カテゴリー「文化・芸術」の記事

2019年5月17日 (金)

モバイル・タイニー・バウハウス

 

 

 2019年はバウハウス100周年に当る。1919年、第一次世界大戦敗戦後のドイツ、ヴァイマールの地に設立された教育施設。いわゆるモダン・デザインの先導者であった。

 1925年にデッサウへ移転し、理念を具現化した校舎を建設する。

 

 なんと、そのデッサウの校舎がモバイル化されているのであった!

 

 

Tiny Bauhaus: smallest 2-room apartment & school on wheels
  
https://www.youtube.com/watch?v=x7UIx-iTyR4

 

 

 ミニマムサイズの様々な住居の試みを中心に動画取材しているキルステン・ディルクセン(Kirsten Dirksen)氏によって、この「Tiny Bauhaus」も紹介されていたのである(数日前の話)。

 ラオス出身のヴァン・ボー・ル=メンツェル(Van Bo Le-Mentzel)氏の作品であり、動画中にもタイニー・バウハウスの内部を案内し、インタビューに応える本人の姿も記録されている。

 

 

 私個人の好みとして、このタイニー・バウハウスは実に愛おしく魅力的である。

 動画のコメント欄には、丸見えのバスルームはどうなのよ的意見も散見されるが、そして私自身もそのような見解を共有することも確かではあるにしても、実用性を上回るデザインの魅力を認めざるを得ない。

 

 

 そのタイニー・バウハウスの設置場所もまた、動画の見どころであろう。ドイツの「古都」そのものといったリューネブルクの街の佇まい。そのリューネブルクのロイファナ大学構内にタイニー・バウハウスが停車している(建物の下には車輪が見える)のである。

 映し出されるロイファナ大学のキャンパスで目を引くのが、ダニエル・リベスキンド設計の校舎である。いわゆる脱構築主義建築の代表者である。

 古風な町並みの中の自己主張炸裂型脱構築主義建築に対峙する形で、モダン・デザイン建築の見本のようなデッサウのバウハウス校舎(もはや古典である)のミニチュアが静かに停車しているのである。

 

 

 

 だからどうした、と言われても困るが、個人的には実に楽しい光景なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2018年12月27日 (木)

明治の悪童と修身 (『實驗 日本修身書巻八 高等小學 生徒用』)

 

 古本の価値というのは様々だと思うが、かつての持ち主の書き込みを読むという楽しみもある。もっとも、最近の出版物(出版後10数年程度)であれば、新本でないがゆえの安価な入手法としての古書店利用もあり、その場合は当然ながら書き込みのないものを選ぶ。

 しかし、戦後復興期以前の出版物となると、書き込みの内容から、当時の読者の関心のあり方を読み取るという楽しみ方もあり、あえて書き込みのある古書に手を出すこともある。

 

 今回は、古書市で手に入れた、落書き炸裂の明治期の修身教科書の紹介である。

 

 

 

 三宅米吉 中根淑 校閲 渡邊政吉 編纂 『實驗 日本修身書巻八 高等小學 生徒用』 (明治廿七年一月十六日 文部省檢定済) 東京 金港堂書籍會社 明治廿六年(1893)  定價 金七銭

 

 2015年に、改装前の立川フロム中武の古書市で購入。価は500円であった。

 

 

 

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(表紙)

 

 表紙を一瞥して、特徴ある筆法(いわゆる「ひげ題目」系)から、日蓮宗関係の書かと思いきや、そうではなかった。修身の教科書!

 

 

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(見返し)

 

 こちらも、タイトル部分は日蓮宗的筆法が加えられている(持ち主の生家が日蓮宗、という生育環境の反映か?)。

 肖像が誰のものかは、教養が足りず、不分明。筆描きの肖像の上方には、鉛筆描きによる富士山がある。題目風にあらためられたタイトルの下方には、「大日帝國萬歳萬歳萬歳」の文字もある。

 

 これだけでも、なんとも豪快な修身教科書への落書きだが、本文については至って真面目で、鉛筆による漢字表記への振り仮名が付されている程度である。

 

 

 そして…

 

 

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(奥付、裏表紙の見返し)

 

 裏表紙側の見返しに描かれているのは、さらに豪快で怪異な西郷従道の肖像であった。やたら長い足に、股間からは謎の生物(?)の姿。

 ちなみに、従道は、

 

  さいごうつぐみち【西郷従道】
  1843‐1902(天保14‐明治35)
  明治時代の軍人,政治家,元老。本名は隆興,通称信吾。薩摩国鹿児島城下に生まれる。西郷隆盛の実弟。1869年(明治2)山県有朋とともに兵制研究のため渡欧(プロイセン,フランス,ロシア)し,帰国後兵部権大丞陸軍少将,兵部少輔,陸軍少輔,同大輔に進む。74年陸軍中将兼台湾蕃地事務都督に任ぜられ,政府の中止命令をおして台湾へ出兵した。76年征台の功により最初の勲一等に叙せられる。78年参議兼文部卿次いで陸軍卿に就任し,81年農商務卿,84年伯爵,そして85年内閣制の成立を機に海軍大臣となった。
     (平凡社/世界大百科事典 第2版)

 

このような人物である。経歴を反映して、落書上でも当初記された「陸」の字が消され(そのままでは「陸」軍大将)、従道の肩書は「海軍大将」に換えられている(背景には軍艦)。

 怪異な肖像が描かれた当時(従道は第二次伊藤内閣で海軍大臣に任じられていた)、すなわち明治27(1894)年は日清戦争の年でもある。先の「大日帝國萬歳萬歳萬歳」の文字も、そのような時代の空気を反映したものであろうか。

 

 

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(見返しの裏)

 

 先の西郷従道の肖像は、見返しの上に描かれていたものだが、見返し紙は貼られた裏表紙の裏からはがされ、裏表紙の裏には鉛筆画が描かれている。「徳川時代風俗」、ということらしい。

 まだ明治20年代の話なので、「徳川時代」は持ち主の父母の生まれた時代である(たかだか20数年前まで「徳川時代」が続いていたのである―もっとも、描かれているのは徳川時代初期をイメージさせる戦闘モードの武将の姿であるが)。

 

 

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(裏表紙)

 

 持ち主の名が記されている。この奔放豪快な落書きの作者は、当人の署名により、小川八郎君と判明。生年は明治10年代、1885年前後であろうか(19世紀の話なのだ)。

 裏表紙には、日清戦争らしき戦場が描かれている(まさに日清戦争最中の小川八郎君の高揚感が伝わる)。しかし、なぜか、戦場の手前を走るのは、軍服姿の帝國軍人ではなく、烏帽子姿の人物である(八郎君の想像力上の必然から生まれた表現であろうが、21世紀の私の想像力は、その「必然」に届かない)。

 

 

 「大日帝國」は日清戦争で勝利し、日露戦争で勝利し、第一次世界大戦でも勝者の側にあったが、支那事変以来の大東亞戦争では敗者となる。昭和20年には還暦前後となっていた小川八郎氏は、どのような老人(かつての日本では60歳は既に立派な老人である)となっていたであろうか? 「大日帝國」の近代をどのように経験したのであろうか?

 

 

 

 『日本修身書巻八』の第十七課では、以下のように説かれている。

 

 

  人の質性は、生まれながらにして、完備せるはなし。されば、人皆自ら其の身の長ずる所と、短なる所とを知り、其の長ずる所を助けて、ますます長ぜしめ、其の短なる所を養ひて、漸く長ぜしめんことを務めざるべからず。斯くの如くするを、自ら其の身を修むといふ。自ら其の身を修むるは、何人にも極めて大切なり。人としては、多少父母教師の教へを受けざるものもなかるべければ、自修の心なくとも、無下に愚かなるものともならざるべし。されども、自修の心なきときは、父母教師の教へも、深く其の心に入らざるべければ、其の人に取りて、大いなる損なり。
     (第十七課 「修養」から抜き書き)

 

 

 この豪快に落書き(むしろ「落描き」と呼ぶべきか?)された修身教科書から、小川八郎少年は何を学び取ったのであろうか? この奔放豪快さを八郎少年の「身の長ずる所」として理解し、「其の長ずる所を助けて、ますます長ぜしめ」ようとした高等小學校教師との出会いはあったであろうか?

 

 

 

(小川八郎少年は、学校での修身の授業の度に、教室でこの教科書を開いていたのであろうか? とすれば相当な悪童である。 それとも進級して用済みになってから、教科書を落書帳へと転用したのであろうか? 本文ページが無事なところからすると、落書帳転用説も弱い。 やはり悪童説が妥当なのであろうか?)

 

 

 

 

 

((オリジナルは、投稿日時 : 2018/12/27 13:02 → https://www.freeml.com/bl/316274/323029/

 

 

 

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2017年11月26日 (日)

B-29 (米国の技術開発力)

 

 いわゆる「先の大戦」(大東亜戦争、第二次世界大戦、太平洋戦争、あるいはアジア太平洋戦争等、様々に呼ばれるが)を語るに際して、「日本は米国の物量に負けた」という言い方があるが、その点については既に「クライスラーの戦車」、「B-29 (物量としての米国の生産力)」、そして「フォードの爆撃機、あるいはロージーのリベレーター」と題した記事を通して、米国の隔絶した生産力の実際を紹介してきた。

 米国の自動車産業や航空機メーカーの広報用フィルムを通して見えたのは「詳細な設計の進行と同時に、戦車生産のために新たな工場を建設してしまう米国の自動車メーカーの底力」であり、「人種、経歴、性別、年齢、障害の有無を問わずに団結して生産に集中する米国の総力戦状況、そして近代的な生産ラインの詳細に加え、工場の福利厚生の充実ぶり」を誇る航空機メーカーの姿であり、「最終的には一時間に一機のペースでの製造には成功し、最盛期には月産650機を記録するところまで到達」させてしまうフォードシステムの大量生産方式による四発重爆撃機生産の実情であり、「様々な工程が既に女性労働者によって置換されていること」及び「(その前提となる)充実した職業訓練・教育」の様相であった。

 

 

 これらのフィルムが示すのは、「日本は米国の物量に負けた」との言明の正当性であろう。彼我の間にある生産能力の絶対的な隔絶は否定し得ない。

 先の言明に加え「日本は米国の物量と技術に負けた」との認識もまた、当時の実情を理解しさえすれば正当なものとして導かれるはずであるが、「日本は米国の物量には負けたが技術力では勝っていた」との言説を目にする機会も多い。しかし、これは「負け惜しみ」以外の何物でもなく、言説としての妥当性がないことは歴史の現実(いわゆる「近現代史の真実」ではなく「現実」が)が示している。

 

 これまでは「物量」に焦点を合わせ、対米戦争時における否定し難い日米間の国力の差を明らかにしてきたが、今回は日米間の隔絶した「技術力の差」を直視しておくこととしたい。

 

 今回もまた、あの「先の大戦(大東亜戦争)」における米国の圧倒的な軍事力の象徴とも位置付けられる四発重爆撃機、あの憎っくきB-29の姿を通して、問題が生産力の差=物量だけにあるのではなく、技術力の差=技術開発力の差にもあることを明らかにしてみたい。巨大な生産力が最先端技術を物量として供給し、圧倒的な戦力の差を生み出すことで、大日本帝國を敗戦に追い込んだのである。

 

 

 

 飯山幸伸氏は、その著書『B-29恐るべし』(光人社NF文庫 2011)中の一章を「B-29に用いられた諸革新的技術」と題し、B-29に盛り込まれた技術の革新的側面を明らかにするために割いている。

 高高度を高速で飛行可能にした技術として飯山氏は、まず新たな翼面設計(モデル177翼型)と大馬力エンジン(ライトR-3350デュプレックス・サイクロン)に加えて装備された排気タービン過給機(GE製のB-11過給機)の存在を挙げている。

 続けて「与圧キャビン」と「ノルデン爆撃照準器」、そして「遠隔操作銃塔」について書いている。与圧キャビンは搭乗員への負担のない高高度飛行を可能にし(B-17やB-24もタービン式過給機を装備することでスペック的には高高度性能を獲得していたが、与圧キャビンは未開発で、高高度での搭乗員への負担は大き過ぎた)、ノルデン照準器(こちらはB-17にもB-24にも装備されていた)が高高度からの精密爆撃を可能にし(可能にするはずであった)、迎撃用火力の「遠隔操作」化は与圧キャビンには必須の技術であると同時に防御力向上に資するシステムであった。

 

 ここからは特に「遠隔操作銃塔」(The Remote Control Turret System (RCT) あるいは Central Station Fire Control System)に焦点を当て、その「革新的技術」ぶりを明らかにしていきたい。

 

 

 

 まず紹介するのはシアトルのボーイング社にある(現在の)展示の映像だが、操作の実際がわかるはずだ。

 

 

B-29 gun turret sighting system at Boeing Seattle Part 1
 
https://www.youtube.com/watch?v=nskFayhBcy0

 

Gun turret sighting system for B-29 at Boeing, Seattle
(B-29 gun turret sighting system Boeing Seattle part II)
 
https://www.youtube.com/watch?v=5h4yBxydz0E

 

 

 照準器の操作に動力銃塔が連動し、銃弾が発射されるメカニズムの実際である。

 

 

 次は当時の軍のB-29搭乗員用トレーニングフィルムからの短い抜粋(註:1)だが、ここでは機銃手の搭乗位置と遠隔操作される銃塔の関係を押えておきたい(一人の銃手による複数の銃塔の同時操作―いわば一人の銃手による集中砲火―が可能になっているのだ)。

 

 

The B-29 Superfortress Gun Turrets
 
https://www.youtube.com/watch?v=gy9uCtgcL3A

 

 

 次に続くのは装置を開発したGE(ジェネラルエレクトリック―日本語での公式表記は「ゼネラル・エレクトリック」であるらしい)作成の広報用フィルムで、アニメーションを多用した解説が興味深い(しかもカラーである)。

 

 

Central Station Fire Control System - ca. 1944
 
https://www.youtube.com/watch?v=yABTembGYhg

 

 

 (組み込まれているのは真空管であるが)当時の最先端の電子装置システム(Central Station Fire Control System)により、銃塔がリモートコントロール(遠隔操作)されるメカニズムがカラーアニメを用いて説明されている。GEという民間企業が自身の技術力のアピールのためにカラーアニメを製作してしまうのである(それだけで彼我の国力の差は明らかである)。

 

 

 しかし、B-29に装備された「遠隔操作銃塔」に盛り込まれた革新的技術の核心は、このリモコンシステムにあるわけではない。実はこのシステムにはコンピューターが組み込まれ、単に搭載機銃を動力により間接操作する(もちろんそれだけでも重い機銃と銃塔を風圧に抗して手動で操作する労力からの機銃手の解放を意味する)のみならず、弾道の補正が自動化されることで命中精度の向上もが実現されているのである(註:2)。

 

 

 高速で飛行する爆撃機に装備された機銃により、高速で飛行し攻撃してくる敵戦闘機を迎撃することがどれだけ困難であることか想像し得ているだろうか?

 ここではB-17の側面機銃手のトリガー・ジョーを主人公(声優はメル・ブランク)としたアニメ仕立ての米軍のトレーニングフィルムを通して問題の所在を確認しておこう。

 

 

B-17 Waist Gunner Mel Blanc: "Position Firing" 1944 USAAF Training Film; WWII Aerial Gunnery Cartoon
 
https://www.youtube.com/watch?v=DqoUdd9Ge4E

 

 

 アニメ中でジョーが求められるのは、頭の中で銃弾の到達位置をシミュレーションし、機銃を適切に操作する能力である。機銃手は一瞬にして爆撃機の速度、高度を把握し、敵戦闘機の速度を把握し、距離を把握し、進行方向を把握し、照準外の(照準内に捉えた敵戦闘機からは離れた)適切な位置に機銃を向け発射しなければならない(しかも高高度を高速で飛行するB-17での話であり、側面機銃の操作は酸素の薄いマイナス20~30度の機内で大きな風圧に抗して行わなくてはならず、それだけでも機銃手の負担は大きいのに→註:3)。

 当時の記録フィルムの中の機銃手の映像から、あるいは『頭上の敵機』や『メンフィス・ベル』のような映画を観る際にも、このような機銃手に求められているスキルを意識することはなかっただろう。

 B-29に搭載された遠隔操作銃塔に組み込まれたコンピューターシステムは、敵戦闘機に照準を合わせさえすれば照準外に位置する適切な掃射方向を割り出し、機銃手の負担を軽減する。ただし、敵戦闘機との距離は自身で確認し入力(ボーイング社でのデモンストレーション動画でも説明されているように)する必要は残されているが、機銃手は敵戦闘機に照準を合わせるだけで弾道の補正はGE製の「Central Station Fire Control System」に任せれば済む(しかも離れた位置にある複数の銃塔の弾道補正計算と射撃を、一人の銃手が担当するひとつの照準システムの操作で可能にしているのだ)。

 

 

 あらためて、文林堂の「世界の傑作機シリーズ」の『ボーイングB-29』(1995)にある牧英雄氏の論考「ボーイングB-29スーパーフォートレス 開発と各型」から「武装」の項の記述を引用しておこう。

 

    照準器は銃本体と分離した与圧室内にあり、見越し角計算などすべてコンピューターが管制するので、銃手は照準器に目標を捉え距離の変化を追う操作をするだけで、自動的に射線を算出する。むろん、尾翼などが射角に入れば、自動的に射撃は中止される。また操作はいずれも正副2系統用意されスイッチで切り替わるほか、一方の射手が離れた場合自動的に複数を管制するようになる。床下にある装甲付きブラックボックスに不都合が生じた場合は、マニュアル操作も可能である。
  これらの火器のすべてを管制するのが後部与圧室の回転椅子に位置するCFC手で、このほか通常の担当は前上方=爆撃手/CFC手、前下方=爆撃手/側方銃手、後上方=CFC手/側方銃手、後下方=側方銃手、尾部=尾部銃手/側方銃手 となる。
     (16~17ページ)

 

 この牧氏の論考には、B-29に搭載された「Central Station Fire Control System」について、もう一つの興味深い記述がある。試作型のXB-29に搭載されていたのはGE製ではなかったのである。

 

    このため(徹底的な空気抵抗の軽減のため―引用者)突起した銃塔は敬遠されたが、防御上の必要から装備せざるを得ず、ベンディックス、スペリー、ウェスチングハウス、ジェネラル・エレクトリック(GE)の各社が競った結果、ペリスコープ式照準器のスペリー製が採用された。
     (13ページ)

 

 XB-29に搭載されていたスペリー製のペリスコープ式照準器は結果的にジェネラル・エレクトリックのシステムに変更されることになったわけだが、その選定に際して大きな役割を演じたのがポール・ティベッツ(Paul Warfield Tibbets, Jr)とそのチームであった。あのエノラ・ゲイの機長であったティベッツである(註:4)。

 

 ティベッツは1942年2月にはB-17の部隊長(340爆撃飛行隊)としてヨーロッパで部隊を率い、25回の出撃回数を達成。1943年3月に米国本土でのB-29(初飛行は1942年9月だったが試作2号機の墜落など様々なトラブルに直面していた)の戦闘能力評価任務に就く。実戦配備へ向けてのその任務の中には武装の評価も含まれており、スペリー製のペリスコープ式照準器システム(こちらにも自動弾道補正コンピューターが組み込まれていた)とGE製システムの比較評価も行われた。その際に、射撃テスト等を行ったのは、やはり後に共にティベッツの率いる第509混成部隊(原爆投下の実施部隊)に所属することとなったジョージ・キャロン(George Robert Caron 原爆投下の際のエノラ・ゲイの尾部銃手も務めている。キャロンは投下直後の原爆の「キノコ雲」の撮影者でもある)とケネス・イードネス(Kenneth L. Eidnes)であった。両者は軍の動力銃塔操作学校(Power Operated Gun Turret School)の同期で、1943年9月に卒業し、1943年10月にB-29の武器試験担当者として配属されている(註:5)。

 彼らのスペリー製システムに対する評価は低く、GE製が採用されることになる(The GE system proved to be very good)。問題となったのはスペリーが採用したペリスコープ方式(GEは反射型光像式を採用)で、視野が限定され操作も煩雑となる潜望鏡(ペリスコープ)方式が、重爆撃機の防御武装として実際的ではないと判断されたのである(註:6)。

 

 

 ちなみに、スペリー製システムはB-29のバックアップ機として開発されたコンソリーデッド社のXB-32爆撃機にも搭載されていた。XB-32に搭載されたスペリー製システムに関する論考に掲載された解説図を引いておく。照準器の形式を除けば、GE製のシステムと同様の原理に基づいたものであり、米軍が必要と考えた(そして実際に装備した)「遠隔操作銃塔」を理解する上での参考になるはずだ。

 

 

The geometry of air-to-air gunfire control problem
 
https://m.eet.com/media/1175647/fig8.jpg
 https://www.edn.com/Home/PrintView?contentItemId=4402983

 

 ジョーの直面させられた問題がいかなるものであったかへの理解を深めらる(アニメ上のジョーの標的は静止状態想定であるのに対し、、現実の敵戦闘機は高速で運動する)と共に、「先の大戦」の時代に米国が実際に開発し配備した「遠隔操作銃塔」のシステム(Central Station Fire Control System)の技術的卓越性も再確認し得るであろう。

 

 この装置を組み込んだ四発重爆撃機B-29の生産機数は3970機に及ぶ(生産機数が3970なのは、その時点で戦争が終結してしまったからである―生産能力の限界を意味するわけではない)。我が大日本帝國の爆撃機の生産機数で最大を記録しているのは海軍の一式陸上攻撃機だが、双発に過ぎない爆撃機の生産機数は2416機にとどまる(生産期間も一式陸攻の方が長いにもかかわらず)。もちろん、与圧キャビンもなければ、「Central Station Fire Control System」もない(しかも一式陸攻の爆弾搭載量はB-29の十分の一でしかない―B-29の一機は十機の一式陸攻に相当する)。物量、技術、そのどちらを見ても彼我の国力の絶対的隔絶は明らかであろう。

 それでも「日本は米国の物量には負けたが技術力では勝っていた」などと主張し得ると考えるのであろうか?

 

 

 

【註:1】
 全編は、B-29 Flight Procedure and Combat Crew Functioning 1944 US Army Air Forces
 → https://www.youtube.com/watch?v=RsOUXqSh2xs

【註:2】
 Central Station Fire Control AND THE B-29 REMOTE CONTROL TURRET SYSTEM
 (→ http://www.twinbeech.com/CFCsystem.htm
 The Cannons on the B-29 Bomber Were a Mid-Century Engineering Masterpiece
 (→ http://www.popularmechanics.com/military/weapons/a18343/the-cannons-on-the-b-29-bomber-were-a-mid-century-engineering-masterpiece/
 Engineering the B-29's Armament
 (→ http://legendsintheirowntime.com/LiTOT/Content/1945/B29_IA_4503_armament.html

【註:3】
 アニメのジョーも軽装で身軽だが、高高度では機銃を操作する前に死んでしまう(与圧キャビンの装備されていないB-17の場合、搭乗員は外気にさらされた状態同様―特に側面機銃手は―なのである)。

  機体を敵戦闘機の攻撃から守るため、銃手が機関銃を撃ちまくるシーンは劇映画『メンフィス・ベル』などでお馴染みだろうが、映画だと一般に軽装なのが気になる。この撮影用ポーズをとった写真にしても、実戦では考えられない軽装だ。まず、高度6,000~7,000mというところを飛ぶのだから、酸素マスクは必ずしなければならない。それに真夏でもそういう高度では零下20~30℃なのだから、暖房があるにしても側面窓を空けて射撃するには手袋も必需品。高射砲に直撃されたらどうしようもないが、負傷の多くは爆発による破片が原因だから、それらを防ぐフラックヘルメットやフラックベストもつけたいところだ。
     側面機銃手の写真へのキャプション(『ボーイングB-17フライングフォートレス』 文林堂 2007 105ページ)
 

 ジョーの搭乗しているのはB-17のG型であるが、後には側面機銃用にも照準の補正計算機能を持つK-13サイトが採用され(同書47ページ、115ページ)、「後部側面銃座の位置を左右でずらして銃手が動きやすいようにするとともに、それまで戦闘時には開け放して(ママ)部分に、中央に機関銃のソケットを設けたガラス窓をはめ込み、銃手を寒気から守る改造も途中から採用された(同書117ページ)」と仕様が変更されている。ジョーの負担も軽減されたことになる。

 与圧キャビンの装備された機密性の高いB-29の場合、酸素マスクは必要ないし、寒さに凍えることもない。牧英雄氏の論考の「与圧室」の項には以下のようにある。

  3分割で尾部は直径6in(152㎜)のパイプで後部与圧室と結合。通常8,000ft(2,400m)で与圧開始。空気圧は8,000~30,000ft(9,145m)まで8,000ftの30,000ft以上は30,000ft時の圧力差を維持する。コンプレッサーで圧縮された空気は、内側エンジンのターボ過給機を通ることにより冷暖房を調整でき、機関士の操作で送管装置を通じ与圧各室に送られる。このため乗員は高度30,000ftでも特別装備なしに行動可能。
     (15ページ)

 (「遠隔操作銃塔」は、気密性の維持の必要を満たすためのシステムでもあった)

【註:4】
 Tibbets, Paul Warfield, Jr.
 (→ http://www.nationalaviation.org/our-enshrinees/tibbets-paul-warfield-jr/

【註:5】
 KENNETH L. EIDNES AND THE 509TH COMPOSITE
 (→  http://b-29.org/509th/509th-history/509th-history.html
 George R. Caron
 (→ https://www.findagrave.com/memorial/467015

【註:6】
 Design hindsight from the tail-gunner position of a WWII bomber, Part one
 (→ https://www.edn.com/Home/PrintView?contentItemId=4402983

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/11/25 21:54 → https://www.freeml.com/bl/316274/314468/

 

 

 

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2017年10月15日 (日)

総統閣下vsオペラ対訳プロジェクト、そしてパーキンソン病

 

 いわゆる「総統閣下シリーズ」の最新作ということになる(2017/10/12 に公開)だろうか? 映画『ヒトラー ~最期の12日間~』(2004)のドイツ語のセリフに原語と異なる字幕をつけて楽しむお遊びだが、英語圏の「YOUTUBE」で様々な英語字幕バージョンが作成され、日本語圏でも「ニコニコ動画」に様々な日本語字幕バージョンがアップされている。

 今回の「総統閣下は「オペラ対訳プロジェクト」にお怒りのようです」は、私も利用させてもらうことのある「オペラ対訳プロジェクト」による日本語字幕で、時事ネタ込みの(「総統閣下シリーズ」モノの中でも)秀逸なパロディー作品として仕上がっているように思う。

 せっかくの秀逸作を忘れてしまわないように、ブログ記事としてアップして何時でもアクセス可能にしておく作戦を採用した次第である。

 

 

 

総統閣下は「オペラ対訳プロジェクト」にお怒りのようです
 
https://www.youtube.com/watch?v=fnW1TpHZeyo

 

 

 「オペラ対訳プロジェクト」は、オペラ作品を中心とした(オペラだけではなく、バッハの『マタイ受難曲』なども含む)過去の名盤の録音に日本語対訳をつけてアップするという、手元に輸入盤しかない際にとても役立つプロジェクトで、私もチャンネル登録してしまっていたりするのだが、その「中の人」が実はこの手のお遊びにも手を抜かないことを知って、ますます同志的気分を味わったりしているのである。

 

 中身そのものを解説したりするのは野暮な話だと思うので、ここで触れることはしない。

 

 

 ただ、せっかくの機会なので、そもそもヒトラーの実像を描くことを目指した映画作品であった『ヒトラー ~最期の12日間~』にちなみ、小長谷正明『ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足 神経内科からみた20世紀』(中公新書 1999)から、神経内科的背景を抜き書きしておきたい。

 

 

  筆者は神経内科医である。脳や脊髄、末梢神経、筋肉などのはたらきの異常を診るのが専門だ。精神科ではない。シビレなどの感覚障害、ふるえやマヒなどが主な症状だ。だから、目にする人の立ち居ふるまいや、表情、声の調子などが気になる。そして、二〇世紀は科学技術の世紀であり、映像の世紀でもある。会えるはずのない、海の向こうや歴史の彼方の政治家、それに雲の上の人の歩き方や動作をテレビで見ることができ、ついプロ意識で病気かどうかを診断することがある。いわば神経内科医の本能で、ヒトラーのふるえや毛沢東のすり足もブラウン管を通して視診した。そこで、二〇世紀のリーダーたちの神経疾患を調べてみて、歴史に投げかけた影を考えてみた。
          同書「まえがき」より

 

 これが同書における小長谷氏の問題意識・基本姿勢である。小長谷氏は、同じく「まえがき」の中で、

 

  もちろん、筆者はこの書物の中の独裁者やリーダーたちの主治医でもないし、カルテなどの第一次資料などをみることも出来ないので、文献にたよらざるをえない。病気の解釈については、単なるうわさやしろうと判断の推測は、書きすすめる上でなるべく排除するようにした。症状の目撃談などはべつとして、基本的にはきちんとした学術雑誌に載った医学論文、あるいは主治医ないしはその場にいた医師の回想録により、医学的客観性をたもつように心がけた。

 

このように書いているが、実際に読み進めてみると、原則としてその姿勢に貫かれていることも確認出来る。

 

 

 映画の『ヒトラー ~最期の12日間~』の方は、同名(邦訳タイトルは原題とは異なるようだが)のヨアヒム・フェストの著作とヒトラーの個人秘書であったトラウドゥル・ユンゲによる回想録を基にドラマ化したものだが、時系列的には、どちらも小長谷氏の著作より遅れての出版物であり映像作品である。出版物はドキュメントであり、映画はドキュメント作品に基くドラマである。

 時系列上、どちらも小長谷氏が依拠するわけにはいかなかったが、

  二〇世紀は科学技術の世紀であり、映像の世紀でもある。会えるはずのない、海の向こうや歴史の彼方の政治家、それに雲の上の人の歩き方や動作をテレビで見ることができ、ついプロ意識で病気かどうかを診断することがある。いわば神経内科医の本能で、ヒトラーのふるえや毛沢東のすり足もブラウン管を通して視診した。

 

20世紀ならではのドキュメント映像が、「視診」を可能にし、加えて「学術雑誌に載った医学論文、あるいは主治医ないしはその場にいた医師の回想録」等のドキュメントが、小長谷氏の判断を支えているのである。

 

 

 テレビでドキュメンタリー番組(番組中では第二次大戦末期のドイツのニュース映画が紹介されていた)を見ていた小長谷氏は、「厚く重苦しい外套を着たアドルフ・ヒトラーが硬い表情で肩を丸め、ぎこちない動作で足をはこん」でいる姿を前にする。

 

  が、次の瞬間、筆者の目は画面に釘づけになった。ヒトラーの左手がふるえているのである。神経内科医のプロ意識がわきあがってきた。診察する目で観察した。そのふるえは、見なれたパターンである。パーキンソン病のそれであった。
     同書「震える総統――ヒトラー」より

 

 もちろん、小長谷氏は、映像を通した自身の視診に加え、「学術雑誌に載った医学論文、あるいは主治医ないしはその場にいた医師の回想録」等に目を通すことを怠らない。

 

  調べてみると、ヒトラーの病気についてのいくつかの医学論文と学術的な単行本がドイツから出版されていた。エレン・ギッベルスという女性の神経学者は一五年間にわたって『ドイツ週刊ニュース』という映画に映っているヒトラーの動作を検討し、医学的考察を行っている。
  それによると、ごくわずかながらも動作が鈍くなったのは一九四一年であり、左手の症状も出てきている。四三年からは、自動車から降りたり、腰をおろしたりするような動作シーンがニュース映画からなくなっている。左手はいつもからだの後ろに回したり、ポケットに入れたりして映らなくなった。
  表情の動きは四四年から少なくなり、顔つきは陰気になっている。笑っているときでも、顔の動きが少なく、「凍り付いた」笑いとなっていた。また、このころから左足を引きずって歩くようになっている。
  ギッベルスは、ニュース映画の中のヒトラーの左右の手の動きやぎこちなさ、表情、歩行、姿勢などの症状の程度によって、〇点から四点までの点数をつけて定量的な分析をしている。パーキンソン病の症状は一九四一年の中ごろにはあらわれており、左側から発症し、やがて右側にも症状が出現した。四五年の戦争末期にはホーン=ヤールの重症度分類二度くらいの障害度だったという。

 

 

  ある秘書はヒトラーのふるえについて書いている。
「日報に目を通すときには、ヒトラーはいつも左手で眼鏡を握っていましたが、その手がふるえるたびに眼鏡が机の表面に当って、カタカタと音をたてていました。唇は干からび、パンくずで覆われ、衣服はたべもので汚れていました」

 

 

  ある記録によると、四二年の東部戦線の大本営地下壕では、イスから立ち上がるにも人の手を借り、支えられて歩いていた。声はぼそぼそとして聞きとりにくく、口もとからよだれを垂らしていたとある。これは二度のパーキンソンではない。少なくとも三度の障害度である。

 

 

  ヒトラーに長いあいだ仕えた参謀将校によると、最後のころの様子は次のようなものだ。
「総統はみるからに恐ろしげな様子であり、苦しそうに、ぎこちなく足を引きずって歩きまわっていた。地下壕の自分の居間から会議室へ行くときには、上半身を前方に投げ出すようにして、足を引きずって歩いていた。バランス感覚はなくなり、ごく短い距離(たかだか二〇~三〇メートル)を歩く途中で、立ち止まらなければならないときは、壁の両側に置かれた総統専用のベンチに腰を下したり、話し相手にしがみついたりした。目は充血していたし、提出された書類はみな特製の『総統専用タイプライター』で普通サイズより三倍も大きな字で打ってあったが、それでも拡大鏡を使ってやっと読めるようだった。しょっちゅう、口の両端からよだれが垂れていた」
  目のことは別として、総統とか地下壕という言葉がなければ、そのまま教科書に載せてもよいような、中等度以上に進んだパーキンソン病の典型的な症例報告である。

 

 

  一九四三年二月、スターリングラードの第六軍が赤軍に降伏した直後、ヒトラーはソ連前面の東部戦線、マンシュタイン元帥の司令部を訪れた。そこにいた元帥の伝令将校シュタールベルクの、昼の作戦会議でのヒトラーの印象はさえないものだった。総統の頭は肩から前に垂れ、制服は食べ物かすで汚れ、無表情のままで地図をみていた。くたびれはてていた。そして顎がふるえつづけていた。夕方の会議になると、それが激変していた。
「……そのわたしの目に、ヒトラーが会議室に入ってきたとき、まったく予期せぬものが映った。今日の昼や昨日とはうって変わった別人のヒトラーが部屋に入ってきたのである。姿勢のたるんだ落ちぶれたような男は、突如として、背筋をのばし、ヴァイタリティのあるひきしまった姿になっていた。……ヒトラーが朝遅くまで寝ているのを好み、夜明け方近くになってから就寝するということは、われわれも知っていた。しかし、これほどまでの体調の変化が、生活リズム上の原因のみで生じるとは思われなかった。なんらかの薬物の効果があったにちがいない」

 

 

 小長谷氏によれば、「ヒトラーは主治医から七七種類もの薬を処方されていた」ということであり、特にシュタールベルクの「薬物の効果」については、

 

  ヒトラーの飲んでいた覚醒剤はメタンフェタミンである。これはヒロポン、つまりアンフェタミンと同じく、ドパミンによく似た化学構造をしている。もともとこれらの覚醒剤は脳の中ではつくられていないが、外から入ると、ドパミンが作用する細胞に、似たような効果をあらわす。またコカインは、化学構造式は似ていないが脳のかなのドパミン量を増やしたり、効果を強める作用がある。
  ドパミンは運動をスムースにするだけではなく、精神活動を活発にする神経伝達物質である。だから、覚醒剤やコカインは、脳の中のドパミン作動系というシステムにはたらいて、気分を高めているのだ。ドパミン不足のパーキンソン病は、精神的には抑うつ状態である。きっとヒトラーは、負け戦でなくともブルーな気分であっただろう。今日の治療では、ふるえやトボトボ歩きへの効果ほどではないにしても、Lドパでうつ症状も多少はよくなっていく。
  パーキンソン病の患者にコカインや覚醒剤を投与したらどうなるかという論文を読んだことはないが、薬理作用からみて、鈍い動作やふるえなどの症状が改善されるのはまちがいない。こう考えると、ヒトラーの覚醒剤・コカイン常用はパーキンソン病と関係していたとも推定できる。覚醒剤やコカインなどの処方は、病気や薬理作用などをふまえてのことではなく、ヒトラーが経験的に自分に必要なのを知っていて要求したのかもしれない。
  東部戦線の司令部で目撃された、ヒトラーの症状のドラマティックな変わりようも、その間にモレルたち主治医が到着していたことを考え合わせると、覚醒剤などが使われたと推定できる。
  もう一つ、ヒトラーへの処方でパーキンソン病と関係がありそうなのは、アンチガスという薬だ。これの主成分は、アセチルコリンの作用を抑えるアトロピンである。アセチルコリンは胃腸のはたらきを活発にしたり、汗を分泌させるはたらきがある。ヒトラーはよくおならをしていて、またひどい汗かきでいつも臭かったという。彼の前では、悪臭の話題を持ち出してはいけないことになっていた。アセチルコリンのシステムがはたらき過ぎているので、それを抑えるためにアトロピンを飲んでいた。
  アトロピンは目にも作用して、瞳孔を広げる。戦争末期のヒトラーが、異様に輝く目をしているのは、アンチガスの成分のアトロピンのためだという。

 

このように記されている。

 小長谷氏によれば、パーキンソン病患者は、ドパミンが不足する一方で、アセチルコリン過剰な状態となる。ドパミン不足に対応するのが覚醒剤やコカインであり、アセチルコリンの過剰に対応するのがアトロピンを主成分とするアンチガス投与ということらしい。

 

 

 いずれにせよ、「総統閣下シリーズ」の総統の姿、その下敷きとなった『ヒトラー ~最期の12日間~』の中でのブルーノ・ガンツ演じるヒトラーの姿に、この小長谷氏の描く神経内科的ヒトラー像を重ねると、よりリアルに映像を(どちらの映像をも)味わうことが出来るようになるはずだ。

 

 

 

  日報に目を通すときには、ヒトラーはいつも左手で眼鏡を握っていましたが、その手がふるえるたびに眼鏡が机の表面に当って、カタカタと音をたてていました。唇は干からび、パンくずで覆われ、衣服はたべもので汚れていました。

 

  イスから立ち上がるにも人の手を借り、支えられて歩いていた。声はぼそぼそとして聞きとりにくく、口もとからよだれを垂らしていた

 

  総統はみるからに恐ろしげな様子であり、苦しそうに、ぎこちなく足を引きずって歩きまわっていた。地下壕の自分の居間から会議室へ行くときには、上半身を前方に投げ出すようにして、足を引きずって歩いていた。バランス感覚はなくなり、ごく短い距離(たかだか二〇~三〇メートル)を歩く途中で、立ち止まらなければならないときは、壁の両側に置かれた総統専用のベンチに腰を下したり、話し相手にしがみついたりした。目は充血していたし、提出された書類はみな特製の『総統専用タイプライター』で普通サイズより三倍も大きな字で打ってあったが、それでも拡大鏡を使ってやっと読めるようだった。しょっちゅう、口の両端からよだれが垂れていた

 

  昼の作戦会議でのヒトラーの印象はさえないものだった。総統の頭は肩から前に垂れ、制服は食べ物かすで汚れ、無表情のままで地図をみていた。くたびれはてていた。そして顎がふるえつづけていた。

 

  ヒトラーはよくおならをしていて、またひどい汗かきでいつも臭かったという。彼の前では、悪臭の話題を持ち出してはいけないことになっていた。

 

 

 

 これが、あの独裁者の現実の姿と考えるとどこか滑稽な印象も抱いてしまうが、しかしヒトラーのエピソードの背後に見えるのはパーキンソン病患者の日常である。自分の身体が自分の思い通りにならないというのは、誰にとっても辛い話である。

 

 

 

 

 

 最後にオマケ的に、かつて英語圏で作成された「総統閣下シリーズ」作品を紹介しておこう。

 私が初めて接した作品(2008/12/29 に公開)であると同時に、その秀逸さに感心させられた作品でもある。

 

 

 

Adolf Hitler - Vista Problems!
 
https://www.youtube.com/watch?v=JSF39LmpxCY 

 

 

 

 当時、私も総統同様に「Vista Problems」に悩まされていたことを、久しぶりに思い出した。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 :  2017/10/15 07:57 → http://www.freeml.com/bl/316274/312781/

 

 

 

 

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2017年8月12日 (土)

芦原義信のテニスコート

 

 

  ニューギニアで飛行場の建設をしたが、飛行機が一機も飛来しないうちに米軍の攻撃を受け、使い物にならなくなった。引き上げ間際、一度も使わないのは残念だということで軍医と二人でこの滑走路でテニスをした。
     (『芦原義信 建築アーカイブ展 ―モダニズムにかけた夢』 武蔵野美術大学 美術館・図書館 2017  154ページ)

 

 

 「芦原義信 建築アーカイブ展 ―モダニズムにかけた夢」の図録、「芦原義信略年譜」の1942年の項にあるエピソードである。もっとも、その出来事が同年の話なのかどうかは判然としないところが残るが、海軍の技術士官として飛行場の建設に関わり、「引き上げ間際、一度も使わないのは残念だということで軍医と二人でこの滑走路でテニスをした」顛末は印象深い。

 展示会場(展示会場となっている「美術館」自体が―増改築はされているが―そもそもは1967年に芦原義信により、展示室を含む「図書館棟」として設計されたものだ)にあった「略年譜」にもこの顛末は掲載されており、武蔵野美術大学のキャンパス計画の骨格の作成者であり、キャンパス内の代表的な建物群の設計者でもある芦原の戦時期のエピソードとして、建築作品の背後にある芦原の人物像を(私の中で)決定付けるものとなった。

 

 「略年譜」によれば、1918年生まれの芦原義信は、1940年4月に東京帝国大学工学部建築学科に入学、1942年9月に卒業し「海軍技術士官として入隊、各種建築(橋梁、飛行場等の計画・実施)を担当」となっている。

 東京帝大出身の若き技術士官と軍医の組合せによる「滑走路でテニス」には、両者の出身階層が反映されているようにも思われ、私の関心を引いたのである。

 

 「略年譜」の出生年の項には、

  医者の父、信之の五男。兄に舞台・音楽評論家の芦原英了、母方の叔父に画家の藤田嗣治がいる

このようにも記されており、芦原が(当時の用語で言えば)「有産階級」の出身者であることは明らかであろう。医科系大学出身者の任官する「軍医」もまた、軍隊内では士官待遇を受ける存在であり、東京帝大出身者芦原と同一階層に属する人物と推測され得る。当時の用語法では、「有産階級」(いわゆる「成金」は除いての話だが)には「知識階級」と呼ばれる場面もあり、そこには大学における高等教育を受ける「階層」であることが含意されている。その「技術士官」と「軍医」の組合せによる「テニス」なのである。義務教育だけの階層、すなわち庶民の多くには、「テニス」は無縁のスポーツであったはずである。

 

 芦原の「出身階層」をさらに際立たせるエピソードが、同展図録の「武蔵野美術大学赴任までのこと」と題された夫人の芦原初子氏へのインタビュー記事にある。

 

  主人と初めて出会ったのは軽井沢でした。ちょうど主人が東大に入った頃です。私の兄がずっと成城で、主人は高校だけ成城でしたので知ってはいたんですね。そして成城時代の兄の親しい友達が主人とも親しくて、軽井沢に来たときに主人を連れてうちに遊びにいらしたんです。二人で馬に乗ってね(笑)。それで一目合ったらもう、パッと両方で惚れちゃって。翌日から主人は友達そっちのけで毎日のようにやって来るんですよ。それで一緒にトランプなんかして、それが始まりですね。私がしばらく津田塾の寄宿舎にいたものですから、ラブレターがいっぱい来てましたよ。
     (同展図録 103ページ)

 

両者が軽井沢に別荘を持ち、避暑の地とするような階層に属していたことが、あらためて明らかになるはずだ。まさに「良家の子女」同士の出会いのエピソードである(現在の天皇夫妻の初めての出会いの場が、十数年後の軽井沢のテニスコートであった事実もが思い起こされる)。再確認しておくと、「主人と初めて出会ったのは軽井沢でした。ちょうど主人が東大に入った頃です」というエピソードは、1940(昭和15)年前後ということになり、1937(昭和12)年の盧溝橋事件以来(継続する「支那事変」下で)の「戦時期日本」での話なのである。

 

 

 ここで、この時期(すなわち「戦時日本」である)に、別荘地に無縁な階層の底辺が置かれていた「住まい」に関する状況を見ておこう。

 

  昭和13年当時の厚生省生活課技師の報告によると、「先般各地軍需工場地帯に於ける労務者の居住状況を視る機会を得て、痛感した事は、労務者殊に農村から見習工として集まって来た人々に住居の欠乏していることである。例えば、4畳半に4人、6畳に6人と云ふ過密状況が各所に見られ、或は15坪以上もある広い部屋を急設して、採光通風等考慮せず、唯寝る場所を与へて押入れもない室内に寝具、荷物を散乱させ、20~30名の新人工が合宿している。所謂万年床は随所にあり、殊に夜勤者が昼間強い日光を浴び乍ら寝苦しさうな様を見て、斯かる状態は長期戦のもとに何時迄も黙過出来ぬことと痛感した。徒に生理的欲求を斥けることなく、疲労恢復に適する最小限の住居と、体力を維持増進するに足る栄養の供給とは、殊に銃後の第一線を守る軍需工場労務者には、確固たる方針を以つて之が万全を期すべきである。
     大本圭野 「戦時住宅政策の展開過程(2)―日本的住宅政策の原型」 (『季刊・社会保障研究 Vol.19 No.4』 1984  433ページ)

 

別荘地での避暑(そしてテニス)とは無縁の、戦時期日本の軍需産業の「労務者」の姿が明らかになるだろう。すなわち、当時の用語法での「無産階級」の現実である。

 

 

 もちろん、軍需生産の拡大は至上命令であり、労務者の居住環境の改善の必要性も、当時の重要な政策課題として意識されていた。

 

  戦時下における「産業戦士」たる労務者に対する住宅の供給は、戦争目的完遂に直接寄与するもので、最大の課題であった。
  昭和14年度においては厚生省を中心として、企画院、大蔵、商工、農林、内務、陸・海軍等の関係省庁の協議のもとに労務者住宅供給3ヵ年計画(昭和14年8月2日)が樹立された。これは軍需ならびに生産力拡充3ヵ年計画(昭和14年1月17日)による労務動員に対応したもので昭和14年度より16年度に至る3ヵ年計画である。
     大本圭野前掲論文(434ページ)

 

こうして第一期(14年度)住宅計画がスタートするが、既に肝心の建築資材の入手難(実は建築用の木材の供給源もまた米国であった―いわゆる「米材」である―のだが、対米戦争以前のこの段階で既に「外貨不足」に直面しており、木材についても輸入制限が必要となった)に陥っており、計画の実現は最初から困難となっていた。

 その流れの中で、昭和14年2月23日には「従来、住宅諸政策は厚生省社会局生活課の中で取り扱われていたが、以上の必要から独立した住宅課を設置」するに至り、更に昭和16年5月1日には「住宅営団」が設立される。

 

  住宅営団が初年度の『昭和16年度事業計画』の冒頭で掲げた目標は「三万戸ノ建設完遂」であり、「陸海軍関係労務者住宅ノ需要ヲ相当充足スルト共ニ、主トシテ都市ニ於ケル軍需及生産力拡充事業関係労務者ニ対シ、保健的ナル小住宅ノ急速供給ヲ為シ以テ時局ノ緊急ナル要請ニ応ズル」ことを目指した。ただし、目標の「三万戸ノ建設」の「完遂」は、年度内に3万戸〔うち東京支所1万3000戸〕の住宅を「竣工」することではなく、年度内に3万戸の住宅建設に「着手」することを指している。
     小野浩 「戦時総動員体制下の住宅供給」 (『熊本大学産業経営研究 第36号』 2017  抜刷10~11ページ)

 

そして、

 

  1941年6月、東京支所は107戸の分譲住宅の申込受付を開始した。これは東京支所の記念すべき初の分譲住宅であったが、もとは同潤会が建設に着手した「職工向分譲住宅〔板橋第二住宅地〕である。つまり、住宅営団が同潤会の事業を継承したあとに竣工したものである。
     小野浩前掲論文(同11ページ)

 

つまり、首都圏では、住宅営団は同潤会の事業の継承者として業務を開始していることになる。

 

 

  同潤会は、大正13年(1924)5月23日に、関東大震災の罹災者のための住宅供給を目的として創設された日本で最初の本格的な公的住宅供給機関である。その後を住宅営団に引き継ぐ昭和16年(1941)までのおよそ18年間、普通住宅、アパートメント、分譲住宅の住宅供給及び住宅調査などの事業を行い、戦前期の住宅供給に大きな役割を果たした。
     内田青蔵・安野彰・窪田美穂子 「同潤会の木造分譲住宅事業に関する基礎的研究―遺構調査を中心に―」 (住総研 『研究年報 No.30』 2003  113ページ)

 

  同潤会の活動は大きく三期に分けることができる。すなわち、第1期(大正13年~昭和4年)は、関東大震災罹災者のために小住宅(仮住宅)を供給し、次に人々を収容・教育することを第1の目的として、また普通住宅、アパートメントハウスの建設を行った。第2期(昭和5年~昭和13年)は、勤人向分譲住宅の建設事業を中心とする一方、アパートメント居住者の調査など、実施した建築の試みの検証を行った。昭和16年の住宅営団への発展的解散までの第3期(昭和14年~昭和16年)は、日中戦争に始まる戦争体制(軍事工場の設立、工場の生産拡張)による労働者の住宅不足に対応した質より量の確保を重視した受託事業を中心に行った。
  この第2期の主な事業であった木造独立分譲住宅事業は、昭和3年~13年までの間に「勤人」を対象として建設・分譲された勤人向分譲住宅と、昭和9年~16年までの間に「職工」を対象として建設・分譲された職工向分譲住宅とに大別される。勤人向木造分譲住宅は、東京17ヶ所、神奈川3ヶ所の計20ヶ所に、合計524戸の住宅が建設された。
     同論文(114ページ)

 

ここで「勤人」として想定されているのは「ホワイトカラー」のサラリーマンで、「職工」は「ブルーカラー」の労働者と考えてよいであろう。

 

 

 さて、テニスコートである。

 

 大月敏雄氏の「まちなみ図譜・文献逍遥 其ノ十五」(『家とまちなみ 65』 2012)では、『建築寫眞類聚 木造小住宅』(洪洋社 昭和3年)により、同潤会の「普通住宅」の実際の町並みや間取りが当時の写真と図面の組合せにより紹介されている。

 特にこの中にある「表1 同潤会木造普通住宅一覧」が、まず私の興味を引いたのであった。

 そこには、『同潤会十年史』を出典として、赤羽、十條、西荻窪、荏原、大井、砂町、松江、尾久、新山下町、瀧頭、大岡、井土ヶ谷の12か所の住宅名が記載され、各住宅の付帯施設の概要も記されている。同潤会初期の「普通住宅街」には、「付帯施設」にテニスコートを含むものが、赤羽、十條、西荻窪、松江、大岡の五か所を占める事実に(少なくとも私は)驚かされた。

 

 第2期の「勤人向住宅」は、明らかにホワイトカラー・サラリーマン階層を意識した一戸建ての住宅であり、住宅街の付帯施設としてテニスコートが組み込まれていても、それほどの意外性は感じられないであろうが、二階建木造長屋形式が基本の「普通住宅」では、まだ災害からの復興住宅としての位置付けがまさり、居住者としてのホワイトカラー・サラリーマン階層が意識されての公的住宅供給政策段階には至っていないように思える。

 実際、ターゲットとした階層の反応について、「ところで、この普通住宅事業の失敗は、見方を変えれば、低所得者の間に交通費を払いながら郊外に居を構えて通勤するという方法が、まだ受け入れられていなかったことを意味するといえる」との評価(内田青蔵 『同潤会に学べ、住まいの思想とそのデザイン』 王国社 2004 ―ただし中川寛子「同潤会による品川区中延二丁目の木造長屋群がいよいよ建替えへ」からの孫引き)が示されているが、そこには普通住宅事業のターゲットが「低所得者」であったことも明記されている。

 

 「普通住宅」の付帯施設としては、「娯楽室」が最も多く(11例)、次いで「児童遊園」(9例)、他には「医院(診療所)」や「食堂」等があるが、私が注目するのは2例の「託児所」の存在である。現在であれば「保育園」だが、当時の「託児所」は、むしろ低所得者・貧困層向けの施設として位置付けられていたのであり、すなわち確かに「普通住宅」の居住者として低所得者・貧困層が想定されていたことを意味する。

 付帯施設としてのテニスコートに反映されているのは、居住者として想定される階層への配慮というよりは、設計者の階層にとってのスタンダードではなかっただろうか? テニスコートが5例あるのに対し託児所が2例にとどまるのは、低所得者・貧困層にとっての託児所の必要性・切実感が、帝大卒の設計者の間では共有されていなかった故の話とも思われる。

 

 

  当時、東京帝国大学教授であった内田祥三は、同潤会が設立されるにおよび、その理事として同潤会に関わるようになった。そしてすぐさま、弟子であった川元良一を三菱地所から引き抜き、同潤会建設部長の椅子に座らせ、幾人かの東大建築学科を出たての若者を同潤会に送り込んだ。
     大月敏雄前掲記事(66ページ)

 

 この内田祥三について「芦原義信略年譜」には、芦原義信の入学当時の東大建築学科教授陣のひとりとして名が記されている。

 

 同潤会初期の「普通住宅」の付帯施設にテニスコートを組み込んだ設計者と、戦時下のニューギニアで放棄することになった飛行場の滑走路でテニスをした芦原義信は、同じ東大建築学科に所属した同一階層出身者であったことが理解されるであろう。

 もちろん、有産階級出身者でなくとも学歴による階層の上昇が可能であった時代の話である。旧制高校から帝大のコースへの参入は元々の出身階層からの離脱・上昇をもたらすが、そこでは上位階層の価値観・生活様式の内面化も果たされ、テニスコートのある生活様式も内面化されるわけである。

 先の託児所の話にからめて言えば、別荘を持つような有産階級の幼子が通うとすればそれは「託児所」ではなく「幼稚園」であった。

 無産者ではないにしても別荘は持たない家に生まれ、それでも旧制高校から大学へ進み、(官吏であれ会社員であれ)ホワイトカラー・サラリーマンとなり得た人々の結婚後の住まいとして想定されていたのが、まさに同潤会の「勤人向住宅」であったと言えよう。子どもが生まれれば幼稚園に通わせるのが、「勤人向住宅」の住人となった人々のモデルとなる生活様式であり、まさに『コドモアサヒ』の誌面に描かれた生活様式である。そこに示された生活水準を到達すべきモデルとすることから始まり、子どもを介した読者として生活様式を内面化し、昇進と収入の増加が『コドモアサヒ』の世界を現実化する。そんな勤人向住宅の居住者たちこそ、理想的な(あるいは典型的な)『コドモアサヒ』の購読者層であったかも知れない(「「コドモアサヒの時代」展を観る」を参照―昭和16年の連載記事の一つが、木村きよしによる「幼稚園メグリ」シリーズであった)。

 

 芦原は1972年に「KPIタウン造成」(企業社宅としての集合住宅群である)に関わっているが、起伏のある広大な敷地に設計・建築された住宅群の付帯施設としてサッカー場、バスケットコートと共にテニスコートを用意している。ここでの芦原は、テニスコートのある生活を既に内面化した1970年代のサラリーマン家族のために、テニスコートのある企業社宅街を設計したことになる(ちなみに、高低差のある敷地に建設された地上4階の家族向け住宅群には、武蔵野美術大学7号館と同様の設計上の仕掛けが施されている点も興味深かった)。

 

 

 

 さて、芦原義信は「ニューギニアで飛行場の建設をしたが、飛行機が一機も飛来しないうちに米軍の攻撃を受け、使い物にならなくなった。引き上げ間際、一度も使わないのは残念だということで軍医と二人でこの滑走路でテニスをした」わけだが、芦原と軍医は自ら建設した飛行場をテニスコートに転用したことになる。設計者の意図を超えた建築設備の転用は珍しいことではないだろうが、ここでの芦原の行為もその事例に加えられ得るであろう。一方で、芦原の先輩格となる同潤会普通住宅の設計者がプランに組み込んだテニスコートも、戦争の苛烈化に伴い食糧増産のために農地に転用された可能性は大きい。滑走路がテニスコートとなり、テニスコートが農園となる。これもまた戦時期の日本の経験であった。

 

 最後に再び「略年譜」に戻ろう。

 1945年9月、27歳の芦原義信は「海軍技術大尉から復員」する。多くの戦死・戦病死者(その大半が餓死である)を出したニューギニアに一度は配属されながらも内地へ転属となり、最終的に「復員」を果たし得たことは実に幸運なことであった―芦原も自身の幸運について深い思いを抱いたであろう。復員した芦原の前にあったのは戦災により「焼け野原」となった東京であった。「戦時期日本」は「敗戦」(当時は「終戦」と呼ばれたが)により「戦後」の時間を迎える。

 大震災により「焼け野原」となった東京の「復興」を記念して「帝都復興記念式典」が開催されたのが1930(昭和5)年、「復興記念館」が建てられたのが1931(昭和6)年のことであり、まさに同潤会が「復興」に重点を置いた罹災者向けの「普通住宅」から、ホワイトカラー・サラリーマンをターゲットとした「勤人向住宅」建設へとシフトした時期に重なる。同潤会の住宅の多くは(当時の)郊外に建設されたために戦災を免れたが、都心は都市無差別爆撃によって(再び)「焼け野原」となっていたのである。すなわち、「戦後」の東京は再び「復興」されるべき都市となっていたのである。

 1946年2月、芦原は「東京都復興計画懸賞設計に佳作入選」を果たす。「略年譜」には、「新宿をテーマに設計した。この入選が建築家に戻る契機となった」とある。この「東京都復興計画」が、「滑走路でテニスをした」海軍技術士官であった芦原義信の建築家としての「戦後」のスタートであった。

 あらためて振り返れば、1972年の「KPIタウン造成」に組み込まれたテニスコートは、「戦後」の時間の経過、「復興期」としての「戦後」が既に過去のものとなったことを象徴的に示すもののようにも見える。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/08/12 19:52 → http://www.freeml.com/bl/316274/310306/

 

 

 

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2017年5月31日 (水)

エビデンスの力~西嶋真司監督の『抗い』(2016)

 

 本年の「メイシネマ祭’17」では、最終日の最終上映作品となった西嶋真司監督の『抗い』(2016)しか観られなかった。4週間近く前の話だ。しかし、その印象はまだ生々しい。

 

 

 

 ファクト(事実)を支えるエビデンス(根拠)の力。徹底的にエビデンスに拘り、ファクトに迫り続ける記録作家―林えいだい―の姿。

 2017年はトランプ大統領就任の年でもある。トランプと取り巻きは、自分たちに都合の悪いあらゆる情報を何の根拠も示さずにフェイク・ニュース(偽ニュース)と切り捨て、自ら発信する虚偽をオルタナティブ・ファクト(代替事実)と呼ぶことで問題を処理し続けている。

 

    ファクト(事実)やエビデンス(根拠)に対する政治的攻撃が強まっているとして多くの人が不安を募らせているなか、科学者やその支持者たちのデモ「科学のための行進(March for Science)」が22日に米首都ワシントン(Washington D.C.)を中心に世界600以上の都市で初めて行われる。
     (AFP 2017/04/22 15:27)

 

 この記事(そこにある切迫した危機感)が、記録作家の林えいだいの姿を追ったドキュメンタリー作品を観る私の中に、何度も反響し続けた。

 

 作品のホームページの記述を援用すれば、林えいだいは、「徹底した聞き取り調査により、朝鮮人強制連行、差別問題、特攻隊の実相など、人々を苦しめた歴史的事実の闇を追求し続けている」記録作家である。正直に私にとっての林えいだい体験を告白すれば、そのテーマの余りな重さに、著作に目を通すことを先延ばしにしてきた作家でもある。

 

 そんな私が、メイシネマ祭の会場で、画面の中の林えいだいと対面することになったのである。

 

 『抗い』の中では、林えいだいの著作のいくつかが、そしてその取材の核心が紹介される。

 たとえば朝鮮人炭坑夫を殴り殺した日本人労務主任を探し出し、実際のその証言を引き出し、まさにその証言をエビデンスとして、ファクトとしての日本近代における朝鮮人炭坑夫の境遇を明らかにするのである。

 その徹底的な取材が、ファクト(事実)としての歴史叙述を支えることになる。「近現代史の真実」と称する代替事実(すなわち虚偽)が氾濫するのが21世紀の最初の十数年の現実である(たとえば「朝鮮人強制連行問題の基本構図」参照)。林えいだいが、その徹底的に緻密な取材を通して明らかにするのは、当事者の証言を通して明らかにされるのは、近代日本の「事実」なのである。

 

 西嶋真司監督による取材が、その林えいだいの姿―徹底してエビデンスを追い求めファクトを追求する記録作家の気迫、その背後で記録作家を突き動かす戦時期日本での父母のエピソード―を映像記録としてとどめ、私たちの前に示してくれるのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/05/31 18:39 → http://www.freeml.com/bl/316274/305681/

 

 

 

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2017年4月15日 (土)

トランプ、スターリン、プーチン、ブレジネフ、そして聖マティスの肖像

 

 前回は、「ロシア構成主義的ドナルド・トランプ・イメージ」と題して、数あるドナルド・トランプ大統領ネタ画像の中でもソヴィエト・ロシアのプロパガンダ・アート・パロディとして秀逸だと思われるものを紹介した。

 特に、「ロシア構成主義」として知られる、当時の最先端スタイルによる作品(のパロディ)を取り上げたが、それはまさにソヴィエト・ロシアのプロパガンダ・アートが芸術(美術)の前衛であった時代のポスター・デザインである。「革命」は政治の問題であるだけでなく、芸術もまた「革命」を経験していたのだ。

 しかし、そんな時代は長続きすることなく、「社会主義リアリズム」と呼ばれる表現形式が政治的に推奨され、芸術は政治の従属物に成り下がり、芸術上の革命の時代は終焉を迎える。

 

 

 しかし、古典的な表現形式で描かれたスターリンの肖像に代表される「社会主義リアリズム」の絵画もまた、パロディ作家にとっては良い素材となり、例えばスターリンの肖像がトランプの肖像として蘇るのを楽しむことが出来る。

 

 

 

alternative facts - pravda comrade !
  
https://1.bp.blogspot.com/-eDDGOX_e3xY/WLh7kMc0ctI/AAAAAAABLkk/eWeOIWPOLP8D3UEUj-87yJjyalSj7JLGQCLcB/s1600/Trump-Alternative-Facts-Pravda-Comrade.jpg

 

 

 このパロディー作品の下敷きとなっているスターリンの肖像でも、執務机に重ねられた郵便物の下に描かれているのが御用新聞の『プラウダ』であることに気付くであろうが、パロディー作品ではその『プラウダ』の存在が生かされ、笑いの源泉へと転化している。

 

 

   stalin with pravda
   
https://zibbet.s3.amazonaws.com/uploads/photo/file/8734527/gallery_hero_il_fullxfull.409219358_ofmi.jpg

 

 

 「プラウダ」はロシア語で「真実」を意味するが、御用新聞としての『プラウダ』の紙面は「真実」の報道とは遠いものとなっていた。

 その事実が、自身に都合の悪い報道を全て「fake news(嘘ニュース)」と呼び、自身の主張の誤りが明らかとなっても「alternative fact(代替的事実)」と言い張る、ドナルド・トランプ自身とその取り巻きの姿に見事に重なるのである。

 トランプが求めるのは『ニューヨークタイムス』の報道スタイルでもなければ『CNN』の報道でもなく、まさに『プラウダ』の報道スタイルに違いない、と多くの者は考えるであろうところに、このパロディー作品が成立するわけだ。

 

 

 実際、そんなトランプ政権による合衆国の政治は、内政でも外政でも混乱続きである。いまだに特筆すべき成果は見られない。

 

 

 トランプとその取り巻きによる政権運営に混乱の続く中、政権内で内外からの信頼を獲得しているのは、国防長官に就任したジェームス・ノーマン・マティス元海兵隊大将その人であろう。

 

 早速、20世紀の美術をはるかに遡る16世紀の祭壇画を思わせる様式で描かれた、マティス国防長官の肖像画を鑑賞することとしよう。

 

 

saint mattis of quantico
  
http://www.catholic.org/files/images/media/14806999051961_700.jpg

 

 

 右手に手榴弾、左手にナイフを持つ元海兵隊司令官の頭の背後には、金色に輝く中に「M A D D O G」の文字が刻まれている。

 「クアンティコの聖マティス」とされていることが興味を引くかも知れないが、「クアンティコ」は海兵隊基地の存在で知られている土地である。そして、更に画面を見ることで「クアンティコの聖マティス」が「カオス(大混乱)」の「守護聖人」であることにも気付くであろう。マティス国防長官は(少なくとも今のところ)、大混乱の続くトランプ政権内で、平静を保ち続けている数少ない人物の一人(もう一人であろうマクマスター安全保障担当補佐官もまた軍出身者であるが)であると、多くの人に思われているはずだ。まさに大混乱を続ける政権の守護聖人の役割である。

 

 

 

 

 続くのは、画像検索の際に見つけた(2024年のものとされる)プーチンの肖像画である。下敷きとなっているのは、長く政権に居座り続け、ソ連を停滞に導いたブレジネフの肖像である。

 大量の勲章で飾り立てた軍服に身を包んだ傲慢そうな老人。スターリンの肖像以来の重厚なスタイルで描かれた、まさにブレジネフとしてのプーチンだ。

 

 

putin-brezhnev-2024
  
http://www.irishmanabroad.com/wp-content/uploads/2011/10/Putin-Brezhnev.jpg

 

 

 

 最後は、ソヴィエト・ロシアの様式で描かれたトランプ及びプーチンの姿から一転して、米国を代表するプロパガンダ・デザインのパロディとして描かれたプーチンの姿である。

 

 

 

i want ukraine
  
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/736x/6f/16/ec/6f16ec0e0e3417cc9ab0d81ed3170adf.jpg

 

 

 

 プーチンには、アンクルサムの衣装もよく似合うのであった。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/04/15 19:20 → http://www.freeml.com/bl/316274/302483/

 

 

 

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ロシア構成主義的ドナルド・トランプ・イメージ

 

 今回は、いわば「「偉大な指導者」としてのドナルド・トランプ・イメージ」の続きとなる、ネタの源泉としてのドナルド・トランプ大統領をめぐる記事である。

 

 

 

 紹介するのは「soviet propaganda poster trump」とか「russian constructivism trump」といった検索語での画像探索時の発見物だが、ソ連時代のプロパガンダ・ポスターのパロディとして実にに秀逸なものだと感じた。

 

 


Photo Illustration by Cristiana Couceiro.
  
http://media.vanityfair.com/photos/58d974523753ee611fd2475e/master/h_606,c_limit/russian-fake-news-04-17.jpg

 

 

 いわゆる「ロシア構成主義」デザインの典型的構図である。バックには赤地に白が斜め右上に向けて下方から放射状に広がり、中心に大統領トランプとその主席戦略官バノン、その下にロシアのプーチンとその顧問格のスルコフ、そしてホワイトハウスの写真がコラージュされ、加えてメディア記事の文字による画面構成となっている。

 下敷きとなったのが、以下の作品に代表されるロシア構成主義の構図である。

 

 

 Left: Gustav Klutsis – Workers, Everyone must vote in the Election of Soviets! Image via arthistoryarchive.com / Right: Russian Propaganda Poster.Image via posterwire.com
   
http://d2jv9003bew7ag.cloudfront.net/uploads/Left-Gustav-Klutsis-Workers-Everyone-must-vote-in-the-Election-of-Soviets-Image-via-arthistoryarchive.com-Right-Russian-Propaganda-Poster.Image-via-posterwire.com_.jpg

 

 配色、斜めが強調された躍動的な構成、写真によるコラージュ、デザインの一部となった文字。

 左画面にあるグスタフ・クルーツィスの手の平による構成は、パロディ作品ではバノンが掲げる右の手の平の並びとして再現されている。

 パロディ作品に登場するキャラクターの中で、あまり有名ではないであろうプーチン大統領の補佐官ウラジスラフ・ソルコフの画像も参考として添えておこう。

 

 
 Vladislav Surkov - Wikipedia
   
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/03/Vladislav_Surkov_7_May_2013.jpeg/220px-Vladislav_Surkov_7_May_2013.jpeg

 

 

 偉大なドナルド・トランプ大統領と上級顧問のバノンの関係が、画面中央でバスト・ショットで大きく示されるトランプと右下方に小さくはあるが上半身像+掲げる右手が三連化されることで存在感が強調されるバノンの姿として示され、ホワイトハウスの上のプーチンとソルコフの関係に反復されてイメージに刻み込まれる。(少なくともシリア攻撃までは維持された)ロシアとトランプの親密な関係が画面構成の中でも暗示され、それがロシア構成主義デザインのパロディとして示されることで、より強化される。実に秀逸なものだと感心した次第。

 

 

 

 続いて…

 


Trump Poster No. 1: Hate Speech
  
http://68.media.tumblr.com/53bb2c46d456e45aa8d29ac5d6da0c31/tumblr_o5h1h3IVhM1v1fk2co1_1280.jpg

 

 

 このパロディ・デザインから連想させられるのは、ロシア構成主義を代表するアレクサンドル・ロトチェンコのポスターであろう。

 

 
 Alexandr Rodchenko, Poster for a Moscow publisher (1924)
   
http://www.brandandbrand.co.uk/blog/wp-content/uploads/2014/12/constructivist.jpg

 

 ただしこのパロディでは、ロトチェンコの有名な構図を下敷きとしながらも、ソ連時代のスターリニズム的全体主義に重ねて、もう一つの全体主義であるナチス体制の標語と画像を用いることで、トランプの強権的志向への批判が強化されている。

 「HATE!」と叫ぶトランプに重ねられているのはナチスの反ユダヤ主義が煽った民族主義的な「憎悪」であるし、ナチスの有名なスローガンであった「一つの民族、一つの国家、一人の総統(Ein Volk, Ein Reich, Ein Führer)」もほとんどそのまま用いられている(ONE PEOPLE/ONE EMPIRE/ONE LEADER!)。

 

 
 Plakat: "Ein Volk, Ein Reich, Ein Führer.
  
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/564x/0c/24/10/0c241093d8ecf8bb026a449b2b63ff6e.jpg

 

 
 hitlerjugend
  
http://visit-heidelberg.org/wp-content/uploads/imgp/hitlerjugend-frisur-3-8231.jpg

 

 右半分の画面のナチス的スローガンの背景には、ソ連の青年組織のピオニールではなく、ナチスのヒトラー・ユーゲントの画像が引用され、画面左上方の「LONG LIVE FASCISM !」の文字と共に、ドナルド・トランプの言動とファシズム世界の親和性の強調に効果を発揮している(見る側が気付く限りにおいての話だが)。

 

 

 

 

《オマケ》

 トランプ関連画像ではないが、検索中に見つけたソ連プロパガンダ・ポスター・デザインのパロディ作品の中から、お気に入りを2点ほど紹介しておこう。ロシア構成主義を代表するエル・リシツキー作品風のウォッカの広告と、有名なドミトリー・ムーアの志願を募る軍人ポスターをマリオ化したお遊び(残念なことに出典となるリンク先を見失ってしまった)と。

 

  

 we call it vodka
  
https://files1.coloribus.com/preview/x600/files/adsarchive/part_972/9729455/file/stolichnaya-vodka-we-call-it-small-51408.jpg

 

 

  

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/04/15 00:45 → http://www.freeml.com/bl/316274/302435/

 

 

 

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2017年2月10日 (金)

アメリカ人を雇え(トランプと雇用、あるいはワシントンの末裔)

 

 

  ドナルド・トランプ米大統領の上級顧問、ケリーアン・コンウェイ氏は9日、ホワイトハウス記者室から米フォックス・テレビに出演し、トランプ氏の娘イバンカさんのファッションブランドを「買って」と発言を繰り返した。ホワイトハウス職員が民間企業や製品を推奨することを禁じる、連邦倫理規定違反だと批判されている。
  コンウェイ氏は「お店に行ってイバンカのものを買って」、「自分もきょう、買いにくつもり。ここで無料コマーシャルをしますね。みんな、きょう買いに行って」と視聴者に呼びかけた。
     (BBC News 2017/02/10 15:12)

 

 

 ご存じの通り、そもそもの発端は大統領自身で、その間の事情は「イバンカさんの名前を掲げるファッション・ブランドについては、高級百貨店ノードストロムが今月初めに売り上げ低迷を理由に販売中止を発表。それを受けてトランプ大統領自ら、同社を自分のツイッター・アカウントで批判し、大統領公式アカウントがこれをリツイートした」と報じられている。それに加えての今回の「上級顧問」の言動で、あらためて「連邦政府の倫理規定は、ホワイトハウス職員が「いかなる商品、サービス、事業活動の推奨」もしてはならないと定めている」原則的問題と「トランプ政権において、ホワイトハウス関係者が営利活動と関与し利益相反状態に陥る可能性」があることが生み出すであろう倫理的問題が指摘され、その点について既に下院監査政府改革委員会のジェイソン・チェイフェッツ委員長(共和党!)からも批判されていることが報じられている。

 

 で、現政権の突出した公私混同ぶり、倫理観の欠落があらためて明らかになってるわけだが、当人達(大統領本人及び取り巻きの人々)には問題の所在すら理解されていないようである。

 

 

 

 …という問題はさておいて、「イバンカさんの名前を掲げるファッション・ブランド」をめぐるネット上の画像検索から見えてきた話題である。

 

 

 

Do you see it now?
  
http://images.gawker.com/gcqiun8jsyr7ptgwrjq9/c_scale,fl_progressive,q_80,w_800.jpg

 

 

 「イバンカ(イヴァンカ)・トランプ」ブランドの入った段ボール箱が積み上げられている画像だが、そこには「Made in China」と明記されているのだ。

 

ivanka trump made in china
  
https://2.bp.blogspot.com/-MjzP88mM48M/VuN1Eke27OI/AAAAAAAAMIQ/Upxb9BFzeVkwuqq2rvCL_e2ayp9WtjVig/s1600/ivankatrump_dress_china_rossdressforless.jpg

 

 

 製品のタグにも「made in china」の文字が。

 

 

 

 

 大統領となったドナルド・トランプが就任演説で強調したことの一つが「雇用」の問題であった(以下に雇用に関連した部分を抜き書きしておく)。

 

 

  For many decades, we’ve enriched foreign industry at the expense of American industry;
  何十年もの間、我々アメリカの産業を犠牲にして外国の産業を豊かにしてきた。

  One by one, the factories shuttered and left our shores, with not even a thought about the millions upon millions of American workers left behind.
  一つ一つ、工場は閉ざされ、我々の国から遠ざかっていった。何万のアメリカ労働者が取り残されたことなど、見向きもされない

  But that is the past.
  しかし、それは過去のものになった。
  And now we are looking only to the future.
  今、我々は未来だけを見つめるのだ。

  From this day forward, a new vision will govern our land.
  この日を境にして、わが国は新しいビジョンで治められることになる。
  From this moment on, it’s going to be America First. America First.
  まさにこの瞬間からだ。それは、アメリカファースト。アメリカファースト。
  Every decision on trade, on taxes, on immigration, on foreign affairs, will be made to benefit American workers and American families.
  全ての決定は、貿易、税金、移民、外交に関しても、アメリカの家族、労働者にとって有利なものでなければいけない。
  We must protect our borders from the ravages of other countries making our products, stealing our companies, and destroying our jobs.
  他国の犯罪者から私たちの国境を護らなければならない。我々の生産物をつくり、我々の企業と雇用を壊そうとする者から護らなければならない。

  We will bring back our jobs.
  我々は雇用を取り戻す。
  We will bring back our borders.
  国境を取り戻す。
  We will bring back our wealth.
  富を取り戻す。
  And we will bring back our dreams.
  そして我々の夢を取り戻す。

  We will get our people off of welfare and back to work  rebuilding our country with American hands and American labor.
  我が国の国民を豊かにし、雇用を取り戻す。我々の国をアメリカの労働とアメリカの手でつくり直すのだ。
  We will follow two simple rules: Buy American and Hire American.
  我々は二つの単純な原則に従う。「アメリカのものを買え。アメリカ人を雇え
     (
http://www.johoseiri.net/entry/2017/01/21/073326

 

 

 「イバンカ・ブランドの商品を買え」とアメリカの消費者に迫るのはトランプ大統領と「上級顧問」だが、しかし、そこには「made in china」と記されているのだ。

 

 

 

 今回、あらためて調べてみると、「ドナルド・J・トランプ」ブランドの衣料も存在するのだ。しかし…

 

 

our jobs are being taken away from us by china
  
http://undead-earth.com/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/2015_Trump_Idiot_1.jpg

 

 

 こちらも「MADE IN CHINA」なのである。「The best social program, by far, is a JOB!  Our jobs are being taken away from us by china」とツイートする当人のブランドが「MADE IN CHINA」なのだ。

 

 

A Donald Trump tie made in China.
  
https://pbs.twimg.com/media/CN8J_vvUAAA5iLV.jpg

 

 

 ネクタイだってこの通り、紛うことなき「Made in China」。

 確認してみても…

 

 

Trump Ties are Made in China or Listed As 'Imported'
  
https://heavyeditorial.files.wordpress.com/2016/09/trump-tie.jpg?quality=65&strip=all&strip=all

 

 

 間違いなく、アメリカ製ではなく、メイド・イン・チャイナ(中国製)なのだ。

 

 

 

 トランプのホテルの備品だって…

 

 

trump hotel classy gold lamp made in china
  
https://i1.wp.com/4fc.7d2.myftpupload.com/wp-content/uploads/2016/09/7.jpg

 

 

 由緒正しき「MADE IN CHINA」なのであった(われらがアパホテルは大丈夫か?)。

 

 

 

 

 もちろん、ちゃんと「MADE IN MEXICO」だってあるし…

 

 


DONALD J. TRUMP MADE IN MEXICO
  
http://i.imgur.com/IqoLuNZ.jpg

 

 

 「ドナルド・J・トランプ」ブランドのスーツは、なんと「国境」の向こうで製造されていたのだ(もちろんメキシコ人の手で)。「他国の犯罪者から私たちの国境を護らなければならない。我々の生産物をつくり、我々の企業と雇用を壊そうとする者から護らなければならない」と大統領就任演説でも主張していたトランプ自身が、自社製品を国境の向こう側、そして海の向こう側で製造させていたのである(大統領ドナルド・トランプは経営者ドナルド・トランプと闘うつもりか?)。

 

 

 

 

 これが「正直」の教科書的存在であったジョージ・ワシントンの末裔の姿なのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/02/10 17:20 → http://www.freeml.com/bl/316274/296314/

 

 

 

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2017年2月 5日 (日)

「偉大な指導者」としてのドナルド・トランプ・イメージ

 

 (驚いたことに)ドナルド・トランプ氏が米国大統領に就任してしまったのは「代替的事実(alternative facts)」などではなく(あるいはハリウッド映画の中の話ではなく)、世界にとっての現実だということを受け入れなければならないわけだが、日曜の午後くらいは逃避的行動の時間としたい。

 画像検索をすると、ドナルド・トランプ大統領はネタの宝庫的存在として、既にその「偉大さ」を示していることがわかる。

 

 

 

 

putin holding trump baby
 
https://i2.wp.com/www.watchthecircus.com/wp-content/uploads/2016/12/putin-holding-trump-baby.jpg

 

 

 言うまでもなく、プーチンの手玉に取られるトランプのイメージである。

 

 

  1月初めに米国から来た人物は、「2013年にトランプがモスクワを訪れたとき、ホテルで不適切な動画を撮影され、ロシア政府が握っているという噂がワシントンで出回っている」と話していた。まもなく同旨の報道が米国で行われるようになり、それを裏付けるとされる文書が出回っていることが分かった。そしてその35ページの文書はネット上で全文暴露されてしまった。
  今週11日、当選後初めて、トランプ次期大統領は記者会見を開き、文書の内容を全面否定する。文書について報道したメディアには質問を許さず、報道しなかったメディアを賞賛するという露骨な差別待遇を行った。
     (ニューズウィーク日本版 2017/01/14 11:00)

 

 この土屋大洋氏の署名記事には、「ただし、これはまだ真偽が確かめられていない」との但し書きが付けられている。トランプ大統領がロシア情報機関に弱みを握られているという話が「事実」であるのか、それとも「代替的事実」(もちろん虚偽の別名だが)であるのかについては、現時点ではいずれとも判断し難いが、当人のキャラクターからすると「ありそうな話」を思われてしまうのも仕方がないだろう。

 

 

 

 で、こちらが画像の元ネタである。

 

 

Stalin loves the little children
 
http://userscontent2.emaze.com/images/3423ec78-209e-4297-929f-761d7c59bb5f/eb4111ba-30e1-4dce-a7d6-7cb19dd5dfe0.jpg

 

 

 かの偉大な書記長が幼児を抱きかかえるスターリニズムど真ん中時代のプロパガンダポスターである。

 

 

 ネット上には、強権的傾向を隠さないトランプ大統領をスターリンになぞらえる画像も多いが、トランプ氏の視覚イメージからすると、イタリアを再び偉大な国とした(MAKE ITALIA GREAT AGAIN !)ファシスト・イタリアの陽気で偉大な首領(ドゥーチェ)であったムッソリーニの方が、よりふさわしい気がしないでもない。

 

 

Trumpolini
 
https://4.bp.blogspot.com/-I-eUEEBc7GM/Vr6a8NvhSAI/AAAAAAAAjNI/A1cQ99QXkWU/s1600/Trump_Dux.jpg

 

 

 顔立ち、表情が似ているのだ。口をへの字に結んでアゴを突き出す尊大なポーズ。

 

 

 で、傑作なのがお次。

 

 

Donald Trump: American Mussolini
 
https://jeffwinbush.files.wordpress.com/2015/12/fascist.jpg

 
 

 「IL DOCE」は「首領」の称号だが、「ILL DOUCHE」はドナルド・トランプという人物の女性蔑視的姿勢(あるいは好色ジジイ・イメージ)と重なるネーミングである。日本語では「ビョーキの膣洗浄器」、だ。思わず人間膣洗浄器と化したドナルド・トランプ氏が「ホテルで不適切な動画を撮影され」たというストーリーを妄想させる。

 ちなみに、ムッソリーニの死が1945年で、トランプは翌年の1946年に生まれていることから、トランプ=ムッソリーニの「生まれ変わり説」もネット上のネタ化されているようである(いずれ、あの大川総裁による守護霊インタビューが公開されるかもしれない)。

 

 

 

 

 最後にこちら、シュピーゲル誌の表紙。「世界の終り」である。

 

 

das ende der welt
 
http://www.zerohedge.com/sites/default/files/images/user3303/imageroot/2016/11/09/20161111_trump1_0.jpg

 

 
 見た通り。説明するのも野暮というものだろう。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/02/05 15:16 → http://www.freeml.com/bl/316274/295726/

 

 

 

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