン」と総称される路上構築物として、改めて観察の対象となり、一つのムーブメントとして記録され分類されていくのが80年代のこととなる。

 
 

…と書いて気付くのは、70年代というのが、「前衛」という語が「芸術」の世界と共に「政治」の世界でもまだ命脈を持ち得ていた時代だったのだということだ。

 四谷の純粋階段の発見は、連合赤軍による「あさま山荘事件」と、まさに同じ年の出来事であったのである。

 「政治的前衛」は自壊し、「芸術的前衛」が純粋階段を見出す時代。

 70年代が「新左翼」の自壊の時代だったとすれば、80年代は「旧左翼」の自滅の時代であった。1989年、ベルリンの壁に開いた穴は、社会主義世界を崩壊させてしまった。今や政治的前衛など存在しない。

 「現代美術」、「現代音楽」はジャンルとしては存在するのだろうが、現代人にとっては見慣れた世界の風景の一部に過ぎなくなってしまっている。最早、何をやっても、誰も驚きはしないのだ。眉間にしわを寄せての、あの「純粋」スタイルも消えた。

 

 ハプニングからパフォーマンスへと流れる行為としての芸術もまた、見慣れた光景となってしまったのが21世紀の現実だろう。誰も驚きはしない。

 
 
 

 しかし、純粋階段の発見は、新たな世界の見出し方を取り出す行為であった。

 それまでは人の視野に入ることのなかった路上構築物が、ある時以降、意味ある存在として輝き始めてしまったのである。

 無意味な(と思われていた)対象から、新たに意味を見出す行為。そこにこそ芸術の核心を見出すことも可能ではないか、と思い始めてしまうのだ。

 前衛は、しっかり前衛でありながら、前衛という言葉に引導を渡してしまったのである。

 
 
 
 
 
 

赤瀬川原平 

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%80%AC%E5%B7%9D%E6%BA%90%E5%B9%B3

トマソン

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%BD%E3%83%B3

あさま山荘事件

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 
 
 
 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/04/14 23:40 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/101223

 

 

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2009年4月11日 (土)

「卒業制作優秀作品展」を観る

 

 4月6日から、「平成20年度 武蔵野美術大学 造形学部卒業制作 大学院修了制作 優秀作品展」が開催されている。

 
 

 先日、娘と共に楽しんで来た。

 
 

 「卒業制作展」リポート(?)にも書いたことだけど、そもそも、美術大学の「卒業制作」自体が面白い。絵画・彫刻だけが「美術大学教育」の対象ではないのである。

→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/92750

→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/92855

→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/92935

→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/93031

 

 その中の「優秀作品」展だ。つまらないわけはない。

 

 「卒業制作展」の時点で強く印象に残った作品が、やはり「優秀作品」として選ばれている姿に出会うのは、(なぜか、どこか)うれしい感じだ。「衆目の一致するところ」というものはある、ということだろう。

 しかし、未見の作品も多いのだ。それだけ大量の作品が、卒業制作として作られるわけだ。ちなみに清掃担当者から聞いた話では、「芸祭」の時期と「卒業制作展」前後が、ゴミの量ではトップを争う状態だそうだ。創作とゴミ。「寓話」が潜んでいそうである。

 
 
 

 展示会場も、美術資料図書館展示室、12号館地下展示室、9号館地下展示室の3ヶ所がメイン会場となっている。スタンプラリー形式のパンフレットになっていて、スタンプを3つ集めると、特製のエコバッグがもらえる仕組みだ。見落としを防ぐための工夫? もちろん、父娘共にエコバッグをゲットしたことは言うまでもない。

 
 
 

 父娘共にお気に入りだったのが、視覚伝達デザイン学科の保田卓也さんの作品だった。

 「プロパガンダの解剖」というタイトルのパネルと本。「レッツ・プロパガンダ」というタイトルのアニメーション。

 アニメのナレーションが、娘の好きなムサビ演劇関係の佐野淳子さんという関係で(?)娘はアニメ、父はよく造り込まれた冊子に夢中。

 戦時日本、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリア、社会主義のソ連、戦時アメリカ、戦時イギリスと、それぞれのプロパガンダポスターの事例を集めた冊子(それぞれに1冊が宛てられている)には、「現代史のトラウマ」関係者(?)としては惹きつけられざるを得ない。血沸き肉踊るステロタイプな世界だ。

 冊子が美しくプリント・レイアウトされた事例集であるのに対し、アニメの方はプロパガンダ作成マニュアル的な構成だったらしい(娘の話による)。なかなかに皮肉の効いたアニメだったようで、娘にオオウケであった(アニメの方は、後日、機会を作って自分の目でも観たいと思っている)。

 

 「現代史のトラウマ」系作品(?)としては、やはり視覚伝達デザインコースの大学院修了制作、パク・ジフンさんの「近代東南アジアにおける文字政策の研究」が興味深かった。

 タイトルは「東南アジア」となっているが、対象となっているのは、日本、朝鮮半島、中国大陸、台湾なので、実際は「東アジアにおける…」であろうけれど。

 それぞれの近代国家としての成立過程と、文字政策(正書法と字体の確定)が考察の中心となっているのだが、朝鮮半島、満洲、台湾の事例は、日本による統治という共通の時期を抱えている。それぞれの教科書が事例として展示されているのだが、日本統治下では、教育されるのは日本語なのである。それぞれの地域の固有言語への配慮はない。そんなことが一目瞭然なのである。これも、もう一度、ゆっくり読み込んでおきたい作品だと思った。

 

 これも、視覚伝達デザイン学科の卒業制作作品だが、川瀬康子さんの「しいたスタイル ~自閉っ子のための玩具~」も見落としたくない。

 彼女が教育実習先で出会った自閉症の小学生達。その中の一人である「しいた」君。その、しいた君の特性(自閉症児としてのキャラクター、つまり、こだわり等の特徴)を把握した上で、彼の興味関心に沿った玩具を開発する。その際、彼の興味関心のあり方の特徴を絞り込むことにより、逆に人間の認知を支える基本特性が見えて来る。結果として彼の興味関心に的を絞ったはずの玩具は、汎用性を持った玩具として完成することとなった。カラフルな木とアクリルのゲーム形式の玩具である。

 

 父娘推薦作品としてもう一つ、田村陽菜さんの作品「グルーミング・アート 1」及び「グルーミング・アート 2」は落とせない。油絵学科の卒業制作ではあるけれど「本」が二冊。

 それも文章で勝負!な、本なのだ。

 美術作家を目指すぞ!という気負いを欠いて、しかし楽しげに制作を続ける一群の学生の存在。そこにある謎(?)に挑んだ作品(?)、という感じだろうか。毛づくろい(グルーミング)をするネコを眺める心地よさと、気負いのない作者達を前にしての感覚の親近性がタイトルの由来らしい。

 実は、田村陽菜さんは、例の「うそ新聞」の作者である。この卒制「グルーミング・アート」も、昨年の芸祭の時点で予告されていたものだ(「うそ」ではなかった→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Photo/node/PhotoEntryFront/user_id/316274/file_id/52295 2007年の「うそニュース画像 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Photo/node/PhotoEntryFront/user_id/316274/file_id/35589)。

 「1」に基本的コンセプト、「2」は、そのテーマを深めるためのインタビュー集という構成である。「うそ新聞」の作者であるから、辛辣さをユーモアで包みながらの展開となっており、大いにウケながら読み終えてしまった。

 この「グルーミング・アート」、岡田斗司夫氏が近年提唱(?)している、「プチクリ」というコンセプトが近い感じである。

 
 
 

…と、まぁ、紹介したのは絵画でも彫刻でもない作品だけど、もちろん、絵画彫刻も観ておくに値する作品が揃っている。

 

 それに、作品によっては、卒業制作展時からヴァージョン・アップされていたりするのだ。

 

 不便な場所だけど、出かけるに値すると思う。

 
 

   (武蔵野美術大学にて、4月22日まで開催。ただし日曜日は休館)

 
 
 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/04/09 20:45 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/100689

 

 

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2009年2月11日 (水)

建物のカケラ

 

 「建物のカケラ」と題された展覧会に出かけた。

 サブタイトルに「一木努コレクション」とある通り、一木努氏による個人コレクションの展示である。内容は、タイトル通り、解体された建物の「カケラ」のコレクションだ。

 展覧会図録にある主催者による「ごあいさつ」の文章には、

建物にとっていちばん幸福な姿とは、建物がその場所に存在し、人々や土地の記憶の中で生き続けること(現地保存)であると私達は考えます。しかし建物は、時が経てばその多くが解体される運命にあります。思い出の建物、風景の一部であった建物は、大小無数のカケラをのこして姿を消すのです。

本展覧会で皆様にご紹介する約700点にもおよぶ建物のカケラたちは、現役の歯科医師でもある一木努氏が、約900箇所の解体現場に通い、40年の長きにわたり収集してきた個人コレクションの一部です。…

…とある。

 開催場所が、「江戸東京たてもの園」(東京都小金井市)であることが、冒頭の「建物にとっていちばん幸福な姿とは、建物がその場所に存在し、人々や土地の記憶の中で生き続けること(現地保存)であると私達は考えます」という言葉に反映されているように思える。「江戸東京たてもの園」とは、現地保存の叶わなくなった建物を移転保存するための施設なのである。

 もちろん、移転保存も叶わない建物、解体され姿を消してしまう建物のほうが圧倒的に多い。「江戸東京たてもの園」の関係者にとっても、実に悲しく歯がゆい事態であるに違いない。

 「江戸東京たてもの園」の学芸員氏が書いたのであろう「ごあいさつ」の文章の後ろには、そんな日々の経験が隠されているように思えるわけだ。

 

 下館市の歯科医師、一木努氏は、現地保存が叶わず、移転保存も出来ずに解体され姿を消していく建物のカケラを解体現場から救い出すことで、その建物のかつてあった徴を保存するという行為を続けて来た方なのだ。

 
 

 図録から、一木氏自身の文章を紹介しよう。

どんな名建築でも取り壊しとなれば、美しい壁もはがされ、立派な柱も倒され、つぶし砕かれて、建築廃棄物となってしまう。つまり、廃材というか、ゴミ。でも、捨てられてしまうそのゴミの一部(カケラ)を集めるとなると、それなりの努力がいる。ゴミといっても、通りの集積場に出してあるわけではない。解体現場の仮囲いの中で、廃棄物となった建物のカケラは、ダンプに積まれ、人目に触れることもなく、そのまま処分場に運ばれてしまう。

建物のカケラを手に入れるには、解体中に、その仮囲いの中に入って、取り外すか、拾い上げるしかない。後から入手するのはほとんど不可能だし、解体前も難しい。

そのため、解体の日程を把握し、現場を巡回しながら頃合いをみて交渉。承諾を得て、現場に入り、選択、最終、運搬という手順になる。

つまり、このコレクションは、建物の持ち主や現場作業員の理解と協力がなければ、成り立たなかった。現場では、解体作業中に、部外者から廃材をねだられるのだから、かなり迷惑だったに違いない。にもかかわらず、どこでも本当に親切にしていただいた。その好意に報いることができるとすれば、現場から救い出したカケラを、少しでも多くの人に、見ていただくことしかないだろう。

 

…と、その収集の方法が明かされているわけだが、その第一号は、1966年、一木氏17歳の夏に始まる。もちろん、その時のカケラ(常陽製菓煙突レンガ)も展示会場にある、というか展示自体もそこから始まるのである。

 

 公共建築もあれば、個人住宅もあるし、ありとあらゆる種類の「建物のカケラ」が集められていることに驚く。

 たとえば、図録中の素材別のコーナーの「石」の項目には、渋谷区神宮前の社会事業大学(旧海軍館)、岡山県岡山市の「中国銀行本店」、千代田区丸の内の「白石ビル」、大阪市南区心斎橋筋の「戎橋キリン会館」、港区海岸の「芝浦石畳」、台東区上野の「本牧亭」、港区芝大門の「昭和電工(旧不動貯蓄銀行本店)」…といった具合である。

 中には、1968年の国際反戦デーに新宿駅での投石に使われた石、なんてものまである。

…と、石もあれば金属金物もあり、タイルのカケラから装飾のレリーフ、そして「キャッツシアター(大阪)」のテント地まで、素材も様々なら、大きさも様々である。

 すべて解体され、建物は現存しないのである。写真でかつての姿を見ることは出来るわけだが、しかし、その建物の一部の実物の持つ存在感は、また格別のものなのだ。

 

 一木氏の営為を讃えないわけにはいかない。

 

 しかし、すべて廃材、ゴミである。そのようなもののコレクションに、家族の理解は得られているのだろうか?と、誰しも不安になるところであろう。

 しかし、ここにもまた驚くべきストーリーが展開するのであった。

 

 展示品に、渋谷区千駄ヶ谷の「藤井邸」のカケラがあった。それには次のようなキャプションが付けられていたのだ。

こののち、結婚することになった女性からもらった初めてのプレゼント。実は、彼女も建物のカケラを中学校時代に収集していたことが判明。

 

 一木氏の伴侶となった女性をも、ここで讃えなければならないのである。

   (これは、同行した家族全員が感動したエピソードである)

 

 

 

なお、「建物のカケラ」展は、江戸東京たてもの園(東京都小金井市)にて、3月1日まで開催。

  

 
 

(オリジナルは、投稿日時:2009/02/11 20:23→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/94803

 

 

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2009年1月18日 (日)

Fair is foul, and foul is fair …

 

  1606年、新王ジェームズ1世に敬意を表して上演された。

 ジョゼ・アクセラとミシェール・ウィレムの共著『シェイクスピアとエリザベス朝演劇』中の、シェイクスピアの『マクベス』上演に関する記述である。

 ジェームズ1世の即位は1603年のことであった。エリザベス1世の死により、スコットランド国王ジェイムズ6世が、ジェイムズ1世としてイングランド国王となったのである。

 その意味では、『シェイクスピアとエリザベス朝演劇』という表題を掲げながらも、書中で取り上げられている作品に関しては、1602年(一説には1603年)の『ハムレット』を除いては、『オセロー』が1604年、『リア王』が1605年と、シェークスピア悲劇の代表作の執筆年代は、エリザベス朝ではなくジェームズ朝であるわけだ。

 ちなみに1603年とは、徳川家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いた年でもある。文化史的には、出雲阿国の北野天満宮における歌舞伎興行が記録されている年でもある。

 当時の流行に敏感な(つまり権威主義的人間からは軽佻浮薄と評される)人々がカブキモノと呼ばれていたことを思い出しておきたい。歌舞伎もまた、煙草や三味線への愛好と共に、流行最先端のステージとしてカブキモノ達に歓迎され、その観客動員力を誇っていたということになる。つまり、新しい物好きが集まる場であったわけだ。

 伝統に権威を見出すタイプの人間達からは、軽佻浮薄な新しい物好きの不良じみた連中と思われていたに違いない都市民が、初期の歌舞伎や三味線音楽を支えていたということなのである。要するに、歌舞伎の登場は、都会の不良の世界の出来事だったのだ。煙草は輸入され栽培が始められたばかりの最新のドラッグであったし、三味線も外国からの最新の移入楽器であった。

 そんな時代のロンドンでは、シェイクスピアの最新作の上演に、かの国の流行に敏感な連中が立ち会っていたわけだ。わが愛するジョン・ダウランドがヒット・メロディーを作曲していたのも、その同時代のことである。

 

 さて『マクベス』であった。そこでシェイクスピアは、

  Fair is foul, and foul is fair

  きれいは汚い、汚いはきれい

  so fair and foul a day I have not seen

  こんなに美しくいやな日はみたことがない

というセリフを生み出している。ここでは、私は、このような表現を受け入れることの出来る観客の存在を考えてしまうわけだ。そのような表現を「矛盾」として排斥するのではなく、「現実」の表現として(現実を表現した表現として)受け入れる感性の存在に注目するわけである。

 ロンドンの劇場に集まった、当時の流行最先端の演劇愛好者達は、そのような表現を受け入れ、喝采を送っていたのであった。

 論理的矛盾で構成される現実世界の極限を描いた流行作家と、その表現に自らを重ねた観客達の姿、その両者の存在をそこに見出したいと思う。

 

 

       戦争は平和である

      自由は屈従である

     無知は力である

 こちらは、イングソックの有名なスローガンである。

 1949年のジョージ・オーウェルの作品、『1984年』に登場する。

 今から60年前に、ジョージ・オーウェルが描いた未来世界の姿であり、それは年代的には、既に、今から25年前の世界となってしまっているのであった。

 イングソックすなわちイギリス社会主義の統治する「革命後」の世界のスローガンとして、「戦争は平和である」、「自由は屈従である」、そして「無知は力である」が存在することになる。

 この矛盾した(と私達には思われる)表現で形作られたスローガンは、二重思考(ダブル・シンク)をマスターした者にとっては「矛盾」ではない。そこに矛盾を見出すということは、思想警察による逮捕に直結し、最終的にはその者の死を意味することになるのである。

 生き続けることを望むなら、二重思考をマスターし、スローガンの正しさを確信出来るようになる必要がある。いわゆる批判精神は、イングソックの統治する世界では必要がないのではなく、不要なものとなっているのである。

 その背後には、思想警察の存在があるというわけだ。

 それが、オーウェルにとっては35年後の、私達にとっては25年前の世界の姿なのである。

 さて、オーウェルから60年後の現実はと言えば、思想警察の存在とは無関係に二重思考をマスターしてしまっているのが、現在の日本人の姿であろう。

 公務員へのリストラの実行を求めながら、行政による各種規制の強化を訴える人々。両立不能な要求であることに気付くことがないのである。

 二重思考からは、合理性ある解決が導き出されることはない。そのことは、何よりも大東亜戦争中の大日本帝國の歴史が、見事に示していることだろう。日米の国力差を冷静に分析しながら、国力差を無視した開戦を決断出来てしまったのである。

 

 

 

 シェークスピアが描き、観客が受け入れたのは、現実に存在する矛盾を現実として描き出した表現であった。

 オーウェルが想定したのは、現実に存在する矛盾を当事者の意識において非現実化するための、矛盾した、しかし当事者の意識上は既に矛盾の存在しない、表現なのであった。

 現代の日本では、オーウェルの想定した二重思考が、思想警察の存在に頼ることなく実現されてしまっているのである。

 

 

 

 

 

…というような話は、まぁ、ある意味で他人事として書かれている。

 ネコの異名に「家狸」「狸奴」とあるから、野猫は狸(野生のネコ、ヤマネコ)で、家で飼養されているのが猫。つまり「家狸」の別名は「猫」、和名は「ねこま」である云々、という話題には他人事では済まされない側面がある。

   猫は狸、狸は猫

   狸は猫、猫は狸

   猫は狸、狸は猫

   狸は猫、猫は狸

   ・・・・・・、・・・・・・

 

 

 しかし、猫と狸の区別も判らない昔の無知な中国人の話として済ませてしまうという解決法を、今、思いついてしまった。

 これは二重思考ではない、と思いたいところなのだが、もう寝る時間である。判断力は失われてしまっているのだ。

 明日考えよう。あるいは忘れてしまおう。

註 : 内容的には、前回(「衝撃の事実」→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-e916.html)同様の、freeml 用のネタ話であるが、オチに至る文中には、この「現代史のトラウマ」にふさわしい話題が書き連ねてある。そこでこちらにも収録した次第。

 参考までに、続編として(?)書いた、「晴々しいなら 禍々しい、禍々しいなら 晴々しい」(→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/92309)のこともご紹介しておく。セリフ自体の解釈と翻訳の問題、といったテーマにご興味おありの方はどうぞ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/01/12 23:52 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/91617

 

 

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2008年12月 7日 (日)

ヤング!アグレッシヴ!!

 

 ヤングでアグレッシヴ、であること。

 人生の中での基本、とでも言うべき出来事ではある。

 世界は、気付いてみれば、実に愚かしさに満ちている。怒りをもって対峙すべき相手だ。

 先行する世代(つまり年上の連中だ!)は、平気な顔をして、その中で生きていやがる。しかし、オレは…、オレ達は…

 怒りが表現となり、作品として結晶する。

 基本中の基本、みたいなものだ。

 ヤングであること、つまり歳若いということは、まだ社会の中に占めるべき場所を持たぬ未経験な存在であることをも意味する。

 つまり、いわゆる社会的力を持っていない、ということだ。けれど、何をするにも十分な体力を持っている、ということでもある。

 オジサンになってしまえば、愚かな世界には慣れてしまい、既に体力は失われている。

…というような状況下で、ある種の芸術表現は生まれるものだ。

 さて、「ヤング、アグレッシヴ  ロシア現代芸術における挑発的なスピリット」と題された展覧会の話だった。

 集められているのは、1980年代から、90年代、そして21世紀を迎えて現在に至る、ロシアの「ヤングでアグレッシヴ」な表現の世界だ。

 30年に満たない時間の流れの中での作品群である。

 しかし、そこに、ロシアが経験した歴史の反映を見出すことが出来るものであった。

 ソ連邦の、社会主義の、ひたすら行き止まり(行き詰まり、と言うべきか)へと向かう、不毛の80年代。

 その中で制作され続けた、イェヴゲニ・ユフィット(1961年レニングラード生まれ)の映像作品群。モノクロフィルムによる、かつてのサイレント映画を連想させる映像だ。

 主人公が誰であり、登場人物群が何者であるかは説明されない。何事なのか、連続した暴力的な行為が、サイレント時代のスラップスティック風の音楽を背景に、映されているだけだ。

 ソ連社会における情報統制の徹底の進行の一方で、アグレッシヴなヤングが、非公式ではあれ、映画という表現手段を手にしていたこと自体が驚きであった。

 サイレント映画をホーフツとさせる映像として仕上げられていることからも、かつての革命期ソ連の、それ自体が革命的であった映画の数々を連想させられてしまう。かつての映画における暴力は、ツァーリの圧制の表現であり、それに対抗する革命そのものの暴力であった。

 ユフィットの映像にあるのは、革命という希望を失った鬱屈の姿、1980年代における暴力的衝動の姿のようにも思える。

 私にとって同世代(5歳も違わない)のロシア人のレニングラードでの日々は、意外に、遠いものではないという印象だ。まぁ、こちらはバブル経済の進行する中で、別の何事かに腹を立てていたわけであるが。

 90年代の作家、作品群を挟んで、21世紀になってからのロシア人の姿。

 そこに、歴史の進行を感じずにはいられない。

 ユフィットの作品は、ソ連邦という国家の、レニングラードという都市の、二重にローカルな性格を刻み込まれていたものでもあった。

 21世紀の作家たち、つまり、現在「ヤングでアグレッシヴ」な連中の作品には、ユフィットの作品に刻印されていたような地方性を見出すことは、既に難しい。

 アレクセイ・ブルダコフ(1980年生まれ!だ)の、「トーキングヘッド・ストライキ」と題されたヴィデオ作品。

 画面には、CNN、BBC、スカイテレビ等々の、スタジオや現場を背景にしたキャスターやレポーターが映し出されている。それぞれに1分近い時間が割り当てられているのだが、彼らは押し黙っているのだ。正確には、作者によって黙らされている、というわけだ。

 事件を報道するのが彼らの役割だ。事件の経過を説明し、事件に意味を与える、それが彼らの役割である。つまり、喋ることに、彼らの存在意義がある。

 その彼らが沈黙を強いられている画像(喋りたそうにこちらを見つめる彼らの姿が実におかしいのだが)。

 つまり、映像そのものは事件などではなく、彼らによる説明が事件を構成するのだという事実、それがそこに描かれている、というか見透かすことが出来てしまうのである。ブルダコフの映像により。

 CNNに始まる(アル・ジャジーラによって複線化された)グローバルな報道システムが世界に与えた影響は大きい。一極(一局)による情報の支配の時代は終わった。

 しかし、報道そのものは事件そのものではなく、事件を作り出すものこそが報道であるという構図が、ブルダコフの作品によってあぶりだされてしまうのだ。

 ここに、世界に対する怒りは健在なのだ。

 ところで、このブルダコフの作品が示すこと、つまり映像そのものは事件を指示しないということは、あのユフィット作品が説明を欠いたサイレント映像であったということの意味を明らかにもするだろう。

 サイレント映像であるがために、そこにあるのが特定のストーリーに支えられた特定の事件なのではなく、普遍性を帯びた「ヤングでアグレッシヴ」な表現となりえてしまっているということなのだ。ユフィットがそれを意図していたのかどうか、それはまた別の話なのだが。

(「ヤング・アグレッシヴ  ロシア現代芸術における挑発的なスピリット」展は、5月24日まで、武蔵野美術大学美術資料図書館展示室にて開催)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/05/11 20:16 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/66503

 

 

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2008年12月 6日 (土)

ヤング?アグレッシヴ??

 

 雨の中の外出。

 しかも気温が低い。一昨日は、Tシャツに、夏用のジャケットだけ。今日は長袖のシャツを着て(もちろんその下にはTシャツ)、セーター、そして軍用のジャケットといういでたち。それで汗もかかない。

 ちょっとお疲れだ。

 展覧会を楽しんできたのだが、書きたいことはいろいろあるのだが、気力体力が追いつかない。

 「ヤング、アグレッシヴ」というタイトル。

 こちらは、もはや「ヤング」ではないオジサンだ。…ということを、悔しいながらも痛感させられてしまったわけだ。

 いや、展覧会は楽しんだし、ウケまくりなところもあったくらいだ。要するに、「芸術」というか「表現」に至る衝動の根底には「怒り」というものがある。

 その「怒り」と「若さ(つまりヤング、だ)」が結合すれば、そこには「アグレッシヴ」な表現が生まれる。

 世界のどうしようもなさ、については、年齢に従って軽減されるものではない。「慣れ」てしまうだけであって、世界が怒りに値することに変わりはないのだ。

 年齢的には「ヤング」から「オジサン」へと変化しようが、「怒り」は共有され続けている。だから、共感出来てしまうのだ。

 ただ、まぁ、それについて書くには、それ相応の体力も必要となる。そして、今日は寒かったし、とにかく展示の中心が映像作品なので、作品ひとつをクリアするのにも時間と体力が消えていくのである。

…というわけで、内容については、よく眠ってからとしたい。

 場所は、武蔵野美術大学美術資料図書館展示室。サブ・タイトルは「ロシア現代美術における挑発的なスピリット」である。

 80年代以降のロシア人が何を表現したのか、それだけで気になるでしょ?

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/05/10 20:56 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/66422

 

 

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2008年12月 4日 (木)

鯨の肉、食べるべきか食べざるべきか…

 

 かつて、「鯨を食べる会」というのを主宰していたことがある。

 十数年前まで、毎年、ウチに仲間で集まっては、鯨を食べていた。

 まぁ、そもそも鯨の肉はとても美味しく好物だったし、国際的な反捕鯨の流れの中で鯨肉を手に入れることが難しくなっていたという、当時の現状への個人的な抗議の実践という意味合いも込めたものだった。

 しかし、今はやっていない。

 「鯨食は日本の伝統文化である」という言い方があり、当初はその文脈も考えての開催だったのだが、どうも「伝統」としての「鯨食文化」という前提にアヤシサを感じ始めてしまったというのが理由の一つである。

 もう一つの理由として、とにかく世界中の食材を食べつくしつつある日本人というイメージを抱き始めたという当時の実感があげられるだろう。あえて鯨まで食べる理由はない、という気分が芽生えてしまったわけだ。

 前者は歴史理解の問題であり、後者は歴史理解も含む日本人の行動様式への疑問につながる問題である。

 つまり、日本列島全域を対象として考えれば、鯨食の伝統は一部地域の問題にとどまるということであるし、資源保護への配慮を欠いた乱獲という事態もまた、日本人の行動様式に付きまとう現実として見逃すわけにもいかない、ということを考えざるを得なくなっていったというわけなのだ。

 船の舳先に積んだ大砲により、撃ち出される銛で鯨をしとめるスタイルの、近代捕鯨(ノルウェー式という呼称もある)がもたらされるまでの、「古式捕鯨」と総称される伝統的な捕鯨は地域限定の沿岸捕鯨であった。

 鯨肉の消費も、地域に限定されたものであり、日本全国に鯨肉が流通するということはなかったのである。

 そのような意味で、鯨食を「日本の伝統文化」として語ることには問題があると考えなければならない。

 しかし、一方で、では「日本の伝統とは何か?」という問いを発した時に、実はその問い自体があいまいなものであることにも気付かされるであろう。

 一般的に「日本の伝統文化」として総称されるものには、日本列島全域に基盤を持たないもの、あるいは身分・階級的伝統以上のものではないものが多く含まれることは、注意深い人間にとっては自明の事実である。

 一部地域の伝統や、一部階級の生活文化に過ぎないものを、そのような細部に顧慮することなく、つまみ食い的に寄せ集めたものが、通常、私たちの「日本の伝統文化」として呼ばれているものの内実ということなのだ。

 そのように考えた時に、「日本の伝統」と呼ばれていたものが、各地方限定の「伝統」であったり、各身分の生活文化としての「伝統」に過ぎないものであったことが実感されるはずだ。

 ここで、「日本」という括りは解体されるだろう。

 国民国家としての近代日本の形成と共に、その国家を構成する等質な日本人という存在を想定する必要が生じる。「日本」という括り方、「日本人」という括り方は近代という歴史的時間を離れては存在しないのである。

 その近代が生み出した「日本の伝統」という括り方の内実を注視すれば、先に書いたように、実体のないものとしてその正体が見えてくるのだ。

 そこにあるのは、「日本の伝統」という言説の虚構性の発見であると共に、かつての日本列島に存在していた文化の多様性への視点の発見でもあり得るだろう。

 「鯨食」に話を戻せば、日本列島全域を対象として、伝統文化としての「鯨食の習慣」を主張することは虚偽であるが、地域文化としての「鯨食の習慣」は否定される必要はない、ということになる。

 そこからは、一様で一元的な「日本の伝統文化」というイメージとは異なる、地方性に彩られた、かつてこの日本列島に花咲いていた各地の「伝統文化」のあり様が見えても来るだろう。「日本列島」という地理的領域が本来持っている豊かさへの想像力も生み出されるはずだ。

 ところで、ほぼ日本列島全域を対象とした「鯨食の習慣」が全く虚構というわけでもない。

 ある年齢以上の方なら、小学校の給食に登場する鯨は、あの脱脂粉乳と共に、ノスタルジーの対象であり続けていることだろう。

 戦後の日本人にとって、南氷洋捕鯨の収穫物である鯨肉は貴重な蛋白質であったのだ。

 日本による南氷洋捕鯨は、昭和15年に始まる。しかし、あの戦争により中断されるのである。

 この戦前の南氷洋捕鯨の特徴は、鯨肉の確保が目的ではなかったという点であろう。鯨油の獲得と、その消費者であるヨーロッパ諸国での売却による利益を目的としていたということなのだ。

 そもそも欧米の捕鯨業は、鯨油の確保と、ヒゲ鯨のヒゲ(あのふくらんだスカートの中身)が目的であった。鯨油は石油に代替され、ふくらんだスカートはファッショナブルではなくなる。欧米では捕鯨は必要な産業ではなくなるのである。

 一方で戦後に再開された、日本の南氷洋捕鯨は、日本人にとっての蛋白資源の確保という「鯨肉」を対象としたものとして再編されていくのである。

 欧米の捕鯨業者には廃棄すべきゴミでしかなかった鯨肉をも活用し、棄てるところのない生物資源としての鯨の活用が開始されたということになる。

 美味しいと感じたか、不味い給食イメージの代表メニューとして記憶されているかはさておき、戦後の一定の時期においては、ほぼ日本列島全域を覆って、鯨肉食が一般的な食卓風景となっていたこともまた事実なのである。

 それを「伝統文化」と呼ぶことには躊躇せざるを得ないものの、歴史的事実として無視することも出来ないと思うのだ。

 付け加えておけば、南氷洋捕鯨はGHQの許可なしには行われ得なかったのである。捕鯨業自体は忌避、ましてや禁止の対象ではなかったことに注意しておきたい。

 歴史的には戦後の出来事として、日本の南氷洋捕鯨の隆盛がある、ということになる。

 そしてその衰退も、突然の環境変化によってもたらされることになる。

 1972年の国連環境会議のテーマは、それまで予定されていたアメリカ合衆国によるヴェトナムでの枯葉剤使用問題から、捕鯨問題へと変更されてしまう。

 「反捕鯨」の大きな潮流は、この歴史的時点に起源を持つと言うことが出来るだろう。

 「枯葉剤使用問題」から「反捕鯨問題」へのシフトは、もちろん米国政府の利益に合致するし、実際にそのシフトを主導したのは米国であった。

 「反捕鯨」という主張の登場の政治的背景の理解には欠かせない事実であろう。

 「反捕鯨論」には、様々な背景を考えることが出来るわけだが、畜産業者の利害も忘れてはならないだろう。日本人が鯨肉を食べ続ければ、牛肉の消費量は伸びないのである。実際問題として、「反捕鯨国」においては畜産業の比重が高いことが指摘されている。

 様々な政治的経済的利害と、捕鯨(そして鯨食)が残酷であるという文化的イメージの合流点に、その後の反捕鯨運動の出発点があるという理解は、決して荒唐無稽なものではないと考えられる。

 生物資源管理という観点からしても、南氷洋におけるミンククジラの生息数は「絶滅の危機」からは遠いものであり、資源としての利用自体に問題はないはずである。

 「反捕鯨」の主張は、政治的経済的、あるいは文化的(もう一歩踏み込んだ表現をすれば、文化的偏見と言うことも出来る)なものとして批判の対象と成り得るものだろう。

 野生生物を捕食対象から除外すべきという主張もあるが、これでは漁業自体が成立しなくなるだろう。

 再生可能な資源量の確保という課題さえクリア出来れば、野生生物資源の利用自体に問題を、少なくとも私は、感じない。

 人類全体における食料問題を考える時に、鯨肉を食料資源としての可能性から除外することが妥当なことであるのかどうか、その点への考慮も必要に思う。

 ただ、まぁ、無理して鯨まで食べなくても、という気分が生じていることも確かなことだ。

 積極的に主張しようという気持ちは消えてしまった。

 しかし、積極的に食べたいという気持ちが消えたわけではない。

 店頭に鯨肉を見つければ、積極的に買ってしまうのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/02/11 20:02 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/57804/user_id/316274

 

 

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2008年12月 3日 (水)

正月突入ポケモン日記…?

 

 既に元日の夜だ。

 初詣にも行かずに、力の抜けた一日を過ごしてしまった。

 夕方には、ヒーターの前で、猫をお腹にのせて寝転がっているうちに、本格的に眠ってしまった。

 猫と過ごす寝正月、が本年のスタートである、ということか。

 子年、つまりネズミの年だ。

 友人からの賀状に、

 -子年の出来事-

 1972年 日中国交正常化、沖縄返還、パンダ来日

 1984年 ピッカピカの一年生♪、お札一新、コアラ来日

 1996年 ポケモン、チョベリグ、EQ~心の知能指数

と書かれていた。まぁ、そんなことがあった年らしい。

 パンダ、コアラの次はピカチュウ来日という感じもしないではない。一応「電気ネズミ」である。つまり、希少動物(?)であることに加えて、ネズミの一種でもある、ということだ。

 だからどうだということになるわけでもないが、そんなことをぼんやり考えたりしている年頭の記録にはなるだろう。

 「ポケモン」登場の頃は、娘が3歳。テレビの前の娘に付き合って、番組も見ていた記憶がある。

 コダックというキャラクターが、娘の母にそっくりだったり、ヤドンという名の怠け動物キャラに自分の姿を見出していたのもその頃の話だ。

 ↑ コダック

 ポケモン、つまりポケット・モンスター、つまり想像上の愛玩(?)動物ということだろう。少年少女が飼いならし、闘わせ、勝負を競う。

 実際に存在する、闘犬、闘鶏が同種動物によるものであるのに比べ、異種動物間の格闘が展開される。トレーナーの少年少女と、それぞれのポケモンが心を通わせながら(?)勝負を勝ち抜き(あるいは敗れ)、ストーリーが展開されていく。

 見ながらの私の感想。

 代理戦争アニメではないか、これは。

 だから大批判を展開しようとかいうようなものでは、もちろんない。まぁ、あくまでも感想である。

 日本アニメ、あるいはコミックには、様々な戦闘渦中のエピソード、戦闘シーンの連続で構成されているものがある。だからいけないとは言わない。

 ただ戦闘シーンが、フィクションの上でも、日常的に消費されているということは確かなのである。

 ビジネスものだって、まぁ、戦闘もののヴァージョンのごとき展開を見せることもある。つまり、生きること、生き抜くことは戦いそのものでもありはする。

 まぁそんなことを考え合わせながら、ポケモンを見ると、代理戦争というイメージがそこに立ち現れてしまうのであった。

 実際に闘うのは、ポケモン同士であって、トレーナーはその背後に控えているだけだ。しかし、勝負の結果は、ポケモン自身の力の評価であると同時に、それ以上にポケモン・トレーナーの力量の発露として考えられているように見受けられる。

 それを「代理戦争」と私は読んだ、そして「代理戦争」と呼んだ、というわけだ。

 文化史的出来事として、将来的に、どのように評価されていくのかはわからないが、ポケモン登場は、日本人の中での「闘い」イメージに新たな一章を書き加えてしまっていたのではないか、なんてことまで考えてしまわないでもないのである。

 と、まぁ、正月元日早々、妄想日記である。

 いずれにしても、ポケモンとの遭遇を我が家は楽しんでいたのであり、コダックグッズやヤドングッズ・コレクションは増え続けたものだ。

 陶器製のコダックの貯金箱や風鈴など、見つけたときには大喜びしたものである。

 つまり、ポケモン=代理戦争をめぐる「感想」も、本気のものではなく、一種のジョーダンであるということになる。けれど、ジョーダンの中に一片の真実も宿っている。そう考えているわけだ。

 実際の戦争の現実、21世紀の戦争の現実を考えた時に、案外、本質を突いているような気もしてきてしまうのである。

 先進国間での、新たな領土獲得、国境線の変更を目的とした戦争は、ほぼ起こりえないだろう。

 戦争の利益がそのコストを上回ることはない。これが第一次及び第二次世界大戦での教訓である。近代戦争=国家総力戦とは、そのようなものだったのである。

 そして90年代以降に、戦争をめぐって顕著になってきた問題がある。

 「少子化」が与える戦争への影響である。

 かつての戦争(国家総力戦)では、数万人規模の戦死者の発生も、国家による戦争の継続に影響を与えることはなかった。が、今やそのような時代ではない。戦争で家族が失うのは、たった一人の息子なのである

 イラク派兵国のイラクからの軍の撤退は、戦死者発生の時点での世論の変化に負うところが大きいことは見逃すことの出来ない事実だと感じられる。そもそもが気の進まぬ派兵であったにしても、撤退の口実が、100人にも満たない戦死者数であることには注目しておく必要があるだろう。

 そのような意味で、「少子化」の下にある、先進国間での戦争は、既に時代遅れのイメージなのだと考えるわけだ。

 その上で、現代における「戦争」として「内戦」という形態、特に途上国における「内戦」の恒常化を考えておくべきだろう。「内戦」に先進国は無縁ではないのである。

 資源の確保・獲得は先進諸国にとっても課題である。その中で、内戦の帰趨は、先進諸国の関心事項でもあるのだ。一方の勢力に加担すれば、そこに出現するのは、文字通り「代理戦争」と呼ぶべき事態なのである。

 しかも、現実の戦闘の中心に民間軍事会社の存在があったりするのだ。これまた別の意味での「代理」であろう。

 先進諸国の「代理」であると共に、内戦当事者の「代理」という側面もあるという指摘も出来そうである。

…と、一度は終わりにしたはずのポケモン妄想が新たな展開を見せてしまうという、思いもかけぬ元日の夜。

 こんな話を書く気はまったくなかったのだが…

 本年もこんな調子で「日記」は続くことになるのでしょう。

 あらためて、よろしくお願い申し上げます。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/01/01 20:18 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/53467/user_id/316274

 

 

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「ハイル・テンノーヘイカ!」から「ハイル・ブッシュ!」へ

 

 結局、プレゼントの用意のないままのクリスマス当日となってしまった。

 というのは我が家での話だが、まぁ誰も文句は言わない。これも我が人徳ということだろう(もちろんジョーダンですよ←ネット上には、実際、ジョーダンのわからぬ輩が徘徊していることは確かなので、念のために野暮を承知で書き加えておくことにする)。

 とまぁ、書き出してしまったわけだけど、先ほど、たまたま、にんにんのところにお邪魔して日記を読んだついで(?)に、プレゼントを置いて来たのだ。

 そこで、同じプレゼントを、この日記を読むハメに陥っている皆様にもお届けしようと思う。

 これ→ http://jp.youtube.com/watch?v=luLGWaEVJhs&feature=related だ。

 まぁ、ちっともおめでたくもないものだが、よく出来ていると思う。

 ブッシュ×ヒトラーネタの動画は沢山あるのだが、その中でも時にこれは秀逸だと思っている。それぞれの画像の解像度が統一されていれば、文句の付け所はないだろう。とまぁ、わざわざ文句をつけてみたわけだが、これは野暮と言うものだ。実際、実に簡潔に、ブッシュ一味の現実を印象深く表現している。

 ところで、2週間前の日記「ハイル・テンノーヘイカ!!…??」http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/50979/user_id/316274

を覚えておいでだろうか?

 実はその後も、アニメと戦争プロパガンダについて、同じ動画サイトからいくつかの画像を見つけては楽しんでいた。

 その中から、ポパイを2つ。

Popeye - Seein' Red, White 'n' Blue (1943) http://jp.youtube.com/watch?v=K35hQON3PY8&feature=related 

POPEYE the SAILOR in "Your a Sap Mr. Jap  http://jp.youtube.com/watch?v=wEK45-_5y0s&feature=related

 どちらにも日本人が登場するのだが、出っ歯にメガネに鼻の下のヒゲというステロタイプイメージだ。

 このイメージは、実際、日本人一般であると共に、昭和天皇であり東條英機の実際の姿の反映とも言えるだろう。

 しかし、そこはかとなく、人種差別の匂いも感じてしまうのであったが…

 次の画像をご覧いただきたい。

Our Enemy -- the Japanese (1 of 2)  http://jp.youtube.com/watch?v=JBxYy9rOVEk&feature=related

Our Enemy -- the Japanese (2 of 2)  http://jp.youtube.com/watch?v=t7vz-WDyK3k&feature=related

 アメリカ政府による公式フィルムということになる。米海軍向けの教育フィルムのようだが、冒頭に登場するのが駐日大使であったグルーである。

 グルーの解説により、日本人がどのような存在であるかが紹介されていく。

 皇居前で天皇に拝謁する日本人の姿が、冒頭ほどなく出て来るのだが、そこで私たちは、メガネに出っ歯のヒゲ男の姿に出会ってしまうのである。

 もっとも見続けていくと、そんな男ばかりが日本人ではないことも理解出来るはずだ。

 そして、見続けていて感心させられるのは(我がつたない英語力という留保は必要ではあるが)、グルーのナレーションは日本人、日本社会、日本文化についての事実をたんたんと伝えているだけという印象を与えるということだ。

 見ていて社会学的あるいは民俗学的に貴重なフィルムを見ているのだという気持ちにさせられる。

 同じフィルム素材を用いて、当時の日本人がナレーションを付けたとしたら、もっと勇ましい言葉が同じ画像を背景に並ぶに違いない。そんな印象さえ受けてしまう。

 しかし、実際に、これが米国海軍軍人の教育用フィルムの内容なのである。敵愾心を煽り、戦意高揚を図る前に、敵である日本人をまず理解しておこうという姿勢があることを認めざるを得ない。

 同時に、第二次世界大戦後の米国から失われてしまったのが、そのような情報評価への姿勢なのではないか、ということも感じてしまう。

 そしてその果てにあるのが、この日記の冒頭でご紹介した、「ハイル・ブッシュ!」の画像ということになる。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/12/25 23:38 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/52704/user_id/316274

 

 

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ハイル・テンノーヘイカ!!…??

 

 ドナルド・ダックが、「ハイル・テンノーヘイカ!!」と叫んでいるシーンを見つけてしまった。

 Der Fuehrer's Face というタイトルのアニメに件のシーンがある。(http://jp.youtube.com/watch?v=cdpSU-UWkso&feature=related

Image:Derfuehrersfaceposter.JPG 

 ↑公開時のポスター

 1942制作、1943年公開のディズニーアニメだ。1943年度のアカデミー賞受賞作品でもあるらしい。

 タイトルは、アニメの中で歌われている当時のヒットメロディーから取られている。オリジナルは、スパイク・ジョーンズとシティ・スリッカーズによるものらしい。

 ナチス好みのメロディーラインに、ナチへの皮肉を込めた歌詞が付けられている(通称、ナチ・ソング)。

 スパイク・ジョーンズは、いわゆる「冗談音楽」の元祖として有名な通りで、これも音楽自体がナチへのパロディーになっている。

 そんな、音楽に、ナチ世界の住人となってしまったドナルド・ダックのエピソードがアニメーションとして展開される。

 ナチの格好をした5人組のブラスバンド(軍楽隊)が演奏をしながら行進をしているところから始まる。

 バンドのメンバーには、ゲーリングに加えて、メガネでヒゲに出っ歯の日本人らしき男(どうも、これが昭和天皇らしい)、ムッソリーニも参加している。

 "WHEN THE FUEHRER SAYS, WE ARE THE MASTER RACE!..."

というような歌詞(ナチの信条)に、行進曲風のメロディー。あらゆるものがハーケンクロイツ型にデザインされた町(街路樹までもハーケンクロイツの形に剪定されている)を行進していく。

 やがて、ドナルド・ダックの住む小屋に到着する。

 ハーケンクロイツデザインの目覚まし時計に、ヒトラー顔をしたハト時計。起こされたドナルド・ダックは、壁にかけられた3枚の肖像画に挨拶をする。

 真ん中の上にあるのがヒトラーの肖像。「ハイル・ヒトラー!」とナチ式の敬礼。次いで左下方にある日本人風の肖像画に向かって「ハイル・テンノーヘイカ!」。最後に右下のムッソリーニに向かって「ハイル・ムッソリーニ!」と叫ぶのだ。

 正直なところ、このシーンまでは、日本人風の人物が昭和天皇であるとは気付いていなかった。ステロタイプな日本人イメージ(出っ歯にヒゲにメガネ)、せいぜいのところ東條英機くらいいに解釈していたので、いささか驚かされたものだ。

 しかし、考えてみれば、ヒトラーもムッソリーニも国家のトップであるわけだから、大日本帝國のトップが昭和天皇としてイメージされているのも当然のことなのではあった。

 アニメ自体は、味気ない朝食風景(ベーコンエッグの香りの香水にのこぎりでなくては切れない固いパン)、そして軍需工場で働くドナルドダックのエピソードへと続いていく。事あるごとに、ハイル・ヒトラー!をさせられながら、弾丸の組み立てに従事するドナルド・ダックの姿。

 休み時間にはバケーションタイムと称して、風光明媚な景色の垂れ幕の前でナチ式体操が待っている。

 あまりに過酷な労働に、精神の平衡を失ってしまうドナルド・ダック。

 しかし、悪夢から醒めてみれば…

 最後にはアメリカ礼賛で、アニメは閉じられる。

 同じ動画サイトで発見したワーナーブラザースのアニメも紹介しておこう。

Tokio Jokio http://jp.youtube.com/watch?v=3_km9IFzzHo&feature=related)は1943年作品。。

 日本映画社で製作されていた「日本ニュース」のパロディーとなっている。つまり、大日本帝國のプロパガンダ映像のパロディーなのである。

 こちらには、昭和天皇ではなく、東條英機をモデルとしたらしいプロフェッサー・ト―ジョーが登場する。

 ディズニーの昭和天皇にせよ、ワーナーの東條英機にせよ、顔が似ているとは思えない。どちらもステロタイプな日本人イメージを出ない感じだ。

 ドナルドダックに出てくる、ヒトラー、ムソリーニ、そしてゲーリングも似顔となっているのに比べて、扱いの低さ、あるいは関心の低さを感じる。人種差別意識とまで言えるのかどうかは微妙に思うが、解釈次第というところか?

 動画サイトのアニメ画像には他にも、まだまだ戦中の作品がある。戦争とアニメ、戦争プロパガンダとしてのアニメというのは、興味深いテーマであるように思う。

 ここでは、ドイツの日本の事例をご紹介しておこう。

 ナチスの戦中アニメ(http://jp.youtube.com/watchv=WIlr_rZKR4c&feature=related)「Cartoons from III Reich」紹介画像と、大日本帝國のアニメ(昭和19年制作、昭和20年4月公開)、

 「桃太郎 海の神兵」の冒頭(http://jp.youtube.com/watch?v=jDLHJDaq9bg

とラスト(http://jp.youtube.com/watch?v=dyjPzoEOvdM&feature=related)。

 そして、ワーナー作品とディズニー作品からの借用映像に、スパイク・ジョーンズのオリジナル音楽を付けたもの(つまり、画像サイト用オリジナル?)。

http://jp.youtube.com/watch?v=6J-1p_xX2TU&feature=related)こちらのタイトルは「A film about Hitler's face」となっている。

 あやうく、当時の作品として紹介してしまうところだったが、当時のアニメ画像を編集し、当時の音楽(スパイク・ジョーンズのオリジナル)を付けたものであることにご注意を願いたい。しかし、よく出来ているので、ご参考までに。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/12/09 21:14 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/50979/user_id/316274

 

 

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「世界の表象 オットー・ノイラートとその時代」展を観る

 昨日は、武蔵野美術大学の美術資料図書館で開かれている、展覧会「世界の表象 オットー・ノイラートとその時代」に関連して催されたシンポジウムを聴きに行って来た。

 といっても、オットー・ノイラートが何者であるのか、ご存知の方は少ないと思う。実際、私も知らなかったのである。

 しかし、統計データに添えて、例えば全国の都市の人口なら、地図上に人の形の大きさでそれぞれの都市の人口を示す手法には、なじみ深いものがあるだろう。牛乳生産量なら、牛の数、あるいは牛乳瓶の本数により、生産量そのものも各地方の生産量の比率も一目で理解されるような図。

 あの、今では当たり前になっている手法の生みの親が、オットー・ノイラートなのである。

 アイコンのデザインや、ビルの中の様々な絵文字の類(トイレの場所とかエレベーターの場所とかを表示する)もまた、オットー・ノイラートのアイディア抜きには、現在のような形では存在しなかった、というように考えることが出来る人物、なのだ。

 ただし、彼自身はデザイナーではなく、彼のアイディアの実現には、版画家でもあったゲルト・アルンツの存在もまた欠かすことが出来ない。

 アルンツにより、あのミニマムな形象がデザインされ、それが継承されることにより、現在では、まさに比喩以上に「絵文字」として流通している様々なヴァリエーションに出会うことが出来るようになっているのである。

 ノイラート自身は、戦間期に、当初はウィーン、後には亡命先のオランダそしてイギリスで活動した、思想家であり運動家であり…と様々な肩書きで語られる人物である。

 労働者階級に世界を理解させること、それが彼の課題のひとつであった。

 統計データによる世界理解。その手段としての展覧会。

 統計データが視覚的に理解出来ることが、そこでは望まれる。

 数字の羅列、あるいは文章による説明では、労働者階級に様々な統計データを通して世界を理解させるという目標には到達出来ないだろう。

 そこで、統計データの視覚化が課題として浮上する。

 そこに版画家アルンツの手法が生きて来るのである。

 版画家としての作品の特徴は、表情を欠いた人物の姿である。シンプルな白と黒の世界に住むシンプルに表現された人物達。抽象化されていながら(それが表情を欠いた姿に映る)、具体的に(それぞれに服装などを通して)どのような階層や職業の人間であるかが理解出来る表現。

 その版画表現が、ノイラートの目的にマッチしていたということになる。

 その手法を、当初はウィーンメソッドと呼び、亡命後はアイソタイプと名付けた。

 その手法は、現在の私達にもありふれたものとして目に触れるように、戦間期の世界でも既に広がりを見せていた。

 ナチスドイツの経済政策の啓蒙書、ソビエト連邦のプロパガンダ、ニューディールの宣伝出版物にも取り入れられていたのである。

 世界を視覚的に理解させること、それを政治が国民に要求する時、欠かすことの出来ない手法となっていったわけだ。

 私にとって興味深いことは、ノイラート達の焦点の一つは、インターナショナルな表現の可能性の追求にあったように見えることだ。

 つまり、20世紀の人間が見れば、それが男性であるか女性であるか、トラクターの生産量であるのか自家用車の生産量であるのか、一瞥して理解される表現であったということである。国境を越えても流通しうる視覚表現(絵文字)としてのアイソタイプというわけだ。

 まず、近代化された世界、近代化されつつある世界というものを考えた時に、国民の登場という歴史上の出来事を理解しておくべきだろう。

 国家の主権者としての国民の登場である。つまり、エリートのみが国政に参与する体制である限り、世界理解、統計データの理解をも含む世界理解は、エリート集団内での必要事であったに過ぎない。被支配者としてのマジョリティーには縁のない世界であったのである。

 そのマジョリティーが国民として編成し直されるのが、近代化と呼ばれる過程での出来事である。マジョリティー(現実には階級としての労働者達)にも、世界理解、統計データの理解をも含む世界理解が必要事となっていくのである。

 その課題を前にして、生み出されたのが、ノイラート達によるウィーンメソッドでありアイソタイプであった、ということになる。そして、ここでは詳しく触れられないがポール・オトレと共に目指した「世界博物館」への活動の重要性も忘れられてはならないだろう。

 これはノイラート達が、労働者階級の利益の側で活動したということをも意味するものだ。

 先に興味深いと言ったのは、第一次世界大戦後のその時代は、同時にナショナリズムの時代でもあったということである。

 民族自決原則の下に、中部ヨーロッパには多くの国家が誕生している。

 国民の登場、労働者達マジョリティーの国政への関与の開始時期と、民族国家の登場は重なっているのである。

 その時代の渦中で、インターナショナリズムを掲げたノイラート達の姿、その活動は、ナショナリズムとの対決を迫られざるを得ない。

 やがて世界はナショナリズムそのものの表現である第二次世界大戦へと突入し、ウィーンからの亡命先であったオランダもドイツ軍の侵略の対象となり、ノイラートは再び亡命せざるを得なくなるのである。

 ナショナリズムの現実との対決は、インターナショナリズムの必要性という信念をより強くさせたに違いない。

 そのような意味で、まさに時代の生んだ表現、時代の必要とした表現として、「世界の視覚化」が位置付けられるだろう。インターナショナルな表現、規格化された表現の試みとしてのウィーンメソッドでありアイソタイプであった。

 その実物資料の数々に出会うことが出来るのが今回の展覧会である。

 展示の構成自体が、ノイラート達の展示理念の再現ともなっており、見事なものであった。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/10/08 22:04 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/44467) 

 

 

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2008年11月26日 (水)

歴史的70年代の記録と大日本帝國の記憶

 

 

  

 『赤軍 -PFLP 世界戦争宣言』を観て来てしまった。

 初見である。
 ある年代以上の人々には郷愁を誘う題名だろう。
 若松孝二×足立正生による1971年の作品だ。



赤軍 -PFLP 世界戦争宣言
アウトロー講座07’
5月24日 (木)
16:30~上映/18:00~対談
第1講義室1号館103

…というチラシ。武蔵野美術大学の学生からもらった。
 実はよくデザインされた、B4版3枚続きのチラシ。デザインが気に入って、壁に貼っている学生からワンセットもらってしまった。先週の話だ。時間的に参加は無理だろうと考えていた。


 今日、昼休み、講座関係者と思われる学生のパフォーマンスを目撃してしまう。
 シュプレヒコールを繰り返す一団。よく見ると、顔にはタオルでマスク、ヘルメットかぶった集団がいた。ジグザグデモをし、広場の中央辺りでリーダー格が演説。
 今時、ホンモノはいないだろう。そういえば、今日が講座の当日であることを思い出す。
 仕事に戻ろうと歩き出したところへ、別の学生(顔見知り)からパンフを渡される。「ちょっと時間的に無理だと思う」と伝え別れたのだが、ちらちらパンフの中身を読むと…、やっぱり時間は自分で作り出すべきもの、という気になる。


 で、4時半前には、講義室に座っていた(真ん中のいい席に)。



 赤軍とPFLPが合作で制作ということで、基本的にプロパガンダ映像である。実際、プロパガンダである旨は、繰り返し作品中で述べられている。
 16ミリで撮影された映像に字幕とナレーションがかぶる。
 そのナレーションと映像は、必ずしも連動しているわけではない。ナレーションは、映像の説明をするわけではなく、映像とナレーションが解説的機能を果たすことは、あまりない。
 内戦前のベイルートの街並み、パレスチナの難民キャンプの映像、AK47の組み立てシーン、赤軍集会の映像もあった。ナレーションは映像の説明ではなく、基本的に、スローガンや闘争のテーゼを語るものである。プロパガンダでありアジテーションである。
 ライラ・ハレドや重信房子のインタビュー映像も挟まれる。当時の左翼用語の組み合わせで成り立った言葉が延々と続く。

 とにかく、パレスチナの(当時の)現状も歴史的背景も何もわからない。PFLPや赤軍がどのような組織であるかについても説明的に語られることはない。
 現在の目で見ると、不思議なドキュメンタリーでありプロパガンダ映像である。

 しっかし、それが面白い(多分、大半の学生は退屈してただろう)。
 そこにあるのは歴史の解説ではなく、今や「歴史そのもの」となってしまった映像だったのだ。
 ナレーションやインタビューの中で語られる言葉は、ほとんど、現在の学生達には理解不能だろう。
 当時の左翼用語だけの世界だ。接続詞や助詞以外は、今ではナジミのない言葉だけである。
 武装闘争・人民・革命の主体…、書こうと思っても、今や私の語彙から消えている言葉ばかりだ(って、別にそんな言葉話してたわけではないが理解は出来ていたつもりではあった)。
 しかし、それが実に面白かった、理解出来なくなっているところが。

 何かに似ているのである。
 『國體の本義』(昭和12年文部省発行)の文章だ。
 もちろん、文体が同じわけではない。四角張って、立派に見えるが、無内容、地に足が付いていない言葉のオンパレードであるところが、実に、同じなのである。
 昭和10年代から敗戦まで、大日本帝國には、『國體の本義』用語の組み合わせで作られた文章が蔓延していた。
 その状況によく似ているのである。
 70年代の左翼用語も同様に、常套句の組み合わせでありながら、内容ある表現をしているように、当人には感じられていたはずだ。

 どちらも内実は空疎な表現であり、現実に太刀打ちすることが出来ずに消滅していった、ように私には感じられたのであった。


 70年代というものが、もう既に「歴史」として私たちの前にあったのである。
 それをまざまざと見せ付けられてしまった、という意味でも、私にはエキサイティングな経験であった。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/05/24 23:16 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/31850/user_id/316274

 

 

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2008年11月25日 (火)

岡本太郎 『日本の伝統』 2

 さて、岡本太郎の『日本の伝統』。最終章「伝統論の新しい展開」から、

 
 

 今までは伝統というものを、パティキュラーな狭いものと考えていました。京都の伝統、薩摩の伝統、少しひろがって日本の伝統、東洋の伝統、それに対立する西洋の伝統というふうに、人種とか国境、民族、そういう枠で過去を裁断し、局限して捉えようとしたのです。ひらかれた世界性に対して、閉ざされた枠、制約。そういうものによって局限された世界、特殊性を受けついで行くのが伝統であり、「現在」は、反対に無限にひらかれた世界的な世界の可能性にたたされている。というのが伝統とか現代文化に対する一般的な考え方でした。 
 だが実はそうじゃない。私が言いたいのは逆だ。今日、過去の方は非常に広大に、全世界的にひろがって来ています。さっきも言ったように、民族とか国境とかいう狭い枠をぬきにして、すべて現在的な感動、今日の血肉となっている過去、現在的な感動をもってわれわれが関心をもつすべては、われわれの受けた遺産です。そしてその遺産は、そのうけるものの分量において無限にうちひらかれているのです。

 創造は本来、極めてパティキュラーなものです。それはほとんど一人だけの孤独な作業なのです。しかもいま言ったような局限された特殊な状況を土台にして創り出す場合、しぼられた特殊な様相をおびるのは当然です。おのれをのりこえるということは、極端におのれ自身になりきること以外にはありません。

 過去をどんらんに無限大にまでひらいて、現在のパティキュラリティーは逆に局限までちぢめて考えるべきだと私は思うのです。ちょうど袋にいっぱいに空気をつめて、口をキュッとしめたように。その締めた口のところが現在の自分です。うんとふくらました中には世界のあらゆる過去の遺産、財宝が豊かにとり込まれています。緊密に締めれば締めるほど、中の空気はビューッと、凄い勢いでふき出る。それがつまり創造活動であり、その口のあり方がオリジナリティ、創造の契機なのです。先に言ったような現実のパティキュラリティーは逆に考えれば、その口のあり方の独自性を強烈にプラスする条件です。
 ところが今までの伝統主義者のとっていた手続きは逆でした。いつでも、伝統の名において過去をひどく狭めて考える。そして逆に現在をルーズに開放される場所としてみるのです。つまり、われわれは日本人である。千利休のような審美眼をもち、奥の細道みたいな気分になり、モノノアワレをうち出し、ユーゲンな味をこめ、そういう土台にのっとってひろく世界に通じるような仕事をしようという考えです。袋の方はしぼっておいて、口の方ばっかりひろげて見せたりしても、駄目。せいぜいすかした味ぐらいで、そこからはとうてい猛烈な創造のエネルギーは出て来ないのです。

 

 

 …という、書中の個々の作品評価にすべて同意出来るわけではない。岡本太郎の芸術論に全面的同意もしません、私は。

 しかし、冒頭第1章の「伝統とは創造である」、そして最終章「伝統論の新しい展開」で岡本太郎が主張していることには共感出来ます。非常に共感します。


 ここにあるのは伝統の消費者の姿ではありません。後生大事に先祖伝来の品を取り出し、それを並べて、そこに自分自身の価値を重ねて悦に入り、他人を見下しているような人物ではない、ということです。

 ある時代に生まれ合わせた者として、その時代の制約を自らのものとして引き受け、しかしその時代を超えたところへと自らを導き、創造する者の姿がそこにあるということです。

 伝統とは、自分に都合の良い物語などではなく、今ここに生きている自分を成り立たせているもの全てなのであり、そこに正面から立ち向かい引き受けるものだけが新たな伝統の担い手となる、そういうことでしょう。


 中身のない自分に勿体を付けるためのものではないわけです。


 私がここで岡本太郎の『日本の伝統』を取り上げたのも、最近の「美しい国」をめぐる議論の中での「伝統」像の歪みを見過ごす気になれなかったからでしょう。
自らを拠って立たしめるものとしての「伝統」を考えることは大事なことです。しかし、それは先祖の遺産を自慢する行為とは別のことでなければなりません。

 まぁ、先祖の遺産の自慢という文脈で言えば、つまり自らの創造物ではない収集品の自慢の「伝統」を考えれば、アキバ系オタク文化こそ我が日本の伝統文化の粋、そのような言い方も出来ますが。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/02/04 00:36 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/20888/user_id/316274

 

 

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岡本太郎 『日本の伝統』 1

 岡本太郎の『日本の伝統』を初めて読んだのは、まだ私が高校生の頃、なんと30年以上も前の話だ。

 岡本太郎の作品については、実は、それほど評価していない。…というか、いなかった。
 岡本太郎自身の芸術論の絵解き、そんな感想が付きまとってしまうところがあったからだと思う。
 
「キレイなものじゃなくって、なんだこれは!!と思わせるものが芸術なんだ」
 
 …というような話を、あの表情を交えてしている姿を、度々、テレビ画面で観たりして、話自体には納得しながらも、どこか、作品がその芸術論の説明・絵解きで終わってしまっているように感じられてしまっていたのだった。
 
 夏休みに、娘の求めに応じて、再発見された「明日の神話」を、暑い中、日テレまで観に行った。これまでの印象の再確認と同時に、そこに込められた岡本太郎のエネルギーの大きさには、やはり、頭を下げずにはいられなかった。やっぱ、すげーや、そう思いました。
 
 で、本題の『日本の伝統』。
 最初は高校生向け(?)の松田道雄のアンソロジーに採録されていた第1章「伝統とは創造である」の文章に感銘を受け(つまりオオウケし)たのが始まりだった。
 家に帰り、その話をすると、母は書棚から『日本の伝統』を抜き出して見せるじゃありませんか(家にあったわけ)。で、全文読みました。ますます感銘を受け(オオウケし)、岡本太郎ファン誕生となったのでございました(それでも作品は好きではなかったのですが)。
 
 で、『日本の伝統』。このところの、「美しい国」だなんだかんだの話の中で、日本の「伝統」が持ち出されるのを見るに及び、あんたら、そいつぁ、ちょっと話がおかしかぁござんせんか、という気分は膨らむばかり。
 それで、今回、娘のために文庫化されたのを買ってきたところなので、ここで、ちょっとご紹介を、そう思ったわけでございます(光文社 知恵の森文庫)。

 

 
 伝統を徹底的に見かえす ― それが『日本の伝統』の目的です。
 似て非なるものほど、非なるものはありません。伝統主義者ほど伝統について見当ちがいしているものはないでしょう。古いものをカサにきて、現実を侮辱するなんて、これくらい非伝統的であり、人間として卑怯なことはありません。そういう気分にたいする憤りから、私はこの本を書いたのです。…

 

 

 昭和31年8月15日に書かれた「はじめに」の一節です。

 
 第1章では、亀井勝一郎や竹山道雄の文章を取り上げてコキ下ろしています。そこが実に痛快で、若き日の私は大いに感銘を受けました(オオウケだったわけ)。ホントは、そこから全文引用したいくらいですが、字数制限で諦めましょう(まずは書店でどうぞ)。
で、戦後日本の駅前風景の醜悪さを嘆くだけの竹山道雄をコキ下ろした続きで、

 

 

 それが現実であり、現代日本文化の姿であるならば、全面的におのれに引きうけなければならない。ツバをひっかけただけで通りすぎるとはもってのほかです。まず冷静に正視する。それは、のりこえる第一の前提です。残酷な、絶望的な現実であるならばこそ、あるがままを認め、そこから出発する決意を持つべきです。すなわち芸術の問題であり伝統にたいする正しい態度だと思います。

 ところが彼らは、その点をごまかしています。(自分たちが小指の先だけでも力をかしたわけではないのに、)まるでおのれの権利ででもあるかのように古典をふりかざし、過去のがわにたって居丈高く現在をいやしめ、今日ただいま、おのれが負わなければならない責任をのがれている。卑怯です。これが今日の伝統主義者なのです。

 

 
…と、言い切っています。そして、

 

 

 すべての古典はそれぞれの時代に、あらゆる抵抗にたいして現在を決意し、たくましい生命力を充実させた精神の成果です。過去の権威によりかからず、おのれを卑下せず、はげしく生ききった気配にあふれています。そういうものだけが伝統として、精神的に、肉体的に、われわれ現在を決意したものにびりびりつたわってくるのです。

 

 

「古典はその時代のモダンアートだった」という小見出しの文章の一節です。

                    ― 続く ―

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/02/03 23:57 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/20865/user_id/316274

 

 

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引き裂かれた家族の肖像 新正卓写真展 (現代史のトラウマ その15)

 

 11月25日の日記で、武蔵野美術大学内で開催されている、新正卓さんの写真展を取り上げた。
 写真展は、昨日で終了してしまったのだが、木曜日にもう一度足を運ぶことが出来た。今回は、前回の日記の延長として、再度、新正さんの写真について書いておくことにしたい。

 最初に、「現代史のトラウマ日記」の一つとして書いた、新正さんが私たちの前に提示して見せてくれた、写真の中の時間について。


 今回は、特に「双家族」と題されたシリーズについて考えることによって、より詳しく問題に接近してみたい。

 1986年から、1988年にかけて、日本と中国で撮影された、中国に留まざるをえなかった「残留孤児」と日本に住むその家族の写真の組み合わせ。1990年に東京のニコンサロンの個展で発表されたもの。
 図録の年譜によると、そのような撮影と発表の経緯をたどり、まだ写真集という形での刊行はないようだ。今回の展覧会の図録は、ハードカバーの写真集として後日刊行予定のようなので、その際に作品を見ていただきたい。

 残留孤児の方々それぞれの事情(中国国内の家族状況など)が一方にあり、日本国内の家族事情がもう一方にあり、本人の日本帰国が叶わなかった離ればなれのままの家族の写真。中国国内で撮影された本人の写真と、日本国内で撮影された家族(親であったり、兄弟姉妹であったり)の写真が並べて展示されている。

 そこにある時間を、あらためて考えた。

 キャプションとして、姓名、生年月日、撮影地、撮影年月が表示されている。
 例えば、
呂 雅之(妹・近藤綾子)昭和10.2.26生 黒龍江省佳木斯市旧旭国民学校 1987.7 (新正卓が入学した国民学校。彼女は多分1年先輩だろう。)
黒川安治(兄)大正11.1.23生、黒川好美(安治の娘)昭和32.8.30生 長野県下伊那郡 1986.2
        という具合である。

 最初に、満洲国の崩壊の時点、家族が離ればなれとならざるをえなかった時点での年齢がある。
妹10歳。兄23歳。
撮影時の年齢。
妹52歳。兄64歳。兄の娘28歳。
現在の年齢。
妹71歳。兄84歳。兄の娘49歳。

 満洲国の崩壊とは、大日本帝国の崩壊の時であった。大日本帝国軍隊の策謀により建国された満洲国が、大東亜戦争の敗北による大日本帝国の崩壊により地上から姿を消した時のこと。大日本帝国の国策と共に満洲国民となった家族が離散に直面する時であった。
 この例では、残留時の年齢は10歳であるが、生後数ヶ月で家族から離されているケースも多い。いずれにせよ、本来の家族からは引き離され、中国人のもとで育てられた40年を超える歳月が撮影時までに経過しているのである。その間の労苦は想像を超えている。そして、日本国内まで引き揚げられた家族にしても、決して平穏な40数年間ではなかったはずだ。そのような年月が撮影時までに既に経過していた。
 そして、写真を私が見ている現在がある。撮影時から20年近い年月が経過してしまっているのである。この兄妹の両親は既に世を去っていることであろう。兄の娘には何人の子どもがいるのであろうか。妹の家族は、どんな様子なのであろうか。
 この兄弟の上を経過した61年間という時間を想う、のである。昭和20年8月からの61年である。
 もちろん、昭和20年8月までの家族の日々という時間も、それ以前にあった。
 1枚の写真が喚起してしまう時間。その重層した時間を私は前にしたのだった。

 前回にも書いたように、そこにある時間は、大日本帝国と日本国、この二つの、しかし 不可分の国家がこの家族の上に刻印した時間でもあるのだ。引き裂かれた家族の、苦労と悲哀に満ちた戦後61年という時間に対して、この国家は実に酷薄であった。穏やかな表情で、こちらを見つめる兄と妹。別の国で暮らす兄と妹の姿。その写真の背後に隠れているのは、今、私たちが暮らす国の姿、ということだ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/12/17 23:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/15072/user_id/316274

 

 

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新正 卓 写真展 1 (現代史のトラウマ、その9)

 

 本日は土曜日。実は土曜に休みが取れたのは、かなり、久しぶり。

 土曜は、普段(この夏まで)だと、娘のとろろ丼と、銀座のギャラリーをブラブラ、とか一日どこかの美術館で過ごす、というスタイルだった。
 最近は、仕事も地元の小平で(自転車でふらふら片道20分通勤)という東京の田舎の日々。中央線に乗る、ということも平日はない。
 で、土曜日は、中央線に乗り街に出る。ギャラリーや美術館に加え、美味しい一服や買い物。まぁ、CD買い込みウハウハという一日ともなる。
 銀座辺りのギャラリーは日曜休みが普通なので、ギャラリー巡りオアズケ状態が若干ストレス化しつつあった(加えて、このところの日曜は撮影で美術館もオアズケ)のも正直なところ。出来なくなってみて初めてわかる普段の生活スタイルを発見、てところですかね。

 そこで、今日は、久方ぶりの銀座を考えていたのですが、夕方に地元で一仕事あったことに気付き取り止め。武蔵野美術大学内の展覧会を見に行くこととしました。

 娘と家を出たのが2時過ぎ。お目当ての展覧会が3つ。だったものの、時間の関係で観られたのは、写真家(美大の教授でもある)の新正卓さんの写真展のみでした。


 私にとっては、非常に刺激的なものでした。

 新正さんは、元々はコマーシャル写真がスタートだった人です。
 昭和20年8月15日には家族と共に満洲にいました。つまり、その後に引き揚げ体験を持つ多くの日本人のひとりということです。
 新正さんは、その難民体験のさなかに乳母であった女性と生き別れとなります。その女性が1978年に日本に一時帰国を果たします。翌年、孫のいる中国へ帰った女性のところを訪ねました。写真家の訪問を知った中国残留者が50人ほど新正さんの到着を待ち構えています。そこで、ホテルのロビーでシーツをバックにして撮ったのが『私は誰ですか』という写真集に結実する一連の写真でした。

 以後、それ以前からの撮影地ブラジルは、日系移民の地という新たな視線での撮影の場となります。米国移民とその後ろにある強制収容体験の影、シベリアへ強制連行された捕虜達の残した建設物(オペラハウス、アパート、鉄橋、ダム…)の50年後の姿。そして米国で出会った先住民の姿(力強いマイノリティーの肖像)。
 先住民をテーマにすえたもの以外には、あの戦争をはさんだ日本が、そこに残したままにしたものが写っています。移民、捕虜、米国先住民。相対的、絶対的な弱者として生きることを人生の条件としてきた、せざるをえなかった、させられた人々の姿。

 撮影することによって定着されるそれぞれの姿。
 それぞれの生年から撮影時までの年月。撮影・発表時から現在までの年月。そして撮影時の一瞬。3つの時間がそこに同時にあります。
 写真が示せる時間は、決して、撮影時の一瞬にとどまるものではない。そのことが、見る者(少なくとも私の)の心に染みわたります。シャッターを押すことの意味、の発見のときでした。
 そのすべての時間に、日本の、戦前・戦中・戦後の日本の国策が影としてまとわりついています。そして、考えなくてはならないのは、シャッターの一瞬から現在までの時間。そこにあるのは、80年代以後の、私たちの時代です。私たちの日本が、依然として放置したままにしている時間が、そこにはある、ということです。
 写真を見るということ、そして、写真が見せることが出来ること。ここでは、時間の提示、私たち自身が責任を負わねばならぬ時間の提示が、新正卓の手でなされていた、そのように思います。


武蔵野美術大学 9号館地下展示室  ~12月16日(日曜日休館)

   ”黙示 ARAMASA Taku Photographs” 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/11/25 23:51 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/12013/user_id/316274

 

 

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