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2018年6月25日 (月)

「娘の身売り」が支えた「公娼制度」 (昭和期日本の貧困 その5)

 

 

 「貧困層にとっては、人身売買に頼るしかなかった近代日本の現実」を、昭和9年当時の紙面から切り抜かれ、スクラップブックに残された新聞記事を通して読み解いてきた(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」、「廓模様新紅毛情史 (昭和期日本の貧困 その3)」、「十四娘を賣つた金 四十圓の家と化す (昭和期日本の貧困 その4)」参照)。

 

 

 

  小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民は、八年のように空前の豊作を記録した年ですら、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられていた。九年の凶作は、それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった。岩手県では全農家の七七㌫が緊急の救済を必要とした。
  飢饉の影響は、まず子どもたちの上に現れた。欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。とくに大きな問題となったのは、娘の身売りだった。東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、九年一〇月までの一年間で五万人余にのぼった。新聞は連日のように救済を訴え、矯風会や救世軍が身売り防止運動を始めたが、口べらしと借金の返済に迫られた農村の厳しい現実の前では、ほとんど効果はなかった。
     (『昭和 二万日の全記録 第3巻』 講談社 1989  306ページ)

 

 

 現代から振り返れば、このようにまとめられる「近代日本の経験」ということになるが、スクラップブックに貼られた当時の新聞記事を介し、記者の(そして読者の)心情・関心の在処までが、臨場感を伴うものとして甦ったのではないだろうか。

 

 「小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民」が凶作という状況の中で、

 

  娘一人の身代金は年期四年で五百円乃至八百円、然し周旋屋の手数料や着物代や何かを差引かれて実際親の手に渡るのは、せいぜい百五十円位だ、可愛い娘を手放しても、百五十円の金を握りたい、一つの悪風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう
 かうして床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく、淪落の巷を流浪する最上娘の「新庄節」こそ彼女等の望郷の憶ひをこめた哀歌であると共にドン底の農村の悲しむべき生活苦を、まざまざと物語るものでなくて何だらう、然も娘を売つた親達は「凶作で米がないから、年期が明けても村の懐には帰るな」といふのだ農村の窮乏もここに至つて正視するに忍びない
     「東北の凶作地を見る」 (9.10.22 朝日)

 

  吾あ娘売る気あ夢にもなくてあつたども、周旋屋が家のわらし(娘)ど借金の□なみに眼つけで売れ売れつて四十日の間も付き纏ひした、其うちね飯米あなくなるし女房あ妊娠脚気ねなるし借金取りにや責め立てられるし、おまけね、借金の保証が女房の妹だはで、吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて、とうとう売る腹ねなりした
     「十四娘を賣つた金四十圓の家と化す」 (9.12.1 朝日)

 

このような事態に追い込まれる。「借金」の返済のために新たな借金をし、その借金と引き換えに、「娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく」のである。

 記者は、その状況を「娘一人の身代金は年期四年で五百円乃至八百円」と「身代金」という語を用いて表現し、「娘がポツリポツリ…売られて姿を消してゆく」と「売られて」という語を用いて記している。「東北の凶作地を見る」の記事には「賣られる最上娘」との見出しも附されているし、12月1日の記事の見出しは「十四娘を賣つた金四十圓の家と化す」である。その記事中で記者は「これが一人の津軽娘が娼妓に売られた身代金で買はれた家かと思ふと異様な汚感に襲われざるを得なかつた」との感想を記しているが、そこには「津軽娘が娼妓に売られた身代金」との認識が示されている。

 ここではまず「身代金」という語の辞書的な意味を確認しておこう。

 

  【身代金】 人身売買の代金。みのしろ。
          (『精選版 日本国語大辞典』)

  【身の代金】 身売りの代金。また、人身と引きかえに渡す金。
          (『広辞苑』)

  【身の代金】 人身売買の代金。
          (『明鏡国語辞典』)

 

 「人身売買」に関わる用語であることがわかる。ここで記者が「身代金(=人身売買の代金)」という語を使っているが、それは読者にも共有される認識であったはずだ。

 前回記事(「十四娘を賣つた金 四十圓の家と化す (昭和期日本の貧困 その4)」)では、安中進論文(2017)中で紹介されている昭和9年11月17日の朝日新聞記事を引用しておいたが、そこには「身賣 りの一歩手前で救はれた東北娘」、岩手県の「身賣娘を護れ」とのスローガン、「身賣り救済運動」といった表現がある。娘の「身売り」との認識が、広く共有されるものであったことを示すものと言えるだろう(「身売り」という語が示すのは、「娘」が商品として売買される状況、まさに「人身売買」の認識なのである)。

 

 当時の新聞記事の表現を通して、娘の身売り=人身売買との認識が一般に共有されたものであったことが理解されるであろう。

 

 

 

 

 大日本帝國政府は、このような状況にどのように対処していたのであろうか?

 帝國の「公娼制度」の枠組みの中で、娼妓として供給される女性を「人身売買」の犠牲者として位置付けていたのであろうか?

 

 

 まず、ここでは帝國以前、すなわち近代以前の近世遊郭が、西欧的価値観からどのように認識されていたのかを確かめておきたい。

 

 関口すみ子「近代日本における交渉性の政治過程――「新しい男」をめぐる攻防――」(2016)に興味深い記述がある。

 

  注目すべきことに、大英帝国の初代駐日公使オールコックが、『大君の都』(1863)で、日本にこのことを付きつけていた。一八四三年にアモイの領事館に勤務して以来、中国各地のイギリス領事を歴任していたオールコックは、一八五九年に初代駐日総領事・公使として来日し、帰国後、この書を世に問うたのである。
  その中で、日本では「父親が娘に売春させるために売ったり、賃貸ししたりして、しかも法律によって罪を課せられないばかりか、法律の許可と仲介をえているし、そしてなんら隣人の非難もこうむらない」、「日本では人身売買がある程度行われている。なぜなら娘たちは、一定の期間だけではあるが、必要な法律形式をふんで、売買できるからである。少年や男についてもそうであろうと私は信じている」と「人身売買」を批判していた。
  同様に、「合法的な蓄妾制度のある国で、どうして家庭の神聖さを維持できるのかわたしにはわからない。しかもこの神聖さがなければ、国家的成長と威厳や国家的進歩と文明の基礎は、欠けているか侵されているに違いない」と、「蓄妾制度」を批判していた。

 

 これが幕末の日本への、外部からの(自ら「文明」を誇る側からの)視線であった。明治政府は、このような視線への対応を迫られたのである。関口論文では、まず1870(明治3)年の「新律綱領」の条文が示されている。

 

  一八七〇年一二月領布の新律綱領(全一九二条)では、賊盗律中に「略売人」の条が設けられた。それは娼妓に略買する罪から始まる(「凡人ヲ略売シテ娼トスル者ハ、成否ヲ論セズ、皆流二等、妻妾奴婢トスル者ハ徒二年半」)。人をかどわかして娼妓に売り飛ばすことを固く禁じたのである。

 

 続く明治初年における対応については、山中至「藝娼妓契約と判例理論の展開」(1992)から引いておこう(まず取り上げられているのは、「明治五年一〇月二日太政官第二九五號布告」である)。

 

   一人身ヲ賣買致シ、終身又ハ年期ヲ限リ其主人ノ存意ニ任セ虐使致シ候ハ、人倫ニ背キ有マシキ事ニ付古來制禁ノ處、從來年期奉公等種々ノ名目ヲ以テ奉公住爲致、其實賣買同樣ノ所業ニ至リ以ノ外ノ事ニ付、自今可爲嚴禁事
   一農工商ノ所業習熟ノ爲メ弟子奉公爲致候儀ハ勝手ニ候得共、年限滿七年ニ過ク可カラサル事。但雙方和談ヲ以テ更ニ期ヲ延ルハ勝手タルヘキ事。
   一平常ノ奉公人ハ一ヶ年宛タルヘシ、尤奉公取續候者ハ證文可相改事。
   一娼妓藝妓等年季奉公人一切解放可致、右ニ付テノ貸借訴訟總テ不取上候事。
   右之通被定候條屹度可相守事。

  この布告は人身の賣買禁止を確認し、年季奉公に名を借りる賣買同様の所行を禁止する。また娼妓・藝妓等の年期奉公人は一切解放し、これら奉公人と抱主との間の貸借関係は裁判所で取り上げないというものである。一週間後の同月九日にはいわゆる「牛馬きりほどき」と稱された司法省第二二號によって、

   本月二日太政官第二百九十五號ニ而被仰出候次第ニ付、左之件々可心得事。
   一人身ヲ賣買スルハ古來ノ制禁ノ處、年季奉公等種々ノ名目ヲ以テ其實賣買同樣ノ所業ニ至ルニ付、娼妓藝妓等雇入ノ資本金ハ贓金ト看做ス故ニ、右ヨリ苦情ヲ唱フル者ハ取糺ノ上、其金ノ全額ヲ可取揚事。
   一同上ノ娼妓藝妓ハ人身ノ權利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス、人ヨリ牛馬ニ物ノ返辨ヲ求ムルノ理ナシ、故ニ從來同上ノ娼妓藝妓ヘ借ス所ノ金銀並ニ賣掛滯金等ハ一切債ルヘカラサル事。但シ本月二日以來ノ分ハ此限ニアラス。
   一人ノ子女ヲ金談上ヨリ養女ノ名目ニ爲シ、娼妓藝妓ノ所業ヲ爲サシムル者ハ、其實際上則チ人身賣買ニ付、從前今後可及嚴重ノ所置事。

 抱主と奉公人間の金銭貸借關係について、解放した藝娼妓に対する債權は無効であると指示される。

  さらに明治八年八月一四日に太政官は第一二八號布告を以て、借金について人身を抵當とすることを厳禁する。

   金銭貸借ニ付引當物ト致候ハ、賣買又ハ譲渡ニ可相成物件ニ限リ候ハ勿論ニ候處、地方ニ寄リ間ニハ人身ヲ書入致候者モ有之哉ノ趣、右ハ嚴禁ニ候條、此旨布告候事。但期限ヲ定メ工作使役等ノ勞力ヲ以テ負債ヲ償フハ此限ニアラス。

  しかし他方で、政府としては人身賣買を禁止し、藝娼妓を解放しても、賣春を禁じ、遊郭を廃止する意思は毛頭なかったのであり、従来のように遊女屋が遊女を抱えて營業するのではなく、貸座敷業者が自由意思による獨立した娼妓に座敷を貸すという形式に改め、解放令の直後には、各府懸に「遊女營業規則」・「娼妓藝妓席貸規則」・「貸座敷渡世規則」・「娼妓規則」・「藝妓規則」等を定め、藝娼妓渡世については、地方官が管理するところとなった。これは藝娼妓の公認でもあったから、先の藝娼妓解放令と矛盾するものであり、このような矛盾の中で、多くの藝娼妓関係の訴訟が發生したことが當時の判決原本から窺えるのである。

 

 「人身売買」の禁止が布告されはしても、実際のところは「従来のように遊女屋が遊女を抱えて營業するのではなく、貸座敷業者が自由意思による獨立した娼妓に座敷を貸すという形式に改め、解放令の直後には、各府懸に「遊女營業規則」・「娼妓藝妓席貸規則」・「貸座敷渡世規則」・「娼妓規則」・「藝妓規則」等を定め、藝娼妓渡世については、地方官が管理するところとなった」のである。

 クローズアップされたのは娼妓となる者の「自由意思」であり、特に「廃業の自由」の有無であった。

 ここでは、眞杉侑里「「人身売買排除」方針に見る近代公娼制度の様相」(2009)により、問題を整理してみたい。

 

  東京府に於ける「娼妓規則」と内務省令である「娼妓取締規則」とは、制定母体も発布年度も異なるもの(前者は1873(明治6)年東京府令第145号、後者は1900(明治33)年内務省令第44号)であるが、娼妓取締規則以降もその細部については「本令ノ外必要ナル事項ハ庁府県令ヲ以テ之ヲ定ム」ことになっており、両者(地方規則と娼妓取締規則)は共存するものであって、その条項にも共通点を見ることができる。その中でまず注目すべきは娼妓規則第一条に於いて「娼妓渡世本人真意ヨリ出願之者ハ実情取糺シ候上差許シ鑑札可相渡」との記載が為されている点である。これは「娼妓本人の意思による届出」に対して就業許可を与えるという規定であり、娼妓取締規則に於いても「娼妓名簿ノ登録ハ娼妓タラントスル者自ラ警察官署に出頭し(中略)書面ヲ以テ申請スヘシ」とした第3条に明記されている。この条文は、娼妓就業に際してそれが当人の意思によることを明示する事によって娼妓解放令の禁止する人身売買的要素を排斥する為のものであると理解できる。更に娼妓取締規則に於いては「娼妓名簿削除申請ニ関シテハ何人ト雖妨害ヲ為スコトヲ得ス」との条文が定められており、廃業手続きについては「娼妓名簿削除ノ申請ハ書面又ハ口頭ヲ以テスヘシ」と口頭という簡素な手段を含める事によって廃業の自由を確保、「就業の自由意志」の強化が図られている。
  しかしながら、当人の自由意思が確認された場合であってもすべての人に娼妓稼業許可が与えられるものでは無かった。娼妓就業の条件として「個人の自由意志」以前に「十五歳以下之者ヘハ免許不相成候事(娼妓規則第1条)」、或いは「十八歳未満ノ者ハ娼妓タルコトヲ得ス(娼妓取締規則第1条)」という年齢制限が設けられており、これを満たさない場合には就業は適わない。また、就業後であっても「毎度両度ツツ医員之検査ヲ受ケ其指図ニ従フヘシ病ヲ隠シテ客ノ招ニ応シ候儀決シテ不相成候事(娼妓規則第6条)」と毎月の診療が義務付けられており、この規定は娼妓取締規則に於いても「娼妓ハ庁府県令ノ規定ニ従ヒ健康診断ヲ受クヘシ(第9条)」、「警察官署ノ指定シタル医師又ハ病院ニ於テ疾病ニ罹リ稼業ニ堪ヘサル者又ハ伝染性疾患アル者ト判断シタル娼妓ハ治癒ノ上健康診断ヲ受クルニ非サレハ稼業ニ就クコトヲ得ス(第10条)」という条項に引き継がれている。
  以上に挙げた他にも居住制限や罰則事項などの条文を見る事が出来るのであるが、娼妓自体に関する規定は概ね次の3点に集約することが出来る。
  1、娼妓就業は当人の意思によるものであり、登録が義務付けられる
  2、一定年齢以下については就業を認めない(「娼妓規則(東京府)」では十五歳以下、「娼妓取締規則(内務省)」では18歳未満の就業を禁止)
  3、医療検診が義務付けられ、疾患が認められる場合は娼妓稼業の停止する事

 

 これが、「藝娼妓渡世」をめぐる制度的枠組みであった。付け加えれば、

 

  この人身売買の禁止に関しての規範は1898年娼妓解放令が廃止になって以降は民法90条「公ノ秩序又ハ善良ノ風俗ニ反スル事項ヲ目的トスル法律行為ハ無効トス」がこれを引き継ぐ形となる。

 

すなわち、昭和戦前期において、「人身売買」は「公序良俗」に反する所業として位置付けられるものとされてはいたのである。その枠組みの中で、しかし、「娘の身売り」は当時の現実であり続けた。

 

  床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく

 

  借金の保証が女房の妹だはで、吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて、とうとう売る腹ねなりした

 

 

 

 制度的枠組みとしては「人身売買」は排斥されていたはずだが、当時の一般的な理解としては、家族の困窮の中で「娘の身売り」にまで追い込まれる人々が存在していた。当時の新聞記事を読むことで、「身売り」すなわち「人身売買」との認識が一般的には共有されていたことは既に確認し得ているはずだ。

 

 一方で、大日本帝國政府は「公娼制度」の下での「人身売買」を否定し、司法判断の中でもそれは維持されていた。そこに、新聞記事から読み取れる世間一般の認識と政府・司法の認識の乖離が見出せるであろう。なぜ、そのような事態が生まれていたのか?

 まず、当時の政府の認識と司法判断の理路について知る必要がある。

 

 

 近代の「公娼制度」と呼ばれるものは、山中論文に示されているように、「遊女屋が遊女を抱えて營業するのではなく、貸座敷業者が自由意思による獨立した娼妓に座敷を貸すという形式」によるものであった。「独立した娼妓」の「自由意思」は、形式的には娼妓志願者自身による娼妓名簿への登録により確認されることになる。

 しかし、問題は、そこに金銭が(金銭の貸借関係が)どのように介在しているのかにある。金銭の貸借関係が、稼業契約に拘束的に働いていたかどうかが問題となる。

 

  吾あ娘売る気あ夢にもなくてあつたども、周旋屋が家のわらし(娘)ど借金の□なみに眼つけで売れ売れつて四十日の間も付き纏ひした、其うちね飯米あなくなるし女房あ妊娠脚気ねなるし借金取りにや責め立てられるし、おまけね、借金の保証が女房の妹だはで、吾あ済さねば保証人の娘ば売らねまいなくなつて、とうとう売る腹ねなりした

 

 当時の新聞紙上に残されたこのエピソードについて考えてみよう。

 「娘」の父が受け取る金銭は、周旋屋を介している(「身代金は五ヶ年の契約で四百五十円だつたが、…、周旋料だといつてブローカーに廿二円五十銭」となる構図)が、貸座敷業者との貸借契約により提供されたものであり、父による貸座敷業者への借金(「前借金」と呼ばれる負債である)となる。

 「娘」は、「娼妓取締規則」の枠組みの中で娼妓登録をすることで娼妓として公許され、前借金を提供した貸座敷業者との間に「娼妓稼業契約」をすることで、貸座敷業者の下で娼妓稼業をし、その稼ぎを前借金の返済へ充てるのである。

 公的枠組み(たとえば東京府の娼妓規則であり、内務省の娼妓取締規則である)の中での娼妓登録と、私的関係(娘とその家族に対する貸座敷業者)の中での金銭貸借契約と娼妓稼業契約がある。人身売買問題との関連において、娼妓登録については当人の自由意思が問題となるだろうし、金銭貸借契約と娼妓稼業契約が連動する中での人身売買要素が問題となるであろう。

 

 公娼制度下での人身売買を否定していた当時の政府の認識と司法判断の理路はどのようなものであったのか?

 

 政府の認識は、1920年代から30年代にかけての国際連盟で、国際的な婦女子の人身売買が問題とされた際の対応に表れている(ここでは眞杉論文を参照する)。

 既に1910年の段階で、「醜業ヲ行ハシムル爲ノ婦女子売買禁止ニ関スル国際条約」が締結されており(日本は不参加)、婦女子の人身売買は国際的に関心を持たれる問題となっていた。1921年には国際連盟第2回会議において「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」の締結が決定され、日本も(年齢制限には留保した上で)参加する。

 1923年には国際連盟による国際的婦女売買に関する調査が行われ(南北アメリカ、地中海沿岸地域等の28ヶ国・112都市)、1928年の第9回国際連盟総会では調査地域の東洋への拡大が承諾され、1931年に東洋に於ける婦人児童売買の実情調査が現実のものとなり、日本もその対象地域となった。その際の日本政府の対応が、ここでの焦点となる。

 

  こうして娼妓就業が「個人の自由意志」であると釘を刺し、個人の自由意志であるが故に廃業に関しても娼妓の意思が介在し得る点についても言及されている。

   娼妓となるには貸座敷業者に対し前借金を為すを普通とする。(中略)然し此の前借金即ち金銭の消費貸借と娼妓稼業は別個の問題であって、債権を確保するが為に人の自由を拘束するが如き契約を為したならば、民法九十条により公序良俗に反するものとして無効となるべく、娼妓取締規則に於ても亦第六条で娼妓名簿の削除申請については何人と雖も之を妨害することを禁止して居る(内務省警保局『公娼に関する調査』1931)

  このように、前借金と娼妓稼業が別個の問題である事、債権回収の為に娼妓稼業を強いる事態を違法とする事によって廃業時も個人の自由意志は貫かれ得るものと主張するのである。

 

  しかしながら、この主張の要である「前借金と娼妓稼業の分離」は、前借金を前提とした貸座敷業者―娼妓間の関係を揺るがし得るものであり、どの程度実行可能であったか疑問が残る。この点に関しては国連調査団からも「若し公序良俗に反するの故を以て斯る(前借金完済の為娼妓稼業を強いる)契約が無効と宣告されますと、外国乃至国内の妓楼経営者は前借金を貸せると云ふ事は為なくなるでせう。そうなれば此の種の商売に対する致命傷です。」(「東洋ニ於ケル婦人児童売買実地調査委員」1931)との指摘もなされており、政府は苦しい説明を余儀なくされている。

 

  1932年の報告書に対して日本政府は、意見書を提出し娼妓取締規則の「有効性」と自由廃業の「実行性」を主張し、人身売買要素の否定を繰り返している。だがそれが受け入れられる事は無く、1933年「国際連盟東洋婦人児童売買調査委員会報告書」に於ても矢張り自由廃業の実行性は疑問視されている。無論、前借金が娼妓稼業に対する拘束力を何ら持ち得ないものであるとすれば、それは公娼制度の土台に位置する貸座敷業者に打撃を与える事となり、制度自体の存続が危ぶまれる。

 

 眞杉論文では、このように問題が整理され、日本政府の主張(「公娼制度=非人身売買」論である)の実際と国際連盟調査団による評価がどのようなものであったのかが明らかにされている。

 

 

 続いて、当時の司法判断の理路を確かめておくこととしたい。

 

 戦後になっての最高裁判決(1955年10月7日)では、

 

  酌婦として稼働する契約と、消費貸借名義による前借金の授受は、それぞれ獨立のものではない。それらは對價関係、密接不可分關係にあるから、契約の一部たる酌婦稼働契約が無効であれば、契約全體も、すなわち借金自體も無効となる。
     (山中論文)

 

とされたが、昭和戦前期では異なる取り扱いを受けていた。山中論文によれば、

 

  この最高裁判決がだされるまでの藝娼妓契約についての大審院の支配的見解は、最も簡略化して述べれば、藝娼妓稼業契約は稼業契約と前借金契約のそれぞれ別個獨立の二個の契約からなり、債務辨儕方法としての前者がたとえ公序良俗に反して無効であっても、このことは純然たる金銭消費貸借契約である前借金契約には何らの影響も及ぼさない、というものである。
  この最高裁の判決にある(最高裁の判決文の中で触れられている―引用者)大審院大正一〇年九月二二日判決「貸金幷損害賠償請求ノ件」では、藝妓稼業を強制する部分と前借金に關する部分に分け、藝妓稼業契約は人身の自由を拘束するものであり、民法九〇條(公序良俗)により無効である。前借金については「純然タル消費貸借」である場合は、稼業契約の効力とは無関係に有効だと言っている。しかし前借金の授受が「名義ハ貸借契約ナレドモ、其眞意ハ藝妓稼業ノ實質ヲ構成シ」「藝妓ヲ為サシムル對價」であれば無効である、とも言っている。この判決は大審院の傳統的見解に従って、藝娼妓稼業契約から前借金契約の部分を分離する二元論的構成を採り、前借金を有効にすることができると判示しており、リーディング・ケースと理解されている判例である。また最高裁の判決に擧げられているもう一つの判例である大審院大正七年一〇月一二日判決「損害賠償請求ノ件」は、抱主が藝妓を誘拐した第三者に對して、債權侵害を理由として損害賠償を請求したケースである。大審院は、稼業者本人以外の者(=親)が本人(=娘)の意思に関係なく、藝妓稼業に従事させる契約を締結した場合は、公序良俗に違背し無効である。しかし本人が抱主と藝妓稼業契約をなせば、その契約は有効であり、娘が自己の契約上の債務たる藝妓稼業をなすことにより、親の抱主に對する債務が履行される結果となる。したがって抱主は藝妓稼業より生ずる利益を収得する債權を有する、と論じる。ここでも親が娘を稼業に従事させることを約し前借金を受け取った關係を、前借金の部分と稼業の部分に分離して判断する態度が示されている。

 

このような構図として示されている。「本人が抱主と藝妓稼業契約をなせば、その契約は有効であり、娘が自己の契約上の債務たる藝妓稼業をなすことにより、親の抱主に對する債務が履行される結果となる。したがって抱主は藝妓稼業より生ずる利益を収得する債權を有する」との大審院の認識は、先のエピソード中の娘と父親、そして貸座敷業者(抱主)の関係に重ねられるだろう。ただし、このケースでは娘は14歳であり、「公娼」の枠組みには入らないはずなので、その点に大審院判決とは別の問題も生じていそうである。

 

 いずれにせよ、昭和戦前期の司法判断の枠組みの中では、「藝娼妓稼業契約は稼業契約と前借金契約のそれぞれ別個獨立の二個の契約」とすることで、少なくとも形式的には、「娘の身売り」と呼ばれる事象を「人身売買」としては位置付けずにいたのである。

 しかし、言うまでもない話であるはずだが、冷害による困窮がなければ、この家族が「娘の身売り」にまで追い込まれることはない。「前借金契約」は困窮の果てのことであり、娘の藝娼妓としての「稼業契約」も「前借金契約」に追い込まれての話である。父が貸座敷業者との「前借金契約」にまで追い込まれることがなければ、娘が貸座敷業者との間に「稼業契約」を結ぶことなどない。「酌婦として稼働する契約と、消費貸借名義による前借金の授受は、それぞれ獨立のものではない。それらは對價関係、密接不可分關係にある」との最高裁判断は、実態に基いた当然のものなのであることが、この家族のケースからも明らかであろう。

 「前借金契約」と「稼業契約」は一体のものなのだ。「前借金契約」のないところに「稼業契約」の必要はないのである。

 ちなみに、明治期にも下級審判決においては、前借金契約と娼妓契約に一体性を見出すものがあった。山中論文には以下の判例が紹介されている。

 

  しかし他方では、東京地裁や東京高裁の初期の判決には、娼妓を抵當にしたところの金銭の貸借契約そのものを、明治五年第二九五號布告や同年の司法省第二二號により、無効としている興味深い判例も見出すことができる。
  東京上等裁明治九年一〇月判決「賃金催促ノ件」には、「抑人身賣買ハ古来國家ノ禁制ナルニ、人身ヲ抵當トシ金圓ノ貸借ヲ約シ身代金ヲ以テ償ヲ受ル如キハ、則制禁ニ相觸レ、不可得爲契約ヲ為シタルモノニ付、裁判上採用不相成候事」とある。

 

この他にも東京裁明治一〇年二月二一日判決「賃金催促ノ訴」、東京上等裁明治一〇年五月二九日判決「賃金催促ノ一件」が「賃金契約それ自體を無効とする」判例として挙げられている。

 明治初期には司法判断にも揺れがあったことがわかるだろう。

 

 

 娼妓となる者の「自由意思」、特に「廃業の自由」について、どのような司法判断がされていたのかといえば、眞杉論文にあった娼妓取締規則の枠組み、

 

  更に娼妓取締規則に於いては「娼妓名簿削除申請ニ関シテハ何人ト雖妨害ヲ為スコトヲ得ス」との条文が定められており、廃業手続きについては「娼妓名簿削除ノ申請ハ書面又ハ口頭ヲ以テスヘシ」と口頭という簡素な手段を含める事によって廃業の自由を確保、「就業の自由意志」の強化が図られている。

 

この枠組みに、確かに実行性はあったのである。娼妓名簿削除申請に際して貸座敷側からの妨害があっても、訴訟を起こしさえすれば娼妓側の申請は司法の場で支持されたことが、当時の判例から明らかになっている(山中論文には多くの事例が示されてている)。その意味で、娼妓の「廃業の自由」が司法の場で保障されていたことも確かなのである。

 

 しかし、この点については、マーク・ラムザイヤー「芸娼妓契約 ―性産業における「信じられるコミットメント(credible commitments)」(1993)の指摘を見落とさないでおこう。「司法の場」へのハードルは、貸座敷業者にとってより、娼妓(あるいはその家族)にとっての方が高かったはずである。

 

  ほとんどの抱主は繰り返しプレイヤー(repeat player)であるから、司法機構を扱うのに必要な情報と法的能力に投資することができた。対照的に、娼婦とその親の大部分は教育も知識もなく、単発的プレイヤー(one-shot player)であって、抱主と比較して、法制度をどのように使えばよいかを学習することがコスト面で効率的なことはあまりなかった。

 

21世紀になっての「ブラック企業」あるいは「ブラック労働」の問題においても、訴訟を選択する労働者は少なく、多くは「泣き寝入り」であるのが現実なのである。

 

 貸座敷業者(抱主)と娼妓(娼婦)は対等なプレイヤーではない。娼妓が負っているのは自身のではなく家族の債務なのであり、それだけでハンディとなっていたはずである。

 この点について眞杉論文では、

 

  日本政府は、個人の自由意志を軸として就業・廃業時にそれが発揮される事、或いは自由意志の発揮が阻害される場合にあってはそれを処罰対象と認定する事により「他者の拘束を受けることが無い=人身売買ではない」と近代公娼制度の人身売買的側面を否定してきた。これに対し国連調査団は1932年実地調査報告書に「此の法令(娼妓取締規則第6条)の精神並びに目的は常に必ずしも遵守せられざるものの如く、警察当局が警察署に雇主を出頭せしめ、之と廃業希望者本人又は其の父母家族と協議せしめ、又は本人を壓迫する等の事実は、屡本人をして其の年期満了又は雇主に対する債務完済に至るまで貸座敷に止まらしむるの結果を来たす懼れあり」と日本政府の主張を疑問視する見解を寄せており、前借金と娼妓稼業に関連を見出している。この国連調査団の見解を鑑みるに、「前借金―娼妓稼業」を不可分と認識するのであれば必然的に廃業時の自由意思の発揮は困難なものであり、「非人身売買」主張についてかなり懐疑的である様子が窺われる。

 

このように「警察当局が警察署に雇主を出頭せしめ、之と廃業希望者本人又は其の父母家族と協議せしめ、又は本人を壓迫する等の事実」を国連報告が指摘していたことを明らかにしている。「廃業希望者本人」だけの「自由意志」の問題ではなく、「其の父母家族」の存在も廃業希望者本人には無視し得なかったであろうことにも想像力を持たねばならない。当時の当事者の心情の問題(「ゲーム理論」の中での当事者の理論的関係性の問題―それがラムザイヤー論文の問題意識の骨格となっている―としてではなく)としては、債務者(其の父母家族)は債権者(貸座敷業者)より弱い立場にあると考えられていたのであり、前借金を前提とした稼業契約は、娼妓たる娘に拘束的に機能したはずである。「廃業の自由」が一般的に行使されるものであったなら、「娘の身売り」が社会問題として新聞紙面を占め、読者の関心を集めるようにはならない。

 眞杉論文の指摘を思い出そう。

 

  前借金が娼妓稼業に対する拘束力を何ら持ち得ないものであるとすれば、それは公娼制度の土台に位置する貸座敷業者に打撃を与える事となり、制度自体の存続が危ぶまれる

 

まさに前借金が娼妓稼業に対する拘束力を持っていたからこそ、公娼制度は維持されていたのであり、その現実認識に基づくことで最高裁の判断も導かれたのである。

 

 

 

 問題が「娘の身売り」と表現されることによって、そこが「人身売買」の現場であるとの認識が一般に共有されていたことが、当時の新聞記事を通して、あらためて確認出来た。

 一方で、当時の日本政府も司法判断も、公娼制度が人身売買を排したものであると主張していた。そこでは、「前借金と娼妓稼業の分離」との論理が用いられていたが、現実の問題としては、前借金は娼妓稼業に対する拘束力を持つものとして機能していた。明治初期の司法判断にもその認識があったし、1930年代の国際連盟調査団からも問題として指摘されていた。戦後の最高裁判断は、そのような戦前期から指摘されていた問題を、あらためて司法の場で認めたものと言える。日本の司法は、戦後になってやっと「娘の身売り」を「人身売買」の問題として取り扱うに至ったのである。オールコックの「文明」への遅れての一歩というべきであろうか?

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
  投稿日時 : 2018/06/25 10:57 → https://www.freeml.com/bl/316274/319785/
  投稿日時 : 2018/06/25 11:00 → https://www.freeml.com/bl/316274/319786/

 

 

 

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