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2015年11月

2015年11月23日 (月)

越境の方法 (朝鮮大学校へ)

 

 塀の存在は、そこに境界があることを示している。

 塀のこちら側は私の属する領域であり、向こう側は彼らの領域に属する。

 

 

 

 一昨日(2015年11月21日)の話。武蔵野美術大学と隣り合う朝鮮大学校の間の塀を乗り越えて、朝鮮大学校内の美術棟での展示会場を訪れたのである。

 

 別に、半島の38度線を乗り越えるのとは違い、命がけの覚悟を必要とするような話ではない。日本国内の私有地と私有地の間の境界線上を行き来しただけの話だ。

 もちろん、「私有地」は所有者にとって排他的な空間として位置付けられるものであるし、塀の存在を通して所有者の占有の事実が示されるということでもある(法制度上、塀を乗り越えて無断で侵入することは認められてはいない)。

 

 確かに今回、私は塀を「乗り越えた」のではあるが、決して「無断侵入」としてではない。塀のこちら側と向こう側には階段が用意されており、階段を昇り降りすることで、境界の行き来が実現されたのである。ただし、その階段は限定された期間内にしか存在せず、一昨日はその最終日であった(つまり当分の間、塀は二つの排他的な領域を示す構築物に戻る)。

 

 

 2015年11月13日から11月21日の間、武蔵野美術大学と朝鮮大学校を隔てる塀には階段が設けられ、一時的ではあるが、互いに排他的な空間ではなくなったのである(もちろんそれで一体化したわけでもないが)。

 それは「武蔵美×朝鮮大 突然、目の前がひらけて」と題された展示企画によるもので、武蔵野美術大学2号館内のギャラリー(FAL)と、ちょうど塀を乗り越えた向こう側にある朝鮮大学校の美術棟を会場としていたのであった(そして両会場を、塀に設置された階段が結んでいたのである)。

 

 

 

 両者の「境界」としての「塀」の性格を、土地所有の問題、排他的な空間所有の問題から語ってみたが、今回の「武蔵美×朝鮮大 突然、目の前がひらけて」が特に注目を浴びたのは、もちろん、境界のそのような側面からではないだろう。

 「朝鮮大学校」は朝鮮半島の北側(朝鮮民主主義人民共和国、いわゆる「北朝鮮」である)を祖国と考える人々によって運営される高等教育機関であり(「注目」を生み出す政治的側面と言えようか)、近年は「在特会」に代表される日本の排外的民族主義者の攻撃対象となってしまっている(日本社会の抱える病理的側面もまた「注目」の源泉の一つであろう)。かつては一般向け(近隣住民)にも開放されていた学園祭も、悲しいことに、今では関係者限定のものとなってしまった(日本の排外的民族主義者による乱暴な言動の現実を考えれば、仕方のない判断であろう)。

 朝鮮大学校側の意図とは関係ないところで、大学校は近隣住民に対しても閉鎖的な空間とならざるを得なかったのである。

 

 しかし、現実としては、朝鮮大学校の学生は近隣の様々な店舗の顧客であり、武蔵野美術大学内の画材屋のお得意様でもある。同じ道を歩き、同じバスに乗り、同じ電車を利用する、つまり、近隣の日常生活上では隣人同士であるに過ぎない。

 朝鮮大学校と武蔵野美術大学の間には確かに塀が存在するが、美大への出入りは自由であり、朝大の学生は美大の正門を通り、学食を利用し、画材を購入しているのもまた現実なのである(朝大の学生にとって、塀は実質的には存在しない)。

 一方で、朝鮮大学校への出入りは自由ではないが、その閉鎖性は、この国の排外的民族主義者の粗暴な振る舞いから身を守る上ではやむを得ない選択であろう。しかし、困ったことに、閉鎖的空間は外部の人間にとって好奇心の対象となってしまうものなのである。

 

 

 

 もちろん、私もまた、そのような好奇心を持ち合わせている一人である(実際、今回の企画展示は、通常の展示より多くの外来者を集めることとなったようである)。

 

 階段を越えて朝鮮大学内に入ると、確かに建物は補修されずに傷んだままであり、祖国の経済的苦境を反映しているのだろうと推察される(註)。

 しかし、会場内の作品は決して異世界のものではなく、同じ現代の美術学生の作品であり、国境という境界の存在を感じさせるものではなかった(アジプロ芸術との出会いを、正直なところ少しだけ、期待したのであったが)。日常生活では現代日本の隣人である以上、共に(立場は異なるにせよ)同じ世界を生きているのであり、展示された美術作品にもその事実―同時代性―が大きく反映されていたのである。

 

 

 

 自らに連なる歴史を抜きにして(ここでは特に民族的出自を抜きにして)個人は存在し得ないのも事実であるし、その事実が「異なる立場」を人に強いるのも現実というものではあり、そこに「境界」も生まれるのだが、しかし民族的出自だけが人間(個人のありよう)を決定するわけでもない。

 この単純な事実が、塀を行き来することで実感されるのであった。

 

 境界の設定は、外部から人を守ることに役立つ。しかし、一方で、外部から人を隔てること(それは、時には徹底的に排他的になること―徹底的な排外主義―をも意味し得る)にも役立ってしまう(「壁を築くことの意味」及び「1961年8月13日(ベルリンにおける公衆衛生学的処置としての「壁」)」も参照)。

 塀を引き倒すのではなく階段によって結ぶという今回の試み(境界の存在は受け入れつつ、階段を昇ることで一度は境界を見下ろす地点に立ち、境界の向こう側に降りていくのである)は、「越境の方法」への一つの提案として、私の中に深く沁み入ったのであった。

 

 

 

          越境の方法

会場で配布されていた冊子に掲載された「区隔壁を跨ぐ橋のドローイング」(灰原千晶、李昌玉)と朝鮮大学内の柿(「ご自由にお持ち帰り下さい」と書かれたカゴに入れられていたもの)

 

 

【註】
 朝鮮大学校の美術棟の前には、大きな鳥のケージがあった(それも中に水鳥用の池もある規模の!)。
 見るとフラミンゴがいてヘラサギがいて、カモにオウム(あるいはインコ)…そしてアヒルの姿が!!(ただし茶褐色の個体ではあるが―いずれにせよ、フラミンゴとアヒルの組み合わせには心動かされるものがある―つい、こんな画像を思い出すのだ http://i.imgur.com/SOC4zTq.jpg など―まったく本筋と関係ない話ではあるが)
 実際問題としてムサビの鳥小屋より充実しているのだ。しかも、現在のムサビにはアヒル池はあるが、主であるはずのアヒルはいないのである(かつてはアヒル池には実際にアヒルが泳ぎ、時には中央広場をアヒルが散歩しているのに出会うこともあった―排外的民族主義が世の中に蔓延する前の時代の話であるが)。

  校内の建築については、建て替えと補修により、現在ではムサビが朝大を圧倒している感があるが、ムサビの鷹の台キャンパス開校当時(昭和三十年代)は朝大がムサビを圧倒していたらしい。
 宮下勇『ムサビキャンパスの建築』(同展図録 2013)に収録された対談には、

 宮下 基本的には全部畑でしたから。
 甲田洋二(前学長) 小川寺があって、お墓があって、それが見えている。山口文象氏設計の朝鮮大学校が近接されており、少々押されている感じでした。
 長尾重武(前々学長) あちらが立派に見えたんですね。
 甲田 立派でした。あちらの方が圧倒的に立派でしたね。時も時ですから。そういう感じでしたね。

…とのやり取りがある。
 その前の部分で甲田前学長は、「聞くところによれば、当時の鷹の台は未整備で、ブラジリアみたいな感じで、学生がグラウンドなどの石を拾うのが体育だったと」とも発言している。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2015/11/23 10:02 → http://www.freeml.com/bl/316274/260887/

 

 

 

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2015年11月10日 (火)

橋下徹氏の有言実行

 

 

 〈オーケーしたことは反故にしていくし、責任転嫁も徹底的にする。「今回の問題でまとまらないのは、まあ、結局はおたくのせいなんだよ」ということをあらゆる手段を講じながら見せていく〉

  自分の発言の不当性や矛盾を相手に気づかれたときは、

 〈相手方に無益で感情的な論争をわざとふっかけるのだ。(中略)さんざん話し合いを荒らしまくっておいて、最後の決めゼリフにもっていく。

 「こんな無益な議論はもうやめましょうよ。こんなことやってても先に進みませんから」自分が悪いのに、こう言って終わらせてしまうのだ〉

     (橋下徹 『最後に思わずYESと言わせる最強の交渉術』 日本文芸社 2003)

 

 

 

 以上、 

  1冊の本が永田町関係者の間で話題になっている。橋下氏が、2003年に出版した『最後に思わずYESと言わせる最強の交渉術』だ。すでに絶版となっており、アマゾンでは3000円を超える高値で取引されている。〈詭弁を弄してでも〉相手に黒を白と言わせる「実践的」な交渉術を紹介するこの本によれば、橋下氏は…

…との週刊誌記事(週刊文春 11月5日(木)18時6分配信)の続きにある橋下氏の著書からの引用部分から引用したものだが、まったくその通りそのまま、これまでに橋下徹氏がやってきたことであり、今も現在進行形で実行中の橋下氏の「手の内」なのである。

 

 今回、記事として記録しておこうと思ったのも、もちろん、橋下氏に感心した…というのとは違う。まったくもって、しょーもない論法(著書では当人もそれを自慢している)ではあるが、こんなもんでも世間では通用してきたという現実の方にあらためて感心したような次第である。もっとも、そろそろ限界…という気もしないでもない。

 橋下氏はこの手法を政治の場でも用いて、ひたすら自身の(あるいは「維新」の)敵を作ることに熱中し、味方を作ること(増やすこと)の政治的重要性には関心を持つことがなかったように見える(これが法廷であれば、その都度の訴訟での異なる相手との一対一の対決であり、勝負もその場だけでの話で終わる)。

 しかし、常に「絶対な敵」との闘争として自身の政治活動を演出してしまえば(橋下氏の論法は、議論を政策上の適切性の問題としてではなく、相手への人格攻撃として展開させる―相手は徹底的にダメな人間と決めつけられ貶められる―のを特徴とするので、論争の相手は政策上の相違という次元での「相対的な敵」ではなくなってしまう)、その場だけの話では終わらない政治という場において、自身の(そして「維新」にとっての)「絶対的な敵」を増やすことにばかり役立つだけでなく、橋下氏自身が自慢する「詭弁を弄してでも相手に黒を白と言わせる実践的な交渉術」のしょーもなさに対する嫌悪感を有権者の多くの心中に芽生えさせること(そのえげつなさに気付く機会を有権者の多くに与えてしまうこと)にも大いに役立つ結果となってしまうだろう。

 しかし、自ら率先して、「大阪都構想」の必要性は理解するが橋下氏を支持することへの嫌悪感を持つ有権者を育成し続けてしまっている現実(橋下氏が本気で大阪都構想の実現を考えているならば決してプラスになることはない現実である)に、橋下氏が気付くことはなさそうである。

 

 

 

〔追記〕
 結局、大阪府知事と大阪市長のダブル選挙では、橋下氏の率いる「おおさか維新の会」が勝利を収めた。
 大阪では今でも橋下氏の「最後に思わずYESと言わせる最強の交渉術」が通用しているということを示しているのであろうか?
 大阪の人間ではないので、そこはよくわからない。
 「大阪都構想」については、強度な中央主権国家としての現状からの脱却の手法として、(つまり単に二重行政解消の手段としてではなく)地方分権型システムへの移行構想として理解する限り、否定すべきものと私は考えていないので、今回の選挙結果もわからぬではない。ただ、「大阪都構想」の推進を、「最後に思わずYESと言わせる最強の交渉術」の著者やその追随者に任せる気にもなれないのも正直なところである(もちろん、私は東京都民であり、大阪人ではないので他人事としての話であるが)。
 それに選挙の構図は、自民・共産連合vsおおさか維新なのであった。私にはこの二択は、あまりに不条理なものだと言うしかない。アンチ自民でアンチ共産党でアンチ「最後に思わずYESと言わせる最強の交渉術」である私が(しかも「大阪都構想」の実現を地方分権型システムへの移行の第一歩と考える私が、である)もし大阪人であったなら、いったいどのような選択が可能であったのか? (今回ばかりは東京人でよかった、と心から思う)
          (2015年11月25日記)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2015/11/06 18:10 → http://www.freeml.com/bl/316274/259617/

 

 

 

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