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2015年9月21日 (月)

飛虎隊(フライング・タイガース)伝説 3

 今回の問題の発端となったネット情報(全文は「飛虎隊(フライング・タイガース)伝説 1」を参照)には、フライング・タイガースについて、

  米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊「アメリカン・ヴォランティア・グループ(American Volunteer Group:略称「AVG」)

…と要約紹介されている。

 前回は、その「一癖も二癖もあったならず者」の一人について、カール・モールズワース『太平洋戦線のP-40ウォーホークエース』(大日本絵画 2002)の記述を読むところで話を終えた。再び引用すれば、

 

 エイジャックス・ボームラー大尉もそのひとりであったが、米義勇航空群に送られた他の操縦者とは違って、かれには戦闘経験があった。まず1930年代中盤、米陸軍航空隊に奉職、その後退職して1936~1937年、スペインで人民戦線の戦闘機乗りとして飛んだ。前線での7カ月間で、撃墜4.5機を報じた後、ボームラーは帰国し米陸軍航空隊に復職した。1941年、米義勇航空隊に参加するため、ふたたび辞職しようとしたが、中国に向かう最初の試みは真珠湾攻撃によって妨げられ、かれは陸軍航空隊に戻った。しかし、かれはまだ紙上の存在でしかなかった第23戦闘航空群の隊員として、まんまと中国への派遣割り当てを獲得した。1942年5月、ボームラーはとうとう昆明に到着し、翌月、もっと東にある米義勇航空隊の基地、衡陽へと向かった。
     (11ページ)

 

 

 もちろん、あくまでも「このような隊員もいた」ということであって、ボームラーが隊員を代表するというわけではない。しかし、ボームラー大尉は、この時代(1930年代後半から40年代の初め)の時代相を見事に反映した人物であるようにも思われる。

 「1936~1937年、スペインで人民戦線の戦闘機乗りとして飛んだ」経歴と、1941年に「米義勇航空隊に参加」しようとし、1942年に実際に隊員となった経歴には、時代の中での一貫性があると言わねばならない。1936~1937年のスペインで、独伊の援助を受けたフランコと闘うために「人民戦線の戦闘機乗りとして飛んだ」経歴と、1941年の中国で、独伊の同盟国である日本の軍隊と闘う国民政府のための「米義勇航空隊に参加」した経歴の持つ「一貫性」の問題である。

 

 その「一貫性」について考えるために、もう一人の戦闘機パイロットの姿を見ることにしたい。

 そのために開くのは、ロベルト・グレツィンゲル/ヴォイテック・マトゥシャック『第二次大戦のポーランド人戦闘機エース』(大日本絵画 2001)のページである。

 

 ポーランド人は、ドイツ及びイタリアとはヨーロッパと地中海のほとんどあらゆる前線で戦っていたが、3番目の枢軸国にはずっと少ない注意しか払われなかった。事実、ポーランドを代表して日本との戦いに実際に参加した人間は、たったひとりだけだった。
 1942年6月以来、ヴィルトウッド・ウルバノヴィッチュ少佐はワシントンでポーランド大使館付空軍武官補佐官を勤めていた。そこで彼はコシチュッシコ飛行隊の創設者で、1940年に英国で会ったことのあるクーパー大佐に再会した。中国でアメリカ人義勇兵グループ(American Volunteer Group : AVG)「フライング・タイガース」の創設を手伝ったことのあるクーパーは、ウルバノヴィッチュを同部隊の司令官シェンノート将軍に紹介した。ウルバノヴィッチュはシェンノートに対し、AVGで飛んでみたいという希望を表明し、1943年も遅くになって、彼は中国に送られた。公式には、地上作戦への空からの支援について実戦経験を得るためというのが理由だった。はじめは呈貢の第16戦闘飛行隊と昆明の第74戦闘飛行隊で、それから衡陽の第75戦闘飛行隊に移り、1943年の11月から12月にかけて、ウルバノヴィッチュは12回の作戦に出動した(飛行時間にして約26時間)。
 1944年1月11日、シェンノート少将はウルバノヴィッチュに航空殊勲賞を授与した。その勲記には中国での彼の活動が簡潔に述べられている。
 「1943年10月23日から12月15日までのあいだ、ウルバノヴィッチュ少佐は在中国アメリカ陸軍航空隊に志願して参加し、空中戦において賞賛すべき業績をあげた。この期間中、少佐は戦闘機操縦士として低空地上攻撃、爆撃、および空中護衛任務に約34時間飛行した。大部分は洞庭湖地域で日本軍に圧迫された中国軍地上部隊を空から支援するための任務であった。1943年12月11日、少佐は基地へ戻る途中の日本軍機編隊に対する攻撃に参加し、続いて起きた空戦で敵戦闘機2機を撃墜した。軍務全期間を通じて、少佐は敵をものともせぬ勇気と優れた戦闘技術を発揮した。その戦いぶりは少佐自身のみならず、ポーランド軍、またアメリカ軍の名誉の記録となるものであった」
     (68~69ページ)

 

 

 ドイツに(そして続いてソ連に)、ウルバノヴィッチュの祖国が侵略されたのは1939年のことであり、以来ウルバノヴィッチュの祖国は占領下にあった。

 日独伊による三国同盟は、ポーランド人ウルバノヴィッチュにとって、祖国ポーランドを侵略し占領した国家との「同盟」を意味するのである。「3番目の枢軸国」の軍隊と現に戦っている中国のために、「在中国アメリカ陸軍航空隊に志願して参加」することは、ウルバノヴィッチュにとって「理に適った」行為であったに違いない(ただし、ウルバノヴィッチュが「志願して参加」したのは、退役米陸軍大尉シェンノート(シェノールト)のAVGではなく、米軍に編入後のシェンノート将軍指揮下の「在中国アメリカ陸軍航空隊」なのである―引用記事では、その点が曖昧なので注意が必要であるが、枢軸国対連合国の構図がウルバノヴィッチュの動機の底流にあることへの理解を持つことが、ここでは重要なのである)。

 

 スペイン戦争、支那事変、そしてヨーロッパの戦争、そしてアジア太平洋での戦争。そこに一貫する対立軸の存在が、エイジャックス・ボームラー大尉そしてヴィルトウッド・ウルバノヴィッチュ少佐とクレア・リー・シェノールト(シェンノート)のフライング・タイガースを結びつけていたことに気付くことで、日中・日米という対立軸のみで問題を考えようとしてしまう視野狭窄状態から逃れることが可能になるはずだ。

 そして、フライング・タイガースの戦闘機パイロットについて、「一癖も二癖もあったならず者」としてだけ語ることがどこまで適切であるのか? ボームラーの信条、そしてウルバノヴィッチュの心情への想像力を持てれば、彼らを「一癖も二癖もあったならず者」とひとくくりにして断定的に語ることは躊躇するはずである。

 

 

 今や米陸軍の将軍となったシェンノート(シェノールト)から、ヴィルトウッド・ウルバノヴィッチュ少佐に航空殊勲賞が授与されたのは、1944年1月11日のことであった。

 ポーランド人ウルバノヴィッチュの経歴を概観しておこう。ロベルト・グレツィンゲル/ヴォイテック・マトゥシャック『第二次大戦のポーランド人戦闘機エース』(大日本絵画 2001)の記述(79~80ページ)によると、

  1908年 北東ポーランドで生まれる。

  1930年 デンブリンのポーランド空軍士官学校入校。

  1932年 観測兵少尉として任官。第1飛行連隊夜間爆撃中隊に配属。

  1933年 飛行訓練を志願し卒業。第111および第113飛行隊勤務の後、デンブリンの教官となる。

  1939年 デンブリンで第14期クラスの生徒監を勤める。9月にドイツがポーランドに侵攻。生徒の士官候補生を連れてルーマニアに脱出。その後マルセイユに到着。

  1940年 フランス陥落と共に英国に渡り、8月に英国空軍第601飛行隊、そして第145飛行隊に配属される。9月7日、第303飛行隊指揮官となる。「英本土航空戦(バトル・オブ・ブリテン)」で、15機を撃墜。

  1941年 ノーソルト航空団を組織し、指揮官となる。6月に渡米し、PAF(ポーランド空軍)の宣伝ツアーに携わる。

  1942年 6月にポーランド大使館付空軍武官補佐官に任命されるが退屈し、中国での軍務に志願する。

  1943年 10月23日~12月15日、在中国米陸軍航空隊で作戦に参加。

  1944年 ワシントンのポーランド大使館付空軍武官となる。

  1945年 7月、英空軍より「永久休暇」の待遇を受ける。その後ポーランドに帰国するが、共産主義者により誤認逮捕され、米国移住を決意し、米航空宇宙産業の一員となる。

  ポーランドの共産主義体制崩壊後は、度々ポーランドを訪れ、1995年には大将の位を贈られる。翌年に死去する。

…と要約される生涯であった。

 同じPAFで闘い、ポーランドへ戻ったスタニスワフ・スカルスキ少佐は戦後、

 

 対独戦終了後、スカルスキは英空軍から高い地位を提示されたが、ポーランドがすでにソ連の支配下に入っていたにもかかわらず、祖国に帰ることを選んだ。まず初めは、共産党員が支配するポーランド空軍に勤務した。
 だが「冷戦」が最高潮に達したとき、スカルスキは逮捕され、「アメリカとイギリスの帝国主義者」のためにスパイを働いたとして告発された。同じことが西側から帰国した戦中のPAF操縦士の多くの身の上にも起こった。その後スカルスキは、残酷さではゲシュタポやNKVD(ソ連内務人民委員部)のそれに匹敵するほどの恐るべき「査問」を受けた。この非人道的な扱いからは幸い生き残ったものの、最低に馬鹿げた告発のあと、彼は死刑を宣告された。結局、共産主義者たちは「慈悲をもって」終身刑に判決を変更する。1953年にスターリンが死ぬと、ポーランドでも事態はゆっくりと変わりはじめ、1956年、スカルスキは8年の獄中生活ののち釈放された。
     (79ページ)

 

…という運命を辿る。その後は空軍に復帰し、准将の地位まで昇進することになったが、これはむしろ「幸運」と呼ぶべき事柄であろう。祖国ポーランドのために勇敢に闘った戦闘機パイロット達に、祖国の共産主義者が用意したのは、「ゲシュタポやNKVDのそれに匹敵する」ような「最低に馬鹿げた」取り扱いなのであった。ヒトラーとの「大戦」は終了し、世界は「冷戦」と呼ばれる新たな戦争の時代に入ってしまっていたのである。

 

 第二次世界大戦ではナチス・ドイツに翻弄され(実際には、ドイツがポーランドの西部から侵攻すると同時にポーランド東部を占領したのはソ連であったのだが)、戦後はソ連の共産主義者に翻弄されたのが、ポーランド人にとっての現代史なのであった。

 

 

 ここであらためて、フライング・タイガースを世界史的文脈の中で考えてみたい。

 先に触れたように、フライング・タイガースに参加したエイジャックス・ボームラー大尉とヴィルトウッド・ウルバノヴィッチュ少佐の行動にはそれぞれに一貫性があり、共通点が存在する。両者にとって「先の大戦」は、対独戦争も対日戦争も共に、対ファシズム戦争として位置付けられるものであった。

 日独伊三国同盟とはまさに結束したファシストの同盟であり、ボームラー大尉にとって、スペイン人民戦線の側で義勇兵としてフランコ政権との戦闘(同時にフランコの支援者としてのドイツとイタリアを相手とした闘いである)に従事することと、蒋介石の中国の側で義勇兵として大日本帝國との戦闘に従事することには、「ファシストの同盟」に対する闘いとしての一貫性があるのだし、ウルバノヴィッチュ少佐にとって、ヨーロッパの上空で、英空軍の一員としてポーランドへの侵略者としてのドイツとの戦闘に従事することと、アジアの上空で在中国アメリカ陸軍航空隊の一員として中国への侵略者としての大日本帝國との戦闘に従事することには、やはり「ファシストの同盟」に対する闘いとしての一貫性があるのだ。そしてそこにまさに両者の共通点もある(ボームラー大尉の経歴は、私には、あの1942年製作の見事な反ファシスト同盟プロパガンダ映画『カサブランカ』でハンフリー・ボガートの演じたリックの姿を連想させるし、ウルバノヴィッチュ少佐には、ポール・ヘンリードが演じたヴィクター・ラズロを思い起こさせるところがある)わけだし、両者を結び付けるものとして、シェノールト(シェンノート)のフライング・タイガースがある。

 その文脈において、フライング・タイガースは、対ファシズム戦争の象徴なのである。

 

 

 振り返ってみれば、スペインで人民戦線の戦闘機乗りとして飛んだエイジャックス・ボームラーの側で共にフランコの軍隊と戦っていたのは、人民戦線政府を支援するソ連からの義勇兵であった。人民戦線が相手としていたのは、フランコの軍隊であると同時に、フランコを援助するためにスペインに送られていたドイツとイタリアからの義勇兵部隊でもあった。

 そして中国大陸では、1941年に米国からの義勇兵部隊が中国国民政府を援助するために結成され、それまで日本軍と戦う国民政府を支援していたソ連からの義勇兵部隊を継ぐこととなる。

 1937年、盧溝橋事件当時、蒋介石国民政府の強力な軍事顧問団がドイツ人によって構成されていた(「中独合作」と呼ばれる時期に相当し、南京攻略戦当初における皇軍の苦戦の背後には蒋介石の軍事顧問を務めたドイツ将校団の姿がある)のも歴史的事実であり、その年に蒋介石の空軍の軍事顧問に就いたのがシェンノート(シェノールト)だったのである。米国陸軍退役将校シェンノートだけが蒋介石の軍事顧問を務めたのではなく、ドイツの将校もソ連の軍人も同様に軍事顧問として蒋介石を支え、そしてソ連人は義勇兵として戦闘にも従事していた(前回記事の中で指摘したことだが、米国人義勇兵部隊としてのフライング・タイガースが編成され訓練を開始したのは1941年の7月、ビルマでのことであり、中国大陸にも展開し日本軍との戦闘に加わったのは日米開戦後―日本による真珠湾攻撃後―のことであった)。大日本帝國の軍隊を敵として国土防衛のために戦っていたのは、そのような履歴を持つ軍隊だったのである。

 現代史は、今回取り上げたネット情報の作者(そして拡散者)が思うほど単純ではない。

 

 

 スペイン内戦時にドイツが義勇兵という形式で派遣したコンドル軍団をめぐるエピソードは、ファシズムvs反ファシズムという当時の世界史的構図の中での、ファシスト側の軍事的介入の形式として興味深いものだ。

 「支那事変」の進展の中で、日独伊三国同盟結成を通じて、ファシズムの側に自身を位置付けていったのは大日本帝國であった。

 その意味で、スペインのフランコを義勇兵を用いて援助したドイツと、支那国民政府の蒋介石を義勇兵を用いて援助しようとした米国という構図の対比は面白い。

 

 

 ここで件のネット情報に戻れば、

 

 また、これは非常に重要な事なのですが、支那事変の「直接当事国」はあくまでも日本と支那(蒋介石政権)でした。米英ソが、軍事顧問団の派遣や物資援助をしていたのは事実であり、これが劣勢だった蒋介石軍を支えていた事は否めません。

 しかし、日米開戦前の段階に於いて、米国が「義勇軍」の名を借りた空軍部隊(飛虎隊)を派遣したとなると話は全く別です。これは、明らかに中立義務違反であり、国際法上許されるべきものではありません。

 ましてや、自国が宣戦布告なきまま、支那大陸に於いて日本軍との戦闘状態に突入していながら、真珠湾攻撃を、日本からの宣戦布告が遅れた事で、騙し討ち等と称する事は、正に言語道断といえます。

 

…との主張が読めるが、ドイツもまた国民政府に「軍事顧問団の派遣や物資援助をしていたのは事実であり、これが劣勢だった蒋介石軍を支えていた事は否めません」ということになるわけであるし、「日米開戦前の段階に於いて、米国が「義勇軍」の名を借りた空軍部隊(飛虎隊)を派遣したとなると話は全く別です。これは、明らかに中立義務違反であり、国際法上許されるべきものではありません」というのであれば、スペイン内戦時のコンドル軍団の存在(同盟国ドイツが派遣した「義勇軍」である)をどのようにお考えになるのであろうか?

 コンドル軍団は国策による派遣であったが、しかしドイツは義勇兵という形式を採用することで、ドイツによる(他国の内戦への)「軍事介入」との非難を回避したのである。

 

 世界史的文脈の中での義勇兵ということで言えば、第一次世界大戦時には、米国の国家としての参戦に先立ち(米国は基本的に、ヨーロッパの戦争に対し中立であろうとしていた)、義勇兵として戦闘に参加した米国人が存在したことは有名である(ラファイエット航空隊)し、フライング・タイガース結成の発想の背後にはこの第一次大戦時の経験(義勇兵―しかも戦闘機乗りだ)があって不思議ではない(実際、アラン・アームストロングは、「シェノールトの仲間達は、日本軍に包囲された中国人のために戦うことがいかに魅力にあふれ、冒険心を掻き立てらるかという点をほのめかし、アメリカ義勇兵部隊が第一次世界大戦中に活躍したアメリカの外人部隊(”ラファイエット・エスカドリル”)に匹敵する部分を持ち出すことによって、特別航空戦隊の任務に就くパイロット、整備士、技術者の採用に成功した」という書き方をしている)。

 

 第二次世界大戦時においても、ソ連によるフィンランド侵略(いわゆる「冬戦争」である)に際して、フィンランドの防衛に多くの国から義勇兵が参集した事実がある。特にスウェーデンは、国家としての参戦は避けたが、義勇兵の形式でフィンランドを援助したのである。

 義勇兵の形式による他国への軍事的支援は、世界史的視点からすれば、特に珍しいものではないことくらいは知っておくべきであろう。

 

 件のネット情報にある、「日米開戦前の段階に於いて、米国が「義勇軍」の名を借りた空軍部隊(飛虎隊)を派遣したとなると話は全く別です。これは、明らかに中立義務違反であり、国際法上許されるべきものではありません」との主張について言えば、「国際法上」の問題としては、「日米開戦前の段階」の日中間の敵対的戦闘の継続状況は、「事変」であって「戦争」ではないとされていた(それが日本政府の立場であり、蒋介石の国民政府も「宣戦布告」は避け、米国もまた「事変」として処理することで国内法としての中立法の発動を避けた)のである。「事変」においては(「事変」は「戦争」ではなく、従って「戦時」ではないのであるから)戦時国際法上の「中立義務」など発生しないのである(詳しくは「続・「事変」と「中立」」「続々・「事変」と「中立」」「続々々・「事変」と「中立」」「続々々々・「事変」と「中立」」参照)。

 しかも、既に繰り返し指摘したことだが、カーチスP-40戦闘機で編成されたフライング・タイガースの日本軍との初戦は日米開戦後のこと(当初のビルマから中国国内に移動した―ただし3個飛行隊のうち1個飛行隊はビルマに残置―のも日米開戦後)であり、「自国が宣戦布告なきまま、支那大陸に於いて日本軍との戦闘状態に突入していながら」との主張はまったくの誤りである。

 この点においても、件のネット情報の歴史理解の杜撰さは明らかである(総じて言えば、歴史的事実に対する無知と歴史的事実の積極的捏造を特徴とするデマ情報なのである)。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2010/08/23 00:27 → http://www.freeml.com/bl/316274/145570/
 投稿日時 : 2010/08/26 22:41 → http://www.freeml.com/bl/316274/145834/
 投稿日時 : 2010/08/27 22:19 → http://www.freeml.com/bl/316274/145891/

 

 

 

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