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2019年1月31日 (木)

カチンの拳銃弾 2

 

 

 ガス室のある収容所は数が限られていたことは、今でも知る人が少ない。もっとも有名なアウシュヴィッツ、トレブリンカ、マイダネクとシュトゥットホーフのほかにはヘウムノ、ソビブル、ベウジェツ、それにシュトゥットホートだけである。
 これに反して、ブッヘンヴァルト、ベルゲン・ベルゼン、シルメック、ノイエンガメ、マウトハウゼン、ラーフェンスブリュック、ザクセン・ハウゼン、フロッセンブルクにガス室はなかった。そこでは、収容者は緩慢な死を迎えるか、拳銃で項を撃たれるか、つるはしで殴り殺されるか、働いている採石場の高い所から突き落とされるか、であった。
     (アルベール・シャンボン 『仏レジスタンスの真実』 河出書房新社 1997 171ページ)

 

これもまた、昨日のルドルフ・へスの証言に加えて、

  後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する

というソ連の手法が、ナチスの強制収容所での収容者殺害においても採用されていた事実への言及(「拳銃で項を撃たれる」)である。

 小銃を構えた銃殺隊による銃殺刑という軍隊的スタイルや、機銃の乱射による大量殺害とは別に、「拳銃で項を撃たれる」殺害法もナチス体制の下で広く行なわれていたのだが、その手法の起源がソ連にあったのではないかというのが今回のテーマのひとつ、ということになろうか。

 

 

 前回記事(「カチンの拳銃弾 1」)で示した通り、「後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する」処刑法は、そもそもは、

 

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。
    (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

とあるように、ソ連秘密警察において愛好され洗練された手法であった。

 あらためて、その詳細について読み進めると、

 

 トカリェフの証言をまとめると、カリーニン虐殺(オスタシュコフ収容所の5291人のポーランド人捕虜は、カリーニンのNKVD本部の地下監房に移送され、別室で殺害された-引用者)はモスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮した。ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参、三人は駅の引込み線に止められた、電話交換機を入れた食堂車に寝泊りした。ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。処刑と埋葬にはNKVDの地方、中央をふくめてあらゆる階級の職員三〇名がたずさわった。看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。ブローヒンでなければカリーニンNKVDの総務部長ルバノフだった。監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。死体から手錠を外すと、中庭で待っている五、六台の無蓋トラックに積みこむ。いっぱいになると覆いをかぶせる。モスクワ=レニングラード街道(当時)にそって三〇キロばかり走ると、トヴェル川にのぞむメドノエ村がある。ブローヒンは村外れの塀のない埋葬地を選んであった。トカリェフの別荘から五〇〇メートル離れた森のはずれだ。一晩でトラックは二往復した。モスクワからブルドーザー二台と運転手が来て墓穴を掘り、死体を埋めた。植樹して隠そうとはしなかった。カチン、ハリコフとちがってカリーニンのドイツ軍占領は短かったので、発見されなかった。
 カリーニンでは合計六三一四人(オスタシュコフ収容所からの移送者以外の犠牲者も含まれる数字?-引用者)が銃殺されたが、一九九〇年に二三の墓穴が掘り返されたときには、死体の司法解剖は不可能だった。遺体は五十年経ち、土に戻っていた。
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 173~174ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

このように記されている。カリーニン虐殺における、ブローヒンの役割と手法の詳細に注目しておきたい。

 

  看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。

  監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。

 

 ブローヒンが従事したのは効率的な処刑=殺人であり、それが彼とその部下にとっての日常業務(「メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまで」)なのであった。

 

 

 ブローヒンの使用していたヴァルター二型拳銃(「ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参」とある)については、ワルサー社の「モデル2」を示すものであるのかどうか、検討の余地が残る。前回記事に引用した「拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた」との記述に示される口径から判断すると、口径6.35ミリの「モデル2」(1909年開発)には該当しない。口径7.65ミリのワルサー社の拳銃ということであれば、いずれも1910年代に開発された「モデル3」あるいは「モデル4」が存在する(註:1)。

 用いられた「後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する」処刑法からすれば、6.35ミリの小口径拳銃でも十分に役に立ちそうである。いずれにせよ、使用されたのはワルサー社の生産した拳銃であり、「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」というのが選択基準であった。「疲れが少ない」拳銃を用いて、効率的な処刑が遂行されたのである。そして、「死体から手錠を外すと、中庭で待っている五、六台の無蓋トラックに積みこむ。いっぱいになると覆いをかぶせる。モスクワ=レニングラード街道(当時)にそって三〇キロばかり走ると、トヴェル川にのぞむメドノエ村がある。ブローヒンは村外れの塀のない埋葬地を選んであった。トカリェフの別荘から五〇〇メートル離れた森のはずれだ。一晩でトラックは二往復した。モスクワからブルドーザー二台と運転手が来て墓穴を掘り、死体を埋めた」とあるように、死体処理も効率よく遂行された。

 日常的処刑業務を効率的に遂行するに際して「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」ことにおいて優位なドイツ製拳銃が、すなわち「ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた」のである。

 

 一方、ナチス・ドイツで愛用されたのは同じワルサー社のワルサーPP、あるいはPPKではないかと思われる。(内容的に妥当と思われるので、入力の手間を省き)『ウィキペディア』記事から引用すると、

 

 ワルサーPP(Walther PP)は、ドイツのカール・ワルサー社が1929年に開発したダブルアクション式セミオートマチック拳銃である。.22口径(5.6mm)、.32ACP口径(7.65mm)、.380ACP口径(9mm)の3種類がある。PPとはPolizeipistole(警察用拳銃)を意味する。

 1929年に開発される。ドイツ警察や再軍備宣言がなされたドイツ軍の将校用標準ピストルとして採用されており、国家社会主義ドイツ労働者党の制式拳銃でもあった。
     (2011/09/05 閲覧時の記述)

 

ということになる。その発展型にワルサーPPKがあるが、

 

 ワルサーPPKは、ドイツのカール・ワルサー社が開発した小型セミオートマチック拳銃である。警察用拳銃として開発されたワルサーPP(Polizeipistole)を私服刑事向けに小型化したもの。名称のKはもともと「刑事 (用)」を意味するクリミナールkriminalの頭文字だが、一般には「短い」を意味するクルツkurzの頭文字だと解釈されることも多い。

 1931年に発売開始。ヒトラーも、愛銃として使用しており、ドイツ警察(ゲシュタポ)や軍隊、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)で制式拳銃とされる。

 

とある通り、どちらもがナチス体制とも縁の深い拳銃である。

 

 

 処刑の効率について、

  屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。

とあったが、ナチス関係のものを読んでも同様の効率性は伝わってくる。しかし、ナチスは、ガス殺というより効率的な手法を開発した点において、ソ連の共産主義者を超えたわけである。

 

 

 いずれにしても、

  ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。

とされるブローヒンの人物像には、ソ連の共産主義の歴史の一面が深く刻印されており、いろいろと興味を引くところがある。

 

 

 

          (「カチンの拳銃弾 3」に続く)

 

 

 

【註:1】

 ワルサー モデル1は、ドイツのワルサー社が1908年に開発した、同社初のポケットピストルである。
 作動方式はシンプルブローバック、トリガーはシングルアクションで発射する。スライドはオープントップデザイン。フレーム左側後部にクロスボルト式のマニュアルセイフティ(シアを固定)を備えている。フロントサイトはあるが、リアサイトはスライド上面の溝を利用するスナッグフリーデザイン。銃身にはテイクダウン用のバレルシュラウドが被せてあり、これを取り外すことで分解するという独特な構造をしている。形状や細かな仕様の違いで、5つのバリエーションが存在する。
 元々は「Selbstlade Pistole Cal.6.35」という名称だったが、後続モデルが登場した際に「モデル1」に改名された。
 1909年には改良モデルの「モデル2」が登場。スライドをフルカバーデザインに変更し、全体的なバランスの見直しを図っている。他にも、内蔵式ハンマーに変更、グリップ底部のマガジンリリースレバーの大型化、マニュアルセイフティをレバー式に変更、などの改良が施されている。初期型には、チャンバーインジケーターを兼ねる可動式リアサイトとマガジンセイフティが備わっていたが、後期型では製造工程とコストを省くため、両機能とも廃止されている。モデル1ではロングタイプだったテイクダウン用のバレルシュラウドは、銃口先端を覆うショートタイプのものに変更された。
 「モデル4~モデル8(モデル5を除く)」になるとサイズが大型化するが、1921年には再び小型モデルの「モデル9」が登場。オープントップスライドでストライカー式という特徴はモデル1と変わらないが、よりオーソドックスなデザインになっている。ただし、マニュアルセイフティの位置はフレーム左側後部ではなく、トリガーガード左側後部に変更された。

モデル
 全長 銃身長 重量 口径 装弾数

モデル1
 112mm 50mm 360g .25 ACP 6+1
モデル2
 113mm 50mm 277g
モデル3
 127mm 67mm 472g .32 ACP 8+1
モデル4
 151mm 88mm 521g
モデル5
 113mm 50mm 269g .25 ACP 6+1
モデル6
 210mm 121mm ?g 9mm×19 8+1
モデル7
 135mm 76mm 360g .25 ACP 8+1
モデル8
 130mm 73mm 364g
モデル9
 99mm 51mm 260g .25 ACP 6+1
     (MEDIAGUN DATABASE→ 
http://mgdb.himitsukichi.com/pukiwiki/index.php?%BC%AB%C6%B0%B7%FD%BD%C6/%A5%EF%A5%EB%A5%B5%A1%BC%20M1

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/09/05 21:18 → https://www.freeml.com/bl/316274/170528/

 

 

 

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