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2017年7月

2017年7月 4日 (火)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)

 

 前回記事(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)」)の書き出しは「昭和10年代の多摩(武蔵野)地域が軍産複合地帯化していたことについて」であったが、「多摩」と「武蔵野」をどのように使い分けるのかについて(どのように使い分けられているのかについて)、あらためてここで記しておきたい。

 

 「多摩」と「武蔵野」を政治的な視点(特に行政区分の視点)、すなわち人間にとっての「歴史」の問題として捉えようとする際にも、「人間にとっての歴史」のいわば基底となる自然史の問題、具体的には地形的特質の問題(自然景観の形成の視点)として考えようとするに際しても、「多摩」と「武蔵野」は用語として異なった様相を示すこと(時には包含関係が反転する)に、まず注意が必要である。

 歴史的には(行政区分上の問題としては)、古代においては「多摩郡」は「武蔵の国」の一部であった。すなわち「多摩」は「武蔵」に包含される地域名称であった。

 近代における行政上の名称としては、北多摩郡と南多摩郡と西多摩郡(合わせて「三多摩」とも呼ばれる)によって構成される「多摩」地域は、東京府下であった時代から東京都下となった時代(昭和18年より)を通して存在する。一方で「武蔵」の語を冠した「武蔵野」は広域名称としてではなく、「北多摩郡」内の「武蔵野町」(現・武蔵野市)を表すものとして用いられるものであったし、「武蔵小金井」駅(交通行政に関わる名称)は同じ「北多摩郡」内の「小金井町」(現・小金井市)にある駅名であった。すなわち、「武蔵」を冠する行政上の地域名称は、より広域の「多摩」に包含されているのである。

 

 一方で、自然史の視点から(地形的特質から)東京府下及び東京都下の「多摩」地域を語る際の用語法について言えば、「多摩」地域の中心に位置するのは「多摩川」の北にひろがる広大な「武蔵野台地」(「多摩川」が青梅を扇頂とする扇状地を形成することで成立―北端となるのは埼玉県の川越―それほどに「広大」な地域)であり、その南に流れる「多摩川」の南岸の丘陵地帯が「多摩丘陵」と呼ばれている。どちらも、行政区分としての東京府、東京都の境界を越えて(武蔵野台地は埼玉県域に続き、多摩丘陵は神奈川県域に続く―行政上の名称としては神奈川県の川崎市には「多摩区」があり、埼玉県には「武蔵浦和」の駅名もある)更に広がる自然景観として位置付けられている。ちなみに気象庁が発表する気象警報・注意報発令に際しては、「東京地方」は23区東部、23区西部、多摩北部、多摩西部、多摩南部に分割され、多摩北部はかつての北多摩郡、多摩西部は西多摩郡、多摩南部はかつての南多摩郡に相当するものとなっているが、単にかつての行政区分を引き継いだからなのか、実際の自然条件の違いによるものなのか、興味をそそられるところではある。

 

 ここであらためて、この自然地形と星野朗氏の論考に示された、「4つの地域」の関係を整理してみよう。再び星野論文から引用すれば、

 

  ① 武蔵野・三鷹・田無・保谷を中心に、中島飛行機株式会社を核に、航空機用発動機を組立生産した地域、また横河電機や日本無線など電気や通信機器の組立生産を主とした地域で、部品・下請企業は近隣地域から大森・蒲田・品川など遠く京浜地域にひろがる。
  ② 小平・国分寺・小金井・調布・狛江にわたる地域で、①の地域の南と西に隣接する地域。①あるいは他と重なりあうが、東京重機工業や中央工業南部銃製作所など造兵廠と結ぶほか、多くの民間企業が多様な兵器を生産した地域。軍事施設も多い地域。
  ③ 立川・大和・昭和・拝島を中心に、立川の陸軍飛行場と航空廠を中心に、陸軍用航空機組立の立川飛行機株式会社と発動機生産の日立航空機株式会社を中心とする地域と、海軍機用航空機組立の昭和飛行機株式会社との二つの航空機生産地域がある地域。
  ④ 府中・日野・町田・稲城など多摩川に沿い、また多摩丘陵にかかる地域で、軍用車輛・戦車・砲弾や火薬などが目立つ製品となり、日本製鋼・東京芝浦電機・日野自動車など民間企業が板橋や相模など陸軍造兵廠とかかわりをもち生産を続けた地域。
     星野朗 「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学』 第105号 1998 122~124ページ

 

このように概説されていたわけだが、①の武蔵野・三鷹・田無・保谷、②の小平・国分寺・小金井・調布・狛江、③の立川・大和・昭和・拝島、これらはすべて多摩川流域の北側に形成された武蔵野台地上にある行政地域の名称であり、④の府中・日野・町田・稲城の中でも日野・町田・稲城のみが多摩川の南側の丘陵部(多摩丘陵)を含む行政地域である。行政区分上は、①~③と④の中の府中は北多摩郡に属し、日野・町田・稲城は南多摩郡に属する地域となっている。

 

 あらためて、平坦な台地上の北多摩地域と多摩川南岸丘陵部にある南多摩地域に、それぞれの地形を活かす形で(それぞれの自然的景観の上に)、多摩軍産複合地帯が昭和10年代を通して形成されていったことが理解されるだろう。

 

 

 

 ここからは、②の中でも現・小平市を中心とした地域の地形的特質について、武蔵野台地上の自然景観の実際の姿を示す事例として、より詳細な検討を加えてみたい(註:1)。

 

 小平市の名称である「小平」は、その母体となった開発新田である「小川村」の「小」と、周辺地域の地形的平坦さを表す「平」の組合せによるものだとされている。

 小平市内には、東西方向に(西側を上流として)「玉川上水」と呼ばれる江戸期に開削された多摩川を水源とする水路(上水道)が流れている。この人工水路の小平市付近での西端と東端の高低差はおよそ20メートルを超えるが(西端の小平市中島町付近で標高約98メートル、東端の小平市御幸町付近で標高約72メートル―ただし電子国土Webを用いての付近地表面のおおよその数値なので誤差含みの話)、その間の距離は約8キロメートルなので1000メートルあたりの標高差が約3メートルとなる。ちなみに、取り入れ口の羽村から終点の四谷までの距離が43キロメートルで標高差が約100メートルとされているから、先の数値がどこまで正確なのかは確言出来ないが、少なくとも小平地域の地形の平坦さについては把握し得るものと思う(小平市内の南北方向の標高差についても同様で、高低差は微小である)。そもそも市内に(丘や山のような)高地は存在しない―この近辺で土地の人から「山」と呼ばれたのは「高地」ではなく、「武蔵野」を象徴する「雑木林」のことであった―が、古い水源の痕跡は存在し、周囲より土地が少し低いことでかつての流路も想定可能である(平坦な台地の地形の中に、より高い土地―「小高い」という語が相当する土地―はないが、より低く位置する土地がないわけではない)。

 

 そのほぼ平坦な地形上(武蔵野台地の自然景観上)に、傷痍軍人武蔵療養所、陸軍技術研究所、陸軍経理学校・練兵場、陸軍兵器補給廠小平分廠といった軍事施設が次々に設立・配置されていったわけである。

 

 

 

 最後に「武蔵野」と「多摩」の名称関連の話題を付け加えておくと、武蔵野美術大学は武蔵野市(吉祥寺)が発祥の地であり、多摩美術大学が開校したのは世田谷区上野毛で、どちらも武蔵野台地上の立地であった。

 現在の武蔵野美術大学のキャンパスは、同じ武蔵野台地上の小平市内にあるが、平坦に見える地形の中にも―健常者にはあまり意識されることもないであろうが車椅子の移動では障害として意識されるであろう―高低差があり、そこにかつての水源の存在を想像させられる。

 多摩美術大学は八王子市内にもキャンパスを開設したが、こちらは視覚的にも明らかな高低差の中に建物群が展開され、そこが多摩丘陵地域内の土地であることを(そしてかつての南多摩郡内にいることを)実感させられるはずである。

 

 ちなみに、武蔵野音楽大学は存在するが、多摩音楽大学は存在しない。

 

 

 

【註:1】
 「武蔵野台地」について、基本知識を得ると同時に視覚的にイメージする上で役立つのが「武蔵野台地と野川公園」にある概説と画像である。ぜひ参考にしていただきたい。
 → http://www.geocities.jp/yamanekoforest/noyamaaruki/musasinodaiti.html

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/07/04 19:49 → http://www.freeml.com/bl/316274/307967/

 

 

 

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