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2018年8月31日 (金)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)

 

 

 これまで、「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、昭和10年代(1930年代後半から1940年代前半)の多摩武蔵野地域の軍産複合的状況について記してきた(カテゴリー「多摩武蔵野軍産複合地帯」記事参照)。

 特に、(武蔵野の名を冠した)武蔵野美術大学所在地である小平地域について、総力戦状況下を象徴するような軍施設の集中地区として整理し(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」参照)、加えて住宅営団による軍施設関係者用の集団住宅開発を取り上げ (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」参照)、さらに「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)」及び「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)」では、小平地域の給水問題(地勢的条件による飲料水確保の困難)を通して、「大きな力」としての軍の姿を再確認した。

 

 今回は、総力戦下での女性(と子供)の位置を、津田英学塾(現・津田塾大学)の開設した「津田こどもの家」を通して確かめてみたい。

 まず、『小平市史』と『小平市三〇年史』では、どのように「津田こどもの家」が描かれているのかを読むことから始める。

 

 

   女子英学塾(一九三三年から津田英学塾)は移転してきて以来、小平の地域社会との関係づくりに気を配っており、学生たちによる子どもを対象とした日曜学校や津田英学塾青年会の伝道活動、小平村出征兵士への慰問品送付の活動などに取り組んできた。しかし、モダンな校舎のミッションスクールと農村社会の文化的ギャップは大きく、教職員たちは「なんとなく村人と調和のとれぬ思い」を抱え、「英文学を専攻する学生たちが、象牙の塔に住みなれて、社会、殊にその地域社会から浮き上がつてしまうこと」を恐れていた。
  そうした中塾長の星野あいは、重労働に疲れ果てる農家の女性とその子供たちのために、農村託児所の開設を思い立った。これに賛同した教職員、学生、卒業生たちは、映画会を開いて資金を稼いだり、卒業生から寄付を集めるなど奔走して資金や資材を調達し、校舎と道を隔てた三〇〇坪の校地に、総工費四千六百円、建坪七〇坪の園舎を完成させた。オルガン、テーブル、ラジオから医務室の器具に至るまで、備品はすべて卒業生からの不要品の寄付に依った。また建設作業には全校三百数十名の学生も参加しておこなわれ、そのようすは「テニスンやワーズワースの詩集代わりにスキやクワを握ってその一振り一つきに尊い汗の奉仕を続けてゐる」などと報道された(『朝日新聞』 一九三九年七月二七日)。
  一九三九(昭和一四)年一〇月一日、同窓会と学友会の経営による「津田こどもの家」が無事開所式を迎えた。学齢前の六~七〇名の幼児に対する保育には、専門の教育を受けた保母二名に加え、「お手伝い」の津田塾生が交替であたり、朝七時半から一六時までの保育時間は「お遊戯、お話、手工等を始めとして、お食事、おひるね、おやつ等の嬉しい事もあり、その後は花壇、畠に水をやる」(津田英学塾同窓会『会報』第四九号)といった次第であった。二〇銭の月謝支払日、母親たちは口々に深く感謝の言葉を述べたという。また農閑期に母親を対象に栄養料理講習会が開催されると、これも好評を博した。
  このように津田こどもの家は地域社会に歓迎され、開設まもなくにして「過去八年間どうしても越える事が出来なかつた村の人等と私達の間のギャップが一度にふつとんでしまつた」のであった(津田塾同窓会『会報』第四八号)。津田英学塾と地域社会との信頼関係がこうして確立したのだった。
  当初、幼児の父兄は近隣の農家がほとんどであったが、一九四二年頃になると「だんだん他所から入つて来た人も増え」、今年はじめて朝鮮人の「子供も入つて参りました。そして家庭の職業は農でも父は職工などといふのが可也ある様で、此にも時局の反映が見られる様でございます」と報告された(津田英学塾同窓会『会報』第五三号)。戦時開発にともなう地域社会の変化は、「地付の人」のための農村託児所というもともとの性格を変えていったのである。
  同時に津田こどもの家に対する幼児教育機関としての期待も高まっていった。こどもの家の出身児童は国民学校で模範生であると評判になり、農家の母親のあいだで「良いお坊ちゃんね、大きくなったら商大に入れるのです」「エエ津田子供の家に入れるのですよ、早くそうなってくれれば良いのですが」といった会話が交わされ、「此の辺の御母さん達は託児所に入れることが御自慢であり理想」になったという。農家の母親たちも将来につながるものとしての幼児教育に関心をもちはじめたのである。
  こうして地域社会に定着し、農家の女性の負担軽減と農村生活の改善に貢献した津田こどもの家であったが、頻発する空襲警報にともなう幼児の退避で保育が成立しなくなり、給食の材料も入手困難になったので一九四五年三月に閉鎖することになった。なお一九四四年五月に東京都は戦時託児所を一七〇か所開設することを決め、一九四五年三月、小川一番に都立小平戦時託児所が開設されたが、空襲の激化から戦時託児所制度自体の廃止とともに、同年六月に閉鎖された。小平戦時託児所は戦後、都立小平保育園となった(『私が見てきた保育の歴史』)。
     (『小平市史』 2013  332~335ページ)

 

 

  津田英学塾は昭和一四年(一九三九)一〇月「津田こどもの家」という託児所を開設した。同学は小平移転以来なんとかして小平の地域社会と融合したいという考えを抱いていた。戦争のため働き盛りの若者の多くが応召し、女性の労力を必要とするとき、育児の労を軽くし、これを通して村の人と親密になれたらという願いからであった。
  校内の雑木林三〇〇余坪の林の間に新築された木造平屋五四坪の建物だった。当初の申込者は九〇人を超えた。『津田英学塾四十年史』の中に卒業生の回顧として次のようにある。
  或る子供のおじいさんが子供と託児所にやってきて、お弁当の前に手を洗うのを見て「ははあ、水いたずらをしてしょうがないと思ったら、ここで習ったのか」という。そこで保母さんが、水いたずらではなくて、食事の前には手をきれいにして食事をするのだと説明すると、おじいさんは「そういうものかね」と感心したように聞いていたそうだ。託児所の第一回卒業生は小学校でも非常に評判がよいと星野先生が嬉しそうに話された。
  そして昭和二〇年四月三〇日限り休業のやむなきに至るのである。時局の悪化、空襲の頻発、食料の窮迫に伴い、これ以上危険・困難を冒して児童を預かることができなかったのである。
     (『小平市三〇年史』 1994  202ページ)

 

 

 設立の経緯・背景については、別のニュアンスを伝える証言もある。

 

 

   藤田たきは『社会事業』1941年5月号に於いて、東京市の中心にあった津田英学塾が北多摩郡小平村に移転の後、「津田子どもの家」を建設して女学生の勤労奉仕として保育事業を行ったことを述べている。1938年の文部省通牒により、女学生も長期休業の際、3-5日間勤労奉仕することが義務付けられていた。津田英学塾の女学生も勤労奉仕のため陸軍被服廠に、また宮城外苑整備事業に出かけていた。だが、小平村から東京までの交通費が一人当たり1円はかかったので、寄宿舎の女学生180人が異動すると180円を要することになる。そのように大きな金額では東京まで出かけられない。代りに、そのお金で一つの幼稚園も託児所もない小平村に託児所を建てることにする。
     (金慶玉 「総力戦体制期における「戦時保育」と保育施設の変容」 2015 『アジア地域文化研究』 11  32ページ)

 

 

 『小平市史』や『小平市三〇年史』に示されている「なんとかして小平の地域社会と融合したいという考え」を疑う必要はないだろうし、藤田たきの伝える事情もまた、当時の現実の議論の流れであったろう。

 

 

 まず、当時の託児所(保育施設)をめぐる一般的状況について確認しておきたい。

 

 

   「農繁期託児所」とは、田植えや稲刈りなどの農繁期に子どもの世話をできない農家の事情を鑑み、放置されがちになる乳幼児の保護を目的とした事業である。古木弘造『幼児保育史』(厳松堂書店、1949年)によれば、わが国に於ける農繁期託児所は、「鳥取県気高郡美穂村下味野に於て、筧雄平氏によって明治二十三年に開設されたものが最初のものとされている」という。しかし、その後の発達は遅々たるもので、1920年代初頭から全国に少しずつ設けられはじめていったのが実態である。
   ところが、農繁期託児所は、1930年代後半から1940年代前半における時期に、開設数を飛躍的に増大させていく。これは、1937(昭和12)年7月の日中戦争開始以後、戦時体制がとられ、農村における労働力不足への対応や食料増産を企図して、国及び各道府県が積極的な形で設置を奨励・助成したことによるものである。
     (浅野俊和 「戦時下保育運動における農繁期託児所研究―「保育問題研究会」を中心に」 2007 『中部学院大学短期大学部研究紀要』 8  55ページ)

 

   成人男子出征による「銃後」の労働力不足を補うための女子勤労動員は1939(昭和14)年の国民徴用令の施行に始まる。当初は未婚女子への就職奨励という程度であったが、労働力不足の深刻化に伴い、1943(昭和18)年以降、未婚・既婚を問わず女子の大量動員がかけられる。明治末期から昭和初期にかけて開設された託児所は、主に都市部の貧困層のための救貧対策として設けられていたが、戦時体制下の女子の大量動員はそれまでの貧困家庭のみならず、一般家庭の子どもの託児の必要をも生じさせることになり、名古屋市、福岡県、大阪市、東京市など全国各地に戦時託児所など臨時の簡易保育施設が数多く設置された。さらに1943年以降、福岡県を皮切りに、東京都、愛知県、名古屋市などで、幼稚園を保育施設へ転換する動きが出てくる。
     (矢治夕起 「昭和戦中期の戦時託児所について : 幼稚園から戦時託児所への転換事例 1」 2014 『淑徳短期大学研究紀要』 53  85~86ページ)

 

 

 「津田こどもの家」についていえば、農業が基本であった小平地域において、当初は農繁期託児所的性格の下に開始された事業が、戦時開発による地域社会の変化の中で、戦時託児所的意味も持つようになっていったことがわかるだろう。その点について、『小平市史』は、

 

  当初、幼児の父兄は近隣の農家がほとんどであったが、一九四二年頃になると「だんだん他所から入つて来た人も増え」、今年はじめて朝鮮人の「子供も入つて参りました。そして家庭の職業は農でも父は職工などといふのが可也ある様で、此にも時局の反映が見られる様でございます」と報告された(津田英学塾同窓会『会報』第五三号)。戦時開発にともなう地域社会の変化は、「地付の人」のための農村託児所というもともとの性格を変えていったのである。

 

このように記している。

 津田英学塾の託児所開設時の昭和14(1939)年は、既に支那事変(いわゆる日中戦争)が二年経過し、9月にはナチスドイツのポーランド侵攻によりヨーロッパでの戦争も現実となった時点である。既に支那事変段階で、「成人男子出征による「銃後」の労働力不足」が生じており、昭和16(1941)年の対米英開戦は「労働力不足」問題を深刻化させた。「戦時体制下の女子の大量動員」は、より徹底されることになる。事変の「当初は未婚女子への就職奨励という程度であった」ものが、米国をも相手とした総力戦状況の中で、「未婚・既婚を問わず女子の大量動員がかけられる」状況にまで追い込まれる。子供の保育への公的保障は、既婚者をも対象とする「女子の大量動員」の必須の要件となる。

 

 

 ここで明らかなのは、国家総力戦として展開した「大東亜戦争(政府による定義上、対米英戦だけではなく支那事変段階を含む)」において、大日本帝國は人的資源の資源量、すなわち人口に当初から問題を抱えていたという事実である。「未婚・既婚を問わず女子の大量動員がかけられる」しかなかったのは、人的資源にまったく余裕がなかったことを示す歴史的経過である。

 

 もちろん、戦時体制の構築に際し、政府が人的資源上の問題を認識していなかったわけではない。有効な人口政策の樹立は帝國政府・軍の課題であった。

 

 

   人口問題全国協議会の政府諮問答申案(国立公文書館所蔵文書―本文中に文書作成日付がないものの、論文筆者の増山道康氏は内容から1935~1938年作成のものと位置付けている―文中に「日中戦争の深刻化」とあることからすれば1937年以降となりそうだが:引用者)では、前文冒頭で「人口は国力の根帯にして其の数量並びに資質の如何は直に国運の消長民族の盛衰に関す。」と述べ、人口を資源として明記している。その理由として戦争を根本原因として挙げ、日中戦争の深刻化が人口問題に直結しているとしている。ここに、戦争計画で、人口政策が必要とされる理由がある。戦争遂行には、兵力及び補給力の増強が最も基本的な課題となる。それには一定の人口を確保する必要があるが、満州事変、さらに日中戦争開始以降には、総力戦を戦うには人的資源が不足しているとの認識が政府部内では強くなっていった。
     (増山道康 「戦争計画による社会保障制度形成」 2004 『岐阜経済大学論集』 37-2  32ページ)

 

 

 実際問題として、昭和10年代前半(1930年代後半)の日本では出生率が低下しており、軍の危機意識は強いものであった。1920年の出生率が36.2、1925年が34.9、1930年が32.4、1935年が31.6、1936年が30.0、1937年が30.9、1938年が27.2、1939年が26.6となっており、出生率の低下は明らかであった(一方で死亡率の低下もみられてはいたが)。「総力戦を戦うには人的資源が不足しているとの認識が政府部内では強くなっていった」中で、軍、企画院、厚生省等による人口政策の策定が試みられ、昭和16(1941)年の1月には、「人口政策確立要綱」が閣議決定される(以下の引用に際しては、漢字は現代表記にあらためてある)。

 

 

      人口政策確立要綱 (昭和一六、一、二二 閣議決定)
   第一 趣旨
    東亞共栄圏を建設してその悠久にして健全なる発展を図るは皇国の使命なり、之が達成の為には人口政策を確立して我国人口の急激にして且つ永続的なる発展増殖とその資質の飛躍的なる向上とを図ると共に東亞に於ける指導力を確保する為その配置を適正にすること特に喫緊の要務なり
   第二 目標
    右の趣旨に基き我国の人口政策は内地人口に就きては左の目標を達成することを旨とし差当り昭和三十五年総人口一億を目標とす、外地人人口に就きては別途之を定む
    一、人口の永遠の発展性を確保すること
    二、増殖力及資質に於て他国を凌駕するものとすること
    三、高度国防国家に於ける兵力及労力の必要を確保するjこと
    四、東亞諸民族に対する指導力を確保する為其の適正なる配置をなすこと
   第三 (略)
   第四 人口増加の方策
    人口の増加は永遠の発展を確保する為出生の増加を基調とするものとし併せて死亡の減少を図るものとす
    一、出生増加の方策
    出生の増加は今後の十年間に婚姻年齢を現在に比し概ね三年早むると共に一夫婦の出生数平均五児に達することを目標として計画す
    之が為採るべき方策概ね左の如し
     (イ) 人口増殖の基本的前提として不健全なる思想の排除に努むると共に健全なる家族制度の維持強化を図ること
     (ロ) 団体又は公営の機関等をして積極的に結婚の紹介、斡旋、指導をなさしむること
     (ハ) 結婚費用の徹底的軽減を図ると共に、婚資貸付制度を創設すること
     (ニ) 現行学校制度の改革に就きては特に人口政策との関係を考慮すること
     (ホ) 高等女学校及び女子青年学校等に於ては母性の国家的使命を認識せしめ保育及保健の知識、技術に関する教育を強化徹底して健全なる母性の育成に努むることを旨とすること
     (へ) 女子の被傭者としての就業に就きては二十歳を超ゆる者の就業を可也抑制する方針を採ると共に婚姻を阻害するが如き雇傭及就業条件を緩和又は改善せしむる如く措置すること
     (ト) 扶養家族多き者の負担を軽減すると共に独身者の負担を加重する等租税政策に就き人口政策との関係を考慮すること
     (チ) 家族の医療費、教育費等其の他の扶養費の負担軽減を目的とする家族手当制度を確立すること
         之が為家族負担調整金庫制度(仮称)の創設等を考慮すること
     (リ) 多子家族に対し物資の優先配給、表彰、其の他各種の適切なる優遇の方法を講ずること
     (ヌ) 妊産婦乳児等の保護に関する制度を樹立し産院及乳児院の拡充、出産衛生資材の配給確保、其の他之に必要なる諸方策を講ずること
     (ル) 避妊、堕胎等の人為的産児制限を禁止防遏すると共に、花柳病の絶滅を期すること
    ニ、死亡減少の方策
   (以下略―要綱は第七まで続いている)

 

 

 「出生増加の方策」の根幹として示されているのは、「出生の増加は今後の十年間に婚姻年齢を現在に比し概ね三年早むると共に一夫婦の出生数平均五児に達することを目標として計画す」ということであり、その具体的方策として、今回の託児所問題と関連するものとして、「女子の被傭者としての就業に就きては二十歳を超ゆる者の就業を可也抑制する方針を採ると共に婚姻を阻害するが如き雇傭及就業条件を緩和又は改善せしむる如く措置すること」とあるのが興味深い。「人口政策確立要綱」の精神からすれば、「未婚・既婚を問わず女子の大量動員がかけられる」などあり得ぬ話なのである。「女子の被傭者としての就業に就きては二十歳を超ゆる者の就業を可也抑制」することで婚姻年齢を早め、出産育児に専念させるのが、「人口政策確立要綱」の描いた構図であった。

 言い換えれば、「人口政策確立要綱」が求めたのは、「家庭内の良妻賢母」としての女性の姿であった。「高等女学校及び女子青年学校等」の女子生徒に求められているのは「母性の国家的使命を認識」すること「健全なる母性の育成に努むること」であって、目指されているのは「被傭者」として家庭の外で労働する母となることではないだろう(「出生増加の方策」の中に託児所設置は含まれていない)。しかし、現実の展開の早さが、「人口政策確立要綱」での目論見を根底から突き崩してしまう。「人口政策確立要綱」が閣議決定された昭和16年の末には、同じ政府は対米英開戦を決断してしまう。「人口政策確立要綱」に描かれた「出生増加の方策」は、米国までを相手にした総力戦の現実の展開の中で意味を失っていくのである。

 

 そのような歴史的展開の中での戦時託児所であり、津田英学塾による「津田こどもの家」の存在なのである。

 

 

 

 多くの男性が兵士として前線へと送られる状況の中では女性の積極的雇用にしか選択の余地はない。それが「近代総力戦」の現実であった。

 米国でもその状況にかわりはなく、そして、実際に多くの既婚女性が、保育所に支えられながら、それまで「男の仕事」とされていた職務を男性に遜色なくこなしたのであった。

 ここでは、大戦時の米国の軍需産業の中の女性労働者の姿を取り上げた記事(「フォードの爆撃機、あるいはロージーのリベレーター」)中でも参考にした松本園子氏の論文から、既婚女性の戦時動員と保育の問題にどのように取り組まれたのかについて、同時代の米国の状況を見ておきたい。

 

 

   1941年、ランハム法(Lanham Act)として知られるコミュニティー施設法が成立した。これは軍需生産のために新しく出来た工場地帯において、学校、上下水道、病院、リクリエーションセンターなど公共施設の設置に国費を補助するものであった。
    ランハム法を保育施設設置に適用することは、翌1942年の法修正によって可能となった。この業務を管轄したのは連邦職業庁(FWA、ニューディール政策により設置された職業促進局WPAの後進)であり、FWAはこの法により保育施設設置を促進することを主張した。しかし、社会保障庁、児童局はランハム法のプログラムにより質の低い保育を提供することに反対し、設置に消極的であった。
     (松本園子 「第二次世界大戦期アメリカ合衆国における保育問題」 2005 『淑徳短期大学研究紀要』 44  68ページ)

 

   1941年6月、児童局の後援で「働く母親の子どものための保育に関する会議」が開催された。ここでは、家庭で育児をしている母親こそが本質的な愛国的責務を実行している、という考えのもとに、母親と子供の福祉を考慮する政策を提示することが要求された。
   この会議で承認された総合的なスタンダード集が1942年1月に公刊された。ここには、グループデイケア、フォスターファミリーデイケア、ホームメーカーサービスについてそれぞれの基準が示されたことに加え、次の原則が明らかにされた。
   1、就学前児童の母親に働くことを奨励すべきではない
   2、母親が働きに出る場合は、コミュニティーは子どものケアの計画について親を援助する義務をもつ
   3、乳児は集団保育すべきではない
   4、もし必要ならば、2歳以下の子どもは、自宅でホームメーカーサービスを提供されるか、あるいはフォスターファミリーホームで世話されるべきである
   5、州と地方自治体は、保育の充分な基準を監督し維持する責任がある
     (松本園子 2005  70ページ)

 

   児童局の保育観は、以上のように基本的に母親の労働および、それを奨励する保育所を否定するものであった。そのため、できるだけ働くことを思いとどまらせるよう母親へのカウンセリングが勧められた。また集団保育が否定され、やむを得ず保育する場合は家庭保育に近いフォスターファミリーデイケア(少人数の子供が日中、女性によって彼女自身の家庭でケアされ、ソーシャルワーカーが監督するというシステム)、あるいはホームメーカーサービス(=ホームヘルパー、子供の家庭に出向いて保育する)をすすめた。また特に、2歳以下の子供の母親が働くことを否定し、集団保育を否定した。
   児童局は理想を掲げ戦争の波から子供を護るべく闘ったのであるが、これらは、戦時の社会的要請に合致しなかったのみならず、次章でみるように、働く母親の実態と気持ちにもそぐわぬものであった。ローズは児童局のスタッフは「児童保護の高い基準と、多様なサービスを主張し、保育は長期の問題であることを理解していたのであるが、母親の労働を必要悪とする見解が、彼らが保育の向上に取り組むことを阻んだ。働く母親の子どもが容易く入れる集団保育施設の創設に抵抗することによって、児童局における児童福祉擁護者は状況を現に悪化させることとなった。……保育はかくして、増加する戦争産業の慈悲にゆだねられた」と問題を指摘している。
     (松本園子 2005  71ページ)

 

   戦時労働力委員会は公式には児童局の立場を採用し、幼い子供を持つ母親の雇用に否定的であった。しかし、それは軍需産業側、軍需生産を厳しく求める他の政府機関、そして次章に述べるように、戦時雇用を自分たちの生活とよりよい子育てのチャンスととらえた母親たちのニーズにも衝突した。
   世論も変化した。1936年の調査では、既婚女性の労働に対しては不賛成が82%であったが、1942年のナショナルオピニオンリサーチセンターの調査では、既婚女性も軍需工場で働くべきだという回答が60%であった。
   こうした中で、軍需生産を行う私企業自身が、女性労働者の募集と保持のために保育所を運営する場合もあった。例えば1942年秋、サンタモニカのダグラス飛行機工場は工場の4マイル以内で、しかし「敵の目的の範囲外」に保育所を開く計画を発表した。女性労働者をバッファローの飛行機工場に募集するために、カーチスライト会社は工場ナースリースクールの大きさを二倍にすると発表した。オレゴン州ポートランドのカイザー造船所も保育センターを開いた。
     (松本園子 2005  72ページ)

 

 

 興味深いのは、児童局の一貫した態度であろう(そこに「良妻賢母」イメージを見出し共感あるいは反発するのか、幼児の権利の擁護として位置付けられるものと考えるのかは別として)。いずれにせよ、様々な思惑の交錯する中で、実現した保育システムに支えられながら、既婚女性も労働者として戦時生産に参画していくことになる。松本氏は、エリザベス・ローズの著書に依拠しながら、特に公的な保育の実現事例としてフィラデルフィアの経験に焦点を当てて論じているが、ここでは、女性労働力を必要とした当事者としての私企業の取組事例を引用紹介しておきたい。

 

 

   オレゴン州に大規模な戦時市民住宅団地バンポート・シティーが建築されたが、そこに住み、造船所で働く25,000人の女性労働者のために、カイザーは、二つの大きな保育センターを建てた。所長には、コロンビア大学児童発達研究所前所長ルイス・ミーク・ストールズが就任した。
   建物は「コミュニティーの外ではなく、しかも造船所の入口の前に配置し、仕事の行きかえりの母親の便宜をはかった。1,125人の幼い子ども一人一人に、あるいは一日三交代の375人それぞれに適応するような広さがあり、斬新な舵輪のデザインは、広い芝生の遊び場と、四つの子供用プールと、一五の保育室を囲んでいた。広い保育室の窓から、子供達は母親が働く船を見ることができた。
   各センターには、訓練されたナースのいる診療所、ソーシャルワーカー、充分なスタッフのいる調理室が備えられた。
   子どもたちの食事に加えて、勤務を終わった母親の家族のための持ち帰り食もここで用意された。「ホームサービスフード」と呼ばれたこのプログラムはエレノア・ルーズベルトによって示唆されたものであった。食事は、栄養バランスがとれ、きっちり包装され、「再加熱してサラダと野菜を加えることによって完全なディナーになります」、という注意書が入っていた。一人前50セントで、一食で大人ひとり子どもひとりを満足させた。
   カイザー保育センターにおける入所数は最高時1944年9月に1,005人となった。当初の目標には到達しなかったが、カイザーセンターは、私企業がなしうることの見本とされた。とはいえ、これは純粋に私企業が行なった取り組みではなく、連邦政府が間接的に資金補助を行い、合衆国海運委員会が建設費を負担した。
     (松本園子 2005  72ページ)

 

 

 用意された保育施設のレベルの高さには驚かされるしかない。

 このような国との全面戦争を選択したのが、わが大日本帝國なのである。

 

 

 その日本での戦時託児所開設を支えたのは、以下のような論理であった。

 

 

   戦時保育の第一の特徴は教育と保護の機能が一体化した点である。当時、東京市健民局母子課長を務めてた苅宿俊風(1998-?)は、東京市が推進した戦時託児所という名称につき、「保育所といふことにすると、外来の思想の臭気がするし、託児所といふと、従来の貧困階級のことを思はれて、この度の設置方針が諒解せられないのではないかと憂ひましたが、戦時と託児所と離れてゐるのではなく、一気に一つの概念として戦時託児所」としたと、苦心の跡を述べている。その対象を見ても、

     ここには入つてくる子供は、従来東京市がやつてゐたやうに、生活に余裕のない家庭を対象にしてゐるのでもないし、又従来の幼稚園といふののやり方、それはやはり生活に余裕のある家庭の子弟を見るといふことにあつたやうに思ふが、これでもないのである。(後略)
    (前略)全体を対象として一人の有閑者をも無からしむる施設にして行かうといふ新しい性格を持つているのである。

と所信を披歴している。
     (金慶玉 2015  26~27ページ)

 

   東京市はまず、1943年に既存の方面館などの公立保育施設46ヶ所の名を戦時託児所と替え、一ヶ所につき予算年額8千円を設定して166ヶ所の設置を目標にし、その性格も時局に対応したものとした。戦時託児所の設置方針は次の通りである。

    一、時局の要請に副ふべく、みんな働けるやうに。戰時生産に役立つやうに。
    二、働くと言つても工場だけでなく、種々の職場に於て働く。都市に於ては、知識階級の方面の婦人も大いに働いてゐるから、かういふ方面にも役に立たせるやうに。
    三、大東京の外周には農業を営んでゐる所がかなりあるので、食糧増産といふ方面にも役に立つやうに、季節託児所といふことも都市では考へる。

戦時期「銃後の努め」の完遂を求め、都市と農村を含んだすべての職場において、戦時生産に全力をあげるように、これが設置方針であった。さらに食糧増産のため設けられた季節託児所も戦時託児所と同じ方針の下に、都市に於いても設置が進められていた。
     (金慶玉 2015  30~31ページ)

 

 

 戦時動員として目指されているのが、「時局の要請に副ふべく、みんな働けるやうに」という状況であり、それは「全体を対象として一人の有閑者をも無からしむる」ところまで徹底されなければならない。 

 「人口政策確立要綱」では、「人口増加の方策」として、「女子の被傭者としての就業に就きては二十歳を超ゆる者の就業を可也抑制する方針を採る」ことが明言されていたが、「時局の要請」は、「一人の有閑者をも無からしむる」方針へと転換され、「女子の被傭者としての就業」こそが国策となったのである。そのための戦時託児所なのであった。

 

 

 小平地域について言えば、今回の主役である「津田こどもの家」に加え、『小平市史』には1945年3月に開設された「小平戦時託児所」の存在が記されている。

 

   一九四五年三月、小川一番に都立小平戦時託児所が開設されたが、空襲の激化から戦時託児所制度自体の廃止とともに、同年六月に閉鎖された。小平戦時託児所は戦後、都立小平保育園となった。

 

 この二ヶ所とは別に、小平青年学校が関与した農繁期託児所の存在が、青年学校教諭であった伊藤為次氏の日記に登場する。

 

   五月四日 (木) 農繁期託児所を青年学校で開設するため、女子職員、校長が青梅に行き見学。
   六月十四日 (水) 託児所開設、幼児四十五名が集まる。
     (伊藤為次 『小平戦中日記』 昭和19(1944)年の条 『そのとき小平では Ⅵ』 2008  24~25ページ)

 

内容からすると、例年のものではなく、昭和19年に新規設置されたものに見える。『そのとき小平では Ⅵ』に掲載分では、翌昭和20年の日記には農繁期託児所についての言及がない。しかし、そもそもが抄録なので、現状では昭和20年の託児所設置の有無については結論めいたことは言えない。19年に幼児45名の利用があることからすれば、地域として必要な施設であったようにも見える(状況の悪化により、津田こどもの家が20年3月―『小平市三〇年史』では「昭和二〇年四月三〇日限り」とされているが―に、小平戦時託児所も6月に閉鎖となっていることからすれば、20年6月という時点での農繁期託児所の開設は困難であったのかも知れない)。一方で、開設に先立ち「青梅に行き見学」とあるところからすれば、小平地域には参考となる農繁期託児所の先行事例がなかったことを推測させる。

 いずれにせよ、津田こどもの家、都立の小平戦時託児所、そして小平青年学校の農繁期託児所の存在も確認されたことからすれば、小平地域での託児所には社会的ニーズがあった、とは言えそうである。

 

 

 

 再び、津田こどもの家に戻ろう。

 

 

 「校舎と道を隔てた三〇〇坪の校地に、総工費四千六百円、建坪七〇坪の園舎」(『小平市史』)、「校内の雑木林三〇〇余坪の林の間に新築された木造平屋五四坪の建物(『小平市三〇年史』)」と建物の坪数に異同はあるが、いずれにせよ、昭和14(1939)年に津田こどもの家は完成し、託児所として開設される(ちなみに、『小平市史』『小平市三〇年史』共に「津田こどもの家」表記だが、金慶玉論文では基本的に「津田子供の家」表記が用いられている)。

 金慶玉論文には、

 

   託児所を開所してから一ヶ月が経った1939年10月1日、託児所委員会は、戦時物価高による建築費の高騰を背景とする1939年10月から1949年3月までの「経営費の不足は四、五百円見当と目される」と述べている。
     (金慶玉 
「戦時期における農村託児所の研究―「津田子供の家」を中心にして―」 2017 『アジア地域文化研究』 13  31~32ページ)

 

とあるが、「建築費の高騰」は、事変拡大がもたらしたものであり、戦時動員の帰結でもあった。

 

  日中戦争期における生産力拡充の根本的な制約要因は、外貨不足であった。国際収支改善の観点から輸入制限と配給統制の必要性が生じたが、木造住宅の主要な建築資材の1つである木材については、1938年7月、米松販売取締規則の施行により使用制限が開始された。1940年の「外材ノ輸入ハ前年[1939]ニ比シ著減シ、殊ニ米材ハ外貨節約ノタメソノ輸入ハ昨年ノ約六割ニ減少」した。1940年度の木材需給は「内外地ヲ通ジテ生産ハ需要ヲ賄フ事ヲ得ズ、相当量ノ手持ヲ喰ヒ込ンデ辛ジテ需給ノ均衡ヲ保ツ」状況であり、翌41年度の見通しとしては、「木材ノ需給ハ今年[1940年]以上ニ逼迫ヲ告ゲルニ至ル」ことが想定された。したがって、木材の「配給機構ヲ整備シ不急ノ需要ヲ抑圧スル」ことが求められた。この「不急ノ需要ヲ抑圧スル」手段の1つとしてすでに実施されていた政策が、建築統制であった。
   1939年11月、木造建物建築統制規則が施行された。同規則により、延床面積が30.25坪を超える住宅[共同住宅を除く]を新築する際には、原則として、地方長官の許可が必要となった。この背景にある問題は資材不足、とりわけ主要な建築資材である木材不足の深刻化であった。
     (小野浩 「戦時総動員体制下の住宅供給」 2017 『産業経営研究』36  6ページ)

 

  住宅建設の建築技能者(大工、左官、現場監督者等)は、兵士にとられたり、また賃金の高い軍需産業及び生産力拡充産業に転職する傾向にあり、またそれが容易であったため技能者が減少した。建築技能者の徒弟制度は崩壊しつつあり、技能者が養成されなかった。そのため絶対数の減少は、必然的に建築技能者の賃金の上昇をまねいた。
     大本圭野 「戦時住宅政策の展開過程(2)―日本的住宅政策の原型」 (『季刊・社会保障研究 Vol.19 No.4』 1984  439ページ)

 

 建築資材不足も建築技能者の絶対数の減少も、「事変完遂」の国策が招いたものであった。このような条件下での「津田こどもの家」の建設であり開所であった。金慶玉論文によれば、

 

   ところが、特に目立ったのは東京府からの助成金である。…(金額の詳細は略)…。当時「津田子供の家」の託児所委員であった三上加那於は、「学校の附属といふので特別に奨励便宜」が与えられたと述べている。社会事業法の下で運営された託児所の拠り所として、東京府からの支援が機能していたことがうかがえる。
     (金慶玉 2017  31~32ページ)

 

公的助成金による資金面での支援は重要であった。さらに、

 

   食糧や物資が不十分であった戦時期にも拘らず、「津田子供の家」の子どもの健康が良好で、しかも全国の子どもと比べても優っているのはどういうことであったのか。そこには、配給における便宜が与えられていた点を見逃してはならない。「副食物給与に関しては不自由のない様、村で醤油味噌砂糖特配の便宜をはかつて」くれたと、当時の「津田子供の家」委員長の三上加那於は述べている。さらに、農村という特性もあって、「農家からは野菜、魚屋さんからは魚といふ風に新鮮なものがに入るし、役場の特別臨時配給として醤油味噌砂糖等入要だけ頂けるので今でもちつとも不自由なしでやつて居」り、「おやつは府の社会事業協会から配給されるぱん菓子飴の他甘藷、じやがいも、おにぎりの加工したもの、蒸パン、焼パン、ホツトケーキなど工夫してやつて居」たと保育主任の横澤は説明している。このように食糧配給においても特配という名目で便宜がはかられていたのは、「津田子供の家」が東京府社会課と社会事業協会から持続的に支援されるほどの関係にあったためである。1939年10月の開所式で朝原が述べたように、戦時厚生事業として食糧増産に役立つ託児所の設置が打ち出されていた状況下、一つの託児所もない小平で、全ての施設と人材を備えた女学校が国策に沿って運営されるということは、「表面的には目立たぬ事業であるが、国花桜花の裏をなす梅花の」ようなものだと期待されていた。
     (金慶玉 2017  35~36ページ)

 

様々なルートでの便宜供与による支援があった。地元小平にとっても、支援すべき施設と認識されていたことがわかる。

 

 津田側も、ただ外部からの支援に頼るだけではなかった。

 

   1939年7月10日の学業終了後、生徒は通学生も教師もみな班別に分けられ、寮舎に泊まりながら、夏季集団勤労を実施することになる。

    各生徒は必ず五日間寄宿舎に止宿し、二名乃至四名づつの指導教師監督の下に班長、副班長及び各係を定め、十一より厳粛に勤労生活を始め

ている。生徒たちは、

    朝五時半の起床より夜九時の就床まで、規律正しきプログラムにテニスコートの草取り、託児所の基礎工事(石運び、タコツキ)、硝子洗ひ(五番町で使い古した硝子障子がこんど託児所の戸になります)さては薯掘、食事の用意、舎内外の掃除

などをやっていた。全校三百数十名が参加した当時の状況を『朝日新聞』は、「テニスンやワーズワースの詩集代わりにスキやクワを握ってその一振り一つきに尊い汗の奉仕を続けてゐる」と述べている。
     (金慶玉 2017  36~37ページ)

 

基礎工事の段階から、生徒が積極的に参加していたというのである。

 

 

   津田英学塾は英語専門の女学校だったので、学校のカリキュラムには保姆養成や保育と関連する科目はなかった。文部省は1932年、高等女学校の既設科目から、専門的な知識だけを授け実際生活に適切ではないという理由で「法制」と「経済」を削除し、代わりに公民科を設立した。また1936年からは体錬と教練、家事、裁縫が重視され、1943年には外国語が任意の科目となり、代わりに家政科に主力を注いでいた。こういう時局を背景にして、藤田は1941年の『社会事業』で、津田英学塾が「新学期より児童心理学を新たに教科内容に加へこの託児所を生徒の実験室とする計画をとつてゐる」と述べている。
   実際に1941年の春から学科の変更があり、国語は週一時間、東洋史は週二時間増加し、新たに二年生を対象に児童心理学が週一時間、三年生を対象に科学の時間が設けられ、優生学と遺伝学を教えていた。それは戦時という時局において、銃後部隊としての役割が期待された女学生への教育であった。同時に作業の時間も設けられ、校舎、寮舎内外の掃除と、約千五百坪の畑への種蒔きと除草が女学生に課せられた。1941年3月18日に結成された津田英学塾報国会は、前述のように銃後奉仕部を設けて映画会などを開催し、託児所援助や傷病兵慰問、出征軍人遺家族慰問なども行った。「津田子供の家」は1942年の時点で二人の保姆と一人のお手伝い、そして塾の女学生が交替で手伝っていた。女学生は託児所の建設当初から建設の後まで、勤労奉仕という名目の下、労働力を提供し保育を援助する役割を果たした。また保育報国が唱えられていた時代を反映して、学校の側でも児童心理学の科目が開設され、女学生には託児所がその実験室として提供されていた。
     (金慶玉 2017  37~38ページ)

 

 科目としての児童心理学の追加は、託児所を、学校との関係においても、より実質的なものとしていこうとする方向性を示すものだろう。また、新たに設けられた「科学の時間」の内容が「優生学と遺伝学」であった。先に紹介した「人口政策確立要綱」の「第五 資質増強の方策」の項には、「資質の増強は国防及び勤務に必要なる精神的及肉体的の素質の増強を目標として計画す」とあり、「(ト) 優生思想の普及を図り、国民優生法の強化を期すること」と記されている。まさにそのような国策の下での「科学の時間」であった。

 

 

 戦争の進展の中で(より直截に表現すれば、戦局の逼迫の中で)、津田英学塾も戦時日本の軍産複合状況の中に、より大きく組み込まれることとなる。

 

 

   津田塾の女子学生たちも学徒勤労動員で、軍需生産に携わった。一九四四(昭和一九)年三月から校舎は日本航空機立川工場の分工場となった。ある教員は「厚い板金からのゲーヂ作り、複雑な電纜組立作業、精密を要する諸検査、写図、扨は物理科一年生による合金鋳造部の御仕事。これ程に充実した内容をもつ学校工場は他に存在しないであらう」と「津田塾工場」の充実ぶりを誇っていたが、工場は生産だけでなく管理運営事務もすべて学生たちが担当しており、「マコトに純真な学徒が責任を与えられてする仕事ぶりの素晴らしさには頭が下がる」と語っていた。またある学生は「男子学徒がペンを棄てて敢然壮途に立つを見送って以来、私共も又女性学徒として何か直接お国の役に立つ仕事をしたいとの願ひを長い間抱いてゐた。その日頃からの望みが容れられて学校工場の誕生をみた時私共はどんなに嬉しく張り切った事だらう」と述べている。しかし学業への思いも捨てがたく、学生たちは昼夜三交代制で働きながらも、特に希望をして、一日一、二時間の授業を受けたという(『津田塾六十年史』)。
   以上のように、「女性も労働力に」との国家からの働きかけに応える中で、女性たちは職場で働くことの誇りや喜びを味わい、男女対等の意識を芽生えさせていったが、同時にそのことが戦争を支えることにもつながっていった。
     (『小平市史』  329~331ページ)

 

 

 「工場は生産だけでなく管理運営事務もすべて学生たちが担当して」いたという点は重要であろう。動員による戦時協力は、一方的に強いられただけのものではなく、女子が主体的に社会参加する経験をもたらすものでもあった。

 

 

   小平では戦時開発によって生まれた総力戦関連施設に、女学校や高等小学校を卒業したての女性の就職が増えたほか、小平農業会では最初の女性課長が誕生して新聞の話題となった。戦時の労働力不足が、結果として女性の就業機会を拡げていったのである。
   隣接する田無町で、ある女性が男の仕事とされていた郵便集配人に志願し、立派にその役目を果たしているとして新聞に紹介された。彼女は「男に出来るのに女に出来ないといふことは無いと思ひましてやらしてもらつてゐます。〔中略〕女でも兵隊さんになったつもりで頑張る気ならなんでもないことで、米英相手の長期戦には当然女の仕事の範囲に入るものと信じて毎日を愉快に働いてゐます」と語った。ここからは、男性と同等に働けるという喜びや誇りをもち、あるいは男性同様に国家に貢献しているのだという思いをもって、働いていたことがわかる。
     (『小平市史』  329~331ページ)

 

 

 田無町の女性の、「男に出来るのに女に出来ないといふことは無いと思ひましてやらしてもらつてゐます。〔中略〕女でも兵隊さんになったつもりで頑張る気ならなんでもないことで、米英相手の長期戦には当然女の仕事の範囲に入るものと信じて毎日を愉快に働いてゐます」に込められた自負には注目しておくべきだろう。

 戦時動員は、為政者の思惑を超えて、動員された女性達に、男性と女性である自分が同等であること(それは「男に出来るのに女に出来ないといふことは無い」という言葉に集約される)を経験させてしまったのである。

 

 

 

 戦後フェミニズムの起源は、GHQの占領政策の陰謀的性格にあるのではなく、それ以前の大日本帝國における戦時体験にあるというべきであろうか(註:1)。

 

 

 

   こうした社会状況の中で、津田塾では昭和一九年(一九四四)の三月以降、体育館と生徒控室を工場に充て軍需品生産に当たっていたが、昭和二〇年(一九四五)四月、寮生はすべて東寮に移り、校舎本館の大部分と西寮と運動場の一部を東部第九二部隊に貸与することが決まった。移転を急いだ東部第九二部隊は、契約書も正式に作らないうちに五月六日到着、部隊は津田塾の門標をはずして、部隊の門標を塾の正門両側に麗々しく掲げた。いわゆる門標紛失事件が起きたのはこの夜のことで、塾生四人が軍の門標をはずして玉川上水に流したのである。軍はこの行為を重くとがめて、軍法会議にかけるといきまいた。塾長の星野あいは生徒の不始末の責任者として軍に謝るとともに、軍の門標を片側だけにしてほしい、事件の起こったそもそもの原因は軍が塾の標札を取外したことにあるのだから、と条理を尽くして話した。その結果、軍の上司は塾長の願いを受入れ、四人の処分を学校に委ね、四人は塾長に始末書を書くだけで済んだのである。空襲は相ついだが、幸い塾は無事であった。
     (『小平市三〇年史』  258~259ページ)

 

 

 「反戦的武勇伝」として取り扱うことも出来るだろうが、「男子学徒がペンを棄てて敢然壮途に立つを見送って以来、私共も又女性学徒として何か直接お国の役に立つ仕事をしたいとの願ひを長い間抱いてゐた。その日頃からの望みが容れられて学校工場の誕生をみた時私共はどんなに嬉しく張り切った事だらう」という、国策と共に生きる塾生の姿を見ないふりする必要もないだろう。

 日々、主体的に「何か直接お国の役に立つ仕事」をしている自負があればこそ、「津田塾の門標をはずして、部隊の門標を塾の正門両側に麗々しく掲げた」軍の行為に見ぬふりをするわけには行かなかった。そのようにも見える。

 

 戦時期の津田英学塾(現・津田塾大学)は、託児所(津田こどもの家)の設立、そして軍需工場(日本航空機立川工場の分工場)及び軍部隊(東部第九二部隊)の受け入れと、国策としての戦争に組み込まれていくことで、多摩武蔵野地域の軍産複合状況を経験していたのである。東部第九二部隊は「軍」そのものであり、日本航空機立川工場分工場は軍需産業としての「産」そのものであり、まさに軍産による英学塾への侵入であった。託児所については、根底に地域社会との親密な関係構築への希求があったと同時に、戦時期の食料増産要求を満たすものでもあった。そのような意味で、津田英学塾は、総力戦下の多摩武蔵野地域の軍産複合状況を集約した場でもあった。「総力戦」は当事者の意思など呑み込んでしまう(総力戦に対応すべきはずの「人口政策確立要綱」の構想は、まさに総力戦状況の中で崩壊した)。

 いずれにせよ、当時の軍を相手にして譲ることなく塾生の側に立ち続けた、塾長の星野あいの姿には感銘を受ける。

 

 

 

【註:1】
 松本園子氏の論文の問題意識は、戦後日本の児童福祉法(1948)の先進的な内容、そこに示された公的保育制度の理念への占領軍の影響の有無を明らかにすることであった。

 戦時期の米国に先進的な保育制度が確立されていて、それが占領期に移入された

そのように考えることが正しいのか否か?
 その問題意識に基づき、米国の戦後については、

    戦後のアメリカ合衆国の保育の動向については、同国の研究者が「非制度 (non system)」と表現しているように、保育の公的保障は、貧困層に限定され、一般には営利的保育サービスを利用する以外に無い、という状況にあるという。
     (松本園子 「アメリカ合衆国における保育問題の歴史」 2004 『淑徳短期大学研究紀要』 43  98ページ)

このような状況にあることが確認され、

   まず、保育政策動向については、戦時労働力政策として、連邦の補助金が保育施設して支出され、公立保育施設が各地に誕生し、数十万人の子供が保育を受けた。しかし、この施策は恒久的な制度となることはなく、戦争終結とともに終了した。一部の私企業によってかなり水準の高い保育施設も設置されたが、これはあくまでも戦時の女性労働力吸引策であった。教育行政サイドでも、労働力対策として学校施設を利用した学童保育サービスが行なわれたが戦後への継続はなかった。
   一方、連邦児童局は、家庭と母性重視が児童福祉の根幹であるという強い信念のもとに、戦前から一貫して母親の労働と保育に反対であり、戦時、母親の労働が強く要求されたときも基本的にこの立場を変えなかった。やむを得ぬ場合は保育所の集団保育ではなく、家庭的保育で対応するという方針に終始し、現に必要とされた保育所の改善と充実の努力はしなかった。
   このように、米国における為政者側のどの陣営にも、戦中・戦後期、保育所を通常時に一般的な制度として実施することを支持する考え方は存在しなかった。このような状況では、日本の新しい保育所制度誕生について占領軍の積極的な関与はありえない、といってよいであろう。
   戦時の米国において、保育所利用者側には、伝統的性別役割を乗り越えた「共働き」という言葉に象徴される新しい女性労働観、保育所観の芽生えがあった。CIO女性助力者の保育プログラム案は、そのような新しい保育所観の成果である。しかし、これらは大きなうねりとなって全体の状況を変える力とはならなかった。戦後の継続的運動は、日本の戦後期の盛んな保育運動を思わせる展開があったが、一部の例外的なものにとどまった。これらも、日本の保育所制度誕生に影響があったとは思えない。
   したがって、戦後児童福祉法による保育所制度は、戦後期までの日本の保育の進展と、戦後改革期の時代のエネルギーから生まれた成果であるといえよう。
   なお、戦後日本の保育についてみると、先進的な保育所規定とは裏腹に、消極的で限定的な保育行政が続けられてきた。ここには、米国の児童福祉の色濃い影響が読み取れる。
     (松本園子 2005  81~82ページ)

との認識が示される。あらためて抜き書きすれば、

  米国における為政者側のどの陣営にも、戦中・戦後期、保育所を通常時に一般的な制度として実施することを支持する考え方は存在しなかった。このような状況では、日本の新しい保育所制度誕生について占領軍の積極的な関与はありえない、といってよいであろう

これが松本氏の結論である。
 現在の日本の保育所制度は、GHQの占領政策がもたらしたものと考えるのではなく、戦時日本の遺産として取り扱うのが妥当なようである。

 

 

 

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