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2019年9月18日 (水)

神の手、人の手、猫の手、そして義肢

 

 「手のかたち・手のちから」、武蔵野美術大学の神野善治教授の手になる展示企画のタイトルである。訪れた者は、民俗学と博物館学を担当する神野教授の退任前の力業を味わうこととなる。民俗学者としての果てなき好奇心と、博物館学の教授としての見せる技(地味な素材から、訪れた者の好奇心を引き出す技)である。

 

 展示空間は三つに分かれ、美術館入り口左側の展示室1では、暗い空間に「ねぶた」の「手」が、内部に仕込まれた照明により浮かび上がる。いきなり迫力ある手の造形に出会うこととなる(神野先生は祭りの現地まで出かけ、本来なら解体破棄される「ねぶた」の一部をもらい受けてきたらしい)。民俗学者としての蒐集への情熱と、博物館学者の見せる技(明るい空間に「ねぶた」の手を展示しても、このような迫力ある造形の魅力は伝わらない)の合体空間ということになろうか。

 

 吹き抜けの大きな空間であるアトリウム中央には、福井県三方石観世音の奉納品である手足形が文字通り山積みされ、左壁面には三階くらいの高さまで手足形が並べられ展示されている。近代医療導入以前(いや現在に至るまでというべきかも知れないが)の日本では、手足の病気やけが・障害に際し、その治癒を神仏への祈願により実現しようとする伝統があった。奉納物を納めて治癒を祈願し、あるいは治癒すれば奉納物を納める。三方石観世音の場合、その両方向により、現在に至る奉納物の集積が形作られている。納められた手形・足形を持ち帰り、日常的に身近に置いて、手形(あるいは足形)の自身の患部に相当する部分をなでさすり治癒を祈念する。治癒すれば、新たに自ら制作した手形(あるいは足形)を添えて、持ち帰った手形(あるいは足形)をお返しする。その集積が、何度かの水害を超えて、現在まで保たれているのである。そこにあるのは、その地をその時代を生きた人々の障害治癒への期待の集積である。そして、その手形・足形の造形的魅力。見る者は、その両者に出会い、圧倒される。そこに積み上げられた手形・足形は、「人の手」、「人の足」を「形」としたものである。しかし、同時に、人々は、その手形・足形を「なでさすり」ながら、そこに「神の手」を感じていたようにも見える。神の手でもあるかも知れない手形・足形を、心を込めて「なでさする」ことで御利益としての治癒がもたらされる。人々の心情としては、そのような構図として理解し得るようにも感じられる。

 

 そしてアトリウム左側の展示室2にあるのは、武蔵野美術大学が所蔵する民俗資料コレクション(今回は様々な道具)を中心にした展示である(その前段階で、手形・足形造形の海外の事例、文楽人形と阿波の木偶箱まわし人形の手の機構を示した展示、様々な手袋にちなむ展示等があり、展示の最後には21世紀のオートメイルならぬ筋電義手がある)。この展示室で神野先生が展開するのは、収蔵されている様々な道具を、手の働きとの関連で分類する試みである。手とは何であるのかを、哺乳類の骨格標本から考察し、彫刻科の学生に制作させたペンフィールドのホムンクルス像から手と脳の関係を理解し、その上で、手の機能として、つかむ、たたく、すくう、かく・つる、はく・はらう、する・こする、すく・ふるう、あおる・ひる、たもつ、しめす、さぐるといった分類項目にまとめ、道具と関連付ける(「しめす」の展示中には、「招く」動作をする「招き猫」があったりする―まさに「猫の手」の展示である)。

 

 

 ・・・と、とりあえず展示を概観・紹介したが、今回の記事では、更に先へ進んでみようと思う。

 

 展示関連で、阿波の木偶箱まわし人形の公演があり、ゲストとの対談企画が二つあった。対談企画の一つにインスパイアされての更なる前進である。

 

 9月14日に開催されたのが、木下直之氏との対談企画であった。時間枠を気にしながら話を進める木下氏と、時間枠を(あまり)気にしようとしない神野先生という、どっちがゲストなのかわからいような対談の進行は、ライブならではの面白さであったが、ここでまず取り上げるのは木下氏の紹介した事例である。

 

 スライド画像で木下氏が紹介したのが、明治期に刊行された義肢を装着した傷痍軍人写真集と、第二次大戦期にイームズがデザインしたレッグ・スプリントであった。

 前者は、大日本帝國の戦争に際し招集され、手や足を失った帝國軍人・兵士と、彼らに下賜された義肢の写真集である。写真は、傷痍軍人一人に三種撮影され、それぞれ、義肢装着前の手足が失われた状態(浴衣スタイルの白衣着用)、そこに義肢を装着した状態(浴衣スタイルの白衣着用)、そして義肢を装着し軍服を着用した状態となっている。明治期の義肢が皇室による下賜品として存在し、下賜された軍人が再び義肢を装着し軍服を着用する姿が撮影される。現在のところ、この写真集の配布範囲はわからないが、日本の近代の中での戦争と皇室と傷痍軍人の関係を考える上で、この写真集の構成は興味深い。

 

 

 イームズ・デザインのレッグ・スプリントであるが、そもそもそれは何なのか? あらためて帰宅後に検索してみると、「レッグ・スプリント」は1942年にデザインされ、実際に成形合板製品として製造されたことがわかった。イームズによる成形合板の椅子は有名だが、それに先立つプロダクトとして、この「レッグ・スプリント」が存在しているのであった(私が知らなかっただけで、デザインを志す者にとっては、教科書的知識の範疇なのかも知れない)。

 「leg splint eams」で検索をすればイームズのサイトにつながり、イームズ・デザインの歴史的文脈が語られる中に、レッグ・スプリントが登場する。また、別のストア・サイトでは、大戦当時のレッグ・スプリントの実物を購入することも可能である(10万円超えるくらいの売値であった→ https://gee-life.stores.jp/items/5a2a239dc8f22c27bd002b56)。ストア・サイトの説明からの抜き書きを示す。

 

  チャールズ&レイ・イームズの最初のプロダクト品レッグスプリントです。アメリカ海軍の依頼で作製されたこちらは負傷した兵士の足の添え木として使われていました。しかしその造形美から今では芸術品として高く評価されています。

 

 要するに、成形合板による「負傷した兵士の足の添え木」なのである。イームズのサイトによれば(https://www.eamesoffice.com/blog/eames-molded-splints/)、イームズの友人であったエンデル・スコット医師からの相談が発端だったらしい。1942年当時は、「負傷した兵士の足の添木」としては金属製品が用いられていたのだが、金属製品は負傷兵搬送時に振動を増幅し、患部固定のための「添木」としては不向きなものであった。素材として成形合板は、患部を固定すると同時に搬送時の振動を吸収することに有効であり、結果としてイームズのレッグ・スプリントは、大戦中に15万個も製造されることとなったという。

 「添木(副木とも)」は、義肢とは異なるものではあるが、戦場における負傷した兵士のケアの最初の段階に必須の医療用具であることも確かだ。イームズがそのデザイン・製造に関わっていたとのエピソードである。戦時期の米国では、成形合板の製造技術が(レッグ・スプリント製造を通して、ということか?)確立され、工業製品として大量生産され、それが最前線での負傷兵のケアに役立っていた。そこを押さえておきたい。

 

 

 さて、再び大日本帝國の傷痍軍人である。

 「先の大戦」をめぐる戦後の言説の中で、傷痍軍人は周辺的話題として扱われてきたように思われる。しかし、戦争を遂行する大日本帝國にとって、帝國の戦争が生み出す傷痍軍人は、見て見ぬふりをして済まされるような存在ではなく、帝國が十分にケアをするべき存在であり、帝國による十二分なケアが保証されていることを社会に周知させるべき存在であった。戦争をすれば、戦病・戦傷・戦死する軍人兵士は必ず発生する。特に近代の戦争では、兵器の破壊力は増大し、負傷の程度も深刻なものとなる。手元にある『The Face of Mercy』と題された、戦場における医療の歴史を扱った写真集を見ると、ローマ時代から近代に至るまで、戦傷とは基本的には切り傷と刺し傷と打ち傷であったことがわかる。もちろん、それだけでも避けらるべきものではあるが、戦場で用いられる兵器の火薬・爆薬が、爆発力の小さな黒色火薬であった世界から、19世紀後半に至り爆発力の大きなダイナマイト・TNT等が主力となる世界へと変化することにより、戦傷の悲惨さも増大した。

 手足を吹き飛ばされ、顔貌も変形した兵士達。それが日常的な存在となる。彼らに対する十分なケアの提供をアピールすることは、更なる戦争を遂行し、更なる動員を続ける上で不可欠な国家的課題となるのである。

 

 「傷痍軍人 写真週報」で検索すると、アジア歴史資料センターのサイトがヒットする。当時の国策情報誌であった『寫眞週報(写真週報)』のページには、傷痍軍人を取り扱った記事が少ないものではないことがわかるはずだ(→ https://www.jacar.go.jp/shuhou/shiryo/shiryo02.html → https://www.jacar.go.jp/shuhou/shiryo/shiryo05.html )

 

 ここでは昭和14(1939)年と昭和17(1942)年の『寫眞週報』記事タイトルから、傷痍軍人を取り扱ったものを太字で示してみよう(関連した内容を含む)。昭和14年は、支那事変の2年目であるが対米英戦争に至る前の段階であり、昭和17年は、前年12月8日の真珠湾攻撃以来の対米英戦争での戦勝気分が続いていた時期ということになる。

 

 

  第53号 ( 昭和14年(1939年)2月22日 )
 三河の新天地 白系露人の集団部落
 仮包帯も弾の中 野戦病院
 戦場に散った花

 国策料理 鯨 鰯 兎
 海外通信 アルプスの雪中演習 ドイツ陸軍
 読者のカメラ


  第54号 ( 昭和14年(1939年)3月1日 )
 満州国建国七周年
 姑娘は風を切って
 春は太倉にも
 わが鉄腕鉄脚部隊
 白衣と桃のお節句
 海外通信
 読者のカメラ


  第84号 ( 昭和14年(1939年)9月27日 )
 いで湯に癒す 傷痍軍人白濱温泉療養所
 鉄腕に振るふハンマー 傷痍軍人大阪職業補導所

 坊や、お母さんは先生よ 未亡人のための特設教員養成所訪問記
 おぢさん ありがたう
 勇士よ銃後は大丈夫 農村の妻女より
 遥かなる祈り 芹沢光治良
 読者のカメラ


  第232号 ( 昭和17年(1942年)8月5日 )
 噫々軍神 加藤建夫少将
 双葉より神鷲の面影 軍神の遺品
 使命果した廣田特派大使
 セレター軍港今や全し 昭南島
 囚人部落も日の丸に協力 フィリピン・パラワン島
 配給の煙草に歓呼わく ボルネオ・サマリンダの町
 片足で踏み登る一万二千尺 東京府下傷痍軍人の国威宣揚富士登山
 防空待避所の作り方
 壮丁に金槌あるべからず 埼玉県秩父町在郷軍人分会の壮丁者水泳講習会
 ザリガニ殲滅戦 東京市葛飾区
 白衣勇士を慰める祇園囃子
 銃後のカメラ


  第235号 ( 昭和17年(1942年)8月26日 )
 米州からの交換船昭南島に安着
 俘虜も御奉仕昭南神社の御造営
 帝国海軍ここにも作戦を展開 支那方面艦隊の温州封鎖
 わが潜水艦見事 敵輸送船を撃沈
 タイ国の幼稚園
 働きながら療養できる 傷痍軍人奉公財団山梨作業所
 九月の常会
 大学生のお医者さん 山村僻地を往診 埼玉県秩父
 樺太オタスのよいこども
 銃後のカメラ


  第240号 ( 昭和17年(1942年)9月30日 )
 新中国へ 答訪使節 晴れの首途
 軍人援護強化運動 十月三日-八日 再起を夢みて傷も忘れた昨日今日 千葉県傷痍軍人下総療養所
 夫の遺志をつぎ 明日への希望を胸に秘めて 軍人遺族東京職業補導所
 兵隊さん有難う 愛知県八幡町第一国民学校
 新生ジャワは我らの手で
 満州国皇帝陛下建国忠霊廟に御親拝
 満州国建国十周年式典 新京
 町から里へ 救援案山子隊
 銃後のカメラ


  第243号 ( 昭和17年(1942年)10月21日 )
 シドニー湾強襲の特別攻撃隊英霊祖国に還る
 ソロモン群島を鼻の先に ラバウルの我が基地悠々
 ジャワを南の楽園に
 兵隊さんと二人三脚 傷痍軍人練成大運動会 東京
 まづ白衣勇士の食膳に 外堀でとれた鯉一千尾 東京

 二十分間に六十九メートル 縄なひ競技大会
 さんま網大増産 茨城県
 独仏俘虜交換協定 フランス
 薬用けしの増産

 

 

 傷痍軍人が世間から「隠された存在」(あるいは隠されるべき存在)などではなく、国家により手厚く保護され賞賛されるべき存在として取り扱われていた事実が伝わるはずだ。国策広報誌(昭和14年段階では内閣情報部編輯、昭和17年では情報局編輯)に、傷痍軍人は繰り返し登場していたのである。

 これらの記事の中でも、「わが鉄腕鉄脚部隊」、「鉄腕に振るふハンマー 傷痍軍人大阪職業補導所」、「片足で踏み登る一万二千尺 東京府下傷痍軍人の国威宣揚富士登山」、「働きながら療養できる 傷痍軍人奉公財団山梨作業所」、「軍人援護強化運動 十月三日-八日 再起を夢みて傷も忘れた昨日今日 千葉県傷痍軍人下総療養所」といったタイトルが示しているのは、義肢を装着することで能力を回復し、前線への復帰は叶わぬにしても生産の現場で再び国家に奉公することが期待される、生産性のある傷痍軍人の位置付けである。

 

 ここで国家による義肢の支給について、その歴史的経緯を、まず「しょうけいかん(戦傷病者史料館)」(木下氏も、しょうけいかんの展示を紹介していた)による企画展示解説資料(平成26年度 夏企画展)によって確認してみたい。

  
  戦傷病者に対して、恩賞制度の一環として各種の義肢が支給され、審美的な装飾義肢から実用的な作業用義肢へと変化していきました。
  明治10(1877)年の西南戦争で、大阪陸軍臨時病院がオランダ製の義肢を手渡したのが義肢支給の始まりです。明治27(1984)年の日清戦争以降は、昭憲皇后の御沙汰により恩賜の義肢が下賜されました。明治37(1904)年の日露戦争時には、廃兵院の設置や失明軍人の盲学校開設など、社会復帰のための施策が拡充されます。大正末期から昭和初期には審美的な装飾義肢の他に、社会復帰を前提とした実用性重視の作業用義肢が支給されました。日常生活から各種の職業、用途別に様々な作業用義肢が製作され、各人の適性と、義肢の特性を踏まえて職業を選択しました。辛いリハビリテーションと、慣れない義肢での職業訓練に耐え、社会復帰を目指したのです。

 
  (日清戦争時の)戦傷者のほとんどは銃創、砲創、刀傷、火傷などですが、特に凍傷患者の多くは、手足の切断を余儀なくされたのです。
  昭憲皇后は深くお心を痛められ「軍事に関して手足を切断したる者は、軍人と否とを問わず、彼我の別なく、人工手足を」との御沙汰があり、皇后陛下の御手元金から義手、義足、義眼が製作され、敵味方の区別無く下賜される運びとなったのです。
  陸軍においては、義手31名、義足90名、義眼10名の合計131名(うち捕虜9名を含む)海軍でも義手7名、義足5名、義眼4名がその恩恵に浴しました。

 
  日露戦争(1904)時には、それまでの小銃での撃ち合いを主とする戦闘から、大砲による長距離からの砲撃戦へと、兵器やその運用は大きく変貌しています。
  兵器の発達によって、受傷の様子も変化することとなります。
  医学面でも広島予備病院へのX線装置の導入など確実に進歩を遂げており、戦傷病者に対する様々な治療法と共に、戦傷病者の本格的な社会復帰のための施策が始まります。

 

 この日露戦争時に廃兵院の設置、失明軍人対象の盲学校の開設といった施策がとられる。注目しておきたいのは、

 

  陸軍大将乃木希典の自らの開発による、世界で初めてとなる画期的な作業用能動義手である「乃木式義手」もこの時期に完成しています。

 

という、作業用義手の登場と、それが「世界で初めて」と位置付けられ、しかも乃木大将がそこに関与していたとのエピソードであろうか。

 

  大正末期から昭和初期になりますと、それまでの「なるべく生まれた時の姿に近いように」外観を重視した審美的な恩賜の義肢に象徴される「装飾用義手」の他に「社会復帰を前提とした」実用性重視の「作業用義肢」が支給されてゆきます。
  昭和17(1942)年には、戦争の激化に伴って増加する戦傷病者に対応するため、義肢の研究費が大きく増額されます。
  材料本廠全体の研究費200,000円(現在の約20億円に相当する)に対して、義肢の研究費は、その1割に当たる20,000円(約2億円相当)が計上されていました。
  昭和15(1940)年度の研究では、装飾用義手に作業用義手の機能をも持たせると言う現在の義手製作の基本にも通じる命題がありました。装飾用の手掌を外すと作業用義手が現れるという仕掛けで完成し、実際に支給されております。

 

 この作業用義手の持つ意味については、上田早記子氏の「傷痍軍人福岡職業補導所における職業再教育」(2014)がわかりやすい。

 

   傷痍軍人は明治の頃は、「廃兵」と呼ばれた。当時は「廃」という言葉からもわかるように「廃れた」、「使えない」兵士として扱われた。しかし、国のために戦争に出兵し傷病を負った戦傷病者に対して国が何の対応もしないことは、戦傷病者の家族などからの不満を生み、新たに兵士になる者の不安を仰ぎ、国を不安定にすることになりかねなかった。そのため、傷病または死亡した場合など一部を対象に、本人またはその遺族に安定した生活を保障するために恩給制度が始まった。他にも廃兵院と呼ばれる入所施設も建てられた。1937年に日中戦争が起き、その後第二次世界大戦に突入する中で、「国家総動員法」が成立した。そして、戦争による労働力不足を補うため強制的に国民を徴用し生産に従事させる「国民徴用令」が発布された。このような時代背景の中、傷痍軍人であっても年金により生活を安定させるのではなく、再度立ち上がる、いわゆる再起奉公として生産に従事できるようになることが求められた。求めたばかりではなく、職業訓練や職業斡旋など職業保護が政府によって打ち出され、急速に発展していった。

 

 近代総力戦状況の中で、「傷痍軍人であっても年金により生活を安定させるのではなく、再度立ち上がる、いわゆる再起奉公として生産に従事できるようになることが求められた」のである。国家の施策として作業用義手の開発研究費も増額され、作業用義手を装着しての職業訓練施設も用意され、職業斡旋にも積極的な姿勢が示されたというのである。傷痍軍人達にも、実際に生産労働に従事することが求められたのである。

 先に紹介した『寫眞週報』の記事もまた、そのような時代背景の中で、作業用義肢を装着し、生産労働に意欲を示す傷痍軍人の姿を強調しようとするものであった。
 
 いずれにせよ、ここでは傷痍軍人は生産労働の第一線を担うべき存在として位置付けられ、政府広報誌に取り上げられているのである。戦時日本の風景の中に、傷痍軍人は可視化され、少なくとも建前としては敬意を以て取り扱われるべき存在であった。障害者であっても、生産労働に積極的に従事しようとする存在として、国家に顕彰されるのが傷痍軍人なのである。その一方で、障害と共に生まれた人々は、生産と無縁な存在として差別の対象であり続けたのである。傷痍軍人は国家により積極的に包摂され、同じ国家が、生産労働を担えない障害者を社会から排除する。

 

 「生産」という語には、平成の末期の用語法からのアプローチも重要であろう。「LGBTには生産性がない」という「保守」政治家の、あの用語法である。世代の再生産という問題である。傷痍軍人達にとっては、それは自身の「結婚」の問題であった。高安桃子氏の「戦時下における傷痍軍人結婚保護問題―傷痍軍人とその妻に求められていたもの」(2009)はその「問題」を論じたものだ。

 

  福祉施策の未整備から、多くの障害者は困窮した生活を強いられていたことに加え、戦時体制のもとでは「出征して国に貢献することができない存在」という烙印を捺され、肩身の狭い思いをさせられていた。その上さらに1941年の「国民優生法」施行により、「障害者は生まれてはいけない存在」という、現に生きている障害者の生存の否定につながるような時代の空気にさらされることとなったのである。

 

 これが「障害者一般」が戦時期に直面させられた状況であったが、

 

  このような差別の対象である一般障害者と、国のために戦い、尊敬の対象とされるべき傷痍軍人とが、障害を持っているという点で世間から同一視されることを、国家は阻止しなければならなかった。

 

 戦時期において「障害者一般」は、「出征して国に貢献することができない存在」であることが強調され、傷痍軍人との差別化が進行した。傷痍軍人は既に「出征して国に貢献した存在」であり、更に作業用義手を装着して生産労働に従事する存在として、より差別化は進行する。それに加えて、「障害者一般」とは差別化されるべき傷痍軍人の結婚が問題となる。

 

  傷痍軍人と一般障害者とを、異なった存在であると説明する方略としては、傷痍軍人の障害は戦争に起因するものであり、遺伝しない障害であるという説明の仕方がとられた。

 

 世代の再生産という文脈(平成末期の保守言説の文脈でもある)から、「遺伝」を理由に一般障害者が排除されると同時に、傷痍軍人の障害が「遺伝しない障害」であることが強調されたのである。

 男性として社会的認知を受けるためには、生産労働を担うだけでは不十分であり、「妻を娶る」ことのできる存在として社会から見做される必要があった。見做される(それは建前に過ぎない)だけではなく、現実に自身が結婚していることが、当事者としての傷痍軍人達にも望ましいこととして考えられていたであろう(当時の社会通念の中では、男は結婚して一人前、なのである)。しかし、実際にはハードルは高い。「生産労働を担う」といっても、障害者としての傷痍軍人の労働は結婚生活を支えるだけの収入に結びつくとは限らない。職業生活にとどまらず、家庭での日常生活もまた、現実的には障害者としての様々な不便の中での生活であり、それを支えることも妻には求められる。

 当時の結婚斡旋をめぐる言説を読むと、妻にも職業生活が期待されていたことがわかる。すなわち、現実の問題として、傷痍軍人=障害者としての夫の収入に依存することの困難があり、妻にも収入源を持つこと=収入に結びつく職業を持つことが期待されていた。

 

  また、結婚により傷痍軍人を絶望から救い上げることは、出征できない女性にとっての国家貢献であるとされた。傷痍軍人の花嫁を養成する機関では、生計を担うための職業的能力を養成することが目指された。これは夫婦の中で妻が生計を担うという、当時のジェンダー規範が逆転した現象であり、傷痍軍人の妻に求められていた特有の役割であるといえる。妻は介護力としても期待され、夫の「再起奉公」を助けるという傷痍軍人の妻ゆえの役割が求められた。その結婚生活は苦労が前提とされ、その生活に踏み込むためには、女性にとって大きな覚悟が必要であった。

 

 傷痍軍人の妻には、生計を担うための職業生活が期待され、同時に障害者としての傷痍軍人の介助・介護者としての役割もが求められたのである。

 傷痍軍人の花嫁となるべき若い女性への国家からの期待がある一方で、世間の目は醒めたものであった。高安氏は、昭和18(1943)年の大政翼賛会による「健民運動資料 第三輯 七、軍事援護二関スル調査報告書」から、当時の実際の世間の反応を例示している。傷痍軍人結構相談所開設の理由について、

 

  コノ相談所ノ開設セラレタル県ニシテ、コレニ関心ヲ持ツ者極メテ少ク、係ノ異ル役向ノ人ハ全クコレニ関与セズ。一般民衆モ殆ンド無関心ナリ。甚シキ場合トシテハ傷痍軍人二嫁ガントスル娘ヲ軽蔑スル風潮サヘアリテ、本事業ノ進行ヲ妨グルコト少カラズ。

 

このように記されているという。これが昭和18年(既に対米英戦2年目である)の、世間の目の現実であった。国家による可視化の一方で、世間(一般民衆)は見て見ぬふり(しかも、ただ「無関心」なだけでなく「軽蔑スル風潮サヘアリ」)だったのである。

 

 軍人であることの期待に応えるという意味において、傷痍軍人は、その役割を十分に果たした人々である。男性として、名誉の負傷は讃えられるべき勲功である。しかし、傷痍軍人として生きることは、障害を負って生き続けねばならぬことを意味する。

 戦時期の日本では、それでも傷痍軍人の存在は可視化され、国家の保護施策の対象であった。戦後は、人々にとって、可能であれば目にすることを避けたい存在として取り扱われてきたように見える。であるからこそ、戦時期の国策広報誌の中に可視化された存在として現れる傷痍軍人の姿を見ることが、意外性を伴う経験となるのであろう。

 今回の出発点となったのは、「手のかたち・手のちから」の展示会場であった(そこには、少なくとも当面は傷痍軍人を生み出すことがないであろうことが期待される現代日本の技術を結集した、筋電義手の展示もあった)。三方石観世音では、観世音の持つ治癒力が人々を引きつけた。手や足、あるいは視力を失った傷痍軍人には、「治癒」あるいは「快復」という時が訪れることはない。戦時期の(そして戦後の)日本において、それが傷痍軍人として生きることとなった人々の経験であった。その事実の持つ意味を深く見つめる機会としておきたいと思う。
 

 

 

【蛇の足】
 神野先生による武蔵野美術大学美術館での展示企画については、以前にも取り上げたことがある。

  「近現代史の中の蚊(あるいはモスキート) 」(2011年)参照

 そこでも、展示企画そのものについてというよりは、展示にインスパイアされての私の脳内反応を記すものとなっていた。神野先生の果てなき好奇心を(思うがままに、と言いたいところだが、とりあえず予算の許す限り、であろう)展開したような展示空間が、私の脳内にもたらした作用の記録である。今回も、あの展示会場での経験が、傷痍軍人の義肢へと展開するのには我ながら驚かされた。これもまた、ある種の「神の手」のもたらす経験かも知れない。
 そういえば、木下氏との対談の場では、神野先生は杖をついていらした。足を傷めたらしい。展示期間の最後に、自ら三方石観世音の御利益を経験しようというのであろうか? 民俗学者とは、そこまで突き進んでしまうような存在なのであろうか?

 

 

 

 

 

 

 

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2019年6月25日 (火)

清水多嘉示資料展(第Ⅲ期) ホセ・ラウエルとマッカーサー

 

 武蔵野美術大学美術館において、かつて武蔵野美術大学の彫刻科教授であった清水多嘉示にまつわる「清水多嘉示資料展」、その第Ⅲ期・戦後編として「清水多嘉示資料展 石膏原型の全てと戦後資料」が開催されていた(6月16日で終了)。最終日になっての駆け足での展観となってしまったが、特に印象に残った資料について記しておきたい。

 前回の資料展開催が2011年で、「清水多嘉示の道程:敗戦まで」と題された通り、戦時期の清水多嘉示の姿を知る機会となった。その際の感想めいたことをまとめたのが「清水多嘉示資料展 「千人針記念碑」との出会い」である。「従軍彫塑家」として、支那事変(日中の軍事衝突)下の中国大陸で従軍した中でのスケッチの数々。昭和13(1938)には源田実をモデルとしたブロンズ像「海の荒鷲」、翌14年には主翼を破損した九六式艦上戦闘機で奇跡的生還を果たした樫村飛曹のエピソードがモチーフとなっているレリーフ「南昌制覇」のような、事変の渦中の日本の海軍軍人の姿を彫像化したもの。また、翌15年制作の「千人針記念碑の一部」(サブタイトルは「出征兵士ヲ送ル」) といった戦時期の銃後に焦点を当てた作品に抱いた個人的関心について記した。

 その結びの部分で以下のように書いた。

  

  展示は、ブロンズ彫像作家の前から金属が失われた時代を経て、敗戦に至る。清水が漢口でスケッチしたのは、空襲の準備をする日本海軍の陸上攻撃機の雄姿であったが、米軍のB-29に空襲される側となった日々、どのような想いの中で過ごしていたのだろうか?

  敗戦直後の清水は、「特攻寺」の創設を提案した文章を残している。「あの戦争」の「あの作戦」で命を落とした特攻隊員を弔う場としての「特攻寺」なのである。どことなく高揚感の漂う文章に、戦後の清水の出発点を見る思いがした。

 

 今回の「戦後資料」のトップに展示されていたのが、昭和20(1945)年に記された「特攻寺」をめぐる原稿であった。あらためて、特攻による死を求められ、それに応えざるを得なかった特攻隊員への、敗戦の現実の中で高揚する清水の心情を再確認させられるものであった。「特攻による死」を求める側にいた(ことになってしまう)清水にとって、「特攻寺」の創設提案は、特攻による戦死者への清水なりの責任感の表現なのではあろう。

 ただし、展示されているのは二種の原稿のみであって、印刷されて公的に発表されたものではない(原稿執筆のみで終わってたものなのか、実際にどこかに公表されていたのかは、現時点では不明である)。

 

 続く展示資料には驚かされた。特攻寺をめぐる原稿の隣にあったのは、1946年のものとされている、モニュメント彫刻のプラン(スケッチ)である。バックにはゲート風の枠組み(彫像の身長より高い)があり、一歩前にいる男性とその背後で男性に従い歓呼する民衆(男女の二名、だったと思う)という構図。

 一歩前にいる指導者然とした男性が日本占領軍司令官であるマッカーサーにしか見えない。マッカーサーに導かれる民衆の像、なのである(そのモデルが実際にマッカーサーであったとしての話だが)。戦時期に、大陸で行使される大日本帝國の軍事力を肯定的なものと捉え、銃後での戦時協力を「千人針記念碑」として造形化した彫刻家の、戦後の第一作の構想として登場するダグラス・マッカーサー、なのである。

 それだけでも、十二分に強烈な印象だが、そのマッカーサー・モニュメント・プランの上方に展示されていた別のモニュメント・プランは更に強烈であった。そこにあったのも、ゲート風の枠組みの前で、一歩前にいる男性とその背後で男性に導かれ歓呼する民衆の構図によるモニュメントであった。ただし、先頭にいるのはマッカーサーではなく、ホセ・ラウエルなのである。異なるのは、指導者然とした位置を占めるのがラウエルかマッカーサーかの違いのみであり、全体の構図には違いがない。

 ホセ・ラウエルは、対米英開戦後に日本軍占領下となったフィリピンが、(大日本帝國の政策により)「独立」する際にフィリピン大統領に就任した人物である。昭和18(1943)年の話だ。展示では明示的に年代が示されていなかったが、ラウエル・モニュメントの構想は、フィリピンに独立が与えられ、ラウエルが大統領に就任した1943年当時のものである可能性が高い。1943年には、東條首相により、アジアの日本軍占領域各地の政治指導者を集めての大東亜会議も開催されており、その時期でのラウエル・モニュメント制作は、国策に寄り添う彫刻家の構想として理解可能なものである。ただし、資源統制下の大日本帝國において、ブロンズによる作品の実現には見込みはなく、ラウエル・モニュメントは戦時期の清水多嘉示の構想段階で終わったものと思われる。

 その戦時期のモニュメント構想が、基本構図をそのままに、敗戦後の日本で復活する。主役をラウエルからマッカーサーへと換えられて(マッカーサーもフィリピンと縁のある軍人ではある)。

 資料展示では、展示物についての詳細なキャプションを欠いている(研究の現状では、残された資料を網羅的に展示するしかないということなのであろう)ので、私の解釈が正しいものかどうかは不明確だが、とりあえず仮説的に提示しておこうと思う。

 

 同構図で主役だけ交換されたモニュメント・プランという理解が正しいとして、その意味をどのように捉えるかという問題は残される。

 戦時期の清水には、確かに国策に親和的なところが窺われる(いわゆる「戦争協力」への積極性ということだ)。

 今回の展示のもう一つの目玉である「石膏原型の全て」によって、戦時期の清水の石膏原型の中に、記憶に残っているところでも二作品、軍事と航空の結びつきを表現するものがあることがわかった(展示最終日の駆け足での展観のため、曖昧さが残るのは残念である)。前回の資料展で出会った「海の荒鷲」も「南昌制覇」も、海軍航空隊の活躍を期待し、讃えた作品であった。従軍彫塑家としてのスケッチにも、海軍の陸上攻撃機が登場する。その意味で、国策と清水の親和性は確かのものと言えるだろう。反軍的な芸術家の姿ではない。

 しかし、ラウエル・モニュメント・プランとマッカーサー・モニュメント・プランの構図の同一性。マッカーサー・モニュメント・プランはラウエル・モニュメント・プランの完全な流用というしかない事実から見出せるのは、芸術家の時局便乗的態度ではなく、芸術家のニヒリズムなのではないか? そのように思えなくもない。

 発注者に応えるのが彫刻家の役割だとするならば、彫刻家は発注者の側である政治体制の求めに応えるのみ。彫刻家にとって、芸術家にとって、表現こそが(表現のスタイルこそが)目指すものだとするならば、清水には戦時期と敗戦後の断絶は存在しない。ラウエルをマッカーサーに差し替える。構図は、表現のスタイルは微動だにしない。

 

 ここで思い出すのは、戦時期の丹下健三と敗戦後の丹下健三である(以下、井上章一 『戦時下日本の建築家』 朝日選書 1995 による)。

 昭和17(1942)年、建築学会は「大東亜共栄圏確立ノ雄渾ナル意図ヲ表象スルニ足ル記念造営計画案」の図面を募集する。実際には、戦時下の資材不足の中で、実現の可能性のまったくない「記念造営計画案」なのだが、建築学会は競技設計として図面の募集を行った。ここで丹下健三の「忠霊神域計画」が一等の情報局賞を獲得する(二等以下を大きく引き離して)。この平面プランと、戦後の広島の、やはり丹下健三による広島平和記念公園(竣工は1954年)の平面プランの同型性が指摘されている。また、広島平和記念公園の慰霊碑も、忠霊神域計画の本殿建屋との同型性が、ハニワ・モチーフということで指摘されている。忠霊神域計画は富士山の裾野を想定し計画された雄大なものだが、比較すれば、広島の平和記念公園はスケール的には小さなものである。しかし、平面計画においても、メインの施設造型においても、その同型性は否定できない。

 戦時期の「大東亜共栄圏確立ノ雄渾ナル意図ヲ表象スル」建築計画と、戦後(大東亜共栄圏崩壊後)の平和記念公園の間に、その表現のスタイル(平面計画とメイン施設の造型モチーフ)において断絶はない。

 

 単なる芸術家の無節操と切り捨てることも可能だろうが、しかし、そこに政治体制(あるいは政治的思想・信条)に対するニヒリズムを見出すことも可能であろう(それを良しとするかどうかは別としての話ではあるが)。

 もっとも、特攻寺創設を主張する清水多嘉示の姿からは、戦時期の自らに対する否定的心情の片鱗が読み取れるようにも思われる。軍事における航空力の優位の重要性を理解していたように見える作品群からすれば、特攻作戦に依存せざるを得ないところまで追い込まれた祖国がどのように評価されていたのか? 敗戦後になって、あらためて特攻隊員の犠牲に対峙したとき、清水の心情は、特攻寺創設案として表現されたことになる(それが特攻による戦死者にとっての救いとなるかどうかはともかく)。

 

 

 再び、前回の展示をめぐる話題に戻る。

  展示は、ブロンズ彫像作家の前から金属が失われた時代を経て、敗戦に至る。清水が漢口でスケッチしたのは、空襲の準備をする日本海軍の陸上攻撃機の雄姿であったが、米軍のB-29に空襲される側となった日々、どのような想いの中で過ごしていたのだろうか?

 

 戦時期の清水多嘉示の作品には、海軍(航空隊)との深い縁を示すものが多く、海軍館での展示作品ともなっている。その海軍館は、B-29による東京への空襲の初期の段階で投弾対象とされ、被害に遭っている。昭和19(1944)年11月27日の第二回目の出撃、目標は武蔵野市の中島飛行機工場であったが、気象不良のため、都内に投弾したものである。特に海軍館を標的にしたものではなかったが、原宿駅周辺が投弾対象となり、市街地、海軍館、東郷神社などが被害に遭っている。

 前回の資料展の翌年、東京大空襲・戦災資料センターでの「東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃」展(2012年)の際に、海軍館の空襲被害状況を示す写真の存在を知ることとなった(「プロパガンダと記録(東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃)」も参照)。

 現在は、NHKスペシャル取材班/山辺昌彦『東京大空襲 未公開写真は語る』(新潮社 2012)に掲載されている写真で確認可能である。

 以下、海軍館についての記述を引用しておく(最初のもの以外は、掲載写真のキャプション)。

 

  原宿にあった海軍設立の戦争博物館「海軍館」には、2発の爆弾が投下され、建物のみならず野外に展示されていた戦車も損傷した。警視庁の記録によれば、「爆弾一個は建物に命中、三階を貫通して二階にて爆発、建物一部破壊、一個は植込内に落達し、死者一名、傷者一名を生ず。尚数日間は観覧不能にて休館せり」とある。

  海軍の戦争博物館「海軍館」。大理石を使った堅牢な洋館だったが、大きな損傷を受けた。

  「制空」の碑の周辺にも瓦礫が積もる。

  海軍館の庭に展示されていた戦車の周辺には、瓦礫が飛散している。

  海軍館の内部。爆弾は3階を貫通して2階で爆発。崩れた建物の中に、展示された彫像が倒れている。

 

 

 被害の程度が伝わるだろう。「制空の碑」は台座だけで、「碑」の本体はない(東京大空襲・戦災資料センターでの報告書作成関係者の話では、空襲による被害なのか、金属供出により既に失われていたのかは詳らかではないという―台座にダメージが見られない点からすれば、後者の可能性が高いのではないかという話)。崩れた建物内で倒れているのは、幼い兄弟の姿の彫像である(作者についての記述はない)。

 制空権が奪われ、B-29による空襲も激化していく。清水多嘉示は、どのような心情の下に、その日々を送っていたのであろうか?

 

 

 

 

 

 

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2019年5月17日 (金)

モバイル・タイニー・バウハウス

 

 

 2019年はバウハウス100周年に当る。1919年、第一次世界大戦敗戦後のドイツ、ヴァイマールの地に設立された教育施設。いわゆるモダン・デザインの先導者であった。

 1925年にデッサウへ移転し、理念を具現化した校舎を建設する。

 

 なんと、そのデッサウの校舎がモバイル化されているのであった!

 

 

Tiny Bauhaus: smallest 2-room apartment & school on wheels
  
https://www.youtube.com/watch?v=x7UIx-iTyR4

 

 

 ミニマムサイズの様々な住居の試みを中心に動画取材しているキルステン・ディルクセン(Kirsten Dirksen)氏によって、この「Tiny Bauhaus」も紹介されていたのである(数日前の話)。

 ラオス出身のヴァン・ボー・ル=メンツェル(Van Bo Le-Mentzel)氏の作品であり、動画中にもタイニー・バウハウスの内部を案内し、インタビューに応える本人の姿も記録されている。

 

 

 私個人の好みとして、このタイニー・バウハウスは実に愛おしく魅力的である。

 動画のコメント欄には、丸見えのバスルームはどうなのよ的意見も散見されるが、そして私自身もそのような見解を共有することも確かではあるにしても、実用性を上回るデザインの魅力を認めざるを得ない。

 

 

 そのタイニー・バウハウスの設置場所もまた、動画の見どころであろう。ドイツの「古都」そのものといったリューネブルクの街の佇まい。そのリューネブルクのロイファナ大学構内にタイニー・バウハウスが停車している(建物の下には車輪が見える)のである。

 映し出されるロイファナ大学のキャンパスで目を引くのが、ダニエル・リベスキンド設計の校舎である。いわゆる脱構築主義建築の代表者である。

 古風な町並みの中の自己主張炸裂型脱構築主義建築に対峙する形で、モダン・デザイン建築の見本のようなデッサウのバウハウス校舎(もはや古典である)のミニチュアが静かに停車しているのである。

 

 

 

 だからどうした、と言われても困るが、個人的には実に楽しい光景なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2018年12月27日 (木)

明治の悪童と修身 (『實驗 日本修身書巻八 高等小學 生徒用』)

 

 古本の価値というのは様々だと思うが、かつての持ち主の書き込みを読むという楽しみもある。もっとも、最近の出版物(出版後10数年程度)であれば、新本でないがゆえの安価な入手法としての古書店利用もあり、その場合は当然ながら書き込みのないものを選ぶ。

 しかし、戦後復興期以前の出版物となると、書き込みの内容から、当時の読者の関心のあり方を読み取るという楽しみ方もあり、あえて書き込みのある古書に手を出すこともある。

 

 今回は、古書市で手に入れた、落書き炸裂の明治期の修身教科書の紹介である。

 

 

 

 三宅米吉 中根淑 校閲 渡邊政吉 編纂 『實驗 日本修身書巻八 高等小學 生徒用』 (明治廿七年一月十六日 文部省檢定済) 東京 金港堂書籍會社 明治廿六年(1893)  定價 金七銭

 

 2015年に、改装前の立川フロム中武の古書市で購入。価は500円であった。

 

 

 

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(表紙)

 

 表紙を一瞥して、特徴ある筆法(いわゆる「ひげ題目」系)から、日蓮宗関係の書かと思いきや、そうではなかった。修身の教科書!

 

 

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(見返し)

 

 こちらも、タイトル部分は日蓮宗的筆法が加えられている(持ち主の生家が日蓮宗、という生育環境の反映か?)。

 肖像が誰のものかは、教養が足りず、不分明。筆描きの肖像の上方には、鉛筆描きによる富士山がある。題目風にあらためられたタイトルの下方には、「大日帝國萬歳萬歳萬歳」の文字もある。

 

 これだけでも、なんとも豪快な修身教科書への落書きだが、本文については至って真面目で、鉛筆による漢字表記への振り仮名が付されている程度である。

 

 

 そして…

 

 

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(奥付、裏表紙の見返し)

 

 裏表紙側の見返しに描かれているのは、さらに豪快で怪異な西郷従道の肖像であった。やたら長い足に、股間からは謎の生物(?)の姿。

 ちなみに、従道は、

 

  さいごうつぐみち【西郷従道】
  1843‐1902(天保14‐明治35)
  明治時代の軍人,政治家,元老。本名は隆興,通称信吾。薩摩国鹿児島城下に生まれる。西郷隆盛の実弟。1869年(明治2)山県有朋とともに兵制研究のため渡欧(プロイセン,フランス,ロシア)し,帰国後兵部権大丞陸軍少将,兵部少輔,陸軍少輔,同大輔に進む。74年陸軍中将兼台湾蕃地事務都督に任ぜられ,政府の中止命令をおして台湾へ出兵した。76年征台の功により最初の勲一等に叙せられる。78年参議兼文部卿次いで陸軍卿に就任し,81年農商務卿,84年伯爵,そして85年内閣制の成立を機に海軍大臣となった。
     (平凡社/世界大百科事典 第2版)

 

このような人物である。経歴を反映して、落書上でも当初記された「陸」の字が消され(そのままでは「陸」軍大将)、従道の肩書は「海軍大将」に換えられている(背景には軍艦)。

 怪異な肖像が描かれた当時(従道は第二次伊藤内閣で海軍大臣に任じられていた)、すなわち明治27(1894)年は日清戦争の年でもある。先の「大日帝國萬歳萬歳萬歳」の文字も、そのような時代の空気を反映したものであろうか。

 

 

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(見返しの裏)

 

 先の西郷従道の肖像は、見返しの上に描かれていたものだが、見返し紙は貼られた裏表紙の裏からはがされ、裏表紙の裏には鉛筆画が描かれている。「徳川時代風俗」、ということらしい。

 まだ明治20年代の話なので、「徳川時代」は持ち主の父母の生まれた時代である(たかだか20数年前まで「徳川時代」が続いていたのである―もっとも、描かれているのは徳川時代初期をイメージさせる戦闘モードの武将の姿であるが)。

 

 

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(裏表紙)

 

 持ち主の名が記されている。この奔放豪快な落書きの作者は、当人の署名により、小川八郎君と判明。生年は明治10年代、1885年前後であろうか(19世紀の話なのだ)。

 裏表紙には、日清戦争らしき戦場が描かれている(まさに日清戦争最中の小川八郎君の高揚感が伝わる)。しかし、なぜか、戦場の手前を走るのは、軍服姿の帝國軍人ではなく、烏帽子姿の人物である(八郎君の想像力上の必然から生まれた表現であろうが、21世紀の私の想像力は、その「必然」に届かない)。

 

 

 「大日帝國」は日清戦争で勝利し、日露戦争で勝利し、第一次世界大戦でも勝者の側にあったが、支那事変以来の大東亞戦争では敗者となる。昭和20年には還暦前後となっていた小川八郎氏は、どのような老人(かつての日本では60歳は既に立派な老人である)となっていたであろうか? 「大日帝國」の近代をどのように経験したのであろうか?

 

 

 

 『日本修身書巻八』の第十七課では、以下のように説かれている。

 

 

  人の質性は、生まれながらにして、完備せるはなし。されば、人皆自ら其の身の長ずる所と、短なる所とを知り、其の長ずる所を助けて、ますます長ぜしめ、其の短なる所を養ひて、漸く長ぜしめんことを務めざるべからず。斯くの如くするを、自ら其の身を修むといふ。自ら其の身を修むるは、何人にも極めて大切なり。人としては、多少父母教師の教へを受けざるものもなかるべければ、自修の心なくとも、無下に愚かなるものともならざるべし。されども、自修の心なきときは、父母教師の教へも、深く其の心に入らざるべければ、其の人に取りて、大いなる損なり。
     (第十七課 「修養」から抜き書き)

 

 

 この豪快に落書き(むしろ「落描き」と呼ぶべきか?)された修身教科書から、小川八郎少年は何を学び取ったのであろうか? この奔放豪快さを八郎少年の「身の長ずる所」として理解し、「其の長ずる所を助けて、ますます長ぜしめ」ようとした高等小學校教師との出会いはあったであろうか?

 

 

 

(小川八郎少年は、学校での修身の授業の度に、教室でこの教科書を開いていたのであろうか? とすれば相当な悪童である。 それとも進級して用済みになってから、教科書を落書帳へと転用したのであろうか? 本文ページが無事なところからすると、落書帳転用説も弱い。 やはり悪童説が妥当なのであろうか?)

 

 

 

 

 

((オリジナルは、投稿日時 : 2018/12/27 13:02 → https://www.freeml.com/bl/316274/323029/

 

 

 

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2017年11月26日 (日)

B-29 (米国の技術開発力)

 

 いわゆる「先の大戦」(大東亜戦争、第二次世界大戦、太平洋戦争、あるいはアジア太平洋戦争等、様々に呼ばれるが)を語るに際して、「日本は米国の物量に負けた」という言い方があるが、その点については既に「クライスラーの戦車」、「B-29 (物量としての米国の生産力)」、そして「フォードの爆撃機、あるいはロージーのリベレーター」と題した記事を通して、米国の隔絶した生産力の実際を紹介してきた。

 米国の自動車産業や航空機メーカーの広報用フィルムを通して見えたのは「詳細な設計の進行と同時に、戦車生産のために新たな工場を建設してしまう米国の自動車メーカーの底力」であり、「人種、経歴、性別、年齢、障害の有無を問わずに団結して生産に集中する米国の総力戦状況、そして近代的な生産ラインの詳細に加え、工場の福利厚生の充実ぶり」を誇る航空機メーカーの姿であり、「最終的には一時間に一機のペースでの製造には成功し、最盛期には月産650機を記録するところまで到達」させてしまうフォードシステムの大量生産方式による四発重爆撃機生産の実情であり、「様々な工程が既に女性労働者によって置換されていること」及び「(その前提となる)充実した職業訓練・教育」の様相であった。

 

 

 これらのフィルムが示すのは、「日本は米国の物量に負けた」との言明の正当性であろう。彼我の間にある生産能力の絶対的な隔絶は否定し得ない。

 先の言明に加え「日本は米国の物量と技術に負けた」との認識もまた、当時の実情を理解しさえすれば正当なものとして導かれるはずであるが、「日本は米国の物量には負けたが技術力では勝っていた」との言説を目にする機会も多い。しかし、これは「負け惜しみ」以外の何物でもなく、言説としての妥当性がないことは歴史の現実(いわゆる「近現代史の真実」ではなく「現実」が)が示している。

 

 これまでは「物量」に焦点を合わせ、対米戦争時における否定し難い日米間の国力の差を明らかにしてきたが、今回は日米間の隔絶した「技術力の差」を直視しておくこととしたい。

 

 今回もまた、あの「先の大戦(大東亜戦争)」における米国の圧倒的な軍事力の象徴とも位置付けられる四発重爆撃機、あの憎っくきB-29の姿を通して、問題が生産力の差=物量だけにあるのではなく、技術力の差=技術開発力の差にもあることを明らかにしてみたい。巨大な生産力が最先端技術を物量として供給し、圧倒的な戦力の差を生み出すことで、大日本帝國を敗戦に追い込んだのである。

 

 

 

 飯山幸伸氏は、その著書『B-29恐るべし』(光人社NF文庫 2011)中の一章を「B-29に用いられた諸革新的技術」と題し、B-29に盛り込まれた技術の革新的側面を明らかにするために割いている。

 高高度を高速で飛行可能にした技術として飯山氏は、まず新たな翼面設計(モデル177翼型)と大馬力エンジン(ライトR-3350デュプレックス・サイクロン)に加えて装備された排気タービン過給機(GE製のB-11過給機)の存在を挙げている。

 続けて「与圧キャビン」と「ノルデン爆撃照準器」、そして「遠隔操作銃塔」について書いている。与圧キャビンは搭乗員への負担のない高高度飛行を可能にし(B-17やB-24もタービン式過給機を装備することでスペック的には高高度性能を獲得していたが、与圧キャビンは未開発で、高高度での搭乗員への負担は大き過ぎた)、ノルデン照準器(こちらはB-17にもB-24にも装備されていた)が高高度からの精密爆撃を可能にし(可能にするはずであった)、迎撃用火力の「遠隔操作」化は与圧キャビンには必須の技術であると同時に防御力向上に資するシステムであった。

 

 ここからは特に「遠隔操作銃塔」(The Remote Control Turret System (RCT) あるいは Central Station Fire Control System)に焦点を当て、その「革新的技術」ぶりを明らかにしていきたい。

 

 

 

 まず紹介するのはシアトルのボーイング社にある(現在の)展示の映像だが、操作の実際がわかるはずだ。

 

 

B-29 gun turret sighting system at Boeing Seattle Part 1
 
https://www.youtube.com/watch?v=nskFayhBcy0

 

Gun turret sighting system for B-29 at Boeing, Seattle
(B-29 gun turret sighting system Boeing Seattle part II)
 
https://www.youtube.com/watch?v=5h4yBxydz0E

 

 

 照準器の操作に動力銃塔が連動し、銃弾が発射されるメカニズムの実際である。

 

 

 次は当時の軍のB-29搭乗員用トレーニングフィルムからの短い抜粋(註:1)だが、ここでは機銃手の搭乗位置と遠隔操作される銃塔の関係を押えておきたい(一人の銃手による複数の銃塔の同時操作―いわば一人の銃手による集中砲火―が可能になっているのだ)。

 

 

The B-29 Superfortress Gun Turrets
 
https://www.youtube.com/watch?v=gy9uCtgcL3A

 

 

 次に続くのは装置を開発したGE(ジェネラルエレクトリック―日本語での公式表記は「ゼネラル・エレクトリック」であるらしい)作成の広報用フィルムで、アニメーションを多用した解説が興味深い(しかもカラーである)。

 

 

Central Station Fire Control System - ca. 1944
 
https://www.youtube.com/watch?v=yABTembGYhg

 

 

 (組み込まれているのは真空管であるが)当時の最先端の電子装置システム(Central Station Fire Control System)により、銃塔がリモートコントロール(遠隔操作)されるメカニズムがカラーアニメを用いて説明されている。GEという民間企業が自身の技術力のアピールのためにカラーアニメを製作してしまうのである(それだけで彼我の国力の差は明らかである)。

 

 

 しかし、B-29に装備された「遠隔操作銃塔」に盛り込まれた革新的技術の核心は、このリモコンシステムにあるわけではない。実はこのシステムにはコンピューターが組み込まれ、単に搭載機銃を動力により間接操作する(もちろんそれだけでも重い機銃と銃塔を風圧に抗して手動で操作する労力からの機銃手の解放を意味する)のみならず、弾道の補正が自動化されることで命中精度の向上もが実現されているのである(註:2)。

 

 

 高速で飛行する爆撃機に装備された機銃により、高速で飛行し攻撃してくる敵戦闘機を迎撃することがどれだけ困難であることか想像し得ているだろうか?

 ここではB-17の側面機銃手のトリガー・ジョーを主人公(声優はメル・ブランク)としたアニメ仕立ての米軍のトレーニングフィルムを通して問題の所在を確認しておこう。

 

 

B-17 Waist Gunner Mel Blanc: "Position Firing" 1944 USAAF Training Film; WWII Aerial Gunnery Cartoon
 
https://www.youtube.com/watch?v=DqoUdd9Ge4E

 

 

 アニメ中でジョーが求められるのは、頭の中で銃弾の到達位置をシミュレーションし、機銃を適切に操作する能力である。機銃手は一瞬にして爆撃機の速度、高度を把握し、敵戦闘機の速度を把握し、距離を把握し、進行方向を把握し、照準外の(照準内に捉えた敵戦闘機からは離れた)適切な位置に機銃を向け発射しなければならない(しかも高高度を高速で飛行するB-17での話であり、側面機銃の操作は酸素の薄いマイナス20~30度の機内で大きな風圧に抗して行わなくてはならず、それだけでも機銃手の負担は大きいのに→註:3)。

 当時の記録フィルムの中の機銃手の映像から、あるいは『頭上の敵機』や『メンフィス・ベル』のような映画を観る際にも、このような機銃手に求められているスキルを意識することはなかっただろう。

 B-29に搭載された遠隔操作銃塔に組み込まれたコンピューターシステムは、敵戦闘機に照準を合わせさえすれば照準外に位置する適切な掃射方向を割り出し、機銃手の負担を軽減する。ただし、敵戦闘機との距離は自身で確認し入力(ボーイング社でのデモンストレーション動画でも説明されているように)する必要は残されているが、機銃手は敵戦闘機に照準を合わせるだけで弾道の補正はGE製の「Central Station Fire Control System」に任せれば済む(しかも離れた位置にある複数の銃塔の弾道補正計算と射撃を、一人の銃手が担当するひとつの照準システムの操作で可能にしているのだ)。

 

 

 あらためて、文林堂の「世界の傑作機シリーズ」の『ボーイングB-29』(1995)にある牧英雄氏の論考「ボーイングB-29スーパーフォートレス 開発と各型」から「武装」の項の記述を引用しておこう。

 

    照準器は銃本体と分離した与圧室内にあり、見越し角計算などすべてコンピューターが管制するので、銃手は照準器に目標を捉え距離の変化を追う操作をするだけで、自動的に射線を算出する。むろん、尾翼などが射角に入れば、自動的に射撃は中止される。また操作はいずれも正副2系統用意されスイッチで切り替わるほか、一方の射手が離れた場合自動的に複数を管制するようになる。床下にある装甲付きブラックボックスに不都合が生じた場合は、マニュアル操作も可能である。
  これらの火器のすべてを管制するのが後部与圧室の回転椅子に位置するCFC手で、このほか通常の担当は前上方=爆撃手/CFC手、前下方=爆撃手/側方銃手、後上方=CFC手/側方銃手、後下方=側方銃手、尾部=尾部銃手/側方銃手 となる。
     (16~17ページ)

 

 この牧氏の論考には、B-29に搭載された「Central Station Fire Control System」について、もう一つの興味深い記述がある。試作型のXB-29に搭載されていたのはGE製ではなかったのである。

 

    このため(徹底的な空気抵抗の軽減のため―引用者)突起した銃塔は敬遠されたが、防御上の必要から装備せざるを得ず、ベンディックス、スペリー、ウェスチングハウス、ジェネラル・エレクトリック(GE)の各社が競った結果、ペリスコープ式照準器のスペリー製が採用された。
     (13ページ)

 

 XB-29に搭載されていたスペリー製のペリスコープ式照準器は結果的にジェネラル・エレクトリックのシステムに変更されることになったわけだが、その選定に際して大きな役割を演じたのがポール・ティベッツ(Paul Warfield Tibbets, Jr)とそのチームであった。あのエノラ・ゲイの機長であったティベッツである(註:4)。

 

 ティベッツは1942年2月にはB-17の部隊長(340爆撃飛行隊)としてヨーロッパで部隊を率い、25回の出撃回数を達成。1943年3月に米国本土でのB-29(初飛行は1942年9月だったが試作2号機の墜落など様々なトラブルに直面していた)の戦闘能力評価任務に就く。実戦配備へ向けてのその任務の中には武装の評価も含まれており、スペリー製のペリスコープ式照準器システム(こちらにも自動弾道補正コンピューターが組み込まれていた)とGE製システムの比較評価も行われた。その際に、射撃テスト等を行ったのは、やはり後に共にティベッツの率いる第509混成部隊(原爆投下の実施部隊)に所属することとなったジョージ・キャロン(George Robert Caron 原爆投下の際のエノラ・ゲイの尾部銃手も務めている。キャロンは投下直後の原爆の「キノコ雲」の撮影者でもある)とケネス・イードネス(Kenneth L. Eidnes)であった。両者は軍の動力銃塔操作学校(Power Operated Gun Turret School)の同期で、1943年9月に卒業し、1943年10月にB-29の武器試験担当者として配属されている(註:5)。

 彼らのスペリー製システムに対する評価は低く、GE製が採用されることになる(The GE system proved to be very good)。問題となったのはスペリーが採用したペリスコープ方式(GEは反射型光像式を採用)で、視野が限定され操作も煩雑となる潜望鏡(ペリスコープ)方式が、重爆撃機の防御武装として実際的ではないと判断されたのである(註:6)。

 

 

 ちなみに、スペリー製システムはB-29のバックアップ機として開発されたコンソリーデッド社のXB-32爆撃機にも搭載されていた。XB-32に搭載されたスペリー製システムに関する論考に掲載された解説図を引いておく。照準器の形式を除けば、GE製のシステムと同様の原理に基づいたものであり、米軍が必要と考えた(そして実際に装備した)「遠隔操作銃塔」を理解する上での参考になるはずだ。

 

 

The geometry of air-to-air gunfire control problem
 
https://m.eet.com/media/1175647/fig8.jpg
 https://www.edn.com/Home/PrintView?contentItemId=4402983

 

 ジョーの直面させられた問題がいかなるものであったかへの理解を深めらる(アニメ上のジョーの標的は静止状態想定であるのに対し、、現実の敵戦闘機は高速で運動する)と共に、「先の大戦」の時代に米国が実際に開発し配備した「遠隔操作銃塔」のシステム(Central Station Fire Control System)の技術的卓越性も再確認し得るであろう。

 

 この装置を組み込んだ四発重爆撃機B-29の生産機数は3970機に及ぶ(生産機数が3970なのは、その時点で戦争が終結してしまったからである―生産能力の限界を意味するわけではない)。我が大日本帝國の爆撃機の生産機数で最大を記録しているのは海軍の一式陸上攻撃機だが、双発に過ぎない爆撃機の生産機数は2416機にとどまる(生産期間も一式陸攻の方が長いにもかかわらず)。もちろん、与圧キャビンもなければ、「Central Station Fire Control System」もない(しかも一式陸攻の爆弾搭載量はB-29の十分の一でしかない―B-29の一機は十機の一式陸攻に相当する)。物量、技術、そのどちらを見ても彼我の国力の絶対的隔絶は明らかであろう。

 それでも「日本は米国の物量には負けたが技術力では勝っていた」などと主張し得ると考えるのであろうか?

 

 

 

【註:1】
 全編は、B-29 Flight Procedure and Combat Crew Functioning 1944 US Army Air Forces
 → https://www.youtube.com/watch?v=RsOUXqSh2xs

【註:2】
 Central Station Fire Control AND THE B-29 REMOTE CONTROL TURRET SYSTEM
 (→ http://www.twinbeech.com/CFCsystem.htm
 The Cannons on the B-29 Bomber Were a Mid-Century Engineering Masterpiece
 (→ http://www.popularmechanics.com/military/weapons/a18343/the-cannons-on-the-b-29-bomber-were-a-mid-century-engineering-masterpiece/
 Engineering the B-29's Armament
 (→ http://legendsintheirowntime.com/LiTOT/Content/1945/B29_IA_4503_armament.html

【註:3】
 アニメのジョーも軽装で身軽だが、高高度では機銃を操作する前に死んでしまう(与圧キャビンの装備されていないB-17の場合、搭乗員は外気にさらされた状態同様―特に側面機銃手は―なのである)。

  機体を敵戦闘機の攻撃から守るため、銃手が機関銃を撃ちまくるシーンは劇映画『メンフィス・ベル』などでお馴染みだろうが、映画だと一般に軽装なのが気になる。この撮影用ポーズをとった写真にしても、実戦では考えられない軽装だ。まず、高度6,000~7,000mというところを飛ぶのだから、酸素マスクは必ずしなければならない。それに真夏でもそういう高度では零下20~30℃なのだから、暖房があるにしても側面窓を空けて射撃するには手袋も必需品。高射砲に直撃されたらどうしようもないが、負傷の多くは爆発による破片が原因だから、それらを防ぐフラックヘルメットやフラックベストもつけたいところだ。
     側面機銃手の写真へのキャプション(『ボーイングB-17フライングフォートレス』 文林堂 2007 105ページ)
 

 ジョーの搭乗しているのはB-17のG型であるが、後には側面機銃用にも照準の補正計算機能を持つK-13サイトが採用され(同書47ページ、115ページ)、「後部側面銃座の位置を左右でずらして銃手が動きやすいようにするとともに、それまで戦闘時には開け放して(ママ)部分に、中央に機関銃のソケットを設けたガラス窓をはめ込み、銃手を寒気から守る改造も途中から採用された(同書117ページ)」と仕様が変更されている。ジョーの負担も軽減されたことになる。

 与圧キャビンの装備された機密性の高いB-29の場合、酸素マスクは必要ないし、寒さに凍えることもない。牧英雄氏の論考の「与圧室」の項には以下のようにある。

  3分割で尾部は直径6in(152㎜)のパイプで後部与圧室と結合。通常8,000ft(2,400m)で与圧開始。空気圧は8,000~30,000ft(9,145m)まで8,000ftの30,000ft以上は30,000ft時の圧力差を維持する。コンプレッサーで圧縮された空気は、内側エンジンのターボ過給機を通ることにより冷暖房を調整でき、機関士の操作で送管装置を通じ与圧各室に送られる。このため乗員は高度30,000ftでも特別装備なしに行動可能。
     (15ページ)

 (「遠隔操作銃塔」は、気密性の維持の必要を満たすためのシステムでもあった)

【註:4】
 Tibbets, Paul Warfield, Jr.
 (→ http://www.nationalaviation.org/our-enshrinees/tibbets-paul-warfield-jr/

【註:5】
 KENNETH L. EIDNES AND THE 509TH COMPOSITE
 (→  http://b-29.org/509th/509th-history/509th-history.html
 George R. Caron
 (→ https://www.findagrave.com/memorial/467015

【註:6】
 Design hindsight from the tail-gunner position of a WWII bomber, Part one
 (→ https://www.edn.com/Home/PrintView?contentItemId=4402983

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/11/25 21:54 → https://www.freeml.com/bl/316274/314468/

 

 

 

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2017年10月15日 (日)

総統閣下vsオペラ対訳プロジェクト、そしてパーキンソン病

 

 いわゆる「総統閣下シリーズ」の最新作ということになる(2017/10/12 に公開)だろうか? 映画『ヒトラー ~最期の12日間~』(2004)のドイツ語のセリフに原語と異なる字幕をつけて楽しむお遊びだが、英語圏の「YOUTUBE」で様々な英語字幕バージョンが作成され、日本語圏でも「ニコニコ動画」に様々な日本語字幕バージョンがアップされている。

 今回の「総統閣下は「オペラ対訳プロジェクト」にお怒りのようです」は、私も利用させてもらうことのある「オペラ対訳プロジェクト」による日本語字幕で、時事ネタ込みの(「総統閣下シリーズ」モノの中でも)秀逸なパロディー作品として仕上がっているように思う。

 せっかくの秀逸作を忘れてしまわないように、ブログ記事としてアップして何時でもアクセス可能にしておく作戦を採用した次第である。

 

 

 

総統閣下は「オペラ対訳プロジェクト」にお怒りのようです
 
https://www.youtube.com/watch?v=fnW1TpHZeyo

 

 

 「オペラ対訳プロジェクト」は、オペラ作品を中心とした(オペラだけではなく、バッハの『マタイ受難曲』なども含む)過去の名盤の録音に日本語対訳をつけてアップするという、手元に輸入盤しかない際にとても役立つプロジェクトで、私もチャンネル登録してしまっていたりするのだが、その「中の人」が実はこの手のお遊びにも手を抜かないことを知って、ますます同志的気分を味わったりしているのである。

 

 中身そのものを解説したりするのは野暮な話だと思うので、ここで触れることはしない。

 

 

 ただ、せっかくの機会なので、そもそもヒトラーの実像を描くことを目指した映画作品であった『ヒトラー ~最期の12日間~』にちなみ、小長谷正明『ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足 神経内科からみた20世紀』(中公新書 1999)から、神経内科的背景を抜き書きしておきたい。

 

 

  筆者は神経内科医である。脳や脊髄、末梢神経、筋肉などのはたらきの異常を診るのが専門だ。精神科ではない。シビレなどの感覚障害、ふるえやマヒなどが主な症状だ。だから、目にする人の立ち居ふるまいや、表情、声の調子などが気になる。そして、二〇世紀は科学技術の世紀であり、映像の世紀でもある。会えるはずのない、海の向こうや歴史の彼方の政治家、それに雲の上の人の歩き方や動作をテレビで見ることができ、ついプロ意識で病気かどうかを診断することがある。いわば神経内科医の本能で、ヒトラーのふるえや毛沢東のすり足もブラウン管を通して視診した。そこで、二〇世紀のリーダーたちの神経疾患を調べてみて、歴史に投げかけた影を考えてみた。
          同書「まえがき」より

 

 これが同書における小長谷氏の問題意識・基本姿勢である。小長谷氏は、同じく「まえがき」の中で、

 

  もちろん、筆者はこの書物の中の独裁者やリーダーたちの主治医でもないし、カルテなどの第一次資料などをみることも出来ないので、文献にたよらざるをえない。病気の解釈については、単なるうわさやしろうと判断の推測は、書きすすめる上でなるべく排除するようにした。症状の目撃談などはべつとして、基本的にはきちんとした学術雑誌に載った医学論文、あるいは主治医ないしはその場にいた医師の回想録により、医学的客観性をたもつように心がけた。

 

このように書いているが、実際に読み進めてみると、原則としてその姿勢に貫かれていることも確認出来る。

 

 

 映画の『ヒトラー ~最期の12日間~』の方は、同名(邦訳タイトルは原題とは異なるようだが)のヨアヒム・フェストの著作とヒトラーの個人秘書であったトラウドゥル・ユンゲによる回想録を基にドラマ化したものだが、時系列的には、どちらも小長谷氏の著作より遅れての出版物であり映像作品である。出版物はドキュメントであり、映画はドキュメント作品に基くドラマである。

 時系列上、どちらも小長谷氏が依拠するわけにはいかなかったが、

  二〇世紀は科学技術の世紀であり、映像の世紀でもある。会えるはずのない、海の向こうや歴史の彼方の政治家、それに雲の上の人の歩き方や動作をテレビで見ることができ、ついプロ意識で病気かどうかを診断することがある。いわば神経内科医の本能で、ヒトラーのふるえや毛沢東のすり足もブラウン管を通して視診した。

 

20世紀ならではのドキュメント映像が、「視診」を可能にし、加えて「学術雑誌に載った医学論文、あるいは主治医ないしはその場にいた医師の回想録」等のドキュメントが、小長谷氏の判断を支えているのである。

 

 

 テレビでドキュメンタリー番組(番組中では第二次大戦末期のドイツのニュース映画が紹介されていた)を見ていた小長谷氏は、「厚く重苦しい外套を着たアドルフ・ヒトラーが硬い表情で肩を丸め、ぎこちない動作で足をはこん」でいる姿を前にする。

 

  が、次の瞬間、筆者の目は画面に釘づけになった。ヒトラーの左手がふるえているのである。神経内科医のプロ意識がわきあがってきた。診察する目で観察した。そのふるえは、見なれたパターンである。パーキンソン病のそれであった。
     同書「震える総統――ヒトラー」より

 

 もちろん、小長谷氏は、映像を通した自身の視診に加え、「学術雑誌に載った医学論文、あるいは主治医ないしはその場にいた医師の回想録」等に目を通すことを怠らない。

 

  調べてみると、ヒトラーの病気についてのいくつかの医学論文と学術的な単行本がドイツから出版されていた。エレン・ギッベルスという女性の神経学者は一五年間にわたって『ドイツ週刊ニュース』という映画に映っているヒトラーの動作を検討し、医学的考察を行っている。
  それによると、ごくわずかながらも動作が鈍くなったのは一九四一年であり、左手の症状も出てきている。四三年からは、自動車から降りたり、腰をおろしたりするような動作シーンがニュース映画からなくなっている。左手はいつもからだの後ろに回したり、ポケットに入れたりして映らなくなった。
  表情の動きは四四年から少なくなり、顔つきは陰気になっている。笑っているときでも、顔の動きが少なく、「凍り付いた」笑いとなっていた。また、このころから左足を引きずって歩くようになっている。
  ギッベルスは、ニュース映画の中のヒトラーの左右の手の動きやぎこちなさ、表情、歩行、姿勢などの症状の程度によって、〇点から四点までの点数をつけて定量的な分析をしている。パーキンソン病の症状は一九四一年の中ごろにはあらわれており、左側から発症し、やがて右側にも症状が出現した。四五年の戦争末期にはホーン=ヤールの重症度分類二度くらいの障害度だったという。

 

 

  ある秘書はヒトラーのふるえについて書いている。
「日報に目を通すときには、ヒトラーはいつも左手で眼鏡を握っていましたが、その手がふるえるたびに眼鏡が机の表面に当って、カタカタと音をたてていました。唇は干からび、パンくずで覆われ、衣服はたべもので汚れていました」

 

 

  ある記録によると、四二年の東部戦線の大本営地下壕では、イスから立ち上がるにも人の手を借り、支えられて歩いていた。声はぼそぼそとして聞きとりにくく、口もとからよだれを垂らしていたとある。これは二度のパーキンソンではない。少なくとも三度の障害度である。

 

 

  ヒトラーに長いあいだ仕えた参謀将校によると、最後のころの様子は次のようなものだ。
「総統はみるからに恐ろしげな様子であり、苦しそうに、ぎこちなく足を引きずって歩きまわっていた。地下壕の自分の居間から会議室へ行くときには、上半身を前方に投げ出すようにして、足を引きずって歩いていた。バランス感覚はなくなり、ごく短い距離(たかだか二〇~三〇メートル)を歩く途中で、立ち止まらなければならないときは、壁の両側に置かれた総統専用のベンチに腰を下したり、話し相手にしがみついたりした。目は充血していたし、提出された書類はみな特製の『総統専用タイプライター』で普通サイズより三倍も大きな字で打ってあったが、それでも拡大鏡を使ってやっと読めるようだった。しょっちゅう、口の両端からよだれが垂れていた」
  目のことは別として、総統とか地下壕という言葉がなければ、そのまま教科書に載せてもよいような、中等度以上に進んだパーキンソン病の典型的な症例報告である。

 

 

  一九四三年二月、スターリングラードの第六軍が赤軍に降伏した直後、ヒトラーはソ連前面の東部戦線、マンシュタイン元帥の司令部を訪れた。そこにいた元帥の伝令将校シュタールベルクの、昼の作戦会議でのヒトラーの印象はさえないものだった。総統の頭は肩から前に垂れ、制服は食べ物かすで汚れ、無表情のままで地図をみていた。くたびれはてていた。そして顎がふるえつづけていた。夕方の会議になると、それが激変していた。
「……そのわたしの目に、ヒトラーが会議室に入ってきたとき、まったく予期せぬものが映った。今日の昼や昨日とはうって変わった別人のヒトラーが部屋に入ってきたのである。姿勢のたるんだ落ちぶれたような男は、突如として、背筋をのばし、ヴァイタリティのあるひきしまった姿になっていた。……ヒトラーが朝遅くまで寝ているのを好み、夜明け方近くになってから就寝するということは、われわれも知っていた。しかし、これほどまでの体調の変化が、生活リズム上の原因のみで生じるとは思われなかった。なんらかの薬物の効果があったにちがいない」

 

 

 小長谷氏によれば、「ヒトラーは主治医から七七種類もの薬を処方されていた」ということであり、特にシュタールベルクの「薬物の効果」については、

 

  ヒトラーの飲んでいた覚醒剤はメタンフェタミンである。これはヒロポン、つまりアンフェタミンと同じく、ドパミンによく似た化学構造をしている。もともとこれらの覚醒剤は脳の中ではつくられていないが、外から入ると、ドパミンが作用する細胞に、似たような効果をあらわす。またコカインは、化学構造式は似ていないが脳のかなのドパミン量を増やしたり、効果を強める作用がある。
  ドパミンは運動をスムースにするだけではなく、精神活動を活発にする神経伝達物質である。だから、覚醒剤やコカインは、脳の中のドパミン作動系というシステムにはたらいて、気分を高めているのだ。ドパミン不足のパーキンソン病は、精神的には抑うつ状態である。きっとヒトラーは、負け戦でなくともブルーな気分であっただろう。今日の治療では、ふるえやトボトボ歩きへの効果ほどではないにしても、Lドパでうつ症状も多少はよくなっていく。
  パーキンソン病の患者にコカインや覚醒剤を投与したらどうなるかという論文を読んだことはないが、薬理作用からみて、鈍い動作やふるえなどの症状が改善されるのはまちがいない。こう考えると、ヒトラーの覚醒剤・コカイン常用はパーキンソン病と関係していたとも推定できる。覚醒剤やコカインなどの処方は、病気や薬理作用などをふまえてのことではなく、ヒトラーが経験的に自分に必要なのを知っていて要求したのかもしれない。
  東部戦線の司令部で目撃された、ヒトラーの症状のドラマティックな変わりようも、その間にモレルたち主治医が到着していたことを考え合わせると、覚醒剤などが使われたと推定できる。
  もう一つ、ヒトラーへの処方でパーキンソン病と関係がありそうなのは、アンチガスという薬だ。これの主成分は、アセチルコリンの作用を抑えるアトロピンである。アセチルコリンは胃腸のはたらきを活発にしたり、汗を分泌させるはたらきがある。ヒトラーはよくおならをしていて、またひどい汗かきでいつも臭かったという。彼の前では、悪臭の話題を持ち出してはいけないことになっていた。アセチルコリンのシステムがはたらき過ぎているので、それを抑えるためにアトロピンを飲んでいた。
  アトロピンは目にも作用して、瞳孔を広げる。戦争末期のヒトラーが、異様に輝く目をしているのは、アンチガスの成分のアトロピンのためだという。

 

このように記されている。

 小長谷氏によれば、パーキンソン病患者は、ドパミンが不足する一方で、アセチルコリン過剰な状態となる。ドパミン不足に対応するのが覚醒剤やコカインであり、アセチルコリンの過剰に対応するのがアトロピンを主成分とするアンチガス投与ということらしい。

 

 

 いずれにせよ、「総統閣下シリーズ」の総統の姿、その下敷きとなった『ヒトラー ~最期の12日間~』の中でのブルーノ・ガンツ演じるヒトラーの姿に、この小長谷氏の描く神経内科的ヒトラー像を重ねると、よりリアルに映像を(どちらの映像をも)味わうことが出来るようになるはずだ。

 

 

 

  日報に目を通すときには、ヒトラーはいつも左手で眼鏡を握っていましたが、その手がふるえるたびに眼鏡が机の表面に当って、カタカタと音をたてていました。唇は干からび、パンくずで覆われ、衣服はたべもので汚れていました。

 

  イスから立ち上がるにも人の手を借り、支えられて歩いていた。声はぼそぼそとして聞きとりにくく、口もとからよだれを垂らしていた

 

  総統はみるからに恐ろしげな様子であり、苦しそうに、ぎこちなく足を引きずって歩きまわっていた。地下壕の自分の居間から会議室へ行くときには、上半身を前方に投げ出すようにして、足を引きずって歩いていた。バランス感覚はなくなり、ごく短い距離(たかだか二〇~三〇メートル)を歩く途中で、立ち止まらなければならないときは、壁の両側に置かれた総統専用のベンチに腰を下したり、話し相手にしがみついたりした。目は充血していたし、提出された書類はみな特製の『総統専用タイプライター』で普通サイズより三倍も大きな字で打ってあったが、それでも拡大鏡を使ってやっと読めるようだった。しょっちゅう、口の両端からよだれが垂れていた

 

  昼の作戦会議でのヒトラーの印象はさえないものだった。総統の頭は肩から前に垂れ、制服は食べ物かすで汚れ、無表情のままで地図をみていた。くたびれはてていた。そして顎がふるえつづけていた。

 

  ヒトラーはよくおならをしていて、またひどい汗かきでいつも臭かったという。彼の前では、悪臭の話題を持ち出してはいけないことになっていた。

 

 

 

 これが、あの独裁者の現実の姿と考えるとどこか滑稽な印象も抱いてしまうが、しかしヒトラーのエピソードの背後に見えるのはパーキンソン病患者の日常である。自分の身体が自分の思い通りにならないというのは、誰にとっても辛い話である。

 

 

 

 

 

 最後にオマケ的に、かつて英語圏で作成された「総統閣下シリーズ」作品を紹介しておこう。

 私が初めて接した作品(2008/12/29 に公開)であると同時に、その秀逸さに感心させられた作品でもある。

 

 

 

Adolf Hitler - Vista Problems!
 
https://www.youtube.com/watch?v=JSF39LmpxCY 

 

 

 

 当時、私も総統同様に「Vista Problems」に悩まされていたことを、久しぶりに思い出した。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 :  2017/10/15 07:57 → http://www.freeml.com/bl/316274/312781/

 

 

 

 

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2017年8月12日 (土)

芦原義信のテニスコート

 

 

 

 

  ニューギニアで飛行場の建設をしたが、飛行機が一機も飛来しないうちに米軍の攻撃を受け、使い物にならなくなった。引き上げ間際、一度も使わないのは残念だということで軍医と二人でこの滑走路でテニスをした。
     (『芦原義信 建築アーカイブ展 ―モダニズムにかけた夢』 武蔵野美術大学 美術館・図書館 2017  154ページ)

 

 

 「芦原義信 建築アーカイブ展 ―モダニズムにかけた夢」の図録、「芦原義信略年譜」の1942年の項にあるエピソードである。もっとも、その出来事が同年の話なのかどうかは判然としないところが残るが、海軍の技術士官として飛行場の建設に関わり、「引き上げ間際、一度も使わないのは残念だということで軍医と二人でこの滑走路でテニスをした」顛末は印象深い。

 

 展示会場(展示会場となっている「美術館」自体が―増改築はされているが―そもそもは1967年に芦原義信により、展示室を含む「図書館棟」として設計されたものだ)にあった「略年譜」にもこの顛末は掲載されており、武蔵野美術大学のキャンパス計画の骨格の作成者であり、キャンパス内の代表的な建物群の設計者でもある芦原の戦時期のエピソードとして、建築作品の背後にある芦原の人物像を(私の中で)決定付けるものとなった。

 

 「略年譜」によれば、1918年生まれの芦原義信は、1940年4月に東京帝国大学工学部建築学科に入学、1942年9月に卒業し「海軍技術士官として入隊、各種建築(橋梁、飛行場等の計画・実施)を担当」となっている。

  東京帝大出身の若き技術士官と軍医の組合せによる「滑走路でテニス」には、両者の出身階層が反映されているようにも思われ、私の関心を引いたのである。

 

 「略年譜」の出生年の項には、

 

  医者の父、信之の五男。兄に舞台・音楽評論家の芦原英了、母方の叔父に画家の藤田嗣治がいる

 

このようにも記されており、芦原が(当時の用語で言えば)「有産階級」の出身者であることは明らかであろう。医科系大学出身者の任官する「軍医」もまた、軍隊内では士官待遇を受ける存在であり、東京帝大出身者芦原と同一階層に属する人物と推測され得る。当時の用語法では、「有産階級」(いわゆる「成金」は除いての話だが)には「知識階級」と呼ばれる場面もあり、そこには大学における高等教育を受ける「階層」であることが含意されている。その「技術士官」と「軍医」の組合せによる「テニス」なのである。義務教育だけの階層、すなわち庶民の多くには、「テニス」は無縁のスポーツであったはずである。

 

 芦原の「出身階層」をさらに際立たせるエピソードが、同展図録の「武蔵野美術大学赴任までのこと」と題された夫人の芦原初子氏へのインタビュー記事にある。

 

  主人と初めて出会ったのは軽井沢でした。ちょうど主人が東大に入った頃です。私の兄がずっと成城で、主人は高校だけ成城でしたので知ってはいたんですね。そして成城時代の兄の親しい友達が主人とも親しくて、軽井沢に来たときに主人を連れてうちに遊びにいらしたんです。二人で馬に乗ってね(笑)。それで一目合ったらもう、パッと両方で惚れちゃって。翌日から主人は友達そっちのけで毎日のようにやって来るんですよ。それで一緒にトランプなんかして、それが始まりですね。私がしばらく津田塾の寄宿舎にいたものですから、ラブレターがいっぱい来てましたよ。
     (同展図録 103ページ)

 

両者が軽井沢に別荘を持ち、避暑の地とするような階層に属していたことが、あらためて明らかになるはずだ。まさに「良家の子女」同士の出会いのエピソードである(現在の天皇夫妻の初めての出会いの場が、十数年後の軽井沢のテニスコートであった事実もが思い起こされる)。再確認しておくと、「主人と初めて出会ったのは軽井沢でした。ちょうど主人が東大に入った頃です」というエピソードは、1940(昭和15)年前後ということになり、1937(昭和12)年の盧溝橋事件以来(継続する「支那事変」下で)の「戦時期日本」での話なのである。

 

 

 ここで、この時期(すなわち「戦時日本」である)に、別荘地に無縁な階層の底辺が置かれていた「住まい」に関する状況を見ておこう。

 

  昭和13年当時の厚生省生活課技師の報告によると、「先般各地軍需工場地帯に於ける労務者の居住状況を視る機会を得て、痛感した事は、労務者殊に農村から見習工として集まって来た人々に住居の欠乏していることである。例えば、4畳半に4人、6畳に6人と云ふ過密状況が各所に見られ、或は15坪以上もある広い部屋を急設して、採光通風等考慮せず、唯寝る場所を与へて押入れもない室内に寝具、荷物を散乱させ、20~30名の新人工が合宿している。所謂万年床は随所にあり、殊に夜勤者が昼間強い日光を浴び乍ら寝苦しさうな様を見て、斯かる状態は長期戦のもとに何時迄も黙過出来ぬことと痛感した。徒に生理的欲求を斥けることなく、疲労恢復に適する最小限の住居と、体力を維持増進するに足る栄養の供給とは、殊に銃後の第一線を守る軍需工場労務者には、確固たる方針を以つて之が万全を期すべきである。
     大本圭野 「戦時住宅政策の展開過程(2)―日本的住宅政策の原型」 (『季刊・社会保障研究 Vol.19 No.4』 1984  433ページ)

 

別荘地での避暑(そしてテニス)とは無縁の、戦時期日本の軍需産業の「労務者」の姿が明らかになるだろう。すなわち、当時の用語法での「無産階級」の現実である。

 

 もちろん、軍需生産の拡大は至上命令であり、労務者の居住環境の改善の必要性も、当時の重要な政策課題として意識されていた。

 

  戦時下における「産業戦士」たる労務者に対する住宅の供給は、戦争目的完遂に直接寄与するもので、最大の課題であった。
  昭和14年度においては厚生省を中心として、企画院、大蔵、商工、農林、内務、陸・海軍等の関係省庁の協議のもとに労務者住宅供給3ヵ年計画(昭和14年8月2日)が樹立された。これは軍需ならびに生産力拡充3ヵ年計画(昭和14年1月17日)による労務動員に対応したもので昭和14年度より16年度に至る3ヵ年計画である。
     大本圭野前掲論文(434ページ)

 

こうして第一期(14年度)住宅計画がスタートするが、既に肝心の建築資材の入手難(実は建築用の木材の供給源もまた米国であった―いわゆる「米材」である―のだが、対米戦争以前のこの段階で既に「外貨不足」に直面しており、木材についても輸入制限が必要となった)に陥っており、計画の実現は最初から困難となっていた。

 

 その流れの中で、昭和14年2月23日には「従来、住宅諸政策は厚生省社会局生活課の中で取り扱われていたが、以上の必要から独立した住宅課を設置」するに至り、更に昭和16年5月1日には「住宅営団」が設立される。

 

  住宅営団が初年度の『昭和16年度事業計画』の冒頭で掲げた目標は「三万戸ノ建設完遂」であり、「陸海軍関係労務者住宅ノ需要ヲ相当充足スルト共ニ、主トシテ都市ニ於ケル軍需及生産力拡充事業関係労務者ニ対シ、保健的ナル小住宅ノ急速供給ヲ為シ以テ時局ノ緊急ナル要請ニ応ズル」ことを目指した。ただし、目標の「三万戸ノ建設」の「完遂」は、年度内に3万戸〔うち東京支所1万3000戸〕の住宅を「竣工」することではなく、年度内に3万戸の住宅建設に「着手」することを指している。
     小野浩 「戦時総動員体制下の住宅供給」 (『熊本大学産業経営研究 第36号』 2017  抜刷10~11ページ)

 

そして、

 

  1941年6月、東京支所は107戸の分譲住宅の申込受付を開始した。これは東京支所の記念すべき初の分譲住宅であったが、もとは同潤会が建設に着手した「職工向分譲住宅〔板橋第二住宅地〕である。つまり、住宅営団が同潤会の事業を継承したあとに竣工したものである。
     小野浩前掲論文(同11ページ)

 

つまり、首都圏では、住宅営団は同潤会の事業の継承者として業務を開始していることになる。

 

  同潤会は、大正13年(1924)5月23日に、関東大震災の罹災者のための住宅供給を目的として創設された日本で最初の本格的な公的住宅供給機関である。その後を住宅営団に引き継ぐ昭和16年(1941)までのおよそ18年間、普通住宅、アパートメント、分譲住宅の住宅供給及び住宅調査などの事業を行い、戦前期の住宅供給に大きな役割を果たした。
     内田青蔵・安野彰・窪田美穂子 「同潤会の木造分譲住宅事業に関する基礎的研究―遺構調査を中心に―」 (住総研 『研究年報 No.30』 2003  113ページ)

 

  同潤会の活動は大きく三期に分けることができる。すなわち、第1期(大正13年~昭和4年)は、関東大震災罹災者のために小住宅(仮住宅)を供給し、次に人々を収容・教育することを第1の目的として、また普通住宅、アパートメントハウスの建設を行った。第2期(昭和5年~昭和13年)は、勤人向分譲住宅の建設事業を中心とする一方、アパートメント居住者の調査など、実施した建築の試みの検証を行った。昭和16年の住宅営団への発展的解散までの第3期(昭和14年~昭和16年)は、日中戦争に始まる戦争体制(軍事工場の設立、工場の生産拡張)による労働者の住宅不足に対応した質より量の確保を重視した受託事業を中心に行った。
  この第2期の主な事業であった木造独立分譲住宅事業は、昭和3年~13年までの間に「勤人」を対象として建設・分譲された勤人向分譲住宅と、昭和9年~16年までの間に「職工」を対象として建設・分譲された職工向分譲住宅とに大別される。勤人向木造分譲住宅は、東京17ヶ所、神奈川3ヶ所の計20ヶ所に、合計524戸の住宅が建設された。
     同論文(114ページ)

 

ここで「勤人」として想定されているのは「ホワイトカラー」のサラリーマンで、「職工」は「ブルーカラー」の労働者と考えてよいであろう。

 

 

 さて、テニスコートである。

 

 大月敏雄氏の「まちなみ図譜・文献逍遥 其ノ十五」(『家とまちなみ 65』 2012)では、『建築寫眞類聚 木造小住宅』(洪洋社 昭和3年)により、同潤会の「普通住宅」の実際の町並みや間取りが当時の写真と図面の組合せにより紹介されている。

 特にこの中にある「表1 同潤会木造普通住宅一覧」が、まず私の興味を引いたのであった。

 そこには、『同潤会十年史』を出典として、赤羽、十條、西荻窪、荏原、大井、砂町、松江、尾久、新山下町、瀧頭、大岡、井土ヶ谷の12か所の住宅名が記載され、各住宅の付帯施設の概要も記されている。同潤会初期の「普通住宅街」には、「付帯施設」にテニスコートを含むものが、赤羽、十條、西荻窪、松江、大岡の五か所を占める事実に(少なくとも私は)驚かされた。

 第2期の「勤人向住宅」は、明らかにホワイトカラー・サラリーマン階層を意識した一戸建ての住宅であり、住宅街の付帯施設としてテニスコートが組み込まれていても、それほどの意外性は感じられないであろうが、二階建木造長屋形式が基本の「普通住宅」では、まだ災害からの復興住宅としての位置付けがまさり、居住者としてのホワイトカラー・サラリーマン階層が意識されての公的住宅供給政策段階には至っていないように思える。

 実際、ターゲットとした階層の反応について、「ところで、この普通住宅事業の失敗は、見方を変えれば、低所得者の間に交通費を払いながら郊外に居を構えて通勤するという方法が、まだ受け入れられていなかったことを意味するといえる」との評価(内田青蔵 『同潤会に学べ、住まいの思想とそのデザイン』 王国社 2004 ―ただし中川寛子「同潤会による品川区中延二丁目の木造長屋群がいよいよ建替えへ」からの孫引き)が示されているが、そこには普通住宅事業のターゲットが「低所得者」であったことも明記されている。

 

 「普通住宅」の付帯施設としては、「娯楽室」が最も多く(11例)、次いで「児童遊園」(9例)、他には「医院(診療所)」や「食堂」等があるが、私が注目するのは2例の「託児所」の存在である。現在であれば「保育園」だが、当時の「託児所」は、むしろ低所得者・貧困層向けの施設として位置付けられていたのであり、すなわち確かに「普通住宅」の居住者として低所得者・貧困層が想定されていたことを意味する。

 付帯施設としてのテニスコートに反映されているのは、居住者として想定される階層への配慮というよりは、設計者の階層にとってのスタンダードではなかっただろうか? テニスコートが5例あるのに対し託児所が2例にとどまるのは、低所得者・貧困層にとっての託児所の必要性・切実感が、帝大卒の設計者の間では共有されていなかった故の話とも思われる。

 

 

  当時、東京帝国大学教授であった内田祥三は、同潤会が設立されるにおよび、その理事として同潤会に関わるようになった。そしてすぐさま、弟子であった川元良一を三菱地所から引き抜き、同潤会建設部長の椅子に座らせ、幾人かの東大建築学科を出たての若者を同潤会に送り込んだ。
     大月敏雄前掲記事(66ページ)

 

 この内田祥三について「芦原義信略年譜」には、芦原義信の入学当時の東大建築学科教授陣のひとりとして名が記されている。

 同潤会初期の「普通住宅」の付帯施設にテニスコートを組み込んだ設計者と、戦時下のニューギニアで放棄することになった飛行場の滑走路でテニスをした芦原義信は、同じ東大建築学科に所属した同一階層出身者であったことが理解されるであろう。

 もちろん、有産階級出身者でなくとも学歴による階層の上昇が可能であった時代の話である。旧制高校から帝大のコースへの参入は元々の出身階層からの離脱・上昇をもたらすが、そこでは上位階層の価値観・生活様式の内面化も果たされ、テニスコートのある生活様式も内面化されるわけである。

 

 先の託児所の話にからめて言えば、別荘を持つような有産階級の幼子が通うとすればそれは「託児所」ではなく「幼稚園」であった。

 無産者ではないにしても別荘は持たない家に生まれ、それでも旧制高校から大学へ進み、(官吏であれ会社員であれ)ホワイトカラー・サラリーマンとなり得た人々の結婚後の住まいとして想定されていたのが、まさに同潤会の「勤人向住宅」であったと言えよう。子どもが生まれれば幼稚園に通わせるのが、「勤人向住宅」の住人となった人々のモデルとなる生活様式であり、まさに『コドモアサヒ』の誌面に描かれた生活様式である。そこに示された生活水準を到達すべきモデルとすることから始まり、子どもを介した読者として生活様式を内面化し、昇進と収入の増加が『コドモアサヒ』の世界を現実化する。そんな勤人向住宅の居住者たちこそ、理想的な(あるいは典型的な)『コドモアサヒ』の購読者層であったかも知れない(「「コドモアサヒの時代」展を観る」を参照―昭和16年の連載記事の一つが、木村きよしによる「幼稚園メグリ」シリーズであった)。

 

 芦原は1972年に「KPIタウン造成」(企業社宅としての集合住宅群である)に関わっているが、起伏のある広大な敷地に設計・建築された住宅群の付帯施設としてサッカー場、バスケットコートと共にテニスコートを用意している。ここでの芦原は、テニスコートのある生活を既に内面化した1970年代のサラリーマン家族のために、テニスコートのある企業社宅街を設計したことになる(ちなみに、高低差のある敷地に建設された地上4階の家族向け住宅群には、武蔵野美術大学7号館と同様の設計上の仕掛けが施されている点も興味深かった)。

 

 

 さて、芦原義信は「ニューギニアで飛行場の建設をしたが、飛行機が一機も飛来しないうちに米軍の攻撃を受け、使い物にならなくなった。引き上げ間際、一度も使わないのは残念だということで軍医と二人でこの滑走路でテニスをした」わけだが、芦原と軍医は自ら建設した飛行場をテニスコートに転用したことになる。設計者の意図を超えた建築設備の転用は珍しいことではないだろうが、ここでの芦原の行為もその事例に加えられ得るであろう。一方で、芦原の先輩格となる同潤会普通住宅の設計者がプランに組み込んだテニスコートも、戦争の苛烈化に伴い食糧増産のために農地に転用された可能性は大きい。滑走路がテニスコートとなり、テニスコートが農園となる。これもまた戦時期の日本の経験であった。

 

 最後に再び「略年譜」に戻ろう。

 

 1945年9月、27歳の芦原義信は「海軍技術大尉から復員」する。多くの戦死・戦病死者(その大半が餓死である)を出したニューギニアに一度は配属されながらも内地へ転属となり、最終的に「復員」を果たし得たことは実に幸運なことであった―芦原も自身の幸運について深い思いを抱いたであろう。復員した芦原の前にあったのは戦災により「焼け野原」となった東京であった。「戦時期日本」は「敗戦」(当時は「終戦」と呼ばれたが)により「戦後」の時間を迎える。

 

 大震災により「焼け野原」となった東京の「復興」を記念して「帝都復興記念式典」が開催されたのが1930(昭和5)年、「復興記念館」が建てられたのが1931(昭和6)年のことであり、まさに同潤会が「復興」に重点を置いた罹災者向けの「普通住宅」から、ホワイトカラー・サラリーマンをターゲットとした「勤人向住宅」建設へとシフトした時期に重なる。同潤会の住宅の多くは(当時の)郊外に建設されたために戦災を免れたが、都心は都市無差別爆撃によって(再び)「焼け野原」となっていたのである。すなわち、「戦後」の東京は再び「復興」されるべき都市となっていたのである。

 

 1946年2月、芦原は「東京都復興計画懸賞設計に佳作入選」を果たす。「略年譜」には、「新宿をテーマに設計した。この入選が建築家に戻る契機となった」とある。この「東京都復興計画」が、「滑走路でテニスをした」海軍技術士官であった芦原義信の建築家としての「戦後」のスタートであった。

 

 あらためて振り返れば、1972年の「KPIタウン造成」に組み込まれたテニスコートは、「戦後」の時間の経過、「復興期」としての「戦後」が既に過去のものとなったことを象徴的に示すもののようにも見える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/08/12 19:52 → http://www.freeml.com/bl/316274/310306/

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017年5月31日 (水)

エビデンスの力~西嶋真司監督の『抗い』(2016)

 

 本年の「メイシネマ祭’17」では、最終日の最終上映作品となった西嶋真司監督の『抗い』(2016)しか観られなかった。4週間近く前の話だ。しかし、その印象はまだ生々しい。

 

 

 

 ファクト(事実)を支えるエビデンス(根拠)の力。徹底的にエビデンスに拘り、ファクトに迫り続ける記録作家―林えいだい―の姿。

 2017年はトランプ大統領就任の年でもある。トランプと取り巻きは、自分たちに都合の悪いあらゆる情報を何の根拠も示さずにフェイク・ニュース(偽ニュース)と切り捨て、自ら発信する虚偽をオルタナティブ・ファクト(代替事実)と呼ぶことで問題を処理し続けている。

 

    ファクト(事実)やエビデンス(根拠)に対する政治的攻撃が強まっているとして多くの人が不安を募らせているなか、科学者やその支持者たちのデモ「科学のための行進(March for Science)」が22日に米首都ワシントン(Washington D.C.)を中心に世界600以上の都市で初めて行われる。
     (AFP 2017/04/22 15:27)

 

 この記事(そこにある切迫した危機感)が、記録作家の林えいだいの姿を追ったドキュメンタリー作品を観る私の中に、何度も反響し続けた。

 

 作品のホームページの記述を援用すれば、林えいだいは、「徹底した聞き取り調査により、朝鮮人強制連行、差別問題、特攻隊の実相など、人々を苦しめた歴史的事実の闇を追求し続けている」記録作家である。正直に私にとっての林えいだい体験を告白すれば、そのテーマの余りな重さに、著作に目を通すことを先延ばしにしてきた作家でもある。

 

 そんな私が、メイシネマ祭の会場で、画面の中の林えいだいと対面することになったのである。

 

 『抗い』の中では、林えいだいの著作のいくつかが、そしてその取材の核心が紹介される。

 たとえば朝鮮人炭坑夫を殴り殺した日本人労務主任を探し出し、実際のその証言を引き出し、まさにその証言をエビデンスとして、ファクトとしての日本近代における朝鮮人炭坑夫の境遇を明らかにするのである。

 その徹底的な取材が、ファクト(事実)としての歴史叙述を支えることになる。「近現代史の真実」と称する代替事実(すなわち虚偽)が氾濫するのが21世紀の最初の十数年の現実である(たとえば「朝鮮人強制連行問題の基本構図」参照)。林えいだいが、その徹底的に緻密な取材を通して明らかにするのは、当事者の証言を通して明らかにされるのは、近代日本の「事実」なのである。

 

 西嶋真司監督による取材が、その林えいだいの姿―徹底してエビデンスを追い求めファクトを追求する記録作家の気迫、その背後で記録作家を突き動かす戦時期日本での父母のエピソード―を映像記録としてとどめ、私たちの前に示してくれるのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/05/31 18:39 → http://www.freeml.com/bl/316274/305681/

 

 

 

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2017年4月15日 (土)

トランプ、スターリン、プーチン、ブレジネフ、そして聖マティスの肖像

 

 前回は、「ロシア構成主義的ドナルド・トランプ・イメージ」と題して、数あるドナルド・トランプ大統領ネタ画像の中でもソヴィエト・ロシアのプロパガンダ・アート・パロディとして秀逸だと思われるものを紹介した。

 特に、「ロシア構成主義」として知られる、当時の最先端スタイルによる作品(のパロディ)を取り上げたが、それはまさにソヴィエト・ロシアのプロパガンダ・アートが芸術(美術)の前衛であった時代のポスター・デザインである。「革命」は政治の問題であるだけでなく、芸術もまた「革命」を経験していたのだ。

 しかし、そんな時代は長続きすることなく、「社会主義リアリズム」と呼ばれる表現形式が政治的に推奨され、芸術は政治の従属物に成り下がり、芸術上の革命の時代は終焉を迎える。

 

 

 しかし、古典的な表現形式で描かれたスターリンの肖像に代表される「社会主義リアリズム」の絵画もまた、パロディ作家にとっては良い素材となり、例えばスターリンの肖像がトランプの肖像として蘇るのを楽しむことが出来る。

 

 

 

alternative facts - pravda comrade !
  
https://1.bp.blogspot.com/-eDDGOX_e3xY/WLh7kMc0ctI/AAAAAAABLkk/eWeOIWPOLP8D3UEUj-87yJjyalSj7JLGQCLcB/s1600/Trump-Alternative-Facts-Pravda-Comrade.jpg

 

 

 このパロディー作品の下敷きとなっているスターリンの肖像でも、執務机に重ねられた郵便物の下に描かれているのが御用新聞の『プラウダ』であることに気付くであろうが、パロディー作品ではその『プラウダ』の存在が生かされ、笑いの源泉へと転化している。

 

 

   stalin with pravda
   
https://zibbet.s3.amazonaws.com/uploads/photo/file/8734527/gallery_hero_il_fullxfull.409219358_ofmi.jpg

 

 

 「プラウダ」はロシア語で「真実」を意味するが、御用新聞としての『プラウダ』の紙面は「真実」の報道とは遠いものとなっていた。

 その事実が、自身に都合の悪い報道を全て「fake news(嘘ニュース)」と呼び、自身の主張の誤りが明らかとなっても「alternative fact(代替的事実)」と言い張る、ドナルド・トランプ自身とその取り巻きの姿に見事に重なるのである。

 トランプが求めるのは『ニューヨークタイムス』の報道スタイルでもなければ『CNN』の報道でもなく、まさに『プラウダ』の報道スタイルに違いない、と多くの者は考えるであろうところに、このパロディー作品が成立するわけだ。

 

 

 実際、そんなトランプ政権による合衆国の政治は、内政でも外政でも混乱続きである。いまだに特筆すべき成果は見られない。

 

 

 トランプとその取り巻きによる政権運営に混乱の続く中、政権内で内外からの信頼を獲得しているのは、国防長官に就任したジェームス・ノーマン・マティス元海兵隊大将その人であろう。

 

 早速、20世紀の美術をはるかに遡る16世紀の祭壇画を思わせる様式で描かれた、マティス国防長官の肖像画を鑑賞することとしよう。

 

 

saint mattis of quantico
  
http://www.catholic.org/files/images/media/14806999051961_700.jpg

 

 

 右手に手榴弾、左手にナイフを持つ元海兵隊司令官の頭の背後には、金色に輝く中に「M A D D O G」の文字が刻まれている。

 「クアンティコの聖マティス」とされていることが興味を引くかも知れないが、「クアンティコ」は海兵隊基地の存在で知られている土地である。そして、更に画面を見ることで「クアンティコの聖マティス」が「カオス(大混乱)」の「守護聖人」であることにも気付くであろう。マティス国防長官は(少なくとも今のところ)、大混乱の続くトランプ政権内で、平静を保ち続けている数少ない人物の一人(もう一人であろうマクマスター安全保障担当補佐官もまた軍出身者であるが)であると、多くの人に思われているはずだ。まさに大混乱を続ける政権の守護聖人の役割である。

 

 

 

 

 続くのは、画像検索の際に見つけた(2024年のものとされる)プーチンの肖像画である。下敷きとなっているのは、長く政権に居座り続け、ソ連を停滞に導いたブレジネフの肖像である。

 大量の勲章で飾り立てた軍服に身を包んだ傲慢そうな老人。スターリンの肖像以来の重厚なスタイルで描かれた、まさにブレジネフとしてのプーチンだ。

 

 

putin-brezhnev-2024
  
http://www.irishmanabroad.com/wp-content/uploads/2011/10/Putin-Brezhnev.jpg

 

 

 

 最後は、ソヴィエト・ロシアの様式で描かれたトランプ及びプーチンの姿から一転して、米国を代表するプロパガンダ・デザインのパロディとして描かれたプーチンの姿である。

 

 

 

i want ukraine
  
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/736x/6f/16/ec/6f16ec0e0e3417cc9ab0d81ed3170adf.jpg

 

 

 

 プーチンには、アンクルサムの衣装もよく似合うのであった。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/04/15 19:20 → http://www.freeml.com/bl/316274/302483/

 

 

 

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ロシア構成主義的ドナルド・トランプ・イメージ

 

 今回は、いわば「「偉大な指導者」としてのドナルド・トランプ・イメージ」の続きとなる、ネタの源泉としてのドナルド・トランプ大統領をめぐる記事である。

 

 

 

 紹介するのは「soviet propaganda poster trump」とか「russian constructivism trump」といった検索語での画像探索時の発見物だが、ソ連時代のプロパガンダ・ポスターのパロディとして実にに秀逸なものだと感じた。

 

 


Photo Illustration by Cristiana Couceiro.
  
http://media.vanityfair.com/photos/58d974523753ee611fd2475e/master/h_606,c_limit/russian-fake-news-04-17.jpg

 

 

 いわゆる「ロシア構成主義」デザインの典型的構図である。バックには赤地に白が斜め右上に向けて下方から放射状に広がり、中心に大統領トランプとその主席戦略官バノン、その下にロシアのプーチンとその顧問格のスルコフ、そしてホワイトハウスの写真がコラージュされ、加えてメディア記事の文字による画面構成となっている。

 下敷きとなったのが、以下の作品に代表されるロシア構成主義の構図である。

 

 

 Left: Gustav Klutsis – Workers, Everyone must vote in the Election of Soviets! Image via arthistoryarchive.com / Right: Russian Propaganda Poster.Image via posterwire.com
   
http://d2jv9003bew7ag.cloudfront.net/uploads/Left-Gustav-Klutsis-Workers-Everyone-must-vote-in-the-Election-of-Soviets-Image-via-arthistoryarchive.com-Right-Russian-Propaganda-Poster.Image-via-posterwire.com_.jpg

 

 配色、斜めが強調された躍動的な構成、写真によるコラージュ、デザインの一部となった文字。

 左画面にあるグスタフ・クルーツィスの手の平による構成は、パロディ作品ではバノンが掲げる右の手の平の並びとして再現されている。

 パロディ作品に登場するキャラクターの中で、あまり有名ではないであろうプーチン大統領の補佐官ウラジスラフ・ソルコフの画像も参考として添えておこう。

 

 
 Vladislav Surkov - Wikipedia
   
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/03/Vladislav_Surkov_7_May_2013.jpeg/220px-Vladislav_Surkov_7_May_2013.jpeg

 

 

 偉大なドナルド・トランプ大統領と上級顧問のバノンの関係が、画面中央でバスト・ショットで大きく示されるトランプと右下方に小さくはあるが上半身像+掲げる右手が三連化されることで存在感が強調されるバノンの姿として示され、ホワイトハウスの上のプーチンとソルコフの関係に反復されてイメージに刻み込まれる。(少なくともシリア攻撃までは維持された)ロシアとトランプの親密な関係が画面構成の中でも暗示され、それがロシア構成主義デザインのパロディとして示されることで、より強化される。実に秀逸なものだと感心した次第。

 

 

 

 続いて…

 


Trump Poster No. 1: Hate Speech
  
http://68.media.tumblr.com/53bb2c46d456e45aa8d29ac5d6da0c31/tumblr_o5h1h3IVhM1v1fk2co1_1280.jpg

 

 

 このパロディ・デザインから連想させられるのは、ロシア構成主義を代表するアレクサンドル・ロトチェンコのポスターであろう。

 

 
 Alexandr Rodchenko, Poster for a Moscow publisher (1924)
   
http://www.brandandbrand.co.uk/blog/wp-content/uploads/2014/12/constructivist.jpg

 

 ただしこのパロディでは、ロトチェンコの有名な構図を下敷きとしながらも、ソ連時代のスターリニズム的全体主義に重ねて、もう一つの全体主義であるナチス体制の標語と画像を用いることで、トランプの強権的志向への批判が強化されている。

 「HATE!」と叫ぶトランプに重ねられているのはナチスの反ユダヤ主義が煽った民族主義的な「憎悪」であるし、ナチスの有名なスローガンであった「一つの民族、一つの国家、一人の総統(Ein Volk, Ein Reich, Ein Führer)」もほとんどそのまま用いられている(ONE PEOPLE/ONE EMPIRE/ONE LEADER!)。

 

 
 Plakat: "Ein Volk, Ein Reich, Ein Führer.
  
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/564x/0c/24/10/0c241093d8ecf8bb026a449b2b63ff6e.jpg

 

 
 hitlerjugend
  
http://visit-heidelberg.org/wp-content/uploads/imgp/hitlerjugend-frisur-3-8231.jpg

 

 右半分の画面のナチス的スローガンの背景には、ソ連の青年組織のピオニールではなく、ナチスのヒトラー・ユーゲントの画像が引用され、画面左上方の「LONG LIVE FASCISM !」の文字と共に、ドナルド・トランプの言動とファシズム世界の親和性の強調に効果を発揮している(見る側が気付く限りにおいての話だが)。

 

 

 

 

《オマケ》

 トランプ関連画像ではないが、検索中に見つけたソ連プロパガンダ・ポスター・デザインのパロディ作品の中から、お気に入りを2点ほど紹介しておこう。ロシア構成主義を代表するエル・リシツキー作品風のウォッカの広告と、有名なドミトリー・ムーアの志願を募る軍人ポスターをマリオ化したお遊び(残念なことに出典となるリンク先を見失ってしまった)と。

 

  

 we call it vodka
  
https://files1.coloribus.com/preview/x600/files/adsarchive/part_972/9729455/file/stolichnaya-vodka-we-call-it-small-51408.jpg

 

 

  

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/04/15 00:45 → http://www.freeml.com/bl/316274/302435/

 

 

 

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