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2015年12月

2015年12月30日 (水)

何度目かの東京大空襲・戦災資料センター

 

 戦争体験の聞き書き作業を続けているグループからのお誘いに乗って、娘を伴い、久しぶりに東京大空襲・戦災資料センターを訪れた(初めて訪れた際―2007年―には「東京大空襲・戦災資料センター 鈴木賢士写真展「東京大空襲の生き証人」」及び「東京大空襲・戦災資料センター 鈴木賢士写真展「東京大空襲の生き証人」 (続き)」を書いたが、当時は小学生だった娘も現在では大学卒業目前である―もっとも、その後も共に何度か訪問しており、今回が8年ぶりというわけではない)。

 これまでは錦糸町駅からタクシーかバス(ただしバス停からセンターまで、徒歩で10分以上かかってしまう)利用が主であったが、今回は秋葉原からのバスであった。こちらは乗っている時間は長いが、目的地のセンターに近い場所に停留所があるので、高齢者が多いグループには有利であった。

 

 

 

 今回は十数人のグループでの訪問企画ということで(これまでの前触れなしでの個人的な訪問の際とは異なり)、センターの女性(実際の大空襲を7歳で体験したお一人でもある)によるレクチャー的な時間も用意され、1978年NHK製作のドキュメンタリー(ただしダイジェスト版であったが)の上映なども交えて、歴史的事実としての昭和20年3月10日の「東京大空襲」の基本知識を復習することから見学が始まった。

 更にもうお一方から、ご自身の3月10日の体験の詳細を伺うことで、「大空襲」を単なる歴史知識としてではなく、町場の一人一人の人間の身に降りかかった災厄(それも大災厄である)として理解する機会となったように思う。個人の体験に耳を傾けることを通して、70年前の「大空襲」が、他人事としての(知識としての)歴史的事実の問題から、当事者の味わった苦難(身体全体で経験された苦難)へと変容して、私にも(頭の中の知識に加え身体の感覚としても)伝わるのである。

 

 今回は、12歳で「大空襲」を体験された女性による、空襲前夜から翌朝、そして家族との再会と親戚の住む阿佐ヶ谷までの避難の道のりの詳細を伺う流れとなった。避難した両国高校での家族全員の無事が確認されるまでの不安な時間があり、焼き尽くされ廃墟となった街を電車の通じている区域まで遺体と化した人々の上を歩き通し、どうにか阿佐ヶ谷の親戚の家に着くまでの実に長い一日なのであった。焼夷弾の中を生き抜き、時間の経過と共に家族の一人一人の無事が確認され、最後に全員の無事が確かめられた際には、お話を伺う側としての私たちも他人事としてではない喜びを感じたように思う。

 普段から「戦争体験」に耳を傾けることを心がける中で、家族を失う悲しみ、家族に限らず親密な人を失うことの悲しみを通して、戦争の悲惨であることを実感させられる機会は多いし、(家族や親友が無残に殺された一方で)自分だけが生き残ってしまったことを率直に喜べない心情に接する経験もするが(たとえば「生き残るということの意味」参照)、今回は、当人自身が無事(ひどい火傷は負ってしまっているが)であっただけではなく、家族全員の無事が確かめられていく過程が当人の口から伝えられる中で、「大空襲」をくぐり抜けてもなお生きてあることの喜びが、話を伺う側にも深く実感されたのであった。同時に、この「喜び」との対比の中に、「戦争の悲惨」があらためて強く感じられもしたのである。

 

 せっかくの機会なので、レクチャー的な時間を受け持った方から伺った話の中で印象に残ったことも記しておきたい。

 戦災資料センターの見学者として様々な経歴・職業を持った人物が訪れるのだと思われるが、そして様々な視点で見学の時間を過ごしていくのだろうが、ある医療関係者のグループの視点が私の想像力の及ばぬ、しかし焦土と化した光景の過酷な現実の一面を明らかにするものであった。

 「焦土と化した街」の光景は写真として記録もされており、そこには黒焦げとなった累々たる死者の姿も残されている。その遺体の状況について医師の経験に基づく判断によれば、確かに黒焦げではあっても(つまり、皮膚や筋肉は焼け焦げていても)内臓にまでは及んでいない(内臓まで焼けていなければ「火葬」に付した状態とはならず、焼け残ってしまった内臓は腐敗するのである)。だからこそ、空襲直後の早急な仮埋葬措置も必要となる、ということなのだ。

 「焦土と化した街」について考えようとすると、(個人的な話だが)近所で放火のために数棟が焼失した事件があった際に、一週間を過ぎても焼跡周辺からは焦げた臭いが消えなかったことを思い出す。それ以来、「大空襲」後の焼跡もまた濃密な「焦げ臭さ」に覆われていたのではないかと想像してきたが、仮埋葬が間に合わない遺体の内部で腐敗し始める内臓の存在にまでは考えが及ばなかった。

 写真に残されるのは視覚的情景だけだが、実際には辺りに立ちこめる臭いも含めての(五感すべてが動員されての)「焼跡」なのである。嗅覚的情景は写真からは(前述の医師のような場合を除いて)伝わらないし、通常は体験者から語られることもない(今回の訪問は、少なくとも私には、そんなことを再確認させられる機会ともなった―「註:1」と「註:2」として、清沢洌の日記と山田風太郎の日記から、体感としての「焼跡」が描かれた下りを引用しておいたので参考にしていただきたい)。

 

 最後にもう一点、今回の訪問で気付いたことを記しておきたい(これまで訪れた際には気付けなかったことである)。

 展示品には、大空襲後に発行された「罹災証明書」が多く含まれている。その「証明書」が多様なのである。文言は(公的な証明書として)ほぼ定型文なのだが、定型の文言が活字で印刷され必要箇所(住所氏名罹災日時等)が手書きのもの、定型の文言がガリ版刷りのもの、定型の文言すら手書きのものの三類型があるのだ。罹災証明書を発行する行政の窓口も空襲で焼けてしまえば、窓口に用意されていた証明書用紙類もすべて焼けてしまうわけで、証明書は手書き以外に発行する手段がないのである。すべてが焼けた中で、全文手書きでも罹災証明を発行し続けた人物(当人だって罹災者の一人であるはずだ)の姿を、展示された「罹災証明書」のバリエーションを通して見る思いがしたのである(こちらも「註:1」と「註:2」として抜き書きした清沢洌と山田風太郎の日記に、関連した記述がある―特に山田風太郎の日記には、「罹災証明書」を発行する町会の事務所の被災状況が記録されている)。

 

 

 

【註:1】 東京大空襲罹災者の姿 (清沢洌 『暗黒日記』より)

  三月十日(土)
  …
  朝、国民学術協会に出席のため都心に出る。電車は品川しか行かないというのが、浜松町まで行けた。蒲田駅で、眼を真っ赤にし、どろまみれになった夫婦者あり。聞くと浅草方面は焼け、観音様も燃えてしまったという。東京に近づくにしたがって、布団につつまった人が多くなる。浜松町からは、鉄道を、群衆が歩くところ、ちょうど昔の震災の時と同じだ。新橋駅近くの左右が燃えている。ことに汐止駅が、まだ盛んに火を吹いている。ここは東京最大の運輸駅であり、二三丁四方にうずたかく物資をつんであったはずだ。それが灰燼に帰したのである。しかも驚くべきことは、きわめて正確に荷物置き場だけがやられて居り、その投弾の正確なること驚くばかりだ。
  銀座三丁目辺りから一丁目にかけ焼く。日本橋の白木屋にも火が這入っている。いつも行く明治堂古本屋が焼けてしまった。もくようびに予は本を買って、取りに行く筈であった。丸善だけは無事。三菱銀行支店だけがどこに行っても立っているのは、同銀行の信用を語るものか。見るにたえないのは、老婦人や病人などが、他にささえられながら、どこかに行くものが多いことだ。燃え残った夜具を片手に持っている者、やけただれたバケツを提げる者。それが銀座通りをトボトボと歩いて行く。彼等の目はいずれも真赤になっている。煙と炎の故であろう。
  板橋君に逢うと石橋家が丸焼けになって、奥さんが「東洋経済」に行っているという。見舞うために行くと、奥さんが疲れた姿でいる。昨夜、石橋君は鎌倉に行き、奥さんと女中だけが罹災。全然何も出さず。丸焼けだとのことだ。この戦争反対者は先には和彦君を失い、今は家を焼く。何たる犠牲。
  浅草、本所、深川はほとんど焼けてしまったそうだ。しかも烈風のため、ある者は水に入って溺死し、ある者は防空壕で煙にあおられて死に、死骸が道にゴロゴロしているとのこと。惨状まことに見るにたえぬものあり。吉原も焼けてしまったと。
     清沢洌 『暗黒日記 3』 ちくま学芸文庫 2002  126~128ページ

 

 3月10日の「東京大空襲」直後のエピソードである。清沢洌が実際に出会った罹災者の姿が記録されている。

 清沢は「眼を真っ赤にし、どろまみれになった夫婦者」から話を聞き、「東京に近づくにしたがって、布団につつまった人が多くなる」のを見る。そして銀座では「見るにたえないのは、老婦人や病人などが、他にささえられながら、どこかに行くものが多いことだ。燃え残った夜具を片手に持っている者、やけただれたバケツを提げる者。それが銀座通りをトボトボと歩いて行く」姿を記録している。そして、「彼等の目はいずれも真赤になっている。煙と炎の故であろう」と、罹災者の「真赤な目」に再度言及している。モノクロの記録写真からは伝わらない「姿」である。

 

  三月十二日(月)
  …
  本所、深川方面では、空爆三日の後、まだ死骸が道路に転がっているそうで、警防団がトラックで運んでいるそうだ。火事のため毛も顔も原形をとどめず、黒い焼け杭のようになっており、男女の別も分からなくなっているという。
  甥の笠原貞夫は出征して居り、その妻が三人の子供をかかえて焼け出されたのは、さきに書いたが、修司が区役所に行くと、「縁故疎開の外はどうにもならぬ」と、一向受けつけない。貰ったのが五日分の食料切符と汽車無賃乗車券のみである。仕方がないから丸ビルの地下室に連れてきて、信州に送るという。布団二枚を自転車につんで連れてきた。国家の罹災者救助というのは五日分の米と醤油だけだ。
     同書 164~165ページ

 

 「空爆三日の後」になっても遺体の処理に追われているのである。
 そして、「国家の罹災者救助というのは五日分の米と醤油だけ」との、罹災者を待ち受ける現実が記録されている。

 

【註:2】 空襲と罹災証明書発行事務 (山田風太郎 『戦中派不戦日記』より)

  (五月)二十四日
  …
  〇午後、シャベルを持って、高須さん、高輪螺子のおやじさん、そこの工員の唖男、自分と、四人で焼跡へゆく。
  目黒の空は煙にまだ暗く、まるで煤ガラスをかざしてのぞいたように、太陽が血色にまるくはっきり見える。空はどんよりとして、雨でも頬に落ちそうな曇りである。
  焼跡は、今までよそで見たのと同じく。赤茶けたトタン板と瓦の海と化していた。なお余燼が至るところに立ち昇り、大地は靴を通して炎の上を歩くように熱い。熱風が吹く。
  遠くからこの下目黒三丁目を眺めたときは奇妙な笑いがニヤニヤと浮かんでいたが、現場について焼土と化したこの跡を見ると、さすが万感が胸に充ちて哀愁の念にとらわれざるを得ない。
  サンルームのように日当たりのよかった二階や、毎日食事をとった六畳や、ラジオを置いてあった三畳や、米をといだ台所や、そして自分が寝起きし、勉強した四畳半の部屋や……この想い出と、いま熱い瓦礫に埋まった大地をくらべると、何とも名状しがたい悲愁の感が全身を揺する。
  防空壕の口は、赤い炭みたいにオコった瓦で埋まっていた。完全にふさぐことができなかった酬いだ。掘り返してゆくと、焼け焦げて、切れ切れになった布団が出て来た。地面へ出しておくと、またポッポと燃え出して、覗きに来た隣の遠藤さんが、どんな切り端からでも綿がとれる、それで座布団も作れる、早く消せといったが、水をいくらかけても消えない。くすぶりつづけて、一寸ほかのことをやっていると、またすぐに炎をあげている。遠い井戸から水を運んでは、ぶっかけ、足で踏んでいるうち泥んこになってしまい、はては馬鹿々々しくなって、燃えるなら燃えちまえとみな放り出してしまった。
  鍋、お釜、茶碗、米櫃、それからずっと前に入れて土をかけて置いた瀬戸物、そして風呂敷に包んだ自分のノート類など、これは狐色に焦げて、これだけ出て来て、あとはみな燃えていた。防空壕内部の横穴の方へ大部分の家財を入れておいたのだが、何しろ恐ろしい熱気と煙なので手もつけられず、あきらめて夕刻帰る。
  町会も焼けたので、わずかに焼け残った近くの一軒家を借りて事務をとっていたが、「罹災証明書」は出しつくして明日区役所からもらって来るまで待ってくれと書いた紙が塀に貼ってあった。
     山田風太郎 『戦中派不戦日記』 講談社文庫 2002  240~242ページ

 

 山田風太郎自身が当事者として経験した、3月10日ではなく、5月24日の目黒方面の空襲の「罹災」の実状である。

  焼跡は、今までよそで見たのと同じく。赤茶けたトタン板と瓦の海と化していた。なお余燼が至るところに立ち昇り、大地は靴を通して炎の上を歩くように熱い。熱風が吹く。

 山田不太郎は視覚的光景としてだけでなく、「大地は靴を通して炎の上を歩くように熱い。熱風が吹く」と、自身の足裏を通して伝わる、肌を通して感じられる熱気としても、自らの空襲罹災者としての経験を書き記した。

  町会も焼けたので、わずかに焼け残った近くの一軒家を借りて事務をとっていたが、「罹災証明書」は出しつくして明日区役所からもらって来るまで待ってくれと書いた紙が塀に貼ってあった。

 空襲を生き延びた人々に、まず必要になるのが「罹災証明書」なのである。

 

  二十五日
  〇朝、また焼跡にいって見ると、驚いたことに昨日半分掘りかけた防空壕の入り口が、また新しい瓦礫でぎっしり埋まっている。きくと隣家の遠藤さんの娘の節ちゃんが、昨夜八時までかかって埋めたのだそうだ。
  むろん遠藤さんの家もないが、ここは防空壕がちゃんとしているので、当分そこに住むことにしたらしく、こちらの防空壕の口から火と煙がたち昇り、見ていて不安だったのと、もう何もだめだろうと思って埋めたのだという。
  しかし、こちらにして見れば、掘って見ればまだ何が残っているかも知れない。お節介なことをすると、高須さん大いに怒り、もう一度昨日の通りに掘り返してもらおう、とどなりつけて会社へ出かけていった。
  遠藤家でまた掘り返すからというので、自分も町会へ出かけてゆき、ひるまで行列して罹災証明書をもらった。
  警報は二、三度鳴ったが、無一物になった者にとっては、もう戦々兢々としている必要は何もない。しかしそのうちにまた空襲警報になってしまった。五、六十機の小型機が侵入中だという。
  小型機は銃撃する。白いものを身につけている者はどこかにいってくれ、という叫び声がする。しかしみんな動かない。罹災証明書をもらわねば、何も買えず、どこへも汽車でゆけないからである。
  その罹災証明書をもらうには、一日でも駄目、二日目に半日も並ばせるとは何事だと怒り出す者もある。ところが町会事務所では、老人が一人、女が二人キリキリ舞いをしていて、私達も焼け出されたんだ、その焼跡整理も出来ないんだと悲しげにつぶやいているのである。
     同書 243~245ページ

 

 こうして、山田風太郎は罹災証明書を手に入れることが出来たのであった。「罹災証明書をもらわねば、何も買えず、どこへも汽車でゆけないから」、空襲警報が鳴る中でも列に(一日でも駄目、二日目に半日も)並び続ける人々の姿。

  ところが町会事務所では、老人が一人、女が二人キリキリ舞いをしていて、私達も焼け出されたんだ、その焼跡整理も出来ないんだと悲しげにつぶやいているのである。

 罹災証明書を発行するのも罹災者なのである。しかも、発行事務のために自身の「焼跡整理も出来ない」のである。

 その夜、再び目黒は空襲を受ける。

 

  この一夜に出現した荒野は、まだ煙と残火に燃えくすぶっている。津雲邸はなお巨大な赤い柱のピラミッドを虚空に組み立てていた。電車が数台、半分焼けたまま線路の上に放置され、罹災民がその中に眠っていた。負傷者が担架に乗せられてしきりに通る。炊き出し隊の前には何百人かの人々がバケツを持って並んでいる。米屋の焼跡には黒焦げになった豆の山が残り、女子供が餓鬼のようにバケツにすくい入れている。
  下目黒の方へいってみると、二十四日焼け残った部分が、この朝きれいに掃除されたように焼き払われていた。町会はまた焼かれて、さらにどこかへ引っ越していた。
     同書 255ページ

 

  町会はまた焼かれて、さらにどこかへ引っ越していた。

 容赦なく空襲は続いたのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2015/11/29 23:11 → http://www.freeml.com/bl/316274/261426/
 投稿日時 : 2015/12/22 22:30 → http://www.freeml.com/bl/316274/263294/
 投稿日時 : 2015/12/23 09:06 → http://www.freeml.com/bl/316274/263359/

 

 

 

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