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2018年3月

2018年3月29日 (木)

廓模様新紅毛情史 (昭和期日本の貧困 その3)

 

 たまたま古書市で手に入れた、昭和9年~10年の新聞の切り抜き帳(スクラップブック)に貼られた記事を読むことで、「近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実」に触れてきた(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」及び「草木に露命をつなぐ (昭和期日本の貧困 その2)」)。

 

 冷害による大凶作の中で、

 

    稗飯を食へるものがめぐまれた最上流の農家で、学童の大半はあざみの葉、山ごぼうの葉椎の実、やどり木の葉を貪り食つてははかない露命をつないでゐる、大根の葉、そばの粉などが食へたら中流以上の家庭で、甚だしい地方――主として岩手県の郡部から津軽方面――では藁を粉にして水とともにすすりこんだり団栗をかじつたり『生きんがため』『食はんがため』の悲惨な社会実話がくり返されてゐる
     (東京日日新聞 昭和9(1934)年10月17日)

 

このような食糧事情に追い込まれ、

 

  娘一人の身代金は年期四年で五百円乃至八百円、然し周旋屋の手数料や着物代や何かを差引かれて実際親の手に渡るのは、せいぜい百五十円位だ、可愛い娘を手放しても、百五十円の金を握りたい、一つの悪風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう
  かうして床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく、淪落の巷を流浪する最上娘の「新庄節」こそ彼女等の望郷の憶ひをこめた哀歌であると共にドン底の農村の悲しむべき生活苦を、まざまざと物語るものでなくて何だらう、然も娘を売つた親達は「凶作で米がないから、年期が明けても村の懐には帰るな」といふのだ農村の窮乏もここに至つて正視するに忍びない
     (朝日新聞 昭和9(1934)年10月22日)

 

「口べらし」のために娘を身売りするまでに追い込まれる。しかも「凶作で米がないから、年期が明けても村の懐には帰るな」との言葉が出るところまで追い詰められていたのである。

 

 

 

 今回も、スクラップブックに切り貼りされた新聞記事から、再び「娘の身売り」の現実、人身売買に頼るしかなかった「近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実」に迫ってみたい。

 

 

 

 取り上げるのは昭和9(1934)年12月10日の朝日新聞記事である。タイトルは「廓模様新紅毛情史」、枠付きの大見出しとなっている。

 歌舞伎の名題を思わせる大見出しだが、実際、「芝居じみた」という語がふさわしいような気さえしてしまうエピソード(実際、記者自身が「まるで劇の筋書でも読む様な」と書いている)である。

 

 

 

スクラップブック(昭和9年~10年) 
     廓模様新紅毛情史 (9.12.10 朝日)

 

 

 

 (原則として、見出しの表記は原文のまま―変換可能な限り―とし、本文は「かなづかい」は原文通りだが、旧字体は新字体にあらため、本文中の大きな活字は太字で表記)

 

 

 廓模様新紅毛情史

 吉原遊郭へ飄然遊んだ一外人が、その遊女の優しいもてなしと、余りにも可哀相な身の上話しに同情、約二千円を投げ出して身請から落籍祝ひまでし更に同女に小遣ひ五百円を渡して母の許に帰し母娘の喜ぶ様を見てほつと安心、浅かつた三日間のなじみの絆を絶つてその夜十時横浜出帆のプレジデント・フーヴア号に乗船、アメリカへの孤独の旅に上って行った、吉原遊女と旅の一外人――まるで劇の筋書でも読む様な新しい紅毛情史である【写真は十六夜こと細屋みよ子】

 身請に大枚の金
  絆を切り船出
    夢かと許り喜ぶ彼女と親
      提供の主 和蘭の旅人

 浅草区新吉原京町一ノ一七長金楼事中村彌一方へ去る四日夕刻日本人ガイドに案内された一外人が登楼した、『オランダ人、ヤン・シー・フオツク(二八)』と署名し娼妓十六夜(二〇)を相手に約一時間遊興して帰ったが更に六日夜八時再び登楼同夜は宿泊した七日午前一時半頃の事である、突然ガイドを通じて主人に会いたいといふので主人が会ふと『借金はいくら位ある?』といふ『千五百円位だらう』と大ざつぱの返事をすると、『それでは身請して自由にしてやりたい、金は一度帰つて持つて来る』と非常な乗気である、同楼ではよくあるお客さんの気まぐれと別に気にもしなゐでゐると、その朝五時半語呂帰つたその外人がその日(七日)午後三時頃三度び現れ札束を積んで『すぐ身請する』といふ、眼の前の札束を見せられて始めて楼主はびつくり、先づこの喜びを親許に知らせねばなるまいと「十六夜」の母、深川区三好町二ノ一四、細屋ふみ(五三)を円タクで迎へにやると、ふみはびつくりして現れ、娘の手を取つて喜びの泣き笑ひである、母娘の喜びを眺めていたこの外人、それから間もなく廓の芸者数名に、同家の娼妓十三名その他雇人全部を大広間に集め一人五円の総花をまいた上「十六夜」から改めて本名に返つた細屋みよのため杯を挙げてその前途を祝福した上、持って来た珊瑚の指輪を彼女の指にはめ更に自分の首に巻てゐた真紅な襟巻を彼女の肩にかけてやりながら
  自分は今夜十時出帆の船でアメリカへの旅に上って行く、もう再び会ふ機会もあるまいが、あなたは結婚して幸福な生活に入つて下さい、若し家庭に子供でも生まれたら、せめてその子供の写真を送つてもらひたい
 といふ、更に並ゐる朋輩衆に向かひ
  もし私にお金がどつさりあつたらあなた方全部も身請けしてやりたいが、もう私には金がない今夜立つ船では一等に乗る積りだつたが、もう金がないので二等の旅しか出来ないのです、それでは皆さん御機嫌よう、サヨナラ
 この意味が日本人ガイドを通じて語られると大広間の酒席もしんみりとなつて泣き出す始末、その日の夕刻、この喜びの細屋母娘はこの外人に軒先まで送られて自宅に引き取つて行つたが、その後姿を見送つた彼はガイドを連れそのまま夜の街に姿を消した、同夜十時横浜出帆のプレジデント・フーヴア号二等船客の中には『アムステルダム、二八歳、旅行家Y・C・FOCK』と署名した一外人の淋しい姿があつたといはれる

 苦界の姉も
  救ひに
   貰つた小遣で

 たつた三日の間に夢のやうな境遇の激変にあつた細屋みよは千葉県長生郡八積村生れ、職人をしてゐた父大西徳次郎に連れられその後深川区月島に住んでゐたが、震災で父が行方不明になつてから、母ふみが八人の子供を抱へて女土方となつて育ててゐたが、遂にどん底に落ちて
  姉一人は栃木県に売られ彼女も昨年八王子で芸者となり、ついて今春五月、千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつたもの、その際母の手には僅か百円が渡つただけらしく、おとなしい女として長金楼でも大事がられてゐた
 九日夜みよはフオツク氏から贈られた小遣五百円余の中から、栃木県の苦界に身を沈めてゐる実姉を救ひたいと、実兄と共に、同夜上野駅発の列車で栃木県下に向ひ、深川三好町の長屋には母のふみさんがどん底から蘇る一家の喜びに目を泣きはらしてゐる

 『籠釣瓶』が動機
  純情に感銘
    本國に打電して金策

 【神戸電話】 この外人の身許はガイドをつとめた神戸市加納町一丁目互明荘アパート止宿通訳バチェラー・オブ・アーツ中村三郎君によつてオランダの青年実業家Y・C・フオツク氏(二八)と判つた同君の話によるとフオツク氏は日本観光中東京の歌舞伎座で左団次、松蔦一座の籠釣瓶を見物、日本の花魁に興味を感じ一夜吉原の長金楼に遊び敵娼をつとめた十六夜の真情にほだされ翌日日光観光に赴いたが、ホテルでも溜息ばかりついて深く物を思ひつめて居た
  あの花魁は別れるときに私が五円をチップに与へたが遠い外国から来た人に要らぬお金を使はすのは勿体ないとどうしても取らなかつた、何といふ純な気持であらう、僅か数時間の対面ではあつたがあの子の起居振舞総て優美でしとやかでどうしても商売女とは思へないあんな正直な女を籠の鳥にしておくのは自分の良心に恥ぢる
 といひこの女に邂逅しただけで世界観光の徒事でなかつたことを喜んでゐた、中村君の骨折りで直に本国に打電金策した結果、フーヴア号が横浜出帆「七日午後十時」の直前に二千円の為替が届き劇的な情景の裡にぽんと彼女のために投出し、彼女のしごき一本を後生大事に貰つて行つた
  フオツク氏は若年ながらオランダで新聞を経営し既に妻子がありもし独身ならば勿論彼の女を連れて帰国するといつてゐたといふ

 

 

 新聞経営の28歳のオランダ人青年実業家が、吉原で出会った遊女(身売り=人身売買の犠牲者―そして貧困の犠牲者である)の「真情にほだされ」て、その場で「身請け」を決意し実行してしまう。まるで芝居の筋書であるが、昭和9年12月の新吉原遊郭での実話・美談として報道されているのである。

 

 まず、広辞苑にある「身請け」の項を確認しておこう。

 

 み-うけ【身請け】 年季を定めて身を売った芸妓・娼妓などの身代金(みのしろきん)を払って、その商売から身をひかせること。うけだすこと。落籍。

 

 初めて日本の遊郭を訪れたオランダ人青年実業家が、初対面の遊女の「真情にほだされ」て、その「身請け」を実行してしまった顛末である。

 オランダ人フォック氏に身請けされた「十六夜」(細谷みよ)は、東北の農家出身者ではない。

 

  細屋みよは千葉県長生郡八積村生れ、職人をしてゐた父大西徳次郎に連れられその後深川区月島に住んでゐたが、震災で父が行方不明になつてから、母ふみが八人の子供を抱へて女土方となつて育ててゐたが、遂にどん底に落ちて
  姉一人は栃木県に売られ彼女も昨年八王子で芸者となり、ついて今春五月、千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつたもの

 

 千葉に生まれ東京で育ったが、「震災で父が行方不明」になったことから家族は零落し、「遂にどん底に落ちて」、「千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつた」のであった。貧困層の最底辺ともなれば「口べらしと借金の返済」は切実な問題であり、実際、「娘の身売り」は東北六県だけの問題ではなかったことが、十六夜(細屋みよ)一家のエピソードを通して理解し得るであろう。

 しかし、「千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつたもの、その際母の手には僅か百円が渡つただけ」というのが実態であったし、「四年の年期」にしても、

 

  客から十円の収入があれば、実に七割五分を楼主に取られてしまい、二割五分だけが玉割と称して娼妓の取り分となる。しかも、その中の一割五分が借金返済のための天引きされてしまうので、娼妓は残りの僅か一割だけで生活しなければならないという仕組みなのである。彼女の稼ぎ高は月に三百円程度の箏が多かったので、手元に残るのは三十円程度にすぎなかった。これに対して呉服代から化粧代、洗濯代、電話代、客用の茶菓代、さては湯銭や病気のさいの治療費にいたるまで、諸掛一切が娼妓の負担となっており、これが月に四十円をくだらないので、いきおい楼主から追借をせざるを得ない。
  正月の三が日、七草、および十五、六日は「しまい日」と称し、客に「しまい玉」(または玉ぬき)という特別料金を請求するように仕向ける。揚代金は一時間二円、全夜(オールナイト)十二円を取ったが、「しまい日」には客に全夜の玉を倍の二十四円請求し、そのうえ遣手婆にも普段より多くの祝儀(五円)を出させる。無論、かなりの馴染み客でない限り応じるわけもないが、しまい玉が取れない娼妓に対しては一日二円の罰金が科せられるので、売れっ子以外は戦々兢々とならざるをえない。そのような客のないものは花魁の恥とされるからでもある。

  しまい日は正月ばかりでなく、三月三日、五月五日にも適用される。そのほかに「移り替」といって六月と十月の衣替えにも同様の“行事”がある。とにかく、あらゆる機会をとらえて搾り取る仕組み
     (紀田順一郎 『東京の下層社会』 ちくま学芸文庫 2000)

 

の中での話なのである。

 

 フォック氏との出会いが、十六夜(細屋みよ)にとってどれだけ僥倖であったことか。

 

 

 「戯作者と傾城は虚が真で真が虚なり」との言い回しがあるが、記事の伝える経緯(背景)による限り、フォック氏が「ほだされ」た十六夜の「真情」に偽りを感じる必要はないだろうし、当のフォック氏だって、「飾り窓の女」として有名な売春街を擁するオランダが故国なのである。未経験な若者が遊女の口先に騙された、という話ではないであろう。

 

 

 昭和9(1934)年のエピソードということは、3年後には支那事変、5年後にはヒトラーによるヨーロッパでの戦争(オランダが占領されるのは1940年)である。細屋みよの家族、フォック氏はいかなる運命に翻弄されることになったであろうか?

 美談の先にあるのは、そんな惨禍に満ちた歴史でもある。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/03/29 20:52 → https://www.freeml.com/bl/316274/317986/

 

 

 

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2018年3月27日 (火)

草木に露命をつなぐ (昭和期日本の貧困 その2)

 

 前回は、近代日本の(それも昭和期の)「人身売買」の実状について、昭和9年と10年の新聞スクラップブックに切り抜きとして残された朝日新聞記事を読んだ(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」)。昭和9年の冷害による大凶作の中での、「口べらしと借金の返済」の手段としての「娘の身売り」である。

 

 

 紹介した新聞記事には、

 

  一つの悪風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう

 

とあった。望ましいものではないとのニュアンスに伴われながらも、社会に容認されたものとして「人身売買」という解決法が取り扱われているのである。その規模は以下の通り。

 

  東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、九年一〇月までの一年間で五万人余にのぼった。新聞は連日のように救済を訴え、矯風会や救世軍が身売り防止運動を始めたが、口べらしと借金の返済に迫られた農村の厳しい現実の前では、ほとんど効果はなかった。
     (『昭和 二万日の全記録 第3巻』 講談社 1989  306ページ)

 

「一年間で五万人余」という数字には「東北六県で」との限定が付けられていることも見逃すべきではないであろう(他の地域の貧困層にとっても「口べらしと借金の返済」は切実であり、「娘の身売り」は東北六県だけの問題ではなかった―近代日本の病理というべきか)。しかし、もちろん、冷害がなければ、「東北六県」での「娘の身売り」が「一年間で五万人余」とまではならなかったのでもあるが。

 

 「口べらし」が特に切実な問題となったのは、まさにそこに冷害による大凶作があったからであり、「飢饉」と呼ぶべき状況がもたらされていたからである。

 

  小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民は、八年のように空前の豊作を記録した年ですら、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられていた。九年の凶作は、それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった。岩手県では全農家の七七㌫が緊急の救済を必要とした。
  飢饉の影響は、まず子どもたちの上に現れた。欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。
     (『昭和 二万日の全記録 第3巻』 講談社 1989  306ページ)

 

 

 今回も、前回に用いた昭和9年と10年の新聞記事のスクラップブックから、当時の報道の実際を読んでみたい。「それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった。岩手県では全農家の七七㌫が緊急の救済を必要とした」実状である(取り上げる記事は、その岩手県の惨状を伝えるものだ)。

 用いるのは、昭和9(1934)年10月17日の東京日日新聞記事である(時系列的には、前回記事で用いた朝日新聞記事より前のものということになるが、スクラップブック上では後のページに貼られている―スクラップブックの掲載順ということでご理解願いたい)。

 

 

 

スクラップブック(昭和9年~10年) 
     榮養價ゼロでも食べねばならぬ (9.10.17 東京日日新聞)

 

 

 (見出しの表記は原文のままとし、本文は「かなづかい」は原文通りだが、旧字体は新字体にあらため、本文中の大きな活字は太字で表記)

 

 

 喘ぐ東北
  榮養價ゼロでも
   食べねばならぬ
     草木に露命をつなぐ
          この世の地獄-冷寒地

 東北地方、わけても岩手県下を汽車で通過すると冷害に荒んだ山野にションボリと「をぢさん、残りの弁当を放つて頂戴!」と叫ぶ学童たちの悲痛な声を耳にするだらうここ数十年来みたことのない大飢饉に虐げられた食へない人達のノドをついて出る真の叫びだ、何百万人かにのぼるであらうこれら哀れな罹災者をどうして救ふか、廿万人と算される欠食児童の救済さへ手につかぬ惨状は中央都会人の想像だに及ばないほど深刻化されてゐる、本社が西野入、手島両慰問使を取敢へず派遣したのも苦難のどん底にあへぐ人々への心からなる隣人愛である

 稗飯は最上等
     悲惨な學童のお弁當

 本社盛岡支局では冷害が最も深刻な岩手県下二戸郡奥中山村小学校の児童達がもつて来る弁当を四階級に分けて本社に送り届けてきた
  茶わん一ぱい分ばかりの稗飯と馬蔓芋四個ほど
  精白しない稗の飯とキヤベツ二切れほど
  稗の餅、ガンモドキほどのもの一個
  稗さへ食へず、楢の実十五個ばかりを紙片にくるんだもの
 どれにも砂糖気もなければ醤油の色もついていない、馬蔓餅もキヤベツも少しばかりの塩分をふくんでゐるばかり
 都会人には想像も及ばぬお粗末な弁当だが、冷害地にとつては稗飯を食へるものがめぐまれた最上流の農家で、学童の大半はあざみの葉、山ごぼうの葉椎の実、やどり木の葉を貪り食つてははかない露命をつないでゐる、大根の葉、そばの粉などが食へたら中流以上の家庭で、甚だしい地方――主として岩手県の郡部から津軽方面――では藁を粉にして水とともにすすりこんだり団栗をかじつたり『生きんがため』『食はんがため』の悲惨な社会実話がくり返されてゐるが、送り届けられた前記四種の弁当について内務省栄養研究所原博士の検定を求めると
  最上流といはれる甲の弁当にしても含水炭素のみで蛋白質に乏しくヴイタミンAを欠いてゐるためにこれを常食としたら極端な栄養不良に陥り、老人、子供の場合には視力減退、鳥目となり妊産婦は分娩困難、乳児の保育はできないだらう、丙、丁に至つては議論のほかだとのこと―
 何十万かの農民はその丙、丁にさへありつけないのだ

 人間らしく
  身體が保てぬ
     せめて鰯か豆を…

 内務省栄養研究所の佐伯所長、栄養学の権威原博士はこもごも語る――
 昨年の飢饉当時には出張して現地で詳細調査したが、岩手県と青森県下は特に驚くべき惨状で、ま冬には土を掘つて地中の植物の根をかじつて露命をつないだものさへあつた、今年はそれ以上だといふから惨状推して知るべしで、この弁当をもつて学校へゆけるものはごく少数の農家に限られてゐるのだ、栄養上どうか、カロリーはどれくらゐか、などの質問をうけても数字の上や統計の上で返事はできない、せめて鰯や豆類でも摂ることが出来たら、人間らしい身体を保てやうが、こんなものでは科学的に説明し得ない、一度伝染病でも流行したらそれこそ一大事で、飢饉にたたきのめされた罹災民にはただ涙あるのみだ

 

 

 掲載された学童の弁当の写真のキャプションも収録しておく(写真もよく見て欲しい―「インスタ映え」からは遠い世界である)。

 

 これでもお弁當
   黒いのは團栗、 上方の白い部分は馬鈴薯、ほかは稗

 

 「都会人には想像も及ばぬお粗末な弁当だが、冷害地にとつては稗飯を食へるものがめぐまれた最上流の農家で、学童の大半はあざみの葉、山ごぼうの葉椎の実、やどり木の葉を貪り食つてははかない露命をつないでゐる、大根の葉、そばの粉などが食へたら中流以上の家庭で、甚だしい地方――主として岩手県の郡部から津軽方面――では藁を粉にして水とともにすすりこんだり団栗をかじつたり『生きんがため』『食はんがため』の悲惨な社会実話がくり返されてゐる」のであり、しかし「この弁当をもつて学校へゆけるものはごく少数の農家に限られてゐる」のであった。栄養学的観点からは「最上流といはれる甲の弁当にしても含水炭素のみで蛋白質に乏しくヴイタミンAを欠いてゐるためにこれを常食としたら極端な栄養不良に陥り、老人、子供の場合には視力減退、鳥目となり妊産婦は分娩困難、乳児の保育はできないだらう、丙、丁に至つては議論のほかだと」いうのであり、しかも「何十万かの農民はその丙、丁にさへありつけないのだ」というのである。

 

 

 かつて松原岩五郎が記録したのは、明治20年代の都市最貧困層が残飯に命をつなぐ姿であった(「残飯に命をつなぐ(明治期日本の貧困)」参照)。しかし東北の農村部には「残飯」は存在しない(「残飯」は都市のものなのである)。

 

 内務省栄養研究所の佐伯所長、栄養学の権威原博士が伝えるのは、

 

  ま冬には土を掘つて地中の植物の根をかじつて露命をつないだものさへあつた、今年はそれ以上だといふから惨状推して知るべし

 

このような「惨状」である。記事の見出しには「草木に露命をつなぐ」とあるが、それが比喩などではなく文字通りの現実だったのである。

 

 

 

 スクラップブックに戻ると、前回に紹介した昭和9年10月22日付の朝日新聞記事の左には、掲載紙名は不明だが同年11月14日付の新聞記事が貼られている(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」画像参照)。岩手県知事による救済策を伝えるものだ。

 

 六萬余の窮民に
  衣類足袋を配給
    懸費で購ひ無料で・・・
      石黒岩手知事さらに英斷

 【盛岡発】全国民の絶賛裡に施米を断行した石黒岩手県知事は第二の巨弾として十二日塩、味噌、鰯の施給を声明し十三日朝から関係課長など集合して施給方針について協議の結果、更に栄養不良のため痩せ衰へて行く凶作民に栄養を与えるべく五万貫の昆布を県費で購入施給することに決定した、また白魔襲来して寒空に震へてゐる窮民に対し衣類、足袋類等を同じく県費で五十四万の凶作民中特に救済を要する六万七千名に対しこれを今月末日までに全部一名の漏れもなく配給することとなつた、しかして今月上旬から一斉に開始された救農土木事業の賃金は十日目毎に支払ふことになつてゐたが、これでは救済の意味をなさぬといふので隔日支払いにすることになり、十三日各町村一斉に通牒を発した、今や石黒知事の善政は凶作民等から随喜の涙で迎へられてゐる

 

 石黒岩手県知事が、「栄養不良のため痩せ衰へて行く凶作民に栄養を与えるべく」、米、塩、味噌、鰯、昆布の「施給」と、「寒空に震へてゐる窮民に対し衣類、足袋類等」の「配給」を「決定」したこと等を伝える記事だが、「英断」、「善政」といった評価が示されている。

 大凶作による困窮者の救済は、行政として当然のことと理解されているのではなく、「英断」や「善政」としてやっと実現され得るものと位置付けられていることも読み取れる。前回にも引用した『昭和 二万日の全記録 第3巻』の記事には、

 

  十二月六日、衆議院は農林省提出の「凶作地に対する政府所有米穀の臨時交付に関する法律案」を可決し、政府所有米のうち五〇万石が、東北六県の町村に交付されることになった。

 

とあった。すなわち、12月になってやっと国家による救済策が打ち出された、ということだ。

 しかし、「身売り」された「娘」が国家により救済されることはなかったのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/03/27 22:01 → https://www.freeml.com/bl/316274/317952/

 

 

 

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2018年3月24日 (土)

賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)

 

 近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実がどのようなものであったのか?

 

 「残飯に命をつなぐ(明治期日本の貧困)」では、松原岩五郎の『最暗黒の東京』(1893)を通して、明治20年代半ばの東京のスラム街住民の姿、食料としての残飯の販売がビジネスとして成り立ち、商品として流通する残飯を食べて生き延びる明治20年代の都市最貧困層の実情を明らかにした。

 「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々(続・明治期日本の貧困)」では、イザべラ・バードの『日本奥地紀行』(1885)に記録された、明治10年代初頭の北関東から東北にかけての農民の姿を取り上げた。

 ノミやシラミだらけの環境の中で、「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々が、いまだ近代医学の恩恵から遠い世界で暮らしている姿である。「着たきり雀の風呂へも入らない人々」は、当時の農村部の貧困層の姿であっただけでなく、都市最貧困層も同様であったことも松原岩五郎によって記録されていた。

 

 記事の最後では、

 

  近代日本の(国体の精華たる?)「公娼制度」は(そして昭和期の皇軍の「慰安婦」もまた)「人身売買」に支えられたものであったが、その背景には、このような最底辺の帝國臣民の貧困の現実があったことも覚えておいてよいだろう。

 

このような指摘を加えておいた。

 

 

 今回は、貧困層の困窮が生み出す「身売り」、すなわち人身売買の問題に焦点を合せてみたい。取り上げるのは明治期ではなく、昭和戦前期の日本の現実、近代日本の現実である。

 

 

 昭和9年から10年(1934~1935)にかけて、日本が直面していた問題の一つが「凶作」であった。実状は以下の通りである。

 

 

  昭和九年は、日本各地に自然災害がおこり、農作物が大きな被害を受けた。九州・四国の干害、北陸・山陰の冷雪害、関西・中国の室戸台風による風水害と続いたが、冷害に見舞われた東北の被害は甚大で、明治三八年(1905)以来の大凶作となり、多くの農山村が飢餓線上をさまよった。十二月六日、衆議院は農林省提出の「凶作地に対する政府所有米穀の臨時交付に関する法律案」を可決し、政府所有米のうち五〇万石が、東北六県の町村に交付されることになった。
 
  小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民は、八年のように空前の豊作を記録した年ですら、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられていた。九年の凶作は、それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった。岩手県では全農家の七七㌫が緊急の救済を必要とした。
  飢饉の影響は、まず子どもたちの上に現れた。欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。とくに大きな問題となったのは、娘の身売りだった。東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、九年一〇月までの一年間で五万人余にのぼった。新聞は連日のように救済を訴え、矯風会や救世軍が身売り防止運動を始めたが、口べらしと借金の返済に迫られた農村の厳しい現実の前では、ほとんど効果はなかった。
     (『昭和 二万日の全記録 第3巻』 講談社 1989  306ページ)

 

 

 まず、ここで押さえておかなくてはならないのは「小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民は、八年のように空前の豊作を記録した年ですら、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられていた」との記述である。豊作の年ですら、生産者であるはずの農民の口に米は入らず、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食としていたというのである。その背後にあったのが「小作料と年間収入を超えた額の借金」であった(「豊作」であろうが「貧困」が現実であった)。

 そこに「明治三八年(1905)以来の大凶作」が襲う。もたらされたのは「それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった」ような深刻な「飢餓」であった。

 その「飢餓」からの脱出手段の一つが「娘の身売り」なのである。

 

  欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。とくに大きな問題となったのは、娘の身売りだった。東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、九年一〇月までの一年間で五万人余にのぼった。

 

 貧困層にとっては、人身売買に頼るしかなかった近代日本の現実がそこにある。

 

 

 

 以下、当時の新聞記事を読んでみたい(2015年の4月に、立川の中武デパートの古書市で手に入れた昭和9年と10年の新聞記事のスクラップブックによる)。取り上げるのは、昭和9(1934)年10月22日の朝日新聞記事である。

 

 

 


スクラップブック(昭和9年~10年) 
     東北の凶作地を見る (9.10.22 朝日) 1

 


スクラップブック(昭和9年~10年) 
     東北の凶作地を見る (9.10.22 朝日) 2

 

 

 (見出しの表記は原文のままとし、本文は「かなづかい」は原文通りだが、旧字体は新字体にあらため、本文中の大きな活字は太字で表記)

 

 

 東北の凶作地を見る
 賣られる最上娘
  哀切・新庄節
   「年期明けても歸つてくれるな」
    親達の悲痛な言葉
          山形懸新庄にて
          飯島特派員

 他郷の人の手に売られて哀切な『新庄節』に故郷の山河をしのぶ女の数は決して少なくない、山形県最上郡はその娘地獄の本場だがここは県下でも一の凶作地、ならして七割の減収、一かたまりになつてゐる三十五町歩の田が稲熱(ゐもち)病で全滅してしまつたところもある、飯米は至るところ不足で、西小国村の野頭部落では
  一人でも口を減らさうと思つてゐるのに売つた娘の年が明けて帰つて来られてはそれこそえらいことだ、何とかして娘の年期明けを延ばすことにしよう
 といふ申合わせさへやつたといふ、県ではこの凶作で一層娘の身売りが増えるだらうといふので、身売防止の方策を樹て新庄警察署が主になつて、先頃村村で「娘を売るな」と座談会をやつて歩いた
  娘一人の身代金は年期四年で五百円乃至八百円、然し周旋屋の手数料や着物代や何かを差引かれて実際親の手に渡るのは、せいぜい百五十円位だ、可愛い娘を手放しても、百五十円の金を握りたい、一つの悪風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう
 かうして床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく、淪落の巷を流浪する最上娘の「新庄節」こそ彼女等の望郷の憶ひをこめた哀歌であると共にドン底の農村の悲しむべき生活苦を、まざまざと物語るものでなくて何だらう、然も娘を売つた親達は「凶作で米がないから、年期が明けても村の懐には帰るな」といふのだ農村の窮乏もここに至つて正視するに忍びない
     ▽……△
 娘地獄のこの地方は馬の産地で「子供の出産より馬の出産が大事だ」とまでいはれる位、馬を売るために毎年秋に馬市がたつ、記者は折よく東小国村へ行つて、この馬市を見ることが出来た
  この付近では東小国に八百頭、西小国に五百頭位の馬がゐるさうだが、三日間の馬市に百二十一頭の馬が売りに出た、みんな二歳駒の威勢のいい奴ばかり、馬買ひの博労は遠く青森、秋田岩手の方からもやつて来る、馬市をのぞいて見ると、博労達が人垣の輪を作つて、その輪の中を、農家の若衆が売り馬の口をとつて、ぐるぐる円を書いて歩く「おうい、いひ値が二十円」「一円買つた」「もう三円!」かうやつてせり上げて、相当の値だと思ふと、世話人がポンと手を叩いて売買が決まる、見てゐるうちに、四頭の馬が売れた、一年半も手塩にかけた馬が三十五円、四十六円、四十七円最後の馬はたつた十七円であつた、しかも、この中から産業組合に一割五分の手数料を出さねばならぬ
 馬が安値に売られるたびに見物の百姓達までホツと肩で息をして「話にもならない値だなあ」とガツカリしてしまふ
 馬市の表の道の奥にはづらりと露店が並んでゐる、鍋、釜、古着、雑貨、食料品何でもある、つまり馬を売つてから、ここで一年分の必要品を買ひ込むといふ習慣になつてゐるのだが、今年はそれがひどい寂れ方だといふ、西小国村では凶作のため「馬市には馬一頭につき一人以上付いて行くな」といふ決議をした。人がわいわい多勢ゆけば買物も自然多くなるから、今までのやうにゾロゾロ馬にくつついて行つてはいけないといふのである、田舎廻りのサーカスの小屋がかかつてゐて、客を呼んでゐるが、人々はただ泥絵具の看板をポカンと眺めてゐるだけで、ガマ口を開けようともしない、収穫のない田圃、その田圃の中の小さい宿場、馬のせり市、さびれた露店、サーカスの荒んだ楽隊――凶作地のうら淋しい晩秋の風景は記者の心を徒らに傷ましむるのみだ
      ▽……△
 飯米不足でどこの村々でも濡米の払下げを申請してゐるがとうとう山から栃の実を拾つて米の代用に食ひ始めた、栃の木はパリの街路樹マロニエに似た木で実は栗のやうな格好をしてゐるが苦みと渋味があるので各村役場では「苦みをとつて粉にしてそれから餅にする迄の加工法」をガリ版に刷つて戸毎に配り学校の先生のきも入りで内儀さん、処女会員を集めて講習会なども開かれてゐる
  栃の実のほかにワラビの根、山葡萄の葉や山牛蒡の葉なども食ふ、学校にゆけば鼻をたらした「干松」が居り、村落の掘立小屋にひとしい家々には、米を作って米の食へない「伯夷叔斉」が青い顔をしてゐる、芋、大根、茄子みんな不出来で、きうりや茄子の漬物もない
 小学校の実習で作った大根が幾らか残つてゐるといふので、百姓が銅貨を握つて小学校へ大根を買ひに来る、細いのが三本五銭でこれが大した御馳走だ、村落を歩いて農家の軒先の蓆の上に並べて乾てある栃の実を貰つて五銭白銅を一枚子供に渡したら「やあ、この銭ア光つてるぞ」と大喜びだ帰りがけにまたその家の前を通つたら、さつきの子が出て来て「平シヤボテンもあるんだがなあ」と呼びかけた、記者はぐつと胸のつまる思ひをした、豊田村では一村禁酒、電燈減燭の決議をして、違反者には私刑を加へるといふ罰則を作つた、最上一帯は全く光を失つた村々の集団だ、米を作る農民の「飯米を与へよ」の声こそ悲痛である 

 

 

 「床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく」という「人身売買」の現実。

 それだけでは終わらず、「人でも口を減らさうと思つてゐるのに売つた娘の年が明けて帰つて来られてはそれこそえらいことだ、何とかして娘の年期明けを延ばすことにしよう」との「申し合わせ」をするまでに追い込まれているのである。

 

 ただし、当時の「公娼制度」のシステムの下では、「娘の年期明け」への心配は無用であったかも知れない。

 

  このように決死の思いでつけられた日記の中で、最も頻繁に出てくるのは搾取システムの実態である。元元彼女は三百円の借金で首が回らない実家を救おうと、千三百五十円で身を売ったのであるが、十分余裕ができると期待したのも束の間、周旋人に二百五十円も取られ、さらに借金を返してしまうと、家には差引八百円しか入らなかった。それでも六年間の年季の間に千三百五十円を返済するのは比較的容易に見えたが、朋輩の多くが長年月つとめながら一向に足を洗うことができない様子をみて、不審の念をいだいた。
  その謎はすぐに判明した。客から十円の収入があれば、実に七割五分を楼主に取られてしまい、二割五分だけが玉割と称して娼妓の取り分となる。しかも、その中の一割五分が借金返済のための天引きされてしまうので、娼妓は残りの僅か一割だけで生活しなければならないという仕組みなのである。彼女の稼ぎ高は月に三百円程度の箏が多かったので、手元に残るのは三十円程度にすぎなかった。これに対して呉服代から化粧代、洗濯代、電話代、客用の茶菓代、さては湯銭や病気のさいの治療費にいたるまで、諸掛一切が娼妓の負担となっており、これが月に四十円をくだらないので、いきおい楼主から追借をせざるを得ない。
  問題がこれだけでないことを、彼女は正月になってから知った。正月の三が日、七草、および十五、六日は「しまい日」と称し、客に「しまい玉」(または玉ぬき)という特別料金を請求するように仕向ける。揚代金は一時間二円、全夜(オールナイト)十二円を取ったが、「しまい日」には客に全夜の玉を倍の二十四円請求し、そのうえ遣手婆にも普段より多くの祝儀(五円)を出させる。無論、かなりの馴染み客でない限り応じるわけもないが、しまい玉が取れない娼妓に対しては一日二円の罰金が科せられるので、売れっ子以外は戦々兢々とならざるをえない。そのような客のないものは花魁の恥とされるからでもある。
  しまい日は正月ばかりでなく、三月三日、五月五日にも適用される。そのほかに「移り替」といって六月と十月の衣替えにも同様の“行事”がある。とにかく、あらゆる機会をとらえて搾り取る仕組みだが、不器用な彼女にはどうしても玉ぬきができない。最初の月だけで十円の罰金をとられ、主人から「いくら初見世でも、一人位玉ぬきができそうなものだ。もういく日になるんだ」と小言をいわれる。チップで生計を立てている遣手からもいやがらせをされるようになる。
     (紀田順一郎 『東京の下層社会』 ちくま学芸文庫 2000  167~170ページ)

 

 

 ここで紹介されている「日記」とは、「大正十三年(一九二四)の師走、群馬県高崎市に育った十九歳の女性が周旋人に案内されて新吉原の門をくぐった。森光子というこの女性は、その後の約一年間、娼妓として辛酸をなめ、ついに死を賭しての脱出に成功、翌十四年に『光明に芽ぐむ日々』という告発の手記」のことである(「賣られる最上娘」の記事の10年前の、人身売買の当事者による告発である―この10年間で、公娼制度の制度的枠組みが変化したという話は聞かない)。「朋輩の多くが長年月つとめながら一向に足を洗うことができない」のが実情であった。しかも紀田順一郎氏の文章は、「新吉原以外の公娼地帯では一層ひどい状況が見られた」と続いているのである。

 「賣られる最上娘」を待ち受けていたのが、どのような悲惨であったのか。切抜きとして残された新聞記事に書かれた以上の過酷な現実であったことは、想像しておいた方がよいだろう。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/03/24 14:01 → https://www.freeml.com/bl/316274/317854/

 

 

 

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