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2017年8月

2017年8月30日 (水)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、昭和10年代の多摩(武蔵野)地域が軍産複合地帯化していたことについて、既に4回にわたって記してきた。「多摩(武蔵野)地域」の全体を視野に入れつつ、特に(「武蔵野」の名を冠した)武蔵野美術大学の所在地でもある現・小平市に焦点を合わせることで、軍事施設の立地と地勢的条件の関係を、より具体的なものとして理解することに努めてもきた。

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)」では、星野朗氏の論考を下敷きにして、

  そこには中心となる武蔵野台地の平坦な地形(広大な工場用地、軍事施設への転用に有利)があり、鉄道輸送網として東西方向を結ぶ中央線と、それに並行する(現在の名称で言えば)京王、小田急、西武の各線があり、南北方向にも複数の路線があることに加え、旧来の街道が存在することで地域外及び地域内相互間の陸上輸送の便もよく、しかも「陸海軍の中枢管理機能の集中する東京霞ヶ関等」とのアクセスもよかった。

このような構図として問題を整理してみたが、小平地域について言えば、当時の小平村・小平町の南方(国分寺・小金井地域)を中央線が走り、地域内を南北方向(ここでは中央線にもアクセスしている)にも東西方向にも現・西武鉄道の各路線が結び、「旧来の街道」としては東西方向には青梅街道と五日市街道、南北方向は府中街道等が連絡することで地域間の相互交通・陸上輸送を可能にし、それらにより「陸海軍の中枢管理機能の集中する東京霞ヶ関等」とのアクセスも確保していたことになる。

 

 続く「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)」では、多摩武蔵野の「軍産複合」状況の中で、他地域との比較において、小平地域の特徴としての各種の軍事施設の集中を確認した(「産」ではなく「軍」の施設の集中的立地地域なのである)。

 

 そして「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)」ではあらためて、(多摩武蔵野地域全体という視野に小平地域の特性という視点を加え)地形を中心とした自然的条件と軍産施設の立地の関係を確認しておいた。

 小平地域の問題としては、「そのほぼ平坦な地形上(武蔵野台地の自然景観上)に、傷痍軍人武蔵療養所、陸軍技術研究所、陸軍経理学校・練兵場、陸軍兵器補給廠小平分廠といった軍事施設が次々に設立・配置されていった」事実が再確認されたことになる。

 

 前回に当る「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)」では、矢嶋仁吉氏の1939(昭和14)年の論文を読むことで、40年代に本格化する小平地域の軍事化の直前の小平の状況を、地理学者の眼を通して理解・把握することを試みた。

 小平地域の「地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10-15mの深さの地域に属している」のであり、「大地の中央に近くて帯水層の深い本地域附近に於ては、一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する」のであって、居住者にとって「飲料水問題」が切実であることを矢嶋氏は繰り返し指摘していた。

 前回記事の最後では、そのような地勢的条件を前に、「小平地域の軍事施設化の中心となった陸軍(ここでは陸軍が「開発事業主」と位置付けられる)は、それぞれの施設に自前で給水塔を設置」する形で対処したことを示しておいた。

 

 

 

 「一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する」小平の土地に自ら給水塔を用意し、地域の軍事化を可能にしたのは、「多大な費用」の支出を可能にする軍事予算の規模と、軍の保有する高度な「技術」的基盤であった。当時の地域行政を担った小平村にも小平町(小平での町制施行は昭和19年である)にも、そのどちらの備えもなかった(小平町が町営の水道事業を開始したのは「戦後」の昭和34年―1959年―になっての話である)。

 地域の基礎インフラとしての給水施設・上水道整備問題については後であらためて取り上げることとして、今回は小平地域の軍事施設の特質について整理しておきたい。

 

 

 

 昭和10年代を通じて、どのような軍事施設が小平地域内に設置されていったのかについて、今回は『小平市史』(2013)の記述により再確認することから始めてみたい(『小平市史』の参照は、星野氏の論考を補うことにもなるはずだ)。

 『小平市史』では、その第四章を「戦時開発と町制施行」とし、「第一節 戦時開発と変わる小平」の中の「1 軍事関連施設の進出」には、

 

  参謀本部北多摩通信所 昭和8(1933)年完成

  傷痍軍人武蔵療養所 昭和15(1940)年開所

  陸軍経理学校 昭和17(1942)年開校

  陸軍技術研究所 昭和17(1942)年移転

    第二技術研究所(観測・測量・指揮連絡用兵器など)と第五技術研究所(通信機材・整備機材・電波兵器)の敷地が小平

    第一(鉄砲・弾薬・馬具)、第三(爆破用火薬・工兵器材など)、第八技術研究所(兵器材料・化学工芸など)の敷地は小金井

《追記:2017/08/31》
    第1研究所/銃器、火砲、馬具、弾薬等に関係する部署
    第2研究所/測量器、照準器、眼鏡などに関係する部署
    第3研究所/渡河、鉄道、架橋、道路、爆破器材および一般工兵器材などに関わる部署
    第5研究所/電波、通信機材関係の部署
    第7研究所/物理的兵器関係の部署
    第8研究所/兵器の基礎研究に関する部署
     (板倉真也「市内の戦跡保存の取り組みに向けて」(2002/11/24)からの抜粋)

  陸軍多摩技術研究所 昭和18(1943)年新設

    第五、第七、第九技術研究所の電波兵器関連研究開発機能を統合

  多摩陸軍技術研究所電波兵器練習部(通称東部第九二部隊) 昭和19(1944)年編成

    東京産業大学(現・一橋大学)予科校舎に本部を設置、国立本校校舎も接収

    津田塾の校舎及び女子寮を接収し下士官の宿舎とする(1945年4月―5月には幹部候補生も産業大学予科校舎の兵舎の空襲火災による焼失により移転)

 

この6施設が記され、「2 軍需工業化と小平」では、

 

  陸軍兵器補給廠小平分廠 昭和17(1942)年開設

    板橋区十条にあった東京陸軍兵器補給廠の「分廠」

  東部国民勤労訓練所 昭和17(1942)年開設

    厚生省所管の軍需動員労務者訓練施設

 

この2施設が取り上げられている(『小平市史』では、「軍事関連施設」と「軍需工業化」に関わる施設に区別を設けて記載していることになる)。

 東部国民勤労訓練所は軍に所属する施設ではなく厚生省所管施設だが、総力戦体制の下では、確かに「軍需工業化」の関連施設として位置付けられ得るものではある。

 陸軍兵器補給廠小平分廠についても、「軍事関連施設」そのものであることも確かであるが、『小平市史』では「小平分廠は車両の修理工場を有しており、そこに多数の工員を要する軍需工場という側面をもっていた」点に着目し、「軍需工業化と小平」の文脈に位置付けて記載しているようである。

 

 

 「軍」は戦争の際に公務として武力を行使する組織である。戦争の際にクローズアップされるのは「前線」での相互の軍事力行使、すなわち「戦闘」であろう。「戦闘」を担うのは各地に配備された「師団」に属する将兵である。しかし小平地域に設置された軍事関連施設は「師団」に属するものではない。その意味で、前線とはワンクッション隔てられている施設群と言うことも出来る。

 とは言っても、戦争となり前線での戦闘が始まった際には、小平地域に設置された軍事関連施設の中では、「参謀本部北多摩通信所」が情報収集施設(陸軍の対外情報収集活動に用いられる「傍受用無線受信所」であった)として、戦闘行動に直接の関係を持つものとなり得る(もっとも、情報の軽視は、「先の大戦」を通しての日本陸軍の問題点であり続けた)。

 また、「陸軍兵器補給廠小平分廠」は、「小平分廠は全国の軍需工場でつくられた戦車や装甲車、軍用トラック、サイドカーなどの大型兵器を運び込んで保管し、ここから必要とする舞台に供給する施設である」と『小平市史』の中で位置付けられている通り、前線部隊の戦闘行動と切り離すことは出来ない、戦闘行動に直接の関係を持つ、軍の補給を担う施設である(補給―兵站―の軽視もまた、「先の大戦」を通しての日本陸軍の問題点であり続けたのであるが)。

 

 

 「陸軍経理学校」について『小平市史』は、

 

  陸軍経理学校とは、軍隊組織の財政管理・会計実務、軍施設の建設や維持、軍服や糧食などの調達、軍需工場の監督といった軍隊組織の管理運営全般と物資の補給実務を担当する学校で、創立は一八九〇(明治二三)年であった(麹町富士見町)。東京牛込区若松町の校舎(通称若松台)で長く教育にあたっていたが、満州事変の頃から校舎移転の議論が起こり、一九四〇年頃になって「教育の拡充」の必要性から小平村への移転が決定されたのであった。つまりこの移転は、総力戦の時代になって、軍隊組織の管理を担当する将校が質・量ともにそれまで以上に求められるようになったことを示す。
     (『小平市史』 227ページ)

 

このように解説している。戦争での戦闘行動を考える際に、前線の兵士と戦闘部隊指揮官の能力、司令部での参謀将校の作戦立案能力も確かに戦闘の帰趨を決定するものではあるが、国家による総力戦となった近代戦争において欠かすことの出来ないのが、有能な経理部将校の存在(申し添えておけば、皇軍の重要施設であった「慰安所」の設置もまた経理部将校の職務であった)なのである。戦争の勝利には、マネジメント能力が必須の時代となっていたのである。「教育の拡充」を目的とした小平への陸軍経理学校の移転は、その点について陸軍が無理解ではなかったことを示している(が、しかし、合理的で時には冷徹でもあるマネジメントではなく非合理的精神主義の熱狂と大言壮語が陸軍を支配し続けたのも事実である)。

 

 

 「先の大戦」(公式名称は「大東亜戦争」である)はまさに近代の戦争、「国家総力戦」の時代の戦争であった。前線と銃後の別が完全に消え去るというものでもないが、「銃後」(にいるはず)の国民も動員され、軍需生産を支えることになる。

 前線の兵士の勇猛さだけではなく、銃後の軍需生産能力が戦争の帰趨を左右する。「銃後」もやがては都市無差別爆撃の標的にされてしまう。それが総力戦の時代である。

 

  戦争の拡大・長期化のなかで、軍需工業をはじめとする重要産業に労働力を効率的に供給するため、政府は労働力動員政策を展開した。一九三九年の国民徴用令にもとづいて労働者を徴用するほか、女子や農業者、学校の新規卒業者を重要産業に誘導しようとした。さらに政府は一九四〇年一〇月、非軍需産業の中小商工業者を廃業させ、軍需産業への転職を促すことにした。そのため転職を斡旋する国民職業指導所を設けるとともに、転職者の職業訓練をおこなうために国民勤労訓練所がつくられることが決まった(一九四一年二月)。東部国民勤労訓練所はその最初のもので、その後奈良市、愛知県一ノ宮村、福岡県神湊村の三か所にも同様の訓練所がつくられた。
     (『小平市史』 284ページ)

 

「国民徴用令」は、国家総動員法に基づくもので、同法では、

 

  第四條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝國臣民ヲ徴用シテ總動員業務ニ從事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズ

  第三十六條 左ノ各號ノ一ニ該當スル者ハ一年以下ノ懲役又ハ千圓以下ノ罰金ニ處ス
   一 第四條ノ規定ニ依ル徴用ニ應ゼズ又ハ同條ノ規定ニ依ル業務ニ從事セザル者

 

このように規定され、「第四條ノ規定ニ依ル徴用ニ應ゼズ又ハ同條ノ規定ニ依ル業務ニ從事セザル者」は処罰の対象となっていた―つまり「徴用」は法による強制であった―のである(「国家総動員体制と都市無差別爆撃の論理」参照)。その徴用対象者の教育訓練施設が「東部国民勤労訓練所」なのであった。

 ちなみに東部国民勤労訓練所を所管する厚生省は、昭和13(1938)年に陸軍の主導により設立されている。

 

  厚生省の設立目的は、「国民の健康を増進し体力の向上を図り以て国民の精神力活動力を充実すると共に、各種の社会施設を拡充して国民生活の安定を図る」ことにあったが、国民の健康増進、体力向上や国民生活安定は戦争の遂行と密接に関係していた。厚生省設立に際しての総理大臣声明は、「事変中及び事変後に於ける銃後諸施設及復員計画に伴う諸施設の拡充徹底は国民保険及国民福祉の双方面に亘りて刻下喫緊の要務なり」と述べている。
     増山道康 「戦争計画による社会保障制度形成―人口政策確立要綱―」 (『岐阜経済大学論集 37巻第2号』 2004 抜刷2ページ)

  厚生省構想は、当初陸軍省より衛生省設置案として提起されたが、この案は枢密院審議までこぎつけるものの結局破棄される。結局1937年12月閣議決定された保健社会省設置要綱に基づき、翌年厚生省が設立された。この設置要綱では、設立目的が戦争計画の一環であることを明言している。
  「国民生活の健康を増進し体位の向上を図り以て国民精神力及活動力の源泉を維持培養し産業経済及非常時国防の根基を確立するは国家百年の大計にして特に国力の飛躍的増進を急務とする現下内外の情勢に鑑み喫緊の要務たり。然るにわが国に於いては……国民的活力を減殺し、産業経済及国防の根基を動揺せしむるに至るべく……この際特に一省を設けて急速且徹底的に国民の健康を増進し体位の向上を図るは刻下焦眉の急務となす」。
     同論文(同2~3ページ)

 

東部国民勤労訓練所が厚生省所管であることの意味も、より明らかとなるであろう。

 

 

 そして「総力戦」状況は、各国の「新兵器」の開発能力を問うものともなっていた。そのための施設が「陸軍技術研究所」であり「陸軍多摩技術研究所」であり、開発された電波兵器の操作訓練の場が「多摩陸軍技術研究所電波兵器練習部(通称東部第九二部隊)」であった。

 

  電波兵器とは、通信以外の用途に電波を利用した兵器で、陸軍では一九三八年頃からレーダー兵器(地上用の電波警戒機や航空機用の電波標定機など)の研究が開始され、一九四二年頃にはやっと実用段階に到達したが、すでに「電波戦」を戦っている欧米諸国には大きく遅れをとっていた。アメリカ軍の圧倒的な航空戦力との格差はすでに明らかで、それに対抗するために日本軍は、電波兵器の研究開発・実戦配備を急ピッチで進めていかねばならなかったのだ。同研究所では機上電波警戒機、機上電波標定機、電波妨害機、地形判別機、電波高度計、電波探索機が開発された。
     (『小平市史』 280ページ)

 

 この「電波兵器」はそれ自体の破壊力に意味がある種類の「新兵器」ではなかったが、「総力戦」時代の「新兵器」の多くは、より高速で、より強力なものとなり、その集中的使用がもたらす破壊力の大きさは兵士の肉体だけでなく精神をも粉砕するものとなっていった。

 

 

 すなわち第一次世界大戦時には「シェル・ショック」と呼ばれた戦争ストレス反応の多発である。戦時日本では「戦時神経症」(あるいは「戦争神経症」)と呼ばれたが、まさに「傷痍軍人武蔵療養所」こそは、強力な破壊力の集中的使用に特徴づけられる近代総力戦下の戦場で精神を粉砕された兵士、「戦時神経症」を発症した将兵のための施設であった。

 その開所は昭和15(1940)年である。つまり対米英戦争(いわゆる「太平洋戦争」である)以前の段階、中国大陸での軍事行動(いわゆる「支那事変」である)の段階で既に戦時神経症症状の多発があり、日本陸軍は対処を迫られていたのである。

 早くも昭和13(1938)年の段階(事変の2年目)で、国府台陸軍病院が戦争神経疾患対策のための特殊病院に指定されていたのが実情であった。

 

  1931年の満州事変から足掛け15年にわたる戦争でこれまでにない規模の人々が戦地へと動員される中で、心理的な原因で精神疾患になったと考えられた人々は当時「戦争神経症」「戦時神経症」と呼ばれ、軍部や国家の関心事となった。その中で、1938年、国府台陸軍病院が精神神経疾患となった軍人の専門治療機関となり、1940年に精神障がいを対象にした傷痍軍人武蔵療養所が設立された。
     中村江里 「往還する〈戦時〉と〈現在〉:日本帝國陸軍における「戦争神経症」」 (博士論文要約 2015)

 

  十五年戦争は、精神神経疾患兵士に対する国家的なケアがなされるようになった初めての戦争であった。一九三八年以降、国府台陸軍病院が精神神経疾患専門の治療機関として機能するようになり、一九四〇年に精神疾患を対象とした傷痍軍人療養所である武蔵療養所が設立されたことはその証左であろう。このような福祉領域への国家の介入は、近年明らかにされつつある総力戦と「福祉国家」ないし「社会国家」化という問題とも関連している。
     中村江里 「「白衣の勇士」か「疾患への逃避」か?―総力戦と精神疾患をめぐるポリティクス」 (東京歴史科学研究会第49回大会個別報告要旨 2015)

 

  戦争の影響で精神疾患になり、国の費用負担で療養を続けたまま亡くなった旧日本軍関係者らが、政府統計が残る過去約五十年で約千人に上ることが、共同通信のまとめで分かった。このうち七割近くは入院したまま最期を迎えた。それ以前の統計や民間のデータはなく、戦争で心の傷が生涯残った人は千人をはるかに上回るとみられる。

  日本国籍を持つ旧軍人や旧軍属らが精神疾患を含めて戦争に関連するけがや病気と診断されると、戦傷病者特別援護法に基づき国が療養費用を負担する。この制度の対象者に関して国が毎年公表している統計資料などを基に集計した。
  同法が施行された一九六四年度以降、精神疾患の療養を受けている状態で亡くなった元軍人らは九百九十九人に上る。内訳は入院先で最期を迎えたケースが六百八十二人、通院中が三百十七人。病気や事故、自殺など、死亡原因に関する情報はない。一方、治癒した人は延べ百七十五人にとどまり、後に再発したケースが含まれている可能性もある。
  療養途中の人数を年度ごとに見ると、七四~八五年度は常に千人を超え、最多は七八年度の千百七人だった。今年三月時点では少なくとも九人が療養中とみられる。発症した状況は分からないが、陸軍病院の医療記録を分析している埼玉大の細渕富夫教授によると、戦闘への恐怖、軍隊生活で受けた制裁、加害行為への罪悪感などが精神疾患の要因になっている場合が多いという。
  民間人の精神疾患では、住民が地上戦に巻き込まれた沖縄県で、戦争による心的外傷後ストレス障害(PTSD)などと診断された人がいるが、実態が把握されているのはごく一部とみられる。

  <元軍人の精神疾患への対応> 日中戦争開始翌年の1938年、陸軍は「戦争神経症患者」の扱いに関する方針を定め、千葉県にあった国府台(こうのだい)陸軍病院を中心に対応することを決定。各地から精神疾患の将兵を同病院に送る態勢が終戦まで続いた。戦後も精神疾患を含む戦傷病者の療養に国費を充てる仕組みがつくられ、現在は戦傷病者特別援護法で規定している。戦争や、関連する公務が原因と診断された旧軍人や旧軍属などに限られ、朝鮮半島や台湾の出身者は対象外。療養は手術や投薬といった治療のほか、自宅や入院先での看護を含む。
     (東京新聞 2016年11月7日 朝刊記事抜粋)

 

この東京新聞記事には、「戦時神経症」による「療養」が過去の話ではなく現在にも続くものである事実に加え、「戦時神経症」の要因として「戦闘への恐怖」だけでなく、「軍隊生活で受けた制裁、加害行為への罪悪感などが精神疾患の要因になっている場合が多い」との細渕教授による談話が掲載されている点も見落とさないでおきたい。

 また、『小平市史』には、

 

  一九四〇年から四五年までの五年間に延べ九五三人が入所し、七一四名が退所したが、うち死亡による退所が三八〇名に及んだ。食料事情の悪化と燃料不足による寒さが、患者の死亡率を押し上げたのだった。
     同書(276~277ページ)

 

とあり、「戦時神経症」となった兵士の療養生活の悲惨な実態も記されている。

 

 

 

 

 銃後の軍事施設という共通点の中から、「先の大戦」が「近代総力戦」であったことの意味が見えてくるはずである。既に前線での戦闘部隊の勇猛さと、その背後の参謀本部の作戦立案能力だけが戦争の帰趨を決する時代ではなくなっていた。

 広域化・長期化する戦争の中で、正確な情報収集、確実かつ継続的な補給の重要性が高まり、より強力な兵器の開発能力が問われ、巨大組織と化した軍のマネジメント能力が問われ、各種軍需品の生産能力が問われるのが、「総力戦」時代の戦争の姿であった。その時代条件に対応する関連軍施設、教育訓練施設、研究施設が集中的に立地されたのが小平地域なのである。そして戦時神経症の多発もまた「総力戦」としての戦争がもたらす現実であり、軍自らの対処を迫られることになった。

 小平に立地された軍事関連施設群の特質を通して、日本の近代、総力戦時代としての近代の姿が見えてくるはずである。

 

 

 

    (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」に続く)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/08/30 19:47 → http://www.freeml.com/bl/316274/311076/

 

 

 

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2017年8月25日 (金)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)

 

 前回の記事「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)」では、用語として「多摩」と「武蔵野」をどのように使い分けるのか(使い分けられているのか)という問題を導入として、「現・小平市を中心とした地域の地形的特質」についての概略をも示した。

 その上で、「そのほぼ平坦な地形上(武蔵野台地の自然景観上)に、傷痍軍人武蔵療養所、陸軍技術研究所、陸軍経理学校・練兵場、陸軍兵器補給廠小平分廠といった軍事施設が次々に設立・配置されていった」事実―小平の軍事地域化の事実―を再確認したわけである。

 

 

 

 今回はあらためて、小平の軍事化が開始される直前の時期に書かれた、「武藏野小平村に於ける新田聚落の研究」と題された矢嶋仁吉論文(『地理学評論 11』 1939)により、小平の地勢的条件についての理解を更に深めておきたい。

 

 

 まず矢嶋氏はその「緒言」において、

 

  武藏野臺地の聚落に就いては、既に諸先學の多くの業績があるが、著者は既に屢々述べた如く、聚落立地と飲料水問題に着眼し、本地域に於ける新田聚落を以て聚落立地とその發展を考究する一つのインディケーターとし、本地域の地域性を闡明せんと試みたのである。地理的諸現象に就いては、1933年以来、屢次に亙つて行へる實測的野外調査を基とし、歴史的考察は、出来得る限り根本史料に據らん事を務め、舊家を歴訪して古記録を渉獵し、又地割その他聚落景觀に就いては、役場の土地臺帳及び地籍圖その他の資料等を照合して論述を進めた。
     (矢嶋仁吉 「武藏野小平村に於ける新田聚落の研究」 『地理学評論 11』 1939  13ページ)

     (以下、原文の旧字体表記の引用に際しては、「武藏野臺地の聚落」を「武蔵野台地の集落」とするように、原則として新字体表記としておく)

 

このように自身の問題意識と方法を述べた上で、「1 研究地域」として、

 

  研究地域は東京府北多摩郡小平村に属する諸新田である。小平村は、武蔵野台地の西部、狭山丘陵と、該台地の南縁を流れる多摩川とのほぼ中間に位置している。既報(先行する矢嶋論文がある―引用者)の砂川村と、東方の田無町との間に於て、青梅街道に沿って開墾発達した小川、小川新田及び野中新田(与衛門組及び善左衛門組)を中心とし、その北方の大沼田新田と南方の鈴木新田、回田(原文では「囘田」表記)新田等の諸新田を合併した村である。
     (同論文 13~14ページ)

 

このように説明している。

 更に論文執筆時(昭和十年代すなわち1930年代後半)の小平地域の状況にも言及し、

 

  最近、東京市の発達膨張に伴って、本地域附近にも漸次住宅地、工場地等が増加し、東京商科大学予科、津田英学塾等が設立され、その附近の住宅地化と共に同村の一部には、新しく碁盤目状の土地区画が行われ、陸測地形図にも明瞭に示されている。それ故、単に地形図のみによって推断すると、本地域の地割が極めて新しく見え、国立、井荻等のそれと同一視されるおそれがあるが、かかる土地区画は、全く同村の一部分に過ぎず、小平村の他の大部分の地割は、徳川時代の地割形態を存しているのである。即ち、小平村は、武蔵野台地に於ける新田集落の標式的な列状村の一例であって、特にその地割と集落景観に顕著なる特色を具現している。
  現在残る大部分の地割は、その開拓に当り、計画的に短冊形に施行されたものであって、最近行われた碁盤目状の土地区画とは判然と区別されねばならぬものである。
     (同論文 14~15ページ)

 

現・一橋大学と現・津田塾大学の小平進出と、箱根土地(のちの西武グループ)による住宅地開発について述べた上で、「かかる土地区画は、全く同村の一部分に過ぎず、小平村の他の大部分の地割は、徳川時代の地割形態を存している」こと、「現在残る大部分の地割は、その開拓に当り、計画的に短冊形に施行されたもの」であることに注意を喚起している。

 

 次の「2 開拓過程」では、明暦期(17世紀)の開拓地(小川村)と享保期(18世紀)の開拓地(小川新田、野中新田、鈴木新田、回田新田、大沼田新田)の開拓の経緯についてそれぞれ概観した上で、「3 飲料水問題」へと続く。

 前回の「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)」の中で、小平市内を「東西方向に(西側を上流として)」流れる「玉川上水」と呼ばれる「江戸期に開削された多摩川を水源とする水路(上水道)」について言及したが、まさに「玉川上水」の存在こそが、明暦・享保期の新田開発を可能にしたのである。

 矢嶋氏は、自身の研究の根底として、「聚落立地と飲料水問題に着眼し」たことを述べていたが、明暦以前の小平の地が未開拓・未開墾のままであった背景には「飲料水問題」があり、小平地域の「新田開発」を可能にしたのが「玉川上水」(そしてその「分水」)であった。玉川上水の通水が承応3(1654)年で、岸村(現・武蔵村山市)の小川九郎兵衛による新田開発の開始が明暦2(1656)年である(「新田」とは言うもののその実態は畑作であり、玉川上水からの分水の水はまず飲料水として必要とされたのであった)。その点について、「3 飲料水問題」での論を追ってみよう。

 

 

  本地域は、武蔵野台地の南半部の狭山丘陵と多摩川とのほぼ中間地域で海抜高度は90-70mで西部より東部に至るに従って緩傾斜を示している。地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10-15mの深さの地域に属している。即ち、該台地南半の中間地域たる小平村を中心として、その西部の砂川村、霞村新町及び多摩村五ノ神附近がこれと同じ階級に属し、東部に於ては小金井村梶野新田、関野新田及び小金井新田に至る地域であって、小平村はほぼその中間に位している。
  尚、地下水の水深(この場合の「水深」は地下水面深度と井底面深度の差を示す:引用者)は、大部分2.5-5mであり、特に本地域より東方、田無町附近に至る地域は地下水同水位曲線の緩慢なことは著しい現象である。
  かかる地域であるから、集落立地の根本要因たる飲料水の採取に困難を感じたことは、既報(矢嶋先行論文:引用者)の諸新田の場合と同様である。それ故、井戸掘削の技術の進んだ今日に於ても、同村一帯に井戸の数の少ない事は注目すべき事実である。
  井戸の掘削は山麓又は河川の沿岸地域の如く帯水層の比較的浅い所では、左程困難ではないが、大地の中央に近くて帯水層の深い本地域附近に於ては、一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する。
  又、井戸掘削の難易はただに帯水層の深度関係するのみならず、その場所の地質の関係する所が大である。例えば武蔵野台地の東部の如く、ローム層の比較的厚い地域では、その井戸の内壁も掘ったままで良いが、該台地の西部、又は秋留台地に於ける如くローム層が比較的薄く直ちに厚い礫層に及んでいる地域では、井戸内壁の崩壊を防ぐ為、玉石を以て畳むか、又は材木を以て組み上げなければならない。
  それ故その費用も極めて莫大である。かかる関係から帯水層の深い所では、特にその困難は著しいのである。それ故台地内部に於ては、何処でも戸別毎に井戸を所有するという訳には行かず、共同井戸を使用する所が多い。
     (同論文 17~19ページ)

 

 いささか長い引用となってしまったが、小平地域でも「井戸を掘れば水が出る」ことが間違いではないにしても容易な話ではなく、飲料水としての水を得ることさえが著しく困難であった実態(そしてその背景となる地勢的条件)が伝わってくるのではないだろうか。

 

 18ページの付表には、当時の「小平村の字別戸数と井戸数との関係」(1936年10月調査)と題されたデータも示されている。

 

  小川村 戸数:398 井戸数:45 平均一井使用戸数:8.8

  小川新田 戸数:151 井戸数:22 平均一井使用戸数:6.9

  大沼田新田 戸数:107 井戸数:11 平均一井使用戸数:9.7

  野中新田 戸数:214 井戸数:26 平均一井使用戸数:8.2

  鈴木新田 戸数:161 井戸数:25 平均一井使用戸数:6.4

  回田新田 戸数:37 井戸数:1 平均一井使用戸数:37.8

 

これに対し、

 

  狭山丘陵の麓に沿った地域と、加治丘陵の南麓地域では平均一井使用戸数は、1.0-1.5戸位が大部分を占めている。又、多摩川沿岸の地域に於ては、河岸段丘の上段と下段に於ては著しい差異を示している。下段の集落に於ては殆んど戸別に井戸を有しているに対し、上段の帯水層の深い地域に於ては、2.0-3.0もしくはそれ以上の平均一井使用戸数を示している。
      (同論文 19ページ)

 

ここに示された、他地域の「平均一井使用戸数」との隔絶に、小平地域の「飲料水問題」の切実さは明らかとなるであろう。

 再確認しておけば、これは1936(昭和11)年のデータであり、戦時期日本(1937年に盧溝橋事件による「事変」の開始)の小平地域のインフラ水準の基盤を示す数値とも言い得る。矢嶋論文では、「井戸掘削の技術の進歩した今日に於てさえかくの如き状態であるから、往時の状態は想像に余りあるものであろう」と評している(この「今日」という言葉を通して、1930年代の終わり―昭和十年代半ば―の日本の現実が語られているのである)。

 

 地下水利用の困難としての「井戸」の問題に続き、「次に飲料水問題に就て重要なのは用水路に就てである」として、人工流水路である玉川上水からの「分水」(=用水路)の経緯・概略が語られ、

 

  分水の開削前には、永く荒蕪の原野として放置されながら、分水の開削した享保以後急激にその開拓の進捗した理由もここに存する。又逆に、それ迄長く開拓の行われなかった理由の1つとして、本地域の飲料水採取の不便にあったという事が重要な一因であったと言い得るであろう。
  現在に於ても本地域の各集落に於てこれらの用水の水を飲料としている所が多いのは注意すべき点である。
     (同論文 21ページ)

 

このように話は結ばれる。「井戸掘削の技術の進歩した今日に於てさえかくの如き状態」であるばかりでなく「現在に於ても本地域の各集落に於てこれらの用水の水を飲料としている所が多い」というのが、戦時期日本の小平地域のインフラ水準の実情なのであった(井戸掘削が困難な土地であればこそ、玉川上水の開削と「分水」による「飲料水」の確保に頼っての「新田開発=開拓」の開始であったわけであるし、「現在に於ても本地域の各集落に於てこれらの用水の水を飲料としている」実情は、繰り返される伝染病蔓延にも結び付いていた―「井戸掘削」の困難が「用水」への依存を続けさせたが、「用水の水」は衛生上の問題も引き越し続けたのである)。

 

 

 続くのは「4 聚落景観」である。先に示した、「小平村の他の大部分の地割は、徳川時代の地割形態を存している」のであり、「小平村は、武蔵野台地に於ける新田集落の標式的な列状村の一例」なのであり「現在残る大部分の地割は、その開拓に当り、計画的に短冊形に施行されたもの」だという点に関し、具体的事例に基づく記述が続く。抜き書きしておくと、

 

  本地域の諸新田の地割は極めて規則的で特に小川に於て、間口がほぼ一定して区画されている。

  少なくとも小川、小川新田に於ける地割の規一性は、開拓当初における均田主義を物語るものではあるまいか。

  道路に接して宅地があり、背後に屋敷林があり、更に畑地となりその先端に雑木林の存する事
     (同論文 22ページ)

 

このような「景観」の中に、「東京商科大学予科、津田英学塾等が設立」され、箱根土地による住宅地開発(いわゆる「学園都市」建設)が始められ、1930年代の終わりと共に軍事施設の集中する地域として「発展」していくのである。

 「4 聚落景観」では、特に箱根土地による学園都市開発構想について以下のような指摘がされている。

 

  尚、本地域の南部の一部に、碁盤目状の地割を施した所がある。この地域は同村の一部に過ぎぬもので、前述の如く、商大予科の校舎設定後、土地会社の手によって、区画された地域である。その計画では、商科大学予科の校舎を中心とし、その周囲に住宅地、焦点地域を区画し、国分寺駅より主要道路を設け碁盤型の3間道路を縦横に通じて、田園都市化せんとしたところである。そのため、新田開発当初よりの短冊形の地割は一部崩壊し、従来の畑地に若干文化住宅の建設もあるが、未だ著しい発達を見ない。東京の都心地域より約1時間を以てして到達し得るところでありながら、その発達の見るべきもののない最大の制約は前述の飲料水採取の不便という事実である。かかる例は省線国立駅の南方、商科大学の校舎附近に於ても見るところであって、井然と区画された道路住宅予定地もほとんど省みられぬ有様である。本地域に居住地域を発展せしめんには、先ず第一にかかる不便の除去が必須条件であって、例えば、埼玉県の所沢駅附近に於ける如く、動力による簡易水道の如き施設をなすか、その他の方法によって上水施設の完成を図ることが必要であろう。
     (同論文 24ページ)

 

 

 「4 聚落景観」の最後では、あらためて以下の指摘をし、「飲料水問題」の重大性についての注意を再喚起している。

 

  最近、本地域方面に工場等の設立されるものも多いが、これを中心として建設されれるべき居住地域の発展には、上述の飲料水問題は往時の居住を制約せるのみならず、今後に於ても残された一つの課題であって、本地域附近の地域性を如実に具現しているものである。
     (同論文 25ページ)

 

 

 

 

 そのような制約ある地域が、戦時期に軍事地域化することになるわけである。

 実際問題として、戦時期に突入した後に小平地域に設立された軍事施設を景観的に特徴づけるものとして、敷地内の「給水塔」の存在を挙げられる。

 陸軍兵器補給廠や陸軍技術研究所の跡地の景観に関する話題の中で、敷地内の「給水塔」(利用するのは地下水―すなわち給水塔の下には深井戸が隠されている)について語られるのを耳にしたり、目にする機会は少なくない(小平地域に隣接した現・東大和市の日立航空機工場ににあった給水塔についても同様である―「学芸大 給水塔」や「日立航空機 給水塔」等で検索すれば、ネット上にある関連記事・画像がヒットする)。戦後には町営水道の重要な施設となった歴史を持つ給水塔もある(陸軍兵器補給廠の給水塔は小平町の水道供給施設となり、陸軍技術研究所の給水塔は小金井町の水道供給施設となった)。

 念のために申し添えておくが、行政によるインフラとしての給水システムとは別に、独立した軍事施設として自らの給水施設(給水塔)を用意するという話ではまったくなく、公的インフラとしての給水システムの存在しない土地に、陸軍は自らの給水塔を建設することで対処したという話なのである。

 

 

 

 

 「蛇口をひねれば水は出る」のはあまりに当たり前の話と思い込んでいるが、小平地域(東京都の一部であるのだが)で公的なインフラとしての「上水道」が普及するのは20世紀も後半の話なのである。

 「井戸」を掘るのは個人(あるいは集落)であり、「分水」を整備するのも各集落の人々であった。20世紀の前半まで、水道施設は公的に(行政により)整備された(整備されるべき)インフラではなかったのである。

 今回あらためて矢嶋論文を取り上げたわけだが、論文中で繰り返される「飲料水問題」への「注意喚起」に際しても、行政によるインフラ整備の課題として水道事業が語られるのではなく、開発事業主に対する注意喚起として語られている印象がある。

 

 実際、小平地域の軍事施設化の中心となった陸軍(ここでは陸軍が「開発事業主」と位置付けられる)は、それぞれの施設に自前で給水塔を設置したのであった(もっとも、市内のすべての軍事施設跡地について調べたわけではなく、今後の課題として残されている部分もあることはお断りしておくが―しかし、給水施設は自前で整備するしかなかったのもまた当時の歴史的事実なのである)。

 

 

 

    (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」に続く)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/08/25 20:35 → http://www.freeml.com/bl/316274/310940/

 

 

 

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2017年8月12日 (土)

芦原義信のテニスコート

 

 

  ニューギニアで飛行場の建設をしたが、飛行機が一機も飛来しないうちに米軍の攻撃を受け、使い物にならなくなった。引き上げ間際、一度も使わないのは残念だということで軍医と二人でこの滑走路でテニスをした。
     (『芦原義信 建築アーカイブ展 ―モダニズムにかけた夢』 武蔵野美術大学 美術館・図書館 2017  154ページ)

 

 

 「芦原義信 建築アーカイブ展 ―モダニズムにかけた夢」の図録、「芦原義信略年譜」の1942年の項にあるエピソードである。もっとも、その出来事が同年の話なのかどうかは判然としないところが残るが、海軍の技術士官として飛行場の建設に関わり、「引き上げ間際、一度も使わないのは残念だということで軍医と二人でこの滑走路でテニスをした」顛末は印象深い。

 展示会場(展示会場となっている「美術館」自体が―増改築はされているが―そもそもは1967年に芦原義信により、展示室を含む「図書館棟」として設計されたものだ)にあった「略年譜」にもこの顛末は掲載されており、武蔵野美術大学のキャンパス計画の骨格の作成者であり、キャンパス内の代表的な建物群の設計者でもある芦原の戦時期のエピソードとして、建築作品の背後にある芦原の人物像を(私の中で)決定付けるものとなった。

 

 「略年譜」によれば、1918年生まれの芦原義信は、1940年4月に東京帝国大学工学部建築学科に入学、1942年9月に卒業し「海軍技術士官として入隊、各種建築(橋梁、飛行場等の計画・実施)を担当」となっている。

 東京帝大出身の若き技術士官と軍医の組合せによる「滑走路でテニス」には、両者の出身階層が反映されているようにも思われ、私の関心を引いたのである。

 

 「略年譜」の出生年の項には、

  医者の父、信之の五男。兄に舞台・音楽評論家の芦原英了、母方の叔父に画家の藤田嗣治がいる

このようにも記されており、芦原が(当時の用語で言えば)「有産階級」の出身者であることは明らかであろう。医科系大学出身者の任官する「軍医」もまた、軍隊内では士官待遇を受ける存在であり、東京帝大出身者芦原と同一階層に属する人物と推測され得る。当時の用語法では、「有産階級」(いわゆる「成金」は除いての話だが)には「知識階級」と呼ばれる場面もあり、そこには大学における高等教育を受ける「階層」であることが含意されている。その「技術士官」と「軍医」の組合せによる「テニス」なのである。義務教育だけの階層、すなわち庶民の多くには、「テニス」は無縁のスポーツであったはずである。

 

 芦原の「出身階層」をさらに際立たせるエピソードが、同展図録の「武蔵野美術大学赴任までのこと」と題された夫人の芦原初子氏へのインタビュー記事にある。

 

  主人と初めて出会ったのは軽井沢でした。ちょうど主人が東大に入った頃です。私の兄がずっと成城で、主人は高校だけ成城でしたので知ってはいたんですね。そして成城時代の兄の親しい友達が主人とも親しくて、軽井沢に来たときに主人を連れてうちに遊びにいらしたんです。二人で馬に乗ってね(笑)。それで一目合ったらもう、パッと両方で惚れちゃって。翌日から主人は友達そっちのけで毎日のようにやって来るんですよ。それで一緒にトランプなんかして、それが始まりですね。私がしばらく津田塾の寄宿舎にいたものですから、ラブレターがいっぱい来てましたよ。
     (同展図録 103ページ)

 

両者が軽井沢に別荘を持ち、避暑の地とするような階層に属していたことが、あらためて明らかになるはずだ。まさに「良家の子女」同士の出会いのエピソードである(現在の天皇夫妻の初めての出会いの場が、十数年後の軽井沢のテニスコートであった事実もが思い起こされる)。再確認しておくと、「主人と初めて出会ったのは軽井沢でした。ちょうど主人が東大に入った頃です」というエピソードは、1940(昭和15)年前後ということになり、1937(昭和12)年の盧溝橋事件以来(継続する「支那事変」下で)の「戦時期日本」での話なのである。

 

 

 ここで、この時期(すなわち「戦時日本」である)に、別荘地に無縁な階層の底辺が置かれていた「住まい」に関する状況を見ておこう。

 

  昭和13年当時の厚生省生活課技師の報告によると、「先般各地軍需工場地帯に於ける労務者の居住状況を視る機会を得て、痛感した事は、労務者殊に農村から見習工として集まって来た人々に住居の欠乏していることである。例えば、4畳半に4人、6畳に6人と云ふ過密状況が各所に見られ、或は15坪以上もある広い部屋を急設して、採光通風等考慮せず、唯寝る場所を与へて押入れもない室内に寝具、荷物を散乱させ、20~30名の新人工が合宿している。所謂万年床は随所にあり、殊に夜勤者が昼間強い日光を浴び乍ら寝苦しさうな様を見て、斯かる状態は長期戦のもとに何時迄も黙過出来ぬことと痛感した。徒に生理的欲求を斥けることなく、疲労恢復に適する最小限の住居と、体力を維持増進するに足る栄養の供給とは、殊に銃後の第一線を守る軍需工場労務者には、確固たる方針を以つて之が万全を期すべきである。
     大本圭野 「戦時住宅政策の展開過程(2)―日本的住宅政策の原型」 (『季刊・社会保障研究 Vol.19 No.4』 1984  433ページ)

 

別荘地での避暑(そしてテニス)とは無縁の、戦時期日本の軍需産業の「労務者」の姿が明らかになるだろう。すなわち、当時の用語法での「無産階級」の現実である。

 

 

 もちろん、軍需生産の拡大は至上命令であり、労務者の居住環境の改善の必要性も、当時の重要な政策課題として意識されていた。

 

  戦時下における「産業戦士」たる労務者に対する住宅の供給は、戦争目的完遂に直接寄与するもので、最大の課題であった。
  昭和14年度においては厚生省を中心として、企画院、大蔵、商工、農林、内務、陸・海軍等の関係省庁の協議のもとに労務者住宅供給3ヵ年計画(昭和14年8月2日)が樹立された。これは軍需ならびに生産力拡充3ヵ年計画(昭和14年1月17日)による労務動員に対応したもので昭和14年度より16年度に至る3ヵ年計画である。
     大本圭野前掲論文(434ページ)

 

こうして第一期(14年度)住宅計画がスタートするが、既に肝心の建築資材の入手難(実は建築用の木材の供給源もまた米国であった―いわゆる「米材」である―のだが、対米戦争以前のこの段階で既に「外貨不足」に直面しており、木材についても輸入制限が必要となった)に陥っており、計画の実現は最初から困難となっていた。

 その流れの中で、昭和14年2月23日には「従来、住宅諸政策は厚生省社会局生活課の中で取り扱われていたが、以上の必要から独立した住宅課を設置」するに至り、更に昭和16年5月1日には「住宅営団」が設立される。

 

  住宅営団が初年度の『昭和16年度事業計画』の冒頭で掲げた目標は「三万戸ノ建設完遂」であり、「陸海軍関係労務者住宅ノ需要ヲ相当充足スルト共ニ、主トシテ都市ニ於ケル軍需及生産力拡充事業関係労務者ニ対シ、保健的ナル小住宅ノ急速供給ヲ為シ以テ時局ノ緊急ナル要請ニ応ズル」ことを目指した。ただし、目標の「三万戸ノ建設」の「完遂」は、年度内に3万戸〔うち東京支所1万3000戸〕の住宅を「竣工」することではなく、年度内に3万戸の住宅建設に「着手」することを指している。
     小野浩 「戦時総動員体制下の住宅供給」 (『熊本大学産業経営研究 第36号』 2017  抜刷10~11ページ)

 

そして、

 

  1941年6月、東京支所は107戸の分譲住宅の申込受付を開始した。これは東京支所の記念すべき初の分譲住宅であったが、もとは同潤会が建設に着手した「職工向分譲住宅〔板橋第二住宅地〕である。つまり、住宅営団が同潤会の事業を継承したあとに竣工したものである。
     小野浩前掲論文(同11ページ)

 

つまり、首都圏では、住宅営団は同潤会の事業の継承者として業務を開始していることになる。

 

 

  同潤会は、大正13年(1924)5月23日に、関東大震災の罹災者のための住宅供給を目的として創設された日本で最初の本格的な公的住宅供給機関である。その後を住宅営団に引き継ぐ昭和16年(1941)までのおよそ18年間、普通住宅、アパートメント、分譲住宅の住宅供給及び住宅調査などの事業を行い、戦前期の住宅供給に大きな役割を果たした。
     内田青蔵・安野彰・窪田美穂子 「同潤会の木造分譲住宅事業に関する基礎的研究―遺構調査を中心に―」 (住総研 『研究年報 No.30』 2003  113ページ)

 

  同潤会の活動は大きく三期に分けることができる。すなわち、第1期(大正13年~昭和4年)は、関東大震災罹災者のために小住宅(仮住宅)を供給し、次に人々を収容・教育することを第1の目的として、また普通住宅、アパートメントハウスの建設を行った。第2期(昭和5年~昭和13年)は、勤人向分譲住宅の建設事業を中心とする一方、アパートメント居住者の調査など、実施した建築の試みの検証を行った。昭和16年の住宅営団への発展的解散までの第3期(昭和14年~昭和16年)は、日中戦争に始まる戦争体制(軍事工場の設立、工場の生産拡張)による労働者の住宅不足に対応した質より量の確保を重視した受託事業を中心に行った。
  この第2期の主な事業であった木造独立分譲住宅事業は、昭和3年~13年までの間に「勤人」を対象として建設・分譲された勤人向分譲住宅と、昭和9年~16年までの間に「職工」を対象として建設・分譲された職工向分譲住宅とに大別される。勤人向木造分譲住宅は、東京17ヶ所、神奈川3ヶ所の計20ヶ所に、合計524戸の住宅が建設された。
     同論文(114ページ)

 

ここで「勤人」として想定されているのは「ホワイトカラー」のサラリーマンで、「職工」は「ブルーカラー」の労働者と考えてよいであろう。

 

 

 さて、テニスコートである。

 

 大月敏雄氏の「まちなみ図譜・文献逍遥 其ノ十五」(『家とまちなみ 65』 2012)では、『建築寫眞類聚 木造小住宅』(洪洋社 昭和3年)により、同潤会の「普通住宅」の実際の町並みや間取りが当時の写真と図面の組合せにより紹介されている。

 特にこの中にある「表1 同潤会木造普通住宅一覧」が、まず私の興味を引いたのであった。

 そこには、『同潤会十年史』を出典として、赤羽、十條、西荻窪、荏原、大井、砂町、松江、尾久、新山下町、瀧頭、大岡、井土ヶ谷の12か所の住宅名が記載され、各住宅の付帯施設の概要も記されている。同潤会初期の「普通住宅街」には、「付帯施設」にテニスコートを含むものが、赤羽、十條、西荻窪、松江、大岡の五か所を占める事実に(少なくとも私は)驚かされた。

 

 第2期の「勤人向住宅」は、明らかにホワイトカラー・サラリーマン階層を意識した一戸建ての住宅であり、住宅街の付帯施設としてテニスコートが組み込まれていても、それほどの意外性は感じられないであろうが、二階建木造長屋形式が基本の「普通住宅」では、まだ災害からの復興住宅としての位置付けがまさり、居住者としてのホワイトカラー・サラリーマン階層が意識されての公的住宅供給政策段階には至っていないように思える。

 実際、ターゲットとした階層の反応について、「ところで、この普通住宅事業の失敗は、見方を変えれば、低所得者の間に交通費を払いながら郊外に居を構えて通勤するという方法が、まだ受け入れられていなかったことを意味するといえる」との評価(内田青蔵 『同潤会に学べ、住まいの思想とそのデザイン』 王国社 2004 ―ただし中川寛子「同潤会による品川区中延二丁目の木造長屋群がいよいよ建替えへ」からの孫引き)が示されているが、そこには普通住宅事業のターゲットが「低所得者」であったことも明記されている。

 

 「普通住宅」の付帯施設としては、「娯楽室」が最も多く(11例)、次いで「児童遊園」(9例)、他には「医院(診療所)」や「食堂」等があるが、私が注目するのは2例の「託児所」の存在である。現在であれば「保育園」だが、当時の「託児所」は、むしろ低所得者・貧困層向けの施設として位置付けられていたのであり、すなわち確かに「普通住宅」の居住者として低所得者・貧困層が想定されていたことを意味する。

 付帯施設としてのテニスコートに反映されているのは、居住者として想定される階層への配慮というよりは、設計者の階層にとってのスタンダードではなかっただろうか? テニスコートが5例あるのに対し託児所が2例にとどまるのは、低所得者・貧困層にとっての託児所の必要性・切実感が、帝大卒の設計者の間では共有されていなかった故の話とも思われる。

 

 

  当時、東京帝国大学教授であった内田祥三は、同潤会が設立されるにおよび、その理事として同潤会に関わるようになった。そしてすぐさま、弟子であった川元良一を三菱地所から引き抜き、同潤会建設部長の椅子に座らせ、幾人かの東大建築学科を出たての若者を同潤会に送り込んだ。
     大月敏雄前掲記事(66ページ)

 

 この内田祥三について「芦原義信略年譜」には、芦原義信の入学当時の東大建築学科教授陣のひとりとして名が記されている。

 

 同潤会初期の「普通住宅」の付帯施設にテニスコートを組み込んだ設計者と、戦時下のニューギニアで放棄することになった飛行場の滑走路でテニスをした芦原義信は、同じ東大建築学科に所属した同一階層出身者であったことが理解されるであろう。

 もちろん、有産階級出身者でなくとも学歴による階層の上昇が可能であった時代の話である。旧制高校から帝大のコースへの参入は元々の出身階層からの離脱・上昇をもたらすが、そこでは上位階層の価値観・生活様式の内面化も果たされ、テニスコートのある生活様式も内面化されるわけである。

 先の託児所の話にからめて言えば、別荘を持つような有産階級の幼子が通うとすればそれは「託児所」ではなく「幼稚園」であった。

 無産者ではないにしても別荘は持たない家に生まれ、それでも旧制高校から大学へ進み、(官吏であれ会社員であれ)ホワイトカラー・サラリーマンとなり得た人々の結婚後の住まいとして想定されていたのが、まさに同潤会の「勤人向住宅」であったと言えよう。子どもが生まれれば幼稚園に通わせるのが、「勤人向住宅」の住人となった人々のモデルとなる生活様式であり、まさに『コドモアサヒ』の誌面に描かれた生活様式である。そこに示された生活水準を到達すべきモデルとすることから始まり、子どもを介した読者として生活様式を内面化し、昇進と収入の増加が『コドモアサヒ』の世界を現実化する。そんな勤人向住宅の居住者たちこそ、理想的な(あるいは典型的な)『コドモアサヒ』の購読者層であったかも知れない(「「コドモアサヒの時代」展を観る」を参照―昭和16年の連載記事の一つが、木村きよしによる「幼稚園メグリ」シリーズであった)。

 

 芦原は1972年に「KPIタウン造成」(企業社宅としての集合住宅群である)に関わっているが、起伏のある広大な敷地に設計・建築された住宅群の付帯施設としてサッカー場、バスケットコートと共にテニスコートを用意している。ここでの芦原は、テニスコートのある生活を既に内面化した1970年代のサラリーマン家族のために、テニスコートのある企業社宅街を設計したことになる(ちなみに、高低差のある敷地に建設された地上4階の家族向け住宅群には、武蔵野美術大学7号館と同様の設計上の仕掛けが施されている点も興味深かった)。

 

 

 

 さて、芦原義信は「ニューギニアで飛行場の建設をしたが、飛行機が一機も飛来しないうちに米軍の攻撃を受け、使い物にならなくなった。引き上げ間際、一度も使わないのは残念だということで軍医と二人でこの滑走路でテニスをした」わけだが、芦原と軍医は自ら建設した飛行場をテニスコートに転用したことになる。設計者の意図を超えた建築設備の転用は珍しいことではないだろうが、ここでの芦原の行為もその事例に加えられ得るであろう。一方で、芦原の先輩格となる同潤会普通住宅の設計者がプランに組み込んだテニスコートも、戦争の苛烈化に伴い食糧増産のために農地に転用された可能性は大きい。滑走路がテニスコートとなり、テニスコートが農園となる。これもまた戦時期の日本の経験であった。

 

 最後に再び「略年譜」に戻ろう。

 1945年9月、27歳の芦原義信は「海軍技術大尉から復員」する。多くの戦死・戦病死者(その大半が餓死である)を出したニューギニアに一度は配属されながらも内地へ転属となり、最終的に「復員」を果たし得たことは実に幸運なことであった―芦原も自身の幸運について深い思いを抱いたであろう。復員した芦原の前にあったのは戦災により「焼け野原」となった東京であった。「戦時期日本」は「敗戦」(当時は「終戦」と呼ばれたが)により「戦後」の時間を迎える。

 大震災により「焼け野原」となった東京の「復興」を記念して「帝都復興記念式典」が開催されたのが1930(昭和5)年、「復興記念館」が建てられたのが1931(昭和6)年のことであり、まさに同潤会が「復興」に重点を置いた罹災者向けの「普通住宅」から、ホワイトカラー・サラリーマンをターゲットとした「勤人向住宅」建設へとシフトした時期に重なる。同潤会の住宅の多くは(当時の)郊外に建設されたために戦災を免れたが、都心は都市無差別爆撃によって(再び)「焼け野原」となっていたのである。すなわち、「戦後」の東京は再び「復興」されるべき都市となっていたのである。

 1946年2月、芦原は「東京都復興計画懸賞設計に佳作入選」を果たす。「略年譜」には、「新宿をテーマに設計した。この入選が建築家に戻る契機となった」とある。この「東京都復興計画」が、「滑走路でテニスをした」海軍技術士官であった芦原義信の建築家としての「戦後」のスタートであった。

 あらためて振り返れば、1972年の「KPIタウン造成」に組み込まれたテニスコートは、「戦後」の時間の経過、「復興期」としての「戦後」が既に過去のものとなったことを象徴的に示すもののようにも見える。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/08/12 19:52 → http://www.freeml.com/bl/316274/310306/

 

 

 

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