« 軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4) | トップページ | 軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6) »

2017年8月30日 (水)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、昭和10年代の多摩(武蔵野)地域が軍産複合地帯化していたことについて、既に4回にわたって記してきた。「多摩(武蔵野)地域」の全体を視野に入れつつ、特に(「武蔵野」の名を冠した)武蔵野美術大学の所在地でもある現・小平市に焦点を合わせることで、軍事施設の立地と地勢的条件の関係を、より具体的なものとして理解することに努めてもきた。

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)」では、星野朗氏の論考を下敷きにして、

  そこには中心となる武蔵野台地の平坦な地形(広大な工場用地、軍事施設への転用に有利)があり、鉄道輸送網として東西方向を結ぶ中央線と、それに並行する(現在の名称で言えば)京王、小田急、西武の各線があり、南北方向にも複数の路線があることに加え、旧来の街道が存在することで地域外及び地域内相互間の陸上輸送の便もよく、しかも「陸海軍の中枢管理機能の集中する東京霞ヶ関等」とのアクセスもよかった。

このような構図として問題を整理してみたが、小平地域について言えば、当時の小平村・小平町の南方(国分寺・小金井地域)を中央線が走り、地域内を南北方向(ここでは中央線にもアクセスしている)にも東西方向にも現・西武鉄道の各路線が結び、「旧来の街道」としては東西方向には青梅街道と五日市街道、南北方向は府中街道等が連絡することで地域間の相互交通・陸上輸送を可能にし、それらにより「陸海軍の中枢管理機能の集中する東京霞ヶ関等」とのアクセスも確保していたことになる。

 

 続く「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)」では、多摩武蔵野の「軍産複合」状況の中で、他地域との比較において、小平地域の特徴としての各種の軍事施設の集中を確認した(「産」ではなく「軍」の施設の集中的立地地域なのである)。

 

 そして「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)」ではあらためて、(多摩武蔵野地域全体という視野に小平地域の特性という視点を加え)地形を中心とした自然的条件と軍産施設の立地の関係を確認しておいた。

 小平地域の問題としては、「そのほぼ平坦な地形上(武蔵野台地の自然景観上)に、傷痍軍人武蔵療養所、陸軍技術研究所、陸軍経理学校・練兵場、陸軍兵器補給廠小平分廠といった軍事施設が次々に設立・配置されていった」事実が再確認されたことになる。

 

 前回に当る「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)」では、矢嶋仁吉氏の1939(昭和14)年の論文を読むことで、40年代に本格化する小平地域の軍事化の直前の小平の状況を、地理学者の眼を通して理解・把握することを試みた。

 小平地域の「地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10-15mの深さの地域に属している」のであり、「大地の中央に近くて帯水層の深い本地域附近に於ては、一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する」のであって、居住者にとって「飲料水問題」が切実であることを矢嶋氏は繰り返し指摘していた。

 前回記事の最後では、そのような地勢的条件を前に、「小平地域の軍事施設化の中心となった陸軍(ここでは陸軍が「開発事業主」と位置付けられる)は、それぞれの施設に自前で給水塔を設置」する形で対処したことを示しておいた。

 

 

 

 「一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する」小平の土地に自ら給水塔を用意し、地域の軍事化を可能にしたのは、「多大な費用」の支出を可能にする軍事予算の規模と、軍の保有する高度な「技術」的基盤であった。当時の地域行政を担った小平村にも小平町(小平での町制施行は昭和19年である)にも、そのどちらの備えもなかった(小平町が町営の水道事業を開始したのは「戦後」の昭和34年―1959年―になっての話である)。

 地域の基礎インフラとしての給水施設・上水道整備問題については後であらためて取り上げることとして、今回は小平地域の軍事施設の特質について整理しておきたい。

 

 

 

 昭和10年代を通じて、どのような軍事施設が小平地域内に設置されていったのかについて、今回は『小平市史』(2013)の記述により再確認することから始めてみたい(『小平市史』の参照は、星野氏の論考を補うことにもなるはずだ)。

 『小平市史』では、その第四章を「戦時開発と町制施行」とし、「第一節 戦時開発と変わる小平」の中の「1 軍事関連施設の進出」には、

 

  参謀本部北多摩通信所 昭和8(1933)年完成

  傷痍軍人武蔵療養所 昭和15(1940)年開所

  陸軍経理学校 昭和17(1942)年開校

  陸軍技術研究所 昭和17(1942)年移転

    第二技術研究所(観測・測量・指揮連絡用兵器など)と第五技術研究所(通信機材・整備機材・電波兵器)の敷地が小平

    第一(鉄砲・弾薬・馬具)、第三(爆破用火薬・工兵器材など)、第八技術研究所(兵器材料・化学工芸など)の敷地は小金井

《追記:2017/08/31》
    第1研究所/銃器、火砲、馬具、弾薬等に関係する部署
    第2研究所/測量器、照準器、眼鏡などに関係する部署
    第3研究所/渡河、鉄道、架橋、道路、爆破器材および一般工兵器材などに関わる部署
    第5研究所/電波、通信機材関係の部署
    第7研究所/物理的兵器関係の部署
    第8研究所/兵器の基礎研究に関する部署
     (板倉真也「市内の戦跡保存の取り組みに向けて」(2002/11/24)からの抜粋)

  陸軍多摩技術研究所 昭和18(1943)年新設

    第五、第七、第九技術研究所の電波兵器関連研究開発機能を統合

  多摩陸軍技術研究所電波兵器練習部(通称東部第九二部隊) 昭和19(1944)年編成

    東京産業大学(現・一橋大学)予科校舎に本部を設置、国立本校校舎も接収

    津田塾の校舎及び女子寮を接収し下士官の宿舎とする(1945年4月―5月には幹部候補生も産業大学予科校舎の兵舎の空襲火災による焼失により移転)

 

この6施設が記され、「2 軍需工業化と小平」では、

 

  陸軍兵器補給廠小平分廠 昭和17(1942)年開設

    板橋区十条にあった東京陸軍兵器補給廠の「分廠」

  東部国民勤労訓練所 昭和17(1942)年開設

    厚生省所管の軍需動員労務者訓練施設

 

この2施設が取り上げられている(『小平市史』では、「軍事関連施設」と「軍需工業化」に関わる施設に区別を設けて記載していることになる)。

 東部国民勤労訓練所は軍に所属する施設ではなく厚生省所管施設だが、総力戦体制の下では、確かに「軍需工業化」の関連施設として位置付けられ得るものではある。

 陸軍兵器補給廠小平分廠についても、「軍事関連施設」そのものであることも確かであるが、『小平市史』では「小平分廠は車両の修理工場を有しており、そこに多数の工員を要する軍需工場という側面をもっていた」点に着目し、「軍需工業化と小平」の文脈に位置付けて記載しているようである。

 

 

 「軍」は戦争の際に公務として武力を行使する組織である。戦争の際にクローズアップされるのは「前線」での相互の軍事力行使、すなわち「戦闘」であろう。「戦闘」を担うのは各地に配備された「師団」に属する将兵である。しかし小平地域に設置された軍事関連施設は「師団」に属するものではない。その意味で、前線とはワンクッション隔てられている施設群と言うことも出来る。

 とは言っても、戦争となり前線での戦闘が始まった際には、小平地域に設置された軍事関連施設の中では、「参謀本部北多摩通信所」が情報収集施設(陸軍の対外情報収集活動に用いられる「傍受用無線受信所」であった)として、戦闘行動に直接の関係を持つものとなり得る(もっとも、情報の軽視は、「先の大戦」を通しての日本陸軍の問題点であり続けた)。

 また、「陸軍兵器補給廠小平分廠」は、「小平分廠は全国の軍需工場でつくられた戦車や装甲車、軍用トラック、サイドカーなどの大型兵器を運び込んで保管し、ここから必要とする舞台に供給する施設である」と『小平市史』の中で位置付けられている通り、前線部隊の戦闘行動と切り離すことは出来ない、戦闘行動に直接の関係を持つ、軍の補給を担う施設である(補給―兵站―の軽視もまた、「先の大戦」を通しての日本陸軍の問題点であり続けたのであるが)。

 

 

 「陸軍経理学校」について『小平市史』は、

 

  陸軍経理学校とは、軍隊組織の財政管理・会計実務、軍施設の建設や維持、軍服や糧食などの調達、軍需工場の監督といった軍隊組織の管理運営全般と物資の補給実務を担当する学校で、創立は一八九〇(明治二三)年であった(麹町富士見町)。東京牛込区若松町の校舎(通称若松台)で長く教育にあたっていたが、満州事変の頃から校舎移転の議論が起こり、一九四〇年頃になって「教育の拡充」の必要性から小平村への移転が決定されたのであった。つまりこの移転は、総力戦の時代になって、軍隊組織の管理を担当する将校が質・量ともにそれまで以上に求められるようになったことを示す。
     (『小平市史』 227ページ)

 

このように解説している。戦争での戦闘行動を考える際に、前線の兵士と戦闘部隊指揮官の能力、司令部での参謀将校の作戦立案能力も確かに戦闘の帰趨を決定するものではあるが、国家による総力戦となった近代戦争において欠かすことの出来ないのが、有能な経理部将校の存在(申し添えておけば、皇軍の重要施設であった「慰安所」の設置もまた経理部将校の職務であった)なのである。戦争の勝利には、マネジメント能力が必須の時代となっていたのである。「教育の拡充」を目的とした小平への陸軍経理学校の移転は、その点について陸軍が無理解ではなかったことを示している(が、しかし、合理的で時には冷徹でもあるマネジメントではなく非合理的精神主義の熱狂と大言壮語が陸軍を支配し続けたのも事実である)。

 

 

 「先の大戦」(公式名称は「大東亜戦争」である)はまさに近代の戦争、「国家総力戦」の時代の戦争であった。前線と銃後の別が完全に消え去るというものでもないが、「銃後」(にいるはず)の国民も動員され、軍需生産を支えることになる。

 前線の兵士の勇猛さだけではなく、銃後の軍需生産能力が戦争の帰趨を左右する。「銃後」もやがては都市無差別爆撃の標的にされてしまう。それが総力戦の時代である。

 

  戦争の拡大・長期化のなかで、軍需工業をはじめとする重要産業に労働力を効率的に供給するため、政府は労働力動員政策を展開した。一九三九年の国民徴用令にもとづいて労働者を徴用するほか、女子や農業者、学校の新規卒業者を重要産業に誘導しようとした。さらに政府は一九四〇年一〇月、非軍需産業の中小商工業者を廃業させ、軍需産業への転職を促すことにした。そのため転職を斡旋する国民職業指導所を設けるとともに、転職者の職業訓練をおこなうために国民勤労訓練所がつくられることが決まった(一九四一年二月)。東部国民勤労訓練所はその最初のもので、その後奈良市、愛知県一ノ宮村、福岡県神湊村の三か所にも同様の訓練所がつくられた。
     (『小平市史』 284ページ)

 

「国民徴用令」は、国家総動員法に基づくもので、同法では、

 

  第四條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝國臣民ヲ徴用シテ總動員業務ニ從事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズ

  第三十六條 左ノ各號ノ一ニ該當スル者ハ一年以下ノ懲役又ハ千圓以下ノ罰金ニ處ス
   一 第四條ノ規定ニ依ル徴用ニ應ゼズ又ハ同條ノ規定ニ依ル業務ニ從事セザル者

 

このように規定され、「第四條ノ規定ニ依ル徴用ニ應ゼズ又ハ同條ノ規定ニ依ル業務ニ從事セザル者」は処罰の対象となっていた―つまり「徴用」は法による強制であった―のである(「国家総動員体制と都市無差別爆撃の論理」参照)。その徴用対象者の教育訓練施設が「東部国民勤労訓練所」なのであった。

 ちなみに東部国民勤労訓練所を所管する厚生省は、昭和13(1938)年に陸軍の主導により設立されている。

 

  厚生省の設立目的は、「国民の健康を増進し体力の向上を図り以て国民の精神力活動力を充実すると共に、各種の社会施設を拡充して国民生活の安定を図る」ことにあったが、国民の健康増進、体力向上や国民生活安定は戦争の遂行と密接に関係していた。厚生省設立に際しての総理大臣声明は、「事変中及び事変後に於ける銃後諸施設及復員計画に伴う諸施設の拡充徹底は国民保険及国民福祉の双方面に亘りて刻下喫緊の要務なり」と述べている。
     増山道康 「戦争計画による社会保障制度形成―人口政策確立要綱―」 (『岐阜経済大学論集 37巻第2号』 2004 抜刷2ページ)

  厚生省構想は、当初陸軍省より衛生省設置案として提起されたが、この案は枢密院審議までこぎつけるものの結局破棄される。結局1937年12月閣議決定された保健社会省設置要綱に基づき、翌年厚生省が設立された。この設置要綱では、設立目的が戦争計画の一環であることを明言している。
  「国民生活の健康を増進し体位の向上を図り以て国民精神力及活動力の源泉を維持培養し産業経済及非常時国防の根基を確立するは国家百年の大計にして特に国力の飛躍的増進を急務とする現下内外の情勢に鑑み喫緊の要務たり。然るにわが国に於いては……国民的活力を減殺し、産業経済及国防の根基を動揺せしむるに至るべく……この際特に一省を設けて急速且徹底的に国民の健康を増進し体位の向上を図るは刻下焦眉の急務となす」。
     同論文(同2~3ページ)

 

東部国民勤労訓練所が厚生省所管であることの意味も、より明らかとなるであろう。

 

 

 そして「総力戦」状況は、各国の「新兵器」の開発能力を問うものともなっていた。そのための施設が「陸軍技術研究所」であり「陸軍多摩技術研究所」であり、開発された電波兵器の操作訓練の場が「多摩陸軍技術研究所電波兵器練習部(通称東部第九二部隊)」であった。

 

  電波兵器とは、通信以外の用途に電波を利用した兵器で、陸軍では一九三八年頃からレーダー兵器(地上用の電波警戒機や航空機用の電波標定機など)の研究が開始され、一九四二年頃にはやっと実用段階に到達したが、すでに「電波戦」を戦っている欧米諸国には大きく遅れをとっていた。アメリカ軍の圧倒的な航空戦力との格差はすでに明らかで、それに対抗するために日本軍は、電波兵器の研究開発・実戦配備を急ピッチで進めていかねばならなかったのだ。同研究所では機上電波警戒機、機上電波標定機、電波妨害機、地形判別機、電波高度計、電波探索機が開発された。
     (『小平市史』 280ページ)

 

 この「電波兵器」はそれ自体の破壊力に意味がある種類の「新兵器」ではなかったが、「総力戦」時代の「新兵器」の多くは、より高速で、より強力なものとなり、その集中的使用がもたらす破壊力の大きさは兵士の肉体だけでなく精神をも粉砕するものとなっていった。

 

 

 すなわち第一次世界大戦時には「シェル・ショック」と呼ばれた戦争ストレス反応の多発である。戦時日本では「戦時神経症」(あるいは「戦争神経症」)と呼ばれたが、まさに「傷痍軍人武蔵療養所」こそは、強力な破壊力の集中的使用に特徴づけられる近代総力戦下の戦場で精神を粉砕された兵士、「戦時神経症」を発症した将兵のための施設であった。

 その開所は昭和15(1940)年である。つまり対米英戦争(いわゆる「太平洋戦争」である)以前の段階、中国大陸での軍事行動(いわゆる「支那事変」である)の段階で既に戦時神経症症状の多発があり、日本陸軍は対処を迫られていたのである。

 早くも昭和13(1938)年の段階(事変の2年目)で、国府台陸軍病院が戦争神経疾患対策のための特殊病院に指定されていたのが実情であった。

 

  1931年の満州事変から足掛け15年にわたる戦争でこれまでにない規模の人々が戦地へと動員される中で、心理的な原因で精神疾患になったと考えられた人々は当時「戦争神経症」「戦時神経症」と呼ばれ、軍部や国家の関心事となった。その中で、1938年、国府台陸軍病院が精神神経疾患となった軍人の専門治療機関となり、1940年に精神障がいを対象にした傷痍軍人武蔵療養所が設立された。
     中村江里 「往還する〈戦時〉と〈現在〉:日本帝國陸軍における「戦争神経症」」 (博士論文要約 2015)

 

  十五年戦争は、精神神経疾患兵士に対する国家的なケアがなされるようになった初めての戦争であった。一九三八年以降、国府台陸軍病院が精神神経疾患専門の治療機関として機能するようになり、一九四〇年に精神疾患を対象とした傷痍軍人療養所である武蔵療養所が設立されたことはその証左であろう。このような福祉領域への国家の介入は、近年明らかにされつつある総力戦と「福祉国家」ないし「社会国家」化という問題とも関連している。
     中村江里 「「白衣の勇士」か「疾患への逃避」か?―総力戦と精神疾患をめぐるポリティクス」 (東京歴史科学研究会第49回大会個別報告要旨 2015)

 

  戦争の影響で精神疾患になり、国の費用負担で療養を続けたまま亡くなった旧日本軍関係者らが、政府統計が残る過去約五十年で約千人に上ることが、共同通信のまとめで分かった。このうち七割近くは入院したまま最期を迎えた。それ以前の統計や民間のデータはなく、戦争で心の傷が生涯残った人は千人をはるかに上回るとみられる。

  日本国籍を持つ旧軍人や旧軍属らが精神疾患を含めて戦争に関連するけがや病気と診断されると、戦傷病者特別援護法に基づき国が療養費用を負担する。この制度の対象者に関して国が毎年公表している統計資料などを基に集計した。
  同法が施行された一九六四年度以降、精神疾患の療養を受けている状態で亡くなった元軍人らは九百九十九人に上る。内訳は入院先で最期を迎えたケースが六百八十二人、通院中が三百十七人。病気や事故、自殺など、死亡原因に関する情報はない。一方、治癒した人は延べ百七十五人にとどまり、後に再発したケースが含まれている可能性もある。
  療養途中の人数を年度ごとに見ると、七四~八五年度は常に千人を超え、最多は七八年度の千百七人だった。今年三月時点では少なくとも九人が療養中とみられる。発症した状況は分からないが、陸軍病院の医療記録を分析している埼玉大の細渕富夫教授によると、戦闘への恐怖、軍隊生活で受けた制裁、加害行為への罪悪感などが精神疾患の要因になっている場合が多いという。
  民間人の精神疾患では、住民が地上戦に巻き込まれた沖縄県で、戦争による心的外傷後ストレス障害(PTSD)などと診断された人がいるが、実態が把握されているのはごく一部とみられる。

  <元軍人の精神疾患への対応> 日中戦争開始翌年の1938年、陸軍は「戦争神経症患者」の扱いに関する方針を定め、千葉県にあった国府台(こうのだい)陸軍病院を中心に対応することを決定。各地から精神疾患の将兵を同病院に送る態勢が終戦まで続いた。戦後も精神疾患を含む戦傷病者の療養に国費を充てる仕組みがつくられ、現在は戦傷病者特別援護法で規定している。戦争や、関連する公務が原因と診断された旧軍人や旧軍属などに限られ、朝鮮半島や台湾の出身者は対象外。療養は手術や投薬といった治療のほか、自宅や入院先での看護を含む。
     (東京新聞 2016年11月7日 朝刊記事抜粋)

 

この東京新聞記事には、「戦時神経症」による「療養」が過去の話ではなく現在にも続くものである事実に加え、「戦時神経症」の要因として「戦闘への恐怖」だけでなく、「軍隊生活で受けた制裁、加害行為への罪悪感などが精神疾患の要因になっている場合が多い」との細渕教授による談話が掲載されている点も見落とさないでおきたい。

 また、『小平市史』には、

 

  一九四〇年から四五年までの五年間に延べ九五三人が入所し、七一四名が退所したが、うち死亡による退所が三八〇名に及んだ。食料事情の悪化と燃料不足による寒さが、患者の死亡率を押し上げたのだった。
     同書(276~277ページ)

 

とあり、「戦時神経症」となった兵士の療養生活の悲惨な実態も記されている。

 

 

 

 

 銃後の軍事施設という共通点の中から、「先の大戦」が「近代総力戦」であったことの意味が見えてくるはずである。既に前線での戦闘部隊の勇猛さと、その背後の参謀本部の作戦立案能力だけが戦争の帰趨を決する時代ではなくなっていた。

 広域化・長期化する戦争の中で、正確な情報収集、確実かつ継続的な補給の重要性が高まり、より強力な兵器の開発能力が問われ、巨大組織と化した軍のマネジメント能力が問われ、各種軍需品の生産能力が問われるのが、「総力戦」時代の戦争の姿であった。その時代条件に対応する関連軍施設、教育訓練施設、研究施設が集中的に立地されたのが小平地域なのである。そして戦時神経症の多発もまた「総力戦」としての戦争がもたらす現実であり、軍自らの対処を迫られることになった。

 小平に立地された軍事関連施設群の特質を通して、日本の近代、総力戦時代としての近代の姿が見えてくるはずである。

 

 

 

    (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」に続く)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/08/30 19:47 → http://www.freeml.com/bl/316274/311076/

 

 

 

|

« 軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4) | トップページ | 軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6) »

多摩武蔵野軍産複合地帯」カテゴリの記事

20世紀、そして21世紀」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1135955/71568313

この記事へのトラックバック一覧です: 軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5):

« 軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4) | トップページ | 軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6) »