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2015年9月 5日 (土)

青原さとし監督の『土徳流離』(2015)を観た

 

 青原さとし監督の新作『土徳流離~奥州相馬復興への悲願』(2015)の完成試写会。会場は築地の本願寺である(2015年9月2日)。

 

 

 築地の本願寺と言えば伊東忠太設計の傑作だが、「先の大戦」の際に焼け野原となった東京を生き抜いた巨大建築でもあり、その伽藍の内部で東日本大震災(もちろん、ここで「大震災」の言葉が意味するのは巨大な自然災害の過酷さにとどまるものではなく、それに伴う福島第一原発事故災害が人々にもたらした過剰な過酷さの経験の深刻さなのであるが)からの「復興への悲願」をテーマとした『土徳流離』の試写会に立ち会う経験というのは、それだけで胸高鳴らざるを得ない。

 

 

 

 で、上映時間200分超えの大作に立ち向かう。

 

 

 映画を全編観終えて、誤解を恐れずに言えば、「無謀な試み」という言葉が浮かぶ作品であった。監督自身が今後の一般上映の難しさを語っていたが、前編100分、後編103分という二部構成、上映時間は3時間を超えるのである。しかも、題材は(一般的興味関心からすれば)地味の極みなのである。

 もちろん、私からすれば、まったくもって退屈な作品などではない。映像はひたすら、大震災と原発災害に襲われた奥州相馬の現在と、現在を構成する歴史の深みに分け入っていくのである。

 200年前に奥州相馬地方を襲った大飢饉と復興。その担い手となった移民(藩の政策による移民である)。移民となったのは新潟、富山といった各地の浄土真宗の信徒であった。中心には寺院(移民寺)があり、現在まで続く各寺院の起源が探られる(その探索を通して、移民のルーツも明らかになるのである)。

 

 ナレーションには説教節の節回しが効果的に用いられ(しかも琵琶の伴奏がつく)、それだけで私などは興奮してしまう。

 

 前編では、真宗移民とその背後にある移民寺のひとつひとつのルーツが明らかにされていく。その丁寧な作業が長い上映時間として帰結するのだが、しかし、一例を一般化するのではなく各寺院の起源にひとつひとつ密着することで、一種の反復の中に映像の厚みが積み上げられていくのである。奥州相馬の真宗移民の歴史の厚みは、現在の奥州相馬のひとりひとりの住民の中に体現されているのだということが、説得力を持って描かれるのだ。

 これまでの青原作品の魅力は、監督が監督自身の知的欲求に引き回されるように映像が展開し、結果として監督自身の移動と記録の記録となり、一種のロードムービー的作品となるところにあったように思う。観客は、監督の知的欲求の同伴者として旅をすることになるのである。

 今回の『土徳流離』では、各移民寺のルーツである富山や新潟の映像(そこには取材する監督の移動が隠されている)も繰り返し登場するが、しかし常に映像は次の移民寺に、つまり奥州相馬の現在からの再出発という構成を取ることになってしまう(いわば限りない反復である)ので、これまでのロードムービー的味わいは作品の魅力の中心とはならないのだが、まさに反復的記録映像であることに作品としての意味が見出されもするのである。

 個人は歴史を背負っているのである。個人の背負う抜き差しならぬ歴史の厚みが、反復的映像の蓄積により明らかにされるのだ。

 

 後編は、相馬藩による真宗移民政策終了後の、二宮尊徳の「御仕法」による地方復興への試みの歴史へと移る。

 真宗という宗派に規定された人々のエートスに基礎を置いた「復興」から、二宮の思想に共鳴した(宗派を超えた)人々のエートスによる「復興」へと、軸足は移されるのである。

 二宮尊徳の思想には倫理的な側面と同時に、非常に合理主義的発想がある。そのような思想に共感し内面化した人々が、真宗移民以前からの土着と移民の枠(両者の間には対立も生じるのである)を超えた人々のつながりを生み出し、それが現在の奥州相馬地方の基底となっているということなのであろう(ここでも個人が歴史を体現していることになる)。

 

 特に後編では、復興を支えるために日本各地から奥州相馬を訪れる真宗門徒の姿が描かれ、各地の二宮尊徳の共鳴者(報徳社の人々)による復興支援活動が記録されている。

 それにより、奥州相馬の真宗門徒の特異性ではなく真宗門徒としての普遍的行動様式が明らかになり、奥州相馬の二宮尊徳の共鳴者の特異性ではなく二宮尊徳の思想が生み出す普遍的行動様式が明らかになってもいるのである。

 

 「歴史」に焦点が当てられた映像から現在へと(現在と過去の反復的蓄積から現在進行形へと)シフトしていく「後編」の構成には、こちらの頭が取り残されるような(いささか唐突な)印象もあったが、しかし、歴史に押し出されたところとして現在があり、その向う先として未来があるという構図として理解しておくべき話であったようにも思われる。

 「未来」には「奥州相馬復興への悲願」の成就のあることが、過去の経験の蓄積としての「歴史」を通して示唆されている。そして「歴史」はすべて、その時点では現在進行形の苦闘であり、「苦闘」を担うのは現在を生きる個々の人間なのである。

 3時間を超える映像が可視化して見せたのは、奥州相馬という地域ならではの歴史と現在であると同時に、人類に普遍的なそのような構造であった。そう言うことが出来るのかも知れない。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2015/09/04 21:43 → http://www.freeml.com/bl/316274/254937/

 

 

 

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コメント

いつもいつも拙作に多大な賛辞をいただき、
本当にありがとうございます!
桜里さんのお言葉は、私の制作意欲に
ホント刺激をいただいてます。
FBにもリンクさせていただきました。
https://www.facebook.com/dotokuryuri/posts/406488089543092
https://www.facebook.com/satoshi.aohara/posts/952388051488053?pnref=story

投稿: 青原さとし | 2015年9月 9日 (水) 10時07分

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