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2019年6月

2019年6月25日 (火)

清水多嘉示資料展(第Ⅲ期) ホセ・ラウエルとマッカーサー

 

 武蔵野美術大学美術館において、かつて武蔵野美術大学の彫刻科教授であった清水多嘉示にまつわる「清水多嘉示資料展」、その第Ⅲ期・戦後編として「清水多嘉示資料展 石膏原型の全てと戦後資料」が開催されていた(6月16日で終了)。最終日になっての駆け足での展観となってしまったが、特に印象に残った資料について記しておきたい。

 前回の資料展開催が2011年で、「清水多嘉示の道程:敗戦まで」と題された通り、戦時期の清水多嘉示の姿を知る機会となった。その際の感想めいたことをまとめたのが「清水多嘉示資料展 「千人針記念碑」との出会い」である。「従軍彫塑家」として、支那事変(日中の軍事衝突)下の中国大陸で従軍した中でのスケッチの数々。昭和13(1938)には源田実をモデルとしたブロンズ像「海の荒鷲」、翌14年には主翼を破損した九六式艦上戦闘機で奇跡的生還を果たした樫村飛曹のエピソードがモチーフとなっているレリーフ「南昌制覇」のような、事変の渦中の日本の海軍軍人の姿を彫像化したもの。また、翌15年制作の「千人針記念碑の一部」(サブタイトルは「出征兵士ヲ送ル」) といった戦時期の銃後に焦点を当てた作品に抱いた個人的関心について記した。

 その結びの部分で以下のように書いた。

  

  展示は、ブロンズ彫像作家の前から金属が失われた時代を経て、敗戦に至る。清水が漢口でスケッチしたのは、空襲の準備をする日本海軍の陸上攻撃機の雄姿であったが、米軍のB-29に空襲される側となった日々、どのような想いの中で過ごしていたのだろうか?

  敗戦直後の清水は、「特攻寺」の創設を提案した文章を残している。「あの戦争」の「あの作戦」で命を落とした特攻隊員を弔う場としての「特攻寺」なのである。どことなく高揚感の漂う文章に、戦後の清水の出発点を見る思いがした。

 

 今回の「戦後資料」のトップに展示されていたのが、昭和20(1945)年に記された「特攻寺」をめぐる原稿であった。あらためて、特攻による死を求められ、それに応えざるを得なかった特攻隊員への、敗戦の現実の中で高揚する清水の心情を再確認させられるものであった。「特攻による死」を求める側にいた(ことになってしまう)清水にとって、「特攻寺」の創設提案は、特攻による戦死者への清水なりの責任感の表現なのではあろう。

 ただし、展示されているのは二種の原稿のみであって、印刷されて公的に発表されたものではない(原稿執筆のみで終わってたものなのか、実際にどこかに公表されていたのかは、現時点では不明である)。

 

 続く展示資料には驚かされた。特攻寺をめぐる原稿の隣にあったのは、1946年のものとされている、モニュメント彫刻のプラン(スケッチ)である。バックにはゲート風の枠組み(彫像の身長より高い)があり、一歩前にいる男性とその背後で男性に従い歓呼する民衆(男女の二名、だったと思う)という構図。

 一歩前にいる指導者然とした男性が日本占領軍司令官であるマッカーサーにしか見えない。マッカーサーに導かれる民衆の像、なのである(そのモデルが実際にマッカーサーであったとしての話だが)。戦時期に、大陸で行使される大日本帝國の軍事力を肯定的なものと捉え、銃後での戦時協力を「千人針記念碑」として造形化した彫刻家の、戦後の第一作の構想として登場するダグラス・マッカーサー、なのである。

 それだけでも、十二分に強烈な印象だが、そのマッカーサー・モニュメント・プランの上方に展示されていた別のモニュメント・プランは更に強烈であった。そこにあったのも、ゲート風の枠組みの前で、一歩前にいる男性とその背後で男性に導かれ歓呼する民衆の構図によるモニュメントであった。ただし、先頭にいるのはマッカーサーではなく、ホセ・ラウエルなのである。異なるのは、指導者然とした位置を占めるのがラウエルかマッカーサーかの違いのみであり、全体の構図には違いがない。

 ホセ・ラウエルは、対米英開戦後に日本軍占領下となったフィリピンが、(大日本帝國の政策により)「独立」する際にフィリピン大統領に就任した人物である。昭和18(1943)年の話だ。展示では明示的に年代が示されていなかったが、ラウエル・モニュメントの構想は、フィリピンに独立が与えられ、ラウエルが大統領に就任した1943年当時のものである可能性が高い。1943年には、東條首相により、アジアの日本軍占領域各地の政治指導者を集めての大東亜会議も開催されており、その時期でのラウエル・モニュメント制作は、国策に寄り添う彫刻家の構想として理解可能なものである。ただし、資源統制下の大日本帝國において、ブロンズによる作品の実現には見込みはなく、ラウエル・モニュメントは戦時期の清水多嘉示の構想段階で終わったものと思われる。

 その戦時期のモニュメント構想が、基本構図をそのままに、敗戦後の日本で復活する。主役をラウエルからマッカーサーへと換えられて(マッカーサーもフィリピンと縁のある軍人ではある)。

 資料展示では、展示物についての詳細なキャプションを欠いている(研究の現状では、残された資料を網羅的に展示するしかないということなのであろう)ので、私の解釈が正しいものかどうかは不明確だが、とりあえず仮説的に提示しておこうと思う。

 

 同構図で主役だけ交換されたモニュメント・プランという理解が正しいとして、その意味をどのように捉えるかという問題は残される。

 戦時期の清水には、確かに国策に親和的なところが窺われる(いわゆる「戦争協力」への積極性ということだ)。

 今回の展示のもう一つの目玉である「石膏原型の全て」によって、戦時期の清水の石膏原型の中に、記憶に残っているところでも二作品、軍事と航空の結びつきを表現するものがあることがわかった(展示最終日の駆け足での展観のため、曖昧さが残るのは残念である)。前回の資料展で出会った「海の荒鷲」も「南昌制覇」も、海軍航空隊の活躍を期待し、讃えた作品であった。従軍彫塑家としてのスケッチにも、海軍の陸上攻撃機が登場する。その意味で、国策と清水の親和性は確かのものと言えるだろう。反軍的な芸術家の姿ではない。

 しかし、ラウエル・モニュメント・プランとマッカーサー・モニュメント・プランの構図の同一性。マッカーサー・モニュメント・プランはラウエル・モニュメント・プランの完全な流用というしかない事実から見出せるのは、芸術家の時局便乗的態度ではなく、芸術家のニヒリズムなのではないか? そのように思えなくもない。

 発注者に応えるのが彫刻家の役割だとするならば、彫刻家は発注者の側である政治体制の求めに応えるのみ。彫刻家にとって、芸術家にとって、表現こそが(表現のスタイルこそが)目指すものだとするならば、清水には戦時期と敗戦後の断絶は存在しない。ラウエルをマッカーサーに差し替える。構図は、表現のスタイルは微動だにしない。

 

 ここで思い出すのは、戦時期の丹下健三と敗戦後の丹下健三である(以下、井上章一 『戦時下日本の建築家』 朝日選書 1995 による)。

 昭和17(1942)年、建築学会は「大東亜共栄圏確立ノ雄渾ナル意図ヲ表象スルニ足ル記念造営計画案」の図面を募集する。実際には、戦時下の資材不足の中で、実現の可能性のまったくない「記念造営計画案」なのだが、建築学会は競技設計として図面の募集を行った。ここで丹下健三の「忠霊神域計画」が一等の情報局賞を獲得する(二等以下を大きく引き離して)。この平面プランと、戦後の広島の、やはり丹下健三による広島平和記念公園(竣工は1954年)の平面プランの同型性が指摘されている。また、広島平和記念公園の慰霊碑も、忠霊神域計画の本殿建屋との同型性が、ハニワ・モチーフということで指摘されている。忠霊神域計画は富士山の裾野を想定し計画された雄大なものだが、比較すれば、広島の平和記念公園はスケール的には小さなものである。しかし、平面計画においても、メインの施設造型においても、その同型性は否定できない。

 戦時期の「大東亜共栄圏確立ノ雄渾ナル意図ヲ表象スル」建築計画と、戦後(大東亜共栄圏崩壊後)の平和記念公園の間に、その表現のスタイル(平面計画とメイン施設の造型モチーフ)において断絶はない。

 

 単なる芸術家の無節操と切り捨てることも可能だろうが、しかし、そこに政治体制(あるいは政治的思想・信条)に対するニヒリズムを見出すことも可能であろう(それを良しとするかどうかは別としての話ではあるが)。

 もっとも、特攻寺創設を主張する清水多嘉示の姿からは、戦時期の自らに対する否定的心情の片鱗が読み取れるようにも思われる。軍事における航空力の優位の重要性を理解していたように見える作品群からすれば、特攻作戦に依存せざるを得ないところまで追い込まれた祖国がどのように評価されていたのか? 敗戦後になって、あらためて特攻隊員の犠牲に対峙したとき、清水の心情は、特攻寺創設案として表現されたことになる(それが特攻による戦死者にとっての救いとなるかどうかはともかく)。

 

 

 再び、前回の展示をめぐる話題に戻る。

  展示は、ブロンズ彫像作家の前から金属が失われた時代を経て、敗戦に至る。清水が漢口でスケッチしたのは、空襲の準備をする日本海軍の陸上攻撃機の雄姿であったが、米軍のB-29に空襲される側となった日々、どのような想いの中で過ごしていたのだろうか?

 

 戦時期の清水多嘉示の作品には、海軍(航空隊)との深い縁を示すものが多く、海軍館での展示作品ともなっている。その海軍館は、B-29による東京への空襲の初期の段階で投弾対象とされ、被害に遭っている。昭和19(1944)年11月27日の第二回目の出撃、目標は武蔵野市の中島飛行機工場であったが、気象不良のため、都内に投弾したものである。特に海軍館を標的にしたものではなかったが、原宿駅周辺が投弾対象となり、市街地、海軍館、東郷神社などが被害に遭っている。

 前回の資料展の翌年、東京大空襲・戦災資料センターでの「東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃」展(2012年)の際に、海軍館の空襲被害状況を示す写真の存在を知ることとなった(「プロパガンダと記録(東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃)」も参照)。

 現在は、NHKスペシャル取材班/山辺昌彦『東京大空襲 未公開写真は語る』(新潮社 2012)に掲載されている写真で確認可能である。

 以下、海軍館についての記述を引用しておく(最初のもの以外は、掲載写真のキャプション)。

 

  原宿にあった海軍設立の戦争博物館「海軍館」には、2発の爆弾が投下され、建物のみならず野外に展示されていた戦車も損傷した。警視庁の記録によれば、「爆弾一個は建物に命中、三階を貫通して二階にて爆発、建物一部破壊、一個は植込内に落達し、死者一名、傷者一名を生ず。尚数日間は観覧不能にて休館せり」とある。

  海軍の戦争博物館「海軍館」。大理石を使った堅牢な洋館だったが、大きな損傷を受けた。

  「制空」の碑の周辺にも瓦礫が積もる。

  海軍館の庭に展示されていた戦車の周辺には、瓦礫が飛散している。

  海軍館の内部。爆弾は3階を貫通して2階で爆発。崩れた建物の中に、展示された彫像が倒れている。

 

 

 被害の程度が伝わるだろう。「制空の碑」は台座だけで、「碑」の本体はない(東京大空襲・戦災資料センターでの報告書作成関係者の話では、空襲による被害なのか、金属供出により既に失われていたのかは詳らかではないという―台座にダメージが見られない点からすれば、後者の可能性が高いのではないかという話)。崩れた建物内で倒れているのは、幼い兄弟の姿の彫像である(作者についての記述はない)。

 制空権が奪われ、B-29による空襲も激化していく。清水多嘉示は、どのような心情の下に、その日々を送っていたのであろうか?

 

 

 

 

 

 

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