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2017年12月

2017年12月28日 (木)

残飯に命をつなぐ(明治期日本の貧困)

 

 

  ああ残飯屋、残飯とはいかなるものか、これ大厨房の残物なるのみ。諸君試みに貧民を形容するに元といかなる文字がよく適当なりと見る。飢寒、襤褸、廃屋、喪貌、しかしどれも予はこれが残飯または残菜なる二字のもっとも痛快に最も適切なるを覚わずんばあらず。しかして今、予はこの貧民を形容するに適切なる残飯もしくは残菜を実にしたる残飯屋を目前に控えたり、予は往かざらんと欲するも得べからず、予は飛んで往きぬ。
  まず見る貧窟残飯屋の光景、西より入れば窟の入口にして少しく引込みたる家なりしが、やや広き表の空地には五、六枚の筵を舗きて残飯の饐れたるを麹の如く日に乾したるものありしが、これ一時に売切れざりし飯の残りを糒となして他日売るものにやあらん。彼らのためには即ちこれが彼の凶荒備蓄的の物ならんかと想像せしめたり。家は傾斜して殆んど転覆せんとすするばかりなるを突かい棒もて、これを支え、軒は古く朽て屋根一面に蘚苔を生し、庇檐は腐れて疎らに抜けたるところより出入する人々の襟に土塊の落ちんかを殆ぶむほどの家なりしが、家内は田舎的の住居にして坐舗よりも庭広く殆ど全家の三分の二を占めたる処に数多の土取笊、半切桶、醤油樽、大なる壺、粗き瓶そのほか残飯残菜を容るるに適当なる器具の悉く不潔を帯びて不整列に並ばり居るを見たりき。しかるに何ぞ図らん、この不潔なる廃屋こそ実に予が貧民的生活のあらゆる境界を実見して飢寒窟の消息を感得したる無類の(材料蒐集に都合よき)大博物館なりしならんとは。
     (松原岩五郎 『最暗黒の東京』 岩波文庫 1988 39~40ページ)

 

 

 

 松原岩五郎の『最暗黒の東京』が出版されたのは明治26(1893)年であった。既に大日本帝國憲法は発布されていたが(1889年)、本格的対外戦争である日清戦争(1894)には先立つ時期の、東京のスラム街の実情のルポルタージュということになる。日本の工業社会化以前の段階であり、工場労働者が貧困層として登場するに先立つ時代の話である(底辺の男たちが担ったのは人力車夫であった)。

 密集する廃屋的な長屋と木賃宿が彼らの住居であった。長屋の住民の食生活を支えていたのが残飯。これが松原岩五郎が見出し、記録にとどめた当時の都市最貧困層の現実だったのである。

 

 

  弥兵衛氏の周旋を以てその日より予は残飯屋の下男となり、毎日、朝は八時、午は十二時半、夕は同じく午後の八時頃より大八車にて鉄砲笊と唱えたる径一尺あまりの大笊、担い桶、または半切、醤油樽等を積みて相棒二人と共に士官学校の裏門より入り、三度の食事の剰り物を仕入れて帰る事なるが、何をいうにも元来箸よりほかに重き物を持たる事のなき身が、俄かにかかる荒働きの仲間に入りたる事なれば、その労苦は実に容易の事にあらず、力は無理をしても出すべきなれど、労働の呼吸に不案内なるより毎々小児の如き失策を重ねて主人の不機嫌を買う事一方ならざりし。されど、これもまた貧大学の前期課程なれば茲の我慢が肝要なりとジッと辛棒する内、日ならずして、その呼吸も覚わり、後には最寄の怪人種より番頭々々と尊称されるに至りき。さるほどにこの残飯は貧人の間にあッてすこぶる関係深く、彼らはこれを兵隊飯と唱えて旧くより鎮台営所の残り飯を意味するものなるが、当家にて売捌くは即ちその士官学校より出づる物にて一ト笊(飯量およそ十五貫目)五十銭にて引取り、これを一貫目およそ五、六銭位に鬻ぐ。尤もこれに属する残菜はその役得として無代価にて払下ぐるものなるが、何がさて、学校の生徒始め教官諸人数、千有余人を賄う大庖厨の残物なれば、或る時は彼の鉄砲笊に三本より五、六本位出る事ありて、汁菜これに準じ沢庵漬の截片より食麺包の屑、ないし魚の骸、焦飯等皆それぞれの器にまとめて荷造りすれば殆んどこれ一小隊の輜重ほどありて、朝夕三度の運搬は実に我々人夫の労とする所にてありき。しかして、この残物を買う者如何と見渡せば、皆その界隈の貧窟の人々にして、これを珍重する事、実に熊掌鳳髄もただならずというべく、我らが荷車を輾きて往来を通れば、彼らは実に乗輿を拝するが如く、老若男女の貧人ら皆々手ごとに笊、面桶〔一人盛りの食器〕、重箱、飯櫃、小桶、あるいは丼、岡持などいえる手頃の器什を用意しつつ路の両側に待設けて、今退たり、今日は沢山にあるべし、早く往かばやなどと銘々に咡きつつ荷車の後を尾て来るかと思えば、店前には黒山の如く待構えて、車の影を見ると等しくサザメキ立ちて宛然福島中佐の歓迎とも言うべく颯と道を拓きて通すや否や、我れ先にと笊、岡持を差し出し、二銭下さい、三銭おくれ、これ一貫目、茲へも五百目と肩越に面通を出し脇下より銭を投ぐる様は何に譬えん、大根河岸、魚河岸の朝市に似て、その混雑なお一層奇態の光景を呈せり。そのお菜の如き漬物の如き、煮シメ、沢庵等は皆手攫みにて売り、汁は濁醪の如く桶より汲みて与え、飯は秤量に掛くるなれど、もし面倒なる時はおのおの目分量と手加減を以てす。饌の剰り、菜の残り元来払下の節においては普通一般的施与的の物品なれど、一旦茲へ引取ッて売鬻げば、またこれ一廉の商品なり。あるいは虎の皮、土竈、アライ、株切などと残物の上に種々な異名を附けて賞翫するはなかなかに可笑し。株切とは漬物の異名にして菜漬、沢庵のごときまたは胡瓜茄子の如き、蒂もしくは株の付たる頭尾の切片をいい、アライとは釜底の洗い流しにして飯のあざれたるを意味するものにして、土竈とは麺包の切片なり。これその中身を抉りたる食麺包の宛然竈の如き形なせるより、かくは異名したるものとぞ。さて虎の皮とは如何、これ怪人種等の調諧にして実に焦飯を異名したるものなり。巨大なる釜にて炊く飯は是非とも多少焦塩梅に焚かざれば上出来とならざるより、釜の底に祀られし飯が一面に附着して宛然虎豹の皮か何ぞの如く斑に焦たる故にかくは名付けたるものならん。さて譬え虎の皮にせよ土竈にせよ、既に残飯とあれば、これ貧窟の尊き商品にして怪人種等の争うて購求する所なり。世に桂を焚き珠を炊ぐとて富豪者の奢侈を意味する事なるが、実際これをなすものは富豪者にあらずしてかえって貧民、しかも極貧饑寒の境にあるものこそ真に珠を炊ぎ桂を焚くものなり。試みに見よ、彼の貧民輩が常例として買う一銭二銭ずつの炭、薪、漬物のいかに高値なるよ、しかしてまた彼らの五合七合ずつなる米、割麦のいかに少量なるよ。十人二十人を賄う大庖厨の経済には平常、米、薪の特用買という事あれば、実際珠桂の如き材料も会計上薪炭の値段となるなり。これに反して貧民の庖所においては毎日の材料一銭的の小買を以て便ずるにあれば、尋常の薪炭も計算上においては実に珠玉の値となるを免かれず。銭稀なる貧窟の人、いかでこの珠玉を炊いで生活し得べけんや。残飯残菜は実にこの一銭的庖厨の惨状を救う慈悲の神とも言うべく、彼ら五人の家族にて飯二貫目、残菜二銭、漬物一銭、総計十四、五銭位にて一日の食料十分なるなり。もし強て一銭的材料を以てこれを充さんとせば、彼らは日に三十銭を費やさざるを得ず。是を以て残飯屋の繁昌は、常に最下層の生活談における、図画的光景の一に数えらるるにありき。
     (同書 41~45ページ)

 

 

 以上は、「七 残飯屋」の全文であるが、士官学校の残飯が貧民の食事を支えていた事実が示されている。残飯が貧民の(それも大日本帝國臣民の)生活を支える商品として流通していた事実、しかも商品として流通するに足る残飯の量に驚かされるが(明治20年代半ばの士官学校の食生活は倹約的ではなかった!?)、明治期の都市貧困層の最底辺と軍隊の残飯の結びつきは記憶しておくに値するだろう。

 

 

 

  貧民の群がいかに残飯を喜びしよ、しかして、これを運搬する予がいかに彼らに歓迎されしよ。予は常に彼らのこの歓迎に酬ゆべく、あらゆる手段を旋らして庖厨を捜し、なるべく多くを運びて彼らに分配せん事を務めたりき。しかれどもまた哀しかりき、或る朝そこに(士官学校の庖厨)運搬すべき残物の何もがあらざりし時に。しかれどもまた嬉しかりき、或夕そこに飯および菜を以て剰されたる新しき残物が、三輌の荷車に余るべく積まれし時に。しかして予は常もこれらの潤沢を表する時にこれを「豊年」と呼び、常もこれらの払底を表する時に予が「饑饉」と呼びて、食物について渇望したる彼らに向ッて前触をするにありき。
  或る朝、――それは三日間一磅の飯をも運ぶ事能わざりし事程左様に哀れなる飢饉の打続きし或朝――庖厨を捜して運ぶべく何物があらざりし時に予が大いなる失望を以て立ちし、いかに貧民の嘆きを見せしむるよ。しかれども予は空しく帰らざりし。予は些かの食物を争うべく賄方に向ッて嘆願を始めし。「今日に限ッては貧民を飢せしめざる部屋頭閣下、冀くば彼の麺包の屑にても」。しかる時に彼が言いし、「もし汝がさほどに乞うならば、そこに豕の食うべき餡殻に畠を肥やすべく適当なる馬鈴薯の屑が後刻に来るべく塵芥屋を待ちつつある」と。それは薯類を以て製せられたる餡のやや腐敗して酸味を帯びたるものと、洗いたる釜底の飯とおよび搾りたる味噌汁の滓にてありき。たとえこれが人に向ッて食すべき物にあらぬとはいえ、数日間の飢に向ッては、これが多少の饗応となるべく注意を以てそこにありし総てを運び去りし。
  かくして、予が帰りし時に飢たる人々は非常なる歓娯を以て迎えし。「飢饉」と予が一言前触れをせし時に彼らの顔色が皆失望に包まれし。「オオいかに、夥しき食物がそこにあるよ」と荷車を見て一人が叫びし時に店の主が探奇の眼を注ぎし。「飯ならば早く分配せよ、我々はただ菜のみにてもよし}と催促が始まりし時に、荷は解かれし、しかしてそこに陳べられし。人々は彼らが三日間の飢饉からそこにいかなる豊年の美食が湧きしかを疑うべく伺きし。腐れたる餡を名称べく予がそれを「キントン」と呼びし時に、店の主人がいかに効果なる珍菜であるかを聞糺せし、そうしてそれが一椀五厘にて売られし。味噌の糟がなお多く需用者をもちし。饐たる飯が売るべく足らざりし。
     (同書 46~48ページ)

 

 

 本来であれば豚のエサとなり、畠の肥やしとなるべき種類の残飯が、最底辺の貧民層には喜びをもって迎えられる現実があった。

 

 

 

 紀田順一郎氏は『東京の下層社会』の中で、以下のように問題を整理している。

 

 

  明治半ばごろの東京の地図を見ると、中央の広大な面積が皇居と諸官庁によって占められ、その周辺に市街地がへばりつくように、急速な膨張をとげつつあることがわかる。たまに広いスペースがあるかと思えば、陸軍省や海軍省の用地ときまっている。
  その地図の上で当時の三大スラム街といわれた地区を確認してみると、いずれも市域の周辺部で、まず北東に浅草万年町、ついで西方に四谷鮫ヶ橋、南方には芝新網町といったところが目につく。この場合、浅草は市中随一の繁華街である浅草寺界隈や上野駅に隣接していたので、車夫などの生活に便利だったことは想像し得るが、それでは四谷や芝はどのようなメリットがあったのだろうか。
  理由は簡単、鮫ヶ橋が陸軍士官学校の付近にあり、芝新網町が海軍兵学校に近接していたということだ。そこに”残飯”があったからだ。軍隊の残飯、すなわち鎮台飯は良質の上、好不況に無関係な安定的供給源だったので、軍隊から味噌汁の冷めない距離を保つことは、福祉なき時代の極貧階級にとって生存のための必要条件だったのである。帝国陸海軍の廃棄物によって、社会の底辺が支えられていたというのは皮肉というほかはないが、当時は軍隊側も残飯の処理に窮していたので、払下げに協力的だったという。
  ところが、日清戦争以後、産業構造の大きな変化によって細民の数が激増すると、とても軍隊だけでは追いつかなくなってきた。彼らは工場や大学など、残飯の新たな供給源を求めて奔走しなければならなくなる。残飯源の拡大と多様化が、即明治社会の発展にほかならないというのも、やはり皮肉というほかないであろう。
     (紀田順一郎 『東京の下層社会』 ちくま学芸文庫 2000 67~68ページ)
 

 

 

 

 フィリピンのスモーキー・マウンテンと呼ばれるスラム街の映像などを前にしても、どこか遠くの他人の話として理解してしまうのではなく、100年ちょっと前の日本の都市風景と重ね得る想像力を用意しておきたいと思う。

 スモーキー・マウンテンの貧困を通して100年前の大日本帝國臣民の最底辺が置かれていた状況を思い、明治期の大日本帝國臣民の貧困の実情を通してスモーキー・マウンテンの悲惨を他人事としてではなく理解する。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/12/28 16:13 → https://www.freeml.com/bl/316274/315474/

 

 

 

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