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2017年6月28日 (水)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)

 

 B-29による日本本土空襲について語られる際に、まずイメージされるのは昭和20(1945)年3月10日の「東京大空襲」とそれに続く名古屋(3月12日)、大阪(3月13日)、神戸(3月17日)等の都市(人口密集地)への焼夷弾を用いた無差別爆撃ではないかと思う。

 しかし、時系列で見れば、米軍にとっての日本本土の爆撃目標が当初から都市(人口密集地)であったわけではないし、焼夷弾を用いたものでもなかった。

 

 

 B-29による東京への空襲は、昭和19年11月24日から始まる(出撃機数111機)が、その際の爆撃目標(第一目標)は東京郊外・武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所の工場群であった(すなわち、第一に爆撃の標的とされたのは日本の航空機生産能力であった―名古屋でも、航空機用エンジン生産拠点の一つであった三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場が初期の空襲の目標となっている)。同工場を目標とした作戦は、11月27日(81機)、12月3日(86機)、12月27日(72機)、翌昭和20年1月9日(72機)、1月27日(76機)、2月19日(150機)、3月4日(192機)、4月2日(122機)、4月7日(107機)、4月12日(114機)と繰り返され(註:1)、最終的に壊滅する。もっとも、工場上空の天候(厚い雲)に阻まれ(註:2)、結果的に第二目標として設定されていた東京の都市部への投弾となっているケースも多い(註:3)(本土空襲=都市爆撃というイメージはここからも生まれるだろう)。

 ターボチャージャー付きエンジンを搭載し、与圧キャビンを備えたB-29の高高度性能に加え、ノルデン照準器による高高度からの精密爆撃能力からすれば、中島飛行機武蔵工場への精密爆撃の実行は現実的であるはずだったが、高高度でのジェット気流と悪天候はノルデン照準器の能力を無効化(高高度を飛行する機体と目標である地上の間にひろがる雲は、高性能であるはずの照準器による地上視認を不可能にする)し、期待したほどの戦果に結びつかなかったのである。作戦の中心は、軍事目標に対する高高度からの通常爆弾による昼間精密爆撃(「軍事目標主義」と呼ばれる)から、大量の焼夷弾を用いた低空からの夜間都市無差別爆撃へと移行し、多数の市民(非戦闘員)が爆撃の犠牲となるに至った(戦闘地域からは後方であるはずの都市住民に対する無差別爆撃は、理論的には「人命節約効果」が期待されるものとして正当化されてもいた―「無差別爆撃の論理 1」、「無差別爆撃の論理 2」参照)。

 

 

 東京の郊外に当る多摩(武蔵野)地域は、特に昭和10年代以降、多くの軍需工場、陸軍飛行場や補給廠といった軍事施設、軍関連の研究所の集中する、いわば軍産複合地域となっており、中島飛行機武蔵工場への爆撃もその状況を反映したものと言えるだろう(註:4)。

 多摩地域に対する空襲についても、その背景となった軍産複合地域化にしても、専門的な研究者にとっては周知の歴史的・地誌的事実なのかも知れないが、私自身も含め、現在の多摩地域の住民には知られることもなく、そもそもあまり意識されることもない話題のように感じられる。

 

 

  この多摩地域の工業化について、各市・町の市史・町史・市誌をみると、各市・町ともほとんど共通して、工業化は昭和時代・昭和10年代など昭和に入っていからの区部の方から進出してくる軍需工場によってであり、それはまた農村を急速に近代化させたと記している。たとえば国分寺市史では、「昭和の初めから多摩地方は突然に工業化をした。それもかつての紡織産業ではなくて機械器具工業を中心とした軍事産業主導の重工業化をした……北多摩一世紀の歴史のなかで、戦前、重工業化による地域社会の変貌という、郊外化とは異なった局面のあったこと」と記している。
  これらによれば、この地域が激変するのは昭和初期に当る1930年代であり、東京地域の工業の中心地域である京浜地域の特に城南の低地帯から、工場規模の拡大のために地価の安い広い土地を求めて、また農村の潜在労働力を求めて移動してきた機械工業を中心とする近代工業によってであった。しかもその機械工業の内容は、1930(昭和5)年から続く15年戦争といわれる軍備拡張の時代を反映した軍需工場であった。この軍需品の製造は機械工業として組立工業であり、そのため主力工場とともに多数の関連する下請工業をともない、従業員をひきつれて多摩地区に移動してきた。
     星野朗 「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学』 第105号 1998 120ページ)

 

 この星野氏の論文では、続いてこれらの工場の立地条件として、

 

  多摩地域の工業化について、先行研究の一つ、石井雄三郎は、三多摩における近代工業の起因は、中央線による交通指向であり、駅を中心に徒歩15分以内に飛行機製作所などの設立があり、昭和10年代以後は各街道沿いと中央線の支線にそって、京浜からの群立となったとし、これを列状展開と表現している。また奥田義雄は、京浜工業地帯の外延的拡大は、臨海部沿岸線および内陸部主要交通線に沿って放射状に展開され、交通条件に強く制約されている。その他用地取得条件の難易も作用したとある。このほか周辺地域への工業移動は環状に拡大とみたり、内部の業種構成の変化から波動的とみる観点もある。

 

これらの考察を紹介(同ページ)しているが、そこには中心となる武蔵野台地の平坦な地形(広大な工場用地、軍事施設への転用に有利)があり、鉄道輸送網として東西方向を結ぶ中央線と、それに並行する(現在の名称で言えば)京王、小田急、西武の各線があり、南北方向にも複数の路線があることに加え、旧来の街道が存在することで地域外及び地域内相互間の陸上輸送の便もよく、しかも「陸海軍の中枢管理機能の集中する東京霞ヶ関等」とのアクセスもよかった。

 

 

 

 では具体的に、どのような軍需関連工場が存在したのか?

 

 

  こうして成立した多摩地域の軍需工業の最終製品の特徴は次の3点に要約できる。
  第一に、航空機と航空機用発動機で、関連する航空計器や通信機器などとそのための中間完成品、および部品である。陸軍と海軍の需要に応じていた。
  第二に、中型戦車と軍用車輛、小銃・機関銃・機関砲・高射砲などで、火薬の生産を含め陸軍造兵廠の注文・指導・監督のもとに行れていた。主として陸軍の需要に応じた。
  第三に、通信機器のほか、測距儀や軍用時計から風船爆弾、落下傘など多種類の直接の兵器やそのための工具や計測器など多様な形での軍需品である。陸・海軍双方の需要に応じた。
  次に、これらの工場群を、工場所在地、製造品の種目、中心の企業・資本・軍、製造開始の時期などを考慮して、およそ4つのグループにわけてみた。
  ① 武蔵野・三鷹・田無・保谷を中心に、中島飛行機株式会社を核に、航空機用発動機を組立生産した地域、また横河電機や日本無線など電気や通信機器の組立生産を主とした地域で、部品・下請企業は近隣地域から大森・蒲田・品川など遠く京浜地域にひろがる。
  ② 小平・国分寺・小金井・調布・狛江にわたる地域で、①の地域の南と西に隣接する地域。①あるいは他と重なりあうが、東京重機工業や中央工業南部銃製作所など造兵廠と結ぶほか、多くの民間企業が多様な兵器を生産した地域。軍事施設も多い地域。
  ③ 立川・大和・昭和・拝島を中心に、立川の陸軍飛行場と航空廠を中心に、陸軍用航空機組立の立川飛行機株式会社と発動機生産の日立航空機株式会社を中心とする地域と、海軍機用航空機組立の昭和飛行機株式会社との二つの航空機生産地域がある地域。
  ④ 府中・日野・町田・稲城など多摩川に沿い、また多摩丘陵にかかる地域で、軍用車輛・戦車・砲弾や火薬などが目立つ製品となり、日本製鋼・東京芝浦電機・日野自動車など民間企業が板橋や相模など陸軍造兵廠とかかわりをもち生産を続けた地域。
  これら軍需工場は組立産業として多くの部品生産企業を擁し、4地域のそれぞれの中で完結することなく、とくに進出企業の出身の京浜工業地帯との結びつきは強い。また下請関係は複数企業にわたり変動もある。したがって4つの地域間には境界線を引くことは困難で、区分は考察への一つの目安である。
     星野 前掲論文 122~124ページ

 

 

 

     (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)」に続く)

 

 

 

【註:1】
 用いたのは、齊藤勉 「多摩の空襲」(『多摩のあゆみ』 第119号 2005 8~9ページ 表2)のデータだが、鈴木芳行 『首都防空網と〈空都〉多摩』(吉川弘文館 2012 145~146ページ 表11)では、作戦の日付と出撃機数は以下のようになっており、多少の異同がある。

 11月24日(111機)、11月27日(81機)、12月3日(86機)、12月27日(72機)、1月9日(72機)、1月27日(62機)、2月19日(152機)、3月4日(194機)、4月1日(124機)、4月7日(111機)、4月12日(119機)

【註:2】
  しかし、アメリカ軍の戦果調べによると武蔵製作所が壊滅状態となるのは、二十年の四月七日と十二日の両爆撃によってであって、それ以前の戦果はいずれも「貧弱」「失敗」「不明」などであった。戦果の上がらない理由は、「雲量大」「強風」などのためであり、冬場に関東地方をしばしば襲う荒天が、B29の八〇〇〇㍍以上の高高度から投下する爆弾などの命中率を下げていたことにあった。
     鈴木芳行 (前掲書 144ページ)

【註:3】
 最初の作戦である11月24日の空襲からしてそのようであった。

  公開された650枚超の写真群は、昭和19(1944)年11月24日に撮影された荏原の空襲後の情景から始まる。
  まさにその11月24日から、B-29による東京への空襲が開始されたわけだが、作戦上は市街地が目標とされていたわけではなく、中島飛行機武蔵野工場が本来の爆撃目標であった。ノルデン照準器を用いた高高度精密爆撃による軍需産業の破壊を目的としていたにもかかわらず、工場上空の天候不良(ノルデン照準器がその高性能を発揮しない)のために工場への投弾を果たせなかった機により、航路上の東京市街が投弾地点とされ、それがたまたま荏原区であったということのようである(つまり荏原は本来の爆撃目標であったわけではない)。
  それが初のB-29による東京空襲の背景であったが、以後、同様な経緯での東京の市街地への高高度爆撃が続き、翌年3月10日には低高度からの侵入による市街地無差別爆撃(いわゆる「東京大空襲」である)へと転換され、米軍戦略爆撃機による都市無差別爆撃の手法が確立されるに至る。
  東方社写真部撮影による昭和19年11月24日の空襲の写真は、まさにその最初の空襲による被害の視覚的記録なのである。
     (「
プロパガンダと記録(東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃)」参照)

【註:4】
 B-29による多摩地区の軍需関連施設への空襲としては、4月4日に立川飛行機(113機)、4月24日に日立航空機立川発動機製作所(131機)、4月30日に立川陸軍航空工廠(106機)、5月19日に立川陸軍航空工廠(309機)、6月10日には中島飛行機武蔵製作所と日立航空機立川発動機製作所(124機)、同日に立川陸軍航空工廠(34機)、7月29日に中島飛行機武蔵製作所(1機によるもので原爆の1万ポンド模擬爆弾を投下)、8月8日に中島飛行機武蔵製作所(69機)がある。他にも、気象偵察機による投弾、艦載機(小型機)による空襲が記録されている。
    齊藤勉 「多摩の空襲」(前掲)及び「多摩上空のB29」(『多摩のあゆみ』 第141号 2015)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/06/28 15:06 → http://www.freeml.com/bl/316274/307574/

 

 

 

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