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2017年9月

2017年9月20日 (水)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)

 

 前回記事(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」)では、昭和10年代後半の小平地域の軍事関連施設地帯化(戦時開発)と人口増(『小平市史』では「戦時の人口急増」という小見出しが用いられている)、そして住宅営団による軍事関連施設の関係者(従業員等)への住宅供給について触れた。大規模施設の移転・開設に際しては、施設関係者用の住宅供給という課題解決の必要性も生じ、最終的に「戦時の人口急増」として、地域社会のあり方へも影響を与えることとなる。再び『小平市史』から「住宅営団」について引いておこう。

 

  こうした戦時開発に伴う住宅難は社会問題となっており、これに対応して、一九三九年、前年に発足したばかりの厚生省のなかに住宅課が設けられ、深刻化する住宅問題への対応の検討が始まり、一九四一年、政府の全額出資のもとで住宅営団が設立され、住宅団地を造成して賃貸住宅あるいは分譲住宅を供給することになった。
     (『小平市史』 2013 286ページ)

 

 

 今回は、その中の仲宿住宅に焦点を当てるところから始める。

 

  さて小平村には一九四三年、住宅営団住宅として喜平橋の南側に桜上水住宅が、さらにその西側に桜堤住宅がつくられた。これらは陸軍経理学校や陸軍技術研究所などの軍関係施設に勤務する人たちのための住宅であった。また同じ時期小川駅付近には仲宿住宅が建設をはじめていたが、完成は敗戦後になった。ここは兵器補給廠小平分廠の職員向け住宅であった。
     (『小平市史』 2013 286~287ページ)

 

 陸軍兵器補給廠小平分廠の職員向け住宅として計画された営団住宅である(「住宅営団」の計画・建設した戦時集団住宅は、基本的に職住近接の立地を特徴とし、その意味で小平地域の営団住宅も例外ではない)。取り上げるのは、「完成は敗戦後になった」仲宿住宅の「戦後」のエピソードである。

 

 

  太平洋戦争により荒廃した国土、東京の復興に、また戦災者の救済に国民がこぞって立ち上がり、昭和22年に当市においても、小川仲宿地区に旧住宅営団が248戸の建設に着工しました。
  生活用水は、浅井戸32井を施設しましたが、当該地区は地下水が深くほとんど使用に耐えず、やむなく居住者は隣接の厚生省職業補導所(現在東京都身体障害者職業訓練所)の深井戸から個々に「水運び」をせざるを得ませんでした。その後、関係者の好意により仲宿住宅街の中央部まで1本の給水管が延長され、共同水栓が設置されました。しかし、居住者の増加によりこれのみに頼り得ず、仲宿居住者組合で対策を検討した結果、坂北、旧兵器廠小平分廠の給水施設の利用を考え、坂北、本町、旭町地区の代表者賛同の下に、大蔵省東京財務局に使用許可を申請した結果、昭和24年8月に使用許可書が交付されました。
  各地区代表者によって給水事業計画を作成して、「小川給水組合」として発足すべく努力を重ねましたが、施設費用等の負担問題で組合結成がならず、対外的には「小川給水組合」として各地区代表者(発起人)が経営にあたることになりました。
  昭和28年12月、関係部落自治会長を中心に協議した結果、「小川給水組合」を発展的に解消し「小川水利協会」を結成して昭和29年1月より新機構によって運営されることになりました。
  当時、役員は水道事業の重要性にかんがみ、任意団体の運営では住民の福祉向上に資するためには非常に困難な点が多いので、水道施設を町に移管し、町営水道として経営すべきであるとの意見の一致をみたので、その体制整備に進みつつありました。
  昭和33年「小川水利協会」から、給水人口の急増と施設の拡張、地域住民の福祉の増進を考慮して、町営として水道事業経営が望ましいとの陳情をうけて、町理事者並びに町議会で調査検討を行い、昭和34年3月の定例議会で小平町営水道事業として経営することに決定しました。
     (『水道事業概要 昭和58年』 小平市水道業務課・工務課 1983 2ページ)

 

 本題に入る前に、「昭和22年に当市においても、小川仲宿地区に旧住宅営団が248戸の建設に着工しました」との記述の正確さの程度について問題を指摘しておきたい。

 

  もちろんこうした住宅の絶対的な不足の状況のなかで、政府の住宅対策がなかったわけではない。一九四五年九月、罹災都市応急簡易住宅建設要綱が閣議決定された。罹災者の越冬対策として、国庫補助により「最モ簡素ニシテ且大量生産ニ適スル」簡易住宅三〇万戸を建設するとしたが、年内に建設されたのは四万三〇〇〇戸にすぎず「恐るべき不良住宅の集団建設事業」とさえいわれた。この政策の一環として建設が促進されたのが住宅営団の仲宿住宅であった。この営団住宅は、もともと兵器補給廠小平分廠の従業者向け住宅として、一九四三年ごろから建設が進められていたが、何らかの事情で中断し、さきの住宅難対策のもとで四五年一二月から建設が再開された。その結果、六畳・三畳二間の八軒長屋四棟と、六畳・三畳・三畳の三間(九坪)の一戸建て二一六戸からなる団地が完成し、新築部分には四六年四月から入居が開始された。また同じ頃、営団旭が丘住宅も完成している。なお住宅営団は一九四六年末に解散したため、それらの住宅は四八年七月から分譲された。
     (『小平市史』 377~378ページ)

 

こちらでは、「新築部分には四六年四月から入居が開始された」とされており、1946(昭和21)年の時点で「入居が開始され」ているのだとすれば「昭和22年に当市においても、小川仲宿地区に旧住宅営団が248戸の建設に着工しました」ということにはならないだろう。総戸数については、『水道事業概要』の248戸と、『小平市史』の「六畳・三畳二間の八軒長屋四棟と、六畳・三畳・三畳の三間(九坪)の一戸建て二一六戸」(八軒長屋が4棟で32戸、それに一戸建て216戸で総計は248戸)は、戸数として同じであり、どちらも確かに住宅営団による「仲宿住宅」についての記述と判断し得る。

 いずれにせよ、

 

  生活用水は、浅井戸32井を施設しましたが、当該地区は地下水が深くほとんど使用に耐えずやむなく居住者は隣接の厚生省職業補導所(現在東京都身体障害者職業訓練所)の深井戸から個々に「水運び」をせざるを得ませんでした。その後、関係者の好意により仲宿住宅街の中央部まで1本の給水管が延長され、共同水栓が設置されました。しかし、居住者の増加によりこれのみに頼り得ず、仲宿居住者組合で対策を検討した結果、坂北、旧兵器廠小平分廠の給水施設の利用を考え、坂北、本町、旭町地区の代表者賛同の下に、大蔵省東京財務局に使用許可を申請した結果、昭和24年8月に使用許可書が交付されました。

 

この太字化した部分からは、戦後に完成した営団住宅には満足な給水施設がなかったこと、そして問題解決のために、当時には「厚生省職業補導所」となっていた旧・東部国民勤労訓練所の「深井戸」からの水に加え、「旧兵器廠小平分廠の給水施設」に頼ることとなった事実が読み取れる。

 旧・東部国民勤労訓練所及び旧・陸軍兵器廠小平分廠は共に、『小平市史』では地域の「軍需工業化」の関連施設として位置付けられていたものである(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」参照)。その施設内に存在した給水施設は、小平村あるいは小平町(すなわち地域行政)の用意したインフラとしての上水道・給水施設ではない。戦後に仲町住宅の住民が頼りとした軍需工業化関連施設内の給水施設は、「開発事業主」としての厚生省、そして陸軍が自ら自身のために用意したものなのである。

 

 「使用に耐え」なかった営団住宅内の「浅井戸32井」、そして旧・東部国民勤労訓練所内の「深井戸」と、旧・陸軍兵器補給廠小平分廠内の「給水施設」については、今のところ、その詳細について記述した文献を探し当ているところまでは進んでいない。しかし、周辺地域の給水施設について知られているところから、ある程度の推測は可能である。

 

 

 まずここでは、「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)」で紹介した矢嶋仁吉氏の論考に立ち戻りたい。

 

  本地域は、武蔵野台地の南半部の狭山丘陵と多摩川とのほぼ中間地域で海抜高度は90-70mで西部より東部に至るに従って緩傾斜を示している。地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10-15mの深さの地域に属している。即ち、該台地南半の中間地域たる小平村を中心として、その西部の砂川村、霞村新町及び多摩村五ノ神附近がこれと同じ階級に属し、東部に於ては小金井村梶野新田、関野新田及び小金井新田に至る地域であって、小平村はほぼその中間に位している。
  尚、地下水の水深(この場合の「水深」は地下水面深度と井底面深度の差を示す:引用者)は、大部分2.5-5mであり、特に本地域より東方、田無町附近に至る地域は地下水同水位曲線の緩慢なことは著しい現象である。
  かかる地域であるから、集落立地の根本要因たる飲料水の採取に困難を感じたことは、既報(矢嶋先行論文:引用者)の諸新田の場合と同様である。それ故、井戸掘削の技術の進んだ今日に於ても、同村一帯に井戸の数の少ない事は注目すべき事実である。
  井戸の掘削は山麓又は河川の沿岸地域の如く帯水層の比較的浅い所では、左程困難ではないが、大地の中央に近くて帯水層の深い本地域附近に於ては、一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する。
  又、井戸掘削の難易はただに帯水層の深度関係するのみならず、その場所の地質の関係する所が大である。例えば武蔵野台地の東部の如く、ローム層の比較的厚い地域では、その井戸の内壁も掘ったままで良いが、該台地の西部、又は秋留台地に於ける如くローム層が比較的薄く直ちに厚い礫層に及んでいる地域では、井戸内壁の崩壊を防ぐ為、玉石を以て畳むか、又は材木を以て組み上げなければならない。
  それ故その費用も極めて莫大である。かかる関係から帯水層の深い所では、特にその困難は著しいのである。それ故台地内部に於ては、何処でも戸別毎に井戸を所有するという訳には行かず、共同井戸を使用する所が多い。
     矢嶋仁吉 「武藏野小平村に於ける新田聚落の研究」 (『地理学評論 11』 1939 17~19ページ)

 

 矢嶋氏は、このように小平地域における井戸掘削の困難について語っていたのであった。小平地域は「地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10-15mの深さの地域に属している」のであり、しかも「ローム層が比較的薄く直ちに厚い礫層に及んでいる地域では、井戸内壁の崩壊を防ぐ為、玉石を以て畳むか、又は材木を以て組み上げなければならない」という二重の「困難」である。15mとは、ほぼ5階建てのマンションの高さに相当する「深度」である。「手掘り」による「掘削」であることを考えれば、それだけで十分に「深い」と思われるだろう(その深度での掘削では、加えて酸欠の危険も問題となる)。

 しかし、戦後の仲宿住宅住民が頼りとした「隣接の厚生省職業補導所(現在東京都身体障害者職業訓練所)の深井戸」の「深さ」は150m前後であったはずだ。

 地下水には浅層のものと深層のものがあり、その性質を異にするのである。より詳しく言えば、

 

  地下水の種類(地層の状況による分類)
  ○砂や礫砂利などの「比較的地下水が流れやすい地層、言い方を換えると「地下水を通しやすい層」のことを帯水層(たいすいそう)とよびます。
   一般に、地下には、浅い帯水層や深い帯水層など、複数の帯水層があり、帯水層と帯水層の間は、粘土層などの水を通しにくい「難透水層」と呼ばれる地層により分け隔てられています。
  ○降水や河川水、貯水池等の水が地表面から浸透してそのまま地下水となるような、地表面付近の「浅い」帯水層などを不圧帯水層、また、ここを流れる地下水を不圧地下水とよびます。
  ○地表面付近の帯水層と難透水層で分け隔てられている「深い」帯水層などで、帯水層が地下水で満たされており、上部の難透水層との境界面に上向きに水圧がかかっているような圧力状態の帯水層を被圧帯水層、また、そこを流れる地下水を被圧地下水とよびます。
   一般には、被圧地下水は標高の高い山地などにつながっており、山地などで地表から浸透してきた水が地下水となり、被圧帯水層の中を平野部まで流動しています。このため、被圧地下水には、水源域の高い標高に相当する高い水圧がかかっています。
   下流の平野部で被圧帯水層まで井戸を掘削すると、高い水圧のため、地下水位が地表面より高く、水が湧き出たり噴出する場合があり、このような井戸を「自噴井(じふんせい)」とよびます。
  ○「深い」帯水層の場合でも、その帯水層の上部に難透水層がなく帯水層が地表までつながっている場合、あるいは、帯水層が満杯ではなく地下水面がある場合には、被圧されていないため不圧帯水層であり、ここを流れる地下水は不圧地下水となります。
     「地下水の基礎的事項」(『地下水マネジメント導入のススメ 技術資料編』 内閣官房水循環政策本部事務局 2017 57ページ)

 

このような構図となり、「深井戸」から汲み上げられる(湧き出す)のは「被圧帯水層」の地下水なのであり、小平地域の深さ15mの井戸は「降水や河川水、貯水池等の水が地表面から浸透してそのまま地下水となるような、地表面付近の「浅い」帯水層」の地下水を汲み上げて利用するものなのである。

 

  武蔵野台地の地質構造の基本的な形態を概観すると、地表から5m~10m前後の厚さでローム層が覆い、その下位に10m前後の厚さで砂礫層が連らなり、さらにその下に砂、シルト、粘土の互層よりなる海成の東京層上部が広がっている。この東京層上部が難透水層を形成し、その上の砂礫層およびローム層に不圧地下水が存在する。
          水谷淳 「武蔵野台地黒目川流域における不圧地下水の水質に及ぼす都市化の影響について」(『環境問題シンポジウム講演論文集 Vol.10』 土木学会 1982 28ページ)

 

この「砂礫層」まででも、小平地域附近では15mの井戸の掘削が必要となったのである。しかし、そこに問題も生じる。

 

  一方これらの集落の家々では、家庭下水を排出する先がなく、そのため、いわゆる”逆さ井戸”(吸い込み槽)と称するものを設けて、ローム層中へ浸透処理する方法が一般に用いられてきた。
     水谷淳 (同論文 27ページ)

 

インフラとしての下水道が未整備な段階では、不圧地下水は家庭下水による汚染と隣り合わせだったのである。

 

 

 先の「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」では、現在では「南街(なんがい)」と呼ばれる東大和市内の、かつての東京瓦斯電気工業(後に日立航空機)が建設した従業員用集団住宅地について触れたが、その工場と住宅街への給水問題がどのように解決されたのかについて見ることにしよう。

 

  一九三八(昭和一三)年一月には、土地買収交渉が始まった。第一回八万坪の敷地買収にかかった。
  しかし、水の件が最後に残った。最重要条件である。貯水池からや玉川上水からの給水は絶対だめと分かった。水がないために人が住まなかった土地である。どこを探しても水気さえも見つからない。困り抜いたはてに、当てなしに試掘することにした。
  第一回目に現在の給水塔のある位置で試掘を始めた。水気を含んだ土が上がってきた。少し水らしいものが出てだんだん増してきた。当った、当ったと立会人はほっと安心。試掘一五〇㍍まで掘ったところで、水が湧き出るようになった。テストには一日二〇〇石(約三十六立方㍍)の湧水が出て、関係者全員大喜び。これでいよいよ本格的建設も可能となった。
     (『東大和市史資料編 1 軍需工場と基地と人びと』 1995 27ページ)

 

「試掘一五〇㍍まで掘ったところで、水が湧き出るようになった」という記述に注目して欲しい。150mという「深さ」であり、「水が湧き出るようになった」という記述に反映されている「自噴」の状況である(不圧地下水を利用する井戸では、たとえ15mの深さからのものでも「自噴」することはなく「汲み上げ」が必要である)。そこに給水塔を用意し、工場と住宅街に水を供給したのである。

 

 次は戦後の小平の畑作灌漑試験計画についての記事である。

 

  一九五二(昭和二七)年、東京都農業試験場は、これからの東京都の農業を支える畑作地域の経営改善と輪作体系の合理化をおこなうために、小平町で畑作灌漑試験計画(五か年)をたてる。都下では初の試みで、東京都、小平町、小平町農業協同組合は畑地灌漑連絡協議会を組織して、試験地を小川六番地区に選定する。小川六番地区は、冬作として麦、夏作として陸稲のほか、すいかなど蔬菜類を生産する町内で代表的な農業地域である。そこで灌漑施設を整備して、陸稲を主体とした蔬菜類の輪作経営の改善が目指された。灌漑栽培の研究のため、直径一二インチ(約三〇cm)、深さ四〇四尺(約一二四㍍)の電動ポンプ付きの深井戸とコンクリート製の貯水槽などの施設が設置された。
     (『小平市史』 397~398ページ)

 

注目して欲しいのは「深さ四〇四尺(約一二四㍍)の電動ポンプ付きの深井戸とコンクリート製の貯水槽」との記述である。124mという深さは、それが被圧地下水であることを意味する。それが「コンクリート製の貯水槽など」と組み合わせられている。当時の写真を見ると、施設には二階建て相当の高さをもつ貯水タンクが含まれていることがわかる。その「高さ」には、南街に飲料水を供給した「給水塔」が持つのと同じ意味がある。

 陸軍技術研究所の給水塔について、以下のように説明されている。

 

  サレジオ学園(小平市)西南角の「サレジオ通り」沿いに、異様な様相でそびえ立つコンクリートの塔。第5技術研究所敷地に建設。受水槽(126トン)を塔の上につくり、その圧力で送水した。現在は、大蔵省財務局が管理している。給水塔はもう1塔あった。新小金井街道沿いの学芸大学東門北側の、現「小金井市役所貫井北町分室」敷地内(190トン余)。
     板倉真也「市内の戦跡保存の取り組みに向けて」(2002/11/24)

 

「塔の上」という高い位置に受水槽を設けることによって、低い位置にある広大な敷地内の多数の水栓への給水を可能にするのである。

 

 上水道インフラ整備の整わない戦後の小平のエピソードを加えておこう。

 

  鷹の台団地は昭和38(1963)年発足。発足当初から三角公園西側の共有地(国分寺市北町1-17-3)には井戸があった。敷地内には大きなヤグラがあり、その上に巨大な貯水タンクが設置されていた。毎日大出力のモーターポンプでそのタンクに水をくみ上げ、そこから団地内の約200世帯に飲料水を供給していた。とてもおいしい水で、よその地域からの来訪者にも「おいしいね」といわれたそうだ。
  それが昭和44年から50年にかけて、この地域一帯の配水が少しずつ都の上水道に切り替わっていった。はじめて水道水を飲んだときに「まずい」と感じたそうだ。(もちろん今では浄水技術の革新により、東京都の水道水もおいしくなっている)
  この井戸は今も共有地内に存在している。
  敷地内にあるコンクリート基台の上に、地下150メートルの水脈に届く錆びた鉄管があり、その上部が90度曲げられている。近年、この井戸を整備して、災害時水源として使えるようにしようとの声が出ている。
     「鷹の台団地今昔物語(その1)―井戸から上下水道へ・私道から市道へ―」(『鷹の台団地40年』 2014 4ページ)

 

着目点は、「敷地内には大きなヤグラがあり、その上に巨大な貯水タンクが設置されていた。毎日大出力のモーターポンプでそのタンクに水をくみ上げ、そこから団地内の約200世帯に飲料水を供給していた」という記述。たとえ「自噴」する被圧地下水であっても、貯水タンクへの汲み上げには「大出力のモーターポンプ」を必要とするのである。

 

 

 

 被圧地下水層にまで達する井戸を掘削し、給水塔を建設する。(村であれ町であれ)戦時期の小平の行政にはその力はなかった(戦後になってもその状況が続いた)が、開発事業主としての軍には、資金面でも技術面でも可能であった、ということなのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
  投稿日時 :2017/09/20 19:42 → http://www.freeml.com/bl/316274/311858/
  投稿日時 :2017/09/20 19:44 → http://www.freeml.com/bl/316274/311860/

 

 

 

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2017年9月17日 (日)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)

 

 前回の「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」では、昭和10年代後半を中心に現在の小平市に設置された「軍事関連施設」及び「軍需工業化」に関わる施設群を再確認すると共に、「近代総力戦状況」の中でのそれらの施設群の持つ意味を明らかにすることに努めた。

 

 あらためて示せば、

 

  参謀本部北多摩通信所 昭和8(1933)年完成
  傷痍軍人武蔵療養所 昭和15(1940)年開所
  陸軍経理学校 昭和17(1942)年開校
  陸軍技術研究所 昭和17(1942)年移転
  陸軍兵器補給廠小平分廠 昭和17(1942)年開設
  東部国民勤労訓練所 昭和17(1942)年開設
  陸軍多摩技術研究所 昭和18(1943)年新設
  多摩陸軍技術研究所電波兵器練習部(通称東部第九二部隊) 昭和19(1944)年編成

 

このような施設群である。

 多数の人員を擁する施設群の開設に伴い、関係者の居住環境の整備も課題となる。

 

 ここではまず、小平地域の人口の推移を確認してみよう。

 

  小平村
 大正9(1920)年
           6068
 大正14(1925)年
           6054
 昭和5(1930)年
           6558
 昭和10(1935)年
           7041
 昭和15(1940)年
           8674

小平町(昭和19年町制施行)
 昭和20(1945)年
          13568
 昭和25(1950)年
          21659
 昭和30(1955)年
          29175
 昭和35(1960)年
          52923

小平市(昭和37年市制施行)
 昭和40(1965)年
         105353
 昭和45(1970)年
         137373
 昭和50(1975)年
         156181
 昭和55(1980)年
         154610
 昭和60(1985)年
         158673
 平成2(1990)年
         164013
 平成7(1995)年
         172946
 平成12(2000)年
         178623
 平成17(2005)年
         183796
 平成22(2010)年
         187035
 平成27(2015)年
         190005

 

 数値は「人口統計データベース」によるもので、国勢調査のデータに基づくものとされているが、昭和20(1945)年の国勢調査は中止となっているので、昭和20年の人口の数値がどこまで正確なものであるのかはわからない。しかし、『小平市史』には、昭和19(1944)年の人口が掲載されており(351ページ)、そこには「15595」と明記されている(ちなみに同ページには、1946年の人口を「13557」とするデータも紹介されており、先のデータベースの昭和20年の人口を「13568」とする記載とは整合的に感じられる)。いずれにせよ、小平への軍関連施設移転設置前の昭和10年の人口7041からすれば、9年間で倍増していることになる。

 小平市の企画政策部 政策課作成の「小平の歴史・文化 市の誕生」(2011)には、

 

  大正10年ごろから、土地会社による大学を中心とした学園都市を造る計画が進められ、関東大震災後に小平学園60万坪(198ヘクタール)の買収が始められ、住宅地域へ変わっていくきっかけとなりました。その後、女子英学塾(現・津田塾大学)、東京商科大学予科(現・一橋大学小平国際キャンパス)、農林省獣疫調査所小平分室(現・独立行政法人動物衛生研究所)などの公共施設が設けられました。
  昭和15年以降になると傷痍軍人武蔵療養所、東部国民勤労訓練所、陸軍経理学校、陸軍技術研究所、陸軍兵器補給廠小平分廠などの軍用施設が設置され、勤める人の住宅も建てられました。

  終戦も間近い昭和19年2月11日に「小平町」となりました。当時の人口は、15,595人(昭和19年1月1日)でした。昭和20年8月15日、太平洋戦争が終結した後、小平は農村から脱皮し、大きく変わりました。東京区部の住宅難に伴う人口の流入と、都営住宅の建設や一般住宅の増加が著しく、また工場の誘致によって、小平もだんだんと都市化しました。昭和30年の国勢調査では、人口の産業構成の都市的業態が、すでに60%以上になっていました。

 

このようにあるように、大正10年代に開始された学園都市開発、その後の女子英学塾(現・津田塾大学)や東京商科大学予科(現・一橋大学小平国際キャンパス)などの移転・開校にもかかわらず、人口の増加率が低かった事実が人口推移データから明らかとなる。大正9(1920)年から昭和10(1935)年の15年間での人口増加が1000人以下であるのに対し、昭和15(1940)年から昭和19(1944)年の4年間という短い間に7000人弱の人口増をみているのである。

 小平地域への軍事関連施設の移転・開設が人口増に与えた影響の大きさは明らかであろう(実際、『小平市史』では「戦時の人口急増」という小見出しを採用している)。

 

 小平地域の戦時住宅開発を担ったのは住宅営団であった。住宅営団については「芦原義信のテニスコート」でも触れたが、ここでは『小平市史』から引いておく。

 

  こうした戦時開発に伴う住宅難は社会問題となっており、これに対応して、一九三九年、前年に発足したばかりの厚生省のなかに住宅課が設けられ、深刻化する住宅問題への対応の検討が始まり、一九四一年、政府の全額出資のもとで住宅営団が設立され、住宅団地を造成して賃貸住宅あるいは分譲住宅を供給することになった。
  住宅営団の母体となったのは、財団法人同潤会である。これは一九二四(大正一三)年、関東大震災復興事業の義援金の一部を用いて設立された内務省管轄の財団法人で、当初罹災者のための仮住宅を建設したが、その後青山や代官山、清砂通りなど一六か所に、近代的な住宅設備や居住者のための共同施設を充実させた鉄筋コンクリートのアパートや、近郊に「勤人向け」の一戸建て分譲住宅を建設したことで知られる。同潤会は都市新中間層の新しい生活の場のモデル事業を展開したのである。
  一方、住宅営団は「住宅営団ハ労務者ノ他庶民住宅ノ供給ヲ図ルコトヲ目的トス」(住宅営団法〈一九四一年三月公布〉第一条)とあるように、軍需工場に勤務する労働者のための住宅を供給することに重点が置かれていた。なお営団には土地収用法にもとづく土地収用の権限や(第一七条)、各種税が免除されるなどの特権が与えられた。五年間に三〇万戸の住宅建設が目標として掲げられたが、一九四六年一二月に住宅営団が閉鎖されるまでに一六万五千戸が供給されたに過ぎなかった。
  さて小平村には一九四三年、住宅営団住宅として喜平橋の南側に桜上水住宅が、さらにその西側に桜堤住宅がつくられた。これらは陸軍経理学校や陸軍技術研究所などの軍関係施設に勤務する人たちのための住宅であった。また同じ時期小川駅付近には仲宿住宅が建設をはじめていたが、完成は敗戦後になった。ここは兵器補給廠小平分廠の職員向け住宅であった。
     (『小平市史』 2013 286~287ページ)

 

 昭和10年代後半の小平の軍事地域化に伴う人口増加を住居面で支えたのは住宅営団だったのである。

 

 

 『小平市史』にあるように、住宅営団の業務としては「軍需工場に勤務する労働者のための住宅を供給することに重点が置かれていた」が、小平地域で建設されたのは「軍需工場」の「労働者」ではなく「軍関係施設に勤務する人たちのための住宅」であったところに特色がある。

 ちなみに、小平の南の国分寺には軍需工場として銃砲生産の中央工業南部銃製作所があり、西の東大和には発動機生産の日立航空機株式会社があったが、それぞれに「軍需工場に勤務する労働者のための住宅」を自社で用意している。

 

  この地域で軍の主導で設置された軍需工場に国分寺の中央工業南部銃製作所がある。1917(大正6)年に東京砲兵工廠の技術者70人で中野区に創設されたが、1929(昭和4)年に国分寺に移転し、小銃の生産を行った。板橋の陸軍造兵廠の指導を受けていた。中央線の北側の台地端に工場、中央線南側に工員宿舎・食堂・浴場・青年学校校舎などが並んだ。1936(昭和11)年大倉財閥系となり、規模拡大、拳銃・軽機関銃・航空機搭載用機関砲などを生産した。
     星野朗 「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学 第105号』 1998 126ページ)

 

  国分寺町内最大の軍需工場は中央工業南部工場でした。工場は現在の早稲田実業学校の場所にあり、中央線の南側、現在の東京経済大学のある場所には工場で働く人達の宿舎や食堂がありました。最大で6,000人以上の人が働いていたとも言われています。戦争末期になると、労働力の不足を補うために町内の国民学校の生徒も動員されています。
     (『武蔵国分寺跡資料館だより 第22号』 2015 2ページ)

 

  立川飛行機の北約2kmの大和村南部の玉川上水にそった赤松の平林地のなかに、1938(昭和13)年、東京瓦斯電気株式会社の立川工場が建設され、従業員1,000人が大森から移動してきた。東京瓦斯電気(略称ガス電)は、1910(明治43)年荏原郡大森町大森海岸に創設の総合機械メーカーである。その航空機部門の発動機製造工場の整備拡張のため立川に新設され、陸軍航空廠と立川飛行機へエンジンを納入するべく、大和村の赤松林が選ばれた。当時大和村には零細な食品や絣織の工場があるのみの純農村地帯であった。ガス電進出地域は武蔵野台地の中央部で地下水面は深く集落はなかった。僅かな桑畑のほか赤松林や雑木林がひろがる土地であった。ガス電はここに工場用地50万坪に社宅・診療所・郵便局・幼稚園・公民館・浴場・映画館・迎賓館・グランド等諸施設のための50万坪計100万坪を計画した。実際は工場は翌1938(昭和13)年に完成するが、後に南街と称せられる住宅団地は未完で終わった。それでも戸数は600戸を越えた。工場の制服を着用した従業員が住宅と工場を毎日往復する生活を送った。大和村字芋窪の地名にある工場であるが立川へ納入する製品をつくり、立川工場の呼称があり、人々は立川をむいていた。工場は陸軍の方針で日立製作所の系列に置かれることになり、社名を日立航空機株式会社と改称した。工場は拡大され、軍管理工場となり最盛期徴用工・動員学徒も含め13,000人に達した。1944(昭和19)年、西武鉄道小川駅から工場へ引込み線を設け蒸気機関車で材料と製品を搬入し、国鉄の川越線と中央線に連絡した。この路線は戦後西武鉄道が上水線として復活した。工場は1945(昭和20)年2月17日と4月24日の空襲で壊滅した。
     星野朗 「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学 第105号』 1998 130ページ)

 

   ドイツナチスによるジードルングのユートピア運動というのがある。労働者に職を与えて安定した生活をつくり上げる。労働者は一日の労働に疲れて家に帰り、新鮮な空気を吸い、和やかな家庭的慰楽の生活にひたり、新しい明日への活力を回復するという考えに基いた都市構想、これが「ジードルング」で当時ドイツの企業経営に多く採用されていた。
   ジードルングというのは、つまり、都市郊外に一団として建設される企業を中心とした、集合住宅という意味である。ドイツで昭和七年、住宅法が制定され、特にその政策を工業を主体とする企業が採り入れていた。
          (元日立航空機専務 内山 直 手記)
  ジードルング構想に瓦斯電の重役が着目し、航空機部門を拡大するに当って、郊外に広大な土地を取得して、そこに立派な工業都市を創設したい。生産を主体として、そこで働く人びとの福祉も考えた工業都市。ジードルングよりもさらに一歩進んだ内容をもった夢を描いていた。
     (『東大和市史』 2000 337ページ)

 

  ジードルング主唱者の内山直専務の下で作成された地域社会計画は、工場を中心として、
   ・総坪数  十万坪
   ・工場   五万坪
   ・福祉地区 五万坪
     ○社宅・寮 ○物品販売所 ○郵便局 ○診療所 ○映画館 ○幼稚園 ○公民館 ○共同浴場 ○スポーツ施設
   ・給水 給水塔から工場・社宅などへ給水設備による給水完備による近代都市化。
   ・社宅 社員は一戸建て 浴室付
       工員は二戸建て (日立になって四軒長屋に変更)
  住宅施設は昭和十三年十二月から建て始め、第一住宅、第二住宅、第三住宅と工場から遠い順に名称が付けられ、計画的に区画された住宅街が建設されていった。
   ・住宅総数 五五四戸 ・独身寮=親和寮(職員) 純和寮(女子) 明和寮(準職員) 温交寮(製造) 青年学校寮
     (同書 338~339ページ)
 

 

 現在の東京経済大学の地に、かつて存在した「工員宿舎」がどのような建築物であったのか? 独身者向けの寮形式の建物が中心であったのか? 家族持ち向けの住宅も用意されていたのかどうか? いささか気になるところではある(今後の課題の一つとしたい)。

 

 東京瓦斯電気工業の壮大なジードルング構想には誰しも驚かされるであろう。

 星野論文と『東大和市史』では敷地の規模が異なるという問題は残るが、星野論文が参照している『東大和市史資料編 1』(1995)にも「住宅地などを含めた総面積は、一九〇万八四七平方㍍(約五七万五〇〇〇坪)というぼう大な土地で、工場用地は、公称七万二六〇〇平方㍍(約二四万坪)」とあり、『東大和市史』の示す敷地規模には説得力があるように感じる(もっとも私には、このような規模の面積の感覚がないという問題がある)。

 一般的には、「ジードルング」という語で思い浮かべられるのは、ナチスではなくワイマール期の近代主義的集合住宅建築の方であろう。バウハウス関係者をはじめとした、後にナチスにより排除されることになるモダニズム建築家たちにより設計された賃貸の多層階集合住宅群である。

 ナチスのジードルングは、ワイマール期の近代主義的集合住宅建築とは一線を画した、持ち家としての戸建て住宅建設計画であったようである(註:1)。そのような意味でも、瓦斯電の構想した戸建て住宅群は、ワイマール期の近代主義建築とは異なり、ナチスの「ジードルング」に近い(戸建て中心という点で言えば、住宅営団の戦時集団住宅群も同様であった―その背景としては、多層階の集合住宅建設に比べ低層の戸建てであれば技術的にも資材的にもハードルが低いという側面もあるだろうし、そもそも戦時期に払底したのは資材だけではなく建築技能者も招集の対象となっており、小規模な戸建て住宅の建設すらままならない状況に陥っていた(註:2)というのが現実でもあった)。

 

 同潤会も住宅営団も海外の住宅政策の研究をしており、その中ではナチスのジードルング政策についても紹介されている。まさに同潤会も住宅営団も、ナチスと同時代の住宅政策の試みであった。ワイマール期のジードルング構想も試行錯誤の続く段階でナチスの時代を迎え、ナチスのジードルング政策も敗戦により未完のままで終わっている(註:1)。

 

 

 瓦斯電の構想も未完に終わってしまったが、それでも現在の東大和市の「南街」と呼ばれる地区には当時の地割が残されており、かつてのジードルング構想の一端を偲ぶことは可能である(註:3)。

 「ジードルング主唱者の内山直専務の下で作成された地域社会計画」を描いた当時のイラスト(そこには「昭和25年度完成予定」と記されている!)の中の「スポーツ施設」に「テニスコート」が含まれている点に個人的な感慨を覚えたことを、今回記事の最後に記しておきたい(「芦原義信のテニスコート」参照)。

 

 

 

【註:1】

  23年末から29年秋に至る期間は、数々の建築プロジェクトが開始され、新しい住宅建築への動きが目立つようになる。都市の中心は依然として昔日の威容を誇る建物が支配していたが、ようやく都市周辺に新しいジードルンクが発生し始める。建築を思潮面でリードしていたアヴァンギャルドは、理論の段階から実際面でも地歩を占めつつあったのである。しかしドイツでは、建築は33年以降、再び新古典様式に回帰することになる。住宅デザインにおいても、33年以降ヒトラーが力を入れたのは、各人に独立の家屋を持たせる政策であった。集合住宅の建設と平行して個人の持ち家政策が推奨されたのである。牧歌的な庭で世間から離れて、アヒル、鶏、幼子、乳母車に囲まれ休息する、というのが当時の一般国民の理想であったが、これを奨励し、再び戦争の危機が高まりつつある中でも、1万マルクから2万4千マルク、すなわち、比較的若いサラリーマンの1-3年間の収入で割安に建てられる設計プランが建築雑誌上で喧伝されている。
     坂口眞佐子「モダンデザインの背景を探る 1920年代アヴァンギャルド住宅誕生における諸事情その3 ヴァイセンホーフ・ジードルンク」(『大阪樟蔭女子大学論集第 47号』 2010 122ページ)

 

【註:2】
 昭和10年代前半の段階(すなわち対米戦争以前)で既に建築技能者不足が問題化していた。

  住宅建設の建築技能者(大工、左官、現場監督者等)は、兵士にとられたり、また賃金の高い軍需産業及び生産力拡充産業に転職する傾向にあり、またそれが容易であったため技能者が減少した。建築技能者の徒弟制度は崩壊しつつあり、技能者が養成されなかった。そのため絶対数の減少は、必然的に建築技能者の賃金の上昇をまねいた。
     大本圭野 「戦時住宅政策の展開過程(2)―日本的住宅政策の原型」 (『季刊・社会保障研究 Vol.19 No.4』 1984  439ページ)

 

【註:3】
 現時点(2017/09/17)での『ウィキペディア』の「住宅営団」の項には、

  住宅営団が戦中・終戦直後の時期に建設した住宅地では、東京都区内では同潤会から引き継ぐ千住緑町、新宿区百人町住宅(後の通称越冬住宅)、東京都現市域では旧北多摩郡武蔵野町(現武蔵野市)の関前字千川堀附住宅(現八幡町住宅地)吉祥寺野田町南・吉祥寺駅北方住宅(現緑町)武蔵境上水北小金井公園東側住宅、旧大和村南街住宅、など、飛行機製造業工場の従業員用の住宅を多く供給した。

このように記されている。「旧大和村南街住宅」が住宅営団の事業として記されているが、「南街」はまさに東京瓦斯電気工業(及び継承した日立航空機)によるジードルング構想に基いて建設された集団住宅地であり、『ウィキペディア』の「住宅営団」の項の現状は誤りを含むものと言えそうである。

 

 

 

    (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)」に続く)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/09/17 15:09 → http://www.freeml.com/bl/316274/311741/

 

 

 

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