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2018年7月30日 (月)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、昭和10年代の多摩(武蔵野)地域が軍産複合地帯化していたことについて、「多摩(武蔵野)地域」の全体を視野に入れつつ、特に(「武蔵野」の名を冠した)武蔵野美術大学の所在地でもある現・小平市に焦点を合わせながら、既に8本のブログ記事としてアップしてきた(記事カテゴリーとしては「多摩武蔵野軍産複合地帯」)。

 小平に設置された軍事施設の特質(「近代総力戦状況」の中でのそれらの施設群の持つ意味)を明らかにする(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」参照)と共に、軍事施設の立地と地勢的条件の関係を、より具体的なものとして理解することに努めてもきた。

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)」では、矢嶋仁吉氏の1939(昭和14)年の論文を読むことで、40年代に本格化する小平地域の軍事化の直前の小平の状況を、地理学者の眼を通して理解・把握することを試みた。

 小平地域の「地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10-15mの深さの地域に属している」のであり、「大地の中央に近くて帯水層の深い本地域附近に於ては、一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する」のであって、居住者にとっての「飲料水問題」の切実さ(飲料水確保の困難)を矢嶋氏は繰り返し指摘していた。

 そのような地勢的条件を前に、「小平地域の軍事施設化の中心となった陸軍(ここでは陸軍が「開発事業主」と位置付けられる)は、それぞれの施設に自前で給水塔を設置」する形で対処したことを示しておいた。

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)」では、再び小平地域での地下水源の確保と給水能力の問題について、住宅営団による戦時期集団住宅として建設が開始された小川地区の中宿住宅の事例を切り口に、より詳しく取り上げてみた。矢嶋論文の指摘するように「10-15m」の地下水面(ただし不圧地下水面である)への到達さえ困難であったのが、近代以前の小平地域での各戸を事業主体とした井戸掘削の状況であった。しかし、昭和10年代の小平に設立された軍事施設では、「深井戸」の掘削による(100メートルを超える深度からの)被圧地下水の確保・供給を実現したのである。

 

 

 

 今回は、あらためて小平地域における「水の確保の困難」の問題を取り上げたい。自ら深井戸を掘削し給水システムを整備した「大きな力」としての戦時期の軍に加え、大正末から宅地開発に関わり簡易水道を整備した民間土地開発事業者の姿について記しておこうと思う。まず取り上げるのは『小平市三〇年史』(1994)の記述である。

 

 

  開拓当初の小平では玉川上水から水を得たが、時がたつにつれて飲用水は個々の井戸から得るようになった。まだ小平が純農村のころの話である。
  大正一四年(一九二五)ごろから分譲が始まった小平学園地区には、分譲元の箱根土地株式会社(昭和一九年国土計画興業株式会社と商号変更)が造った水道があった。水源は深井戸である。終戦後急激に居住者が増え、施設を拡充する必要に迫られ、給水申込には権利金が必要とされるようになった。
  昭和一七年(一九四二)に開所された東部国民勤労訓練所を始めとする公共施設(陸軍経理学校、陸軍兵器補給廠小平分廠など)は大きな力で、それに必要で十分な深井戸による自家水道を設けた。その関係者で地元に住んだ人は、普通農家に間借りしたり、その宅地内に住んだりしたので、とくに水に対する新たな配慮は要らなかった。
  続いて終戦前後相次いで建設された集団住宅はどうであったのか。日本住宅営団による集団住宅は桜上水(二一六戸)、旭ヶ丘(七七戸)および中宿(二一四戸)に建設され、それぞれ昭和一八年(一九四三)、二一年及び二二年に合計五〇七戸が入居した。
  桜上水と旭ヶ丘では四軒に一井の割で井戸が掘られた。桜上水の井戸は水脈に当ったせいか、水の出はまことに良かった。最初は手押しポンプであったが、昭和二四(一九四九)ころからモーターによるポンプと台所までの給水管が設けられ便利となった。一方、旭ヶ丘の井戸は水の出が悪かった。水の不足を訴える家はかなりの数にのぼり、夜間水の出の良い井戸のある家に水をもらいに行ったり、洗濯には近くの玉川上水や新堀用水の水を使ったりしてしのいだ。深い玉川上水に綱のついたバケツを下げてくみ上げるときの苦労を語る女性もいた。小平の地下水は深いところにしかないのを知らない人が掘ったのではないかともいわれた。
  中宿では浅井戸三二井が掘られたが、これも地下水が深くてほとんど使いものにならなかった。いち早く自治会が結成され、対策が練られた結果、隣接する厚生省職業訓練所(前東部国民勤労訓練所・現東京職業能力開発短期大学校)の深井戸から水を運ぶことになった。人手による根気のいる作業だった。その後関係者の好意で中宿住宅の中央部まで一本の給水管が延長されて共同水栓が設置された。しかし、その後も居住者は増える一方で、この共同水栓だけでは賄い切れなくなった。そこで、自治会より広い組織の中宿居住者組合で水対策を検討、坂北の旧兵器補給廠小平分廠の給水施設を利用したらどうかということになった。早速坂北、本町、旭町地区の代表者の賛同を取りつけ、小川中宿居住者組合と坂北生活協同組合の名で大蔵省東京財務局に使用許可の申請がされる。昭和二四年(一九四九)八月に許可が下り、それを受けて各地区の代表者によって給水事業計画が練られた。このとき「小川給水組合」として発足できるよう努力を重ねたが、施設費用などの負担問題で組合の結成には至らず「小川給水組合」の名目で実質経営は各地区代表者(発起人)が当たることとなった。そして昭和二八(一九五三)に関係自治会長を中心に協議した結果、「小川給水組合」を発展的に解消し、新たに「小川水利協会」を結成、翌年一月から新しい機構で運営することになった。(付図は略)
  給水人口は一九九〇人、一日最大給水量五〇〇立方メートルであった。
  しかし水道事業の重要性を考えると、任意団体の運営では住民の福祉向上を図るには困難な点が多い。役員会議でも水道施設を町に移管し、町営水道として経営するのがよいとの意見の一致をみて、その体制の整備を念頭におきながらの経営となった。また小平町のほうでも大蔵省から、水源施設を民間の任意団体に貸与するのは好ましくないので、早く町営にするようにと指摘されていた。
     (大日本印刷株式会社CDC事業部年史センター編 『小平市三〇年史』 1994  329~331ページ)
 

 

 

 「昭和一七年(一九四二)に開所された東部国民勤労訓練所を始めとする公共施設(陸軍経理学校、陸軍兵器補給廠小平分廠など)は大きな力で、それに必要で十分な深井戸による自家水道を設けた」とある。

 「大きな力」を背景として「必要で十分な深井戸による自家水道を設け」ることをなし得た「公共施設」として、東部国民勤労訓練所と陸軍経理学校、陸軍兵器補給廠小平分廠が示されていることになるが、その背後にあった「大きな力」とは厚生省であり帝國陸軍である。そもそも厚生省は陸軍の要求により設置されたものであることを考えれば、ここでの「大きな力」を「軍」として理解することも出来るだろう。

 『小平市三〇年史』には、「大正一四年(一九二五)ごろから分譲が始まった小平学園地区には、分譲元の箱根土地株式会社(昭和一九年国土計画興業株式会社と商号変更)が造った水道があった。水源は深井戸である」との記述があることも見落とさないでおきたい。民間の開発事業者の「力」もまた、「深井戸」を「水源」とした「水道」を実現していた(「小平簡易水道」と呼ばれていた)のである。

 昭和10年代の小平地域には、公的インフラとしての(すなわち村営あるいは町営の)「水道」は存在しなかったが、軍と民間の土地開発業者は、それぞれの「力」で自前の給水システムを構築していたのである(村や町にはそのような「力」はなかった)。

 

 

  市では予想を超える人口増加に伴い、市制施行直後の昭和三七年(一九六二)一一月に全市水道構想を見直し、水道事業変更認可申請を厚生大臣に提出した。すなわち昭和三八年度から実施する給水区域を拡大、市域のうち小平簡易水道区域を除く区域とするもので、昭和四四年度の給水目標人口を六万人と設定、一日最大給水量を一万九二〇〇立方メートルとし、深井戸一三井と浄水場を一か所建設するという計画であった。
  一方、これまで学園西町と学園東町を給水区域として経営してきた小平簡易水道(国土計画株式会社)は、昭和四〇年(一九六五)一月三一日までという期限付で東京都知事の許可を受けて行われたため、当然、期限が来ると市への移管となるべきもので、水道法により公営事業の経営主体は地方公共団体がなすべき事柄であった。
  その上、簡易水道の給水区域の学園西町、学園東町は人口の急増地域でもあり、その施設の老朽化に伴い、住民側から市営統合を望む声が次第に大きくなり、昭和四〇年二月一日市営水道への移管が実現、ここに全市域が市営となった。同年度末の行政人口は一〇万八九四九人、給水人口は三万八五〇四人で、普及率をみると三五・三%であり、今日の一〇〇%と比較すると隔世の感がある。この三八年度から開始された水道拡張事業は、後に第一次拡張事業と名付けられた。
     (『小平市三〇年史』  575ページ)
 

 

 

 小川水利協会の運用した給水施設(そもそもは軍の「大きな力」による施設である)は町営水道に統合され、国土計画株式会社の小平簡易水道(民間土地開発事業者の大きな力による施設である)が市営水道に統合されたのは昭和40年になってのことだったが、その時点での市内の水道普及率は35・5%にとどまっていた。もちろん、そこには戦後の小平地域での人口の急増という背景があることも確かではある。しかしいずれにせよ、昭和10年代の軍関連施設の給水設備が戦後小平の町営水道のルーツとなり、それに先立つものとして箱根土地株式会社による小平学園開発の際の小平簡易水道があった。

 

 

 ところで、矢嶋仁吉氏の論文では、小平学園地区の開発について以下のように記されていた。

 

 

  尚、本地域の南部の一部に、碁盤目状の地割を施した所がある。この地域は同村の一部に過ぎぬもので、前述の如く、商大予科の校舎設定後、土地会社の手によって、区画された地域である。その計画では、商科大学予科の校舎を中心とし、その周囲に住宅地、焦点地域を区画し、国分寺駅より主要道路を設け碁盤型の3間道路を縦横に通じて、田園都市化せんとしたところである。そのため、新田開発当初よりの短冊形の地割は一部崩壊し、従来の畑地に若干文化住宅の建設もあるが、未だ著しい発達を見ない。東京の都心地域より約1時間を以てして到達し得るところでありながら、その発達の見るべきもののない最大の制約は前述の飲料水採取の不便という事実である。かかる例は省線国立駅の南方、商科大学の校舎附近に於ても見るところであって、井然と区画された道路住宅予定地もほとんど省みられぬ有様である。本地域に居住地域を発展せしめんには、先ず第一にかかる不便の除去が必須条件であって、例えば、埼玉県の所沢駅附近に於ける如く、動力による簡易水道の如き施設をなすか、その他の方法によって上水施設の完成を図ることが必要であろう。
     (
矢嶋仁吉 「武藏野小平村に於ける新田聚落の研究」 『地理学評論 11』 1939  24ページ)

 

 

 矢嶋氏は論文執筆当時の小平学園地区について、「従来の畑地に若干文化住宅の建設もあるが、未だ著しい発達を見ない。東京の都心地域より約1時間を以てして到達し得るところでありながら、その発達の見るべきもののない」とその開発状況を記し、その理由として「最大の制約は前述の飲料水採取の不便という事実」だと主張している。同じ箱根土地株式会社による国立の学園都市計画についても「井然と区画された道路住宅予定地もほとんど省みられぬ有様」との評価を示しながら、「本地域に居住地域を発展せしめんには、先ず第一にかかる不便の除去が必須条件であって、例えば、埼玉県の所沢駅附近に於ける如く、動力による簡易水道の如き施設をなすか、その他の方法によって上水施設の完成を図ることが必要」との判断を加えている。

 しかし、実際には小平学園都市計画の下で、「土地会社」は深井戸を水源とする小平簡易水道を用意していたし、国立学園都市においても、その計画の当初から、インフラとしての給水システムの整備は織り込まれていたのである。

 

 小平簡易水道については、「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)」をまとめていた時点で、『水道事業概要 昭和58年』(小平市水道業務課・工務課 1983)中に言及があるのには気付いていた(註:1)。そこで早速、「小平簡易水道」をネット検索したのだが、一件もヒットしない状況であった(言うまでもない話だが、「一件もヒットしない」ことは、ある事実が存在しないことを意味するのではなく、まだ誰もその事実についてネット上にアップしていないことを意味する可能性も考えておかねばならない)。小平市水道業務課・工務課による『水道事業概要』にある以上、その存在を疑う必要は感じなかったが、『水道事業概要』の記述からだけでは、小平簡易水道の設置年代が判然とせず、矢嶋論文執筆時点での給水システムの実状はわからなかった。今回、あらためて『小平市三〇年史』の記述を通して、矢嶋氏の認識に不正確なところがあったことが判明した次第である。

 

 

 箱根土地株式会社(堤康次郎)による学園都市開発については、渡辺彰子 編・執筆による『国立に誕生した大学町―箱根土地(株) 中島 陟 資料集―』(株式会社サトウ 2015)に様々な資料が掲載されている。

 

 ここではまず、「堤康次郎(談)」として掲載された「分譲地の賣價算定に付て」と題された、昭和15年10月19日の文書からの関連事項の抜き書きを示す(ここでは影印に付された現代語表記による書き起こしを用いる)。

 

 
   箱根土地会社は世間の一般的土地売買業者もしくは信託会社など、その性質内容が根本的に異なっておって箱根土地会社においては単なる仲介により法外なる手数料を取るが如き事をなさず、土地の加工施設に重点を置き即ち原料たる土地を仕入れてこれを製品化するというような、いわゆる国土計画に則した住宅地の造成を行っているのである。例えば国立の土地についていうならばそこは太古玉川の流れのあとで、わずかな表土の下は十数尺の砂礫層で農耕地にはもちろん林業を行うにもまったく不適当な土地である。
   …(中略)…
   この意味において会社は国立に停車場を新設し道路、水道、下水等あらゆる文化的施設を加え、そしてこれを住宅地に改造したのである。それでその土地の価格はどうかというに今まで山林として顧みられなかったものが、その加えられた文化的施設によって住宅地としての価値を生じた訳である。
   しからばその山林を買収してからこれに手をかけ、すべて分譲に至るまでの経費は一体どの位かかるか、どの位の割合を要するものかというと国立は地上物は別であるが土地は一反千円で大体全体の七割を買収したが百万坪の土地を権力を用いずしてひとまとめに纏めたのであるから、その困難は到底想像以上で筆舌の尽し得るものではなく中には先祖伝来の土地坪百円でも売らぬと頑張られてついに大連まで出かけて行って坪当たり六十円でようやく買収した数千坪の土地もあったが、平均の買収価格は坪当たり地上物を含んで七円五十銭に当っている。それを道路に一割五分を潰し、道路の工事費に地価の約一割を費し、水道、下水、電燈等の工事費に又一割五分を要し、停車場の工事費、その他測量、設計、監督、舗装、公課に対してかれこれ一割を要している。なおこれに又金利、営業費等を加えると、原価は土地買収価格の約倍額に当るようになる。
     分譲地の売価算定に付て (『国立に誕生した大学町―箱根土地(株) 中島 陟 資料集―』  240~241ページ)

 

 その先では、実際の予算書内容も示されている。

 

  大正十二年国立建設着手当時の計画書による建設費予算書
  一、金一千四百万円也 建設費予算総額
   一、金八十万円也 水道工事費
     但し幹線導水本管埋設 延長二万九千五百六十円 平均間当り金十五円也及び水源工事費、配水槽工事費ならびこれに伴う諸機械および器具費共三十五万六千六百円也を含む
     (同書 242ページ)

 

当初予算の段階で、幹線導水本管埋設 水源工事費、配水槽工事費ならびこれに伴う諸機械および器具費を含む形で「水道工事費」が計上されているのが確かめられる。

 「写真から見る国立大学町誕生の頃」と題された第一章には、「水道源池」の写真が掲載されており、以下の解説が付されている。

 

  水道源池とは、水道を供給するために地下水を汲み上げる施設の場所です。箱根土地の大正14年12月1日から大正15年5月までの国立大学町「起工・庶務概要」に「水源第1号鑿泉(さくせん)を完成せり」とあります。又、大正15年9月発行の分譲区分図に、水道源池の場所がはじめて示され、その説明によると地下水は地下四百尺を掘り抜いて湧いたとされています。場所は中央線北側、国立駅舎より約二五〇m東の高台で、ここより水道管を埋設し線路下の土手をくぐらせて南側の国立大学町へ水道水を供給しました。

 

 「場所は中央線北側、国立駅舎より約二五〇m東の高台」とあるが、この「高台」に連なるのが武蔵野台地の武蔵野段丘(武蔵野面)と呼ばれる段丘面で、小平市もその段丘面上に位置する。「地下水は地下四百尺を掘り抜いて湧いた」とあるが、その深度(400尺=120メートル強)は、まさに小平地域の「深井戸」(被圧地下水)の深度である。国立学園都市が計画されたのは、「高台」の下に位置する、中央線の南側の立川段丘(立川面)上であり、国分寺崖線と呼ばれる段丘崖によって隔てられている。国分寺崖線下の立川面では、不圧地下水までの深度は浅いと考えられ、その利用は困難ではないのではないか(国分寺崖線下には湧水源も多い)。文字通りの「浅井戸」による不圧地下水の汲み上げが可能な地域だと思われる(「井戸の掘削は山麓又は河川の沿岸地域の如く帯水層の比較的浅い所では、左程困難ではない」 矢嶋論文 18ページ)。

 ここであらためて、わざわざ宅地開発域から離れた「高台」としての武蔵野段丘上に深井戸を掘削し(それだけ多くの予算が必要となる)、学園都市への給水システムとして整備した箱根土地の構想力(そして実行力、それらを支えた資本力)には注目しておきたい。「飲料水の確保」を各戸(各個人)による井戸の掘削に期待するのではなく、開発事業者がインフラとして「水道」を用意するというのである(註:2)。

 高い位置(高台上)に水源を確保し、重力を利用して低い位置にある水栓に給水する。国立の学園都市の給水システムの発想は、原理的には小平地域の軍事施設の給水塔設置と重なるものでもある。

 

 

 

 箱根土地(堤康次郎)による学園都市開発についての矢嶋氏の認識―上水道の未整備との指摘―には明らかに誤りがあったが、しかし、「従来の畑地に若干文化住宅の建設もあるが、未だ著しい発達を見ない。東京の都心地域より約1時間を以てして到達し得るところでありながら、その発達の見るべきもののない」、「井然と区画された道路住宅予定地もほとんど省みられぬ有様」は開発後の現実でもあった。実際、売れなかったのである。

 

 

 当初は「国分寺大学都市」として分譲開始されているものだが、

 

  箱根土地は、大泉学園都市とほぼ並行して明治大学を中心とする学園都市の開発を計画した。震災直後の一九二三(大正一二)年一〇月より小平村の土地の買収を開始し
     (『小平市史』 2013  221ページ)

 

  一九二五年一月三日に地鎮祭がおこなわれ、宣伝のために大学都市内の風景を題材とした懸賞写真の募集がおこなわれた。本格的な分譲は三月から開始され、
     (『小平市史』  222ページ)

 

  …、国分寺大学都市―小平学園と変遷してきた箱根土地による住宅地分譲だったが、その売れ行きは昭和恐慌などの影響で芳しいものではなかった。しかし恐慌からの脱出を受けて、一九三五(昭和一〇)年頃から徐々に売れ行きが回復してくるとともに、日中戦争のさなかである一九三八年から四一年にかけて、それまで更地が多かった小平学園の西地区に、ようやく住宅が建ちだしたと言われている(『小平町誌』)。東京の郊外化の更なる進展、および小平を含む多摩の戦時開発の影響が、学園地区にもあらわれてきたのである。
     (『小平市史』  291ページ)

 

  学園の住宅は、その生成時期は東区において最も早く大正一二年ごろで、ついて西地区の昭和の初めであるが、東区の遅々たる建設に対し、西地区は昭和一三~一六年ごろ急速に建設がすすめられ、第二次大戦後は両地区とも建設は速度を増し、特に昭和二七年以降はその傾向がいちじるしい。
     (『小平町誌』 1959  447ページ)

 

 

 つまり、販売開始から10年ほどは、住宅地としての販売は低迷し続けたのである。矢嶋氏にとっての小平学園地区のイメージは、現地調査に通っていたであろうまさにこの時期に刻み付けられたものということになる。しかし、矢嶋氏の論文執筆時(発表が1939年)には、そこに変化の兆しが見出されてもいたのである。

 

 

  一九三八年頃、小平学園の開発地六〇万坪のうち、多摩湖線の線路西側に沿った地区六万坪で「国分寺厚生の家」という建物付きの分譲がおこなわれた。このころ分譲地全体は「国分寺厚生村」とも呼ばれており、小平学園駅と青梅街道駅のあいだに新設された駅は厚生村駅と名付けられた(三九年開設、四五年使用休止、五三年廃止)。なお、一九四〇年の史料には「国分寺学園分譲地」という名称もみられる。
  国分寺厚生の家は、残されている販売用パンフレットによれば、土地百坪と小さなバンガロー風の家屋とをあわせて八〇〇円で販売された物件である。一九二六年に国分寺大学都市として分譲を開始した頃、分譲地の坪単価は九円八〇銭~一二円八〇銭だったのだから、坪単価八円はかなりの特売価格であった。
     (『小平市史』  291~292ページ)

 

 

 先に紹介した『国立に誕生した大学町』に収録されている「販売用パンフレット」の裏面画像には、

 

  設備 道路(幹線五間巾、支線三間巾)、電燈、水道、下水

  此処に今回新たに意匠登録を受けた瀟洒な農園小舎を建て家の周囲に果樹や蔬菜を栽培し一家團欒、土と緑に親しむのであります。戰時體制下の厚生國策に沿ふ、御一家の心身鍛錬場として晴耕雨讀の家庭道場として御所有になることを切にお奨め致します。彼の「農園住宅」や「歓喜力行」の本場とも云ふべきドイツから来たヒツトラー・ユーゲントの見るからに健やかな身體や、溌剌たる風丯に接するときまことに躍進ドイツそのものを見るの感があります。土と緑に育まるる彼等ドイツ青少年□□の幸福を思ひ我等もまた大いに示唆を受けるものがあると存じます。

 

このように記されている(「設備」には「水道」が含まれている点にも留意―矢嶋論文執筆時期の販売広告上では開発地域内の「水道」の存在がアピールされていた事実)。

 『小平市史』は、「つまり、厚生の家とは、定住用の住宅ではなく、週末に農作業を楽しむための家庭農園付きの小屋のことだったのである」と要約している(293ページ)。さらに『小平市史』は次のように論じる。

 

 

  では、厚生の家ないし厚生村という「厚生」を冠した宅地分譲とは、どういう意味だったのだろうか。一九三八年一月、総力戦体制構築を推進する軍部のあと押しをうけながら、国民の健康や体力増進政策、衛生や医療政策、人口政策、労働政策といった戦時社会政策を担当する官庁として、厚生省が発足した。そして同じ年、イタリア・ファシズムのドーポラボーロ(労働の後)運動やナチス・ドイツの歓喜力行団の活動に影響を受けて、日本でも余暇活動の充実と健全娯楽の推進をはかることで国民を統合し、生産力を向上させようとする厚生運動がはじまった。つまりこの時期の「厚生」とは、戦争の遂行に役立つような国民体力の向上や健全な余暇活動を意味していた。したがって厚生の家での「心身鍛錬」「晴耕雨読」とは、まさにそのような意味での「国策」に沿った「厚生」にほかならない。一方で、厚生の家は「一家団欒」「家庭和樂」の場であることが強調され、「子女」の成長にとっても有益であることが謳われているが、それは「家庭」「団欒」の私生活空間と時間を大切にし、「子女」の教育を重視する意識が強かったサラリーマン層の家族に訴求しようとしたからであろう。ただし、「厚生」が冠されているのだから、そこでの私生活は「国策」に役立つ限りでの私生活ということになる。
  厚生の家・厚生村という名付けには、戦時における国策と商業主義の狭間で、郊外の位置づけやそこでの生活の意味付けが微妙に変化を遂げていることを見てとれる。それは戦時開発とはいえないが、平時の郊外住宅地開発としての学園開発が、総力戦体制に順応するなかで変形を遂げたものだといえよう。
     (『小平市史』  293~294ページ)

 

 

 多摩・武蔵野地域の軍事地域化と民間土地開発会社の商業主義が重なった姿を、戦時期の小平学園地区=厚生村に見出すことが出来るだろう。

 また、この「厚生の家・厚生村という名付け」による販売戦略を通して、当時の日本で、ナチス・ドイツの政策が模範的(お手本的)に機能していた状況も見えてこないだろうか。既に、現・東大和市の南街地区の開発モデルとして機能したのが、ナチス・ドイツのジードルング政策であったことに触れておいた(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」参照)が、小平学園地域での「厚生の家・厚生村という名付け」からも、同時代(どちらも1938年)の日本での「躍進ドイツ」への憧憬・傾倒的雰囲気が見える(註:3)。

 ちなみに、この昭和13(1938)年には、ヒトラー・ユーゲントが日本を訪問し、大きな話題となっていた。「販売用パンフレット」は、「昭和13年10月版」とあるので、まさにヒトラー・ユーゲント日本訪問の最中のものということになる。「ヒツトラー・ユーゲントの見るからに健やかな身體や、溌剌たる風丯」を目の当たりにした人々こそが、「販売用パンフレット」のターゲットであった。箱根土地は、「躍進ドイツ」―「農園住宅」や「歓喜力行」の本場―モデルにビジネス・チャンスを見出したのである。

 

 しかし、素敵な厚生村の素敵な厚生の家(実のところ、ホワイトカラー向けのセカンド・ハウスなのである)を手に入れることなど、当時の軍需工場労務者には考えられぬのが大日本帝國の現実であった。

 「日本でも余暇活動の充実と健全娯楽の推進をはかることで国民を統合し、生産力を向上させようとする厚生運動」のまさに同時期の厚生省生活課技師による報告には以下のように記されている。

 

  昭和13年当時の厚生省生活課技師の報告によると、「先般各地軍需工場地帯に於ける労務者の居住状況を視る機会を得て、痛感した事は、労務者殊に農村から見習工として集まって来た人々に住居の欠乏していることである。例えば、4畳半に4人、6畳に6人と云ふ過密状況が各所に見られ、或は15坪以上もある広い部屋を急設して、採光通風等考慮せず、唯寝る場所を与へて押入れもない室内に寝具、荷物を散乱させ、20~30名の新人工が合宿している。所謂万年床は随所にあり、殊に夜勤者が昼間強い日光を浴び乍ら寝苦しさうな様を見て、斯かる状態は長期戦のもとに何時迄も黙過出来ぬことと痛感した。徒に生理的欲求を斥けることなく、疲労恢復に適する最小限の住居と、体力を維持増進するに足る栄養の供給とは、殊に銃後の第一線を守る軍需工場労務者には、確固たる方針を以つて之が万全を期すべきである。
     大本圭野 「戦時住宅政策の展開過程(2)―日本的住宅政策の原型」 (『季刊・社会保障研究』 Vol.19 No.4 1984  433ページ)

 

 

 

【註:1】
  当時(昭和37(1962)年の「第1次拡張事業」をめぐる記述からの引用である)市内の水道施設は、西武国分寺線小川駅周辺を中心とする市営水道と学園地区に給水する民間経営の小平簡易水道があるだけで、その給水能力は併せて16,000人分しかなく、人口的にも、地域的にも一部に過ぎませんでした。
  小平市は、いわゆる「武蔵野台地」にあり、都区内水準よりも約80mの高台にあり、地下水量は豊富と見られていましたが、その水位は予想外に低く、加えて昭和30年代には、宅地化の進行に伴い、家庭用井戸は乱掘の様相をみせ、そのため家庭用井戸の水位は全般的に低下し、とくに渇水期においては水不足が直接市民生活を脅かすに至りました。とりわけ、市の東部に位置する花小金井地区の家庭用井戸は、渇水期において枯渇したものが多く、市はこれに対する緊急給水に追われているという実情でした。
     (『水道事業概要 昭和58年』 小平市水道業務課・工務課 1983  3ページ)
 
  小平簡易水道の給水区域を市営水道の給水区域とするため、第2回計画変更を昭和40年月13日付、厚生大臣に申請しました。
  当時、市内には市営水道のほかに民間会社の経営する小平簡易水道があり、これは当該地区(現在の学園西町、学園東町)開発のために計画されたもので、その施設は古く、区域内の人口増加の状況に照らしてもその能力は、極めて不充分であり、また、一般に水道事業の経営主体は、地方公共団体であることが望ましいという観点から、小平簡易水道は、昭和40年1月31日までの期限付で都知事の許可を受けていました。
  したがって、当該地域の住民も市営水道に統合されることを強く要望しており、市においても市の給水区域として需要に適合した施設の拡充を計る必要を認め、事業変更を行うことになりました。
     (『水道事業概要 昭和58年』  4ページ)

 

【註:2】
 箱根土地による大泉学園都市の分譲販売チラシでは以下のように主張されている。

  表
  ◇大泉公園はその昔武蔵野の少納言久保と云はれた處で翠緑滴るが如き赤松林の大樹が土佐繪のような風趣を添え楢や欅の雑木林が繁つて居ります。ことに鑿井より湧き出ずる水は清冽手を切るようで内務省衛生局の検査によれば完全な地下水として水道以上純良なることを證明されました。
  裏
  ◇郊外の住宅地は大泉學園のように組織的大規模に建設せられて始めて實用價値を生じ實用的價値の存在を前提として始めて投資的價値が存するのであります。
  ◇電燈も道路もない林や畑を工事もせず只土地の價額の少ないことのみをもつて、地價が廉いと云ふことによつて土地をお買いになるのは最も注意すべきことであります。
  ◇分譲地を買入れた方自身がめいめいに道路やその他の工事をせねばならぬとすればそれは如何に煩雑で不経済なことでありませう。結局豫期せざる高價な土地を買入れたと同一になつて仕舞ひます。即ち大泉學園都市の如き工事の完成した大地積の經營に於て始めて徹底的の建設が實現せらるるのであります。
  ◇大泉學園都市は電車停車場、公園、公園道路、乗合自動車、日用品マーケツト、娯楽場等を新設し、一坪十圓内外でお譲り致します。
     (『国立に誕生した大学町―箱根土地(株) 中島 陟 資料集―』  220ページ)

 

【註:3】
   ドイツナチスによるジードルングのユートピア運動というのがある。労働者に職を与えて安定した生活をつくり上げる。労働者は一日の労働に疲れて家に帰り、新鮮な空気を吸い、和やかな家庭的慰楽の生活にひたり、新しい明日への活力を回復するという考えに基いた都市構想、これが「ジードルング」で当時ドイツの企業経営に多く採用されていた。
   ジードルングというのは、つまり、都市郊外に一団として建設される企業を中心とした、集合住宅という意味である。ドイツで昭和七年、住宅法が制定され、特にその政策を工業を主体とする企業が採り入れていた。
          (元日立航空機専務 内山 直 手記)
     (『東大和市史』 2000 337ページ)

 

  「汝の體は國家のものである。」
  「汝は國家に對し健康であるべき義務を持つ。」
  さういふ崇高な標語のもとにヒトラー・ユーゲントは先づ健全な體を養ふことを第一義とする。ここに我々は、個人の健康といふことに於いても個人主義的な考え方が克服されてゐるのを見るのである。その施設のゆきとどいてゐることもさることながら、保健や體育に對する根本的な考え方に學ぶべきところが少なくない。
     (ヤーコプ・ザール 高橋健二 『ヒトラー・ユーゲント』 新潮社 1941  32ページ)

 身体的にも政治的にも「健康」なアーリア人にとってのみ、ナチス・ドイツはユートピアであった(それがユートピアであり得たのは、あくまでも「戦前」の話であるが)。その健康なユートピアが昭和10年代の帝國日本のお手本でもあった姿を、南街の集団住宅計画や小平学園の「厚生の家・厚生村という名付け」を通して確かめることが出来る。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2018/07/30 21:35 → https://www.freeml.com/bl/316274/320440/
 投稿日時 : 2018/07/30 21:37 → https://www.freeml.com/bl/316274/320441/

 

 

 

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