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2018年1月

2018年1月30日 (火)

「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々(続・明治期日本の貧困)

 

 「残飯に命をつなぐ(明治期日本の貧困)」と題して、松原岩五郎によるルポルタージュ(『最暗黒の東京』)を通して、明治20年代半ばの大日本帝國臣民の最底辺の姿を取り上げてから一月が過ぎてしまった。

 そこに記録されていたのは、残飯に支えられて生きる、東京の貧民街の最貧困層の姿であった。

 

 

 今回はあらためて、まず明治10年代初頭の農村部の「臣民」の姿を、民俗学者の宮本常一による『イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む』(平凡社ライブラリー 2002  引用は92~97ページ)を読むことを通して確かめておくことから始めたい。

 イザべラ・バードの記述に宮本常一が解説を加える形で進められている(ここでは、バード自身による記述は太字にしてある)

 

 

 

  きびしい労働 貧しいくらし

  それから小佐越というところで当時の山中の村の貧しかったことがでてきます。
 
   ここはたいそう貧しいところで、みじめな家屋があり、子供たちはとても汚く、ひどい皮膚病にかかっていた。女たちは顔色もすぐれず、酷い労働と焚火のひどい煙のために顔もゆがんで全く醜くなっていた。その姿は彫像そのもののように見えた。(第十一信)
 
  それほど汚れていたのです。それは風呂へも入らないということでもあったのです。同じようなことが栃木県の横川というところを通るときに出て来ます。
 
   五十里から横川まで、美しい景色の中を進んで行った。そして横川の街路の中で昼食をとった。茶屋では無数の蚤が出てくるので、それを避けたかったからである。(第十二信)
 
  何度もいうように、日本にはすごいほど蚤がいて、実は茶屋だけではなくて、地面の上にもいたらしいのです。日本の国土全体の上に、かつて充満していたようなのです。
 
   すると、私のまわりに村の人たちのほとんど全部が集まってきた。はじめのうち子どもたちは、大きい子も小さい子も、びっくりして逃げだしたが、やがて少しずつ、親の裾につかまりながら《裾といっても、この場合は譬喩的表現だが》〔腰にまとわりつきながらということでしょう〕、おずおずと戻ってきた。しかし私が顔を向けるたびに、またも逃げだすのであった。群衆は言いようもないほど不潔でむさくるしかった。ここに群がる子どもたちは、きびしい労働の運命をうけついで世に生まれ、親たちと同じように虫に喰われ、税金のために貧窮の生活を送るであろう。(第十二信)
 
 
  薬のききめと病人たち

  また同じような場面があります。
 
   宿の亭主の小さな男の子は、とてもひどい咳で苦しんでいた。そこで私はクロロダインを数粒この子に飲ませたら、すべて苦しみが和らいだ。治療の話が翌朝早くから近所に広まり、五時ごろまでには、ほとんど村中の人たちが、私の部屋の外に集まってきた。(第十二信)
 
  日本の医療がどんなものであったかが、これで非常によくわかるのです。村の医者ではどうしようもなかったが、新しい化学薬品に会うと実にきれいになおるのです。
 
   ささやく音、はだしの足を引きずる音がだんだん大きくなり、窓の障子の多くの穴に眼をあてていた(障子に穴を開けてのぞくのは、日本のひとつの習俗ですね〕。私は障子を開けてみて、眼前に現れた痛ましいばかりの光景にどぎまぎしてしまった。人々は押しあいへしあいしていた。父親や母親たちは、いっぱい皮膚病にかかっている子、やけど頭の子、たむしのできている子を裸のまま抱きかかえており、娘たちはほとんど眼の見えなくなった母親の手をひき、男たちはひどい腫れ物を露出させていた。子どもたちは、虫に刺され、眼炎で半ば閉じている眼をしばたいていた。病気の者も、健康な者も、すべてがむさくるしい着物を着ていた。それも、嘆かわしいほど汚くて、しらみがたかっている。病人は薬を求め、健康なものは、病人を連れてくるか、あるいは冷淡に好奇心を満足させるためであった。私は悲しい気持ちになって、私には、彼らの数多くの病気や苦しみを治してあげる力がないこと、たとえあったとしても、薬の蓄えがないこと、私の国では絶えず着物を洗濯すること。絶えず皮膚を水で洗って、清潔な布で摩擦すること。これらは同じような皮膚病を治療したり予防したりするときに医者のすすめる方法である、と彼らに話してやった。(第十二信)
 
 
  着たきり雀の生活

  これは栃木県から福島県へ越えようとする山中での話なのですが、いかに不潔であったか、ということです。また次に、
 
   この人たちはリンネル製品を着ない。彼らはめったに着物を洗濯することはなく、着物がどうやらもつまで、夜となく昼となく同じものをいつも着ている。(第十二信)
 
  これはこのとおりだったと思うのです。これは先ほどの裸でいるということと関係があって、着物をできるだけ汚さないようにする。それは洗濯すると痛んで早く破れるからで、着物の補給がつかなくなるのです。それでもだいたい一年に一枚くらいの割合で着破ったと考えられるのです。その着物というのは、この山中だと麻か籐布が多かったと思います。すると家族が五人いるとして、五人分の麻を作るか、あるいは山に行って藤をとってきて、その繊維をあく出しして細かくさいて紡いで糸にし、それを機にかけて織る、ということになると、着物一人分の一反を織るのにだいたい一ヵ月かかると見なければならない。五人分なら五ヵ月で、それを、働いている上にそれだけのことをしなければならないのです。
  着物を買えば簡単ですが、買わない生活をしてとなると非常に自給がむずかしかったわけです。これが生糸になると、まゆを煮さえすれば繊維の長いのが続いているから、うんと能率も上がってくることになります。植物の皮の繊維をとって着物を織ることがどのくらい苦労の多いものであったかがわかるのです。汚ない生活をせざるを得なかったということは、こういうことにあると思うのです。
  『おあむ物語』の中のおあん様がまだ妙齢の娘だった頃に、腰までの着物一枚しか持っていなかったというのです。それでもお父さんは立派な医者で、大名に仕えて高三百石というのですから、当時武士の中でも中流以上の生活をしていた人だと見て良いのですが、それでそのくらいの状態だったのです。それほど衣服というのは得られにくいものだったのです。今(一九七六年)『平将門』をNHKテレビでやっているけれど、あんなきれいな着物を着ていたなんてとんでもないことで、実際に当時の服装で出て来たら、これはたいへんなものだったろうと思うのです。それでは綿がなかったのかというと、あったのですが非常に貴重なものだったのです。

 

 

 

 ここに描かれているのは明治10年代初頭の北関東から東北にかけての農民の姿である(そこには時代的限定と地域的限定と階層的限定がある)。

 

 ノミやシラミだらけの環境の中で、「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々が、いまだ近代医学の恩恵から遠い世界で暮らしている姿。このような「姿」を、どこまで当時の日本列島全体に一般化することが妥当なのか? その点には慎重でありたいが、しかし、バードが記録した明治11年の農村部に生きる臣民の姿もまた、日本の近代史の「事実」の一端を伝えるものであることは直視しておきたい。

 

 再び松原岩五郎の記録した明治20年代半ばの東京の(すなわち都市部の)最貧困層の姿に戻ろう。

 やはりそこにも、ノミやシラミだらけの環境の中で、「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々の姿がある。

 

 

 

  新賓客なる余は右側の小暗き処に座を取りしが、そこには数多積重ねたる夜具類ありて、垢に塗れたる布団の襟より一種得ならぬ臭気を放ち、坐ろに木賃的の不潔を懐わせたるのみならず、予の隣に坐せる老漢はいわゆる子供たらしの文久的飴売りなるが、その煮しめたる如き着物より紛々と悪臭を漲らし、頸筋または腋の下辺を荐に掻き捜しつつ所在なき徒然に彼の小虫を噛み殺しつつあるありしを見て、予は殆んど坐に堪えがたく、機会を見て何処かへか場所を転ぜんと思い居るうち、また四、五人の客どやどやと入り込み来れり。
     (松原岩五郎 「二 木賃宿」 『最暗黒の東京』 岩波文庫 1998  22ページ)

 

 

  その内にまた幾人か帰り来り、宿の主婦来って床を伸かんというに、おのおの立上りて手伝をなせしが、一畳一人の割なれば随分究屈を感ずるならんと思い居りしに、事実はそれをも許さで、一帳の幮に十人以上の諸込みなれば、何かは以て耐るべき。蒸さるる如き空気の裡に労働的の体臭を醞醸し、時々呼吸も塞がんばかりなるに加えて蚤の進撃あり。蚊帳は裾より壊れたれば蚊軍は自由に入るべく、この境界にあってもなお予は彼の捫虱的飴屋の傍に近かざらん事を祈り居りしが、命なる哉、いつしか既に伝染せし事と見えて膝のあたり不思議にむず癢くなりしを以て、指頭を入れて模索見しに果して彼の因循的小虫なり。彼が垢膩を啖い血を喰い飽きて麦粒の如くに肥りたるものなれば、余りの事に予が手を以て潰すことも得ならざりし。ああ偽なる哉、偽なる哉、予は曩日かかる暗黒界に入るべき準備として数日間の飢を試験し、幾夜の野宿を修業し、かつ殊更に堕落せる行為をなして以て彼ら貧者に臆面なく接着すべしと心密かに期し居たりしに、これが実際の世界を見るに及んで忽ち戦慄し、彼の微虫一疋の始末だになすことを得ざりしは、我れながら実に不甲斐なき事なりき。ああ想像は忝なく癩乞丐の介抱をもなし得べし。しかれども実際は困難なり、虱を捫る翁の傍にも居がたし。
     (松原岩五郎 「二 木賃宿」 前掲書  23~24ページ)

 

 

  たとえ、よもすがら池をめぐりて名月のあざやかさを見るとも常に我が庵なく我が臥床なくして奚ぞ美景の懐に入るべき。西行も三日露宿すれば坐に木銭宿を慕うべく、芭蕉も三晩続けて月に明さば必ずや蚊軍、蚤虱の宿も厭わざるに至るべし。ああ木賃なる哉、木賃なる哉、木賃は実に彼ら、日雇取、土方、立坊的労働者を始めとして貧窟の各独身者輩が三日の西行、三夜の芭蕉を経験して、しかして後慕い来る最後の安眠所にして、蚤、シラミ元より厭う処にあらず、苦熱悪臭また以て意となすに足らず、彼の一畳一人の諸込部屋も五、六人の破れ幮に十人逐込の動物的待遇も彼らのためには実に貴重なる瑶の台にして、茲に体を伸べ茲に身を胖くして身体の疲労を恢復し、以て明日の健康を養い、以て百年の寿命を量るにあれば、破れ布団も錦繍の衾にして、截り落しの枕もこれ、邯鄲の製作なりと知るべし。
     (松原岩五郎 「三 天然の臥床と木賃宿」 前掲書  27ページ)

 

 

  日済に続いて危急なるは損料屋なり。貸し衣装、貸布団、貸車。貸布団は一枚八厘より二銭まであり、尤も絹布上下三枚襲ねて一夜三十銭より五、六十銭に登る損料物もあれども、これらはもっぱら贅沢社会の需用にして寒を凌ぐために供給する貧街の談にあらざれば、茲にこれを多く語るを要せず。貸衣装また同じく一枚三銭より五、六銭位までのもの、多くは下等芸人一日の晴衣に向ッて用立ツ。中には股引法被、また布子〔木綿の綿入れ〕を貸す内あり。これ車夫的労働者の必要に向ッて供えたるもの、大抵は貸車業者においてこれを兼業す。なかんずく貧街において繁昌するは貸布団にして、冬の十二月より翌年三月まで厳冬四ヶ月間の戦争、いわゆる飢寒窟の勁敵に向ッて供給するものなれば、その時節に至れば貧街の営業中何ものかよくこの商法の劇しきに及ぶものあらん。細民の生計として夏より秋に移る際ただの一枚の着物すらも着替ゆる事能わざるほどなるもの、まして夜具布団の穿鑿、到底出来る事にあらず。凌げるだけは日光の縕袍に依頼して凌ぐも、十二月の月に入っては日光最早頼むべからず。是に至ッて一枚の布団用意せんと欲するも俄かに作る事能わざるを以て余儀なく損料に依頼せざるを得ず。
     (松原岩五郎 「十二 融通」 前掲書  71~72ページ)

 

 

  殊にその物品たるや、煎餅の如き薄縁のものにあらざれば雑巾の如くに側を綴ぎ集めたるもの、これを借用して一夜一銭ずつの損料を払うものは、いずれも皆よくよくの貧家にして、見るさい憐れなる母子三人裸体を抱き合いて身を縮め、慄いかつ戦きて辛うじて危寒を禦ぐ。この場合においても料銭の延滞するに至れば直ちに寝所へ踏込んで剥ぎ取らざるを得ず。実に涙あっては出来ぬ商法、無慈非道と見らるるも余儀なし。
     (松原岩五郎 「十二 融通」 前掲書  72~73ページ)

 

 

 

 

 これもまた近代日本の現実であった。

 木賃宿の宿泊者も長屋の住人も、「細民の生計として夏より秋に移る際ただの一枚の着物すらも着替ゆる事能わざるほどなる」が故の「着たきり雀」の日常において、「煮しめたる如き着物より紛々と悪臭を漲ら」すのであり、「煎餅の如き薄縁のものにあらざれば雑巾の如くに側を綴ぎ集めたる」と表現される「垢に塗れたる布団」は、その「襟より一種得ならぬ臭気を放」っていたのである。バードは「彼らはめったに着物を洗濯することはなく、着物がどうやらもつまで、夜となく昼となく同じものをいつも着ている」と観察しているが、「煮しめたる如き」とはまさに「洗濯」されることのない「着物」の視覚的表現である。松原岩五郎のルポルタージュの背後にあるのは、すなわち岩五郎が体験したのは、現実としての「臭気」であり「悪臭」だったのである(文字を通して、当時の嗅覚的経験まで読み取っておくべき―あるいは嗅ぎ取っておくべき―記録である)。

 

 もちろん、このイザベラ・バードや松原岩五郎によるルポルタージュを読んで、一気に「日本がどうだこうだ」という話にするのは避けるべきである(註:1)。他の地方の状況や、階層による生活の違いの可能性も考え併せ、あくまでも明治10年代初頭の北関東から東北での農村部の生活の詳細の観察として、あるいは明治20年代半ばの都市部の最貧困層の暮らしの詳細の観察として位置付けることが必要である。

 しかし、同時に、以下の構図の存在も忘れずにおきたい。

 近代日本の(国体の精華たる?)「公娼制度」は(そして昭和期の皇軍の「慰安婦」もまた)「人身売買」に支えられたものであったが、その背景には、このような最底辺の帝國臣民の貧困の現実があったことも覚えておいてよいだろう。

 

 

 

【註:1】
 イザべラ・バードによるノミをめぐる記述について、宮本常一は、

  何度もいうように、日本にはすごいほど蚤がいて、実は茶屋だけではなくて、地面の上にもいたらしいのです。日本の国土全体の上に、かつて充満していたようなのです。

このように説明している。
 確かに松原岩五郎も木賃宿でのノミやシラミの猛威を記録している。しかし、松原にとって木賃宿でのノミ・シラミ体験は、それまでの想像力を超えた新鮮なものとして描かれてもいる。つまり、それまでの松原岩五郎は、同じ都市に住みながら、それほどにはノミやシラミに悩ませられることなく過ごしていたようにも見える。
 農村部と都市部には差異があり、都市部の中にも居住地区(階層の反映でもある)による差異があったということであろう。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/01/30 20:50 → https://www.freeml.com/bl/316274/316621/

 

 

 

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