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2017年8月25日 (金)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)

 

 前回の記事「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)」では、用語として「多摩」と「武蔵野」をどのように使い分けるのか(使い分けられているのか)という問題を導入として、「現・小平市を中心とした地域の地形的特質」についての概略をも示した。

 その上で、「そのほぼ平坦な地形上(武蔵野台地の自然景観上)に、傷痍軍人武蔵療養所、陸軍技術研究所、陸軍経理学校・練兵場、陸軍兵器補給廠小平分廠といった軍事施設が次々に設立・配置されていった」事実―小平の軍事地域化の事実―を再確認したわけである。

 

 

 

 今回はあらためて、小平の軍事化が開始される直前の時期に書かれた、「武藏野小平村に於ける新田聚落の研究」と題された矢嶋仁吉論文(『地理学評論 11』 1939)により、小平の地勢的条件についての理解を更に深めておきたい。

 

 

 まず矢嶋氏はその「緒言」において、

 

  武藏野臺地の聚落に就いては、既に諸先學の多くの業績があるが、著者は既に屢々述べた如く、聚落立地と飲料水問題に着眼し、本地域に於ける新田聚落を以て聚落立地とその發展を考究する一つのインディケーターとし、本地域の地域性を闡明せんと試みたのである。地理的諸現象に就いては、1933年以来、屢次に亙つて行へる實測的野外調査を基とし、歴史的考察は、出来得る限り根本史料に據らん事を務め、舊家を歴訪して古記録を渉獵し、又地割その他聚落景觀に就いては、役場の土地臺帳及び地籍圖その他の資料等を照合して論述を進めた。
     (矢嶋仁吉 「武藏野小平村に於ける新田聚落の研究」 『地理学評論 11』 1939  13ページ)

     (以下、原文の旧字体表記の引用に際しては、「武藏野臺地の聚落」を「武蔵野台地の集落」とするように、原則として新字体表記としておく)

 

このように自身の問題意識と方法を述べた上で、「1 研究地域」として、

 

  研究地域は東京府北多摩郡小平村に属する諸新田である。小平村は、武蔵野台地の西部、狭山丘陵と、該台地の南縁を流れる多摩川とのほぼ中間に位置している。既報(先行する矢嶋論文がある―引用者)の砂川村と、東方の田無町との間に於て、青梅街道に沿って開墾発達した小川、小川新田及び野中新田(与衛門組及び善左衛門組)を中心とし、その北方の大沼田新田と南方の鈴木新田、回田(原文では「囘田」表記)新田等の諸新田を合併した村である。
     (同論文 13~14ページ)

 

このように説明している。

 更に論文執筆時(昭和十年代すなわち1930年代後半)の小平地域の状況にも言及し、

 

  最近、東京市の発達膨張に伴って、本地域附近にも漸次住宅地、工場地等が増加し、東京商科大学予科、津田英学塾等が設立され、その附近の住宅地化と共に同村の一部には、新しく碁盤目状の土地区画が行われ、陸測地形図にも明瞭に示されている。それ故、単に地形図のみによって推断すると、本地域の地割が極めて新しく見え、国立、井荻等のそれと同一視されるおそれがあるが、かかる土地区画は、全く同村の一部分に過ぎず、小平村の他の大部分の地割は、徳川時代の地割形態を存しているのである。即ち、小平村は、武蔵野台地に於ける新田集落の標式的な列状村の一例であって、特にその地割と集落景観に顕著なる特色を具現している。
  現在残る大部分の地割は、その開拓に当り、計画的に短冊形に施行されたものであって、最近行われた碁盤目状の土地区画とは判然と区別されねばならぬものである。
     (同論文 14~15ページ)

 

現・一橋大学と現・津田塾大学の小平進出と、箱根土地(のちの西武グループ)による住宅地開発について述べた上で、「かかる土地区画は、全く同村の一部分に過ぎず、小平村の他の大部分の地割は、徳川時代の地割形態を存している」こと、「現在残る大部分の地割は、その開拓に当り、計画的に短冊形に施行されたもの」であることに注意を喚起している。

 

 次の「2 開拓過程」では、明暦期(17世紀)の開拓地(小川村)と享保期(18世紀)の開拓地(小川新田、野中新田、鈴木新田、回田新田、大沼田新田)の開拓の経緯についてそれぞれ概観した上で、「3 飲料水問題」へと続く。

 前回の「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)」の中で、小平市内を「東西方向に(西側を上流として)」流れる「玉川上水」と呼ばれる「江戸期に開削された多摩川を水源とする水路(上水道)」について言及したが、まさに「玉川上水」の存在こそが、明暦・享保期の新田開発を可能にしたのである。

 矢嶋氏は、自身の研究の根底として、「聚落立地と飲料水問題に着眼し」たことを述べていたが、明暦以前の小平の地が未開拓・未開墾のままであった背景には「飲料水問題」があり、小平地域の「新田開発」を可能にしたのが「玉川上水」(そしてその「分水」)であった。玉川上水の通水が承応3(1654)年で、岸村(現・武蔵村山市)の小川九郎兵衛による新田開発の開始が明暦2(1656)年である(「新田」とは言うもののその実態は畑作であり、玉川上水からの分水の水はまず飲料水として必要とされたのであった)。その点について、「3 飲料水問題」での論を追ってみよう。

 

 

  本地域は、武蔵野台地の南半部の狭山丘陵と多摩川とのほぼ中間地域で海抜高度は90-70mで西部より東部に至るに従って緩傾斜を示している。地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10-15mの深さの地域に属している。即ち、該台地南半の中間地域たる小平村を中心として、その西部の砂川村、霞村新町及び多摩村五ノ神附近がこれと同じ階級に属し、東部に於ては小金井村梶野新田、関野新田及び小金井新田に至る地域であって、小平村はほぼその中間に位している。
  尚、地下水の水深(この場合の「水深」は地下水面深度と井底面深度の差を示す:引用者)は、大部分2.5-5mであり、特に本地域より東方、田無町附近に至る地域は地下水同水位曲線の緩慢なことは著しい現象である。
  かかる地域であるから、集落立地の根本要因たる飲料水の採取に困難を感じたことは、既報(矢嶋先行論文:引用者)の諸新田の場合と同様である。それ故、井戸掘削の技術の進んだ今日に於ても、同村一帯に井戸の数の少ない事は注目すべき事実である。
  井戸の掘削は山麓又は河川の沿岸地域の如く帯水層の比較的浅い所では、左程困難ではないが、大地の中央に近くて帯水層の深い本地域附近に於ては、一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する。
  又、井戸掘削の難易はただに帯水層の深度関係するのみならず、その場所の地質の関係する所が大である。例えば武蔵野台地の東部の如く、ローム層の比較的厚い地域では、その井戸の内壁も掘ったままで良いが、該台地の西部、又は秋留台地に於ける如くローム層が比較的薄く直ちに厚い礫層に及んでいる地域では、井戸内壁の崩壊を防ぐ為、玉石を以て畳むか、又は材木を以て組み上げなければならない。
  それ故その費用も極めて莫大である。かかる関係から帯水層の深い所では、特にその困難は著しいのである。それ故台地内部に於ては、何処でも戸別毎に井戸を所有するという訳には行かず、共同井戸を使用する所が多い。
     (同論文 17~19ページ)

 

 いささか長い引用となってしまったが、小平地域でも「井戸を掘れば水が出る」ことが間違いではないにしても容易な話ではなく、飲料水としての水を得ることさえが著しく困難であった実態(そしてその背景となる地勢的条件)が伝わってくるのではないだろうか。

 

 18ページの付表には、当時の「小平村の字別戸数と井戸数との関係」(1936年10月調査)と題されたデータも示されている。

 

  小川村 戸数:398 井戸数:45 平均一井使用戸数:8.8

  小川新田 戸数:151 井戸数:22 平均一井使用戸数:6.9

  大沼田新田 戸数:107 井戸数:11 平均一井使用戸数:9.7

  野中新田 戸数:214 井戸数:26 平均一井使用戸数:8.2

  鈴木新田 戸数:161 井戸数:25 平均一井使用戸数:6.4

  回田新田 戸数:37 井戸数:1 平均一井使用戸数:37.8

 

これに対し、

 

  狭山丘陵の麓に沿った地域と、加治丘陵の南麓地域では平均一井使用戸数は、1.0-1.5戸位が大部分を占めている。又、多摩川沿岸の地域に於ては、河岸段丘の上段と下段に於ては著しい差異を示している。下段の集落に於ては殆んど戸別に井戸を有しているに対し、上段の帯水層の深い地域に於ては、2.0-3.0もしくはそれ以上の平均一井使用戸数を示している。
      (同論文 19ページ)

 

ここに示された、他地域の「平均一井使用戸数」との隔絶に、小平地域の「飲料水問題」の切実さは明らかとなるであろう。

 再確認しておけば、これは1936(昭和11)年のデータであり、戦時期日本(1937年に盧溝橋事件による「事変」の開始)の小平地域のインフラ水準の基盤を示す数値とも言い得る。矢嶋論文では、「井戸掘削の技術の進歩した今日に於てさえかくの如き状態であるから、往時の状態は想像に余りあるものであろう」と評している(この「今日」という言葉を通して、1930年代の終わり―昭和十年代半ば―の日本の現実が語られているのである)。

 

 地下水利用の困難としての「井戸」の問題に続き、「次に飲料水問題に就て重要なのは用水路に就てである」として、人工流水路である玉川上水からの「分水」(=用水路)の経緯・概略が語られ、

 

  分水の開削前には、永く荒蕪の原野として放置されながら、分水の開削した享保以後急激にその開拓の進捗した理由もここに存する。又逆に、それ迄長く開拓の行われなかった理由の1つとして、本地域の飲料水採取の不便にあったという事が重要な一因であったと言い得るであろう。
  現在に於ても本地域の各集落に於てこれらの用水の水を飲料としている所が多いのは注意すべき点である。
     (同論文 21ページ)

 

このように話は結ばれる。「井戸掘削の技術の進歩した今日に於てさえかくの如き状態」であるばかりでなく「現在に於ても本地域の各集落に於てこれらの用水の水を飲料としている所が多い」というのが、戦時期日本の小平地域のインフラ水準の実情なのであった(井戸掘削が困難な土地であればこそ、玉川上水の開削と「分水」による「飲料水」の確保に頼っての「新田開発=開拓」の開始であったわけであるし、「現在に於ても本地域の各集落に於てこれらの用水の水を飲料としている」実情は、繰り返される伝染病蔓延にも結び付いていた―「井戸掘削」の困難が「用水」への依存を続けさせたが、「用水の水」は衛生上の問題も引き越し続けたのである)。

 

 

 続くのは「4 聚落景観」である。先に示した、「小平村の他の大部分の地割は、徳川時代の地割形態を存している」のであり、「小平村は、武蔵野台地に於ける新田集落の標式的な列状村の一例」なのであり「現在残る大部分の地割は、その開拓に当り、計画的に短冊形に施行されたもの」だという点に関し、具体的事例に基づく記述が続く。抜き書きしておくと、

 

  本地域の諸新田の地割は極めて規則的で特に小川に於て、間口がほぼ一定して区画されている。

  少なくとも小川、小川新田に於ける地割の規一性は、開拓当初における均田主義を物語るものではあるまいか。

  道路に接して宅地があり、背後に屋敷林があり、更に畑地となりその先端に雑木林の存する事
     (同論文 22ページ)

 

このような「景観」の中に、「東京商科大学予科、津田英学塾等が設立」され、箱根土地による住宅地開発(いわゆる「学園都市」建設)が始められ、1930年代の終わりと共に軍事施設の集中する地域として「発展」していくのである。

 「4 聚落景観」では、特に箱根土地による学園都市開発構想について以下のような指摘がされている。

 

  尚、本地域の南部の一部に、碁盤目状の地割を施した所がある。この地域は同村の一部に過ぎぬもので、前述の如く、商大予科の校舎設定後、土地会社の手によって、区画された地域である。その計画では、商科大学予科の校舎を中心とし、その周囲に住宅地、焦点地域を区画し、国分寺駅より主要道路を設け碁盤型の3間道路を縦横に通じて、田園都市化せんとしたところである。そのため、新田開発当初よりの短冊形の地割は一部崩壊し、従来の畑地に若干文化住宅の建設もあるが、未だ著しい発達を見ない。東京の都心地域より約1時間を以てして到達し得るところでありながら、その発達の見るべきもののない最大の制約は前述の飲料水採取の不便という事実である。かかる例は省線国立駅の南方、商科大学の校舎附近に於ても見るところであって、井然と区画された道路住宅予定地もほとんど省みられぬ有様である。本地域に居住地域を発展せしめんには、先ず第一にかかる不便の除去が必須条件であって、例えば、埼玉県の所沢駅附近に於ける如く、動力による簡易水道の如き施設をなすか、その他の方法によって上水施設の完成を図ることが必要であろう。
     (同論文 24ページ)

 

 

 「4 聚落景観」の最後では、あらためて以下の指摘をし、「飲料水問題」の重大性についての注意を再喚起している。

 

  最近、本地域方面に工場等の設立されるものも多いが、これを中心として建設されれるべき居住地域の発展には、上述の飲料水問題は往時の居住を制約せるのみならず、今後に於ても残された一つの課題であって、本地域附近の地域性を如実に具現しているものである。
     (同論文 25ページ)

 

 

 

 

 そのような制約ある地域が、戦時期に軍事地域化することになるわけである。

 実際問題として、戦時期に突入した後に小平地域に設立された軍事施設を景観的に特徴づけるものとして、敷地内の「給水塔」の存在を挙げられる。

 陸軍兵器補給廠や陸軍技術研究所の跡地の景観に関する話題の中で、敷地内の「給水塔」(利用するのは地下水―すなわち給水塔の下には深井戸が隠されている)について語られるのを耳にしたり、目にする機会は少なくない(小平地域に隣接した現・東大和市の日立航空機工場ににあった給水塔についても同様である―「学芸大 給水塔」や「日立航空機 給水塔」等で検索すれば、ネット上にある関連記事・画像がヒットする)。戦後には町営水道の重要な施設となった歴史を持つ給水塔もある(陸軍兵器補給廠の給水塔は小平町の水道供給施設となり、陸軍技術研究所の給水塔は小金井町の水道供給施設となった)。

 念のために申し添えておくが、行政によるインフラとしての給水システムとは別に、独立した軍事施設として自らの給水施設(給水塔)を用意するという話ではまったくなく、公的インフラとしての給水システムの存在しない土地に、陸軍は自らの給水塔を建設することで対処したという話なのである。

 

 

 

 

 「蛇口をひねれば水は出る」のはあまりに当たり前の話と思い込んでいるが、小平地域(東京都の一部であるのだが)で公的なインフラとしての「上水道」が普及するのは20世紀も後半の話なのである。

 「井戸」を掘るのは個人(あるいは集落)であり、「分水」を整備するのも各集落の人々であった。20世紀の前半まで、水道施設は公的に(行政により)整備された(整備されるべき)インフラではなかったのである。

 今回あらためて矢嶋論文を取り上げたわけだが、論文中で繰り返される「飲料水問題」への「注意喚起」に際しても、行政によるインフラ整備の課題として水道事業が語られるのではなく、開発事業主に対する注意喚起として語られている印象がある。

 

 実際、小平地域の軍事施設化の中心となった陸軍(ここでは陸軍が「開発事業主」と位置付けられる)は、それぞれの施設に自前で給水塔を設置したのであった(もっとも、市内のすべての軍事施設跡地について調べたわけではなく、今後の課題として残されている部分もあることはお断りしておくが―しかし、給水施設は自前で整備するしかなかったのもまた当時の歴史的事実なのである)。

 

 

 

    (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」に続く)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/08/25 20:35 → http://www.freeml.com/bl/316274/310940/

 

 

 

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